宇巻 第二十四
大嘗会だいじやうゑ儀式附新嘗会事

 今年は大嘗会だいじやうゑ遂行歟と云議定ありけれ共、大嘗会だいじやうゑは、十月の末に東河に御幸して御禊ごけいあり。
 大内の北野に斎場所を造て神服神供を調へ、竜尾の壇の上に廻立殿を立て御湯を召。
 同壇に大嘗宮を造て神膳を備。
 清暑堂にして神楽あり、御遊ぎよいうあり。
 去共新都の有様ありさま、大極殿だいこくでんもなければ大礼たいれい行べき所もなし。
 豊楽院もなければ、宴会も難行と、諸卿定め申されければ延にけり。
 新嘗会にて只五節計ぞ如形有ける。
 抑五節と申は、昔浄見原きよみはらの天皇てんわうの其かみ、吉野の河に御幸して御心を澄し、琴を弾給たまひしに、神女二人天降りて、
  をとめこが乙女さびすも唐玉ををとめさびすも其唐玉を
と、五声歌給つゝ五度袖を翻す、是ぞ五節の始なる。
 遷都の事、太政だいじやう入道にふだうのたまひけるは、旧都は山門と云南都と云程近して、聊の事もあれば、大衆日吉の神輿を先として下り、神人春日の御榊を捧て上る。
 加様の事もうるさし。
 新都は山重り江を隔、道遠く境遥なれば、彼態たやすかるべからずとて、身の安からん為に計出たりといはれけり。
 懸けれ共、諸寺諸山を始て貴賎上下の歎也。

山門都返奏状事

 殊には山門三千衆徒僉議せんぎして、都帰り有べき由、三箇度さんがどまで奏状を捧て、天聴を驚し奉る。
 其状に云、
 延暦寺えんりやくじ衆徒等しゆとら誠惶誠恐謹言、
  請被特蒙天恩止遷都子細
右釈尊以遣教、付属国王者、仏法ぶつぽふ皇法之徳、互護持故也、就なかんづく延暦えんりやく年中、桓武天皇てんわう、伝教でんげう大師だいし、深結約聖主則興此都、親崇一乗いちじよう円宗、大師亦開当山、忽備百王御願ごぐわん、其後歳及四百廻、仏日久耀四明之峯、世過三十八代、天朝各保十善之徳、上代宮城、無此者歟、蓋山洛占隣、彼是相助故也、而今朝議忽変俄有遷幸、是惣四海之愁別、一山之歎也、先山僧等さんそうら、峯嵐雖閑、恃花洛以送日、谷雪雖烈瞻王城以継夜、若洛陽隔遠路、往還不容易者、豈不姑山之月交辺鄙之雲哉、〈是一〉、門徒もんと上綱等各従公請遠抛旧居之後、徳音難通、恩凶易絶之時、一門小学等寧留山門哉、〈是二〉、住山者之為体也、遥去故郷之輩帝京、而蒙撫育、家在王都之類、以近隣而為便宜麓若変荒野者、峰豈留人跡乎、悲哉数百歳之法燈、今時忽消、歎哉千万輩之禅林、此時将滅、〈是三〉、但当寺是、鎮護国家之道場、特為一天之固、霊験殊勝之伽藍がらん、独秀万山之中所之魔滅、何無衆徒之愁歎矣、法之淪亡、豈非朝家之怖畏哉、〈是四〉、況七社しちしや権現之宝前、是万人拝覲之霊場也、若王宮遠隔神社、不近者、瑞籬之月前、鳳輦勿叢祠之露下、鳩集永絶、若参詣疎、礼奠違例者、啻非冥応、恐又残神恨乎、〈是五〉、凡当都者是輙不捨之勝地也、昔聖徳太子しやうとくたいし、相此地云、所王気、必建都城云々、大聖遠鑑、誰忽緒之、況青竜、白虎、悉備、朱雀、玄武、勿闕、天然吉処、不執、〈是六〉、彼月氏霊山、則攀王城東北、大聖之明崛也、日或叡岳、又峙帝都丑寅、護国之霊地也、忝同天竺之勝境、久払鬼門之凶害、地形奇特、誰不惜乎、〈是七〉、況賀茂、八幡、比叡、春日、平野、大原おほはら、松尾、稲荷、祇園、北野、鞍馬、清水、広隆、仁和寺にんわじ、如此神社仏寺等者、或大聖鑑機縁垂跡、或権者相勝地みぎり則、是護国護山之崇廟也、将又勝敵勝軍之霊像也、遶王城之八方、利洛中万人貴賎、参詣帰依成市、仏神利生感応如在、何避霊応之砌みぎり、忽趣無仏之境哉、設新建精舎、縦奉神明、世及濁乱、人非大権大聖、感降不必有一レ之、〈是八〉、況此等神社仏寺之中、或有諸家しよけ氏寺、修不退勤行、子胤相続、自興仏法ぶつぽふ之所也、如此之倫、憖なまじひに公務、強別私宅者、豈非人之善心、是天下愁歎、不痛、〈是九〉、南都北山之僧徒、忝従公請之時、朝出蓬壺、暮帰練若、宮城遠隔往還何、若捨本尊者多痛、若背王命者有怖、進退惟谷、東西既暗、〈是十〉、憶昔国豊民厚、興都無傷、今国乏民窮、遷幸有煩、是以或有忽別親属、企旅宿、或有わづかに私宅、不運載、愁歎之声已動天地、仁恩之至、豈不之、七道諸国之調貢、万物運上之便宜、西河東津、有便無一レ煩、若移余処、定有後悔歟、又大将軍至酉方、角已塞、何背陰陽、忽遠東西、山門禅徒、専思玉体安穏、愚意之所及、争不諌鼓、但俄有遷都、是依何事乎、若由凶徒乱逆者、兵革既静、朝廷何勤、若由鬼物怪異者、可三宝以謝夭災、可万民以資皇徳、何動本宮、故奇、仏神囲遶之砌みぎり、剰企遠行態、犯人民悩乱之咎、抑退国之怨敵、払朝之夭危、従昔以来、偏山門営也、或本師祖師、誓護百王、或医王山王、擁護一天、所謂いはゆる恵亮摧脳、尊意振剣、凡捨身事君、無如我山、古今勝験、載在人口、今何有遷都此所哉、況堯雲舜星之耀一朝、天枝、帝葉之伝万代則是九条右丞相願力也、豈非慈恵大僧正だいそうじやう之加持哉、聖朝詔云、朕是右丞相之末葉也、何背慈覚大師之門跡、今云何忘前蹤、不本山滅亡哉、山僧さんそう之訴訟、雖必当一レ理、且以所功労、久蒙裁許来矣、況於此鬱望者、非独衆徒之愁、且奉聖朝、兼又為兆民哉加之於今度事、殊抽愚忠、一門園城をんじやう相招勅宣ちよくせん、万人誹謗、難宛閭巷伏祈、御願ごぐわん何固勤労、還欲一処、運功蒙罰、豈可然哉、縦雖別天感、欲此裁許、当山之存亡、只在此左右故也、望請、天恩再廻叡慮件遷都者、三千人さんぜんにん胸火忽滅、百万衆徳水不乏、衆徒等しゆとら悲歎之至、誠惶誠恐謹言。
  治承四年十一月日とぞ書たりける。

都返僉議せんぎの

 十一月廿日、太政だいじやう入道にふだう、雲客うんかく卿相けいしやうを被催て、山門の奏状に付て僉議せんぎ有べきとて披露之次に問給ければ、抑遷都事、山門度々奏聞に及、縦衆徒いかに申共、地形の勝劣諸卿の人望に依べし、旧都と新都と得失甲乙、各無矯飾評定有べしと宣ふ。
 当座の公卿良久口を閉て有けるが、入道の気色に入らんとにや各被申けるは、福原新都地形無双に侍り、北には神明垂跡すいしやく、生田、広田、西宮にしのみや、各甍を並たり。
 尽せぬ御代の験とて、雀松原、みかげの松、千世に替ぬ緑也。
 雲井に曝布引の滝、白玉岩間に連れり。
 後を顧れば、翠嶺の雲を挟あり、暁の嵐の漠々たるを吐。
 前に望ば蒼海の天をひたせるあり、夕陽の沈々たるを呑り。
 湖水漫々としては、遠帆雲の浪に漕紛、巨海茫々としては、眺望煙波に眼遮れり。
 月の名を得る須磨明石、淡路島山面白や、蛍火みづから燃なる、葦屋の里の夏の暮、何もとり/゛\に心澄たる所也と、口々僉議せんぎしければ、入道ほくそ咲てぞ御座おはしましける。
 此言皆矯飾也。
 たとへば大国に秦の趙高大臣と云し者、己が威勢を知謀叛を起さん為に、始皇帝しくわうていの子二世王の御もとに、鹿を将参つゝ、此馬御覧ぜよと申ければ、王は是馬に非鹿にこそと宣のたまひけるを、諸臣は趙高が威に恐て、皆馬也とぞ申ける。
 去ば末座の公卿のおはしけるが、新都をほめけるを聞て、秦趙高が事を思出て、
  鹿を指て馬と云人も有ければ鴨をもをしと思ふなるべし
と。
 勧修寺宰相宗房卿は、公卿の末座におはしけるが、都還の御事は、山門の奏状に道理至極せり、爰か不叡信、目出かりし都ぞかし、王城鎮守ちんじゆの社々は、四方に光を和げ、霊験殊勝の寺々は、上下に居を占給へり、延暦えんりやく園城をんじやうの法水は、本の都に波清、東大興福の恵燈も、旧にし京に光を益、四神ししん相応の帝都也、数代自愛の花洛也、五畿七道ごきしちだうに便あり、百姓万民も煩なし、勝劣雲泥を隔て、旧新水火を論ず、早速に都還有べきにやと申たりければ、新都を嘆たりける諸卿、苦々しく思はれける上に、入道座を立障子をはたと立て内に入給にけり。
 さしも執し思給たまひつる都を、無代に申つる者哉、入道の腹立あらは也、宗房卿いかなる目にかあはんずらんと、各舌を巻いて怖恐ける程に、十一月廿一日の朝、俄にはかに都遷有べしとて廻文あり。
 公卿も殿上人てんじやうびとも、上下の北面賤の女賤の男に至るまで、手をすり額をつきて悦合へり。
 山門の訴訟は、昔も今も大事も小事も不空、いかなる非法非例なれ共、聖代明時必ず御理あり。
 況此程の道理、入道いかに横紙を破給ふとても、争か靡き給はざるべきなれば、山門の奏状により宗房の言に付て、其事既すでに一定也、古郷に残留て、さびしさを歎ける輩も、是を聞てはあな目出の山門の御事やとて、首を傾掌を合つゝ、叡山えいさんに向てぞ拝み悦などしける。

両院主上還御事

 廿一日の朝廻文有て、軈やがて主上、一院、新院、女院、みな福原を立せ御座おはします。
 さしも新都をほめ給ける公卿殿上人てんじやうびとも、都還に成ければ、言と心と引替て、我先にとぞ急ける。
 二十三日に摂津国つのくに源氏、豊島郡住人ぢゆうにん豊島冠者、俄にはかに東国へ落下る由聞えけり。
 頼朝よりとも同意の為也。
 入道の謂けるは、哀兼て聞たりせばとゞめてまし、妬き者哉とくやしめども無力。
 同日入道前関白くわんばく〈基房〉松殿と申、備前国湯迫の配所より帰上給へり。
 都の有様ありさまも未落定ありければ、嵯峨さがの辺にぞ立入せ給たまひける。
 廿五日に両院木津に著せ御座おはします
 御所もなかりければ、御舟に奉りて見苦き御有様おんありさま也。
 廿六日にじふろくにちに、主上は五条ごでう内裏へ行幸、一院は法住寺殿ほふぢゆうじどのに御幸、新院は六波羅の池殿に入せ給たまひて、あすこも爰も草滋り、浅猿あさましげにぞ籬も荒たるなる。
 山門の童部わらんべ小法師原こぼふしばらまでも、哀天狗のののしり笑と聞えければ、太政だいじやう入道にふだう鼻うそあきてぞ思はれける。
 平家の一門皆上ければ、まして他家の人々は留まる者なし。
 怪の女童、甲斐もなき下﨟までも嬉く思て、劣じ/\と走つゞきて上形勢ありさま、哀に面白き見物也。
 世にもあり人共かずへらるゝ輩皆移りたりしかば、其ゆかりの女房侍共、雑色、中間、小舎人まで下り、殿々家々悉運下して、此五六箇月の間に造立て、資財雑物共、今日迄も歩より舟より漕寄持寄つるに、又物狂敷いつしか角有ければ、家をこぼち返さんまでは思ひもよらず、何もかも打捨て上けり。
 又何者なにものか云出したりけるやらん、残り留らん者をば、鬼共が来てとり食はんずると云ひのゝしりければ、懸る濁れる世には、さる事も有なんとて、劣らじ負じと逃上けり。
 又いかなる跡なし者の立たりけるやらん、太政だいじやう入道にふだうの福原の門前に札に書て、
  人くらふ鬼とてよそになき物を生なぶりする醜女入道
と、故京に上る嬉さは去事に侍れど、こはいかに、落付ていかにすべき共覚えず、帰旅にて、纔わづかにゆかり/\を尋ねてぞ暫立宿りける。
 さても都還の後、宗房卿の一門会合の次に、抑入道のさしも執し思ひ給へる福原の都也、諸人皆新都をほめしに、宰相殿は何心おはしてか、只一人謗給けるぞと問ければ、宗房卿宣のたまひけるは、君も臣も諸事に於て思立時は、心をゆるして人に不問、思煩ふ事には、必人に問合す。
 されば入道の心のはやる儘に、都遷とて下給たれ共、人の歎も多て、さすが故郷には及ばず、栖侘給たる折節をりふし、山門の訴訟あり、人のいへかし都帰せんと思ふ心の内あらは也と推量て、角は申たりとぞいはれける。
 ゆゝしくかしこくぞ思申給たりける。

頼朝よりとも廻文附近江源氏追討使事

 源氏追討の為に東国へ下りし討手の使、空く帰上りて後は、東国北国の源氏等げんじら、いとゞ勝にのる間、国国の兵日に随て多なびき付ければ、間近き近江国山本柏木など云ふ源氏さへ、平家を背いて人をもとほさずと聞えけり。
 斯りける程に、兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりともの廻文とて披露しける。
 案文に云、
 被最勝親王勅命、併召具東山東海北陸道、堪武勇之輩、可討清盛きよもり入道並従類叛逆輩云云、早守令旨、可用意、美濃尾張両国源氏等げんじら者、催勤東山東海之軍兵相侍、北陸道勇士者、参向勢田之辺、相待御上洛、可奉洛陽也、御即位無相違者、誰不行国務哉、依親王御気色おんきしよく、執達如件。
 治承四年十一月日、 前さきの右兵衛権佐うひやうゑのごんのすけ源朝臣在判とあり。
 平家是を見て、こはいかに、親王とは何れの事ぞとて騒ぎ合ひけり。
 十一月十一日に、先近江源氏追討の為に発向の大将軍には、左兵衛督知盛、少将資盛、越前守通盛、左馬頭さまのかみ行盛、薩摩守忠度、左少将清経、侍には、筑後守ちくごのかみ貞能さだよしを始て、古京の軍兵七千しちせん余騎よき、路次の者共駈具して、一万いちまん余騎よきに及べり。
 同おなじき十三日山本冠者、柏木判官代はんぐわんだい等を攻落して、軈やがて美濃尾張へ打越て、先近国を打靡けて、関東へ向べき由聞えければ、太政だいじやう入道にふだう少し色なほりて見え給たまひけり。

坂東落書事

 治承四年の冬、何者なにものかしたりけん、坂東に落書あり。
 其状に云、
  早為一天泰平万人安穏討平家一族
 右倩案、治承四年〈歳次庚子〉者、相当蔭子平将門まさかど追討之時代、何当此時而、令黙止哉、謹見此浄海法師之乱悪、殆過彼将軍将門まさかど之謀叛、百千万億也、昔将門まさかど者、於都城之外而企濫行、今浄海者、於洛陽之内謀叛、所謂いはゆる納言宰相、而繋縛其身、搦関白くわんばく大臣、而配流遠域、加之或追籠当今聖主、奪位而譲于子孫、或責出新本天皇てんわう、入楼而留於理政矣、此叛逆絶古今、前代未聞ぜんだいみもん之処、若称院宣、若号令旨、恣下行之、何王之治天、何院之宣旨哉、皆是自由之漏宣也、抑自平治元年以降、数平氏持世既廿一年也、是則改一昔之代、而相当源氏、可世之時乎、而今思事情、平氏捧赤色世、是火之性也、今既果報之薪尽而、敢無光之予、又平氏謂平治之年号而持世、治承者上下之文字具水、以黒色之水、可赤色之火表也、昔承平今治承、以三水之字年号品、本末以水失火事、不相違者也、兼又今年支干、金与水也、取色白与黒也、爰尋其先蹤者、八幡殿之家捧白色、白則金性也、刑部殿之家捧黒色、黒則水性也、水与金和合、持長生之相也、兼又浄海者生年〈戊戌〉六十三、支干共是土也、土冬季死、水冬季王、然者しかれば冬季、而平氏可滅亡之時節也、被平氏之条、更不其疑者哉、就なかんづく八幡大菩薩はちまんだいぼさつ、百王守護八十一代也、今其誓不誤給、此時不思立、何日散愁忿乎、嗚呼ああ冬季而水為王相、滅火有其徳、敢不思慮、更不時日、七道諸国之人、神社仏閣之族、挙唱源氏勝軍、機感相応、入洛時至、早進発于王宮、静天下、奉於国主、全世上也、凡如風聞者、平氏与財産而相語山僧さんそう、抛賄賂而招集国賊、可与力東国之旨有議定云云、是則王城発向及遅々故也、今年若不其志者、敵軍振珍宝、而成多勢、諸人耽貪欲、而有変改者、後悔屡出来歟、仍為仏為神為朝為民、可平家一族之謀臣矣、以送此状而己。
    治承四年十一月日とぞ書たりける。
 斯りければ、源氏いとゞ憑しく覚えて、平家追討の計り事の外は他事なかりけり。

南都合戦同焼失附胡徳楽河南浦楽事

 南都の大衆蜂起騒動して不静ければ、公家より御使を遣して、何事を計申て角騒動するぞ、子細あらば奏聞を経べしと、被仰下たれば、別の風情なし、只清盛きよもり法師に不会候、乃至名字をも不聞候と申。
 太政だいじやう入道にふだう安思て、大衆をおどさんとて、備中国住人ぢゆうにん妹尾せのをの太郎たらう兼康かねやすを、大和国やまとのくにの検非違所けんびゐしよに成して、数百騎すひやくきの兵を相副て下遣たれ共、大衆其にも恐れず、蜂起して押寄、散々打落し、兼康かねやすが家子郎等の頸廿六斬て、猿沢の池の端に懸たり。
 兼康かねやすはうはう都へ逃上る、面目なくぞ見えし。
 是のみならず南都には清盛きよもり入道は平氏の中の糟糖也。
 武家に取ては塵芥也。
 いかにといへば、祖父正盛は、正しく大蔵卿おほくらのきやう為房ためふさの、加賀国知行の時、検非違所けんびゐしよに被召仕き。
 又修理しゆりの大夫だいぶ顕季卿の、播磨守にて国務の時は、厩の別当に被召仕き。
 されば父忠盛が昇殿をゆるされしをば、白川院【白河院】しらかはのゐん御越度とこそ万人唇をば返しか。
 遠からず法皇の御前にて、山僧さんそう澄憲には伊勢平氏と笑れたりしか共、諍ひ所なければ口を閉て不開き。
 人は身の程をこそ振舞に、成出者が事行ひ、過分也とぞ申ける。
 又其上に法師の首を造て、毬打の玉を打が如く、杖を以てあち打こち打、蹴たり踏たり様々にしけり。
 大衆児共、態と此玉なに物ぞと問ば、是は当時世に聞え給ふ太政だいじやう入道にふだうの首なりと答。
 いかに其をば便なく角はするぞといへば、いらふまじき政道の奉行に、仏神に首をはなたれたりとぞ申ける。
 抑此入道大相国たいしやうこくと申は、忝かたじけなくも当今の御外祖父也、位高威勢も大にして、天下重之国土偏靡けり、輙も傾申べきに非ず。
 言易洩者、招禍之媒、事の不慎者、取敗之道と云本文あり、よく/\可慎者を、さまでの振舞空恐し、いかゞ有べかるらん、如何様いかさまにも南都の大衆に、天狗のよく付たるにこそ、只今ただいま災害を招なんど、上下私語ささやきける程に、入道此事聞給たまひ、あまりに腹を立て、躍あがり/\宣のたまひけるは、さもあらずとよ、日本国中につぽんごくぢゆうに、此一門を左程に咒咀すべき者やはある、いか様にも南都には謀叛人の籠りたると覚ゆ、追討使を遣て可攻とぞ披露せられける。
 南都の大衆此事を聞て、落籠たる謀叛人は誰がしぞ、一天の君を始奉り、卿相けいしやう雲客うんかく流失、天下を乱て、今はのこる処なく振舞て、無実を構へ仏法ぶつぽふを亡さんとや、目醒しき事也。
 恐くは木を離たる猿の迎や、儲せよとて、木津川に広さ一町計の浮橋渡して、左右に高欄を立てたりけり。
 南都大衆いかなればかく太政だいじやう入道にふだうをば悪むらんと云ければ、或人の申けるは、理也、摂禄の臣より始て、南家、北家、花山、閑院、日野、勧修寺、前官当職の公卿殿上人てんじやうびと、十之八九は藤氏として、春日大明神かすがだいみやうじんの氏人也。
 代々の国母、仙院、多は此家より出給へり。
 皇王と云、臣公と云我朝を政事専此氏に在、而平家世を取て、万乗の世務を妨奉り、諸卿の理政を無代にすれば、為国為人、春日大明神かすがだいみやうじん衆徒に替入せ給たまひて、角騒動するにや有らん、いか様にも南都の失る歟、平家の滅るか、子細あらんといふ程に、廿六日にじふろくにちに、蔵人頭くらんどのとう重衡朝臣大将軍として、五条ごでうの大納言だいなごん邦綱卿くにつなのきやうの山庄、東山若松の亭にして勢汰へあり、著到あり、其そのせい三万さんまん余騎よき、南都を可攻と披露あり。
 大衆是を聞て東大寺とうだいじの大鐘ならし、蜂起騒動して、大和、山城の悪党、吉野十津川の者共を招集て、奈良坂、般若路、二の道を伐塞ぎ、爰かしこに落しを堀、管植、在々所々に城郭じやうくわくを構て逆木を引、掻楯をかき、老少行学、甲冑を著し弓箭を帯して相待けり。
 廿八日に、重衡三万さんまん余騎よきを二手につくり、奈良坂、般若路より推寄せて時を造る。
 衆徒用意の事なれば、時を合て散々さんざんに防戦けり。
 大衆も軍兵も、互に命を惜ず戦ひけるが、平家の大勢責重りければ、衆徒禦ぎ兼て引退。
 軍兵勝に乗て、二の道を打破て寺中に乱入て、爰彼こに充満たり。
 播磨国住人ぢゆうにん、福井庄下司次郎大夫俊方と云ふ者、重衡朝臣の下知に依て、楯を破て続松として、酒野在家より火を懸たり。
 師走廿日あまりの事なれば、折節をりふし乾の風烈して、黒煙寺内に吹覆。
 大衆猛火に責られ、炎に咽ければ、不堪して蜘の子を散が如く落行けり。
 坂四郎永覚と云ける悪僧は、長七尺しちしやく計なる法師の骨太に逞が、心も剛に身も軽し、打物取ては鬼神にも劣らじと云けり。
 強弓つよゆみの矢継早く開間かずへの手だり也。
 十五大寺、七大寺には、並者なき恐しき者也けるが、褐直垂に萌黄の腹巻に袖付て、三尺の長刀の氷の如くなる持て、同宿十二人左右の脇に立て、手階の門より打出て、引詰々々射ける矢に、多く寄武者討れけり。
 矢種尽ければ、長刀十文字に持てひらいて、敵の中に打入つて散々さんざんに戦ひければ、兵も多く討れ、同宿もあまた討捕れて、我身も痛手少々負ければ、今は不堪や思ひけん、春日の奥へぞ引退。
 猛火寺中に吹覆ければ、東大寺とうだいじ、興福両寺りやうじの仏閣諸堂諸院一宇も残らず、瑜伽ゆが、唯識両部の法門、因明内明一巻も不免、三論、花厳の経釈、大乗小乗の聖教悉ことごとく焼にけり。
 我身を助けんとせし程に、大師先徳の秘仏も、年来住持の本尊も、亡ぬるこそ悲けれ。
 月比日比ひごろ兵乱有べしと聞えければ、若や助かるとて、山階寺の中大仏殿の上に橋を構て、児共童部わらんべ老僧尼公、いくらと云事もなく上り隠たりける程に、猛火御堂に懸ければ、不劣々々と下るゝ程に、階踏折て下に成者は押殺、上成者も高より落重りければ、暫しは息つき居たれ共、終には皆死にけり。
 残留る輩、なにを搦へ、なにを歩てか降り下るべきぞ。
 あやしの小屋ならばこそ手を捧ても助、足を取ても落すべきに、日本につぽん第一の伽藍がらん也、閻浮無双の大堂なれば、梁だにも十丈に余れり。
 今更俄にはかに助べき支度なし。
 余あまりの悲さに思ひ切り飛落る者も有けれ共、砕けて塵とぞ成りにける。
 一人もなじかは可残。
 火の燃ちか付に随て、喚叫音、山も響き天もひゞくらんと覚えたり。
 叫喚大叫喚の罪人も、角やと覚えて哀也。
 警固の大衆は兵杖に当て身を滅し、修学の碩徳は火災に咽て命を失ふ。
 貴賎の死骸、七仏の煙に交り、男女の遺骨、諸堂の灰に埋れり。
 無慙と云も疎也。
 興福寺こうぶくじは是淡海公の御願ごぐわん、藤氏累代の氏寺也。
 此寺は元、天智天皇てんわう即位八年、嫡室鏡の女王、大織冠の御為に、山城国宇治郡山階郷に被山階寺て名付しを、天武天皇てんわう即位元年に、大和国やまとのくに高市郡に移され、元明天皇てんわう即位二年に、同国添上郡春日の勝地に被移て、寺号を改て興福寺こうぶくじと名。
 法相大乗の教を弘通せり。
 代々の王臣国母の御願ごぐわんあり。
 中金堂と申は、入鹿大臣朝家をあやぶめ奉らんとせし時、皇極天皇てんわう発願して、被立丈六釈迦三尊さんぞん也。
 眉間の水精は唐国より被渡たり。
 此玉左見にも右見にも、釈迦三尊さんぞんの影うるはしく移りし玉也。
 此像の御頭の中には、大織冠の御髻の中に、年来戴き給たまひける銀の三寸の釈迦像を被籠たり。
 東金堂と申は、神亀三年〈丙寅〉秋七月に、聖武皇帝の伯母、日本根子高瑞浄足姫御悩ごなうの時、玉体安穏の為にとて造られたりし薬師やくしの像を安置せり。
 又敏達天皇てんわう即位八年〈己亥〉冬十月、新羅国より渡給へる金銅の釈迦、観音、虚空蔵の三尊さんぞんも、此御堂に御座おはします。
 西金堂と申は、聖武天皇てんわうの后、光明皇后の御母橘大夫人の御為に、天平六年〈甲戌〉正月に造、供養し給へる丈六の釈迦の像を被居たり。
 天竺の乾陀羅国大王、生身の観音を拝んと云願あり。
 夢中に告を得たり。
 是より東海に小島あり、日本国につぽんごくと名く。
 彼国の皇后光明女を可拝と、夢さめて後、西天、日域雲を隔て、大小諸国の境遠行拝せん事難叶、生身を移さん為にとて仏師を差遣せり。
 工匠子細を奏聞しければ、后仰て云、我母の為に阿弥陀如来あみだによらい造立の志あり、然而いまだ工を得ざる処に、幸に今天竺の仏師を得たり、願は仏像を造て妾が素願をはたせと、工匠奏し申さく、仏々平等にして利益無差ども、釈迦は穢土を教主として慈悲の一子に覆護せり。
 靡耶の生所を知んとて、大菩提心を発しつゝ、二六の難行行畢て、無上正覚成就じやうじゆせり。
 十月胎内の報恩の為に、九旬たう利たうりの安居せり。
 されば母に孝養の志深きは釈尊に過ずと奏しければ、可然とて被造たる仏也。
 皇后此仏を拝し給しに、いまだ眉間の玉も不入、仏像額より光を放ち給しかば、此仏には眉間の玉はなし。
 自然涌出の観世音も、此御堂にぞ安置せる。
 伝法院の修円僧都そうづと云人、寿広、已講を相具して尾張国より上りしに、賀茂坂の辺、すがたの池の辺を通けるに、已講々々と呼声しけり。
 音に付て行見れば、田中に十一面観音像御座おはします
 貴忝かたじけなく思ひつつ、懐き上げ負奉て、南都に帰上りつゝ、先南大門に奉居、何の御堂にか入奉べしと大衆僉議せんぎして、金堂より始て、扉を開て入奉らんとて、千万人集て是を舁奉れども更に動給はず。
 西金堂と申時軽々と挙て、如飛してこそ此寺には入給へ。
 一度歩を運人、二世の願をぞ成就じやうじゆしける。
 南円堂と申は、八角宝形の伽藍がらん也。
 丈六不空羂索観音を安置せり。
 此観音と申は、長岡右大臣内麿の藤氏の変徴を歎て、弘法大師に誂て造給へる霊像也。
 仏をば造て堂をば立給はで薨給たまひたりけるを、先考の志願を遂んとて、閑院大臣冬嗣公の、弘仁四年〈丁酉〉御堂の壇を築れしに、春日大明神かすがだいみやうじん老翁と現じて匹夫の中に相交り、土を運び給たまひつゝ一首の御詠あり。
  補陀落の南の岸に堂たてて北の藤なみ今ぞ栄ゆる
と。
 補陀落山と申は、観音の浄土じやうどにて八角山也。
 彼山には藤並ときはに有しとか。
 件の山を表して八角には造けり。
 北の藤並と申は、淡海公の御子に、南家、北家、式家、京家とて四人の公達御座おはしましけり。
 何れも藤氏なれ共、二男にて北家、房前の御末の繁昌し給ふべきの歌也。
 弘法大師は来て鎮壇の法を被行。
 此堂供養の日、他性の人六人まで失しかば、代々の御幸にも源氏は不向砌みぎり也。
 奈良の都の八重桜、東金堂に栄えたり。
 浄名大士は、講堂かうだうに奄羅園を変じけり。
 維摩大会たいゑは五百ごひやく余歳よさいも過にけり。
 声大唐に聞え、会は興福に留る。
 国之為国者此会の力也、朝之為朝者此会故也と、北野天神の記し置給へるも憑しや。
 されば此大会たいゑの講、近は帝釈宮の礼に付、常楽会の内梵都卒天より伝れり。
 此戒壇と申は行基菩薩の建立こんりふ、済度利生の真影あり。
 清涼院と申は、清水の学窓大聖文殊の霊応あり。
 一乗院は、又定照僧都そうづの聖跡、顕密兼学の道場也。
 貞松房の松室、応和の風香、興静僧都そうづの喜多院、本院の礎不傾。
 斯る目出めでたき所々より始て、瑠璃を並し四面の廊、朱丹を彩二階にかいの楼、空輪雲に輝し五重ごぢゆうの塔婆、稽古窓閑なる三面の僧坊、大乗院、松陽院、東北院、発志院、五大院、伝法院、真言院、円成院、一言主、弁才天、竜蔵惣宮、住吉すみよし、鐘楼、経蔵、宝蔵、大湯屋に至迄、忽たちまちに煙と成こそ哀なれ。
 鳥羽院とばのゐんの御宇ぎよう、春日の御幸の次に興福寺こうぶくじに御入堂あり。
 伶人舞楽を奏しけるに、胡徳楽と云楽に、河南浦の庖丁を舞澄したりけり。
 胡徳楽とは酒を飲楽也。
 河南浦とは鯉を切舞也。
 叡感の余りに、是を鳥羽の御所に移して叡覧あらばやと被思召おぼしめされければ、還御の後彼儀式を鳥羽殿とばどのに被移て、伶人是を奏しけれ共、南都にて叡覧有しには無下に劣て、無興ぞ思召おぼしめされける。
 理や彼寺は、淡海公竜宮城の上に被立たる寺なれば、底より匂通つゝ、吹笛も打楽も澄渡りてぞ聞えける。
 斯る目出たき伽藍がらんの亡びぬるこそ悲しけれ。
 東大寺とうだいじと申すは、一閻浮提無二無三の梵閣、鳳甍高く聳て半天の空より抽で、八宗の教法、広敷広学の僧庵、鸞台遥はるかに構て一片霞を隔たり。
 濫觴を尋れば、月氏より日域に及で、大権の芳契多世を経たり。
 知識を訪へば、聖主より凡庶に至まで、真乗の結縁万方に普し。
 就なかんづく本願皇帝発起の叡念は、大悲普現の観自在弘誓の海是深く、良弁僧正そうじやう懇篤の祈誓は、等覚補処の慈氏尊、因円の月満なんとす。
 三世の覚母は行基菩薩として東垂に現じて、衆生をして普く一分の善縁を結ばしめ、菩提僧正そうじやうは西域より来て、金容を拝して正く五眼の功徳を開けり。
 誠に此四隅四行の薩たさつた、因円合成して、中央中台の遮那の果満顕現じ給ふ。
 大日本国だいにつぽんごく開闢の主、天照太神てんせうだいじんの御本地、今の大仏尊是也。
 天児屋根尊あまのこやねのみことは左面の観世音也。
 太玉尊は右脇の虚空蔵菩薩也。
 又金光最勝時会の式、王法正論鎮護の儀也。
 凡伽藍がらんの建立こんりふ也に異にして冥顕にかたどり、尊像の安置併国家の標相なり。
 是を以て本願聖武皇帝の御起文には、代々の国王を以て我わがてらの壇越とせん、我わがてら興復せば天下も興復し、我わがてら衰弊せば天下も衰弊すべし。
 若敬て勤行せば、世々に福を累て終に子孫を隆やかし、共に宮城を出て早く覚岸に登らんと云々。
 万機の理乱四海の安危、此寺の興衰により、今生の禍福未来の昇沈、其人の信否にむくゆ、是則我朝の惣国分寺として、金光明四天王護国之寺と号す、誠にゆゑある哉。
 当大伽藍だいがらん御建立ごこんりふ以前に、聖武天皇てんわう行基菩薩を勅使として、潜に伊勢太神官に祈誓申されしかば、御託宣ごたくせんに、実相真如の日輪は照生死長夜之闇、本有常住の月輪は、掃無明煩悩之雲、我遇難遇之大願、建立聖皇大仏殿故と〈取詮〉ありき。
 菩薩歓喜の涙に咽つゝ、此由奏し給たまひしかば、叡信いよ/\深く、竭仰ます/\切にして、又宇佐宮へ勅使を被立て、同叡願の趣を被申しかば、八幡大菩薩はちまんだいぼさつの御体正く現じ給、御音を出させ給たまひて、吾国家を護り王位を守る、志楯戈の如し、早く国内の神祇を卒して、共に吾君の知識たらんと、新にみことのり有ければ、歓喜の懇情深くして、則行基菩薩に勅して知識の宣を一天四海に被下しかば、玉簾の内より柴枢の下に至るまで、上下男女其縁を結ばずと云事なし。
 されば天平十七年に土木の造縁を始られしに、或は力士変化の牛来て料材を運、或は久米の仙人通力を起て大木を飛し、或は雷神磐石を砕て船筏を下き。
 三明さんみやう六通の羅漢は五百の工匠と成て大小の諸材を削、四海八方の冥衆は数万の夫役を勤て遠近の公事に従へり。
 鎮守ちんじゆ権現と申は則八幡大菩薩はちまんだいぼさつ是也。
 神託に任て、勧賞の為に、勅使百官を宇佐宮に立られたりければ、天平勝宝元年十一月〈己酉〉日、御影向あり。
 則尊神と天皇てんわうともろ共に、大仏殿に御参の有りて、一万僧会いちまんぞうゑを被行しに、大内に天下泰平と云文字現じけるに依て、又天平宝字と改元あり。
 神明の霊感、種々顕て、影向の軌則巍々たり。
 其より已来このかた当寺に跡を垂御座おはしまして、昼夜に大仏を拝し、八宗の教法を護給へり。
 其後大仏供養の御沙汰ごさたあり、導師行基菩薩と被定たりけるを、菩薩奏して宣く、御願ごぐわんは大仏の事也、我身は小国の比丘也、大会たいゑの唱導更に相応せず、昔霊山浄土じやうどの同聞衆に大羅漢御座、其名を婆羅門尊者と云。
 南天竺にあり、来て供養をのぶべしと有しかば、帝勅して云、天竺日本につぽん境異也、いかゞ招請せんと被仰下ければ、菩薩其期に臨で難波浦に行向、閼伽の折敷に花を盛、香を焼海上に浮たり。
 西を指て流行。
 暫ありて閼伽の備も乱ずして難波浦に著。
 小舟一艘相副り。
 舟中に梵僧一人あり。
 浜に上りたりければ、行基待受て手を取くみ、微咲して歌を唱て云、
  霊山の釈迦の御前にちぎりてし真如朽せず相みつる哉
 梵僧返事して、
  迦毘羅衛に共に契しかひありて文殊のみ顔相みつる哉
と返事ありき。
 則天平宝字四年四月八日御供養有けるに、皇帝忝かたじけなくも御自諸師請定の勅書を被出き。
 開眼師菩提僧正そうじやう、講師隆尊律師、咒願師大唐の道ちん律師、都合一万廿六人いちまんにじふろくにんなり。
 菩提僧正そうじやう仏前にすゝみ、筆を取て開眼し給に、其筆に縄を付て諸人同く取付。
 是皆開眼の縁をむすばしめんと也。
 此時僧正そうじやう白き衣服を著し、六牙の白象に乗じて、大会たいゑの庭に来給へりと見人多かりけり。
 普賢大士の化現と云事は疑なし。
 凡供養の日、奇特の事共多くありける内に、王城に童子あり、生産より成人に至るまで終に物云事なし。
 父母唖子うみたりと歎けるに、彼唖童は法会の庭にのぞみ、天皇てんわうの御前に跪、南謨阿梨耶婆盧枳帝、檪鉢羅耶、菩提薩たさった婆耶と唱拝し奉て、かき消やうに失にけり。
 又南大門の木像の獅子すゞろに吠えののしりけり。
 是只事に非ず、併御願ごぐわんの忝かたじけなき事を感じけるにや、誠に不思議也し事共也。
 其より以来、年序四百しひやく余歳よさい、星霜遥はるかに重て帰敬弥新也。
 金銅十六丈の盧遮那仏るしやなぶつは、実報寂光常在不滅の生身になぞらへ、玉殿十一間の宝楼閣は、花蔵界会、奇麗無元尽の荘厳に模せり。
 烏瑟高顕て半天の雲に細に、白毫露て瑩て、満月の粧明か也し尊像也。
 五十六億七千万歳の遥はるかの後、人寿八万、竜華三会の時までも全身の如来によらいとこそ奉拝しに、御頭は落て大地にあり、御身は涌て湯の如し。
 悲哉烏瑟忽たちまちに花王の本土に帰し、堂閣空蒼海の波涛に泝ことを。
 八万四千はちまんしせんの相好は、秋の月四重の雲に隠れ、四十一地の珱珞は、夜の星十悪の風に漂はす。
 遥はるかに伝へ聞すら、猶悲みの涙せきあへず、況親奉見けん人々の心中、推量れていと悲し。
 大講堂だいかうだうと申は、天平勝宝年中に御建立ごこんりふ、本尊は五丈の千手の霊像也。
 一万僧会いちまんぞうゑにて供養を遂られし時、天人天降りつつ花を仏前に散し奉る。
 其香発越として法会の庭に匂、九重の中に薫じけり。
 聖武皇帝叡感の余りに、楽人に仰て、始たる楽を奏すべしと勅定有ければ、伶人等俄にはかに十天楽を作始て是を奏しき、類少き不思議也。
 醍醐天皇てんわうの御宇ぎよう延喜十七年十一月、当堂并に三面の僧坊焼失せし時、黒煙一天に覆て日の光不見けり。
 東大寺とうだいじの炎上えんしやうにあらずば角は有べからずとて、御門大に驚き騒がせ給たまひて、寮の御馬に召れて俄にはかに行幸ありけり。
 是ぞ騎馬の行幸の始なる。
 其後承平五年に造畢供養せられけり。
 戒壇院と申は、本願皇帝、栄叡普照寺に勅して大唐に遣されしかば、則楊州の竜興寺の鑑真和尚くわしやうに謁して申さく、昔我大日本国だいにつぽんごくに上宮太子と申人御座おはしましき。
 吾薨去の後二百年を過て、必当国に律儀広まるべしと示し給たまひき。
 今其時代にあたれり、願は日域に東流し給へと請ぜしに、和尚くわしやう承諾して渡海せんと宣に、門徒もんとの僧諫制して云、海上漫々として風波茫々たり、生身を全して法を此にして弘め給へと申ければ、和尚くわしやう弟子に語て云、身命を軽して仏法ぶつぽふを重くするは如来によらい遺弟の法也、日本につぽんは仏法ぶつぽふ有縁の国なれば、行て戒律を弘むべしと有けるを、門弟等留め兼て、袈裟にて頭を裹み、顔を隠して和尚くわしやうの渡海を留けり。
 裹頭の大衆と云は是より又始れり。
 然共和尚くわしやうの志猶たゆみ給はず。
 され共天皇てんわう深く御歎あり。
 欽明天皇てんわう十三年に、釈迦の遺法此国に伝るといへ共、いまだ出家具戒の義そなはらず。
 盧遮那仏るしやなぶつの造立の志は戒法興行の為なり。
 十地の階級によりて、報身能化の形異なれ共、ことさら戒波羅密の教主を選て、千葉台上の尊像を顕し奉る事は、戒師を異朝に尋て、仏法ぶつぽふを此国に弘めんが為也とて、重て遣唐使を渡さる。
 懇に勅請有しかば、法進思詫等の門弟四十余人よにんを具足し、仏舎利三千粒、白檀の千手の像、天台止観等の法門、戒壇円経、并中天竺那蘭陀寺の戒壇の土、此外仏像経論等を持して、大唐の天宝十三年に唐朝を辞し、本朝の天平勝宝六年二月に来朝し、始て大仏殿に参詣して、礼拝讃歎し給たまひて、又和尚くわしやうはるかに蒼海を凌て来朝せり。
 皇帝大に叡感ありて、授戒伝律、偏ひとへに大徳に任る由、勅し給しかば、天平勝宝六年四月に、始て盧遮那仏殿るしやなぶつでんの御前にして、和尚くわしやう伝来の戒壇の土にして壇を築て、天皇てんわう皇后登壇受戒あり。
 其後霊福澄修等五百ごひやく余人よにん登壇受戒しき。
 さて那蘭陀寺の戒壇の土にひとしき地味を本朝に被尋しに、今の戒壇院地味同きに依て、高房中納言を勅使として、天平勝宝七年九月に戒壇院を造畢し、同き十月十三日に、大和尚だいくわしやうを導師として御供養ありき。
 同き廿日受戒会を行ひ始られてより已来このかた、恒例の大法会たりき。
 真言院と申は、養老年中に中天竺の善無畏三蔵来朝の当初、八十日が間遊士修練し給し芳躅なり。
 其間に良弁義淵等、大虚空蔵等の秘法を受て密教稍伝持せり。
 然共根機普熟せざりけるにや、三蔵所持の毘盧舎那経をば、大和国やまとのくに高市郡久米寺の東塔の柱の底に納て、無畏三蔵は帰唐し給にけり。
 其後弘法大師出世し給たまひて、内外平満の教こと/゛\く通達し給たまひて後、諸仏内証の不二法門あるべしとて、当伽藍がらん盧遮那仏るしやなぶつの前にして祈請申されしかば、夢想むさうの告有て、彼久米寺の大経を感得し、勅定を蒙て、渡海入唐し、青竜寺の大和尚だいくわしやうに謁して、三密五智の瓶水を受。
 真乗秘密の奥蔵を伝て、大同年中に帰朝し給たまひて、法水を四海に流し、甘雨を一天にそゝぎしかば、東大寺とうだいじの別当に被補き。
 勅命に依て此寺に移り居て、三蔵修練の芳跡を慕、大唐青竜の風範を写して、灌頂くわんぢやう壇を立て増息の法を修し給へり。
 密経相応也に異なる聖跡也。
 凡大仏殿、同き四面の廻廊より始て、講堂かうだう三面の僧坊、鐘楼、経蔵、食堂、大湯屋、東西七重の大塔、八幡宮、気比の社、気多の宮、五百ごひやく余所、八大菩薩はちだいぼさつ、戒壇院、真言院、尊師僧正そうじやう、東南院、南都七寺の本院家、三論の本所也。
 五師子の如意もなつかしく、光智僧都そうづの尊勝院、花厳円宗の本所也。
 村上帝の御願ごぐわんとか。
 堪照僧都そうづの吉祥院、五重ごぢゆう唯識窓深、珍海已講の禅那院、八不の堪水底澄めり。
 知足院と申は法相一宗の本所也。
 鑑真建立こんりふの唐禅院、律宗天台の本所とか、神社仏閣悉ことごとく焼にけり。
 梵釈四王、竜神りゆうじん八部、冥官冥衆に至るまで、定て驚騒給らんとぞ覚えし。
 三笠山の松の風、遮遺の煙に音咽、春日野草の露、魔滅の灰に色替れり。
 昔釈尊の非滅々々を唱へしに、双林風痛で其色忽たちまちに変じ、抜提河水咽で其流れ又濁りけんも限あれば、菩薩聖衆、人天大会たいゑの悲み角やと思知れたり。
 日本につぽん我朝は申に及ばず、天竺震旦にも加程の法滅は類稀にぞ覚えける。
 若く盛にして身の力ある輩は山林に逃籠、吉野十津河の方へ落失にけれ共、行歩にも叶はぬ老僧身もたへず、事宜き修学者達は、其数を知ず切殺され打殺されにけり。
 尼公の首をも多切たりけるとかや。
 大仏殿にて焼死る者千七百せんしちひやく余人よにん、山階寺にて五百ごひやく余人よにん、在々所々、坊舎堂塔にて二百にひやく余人よにん、戦場にして被討大衆七百しちひやく余人よにん、都合一万二千いちまんにせん余人よにんとぞ聞えし。
 其内に四百しひやく余人よにんが首、法華寺の鳥居の前に切懸たり。
 十二月廿九日に、重衡朝臣、南都の大衆の頸三百さんびやく余を相具して帰上る。
 首共さのみ多しとて少々は道に捨けり。
 重衡上洛して首渡すべき由奏申けれ共、東大寺とうだいじ興福寺こうぶくじ回禄の浅猿あさましさに、其沙汰に及ざりければ、穀蔵院南の堀をば、南都の大衆の頸にて埋けり。
 一院新院摂政せつしやう殿下、一天四海貴賎男女歎悲みけれ共、入道にふだう相国しやうこくばかりは、南都の衆徒等しゆとらさてこそよとぞ宣のたまひける。
 後世いかならんと聞も身毛竪けり。

仏法ぶつぽふ破滅事

 仏法ぶつぽふ破滅の人を尋るに、天竺には提婆達多、仏を妬て血を出し、仏法ぶつぽふ修行の和合僧を破し、証果の尼を殺して三逆を犯し、阿育大王の太子弗沙密多、寺塔を破壊し聖教を亡す。
 震旦には秦始皇しくわう、僧尼を埋み書籍を焼、唐武宗、会昌太子、三宝を滅き。
 これは異国の事也、只伝聞ばかり也。
 我朝には、如来によらい滅後一千五百一年いつせんごひやくいちねんを経て、第三十代帝欽明天皇てんわうの御宇ぎよう十三年、〈壬申〉十月十三日に、百済国の聖明王より、始て金銅の釈迦像並経論等を渡し給ける。
 同日に阿弥陀あみだの三尊さんぞん浪に浮びて、摂津国つのくに難波浦に著給たまひたりしを、用明天皇てんわうの御子聖徳太子しやうとくたいし、仏法ぶつぽふを興ぜんとし給しに、守屋大臣我国の神明を敬はんが為に、教法の貴事を不知して、是を破滅せんとせしか共、終に太子の御為に誅せられけり。
 其外は帝王五十二代、年序六百廿九年、いまだ三宝を背き堂塔を滅す王臣を聞かず。
 仏法ぶつぽふ独弘まらず、王臣の帰依によるべし。
 国土自ら安からず、仏陀の冥助に持たれけり。
 されば人の世にある、誰か仏法ぶつぽふを無代にし逆罪を相招く。
 縦僧こそ悪からめ、仏法ぶつぽふ何の咎か御座おはしますべき。
 神社仏寺数を尽し、三論法相残なく煙と成るこそ悲しけれ。
 されば弘憲僧正そうじやうは、落る涙に墨染の湿たる袖に筆を染めて、法滅の記をぞ書給へる。
 謹考、天竺震旦大仏雖多、皆是木石なり。
 未金銅十六丈之盧遮那とぞ被注たる。
 誠に閻浮無双の仏像也。
 日域第一の奇特なり。
 一時が程に回禄、かなしと云も疎なり。
 興福寺こうぶくじ焼失の時、不思議の事ありき。
 寺院の内の坤の角に、一言主の明神とて、葛城の神を祝奉たる社あり。
 其神の前に大なる木げん子もくげんじの木あり、彼焼亡の火、此木の空に移て煙立けり。
 軍しづまりて後、大衆の沙汰にて水を汲て、木の空に入る事隙なかりけれ共、其煙いつとなく絶ず。
 今はいかゞせんとて、水を入る時もあり入ざる時もあり。
 遥はるかに七十余日を経て、太政だいじやうの入道にふだう病付たりと云ひける日より、煙おびたゞしく立けるが、入道七日と云に死給たまひたりける日よりして、彼けぶり立ず、火かき消すやうに失にけり。
 さしも久しく燃たりけれ共、枝葉もとの如く栄たり。
 誠に世の不思議とぞ覚ゆる。

井巻 第二十五
大仏造営奉行勧進事

 東大寺とうだいじ炎上えんしやうの後、大仏殿造営の御沙汰ごさたあり、左少弁させうべん行隆朝臣、可奉行由えらばれけり。
 彼行隆先年八幡宮に参て通夜し給たりけるに、示現を蒙りけるは、東大寺とうだいじ造営の奉行の時は是を持べしとて、笏を給と霊夢を感ず。
 打驚て傍を見に、誠にうつゝにも是あり、不思議に覚て、其笏を取て下向し給たまひたりけれ共、何事にか当世東大寺とうだいじ造替あるべき、何なる夢想むさうやらんと心計に思ひ煩ひて、件の笏を深納て、年月を送り給ける程に、此焼失の後、弁官の中に被撰て、行隆可奉行由仰せ下されけるにこそ思ひ合せて感涙をば流しけれ。
 されば宣のたまひけるに、我勅勘を蒙ぶらずして昇進あらましかば、今は弁官を過なまし、勅勘に依て多年を送り、老後に再び弁官に成帰つて、奉行の仁に相当れり。
 前世の宿縁、今生の面目、来世の値遇までも、悦ぶに猶余りありとて、大菩薩だいぼさつの示現に給りし笏を取出して、造営の事始めの日より持給たまひたりけるとかや。
 又東大寺とうだいじの大勧進の仁、誰にか仰せ付べきと議定あり。
 当世には黒谷の源空は、戒徳天に覆ひ慈悲普して、人挙て仏の思ひをなす。
 彼法然房に被仰含べきかと、諸卿推挙し申ければ、法皇即行隆朝臣を以て、大勧進を可謹之由仰下さる。
 法然房院宣の御返事おんへんじ申けるは、源空山門の交衆を止て、林泉の幽居を占る事、偏ひとへに念仏修行の為也。
 若大勧進の職に候はば、定て劇務万端にして自行不成就じやうじゆと、竪く辞申されけり。
 重たる院宣には、門徒もんとの僧中に器量の仁ありや、挙し申べしと仰下す。
 法然房暫く案じて、上の醍醐におはしける俊乗房重源を招寄せて、院宣の趣申含給ければ、左右なく領状し給へり。
 則是を挙し申されければ、俊乗房院宣を給たまはつて大勧進の上人に定にけり。
 俊乗房院宣を帯して、法然房へ参して角と申たりければ、宣のたまひけるは、相構て御房大銅に食て、一大事の往生忘るべからず、若勧進成就じやうじゆあらば、御房は一定の権者也と被申けるが、事故なく遂給にけり。
 されば勧進俊乗房、奉行行隆、共に直人にはあらじと人首を傾けり。
 笠置の解脱上人貞慶、大仏の俊乗和尚くわしやう重源両人は、道念内に催し慈悲外に普し、人皆仏の思ひを成しけるに、重源和尚くわしやうは深く観音を信じ給へり。
 菩薩の慈悲とり/゛\也といへ共、普門示現の利生悲願は観音大士に過たるはあらじ。
 されば生身の観音を奉拝らんと年来祈念し給けり。
 解脱上人は釈迦を信じ給けり。
 三世の如来によらいまち/\也といへ共、濁世成仏じやうぶつの導師也、聞法得脱偏ひとへに如来によらいの恩徳に非ずと云事なし。
 然れば生身の釈迦を奉拝ばやと祈誓し給たまひける程に、同夜に夢を見給けるは、俊乗房は、解脱上人は則観音也と見、解脱房は、俊乗和尚くわしやうは即釈迦也と見給たまひけり。
 懸りければ解脱上人は、笠置寺を出て東大寺とうだいじへ行給ふ。
 俊乗和尚くわしやうは東大寺とうだいじを出で笠置寺へ渡り給ふ。
 両上人平野の三間、卒都婆と云所にて行合て、共に夢の告をかたり、互に涙を流しつゝ、貞慶は俊乗和尚くわしやうを三礼し、重源は解脱上人を三礼して、契て云、先立て臨終せん者は自他生所を示すべしと。
 而を建久元年六月五日の夜、解脱上人の夢に、重源こそ娑婆の化縁既すでに尽て、只今ただいま霊山へ帰り侍と示給へり。
 夢に驚て急ぎ人を遣て尋問ひ給へば、此暁既すでに和尚くわしやう東大寺とうだいじの浄土堂にて入滅の由答けり。
 誠に法界唯心の、花厳の教主を再造鋳のために、大聖釈迦如来しやかによらいの化現し給たまひけるこそ貴けれ。

はらかの奏吉野国栖事

 治承五年正月一日、改の年立返たれ共、内裏には東国の兵革南都の火炎に依て朝拝なし、節会ばかり被行けれ共、主上出御もなし。
 関白くわんばく已下藤氏の公卿一人も参らず、氏寺焼失に依て也。
 只平家の人々少々参て被執行けれ共、そも物の音も不吹鳴、舞楽も奏せず、吉野の国栖も不参、はらかの奏もなかりけり。
 たま/\被行ける事も、皆々如形にぞ在ける。
 はらかの奏とは魚也。
 天智天皇てんわうのいまだ位に即給はざりける時、君は乞食の相御座おはしますと申ければ、我帝位につきて乞食すべきにあらず、備へる相又難遁歟、御位以前に其相を果さんとて、西国さいこくの御修行あり。
 筑後国、江崎、小佐島と云所を通らせ給けるに、疲に臨み給たまひたれ共、貢御進する者もなかりけり。
 網を引海人に魚をめされて、御疲を休めさせ給たまひ、我位につきなば、必貢御にめされんと被思召おぼしめされ、其名を御尋おんたづねありければ、はらかと奏し申けり。
 帝位につかせ給たまひて思召おぼしめし出つゝ、被召て貢御に備けり。
 其よりして此魚は、祝のためしに備ふと申。
 吉野国栖とは舞人也。
 国栖は人の姓也。
 浄見原きよみはらの天皇てんわう、大伴王子に恐れて吉野の奥に籠り、岩屋の中に忍び御座おはしましけるに、国栖の翁、粟の御料にうぐひと云魚を具して、貢御に備へ奉る。
 朕帝位に上らば、翁と貢御とを召んと被思召おぼしめされけるによりて、大伴の王子を誅し、位に即て召れしより以来、元日の御祝には国栖の翁参て、梧竹に鳳凰の装束を給たまひて舞ふとかや。
 豊の明の五節にも此翁参て、粟の御料にうぐひの魚を持参して、御祝に進る。
 殿上より国栖と召るゝの時は、声にて御答を申さず、笛を吹て参るなり。
 此翁の参らぬには五節始る事なし。
 斯る目出めでたき様ども、兵革火災に奉らず。

春日垂迹事

 二日天慶の例とて殿上の宴酔なし。
 男女打偸て、禁中の有様ありさま物さびしくぞ見えける。
 礼儀もことごとに廃ぬ。
 仏法ぶつぽふ皇法共に尽ぬる事こそ悲しけれ。
 四日南都の僧綱そうがう解官して公請をとゞめ所領を没収せらる。
 東大寺とうだいじ興福寺こうぶくじ、堂舎仏閣も塵灰となり、若も老も衆徒多滅して、たま/\残る輩は山林に身を隠し、便を求て跡を消して止住の人もなかりけるに、上綱さへ角なれば、南都は併亡畢ぬるにこそ、法相擁護の春日大明神かすがだいみやうじん、いかなる事思召おぼしめすらんと、神慮誠に知がたし。
 此明神と申は、昔称徳天皇てんわうの御宇ぎよう、神護慶雲二年戊申に、白き鹿に鞍を置き、鞍の上に榊をのせ、榊の上に五色の雲聳き、雲の上に五所の神鏡と顕て、常陸国鹿島郡より、此大和国やまとのくに三笠山の本宮に垂迹し給し時は、御手に法相唯識卅誦を捧給たまひて、跡をしめ御座おはします
 今かく人法共に亡ぬれば、冥慮争か安からんと、覚たり。

御斉会ならびに新院崩御ほうぎよ附教円入滅事

 但し形様にても御斉会は被行べきとて、僧侶の沙汰有けるに、南都の僧は公請を止る由宣下せられぬ。
 されば一向天台の学侶ばかり請定歟、又御斉会を被止べきか、又延引有べきかの由、官外記の注文を召。
 彼申状に付て諸卿に被尋処に、南都北嶺は国家鎮護の道場、天台法相は天下泰平の秘要也、速に南都を棄置れん事いかゞ有べき、外記注進先例なきに似たりと各被申けるに依て、三論宗の僧に成実已講と云ふ者の、勧修寺に有けるを只一人召て、如形被行けり。
 法皇は世の角成行に付ても思召おぼしめし連けるは、我十善の余薫に依て万乗の宝位を忝かたじけなうす、四代の帝を思へば子也孫也、いかなれば清盛きよもり法師に万機の朝政を被止て年月を送るらんと、御心憂思召おぼしめす処に、剰へ東大興福の両寺りやうじ、仏法ぶつぽふ人法もろともに亡ぬれば、只竜顔より御涙おんなみだをのみぞ流させ給たまひける。
 懸る程に打副へ、新院しんゐん御所ごしよには日比ひごろ世の乱を歎思召おぼしめしける上、南都園城をんじやうの回禄に、いとゞ御悩ごなう重くならせ御座おはしましければ、何事の沙汰にも及ばずあやふき御事など聞えしかば、法皇不なのめならず御歎ありし程に、同おなじき十四日に、六波羅の池殿にて終に墓なく成せ給ふ、御歳僅わづかに二十一。
 内には十戒じつかいを持て慈悲を先とし、外には五常を守て礼儀を正くせさせ給たまひければ、末代の賢王けんわうにて、万人是を惜み奉る事、一子を失へるが如し。
 まして法皇の御歎、理にも過たり。
 恩愛の道いづれも不疎ども、此御事は、故建春門院けんしゆんもんゐんの御腹にて、一つ御所に朝夕なじみ奉らせ給たまひき。
 御位に即給しまでは、副進らせ給しかば、其御志殊に深き御事也。
 去々年の冬、法皇鳥羽殿とばどのに籠らせ給たまひし御事、不なのめならず歎思召おぼしめすより御病おんやまひ付せ給たりしが、南都の両寺りやうじ焼ぬと聞召きこしめして其歎に不堪、つひに隠させ給けり。
 今夜やがて東山の麓、清閑寺と云山寺へ送り奉て、春の霞に類ひ、夕の煙と立のぼらせ給たまひにけり。
 安居院法印澄憲、墨染の袖を絞りつゝ角思ひつゞけけり。
  常に見し君がみゆきをけふとへば帰らぬ旅ときくぞ悲しき
天下諒闇りやうあんに成て、雲の上人花の袂たもとを引替て、藤の衣に窄けり、哀也し御事也。
 興福寺こうぶくじの別当権僧正ごんのそうじやう教円も、南都炎上えんしやうの煙の末を見て病付たりけるが、新院隠れさせ給ぬと聞て、病増りて失給たまひにけり。
 心あらん人、誠に堪て住べき世とも見えざりけり。

此君賢聖并ならびに紅葉山葵宿禰附鄭仁基女事

 凡此君幼稚の御時より賢聖の名を揚、仁徳の行を施す。
 御情おんなさけ深き御事共おんことども多かりける中に、去嘉応承安の比、御在位の始なりしかば、御年十歳ばかりにや、紅葉を愛せさせ給けるが、紅葉は秋の物也、秋は西より来るとて、西門の南脇に小山を築かせ、紅葉を立植て愛せさせ給たまひけるに、仁和寺にんわじの守覚しゆうかく法親王ほふしんわうより、櫨と鶏冠のもみぢの色うつくしきを二本進覧あり。
 新院何とか思召おぼしめされけん、是をば紅葉の山にはうゑられず、大膳大夫信成を召、この紅葉汝に預る也、明ては持参せよ、叡覧あらんとぞ仰ける。
 信成仰を蒙て宿所に帰り、乾泉水を造て紅葉を植、明ては御所へ持参し、晩れば宿所に持帰る、不損不折と心苦し給けるは、ゆゝしき大事にぞ有ける。
 或あるとき信成物詣でとて出たりける跡に、田舎より仕丁の二三人上たりけるが、寒を禦ん為に酒を尋出し、あたためて飲んとしけるに、焼物のなかりければ、御所の内を走廻て尋る程に、坪の内の乾泉水の紅葉を尋得て、散々さんざんに折焼て酒をあたゝめて飲てけり。
 実に片田舎の者なれば、争か紅葉のやさしき事をも可知なれば、角振舞たりける也。
 信成下向し給たまひて、先さし入紅葉を見給ふに跡形もなし。
 よくよく尋問給たまひければしか/゛\と申。
 信成手をはたと打て、こはいかにしつる事ぞ、如何なる御勘気にかあらんとて、彼仕丁を尋出し、縫殿の陣に誡置。
 御所より信成は下向歟、此両三日紅葉を御覧ぜねば御恋に思召おぼしめし、急ぎ持参せよ叡覧せんと御使あり。
 信成周章あわて参りて此由を奏聞せらる。
 新院やゝ御返事おんへんじなし。
 去ばこそ大なる御不審蒙なんず、如何様いかさまにも廷尉に被下、馬部吉祥に仰て、禁獄流罪にもやと、恐れをののき居給たりけり。
 良有て御返事おんへんじあり。
 信成よ歎思ふべきにあらず、唐の大原たいげんに白楽天と云人は、琴詩酒の三を友として、中にもことに酒を愛して諸を慰みけるに、秋紅葉の比仙遊寺に遊ぶとて、紅葉を焼て酒をあたゝめ、緑苔を払て詩を作けり。
 即其心を、
  林間煖酒焼紅葉石上題詩払緑苔
と書遺し給へり。
 かほどの事をば浅増あさましき下﨟に誰教へけん、最やさしくこそ仕たりけれと、叡感に預りける上は子細に及ばず。
 あやしの賤男賤女までも、角御情おんなさけを懸させ給たまひければ、此君千秋万歳とぞ祈申ける。
 去共憂世うきよの習こそ悲しけれ。
 又建礼門院けんれいもんゐん御入内の比、安元あんげんの始の年、中宮の御方に候ける女房の、召仕ける女童二人あり。
 一人をば葵、一人をば宿禰とて、葵は美形世に勝れたりけれ共、心の色少し劣れり。
 宿禰はみめ形はちと劣りたりけれ共、心の色は深かりけり。
 主上不慮に、始は葵を召れけるが、後には心の色に御耽ありて、宿禰に思召おぼしめしつかせ給つゝ、類ひなき御事也ければ、彼女房竜顔に近付進らせて立さる事もなし。
 白地の御事にもあらで、夜々よなよな是を被召て御志深く見えさせ給ければ、主の女房も召仕ことなく、還て主の如くにいつきかしづき給たまひけり。
 此事天下に漏聞えければ、時の人古き謡詠に云事有とて、文を引て云、生女勿悲酸、生男勿喜歓、男不候、女は作妃と、只今ただいま此女房、女御后にも立、国母仙院とも祝れ給なん、ゆゝしかりける幸哉と披露すと聞召きこしめして後は、敢て召るゝ事なし。
 御志の尽させ給ふには非ず、世の謗を思召おぼしめしける故也。
 されば常は御ながめがちにて、夜のおとゞにぞ入らせ給ける。
 此事大殿聞召きこしめして、心苦き御事にこそとて参内あり。
 奏し申させ給けるは、叡慮に懸らせ御座おはしまさん御事、歎思召おぼしめさん事いと忝かたじけなく侍り、何条御事か候べき、只件の女房を召るべきにこそ、俗姓尋るに及ぶべからず、忠通猶子にし奉べしと仰ければ、いざとよ、位すべらせ給たまひて後はさることあり共聞召、正く在位の時袙など云ず、そもなき怪振舞する程の者の、身に近付く事を不聞召、朕が世に始伝へん事、後代の誹なるべしと勅定ありければ、大殿御涙おんなみだを押拭はせ給たまひて、ゆゝしき賢皇哉と思召おぼしめし御退出あり。
 其後主上なにとなき御手習の次に、古き歌を書すさませ給たまひける中に、緑の薄様のことに匂深きに、
  忍れど色に出にけり御恋はものや思ふと人の問ふまで
と遊ばしたりけるを、御心知の四位しゐの侍従守貞と云者、此歌を取て宿禰にたびたりければ、是を給たまひて懐に引入て、心地例ならず覚て、里に出て引被臥にけり。
 煩事三十さんじふ余日ありて、彼歌をむねにあてて、終に墓なく身まかりにけり。
 主上被聞召きこしめされて御涙おんなみだにむせばせ給けり。
 為君一日之思、誤妾百年之身、寄言痴少人家女、慎勿身軽許人と誡たり。
 女の為も不便也、朕が為も世の誹也とて、深く歎思召おぼしめしても、御恋しさにや御涙おんなみだを流させ給ぞ忝かたじけなき。
 唐大宗は、鄭仁基と云人の娘、美人の聞えありければ、召て元花殿に入らんとし給たまひしを、魏徴大臣の、彼女既すでに他夫に約せりと諌申ければ、殿にいるゝ事を留められけるには、猶まさらせ給たる御心なりとぞ申ける。

時光茂光御方違盗人事

 又殊に哀なる御事ありき。
 去し安元あんげん二年の七月に、御母儀おぼぎ建春門院けんしゆんもんゐん隠させ給たまひけり。
 主上今年は十五にぞならせ給たまひける。
 不なのめならず御歎ありて、御寝膳も御倦き程なりけり。
 帝王御暇の間は定れる習にて、廃朝とて、十二月の程万機の政を留めらるゝ事あり。
 但孝行の礼はさる事なれ共、朝政を止る事、天下の歎なる故に、一日を以て一月に宛て、十二日を以て十二月に准て御色の服をめす。
 十二日過ぬれば御除服とて、御色を召替る事なれば、此君も御母儀おぼぎ隠れさせ給たまひて後、十二日を過させ給たまひければ、公卿殿上人てんじやうびと参会して御除服ありけるに、不なのめならず御歎なれば、参給へる人々も、問ふにつらさの風情もやとて、御母儀おぼぎの御事申出す人もなし。
 君も何となき様にもてなさせ給けるが、猶も御気色おんきしよく処せきの御ためし也。
 高倉中将泰通朝臣参りて御衣を進せ替、御帯を当進らせけれ共、結びもやらせ給はざりければ、御後より結び進らせけるに、母后の御名残おんなごりの色の御衣、今を限と召替ると思召おぼしめしけるにや、御涙おんなみだの温々と落けるが、泰通の手に懸ければ、不堪して同く涙を流しけり。
 是を見進らせける卿上けいしやう雲客うんかく、皆直垂の袖を絞る。
 君も竜顔に御衣の袂たもとを当させ給たまひて、やがて夜の御宿殿へ入せ給たまひ、御涙おんなみだにむせばせ給けるぞ悲しき。
 又金田府生時光と云笙吹と、市允茂光と云篳篥吹あり。
 常に寄合て囲碁を打て、果頭楽の唱歌をして心を澄しぬれば、世間の事公私につけて、何事も心に入ざる折節をりふし、内裏よりとみの御事ありて、時光を被召けり。
 いつもの癖なれば、時光耳にも聞入ず。
 勅使こは如何にといへども不驚。
 家中の妻子所従までも大騒て、如何にいかにと勧めけれ共、終聞ざりければ、御使力及ばず、内裏に参て此由を奏聞す。
 何計の勅勘にてかあらんと思ける処に、主上仰の有けるは、勅命を不顧、万事を忘て心を澄し、面白かるらんやさしさよ、王位は口惜き者哉、さやうの者共に行て伴はざるらん事よとて、御涙おんなみだを流し御感有ければ、事なる子細なし。
 又去安元あんげん元年十二月に、御方違の行幸の夜、鶏人暁唱ふ声明王みやうわうの眼を驚す程に成りにけり。
 主上はいつも御ねざめがちにて、王業の艱難を思召おぼしめしつゞけ御座おはしましけり。
 折しもさゆる霜夜なり。
 天気殊に烈しかりければ、いとゞ打解御寝もならず、彼延喜聖主、四海の民いかに寒かるらんとて、御衣をぬぎ給けん事思召おぼしめし出て、帝徳の不至事を歎思召おぼしめし、御心を澄して渡らせ給たまひけるに、遥なる程とおぼしくて女の泣音しけり。
 供奉の人々は聞とがむる事もなし。
 主上聞召咎めさせ給たまひて、上伏したる殿上人てんじやうびとを召て、上日の者や候、只今ただいま遠所に叫音のするは何者なにものぞ、急ぎ見て参れと御気色おんきしよくあり。
 殿上人てんじやうびと承て、本所の衆に仰す。
 所の衆、急ぎ行て見れば、怪げなる女童の、長持の蓋を提てさめ/゛\と泣。
 事の次第を尋るに、女答て云く、童が主の朔日の出仕に奉らんとて、只一つ持せ給へる御里を沽て、仕立させ給へる御装束を持て御局へ参つるを、男の二三人詣できて奪取りてまかりぬるぞや、取替の御装束があらばこそ御所にも渡らせ給ふべき、御里があらばこそ立も入せ給はめ、責ては日数も候はばや、又も仕立させ給はめ、親き人渡らせ給はねば、如何にと訪進らする事も侍るまじ、此事思連るに、余に悲く候へば、只今ただいま消も失なましきとまで思侍れ共、そも叶はずと申して又足摺して喚叫。
 所の衆帰参て此由角と奏し申ければ、君聞召きこしめして、如何なる者のしわざにか有らん、誠に悲かるべき事にこそ。
 昔夏の禹王犯せる者を罪すとて、涙を流し給ければ、臣下諌て云、罪犯者不憐と申ければ、禹王答て云、堯代之民、以堯心心、故人皆直、今代之民、以朕心心、故姦犯罪、何不悲哉と歎給たまひけり。
 されば朕が意の直しからぬ故に、朝に姦者のあて法を犯す、これ偏ひとへに朕が恥なりとて、御涙おんなみだを流させ給たまひつゝ、彼女童を被召て、とられにける装束は何色ぞと問はせ御座おはしましければ、しか/゛\と申けり。
 中宮の御方に、左様の御衣や候と召されければ、とられつる衣よりも猶清らかに厳を被参たりければ、件の女童にたびてけり。
 はや明方の事也けれ共、又もぞさるめにも値とて、上日の者の送りつゝ、主の女房の許へぞ被遣ける。
 有難き御情おんなさけなり。

西京座主祈祷事

 堀川院ほりかはのゐんの御宇ぎよう、きはめて貧き所衆あり。
 衆のまじらひすべきにて有けれ共、いかにも思立べき事なし。
 此事いとなまでは、衆にまじはらん事叶ふまじ。
 縦世に立廻る共人ならず、懸る身は、あるに甲斐なき事なれば、出家入道して行方知ず失なんとぞ思成りにける。
 されば日来の前途後栄も空くなり、年比の妻子所従も遺惜く、朝夕に参つる御垣の内を振捨て、山林に流浪せん事も悲く、前世の戒徳の薄さも被思知て、唯泣より外の事なし。
 主上は兼て近習の女房侍臣などに、内々仰の有けるは、卒土の浜皆王民、遠民何踈、近民何親、普恵を施ばやと思召おぼしめせ共、一人の耳四海の事を聞ず、是大なる歎き也。
 帝徳全く偏頗を存るに非ず。
 されば黄帝は四聴四目の臣に任せ、舜帝は八元はちげん八愷臣に委すともいへり。
 然共遠事は奏する者もなければ、本意ならぬ事も多くあるらん、聞及事あらば、必奏し知しめよと仰置せ給たりければ、或女房、此所衆が泣歎きける有様ありさまをこま/゛\に申上たりければ、無慙の事にこそと計にて、又何と云仰もなし。
 申入たる女房も、思はずに覚えて候ける程に、西京の座主良真僧正そうじやうを召て、被宣下けるは、臨時の御祈祷ごきたうあるべし、日時并何の法と云事は、思召おぼしめし定て逐て被仰下べし。
 先兵衛尉の功を一人召仕て、今度の除目に申成べしと仰含らる。
 僧正そうじやう勅命に依て、成功の人を召付けて貫首に申ければ、除目に会て即成にけり。
 其比の兵衛尉の功は、五万匹なりければ、是を座主の坊に納置て、日時の宣下を相待進らせけれども、日数を経ける間に、僧正そうじやう参内して、成功五万匹納置て候、臨時の御修法日時の宣下、思召おぼしめし忘たるにやと驚し奏せられたり。
 主上の仰には、遠近親踈をいはず、民の愁人の歎を休ばやと思召おぼしめせども、下の情上に不通ば、叡慮に及ばざる事のみ多かるらん。
 御耳に触る事あらば、其恵を施さんと思召おぼしめす処に、某と云本所の衆あり。
 家貧に依つて衆の交り叶ひ難くして、既すでに逐電すべしと聞召、さこそ都も捨がたく、妻子の遺も悲く思ふらめなれば、件の兵衛尉の成功を彼に給たまひて、其身を相助ばやと思召おぼしめし、一人が為に其法を枉るにもやあるらん、聖主は以賢為実、不珠玉と云事あれば、憚り思召おぼしめせども、明王みやうわうは有私、人以金石珠玉、無私人官職業と云事も又あれば、何かは苦しかるべき、世に披露は御憚あり、良真が私に賜体にもてなすべし、御祈おんいのりは長日の御修法に過べからずと仰ければ、僧正そうじやう衣の袖を顔にあてて泣給へり。
 さすが御年もいまだ老すごさせ給はぬ御心に、かばかり民をはぐくむ御恵、忝かたじけなくぞ思ひ進らせ給ふ。
 やゝ暫くありて御返事おんへんじ申けるは、何の大法秘法と申候とも、是に過たる御祈祷ごきたう侍まじ、縦良真微力を励して勧め奉らん御祈おんいのり、なほ百分が一つに及べからずと申て、泣々なくなく御前を退出して、やがて彼所の衆を西京の御坊に召て、勅命を仰含て五万匹を給たりければ、只泣より外の事ぞなかりける。
 彼ためしに露たがはせ給はずとぞ申ける。

小督局事

 小松殿こまつどの薨給たまひて後は、人の心さま/゛\に替り、不思議の事のみ多し。
 今又此君の隠させ給ぬるも、国の衰弊也、人の歎也。
 御病おんやまひの付せ給ふ事も入道の悪行の至り、恋の御病おんやまひとこそ聞えし。
 桜町中納言重範卿の女に、小督殿とて世に類なき美人、琴の上手にて御座おはしましけるが、令泉大納言だいなごん隆房卿の未少将にて、見初給し女房也。
 少将彼形勢ありさまを伝聞て、忍の玉章を被遣けれ共、女房なびく心もおはせざりけるを、度々文を送られける程に、年月も隔り三年にも成ぬ。
 玉章の数も積りければ、小督殿さすが情に弱る心にや、終には靡き給けり。
 少将見初給たまひて幾程もなかりしに、美人の聞えありて内へぞ被召進らする。
 少将はつきぬ志しなれ共、勅命力及ばず、飽ぬ別の涙には、袖しほたれてほしあへず、責ては小督殿をよそながらも一目見奉る事もやとて、其事となけれ共日毎ひごとに参内せられけり。
 此女房のおはしける御簾のあたりを、彼方此方へたゝずみありき給へ共、小督殿自君に被召進らせなん上は、いかに思ふ共、言をもかはし文をも見べきに非ずとて、伝の情をだに懸られず。
 少将もしやとて一首の歌を読けり。
  思ひかね心のおくは陸奥のちかの塩がまちかきかひなし
と書て、引結、御簾の内へぞ入給ける。
 小督殿さしも志深かりし中なれば、取上返事をもせばやとは思召おぼしめせ共、君の御為御後めたしとて、手にだに取て見給はず、急ぎ上童にたびて、坪の内へぞ被出ける。
 少将情なく恨しく思はれけれ共、人もこそ見れとて、取て懐に入て出られけるが、又立帰給ふ。
  玉章を今は手にだにとらじとやさこそ心に思ひ捨つとも
とくちすさみ宿所に帰り、今は憂世うきよにながらへて、互の姿をあひみん事も有難し、生て物を思はんより、只死ばやとぞ泣給たまひける。
 中宮と申は御女おんむすめ、少将は聟也。
 二人の聟を小督殿にとられ給たまひ、太政だいじやう入道にふだう安からず腹を立給たまひ、いや/\此事、小督があらん限は此世中よかるべし共覚えず、急ぎ召出して可失とてののしり給たまひける。
 小督殿此由伝聞給たまひ、我つれなくながらへて、君の御為御心苦し、いづくの所にても、身独りこそ如何にもならめとて、ある夕暮に内裏を潜に忍出て、かき消すやうに失給たまひぬ。
 君は聞召、御悩ごなうとて夜のおとゞに入せ給たまひ、夜は南殿に出御ありて、月の光を叡覧ありてぞ慰ませ給ける。
 太政だいじやう入道にふだう此事聞給たまひ、君は小督殿故に思召おぼしめし入せ給けり、其義ならば御介錯の女房達にようばうたち、一人も付進らすなとて、中宮をば六波羅へ行啓なし進らせ、参内せられける臣下達をも妬申されければ、入道の権威に恐て参り寄人もなし。
 禁中さびしくならせ給たまひ、いとゞ御思深かりけり。
 比は八月十日余あまりの事なれば、さしも陰なき月なれども、御涙おんなみだにくもりつゝ、朧に照す空なれや、小夜更人静りて、主上、人やある参れ、人やあると被召けれども、御いらへ申者もなし。
 折節をりふし弾正少弼仲国参たりけるが、隔たる所にて是を承り、仲国と御いらへ申。
 近く参れ可仰下御事ありと勅定ありければ御前に参る。
 目近く召して、如何に汝は小督がゆくへ知たりやと仰ければ、争か知進らせ候べきと奏す。
 重ての仰に、誠とやらん、小督は嵯峨さがの辺に片折戸したる所にありとばかりは聞召ししか共、其あるじの名をば不知、かゝらましかば兼て委く聞召べかりけるぞとよ。
 汝主が名をば不知とも、尋て進らせてんやと仰けるに、嵯峨さが広き所にて、名を不知しては争か尋進らせ候べきと申せば、君誠にもとてやがて御涙おんなみだに咽せ給けり。
 仲国見進らせて忝かたじけなく悲く思ひ、実や小督殿の琴弾給しには、仲国被召て必御笛の役に参き。
 其琴の音はいづくにても慥に聞知らんずる者を、今夜は名にしおふ八月十五日の月の夜也、折節をりふし空も陰なし、君の御事思召おぼしめし出て、琴引給はぬ事よもあらじ、嵯峨さがの在家広しといへ共、思ふに幾程か有べき、王事無脆事、打過て琴の爪音を指南として、などか尋逢進らせざるべき、縦今夜叶はずば、五日も十日も伺聞なん、博雅の三位は三年まで、会坂の藁屋の軒に通つゝ、流泉、啄木の二曲を聞てもこそ有けれと思ひければ、不叶までも尋進らせん、若尋会進らせて候とも、御書なくてうはの空にや思召おぼしめされ候はんずらんと申ければ、君実にもとて、よにも御嬉しげに思召おぼしめし、御書遊ばして仲国に給ふ。
 程も遥也、寮の馬に乗てと仰す。
 仲国明月に鞭をあげて、西を指て浮岩行。
 八月半ばの事なれば、路芝におく露の色、月に玉をや瑩くらん。
 我ならぬ在原業平が、男鹿啼その山里と詠じけん嵯峨さがのあたりの秋の比、さこそは哀に覚えけめ。
 片折戸したる所を見付みつけては、此内にもや御座らんと、ひかへ/\聞けれ共、琴弾所もなかりけり。
 打廻打廻、二三返まで聞けれ共、我のみ疲て甲斐ぞなき。
 内裏をばよにも憑しげに申て出ぬ、さて空く帰り参りたらば、中々不参よりも悪かるべし、是より何方へも落行ばやと思へ共、いづくか王土にあらざる、身を隠べき宿もなし、さて又君の御歎き、誰人か慰め進らせんと思ひければ、只狩衣の袖を絞て良久ぞたちやすらふ。
 是より法輪は程近ければ、そも参給へる事もやとて、そなたへ向てあゆませ行。
 亀山かめやまのあたり近、松の一叢ある方に、幽に琴こそ聞えけれ。
 峯の嵐か松風か、尋ぬる君の琴の音かと覚束おぼつかなく思ひ、駒をはやめて行程に、片折戸の内に琴をぞ引澄したる。
 手綱をゆらへて聞ければ、少しも可違もなき小督殿の爪音なり。
 楽はなにぞと聞ければ、夫を想て恋と読、想夫恋と云楽也。
 仲国急ぎ馬より飛び下り、やうぢようぬき出し、ちと合て立寄り、門をほと/\と扣けば、琴をば弾やみ給たまひけり、内裏より仲国御使に参り侍り、開かさせ給へ、御気色おんきしよく申さんといへ共、答る人もなし。
 良ありて鎖をはづし門をほそめにあけて、いたいけしたる小女房顔ばかり指出だし、人違歟所違歟、あやしき賤が庵也、さやうに内裡より御使給べき所に侍らずと云ければ、仲国中々とかく返事せば門たてて鎖さして、悪かりなんと思ひければ、押開てぞ入にける。
 妻戸の縁により居て申けるは、いかに加様の御住居おんすまひにて御座おはしまし候やらん、君は御故に思召おぼしめし入せ給たまひ、つや/\貢御も聞召さず、打解御寝もならせ給はねば、御命も危く見えさせ給ふ者をや、加様に申侍ば、うはの空にや思召おぼしめさるらん、御書の候とて取出て是を奉る。
 有つる女房取次て小督殿に進らする。
 急ぎ披き見給へば、げにも君の御書也けり。
 哀に忝かたじけなくおぼしければ、御書を顔にあて給たまひ、いかにせんとぞ泣給ふ。
 さらぬだに馴にしよはの眤言は、思出つゝ悲きに、雲井の空の月影に、涙の露ぞ置まさる。
 仲国が待らんも心苦く思ふらんと思召おぼしめし、御返事おんへんじあそばし引結、女房の装束一重取副、簾のそとへ推出さる。
 御形見かと覚えて哀なり。
 仲国給たまひて左の肩に打懸て申けるは、余の御使にて候はば、角御返事おんへんじの上は、兎角可申入身に候はね共、内裏にて御琴あそばされし御笛の役には仲国こそ被召しか、其奉公をばよも御忘あらじ、いまだ御忘候はずば、御返事おんへんじを直に承て奏聞申さばやと聞えければ、女房誠にもやと思召おぼしめしけん、近居出て宣のたまひけるは、さればこそ其にも聞給へる様に、入道の世にも怖き事共申すと聞侍りしかば、難面存へて我も憂目を見ば、君の御為も御心苦し、いづくのいかならん所にても、我身一人こそ消も失なんと思ひ、内裏をば潜に忍出ぬ。
 いかならん淵河にも入、如何にも成べかりしか共、住馴し人々の行へをも聞、今一度君の御言伝をもや承と思ひ、所縁ありて是に此程侍りつれ共、伝を承事もなし。
 思へば中々身も苦し、明日よりして大原おほはらの別所に思立事候て、今夜を限の名残なごりを惜み、主の女房に勧められ、手馴し琴が忘られで、今夜しも引てこそ安は聞知れぬれやとて泣かれければ、仲国も表衣の袖絞るばかりに成にけり。
 良有て申けるは、大原おほはらの別所と承は、御様おんさまをかへんとにや、君の御免されなくては、争か御姿をも替させ給ふべき、如何様いかさまにも重て御使は参候はんずらん、縦出んと仰すとも、左右なく出し進らさせ給ふなと、彼家の主の女房に申置、召具したる馬部吉祥を二三人留置、彼家を守護せさせ、我身は内裏へ馳参る。
 内裡をば亥刻計に出たれ共、通よもすがら嵯峨野の原に迷つゝ、秋夜長といへ共、内裏へ帰り参りたれば、夜はほの/゛\と明にけり。
 君は定て御寝こそ成たるらめ、誰してか可奏入と思、装束をば駻馬の障子に打懸、寮の御馬をつながせて南殿の方にさし廻て見進らすれば、未入御もならざりけり。
 夜部の御座にまし/\、待兼させ給へりと覚たり。
 仲国が参を御覧じて、詩一つ詠させ給たまひけり。
  南翔北 嚮 難寒温於秋雁 東出西流 只寄瞻望於暁月
と御詠ありけるに、仲国尋会進らせて候とて、御返事おんへんじをぞ指上たる。
 急ぎ披て叡覧あれば、げにも小督局が手也けり。
 穴無慙や未憂世に有けるや、何としてか尋会たりけるぞと御気色おんきしよくありければ、御琴の音にと申。
 如何なる楽をか弾つると有ければ、想夫恋をこそあそばされ候つれと奏すれば、朕が事忘れず思出けるにやとて、又御涙おんなみだをはら/\と流させ給ぞ哀なる。
 誰してか被召べきなれば、汝帰りて具して参れとぞ仰ける。
 仲国承り御前を立けるが、恐し太政だいじやう入道にふだうに聞付られ、如何なる目にかあはんずらんと思けれ共、綸言なれば争か奉背べき、縦被召出首とも、いかゞはせんと思ひ、宿所に帰牛車支度して嵯峨さがに参り、御気色おんきしよくのよし申ければ、小督殿、我再憂目にあはんより、此次にこそいかにもならめと宣のたまひけるに、主の女房共に様々誘申ければ、泣々なくなく内裏へ帰給ふ。
 君不なのめならず御悦ありて、或局に召置せ給たまひけり。
 其御腹に姫宮一人出来させ給たまひけり。
 後に坊門に女院と申しは、彼姫宮の御事也。
 平家の方様をば深くつゝしませ給たまひけるに、入道何としてか聞付給たまひたりけん、源げん大夫判官だいふはんぐわんを召て、やゝ季定、小督失たりとは君の御虚言にて有けるぞ、未内裏に候なり、急ぎ召出して可失とぞ宣のたまひける。
 季定承、所縁を以て小督殿をすかし出し奉り、入道に角と申しければ、流石さすが女などを失なはん事は世の聞えも不穏便、たゞ姿を替て追放て、さてぞ君は思召おぼしめし捨させ給はんずると宣のたまひければ、季定承り、目もあてられず思ひけれ共、東山の麓、清閑寺と云所に具足し奉り、姿を替させ奉る。
 ひすゐのたをやかなるを剃下し、花色衣の御袖を、うき世を徐の墨染に替けるこそ悲しけれ。
 此を見奉りける人、上下袂たもとを絞りけり。
 今は疾々御心に任せとて、在所も不定追放つ。
 此女房と申は、大織冠の御孫、淡海公には一男、武智麿より十二代、故少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいの孫也。
 かく竜顔に近付進らする上は、国母后に祝れ給はん事も難かるべきにあらず。
 平家は下国の守をだにもきらはれて、只今ただいま家を起したる人ぞかし、さまでの振舞情なしとぞ人唇を返しける。
 桜町中納言は最愛の女子を加様にせられ給ふ、如何にすべし共思ひ給はねば、しば/\篭居とぞ聞えける。
 冷泉少将此由聞給たまひ、あな無慙や、さては終にさまたげられにけり、尋行訪ばやと思はれけれ共、入道のかへりきかん事を恐て、思ひながらさてやみ給ふ。
 新尼御前は、出家は本より思ひ儲し事なれ共、敢無く人に姿をかへられて、如何なる事をか被思けん、さして行べき方も覚えねば、泣々嵯峨さがへ帰給ふ。
 暫く爰ここに御座おはしましけるが、後には大原おほはらの別所に閉篭り、行澄し給けり。
 御歳廿三歳、しかるべき形なり。
 主上は聞召、朕天子の位にて、これ程の事を叡慮に任せぬ事こそ安からねと被思召おぼしめされけれ共、世に披露はなかりけり。
 深く思召おぼしめし出たる時は、只御悩ごなうとて夜のおとゞへ入せ給けり。
 小督の局の心ならず尼になされたる所なれば、御なつかしく思召おぼしめしけるにや、朕をば必清閑寺へ送り納めよと御遺言ごゆいごんの有けるこそ御愛執の罪と云ながら哀なれ。
 入道は斯る悪行し給たまひて、流石さすがおもはゆくや被思けん、福原へ下給たまひにけり。

前後相違無常事

 小督局かく事にあひぬと聞召し後は、御恋も御うらめしくも思召おぼしめして、つや/\供御も参らず、只夜のおとゞに入せ給たまひて、長き冬の終夜よもすがら、御ながめがちにて明し暮させ給たまひけるに、打続き南都炎上えんしやうの事聞召きこしめして、いとゞ御悩ごなう重らせ給たまひて、終に隠させ給たまひにけり。
 凡此君仁風卒土に覆ひ、高徳配天に顕る。
 有道の政無偏の恵、誠に堯、舜、禹、湯、周文、武、漢文帝と聞えしも角やとぞ覚えし。
 されば後白河法皇の仰には、代を此君につがせ奉りたらましかば、恐くは延喜天暦の昔にも立帰なんとこそ思召おぼしめしつるに、先立せ給たまひぬれば、我身の御運の尽るのみにあらず、国の衰弊なり、民の果報の拙が故也とぞ嘆かせ給たまひける。
 近衛院隠れさせ給たりしに、故院の御歎ありし事、挙賢、義孝兄弟二人、先少将後少将とてはなやかにうつくしきが、二十計にて一日の中に失給たまひたりしを、父一条の摂政せつしやう〈伊尹〉謙徳公同北方の被歎事、後江相公朝綱の子息澄明に後て仏事修しける願文に、悲之亦悲、莫於老後子、恨而更恨、莫於少先親、雖老少之不定、猶迷前後之相違と自書て泣けんも、御身に被知御涙おんなみだせきあへさせ給はず。
 永万えいまん元年七月廿八日に、二条院も御歳廿三にて失させ給ぬ。
 安元あんげん二年七月十九日に、六条院も御歳十三にて隠れさせ給たまひぬ。
 治承四年五月廿四日に、高倉宮たかくらのみやも討れさせ給ぬ。
 安元あんげん二年七月七日、比翼の鳥、連理の枝と、天に仰ぎ星を指て御契深かりし建春門女院も、秋の霧におかされて、朝の露と消させ給にき。
 会事稀なる織女も、七月七日を限として、天河逢瀬を渡る習あり。
 偕老同穴の玉の台を並しに、今日しもいかなれば永別に咽らんと、年月は隔れ共、昨日今日の御憐の様に被思召おぼしめされて、御涙おんなみだも未かわかせ給はぬに、現世後生深く憑み思召おぼしめしつる新院も、先立せ御座ぬれば、何事に付ても、今は御心弱くならせ御座おはしまして、いかゞなるべし共思召おぼしめしわかず。
 老少不定は人間の定れる習なれ共、前後の相違は生前の御恨なほ深し、人の親の子を思ふ道、おろかに頑なるすら猶悲し、況万乗の聖主、末代賢王けんわうに於てをや。
 近く召仕給たまひし輩眤思召おぼしめす人々、或は流され或は討れにしかば、御心やすまらせ給ふ御事もなかりつるに、打副又此御歎あり。
 是につけても一乗いちじよう読誦どくじゆの御勤も怠らず、三密行法の御薫修も積れり。
 今生の御事は露思召おぼしめし捨させ給たまひて、只来世得脱の御祈おんいのりのみありける。
 中にも我十善の余薫に酬て、万乗宝位を忝かたじけなくす、四代の帝王を思へば子也孫也。
 いかなれば万機の政務を被止て年月を送らんと、日来の御歎も浅からず思食おぼしめしける上、新院の御事に、雲の上人花の袂たもとを引替て、皆藤の衣に改るに付ても、御心憂しと思召おぼしめし連けり。

入道進乙女

 太政だいじやう入道にふだうは、此程痛く情なく振舞し事、悪かりけりと思ひ給たまひけるにや、正月廿七日に、安芸の国厳島の内侍が腹に儲けたりける第七の乙娘の今年十八に成り給たまひけるを、法皇の御所に進せられけり。
 上﨟女房数多選ばれ給たまひける中に、鳥飼中納言伊実卿の御娘も御座おはしましけり、大宮殿おほみやどのとぞ申ける。
 高倉院たかくらのゐん隠れさせ給たまひて、今日は二七日にこそ成けれ、御歎の最中也。
 いつしか懸べし共覚えず、公卿殿上人てんじやうびと供奉して、偏ひとへに女御入内の様也。
 是に付ても法皇は、こは何事ぞと御冷く思召おぼしめされければ、後には中々伊実卿の御娘、大宮殿おほみやどのぞ御気色おんきしよくはよかりける。
 又一条大納言だいなごんの御娘に近衛殿このゑどのと申女房も御座おはしましけるが、是も御気色おんきしよくよかりければ、御妋の実保伊輔二人、一度に少将に成れなどして、ゆゝしく聞えける程に、相模守業房が後家、忍て被召けるに、姫宮出来させ給たまひにけり。
 大宮殿おほみやどの、近衛殿このゑどの、二人の上﨟女房、本意なき事に思ひけれ共力なく、後には大宮殿おほみやどのは、平中納言親宗卿、時々通ひ給たまひけり。
 近衛殿このゑどのには、九郎判官義経一腹の弟に、侍従義成と云人、通ひ給たまひけり。
 義成は判官の世に在し程は、武芸立ゆゝしく見えしか共、判官兵衛佐ひやうゑのすけに中違て、西国さいこくへ落し時は、義成は紫の取染の唐綾の直垂に、萌黄匂の鎧著て、白葦毛の馬に乗けるに、判官の後にうちたりけるが、大物が浜にてちり/゛\に成りけるに、義成和泉国へ落隠れたりけれ共、虜れて鎌倉へ被召下、上総国へ被流て、三年ありけるとかや。

巻①③ ④⑤ ⑥⑧ ⑨⑩ ⑪⑬ ⑭⑰ ⑱⑳ ㉑㉓ ㉔㉕ ㉖㉗ ㉘㉙ ㉚㉜ ㉝㉞ ㉟㊲ ㊳㊴ ㊵㊶ ㊷㊹ ㊺㊻ ㊼㊽ 書架