倶巻 第二十八
天変附踏歌節会事

 養和二年正月一日、改の年の始の御祝なれ共、諒闇りやうあんに依て節会もなし。
 十六日じふろくにちには、踏歌節会も不行、当代の御忌月なれば也。
 抑踏歌節会と申は、人王三十九代の御門、天智天皇てんわうの御時より被始置たる事也。
 其時の都は、近江国志賀郡、大津宮とぞ承。
 此御時鎌足大臣、始て藤原姓を給たまはつて奥州守むつのかみに任ず。
 常陸国より白雉一羽、一尺二寸にすんの角生たる白馬一匹奉る。
 鎌足大臣是を捧て殿上に参る。
 彼送文云、雉色白者、表皇沢之潔、馬角長者、治上寿之世とぞ書たりける。
 彼雉を其角に居て、大臣乗て南庭に遊。
 聖代の奇物、何事か是に如かんや。
 天子御感有て鎌足を賞し、金銀色々の賞多かりけり。
 此事正月十六日じふろくにちの午時の始也ければ、其例として年々の正月十六日じふろくにち、雲の上人参て、馬に乗て引出物を給る事あり。
 溶々たる池を掘て水を湛へ、田々たる草を植て雉を飼給たまひき。
 四季に花さく桜を植て駒を遊ばしめ給しより、是を志賀の花園とは申也。
 踏歌節会と名て、代々の御門いまだ怠り給はず。
 哀哉三十さんじふ余代の節会なり、数百年の吉例也、何んぞ今年始て断絶するや。
 但平家の一門の過分なりつるしわざなり。
 所以に臣下勇者ようしや、天下不安云事あり。
 偏ひとへに此体の事なるべし。
 二月二十三日夜天変あり、太白昴星を犯と、是重き憤り也。
 天文要録云、太白犯昴星、四夷乱競て兵革不絶、大将軍去国堺といへり。
 世間如何が有べきと人皆歎思けり。
 彼震旦国には、玄宗皇帝の御代に此天変現じて、七日の内に合戦ありて、楊貴妃失給しかば、玄宗鳳闕を出て蜀山に迷給き。
 我朝には宣化天皇てんわうの御時、鹿火金村、蘇我稲目なんど申臣下等、面々に立功、天下を乱して帝位を奪し事二十余年也。
 皇極天皇てんわうの御時元年七月に、客星入月中云天変ありき。
 逆臣五位に至と云事なるべし。
 其時役行者に仰て、七日七夜なぬかななよ御祈おんいのりありければ、兵乱を転じて百日の旱魃となる。
 王位は恙御座おはしまさざりけれ共、五穀皆損じて上下飢に望けるとかや。
 今は役行者もなければ、誰か是を転ずべき。
 待池の魚の風情にて、災の起らん事を、今や/\と待居たるこそ悲けれ。

役行者事

 役行者と申は小角仙人の事也、俗姓は賀茂氏也。
 大和国やまとのくに葛上郡、茅原の村の所生也。
 三歳の時より父に後れて、七歳までは母の恵にて成人す。
 至孝の志し浅からず、仏道修行の思ひねんごろなり。
 五色の兎に随て葛城山の頂に上る。
 藤の衣に身を隠し、松の緑に命を継で、孔雀明王みやうわうの法を修行する事三十さんじふ余年也。
 只一頭を尋えたりし烏帽子えぼし、皆破れ失にければ、大童に成て、一生不犯の男聖也。
 大峯葛城を通て行給けるに、道遠しとて、葛城の一言と云神に、二上の岳より神山まで石橋を渡せと宣のたまひける。
 顔の見悪くければとて、昼は指も出ずして、夜々よなよな渡し給けるを、行者遅と腹立、葛にて七遍縛り給たまひてけり。
 一言主恨を成して、御門に偽り奏しけるは、役優婆塞と云者、帝位を傾け奉らんと云企ありと申ければ、御門驚き思召おぼしめして行者を搦捕んとするに、孔雀明王みやうわうの法験にこたへて、虚空を飛事鳥の如し。
 依これによつて行者の母を召禁られければ、我故に母の罪を蒙事こそ悲けれとて、自参給たり。
 則伊豆の大島に流し遣されけり。
 昼は大島に行、夜は鉢に乗て富士の山に上て行けり。
 一言主重て、行者を被害べき由奏し申ければ、則官兵を被下被誅とせしに、行者の云く、願は抜る刀を我に与よとて、刀をとり舌にて三度ねぶりければ、富士の明神みやうじんの表文あり。
 天皇てんわう此事を聞召きこしめして、是凡人に非ず、定て聖人ならん、速に供養を演ぶべしとて都に被召返。
 爰ここに行者の母もろともに、茅の葉に乗て大唐に渡りし人也。
 懸る聖人も末代には有べくもなければ、此世の中いかゞ有べきと、心あるも心なきも各歎あへりけり。
 同四月十一日、筑後守ちくごのかみ貞能さだよし、菊地高直が雲上の城じやうを責る間、官兵二千人にせんにん、高直がために被討捕ければ、貞能さだよし合戦をば止て、城を固く守て粮の尽を相待ければ、西海運上の米穀、国衙こくが庄園を云はず、兵粮米のために貞能さだよし点定しけり。
 東国北国西海運上の土貢、悉ことごとく京都に不通ければ、老少上下を云ず、餓死する者道路に充満せり。
 群盗放火の事連夜に絶ざりければ、貴賎安堵の心ぞなかりける。
 月卿げつけいも雲客うんかくも、追百里之跡、欲二子之昔とぞ申あはれける。
 一天の逆乱、四方の合戦に、士卒塗肝脳於土地、民庶灑骨骸於原野事、不勝計、村南村北に哭泣の声絶えず、開闢以来懸る乱はあらじとぞ申ける。

顕真一万部いちまんぶ法華経ほけきやう

 同四月十四日、前権少僧都ごんのせうそうづ顕真、貴賎上下を勧め、日吉の社にして如法真読の一万部いちまんぶの法華経ほけきやうあり。
 御結縁の為にとて、法皇日吉社へ御幸なる。
 何者なにものか云たりけん、山門の大衆は院を取進らせて平家を討べき也と、披露ありければ、平家の一門周章あわて騒で六波羅へ馳集る。
 京中の貴賎途を失て東西に迷へり。
 軍兵内裏に馳参て、四方の陣を警固す。
 牛馬人畜足いそがはしく、資財雑物遠近に運あへり。
 十五日に、本三位中将重衡、三千さんぜん余騎よきを相具して、法皇の御迎にとて日吉社へ参向しけるを、又何者なにものか云たりけん、山門の大衆源氏に与力して、頼朝よりとも義仲よしなかに心を通じて平家を背く間、衆徒をせめん為に、重衡卿大将軍として、既すでによするとののしりければ、山上坂本騒動して、大衆下僧走迷へり。
 大講堂だいかうだうの大鐘ならし、生源寺の推鐘扣てをめき叫ければ、すはや提婆がよするなるは、南都三井の仏法ぶつぽふ亡し果てて、今又我山の仏法ぶつぽふ亡さんとや、如何がせんとて、甲冑兵仗太刀長刀、大衆も法師原ほふしばらも有に任て出立つゝ、坂本早尾に充満たり。
 法皇大に驚き思召おぼしめし、公卿殿上人てんじやうびと色を失へり。
 北面の者の中には、黄水を吐者も有けるとかや。
 懸りしかば法皇還御、重衡卿穴穂の辺に参会て、迎進せて入洛す。
 大衆平家を亡さんと云も虚言也、平家の大衆を責んと云も実ならず、法皇の御結縁も打醒進せ、山上洛中の騒も不なのめならず、よく天狗の荒たるにこそ不思議也。
 角のみあらんには、御物詣も今は御心に任すまじきやらんと、法皇は御心憂ぞ被思召おぼしめされける。
 養和二年五月二十七日、改元有て寿永と云。
 五月十九日、蔵人左少弁くらんどのさせうべん光長宣旨を奉て、叡山えいさんの悪徒あくと永雲、薩摩国に配流、顕真は土佐国へぞ被遣ける。
 是は高倉宮たかくらのみやの御子、並に伊豆守いづのかみ仲綱なかつなが子息を、木曾きそ義仲よしなかが許へ下し奉りける罪科とぞ聞えける。
 同廿七日に改元の定あり、改養和二年寿永元年
 法皇の御気色おんきしよくに依て被行けり。
 是は或人、夢想むさうの告ありける故とぞ聞えける。
 延喜に公忠の夢想むさうに依て忽たちまちに改元ありき、例なきに非。
 今上去々年即位、其年大嘗会だいじやうゑ有べき処に、福原に臨幸の間、新都其礼難備ありければ延引しけり。
 去年は又諒闇りやうあん也ければ被行ず。
 今年被行べきに、大嘗会だいじやうゑ以前両度の改元、其例審ならずと沙汰有けるに、天智天皇てんわう十年に崩じ給しに、天武天皇てんわう固辞して即位し給はず、大伴皇子の乱ありて、次年の天武元年七月に彼皇子を被誅き。
 同八月に太宰府より三足の赤雀を献ず、仍て年号とす、朱雀是也と左大臣経宗被申けり。
 大外記頼業は、白雉を改て白鳳として、十一月に大嘗会だいじやうゑを被行きと申ければ、忽たちまちに改元ありけるとかや。

宗盛補大臣ならびに拝賀事

 寿永元年九月四日、前さきの右大将うだいしやう宗盛、大納言だいなごんに成返給たまひて、やがて十月三日内大臣ないだいじんに成給たまひて、大納言だいなごんの上﨟五人を越給たまひき。
 中にも徳大寺とくだいじの左大臣実定は一の大納言だいなごんにて、才学人に勝れ、花族の家に伝つたへ給へり。
 被越給けるこそ不便なれ。
 七日宗盛卿むねもりのきやう兵仗を給はる。
 十三日には御拝賀あり。
 当家他家の公卿十二人やりつゞけ、殿上人てんじやうびと蔵人已下十六人前駆し給たまひて、我劣らじと綺羅めき給しかば、目出見物也。
 東国北国の源氏等げんじら蜂の如に起て、只今ただいま都へ責入んとしけるに、波の立か風の吹かも不知る体にて、角閑に花やかなるも云甲斐なしとぞ傾申ける。
 凡て東国北国に限らず、南京北京の大衆、四国九国の住人ぢゆうにん、熊野金峯の僧徒、伊勢石清水の神官までも、悉ことごとく平家を背き源氏に心を通じければ、四方に宣旨を下し、諸国に勅使を遣せ共、更に不之、宣旨も勅使も、平家の下知とのみ知て、公家の御計と不思ければ、不随も理也。
 同廿二日大嘗会だいじやうゑの御禊ごけいあり、内大臣ないだいじん先著陣の事あり。
 頭右大弁親宗朝臣、吉書を下して次第の事を被宣下けり。
 内大臣ないだいじん供奉たりけるに、馬沛艾して、春日大宮にて高くあがりて走廻ければ、路上に下立れたり。
 見物の貴賎異口同音に称美しけり。
 実に由々敷ぞ見え給ける。
 節下の大臣也ければ、礼服をぞ被著ける。
 冠際より始て、ねり出られたる臂ひぢ持、最故有てぞ見えられける。
 同廿七日に、内大臣ないだいじん直衣始にて被出仕けり。
 前駆は前安芸守資綱已下八人はちにん也。
 何も然るべき輩なりけれ共、多は権威に恐て扈従こしようしけるとぞ聞えし。
 新中納言知盛、左馬頭さまのかみ行盛、束帯にて同被扈従こしようけり。
 御所々々へ被参ければ、もてなされ給ける有様ありさま、花やかにぞ見え給ける。
 同おなじき十一月廿五日、紫宸殿にて節会を被行。
 大極殿だいこくでん焼失の後、いまだ被造出ざりければ、治暦の例に任て、太政官庁にて行るべきにて有けるを、今度既すでに御即位の時、高き御座を紫宸殿に立られて被行ける上は、節会又かはるべきに非とて、紫宸殿にて被行けるとぞ承る。
 寿永二年正月一日、節会例の如に被行けれ共、御忌月に依て主上出御なし。
 物の音も不吹鳴、国栖の奏もなし。
 内大臣ないだいじん宗盛内弁勧給けり。
 美貌事柄ことがらは生付なれば申に及ず、作法も優に振舞も勝給へり。
 左大臣に並給へるも目出めでたしと人申けり。
 三日八条殿の可拝礼とて、今朝俄にはかに其沙汰あり、鷹司殿の例とかや。
 内々摂政殿せつしやうどのに被仰合ければ、可然由申させ給ければ也。
 建礼門院けんれいもんゐんは六波羅の池殿に渡らせ給ふ。
 其御所にて此事あり。
 申次は左少将清経朝臣、此拝礼の事は、御妹の左衛門督ぞ被申行ける。
 皇后宮の母后に准へ給ければ拝礼はなし。
 二条の大宮おほみやも、上西門院の母儀に被准けれども、此事不行。
 されば八条殿の拝礼さし過てぞ覚るとぞ申ける。
 宰相入道成頼は世を遁、高野の雲に跡を隠し給たれ共、折節をりふしには加様の事聞給たまひては、東国北国も乱たり、諸寺諸山静ならず、懸らず共あらばや、世既すでに至極せり、入舞にや。
 許由が頴川に耳を洗ければ、巣父が牛を陸に上けるも、加様の事に堪ざりけるにこそと、宣のたまひけるこそ恥しけれ。
 二月廿日、当今始て朝覲の為に法住寺殿ほふぢゆうじどのへ行幸、鳥羽院とばのゐん六歳にて始て朝覲の行幸有ける其例也。
 正月は御忌月也ければ此月に及べり。
 建礼門院けんれいもんゐん夜部此御所へ御幸あり。
 法皇の御方の御拝の後、女院御方の御拝ありけり。

頼朝よりとも義仲よしなか悪事

 三月廿六日にじふろくにちに、木曾追討の官軍門出あり。
 来月九日北国へ下向すべきにて有けるが、今日吉日とて也。
 同おなじき二十七日にじふしちにちに宗盛内大臣ないだいじんを辞し申、重任を恐て也。
 去ども御許なし。
 八条高倉の亭にて此事あり。
 平へい大納言だいなごん時忠、按察大納言だいなごん頼盛よりもり、新中納言知盛、左三位中将重衡、右大弁親忠ぞ御座おはしましける。
 宗盛は障子の中に居給へり。
 同年三月の比より兵衛佐ひやうゑのすけと木曾冠者きそのくわんじやと中悪き事出来れり。
 甲斐源氏武田太郎信義が子に、五郎信光が讒言に依てなり。
 譬へば信光に最愛の女の有けるに、木曾が嫡子清水冠者を聟にとらんと云遣たりければ、木曾無愛に返事する様は、娘持給たらば被進よ、清水冠者に宮仕はせん、妻までの事は不思寄と云たりけるを、信光遺恨に思けり。
 抑当家は是清和せいわのみかどの後胤、多田ただの新発意しんぼち満仲まんぢゆう三代の孫、伊予守頼義らいぎに三人の子ありき。
 国家を守らんため、家門の繁昌を思ふ故に、三社の神に進る。
 所謂いはゆる太郎義家よしいへ八幡大菩薩はちまんだいぼさつ、二郎義綱賀茂大明神かものだいみやうじん、三郎義光新羅権現、木曾は太郎の末、頼義らいぎより五代の孫、信光は三郎末、頼義らいぎより又五代也。
 信光は甲斐武田の住人ぢゆうにん、義仲よしなかは信濃木曾に居住せり。
 一門更に無勝劣、遺恨の木曾が詞也、世の乱なくば打越てこそ怨むべきに、惣事に付て亡さんと思て、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのに内々申けるは、木曾きそ義仲よしなか、去々年越後の城太郎資永を打落てより以来、北陸道を打領じて、其そのせい雲霞の如し、今平家誅戮のために上洛の由披露あり、実には小松大臣の女子の十八に成給を、伯父宗盛養子にして木曾を聟にとらんと、忍々に文ども通ずと承る、角して平家と一に成て、当家を亡さんと云梟悪の企あり、不知召もやとぞ申たりける。
 兵衛佐ひやうゑのすけ大に驚き給けり。
 折節をりふし又十郎蔵人行家は兵衛佐ひやうゑのすけには伯父也ければ、大場三郎景親が、平家の儲に造たる松田亭に御座おはしましけるが、兵衛佐ひやうゑのすけに被申けるは、行家平家と八箇度合戦して、二度は勝ち六度は負、家子郎等多く被討ぬ、彼等が孝養をも営まん、何にても一箇国相計給へと。
 佐殿返事には、頼朝よりともは十箇国をなびかす、木曾は信濃上野の勢を以て、北陸道五箇国を靡し侍り、御辺ごへんも何れの国にても打靡て、院内へ被申て、打取の国也とて知行し給へかし、当時頼朝よりともが国奉行は不思寄と被申たり。
 行家本意なき事に思て、兵衛佐ひやうゑのすけ憑みては墓々しからじ、木曾を憑まんとて、千余騎よきの勢を引具して信濃国しなののくにへ越にけり。
 佐殿是を聞給たまひて、木曾と十郎蔵人と一に成て、義仲よしなか平家に親みて頼朝よりともをそむかば、由々敷大事、人に上手せられぬ前に木曾を討んとて、十万余騎よきにて打立給ふ。
 今日は坎日也、如何ん有べきかと評定あり。
 佐殿宣のたまひけるは、昔頼義らいぎの朝臣あつそん、奥州あうしうの貞任が小松館を責給ける時、今日往亡日也、明日可合戦かと被定けるを、武則先例を勘て云、周武王合戦に勝事往亡日を不避、勇士は以敵為吉日申て、小松館へ押寄て、忽たちまちに貞任を誅して勝事をえたりき、況や坎日をや、先規を思ふに吉例也と宣のたまひければ、可然とて十万余騎よき、上野と信濃との境なる、臼井坂をぞ越給ふ。
 木曾角と聞て、今井樋口等を招集て、此事如何が有べきと問ふ。
 口々に申けるは、今は別の子細侍まじ、富部太井に城構して支戦はんに、なじかは軍に負べき、はや/\兵を汰へ給へと云。
 木曾暫く案じて、さらぬだに、源氏は父を殺し親類を亡して世にあらんずる者と人云なるに、平家追討の大事を閣て、兵衛佐ひやうゑのすけと軍するならば、一門の滅亡他人の嘲哢最恥とて、木曾は越後へ引退。
 兵衛佐ひやうゑのすけは、人の穏便を存ぜんに頼朝よりとも勝に乗に及ばずとて、鎌倉へ引返し給けるが、武蔵国月田川のはた、青鳥野に陣を取て、天野藤内民部遠景、岡崎四郎義真、二人を召て下知し給けるは、越後へ越て木曾にいはん様は、平家朝威を背き奉り、仏法ぶつぽふを亡に依て、源家同姓の輩に仰て、速に追討すべきの由院宣を被下訖ぬ、尤夜を以て日に続で、逆臣を討て宸襟を休め奉るべき処に、十郎蔵人私の謀叛を起し、頼朝よりとも追討之企ありと聞ゆ、而るを彼人に同心して扶持し被置之条、且は一門の不合、且は平家の嘲也、但し御所存を不弁、もし異なる子細なくば、速に十郎蔵人を被出歟、それさもなくば、美妙水殿を是へ渡し給へ、父子之儀をなし奉るべし、両条之内一も承引なくんば、兵を指遣して誅し奉るべしと慥に云べしとて使にさゝれたり。
 若面に負て委いはぬ事もぞ有とて、副使に安達新三郎清経を指遣す。
 岡崎四郎藤内民部、越後に行向て兵衛佐ひやうゑのすけの被申旨、憚処なく風情に過て申たり。
 木曾此事を聞て、郎等共らうどうどもを招集て評定あり。
 小室太郎が儀には、先度の穏便今更変改有べからず、若承引なくんば東国北国の大合戦、軍兵数尽て、朝敵追討に力あるまじ、本より御意趣なき上は、早く御曹司を渡し奉るべきかと申。
 今井四郎兼平が儀には、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのと終に御中よかるまじ、故帯刀先生殿をば悪源太殿討給ぬ、意趣定て御座らんと佐殿も思召おぼしめすらん、幼き御曹司を他所に奉置て、所々にて思召おぼしめさんも心苦し、平家を討んと云も御家門の為也、只一度に思召おぼしめし切て兎も角かくも成給へと申。
 此御曹司と申は、今井四郎兼平が妹の腹也けり。
 去ば木曾が為には、乳人子めのとごを思て儲たる子、生年十一にぞ成ける。
 義仲よしなか案じて、小室太郎は今参り、心も剛に計ひよし、多勢の者にて中違はじと申処も理也と思ければ、子息の清水を呼で、己をば兵衛佐ひやうゑのすけの子にせんと宣へば遣す也、相構て悪れずして、一方の固め共なれといはれければ、清水冠者返事をばせず、畏て父の前を立、母や乳母めのとの方にて、我をば鎌倉へ被遣候、帰参らん程の形見にとて、笠懸を七番射て見せ奉ければ、女房達にようばうたち是を最後とや思けん、涙ぐみてぞ見合れける。
 木曾は兵衛佐ひやうゑのすけの使に出合、酒すゝめ馬引などして、種々に翫し饗応せられけり。
 返事には、十郎蔵人に意趣御座おはしましけん事は不存知、又呼越たる事もなし、打憑見え来給たれば、只自然の情を存る計に候、誠に平家追討の大事を閣て、何の遺恨ありてか謀叛の企あるべき、人の讒言に侍か、信用に及べからず、又清水冠者事は、未東西不覚の者候、仰を蒙て進せねば所存を籠たるに似たり、召に随て是を進す、不便にこそ思召おぼしめされめ、義仲よしなか角て候へば、一方の固めには憑思召おぼしめすべしとて、清水殿をば岡崎四郎藤内民部に渡しけり。
 両使畏て鎌倉へ相具し奉る。
 宇野太郎行氏とて、美妙水冠者と同年に成りけるをぞ伴には具して遣しける。
 木曾は宗徒の郎等三十さんじふ余人よにんが妻を召て、美妙水冠者をば、汝等なんぢらが夫の身替に鎌倉へ遣しぬ、若冠者惜むならば、兵衛佐ひやうゑのすけ、東国の家人催集て可推寄、両陣矢さきを合せば共に可討死、世中を鎮んとの計ひにて冠者をば兵衛佐ひやうゑのすけに渡ぬと宣へば、女房共皆涙を流しつゝ、穴目出の御計や、加程に思召おぼしめす主君の御恩を忘れ奉て、妻子悲しとて、何くの浦よりも落来夫共には面を合せじ、ちゝの社の前渡せし、照日月の下に住まじと、各起請を書て、木曾殿きそどのにぞ進する。

源氏追討使事

 寿永二年四月十七日じふしちにち、木曾追討の為に官兵北国に発向。
 其より東国に責入て頼朝よりともを誅すべしと聞ゆ。
 大将軍には権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう維盛卿、越前三位通盛卿、薩摩守忠度、左馬頭さまのかみ行盛、参河守知度、但馬守経正、淡路守清房、讃岐守維時、刑部大輔度盛、侍大将には、越中前司盛俊、子息太郎判官盛綱、同次郎兵衛尉盛嗣、上総守かづさのかみ忠清ただきよ、子息五郎兵衛尉忠光、七郎兵衛景清、飛騨判官景家かげいへ、子息大夫判官たいふはんぐわん景高、上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門さぶらうざゑもん有国以下、受領検非違使けんびゐし、靱負尉、兵衛尉、有官輩三百四十余人よにん、武勇に携る者は、大略数を尽して下し遣す。
 此外畿内は、山城、大和、摂津国つのくに、河内、和泉いづみ、紀伊国の兵共つはものども、去年より被催上たり。
 東海道には遠江以東は不参。
 伊賀、伊勢、尾張、参河の輩は当参、近江、美濃、飛騨、三箇国の兵、少々参。
 北陸道には、若狭以北之者は不参。
 山陰道せんいんだうには、但馬、丹後、因幡、伯耆、出雲、石見、山陽、南海、西海、四国の者は不参。
 西国さいこくには、播磨、美作みまさか、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、豊前、豊後、筑前、筑後、大隈、薩摩、此国々の者共は、去年の冬より被召上、年明ば馬の草飼に付て、合戦有べきと被相議たりければ、加様に夏に成てぞ打立ける。
 著到披見之処に、其そのせい十万余騎よき、大将軍六人、宗徒の侍二十余人よにん、先陣後陣を定め、我先々々と、思々に駒を早めて下けり。
 中にも武蔵国住人ぢゆうにん長井ながゐの斎藤別当実盛は、本加賀国の者にて、今度は殊に勇て下けり。
 神功皇后じんぐうくわうごうより以来、天下に丞相の合戦廿三箇度にじふさんがど也。
 十万余騎よきの軍兵の一方にすゝむ諍は、此度共に七箇度也。
 去共大将の六人まで打立事は一度もなし。
 而に六人将軍、十万余騎よきを率して洛中を被出ければ、異国は知らず、日本につぽん我朝には何者なにものか手向すべき、源氏等げんじらなまじひに此度乱を起し、今度ぞ跡形なく滅び終なんずる、穴ゆゝしの事やとぞ京中の上下ののしりける。
 六人の大将軍、各一色に装束して打出給へり。
 蜀江の錦の鎧直垂よろひひたたれに、金銀の金物色々に打くゝみたる冑著て、対面のためなれば甲をも著給ず、大中黒の矢に滋籐の弓持て、雪よりも白かりける葦毛の馬に、螺鈿の鞍置て乗給へり。
 各聞えける合戦の道の出立は、冥途の旅の出立也、再び帰参て見参に入らん事有難し、今朝面々の暇は申ぬ、大臣殿に最後の暇申さんとて、六人馬の轡を並て西八条にしはつでうの南庭に列参し給へり。
 女房男房、各或は御簾すだれをかかげ、或は縁中門にたゝずみて見給たまひけり。
 容顔美麗の気色、馬鞍錦繍の有様ありさまは、丹師が筆も及ばじとぞ上下男女褒美しける。
 盛俊已下の侍共は、馬より下て鎧の袖を合て庭上に気色せり。
 如此次第の礼儀良久敬屈して、暇申て打出給ふ処に、白浄衣に立烏帽子たてえぼし著たる老翁六人、梅のずはえに巻数付て、各捧て六人の大将軍に奉る。
 門出よしとて弓を脇に挟つゝ、各巻数を披て読給けるぞ面白き。
 第一維盛卿 堯雨斜灑 平家平国 頓河餓流 源子失源 厳島明神いつくしまのみやうじんより 権亮三位中将殿ごんのすけさんみのちゆうじやうどのと書れたり。
 第二通盛卿 平家庭上 立不老門 源氏蓬苑 放毒箭鏑 厳島明神いつくしまのみやうじん 越前三位殿さんみどのと書れたり。
 第三行盛朝臣 東海栄花 開平家園 厳島神風 破源氏家 厳島明神いつくしまのみやうじん 左馬頭殿さまのかみどの
 第四知度朝臣 平家繁昌 白駒さんず庭 源氏衰浪 漁翁失船 厳島明神いつくしまのみやうじん 参河守殿
 第五経正朝臣 日本につぽん日 平家余風 太白犯星 源氏物怪 厳島明神いつくしまのみやうじん 但馬守殿
 第六清房朝臣 平家如王 源氏能敬 源氏似鼓 平家打之 厳島明神いつくしまのみやうじん 淡路守殿
とぞ侍りける。
 六人各馬より下て再拝し給たまひけるぞ目出めでたき。
 馬引給はんとしけるに、翁は化して失にけり。
 是は実の厳島明神いつくしまのみやうじんの、厳重の御示現希代の不思議也。
 明神みやうじんこれ程御託宣ごたくせんの上は、平家繁昌源氏衰滅の条疑あらじとこそ悦あへりけれ。
 後に聞えけるは、彼厳島の神主、平家を奉祈志心中に深して、合戦の門出を奉祝作事にてぞ有ける。
 縦へば、正月元日元三に長生殿裏不老門前と祈れ共、齢は日にそへて衰へ命は忽たちまちに止る、嘉辰令月歓無極と祝へ共、福幸もさまでなし、思歎ことは日々に増るが如し。
 万事は皆春の夜の夢也、諸法は只先世の果報なるべし、祈れ共其れにもよらず、祝へ共叶はぬは此我等われらが有様ありさま也。
 抑第一維盛の巻数の詞に、頓河俄にはかに流て源子失源と申心は、唐土の清涼山の北の麓に、大河俄にはかに流たり、是を頓河と名く。
 釣を垂る翁ありき、其名を源子と云けり。
 件の河の俄にはかに流出たるに驚て、尋入て見れば、変化の者の化したる河にて跡形なく失にけり。
 彼河の源の無が如くに、此源氏の世も絶ぬべしと咒咀の心を表して、源子失源と書たりけるとかや。
 平氏繁昌源家滅亡と祈しかども、先途通らずや有けん。
 片路を給たまひて、権門勢家の正税しやうぜい、年貢、神社仏寺の供料供米奪取ければ、路次の狼藉不なのめならず、在々所々を追捕しければ、家々門々安堵の者なし。
 近江の湖を隔て東西より下る。
 粟津原、勢多の橋、野路の宿、野州の河原、鏡山に打向、駒を早むる人もあり。
 山田矢走の渡して、志那今浜を浦伝ひ、船に竿さす者もあり。
 西路には大津、三井寺みゐでら、片田浦、比良、高島、木津の宿、今津、海津を打過て、荒乳の中山に懸つて、天熊国境、匹壇、三口行越て、敦賀津に著にけり。
 其より井河坂原、木辺山を打登、新道に懸て還山まで連たり。
 東路には、片山、春の浦、塩津宿を打過て、能美越、中河、虎杖崩より、還山へぞ打合たる。
 軍兵十万余騎よき北国に下向と聞えければ、木曾、我身は越後国府に在ながら、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにんに、仁科太郎守弘、加賀国住人ぢゆうにん、林六郎光明、倉光三郎成澄、匹田二郎俊平、子息小太郎俊弘、近江国住人ぢゆうにん甲賀入道成覚等を大将として、燧城へ指遣。
 其そのせい追継々々追継に、越前国府、大塩、脇本、鯖波の宿、柚尾坂、今城までぞ連たる。
 陣をば柚尾の峠にとり、城をば燧に構たり。
 平泉寺の長史斉明は、木曾が下知に随て、門徒もんとの大衆駈催し、一千いつせん余騎よきにて大野郡を打過て、池田越に燧城に楯籠。
 抑此城と云は、南は荒乳の中山を境て、虎杖崩能美山、近江の湖の北の端也。
 塩津朝妻の浜に連たり。
 北は柚尾坂、藤勝寺、淵谷、木辺峠と一也。
 東は還山の麓より、長山遥はるかに重て越の白峯に連たり。
 西は海路新道水津浦、三国の湊を境たる所也。
 海山遠打廻、越路遥はるかに見え渡る、磐石高聳挙て、四方の峯を連たれば、北陸道第一の城郭じやうくわく也。
 還山の麓、西は経尾と名け東は鼓岡と云、其間二町には不過。
 南より北へ流たる山河あり、日野河と名く。
 能美新道の二の谷河の落合也。
 左右の山近所なれば大木を倒しがらみをかき、大石を重て水を堰留たれば、彼方此方の岡を浸、今城柚尾の大道を、平押にこそ湛たれ。
 水南山の陰を浸して青くして滉瀁たり。
 波西日の光を沈て紅にしていん淪いんりんたり。
 彼無熱池の渚なぎさには、金の砂を敷て八功徳水を湛へ、昆明池の間には、徳政の船を浮て八重の波に遊けり。
 燧城のしつらひは、大石を重て水をよどみ、大木を横て流を築籠たれば、遥はるかに見渡して湖の如し。
 船なくしては難渡かりければ、平家の軍兵は、能美新道の境なる岩神山に陣をとる。
 源氏は柚尾坂、鼓岡、燧山に陣をとる。
 両陣海を阻て支へたり。
 相去事三町さんちやうには過ざりけれ共、輙く落し難ければ、徒に日数を遂て評定様々也。

経正竹生島詣并ならびに仙童琵琶事

 修理しゆりの大夫だいぶ経盛の子息に、但馬守経正は、詩歌管絃に長じ給へる上情深き人にて、懸る乱の中にも心を澄しつゝ、湖水遥はるかに見渡し給たまひ、南海遠く詠れば、沖の波間に小島あり。
 藤九郎有教を召て、彼はいづくぞと問給ふ。
 彼こそ竹生島とて貴き霊地にて御座おはしまし候へと申。
 やゝ猿事あり、未拝所也、且は為結縁、且は祈誓のために参らんとて、郎等四五人相具し、海津浦より小船に乗、忍て参給たまひけり。
 比は卯月の廿日余あまりの事なれば、比良の高峰の山おろし、さゞ波わたる海上に、はる/゛\と船は漕行ども、跡は波にぞ消にける。
 青葉に見ゆる木本に、春より影や茂らん澗谷の鶯声老て、初音床敷杜鵑旅の心を慰めり。
 急ぎ船より下給たまひ、此島を見給へば、軒を並べる禅坊に読誦どくじゆの音幽に、老を伴高僧、薫修の衣も香し。
 或は秘密瑜伽ゆがの道場あり、或は止観円実の学窓あり。
 空に昇る香煙は、孤島の霞とあやまたる。
 海に流るゝ供花は、一葉いちえふの船と云つべし。
 海漫々として直下と見下せば底もなし、雲の波煙の波に紛つゝ、深水最幽也。
 昔秦皇漢武の、不死の薬を採んとて、方士を使に遣はして蓬莱を求しに、蓬莱を見ずばいなや帰らじと云ける童男丱女は徒に舟の中にや老にけん。
 茫茫たる天水、角やと覚て面白や。
 或経云、南閻浮提なんゑんぶだいの中に湖海あり、海の中に有水晶輪山、即天女の所住也と説るゝは此島の事也。
 金輪際より出生せる故に、劫火の焚焼にも壊乱せず、近くは慈尊の出世を待、遠くは三世に動転なしとかや。
 天女と申は即大弁才功徳天女是也。
 此往古の如来によらい法身の大士也。
 紫磨の姿を隠して和光わくわうの道に出給。
 仮に端厳の女身を荘て、能美妙の音楽を調ぶ。
 左の掌を舒ては三昧の琵琶を懐き、右の手を動しては四絃の呂律を調ぶ。
 故に此天をば美音天女とも名、妙音楽天とも申す也。
 降魔の大将としては、居を西北に卜、弓箭の棟梁としては威を東南に振ひ給へり。
 衆生利益のためにとや、此島に跡を垂る。
 神徳殊に厳重也、眺望も又殊勝也。
 昔都良香と云し人此島に詣つゝ、湖水遥はるかに見渡して、三千世界は眼の前に尽ぬと詠じ給たりければ、権現忽たちまちに、十二因縁は心中空と付給たりけるも、いちじるくぞ貴き。
 経正御前に参給たまひ終夜祈誓して、南無なむ帰命頂礼きみやうちやうらい弁才天女、機感相交て再拝時至れり、我として深く神徳を仰ぐ、神として必我願を守り、怨敵を眼前に退て、皇威を海内に照さしめ給へ、本地の悲願を思へば四弁才大士也。
 垂跡すいしやくの効験を訪へば、一陰陽の明神みやうじん也、懇祈心に満冥覧掌に在と、心計に祈給たまひ、初には法施を奉りけるが、暁懸て出る月湖水の波に漂、霜置夏の曙社壇の砌みぎりに耀きけり。
 岩越浪の音すごく、松吹風も身に冷じ。
 何事に付ても物哀に覚えつゝ、最心澄給ければ、賢くぞ此島に渡り、神に契を結び奉りけるとおぼして、傍の僧を招き給、神明法楽の御為に一曲を弾ぜん、仙童の琵琶取出なんと宣へば、いと安き事也とて、僧琵琶を懐て但馬守の前に閣く。
 経正掻寄給たまひて、楽二つ三つ弾じて後に、上玄石上と云秘曲を弾じ給ふ。
 諸僧耳を欹て、感涙袖を絞りけり。
 天女納受なふじゆし給たまひて、社壇の上より白き狐出来、庭上に遊て但馬守の方を守けるこそ不思議なれ。
 経正は琵琶を閣て、神明の化現と忝かたじけなく思給ければ、諸願成就じやうじゆ疑なし、和光わくわう利物の夏衣、思立けるうれしさよ。
  千早振神に祈のかなへばや白くも色のあらはれにけり
とぞ詠じ給へり。
 其後狐こう/\鳴て、社の後へ隠にけり。
 抑仙童の琵琶と云は、昔興福寺こうぶくじの興静僧都そうづの弟子に、松室の仲算とて学生ありき。
 竪浄戒を持て、広く諸宗に亘る。
 或あるとき一人の児童来て同宿せんと望む。
 仲算問云、汝何人ぞ、何れの所より来れるぞと云。
 児答て云、我は北嶺叡山えいさんにありき。
 彼山常に物騒して、閑居の栖に非ず、願は禅房に居宿して、静に法華経ほけきやうを読誦どくじゆせんと云ければ、許して是を置。
 容貌優美にして百の媚外に顕れ、心操落居して柔和を性に備たり。
 必学問を不好、専法華を読誦どくじゆす。
 仲算愛念して他事を忘たり。
 殆学業に怠りあるが如し。
 諸僧来集して遊宴するに、人の心を破らざれども深く思へる色あり。
 三箇年をへて後、八月十五日の明月に、〔終〕夜よもすがら意を澄して偏ひとへに経をよみ、坊中に経行して、暁に望で行方を不知。
 仲算心労して、東西山里馳求ども不得、正に寝食を忘て万事忙然たり。
 一寺の歎大衆の愁也。
 年月をへて後、仲算春日社に詣つ。
 途中に老人有て云、我は是南山の膺夫樵蘇の野人也。
 宿縁に被催て一の草堂を構たり、願は禅下、臨行して供養の蓄念を果し給へと。
 仲算領状して日時を契て、吉野奥に行て法会を遂畢ぬ。
 夜深人定て、檀越を呼て語て云、我に童児ありき、其性明敏にして情尋常に越たり、不計に坊中を出て、行方をしらず、恋慕時を遂て惣て忘るる思なし、彼児怱々を厭て閑居を欣、心を澄して法花を誦す、而るに当山を見るに、石巌高峙て、嶺松鬱茂也、彼児の意に相叶ふべき砌みぎり也、高峯深谷と云とも相尋んと思ふと云。
 檀越語て云、我去年弓木をきらんが為に此山に入き、音声和に聞えて、経をよむ音あり、怪て声を趁て行に、巌の上に松あり、此下に児あり、奇形妙なる粧、敢て人類にひとしからず、宴座して経を誦す、目を合て是を見るに、暫く有て跡を消す、若如此人歟と。
 仲算聞敢ず、悲歎鳴咽して涙を流して云、師檀の儀は多劫の契り、乃至成仏じやうぶつまでに互に行化を助く、願は我共に彼所に行て其跡を見ん、生々の広恩偏ひとへに此事に有べしと。
 檀越憐を発して仲算と相共に山に入、千仭の谷より登、万丈の峯より下て、其所に至る事一日二夜、檀越をしへて此所也と云。
 奇き石峙て狐松一株あり、眺望四方に晴て雲霞腰を廻れり。
 誠に霊神遊興の砌みぎり、故仙経行の境と見えたり。
 仲算岩の上、松の本に伏倒て祈誓して云、我四十余年の修学、全名利の為に非ず、但恨くは妄執を児童に残して、忘んとすれば弥思を増、思ば又身心苦し、七堂の三宝四所明神みやうじん、憐を垂て我念を知見証明し給へ、縦身命を此みぎりに捨て、永く骸を守る鬼とは成とも、今度此児に合ずんば本寺に帰らじ、大小乗の修学、一句偈の薫修、併我児に廻向す、一時一節ひとふしの程也とも、必声を聞形を見せ給へ、永き妄念を起て、再び悪趣に入ん事如何せんとて、唯識の要文を誦し、法華の第八だいはちを読。
 祈念誠を顕し、三宝哀とおぼしけるにや、巌の上、松の間に児童の貌顕たり。
 髣髴たる事、明月の薄雲を隔たるが如く、飄えうする事、紅花の旋風に翻に似たり。
 窈窕たる粧、柔和の詞を以仲算に語て云、
往縁契、参入禅室、宿善相催、幸聞妙法、我常思念紅栄黄落夢中盛衰、草露風葉旦暮難期、終錯花仏教、得度在此時、行往座臥、欲火宅、千部功績、羽化既生、仏法ぶつぽふ恩深、恒沙非師訓徳厚、塵劫何酬、須禅室、待和尚くわしやう足下、丹竃道成人間境、故師資失礼、願垂宥容矣、重乞請云、御教訓経、時々不審、再聞御読誦おんどくじゆ、重明参差、仲算云、老衰音咽、読誦どくじゆ聞倦、唯卿誦経、頗糺参差、師弟互譲、再三往復、仙童随師命経、其為体、青嵐紅林を吹聴第五の絃曲を弾ずるが如く、琴松に頻伽囀、波七菩提の岸を打に似たり。
 読誦どくじゆ雲に聞えて随喜の涙を雨、経已すでに畢。
 仲算涙を抑て云、陀羅尼品に両の字差と。
 仙童云、諸山同疑へり、不審忽たちまちに散ぬと。
 今は互に別去なんとす。
 仲算今更歎の増りつゝ、思しよりも最哀。
 仙童其心を休んと思て云、我毎年暮春十八日じふはちにちに、五百の群仙と江州がうしう竹生島に集て、三箇日夜宴会あり、不肖の身、苟も員外に列れり、今年三月は琵琶の役に相当れり、冀禅下、琵琶を給たまひて其の役を勤めんと云。
 仲算云、其事易にあり、但如何が送奉らんと云。
 仙即悦べる色ありて云く、十八日じふはちにちより前十五日の夜、禅房に参じて給べし、件の夜、房中の人を出して雑穢を掃除し、縁の前に香花を焼て、深更に至るまでに静に相待給へと懇に語て、仙童雲霞と化して失にけり。
 仲算泣々なくなく袖を絞て本寺に還、恋慕日に増して、懐旧肝を砕。
 暮春三の夜を相待処に、朧々として無片雲、香煙青天に通ずる時、奇雲一叢軒端に覆て、雲の中に紫蓋をさせり。
 仲算琵琶を懐て庭上に投たりければ、雲おりて琵琶を巻取て空に登畢ぬ。
 仲算其影を追て竹生島に詣つ。
 十八日じふはちにちの夜深更に及、船を沖の浪に浮べて、眼を戴て瑞雲を守る、彩雲色々にして青天に星馳、笙歌声々にして蒼海波静也。
 仲算琵琶の音を聞て、頗哀惜の思を成す。
 時に雲晴音止て、琵琶を船の中に投入たり。
 仲算虚き琵琶を懐て、声を挙て叫けり。
 終に其琵琶を持て、竹生島の大明神だいみやうじんに奉て、泣々なくなく本寺に帰り給ぬ。
 琵琶もいみじき名物也。
 楽も目出めでたき秘曲也。
 主も究竟の上手也。
 明神みやうじん納受なふじゆし給へば、霊瑞更に新なり。
 未憑もしくおぼしけるに、夜も既すでに明なんとす。
 名残なごりは旁た惜けれ共、経正は燧が城も覚束おぼつかなしとて郎等共らうどうどもをば相具して、沖の波を漕分て、海津浦へぞ著にける。

斉明射蟇目

 但馬守経正の祈誓の験しにや、源氏の大将に憑たる斉明倩案じけるは、平家は聞体十万余騎よき、木曾は僅わづかに十分が一、されば軍に負て、平家に生捕られ奉て憂目を見んよりも、返忠して平家に力をそへんと思ふ心ぞ付にける。
 薄き切紙に細々と状を書て、蟇目の中に入て平家の陣へ射渡したり。
 平家は此蟇目の鳴ぬ事こそ恠しけれとて、取上見れば中に切紙の文あり。
 披て是を見るに云、源平の合戦に依て、意ならず木曾が為に駈催されて此城に籠て候。
 身は源氏に加て心は平家に通、此城難所に非ず、谷川を塞で下に堤を築、しがらみを掻水を関止たれば、東西の山の根に湛て海の如く見ゆれ共、夜に入て、水に心得こころえたらん足軽共を東の山の根へ指遣して、しがらみを切下ならば、山川の習にて、水は程なく旱落候べし、其後案内者して後矢仕るべし、是は越前国平泉寺の長吏斉明が申状也とぞ書たりける。
 平家大に悦て、夜に入て足軽共を廻して、大石を崩し除けしがらみを切流す。
 夥おびたたしく見えける海なれ共、山川なれば水は程なく落にけり。

源氏落燧城

 〔去さるほどに〕二十七日にじふしちにちに、平家十万余騎よき時を造て推寄たり。
 源氏時を合て戦ふ処に、斉明急に心替して、一千いつせん余騎よきを引分て平家に付、忠を尽して後箭を射る。
 源氏不堪して引退き、越前国河上城に立籠る。
 平家は斉明を先として河上城へ推よす。
 源氏暫し支て戦けれ共、兵糧なかりければ、爰を引て三条野に陣をとる。
 平家勝に乗て推よす。
 両陣時の音を不合、源氏は寄手の時の音を待兼ねて、加賀国住人ぢゆうにん林六郎光明が嫡子に、今城寺太郎光平と云者あり。
 褐の直垂に、袖をば紺地の錦を付たりけり。
 紫糸威の鎧に、大中黒の矢頭高に負、重藤の弓真中取、八寸に余たる大栗毛と云馬に、白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。
 此馬きはめて口強して、国中こくぢゆうには乗随る者なし。
 林六郎光明が郎等に、六動太郎光景と云者計ぞ乗従へける。
 今度も光景をのすべかりけるを、打出んとての時、光平父に逢て、今度は大栗毛に乗て軍に出んと云。
 父光明此言を聞て、弓取は口の強き馬に乗ては必犬死する事あり、不事也、光景を乗せよと云けれ共、光平は、弓矢取身は軍場こそ晴にて候へ、此日比ひごろ労り飼置て、此大事にのらではいつか乗べきとて、父が誡にも随はず、押て乗て打出つゝ、皆紅の扇に月出したるを披きつかひて、坂上の利仁公より六代の孫、加州住人ぢゆうにん林六郎光明が嫡子、今城寺太郎光平と名乗て、我と思はん平家の侍共、押並て組や/\と云。
 平家是を聞て時をつくる。
 源氏時の音を合たり。
 源平の馬共、時の音に驚て馳廻らんとする事夥おびたたし。
 中にも光平が大栗毛、国中こくぢゆう第一の口つよき馬なれば、引共々々留らず、今は叶はじとて手綱をくれてぞ馳入たる。
 平家馬にあたらじとて、左右へさとぞ引たりける。
 馬も究竟の逸物、主もいみじく乗たれば、敵も御方も軍の事をば閣て、此馬をこそ誉たりけれ。
 獅子奮迅の振舞、竜馬酔象の有様ありさま、穆王八匹の天馬の駒、角やとぞ見えける。
 爰ここに平家の侍、武蔵国住人ぢゆうにん長井ながゐの斎藤別当真盛進出て思けるは、加賀国には誠に此者共こそあるらめ、彼も斎藤我も斉藤、共に利仁公の末葉也、恥ある者は名ある者に逢てこそ死ぬるとも死なめ、況一門也、押並て組ばやと思、手縄かいくりて進より、同流の斎藤に、別当真盛と名乗て、弓を捨て、太刀の鞘をはづして打組処に、馬の間無下に近て打物ちがふべき様なければ、押並てひ組で、馬の間へどうど落、上になり下になり、二ころび三ころびしたりけれ共、光平は若く真盛は老たり、既別当危見えけるに、郎等二人落合て光平が頸を切。
 光平が郎等は押隔られて、一人もつゞかざりければ、犬死して失にけり。
 馬は敵の中より走帰けれ共、留る者はなし。
 親が云ける言少も違はざりけり。
 父の命に相随ひたりせば、角はよも犬死にはせじと、人皆是を惜みけり。
 源氏は、矢合に光平を討して三条野を引、平家又続て責懸ければ、源氏は引退て、加賀国篠原の宿に陣をとる。
 平家は越前国長畝城に籠て、暫く息を休めけり。
 越中国ゑつちゆうのくにの住人ぢゆうにん、石黒太郎光弘、高楯二郎光延、泉三郎、福満五郎、千国太郎真高、向田二郎村高、水巻四郎安高、同小太郎安経、中村太郎忠直、福田二郎範高、吉田四郎、賀茂島七郎、宮崎太郎、南保二郎、入前小太郎など、評定しけるは、抑此事如何が有べき、源氏は越前国燧城を落されて、既すでに加賀国へ入と聞、木曾殿きそどのは北国の大将として攻上り給なるが、越後国府に御座也、平家に懸向て一軍して引べき歟、只直に木曾殿きそどのへ参べきかと云。
 吉田四郎申けるは、我等われらは無勢也、平家は十万余騎よきと聞ゆ、中々小勢の分限見えても悪かりなん、急木曾殿きそどのへ馳参、大勢の前を蒐べきやらんと云。
 石黒太郎申けるは、弓箭とる身は猿事なし、大勢小勢をば云べからず、如何にも御方を後に当て、敵に向は武者の法也、軍せずして参たらば、定て尋給はんずらん、勢は幾等程ぞ、陣をば何に取たるぞ、御方には誰が手負討れたるなど問れん時は、如何が陣じ申べきなれば、大将軍の思ひ給はん事も云甲斐なし、又東国の聞えも然べからず、さらば先平家に打向て、敵をも一矢射、我等われらも一矢射られて、疵を蒙て参たらんこそ面目なれと云ければ、此儀可然、さらば平家に向へとて、石黒宮崎を先として、五百ごひやく余騎よきこそ打立けれ。

北国所々合戦事

 〔斯りしかば、〕五月二日平家は越前国を打随へ、長畝城を立、斉明を先として加賀国へ乱入。
 源氏は篠原に城郭じやうくわくを構て有けれ共、大勢打向ければ堪ずして、佐見、白江、成合の池打過て、安宅の渡、住吉すみよし浜に引退て陣を取。
 平家勝に乗り、隙をあらすな者共とて攻懸たり。
 其そのせい山野に充満せり。
 先陣は安宅につけば、後陣は黒崎、橋立、追塩、塩越、熊坂山、蓮浦、牛山が原まで列たり。
 権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう維盛已下、宗徒の人々一万いちまん余騎よき、篠原の宿に引へたり。
 越中、加賀、両国の兵共つはものども、安宅渡に馳集り、橋板三間引落し、城を構垣楯を掻平家を待処に、越中前司盛俊が一党五千ごせん余騎よき、安宅の渡に押寄見れば、橋板は引たり水は深し、南の岸に引へたり。
 源平川を隔て只遠矢に射る。
 日数をへる共落すべき様なし。
 盛俊子息の盛綱を招て、あの渚なぎさは波に碾れて浅かるらん者を、打下て見よと云。
 盛綱即打下て馬を打入て見れば、実も流るゝ砂磯打浪に碾れて、思ひしよりも浅かりけり。
 打返して、水は浅く侍けり、被渡候へと申せば、盛俊打浸々々渡す。
 源氏是を見て、あはや平家は渚なぎさを渡せば、陸へ上立ずして河中に射浸よ者共とて、一千いつせん余騎よき轡並て、引取、差詰、散々さんざんに射。
 平家の先陣三百さんびやく余騎よき、河中に被射浸て、海の中へ被押流
 水巻の四郎安高此様を見て、父子六騎勇をめきて、馬を水に打入て散々さんざんに戦ふ。
 飛騨守景家かげいへが一党の中に被取籠、三騎討れて、三騎は手負て引退。
 石黒太郎兄弟五騎ごき、馬の鼻をならべて、太腹際打入て散々さんざんに射。
 越中前司盛俊、大の中差取て番て、能引て兵と射、其矢石黒太郎にしたゝかに中る。
 暫しもたまらず、水の上にざぶと落、舎弟しやてい福満五郎打寄て、水中より引上て肩に引懸、朴坂越に石黒に帰て、灸治よくして、又十日ばかり有て都波の軍に値たりけるこそ由々敷剛者とは覚たれ。
 林、富樫、下田、倉光も大勢に被蒐立て、安宅城をも引退。
 加賀国住人ぢゆうにん井家二郎範方、十七騎の勢にて根上の松の程まで返合々々、十一度まで散々さんざんに戦けるが、大勢に被取籠て、範方終に討れにけり。
 根上の松と云所は、東は沼西は海、道狭して分内なし。
 源氏数を尽して亡べかりけるに、井家二郎返合々々戦ける間に、希有にして落延ぬ。
 富樫次郎家経は、黒糸威くろいとをどしの鎧に、鴾毛の馬にぞ乗たりける。
 三十さんじふ余騎よきにて落けるが、郎等共らうどうどもに防ぎ矢射させて、引返々々戦ける程に、馬の太腹を射させてひき落さる。
 富樫が外戚の甥に安江二郎盛高と云者あり。
 続て落けるを見て、如何に安江殿、家経馬を射させたり、乗つべき馬や侍といへば、名をば誰ともさゝず、四五騎しごき有ける郎等に向て、大様々々と其馬進せよとて落行けり。
 今参に新三郎家員と云者、我が乗たりける鹿毛なる馬の逸物なりけるより飛下て、後の奉公に立給べしとて、富樫介を掻のせたりければ、北をさして落行ぬ。
 家員が馬なくば、家経危ぞ見えける。
 源氏は安宅の湊よりおちて、今湊、藤塚、小河、浜倉部、双河打過て、大野庄に陣をとる。
 平家は林富樫が館に打入て、暫爰ここに休居たり。
 是より飛脚を都へ立。
 平家の一門馳集て状を披に云、四月廿七日に、越前国燧城にて、当国平泉寺長吏斉明降人に参す、即先陣を申請て案内者して当国の輩を打随ふ。
 五月二日、加賀国へ乱入処に、源氏の軍兵、安宅の渡に城郭じやうくわくを構といへ共、彼をも攻落畢、林富樫が二箇所の城じやうを打落ぬれば、北国は今は手の内と可思召おぼしめさるべしと申上たりければ、平家の一門大に悦ののしりけり。
 角て暫加賀国を靡て安堵したりけり。
 源氏は木曾殿きそどのへ早馬を立、燧城をば斉明が返忠にて被責落、所々にて討負て加賀国へ引、安宅の城じやうにて御方の兵多討れて、林、富樫が党類も被打落ぬ、急勢を付らるべしとぞ申遣ける。
 斉明は黒糸威くろいとをどしの腹巻に、長刀脇に挟て、三位中将の前に跪て申けるは、木曾は此間、越後国府にと承、御方軍に勝て、越前加賀を従へさせ給候ぬれば、早馬立て打上り侍らんと存候。
 越中越後の境に寒原と云難所あり、敵彼をこえて越中へ入なば、御方の為にゆゝしき御大事おんだいじ、彼を伐塞で候なば、木曾が為には大事にて侍るべし、されば急官兵を指遣て、寒原を切塞て越中国ゑつちゆうのくにを随へばやと申。
 何事も北国の事は斉明が計也とて、越中前司に仰す。
 盛俊五千ごせん余騎よきを引卒して、加賀と越中との境なる倶梨伽羅山を打越えて、越中国ゑつちゆうのくに小矢部河原を打過て、般若野にこそ陣をとれ。
 木曾早馬に驚て、今井四郎に仰て、六千ろくせん余騎よきを相具して越中国ゑつちゆうのくにに指遣す。
 兼平は鬼臥寒原打過て、四十八箇瀬を渡して、越中国ゑつちゆうのくに婦負郡御服山に陣をとる也。

屋巻 第二十九
般若野軍事

 五月九日卯刻に、源氏六千余騎、白旗三十流指上て、喚叫で般若野に推寄たり。
 平家も時を合て散々に戦ふ。
 二百騎三百騎五十騎百騎、出し替入違て、寄つ返つ切つ切れつ、息をも継せず馬をも不休、未刻まで戦たり。
 夕に及で平家禦兼て引退。
 源氏勝に乗て追懸たり。
 平家は礪並郡、小矢部の河原まで、返合々々散々に戦けるが、落ぬ討れぬ二千余騎は失にけり。
 残三千余騎、夜に入て礪並山、倶梨伽羅が峯を引越て、加賀国へぞ帰りにける。

平家礪並志雄二手事

 平家一所に集て、木曾追討の為に、十万余騎を二手に分て、越中国に入て国中の兵を責随へんと評定す。
 搦手の大将軍には越前三位通盛、三河守知度、侍には越中前司盛俊、上総守忠清、飛騨守景家、三万余騎を相具して、志雄山へこそ向ひけれ。
 彼山は能登加賀越中三箇国の境也。
 能登路白生を打過て、日角、見室尾、青崎、大野、徳蔵宮腰までぞつゞきたり。
 追手の大将軍には三位中将維盛、左馬頭行盛、薩摩守忠度、侍には上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、越中権頭範高が一党五千余騎を先として、都合七万余騎は、加賀と越中の境なる倶梨伽羅山へぞ向ひける。
 加賀国、井家津、播多、荒井、閑野、竹橋、大庭、崎田、森本まで連たり。
 追手搦手十万余騎、赤旗赤じるし塩風に吹れて、浦々は錦を曝し、緑の梢を隠して、山々は紅を染成せり。
 平家既に倶梨伽羅、志雄山、二手に分て下と聞えければ、木曾は越後国府を立て越中に入、国々軍兵馳集て木曾に加る。
 越前には、本庄、樋口、斎藤が一族、加賀国には、林、富樫、井家津、播多、能登国には、土田、関、日置、越中国には、野尻、河上、石黒、宮崎等参けり。

三箇馬場願書事

 木曾は六動寺の国府に著、兵具くらべ勢汰して著到あり。
 其勢五万余騎とぞ注しける。
 木曾は物書に、大夫房覚明を招て軍兵の中にして云、軍は謀と云ながら、平家は聞体大勢也、仏神の擁護に非んば輙く靡し難し、幸に今北国第一の霊峰、効験無双の明神の御麓近く参たり、白山妙理権現に願書を進せばやと有ければ、軍兵も覚明も、然るべしとて、覚明は箭立取出て旨趣を顕す。
 其状に云、敬白、
  立申大願
一 可勤仕加賀馬場白山本宮三十講頭事
一 可勤仕越前馬場平泉寺 三十講頭事
一 可勤仕美濃馬場長龍寺 三十講頭事
右白山妙理権現者、観音薩たさつた之垂跡、自在吉祥之化現也、卜三州高岩之霊窟四海卒土之尊卑、参詣合掌之輩、満二世之悉地、帰依低頭之類、誇一生之栄耀、惣鎮護国家之宝社、天下無双之霊神者歟、而自近年以降、平家忽昇不当之高位、飽誇非順之栄爵、忝蔑如十善万乗之聖主、恣陵辱三台九棘之臣下、或追捕太上法皇之陬、或押取博陸殿下之身、或打囲親王之仙居、或奪取諸宮之権勢、五畿七道何処不之、百官万民誰人不之、已欲王孫、豈非朝家怨敵哉、是一、次焼南京七寺之仏閣、断東漸八宗之恵命、尽園城三井之法水、滅智証一門之学侶、其逆勝調達、其過越波旬、月氏之大天再誕歟、日域守屋重来歟、已魔滅仏像経巻、忽焼払堂舎僧坊、寧非法家之怨敵哉、是二、次源氏平氏之両家、自昔至于今、如牛角、天子左右之守護、朝家前後之将軍也、而触事決雌雄、伺隙致鉾楯、仍代々企合戦、度々諍勝負、既有宿世之怨心、是非当時之大敵歟、是三、因茲忝蒙神明神道之冥助、為仏法王法之怨敵、立大願、於三州之馬場、仰感応於三所権現耳、就中先代伏王敵、皆由仏神之贔屓、此時降謀叛、寧無権現之勝利哉、加之白山之本地観音大士、於怖畏急難之中、能施無畏、縱雖平家之軍兵如雲集如霞下、衆怨悉退散之金言有憑、縱雖謀臣之凶徒、加咒咀怨念、還著於本人之誓約無疑、然者還念権現本誓、感応不踵、何況武家自先祖、仰八幡大菩薩之加護、振威施徳、而八幡之本地者、観音本師阿弥陀也、白山御体者、弥陀、脇士観世音也、師弟合力、感応潜通者歟、況弥陀有無量寿之号、不千秋万歳之算哉、観音現薬樹王之身、寧不不老不死之薬乎、云本地垂跡、勝利掲焉、付公家私宅、欲素懐、所志無私、奉公在頂、偏為王敵、専為天下、忽為仏法、鎮為神明也、伝聞天神無怒、但嫌不善、地祇無崇、但厭過患、所以平家奪王位、是不善之至哉、謀臣滅仏法、忽過患之甚也、日月未地、星宿猶懸天、神明為神明者、此境施験、三宝為三宝者、此刻振威、然則権現照我等之懇誠、宜平家之逆族、我等蒙権現之加力、願欲謀叛之輩、若酬丹祈、感応速通者、上件大願無懈怠、可果遂也、者弥施源家之面目、新副社壇之荘厳、鎮誇神道之冥加、倍致仏法之興隆矣、仍所立申件。
   寿永二年五月九日               源義仲敬白
と書て、木曾が前にて読上たりければ、武士各感涙を流しけり。
 抑白山妙理権現と申は、昔越前国麻生津に、三神の安角が二男、越大徳神融禅師と云人まし/\き。
 久修練行年積、難行精進日地に新也き。
 元生天皇御宇、養老元年に、和尚当国大野郡伊野原に遊止し給ひたりけるに、一人の貴女化現して云、日本秋津島は本是神国也。
 我天神最初の国常立尊より跡を降してこのかた、百七十九万二千四百七十六歳、上上皇を護下下民を撫、吾本地の真身は在山頂、往て可礼と云て、化女即隠れ給ぬ。
 和尚霊感を仰て白山の絶頂に攀登、緑の池の辺に居て、三密印観を凝し、五相身心を調て、祈念加持し給ひければ、池中より九頭竜の大蛇身を現ぜり。
 和尚責て云、此は是方便示現の形、全本地の真身にあらじとて、咒遍功を増ければ、十一面観音自在尊、慈悲の玉体顕給へり。
 妙相遮眼光明身を耀せり。
 和尚悲喜胸に満て感涙面を洗ふ。
 帰命頂礼し奉て云、願は大聖本地垂跡、哀を垂て、像末の衆生を抜済利益し給へと被申ければ、爾時に観世音、金冠を動し慈眼を瞬し給て、妙体速に隠れ給ふ。
 又和尚左の峯に登給へば、一宰官人にあへり。
 手に金の箭を把り肩に銀の弓を懸たり。
 咲を含て語て云、我は是妙理大菩薩の神務輔佐の貫首、名をば小白山、別山大行事と云。
 大徳当知、聖観世音の化身也と云て隠れぬ。
 又和尚右の嶺に登給へば、一の老翁有。
 語て云、我は是妙理大菩薩の神務、静謐啓けいいつ輔弼也、名をば太已貴と云。
 蓋又西刹の教主、阿弥陀也と云て隠れ給ひぬ。
 是を白山三所権現と申也。
 峻嶺高々として、たう利たうりの雲も手に取べし、幽谷深々として風際の底も足に蹈つべし。
 効験一天に聞え利益四海に普し。
 されば木曾義仲も、眼を塞で白山を礼拝し、掌を合権現に奉帰、敬先致祈誓けり。

倶梨迦羅山事

 木曾は六動寺の国府より打上て、般若野御河端へ著にけり。
 是にて軍の談議あり。
 平家は大勢と聞、御方は無勢也、彼礪並山を越れて、松永辺、柳原、小矢部の河原へ打出なば、馳合の軍なるべし、馳合の戦の習は、必勢による事なればゆゝしき大事也、されば先、義仲倶梨伽羅山の北の麓に陣をとらんと思ふ、其故は、源氏礪並郡倶梨伽羅山の麓に陣を取ならば、平家はあは敵向たりとて、山の峠去馬場の辺に引へんずらん、其時義仲搦手へ廻澄して、追手搦手北南より押合て、平家を倶梨伽羅南谷へ攻落さんと思ふ也、去ば急馳向て陣を取んとて、信濃国住人星名党を指遣す。
 巳時ばかりに礪並山の北の麓に著て、日宮林に旗三十流打たてたり。
 倶梨伽羅山と云は加賀と越中との境也。
 嶺に一宇の伽藍あり。
 昔越大徳諸国修行し給ひしに、倶梨伽羅明王の行給ひたりしかば、其よりして此山を倶梨伽羅岳共申とか。
 越中国礪並郡の内なれば、礪並共申めり。
 谷深して山高、嶮難にして道細し、馬も人も行違ふ事不輙。

源氏軍配分事

 五月十一日に、平家十万余騎を二手に分て、礪並、志雄二の道より越中国へ打入と聞えければ、木曾乳母子の今井四郎を召て、義仲、信濃国横田河原の軍には、三千余騎にて四万余騎をも追落き、是は敵十万余騎、御方五万余騎、一人して敵二人に向、彼等は馳疲たる京家西国の駈武者也、是は在国案内の荒手也、思へば安平也、吉例に任て初は七手に分て、後は一に寄合て、揉に揉て南の谷に追落べしとて、方々手をぞわかちける。
 一手は十郎蔵人行家、足利矢田判官代義兼、楯六郎親忠、宇野弥平四郎行平、成合、落合を始として、可然者共一万余騎、志雄山の搦手へ差遣す。
 一手は根井小弥太を大将として、二千余騎、越中国住人、蟹谷二郎を案内者に付られて、鷲島を打廻、松永の西のはづれ、小耳入を透て鷲尾へ打上り、弥勒山を引廻す。
 一手は今井四郎兼平大将として二千余騎、越中国住人石黒太郎光弘、高楯二郎光延、案内者に打具して、松永の日宮林へ差遣す。
 一手は樋口次郎兼光を大将にて三千余騎、加賀国住人、林、富樫を打具して、笠野冨田を打廻、竹橋の搦手にこそ向ひけれ。
 一手は信濃国住人、余田次郎、円子小中太、諏訪三郎、小林次郎、小室太郎忠兼、同小太郎真光の大将にて三千余騎、越中国住人、宮崎太郎、向田荒次郎兄弟二人を案内者にて、安楽寺を通り、金峯坂を打上り、北黒坂を引廻し、倶梨伽羅の峠の西のはづれ、葎原へ差遣す。
 一手は巴女を大将にて一千余騎、越中国住人、水巻四郎、同小太郎を案内者にて、鷲岳下へ差向けり。
 此巴と云女は、木曾中三権頭が娘也。
 心も剛に力も強、弓矢取ても、打物取てもすくやかなり。
 荒馬乗の上手、去し養和元年、信濃国横田の軍にも向ふ。
 敵七騎討捕て、高名したりければ、何くへも召具して、一方の大将には遣しけり。
 一手は木曾、三万余騎にて小矢部河を打渡し、垣生庄に陣を取。
 勢のかさを見んとて、胡頽子木原、柳原に引隠す。
 平家は礪並山、倶梨伽羅が峯を打越て、坂を下に東へ歩せつゝ、遥に麓を見渡せば、日宮林に白旗四五十流打立たり。
 あはや源氏は寄せたるは、此山四方岩石也。
 敵左右なくよも寄じ、能登路志雄山をば指固ぬ。
 西は御方の勢也。
 東は口一方の所也。
 高嶮して道狭ければ、源氏に矢種を射尽させよとて、倶梨伽羅の堂、国見猿馬場の塔橋の辺に引へて、赤旗山々岡々に立並たれば、龍田山の秋の暮、時雨に染たる紅葉葉も、角やと覚て面白や。
 源氏の謀にも少も不違、平家引へて左右なくよせず。
 源平陣を合て二町には過ず。

新八幡願書事

 木曾は軍をば不急けり。
 先四方を屹と見渡ば、北山のはづれに当て、夏山の緑の木間より、緋玉墻風の見えて、片割造の社壇あり。
 山林高聳て、鳥居久苔むせり。
 木曾当国住人池田次郎忠康を召て、彼は何宮と申ぞ、又如何なる神を奉祝たるぞと尋給へば、答て申、八幡大菩薩を祝進せて侍るが、垣生庄にましませば、垣生新八幡と申候と云。
 木曾大に悦て、手書に大夫房覚明を召れたり。
 此僧は本は勧学院の文章博士、進士蔵人通広と云ける者也。
 出家して西乗坊信救と名をつきて、南都に便宜の物書して居たりける程に、高倉宮御謀叛の時、三井寺より南都へ牒状を越して、同心与力して宮をも奉助、仏法の破滅をも見継べしと申たりけるに、返牒を此信救に誂。
 本より家の能なれば、種々に是を書ける内に、太政入道浄海は、平家之糟糠、武家之塵芥と書たりけるを、入道安からぬ事に思て、其信救め、いかにもして打殺せよとて、内々伺ければ、南都に安堵し難して、漆を湯に沸して身に沐、はう脹はうてうして如癩人成て南都を迷出、人是を不知。
 命の惜さに離難き都を徐に見て、東国へ落下ける程に、十郎蔵人行家、平家追討の為に、東国より都へ責上て、墨俣河にて平家に被打落て、三河の国府に御座ける所に行合て、行家を憑てしか/゛\と云ければ、不便也とて湯あびせ労りなどしければ、誠の癩病ならねば、はう脹はうちやう次第に直、本の信救になる。
 行家参河の国府より伊勢太神宮へ進ける祭文も、此信救ぞ書ける。
 行家兵衛佐に中違て信濃へ越ける時、又木曾に思付にけり。
 木曾信救を改て古山法師に造成て、木曾大夫坊覚明と呼。
 白山三箇之馬場願書をも此覚明書たり。
 筆に得於自在詞に兼於徳たれば、木曾云けるは、やゝ大夫殿、幸に当国新八幡宮御宝前に近づき奉て合戦を遂んとす、今度の軍勝ん事疑なし、但且は後代の為、且は当時の祈に、願書一紙、社殿に進せばやと存ず、其相計ひ給へと云。
 覚明馬より下、木曾が前に跪て、箙の中より矢立取出し、墨和筆染畳紙、押開て古物を写が如、案にも及ばず書之。
 其状云、
帰命頂礼、八幡大菩薩、日域朝廷之本主、累世明君之嚢祚、為宝祚蒼生、改三身之金容、開三所之権扉、爰項年之間、有平相国、恣管領四海、悩乱万民、猥蔑万乗、焚焼諸寺、已是仏法之讎あだ、王法之敵也、義仲苟生弓馬之家、僅継箕裘之塵、見聞彼暴悪、不思慮、任運於天道、投身於国家、試起義兵、欲退凶器、闘戦雖両家之陣、士卒未一塵之勇之処、今於一陣旌之戦場、忽拝三所和光之社壇、機感之純熟已明、兇徒之誅戮無疑矣、降歓喜之涙、銘渇仰於肝、就中曽祖父前陸奥守義家朝臣、寄附身宗べう氏族、自名於八幡太郎以降、為其門葉者無帰敬矣、義仲為其後胤、傾頭年久、今起此大功、喩如嬰児以蛤量巨海、蟷螂取斧向奔車、然間為君為国起之、為身為私不志之至、神鑒在暗、憑哉、悦哉、伏願冥慮加威霊神合力、勝決一時、怨退四方、然則丹祈相叶冥慮、幽賢可加護者、先令一之瑞相給、仍祈誓如件。
   寿永二年五月十一日                 源義仲敬白
とぞ書たりける。
 覚明其日の装束には、褐衫の鎧直垂に、首丁頭巾して、ふし縄目の冑に、黒つ羽の征矢負て、三尺一寸の赤銅造の太刀帯、塗籠籐の弓脇に挟で、左の手に捧願書、右の手に筆を持てぞ居たりける。
 哀文武道の達者哉とぞ見えたりける。
 此願書と十三の表矢とを抜て、折節雨降ければ、蓑著たる男に蓑の下に隠し持せて、忍やかに大菩薩の社壇へ進る。
 憑哉八幡三所、誠の志の深を御納受ありけるにや、白鳩空より飛来て、白旗の上に翩翻す。
 木曾馬より覆下て、甲を脱ぎ、首を地に著て是を拝奉る。
 大将軍角しければ、兵皆下馬して同く拝之。
 平家の先陣もはるかに是を見て、身の毛竪てぞ覚ける。

砥並山合戦事

 木曾は礪並山黒坂の北の麓、垣生社八幡林より、松永、柳原を後にして、黒坂口に南に向て陣を取。
 平家は倶梨伽羅が峠、猿の馬場、塔の橋より始て、是も黒坂口に進み下て、北に向て陣を取。
 両陣相隔事五六段には不過、互に楯を突向へたり。
 木曾は勢を待得ても合戦をば不急、平家の方よりも源氏の様を守て進み戦事なし。
 時の声三箇度合て後は、両陣静返てぞありける。
 良暫有て、源氏の陣より精兵十五騎を楯の面に出して、十五の表矢の鏑を同音に射さすれば、平家も十五騎を出合て、是も十五の鏑を射返す。
 互に勝負せんと進みけれ共、陣より制して招ければ、源氏は楯の内に入。
 源氏入れば平家も同入にけり。
 とばかり有て、二十騎出して射さすれば、又二十騎を出合てあひしらふ。
 三十騎五十騎出合々々射けれ共、互に勝負はなし。
 角操日を晩して、夜に入、後の山より搦手を待て、追手搦手押寄て、南の谷へ追落さんと計けり。
 平家是をば不知して、あひしらふこそ無慙なれ。
 五月十一日の夜半にも成にけり。
 五月の空の癖なれば、月朧に照す月影、夏山の木下暗き細道に、源平互に見え分ず。
 平家は夜討もこそあれ、打解寝べからずと催けれ共、下疲たる武者なれば、冑の袖を片敷、甲の鉢を枕とせり。
 源氏は追手搦手様々用意したりける中に、樋口次郎兼光は搦手に廻たりけるが、三千余騎、其中に、太鼓、法螺貝、千ばかりこそ籠たりけれ。
 木曾は、追手に寄けるが、牛四五百疋取集て、角に続松結付て、夜の深るをぞ相待ける。
 去程に樋口次郎、林富樫を打具して中山を打上、葎原へ押寄せたり。
 根井小弥太二千余騎、今井四郎二千余騎、小室太郎三千余騎、巴女一千余騎、五手が一手に寄合せ、一万余騎、北黒坂南黒坂引廻し、時を作、太鼓を打、法螺を吹、木本萱本を打はためき、蟇目鏑を射上てとゞめき懸たれば、山彦答て幾千万の勢共覚えざりけるに、木曾すはや搦手は廻しける、時を合せよとて、四五百頭の牛の角に松明を燃して平家の陣に追入つゝ、胡頽子木原、柳原、上野辺に引へたる軍兵三万余騎、時の声を合をめき叫、黒坂表へ押寄る。
 前後四万余騎が時の声、山も崩岩も摧らんと夥し。
 道は狭し山は高し、我先々々と進む兵は多し、馬には人人には馬共に厭に押れて、矢をはげ弓を引に及ばず、打物は鞘はづし兼たり。
 追手は搦手に押合せんと責上。
 搦手は追手と一にならんとをめき叫ぶ。
 平家は両方の中に被取籠たり。
 軍は明日ぞあらんずらんと取延て思ひける上、如法夜半の事なるに、俄に時を造懸たれば、こは如何せんと、東西を失ひ周章騒、弓取者は矢をとらず、矢をば負共弓を忘、冑を著て甲をきず、太刀一には二人三人取付、弓一張には四五人つかみ付けり。
 馬には逆に乗て、後へあがかせ、或は長刀を逆に突て、自足を突切て立あがらざる者も有ければ、蹈殺され蹴殺さるゝ類多し。
 主の馬を取ては主を忘れ、親の物具を著ては親を顧ず、唯我先々々にと諍へ共、西は搦手也、東は追手也、北は岩石高して上るべき様なし。
 南は深き谷也、下すべき便なし。
 暗さはくらし案内は不知、如何すべきかと方角を失へり。
 此山は左右は極て悪所也、後は加賀御方也、三方は心安思つるに、後陣より敵のよせける危しさよと思ひければ、只云事とては、打破て加賀国へ引や者共々々と呼けれ共、搦手雲霞の如くなり、追手上が上に責重ければ、先陣後陣に押あまされて、道より南の谷へ下る。
 爰に不思議ぞ有ける。
 白装束したる人三十騎ばかり、南黒坂の谷へ向て、落せ、殿原あやまちすな/\とて、深谷へこそ打入けれ。
 平家是を見て五百余騎連て落したりければ、後陣の大勢是を見て、落足がよければこそ先陣も引返ざるらめとて、不劣々々と、父落せば子も落す、主落せば郎等も落す。
 馬には人々には馬、上が上に馳重て、平家一万八千余騎、十余丈の倶梨伽羅が谷をぞ馳埋ける。
 適谷を遁者は、兵杖を不免、兵杖を遁る者は、皆深谷へこそ落入けれ。
 前に落す者は、今落す者に蹈殺され、今落す者は後に落す者に被押殺
 加様にしては死けれ共、大勢の傾立ぬる習にて、敵と組で死んと云者は一人もなし。
 去程に夜明日出る程に成にけり。
 参川守知度は、赤地錦の直垂に、紫すそごの冑に、黒鹿毛なる馬に乗て、西の山の麓を北に向て、五十余騎を相具して、声をあげ、鞭を打て、敵の中へ懸入ければ、右兵衛佐為盛、魚綾の直垂に萌黄匂冑に、連銭葦毛の馬に乗て、同連て蒐入けり。
 此両人、倶に、容貌優美也ける上、冑毛直垂の色、日の光に映じて耀計に見えければ、義仲是を見て、今度の大将軍と覚たり、余すな者共とて、紺地の錦直垂に、黒糸威の冑に、黒き馬にぞ乗たりける。
 眉の毛逆に上りて、目の尻悉にさけたり。
 其体等倫に異也。
 二百余騎を率して、北の山の上より落し合て押囲み、取籠て戦けり。
 知度朝臣は馬を射させてはねければ、下立たりけるを、岡田冠者親義落合たり。
 知度太刀を抜て甲の鉢を打たりければ、甲ぬけて落にけり。
 二の太刀に頸を打落てけり。
 同太郎重義続いて落重る。
 知度朝臣の随兵二十余騎、おり重て彼を討せじと中にへだたらんとす。
 親義が郎等三十余騎、重義を助んとて、落合つゝ互に戦けり。
 太刀の打違る音耳を驚し、火の出る事電光に似たり。
 爰にてぞ源平両氏の兵、数を尽て討れにけり。
 知度朝臣は難遁かりければ、冑の引合切捨つゝ、自害して伏にけり。
 兵衛佐為盛は岡田小次郎久義に組んで、木曾が郎等樋口兼光に頸を取られたり。
 伊勢国住人、館太郎貞康、八十余騎にて扣たり。
 貞康が叔父小坂三郎宗綱と云者あり、名を得たる兵也。
 貞康に申けるは、前陣は已に敗れ、後陣は又囲れぬ。
 宗綱齢已に七旬、命旦暮にあり、戦て死るは兵の法也と云ければ、貞康答けるは、今度の合戦、官軍は十万余騎逆徒は五万騎、而に軍を敗れて、生て帰て、面を人に守られん事、恥の中の辱也、今示給趣日来の本意也とて、三箇度時を作て、伊勢国住人館太郎貞康と名乗、敵の中に懸入、宗綱を始として八十余騎の輩、懸並べ/\組で落指違てぞ死にける。
 貞康は大見七郎光能に組で互に討れにけり。
 八十余人の輩、敵を得ぬはなかりけり。
 源氏の兵、貞康が党にぞ多く討れにける。
 抑倶梨伽羅が谷と云は、黒坂山の峠、猿の馬場の東にあり。
 其谷の中心に十余丈の岩滝あり、千歳が滝と云。
 彼滝の左右の岸より、杼の木多く生たり。
 谷深して梢高し。
 其木半過る程こそ、馳埋たれ。
 澗河血を流し死骸岡をなせり。
 無慚と云も愚也。
 されば彼谷の辺には、矢尻古刀、甲の鉢鎧の実、岸の傍木の本に残、枯骨谷に充満て今の世までも有と聞。
 さてこそ異名には地獄谷共名け、又馳籠の谷共申なれ。
 三十人計の白装束と見えけるは、垣生新八幡の御計にやと、後にぞ思ひ合せける。
 木曾は平家追落し、黒坂の峠に弓杖突、除甲に成て控へたり。
 平家馳重て亡たる、倶梨伽羅が谷を見れば、火焔俄に燃上る。
 木曾大に驚て使を遣して是を見るに、御神宝立て、金剣宮と顕たり。
 使者帰て角と申せば、誠に願書の験にやと、感涙押へ難して馬より下、三度拝して宣けるは、今度の軍全義仲が力に非ず、偏に白山権現の御計にて平家は亡びにけり。
 後も亦憑もしくこそ御悦申べしとて、鞍置馬二十匹に手綱打懸々々、金剣宮へぞ送られける。
 其上猶霊験を貴で、林六郎光明が所願、横江庄をぞ寄られける。
 金剣宮と申は、白山七社の内、妙理権現の第一の王子に御座。
 本地は倶梨伽羅不動明王也。
 守国土魔民とて、弘仁十四年に此砌に跡を垂。
 平家已に仏法王法の怨敵也ければ、神明合力給へりと云事掲焉也。
 十郎蔵人行家は、志雄の軍負色に見えければ、越中前司盛俊勝に乗て攻戦ふ程に、木曾礪並山を打破り、四万余騎を引率して志雄へ向と聞えければ、追手破れなん上は力なしとて、盛俊此より引返す。
 平家は礪並山を落されて、加賀国宮腰佐良岳の浜に陣を取、旗を上よとて佐良岳山に赤旗少々指上たり。
 谷々に被討残たる兵共、五騎六騎十騎二十騎馳集り、盛俊も軍兵引率して参たれば、程なく大勢に成にけり。
 源氏は左右なく追懸ず、押違へて陸地に懸りて、加賀国平岳野の、木立林に陣を取て白旗を挙たり。
 源平両陣に白旗赤旗立たれ共、霞を阻て遥也。
 五月二十五日の事也。
 源平互に馬に草飼、兵粮つかひなんどして有ける程に、源氏の草刈をば平家搦捕、平家の草刈をば源氏搦捕、互に軍の僉議を問けり。
 平家は源氏の草刈三人搦捕て軍の謀を問。
 下﨟なれ共相撲は我方とて、跡形なき事共申して、平家を威して申けるは、源氏は夜に入て寄らるべきとて、内々はひしめかれ候つる也と申。
 やをれ加程に雨降風吹て、闇き夜半には、如何にとして寄べきぞ、謀をば何と構たるぞと問ければ、あの東に見え候森を木立林と申、中に一の板堂あり、彼を壊てなんば平足駄と云物に造て、続松を拵へ、直路に懸りて、押寄て、夜討にせんとこそひしめき侍つれ、加様に雨風の事をば如何せんと申人も候つるを、夜討と云は思懸なき時こそよけれ、敵の存じたらんはゆゝしき大事也、是は然べき折節なんど評定候つる也、御用心有べきにて候と云。
 平家此事を聞て騒あへり。
 三位中将仰けるは、成合の手にかゝりて、安宅の渡の橋を引て、閑に源氏を待べかりつる者をと宣へば、侍共心弱く思て、我先々々にと、藤塚、今湊、安宅を指てぞ落行ける。
 係ければ三位中将も落給ひにけり。
 五月廿五日の夜半也、さらぬだに五月の空はいぶせきに、降雨は車軸の如く、吹風は浜の沙を挙て、岸打波に驚ては敵の寄るかと疑はれ、松吹風を聞ては時の声かとあやまたる。
 甲冑もしをれつゝ、駒に任て行程に、小川大行事の洪水に、先陣流るれども後陣不之、後陣沈め共先陣不之、弱馬疲たる人なれば、其夜の中に一千余騎、水に溺れて失にけり。
 無慙と云も疎也。
 明れば二十六日、安宅の湊に著集る。
 橋引掻楯をかき陣を取。
 爰にて日数を経る間に、或は水に流れたる兄弟、或は敵に討れたる一族、永き別を歎きつゝ、悲の涙を流しける。

平家落上所々軍事
 六月一日は、源氏倶梨伽羅志雄山、追手搦手の大将軍一に成、五万余騎引具して安宅の渡に押寄たり。
 平家橋を引たり、水は濁て底見えず。
 源氏も左右なく不渡して、北の耳に引へたり。
 越中国住人、石黒、宮崎申けるは、我等先に城構て待し時は、平家は渚をこそ渡て候しかば、以案内者渚の瀬踏をして御覧候へかしと申ければ、木曾は加賀国住人林六郎を召て、汝は当国住人也、河の案内知たるらん、瀬歩仕れと仰ける。
 光明仰承て、能馬十匹汰へ、手綱結懸て追入たり。
 鞍爪力革をば過ざりけり。
 木曾、河は浅かりけり。
 渡せ者共者共と下知しければ、信濃には、今井、樋口、楯、根井、宇野、望月、諏方上下、越中には、石黒、宮崎、向田、水巻、南保、高楯、福田、賀茂島等、加賀国には、林、富樫、下田、倉光等五百余騎、曳音出して打浸々々さと渡し、南の陸に引へたり。
 瀬踏の馬共、平家の陣に馳入たりければ、源氏が落るやらん、鞍置馬共迷ひ来れり、我取てのらん/\と面々に追歩。
 畠山庄司重能、小山田別当有重申けるは、是は落人の馬には非ず、河の瀬蹈の馬なるべし、敵は既に近付たるにこそ、重能有重見て参らんとて、兄弟二人、三百余騎を引具して、安宅港に進処に、如案河の南のはたに兵多く引へたり。
 畠山は平家へ使者を立、源氏は已に湊を渡して候、先陣は重能仕候べし、若き人々に軍よくせよと仰べしとぞ申ける。
 木曾樋口を召て、爰に赤旗三流四流指上たるは、誰なるらんと問へば、此は武蔵の畠山と覚候と申。
 何として見知たるぞと問へば、兼光は武蔵へ時々越候し間、畠山の旗をば見知て候と申。
 此勢何程有らんと問。
 三百騎は候らんと。
 木曾宣けるは、東国には畠山こそ棟人の者よ、高見王より八代後胤、村岡五郎重門より四代孫、能敵ぞ、是は馳合の軍なるべし、敵も御方も一手々々押寄せ/\戦べし。
 先畠山には兼光、先陣仕れと下知すれば、承候ぬとて、一番樋口次郎兼光百五十騎、元来約束の事也、平家の二人源氏の一人を宛たれば、畠山が三百騎に、樋口が百五十騎を相具して、押寄たり。
 畠山は軍構ぞしたりける。
 鶴翼の軍とて鶴の羽をひろげたるが如くに、勢をあばらに立広て、小勢を中に取籠る支度也。
 樋口は魚鱗の戦とて、先細に中太に、魚の鱗を並たる様に、馬の鼻を立並ぶ。
 畠山が三百騎、樋口が百五十騎をくるりと巻籠たれば、兼光が小勢、重能が大勢を、さと打破て出、出れば巻れ、巻ては出ぬ、籠ては散ぬ、散ては籠ぬ、討つ討れぬ、五六度までこそ戦けれ。
 畠山が勢二百騎討れて、百騎に成ぬ。
 樋口が勢百騎討れて、五十騎になる。
 其後両方さと引。
 二番上総守忠清、五百騎にて推寄たり。
 今井四郎兼平、二百五十騎にて出合たり。
 寄つ返つ、追つ追れつ、暫戦て引退。
 三番飛騨守景家、千騎にて向たり。
 楯六郎親忠、五百騎にて寄合す。
 弓矢を以て勝負する者もあり、太刀打して死する者も有、引組で腰の刀にて亡も在、暫戦て両方さと引退。
 四番越中前司盛俊、二千余騎にて蒐出たり。
 落合五郎兼行、千余騎にて寄懸たり。
 或百騎或十騎入組入組、集ては散、散ては集り、一時戦て引退。
 五番越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛尉忠光、二千騎にて進出でたり。
 水巻、石黒、林、富樫、佐見、一門、千騎にて、寄合す。
 懸れば引、引ては懸、射も有、伐も在、退も有、進も在、組組れぬ、互に命も惜まず身も資けず、是を最後と戦て引退。
 六番飛騨太郎左衛門景高、五百騎にて懸出たり。
 信濃国住人、根井小弥太行近、二百五十騎にて押合す。
 互に追つ返つ、五六度まで戦けるに、景高が勢、三百騎討れて二百騎になる。
 行近が勢百騎になる。
 猶退かず戦に、景高が勢百騎になり、行近が勢五十騎に成。
 猶不退戦けり。
 景高が勢十五騎に成、行近が勢七騎に成。
 源平目を澄してぞ見たりける。
 尚不退死生不知に戦けるが、後には行近景高只二人にぞ成にける。
 行近十四束を取番ひ、能引て放ける矢に、景高が馬の腹射させて駻落さる。
 行近馬より飛下て、太刀を抜て打て懸る。
 景高大音揚て云けるは、骨をば苔の下に埋共、名をば後代に伝ぬべし、人なよせそ、勝負は二人と云ければ、行近子細なきとて切合たり。
 両人は好処なれば、源平人をば不寄けり。
 打と切ばはたと合せ、はたと切れば丁と合す。
 一時が程戦けるに、景高脛巾金より太刀打折て白砂に落。
 行近云けるは、爰を切べき事なれ共、互に組で勝負也とて、太刀を捨てぞ組だりける。
 根井は四十計の男也。
 景高は二十五也。
 上に成下になり、弓手へころび、妻手へころぶ。
 根井終に上に成、景高を押へて切られにけり。
 敵も味方も惜みつゝ、各涙を流しけり。
 七番権亮三位中将維盛已下、宗徒の大将一味同心に三万余騎馳出たり。
 木曾亦轡並て押合て、互に指詰々々射るも在、馳合々々切るも在、馬は足を休る時もなく、人は手から助くる隙を失へり。
 角て安宅の城にて、暫し支て戦けれ共、平家負軍に成ければ引て落。
 源氏勝に乗て続て追。
 長並、一松、成合までぞ責付たる。
 自先立者こそ助りけれ共、返合る者の遁はなし。
 成合にて平家返合て暫し戦、両陣乱合て、白旗赤旗相交、天に翻る事夥し。
 馬〔の〕馳違音、矢叫の声、雲も響地も動らんと覚えたり。
 蹴立のほこり空に充満て、朝霧の立が如く也。
俣野五郎並長綱亡事

 平家の陣より武者一人進出て云けるは、去治承の比、石橋にして右兵衛佐殿と合戦したりし鎌倉権五郎景正が末葉、大場三郎景親が舎弟、俣野五郎景尚と名乗て、竪ざま横ざま、敵も不嫌散々に戦けり。
 木曾は恥ある敵ぞ、あますなと云ければ、我も/\と蒐籠たり。
 景尚向者共十三騎討捕て、痛手負ければ、馬より飛下、腹掻切て臥にけり。
 平家の侍に高橋判官長綱は、練色の魚綾の直垂に、黒糸威の鎧著て鹿毛なる馬に乗、只一騎返合て、成合池の北渚に、馬の頭、浜の方に打向て引へたり。
 可然者あらば、押並て組ばやとぞ伺ひ見ける。
 源氏の方に越中国住人、宮崎太郎が嫡子、入善小太郎安家は、赤革威の鎧に、白星の甲著て、糟毛なる馬に金覆輪の鞍置て、只一騎引へたり。
 是も平家の方に可然者あらば、押並て組んとの志也。
 成合の池の北渚に、武者の一騎あるを心にくく思ひて打寄て、爰にましますは敵か御方か誰と問。
 平家の侍に高橋判官長綱、角云は誰。
 越中国住人入善小太郎安家、生年十七歳と名乗もはてず、押並て組で落、始は上に成下になりころびけれ共、流石安家は二十に足ぬ若武者也、高橋は老すげたる大力也ければ、終には入善下に成を、おさへて頸をかゝんとする処に、高橋腰の刀を落したりける。
 為方なくして、暫し押へて踉ゆけり。
 此に入善が伯父に、南保次郎家隆と云者あり。
 此軍に打立ける時、入善が父宮崎太郎、弟の南保に語けるは、安家は未幼弱なる上、今度は初たる軍也、相構て見捨給なと云ければ、然べしとて出たりけるが、相具せんとて数万騎が中を尋れ共見えず。
 南保音を揚て、入善小太郎/\と呼で、両陣の中を通けるに、小音にて、安家敵にくみたり、角尋給ふは南保殿かよと云。
 家隆馬より飛下て腰刀を抜、長綱が鎧の草摺引上て、柄も拳もとほれ/\と二刀刺、甲のてへんに手を入て引仰て切頸、左の手には持頸、右の手にて入善を引上て、如何誤ありや、軍は後陣を憑み、乗替郎等を相待てこそ、敵には組事なるに、若者一人立あやまりし給はんとて、去ながら神妙々々と云処に、入善隙を伺、南保が持たる首を奪取て逃走、木曾が前に行向ふ。
 南保も続て馳参申けるは、長綱が首をば、家隆捕たりと申。
 入善は我取たりと論ず。
 南保重て申けるは、入善高橋に組で既危候つるを、家隆落合て、入善を助けて、高橋が頸をば取たりと申。
 入善陳じ申けるは、安家高橋に組で、上に成下に成候つる程に、高橋が弱処を、高名がほに南保傍より取て候、家隆全く不取、安家が今日の得分にて候つる者也と申ければ、木曾は、入善くむ事なくば南保頸を不捕、落合事なくば、入善実に難遁、両方共に神妙也とて、高橋が頸をば南保に付、入善には別の勲功を行はる。

妹尾並斉明被虜事

 源氏方より、加賀国住人、倉光三郎成澄、二十余騎にて攻懸たり。
 平家の方より備中国住人妹尾太郎兼康、是も廿余騎にてをめきて出。
 妹尾、倉光馳並て組で落。
 是も上に成下に成、持起しつ押付つ、互に勝負不見けるに、妹尾が郎等落あはんと進む処に、倉光が郎等主を討せじとて、命を捨て懸ければ、蒐立られて落る処に、兼康は倉光に虜れにけり。
 平泉寺の長吏斉明は、随分平家に忠を尽し、燧城を落したりけるが、殊に気色して今日を晴と出立つゝ、門徒の悪僧相具して、五騎にて傍若無人に馳出たり。
 木曾云けるは、自余の兵は逃ば逃す共、斉明あますな若者共、同は生捕にせよ若者共と、下知しければ、岡本次郎成時、是も主従五騎にて歩せ出して、郎等共に、山寺法師思ふにさこそあらんずらめ、斉明は我得分ぞ目をかくな、四騎の武者を打払へと云ければ、四人の郎等、四人の法師武者を追払ふ。
 其間に斉明と成時と、押並て組て落。
 兎角操り本意に任て、斉明をこそ生取けれ。

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