留巻 第十一
有王俊寛問答事

 有王申けるは、姫御前は、奈良の姨御前の御許に御渡と承て、参て、此島へ思立候、御言伝やと申入て候しかば、端近出させ給たまひ、不なのめならず御悦有て、哀女の身程無甲斐事はあらじ、我身も父の恋しさは、己にや劣るべき、可類方なし、可思立道ならねば力なし、さても多人の中に一人思立らん嬉さよ、平らかに参著たらば進せよとて御文あり。
 御詞には、替ぬる世の恨に筆の立所も覚侍らず、泣々なくなく申候へば、文字もさだかならず、御覧じ悪こそ渡らせ給はんずらめ、御返事おんへんじをも待見進せば、いか計かはと申せとこそ仰候しか。
 昔ならば角直に承べしやと、哀に思進て、落涙を押つゝ、奈良を出て罷下し程ほどに、門司赤間の関より始て、硫黄島へ渡ると申者をば怪、文などや持たると求捜と承しかば、御文をば本結の中に結び籠て、難有して持て参たりとて、取出して奉之。
 僧都そうづは悲さの中にも、嬉く珍く思て、涙を押拭押拭披見給へば、其後便なき孤子と成果て、御向後をも承便もなし、身の有様ありさまをも知られ進せず、いぶせさのみ積れども、世中かきくらして晴心地なく侍り。
 さても三人同咎とて、一つ島に移されけるに、二人は被免に、などや御身一人残留給らんと、人しれぬ歎唯思召おぼしめしやらせ給へ。
 人々島へ被流給たまひて後、其ゆかりの者をば尋求て、手足を損じて責問べしなど聞え侍しかば、召仕し者共も、遠国々へ落失て、旧里に一人も留らざれば、都には草のゆかりも枯はてて、立紛べき方もなく、哀糸惜と事問人もなし。
 君達も可召捕など聞えしかば、母御前弟我身三人引具して、幽なる便に付て、鞍馬の奥とかやへ迷入、日影も見えぬ山里に、住も習はぬ柴の庵に、忍居て候し程に、朝夕は御事をのみ歎給しに、打副稚身々の向後いかにせんと、隙なき御物思の積にや、病と成せ給たりしかば、弟と二人、とかく労り慰進せしか共、不叶して空見成進せぬ。
 生ての別死の別れ為方なければ、二人歎暮し泣明し侍し程に、又弟も疱瘡とかや申労をして、今年の五月に身罷侍り。
 同道にと歎しか共、はかなき露の命と云ながら、消もやらで、強面今までは草の庵に残留て侍れば、憂事も悲事も可思召おぼしめし、拙果報の程こそ、宿世の身のつとめ辱く思侍れ。
 故母御前御労の時、我死なば誰をか便と憑御座おはしますべき、奈良の里に姨母と云人御座おはします、尋行き打歎かば、去共憐給はんずらんと仰候しを承置て、当時は奈良の姨母御前の御許に侍り。
 疎なるべき事にはあらねど〔も〕、幽なる住居推量給へ。
 さても此三年迄、いかに御心強く有とも無とも承ざるらん。
 母御前にも弟にも後れて憑方なし、誰に預何にせよと思召おぼしめすにか、疾して御上候へ。
 恋し共恋し床し共床し。
 三年の思歎水茎に難尽侍れば留候ぬ。
 穴賢穴賢と裏書端書滋く薄く、みだし書にぞしたりける。
 僧都そうづは此文を見て、巻つ披つ泣悲て云けるは、俊寛が此の島へ流されし年は、姫は十に成しかば、今年は十二と覚ゆ。
 文は詞もおとなしく、筆の立所も尋常也。
 去共切継たるやうに、とくして上れ自ら申さんと書たるこそ流石さすが稚けれ。
 心に任たる道ならば、なじかは暫もやすらふべき、墓なき物の書様やとて、声も惜まずをめき給ふ。
 やをれ有王、此島の形勢ありさまにて、今まで俊寛が命の有けるは、姫が文をも待見、又汝が志の切也けるに、今一度見せんとて、神明の御助にて有けるにこそ、己一人を見たれば、都の人々を皆見たる心地こそすれ、係る貌なれ共、見えぬれば三年の思ひも晴ぬ、今は疾々帰上、僧都そうづには人も不付しに、京より下て訪など聞えん事も恐ありと宣へば、有王申けるは、穴うたての御心や、是程の御有様おんありさまにて世も恐しく命も惜思召おぼしめし候か、御身のゆるき、御詞のいづれは人とや思召おぼしめし、唯なましき骸骨の動かせ給たまひ候とこそ見進候へと申ければ、僧都そうづ我身は云に及ず、志深き己さへ、我故に此島にて、朽ん事の悲にこそと宣へば、有王涙を流し、老たる母をも捨て、兄弟にも角とも不申、はる/゛\と参侍し事は、命を君に奉り、身を海底に沈めんと思定て候き。
 一度都にて捨て侍命を、二度此島にて可惜かと申ければ、僧都そうづ打うなづきて、嬉しげにて、いざさらば我夜の臥所へとて具して行く。
 住給ふ所を見れば、巌二が迫に、竹そ木の枝を取渡し、寄来藻くづを取係たり。
 雨露のたまるべき様もなし。
 僧都そうづ一人入給ぬれば、腰より下は外にありて、内には又所もなし。
 有王はあらはにぞ居たりける。
 穴心憂の御住居おんすまひや、今は申て甲斐なき事なれども、京極の御宿所、白川の御坊中、鹿谷御山庄まで、塵もつけじとこそ瑩立させ給しに、何と習はせる人の身なれば、懸る住居にも御座おはしましける事よ、京童部きやうわらんべが築地の腹などに造りたる、犬の家には猶劣れる物ぞやとて口説泣。
 京より菓子少々用意して持たりけるを、取出て奉勧。
 僧都そうづ思けるは、此等を食たり共、ながらふべきに命に非ず、中々由なけれ共、都より我為にとて、遥々はるばる持下たる志を失て、打捨ん事も無念也と覚して、食やうにして宣のたまひけるは、此等は指も味もよかりし上、世に珍けれども、余に疲衰たる故にや、喉乾口損じて、気味も皆忘にけりとて、指置給けるぞ糸惜き。
 有王申しけるは、是程の御有様おんありさまにては、日比ひごろは何として、今迄もながらへさせ給けるぞと問ければ、僧都そうづは其事也、三人被流たりしに、丹波たんばの少将せうしやうの相節とて、舅門脇かどわきの宰相さいしやうの許より、一年に二度舟を渡しし也。
 春は秋冬の料を渡し、秋は春夏の料にとて渡しを、少将心様よき人にて、同島に流され、同所に有ながら、我一人生て、まのあたり各を無人と見ん事も口惜かるべし。
 三人あればこそ互に便ともなり、又なぐさめとて、一人が食物を三人に省、一人の衣裳の新きをば我身に著、古をば二人に著せつゝ、兎角育し程は、人の体にて有しか共、去年此人々還り上て其後は事問者もなく、情を懸る人もなければ、遉が甲斐なき命の惜ければ、此人々の都にて申くつろげんなんど云しを憑みて、力の有し程は島の者のするを見習て、此山の峯に登て、硫黄を取て、商人の舟の著たるにとらせて、如形代を得て日を送り、命を継しか共、力弱り身衰て後は、山に登事も不叶、硫黄を取事も力尽ぬ。
 さてもあられで、沢辺の根芹をつみ、野辺の蕨を折て、さびしさを慰しも、叶はぬ様に成果て、今はする方もなければ、浪たゝぬ日は磯に出て、岩の苔をむしりて、潮に洗て食物とし、汀みぎはに寄たる海松和布を取、和なる所をかみて、明し暮す、何を期する事はなけれ共、責ての命のをしさに、網引者に向ては、手を合て魚を乞ひ、釣する海人に歎ては膝を折て肉を貪る、得たる時は慰む、くれざる日は空く臥ぬ。
 角しつゝ一日二日とする程に、早四箇年にも成にれり。
 さて生たる甲斐有て、己を見つる嬉さよ、若此事夢ならば、覚て後はいかゞせんと、しゃ噎しやくりもし敢ず泣語給けり。
 有王つら/\と聞之、涙の乾間ぞなかりける。
 僧都そうづ又宣のたまひけるは、俊寛は懸罪深者なれば、業にせめられて、今幾ほどか存ぜんずらん、己さへ此島にて、歎事も不便也、疾々帰上と云れければ、有王尋参侍程にては、十年五年と申とも、其期を見終進侍るべし、努々御痛有べからず、但御有様おんありさま久かるべし共不覚、最後を見終奉らん程は、是にして兎も角かくも労進すべしとて、僧都そうづに被教、峯に登ては硫黄を堀て商人に売り、浦に出ては魚を乞て執行を養ふ。
 係けれども、日来の疲も等閑ならず、月日の重るに随て、いとゞ憑なく見えけるが、明年の正月十日比とをかごろより打臥給たまひぬ。
 有王は今は最後と思て立離ず看病して、兼て賢くも善知識して申けるは、再都へ帰上給はざる事、努々御妄念に思召おぼしめすべからず、北方も若君も、空き露と消させ給ぬ、姫君は奈良に御座おはしませば、御心安おんこころやすかるべし、唯娑婆の定なき有様ありさまを思知給ふべし。
 仮令妻子を跡枕に居置奉、古き都にして終給とも、住馴し境界は御名残おんなごり惜思召おぼしめすべし、依これによつて衆生無始より生死にめぐりて三界を不出とこそ承り候へ、富貴ふつき栄花も終には衰、御身に宛て可知、長命と云共必死す、昔より形を残す者なし、されば今は一筋に、今生を穢土の終と思召おぼしめし切て、当来には必浄土じやうどへ参らんと、心強願御座おはしますべし、無益の妄念を残して、心憂き境に廻給べからず、四五箇年の流罪猶以難忍、無量億却の悪趣、出期を不知といへり。
 今度厭給はずは、いつをか期給べきなど、種々教訓申ければ、僧都そうづ息の下に、二人は被召還、俊寛一人留し上は、思切てこそ有しか共、凡夫の習なれば、折々には去共と憑む心も在き、其云甲斐なし。
 己角理を以て云教れば思切ぬ。
 昔は召仕し所従、今は可然善知識也。
 権化の善巧歟大聖の方便歟、誠に此世の中の習、強に都へ帰ても何にかはせん、玉の簾、錦の帳も、万歳の粧にあらず、尤可厭、金台銀階、千秋の粧にあらざれば無由、其上不入息出息、身なれば、朝露の日に向ふよりも危し。
 生死不定の命なれば、蜉蝣の夕べを待よりも短し。
 殊に此二三年は、歎を以て月日を運、齢傾勢衰て、悲を以て星霜を送つ、危寿に病付ぬ、浮雲の仮宿とは知ながら、墓無く我身を起て、帰洛を待き、草露の英なる命と思ながら、愚に常見を成て怨念を含、終には是山川の土なれども、捨難は血肉の身也、思へば又野外の土なれども、欲惜分段の膚也、碧緑の紺青の髪筋も、遂には塚際の芝に纏、荘厳端直柔和の姿も、亦路辺の骸骨也、尤可厭、争か悲ざらん。
 蘭香の家も未無常の悲を免れず、桜梅の宿も猶生死の別には迷へり、況や俊寛が有様ありさま、今日とも明日とも不知身なれば、過去の修因今生の現果、拙かりける我かなと、所従なれ共恥し。
 されば肝心を砕ても骨肉を捨ても、求べきは菩提薩埵さつたの行、血髄を屠身体を抛ても、望べきは安養浄土じやうどの境也。
 徒に身を野外に捨んよりは、同は覚悟の仏道に捨べし。
 空く心を苦海に沈めんよりは、須迷津の船筏を儲べし。
 而を身命を雪山に投じ、半偈の文眼に宛たれども如見、給仕を千歳に運し一乗いちじようの説、掌に把とも似取、悲哉無上の仏種をはらみながら、無始無終の凡夫たる事を、痛哉、二空の満月を備ながら、生死長夜の迷情たる事を、凡此島に放るゝ初には、思に沈て岩の迫に倒臥て、今生の祈も後生の勤もなかりしか共、丹波たんばの少将せうしやうも、康頼入道も、帰洛の後は、毎日に法華経ほけきやう一部を暗誦し、よもすがら弥陀念仏を唱て、一筋に後世の為と廻向して今に不怠、夫来迎の金蓮には、貴も賤きも倶に乗弘誓の船筏には、富るも貧をも渡し給と聞ば憑あり。
 又妙法の二字には、諸法実相の理を兼、蓮華の両字には、権実本迹の義を含り、誠に貴御法也。
 昼誦夜唱る功徳、去ども後世は覚ゆれば、唯汝も念仏を勧よ、我も名号を唱んとて、明れば仏の来迎を待て、暮れば最後の近を悦で、日数をふる程に、次第に弱て云事も聞えず、息止眼閉にけり。
 寂々たる臥戸に、泪泉に咽べども、巴峡秋深ければ、嶺猿のみ叫けり。
 閑々しづしづたる渓谷に思歎に沈ども、青嵐峯にそよいで、皓月のみぞ冷じき。
 白雲山を帯て、人煙を隔たれば、訪来人もなし。
 蒼苔露深して、洞門に滋れども、憐思者もなし。
 童只一人営つゝ、燃藻の煙たぐへてけり。
 荼毘事終てければ、骨を拾て頸に掛、涙に咽て遥々はるばると都へ帰上にけり。
 奈良の姫君に奉見ければ、悶焦て泣悲事不なのめならず、さこそ有けめと想像れて無慙也。
 童申けるは、御文を御覧じてこそ御歎の色もまさる様に見えさせ給たまひしか、硯も紙もなかりしかば御返事おんへんじは候はず、思召おぼしめされし御心中、さながら空く止にきとて、恨事の次第細々と申ければ、姫君涙に咽て物も不仰。
 出家の志有と仰ければ、有王丸兎角して、高野の麓天野の別所と云山寺へ奉具、其にて出家し給にけり。
 真言の行者と成て、父母の菩提を弔給たまひけるこそ糸惜けれ。
 有王も其より高野山に登、奥院に主の骨を納卒都婆を立、即出家入道して、同後世を弔ひけり。
 方士は貴妃を蓬莱宮に尋、金言は厳父を狄が城に尋けり。
 彼は恩愛の情に催され、王命の背難によて也。
 主を硫黄島に尋ねける、有王が志こそ哀なれ。

小松殿こまつどの夢同熊野詣事

 治承三年三月の比、小松内府夢見給けるは、伊豆国いづのくに三島大明神だいみやうじんへ詣給たりけるに、橋を渡て門の内へ入給ふに、門よりは外右の脇に、法師の頭を切かけて、金の鎖を以て大なる木を掘立て、三つ〔の〕鼻綱につなぎ付たり。
 大臣思給けるは、都にて聞しには、二所三島と申て、さしも物忌し給たまひて、死人に近付たる者をだにも、日数を隔て参るとこそ聞しに、不思議也と覚て、御宝殿の御前に参て見給へば、人多居並たり。
 其中に宿老しゆくらうと覚しき人に問給やうは、門前に係りたるは、いかなる者の首にて侍ぞ、又此明神は死人をば忌給はずやと宣へば、僧答て云、あれは当時の将軍、平家太政だいじやう入道にふだうと云者の頸也。
 当国の流人、源兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりとも、此社に参て、千夜通夜して祈申旨ありき。
 其御納受ごなふじゆに依て、備前国吉備津宮に仰て、入道を討してかけたる首也と見て夢さめ給ぬ。
 恐し浅猿あさましと思召おぼしめし、胸騒心迷して、身体に汗流て、此一門の滅びんずるにやと、心細く思給ける処に、妹尾せのをの太郎たらう兼康かねやす、折節をりふし六波羅に臥たりけるが、夜半計に小松殿こまつどのに参て案内を申入、大臣奇と覚しけり。
 夜中の参上不審也、若我見つる夢などを見て、驚語らんとて来たるにやと、御前に被召何事ぞと尋給へば、兼康かねやす畏て夢物語ゆめものがたり申、大臣の見給へる夢に少しも不違、さればこそと涙ぐみ給たまひて、よし/\妄想にこそ、加様の事披露に不及誡宣のたまひけり。
 懸ければ一門の後栄憑なし、今生の諸事思ひ捨て、偏ひとへに後生の事を祈申さんとぞ思立給ける。
 同年五月に、小松大臣宿願也とて、公達引具し奉り熊野参詣あり。
 精進日数を重つゝ、本宮に著給たまひて、証誠殿の御前に再拝し啓白せられけるは、帰命頂礼きみやうちやうらい大慈大悲証誠権現、白衣はくえ弟子平重盛しげもり驚奉、申入心中の旨趣を聞召入きこしめしいれしめ給へ、父相国禅門しやうこくぜんもんの体、悪逆無道あくぎやくぶだうにして動すれば君を悩し奉る、重盛しげもり其長子として頻しきりに諌を致と云共、身不肖にして不敢服膺、其振舞を見に、一期の栄花猶危、枝葉連続して親を顕し名を揚ん事難し、此時に当て重盛しげもり苟も思へり、憖に諂て世に浮沈せん事、敢良臣孝子の法に非ず、不如名を遁れ身を退て、今生の名望を抛て、来世の菩提を求んにはと、但凡夫の薄地、是非に迷が故に、猶未志を不恣、願は権現金剛童子、子孫の繁栄絶ずして、仕て朝庭に交るべくは、入道の悪心を和て、天下安全を得せしめ給へ、若栄耀一期を限、後毘恥に及べくは、重盛しげもりが運命を縮て、来世の苦輪を助給へ、両箇の愚願偏ひとへに冥助を仰ぐと、肝胆を砕て祈念再拝し給ふにも、西行法師が道心を発しつゝ、諸国修行に出るとて、賀茂明神かものみやうじんに参つゝ、通夜して後世の事を申けるにも、流石さすが名残なごり惜くて、
  かしこまる四手に涙ぞ係りける又いつかもと思ふみなれば
と読て、涙ぐみたりけん事、急度思出給たまひつゝ、袖をぞ湿し給ける。
 彼は諸国流浪の上人也、命あらば廻り会世も有ぬべし。
 是は最後の暇を申給へば、今を限の参詣也、さこそ哀れに覚しめしけめ。
 筑後守ちくごのかみ貞能さだよし御供に候ひけるが、奉見けるこそ奇けれ。
 大臣の御後より、燈炉の火の如くに、赤光たる物の俄にはかに立耀ては、ばつと消え、ばと燃上りなどしけり。
 悪き事やらん吉事やらんと胸打騒思けれども、人にも語らず、左右なく大臣にも不申、御悦の道になり給。
 音無の王子に詣給たりけるに、清浄寂寞の御身の上に、盤石空より崩係るとぞ、大臣うつゝに見給ける。
 岩田川に著給たまひて、夏の事也ければ、河の端に涼み給ふ。
 権亮少将已下、公達二三人河の水に浴戯れて上給へり。
 薄あほの帷を下に著給へるが、浄衣に透通て、諒闇りやうあんの色の如くに見えければ、貞能さだよし是を見咎て、公達の召れたる御帷浄衣に移て、などや忌敷覚候、可召替と申ける。
 次を以て証誠殿の御前にて、念珠の時、御後に照光し事、有の儘に申ければ、大臣打涙ぐみ給たまひて、重盛しげもり権現に申入旨有き。
 御納受ごなふじゆあるにこそ其浄衣不脱改とて、是より又悦の奉幣あり。
 人々奇とは思ひけれども、其御心をば知ず、下向の後幾程なくて、後に悪き瘡の出給たれども、つや/\療治りやうぢも祈誓もなかりけり。

旋風事

 六月十四日、旋風夥吹て、人屋多く顛倒す。
 風は中御門、京極の辺より起て、坤の方へ吹以て行。
 平門棟門などを吹払て、四五町十町持ち行て抛などしける。
 上は桁梁垂木こまひなどは、虚空に散在して、此彼に落けるに、人馬六畜多く被打殺けり。
 屋舎の破損はいかゞせん、命を失ふ人是多し。
 其外資財雑具、七珍万宝の散失すること数を知ず、これ徒事に非とて御占あり。
 百日の中の大葬白衣はくえの怪異、又天子の御慎おんつつしみ、殊に重禄大臣の慎、別しては天下大に乱逆し、仏法ぶつぽふ王法共に傾、兵革打続、飢饉疫癘の兆也と、神祇官じんぎくわん、並陰陽寮共に占申けり。
 係ければ、去にては我国今はかうにこそと上下歎あへり。

大臣所労事

 小松殿こまつどのの労、日に随て憑なき由聞ければ、入道殿にふだうどのより盛次を使にて、被仰けるは、御所労日にそへて大事になる由承る、心苦こそ存侍れ、何事にても御意得ある人の、いかに今まで療治りやうぢはなきやらん、親に先立は不孝とこそ申侍、今日明日とも知ず老たる父母を残留めて、歎思はん事罪深かるべし、此間唐より目出めでたき医師の渡て、今津に著て候ふなる、折節をりふし然べき御運と覚え、即彼使者に具足し進すべけれども、先案内を申也と云はれたり。
 内府は病の床に臥て、世に侘しげに御座おはしましけるが、入道殿にふだうどのに最後の対面の由思はれけるにや、人に扶起されて、烏帽子えぼし直垂にて、盛次に出合、返事被申たり。
 療治りやうぢの事畏承候畢ぬ。
 尤御命に可随、但今度の労旁存ずる旨あるに依て、殊に不医療、其故は重盛しげもり去五月に、熊野参詣して、権現に申請る旨侍き、厳重の瑞相等ありし上、今此労を受、御納受ごなふじゆの故と存ず、神慮の御計凡夫の是非に不及歟、老少不定の世の習、老たる残置奉る、実に痛敷存といへ共、親に先立ためし重盛しげもり一人に不限、前後相違の国、本より存処なれば、強に歎思召おぼしめすべきに非、其上命は天の与る事なれば、必しも治術に依べからざるか。
 重盛しげもり保元平治の合戦には、命を捨て矢前やさきに立て振舞しかども、矢にも中らず、剣にも伐れずして、今に命を持てり。
 然而今年が一期の限、生涯の終りにこそ侍らめなれば、惜ともすまふとも難叶事に侍。
 昔漢高祖は三尺の剣を以て、諸侯を制し天下を治めけれども、淮南黥布を討し時、中流矢疵、命を亡さんとせし時、高祖后呂太后、医師を迎て是を見す。
 医の云、五百斤の金を賜て御疵を癒さんと申しに、高祖宣く、我項羽と合戦する事八箇年の間、七十五度、去ども命を全して諍勝天下を治き。
 而に今天の命に背に依て被此疵、命は即天の与にあり、天の心を知ずして、療治りやうぢを加と云とも、扁鵲何の益かあらん。
 但かくいへば、金を惜に似たりとて、五百斤の金をば医師に給りけれども、療治りやうぢをばせずして終に失にけり。
 先言耳にあり、今以て甘心す。
 重盛しげもり苟も九卿に列し、三台に昇る、其運命を計るに、以て天の心にあり、争か天の心を不察して、愚に医療を致ん、況又所労若定業たらば、加療治りやうぢとも可益、もし又非業たらば自然に癒る事をうべし。
 彼耆婆が医術及ずして、釈尊涅槃に入給き。
 是則定業の病、癒ざる事を示さんがためなり。
 治するは仏体也、療するは耆婆也。
 定業猶医術にかゝはるべくは、豈釈尊入滅あらんや、定業治するに不足旨明けし。
 然れば重盛しげもりが身非仏体、名医亦不耆婆、仮令四部の書を鑑て、百療に長ずと云とも、争か有待の依身を救療せん、仮令五経の説を詳して、衆病を癒すと云とも、豈先世の業病を治せんや。
 若又彼治術に依て存命候はば、本朝の医道なきに似たり、若又彼医術効験なくは、面謁其詮なし。
 就なかんづく重盛しげもり不肖の身ながら、天恩忝に依て、三公の一分をけがし、丞相の位に昇、本朝鼎臣の外相を以、異国浮遊の来客に見えん事、且は国の恥也、且は家の疵也、縦ひ我命を亡すと云とも、争か此国の恥を顧ざらん、彼につけ是につけ、其事有べからざる由を申べしとて、年来の侍に向給たまひて、殊に礼儀し給ければ、盛次泣々なくなく罷出ぬ。
 入道殿にふだうどのに此由こま/゛\と申ければ、力及給はず。
 其後大臣は出家し給たまひて、後世菩提の御勤より、外他事なかりける程に、終に八月一日に薨給にけり。
 生年四十三。
 五十にだにも満給はず、惜かるべき御命也。
 入道の老の歎申も愚也。
 実にさこそは思給けめ、人の親の子を思習、愚なるだにも悲し。
 況や当家の棟梁、朝廷の賢臣にて御座おはしまししかば、恩愛の別と云家の衰微と云、争か歎悲給はざるべき。
 されば入道は内府が失ぬるは、併運命の末に成にこそと、万あぢきなし、いかでも有なんとぞ宣のたまひける。
 凡此大臣文章うるはしくして、心に忠を存、才芸正しくて詞に徳を兼ねたりければ、世には良臣を失へる事を憂ふる、家には武略の廃する事を歎く。
 心あらん人誰か実に嗟歎せざらん。

燈炉大臣事

 此大臣、二世の悉地をなさん為に、霊神霊社に志を運、仏法僧ぶつぽふそう宝に首を傾け給けり。
 さればにや先祖に拝任の例なかりける、大臣の大将を極て、丞相の位に登給へり。
 親に先立御歎ばかりや御心に懸給けん、今生の栄花一として闕給はず、又後生の苦を悲みて、来世の営み他事なかりける。
 其中に難有事と世に聞えけるは、大臣の常に住給ける所をば、東へ十二間、南へ十二間、西へ十二間、北に十二間の屋を立て、四方に四十八の間を点じ、一方の十二間に、十二光仏を一体づつ奉立たれければ、四方に四十八体の、十二光仏御座おはしましけり。
 其御前ごとに常燈を燃されければ、四十八の燈炉あり。
 晴夜の星の隈もなく、沢辺の蛍に似たりけり。
 上は二十歳下は十六歳、色深く身〔に〕盛に、姿人に勝形類なき美女を四十八人しじふはちにん選て、常燈に一人づつ付給、油を添燈を挑てぞ置れける。
 齢二十にも余ければ、取替取替居られけり。
 日没の時に成ければ、四十八人しじふはちにんの女房達にようばうたち、衣装花を折、蘭麝の芳を新にして、日没静に礼讃し、念仏貴く唱つゝ、四十八間をぞ廻られける。
 念仏礼讃終りぬれば、彼女房達にようばうたち六人づつ、番を結て、鼓銅ばつ子くどうばつしをはやしつゝ、今様謡て、又彼四十八間をぞ廻りける。
  心の闇の深きをば、燈篭の火こそ照なれ、弥陀の誓を憑身は、照さぬ所はなかりけり
と、別の詞を交へず、是ばかりを折返々々謡はせて、我身は中台に座し給たまひ、是をぞ被聴聞ける。
 是や此極楽世界の菩薩聖衆の、弥陀覚王に奉仕して、或は説法化行し、或妓楽歌詠して、仏の化儀を助らんも、角やと思知れたり。
 余所迄も哀に貴く覚つゝ、身の毛も竪ばかりなり。
 係し故に此大臣をば、異名に燈篭の大臣とぞ申しける。

育王山送金事

 我朝の三宝に、財宝を抛ち給のみに非、異国の仏陀にも志をぞ運給ける。
 奥州あうしう知行の時、気仙郡より金〔千〕三百両の金を進たりけるを、妙典と云唐人の、筑紫に有けるを召て、百両の金を賜て仰けるは、千二百両の金を大唐へ渡べし、其内二百両をば育王山の衆徒に与へ、千両をば帝に献て、当山に小堂を建立こんりふして、供米所を寄進せられ、重盛しげもりが菩提を吊て給るべしと可申とて、檜木材木一艘漕渡べき由を下知し給ければ、妙典承て、材木砂金取具して、事故なく渡唐して、二百両を僧衆に施て、千両を帝に献じて事の子細を奏ければ、御門其深き志を随喜して、一塵いちぢんの送物猶以て黙止がたし、況千金の重宝をやとて、即檜木の材木を以て宝形作の御堂を立て、五百町の供米田を彼育王山へぞ寄られける。
 依これによつて当山の禅侶、其志の真実なる事を感じて、始には息災の祈誓しけるが、薨給ぬと聞て後は、大日本国武州太守、平重盛しげもり神座と過去帳に被入て、読上奉吊なるこそ哀なれ。
 此大臣の失給ぬるは、平家の運尽ぬるのみに非ず、為世為人にも悪かるべし、入道の横紙を破給をも、直し被宥しかばこそ穏くても有つるに、こは浅増あさましき事かなとぞ、上下歎ける。
 加様に事に触て、思慮深く、君父に仕るに私なし、賢き計をのみし給けるに、小松殿こまつどの常に被仰けるは、重盛しげもり一期の間、さしたる不覚なし、但経俊を失たりし事こそ、思慮の短至り永不覚と覚しか。

経俊入布引滝

 譬へば小松殿こまつどの、布引滝為遊覧御参あり、景気実に面白し。
 山より落岩波は、糸を乱せるかと疑れ、岸にたゝへたる淵水は、藍を染かとあやまたる。
 泉の妙美井揚ざれど、影涼くぞ思召おぼしめしける。
 小松殿こまつどの仰けるは、滝壺覚束おぼつかなし、底の深さを知ばや、此中に誰か剛者のしかも水練あると尋給ければ、備前国住人難波六郎経俊進出て、甲臆はしらず候、滝壺に入て見て参らんと申。
 然るべしとて免されたり。
 経俊は紺のしたおびかき、備前造の二尺八寸の太刀随分秘蔵したりけるを脇に挟で、髪を乱してつと入、四五丈もや入ぬらんと思程に、底にいみじき御殿の棟木の上に落立たりけるが、腰より上は水にあり、下には水もなし、穴不思議と思ながら、さら/\と軒へ走下たれば、水は遥はるかに上にあり、こは何とある事やらんと、胸打騒ぎけれ共、心をしづめてよく見んと思て、軒より庭に飛下、東西南北見廻ば、四季の景気ぞ面白き。
 東は春の心地也、四方の山辺も長閑にて、霞の衣立渡り、谷より出る鶯も、軒端の梅に囀、池のつらゝも打解て、岸の青柳糸乱、松に懸れる藤花、春の名残なごりも惜顔なり。
 南は夏の心地也、立石遣水底浄、汀みぎはに生る杜若、階の本の薔薇も、折知がほに開けたり。
 垣根に咲る卯花、雲井に名乗杜鵑、沼の石垣水籠て、菖蒲あやめみだるゝ五月雨に、昔の跡を忍べとや、花橘の香ぞ匂、潭辺に乱飛蛍、何とて身をば焦すらん、梢に高く鳴蝉も、熱さに堪ぬ思かは。
 西は秋の心地也、萩女郎花花薄、枝指かはす籬の内、朝は露に乱つゝ、夕は風にやそよぐらん、梢につたふむささび、庭の白菊色そへて、窓の紅葉々濃薄し、妻喚鹿の声すごく、虫の怨も絶々也。
 北は冬の心地なり、木々の梢も禿にて、焼野の薄霜枯ぬ、降積雪の深ければ、言問道も埋れぬ、池の汀みぎはに住し鳥、去てはいづくに行ぬらん、峯吹嵐烈しくて、檐の筧もつらゝせり。
 庭には金銀の沙を蒔、池には瑠璃のそり橋、溝には琥珀の一橋を渡し、馬脳の石立、珊瑚の礎、真珠の立砂、四面を荘れり。
 経俊立廻て、穴目出、是やこの費長房が入ける、壺公が壺の内、浦島が子が遊けん、名越の仙室なるらんと、最面白思つゝ、暫たちたりけれ共、如何にととがむる者もなし。
 良立聞ば、ほのかに機織音のしければ、太刀取直して、声を知るべに内へ入見れば、年三十計なるが、長八尺も有らんと覚ゆる女也。
 経俊には目も懸ず、機を操て居たりけり。
 難波六郎問けるは、是はいづくにて侍るぞ、いかなる人の栖ぞと云ば、女答云、是は布引の滝壺の底、竜宮城也、あやしくも来者哉と云て、又も云はざりけり。
 経俊浅間しと思て御所の上に飛上り、棟木の上に立たれば、腰より上は水也けり。
 力を入て躍たれば、水の中に入、暫有て滝壺へ浮出たり。
 小松殿こまつどの待得給たまひて、いかにや/\と問給へば、経俊有の儘にぞ語りける。
 詞未をはらざりけるに、滝の面に黒雲引覆、雷鳴あがりて大雨降、いなびかりして目も開きがたし。
 経俊は腹巻に太刀をぬき、小松殿こまつどのに申けるは、我は必ず雷の為に失なはれぬと覚侍り、程近く御渡あらば御あやまちもこそあらんか、少し立さらせ給たまひて、事の様を御覧候へと申せば、実にさるべしとて、二町計を隔て見給へば、黒雲経俊を引廻し、雷はたと鳴かとすれば、又雷の音にはあらで、はたと鳴おとしけり。
 やがて空は晴にけり。
 其後小松殿こまつどの人々相具し給たまひて、近く寄て見給ければ、経俊は散々さんざんにさけきれて、うつぶしに臥て死にけり。
 太刀には血付て、前の猫の足の如なる物を切落したり。
 係ければ、小松殿こまつどの常に物語ものがたりし給けるは、是程の大剛の者にて有けるを、思慮なく其身を亡したる事、我一期の不覚也とぞ仰ける。
 智者の千慮有一失と云は、加様の事にや。
 小松殿こまつどの薨じ給たまひて後は、前さきの右大将うだいしやうの方様の者は、世は此御所へ進りなんとて悦けり。
 穏かなるまじき事とも知らず、加様にのゝしりけるこそおろかなれ。

将軍塚しやうぐんづか鳴動事

 七月七日申刻に、南風俄にはかに吹て、碧天忽たちまちに曇り、道を行者夜歩に似たりければ、人皆くやみをなす処に、将軍塚しやうぐんづか鳴動する事一時が内に三度也。
 五畿七道ごきしちだうことごとく肝をつぶし、耳を驚す。
 後に聞えけるは、初度の鳴動には洛中九万余家よかに皆聞え、第二度の鳴動には、大和、山城、近江、丹波、和泉いづみ、河内、摂津難波浦まで聞えけり。
 第三度の鳴動は、六十六箇国に漏なく聞えけり。
 昔よりたびたびの鳴動有しかども、一度に三度是ぞ始也ける。
 東は奥州あうしうの末、西は九箇国のはてまでも、聞えけるこそ不思議なれ。
 同日の戌刻に、たつみの方より地震して、乾を指てふり持行。
 是も始には事なのめ也けるが、次第につよく振ければ、山傾て谷を埋、岸くづれては水をたゝへ、堂塔坊舎も顛倒し、築地たて板も破れ落て、山野の獣上下の男女、皆大地を打返さんずるにやと心うし。
 谷より落る滝津瀬に、棹さし渡し煩ふ筏師の、乗定めぬ心地して、良久しくぞゆられける。

大地震事

 同年十一月七日戌刻に又大地震あり、夥しとも云計なし。
 時移る迄振ければ、唯今地を打返すべしなど申て、貴賤肝心を迷す。
 明る八日、陰陽寮安部泰親院参ゐんざんして奏聞しけるは、其夜の大地震、占文の指所不なのめならず重く見え侍り、世は唯今失なんず、こはいかゞ仕るべき、以外に火急に侍とて、軈はら/\と泣けり。
 伝奏の人も法皇も大に驚て思召おぼしめしけれ共、さすが君も臣も差もやはと覚しける。
 若殿上人てんじやうびとなどは、穴けしからずの泰親が泣様や、何事の有べきぞとて笑人も多かりけり。
 法皇の仰には、天変地夭は常の事也、今度の地震強に騒申事、異なる勘文ありやと御気色おんきしよくあり。
 泰親勅問の御返事おんへんじには、三貴経の其一、金貴経の説に云、去夜戌時の地震年を得ては年を不出、月をえては月を不出、日を得ては日を不出、不得ば時ばかりと見えたり。
 其中に此は日をえては、日を不出と候へば、遠は七日、近は五月三日に、御大事おんだいじに及べし、法皇も遠旅に立せ御座おはしまし、臣下も都の外に出給べし、此事もし一言違ふ事候はば、御前に於て相伝の書籍を焼失ひ、泰親禁獄流罪、勅定に随べしと、憚処もなく、泣々なくなく奏聞しければ、旁御祈おんいのり始られけり。
 去共七日の地震、十三日までは、七箇日にあたる、其間異なる事なし。
 斯りければ、公卿くぎやう僉議せんぎ有て、泰親御前にして、荒言を吐き、叡慮を奉申驚条奇怪也、遠は七箇日の御大事おんだいじたる由、占文其効なき上は、速に土佐の畑へ可流罪と定られて、既すでに追立の官人に仰付らるべしとぞ定りける。
 去さるほどに同おなじき十四日、太政だいじやう入道にふだう福原より数千騎すせんぎの軍兵を相具して上洛、何と聞分たる事はなかり侍けれ共、京中貴賤上下東西に走り迷て物騒し。
 或は朝家を可怨とも聞えけり。
 或は公卿殿上人てんじやうびとを流し失べしとも私語ささやきけり。
 其口さま/゛\也。
 当時の関白くわんばく松殿ひそかに院参ゐんざんして奏申されけるは、清盛きよもり入道が上洛は、基房事に逢べき由、内々告知する事侍り、其故は、去嘉応に、小松の資盛が乗会の事に、入道憤て無なるべきにて侍りけるを、父を内府が様々に教訓し申けるに依て、事故なく罷過候けり、悪き事を制し諌侍りし内府は薨じ侍りぬ、今は憚る処なく其遺恨をむくはんとにて候也、いかが仕り侍るべき、朝夕に拝し進する君にも奉別、住馴し都を出されて、知ざる旅にさすらはん事こそ、心うく思侍れ、御前に参ぜん事も是を最後と存ずればとて、はら/\と泣給たまひ、袖を顔にあて給へば、法皇も叡慮ものうげにて、臣下何の咎有てか、さほどの罪に行なはるべき、去ば朕とても安穏なるべしとも不覚とて、又竜眼より御涙おんなみだを落させ給ふ。
 関白殿くわんばくどの此御有様おんありさまを見進らせ、不堪思召おぼしめしければ出給ぬ

静憲法印勅使事

 去さるほどに十五日朝、故少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいが子静憲法印を御使にて西八条にしはつでうへ遣さる。
 勅定には入道にふだう相国しやうこくに云べき様は、凡近年朝廷も不静、人の心も不調にして、世間も落居せぬ様に成行事、総別に付て歎思召おぼしめせども、入道さて御座おはしますれば、万事は憑思召おぼしめしてこそ有に、天下を鎮迄こそなからめ、事に触て嗷々の体御意を得ざる処に、剰朕を恨むなど聞召はいかゞ、こは何事ぞ人の中言歟、入道上洛の後、武士家々に充満て、京中の貴賤安堵せざるの由、其聞あり、軍兵を引率の条、其故を知召す、異なる子細なくば、家人の騒動を可鎮歟、若又存知の旨あらば、何事も可奏聞、如風聞、太不然と仰遣す。
 法印西八条にしはつでうに行向て、源げん大夫判官だいふはんぐわん季貞を以て此由披露したりけれ共、敢以て御返事おんへんじなし。
 更闌日傾て、已に晩頭に及ぶ間、季貞を尋出して、御使今は罷出なんと云はせたれ共、猶以て出給はず、良久有て、子息左衛門督知盛を以て、院宣畏承候畢。
 抑浄海老衰て、諸事不覚なれば、院中の出仕無益、さては別に子細候はずと申たり。

浄憲与入道問答事

 法印は、さればこそ人の云に合て、穴おそろしやと思て、震々出給けるが、立様に取敢とりあへず、高らかに、賢相明徳跼天と申、本文はいかにとて出給たまひぬ。
 入道此句にや驚給けん、急ぎ中門に出て、遥はるかに帰たりける法印を呼返す。
 法印は我も四十二人の罪過の内に入たるよし、内々聞に、新しん大納言だいなごんの様に引張などせんずるにやと心迷しければ、足振て縁の上へ昇り煩給へり。
 震々中門の廊に御座おはしましけれ共、うつゝ心なし。
 入道大に嗔れる体にて、爰ここにて対面せられたり。
 宣のたまひけるは、やゝ法印御房、御辺ごへんは物に心得こころえたまひて、成親卿なりちかのきやうが謀叛の時、鹿谷の御幸をも申止られたりしと承れば、呼返奉て申候ぞ、臣下の身として争か背明王みやうわう侍るべき、而を自今以後は院中の奉公思止る由を申候事は、浄海君を恨進事一方ならず、入道君の御為に何事か御後めたなき事候、保元平治の合戦に、身を捨て、先をかけ、御命に替り進せて、逆臣をふせぎ、君の御世に成参せたる事、人の皆知たる事なれども、度々の奉公を思召おぼしめし忘て、入道が事とだに申せば、何事も六借事と思召おぼしめされたり。
 依これによつて又云甲斐なき近習の者共の、勧申事に著せ給たまひて、成親已下の輩に仰付て、入道を傾けんとの御気色おんきしよくあり。
 然而家門の運尽ざるによりて、今に御本意をとげさせ給はず、入道希有にして世に立廻るといへども、有てなきが如し。
 第一の遺恨と存ずる間、君を恨進する事僻事にて侍か、漢家本朝明王みやうわうの臣下を憐給事ためしおほし。
 吾朝には、冷泉院御宇ぎように、東夷朝家を背しかば、伊予守源みなもとの頼義らいぎ勅を奉て、貞任を攻しに、頼義らいぎが末子に頼俊と云ける者、よき敵其数余多あまた討て、毎日に退かず進戦ける程に、流矢に中て亡にけり。
 頼義らいぎの朝臣あつそんいさめる心を惜み、永き別を悲て、天に仰で歎由聞召ければ、帝御自筆に金泥を以て、屍骸成仏じやうぶつの真言をあそばして、此を亡骨に具して墓に埋ば、其亡骨必成仏じやうぶつすべし、天子の御志幽霊が成仏じやうぶつ、頼義らいぎ争か悦ざらんと、勅書を遊して奥州あうしうへ送下させ給たりければ、父頼義らいぎたちまちに別離の歎を止て、勅命の忝に、歓喜の涙を流しけり。
 後三条院ごさんでうのゐんの御宇ぎように、江中納言親信卿の母儀、長病に臥て三年、死たるにも非、生たるにも非、子孫眷属日夜に愁歎し、朝暮に涙を流すよし聞食きこしめしければ、帝大に悲みまし/\て、彼母儀病悩の間は、雲の上に物の音を鳴らすべからずと御諚有ければ、一千日に及まで、管絃を奏する人なかりき。
 白川院【白河院】しらかはのゐんの御宇ぎようには、承暦元年の春、藍婆鬼と云鬼、京中に充満て、十歳以前の小者、十が八九は取失はれければ、上下男女家々の歎親々の悲、帝聞食きこしめし、其春は子日の御会なかりけり。
 堀川院ほりかはのゐんの御宇ぎようには、御随身清房が、三黒と云小馬を賜て、庭乗仕りける程に、沛艾の馬に悪様に乗つゝ、落て則死ければ、帝耄したる老父が盛年の子を先立て、左こそ歎思らめ、且は清房が没後をも弔ひ、且は老父が心をも慰とて、河内国に所領一所を給りたる事も候けり。
 鳥羽院とばのゐんの御宇ぎようには、顕頼民部卿、指たる忠臣迄は御座ざりけれ共、昇霞の煙哀也とて、御立願の八幡詣、御代官を以てはたさせ御座おはしましけり。
 同御宇ぎように、忠貞宰相闕国有しかば、宰相大に歎つゝ、都を出て片辺に引籠たりければ、帝遠山の篭居、最不便也とて、御衣を脱で送給たりければ、忠貞卿老眼に紅の涙を流して、持仏堂に有ながら、発願持経より先に、先王宮に向て、三度まで君を拝しけるとなり。
 又唐太宗文皇帝は、剪鬚焼薬、功臣李勣賜、含血吮瘡、戦士思摩で助けり。
 又魏徴大臣と云臣下に後れ給たまひて、御歎の余りに、
  昔殷宗夢中得良弼、今朕夢〔の〕後失賢臣
と云碑文を、自書て、魏徴が廟に立て悲給けり。
 凡明王みやうわうの臣下の歎を慰訪給例、不其数
 以是父よりも眤、子よりもなつかしきは、君と臣との道とこそ承候へ、口惜こそ候しか、重盛しげもりが中陰未四十九日も過ざるに、八幡の御幸有て御遊ぎよいう候けり、法住寺ほふぢゆうじの御会も候けり、哀不便の仰こそなからめ、人目の恥かしさ、入道が伝承らん事、などか御かへりみもなかるべき。
 御房も御存知候らん、小松内府は其器こそ愚に候しかども、勅定には忠を抽で、志を運き。
 されば保元平治の合戦にも、命をば為君軽じ、屍をば戦場に捨んとこそ挙動侍しか、及天聴人口にもほめられき。
 其後大小度々の騒動も、毎度に選れ進せて、院宣と申勅命と申、旁御感に不預と云事なし。
 されば越前国を重盛しげもりが給し時は、子々孫々ししそんぞんまでとこそ被仰下しか、それに重盛しげもり逝去の後、即被召上之条、死骸何の過怠か候。
 其外中納言の闕の侍し時、二位中将殿ちゆうじやうどのの御望候の間、入道再三執申しに空くして、関白殿くわんばくどのの御子息ごしそく、三位中将殿ちゆうじやうどの、非分になられたりし事、縦入道何なる非拠を執申とも、一度はなどか御許容なかるべき。
 況家の嫡々と云位階の次第と云、旁御理運にて御座を、被引違し事、老後の所望面目を失侍き。
 二位中将殿ちゆうじやうどのも申かなへんずらんと思給へばこそ、入道をば被憑仰けめ、入道も又さり共ともとこそ存じて奏申しに、不叶しかば、口惜こそ存しか。
 但し是は君の御計のみに非、執申人余多あまた侍りけると承及き。
 次に近習の人々、此一門を亡さんと相はからはれける、是又私の計にあらず、叡慮の趣を守る故也。
 いまめかしき申事には侍れども、縦入道何たる過誤り有共、七代迄は争か思召おぼしめし捨らるべき。
 其に入道既すでに七旬に及で余命幾ならず、一期の間にも、動すれば可失御計に及申さんや。
 子孫相続して、一日片時召仕るべき事難し。
 凡は老て子を失は、朽木の枝なきに喩たり。
 内府におくるゝを似て、運命の末に望める事を且知れ候ぬ。
 去ばこそ天気の趣も、現申事も軽く、人望にも背き侍らめ。
 何なる奉公を致とも、叡慮に応ぜん事よもあらじ。
 此上は幾ならぬ身心をつひやしても、何にせんなれば、兎ても角ても侍なん。
 悪事不孝の子すら別は悲事ぞかし。
 何に況重盛しげもりは奉公と申才芸と申、至孝と云心操と云、礼儀よく治て、人是を軽ぜず、永き別の習なれば、再相見べきにあらず、恩愛の慈悲骨髄に徹て悲こそ存ぜしに、老父が歎き思召おぼしめしよりて、などか一度の御憐なかるべき。
 されば院中の奉公無益に侍と、憚処なく被申ても、入道はら/\とぞ泣給ける。
 静憲法印も流石さすが哀にも覚え、又恐しくも有ければ、汗水になられにけり。
 此時には一言の返事にも及難かりける事ぞかし。
 其上我身も僧ながら近習の者也。
 成親卿なりちかのきやう已下の事も正く見し事なれば、我も其人数に思けがされて、唯今もいかなる目にかあはんずらんと、兎角案じ思けるに、竜の鬚を撫、虎の尾を蹈心地せられけれ共、法印もさる人にて、騒ぬ体にもてなして、答られけるは、誠に度々の御奉公不浅、一旦恨み申させ給ふ旨、御理と覚え侍り。
 其中に殊に親子恩愛の道は、老牛舐犢、牝虎含子志、水畜淵魚野獣山禽に至まで、情深しと申す。
 況朝家の寵臣、明徳賢才の御子を先立御座おはしまする、老相の御歎、余所の袂たもとも皆絞り煩てこそ候しかとて、法印も良久泣給へり。
 去て法印涙を押のごひ、袖かき合て申されけるは、不肖の身を以て、御返報に及条、其恐不少といへども、且は仙洞に御過なきを、人の悪様に申入ける事を、陳開て、御鬱念をも謝し申べし。
 貞観政要の裏書に、思合る事あり。
 仙源雖澄、烏浴濁流とて、仙宮より流出る河は、仙人集て仙薬を洗すゝぐ故に、下流を汲者までも必長命也。
 而を其河の中間に、陰山の烏其流をあぶる時、水還て毒と変ずといへり。
 其様に法皇の政徳は、仙宮の水の如く、万庶を哀で其源を澄し御座せども、執申人下流を濁して、入道殿にふだうどのに悪様に申入たりと覚侍り。
 努々御恨あるまじき御事なり。
 但何様にも院中の御奉公を、思召おぼしめし止らん事、能々御思慮有べき也。
 世の為御為に、つら/\愚案を廻すに、明王みやうわう一人其法、日月為一物其明と云文あり。
 通三の主明一の君、争御徳政に私を存御座おはしますべきなれども、智者千慮有一失、愚者千慮有一徳と申事も侍ば、たとひ叡慮御あやまり有て、千万に一つ人望に背、法に相違する事侍ば、臣下の御身としては、何度も我御あやまりなき旨を陳じ可申、是忠臣の法也。
 君雖君、臣以不臣といへり。
 其に小賢き申状恐なる事にては候へども、法皇は君なり、入道殿にふだうどのは臣也。
 下として上を奉恨、臣下として悩君給はん事、只仁義を忘れ給のみにあらず、恐くは天地の御とがめ不遁給
 世を不遁家を不捨して、居位貪禄ながら、御出仕を停止し給はん事、天地の御意計難。
 尚も能々御計ひあらば、且神明も納受なふじゆをたれ、御家門繁昌の基にて侍るべし。
 抑承処の条々の御恨の事、先八幡宮の御幸は、哀なる御事にてこそ侍りしか。
 其故は、あへなくも、重盛しげもりに後れぬる事、朕一人が歎のみに非ず、臣下卿相けいしやう普天卒土、誰か愁へざらんや、金烏西に転じて一天暗く、邪風頻しきりに戦四海不静と、御定有て、日々夜々よなよなの御歎、今に未不浅、勅定に臨終いかゞ有けんと、御尋おんたづね候しかば、或雲客うんかく、其病患は悪瘡にて候ける間、瘡の習臨終乱れず、正念に住して、二羽合掌の花鮮に、十念称名の声絶ず、三尊さんぞん来迎の雲聳て、九品蓮台の往生とこそ見えて候しかと申せば、竜顔に御涙おんなみだを流させ給のみに非ず、宮中皆袖を絞られて、当時までも折に随事に触ては、御歎の色ところせくこそ見えさせ給候へ。
 さて法皇の仰には、生死は定れる習、惜とも力なし、何事よりも心肝に銘じて浦山しき事は、往生極楽の一事也。
 入道も歎の中に嬉くこそ存らめ。
 熊野参詣の時申請る旨有とて、療治りやうぢをもせざりけるも、はや此一大事に有けり。
 朕も熊野山に参て祈申たけれ共、道の程も遥也、人の煩とも成べし。
 つら/\案ずるに、同じ西方の弥陀にて御座おはしませば、八幡宮へ参詣して、往生を祈申さばやと思召おぼしめす也。
 且は内府の為に、毎日に祈念する、念仏読経して、廻向も清浄の霊地にしてこそ、金をも鳴さめとて、七日の御参篭候ひき。
 是則内府幽儀の得脱、又大相国たいしやうこくの御面目、何事か過之侍べき。
 されば御中陰ごちゆういん終給なば、急ぎ御院参ごゐんざん有て、畏をこそ申させ給はざらめ、還て御恨にや及べき。
 仙源の水清けれども、山烏流を穢すと云たとへ、少も違はずと被申ければ、立腹なる人の習、心浅くして、入道袖かき合て、声を上てさめ/゛\とこそ泣給たまひけれ。
 次八幡宮の御遊ぎよいうとは、臨時の祭の事を悪様に申たるにこそ、是又竜楼鳳闕の御祈祷ごきたうに侍りき。
 其故は、去此八幡宮に怪異頻しきりに示しけるを、別当恐て護法を下し進せたりけるに、御託宣ごたくせんの御歌に、
  春風に花の都は散ぬべし榊の枝のかざしならでは
と詠じて、畿内近国闇と成て、九民百黎山野に迷ぬべしと仰候けるを、法皇大に驚き思召おぼしめして、臣下卿相けいしやう息災延命、洛中上中五畿七道ごきしちだう、安穏泰平の為に、三日三夜の御神楽の候し事、明王みやうわう明君の御徳政にこそ。
 洛中上下の為なれば、御家門の御祈おんいのりにも非や、故内府は大国までも聞え御座おはしましし賢臣にて、常に国土安穏人民快楽と祈らせ給し事なれば、彼御神楽をば、小松殿こまつどのは草の陰にても、さこそ悦御座おはしましけめと覚候。
 此上、なほ御不審相残らば、八幡の別当に御尋おんたづねあるべく候哉。
 次に越前国を被召返けん事は未承及、君思召おぼしめし忘させたるにや、便宜を以て急ぎ奏聞仕て、若子細あらば遂て可申入候。
 次に二位中将殿ちゆうじやうどの御所望の事は、必しも入道殿にふだうどのの御子孫にても渡らせ給はず、強御憤おんいきどほり深かるべき御事ならず。
 去ば故小松殿こまつどの、並前さきの右大将殿うだいしやうどのなどの御昇進の時は、理運数輩の人々を超越せられしか共、臣下も恐をなして申旨もなく、君も子細に不及御事とこそ承しか。
 其上叙位除目、関白殿くわんばくどのの御計なれば、誰か難申侍べき。
 縦又一度は君の御あやまりに渡らせ給とも、臣以不臣と申、本文も候ぞかし。
 所詮御家門に於て、君のとかくなんと被聞召きこしめさるる事は、偏ひとへに謀臣の凶害と覚候。
 信耳疑目俗弊なり。
 少人の浮言を信じて、まのあたり朝恩の他に異なるを蒙て、君を背奉らん事、冥顕に付て其憚不少。
 凡天心蒼々として、叡慮量り難し、定て其故ぞ候らん、下として上に逆る事、豈人臣の礼たらんや、能々可御思慮、又仰の趣伺便宜て可奏申、さらば暇申てとて、法印座を立給ければ、入道高らかに、院宣の御使也、各礼儀申べしと宣ければ、侍諸大夫等、八十余人よにん有けるが、一同に皆庭上に下て門送す。
 法印最騒ぬ体にて、弓杖三杖ばかり歩出て、立帰て深く敬屈して立帰られて御座おはしましければ、さのみは恐候とて、八十余人よにん皆縁の際に立帰る時、法印も歩給にけり。
 美々敷ぞ見えたりける。
 法印は穴いちじるしき人の心や、今朝の対面の遅さ無興さの有様ありさまに、唯今の泣様送礼の体、説法しすましたりと咲くぞ思はれける。
 法印出給ければ、入道も内に入給ぬ。
 さて人々申けるは、聞つるに合て、あはれ、さか/\しき人かな、是程に入道の泣口説給はんには、我等われらならば院中の有事無事吐ちらして、追従してこそ出べきに、還て様々奉教訓、一々の返答文々句々、面白申されつる者かな、入道殿にふだうどのの日比ひごろの御憤おんいきどほり事の外に蕩てこそ見え給たまひつれ、三分が二は今の案にてこそ御座らめども、時に臨で然べくも申つゞけ給たれば、邪雲も少晴給ぬらんと覚るにぞ目出けれと、悦人多かりけり。
 肥後守ひごのかみ貞能さだよしが、道理也、去ば社中に僧俗多き中に選れて、御使にも立られめとて褒たりける。
 或本文云、君王治国、忠臣扶君、船能載棹、棹能遣船と也。
 此言思合られて哀也。
 静憲法印忠臣として、よく君を奉扶事こそ神妙しんべうなれと、口々にこそ感じけれ。
 時は十一月十五日夜の事也。
 法印は西八条にしはつでうの南門より出給へば、明月は東山緑の松の木の間よりこそ出たりけれ。
 法印の胸に籠れる心月は、三寸の舌の端に顕て、入道の心の闇を照し、中冬十五日の夜半の月は、蒼天の空に円にして、法印の帰る車を耀せり。
 牛飼既すでに車を遣んとしければ、法印宣様、車暫押へよ、夜陰の行は路次狼藉也、迎の者共を待べしとて、下簾をかかげて、今夜の月の隈なきに、旧詩を思出て、
  誰人たれのひとか隴外久征戎、何処庭前新別離、
  不黔中争去得、磨囲山月正蒼々、
と詠じ終給はざる処に、迎の者ども出来れり。
 誰々参たるぞと尋給へば、金剛左衛門俊行、力士兵衛俊宗と、侍二人、烏黒なる馬に、白覆輪の鞍置て、漁綾の直垂の下に、火威の腹巻月の光に耀て、合浦の玉を瑩けるが如なり。
 市夜叉、滝夜叉とて、大の童のみめよきを二人、滋目結の直垂に、菊閉して、下腹巻に矢負たり。
 上下の弭に角入たる、滋藤の弓をぞ持たりける。
 下僧には、金力、上一、上万、金幢地、円覚、一夜叉、門能印、已上七人、此等も皆黒革威の腹巻に、手鋒長刀持ちたりけり。
 此静憲法印は、父信西入道の跡を遂、内典外典の学匠がくしやう、僧家俗家の才人にて、院内御気色おんきしよくも目出、上下万人誉を成、綺羅誠に神妙しんべうにして、言語殊に鮮也。
 召仕給ける従類は、能も賢く力も人に勝れたりけり。

金剛力士兄弟事

 金剛左衛門、力士兵衛と云侍は、兄弟也。
 熊野生立の者、十八歳にして五十人が力持たりける、剛の者也。
 熊野に有りける時、或人南庭に池を堀けるに、大石を堀出せり。
 五十人して此石を引すてんとしけれ共、さらに動く事なし。
 大勢にて明日引べしとて人皆帰ぬ。
 其傍に僧坊あり。
 皆石とて十八〔歳〕になる児の有けるが思けるは、五十人して引ども動かぬは、人の弱か石の重歟覚束おぼつかなしとて、うらなしと云物をはきて庭に下、夜中に人にしられぬ様にて此石を引見れば、安々と動けり。
 去ばこそ石は軽かりけり。
 人の弱と思ければ、件の石を二段計引て行、或僧坊の門に引塞て置。
 明朝に坊主起て門を見れば、大石道を塞て可出入様なし。
 天狗の所為にやと身毛竪てこれを披露すれば、上下集て不思議の思をなす。
 金剛力士の所為歟、四天大王の態歟、又鬼神の集て引たるかとて見程に、庭のうらなしの跡あり。
 跡をとめて行て見れば、皆石と云児の坊へ尋ね至れり。
 縁の上にうらなしあり。
 妻戸を開て児を見れば、兄弟二人の児あり。
 兄は皆石十八、弟は皆鶴十五になる。
 皆鶴は未臥たり、皆石は唯今起たる体にて、寝乱髪ゆり懸て琴を調て居たり。
 文机には、史記、文選、歌双紙など並置たり。
 美目貌厳して、西施が顔色にも過てあてやかなり。
 帰鴈のつらをなせる柱の上に、白く細やかなる手付、衣通姫の容貌潔し。
 去ば彼やさしき姿にも、五十人が力に勝て、一人して二段計大石を引ける事よと不思議也。
 千字文と云文に、器欲量といへり。
 実に稚けれども力つよき者も有けり。
 鉄は小〔に〕して強き万物に勝、竜子は小なれ共雲を起す事も大竜に同じ。
 伽那久羅虫はすはう螺の下にかくれて大木を砕く風を起す。
 栴檀は二葉なれども四十里の伊蘭を消し、天の甘露は少しきなれ共諸病を愈す。
 火は芥子計なれども一切の物を亡し、仏は□蒭の勢に御座共、一切衆生の導師たり。
 皆石十八歳の齢にて五十ごじふ余人よにんが力を持たりけり。
 器欲量と云も理也など云沙汰しける折節をりふし、静憲法印熊野参詣の次に、此児の事を聞給たまひて、皆石皆鶴、兄弟二人を請出て見参し給たり。
 此児の師匠に、祐蓮坊阿闍梨あじやり祐金に対面して、此児童兄弟はいかなる人ぞと尋ね給へば、祐金答申て云、母にて侍し者は、夕霧の板とて山上無双の御子、一生不犯の女にて候し程に、不知者夜々よなよな通事有て儲たる子どもとぞ申侍し。
 其御子離山して、今は行方を不知と申す。
 法皇宣のたまひけるは、美目よき同宿を尋る身にて侍、兄弟両人ながら静憲に賜候へかし。
 院内の見参にも入、所領官爵をも申て、人目よき様に扶持せんと所望し給へば、祐金阿闍梨あじやり老眼より涙をはら/\と流して、赤子の時より養育して、成人の今まで立離るゝ事候はず、十余年の芳契名残なごり実に惜く侍れども、彼等世にあらん事をこそ、神にも仏にも祈り申事なれば、然べき事にこそと悦て、二人の児を奉る。
 阿闍梨あじやりも又もと思ふ、見参も難叶ければとて、京まで二人を送けり。
 祐金暇申て帰り下るとて、児を左右の袂たもとにかゝへて申けるは、定めなき浮世の習は、風にちる花のためし、雲にかくるゝ月の理り、老少互に前後を知ざれ共、若きはさすが憑あり、祐金齢已に八旬に及、残月幾なし、是最後の別なり。
 後生菩提は助弔給へとて衣の袖を濡しけり。
 二人の児は、住馴れしふる里も、山川遥はるかに立隔ぬ。
 父とも母とも深く憑て、十余年芳恩を蒙りし、師範の名残なごりも惜ければ、袖をしぼりけり。
 さて祐金は熊野へ帰下、又児童は京都に留て、法印をぞ憑ける。
 後には元服げんぶくして、皆石は金剛左衛門、皆鶴は力士兵衛とぞ改名したる。
 兄弟共に大力也ければなり。
 金剛左衛門は、下針をも射る上手也ければ、異名には、養由左衛門共云。
 力士兵衛は射的の上手にて、百手の矢を以、的を州浜形に射成ければ、異名には州浜兵衛とも云けり。
 法印は弟子ながらも、子の如くに最惜して、一日も身を離たれず、殊に出仕交衆の時は、影の如くに身に随へて、此等二人を具せられぬれば、数十人の郎従を引率したる心地して、最憑しくぞ思れける。
 市夜叉、滝夜叉と云童も、二人ながら二十人が力あり。
 小法師原ほふしばらも一人当千いちにんたうぜんの奴原也ければ、法印何事か御座らんとて、迎に参たりけるなり。
 余所の人目までも、きら/\しくぞ見え給ふ。
 牛飼車を遣出して、御所へ仕候べきか、清水の御坊へかと申せば、法印は夜已に深更也、御所は定て御寝ぞ御座ござあるらん、早旦に可参と仰ければ、小路きりに東山へぞ遣て行。
 雲井に照す月影は、寒行霜に隈もなく、鴨の河原に鳴千鳥、瀬々の波にぞまがひける。
 五更ごかうの空も黎明に、清水の坊に入給ふ。>

遠巻 第十二
大臣以下流罪事

 治承三年十一月十五日、入道奉朝家由聞えしか共、静憲法印院宣の御使にて、様々会釈申ければ、事の外にくつろぎ給たり。
 上下大に悦で、今はさしもやはと人々思被申けるに、四十二人の官職を止て、被追籠
 その内参議皇太后宮くわうたいごうぐう権大夫兼右兵衛督うひやうゑのかみ藤原光能卿みつよしのきやう、大蔵卿おほくらのきやう右京大夫兼伊予守高階泰経朝臣、蔵人右少弁うせうべん兼中宮権大進藤原基親朝臣、以上三官被止。
 按察使大納言だいなごん資賢卿、中納言師家卿、右近衛権少将兼讃岐権守資時朝臣、大皇太后宮権少進兼備中守藤原光憲朝臣、已上被二官
 上卿は藤大納言だいなごん実国、職事左少弁させうべん行隆、別当平へい大納言だいなごん時忠とぞ聞えし。
 当時関白くわんばく太政大臣だいじやうだいじん基房公〈 松殿と申 〉をば、太宰権師に奉移、筑紫へ奉流。
 住馴し都を別れ、悲き妻子を振捨、遠旅に出させ給ければ、係る浮世にながらへて何にかはせんと覚召、つや/\物も進ず、御命も危く聞えさせ給けるが、思召おぼしめし切せ給たまひ、大原おほはらの本覚坊の上人を召して、淀に古川と云所にて、御出家ごしゆつけ受戒あり、御年三十五。
 世中御昌りにて礼儀よくしろしめし、曇なき鏡にて御座おはしましつる御事をと、上下奉惜。
 入道は、出家の人をば、本の約束の国へは遣ぬ事にてある也とて、筑紫へはさもなくて、備前国湯迫と云所へぞ奉流ける。
 大臣流罪の事、左大臣蘇我赤兄、右大臣豊成公、左大臣魚名公、右大臣菅原、右大臣高明公、内大臣ないだいじん藤原伊周公等に至るまで六人也。
 されども清和せいわの帝御宇ぎよう、摂政せつしやうにて太政大臣だいじやうだいじん良房〈 忠仁公 〉白川殿〈 又染殿 〉小松帝御宇ぎよう、関白くわんばくにて太政大臣だいじやうだいじん基経、〈 昭宣公 〉堀川ほりかは殿と申より以来、帝皇廿四代、摂録十八代、摂政せつしやう関白くわんばく流罪の事是を始とぞ申ける。
 按察使大納言だいなごん資賢子息左少将通家孫、右少将雅賢三人京中を可追出由、博士判官中原章貞に被下知ければ、追立検非違使けんびゐし来て、遅々と責追けるこそいと悲けれ。
 恐しさの余に北の方に物をだにもはか/゛\しく不宣置、子孫引具して出給ふ。
 仮初のありきにだにも、馬よ牛よ輿ぞ車ぞとて、あたりを払、綺羅を研てこそ出入給しに、浅間敷あさましき賤がはきものわらぐつなど云物をはき給たまひて出給へば、北方より始て女房侍に至る迄、無人を送出す様に喚叫事不なのめならず
 三人夜中に出給ける上に、落る涙にかきくれて、行先も見え給はず。
 心うや配所を何所とだに定ぬ事よと悲くて、九重の内を紛れ出て、八重立雲の外へ、足に任て這々、彼大江山、生野の道を越過て、丹波国村雲と云所にぞ暫さすらひ給ける。
 後には召返されて信濃国しなののくに奥郡へ流され給けり。
 此資賢卿は今様朗詠の上手にて、院の近習者当時の寵臣にて御座おはしましければ、法皇諸事内外なく被仰合けるに依て、入道殊にあたまれけるとかや。
 同七日に妙音院太政大臣だいじやうだいじん師長は、参河国へとは披露有けれども、実には尾張国井戸田へ流罪とて、都を出され給けり。
 此大臣は去保元元年に、中納言中将と申て、御歳二十にて御座おはしましける時、父宇治悪左府あくさふの世を乱り給し事に依て、兄弟四人土佐国へ流され給たりけるが、御兄の右大将うだいしやう兼長卿も、御弟の左中将隆長朝臣も、範長禅師も、配所にて失給にき。
 此は九年をへて、長寛二年六月廿七日に被召返、其年の閏十月十三日に本位にかへし、次年八月十七日じふしちにちに正二位しやうにゐし給たまひて、仁安元年十一月五日、前中納言より権大納言ごんだいなごんに移り給ふ。
 大納言だいなごんのあかざりければ、員の外に加給けり。
 大納言だいなごん六人になる事、是より始れり。
 又前中納言より、大納言だいなごんに移る事も、先蹤希也とぞ承る。
 阿波守藤原真作の子後山階大臣三守公、源大納言だいなごん俊賢の子、宇治大納言だいなごん隆国卿の外、其例希也。
 此大臣は管絃の道に達し、才芸人に勝れ給たまひて、君も臣も奉重しかば、次第の昇進不滞、程なく太政大臣だいじやうだいじんに上らせ給へりしに、いかなる事にて又係御目に合せ給らんと、人々歎申けり。
 十六日じふろくにちの晩に、山階まで出奉りて、同おなじき十七日じふしちにちの暁深く出給へば、会坂山に積る雪、四方の梢も白して、遊子残月に行ける、函谷の関を思出て、是や此延喜第四の御子、会坂の蝉丸、琵琶を弾じ和歌を詠じて嵐の風を凌つつ、住給けん藁屋の跡と心ぼそく打過て、打出浜、粟津原、未夜なれば見分ず。
 抑昔天智天皇てんわうの御宇ぎよう、大和国やまとのくに飛鳥の岡本の宮より、当国志賀郡に移て、大津宮を造たりと聞にも、此程は皇居の跡ぞかしと思出て、あけぼのの空にも成行ば、勢多唐橋渡る程、湖海遥はるかに顕て、彼満誓沙弥が比良山に居て、漕行舟の跡の白波と詠じけんも哀也。
 野路宿にも懸ぬれば、枯野の草に置る露、日影に解て旅衣、乾間もなく絞りつゝ、篠原の東西を見渡せば、遥はるかに長堤あり。
 北には郷人棲をしめ、南には池水遠く清めり。
 遥はるかの向の岸の汀みぎはには、翠り深き十八公、白波の色に移りつゝ、南山の影を浸ねども、青して滉瀁たり。
 州崎にさわぐ鴛鴦鴎の、葦手を書ける心地して、鏡宿にも著ぬれば、むかし扇の絵合に、老やしぬらんと詠じけんも、此山の事也。
 去さるほどに師長は武佐寺に著給ふ。
 峰の嵐夜ふくる程に身に入て、都には引替て、枕に近き鐘の声、暁の空に音信おとづれて、彼遺愛寺の草庵の、ねざめも角やと思知れつゝ、蒲生原をも過給へば、老曽森の杉村に、梢に白く懸る雪、朝立袖に払ひ敢ず、音に聞えし醒井の、暗き岩根に出水、柏原をも過ぬれば、美濃国関山にも懸りつゝ、谷川雪の底に声咽嵐、松の梢に時雨つゝ、日影も見えぬ木の下路、心ぼそくぞ越え給ふ。
 不破の関屋の板廂、年へにけりと見置つゝ、妹瀬川にも留給ふ。
 此は霜月廿日に及ぶ事なれば、皆白妙の晴の空、清き河瀬にうつりつゝ、照月波もすみわたり、二千里外古人心、想像旅の哀さ最深し。
 去さるほどに尾張の井戸田の里に著給。
 保元の昔は西海土佐の畑に被遷て、愛別離苦の怨を含、治承の今は、東関尾張国へ被流、怨僧会苦の悲を含給。
 但し心ある人は皆罪なくして、配所の月を見んと願事なれば、大臣彼唐太子賓客白楽天の、元和十五年の秋、九江郡の司馬に被左遷、潯陽江側に遊覧し給ける古きことに思慰て、鳴海潟塩路遥はるかに遠見して、常は朗月を望、浦吹風にうそぶきつゝ、琵琶を弾じ和歌を詠じて、等閑に日を送り給けり。
 或夜当国第三宮、熱田の社に詣し給へり。
 年へたる森の木間より、漏り来月のさし入て、緋玉垣色をそへ、和光わくわう利物の榊葉に、引立標縄の兎に角に、風に乱るゝ有様ありさま、何事に付ても神さびたる気色也。
 此宮と申は、素盞烏尊そさのをのみこと是也。
 始は出雲国の宮造りして、八重立雲と云三十一字の言葉は此御時より始れり。
 景行天皇けいかうてんわうの御宇ぎように此砌みぎりに跡をたれ給へり。

師長熱田社琵琶事

 師長公終夜よもすがら神明納受なふじゆ、初には法施を手向奉り、後には琵琶をぞ弾じ給ける。
 調弾数曲を尽し、夜漏及深更で、流泉、啄木、揚真藻の三曲を弾給処に、本より無智の俗なれば、情を知人希也。
 邑老村女魚人野叟参り集り、頭を低欹耳といへども、更に清濁を分ち、呂律を知事はなけれ共、瓠巴琴を弾ぜしかば魚鱗踊躍き。
 虞公謌を発せしかば、梁塵動揺けり。
 物の妙を極る時は、自然の感を催す理にて、満座涙を押へ、諸人袂たもとを絞けり。
 増て神慮の御納受ごなふじゆさこそは嬉く覚すらめ。
 暁係て吹風は、岸打波にや通らん、五更ごかうの空の鳥の音も、旅寝の夢を驚す。
 夜もやう/\あけぼのに成行ば、月も西山に傾く。
 大臣御心をすまして、初には、
  普合調中花含粉馥気、流泉曲間月挙清明光
と云朗詠して、重て、
  願以今生世俗文字業狂言綺語之誤、翻為当来世々讃仏乗之因転法輪之縁
〔と〕被詠て、御祈念と覚しくて、暫物も仰られず。
 良ありて御琵琶を掻寄て、上玄石像と云秘曲を弾澄給へり。
 其声凄々切々として又浄々たり。
 さうさう窃々せつせつとして錯雑弾、大絃小絃の金柱の操、大珠小珠の玉盤に落るに相似たり。
 御祈誓の験にや、御納受ごなふじゆの至か、神明の感応と覚くて、宝殿大に動揺し、ちはや振ちはやふる玉の簾のさゞめきけり。
 霊験に恐て大臣暫琵琶を閣給けり。
 神明白貍に乗給示して云、我天上にしては文曲星と顕て、一切衆生の本命元辰として是を化益し、此国に天降ては、赤青童子と示して、一切衆生に珍宝を与、今此社壇に垂跡すいしやくして年久。
 而を汝が秘曲に不堪、我今影向せり。
 君配所に下り給はずは、争此秘曲を聞べき、帰京の所願しよぐわん疑なし、必復本位給べしと御託宣ごたくせん有て、明神上らせ給たりしかば、諸人身毛竪て奇異の信心を発す。
 大臣も平家係る悪業を致さずは、今此瑞相を可拝や、災は幸と云事は、加様の事にやと感涙を流し給たまひても、又末憑しくぞ覚しける。
 抑此曲と申は、仁明天皇てんわうの御宇ぎよう、承和二年に、掃部頭貞敏、遣唐使として牒状を賜り、観密府に参じ、上覧に達して、琵琶の博士を望申れしに、開成二年の秋の比、廉承武を被送て、秘曲を被授、我朝に伝しは、流泉、啄木、楊真操の三曲也。
 其後村上帝御宇ぎよう、朗月明々として澄渡り、秋風さつ/\として物哀なる夜、御心をすまし、昼御座の上にして、玄象と云琵琶を、水牛の角の撥にて弾じすまさせ給たまひ、小夜深人定るまで唯一人御座ござ有けるに、一叢の雲南殿の廂に引覆、影の如なる者空より飛参て、琵琶の音に合て舞侍ければ、何者なにものぞと問せ給ふ。
 我は是大唐の琵琶の博士、劉次郎廉承武也。
 琵琶を極て仙を得たり。
 御琵琶の撥音のいみじさに参たり。
 去承和の比、遣唐使貞敏に三曲を授て今二曲を残せり。
 君の玄象の御調べの目出めでたきに、貞敏に惜て秘蔵したりし曲也、授奉んと申せば、聖主叡感の気まし/\て、御琵琶を差遣たりければ、掻直して、此は廉承武が琵琶也、貞敏に二賜ひたりし内也と申て、終夜よもすがら御談話有て、上玄、石象の二曲を奉授、仙人即飛去ぬ。
 帝御名残おんなごり惜く思召おぼしめし、雲井遥はるかに叡覧ありて、感涙を流させ給し曲也。
 三曲と云時は、流泉、啄木、楊真操是也。
 五曲と云時は、上玄、石象を具すとかや。
 係る目出めでたき曲なれば、廉承武も貞敏には惜て伝ざりし曲也。
 玄象と云も、又彼仙人の琵琶也。
 希代の重宝なりければ、清暑堂の御厨子に、ふかく被納たり。
<異本に云、此曲と申は、かたじけなく、霊仙玉廂軒にして操学、神楽につたへし妙調、堯採館の月の下に、承武が攘□に立翔り、天子にさづけし秘曲也。>
 此師長公、保元の昔西国さいこくへ流され給しに、年十二三計と見えて、優なる童一人御舟に参て、朝夕に仕へけり。
 彼国近く成て、童暇を申て罷さらんとしければ、大臣怪之、汝は何の国のいかなる者ぞと問給へば、京都に侍る者也、君の流罪の由を承て、路の程の御徒然に参りたりと申す。
 都にても御覧たりとも覚えず、京は何所ぞと尋給ければ、大内裏に常に出入侍也と申。
 我内裏に奉公して年久し、去共懸る童在とも不覚者をやとて、能々尋給ければ、清涼殿の御節の箱に、玄上と申琵琶也とて、掻消様に失にけり。
 されば師長流罪の後は、玄上の甲はなれ絃切て、天下の騒にぞ有ける。
 理や西国さいこくまでまし/\たりければ也。
 此大臣配所の徒然を慰まんとて、宮路山へ分入給つゝ、木々の紅葉を遊覧あり。
 此は十月二十日余あまりの事なれば、梢まばらにして、落葉道を埋、白霧山を阻て、鳥声幽也。
 山又山の奥なれば、旅寝の里も見えざりけり。
 後は松山峨々として、白石滝水流れ出、苔石面に生て、嵐尾上の冷、誠に石上珍泉の便を得たる勝地あり。
 御心の澄ければ、上玄の曲を調つべくぞ覚しける。
 岩の上に虎皮の御敷皮を打しき、紫藤の甲の御琵琶一面を掻すゑて、撥をとり絃を打鳴し給へり。
 四絃弾の中には、宮商弾を宗むねとし、五絃弾の中には、玉しやう弾を先とす、軽おし慢撚て撥復挑、初為霓裳、後には六幺す。
 大絃はさうさうとして如急雨、小絃窃々せつせつとして私語ささやく、第一第二絃の声は索々たり。
 春の鶯関々として、花本に滑也。
 第三第四絃の声は窃々せつせつたり。
 閑泉幽咽して氷の下眤、鳳凰鴛鴦の和鳴の声を添へずといへ共、事の体山祇感をたれ給らんと覚えたり。
 さびしき梢なれ共、萩花啄木は空に玲瓏の響を送る。
 其時水の底より青黒色の鬼神出現して、膝拍子を打て、和に厳き音を以て、御琵琶に付て唱歌せり。
 何者なにものの仕業なる覧と覚束おぼつかなし。
 曲終り撥を納給時、我は是此水の底に多の年月を経しかども、未是ほどの面白く、目出めでたき御事をば承及ばず、此御悦には今十日の内に帰洛せさせ奉らんと、申も終らず掻消様にぞ失にける、水神の所行といちじるし。
 此等の事を思召おぼしめし合するにも、悪縁は即善縁の始なりけりと、今さら思ひ知給ふ。
 されば明神の御託宣ごたくせん水神の悦申の験にや、第五箇日と申に、帰洛の奉書を被下たり。
 管絃の音曲を極て、当代までも妙音院の大相国たいしやうこくと申は、此大臣の御事なり。
<治承三年に流され給たまひて、同四年に召返ありと。>
 此大臣帰洛の後有御参内ごさんだい
 御前にて琵琶を調べ給ければ、月卿げつけい雲客うんかく頭をうなだれ、廉中堂上目をあやにして、何なる秘曲をか弾じ給はんずらんと被思けるに、珍しからぬ還城楽げんじやうらくをぞ弾じ給ふ、皆人思はずに思へりけり。
 去共大臣御心には深き所存御座おはしましけり。
 還城楽げんじやうらくとは、都に帰て楽と云読のあれば、昨日は東関の外に被遷、草庵に懶住居也しか共、今日は北闕の内に仕て、槐門に楽み栄えて御座おはしましければ、此曲を奏し給ふも理也と、後にぞ思合られける。

高博稲荷社琵琶事

 高博と云し人の母、重病を受て存命不定なりしが、逝て不還ば、盛年、別て会がたきは悲の親也。
 いかゞせんとて、様々労けれ共、終に療治りやうぢの効なかりければ、稲荷社に七箇日参篭して、母の病を祈申けり。
 第七日の夜及深更、心を澄て琵琶を抱て、上玄石象の曲を弾ぜしに、折節をりふし御前の燈炉の火消なんとしけるを、御宝殿の内より金の扉を押開き、玉簾を巻上て、丱童一人出現し、燈をぞ挑ける。
 高博奉之、神慮の御納受ごなふじゆ憑しく覚て、即下向したりければ、母の重病たちどころに平愈して、更に恙ぞなかりける。
 懸る目出めでたき秘曲也、争か輙聞給べきに、適大臣の依配流此曲を弾ぜしかば、熱田大明神だいみやうじんも御納受ごなふじゆありけり。
 左衛門佐業房は伊豆国いづのくにへ流し遣さる。
 備中守光憲は罪科せられぬ前に、無由とて本どり切て引籠りぬ。
 源判官遠業は、四十二人の罪科之内と聞て、さては難遁身にこそ、伊豆国いづのくにの流人、前兵衛佐殿ひやうゑのすけどのこそ、思へば末たのもしき人なれ、打憑み下りたらば、自然に遁るゝ事も有なんとて、子息相具して、瓦坂の家を打出、稲荷山に籠て醍醐の山を伝ひ、田上通に野路の原より関東へ下んと思立たりけるが、抑兵衛佐殿ひやうゑのすけどのと云も、世に有人にてもおはせず、左右なく請取給事も不定也、又平家の人々在々所々に充満たり、中々路頭にて云甲斐なく被討捕、恥を見ん事心うしと思返、瓦坂の家に打帰て、屋に火を懸て父子二人手を取組て、炎中に飛入て焼死にけり。
 鳴呼がましき様には云けれども、時に取てもゆゝしき剛者、哀也と云者も多かりけり。
 此外の人々も、只今ただいまいかなる事をかきかんずると周章あわて騒ぎて、安堵の思なかりけり。
 近衛入道にふだう殿下てんがをば、其時は中殿とぞ申ける。
 其御子に、二位の中将とて御座おはしましけるを、太政だいじやう入道にふだう聟に奉取て、一度に内大臣ないだいじんより関白くわんばくになし奉る。
 大納言だいなごんをへずして、二位中将より大臣関白くわんばくになる事其例なし、是ぞ始なる。
 節会も行はれ、大臣召の有事もあり、先例ある事にや。
 上卿も宰相も、大外記大夫の史までも、皆あきれ迷て肝心も身に副ぬ体也けり。
 去ば是何故ぞとおぼつかなし。
 昔堀川ほりかはの関白くわんばく忠義公 兼通、従三位権ごん中納言ぢゆうなごんにておはしけるが、一条摂政殿せつしやうどの失給たりしに、天禄三年十一月廿七日に、俄にはかに大納言だいなごんをへ給はず、中納言より内大臣ないだいじんに成給たまひて、内覧の宣旨を被下たりしこそ、珍しき事と人思へりしに、是は非参議して、大臣摂禄、ためしなき事也。
 去々年の夏、成親卿なりちかのきやう父子、法勝寺ほつしようじ執行俊寛、北面の下﨟共が、事にあひしをこそ、君も臣も浅猿あさましと被思召おぼしめされしに、是は今一きはの事也、今関白くわんばくに成給へる、二位中将殿ちゆうじやうどのの、中納言に成給べきにて有を、太政だいじやう入道にふだう三度まで執申されしを、御免なくして、前関白殿くわんばくどのの御子、三位中将師家の、八歳になり給へるが、傍より押違へて成給へる故也。
 されば静憲法印にも被怨申ける其一也と人申ければ、さらば関白殿くわんばくどの計こそ事にもあひ給ふべきに、四十余人よにんまで罪なるべしや、何様にも直事には非ず、是は偏ひとへに入道に、天魔の入替たるにやとぞ申ける。

教盛夢忠正為義ためよし

 去保元年中に、新院讃岐に遷され御座おはしまし、左府さふ流矢にあたり給たまひ、般若野に奉送たりけるを、信西が計ひとして左府さふの御首おんくびを掘起して被実検じつけんせられ、首を山野に奉捨、新院讃岐国にて、五部大乗経を御書写ありて、是を都近き所に納奉らせんと仰けるを、是も信西が計ひとして、入れ進せざりければ、新院口惜事也、我身にこそ角憂目を御覧ずとも、大乗経何の咎御座おはしましてか都の内に入せ給はざるべき、今生の怨のみに非ず、後生まで敵にこそとて、思死に隠させ給しかば、旁の怨霊の故にや、打続世の中静ならず。
 依これによつて去年七月に讃岐院を神と奉祝、崇徳院と御追号あり。
 宇治左府さふには贈位とて、正一位を宣下ありけれ共、怨霊猶しづまり給はざりけるにや、平中納言教盛の夢に見給たまひたりけるは、保元に討れし、平馬助忠正、六条ろくでうの判官はんぐわん入道為義ためよし、大将軍と覚しくて、数百騎すひやくきの勢共有ける中に、或柿衣に不動袈裟係たり、或鴟甲に鎧著たり、或首丁頭巾に腹巻きたりなんどして、讃岐院を張輿にのせ奉て、木幡山の峠に舁すゑ奉て、可都由評定しけり。
 新院の御貌を奉見ば、足手の御爪長々と生、御髪は空様に生て、銀の針を立たるが如し。
 御眼は鵄の目に似させ給へり。
 是も柿の衣をぞ召たりける。
 為義ためよし申けるは、西国さいこくより遥々はるばると是まで上著ぬ。
 抑君をば何所へ可入進やらんと申せば、忠正子細にや及べき、法皇の御所法住寺殿ほふぢゆうじどのへと云。
 為義ためよし其は叶候はじ、院ゐんの御所ごしよは当時天台座主てんだいざす御修法にて、不動大威徳門々を守護し給へり、輙入れ奉り難しと申せば、さてはいかゞ有べきと、種々に評定しけるに、新院仰の有けるは、御所に成べき便宜の所なくば、只太政だいじやう入道にふだうの宿所へ入進せよと仰ければ、さらば舁進せよやとて、忠正は前輿為義ためよしは後輿を仕て、数百騎すひやくきの者共手々に奉捧て、入道の宿所西八条にしはつでうへ入進するとぞ見えたりける。
 教盛卿のりもりのきやうは夢覚給たりけれ共、猶現とは思はれず、此由角と内々申給けれ共、入道はさる片顔なしの人にて、更に用給はざりける上、げにも怨霊のよく入替給たりけるにや、現心もなく物狂しくして、天下を乱り臣下を悩す。
 入道猶腹をすゑ兼たりと聞えければ、残る人々も今いかなる事を聞んずらんと、肝魂を消す。
 馬も車も騒しく通れば、あは何事やらんと浅増あさましく、大路門に人の物を云ば、我身の上かと心噪くして、貴も賤も安堵の思ひぞなかりける。

行隆被召出

 前左少弁させうべん行隆と申人御座おはしましけり。
 故中納言顕時卿の長男にて御座おはしまししが、二条院の御代に近召仕れ奉て、弁に成給へりし時も、右少弁うせうべん長方を越て、左に加り給へり。
 五位正上し給へりし中にも、顕要の人八人はちにんを越などして、優々しかりしが、二条院に奉後て時を失へり。
 仁安元年四月六日より、官を止られて篭居し給しより、永く前途を失て、十五年の春秋を送つゝ、夏冬の更衣も力なく、朝暮の食事も心に叶はで、悲の涙を流し、明し暮させ給けり。
 十六日じふろくにちの狭夜更程に、太政だいじやう入道にふだうより使とて、急ぎ立寄給へ、可申合事ありと、事々敷云ければ、行隆何事やらんと、うつゝ心なく騒給へり。
 此十五年の間何事も相綺事なし、身に取て覚る事はなけれ共、上下事にあふ折節をりふしなれば、若謀叛などに与する由、人の讒言に依て、成親卿なりちかのきやうの被引張し様にやと振わなゝき、思はぬ事もなく思はれけれ共、何様にも行向てこそ、兎にも角にも機嫌に随はめと思ひて、憖に参ずべき由、返事はし給たりけれ共、装束牛車もなかりければ、弟の前左衛門権佐時光の本へ、係る事と歎遣したりければ、牛車雑色装束ども、急ぎ遣したり。
 軈やがて取乗て出給ふ。
 北方より子息家人に至るまで、何事にかと肝心を迷て泣悲、左右なく出給べからず、よく/\世間をもきき、太政だいじやう入道にふだうの気色をも伺ひ給たまひてこそと、口々に申けり。
 理也、上﨟下﨟罪科せられて、東国西国さいこくへ被流遣折節をりふしなれば、留め申さるも道理也。
 行隆は不参は中々様がまししとて、西八条にしはつでうへ御座おはしましつゝ、車より下、わなゝく/\、中門の廊に居給へり。
 入道やがて出合て見参して宣のたまひけるは、故中納言殿ちゆうなごんどのも親く御座上、殊に奉憑大小事申合せ進候き。
 其御名残おんなごりとてましましせば、疎にも不思、御篭居久く成をも歎存侍しかども、法皇の御計なれば力及ばず過ぬ。
 今は疾々御出仕有べしと宣のたまひければ、左も右も御計に随ひ奉べしとて、ほくそ咲て出られぬ。
 宿所は還て入道のかくいはれつると語給へば、北方より始て、出給たまひつる心苦さに、今は皆泣笑して喜合給へり。
 後朝に源げん大夫判官だいふはんぐわん季貞を使として、小八葉の車に、入道殿にふだうどのの秘蔵の牛係て、牛飼の装束相具し、百石の米、百匹の絹、被送遣ける上に、今日軈弁に奉成返と有ければ、大形嬉などは云計なし。
 手の舞足の踏所を忘たり。
 被出仕だにも有難に、さしも貧しかりつる家中に、百石百匹牛車を見廻し給たまひけん心中、唯推量るべし。
 一門の人々も馳集、家中の者ども寄合て酒宴歓楽しても、抑是は夢かや/\とぞ云ける。
 十七日じふしちにちに右中弁うちゆうべん親宗朝臣の被追籠たりける、其所に行隆成かへり、同おなじき十八日じふはちにちに五位蔵人に成り給けり。
 今年五十一、今更若やぎ給ふも哀也。

一院鳥羽篭居事

 同おなじき二十〔一〕日、院ゐんの御所ごしよ七条殿に軍兵如雲霞馳集て四面を打囲、二三万騎もや有らんとぞ見えける。
 御所中ごしよぢゆうに候合たる公卿殿上人てんじやうびと、上下の北面女房達にようばうたち、こは何事ぞとあきれ迷けり。
 昔悪右衛門督あくうゑもんのかみ信頼卿のぶよりのきやう、三条殿を仕たりし様に、御所に火を懸て、人をも皆可焼殺なんど云者も有ければ、局々の女房女童部をんなわらんべまでをめき叫、かちはだしにて、物をだにも打かづかず迷ひ出て、倒れふためきて騒合り。
 理也。
 法皇は日比ひごろの有様ありさま、事の体御心得おんこころえぬ事なれ共、流石さすがたちまちに懸べしとは思召おぼしめしよらざりけるに、まのあたり心憂事を叡覧ありければ、只あきれてぞ渡らせ給ける。
 御車寄には前さきの右大将うだいしやう宗盛卿むねもりのきやう参給へり。
 法皇の仰には、こは何事ぞ、遠国へも遷し人なき島にも放つべきにや、左程の罪有とこそ思めさね、主上さて御座おはしませば世務に口入する事計にてこそあれ、其事不然、向後は天下の事にいろはでこそあらめ、汝さてあれば、思放つ事はよもあらじとこそ思召おぼしめせ、其にいかにかく心憂目をば見するぞと仰られもあへず、竜眼より御涙おんなみだをはら/\と流させ給けり。
 大将も見進せては涙を流被申けるは、指もの御事は争有べき、世間鎮らんまで、暫く鳥羽殿とばどのへ移し進せんとぞ、入道は申侍つると被申ければ、左も右も計にこそと仰もはてさせ給はぬに、御車を指よせて大将軈やがて御車寄に候はれけり。
 御経箱計ぞ御車には入させ給ける。
 御供をも仕れかしと御気色おんきしよくの見えければ、宗盛卿むねもりのきやう心苦く思進て、御供候て見置進たくは思給たまひけれども、入道いかゞ宣はんずらんと恐さに、涙を押へて留り給ふ。
 公卿殿上人てんじやうびとの供奉する一人もなし、北面の下﨟二三人ぞ候ける。
 御力者おんりきしやに金行法師は、君はいづくへ御幸有て、何とならせ給やらんとて、御車の後に、下﨟なればかきまぎれて泣々なくなくぞ参ける。
 其外の人々は、七条殿よりちり/゛\に皆帰にけり。
 御車の前後左右には、軍兵いくらと云数を不知、打囲て、七条殿を西へ朱雀を下に渡らせ給ければ、上下貴賤の男女迄も、法皇の流され御座とののしり見進ければ、御供の兵までも涙をぞ流しける。
 鳥羽の北殿へ入進せけり。
 平家の侍に肥前守泰綱奉て奉守護
 御所には然べき者一人も候はず、右衛門佐と申ける女房の、尼に成て、尼御前をば略して、尼ぜと申ける計ぞ免されて候ける。
 唯夢の心地してぞ御座おはしましける。
 供御進たりけれ共、御覧じ入るゝ御事なし、不尽けるは、唯御涙おんなみだ計也。
 門の内外には武士充満して所もなし、国々より駈上せたる夷共なれば、争か御覧じ知せ給べき。
 つへたましげなる顔気色、うとましげなる事様也。
 大膳大大業忠、其時は兵衛尉とて十六に成けるを召れて、朕は今夜失はれぬと覚る也、最後の御所作の料に、御湯召されたきは叶はじや、水などは冷じく思召おぼしめすにと仰ければ、業忠今朝よりは肝魂も身に添はず、只音魂計にて有けるに、此仰を奉て、いとゞ絶入心地して、物も覚えず悲かりけれ共、狩衣の玉襷上て、水を汲たれども薪もなし。
 縁の束柱を放集てたき物として、御湯構出して進たりければ、御湯懸召て泣々なくなく御行始りて後は、終夜よもすがら法華経ほけきやうをぞ遊しける。
 最後の御勤と思召おぼしめしければにや、例よりも殊に物悲くて、鈴の響も耳に透り、読経の御音も肝に銘ず。
 二聖二天、十羅刹女も、十三大会たいゑ、菩薩聖衆も、いかに哀と覚しけん、今夜別の御事なくて明にけり。
 去七日の大地震、係る浅増あさましき事の有べくて、十六洛叉の底迄も答つゝ、竪牢地祇、竜神りゆうじん八部も驚騒給けるにこそと覚たれ。
 陰陽頭泰親が馳参て泣々なくなく奏聞しけるも、今こそ被思知けれ。
 彼泰親は、清明六代の跡を伝て、天文の淵源を尽し、占文の秘枢を極めたり。
 推条は掌をさすが如く、卜巫は眼に見に似たり。
 一事も違事なければ、異名には指神子とぞ云ける。
 されば雷落懸たりけれども、少も恙なかりけり。
 十二神将じふにじんじやうをも進退し、三十六禽をも相従けり。
 いか様にも、正身の神歟仏歟、非直人とぞ申ける。

静憲鳥羽殿とばどの参事

 静憲法印入道の許へ行向て被申けるは、法皇を鳥羽の御所に移し入おはすなるは、如何なる御咎の御座おはしまし候やらん、一日承し御憤おんいきどほりの未はれさせ給はぬにや、人一人も不付進と承ば、想像進て心苦く覚侍るに、蒙御免参て、御徒然をも慰め進ばやと被申たり。
 此法印はうるはしき人、濁れる世をも澄し、事あやまるまじき者なれば、何か苦からんと被免けり。
 法印悦で宿坊へも帰らず、軈やがて鳥羽殿とばどのへ参給へり。
 法皇は御経高らかに遊して、御前には人も候はず、法印急ぎ音なひて参たりけるを叡覧有て、強にうれしげに覚しつゝ、あれはいかにと仰もはてず、はら/\とこぼるゝ御涙おんなみだは御経の上にぞ懸ける。
 法印も御有様おんありさまを見進て、御心中さこそはと忝かたじけなく覚ければ、やがて裘の袖を顔にあてて、音も惜ず泣給。
 尼ぜも臥沈たりけるが、法印被参たりけるに、力付て起あがり、泣々なくなく申けるは、昨日の朝七条殿にて貢御進たりし外は、夕も今朝も御熟米をだにも御覧じ入させ給はず、永き夜すがら御寝もならず、御歎のみ御心苦げに渡らせ御座おはしませば、ながらへさせ給はん事もいかゞと覚るとて、又さめ/゛\となかりけり。
 法印心を定めて申されける、此事更に歎思召おぼしめすべからず。
 平家は凡人と申ながら、家を興し世を取て、天下を我儘にして、二十余年の栄耀にほこるといへ共、何事も限あり、彼等は臣下也、君は国主に御座、忝かたじけなくも御裳濯川の御末、百王億載の御ゆづりを受させ給へり。
 草木風に靡きて、枝全く、万物地に依て生長す、非情の心なき猶以如此、況人臣として、朝家を嘲、在下上を蔑にせん事、いざ/\例多といへども、素懐をとげたる者なし、遠は三年を過ず、只今ただいま天の責を蒙なんず、是は偏ひとへに天魔入道に入替て、其家の正に亡んずる也、御歎に及ばず、只今ただいまこそ角渡らせ給とも、伊勢太神宮、八幡大菩薩はちまんだいぼさつ、殊には君の憑み思召おぼしめさるゝ、山王七社しちしや、両所三聖、よも捨果進せ給はじ、災妖不善政、夢怪不善行と申事侍ば、只先非を悔させ給たまひ、人民に恵を施し、政務に私あらじと思召おぼしめさば、天下は忽たちまちに君の御代に立返、悪徒あくとは必水の泡と消失ん事疑なし、御心づよく思召おぼしめすべしとて、貢御勧め被申ければ、いさゝか慰む御心地おんここちとて、御湯づけ少聞召入きこしめしいれられけり。
 尼ぜも力付て覚えけり。
 此尼ぜと申は、法皇の御母儀おぼぎ侍賢門院の御妹、上西門院にも候はれけるが、品いみじき人にては無りけれども、心様さか/\しき上、一生不犯の女房にておはしければ、清き者也とて、法皇も幼稚の御時より近く召仕はせまし/\ければ、臣下も君の御気色おんきしよくに依て、尼御前とはかしづきよばはれけるを、法皇はたゞ尼ぜとぞ仰ける。
 鳥羽殿とばどのの唯一人付進せて候けり。
 君舟臣水、々治浪舟能浮水、湛波舟又覆と云ふ事あり。
 太政だいじやう入道にふだう保元平治両度の合戦には、御方にて凶徒きようとを退て君を助奉りき。
 水波を治めよく舟を浮たり。
 治承の今は勲功の威に誇て君を褊し奉る、水波を湛て舟を覆す憂あり。
 貞観政要の文、実也とぞ覚たる。

主上鳥羽御篭居御歎事

 主上は臣下のかく成るをだにも、不便の事に歎き思食おぼしめしけるに、法皇の御事聞召きこしめしては、不なのめならず御歎き有て、何事もおぼし召入ぬ御有様おんありさまにて日を経つゝ、はか/゛\しく貢御も進ず、打解御寝もならず、御心地おんここち悩しとて、常は夜のおとゞに入せ御座おはしましければ、后宮を始進せて、近く候はれける女房達にようばうたちも、心苦く見進ける。
 内より鳥羽殿とばどのへ御書あり。
 世もかくなり君も左様に御座ん上は、位に候ても何にかは仕べき、花山法皇の御座おはしましけん様に、国を捨家を出て、山々寺々をも修行せんと思食おぼしめすとまで、申させ給たりければ、法皇、我御身は君のさて御座をこそ憑にて候へ、さやうに思召おぼしめし立なん後は、何の憑かは侍べき、左も右も此身のならん様を御覧じ終させ給へと、様々の御返事おんへんじ有ければ、いとゞ御歎の色深して、御書を竜顔にあてさせ御座おはしまして、御涙おんなみだに咽せ給けるぞ悲き。
 太政だいじやう入道にふだうは天下の大小事一筋に、内の御計に有べしとて、福原へ下向あり。
 宗盛此由を被奏聞
 思召おぼしめされけるは、主上聟也、天下を我儘にせんとや、法皇の御譲をえたる御世にも非ず、縦さりとても、法皇鳥羽殿とばどのに御心憂御形勢おんありさまに御座おはします、何のいさみ有てか、世事を可聞召入きこしめしいる、我御心に任する世ならば、法皇をぞ打籠進せざらんと被思召おぼしめされけるにや、いかにも宗盛可相計、又関白くわんばくに申せとぞ仰は有ける。
 只明ても暮ても法皇の御事をのみ歎思食なげきおぼしめして、世事はつゆ御計ひなかりけり。
 去二十日法皇鳥羽殿とばどのへ移らせ給と聞食きこしめし後は、御神事とて、夜のおとゞへ入せ給たまひ、毎夜に石灰の壇にて、太神宮をぞ拝し奉らせ給ける。
 法皇の御事を祈申させ給けるにこそ、同父子の御間なれども、殊に御志深かりけるこそ哀なれ。
 見進せける余所の袂たもとも乾く間ぞなかりける。
 百行の中には孝行を先とし、万行の間には、孝養勝たり、如来によらい万徳の尊孝を以て正覚を成、明王みやうわう一天の主、孝を以て国土を治といへり。
 去ば唐堯は衰老の母を貴、虞舜は頑なる父を敬へり。
 延喜の聖主は我朝の賢帝に御座おはしましけれども、北野天神の御事に依て、寛平法皇の背仰給たまひて、悪道に入せ給けり。
 二条院も賢王けんわうにて御座おはしましけれ共、天子に父母なしとて、常に法皇の背仰申させ給ける故にや、継体の君までも御座おはしまさず、先立せ給、御ゆづりを受させ給たりし六条院も、御在位僅わづかに三箇年、五歳にて御位を退せ給たまひ、太上天皇てんわうの尊号ありしか共、未御元服ごげんぶくもなかりしに、御年十三にて、安元あんげん二年七月二十七日にじふしちにちに隠させ給にき、哀也し御事也。
 鳥羽殿とばどのには月日の重に付ても、御歎は浅からず、折々の御遊ぎよいう、所々の御幸、御賀の儀式の目出かりし、今様朗詠の興ありし事、扇合絵合までも、忘るゝ御隙なく、只今ただいまの様にぞ被思召出おぼしめしいだされける。
 自参よる人もなし。
 理也、法皇も恐思食おぼしめして召れず、大相国たいしやうこくも免し給はざりければなり。
 唯秋山の嵐烈く、軒ばをつたふ友となり、古宮の月さやけくして、涙の露に影を宿す、夜深しては枕に通砧の声、御寝の夢を覚し、暁かけては氷を碾車の音、老牛心を傷しむ。
 御眼に遮る物とては、昇せ煩ふ策いさりの火、叡慮にかゝる事とては、いつまで旅の襟ひ、白雪はくせつ庭を埋ども、道を払人もなく、結氷も池を閉て、群居鳥だに見えざりけり。
 大宮大相国たいしやうこく伊通、三条内大臣ないだいじん公教、葉室大納言だいなごん光頼、中山中納言顕時など申し人々も被失にき。
 古人とては民部卿親範、宰相成頼、左大弁さだいべん宰相俊経なんどの御座おはしませしも、此代の成行有様ありさまを見給たまひて、左も右も有なん、大中納言だいちゆうなごんに成たりとも、只夢なるべしとて、未四十にだにも成給はざりける人々の、忽たちまちに世を遁れ家を出て、親範は大原おほはらの霞に跡を隠し、成頼は高野の雲に身を交へ、俊経は仁和寺にんわじの閑居をしつらひて、偏ひとへに後世菩提をこそ被祈けれ。
 漢四皓は商山の洞に住、晉七賢は竹林の庵に隠、首陽山に蕨を採、頴川の水に耳を洗し人も有ける也。
 まして此世には、心あらん者、一日も跡を留むべきにあらざりけり。
 中にも宰相入道成頼、此事共を伝へ聞給たまひては、哀うれしくも心とく世を遁たるもの哉、角て聞も同事なれども、世に立交てまのあたり見ましかば、いかばかりか心憂からまし、保元平治の乱をこそ浅猿あさましと思ひしに、世の末になればにや、弥増々々に成行たり。
 此後又如何あらんずらん。
 雲を分ても上、地を堀ても入ぬべくこそ覚ゆれとぞ宣のたまひける。
 賢も思切給へる人々也と、叶ぬ身にも申けり。
 治承四年正月元三の間も、鳥羽殿とばどのには参寄人もなし。
 藤とう中納言ぢゆうなごん成範、左京大夫修範是二人ぞ被免候ける。
 年去年来れ共、くつろがせ給御事もなし。
 筧のつらゝの心地して、閉籠られさせ給たるぞ哀しき。
 二十日春宮とうぐうの御袴著、御まな始可聞召とて、花やかなる御事共おんことども世間にはののしりひそめきけれ共、法皇は御耳のよそにぞ被聞召きこしめされける。

安徳あんとく天皇てんわう御位事

 二月十九日、春宮とうぐう位に即せ給。
 安徳あんとく天皇てんわうと申、僅わづかに三歳にぞ成せ給、いつしかなり。
 先帝も異なる御事もましまさね共、我御孫子を付奉んためにおろし奉る。
 是も太政だいじやう入道にふだうの、万事思様なる故也と、人々私語ささやき傾申けり。
 平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやう之被申けるは、なじかはいつしか也と申べき、異国には周の成王せいわう三歳、晋穆帝二歳、皆襁褓の中に裹れて、衣帯を正くせざりしか共、或は摂政せつしやう負て位につき、或は母后懐て朝に望といへり。
 後漢孝殤皇帝は、生て百余日にて践祚ありき、我朝には近衛院三歳、六条院二歳、これ皆天子の位を践給ふ、非前蹤、なじかは人の傾申べきと嗔り宣のたまひければ、是の才人達、穴おそろし/\物云はじ、去ば其は吉例にやは有とぞつぶやきける。
 春宮とうぐう位に即せ給ければ、外祖父、外祖母とて、太政だいじやう入道にふだう夫婦ともに、三后に准る宣旨を蒙て、年官年爵を賜て、上日の者を被召仕ければ、絵書花付たる侍ども出入て、院宮の如にてぞ有ける。
 出家入道の後も、なほ栄輝名聞は尽ざりけりとぞ見えし。
 出家の人の准三后の宣旨を蒙事は、法興院の大入道殿にふだうどのの御例とぞ承る。
 大入道殿にふだうどのとは、九条右丞相師輔の第三男、東三条とうさんでう太政大臣だいじやうだいじん兼家の御事也。
 かくはなやかに目出めでたき事は有けれども、世中は不穏。

新院厳島鳥羽御幸事

 三月十七日じふしちにちには、新院安芸国一宮厳島の社へ可御幸由披露有ける程に、諸寺諸山騒動して、京中の貴賤何となく騒合ける上、山門の衆徒僉議せんぎしけるは、帝王位を退せ給たまひては、必ず先八幡賀茂両社の御幸有て、其後何れの社へも思召おぼしめし立御事也。
 但白川院【白河院】しらかはのゐんは、先熊野御参詣、後白川院【後白河院】ごしらかはのゐんは先日吉の御幸有き。
 去ば任先例、此神々へこそ先可御幸に、不思寄厳島御参詣也、速に可停止
 此上猶御幸あらば、京中に打入て、可狼藉之由蜂起すと聞召ければ、俄にはかに又思食おぼしめし止らせ給ぬと聞えけり。
 新院猶御宿願ごしゆくぐわんを果さんと思召おぼしめしけるに依て、内々は其御用意にて、供奉の人々も忍て被仰合けれども、山門の訴訟も煩はしとて、よそ聞には鳥羽殿とばどのへ御幸と御披露有て、十八日じふはちにちの夜、太政だいじやう入道にふだうの宿所、西八条にしはつでうへ入せ給たまひて、前さきの右大将うだいしやう宗盛を召て、明日鳥羽殿とばどのへ参ばやと思召おぼしめす御事あり、入道に不相触しては叶はじやと、仰も終ぬに、竜眼に御涙おんなみだを浮めさせ給ければ、大将も哀に覚て、宗盛角て候へば、何かは苦かるべきと被申けり。
 不なのめならず御悦有て、去ば鳥羽殿とばどのへ御気色おんきしよく申せと仰ければ、大将急其夜の中に被申たり。
 法皇は覚御心もなく悦び御座おはしまして、余に恋しく思召おぼしめす御事とて、夢に見つるやらんとまで仰けるこそ哀なれ。
 十九日には鳥羽殿とばどのへ御幸とて、西八条にしはつでうを夜中に出させ給けり。
 比は三月半余あまりの事なれば、雲井の月は朧にて四方の山辺も霞こめ、越路を差て帰鴈、音絶々にぞ聞召。
 御供の公卿には藤とう中納言ぢゆうなごん家成卿の子息に、師そつの大納言だいなごん隆季、前さきの右馬助うまのすけ盛国もりくにの子息に、五条ごでうの大納言だいなごん邦綱くにつな、三条内大臣ないだいじん公教の子息に、藤大納言だいなごん実国、前さきの右大将うだいしやう宗盛、久我内大臣ないだいじん雅通の子息に土御門宰相さいしやうの中将ちゆうじやう通親、殿上人てんじやうびとには、隆季の子息に、右中将隆房朝臣、中納言資長子息に、右中弁うちゆうべん兼光朝臣、三位範家子息に、宮内少輔棟範、公卿五人、殿上人てんじやうびと三人、北面四人、十二人ぞ候ける。
 新院、鳥羽殿とばどのにては門前にして御車より下させ給たまひて入せ給けり。
 暮行春の景なれば、梢の花色衰、宮の鶯音老たり。
 庭上草深して、宮中に人希也。
 指入せ給より、御涙おんなみだぞすゝませ給ける。
 去年正月六日朝観の御為に、七条殿の行幸思召おぼしめし出させ給たまひても、只夢の御心地おんここちにぞまし/\ける。
 彼行幸には、諸衛陣を引、諸卿列に立、楽屋に乱声を奏し、院司公卿参向て、幔門を開き、掃部寮の筵道をしき、正しかりし御事也しかども、是は儀式一事もなし。
 成範中納言参給たまひて、御気色おんきしよく申ければ、入せ御座おはしましけり。
 法皇も新院も、御目を御覧じ合せまし/\て、互に一言の仰はなくして、唯御涙おんなみだに咽ばせ給けり。
 少し指退きて尼ぜの候けるが、御二所の御有様おんありさまを見進て、うつぶしに臥て泣けり。
 良久有て、法皇御涙おんなみだを推のごはせ給たまひて、何なる御宿願ごしゆくぐわんにて、遥々はるばると厳島まで思召おぼしめし立せ給にやと、申させ給たまひければ、新院は深く祈申旨候と計にて、又御涙おんなみだを流させ給。
 法皇は此身の角打籠られたる事を、痛く歎かせ給ふなるに合て、祈誓せさせ給はん為にこそと、御心得おんこころえ有けるに、いとゞ哀に思召おぼしめされて、共に御涙おんなみだに咽ばせ給ふ。
 御浄衣の袖も御衣の袂たもとも、絞る計にぞ見えける。
 昔今の御物語おんものがたりども仰かはさせ御座おはしますに、日暮夜を明させ給ふ共、尽しがたき御事なれば、御名残おんなごりは惜く思召おぼしめしけれども、泣々なくなく出させ給たまひけり。
 法皇は今日の御見参をぞ返々悦申させ給ける。
 新院今年二十に満せ給けるが、御冠際、御鬢茎より始て、気高く愛々しくて、此世の人とも見えさせ給はず。
 御母儀おぼぎ建春門院けんしゆんもんゐんに似させおはしければ、いとゞ哀にぞ思召おぼしめし御覧じける。
 月比日比ひごろの御歎にや、事外に面痩て見えさせ給に付ても、らふたくうつくしくぞ渡らせ給ける。
 新院は出させ給とて、今一度見進せずして、何事もやと御心憂侍つるにとて、立せ給ふ。
 法皇は御名残おんなごり惜くて、今暫くとも被思召おぼしめされけるが、日影も高く成上、いつも名残なごりはと思召おぼしめしけるに、去気なくもてなさせ給けれ共、なほ御涙おんなみだはつきざりけり。
 叡慮推はかり進ては、供奉の人々も袂たもとを返して涙をぞのごひける。
 南門より御舟には移らせ給けり。
 御おくりの人々は、是より帰上る。
 厳島までの供奉の公卿殿上人てんじやうびとは、内々用意ありければ、浄衣にて被参詣たり。
 前さきの右大将うだいしやう宗盛、数百騎すひやくきの随兵を召具し給へり。
 けしからず見えけり。
 二十六日にじふろくにちに厳島に御参著、神主佐伯景弘、当国国司有経、当社座主尊叡勧賞を蒙。

和巻 第十三
新院自厳島還御事

 治承四年四月七日、新院自厳島還御、以其次太政だいじやう入道にふだうの御座おはしましける福原へ御幸有て、八日被勧賞行
 左少将資盛四位しゐの従上、丹波守清邦、五位上下也。
 今日福原を出させ御座おはしまして、寺江と云所に御留あり。
 九日は御京入、新帝始めて大内へ依遷幸、公卿殿上人てんじやうびと其へ参給ければ、新院御迎には、左大臣公能の子息に、右宰相さいしやうの中将ちゆうじやう実守一人に、殿上の侍臣五人、鳥羽草津へ参向ふ。
 厳島まで御伴に参たる人々は、舟津に留て、さがりて京へは入給へり。
 新院都を立離、八重の塩路を遥々はるばると思召おぼしめし立御志、神明も争御納受ごなふじゆなかるべき。
 御願ごぐわん成就じやうじゆ疑あらじとぞ覚し。
 法皇かく被打籠まし/\て、幽なる御有様おんありさま、御心苦く思召おぼしめして、此大明神だいみやうじんに祈申たらば、神明の御計として、入道にふだうの謀叛の心も和ぎ、法皇も御心安おんこころやすき事もやとて、御参ありと申す人もあり。
 又入道の崇給へば、御同心なる御色をあらはし御座おはしますにこそと申す人も有けれども、世間には御夢想ごむさうのつげ故とぞ披露しける。

入道信厳島並垂迹事

 抑入道の厳島を崇給ける事は、鳥羽院とばのゐんの御宇ぎよう、清盛きよもり安芸守たりし時、以彼国高野の大塔造営すべき由院宣を賜て、渡辺党に、遠藤六頼賢に仰て、六箇年に被組立たりけり。
 清盛きよもり則高野に参て、大塔奉拝休給たりける夜の夢に、七十有余いうよの老僧の、八字の霜を眉に垂、滄海の波面に畳て、かせ杖の二俣なるさきに、鉄入たるを突て、入道に申けるは、此大塔造営こそ、返々目出覚し、又所望申度事こと侍。
 安芸厳島と、越前気比とは、西海北陸境異なれども、金剛こんがう胎蔵の両界として、目出めでたき所にて侍也。
 気比の社は繁昌せり。
 厳島は荒廃して候。
 此事大に歎思ふ、相構て崇修理し給へ。
 さらば我身の栄花をも開、子孫の繁昌疑なしと云かけて出給ふ。
 是は何なる人にて御座るやらん、あれ見て参とて、貞能さだよしを付て遣しけるに、三町さんちやう計御座おはしまして、彼老僧御堂の中へ入給ぬと語申と見て、夢覚畢。
 清盛きよもり此事は、弘法大師の御託宣ごたくせんにやとぞ、被思ける。
 又此夢に驚、娑婆世界の思出にとて、高野の金堂に曼陀羅まんだらを書給たまひけるが、西の曼陀羅まんだらをば正妙とて、院にも召れ、入道も仕給ける絵師を以て被書。
 東の曼陀羅まんだらをば、清盛きよもりの自筆に書給。
 九尊の中尊の宝冠をば、脳より血を出して被書たり。
 誠の志とぞ人感じ申ける。
 清盛きよもり高野下向の後に、院参ゐんざんして右の夢想むさうを奏聞す。
 任を延て厳島を可修理由被仰下
 依これによつて清盛きよもり社々を造替し、古にし鳥居を立改、廻廊百廿間造り瑩き、内侍神女に至までも、もてなしかしづき給けり。
 修理の功終て、清盛きよもり彼社に参詣あり。
 大明神だいみやうじん内侍に移て有御託宣ごたくせん
 やや安芸守殿、高野にて夢に告知せ奉しは、此大明神だいみやうじん也。
 夢の告不空、角懇に奉崇敬事、返々神妙しんべう、神約なれば、子孫までも可守とて、明神あがらせ給にけり。
 掲焉也し事共也。
 懸ければ入道俗体の昔より、出家の今に至まで、信仰帰依怠らず。
 されば子息兄弟、太政大臣だいじやうだいじん大将に至り、国郡庄園朝恩に飽満給へり。
 されば神明の御計にて、入道の心も和らぎ、法皇もくつろがせ給ふ御事を御祈誓の為に、賀茂八幡両社の御幸より前に、新院厳島の御幸は有けるにこそと人申けり。
 抑厳島明神と申は、推古天皇てんわうの御宇ぎよう、〈 癸丑 〉端正五年十一月十二日、内舎人佐伯鞍職と云者、為網鉤恩賀、島の辺に経回しけるに、西方より紅の帆挙たる船見え来る。
 船中に瓶あり。
 瓶の内に鋒を立て、赤幣を付たり。
 瓶内に三人の貴女あり。
 其形端厳にして人類に不同。
 託宣して云、吾為百王守護本所王城、御宝殿并ならびに廻廊百八十間造立して、我を厳島大明神だいみやうじんと崇べしと宣へば、鞍職言く、何なる験有てか可官奏と。
 明神答云、王城の艮の天に、客星異光有て出現せん、公家殊に驚て可怪時に、烏鳥多集て、共に榊の枝を食へんと宣のたまひけり。
 即摂津国つのくに難波の王城に、俄にはかに千万の烏、榊の枝を食へて禁裏に鳴集る。
 鞍職奏して申、是は大明神だいみやうじんの現瑞也と。
 天皇てんわう叡信の余、御俸田百八十町、御修理、杣山八千町、御寄進の宣旨を被下の上、同年十二月廿八日に、重て被宣下云、自今位後、拝任当国之吏、毎任可上分田、不神威、及末代社頭破壊顛倒之時は、当任の国司、経官奏、点国中こくぢゆう之杣修理、其間材木檜皮等不上京都云云。
 御垂跡すいしやく者、天照太神てんせうだいじん之孫、娑竭羅竜王りゆうわう之娘也、本地を申せば、大宮おほみやは是大日、弥陀、普賢、弥勒、中宮は、十一面観音、客人宮、仏法ぶつぽふ護持多門天。
 眷属神等、釈迦、薬師やくし、不動、地蔵也。
 惣八幡別宮とぞ申ける。
 御託宣ごたくせん文云、法身恒寂静、清浄無二相、為度衆生故、示現大明神だいみやうじん、御祓の時には、必此文を誦すと申。
 法性不二の色身は、寂光浄土じやうどに居すれども、和光わくわう同塵どうぢんの垂跡すいしやくは、巨海の流類に交れり。
 治承四年四月廿二日、新帝御即位あり。
 此御事大極殿だいこくでんにて被行事なれども、去し治承元年に焼にしかば、後三条院ごさんでうのゐん延久の例に任て、官庁にて有べかりしを、右の大臣兼実計申させ給けるは、官庁は凡人に取ば、公文所也。
 大極殿だいこくでんなからん上は、紫宸殿にて可行と被仰けるに依、即其にてぞ有ける。
 康保四年十一月十一日、冷泉院御即位は、紫宸殿にて被行けり。
 其例いかが有べき。
 唯後三条院ごさんでうのゐんの御例に任て、太政官の庁にて、有べき物をと、人々被申けれども、右の大臣の恩計也ければ、子細に不及けり。
 中宮は弘徽殿より仁寿殿へ移らせ給たまひて、高御倉へ参らせ給たまひける有様ありさま目出ぞ在ける。
 され共ひそか事には、様々の御さとしども有けるとかや。
 平家の人々、宗盛三十三さんじふさんの重厄の慎とて、去年より大納言だいなごんならびに大将を辞給たまひて出仕なし。
 小松こまつの内大臣ないだいじん薨じ給しかば、維盛、資盛、清経など色にて籠給へり。
 本意なかりし事也。
 左兵衛督知盛、蔵人頭くらんどのとう重衡朝臣計ぞ出仕有ける。
 後朝蔵人左衛門権佐定長、太政だいじやう入道にふだうの宿所に参じて、昨日の御即位に御失礼もなく目出く難有由、細々と四五枚に書注して、二位殿にゐどのの御方へ進たりければ、入道殿にふだうどのも二位殿にゐどのも、咲まけてぞ御座おはしましける。

高倉宮たかくらのみや廻宣附源氏汰事

 一院第二の御子、以仁王と申は、御母は春宮とうぐうの大夫公実息男、加賀大納言だいなごん季成卿御娘とかや。
 三条高倉に御座おはしましければ、高倉宮たかくらのみやとぞ申ける。
 去永万えいまん元年十二月十六日じふろくにちに、御歳十五と申しに、大宮御所にて忍て御元服ごげんぶく有しが、既すでに三十に成せ給ぬれども、親王の宣旨をだにも不下して、沈てぞ御座おはしましける。
 御手跡も厳く、御才覚も優に御座おはしましけり。
 御位に即せ給たらば、末代の賢王けんわうとも申つべしなど、人々申しけれども、女院には御継子にて渡らせ給ければ、被打籠つゝ、春は花下にてかたむく日影を歎暮し、秋は月前にて明行空を怨み明し、詩歌管絃に御心を慰め、等閑に年月を過させ給けり。
 治承四年卯月九日夜深人定て後、源げん三位ざんみ入道にふだう頼政よりまさ、潜に彼宮の御所に参て申けるは、君は天照太神てんせうだいじん四十八代の御苗裔、太上法皇第二御子にて渡らせ給へば、太子にも立帝位にも即せ給べきに、親王の宣旨をだにも御免無くて、既御年三十に成せ給ぬ。
 御心憂と思召おぼしめし候はずや。
 平家は栄花身に余り、悪行年久成て、運命末に望めり。
 子孫相続して、朝に仕へん事難く見え侍り。
 当時いかなる御計もなくば、いつをか期せさせ給べき。
 慎み過させ給とも、終には安穏に果させ給はん事も有がたし。
 物盛して衰へ、月盈侍虧。
 此天道非人事、爰に清盛きよもり人道、偏ひとへに振武勇之威、忽たちまちに忘君臣之礼、不万乗尊高之君、不三台重任之臣、只任愛憎心猥取断割之刑、所悪滅三族、所好先五宗逞於一身之心腑、懸毀於万人之脣吻、天譴己到人望、早背量時制文之道也、乗間討敵兵之術也、頼政よりまさ其器、雖其術、武略禀家、兵法伝身、倩顧六戦之義、今案必勝之勝之法加於己、不止、謂之応兵、争恨小故、不憤怒、謂之忿兵、利土地貨宝、謂之貪兵、恃国家之大、矜民人之衆、謂之驕兵、此類皆背義背礼、必敗必亡、求乱誅暴、謂之義兵、此類己叶道叶法、百戦百勝、上応天意下得地利、挙義兵、討逆臣、奉法皇之叡慮、被群臣ぐんしん之怨望、専在此時、不日、急被令旨、早可源氏等げんじら、入道七十有余いうよ、年闌侍れども、子息家人余多あまた候へば、一方の御固と可憑思召おぼしめさるべし、悦を成し馳参らんずる源氏等げんじら、国々に多候とて、申連けるは、京都には、出羽判官光信男、伊賀守光基、出羽蔵人光重、出羽冠者光義、熊野には、六条ろくでうの判官はんぐわん入道為義ためよしが子に、新宮十郎義盛、平治の乱より彼に隠れ居たりしが、折節をりふし上洛して此にあり。
 摂津国つのくにには、多田ただの蔵人行綱、同次郎知実、同三郎高頼、大和国やまとのくにには、宇野七郎親治が子に宇野太郎有治、同次郎清治、同三郎義治、同四郎業治、近江国には、山木冠者義清、柏木判官代はんぐわんだい義康、錦織冠者義広、美濃尾張には、山田次郎重弘、河辺太郎重直、同三郎重房、泉太郎重満、浦野四郎重遠、葦敷次郎重頼、其子太郎重助、同三郎重隆、木田三郎重長、関田判官代はんぐわんだい重国、八島先生斉助、同次郎時清、甲斐国には、逸見冠者義清、同太郎清光、武田太郎信義、同弟に、加々美次郎遠光、安田三郎義定、一条次郎忠頼、同弟板垣三郎兼信、武田兵衛有義、同弟伊沢五郎信光、小笠原次郎長清、信濃国しなののくにには、岡田冠者親義、同太郎重義、平賀冠者盛義、同太郎義信、帯刀先生義賢が子に木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなか、伊豆国いづのくにには、左馬頭さまのかみ義朝よしともが三男に前兵衛権佐ひやうゑのごんのすけ頼朝よりとも、常盤国には、為義ためよしが子、義朝よしともが養子に、信太三郎先生義憲、佐竹冠者昌義、子息太郎忠義、次郎義宗、四郎義高、五郎義季、陸奥国には、義朝よしともが末子に、九郎冠者義経とて候。
 此等は皆六孫王の苗裔、多田ただの新発しんぼち満仲まんぢゆうが後胤、頼義らいぎ義家よしいへが遺孫也。
 家子郎等駈具せば、日本国に誰かは相従集らざるべき、其に昔は大衆をも防、凶徒きようとをも退け、預朝賞宿望をも遂し事は、源平何も勝劣なかりき。
 而当時は雲泥の交を隔て、主従の礼よりも猶異也。
 僅わづかに甲斐なき命ばかり生たれ共、国々の民百姓と成て、所々に隠居て侍るが、国には目代もくだいに随ひ、庄には預所に仕て、公事雑役に駈立られ、夜も昼も安事なし。
 いか計かは心憂思らん。
 君思召おぼしめし立て、令旨をだにも下させ給はば、且は奉公の忠を存じ、且は宿望を遂んが為に悦をなし、夜を日に続てむらがり上り、平家を亡さん事、時日をばよも廻し候はじ。
 法皇の鳥羽殿とばどのに御年を経て、打籠られさせ給たまひて、幽なる御住居おんすまひ、御心うき御事をも休め進させ給たらば、御至考にてこそ侍らめ。
 伊勢太神宮も正八幡宮しやうはちまんぐうも、必御恵を垂させ給ふべし。
 天神地祇も争か思召おぼしめし捨、急思召おぼしめし立て、平家を亡し、御位にも即せ給なば、源氏等げんじら遠き御守護と成進せ候べしと、細々と申上けり。
 宮はつらつらと聞召きこしめして、此事如何が有べかるらん、主上は清盛きよもり入道外孫、平家尤後見たり。
 御代は高倉院たかくらのゐん聞召、兄弟国をあらそはん事、恐なきに非、保元の先蹤憚あり。
 抑源氏御命に相従つて急ぎ馳上り、平家を打亡さん事も難知。
 此事身の上の至極、天下の珍事也。
 偏ひとへに浮言を信ぜんは、思慮なきに相似たり。
 然而今一々宣説処、已に兵法をえて、能弁人理、文武事異なれども、通達旨同、欺て益なし。
 昔微子去殷而入周、項伯叛楚而帰漢、周勃迎代王少帝、霍光尊孝宣、廃昌邑、是皆覩存亡之符、見廃興事成功於一時、垂業於万代、時至ぬれば運の速なる事可言、抑少納言惟長とて、相人あり。
 是は左大臣俊家の息男、阿古丸大納言だいなごん宗通の孫、備後前司季通の子息なり。
 此の人の相したる事は一事も不違ければ、時の人相少納言さうせうなごんと申。
 其人此宮をば位に即せ給べき相御座、天下の事思召おぼしめし捨させ給べからずと申し事思召おぼしめし出て、帝位を践べき時の至にもや、頼政よりまさ入道もかくは申らめ、又天照太神てんせうだいじんの御計にてもや有らんとて、不敵に思召おぼしめし立て、国々の宗徒の源氏等げんじらに、廻宣の令旨をぞ被下ける。
 其状に云、
 下 東山東海北陸三道、諸国軍兵等所 早可討清盛きよもり法師并ならびに従類叛逆輩
 右前伊豆守いづのかみ上五位下行源朝臣仲綱なかつな宣、奉最勝親王勅、併清盛きよもり法師并ならびに宗盛等むねもりら、職威勢帝王、起凶徒きようと、亡国家、悩乱百官万民、掠領五畿七道ごきしちだう、閉籠皇院、流罪臣公、断命流身、沈淵入楼、盗財領国、奪官授職、無功恣許賞、非罪猥配過、依これによつて巫女不宮室、忠臣不仙洞、或召誡於諸寺之高僧獄修学之浄侶、或賜下於叡岳之絹米、相具謀叛之粮食、断百王之跡、抑一人之頂違逆帝皇滅仏法ぶつぽふ、見其振舞、誠絶古代者也、于時天地悉悲、臣民皆愁矣、仍一院第二皇子、尋天武皇帝之旧儀追討、王位推取之輩訪上宮太子之古跡、打亡、仏法ぶつぽふ破滅之類也、唯非人力之構、偏所天照之理矣、因これによつて三宝仏神之威、何無四岳合力之忠哉、然則源家家人、藤氏氏人、兼三道諸国之内、堪勇士者、同令与力、可討清盛きよもり法師并ならびに従類、若於同心者、可配流追禁之罪過、若於勝功者、先預諸国之使、兼御即位之後必随乞可勧賞也、諸国宣承知、依宣行之。
   治承四年四月九日      伊豆守いづのかみ正五位下源朝臣とぞ在ける。
 伊豆国いづのくに流人、前の兵衛佐ひやうゑのすけみなもとの頼朝よりともは源家の嫡々なればとて、別令旨を被下。
 其状云、
 下 東国源氏并ならびに官兵等所 応早且任廻宣状、且以前いぜん右兵衛佐うひやうゑのすけみなもとの頼朝よりとも大将軍参洛
 右 宣旨意趣者、我為百王孫、雖宝祚、猶依聖運遅々、未即位、而清盛きよもり入道、以一旦冥怪、令天下、誇非分権威、欲皇法之処、依有仏神之守護、不梟敵之姦望、未王法失亡之条明矣。
 謹仰厳旨可清盛きよもり也、速致同心、励微力、果其意趣必進帝位者、朝恩争可空哉、然者しかれば清盛きよもり武勢、下知既致都洛空役、我与皇恩、以東北武勢、何不天下哉、旁各可景迹也、若於宣命者、早可伐責之状如件以宣。
 治承四年四月九日       前さきの右少史小槻宿禰とぞ、被下ける。
 抑令旨の御使、誰か可勤と仰ければ、三位さんみ入道にふだう申けるは、外人は憚有べし、新宮十郎義盛、折節をりふし在京に侍れば、被召て使節を可仰含かと。
 可然とて義盛を召。
 事の次第委被下知ければ、十郎畏て、平治年中より新宮に隠籠て、夜昼安き心なし、いかゞして素懐をとげて、再家門の恥をきよめんと存る処に、今蒙厳命条、併身の幸に侍、一門誰か子細を申べき。
 速に東国に罷下て、同姓の源氏、年来の家人を催上候べしとて、御前を立処に、三位さんみ入道にふだう申けるは、令旨の御使を勤候はんには、無官むくわんにては其恐有べしと申せば、然るべしとて当座に蔵人になされけり。
 十郎蔵人は、義盛を改名して行家と名乗。
 九日令旨を給たまひて、十日の夜半に藤笈を肩にかけ、柿の衣に装束して、熊野にて見習たれば、山伏の学をして、海道に係つて下けり。
 先近江国には、山本、柏木、錦織に角と知せて、令旨の案を書与へて、美濃尾張へこゆ。
 山田、河辺、泉、浦野、葦敷、関田、八島に触廻り、又案書を与へて、信濃へ越ゆ。
 岡田、平賀、木曾次郎に相ふれ、又案書与へて、甲斐へこし、武田、小笠原、逸見、一条、板垣、安田、伊沢に相ふれて、案書与て伊豆国いづのくに北条に打越えて、右兵衛佐殿うひやうゑのすけどのに角と云。
 佐殿は廻宣披見の後宣のたまひけるは、平家追討の令旨を被下事、当家の面目に侍り。
 尤一門同心して、家人を相催し、上洛仕るべし。
 但頼朝よりとも別心を不存といへども、当時勅勘の者に侍、身に当て令旨を給らずば、軍兵引率其憚ありと宣へば、行家は其事兼て御沙汰ごさたありき、別したる令旨とて、笈の中より取出てこれをわたす。
 佐殿は手洗口〔に〕漱て、是を請取て、頷許〔に〕入てぞ御座おはしましける。
 行家は伊豆より常陸へ越て、兄なれば信太に知せ、佐竹に告て、案書を与へて、甥なれば告んとて、奥州あうしうへこそ下にけれ。

頼朝よりとも施行事

 〔去さるほどに〕兵衛佐殿ひやうゑのすけどのは、別して令旨を給ける間、国々の源氏等げんじらに被施行
 其状云、
 被最勝親王勅命、併召具東山東海北陸道堪武勇之輩、可討清盛きよもり入道并ならびに従類叛逆輩之由、廻宣二通如此、早守令旨、可用意、美濃尾張両国源氏等げんじら者、勧催東山東海便宜之軍兵相待、北陸道勇士者、参向勢多辺、相待上洛、可奉洛陽也、御即位無相違者、誰不行国務哉、依廻宣之状、執達如件。
   治承四年五月日          前さきの右兵衛権佐うひやうゑのごんのすけ源朝臣
とぞ被書たる。
 係ければ国々の源氏、背者一人もなし。

鳥羽殿とばどの鼬沙汰事

 一院は年を経て、月を重ぬるに付ても、新しん大納言だいなごん成親父子が如く、遠国遥はるかの島にも放遷さんずるやらんと思召おぼしめしけるに、城南離宮にして、春もすぎ、夏にも成りぬれば、さていかなるべきやらんと御心ぼそく思召おぼしめして、御転読の御経も、弥心肝に銘じて、被思召おぼしめされける。
 五月十二日の午刻に、赤く大なる鼬の、何くより来り参りたり共、御覧ぜざりけるに、御前に参り、二三返走り廻り、大にぎゝめきて、法皇に向ひ参て、踊上々々、目影なんどして失にけり。
 大に浅間しく思召おぼしめして、禽獣鳥類の恠をなす事、先蹤多しといへ共、此獣は殊に様有べしと覚たり。
 去ば爰ここに籠置たるも猶飽足らず思うて、入道が、朕を死罪などに行ふべき計などの有にやと思召おぼしめすに付ては、南無なむ一乗いちじよう守護、普賢大士、十羅刹女、助させ給へと、御祈念有りけるぞ悲き。
 源蔵人仲兼と申者あり。
 後には近江守とぞ申ける。
 法皇の鳥羽殿とばどのに遷され御座おはしまして、参り寄人もなき事を歎けるが、思に堪ず如何なる咎に合とてもいかゞはせんと思て、忍つゝ参たり。
 法皇御覧じて、哀あれはいかにして参たるぞとて、軈御涙おんなみだをのごはせ給ふ。
 さても只今ただいま然々恠異あり、急ぎ聞召たく思召おぼしめすに、折節をりふし参りあへる事、神妙しんべう神妙しんべうとて、御占形を賜つて、泰親がもとへと勅定あり。
 仲兼急京へ馳上り、陰陽頭泰親が、樋口京極の宿所に行向て、以御占形勅定をのぶ。
 泰親相伝の文書よく/\披て見、今月今日午時の御さとし、今三日が中の還御の御悦、後大なる御歎也と勘申たり。
 仲兼先嬉くて、件の勘文を以つて、鳥羽の御所に帰参して、此由を奏す。
 法皇はいさ/\何故にか、左程の御悦はと被思召おぼしめされける程ほどに、

法皇自鳥羽殿とばどの還御事

 法皇の御事、大将強に被歎申けるによつて、入道さま/゛\の悪事思直て、同おなじき十四日に鳥羽殿とばどのより八条烏丸御所へ還入進す。
 是にも軍兵御車の前後に打囲てぞ候ける。
 十二日の先表、同おなじき十四日の還御、三箇日の中の御悦と占申たりける事、つゆ違はず。
 後の大なる御歎とは、又いかなる事の有べきやらんと御心苦く思召おぼしめしける。
 法皇は去年の十一月より御意ならず、鳥羽殿とばどのに籠らせ給たまひて、今年五月十四日に御出ありしかば、幽なりし御住居おんすまひ引替て、御心広く思召おぼしめしける程に、還御の日しも、第二御子高倉宮たかくらのみやの御謀叛ごむほんの御企ありとて、京中の貴賤静ならず。
 去四月九日潜に令旨をば被下たれども、源げん三位ざんみ入道にふだう父子、十郎蔵人の外には知人もなし。
 蔵人は関東へ下向しぬ。
 いかにして洩にけるやらん、浅間しとも云計なし。

熊野新宮軍事

 此事のあらはれける事は、十郎蔵人東国下向の時、内々新宮へ申下ける事は、平家は悪行年積て、法皇を鳥羽の御所に押籠奉て、忽たちまちに逆臣となるに依て、彼輩追討すべきよし宮の令旨を給たまひて、同姓の源氏年来の家人を催促の為に、関東へ下向す、早く家人等けにんらに相ふれて、内々用意有て、行家が上洛を相待べしと云下たりければ、那智新宮の者共、寄合寄合かくす/\と私語ささやきけれども、国内通計の事なれば、平家の祈の師に、本宮の大江法眼これをきき、新宮十郎義盛こそ、高倉宮たかくらのみや令旨を給はり東国に下り、白旗白弓袋になりかへり、平家を亡さんとするなるが、那智新宮大衆等だいしゆら、源氏の方人せんとて用意有けれ、いざや推寄滅さんとて、大江法眼大将軍として、三千さんぜん余騎よき舟に乗て、新宮の渚なぎさへおしよせけり。
 新宮那智の大衆此事を聞て、那智の執行正寺司権寺司、羅ご羅法橋、高坊の法眼等、同心して大衆二千にせん余人よにん、新宮の渚なぎさに陣をとる。
 大江法眼押寄て、互に時を作る事三箇度さんがど也。
 三目のかぶらやなりやむ事なく、太刀長刀のひらめく影電の如し。
 源氏の方には角こそ切れ、平家の方には角こそ射とて、軍よばひ六種震動の如し。
 互に半時も退かず、一日一夜火の出る程こそ戦たれ。
 され共大江法眼軍に負、相語ふ輩遁るる者は少く、討るゝ者は多かりけり。
 那智新宮大衆、軍に勝て、貝鐘を鳴し、平家運傾て、源氏繁昌し給べき軍始に、神軍さして勝たりと、悦の時三度までこそ造けれ。
 和泉国住人ぢゆうにんに、佐野法橋と云者、大江法眼には甥也けるが、軍には負ぬ、山に逃籠て息つき居たり。
 内の消息せうそくを書て福原へ奉りけるは、君未知召れず候や、新宮十郎義盛、高倉宮たかくらのみやの令旨を給り、東国に下向して源氏等げんじらを催促して、平家を亡し奉らんとて、白旗白弓袋に成返れる間、那智新宮の義盛に同意の由承て、大江法眼御方として、新宮の渚なぎさにおしよせて、一日一夜戦ひ侍しかども、軍敗ぬ、御用心有べくや候らんと告たりけり。
 平家これをきゝ給たまひて、面目なしとぞ笑れける。
 太政だいじやう入道にふだうは不安おぼして、数万騎の軍兵をそろへて、福原より上洛す。
 六波羅には公卿殿上人てんじやうびとひしと並居給たまひたりけるに、入道宣のたまひけるは、大方発まじきは弓取の青道心にて有けり。
 永暦元年に切べかりし頼朝よりともを宥おき、今係大事を被仰下こそ安からね。
 所詮東国の勢の馳上らぬ前に、宮を取奉て、土佐の畑へ流し奉るべしとぞ被定ける。
 上卿には三条大納言だいなごん実房、職事には蔵人左少弁くらんどのさせうべん行隆、別当平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやう仰を蒙て、検非違使けんびゐしげん大夫判官だいふはんぐわん兼綱、出羽判官光長、博士判官兼成等を召て、以仁王を土佐の畑へ移奉べきよし仰含。
 官人の中に兼綱と云は、源げん三位ざんみ入道にふだうの子息也。
 親父の入道が勧と云事をば、平家未知けり。
 急告んと思て、入道の本へ角と云。
 浅ましと云も理に過たり。
 即宮へ此由を申入けり。
 宮は五月の空の五月雨の、雲間の月を詠つゝ、御心を澄しうそぶいて、何の行末も思召おぼしめし知らぬ折節をりふしに、入道の状ありとて、長兵衛尉信連取次て、佐大夫宗信に奉る。
 披見れば、御謀叛ごむほんの披露有て、官人兼綱、光長、兼成等御所に参り候、急ぎ御所を出させ給たまひて、如意越に三井寺みゐでらへ入せ給へ、入道も軈馳参候べしと申入たりければ、宗信こはいかゞせんと思て、御所に参り、わなゝく/\忍音に読上たり。
 宮聞召あへず、御心も心ならずあきれ迷せ給たまひ、こはいかゞ有べき、よき様に相計へ宗信と仰けれども、只振わなゝきたる計にて、申遣したる事なし。
 信連を御前に召て、然々の御事あり、計へとぞ仰ける。
 此信連と云は、年来の侍にも非ず、此御所に候ける事は、本妻は日吉社の神子也けり。
 宮御所に候ける青女房に思付て、二心なく通ける折節をりふし候会たりける也。
 年来の者也とても、打解させ給ふべきに非ず、況かりそめの信連なれば、御慎おんつつしみ有べきにてこそ在けれども、俄事也ける上、信連心際さか/\しかりければ、かく仰けるにこそ。
 信連は蒙仰、痛く御騒あるべからず、別の御事候はじとて、局町に走入、女房の薄衣一面、笠取出して、宮を女房の形に仕立進せて、佐大夫宗信にけしかける直衣小袴きせ奉、黒丸と云御中間に、表差したる袋持せて、御所を出し進する。
 俄忍の御事に、ゆゝしく計申たりけり。
 去ば余所目には、青侍体の者が、女を迎て行ぞと見えける。
 三井寺みゐでらへと志、東山を差てぞ落させ給ける。
 佐大夫宗信と云は、六条宰相宗保卿の孫、左衛門佐家保子息也。
 五月の空のくせなれば、雲井の月もおぼろにて、行さきも又幽也。
 三条高倉を上に出過させ給けるに、ひろらかなる溝あり。
 宮安々と超させ給たり。
 大路通る人立留てあやしげにて、はしたなく越たる女房かなとぞ、つぶやきける。
 佐大夫これを聞て、弥膝振心迷て歩れず、取敢ざりし事なれば、御所中ごしよぢゆうなどは取したゝむるに及ばず。
 希代の宝物共も打捨させ御座、御厨子に被残ける、御反古ども、なからん跡までもいかゞと被思召おぼしめさる、御笛御琵琶御遊ぎよいうの具足、源氏、狭衣、古今、万葉、歌双紙等、何も/\御心に懸らずしもはなけれ共、其中に小枝と聞えし、漢竹の御笛の、殊御秘蔵ありけるをば、何の浦へも御身にそへんとこそ、兼ては被思召おぼしめされけるに、余りの御心迷に、常の御所の御枕に残し留められけるこそ御心にかけて、立帰ても取まほしく思召おぼしめして、延もやらせ給はず、御伴に候ける信連を召て、加程に成御有様おんありさまにては、何事か御心に懸べきなれども、小枝をしも忘ぬる事の口惜さよ、いかゞせんと仰有ければ、信連さる男にて、最安き御事にて侍とて走帰、御所中ごしよぢゆう大概取したゝめて、此笛を取、二条高倉にて追付進て献之、宮御涙おんなみだを流させ給たまひ、よにも御嬉しげに被思召おぼしめされたり。
 信連二条川原にて申けるは、日来は何の所〔の〕浦までも御伴と存じ候しかども、只今ただいま官人等が御所に参向はんずるに、物一言申者もなからざらん事、無下に口惜く覚侍。
 信連はいかになかりける歟、又臆病して逃けるかなど、平家の申沙汰せんも遺恨なるべし。
 弓箭取者の習、仮にも名こそ惜候へとて、暇を申ければ、宮は誠に申処さることなれども、汝に離れては痛く便なかるべし。
 野の末山の奥までも参らん事こそ本意なれと被仰下けれども、信連はいづくに〔て〕も、命は君に進せ侍るべし。
 なからん跡までも君の御為我ため、よき名をこそ残したく候へと、強て申しければ、力不及重て仰けるは、我とてもいつまでと思召おぼしめせば、再び御覧ぜん事有難し、来世にこそ行会してと被仰もあへず、御涙おんなみだを流させ給ければ、信連も消入様には覚けれども、角心弱ては叶ふまじと思切、涙を推て帰にけり。
 御所中ごしよぢゆう走廻て、見苦き物ども取したゝめて後、青狩衣の下に萌黄の糸威の腹巻著て、烏帽子えぼしの尻、盆の窪に押入て、狩衣の小袂こたもとより手を出し、衛府の太刀の身をば心得こころえて造りたりけるを佩て、くらきこともなき剛者也ければ、唯一人中門の内にたゝずみてぞ、今か今かと待たりける。

高倉宮たかくらのみや信連戦事

 五月十四日の夜の曙に、官人三人向たり。
 源げん大夫判官だいふはんぐわん兼綱は、存る旨ありと覚て、遥はるかの門外にひかへたり。
 光長兼成両人は、馬に乗ながら門内に打ち入て申けるは、君代を乱させ給べき謀叛の聞あるに依て、可迎取由、蒙別当の宣罷向へり。
 光長、兼成、兼綱、是に侍り、速に御出有るべきと高声に申ければ、信連立出て、当時の忍の御所に入せ給たまひて、此御所は御留守也、此子細を伝奏仕べきと申ければ、博士判官こはいかに、此御所ならでは、何所に渡らせ給べきぞ、虚言ぞ、足がるども乱入りてさがし奉れと下知す。
 下知に随ひて、下郎等乱入つて、狼藉不なのめならず
 信連腹を立て、奇怪なる田舎検非違使共けんびゐしどもが申様哉、我君今こそ勅勘ならんからに、一院第二王子にて御座、馬に乗ながら門内に打入るをだに、不思議と見処に、さがせと下知する事こそ狼藉なれ、にくき官人共が振舞哉とて、薄青の単へ狩衣の紐引切抛て、音にも聞、目にも見よ、宮の侍に長兵衛尉長谷部信連とは我事也とて、太刀をぬき刎て蒐。
 兼成が下部に金武と云放免あり。
 究竟の大力、大腹巻に左右の小手指、打刀を抜て向会けり。
 其をば打捨て、御所中ごしよぢゆうへみだれのぼる兵、五十ごじふ余人よにんが中に打入りて、竪横に禦ければ、木葉を風の吹が如し。
 庭へさとぞ追散す。
 信連御所の案内は能知たり、彼に追つめて丁と切、是に追つめてはたと切、唯電などの如くなれば、面を向る者なし。
 程なく十余人よにんは被討にけり。
 信連が太刀は心得こころえてうたせたりければ、石金を破とも、左右なく折返るべしとは思はざりけれ共、余に強く打程に、度々曲けるを、押なほし/\戦程に、結句つば本より折にけり。
 今は自害せんと思て、腰をさがせども、刀も落てなかりけり。
 力不及大床に立て、宮の侍に長兵衛尉信連こゝに有、太刀も刀も折失て、勝負の道に力なし、我と思はん者寄合て、信連討捕勲功の賞に預やと、高声に云けれ共、手なみは先に見つ、太刀刀のなしと云は、敵をたばかるにこそ、虚言ぞ、左右なく寄て過すなとて、たゞ遠矢に射、主は誰ともしらず、信連左の股を射させたり。
 其矢を抜て捨たれば、尻を止て猶もゝにあり。
 打かゞめて柱に当てねぢぬきて思けるは、角て犬死をせんより、敵に組食付ても死なんと思て、なへぐ/\小門の脇へ走出て、信連是に有と云ければ、寄手の者ども、声に恐れてさつと引。
 金武は加様の剛の者、打刀にては叶はずとて、鞘にさし、小長刀を、茎短に取なして寄合さゝんとしけるを、信連持たる物はなし、手をはたけて飛て係、長刀にのりはづめ、又右の股をさゝれつゝ、是にして被虜。
 其後官人御所中ごしよぢゆうに乱入て、天井を破板じきを放て、さがせども/\宮も御渡なし。
 人一人もなかりければ、唯信連計を居廻して、縄を付て六波羅へ参らんと云。
 信連は云甲斐なき者共かな、まてとよ、侍程の者に、なは懸事やある、況や靭負尉ゆぎへのじように於てをや、無下なる田舎検非違使共けんびゐしどもかな、争か実に知べき、己等に物教へんとて云ける。
 我朝に三種の神器の内に、内侍所と申御事有り。
 昔天照太神てんせうだいじんの御時、百王の末の帝までも、我御形を見まゐらせんとて移し留め御座御鏡也。
 さて絃袋と云は、又後の内侍所の御貌を形どれり。
 其故に百官悉ことごとく朝に雖召仕、衛府の官は浅位なれば、地下にして致奉公直人に紛べきに依て、内侍所の御貌を学て、絃袋を賜て、左右の兵衛尉 赤皮、左右の衛門尉 藍皮 是を以て、侍の品を知、国王の御宝なれば、可非分難笠注しなれ。
 さればこそ官をも一けがすは有難き朝恩にてあれ、縄を付ずとても、信連誤なければ、参て申べしと云ければ、さてはとて唯追立て、六波羅の大庭に引居たり。
 前さきの右大将うだいしやうは御簾を半ば巻上て、大口計に白衣はくえにて、長押に尻懸、大床に足差出して、謀叛の次第并狼藉の様、拷木に懸けて、可召問と宣へば、信連余御前の怱々なるに、雑人を被退候へ、不拷問とも、御尋おんたづねに付て、所存をば申べし、いかに預推問、骨身をば微塵に被砕と云共、無事申さじと存ざらん事は申まじ。
 但今夜の狼藉の事身に誤なし、先所存にて侍れば申候、侍品の者が、朝に奉召仕時、奉公私なければ諸大夫にあがり、其より殿上を免され奉ること其例是多し。
 就なかんづく信連不肖の身也と申せども、私に主を憑て、諸亭にうでくびをにぎらず、久く宮の御所に召仕て、奉公年積れり、普通の侍に思召おぼしめし准ふべからず、御座席こそ無骨に覚え侍れと申。
 是は大将白衣はくえにて、長押に尻係たる事を咎申なるべし、大将も苦々しく覚されけり。
 次に夜の事誠の御使と存侍れば、争忝かたじけなくも宣旨を忽緒し奉べき。
 此間宮は忍たる御出とて、三条殿をば出させ給ぬ。
 御留守の間にて侍を、夜々よなよな強盗等が伺と承間、五月闇にてはあり、信連毎夜に用心して、不覚せじと御所中ごしよぢゆうを見巡つる程に、未暁かけて物具足したる者が、数は不知御所中ごしよぢゆうへ乱入、何者なにものぞ狼藉也と咎め申つれば、是は宣旨の御使と造声して名乗。
 宮は御出也、此御所当時御留守也と申せども、さないはせそ、唯打入とて、乱入間、只今ただいま何故に宣旨の御使とて、係る貌にて此御所へは参るべし、夜々よなよな伺と聞に合て、是は強盗めらが、言を替てたばかり入にこそ。
 誠や盗人は君の渡せ給ふなど申て、人の心をたぶらかすなんど承候へば、是もさにやと存る処に、只入に打入し間、散々さんざんに切殺し追出し侍き。
 今こそ実とも承はり存れ、大方は宣旨の御使に参ける、検非違使けんびゐし、思慮なかりけり。
 加程の御事に侍ける上は、巨細をのべ、宣旨の御使某と名乗申さんには、争狼藉をも仕り侍るべき。
 又唯一人候ける信連に被追立、度々逃出逃出しけるも云甲斐なし、衛府の官をけがす侍に、縄付けむなど申し行ひつる事、無下に骨法を不知けり。
 侍けがしに御恩塞に、一人也とも故実の者こそ召仕れめと、憚る処なくこそ申たれ。
 大将弥腹立して、兎角の陳答に及ばず、疾々川原に引出して、首を刎よと宣のたまひけり。
 信連重て申けるは、是は命を惜咎を申ひらかんとには非ず、仮令此御所へ、思懸ぬ夜中に、物具もののぐしたる者が、宣旨の御使とて乱入らんをば、宣旨の言に恐、侍共が防戦追出たらんをば、不覚とや仰すべき、唯有の儘の事に侍ると云ければ、平家の侍共がこれを聞きて、げにも道理なり、誠に我主の御所へ、物具もののぐして、怪気なる者が夜陰に打入たらんをば、縦ひ宣旨共いへ、院宣ともいへ、後は知ず、弓矢取の習なれば、一旦は防戦んずるぞかし、其を見ながら逃失んをば、ほむる主はよもあらじ、我等われらもさこそ振舞はんずれ、此信連は心きは恥しき者にて、而も大剛の者、度々はがねを顕して、一度も不覚せずとこそ聞、中にも本所に候ける時、末座の衆事を仕出して、狼藉不なのめならず、一﨟二﨟も制し兼て、座を立騒けるに、信連是をしづめけれ共、猶散々さんざんの事也ければ、寄合て末座の主従二人、左右の脇に挟み、一しめ/\て罷出、其座の狼藉をしづめたりければ、時に取て高名第一と云れき。
 又大炊御門京極なる、常葉殿御所へ、大和強盗が打入て、家内の資財をぬすみとり、多の人を切殺して出けるを、家主声を立て、盗よ/\と叫けれども、音を合する者なし。
 大番衆も追ざりけるに、信連左右の小手に腹巻著て太刀を抜、京極大路に出合つゝ、散々さんざんに戦ひけるが、強盗四人切留、一人には寄合て組で搦めんとせし程に、頬をつき貫かれながら搦留たりけり。
 其時の刀の跡ぞかし、当時までも頬にある疵は、されば度々名を顕したる、剛者を、忽たちまちに被切事不便也、信連体の者をこそ御所中ごしよぢゆうにも召仕はせ給ふべけれなど、人々申合ければ、大将げにもとや覚しけん、死罪をば宥て、且く左の獄に被入けり。
 平家滅亡の後、京都に安堵せずして、伯耆国へ落下り、金持の辺に経廻しけるを、鎌倉殿かまくらどの聞給たまひて、当国の守護に仰て、去文治二年の頃、関東へ召下されて、剛者のたね継せんとて、由利小藤太が後家に合て被召仕けり。
 御恩の始に鎌倉殿かまくらどの御自筆に、仮名の御下文にて、能登国大屋の庄をば、鈴の庄と号す、彼所を賜たりけるとかや。
 治承の昔は平家に命を被助、文治の今は源氏に恩を蒙れり、武勇の名望有難とぞ申ける。
 高倉宮たかくらのみやをば取逃し進たりと披露あり、六波羅京中騒動せり。
 何者なにものか云たりけるやらん。
 宮は山門に籠らせ給たまひて、深衆徒を憑ませ給間、大衆是を警固し進せて、平家追討の為に、山門の衆徒、既西坂本、切堤、賀茂の川原、二条三条辺まで下たりと聞えければ、平家の一門右大将うだいしやう已下、軍兵東西に馳さわぐ事不なのめならず、去共僻事也ければ静りにけり。
 よく天狗の荒たりとぞ見えし。
 此宮と申は、法皇の第二の御子にて御座おはしませば、よその御事に非ず。
 法皇鳥羽殿とばどのより還御の日しも、係御事聞召ば、又いかなる目にかあはんずらん、朕は思召おぼしめしよらぬ事なれ共、入道此事に依て、よもたゞあらじ、中々鳥羽殿とばどのにて御心閑に御座おはしますべかりける事を、由なき都へ還出にけるとぞ被思召おぼしめされけるぞ、責ての御事と哀也。
 三日の内の御悦、後には大なる御歎とは此事にや。
 清明五代の苗裔、当世無双の重巫也、指の神子といはれたる、泰親なれば、なじかは勘へ損ずべき。
 太政だいじやう入道殿にふだうどのは、嫡子小松内府重盛しげもり、去年八月に失給しかば、分方なき次男にて、前さきの右大将うだいしやう宗盛に世を譲給たりける。
 一番手合に、宮取にがし進せたり、不覚し給たり、云甲斐なしと沙汰すと聞えければ、誠口惜き事にぞ被思ける。

高倉宮たかくらのみや三井寺みゐでら

 同おなじき十五日に、高倉宮たかくらのみやは三井寺みゐでらに、逃籠らせ給ふよし聞えけり。
 通べき道ならねば、御馬にだにものせ奉らず、僅わづかに人一両人ぞ御伴には候ける。
 峨々として高き山、鬱々としてしげき峯、道もなき御木の本を、夜しも渡らせ給ければ、白くいつくしき御足は、むばらの為に紅を絞り、黒く翠なる御髪は、さゝがにの糸にぞまとはりける。
 角て通夜這々寺に入せ給けん、さこそは悲く覚しけめ。
 昔浄見原きよみはらの天皇てんわう、大伴の王子に被責て、芳野山へ逃入せ給たりけん有様ありさま、角やとぞ哀なる。
 三井寺みゐでらにかゝぐり著せ給たまひて、甲斐なき命の惜さに、打憑来れり。
 衆徒助よとぞ泣々なくなく仰ありける。
 大衆は哀に忝かたじけなく思進せて、蜂起僉議せんぎして法輪院に御所しつらひ、懐き入進せて、乗円坊阿闍梨あじやり慶秀、修定坊阿闍梨あじやり定海なんど云、古悪僧等、門徒もんとの大衆引率して、御前に候て、様々労り守護し進けり。

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