須巻 第四十七 目録
北条上洛尋平孫附髑髏尼御前事

 平家は一門広かりしかば、彼等が子孫定て京中に多く有らん、尋捜て可誅と、源二位北条時政に被仰含ければ、時政上洛して、平家の子孫尋得たらん者は、訴訟も勧賞も可謂と披露しければ、案内知りたるも不知も賞に預からんとて、上下男女伺求ければ、多く尋ね出しけるこそ人の心うたてけれ。
 実の平氏の子ならぬ者も、多く被召捕けるとぞ聞えし。
 痛少をば水に沈め土に埋、少成人したるをば指殺し突殺し、母の悲み乳母めのとの歎、可類方なかりけり。
 北条も子孫多く有ける上、遉岩木ならぬ身なれば、加様に無情振舞けるもいみじとは不思、随世習心憂く思ける。
 東山長楽寺と云所に、阿証坊印西とて貴き上人座しけり。
 慈悲の思深して物を憐み、柔和の性静にして不禁戒、世挙て慈悲第一の阿証坊と云。
 此人西山栂尾の明恵上人に謁して帰給けるに、一条万里小路を通り給ふ。
 一条面は平門、小路面は両緒戸に、土門薄檜皮の御所の前に、人多く集てひしめき合り。
 立寄て良見ければ、門々に武士あまたあり。
 内より五六歳計なる少人の、梧竹に鳳凰織たる小袖に、上に練貫の小袖を打著せて、地白の直垂に玉だすき上て、下腹巻に烏帽子えぼしかけして、太刀計帯たる男の肩に乗せて、大路に出て西を指て走。
 見れば不なのめならず、厳き小児也。
 髪黒々と生延て肩の廻過たり。
 乳母めのととおぼしき女房の二十四五計なるが、歩徒跣にて泣々なくなく後と走行。
 上人是を見るに、此程聞ゆる平家の子孫を、武士が取て失んとするにこそ、誰人の子孫なるらんと人に問けれ共、分明にも不謂。
 非直事、此人の果見んと思て、西方へおはしける程に、又二十余あまりの女房の、不なのめならず厳きが、いつ土踏たるらん共不覚、見るも労しかりけるが、唐綾の二小袖に、練貫の二小袖を打纏て、顔も不隠恥をも忘て、道をもさだかに不歩、現心もなげにて泣々なくなく行を見るに、是は母上ならんとぞ覚えける。
 旁哀におぼして、駒を早めておはしける程に、蓮台野の方へ向て走けり。
 遥はるかに奥に行て峯の堂と云所あり、此すそに古き墓共多くあり。
 其辺に下し居て、肩に乗せたる男は、汗押拭て傍に休居たり。
 継て走ける男、無風情走寄て取て抑て、膝の下におしかふかとすれば、軈やがて頸をぞ切てける。
 頸をば古き石の卒都婆の地輪にすゑて、上なる練貫小袖にて刀押拭て、身をばそばなる堀に投入て、軈走て帰にける。
 上人つく/゛\と是を見給たまひて涙を流し、穴口惜、斯る事を見つる心憂さよ、何しに中々来けんと、後悔し給へ共無力。
 死人の首のもとに立寄て、泣々なくなく阿弥陀経あみだきやう読、念仏申て後生を弔給ける程に、母上も乳母めのとも、涙に汗も争て出来、母は切て居たる首を見て走寄り、懐気に取付て、こは何と成ぬる有様ありさまぞ、夢かよ/\と云ながら、軈倒れて絶入にけり。
 乳母めのとの女房は、堀なる身を懐上て、首もなき死人を把て、是も同消入ぬ。
 上人是を見給たまひて、日比ひごろは音にこそ聞つるに、今まのあたり懸るかはゆき事を見事よと、落る涙に墨染の袖、白妙しろたへにこそ絞りけれ。
 夕日既すでに山の端に傾き、いぶせき山の中なれば、此人々も被失なんず、如何すべきとて、上人よりて事の子細を尋れ共、暫しはあきれて物もいはず。
 様々教化して、御命は限有る事に侍り、今日斯憂目を御覧ずるも、前世の事にこそ侍らめ、折節をりふし愚僧参会て後世をも奉弔は、同御事と云ながら、若公の菩提も助り給ぬらん、一度にたへぬは思にてこそ侍るなれば、帰給たまひて後生をこそ弔給はめと宣へば、女房現心もなくして、こは如何にと云事ぞ、此をばいづこと申所にて侍るぞと宣のたまひければ、上人此は蓮台野と申て、無人を送る鳥辺野也、たま/\ある者は死人の骸、草深うして露滋し、いぶせく奇所也と答給ふ。
 女房人心地出来て宣のたまひけるは、北条とかや上て、平家の子孫失侍など聞えしかば、人の上共不覚、憂目をや見んずらんと、日比ひごろは思儲たり、され共愚にも只今ただいまの事とは思侍らずこそ有つるに、何者なにものか云伝けん、俄にはかにたばかりとられて出侍つれば、最後の物などすゝむる事なし、懐糸惜く面影をも見ず、かきくらす別の悲さに、心一に迷出たりつれ共、そこはか共不覚、元来西も東も不知身にて侍上、斯る歎さへ打副て物の心も不覚、今朝の花やかに厳しかりつる有様ありさまの、今角見べしとは思ひ侍らず、こは何と成ぬる事ぞやとて、身もなき首を抱て泣給へば、乳母めのとの女房は、頸もなき身を懐きて共に泣けり。
 上人宣のたまひけるは、爰ここに角ては如何御座侍るべき、帰り給たまひてこそ兎も角かくも思召おぼしめし成給はめ、女房の御身として懸る山に渡らせ給はば、盗人など云情なき者も出来て及御恥、又人を損ずる獣なども参なば、中々可口惜、疾里に出おはしませと様々勧奉れば、女房宣のたまひけるは、今は命を惜べき身にも侍らばこそ、帰ても嬉しからめ、左様にて消も失なば、若公と一つ闇路を伴ひたらば、中々嬉敷侍なん、出る日の如くにわりなく思ひつる少き者には後れぬ、又命惜とも不思とて、声も惜まず泣きののしり給ければ、上人、さらでだに女人は五障三従とて罪深き御事にて侍り、我御身こそ悲しき地獄に落給共、さしも御糸惜き若公の刀のさきに懸て失給ぬるを御弔もなくて、悪き道へ堕し奉らんと思召おぼしめし侍か、長き闇路を祈助け給はんこそ遠き御情おんなさけにて侍べけれ、一樹の陰一河の流れと云事もあれば、先立給ふ御歎は去事なれ共、無人の御為にはそも由なしなど、一度は教訓しつ、一度は威しつ宣のたまひけれ共、猶悲みの涙色深うして、同道にと焦れ給けるが、やゝ暫有て女房、さらばこゝにて様を替ばやと宣へば、上人それはさるべき御事にも侍べしとて、蓮台野に池坊と云所あり、其傍に地蔵堂と云御堂に具足し入れ奉て、傍の庵室より剃刀を借寄て、持給へる水瓶にて髪を洗ひ、長に余れる簪をおろし奉。
 落涙髪の雫、露を垂てぞ争ける。
 御乳母おんめのとも共にならんと云けるを、様々制し給けるが、自髪を切落したりければ、不力及剃給ふ。
 其後長楽寺の坊に奉誘入て、四十八日しじふはちにちの念仏を始、七日七日の仏事営、御菩提を弔給へば、母上も乳母めのとも嬉しくこそは被思けれ。
 され共首をば身にそへて放ち給はず、又此若公、慰にとて常に翫給ける小車と、二を並置て、恋しき時は是を見てぞ慰給ける。
 乳母めのとは終に思死に失にけり。
 念仏結願し給ければ、尼御前上人に被申けり。
 此少者の父と申は、本三位中将ほんざんみのちゆうじやう重衡卿しげひらのきやうにて侍き。
 大仏殿奉焼て、罪深き者に有りしかば、其報にこそ末の露までも懸る憂目にも合侍らめ、されば懺悔の為に奈良へ参侍ばやと被仰ければ、上人、只御心閑に閉籠、御念仏申てかた/゛\の御菩提を弔給はば、是に過たる懺悔滅罪の功徳有べからずとすゝめ制し給けれ共、しひて暇を乞、奈良へぞ参り給ける。
 暫都にも御座おはしましし度は思召おぼしめしけめども、若公には別れ給たまひぬ、其形見にもと思給し乳母めのとをさへ先立て、難面命の今日までも、何にながらへてとぞ常は歎給ける。
 奈良に参りて興福寺こうぶくじ、東大寺とうだいじの焼跡共を拝廻給にも、さこそ罪深く悲くおぼしけめ。
 御姿を窄し、乞食修行者の様に成果て、浅増気にて、行寄所を臥どとし、乞得物に命をつぎて悲行ける程に、既すでに年の暮にも成ぬ。
 修行者の尼共多く有けれ共、此尼を見て疎けり。
 さもぞ怖しき尼よ、ひたすら下﨟かとすればさにもあらず、なま尋常気なる者か、する事の恐しさよ、我子にて有けるか、養君にて有けるか、五六計なる少者の頸を懐に入持て、常は取出して、厳しき小車に並て見る事のきたなさよ、親子に別るゝ事はよの常の習ぞかし、さまであれ程に有べしとも不覚とて、悪む者も多し。
 又堪ぬ思はさのみこそあれ、悲しき子に後れて糸惜さの余、心の置所おきどころのなきにこそするらめ、如来によらい在世の往昔に、提婆提女と云けるは、一子の女を先立て、其身を干竪めて頸に懸てありきけり、様なきにもあらずとて、情をかくる者も有けり。
 角は云けれ共、髑髏の尼と名付て、修行者の中には不交けり。
 されども是を不歎、人の言ども聞も入ず、元来思切て出たれば、栖を定る事なし。
 爰ここの唐居敷彼の築地のはら、木根萱根いづくにも、傾き臥てぞ悲みける。
 年も既すでに明ければ、救世観音の草創也、仏法ぶつぽふ最初の霊地也とて、人に相具して天王寺へぞ参給ふ。
 西門にて七日七夜なぬかななよ湯水を不飲、断食念仏して居たりけるが、七日と云ける晩程に、今宮の前木津と云所より海人を語ひて、膚に隠し著たりける綾小袖の垢付たりけるを脱ぎてたび、此難波沖に、此車の主にてある者の、死たる骨を入んと思ふ也とていざなひければ、蜑哀に思て船に奉乗、遥はるかの沖に漕出す。
 爰ここの程こそ骨をも御経をも入る所にて侍らんと申ければ、さらばとて舷に立寄、西に向て念仏二三百返計申て、車と首とを括合て、入れんとする由にもてなし、手に持給たりけるが、左右の掌を合ながら、南無なむ帰命頂礼きみやうちやうらい阿弥陀如来あみだによらい、太子聖霊先人羽林、若公御前、必一つ蓮に迎取給へと唱つゝ、海へぞ入給たまひにける。
 如何にやいかにやと云けれ共、深沈みて不見ければ、海人力及ずして、空き船を漕戻す。
 西門に帰て此哀を語ければ、伴なひたりける者共も、糸惜や実にさる人の有つるぞや、此程は断食念仏しつるが、早思切たる人なりけりと涙を流し、次の日のまた朝、蜑共船に乗つれ、遥はるかの沖に出て見れば、尼波にぞ浮たる。
 昨日の事也ければ事切果ぬ。
 是を取上て灰に焼、元来好給ぬる所也とて又海に入れて、西門に集て念仏申し、追善しけるぞ情ある。
 去さるほどに長楽寺の上人の許には、正月十五日より毎年に四十八日しじふはちにちの間、念仏ねんぶつ法問ほふもんの談議あり。
 上人の弟子に、天王寺に信阿弥陀仏あみだぶつと云僧、上洛して此談議に遇けるが、法問ほふもんの隙に諸の物語ものがたりの次に、彼僧申出たりければ、上人聞給たまひて、なに/\今一度語給へとて、委いはせて涙をはら/\と流し、さる事侍き、それは是にて髪をおろしたりし人也、持たる首は子也とて、一条万里小路より蓮台野の有様ありさま、出家して後世を弔しまでに、泣々なくなく語給ければ、諸僧涙に溺、聴衆袖をぞ絞りける。
 其後一文一句の談議も、随喜聴聞の功徳をも、此人の孝養にぞ被回向ける。
 其上諸僧を勧進して、一字三礼の一日経いちにちぎやうを書、難波の海へぞ送給ふ。
 母上も若公も、縦罪業深とも、印西上人の志、などか不生死
 抑此女房と申は、故少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいには孫、桜町中納言成範卿の娘に、新中納言御局とて、内裏に候はれける人也。
 本三位中将ほんざんみのちゆうじやう重衡卿しげひらのきやうの時々通給し女房、最後の余波を悲みて、八条堀川ほりかはへ迎給し人の事也。

六代御前事

 故三位中将さんみのちゆうじやう維盛の子に、六代と云人あり。
 是は平家都を落し時、北方、如何ならん野末山の奥までも相具し給べし、少者共をば誰に預誰に育とて、打捨て出給ふぞやとて、慕焦したひこがれたまひしか共、行先とても可穏かはとて、振捨給し若公也。
 平家の嫡々なる上、歳もおとなしかりければ、如何にもとて尋出さんとしけれ共、聞事もなければ、明日時政鎌倉へ下向せんとしける其夕暮に、女一人北条が宿所六波羅に来て云けるは、遍照寺の奥小倉山麓、菖蒲谷の北に大覚寺と申所侍り、彼にこそ此二三箇年、権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやうの北方とて、若公姫君二人相共に忍て住給へと云。
 北条不なのめならず悦て止関東下向、則此女に人を付て伺見。
 大覚寺北に奥深僧坊あり、女房あまた忍たる体にて住居たる所あり。
 垣の隙より見れば、犬子の縁に走出たりけるをとらんとて、少き人のいと厳きが続て出たりけるを、又女房出て、穴浅増あさまし、人もこそ見侍れとて急呼入ければ、是ならん六代はとて立帰、角と申ければ、次の日北条行向て、四方を打囲て人を入て申けるは、故三位中将殿さんみのちゆうじやうどのの若公是におはすと承て、時政御迎に参たりといはせたりければ、母上聞給たまひて、露現もなくあきれ迷て、此少き人を拘て、我を今の程に失て後此子をば取べし、命のあらん程は放つべし共不覚と宣のたまひければ、乳母めのとの女房も前に倒れ臥て悶焦れ、女房達にようばうたちも如何はせんと歎あへり。
 斎藤五、斎藤六兄弟は、三位中将さんみのちゆうじやう都を落し時、如何ならん世の末迄も少者共が杖柱ともなれとて、留置し侍也ければ奉付、同忍て居たりけるが、是も色を失ひて、若や奉出と上の山を立廻て見れども、武士打囲みて可漏方もなければ、女房の御前にて、兵四方を囲みて、若公可出隙なしとて涙を流す。
 日比ひごろは声を呑目をひそめて忍給けるに、今は人の聞をも不憚、有とある者は声を調へて泣叫。
 時政申けるは、世も未静り侍らねば、狼藉なる事こそ侍れとて奉渡也、不別御事、疾々と責ければ、斎藤五、是皆日比ひごろ思召おぼしめし儲たる事也、非驚給、命はいかにも遁させ給べき方なし、出奉り給へとこしらへけれ共、母上は拘て放給はず、若公は、罷たり共、暇乞てとく帰参べし、痛な歎給そと、涙を拭つゝ宣へば、是を聞て母上も乳母めのとの女房も、出なん後は再帰来まじき者を、心細やとて、いとゞ声を不惜泣ければ、北条も涙も拭ひて、心苦しくや思けん、推入てもとらず、つく/゛\と待居たりけり。
 日も既すでに暮なんとす。
 さても有べきにあらねば、武士共のいつとなく侍らんも心なしとて涙をのごひ、髪掻撫奉気装などして奉出、更に現とも不覚、母上は引纏て臥給へり。
 消入給たるにやと見けるに、若公既すでに出給へば、今を限ぞかしと覚しけん心の中、類べき方なし。
 小き黒木の念珠を取出して、是にて如何にもならんまでは、念仏申て後世たすかれとて進給へば、母上には今日既すでに奉別なんとす、今いづく成共、父の御座おはしまさん所へぞ詣たきとて、涙を流給ふぞ実に無為方は覚ゆる。
 今年は十二に成給へ共、年の程よりはおとなしく、不なのめならず厳くして、故三位中将さんみのちゆうじやうに違はず似給へれば、いとゞ目もくれ心も消て、母上倒臥てぞ歎給ける。
 いそがれぬ道なれば、若公も居留て、母上の顔をつく/゛\とまもり、目に目を見合ては、互に不堪涙を流し給へり。
 既すでに輿に乗給へば、妹の姫君、いかにや誰にも離て独はおはするぞ、童も参んとて走出給へば、女房泣々なくなく取留
 若公出給にければ、母上も乳母めのとも臥沈みて、物もいはれざりけり。
 歎き悲む事限なし。
 誠愚に頑なる子すら、恩愛の道は悲きに、さしもこまやかに厳しく、心様わりなき上、三位中将さんみのちゆうじやうの形見とて、男女に只二人座しつれば、徒然の空をも此に慰、三位の恋しき時も、見給たまひては思を休給つるに、今生ながら別給ける母上の心中、推量れて哀也。
 斎藤五斎藤六、伴にとて有けるが、涙にくれて行さきも見えね共、泣々なくなく輿の左右に付て走ければ、北条是を見て、郎等の乗たる馬を取て、是に乗給へとてたびけれ共、竪く辞して不乗けり。
 若公は、母上夜叉御前、乳母めのとが事共思ひつゞけて、道すがら袖絞りあへざりけり。
 日来は平家の子孫取集ては、稚をば土に埋水に入、おとなしきをば首を切指殺すと聞ゆ。
 此をば如何して失はんずらん、此三年の間は、夜昼心を砕魂を迷して、今や/\と思儲たる事なれ共、今出来たる不思議の様に覚ゆるこそ悲けれ。
 されば如何なる罪の報にて、三位中将さんみのちゆうじやうには都落の時生て別ぬ、恋し悲と思暮し歎明して、其事露も不忘に、今又若公を武士にとられて、被殺別れん事の無慙さよ、終に遁れまじき者と兼て知たりせば、西国さいこくに下り、三位中将さんみのちゆうじやうと一所にて如何にも成るべかりけるに、心強く残し置て、二度物を思ふこそ悲けれ、日比ひごろの三位の思は物の数にも侍らず、我少より深く奉観音、若公出来し後は、殊に六代安穏とこそ祈申しに、斯る憂目を見事の悲さよ、人の子は、里や乳母めのとの許に置て、適見るも恩愛の道は悲きぞかし、是は始て出来たりしかば、つかのまも身を放事なし、朝夕二人が中に生立哀糸惜と、明ても暮ても見るに不飽者をや、今夜もや失ぬらん、おとなしければ頸をこそきらんずらめ、如何計かは怖敷思らんとののしり立れば、打臥て泣給ぬ。
 起上ては、いかにも難遁事と思取て出ぬる面影、如何ならん世にかは可忘、遂に世になき者と成とも、今一度いかにしてか可相見とて、声も不惜泣給ふ。
 日の暮る儘には、いとゞ可堪忍も覚給はず、夜は若公姫君を左右に臥せてこそ慰つるに、いかなる月日なれば、一人はあれども一人はなかるらんとて、長き夜いとゞ明し兼て露まどろまれねば、夢にだにも其面影を見給ふ事なし。
 限あれば夜も既すでに明ぬ、いかに成ぬらんとしづ心なく思入給へりけるに、斎藤六帰参たり。
 心迷していかにと問給へば、今までは別の御事侍らず、御文とて取出したり。
 披見給へば、心苦く思給ふぞ、只今ただいままでは何事も侍らず、いつか誰々も恋くこそ奉思、中にも夜叉御前の御跡慕、難忘こそ侍れと書給へり。
 母上是を額に押当てうつぶし給ぬ。
 斎藤六申けるは、如何におぼつかなく思召おぼしめすらんと思こそ心苦けれ共、終夜よもすがら寝も入給はず、今朝も物進せたれ共、露御覧じもいれ給はず、御詞には、自歎くと思召おぼしめさば、御心苦しく思召おぼしめさんずるに、不侘してあると申せとこそ候つれと申せば、左様に終夜よもすがら寝も入ず、物をだにもくはざる程に思なるに、不侘してあると云おこせける事よ、哀おとなしきも少きも、男子は心つよき者也けりとて引纏臥給ふ。
 枕にあまる涙せき敢ずこそ見給へ。
 程ふれば時の間もおぼつかなく奉思とて、斎藤六帰参らんと申せば、涙に溺て筆の立所そこはかとなけれ共、心ばかりは細々と書き給へり。
 斎藤六是を賜て、急六波羅へ参て奉たりければ、御文披見給たまひて、袖に引入てうつぶし臥給へば、斎藤五斎藤六も、無為方悲ける。

文覚関東下向事

 〔斯りける処に、〕乳母めのとの女房は、責て心のあられぬ儘迷出て其辺を行ける程に、怪尼の過たりけるが、女房は何事を思ふ人ぞ、たゞならずこそ見侍れと問ば、乳母めのと涙を流してしか/゛\と語。
 尼又やゝ墨染の袖を絞りて申けるは、我身も平家の若公を血の中より奉手馴、糸惜哀と奉孚つる程に、此四五日が前に、北条とかや武士にとられて、水に入られたれば、現心もなくて髪をおろし、貴き所をも拝、彼後世をも弔はんとて浮宕ありく也、世には我のみ物を思ふかと歎たれば、ためし〔も〕有ける悲さよとて、互に語て泣けるが、尼申けるは、此奥に高雄と云所あり。
 彼におはする上人こそ鎌倉殿かまくらどのにも不なのめならず重く奉思、世にも赦されたる人にて侍るが、形よき児を求侍ると承れ、哀我養ひ君だにもおはせば、歎申てみんと思へ共、今は甲斐なし、若千万に一もさる事もぞある、行て歎き給へかしと細々に語つゝ、尼も次でに彼山寺拝まんと思立給へと申せば、いと嬉き事に思て、母上には角と不申、軈やがて尼と伴ひて高雄に登、上人の庵室に尋行、物申さんといへば、上人障子を引あけて、何者なにものぞ、是へは女人いれぬ所也、何事をか云べきと宣へば、血の中より奉生立、今年十二に成給つる若公を、昨日武士にとられて侍り、鎌倉殿かまくらどのには重き御事と承侍れば尋上り侍、命生給なんやとて、上人の前に臥倒れ、手をすり声を挙悶焦るゝ形勢ありさま、誠に無慙に見えければ、上人事の様を委尋給ふ。
 乳母めのと起上て泣々なくなく申けるは、小松三位中将殿ちゆうじやうどの北方の、親く御座人の子を取て、やしなひ奉りつるを、中将殿ちゆうじやうどのの実の御子とや人の申たりけん、昨日の晩程に、武士の取て罷侍にき、如何成給ぬらんと云もあへず涙を流す。
 武士は誰とか聞給しと問ければ、北条四郎とこそは承しかと申ければ、罷向て尋侍るべしとて、上人急出給ぬ。
 此事恃べきにはあらね共、思量もなかりつるに、上人の憑しげに申けるに、少心地出来て、大覚寺へ帰まうでたれば、母上宣のたまひけるは、身など投に出たるやらんと思つれば、我も可堪忍心地もせねば、水の底にもと思立るゝに、猶心の有やらん、此姫君の事を思に、今までやすらはれつるとて泣給へば、高雄の上人に申つる事、又上人の申つる事とて語申ければ、北方是を聞給たまひて手をすりて、嬉くも尋行て歎けり。
 哀乞請て今一度見せよかしとて、尽せぬ涙もせき敢給はず。
 文覚、北条四郎の宿所に行向て角と云ければ、急出て対面あり。
 誠や平家維盛息男のおはすなるはと問ければ、北条、今度の上洛条々の沙汰侍。
 平家は一門広かりしかば、子孫定て多かるらん、尋出して失べし、腹の内までも可見、中にも故中将息、故中御門大納言だいなごんの娘の腹に六代と云童は、平氏の正統也、必尋出せと鎌倉殿かまくらどのの蒙仰、心の及程尋奉つれ共、行へを知奉り侍ざりつれば、罷下なんと思ひ侍つるに、昨日はからざるに奉迎取たるが、みめ事がら類なく見え給ふ糸惜さに、未兎も角かくもし奉らず、中々なかなか心苦しくこそ侍れと申。
 文覚奉見ばやと云ければ、此内に御座とて障子を引あけて入れたりけるに、二重織物の直垂に、黒き念珠の小きを持給たりけるが、上人を見て、念珠を懐に引入て、顔打赤めて寄居給へり。
 顔付より始て糸惜く見え給へり。
 此世の人共不覚、天人の貌だも限あれば、争是には過べきと覚えたり。
 今宵は打解寝給はざりけりと覚て面痩給へり。
 何とか思給たまひけん、上人を見給たまひて打涙ぐみ給へり。
 如何ならん末の代に敵となる共、いかゞは是を失ふべきと覚ければ、上人も墨染の袖を絞りけり。
 北条も猛武士といへ共、岩木ならねば涙を流す。
 文覚申けるは、此若公を奉見に、先世に如何なる契かあるらん、余に糸惜く思奉れば、鎌倉殿かまくらどのへ参て可申謂、今二十日を待給へ、それは御辺ごへんの可芳心、文覚鎌倉殿かまくらどのに忠を致、奉功事は、且見給し事ぞかし。
 今更申に及ねども、下野殿の頸を盗取て、文覚が頸にかけて鎌倉へ参しより後は、千里の道を遠しとせず、足柄箱根を股に挟みて、摂津国つのくに経島楼御所に参、以右兵衛督うひやうゑのかみ光能みつよし院宣令旨を申給り、二十日余あまりの道を七日八日に上下し、其間に富士河大井河にて水に溺、宇津の山高師山にて疲に臨侍し事一度にあらず、命を軽じ契を重くして、加様に奉公し侍し時は、手を合て、我世にあらば如何なる事也共、文覚が所望をばたがへじとこそ宣のたまひしか、今平家を亡して天下を手に把給事、偏ひとへに文覚が非恩徳や、昔の契改給はずば、争か其言の末をば違へ給べき、一期の大事此所望にあり、もし若公を預け給はずば、軈文覚鎌倉にて、干死にして死霊と成なば、鎌倉殿かまくらどのの為も由なかるべし、人倫の法として、重恩忘給べきならねば、夜を日に継で鎌倉へ下て可申謂とて出でければ、斎藤五斎藤六是を聞て、上人を仏の如くに三度礼拝して、嬉しさの余にも只涙を流ける。
 若公は少き心に、一門の亡けるは此上人の所為にや、うらめしやとおぼしけれ共、今は我身に当ては、うれしく憑しくぞ思ける。
 今度は斎藤五、急大覚寺へ参りて、上人の申つる事共を語ければ、人々手を合悦あへり。
 免されんは不知、先二十日の命は生ぬるにこそと、母上も乳母めのとも心少やすまりぬ。
 是は偏ひとへに長谷の観音の御助と覚ゆれば、始終も憑しとぞ宣のたまひける。
 文覚既すでに関東へ下けるが、大覚寺に打寄、乳母めのとの女房を呼出して、先世に此若公に、如何なる契の有けるやらん、見奉しより糸惜く思ひ奉れば鎌倉に下侍也、さり共申預なんと思侍ふ、免し給たらば必高雄に奉置給へと云ければ、御命を助給なんには、兎も角かくも上人の御計にこそとて涙を流す。
 母上も見聞給たまひては、鎌倉のゆるされは不知とも、指当りてかく憑しく云ければ、嬉しきつらき掻乱して泣給へり。
 文覚既すでに下て後は、明ても暮ても只上人の登をぞ待給たまひける。
 いかゞ聞なさんと心苦くおぼしけるに、不月日過行て、二十日も既すでに満ければ、こはいかにと成ぬるやらん、さしも憑しくこそ宣しに、免れのなければこそ音信おとづれも聞ざるらめと肝を砕る程に、北条も、上人は二十日とこそ申しに、今に承事なし、御免のなきにこそ、誠に争か免給ふべき、平家の嫡嫡ちやくちやくにておはすれば、難容易宥、在京も此左右を待程也、都にて年を晩すべきにあらず、暁罷下なんとて出立ければ、斎藤五斎藤六、手を束ね心を砕共甲斐なくて、此度は二人ながら大覚寺へ参て、上人も今まで見侍ず、此御事に又都にて年を重ぬべきにも非とて、北条も暁下なんと仕、鎌倉へ下つかで、道にて奉失侍らんずるにこそ、北条より始て家子郎等共らうどうどもも、奉見ては涙を流す、終に如何に成奉らんずるにかとて、兄弟袖を顔に覆て泣悲ければ、母上乳母めのとのたまひけるは、上人憑もしげに申て下し後は心の隙も有つるに、暁に成ぬれば、もしやと思しつる憑も弱り果ぬるこそとて、頭をつどへて只泣より外の事なし。
 偖斎藤五斎藤六如何思と宣へば、いづくまでも最後の御伴申て、斬れさせ給たらば、御身をも奉取納、出家入道し、山々寺々修行〔し〕て、花を摘香を捻て、御菩提をこそ奉弔侍らめと申せば、母上泣々なくなく手を合て悦給へり。
 定なき世と云ながら、露の命の消も失なで、若きを先立て、彼が為と仏に申さん事の悲さよと、涙に咽給ふぞ哀なる。
 兄弟は又六波羅へ帰参ぬ。
 又母上乳母めのと夜叉御前、語てはなき泣ては語、終夜よもすがらこそ焦れけれ。
 暁方は母上乳母めのとの女房に宣のたまひけるは、只今ただいまちとまどろみたりつる夢に、此子の白馬に乗て来りたりつるが、余に恋しく奉思つれば、暫の暇を乞請て参たりとて、傍に居てさめ/゛\と泣つるぞや、程なく驚れて、若やと傍を捜ども人もなし、夢なりとも暫しもあらで、覚にけるこそ悲けれと宣へば、乳母めのとも是を聞て、共に声を調へてなき明しけり。
 十六日じふろくにちに、北条は六代殿相具して鎌倉へ下る。
 斎藤五斎藤六血の涙を流し、輿の左右に付て下けり。
 北条これに乗れとて馬をたびたれ共不乗。
 あまりの悲さには、痛き事も忘けるにや、物をだにも不はかず、唯袖を絞て足に任て走けり。
 既すでに都を出て会坂をも越ければ、何鹿故郷も山を隔て見えず。
 大津浦、粟津原、勢田唐橋打渡、野路篠原も過ぬれば、今日は鏡に著にけり。
 何国も旅寝と云ながら、母上や乳母めのとに別つゝ、羊の歩の道なれば、いかに悲しくおぼしけん。
 明ければ鏡を立て、宿々しゆくじゆく国々に過行けり。
 若公は涙に咽て、道すがらも物まかなひたれ共、露見も入給はず。
 怪げなる僧の上るを見ては、上人やらんと肝をけし、文持たる者あれば、上人の音信おとづれかと心を迷す。
 又小馬を早むる者あれば、急我を失へとの使やらんと疑はれ、武士私語する時は、我を切との物語ものがたりやらんとおぼつかなければ、御涙おんなみだ関敢給はず。
 此有様ありさまを奉見にも、兄弟の者共無為方、年も既すでに暮なんとすれば、馬の足を早めて下りけるが、駿河国千本松原と云所に下居て、北条、斎藤五斎藤六を招いて云けるは、今は鎌倉も近成侍ぬ、各是より帰上給へと云。
 二人の者共、さては爰ここにて奉失べきにこそと、胸塞心迷て、云出す事もなくしてうつぶし居たり。
 良有て、故三位中将殿さんみのちゆうじやうどのの蒙仰て、此三年が間夜昼奉付、一日片時不離、如何にも成給はんを見奉らんとて是まで下れり、さては今を限の御命にやとて、声も惜まず叫けり。
 北条重て申けるは、平家の人々の御子奉尋申たらば時日を経べからず、急奉失と度々蒙仰ども、此若公の御事をば、上人も難去被申しかば、今までも待侍れ共御免のなきにこそ、今は力の及処にあらず、約束の日数も過て是まで奉具事も、上人の音信おとづれを聞事もやと思侍つる也、又足柄の山こそ越侍るべかりつれ共、上人は定て箱根越にこそ上らんと存ずれば、是までは奉具足ぬ、鎌倉へは今一両日の日数を経て、山を越奉ん事、鎌倉殿かまくらどのの御気色おんきしよく知侍れば、此にて御暇を奉べき也とて、北条若公に申けるは、日来奉馴て、いかにし奉べしとも覚侍らね共、志の程は見え進せぬ、今は何事も先世の事と思召おぼしめし、世をも人をも恨給ふべからず、御心静に御念仏候べしと申ければ、若公の御返事おんへんじとおぼしくて、泣々なくなく二度打頷許給けり。
 斎藤五斎藤六に宣のたまひけるは、今を限にこそ有めれ、此まで付下て、終になき者にみなさん事こそ各が心中被推量て最無慙なれ、母御前へ御文進度思へ共、筆の立所も覚えねば叶ず、詞には、鎌倉までは別の事なく下著侍り、日数経るに随て、いとゞ人々の御事恋しくこそ侍れと申せ、此にて失はれたりとは努々申べからず、終に隠れ有まじけれ共、何にとして知せ奉思也、余に歎給はん事の心苦きに、我身こそ角成共、己等は急上て、能々御宮仕申べしと宣つゞけて、涙を流し給へば、兄弟の者どもは、君に奉後、安穏に都に上著べし共覚侍ずとて、臥倒れて喚叫。
 此形勢ありさまを見て、北条いとゞ涙を流ければ、家子郎等も皆袖を絞けり。
 日も既晩なんとすれば、偖も有べき事ならずとて、北条泣々なくなく疾々と勧めけれども、家の子郎等も、是を爰ここにてきらんと云者なし。
 何も竪く辞退しければ、北条も思煩けるに、

六代蒙免上洛附長谷観音並稽文仏師事

 東の方より墨染の衣著たる僧の、文袋頸に懸て、鴾毛なる馬に乗て馳せ来あり。
 何者なにものならんと思ける程に、上人の弟子に覚文と云僧也けり。
 今一足も急とて先立て馳けるが、馬より下や遅き高声に、誤あやまちし給ふな北条殿とて、文袋より二位殿にゐどのの御免し文取出たり。
 北条披見ければ、自筆にてぞ書れたりける。
 其詞に云、
 小松三位中将さんみのちゆうじやうの息六代、高雄上人頻しきりに申請間、所預給也と書れたり。
 北条高らかに読上ぬ。
 戯呼嬉き者哉とて打置ければ、免し給けるにこそとて、武士共聞て悦あへり。
 斎藤五斎藤六、是を聞けん心中、幾計也けんと難測。
 さる程に上人も軈馳来りたり。
 馬より下、やゝ北条殿、若公は申預ぬ、今一足もとて免し文を先立て奉ぬ、定めて見給ぬらん。
 鎌倉殿かまくらどののたまひつるは、此童は平家の嫡々の正統也、父の三位中将さんみのちゆうじやうは初度の討手に大将軍也、いかにも難免、頼朝よりともも幼稚を宥られて今斯る身となれり、此童を免し置ては、定後悪かりなんず、上人が奉公其恩忘がたけれ共、此事は難治 也とて、つや/\動給はざりつるを、日比ひごろの忠共申続けて、上人が心を破給たまひては、鎌倉殿かまくらどのも争冥加おはすべき、此をたびたらば、軈やがて法師になして仏法ぶつぽふ修行せんずれば、更に後悪事侍るまじ、若不預給ば、文覚鎌倉にて飲食を断、思死にして御子孫の怨霊とも成べしなど、一度は威つ一度はすかしつ、種々しゆじゆに申つる程に、抑維盛卿息をば、頼朝よりともを相し給し様に見給ふ処ありて、角は申請給歟と問給つる間、是は其儀には不思寄、免方なき程の不覚の人にて、聊も心に籠たる事は侍らず、わりなき姿の不便さに、慈悲の心に催されて、とまで申たれば免給ぬと、ゆゝしく気色してぞ云ける。
 北条は、承し日数も過しかば、御免なきにこそと思給つれば罷下つるに、賢くぞあやまり仕ざりける、今一時も遅かりせば、本意なき事も有なましと申ければ、上人、実に日数も延ぬれば無心元つるに、今日まで別事なきは、御辺ごへんの御恩とぞ悦ける。
 角て若公は上人に相具して、再都へ帰上給けり。
 是や此爼上魚の移江海、刀下の鳥の交林薮とは、只夢の心地ぞし給ける。
 六代御前は猶も現とはおぼさゞりければ、
  消ずとて憑む命にあらね共今朝まで露の身ぞ残りける
と、最哀に糸惜く聞えければ、北条も又涙をぞ流ける。
 斎藤五斎藤六も、更に現とは思はざりけり。
 北条、鞍置たる馬二匹引出して兄弟にたびければ、此度は請取けり。
 申けるは、日来奉情つる御恩、難申尽とて涙を流す。
 若公も宣ふ言なけれ共、思歎くにおぼつかなくし給へるも、痛敷思給けるに、引替うれしげに覚して顧給へば、北条涙を拭て申けるは、一日も御送に参べけれ共、急申べき大事共侍れば、此より可罷下、奉久馴、御遣こそ難尽侍と申せば、若公も打涙ぐみ給たまひて、日来の名残なごりこそと宣ふも、いとつき/゛\しくこそ聞えけれ。
 上人は若公奉具急上けるが、道にて年も暮にければ、尾張国熱田社にて年をとり、正月五日、文覚上人の二条猪熊の里坊に落著給たまひて、旅の疲を労りつゝ、夜に入て大覚寺を奉尋けれども、建治て人もなし。
 如何に成給けるやらん、悲の余に身など投給にけるやらん、又平家のゆかりとて武士などの奉取たるにやと、あきれ迷て其辺を尋けれ共、夜深にければ答る者もなし。
 縁の上に立やすらひ給たりけるに、若公の飼給ける犬の、籬の隙より走出て、尾打振て向たりければ、人々はいづくへぞ問給へ共、なじかは可答。
 責ての思の余に宣ふにこそはと最悲。
 終夜よもすがら三人一所に座して、旅の歎思続て語給ける。
 中にも命生て帰上たる甲斐には、此人々に見え奉たらばこそは嬉しからめ、道の程だにも無心元つるにとて、泣居給へるぞ心苦き。
 限あれば夜も既すでに明にけり。
 其鐘也ける人出来て申けるは、若公出給たまひにし後は、御歎の余に淵河にも身を入んなど仰候けるが、若又帰上給ふ事もぞある、甲斐なき命を生て、上人の左右をも聞ん程、大仏へ参て其より長谷寺に伝、百日籠らせ給べしと承しが、御年をば奈良にてとらせ給けり、今は長谷にと聞侍と申ければ、其はさも侍らんと少心落居て、斎藤五急長谷寺へ参けり。
 若公は又上人に相具して、高雄へぞ上にける。
 斎藤五長谷に尋参て、かくなん帰上給へりと申ければ、母上も乳母めのとの女房も夢の心地して、露現共覚え給はず。
 若公下給にし日より、大覚寺をば迷出て、此御堂に夜昼うつぶし臥て、大慈大悲の誓は有罪をも無罪をも漏給はず、必願を満給ふなれば、などか今一度相見程の命生給はざらんと、心を砕思を運て、祈申給へる験にやとぞ思給ける。
 但今度は百日参籠とこそ思ひ侍つれ共、左様に帰上り給なる上は又もこそとて、観音に悦の奉礼拝、師匠に暇を乞給、急出給たりければ、若公も高雄より下合給り。
 母上も乳母めのとも、打見給より互に涙に咽て、共に宣出る事なし。
 嬉しきにもつらきにも、先立ものは涙也。
 かく難遁命の助りて、再糸惜き面影を見る事も、偏ひとへに長谷の観音御利生也とぞ覚ける。
 此寺は是聖武天皇てんわうの御願ごぐわん、法道仙人の建立こんりふ也。
 文武天皇てんわうの御宇ぎように、此仙人観音の霊像を造らんと云願ありて、料木を尋けるに、難波浦に夜々よなよな光者あり、行て見れば楠流木也。
 たゞ事に非と思て、是を取て庵を造、加持する事十五年、養老五年に大権の化現、稽主勲稽文会と云仏師に誂て、二丈にぢやう六尺の十一面観音を奉造、三時の行法功を積、安置の砌みぎりを祈処に、夢中に金人来て示て云、此峯に磐石あり、其面金容なり、大悲菩薩の所座也、我等われら神王、天竜八部、梵王帝釈、日月二天、閻魔水天四天王等、番々守護の霊石也と、夢覚て後、雷鳴雨ふりて山崩石砕声あり。
 明旦其所を見るに、引平たる事宛鏡の面の如し。
 中に方八尺の馬脳の石あり。
 石面に大なる足跡あり。
 人の踏るが如し。
 仙人寸法を取て菩薩の御足にくらぶるに、更に広狭なし。
 霊像を奉居に本跡の如し。
 公家に奏達せしかば、神亀元年に伽藍を建立こんりふして、同四年三月廿日、以行基菩薩供養寺也。
 古老伝云、風輪際より、三俣の大石ありて閻浮提に出世せり。
 一は中天竺摩訶陀国、寂滅道場の金剛座是也。
 一は大日本国だいにつぽんごく大和国やまとのくに、長谷寺の菩薩座是也といへり。

 斯る目出施無畏薩たさつたにて、信心渇仰の人、利益空き事なければ、母上も此菩薩に帰して六代を儲、此大悲を憑て祈誓し給ければ、夢の中には白馬に乗て帰るとみ、現の前には再相見事を得たりけり。
 さても六代は、不習旅の東路に、跡に心の留りし事、折に触て北条が情を残し事共、つきづきしく語給たまひても泣給ければ、見る人も聞人も皆袂たもとを絞けり。
 旅のしるしと覚えて、日黒みして少面痩給たまへりければ、母上痛敷悲くぞ見給ける。
 角ても暫副奉らばやと思給へ共、世の聞えも怖しく、又上人の思はん事も憚ありとて、急高雄へ帰給ぬ。
 上人は不なのめならずかしづき奉て、斎藤五斎藤六をも孚み、母上の大覚寺の住居の幽なるをも訪申けり。
 若公、姿形心づかひ無類おはしけるに付ても、文覚は、懸れども如何なる事かあらんずらんと、空怖しく肝つぶれてぞ覚えける。

巻 第四十八
女院吉田御住居おんすまひ同御出家ごしゆつけの

 建礼門院けんれいもんゐんと申は、平家太政だいじやう入道にふだう清盛きよもりの御娘、高倉院たかくらのゐんの后、安徳あんとく天皇てんわうの御母儀おぼぎに御座おはしましき。
 悪徒あくとに引れて都を出て、三年の間西海に落下らせ給たまひて、舟中浪の上に漂給し程に、元暦元年三月廿四日に、長門国、門司関、壇浦にて源氏の為被攻つゝ、或命を白刃のさきに失、或身を蒼海の底に沈めつゝ、上下悉亡給し時、建礼門院けんれいもんゐんも、先帝と同海中におはしけるを、渡辺党に源兵衛尉眤が子に、源五馬允番と云者奉取上たりければ、其よりあらけなき武士の手に懸て、西国さいこくより都へ還上給たまひて、東山麓吉田の辺なる所にぞ立入せ給ける。
 中納言法橋慶恵とて、奈良法師也ける者の朽坊也。
 住荒して年久成にければ、庭には草深うして軒に忍茂り、簾絶てねや顕なれば、雨風もたまるべくもなし。
 昔は玉台を瑩き、錦の帳に纏れて、明し暮し給しに、今は有とある人には皆別果て、浅増気なる朽坊に、只一人落著給へる御心の中、幾計なりけん。
 道の程ともなひ給つる女房達も、是より皆散散ちりぢりに成果て、御心細さに、いとゞ消入様にぞ被思召おぼしめされける。
 誰憐誰可育共見えず、魚の陸に上るが如し、鳥の子の巣を離たるよりも猶悲く、うかりし波の上船の中の御住居おんすまひ、今は恋しく思召おぼしめさるる。
 同じ底のみくづとも成ぬべかりし身の、責て罪の報にや、残り留りてと思召おぼしめせ共甲斐ぞなき。
 天上の五衰の悲み、人間にも有ける者をとぞ思召おぼしめし知れける。
 五月一日、女院御髪おろさせ給。
 御戒師には、長楽寺の阿証坊上人印西ぞ被参ける。
 御布施は先帝の御直衣とぞ承し。
 上人是を賜て、何と云言をば不出けれ共、涙を流墨染めの袖絞るばかり也。
 先帝の海へ入せ給ける其期まで奉召たりければ、御移香も未尽、御形見とて西国さいこくより持せ給たりけり。
 如何ならん世までも、御身を放たじと思召おぼしめしけれ共、御布施に成ぬべき物のなき上、彼御菩提の御為にとて、泣々なくなく取出させ給けるぞ悲き。
 上人庵室に還、彼御直衣にて十六流の幡を縫、長楽寺の常行堂に被懸て、御菩提を奉弔給けるこそ難有けれ。
 縦修羅闘戦の咎に依て蒼海の底に沈み給共、などか常行荘厳の善に答て、青蓮の上に生れ給はざらんと、憑しくこそ覚えけれ。
 女印は御歳十五にて内へ参給しかば、軈女御の宣旨下されき。
 十六にて備后妃位、君王の傍に候し給たまひて、朝には万機をすゝめ奉り、夜は夜を専にせさせ給たまひ、二十二にて王子御誕生ごたんじやう御座おはしましき。
 いつしか皇太子に立せ給ふ。
 東宮とうぐうの位に即せ給しかば、廿五にて有院号、建礼門院けんれいもんゐんと申き。
 太政だいじやう入道にふだうの御娘なる上、天下の国母にて御座おはしまししかば、世の重くし奉事不なのめならず、今年は二十九にぞ成せ給ふ。
 桃李の粧猶こまやかに、芙蓉御形未衰させ給はね共、翡翠の御簪、今は付ても何にかはせさせ給ふべきなれば、御様おんさまかへさせ給へり。
 厭憂世うきよ、誠の道に入らせ給へ共、御歎は不休。
 人々の今はかうとて海に入にし有様ありさま、先帝の御面影、いかならん世にか思召おぼしめし忘べき。
 露の命何に懸て今まで消やらざるらんと、思召おぼしめし続けさせ給たまひては、御涙おんなみだせき敢させ給はず。
 五月の短夜なれ共、明し兼させ給つゝ、自打まどろませ給ふ事なれば、昔の事を夢にだに御覧ぜず。
 遅々たる残燈の、壁に背たる影幽に、蕭蕭たる暗夜、窓打雨音閑なり。
 上陽人が上陽宮に被閉たりけん悲さも限あれば、さびしさは是には過じとぞ被思召おぼしめされける。
 昔を忍ぶ妻となれとや、本の主や移植たりけん軒近き花橘の風なつかしく薫たりける。
 折しも山郭公の一声二声ふたこゑ音信おとづれて、遥はるかに聞えければ、御涙おんなみだを推拭ひ給たまひて、御硯の蓋に角ぞ書すまさせ給ける。
  郭公花橘の香をとめてなくはむかしの人や恋しき
と。
 大納言典侍だいなごんのすけ是を御覧じて、いとゞ悲く思召おぼしめしければ、
  猶も又昔をかけて忍べとやふりにし軒にかをるたち花

大臣父子自鎌倉上洛附女院寂光院入御事

 女院は、吉田にも仮に立入らせ給ふと思召おぼしめしけれども、五月も立六月も半に過ぬ。
 今日までもながらへさせ給べくも思召おぼしめさざりしか共、御命は限あれば、明ぬ暮ぬと過させ給し程に、大臣殿父子、本三位中将ほんざんみのちゆうじやう、鎌倉より還上給と聞せ給ければ、誠ならず思召おぼしめしけれ共、甲斐なき命計もやと思召おぼしめしける程に、大臣殿父子は、都近き近江国勢多と云所にて失給ぬと聞召ければ、悲とも云ばかりなし。
 三位中将さんみのちゆうじやう、奈良の大衆の中へ出されて、今は限の御有様おんありさま、御頸は大卒都婆に釘付にせられ給へる事、又大臣殿父子の御頸、大路を渡して獄門の木に被懸たる事、人参て細々と申ければ、由なく聞せつる者哉と思召おぼしめしつゝ、御胸塞御涙おんなみだせき敢させ給はず。
 都に近くて懸事を聞召に付ても、尽せぬ御歎は休せ給はず、露の命風を待程も、深山しんざんの奥の奥にも籠入ばやと思召おぼしめしけれ共、去べき便もなし。
 吉田には、去文治元年九月九日の大地震に、築地も崩れ、荒たる屋共もいとゞ傾破て、すませ給べき御有様おんありさまにも見えさせ給はず、憑もしき人一人もなし。
 地震に打復べしなど聞召きこしめせば、惜かるべき御命にはなけれ共、只尋常にて消入ばやとぞ思召おぼしめしける。
 晩行秋のさびしさは、いとゞ御心細からぬと云事なし。
 心の儘に荒たる籬は、繁野辺よりも露けくて、折知がほにいつしか虫の音声々に怨も哀也。
 都も尚静なるまじき様に聞召ければ、今少かき籠ばやとぞ思召おぼしめしける。
 何事も替り果ぬる憂世うきよなれば、如何にと申人もなし。
 自哀をかけ訪申ける草の便も枯果て、可誰育とも不思召おぼしめさけるに、信隆卿の北方と、隆房卿たかふさのきやうの北方と、忍つゝ時々憐申ける。
 秋も既半に成ぬ。
 御襟に秋の哀をさへ打副て、いとゞ難忍思召おぼしめせば、夜漸長く成儘には、御寝覚がちにして明しぞ兼させ給ける。
 偖も女院に候はせ給ける女房のゆかりにて、大原おほはらの奥に寂光院と申所を尋出したりと申ければ、悦思召おぼしめして、渡らせ給べきに定りにけり。
 御乗物などは、冷泉大納言だいなごん隆房たかふさの北方より忍たる様にて、女房車二両被進けり。
 彼北方と申は、女院の御妹にて御座おはしましける故也。
 大方も常は訪申されければ、嬉しと思召おぼしめしけり。
 此人の憐にて角有るべしとこそ懸ても不思召おぼしめさざりしかとて、御涙おんなみだを浮べさせ給へば、候給ける人々も、皆袖をぞ絞りける。
 比は十月末の事にや、いと人通たり共見えぬ道を、遥々はるばると分入せ給に、四方の梢の色衰へたるを御覧ずるに付ても、我身の上やらんと御心すまずと云ふ事なし。
 山陰やまかげなればにや、日も既すでに暮懸りぬ。
 何となく御心細思召おぼしめすに、野寺の鐘の入相の音すごく、草葉の露にそぼぬれさせ給へり。
 角て分入せ給へば、地形幽閑の洞の内、西の山の麓、北山の谷の奥に、寂光院と云御堂あり。
 怪気なる坊もあり。
 年経にけりと覚て、古にける石の色、落くる水の音も由ある体也。
 緑蘿の垣紅葉の山、絵に書とも筆も難及。
 いつしか、空掻陰うちしぐれつゝ、嵐烈して木葉猥がはし。
 鹿音時々音信おとづれて、虫の怨も絶絶たえだえ弱れり。
 秋の悲秋の哀をさへ取集たる御心すごさに、古歌を思召おぼしめし出しつゝ、
  奥山に紅葉ふみ分啼鹿の声聞時ぞ秋は悲しき
〔と〕口ずさませ給けるに付ても、浦伝島伝せしか共、流石さすが是程はなかりし物をと思召おぼしめして、責の御事と覚えて哀なる。
 秋の木葉の霜を待よりも、猶危御住居おんすまひ也。
 窓打雨の音幽に、松吹嵐物騒しく、不知鳥の声のみ檐近音信おとづれて、たのもの雁は雲井遥はるかに啼渡、荻の上風うちそよぎ、鹿鳴草の下露玉をたる。
 ゆゑある気色難御覧棄、昔の事共思召おぼしめし出させ給たまひて、御涙おんなみだ関敢させ給はざりける折しも、外面の谷の楢葉のそよぎけるを、誰ならん、日来はさてこそ有つれ共、事問人もなかりつるに、故郷人の問来にやと御心迷して、急物の隙より御覧ずれば、故郷の人には非して、妻恋鹿の籬の中をぞ通りける。
 山深き御住居おんすまひ、今更におぼし知れて、角ぞ思召おぼしめしつゞけさせ給ける。
  岩根ふみ誰か問こんならのはのそよぐは鹿の渡也けり
 角て御心すごく、幽なる御住居おんすまひにてぞ渡らせ給ける。
 常は仏の御前に参給たまひて、過去聖霊、一仏浄土じやうどへ導給へと申させ給に付ても、先帝の御面影、二位殿にゐどの、今は角とて海へ入せ給し御有様おんありさま、如何ならん世にか可思召おぼしめし、露の命何に懸りて消やらざるらんと思召おぼしめすも理也。
 御歎はひしと御身に添て、忘進する時はなけれ共、殊に悲しく思召おぼしめし出させ給折節をりふしにや、仏の御前に倒臥させ給たまひて、消入せ給御事も度々なりければ、御前なる尼女房達にようばうたち、こは如何にやとて奉拘つゝ呼叫合へり。
 良久有てぞ人心地出来させ給ける。
 不尽御歎積にやと覚て哀也。
 角て経年月程に、

法皇大原おほはら入御事

 後白川【後白河】ごしらかはの法皇ほふわう、女院の幽なる御有様おんありさまを聞召きこしめして、御心苦く思召おぼしめしければ、一御所にも住せ給はばやと思召おぼしめしけれ共、其比九条殿摂政せつしやうにて御座、近衛殿このゑどの御籠居也。
 いつしか引替たる代に成て、都の人心様々也。
 又十郎蔵人行家、九郎大夫判官たいふはうぐわん義経等、都を出たりといへ共生死未定、人の口もつゝましく、鎌倉源二位の漏聞ん事憚ありと思召おぼしめして、過させ給ふ程に、秋も暮冬も過て、あらたまの年立回り、文治二年にも成ぬ。
 二月上旬の比、大原おほはらの山の奥へ御幸ならばやと思召おぼしめしけれ共、余寒猶烈くして、去年の白雪はくせつ消遣ず、谷のつららも打解ねば、思召おぼしめしとゞまらせ給に、春も過夏にも成にけり。
 北祭など打過て、卯月の末の三日思召おぼしめし立せ給ふ。
 大原おほはらの御幸とは、世の聞えを憚せ給つゝ、補陀落寺の御幸と披露有て、あじろの輿に奉り、夜を籠て忍て寂光院へ御幸あり。
 御伴の公卿には、後徳大寺ごとくだいじの左大将実定、花山院大納言だいなごん兼雅、按察使大納言だいなごん泰通、冷泉大納言だいなごん隆房たかふさ、侍従大納言だいなごん成通、桂大納言だいなごん雅頼、堀川ほりかはの中納言通亮、花園中納言公氏、梅小路三位中将さんみのちゆうじやう盛方、唐橋三位綱屋、源三位資親、殿上人てんじやうびとには柳原左馬頭さまのかみ重雅、吉田右大弁親季、伏見左大弁さだいべん重弘、右兵衛佐うひやうゑのすけ時景、北面には高倉左衛門尉さゑもんのじよう、石川判官、河内守長実を始として、已上十八人じふはちにんとぞ聞えし。
 清原深養父が建たりし、〈 肥後守ひごのかみ元輔と云ふ下総守春光の息也、 〉補陀落寺を拝せ給たまひつゝ、女院の住せ給たまひける芹生里、大原おほはらや小塩山の麓なる寂光院へぞ御幸なる。
 分入山の道すがら、秋の比にはあらね共、夏草のしげみが末をたどり入らせ給にも、露にしをるゝ御衣の袖、膚を徹嵐の音、冷くぞ思召おぼしめす
 卯月末の事なれば、遠山に懸白雲は、散にし花の形見とや、青葉に見ゆる梢には、春の遺惜まるゝ。
 始たる御幸なれば、御覧じ馴たる方もなし。
 細谷川の水、岩間を過る音すごく、芹生里の細道、誰踏初て通ひけん、逢人稀峙のかけ路、問々入せ給程に、女院の御庵室近成由聞召ども、緑衣之監使宮門を守なし、主殿の伴の御奴、庭を払も不見けり。
 彼寂光院景気を御覧じければ、古く造なせる山水木立、何となくわざとにはあらね共、由ある様なる御堂也。
 甍破霧焼不断之香、枢とぼそ落月挑常住之燈とは、加様の所をや申べき。
 檐には垣衣茂、庭には葎片敷て、心の儘に荒たる籬は、しげき野辺よりも猶乱、氷解ぬる谷川の、筧の水も絶々たえだえ也。
 波に漂池の萍、錦を曝すかと疑れ、露を含める岸の款冬、玉を貫かと誤たる。
 青葉まじりの遅桜、梢の花も散残、若紫の藤花、墻根の松に懸れるも、春の遺を惜めとや、君の御幸を待貌也。
 八重立雲の絶間より、初音ゆかしき山郭公をば、此里人のみや馴て聞らんと、思召おぼしめし知せ給けり。
 岸の青柳色深くして、池水みどりの浪に立ければ、法皇角ぞ思召おぼしめしつゞけさせ給ける。
  池水に岸の青柳散しきて浪の花こそさかりなりけれ
 御堂の後に、蓬の軒を並て、怪げなる柴の庵二つ三つ有けるを、女院の御庵室と聞召ば、哀なる御棲おんすみかかなと有叡覧、以北面下﨟、人やあると尋させ給へ共、寂寞の柴の枢なれば、無人声として答人もなし。
 香煙出窓、芝草覆無人、禅侶向壇金、磬鳴有響瑜伽ゆが振鈴しんれいの音にこそ、庵室の中に人あり共聞召。
 香煙細く燃昇、片々として空に消、人跡遥はるかに絶果て、蕭然として音もせず、僅人目ありがほに、賤尼一人留守に置れたり。
 法皇此尼を召て、女院はいづくへ渡らせ給たるぞと御尋おんたづね有ければ、尼答て申けるは、此上の山へ、御花摘に入せ給候ぬと申に、法皇是を聞召より、早晩か哀に思召おぼしめして、さこそ世を遁させ給と申ながら、如何に賤がわざをばせさせ給ぞ、御前近召仕はせ給人のなきか、自つませ給はずば、御事の闕させ給べきかと聞えさせ給へば、此尼申けるは、家を出御飾をおろさせ給ふ程にては、などかさる御行もなくて候べき、過去の戒善修福の功に依、忝天下の国母と成せ給たれ共、先の世に加様の懇の御勤の候はざりければこそ、今斯憂目をも御覧ぜられ候へ。
 去ば欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因とて、依過去業因、現在の得報を知、現在の善悪に応て、未来の苦楽を悟べしと被説候ぬ。
 我今疾苦、皆由過去、今生修福、報在将来とも被宣て候へば、大内遊宴の昔の楽は、誠に戒善によれりと申せ共、其戒徳始終持とげさせ給はざりける故、露の御命かりそめに置、草の便も枯果させ給へば、因果の道理をも知召、未来の昇沈を兼て覚り御座おはしまして、花を摘水をあぐる御事、いつも御自也、なじかは賤がわざとも可思召おぼしめさるべきと申を御覧ずれば、色黒うして疲衰へたる老尼の、紙衣の上に、濃墨染の衣をぞ著たりける。
 あの身の程にて賢々しく、加様の事を申不思議さよと思召おぼしめし、己は如何なる者ぞと問せ給へば、尼さめざめと打泣て、暫は物も不申。
 いかに/\と度々勅定ありければ、尼泣々なくなく申やう、加様の形勢ありさまにて、申も愚に覚えつゝ、憚思候へ共、度々勅定恐あれば申なり、我は一年平治の乱の時、悪衛門督信頼のぶよりに失はれ候し少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいが孫、弁入道べんのにふだう貞憲が娘に、阿波内侍と申しは尼が事に候きとて、御前にうつぶき臥て泣ければ、法皇聞召、無慙やな、誠や此尼は紀伊二位にも孫也、彼二位と申は、法皇の御乳母おんめのと成ければ、此尼も御乳母子おんめのとごにて、殊に御身近召仕し人なれば、なつかしかるべき者にこそ。
 替れる貌とて、御覧じ忘けるこそ哀なれと思召おぼしめし、竜顔より御涙おんなみだせき敢ずぞ流させ給たまひける。
 さて女院を待進させ給、其程に彼方此方たゝずませ給たまひて御覧ずれば、いさゝ小竹に風そよぎ、後は岸前は野沢、山月窓に臨では閨の燈を挑、松風軒を通て草庵の枢を開。
 世にたゝぬ身の習とて、憂節しげき竹柱、都の方の言伝は、間遠にかこふ竹垣や、僅わづかに伴なふ者とては、賤が爪木の斧の音、正木の葛青累葛、長山遥はるかに連て、来人稀なる里なれば、適言問者とては、巴峡の猿の一叫、塒定むる鶏、孀烏のうかれ音、樒の花柄花笥、かつ見るからに哀也。
 満耳者樵歌牧笛声、遮眼者竹煙松霧之色とかや。
 懸閑居の有様ありさまを、忍てすごさせ給けんと、叡覧あるに付ても、御涙おんなみだぞ進ける。
 草の庵の御住居おんすまひ、幽なる有様ありさま、瓢箪屡空、草滋顔淵之巷云つべし。
 柴の編戸も荒はてて、竹の簀子もあらは也。
 藜蓼深鎖、雨湿原憲之枢とも覚えたり。
 何事に付ても、御心を傷しめずと云事なし。
 偖も竹の編戸を打叩、叡覧あれば、昔の空薫に引替て、香の煙ぞ匂たる。
 僅わづかに方丈なる御庵室を、一間は仏所に修て、身泥仏の三尺の弥陀の三尊さんぞん、東向に被立たり。
 来迎の儀式と覚えたり。
 中尊の御手には五色の糸をかけ、御前机に浄土じやうどの三部経を被置ける。
 内に観無量寿経あそばしさしたりと覚くて、半巻ばかり巻れたり。
 傍に一巻の巻物あり。
 披いて御覧ずれば、高倉先帝、安徳あんとく天皇てんわうを始進せて、太政だいじやう入道にふだう、小松大臣、屋島の内府以下、一門の卿上けいしやう雲客うんかく、御身近被召仕ける諸大夫侍に至まで、姓名を被書注たる過去帳也。
 毎日に読あげ弔はせ給にやと思召おぼしめしければ、竜顔に露を諍て、御衣の袖にもかゝりける。
 仏の左には普賢の絵像を懸、御前には八軸の法華経ほけきやうを被置たり。
 右には善導和尚くわしやうの御影を奉懸、浄土じやうどの御疏九帖、往生要集を被置たり。
 北の壁には、琴琵琶各一帳立られたり。
 管絃歌舞菩薩の来迎の粧を、思召おぼしめし准かと覚たり。
 又時々の御心慰にや、古今、万葉、源氏、狭衣、其外の狂言綺語の物語ものがたり、多取散されて、折々をりをりの御手すさみ、昔の御遺おんなごりと覚えて哀也。
 御傍障子の色紙形には、諸経の要文共被書たり。
 中にも一切業障海、皆従妄想生、若欲懺悔者、端坐思実相と見えたり。
 昇沈不定の悲、此死生彼歎も、真如平等の理に迷、妄想顛倒の心より起れり。
 懺悔の方法によらず、争恵日の光に照されんと覚たり。
 諸行無常、是正滅法、生滅々已、寂滅為楽とも被書たり。
 此文の心は、一切の行は皆無常也。
 無常の虎の声は、明々暮々耳に近づけ共、世路の趨に聞えず、雪山の鳥の音は、日々にちにち夜々よなよなに今日不死と鳴共、棲を出て忘れず、冥途の使身に競、屠所羊の足早して、親に先立子、子に先立親、妻に別るゝ夫、夫に後るゝ妻、形は芭蕉の風に破るゝが如く、命は水の泡、波に随て消ぬ、万法皆しかなれば、諸行無常と置れたり。
 若有重業障、無生浄土じやうど因乗弥陀願力、必生安楽国とも被書たり。
 妄想懺悔も便なく、寂滅為楽も不覚ば、弥陀悲願の被済、往生安楽憑ありと覚たり。
 又三河入道寂照が大唐国へ渡つゝ、清涼山の竹林寺に詣て、終焉をとりける夕べに、詠じける詩もあり。
  草庵無人扶杖立 香炉有火向西眠 笙歌遥聞孤雲上 聖衆来迎落日前
  雲の上にほのかに楽の音すなり人にとはばやそら聞かそも

 此詩歌の次に、女院角ぞ思召おぼしめしそへられける。
  乾くまもなき墨染の袂たもとかなこはたらちねが袖のしづくか
 御腰障子にも、女院御手と思くて
  思きや深山みやまの奥に住居して雲井月をよそにみんとは
  消がたの香の煙のいつまでと立廻べき此世なるらん

 此外、四季の歌も書れたり。
  古の奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな
  うちしめり菖蒲ぞかをる郭公啼くや五月の雨の夕暮
  久竪の月の桂も秋はなほ紅葉すればや照まさるらん
  さしも亦問れぬ宿と知ながらふまでぞ惜き庭の白雪
しらゆき
 此山のはに三尺の閼伽棚をつくり、樒入たる花かつみ、霰玉ちる閼伽の折敷ぞ被置たる。
 御傍の障子を引開御覧ずれば、御寝所と覚えて、蕨のほどろを折敷て、鹿の臥猪床を諍へり。
 夜の御衾とおぼしくて、白御小袖の怪げなるに、麻の衣、紙の御衾取具して、竹の竿に被懸たり。
 此等を御覧じ廻すに付ても、片山影の柴の庵の御住居おんすまひ、一品ならず哀に御心すまずと云事なし。
 昔は玉台を瑩き、錦帳の中に、漢宮入内の后として明し暮し給つゝ、漢家本朝の珠玉各数を尽し、綾羅錦繍の御衣色色いろいろ袖を調て、御目に御覧ずる物とては、源氏狭衣の狂言をのみ翫、御耳に触物とては、詩歌管絃の音をのみ聞召しに、今は柴曳結庵中、げに消易露の御住居おんすまひ、盛者必衰の理、眼の前にあらはなりと、思召おぼしめし続させ給にも、昔逢坂の蝉丸が、山階や藁屋の床に住居つゝ、往来の人に身をまかせ、月日を送けるにも、
  世中はとても角ても有ぬべし宮もわらやも果しなければ
と詠じける事も限あれば、角こそ思召おぼしめし続させ給たまひては、中々無由御幸成て、此有様ありさまを見つる者哉と、竜顔所せきまで御涙おんなみだを流させ給へば、御伴の公卿殿上人てんじやうびと、北面の輩に至まで、皆袖をぞ絞ける。
 加様に哀なる御事共おんことども、良御覧じ廻ける程に、後山の尾上より、岩の峙路を踏渡、木根の間を伝つゝ、尼こそ二人おり下れ。
 共に濃墨染の衣をぞ著たりける。
 一人の尼は、妻木に蕨折副て、胸に拘て前にあり。
 一人尼は、樒、躑躅、藤花入たる花笥、肱懸て後にあり。
 法皇怪く思召おぼしめし、御めかれもせず御覧ずれば、爪木に蕨折具して胸に拘たる尼は、大宮太政大臣だいじやうだいじん伊通公御孫、鳥飼中納言伊実卿の御娘、五条ごでうの大納言だいなごん邦綱卿くにつなのきやうの養子、大納言典侍殿だいなごんのすけどのと申て、本三位中将ほんざんみのちゆうじやう重衡卿しげひらのきやう北方、先帝の御乳母おんめのと也。
 花籠肱に懸たるは、即女院にてぞ御座おはしましける。
 御留守に置れたるは、弁入道べんのにふだう貞憲の娘、阿波内侍と申も、大納言典侍殿だいなごんのすけどのと申も、女院の后の宮にて渡らせ給し御時より、つかのまも御身を離進せざりし人共の、実の道に入せ給までも付進せたりける。
 先世の御契の程、哀とぞ思召おぼしめしける。
 法皇は、女院と御覧じ進せられて、忝かたじけなくも歩の御行にて、山に向て歩御座おはしましけり。
 女院は角とも思召おぼしめし依せ給はざりければ、おり下らせ給けるが、夏山の翠の木間より、御庵室の方を御覧ずれば、払ぬ庭の叢に、あじかの輿を舁居て、例よりもよに人繁様成ければ、里遠く、人も通ぬ柴の戸に、奇しや誰か事問はんと思召おぼしめして、木陰に添てよく/\是を御覧ずれば、法皇の御幸とみなし進させ給つゝ、思の外の御幸哉と、恥しさにあきれさせ給つつ、思召おぼしめし煩はせ給たまひて、山へも帰上らせ給はず、御庵室へもすゝみ下らせ給はず、寂寞之柴の枢には、偏ひとへに摂取せつしゆの光明くわうみやうを待て、十念之窓の前には、専聖衆の来迎をこそ期しつるに、思の外なる御幸なる上、流石さすが御身の有様ありさまも、如何にとやらん思召おぼしめし、只今ただいまの程に消も失なばやと思召おぼしめしけれ共、霜雪ならねばそも叶せ給はず、霧霞ならねば、立隔御事もなし。
 心憂しと思召おぼしめして、立すくませ給たりけるが、世を遁様を窄して深山しんざんに籠、自花を摘水を揚程にては、何かは苦しかるべき、猶も憂世うきよに留心のあればこそ恥る思ひも有らめと思召おぼしめしかへして、難面下させ給にけり。
 御庵室に入せ給つゝ、昔の御遺おんなごりと覚えて、鈍色二衣を御衣の上に引懸させ給たまひて、法皇の御前に参せ給つゝ、何に角遥々はるばるの山の奥、浅増あさましき草の庵へ御幸ならせ給候こそ覚共覚え候はねと、被仰も敢させ給はず、御涙おんなみだをはら/\と流させ給へば、法皇は、其後御向後の覚束おぼつかなさに参たりと計にて、御袖を竜顔に押当させ給たまひて、御涙おんなみだにぞ咽ばせ給ふ。
 暫は互に御詞も不出給
 良久有て、女院御涙おんなみだの隙より、年比日比ひごろうらめしく思召おぼしめしける御事共おんことどもを、崩し立て申させ給けるは、君をば高き山深海とこそ宗盛は憑進て、内々は西国さいこくへも御幸なし進んと計申候しに、思には違ひて、御所にも渡らせ給はず、後にこそ比叡山ひえいさんにとも承候しか、君に被棄進せ候し後は、憑木本に雨のたまらぬとかやの風情にて、宗盛以下一門の人々泣々なくなく都を落、長夜に迷へる心地して、寿永の秋の空に、主上ばかりを取進て、あくがれ出候し有様ありさま、御輿を指寄て、疾々と進まゐらせ候しかば、まだ幼き主上を奉懐、神璽宝剣ばかり取具して、自も心ならず御輿に乗候ぬ。
 御伴には平へい大納言だいなごん時忠、内蔵頭くらのかみ信基ばかりぞ候し。
 行先も涙にしをれて道見えず、都をば一片の煙と焼上て、西海の浪の上に漂、習ぬ船の中にて年月を送、春の雁の越路に伝ひ、秋の燕の故郷に帰を余所にうらやみ、夜は渚なぎさの千鳥と共に泣明し、昼は磯辺の浪に袖を浸、海士の焼藻の夕煙、物や思と燃こがれ、枯野の草の朝露に、虫の恨も最悲し。
 浦吹風もいたく身にしみ、岸打波も音冷。
 満塩船を挙時は、只今ただいまや水の底に入なんと魂をけし、荒風波をたゝふる時は、又すはや船を覆すと心を迷す。
 偖も筑前国太宰府とかやに落着て候しかば、近夷は皆参たれ共、遠きは先使を進せ候し程に、豊後国住人ぢゆうにん尾形三郎維義が、一院の御諚とて、大勢にてよすると申しかば、取物も取敢とりあへず、駕与丁もなければ玉御輿をも打捨て、主上を次の御輿にのせ進せて、怪者共にかゝせ進せつゝ、公卿殿上人てんじやうびと、指貫のそばをとり、女房北方は裳唐衣を泥にふみ、箱崎と申所へ我先にと諍行ども、猶道遠く覚て、一日に行帰なる道をゆきもやらず、日も暮夜も深ぬ、折節をりふし雨風烈くて沙を天にあぐ、竜にあらねば雲へも上らず、鳥にあらざれば天にも翔がたし、唯長夜に迷へる心地にて、男女の泣悲音は、地獄の罪人もかくやと思知おもひしられ候き。
 人々は鬼界高麗とかやへも渡らんと申候しか共、波風向て叶はねばとて、山鹿兵藤次秀遠に被具て、山鹿城に籠て候しに、維義猶寄と申しかば、竜頭鷁首もなければ、ぐ舟ぐしうとて小船共に乗つれて、終夜よもすがら落行て、豊前国柳と申所に著て、其に七日ぞ候し。
 是へも敵寄と申しかば、又船に取乗、潮に引れ波に任て漂行候しに、小松大臣が子、三男左中将清経が、都をば源氏に被攻落ぬ、鎮西をば維義に被追出ぬ、何へ行ば遁べきかとて、月の隈なく候し夜、船の屋形やかたの上に昇て、東西南北見渡て、哀墓なき世中哉、いつまで有べき所ぞや、網に懸れる魚の様に、心苦く物を思事よとて、念仏静に申つゝ、波の底に沈み候にき、是ぞ憂事の始にて候し。
 其後讃岐の屋島に渡て、阿波民部大輔みんぶのたいふ成能がもてなし奉て、内裏可造など聞え候しかば、少し安堵したる心地の候し程に、こゝをも九郎判官に被責落て屋島を漕出、又塩に引れ風に随て、いづくを差て行ともなくゆられありきて、長門国門司関壇浦にて、今は角とて人々皆海へ入候にき。
 二位殿にゐどのは先帝を奉懐て、練袴のそば高くはさみ、君の御宝なればとて宝剣を腰にさし、神璽をば脇に挟て、鈍色の二つ衣打被き、臨舷候しかば、先帝あきれさせ給たまひて、是は何へ行んずるぞと被仰候しに、兵共つはものどもが御船に箭を進候へば、こと御船へ行幸なし進せ候也と申や遅き、波の底へ入候にき。
 偖先帝の御乳母おんめのと帥典侍そつのすけ、あの大納言典侍だいなごんのすけ已下の女房達にようばうたち是を見て、声を調て喚叫事夥おびたたし、軍よばひにも劣候はず、或波の底に沈、或虜にせられて命を失ふ。
 中にも宗盛清宗父子、沈も果なで生ながら被取上候しを、まのあたり見候し事、いつ可忘とも覚えず、自も同じ底のみくづと成候しを、渡部の番とかや云者に取上られ、あらけなき武士に被具、難面命の存へつゝ、再都に帰上、角憂身の有様ありさまとして、君の御幸を見進る事の恥しさよとて、又雨々と泣御座おはしましければ、法皇仰の有けるは、人間有為の理、三界無安の悲、有に付ても歎多、無に付ても愁繁し、生老病死の仮の身、終に保うる事難、愛別怨憎の定れる報い、人毎ひとごとにこれ有、前後の相違耳に近うして常に是を聞、老少不定遮眼頻しきりに是を見、世のさが人のくせと思召おぼしめして、今更御歎候べからず、但此御有様おんありさまにて渡らせ給とは努々知進せず、誰かは訪進せ候と申させ給へば、信隆、隆房たかふさの北方の計としてこそ角ても候へ、昔は彼人々の孚にて世に候べしとは兼て不思寄者をとて、御涙おんなみだぐみ御座おはしましければ、法皇、如何に六条摂政せつしやうの方よりは、申事候はずやと申させ給へば、世に恐て其よりは音信おとづるる事候はずと申させ給けり。
 此御有様おんありさまを見聞進て、法皇を始進せつゝ、供奉の公卿殿上人てんじやうびと、或冠の巾子を地に付、或束帯の袖を絞けり。
 其中に後徳大寺ごとくだいじの左大将実定は、哀に堪給はず、御前の座を立出て縁に座しけるが、古詩を、
  朝有紅顔世路 夕為白骨郊原
と詠じ給たまひて、御庵室の柱に、
  古へは月にたとへし君なれど光失ふ深山べの里
 書すさまれたりければ、いとゞ哀を催しけり。

女院六道ろくだう廻物語ものがたりの

 法皇申させ給けるは、何事に付ても、如何に昔も恋し無便御事にて候らん、隔なく仰られよ、昔の好み更に忘進らせずと聞えさせ給へば、女院仰の有けるは、何かは無便候べき、朝夕の事は、隆房たかふさの北方訪申せば煩なし、斯る身と成て候、一旦の歎に任てこそ君をも恨申し候つれ共、誠は将来不退の悦と、思取てこそ候へ。
 今更不申事なれ共、偕老同穴の眤を成て、千秋万歳と祝し、竜顔にわかれ奉て、幾程もなく父相国に後候にき。
 都の外に漂て後は、又八条の尼公にも別、天津御子にも後れ奉ぬ。
 親き人々を始て、有と有し者共唯一時に亡にき。
 親を思子を悲心は獣すら猶深しと申、まして人界の類には、何事か是にすぎん、釈尊入滅之時は、身子の羅漢五百の弟子の悲の音、天にのぼり地を響かす、迦葉尊者の叫ける音は、三千世界に聞えけり。
 生者必滅の道、愛別離苦の理なれ共、此身の有様ありさまは、昔も今もためし、少こそ候ぬれ。
 いかばかりかは惜も悲も候し。
 去共不殺命限あれば、一人残留て彼後生菩提を弔候へば、賢くぞ残留にける。
 貧女が一燈とかやも角こそと覚え候。
 諸仏薩たさつた争納受なふじゆし給はざらん。
 中にも老言の様に候へ共、五障三従の身を持ながら、早く釈迦太師遺弟に列、竜女が成仏じやうぶつ憑あり、忝弥陀他力本願を信ず、韋提得悟無疑、此世は仮の宿なれば、屠所羊足早思をなし、月日の鼠の口騒観を凝しつゝ、三時に六根の罪障を懺悔して、一筋に九品の蓮台を相待、臨終の夕に一念の窓を開て、順次の暁三尊さんぞんの迎を得ん事、これ既すでに一旦別離の故に候。
 法華経ほけきやうには、善知識者是大因縁と説れたり、彼浄蔵浄眼は、生て父の知識たり。
 安徳あんとく天皇てんわうは、崩じて母の知識たり。
 されば今度離生死菩提に到らん事は、思定て候。
 三界無安、猶如火宅、衆苦充満、甚可怖畏と説れたれば、さなしとても有心人は厭べし、況我身かほどの憂目にあひながら、争難面不思知、空過候べき。
 又韋提希夫人の、悪子の為に被閉て、如来によらいを奉請、不楽閻浮提、濁悪世也此濁悪処、地獄餓鬼畜生、盈満多不善聚と歎給けんも被思知候、その故は、人は皆生を替てこそ六道ろくだうをば見候へ、そも隔生即妄とて、生死道へだたりぬれば、昇沈苦楽悉に忘、胎卵湿化一として不覚、それに自こそ生を替ずして、まのあたり六道ろくだうの苦楽を経廻候へ、天上人中の快楽も夢の中に戯、地獄鬼畜の愁歎も迷の前の悲み也、今は見たき所もなく、住たき境も候はず、されば随日衆苦充満の穢土の厭はしく、遂時快楽不退の極楽は欣はれ候へば、さりとも今度は生死をば離候なんと、憑もしく候へば、世の事露不思、されば何事にかは、今更貪思もあり、諂心も候べきと申させ給ければ、法皇聞召きこしめして、此条覚束おぼつかなく候、天竺には釈迦如来しやかによらいの御弟難陀尊者、在俗の時奉仏通力、九山八海を廻、天上地獄を見たりき、唐土には玄弉三蔵、解前に六道ろくだうを見給き、我朝には金峯山の日蔵上人、蔵王権現の御誓によりて、六道ろくだうを見たりとは承伝たり、彼等は皆大権の化現たる上、依仏神通力見て候、女人の御身として正く六道ろくだうを御覧じける事、実しからぬ様にこそ覚候へと仰ければ、女院打咲せ給たまひて申させ給けるは、勅定誠にさる事に候へ共、自生を替ずして、六道ろくだうの苦楽を経たる有様ありさまを、此世に准て申候はん、我身入道にふだう相国しやうこくの世に候し時、其娘として何事にか乏候し、院の御位の時は后宮にて候しかば、十五にて内へ参、軈女御の宣旨を被下、十六の時后妃の位に備、君王の傍に候て、朝には朝政を進めまゐらせ奉て、夜はよを専にして、二十二にて王子御誕生ごたんじやうありしかば、春宮とうぐうにこそ立せ給べかりしか共、いつしか天子の位につかせ給しかば、二十五にて院号給たまひて、建礼門院けんれいもんゐんと云はれ、天下の国母と被仰し後は、百敷の大宮人にかしづかれて、一天四海を掌の内に握、百官万民を眼の前に照しつゝ、竜楼鳳闕の九重の中に、清涼紫宸の床を相並、玉簾内錦茵上にして、詩歌管絃、扇合、絵合の興に戯れ、玄上鈴鹿、河霧、牧馬の弾をきゝ、大内山の花の春は、南殿の桜に心を澄して日の長き事を忘、清涼殿の秋の夜は、雲井の月に思ひを懸て夜の明なん事を歎、冬は右近馬場にふる雪を、先笑花かと悦、夏は木陰涼しき暁に、初郭公の音もうれし。
 玄冬素雪の寒き朝なれ共、衣を重て嵐を防、九夏三伏の熱夕べには、泉に向納涼す。
 長生不老術を求て不衰事を願、蓬莱不死の薬を尋て久保ん事を思き。
 乳泉の滋味朝夕に備たり、綺羅の妙なる色、夜も昼も荘とす。
 一門の栄花は堂上花の開が如く、万人の群集は門前に市立るに不異。
 彼極楽世界の荘厳も、菩薩聖衆の快楽も、争これにはすぎんと覚え候き。
 貧き事なくほこりて乏事も不知、無醜事
 わすれて善所を不欣、明ても暮ても楽栄し事は、大梵王宮の高台の閣、天帝釈城の勝妙の楽、衆車園の遊、歓喜園の戯不楽ふるなるたう利天たうりてんの葡萄、不打鳴帝釈宮の楽の音、かくこそと思侍き。
 是は暫天上の楽みと思候しに、去養和の秋の初七月末に、木曾きそ義仲よしなかに都を被落て、行幸俄にはかに成しかば、九重の内を迷出て、八重立雲の外をさし、故郷を一片の煙と打詠、旅衣万里の浪に片敷て、浦伝島伝して明し暮し、折折をりをりに、波間幽に千鳥の声を聞、終夜よもすがら友なき事を悲み、浦路遥藻塩の煙を見、終日は不堪思懇也、憑便もなく寄方もなかりし事は、是や此天上の五衰退没の苦ならんと覚き。
 天上欲退時、心生大苦悩、地獄衆苦痛、十六不及一とかゝれたるも是なり、今度人界に生て愛別怨憎の苦を受、盛者必衰の悲みを含めり。
 人間の事は今更申に及ず。
 同秋の末、九月上旬に成しかば、昔は雲の上にして見し月を、今は伏屋の床にして詠し事の心憂、十月の比にや、備中国水島、幡磨国室山、所々の合戦に打勝たりしかば、人々色少直りて見えし程に、摂津国つのくに一谷いちのたにと云所にて、一門多亡し後は、直衣束帯の姿を改て、皆鉄をのべて身を裹、諸の獣の皮を以て足手に纏つゝ、冑の袖を片敷、甲の鉢を枕とし、明ても晩ても、目に見ゆる物は弓箭兵杖の具、海にも陸にも、耳に聞ゆる者は箭叫軍呼の声のみ也。
 是や此須弥の半腹にして、天帝修羅各権を諍、三世にたえず戦、一日三時の闘諍、天鼓自然鳴の報ならんと思へば、修羅道の苦患も経たる心地し候し。
 豊後国にて、少心を休むるやらんと思候し程に、尾形三郎に追出されて、秀遠に被具て山鹿城に籠り入りしに、空掻曇り晴間もなかりしかば、唐の一行上人の火羅国に被流たりけん様に、月日の光をも見ず、浅増あさましき有様ありさまにて候ひし程に、それをも追落されしかば、二位殿にゐどのは先帝を懐進せ、網代の輿に奉、箱崎方へ落させ給しに、其外の人々は、公卿も殿上人てんじやうびとも、かちはだしにて迷出つゝ、兵船に棹をさし泣々なくなく浪路に焦れ給、よるせも不知船の中に漂しかば、山野広といへども休とするに無処、国々悉塞つて御調物もかまへねば、供御を備る人もなし、人天多といへ共、食を願に不与といへるに不異、諸の苦中にこれ尤甚し。
 得尸羅城の餓鬼は、五百生の間終に水を得事なく、師子国の餓鬼は、垣伽河こうががはの七度、山と成海となるまで、飲食の名を聞かず、去ばにや、血肉の頭べを破て脳を食し、恩愛の子を生て自食す、以之倶舎には、我夜生五子、随生皆自食といへり、希に供御を備へたり共、水なければ不進、万水海に満たれ共、飲んとすれば潮水也、自陸にあがりて菓をもらんとすれば、敵已すでに寄るといへば捨て去ぬ、百菓林に結取んとすれば人目しげし、餓鬼道の苦に不異、一谷いちのたにを被落て後は、夫は妻に別、妻は夫に別、親は子を失、子は親た後れて、喚叫音船の中に充満、泣悶る音陸の側に不尽しかば、叫喚大叫喚と覚たり。
 助る船有しか共、人多込乗しかば底のみくづと成にき、適船に乗人も、心に任ぬ波の上と云ながら、我淡路のせとを押渡、阿波鳴戸を沖懸に、紀伊地に赴船もあり、或葦屋沖に懸りつゝ、浜南宮を伏拝、九国へ赴く船もあり、思々に漕別れ、蜑の焼火に身を焦し、磯打波に袖ぬらす。
 白鷺遠樹群居を見ては、源氏の旗かと肝を消し、夜雁雲井に啼渡を聞ては、兵船を漕かと魂を迷す。
 源平互にまけぬれば、首を刎足手を切、身は紅と染る時は、等活地獄とも覚たり。
 玄冬素雪の冬の夜は、衾は袖狭くすそ短くして、霜の朝雪の夜も、つまを重ぬる事なければ、紅蓮大紅蓮の氷に如閉、九夏三伏の夏天なれ共、斑女が扇も捨られつゝ、泉の水をも結ばねば、木陰涼き便もなし、焦熱大焦熱の炎に焦心地也。
 今一の道も経たる様に思候へ共、其までは申も事長様に候へばと申させ給へば、法皇仰の有けるは、六道ろくだうの有様ありさま、生を替ず御覧じ廻由、誠に理に候、但今一を残させ給ふ事最本意なし、仏道には懺悔とて、罪をかくさずとこそ承候へ、御憚有まじきにこそと申させ給へば、女院、家を出て懸身と成候ぬれば、何かは苦るしく候べき、又御伴に候はるる人々も見なれし事なれば、恥しかるべきに非とて、自は君王にまみえられ奉て、后妃の位に備候し上は、仮初の妻を重ぬべしとこそ不思候しに、阿波民部大輔みんぶのたいふ成能が、宗盛に心を通はして呼入進せしかば、讃岐国屋島に付て、大裏造などして安堵して候しに、そこをも源氏に被追落て、一船の中に住居也しかば、兄の宗盛に名を立と云、聞にくき事を云をも、又九郎判官に虜れて、心ならぬあだ名を立候へば、畜生道に云なされたり、誠に女人の身ばかり申に付て悲けれ共、我身一人の事にあらず、昔もためしの候ければこそ。
 天竺の術婆訶は、后宮に契をなし、夢路を恨て炎と昇、阿育大王の鳩那羅太子は、八万四千はちまんしせんの后を亡給けり。
 震旦には、則天皇后そくてんくわうごうは長文成に会給たまひ、遊仙崛を作らせ、雪山と申獣に会けんも口惜や、唐の玄宗皇帝の楊貴妃は、一行阿闍梨あじやりに心をうつして、咎なき上人を流し給ふ。
 吾朝には、聖武天皇てんわうの御娘、孝謙女帝は、道鏡禅師に心を移して恵美大臣を亡し、仁明天皇てんわうの五条ごでう后と申は、冬嗣大臣の御娘也。
 業平中将に御心を通して、我通路の関守はと侘給ければ、中将も、よひ/\毎に打もねななんと詠けり。
 文徳天皇てんわうの染殿后は、清和せいわのみかどの御母儀おぼぎ、太政大臣だいじやうだいじん忠仁公の御娘也。
 柿本紀僧正きそうじやう御修法の次に奉思、紺青鬼と変じて御身に近付たりけん、同道と云ながら怖しくぞ覚る。
 清和せいわ天皇てんわうの二条后と申は贈太政大臣だいじやうだいじん長良御女おんむすめなりけるが、在原業平が忍つゝ、五条ごでう渡の西の対の亭に、月やあらぬと詠けり。
 寛平法皇の京極御息所は、時平大臣の御娘、志賀寺詣の御時、彼寺の上人奉心、今生の行業を譲り奉らんと申せば、
  よしさらば真の道のしるべして我をいざなへゆらぐ玉の緒
と打詠給たまひて、御手を授給けり。
 源氏の女三宮は、柏木右衛門督うゑもんのかみに通て、薫大将を産めり。
  誰が世にか種は蒔しと人問とはばいかゞ岩根の松はこたへん
と、源氏の云けんも恥しや、小衣大将は、聞つゝも涙にくもると忍けり、天竺、震旦、我朝、貴も賤も、燈に入夏の虫、妻を恋秋の鹿、山野の獣の江河の鱗に至まで、此道に迷て心を尽し命を失習也。
 されば所有三千界、男子諸煩悩、合集為一人、女人為業障と、仏の説給へるも理と覚たり、今も昔も男女の習、不及力事なれば、兎ても角ても候なん、是をこそ自は六道ろくだうを経たりとは申すに候へ、但猶、生死の境にかへるべき恩愛の道の悲しさは、先帝の御事忘んとすれ共不忘、思消どもけされず、是や妄念ならんと思候へば、仏の御名を唱、経教の文も習、花を摘水を汲事怠らず、よし/\恩愛別離の歎によらずば、争厭離穢土の志もいでこんと、打翻て思へば、ゆゝしき善知識とこそ覚て候へ。
 長門国壇浦にして、軍は只今ただいまを限とて、人々の海へ入給し時、自も同波の底に沈まずして武士に被取上、二度都へ帰上り、憂事を見聞候しには、いかなりける先の世の罪の報にやと口惜しく候しか共、今は不死ける事の嬉しさよと、引替嬉しく候也。
 其故は、自生不残ば、誰かは此人々の後世をば弔給候べき。
 此寂光院と申は、よに静なる所にて候、如何に無情人也とても、心を澄し哀を催すべき有様ありさまなれば、況自は、恨歎身にあまりて候へば、御堂に参て終夜よもすがら香の煙と燃焦もえこがれ、朝の露と泣しをれて、静に念仏申経を読て、人々の後世を祈申候し験にや、或夜聊まどろみ入て候し夢に、昔の大内には超過して、ゆゝしき所に罷て候しかば、先帝を始進せて一門の卿相けいしやう雲客うんかく、目出く礼儀して候しかば、都を出て後は懸所は未見、是はいづこぞと尋候しに、新中納言知盛と覚しき人、是は竜宮城と答しかば、難有かりける所かな、此には苦はなきかと問候しに、争か苦なくて候べき、竜軸経の中に説れて候、能々御覧じて、後世弔ましませと申と思ひて覚候ぬ。
 穴無慙や、さては此人々、竜宮城に生にけり、後世を被弔て、角夢に見えけるにこそと思て、雪の朝の寒にも、峯に登て花を摘、嵐烈き夕にも、谷に下て水を掬、難行苦行日重、転経念仏功績て、仏に祈申候へば、さり共今は此人々、竜畜の依身を改て、浄土じやうど菩提に至ぬらんとこそ覚て候へ、化功帰己の道理あれば、自らも此尼女房達にようばうたちも憑もしくこそ候へ、さても/\難有御幸に、何となき詢事のいぶせさこそと被仰もあへさせ給はず、御涙おんなみだに咽せ給へば、公卿殿上人てんじやうびとの、籬のはざま杉の御庵の隙より承見進せて、昔まのあたり見進せし御事なれば、いみじかりし御有様おんありさまも、只今ただいまの様に覚て哀也。
 有限、昔釈尊の霊鷲山にて法を説給けんも、争か是にはすぎんとぞ各袖を絞ける。
 法皇御涙おんなみだを推拭はせまし/\て、一乗いちじよう妙典の御法を持、十念成就じやうじゆの本願を憑て、九品の往生を欣、聖衆来迎を待、すぎ別させ給し高倉先帝、安徳あんとく天皇てんわう、一品大相国たいしやうこく、屋島内府已下、兄弟骨肉、六親眷属もろともに、敵の為に亡され波の底に沈し輩も、一仏浄土じやうどに生給へと、難行苦行して御弔ひあれば、妄念の罪早消て、菩提の縁を結給はん事御疑あるまじと申させ給たまひけるに、夕陽西に傾て、入逢の鐘も響けり。
 小夜も漸深行ば、巴峡の猿の一叫、催憐友となり、情騒しきむささびも、所からにぞ心澄。
 飯篠群竹吹風に、旅寝の夢も可覚。
 玉巻葛葉の朝露は、行人の袖を絞らん。
 何事に付ても不御心澄と云事なし。
 卯月の末の事なれば、晨明の月の出るをしるべにて、法皇還御ならせ給。
 御遺おんなごり惜く思召おぼしめしければ、たゞ先立物とては御涙おんなみだばかり也。
 芹生里の細道、来迎院の形勢ありさま、難忘ぞ思召おぼしめす
 女院も御遺おんなごりをしまさせ給つゝ、遥はるかに見送進せて、ありし昔の大内山の御住居おんすまひ、思召おぼしめし出させ給たまひて、御遺おんなごり惜く思召おぼしめしければ、泣々なくなく立入せ給つゝ、御本尊に向進せて、高声に念仏申させ給たまひて、天子聖霊成等正覚と廻向せさせ給たまひて、絶入やうに御座おはしましけるぞ糸惜き。
 昔は南に向はせ給たまひて、天照太神てんせうだいじん八幡大菩薩はちまんだいぼさつを拝ませ給たまひて、天子宝算千秋万歳とこそ祈らせ給しに、今は西に向せ給つゝ、弥陀如来みだによらい観音勢至と唱へて、過去聖霊往生極楽と、たむけさせ給ふも哀也。
 建久三年三月十三日に、法皇隠れさせ給ぬ。
 其後主上代をしろしめす。
 おり居にならせ給たまひて、承久三年に思召おぼしめし立御事の有けるが、御謀叛ごむほんの事顕て、院は隠岐国へ被流まし/\、宮々は国に被遷給ぬ。
 雲客うんかく卿相けいしやう、或は浮島が草の原にて露の命を消、或は菊河の早流に憂名を流すなど披露有りければ、女院聞召きこしめして、今更又悲くぞ思召おぼしめしける。
 此院は、高倉院たかくらのゐんの御子にて御座おはしまししかば、女院には御継子にて、安徳あんとく天皇てんわうの御弟にまし/\しかば、外の御事共おんことども思召おぼしめさ、配流の後は隠岐院とぞ申ける。
 又は後鳥羽院ごとばのゐん共名け奉。
 平家都を落て西海の浪に漂、先帝海中に沈み給、百官悉亡し事只今ただいまの様に覚えて、其愁未やすまらせ給はず、如何なる罪の報にて、露の命の消やらで、又懸事を聞食らんと、不尽御歎打続せ給けるに付ても、朝夕の行業懈らせ給はざりけるが、御歳六十八と申し貞応三年の春の比、五色の糸を御手にひかへ、南無なむ西方極楽教主、阿弥陀如来あみだによらい、本願あやまり給はず、必引摂し給へと祈誓して、高声に念仏申させ給たまひて引入せ給ければ、紫雲空に聳き、異香空に薫じつゝ、音楽雲に聞ゆ。
 光明くわうみやう窓を照して、往生の素懐を遂させ給けるこそ貴けれ。
 二人の尼女房も、遅速こそ有けれ共、皆如本意、臨終正念に終けり。
 泡沫無常の世の習、分段輪廻の里の癖、いづくか常住の所なる。
 誰も不退の身ならね共、上一人の玉の台より、下万民の柴の枢に至まで、今も昔も類すくなき事共也。
 されば女院の今生の御恨は一旦の事、善知識は是莫大の因縁なり、昔のごとく后妃の位に御座おはしまさば、争か法性の常楽をば経させ給べき、源平両家の諍ありて憂目を御覧じけるは、偏ひとへに往生極楽の勝因のきざしけるにこそと、心ある人は皆貴み申けるとかや。

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