曾巻 第十八
文学頼朝よりとも進謀叛

 前さきの右兵衛佐うひやうゑのすけ頼朝よりともは、去永暦元年依義朝よしとも縁坐、伊豆国いづのくにへ被流罪たりけるが、武蔵相模伊豆駿河の武士共、多は父祖重恩の輩也。
 其好忽忘べきならねば、当時平家の恩顧の者の外は、頼朝よりともに心を通はして、軍を発さば命を捨べき由、示者其数ありけり。
 頼朝よりとも又心に深思萌事也ければ、世の有様ありさまをうかゞひて、年月を送りけるこそ怖しけれ。
 伊豆国いづのくにの住人ぢゆうにん伊東入道祐親法師は、重代家人也けれ共、平家重恩の者にて、当国には其そのいきほひ人に勝たり。
 娘四人あり、一人は相模さがみの住人ぢゆうにん、三浦介義明が男義連に相具したり。
 一人は同国の住人ぢゆうにん、土肥次郎真平男遠平に相具したり。
 第三の女未男も無りければ、兵衛佐ひやうゑのすけ忍て通ける程に、男子一人出来にけり。
 兵衛佐ひやうゑのすけ殊悦て寵愛す。
 字をば千鶴とぞ申ける。
 三歳と申ける年の春、少き者共あまた引具して、乳母めのとに被懐て、前栽の花を折て遊けるを、祐親法師大番はてて国に下たりける折節をりふし見付みつけて、此稚き者は誰人ぞと尋けれ共、乳母めのと答る事なくして逃去にけり。
 入道内に入て妻女に問ければ、あれこそ京上し給たまひたりし隙に、いつき娘のやむごとなき殿して設たる少人よと云ければ、入道嗔て誰人ぞと責問。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのとぞ答ける。
 祐親申けるは、商人修行者などを男にしたらんは、中々さても有なん、源氏の流人聟に取て、平家の御咎めあらん折は、いかゞは申べきとて、雑色三人、郎等二人に仰付けて、彼少子を呼出して、伊豆のまつかはの奥、白滝の底にふしづけにせよと云ければ、三つになる少心にも、事がら懶や覚しけん、泣悶て逃去としけるを、取留て郎等に与けるこそうたてけれ。
 みめ事がら清らかに、流石さすが物に紛ふべくも見えざりければ、雑色郎等共らうどうども、何にとして殺べしとも覚えず、悲しかりけれ共、強いなまば思ふ処有かとて、頸を切れん事疑なければとて、泣々なくなく懐取て彼所に具し行て、ふしづけにしてけるこそ悲けれ。
 娘をば呼取て、当国住人ぢゆうにん江間小次郎こじらうをぞ聟に取てける。
 兵衛佐ひやうゑのすけ此事ども聞給、嗔る心も猛く、歎く心も深して、祐親法師を討んと思心、千度百度進けれ共、大事を心に懸て、其事を不成して、今私のあだを報いんとて、亡身失命事愚也、大きなる志有者は、忘小怨思宥てぞ過されける。
 入道が子息、伊東九郎祐兼窃に兵衛佐ひやうゑのすけに申けるは、父入道老狂の余り、便なき事をのみ振舞し上、猶も悪行を企んと仕、心の及処制止仕れども、若思の外の事もこそ出き侍れ、立忍ばせ給へと申ければ、兵衛佐ひやうゑのすけは嬉くも申たり、是年来の芳心也、入道に被思懸ては、いづくへか可遁、身に誤なければ、自害をすべきにも非、只命に任てこそはあらめとぞ答ける。
 野三刑部盛綱、藤九郎盛長なんどに仰含けるは、頼朝よりとも一人遁出んと思也、是にて祐親法師に故なく命を失はれん事、云甲斐なし、汝等なんぢら角てあらば、頼朝よりともなしと人知べからずとて、大鹿毛と云馬に乗り、鬼武と云舎人計を具して、夜半にぞ遁出ける。
 道すがらも南無なむ帰命頂礼きみやうちやうらい八幡大菩薩はちまんだいぼさつ、義家よしいへの朝臣が由緒を忽たちまちに捨給はずば、征夷将軍に至つて、朝家を守可神祇、夫猶不叶は、伊豆一国が主として、祐親法師を召捕て、其怨を報侍べし。
 何れも宿運拙して不神恩は、本地は弥陀如来みだによらいに御座、速に命を召て、後世を助給へとぞ祈誓し申ける。
 盛綱盛長は兵衛佐ひやうゑのすけ遁出て後は、一筋に敵の打入んずるを相待て、名を留る程の戦此時に在と思ける程に、夜も漸明にければ各出去にけり。
 其後北条四郎時政を相憑て過給ける程に、又彼が娘に偸に嫁てけり。
 北条四郎京より下ける道にて、此事を聞きて、大に驚、同道して下りける、前検非違使けんびゐし兼隆をぞ聟に取るべき由契約してける。
 国に下り著ければ、不知体にもてなして、彼娘を取て兼隆が許へぞ遣ける。
 去共件の娘、兵衛佐ひやうゑのすけに志殊に深かりければ、白地に立出る様にて、足に任ていづくを指ともなく、兼隆が宿所を逃出にけり。
 良程ふれども見ざりければ、怪みをなして尋求ども、向後も知らず成にけり。
 彼女は終夜よもすがら伊豆山へ尋行て、兵衛佐ひやうゑのすけの許に籠りにけり。
 時政兼隆此由を聞てければ、各憤を成けれ共、彼山は大衆多き所にて、武威にも不恐ければ、左右なく押入て奪取にも不能してぞ過行ける。
 懐島の平権頭景義此事を聞て、兵衛佐ひやうゑのすけの許に馳行て、給仕用心しけり。
 或夜の夢に藤九郎盛長見けるは、兵衛佐ひやうゑのすけ足柄の矢倉岳に尻を懸て、左の足には外の浜を蹈、右の足にては鬼界島を踏、左右の脇より日月出て光をならぶ。
 伊法法師金の瓶子を懐きて進出、盛綱銀の折敷に、金の盃をすゑて進寄、盛長銚子を取て酒をうけ進れば、兵衛佐ひやうゑのすけ三度飲と見て、夢は覚にけり。
 盛長此事兵衛佐ひやうゑのすけに語る。
 景義申けるは、夢最上の吉夢也。
 征夷将軍として天下を治め給べし。
 日は主上、月は上皇とこそ伝奉れ。
 今左右の御脇より光を比給は、是国王猶将軍の勢につゝまれ、東は外浜、西は鬼界島まで帰伏し奉べし。
 酒は是一旦成酔を、終にさめ本心になる。
 近くは三月、遠くは三年に酔の御心醒て、此夢の告一として相違事は有べからずとぞ申ける。
 北条四郎時政は、上には世間に恐て、兼隆を聟に取といへ共、兵衛佐ひやうゑのすけの心の勢を見てければ、後には深憑みてけり。
 兵衛佐ひやうゑのすけも又、賢人にて有謀者と見てければ、大事をなさんずる事、時政ならでは其人なしと思ければ、上には恨る様にもてなして、相背く心はなかりけり。
 さても廿一年の春秋を送て、年比日比ひごろもさてこそ過けるに、今年懸る謀叛を発しける事、後に聞えけるは、高雄の文覚が勧にぞ有ける。
 彼文覚は渡辺党に、遠藤左近将監盛光が一男、上西門院の北面の下﨟也。
 其母未子なし、夫妻共に家の絶なん事を歎て、長谷寺の観音に詣て、七箇日祈申ければ、左の袖に鳶の羽を給ると夢に見て、懐妊して儲たる子也。
 父は六十一母は四十三にて生たる一男也。
 母は難産して死ぬ。
 父赤子を抱て歎きける程に、事の縁ありける上、便宜の方人にもと思て、丹波国保津庄の下司、春木の二郎入道道善と云者養之けるが、三歳の時父盛光も死にけり。
 竪固の孤子也けれ共、血の中より手馴たれば、さすが難捨して、道善育けり。
 面張牛皮の童にて、心しぶとく声高にして、親の教訓をも聞ず、人の制止事をも用ず、庄内の童を催従へて、野山を走田畠を損じ、馬牛を打張、目に余たる不用仁也ければ、上下いかゞせんと持酔たり。
 十三に成ける年、一門に遠藤三郎、滝口遠光と云者呼寄て、元服げんぶくせさせて烏帽子子えぼしごとす。
 父盛光が盛を取、烏帽子親えぼしおや遠光が遠を取て、盛遠と名を付、父が跡を追て、上西門院の北面に参。
 遠藤武者盛遠とぞ云ける。
 少より時々物狂しきの気ありけり。
 容顔は勝ざりけれ共、大の男の力強く心甲也。
 武芸の道人に勝て、道心もさすが在けるとかや。
 常には母が難産して死にける事を云て泣、父が事を恋て悲む。
 生年十八歳にて、糸惜き女に後れて髪を切て遁世とんせいしき。
 金剛こんがう八葉の峯より始て、熊野金峯、大嶺葛城、天王寺、愛宕山、高雄、嵯峨さが法輪、止観院、楞厳院、比良高峯、都て日本につぽん一州至らぬ霊地もなく、七日二七日三七日百日籠行けり。
 十八歳にて出家して、一十三年の間は、或あるときは断食し、或あるときは持斎せり。
 春は霞に迷へども、峯に登て樒を採、夏は叢滋れども、柴の枢に香を焼、秋は紅葉に身を寄て、野分の風に袖を翻、冬は蕭索たる寒谷に、月を宿せる水を結びなんどして、山臥修行者の勤苦也。
 彼首陽の翁にはあらね共、蕨を折て命をのべ、原憲が枢に同して、草を綴て膚を隠せり。
 座禅縄床の室の内には、本尊持経の外は物なし。
 角て斗籔修行の後、再高雄の辺に居住して、明し暮しける程に、そばに古き寺あり、神護寺と名づく。
 此寺は此和気の松名が草創の伽藍がらん、八幡大菩薩はちまんだいぼさつの彫刻の薬師やくし也。

孝謙帝愛道鏡附松名宇佐勅使事

 昔孝謙天皇てんわうの御宇ぎように、弓削道鏡と云僧あり。
 如意輪法を行ける利生にや、女帝に近づき奉事を得たり、天皇てんわう御自愛の余に、位を道鏡に譲らんと思召おぼしめしけれども、臣下不之。
 天皇てんわう松名を召て被仰含けるは、位を道鏡に譲ぞと思召おぼしめせども、臣等しんら之、汝宇佐宮に詣して、正に叡慮を八幡大菩薩はちまんだいぼさつに申入べし、但定て御免し有べからす、然も帰京の時は必奏すべし、位を道鏡に譲る事叡慮に任すべしと八幡御返事おんへんじありと披露すべき、神明御免あらば、叡念誰か背之とて、勅使を被立けり。
 松名宇佐宮に参著して、謹霊神に申入処に、大菩薩だいぼさつの御返事おんへんじに曰、豊葦原は是神国也、天孫宜国政行也、道鏡即位更に有べからざる事也と被仰含ける。
 松名帰洛して案じけるは、兼の勅約は有りしか共、八幡大菩薩はちまんだいぼさつの仰争か背奏すべき。
 専神慮に奉任と思て、御位を道鏡に譲らるゝ事、努々在べからずと神勅ありと奏したりければ、天皇てんわう勅約背叡慮事を大に御憤おんいきどほり有て、武者に仰て松名を高雄の深山しんざんに将行て、左右のはぎを被切けるに、松名大に叫ける。
 声に付て奇雲聳来つて、松名が上に懸る。
 雲の中に衣冠の俗ありて云、神は不非礼、必守正直者、我は是宇佐八幡大菩薩はちまんだいぼさつ也、非文の不勅して深神命を重ず、故に我来つて汝を守と仰ければ、被切たるはぎ即いえにけり。
 大菩薩だいぼさつこゝにして、御自薬師やくしの霊像を刻て、松名に与給ふ。
 松名こゝに精舎を建立こんりふして彼本尊を安す。
 八幡の神松名を護給し処なれば、神護寺と名たり。
 故に此寺は和気の氏寺也。
 宇佐宮は其時までは物仰せけれ共、係る御事も有ければ、今は何事も口入に及ずとて、現の御託宜は止けり。
 此寺星霜年積つて四百しひやく余歳よさい、草創日を重て、幾千万廻ぞ、仏閣破壊之体を見に、庭上に草繁て、狐狼の栖と荒、四面垣傾て、僧侶跡絶たり。
 扉は風に倒て、落葉の下に朽、瓦は雨に被侵て、仏壇更に顕也。
 暁の月軒の下より漏て、自眉間の光かと誤たれ、夜の嵐板間に徹して、烏瑟の髪を梳と覚たり。
 悲き哉仏法僧ぶつぽふそうと云鳥だにも不音、樵夫草女の袂たもとまでも、露やおくらんと哀也。

文覚高雄勧進附仙洞管絃事

 此に文覚思ひけるは、宿因多幸にして出家入道の身をえ、破壊の堂舎を修補し、無縁の道場を相訪て、二親の菩提を助、平等の済度をたれんこと、剃髪染衣の思出たるべし。
 但自力造営の事は、争可叶なれば、知識奉加の勧進にて、自他の利益を遍せんと思ひつゝ、十方上下の助成を申行ひきける程に、或あるときゐんの御所ごしよ法住寺殿ほふぢゆうじどのに参て、御奉加之由言上す。
 御遊ぎよいうの折節をりふしなるに依、奏者此由を申入れず。
 文覚終日相待けれ共、如何にと云事もなかりければ、御前無骨也とは、争知べきなれば、聞召入きこしめしいれざるにこそと心得こころえて、天姓不当の物狂也ければ、是非の案内にも及ず、常の御所の御坪の方へ進参て珍からぬ管絃哉、機嫌もなき御遊ぎよいう哉、我貧道無縁の身たりといへ共、高雄山の神護寺を修造建立こんりふして、仏法ぶつぽふを住持し、王法を祈誓し、衆生を利益せんと云大願あり。
 況や大慈大悲の君、十善万乗の主として、などか輙く御奉加聞召入きこしめしいれられず、口惜き御事にこそ、大願之意趣、御聴聞有べきとて、勧進帳をさつとひろげ、調子も知ず、大音声を放上て読之。
 勧進僧文覚敬白、
 請殊蒙貴賤道俗助成、高雄山霊地建立一院、令修二世安楽大利勧進状
 夫以真如広大、雖生仏之仮名、法性随妄之雲厚覆、自聳十二因縁之峯以降、本有心蓮之月光幽而、未三毒四慢之大虚だいきよに、悲哉仏日早没、生死流転之衢冥々兮、唯耽色耽酒、未狂象跳猿之迷、徒謗人謗法、豈免えん羅えんら獄卒之責哉、爰文覚適払俗塵、雖法衣、悪業猶意逞而、造于日夜、善苗又逆耳而、廃于朝暮、痛哉再帰三途之火坑、重永廻四生之苦輪、所以牟尼之憲法千万軸、軸々明仏種之因、随縁至誠之法、一無菩提之彼岸、故文覚、無常観門落涙、催上下親族之結縁、上品蓮台運心、建等妙覚王之霊場也、抑高雄者、山堆而顕鷲峯山之梢、洞禅而鋪商山洞之苔、岩泉咽而曳布、嶺猿叫而遊枝、人里境遠而無囂塵、師蹠棲好而有信心、地形勝、尤可仏法ぶつぽふ、奉加微兮、誰不助成乎、夙聞聚砂為仏塔之功徳、忽感仏因、何況於一紙半銭之宝財乎、願建立こんりふ成就じやうじゆ、而禁闕鳳暦御願ごぐわん円満、乃至都鄙遠近親疎黎民、緇素歌堯舜無為之化、披椿葉再改之咲、況聖霊幽儀前後大小、速至一仏菩提之台、必翫三身満徳之月、仍勧進修行之趣、蓋以如件。
 治承三年三月日                 文覚敬白とぞ読たりける。
 御前の管絃の座には、妙音院太政大臣だいじやうだいじん師長公琵琶役、此大臣は琵琶の上手にて、神慮にも相応し、無双の勝事多かりけり。
 欲界の天人も度々天降給へり。
 されば一年蒼天雲を払ひ赤日旬を渉て、天下旱魃あり。
 神泉苑にて請雨経の秘法を行れ、其外山々寺々の有験智徳に仰て、御祈祷ごきたう有けるに、無其験、畿内遠国忽損じ、人民百姓歎悲けるに、此師長公宣旨を蒙、日吉社大宮おほみやの神前にて琵琶を調べ、さま/゛\秘曲を弾じ給たまひけるにこそ陰雲速に起て甚雨頻しきりに降けれ。
 図知ぬ霊神曲を感と云事を、さてこそ異名には、雨の大臣とは申けれ。
 按察使大納言だいなごん資賢は笛の役也。
 彼笛は紅葉と云名物なり。
 名を紅葉と云事は、資賢の先祖〔に〕、一条左大臣雅信と云人は、宇多天皇てんわうには御孫、敦実親王には長男也。
 雅信公参内の時、内裏にて奇笛を被求たり。
 事様世に難有笛也ければ、妙にも是を取出さず、秘蔵せられて重宝也。
 或夜夢想むさう之告あり。
 白髪たる老翁来て語て云、汝不知や、我は是住吉すみよし明神みやうじん也。
 昔紅葉の比大井川にて諸の神々と遊しに、嵐の山に風吹ば、川瀬に紅葉散下る、最面白見し程に紅葉に相交、空より霊笛の雨しをとらせ給たまひて、其後御身を離さずして、名を紅葉と付て、秘蔵したりしを、内裏守護の時、結番過て還しに落したりしを、汝求得之たり、忽たちまちに我に返進せよと仰ければ、雅信申様、此笛を求得て後は家財数に非ず、是のみ重宝と存じて、子孫に相伝すべき由、深く存ずれば返進にあたはず、縦命をば被召とも、笛をば惜侍るべきと申ければ、明神重て仰けるは、さらば汝が身に一の宝あり。
 唐本の法華経ほけきやう是也、我年来所望也、笛の代に経を与へよと仰ければ、雅信卿夢の内に打案じて、笛は今生一旦の翫物、経は当来得脱の資縁也、恐くは皆成仏道の法を以て、争か逍遥戯論の財に替んなれば、笛をこそ被召候はめと被申たりければ、明神哀と思召おぼしめし、涙を流して、さらば汝に預と被仰と見て、夢覚にけり。
 後朝に左大臣述懐して云く、
  われ身命しんみやうをすて妙法、神投霊竹感涙
とて、大臣も涙を流して悦給ける笛也。
 さてこそ此笛をば紅葉とは申けれ。
 夢想むさうの後は、弥宝物と思て持給たりける程に、村上帝の御宇ぎよう、天徳四年に内裡焼亡の時、いかゞし給たりけん、落して失ひ給にけり。
 是直事にあらず、住吉すみよし明神みやうじんの被召返けるにや、其道儲給たりける笛の、有し紅葉に少しも不違ければ、是をも角ぞ名たる。
 其子孫にて資賢の伝ける笛は、後の紅葉にぞ有し。
 資賢孫源少将雅賢は笙の笛の役也。
 笙笛をば鳳管と云。
 昔令公と云し鳳凰の啼音を聞て、此笛を作れり。
 千字文には、鳴鳳在樹白駒啄場とて、明王みやうわうの代には、必鳳凰来て庭前の木に栖と云事なれば、此雅資も常には参て、鳳鳴を吟じて、竜顔に奉仕、殊鳳管の上手にて、今日も被召て早参ぜり。
 水精の管に黄金の覆輪を置たる笛にて、黄鍾調の調子をとる。
 黄鍾調と申は、心の臓より出る息の響也。
 此臓の音は、逆に乙の音より高甲の音に上る間、脾臓の上の音に同す。
 順に甲の音より乙の音に下る時は、肺臓の金の音に同す、故に土の色を黄と名け、金の色を鍾と名く。
 当知土与金は陰陽の義にて、男女相応の儀式也。
 故に法皇と女院との御前なれば、円満相応の御祈おんいのりとて、黄鍾に調べたり。
 又此調子は呂の音也。
 名之喜悦の音とす。
 又五行の中には火土也、五方の中には南方也。
 生住異滅四相の中には、住の位也。
 住居とは、人の齢にあつる時は、三十以後、四十以前の比也。
 されば源少将も、其時は盛過て三十一也。
 法皇の御齢は紅葉の比に、移らせ給たりけれ共、奉祝猶夏の景気に調べたり。
 四位しゐの少納言盛定は、楼王が跡を伝て、蕭を吹給けり。
 閑院中将公隆は、時々和琴を掻鳴して、風俗催馬楽を歌ひ澄せり。
 右馬頭資時は、今様朗詠して銘心腑、凡面々重宝の楽器を調べて、当時秀逸の人々も心を澄して奏しければ、聖衆翻たもと、天人雲にのり給らんと面白かりければ、上下感涙を押て、玉の簾錦帳霊々たり。
 法皇も御感の余、時々は唱歌せさせ御座おはしましける。
 御座席也ける半計に、こき墨染の奇に、思もよらぬ大法師、調子乱るゝ大音にて、片言がちなる勧進帳を読たれば、只天魔の所為と浅増あさましくて、上下万人興を醒せり。
 こは何事ぞ、北面の者共はなきか、急ぎそくび穿と仰なり。
 さなきだにも、事がな笛ふかんと思ける北面の下﨟共、我も/\と走向ける中に、平判官資行、左右なく走懸りけるを、文覚勧進帳を取直して、拳も軸も一になれと把竪めて、資行が烏帽子えぼし打落、や胸つきて、真仰に突倒す。
 資行余に強く突れて度を失ひ、烏帽子えぼしもとらず、本どりはなちにて、阿容阿容とはひ起て、大床の上に逃上る。
 階下庭上、あれはいかに/\、狼藉也と、どよみにてぞ有りける。
 恥辱などとは云計なし。
 大床に立ながら暫く心を鎮て、あゝ去る夜の夢見悪かりける事は此事也とて、閑所の方へ行ぬ。
 昔も今も昇殿を免るゝ事は、高名にこそよる事なるに、資行は不覚を現じて、大床に上。
 さまでなき振舞也とぞ人咲ける。
 北面の者共狼藉を為鎮十人計はしりかゝる処に、文覚勧進帳をば左の手に取渡し、右の手には懐より刀を抜出。
 管には馬の尾を組みて巻き、一尺余なる力の、日に輝て如氷。
 長七尺しちしやく計なる法師の、而も大力にて、衣の袖に玉だすき上、眉の毛を逆になし、血眼に見て、庭上を狂廻ければ、思懸ぬ俄事ではあり、こはいかゞせんと上下騒けり。
 此法師の体、殿上までも狂参り気也ければ、法皇も御座を立せまし/\、公卿殿上人てんじやうびとも閑所に立忍給けり。
 宮内判官公朝が、其時は兵衛尉にて北面に候けるが、近づき寄て誘けるは、やゝ上人御房、可搦捕之由御気色おんきしよく也、恥見給ぬ先に被罷出よと云ければ、文覚罷出まじ、院中の御助成を憑進せてこそ、此大願をも思立てあれ、只空くていでん事は、大願の空くなるにて有べし、大願空成ならば、命生て無要也、同死する命ならば、大願の代に死すべし、死骸を朝廷にさらして、面目を閻魔の庁にて施す事身の幸也。
 造営の有無、唯法皇の御計たるべし。
 五畿七箇道所ひろし、などか荒郷一所給たまひて、貧道破壊の伽藍がらんを助給はざらん。
 詩歌管絃は、今上一旦の遊、卿相けいしやう雲客うんかくも現世片時の臣也、いつまでか伴ひ、いつまでか翫給べき。
 無常の風は朝にも吹、夕べにも吹、期明日御座おはしますべしや、暫長夜の御眠醒奉らん為、聊妙法の音をあげて勧進帳を読侍る、全く僻事に非、浅猿あさましき田父野人だにも、程々に随て、後生をば恐侍ぞかし、況万乗の国主として、聖衆の来迎を期し給はざらんや。
 文覚が所持刀は、人を切んとにはあらず、放逸邪見の鬼神を切、慳貧無道ぶだうの魔縁を払はんとなるべし、是又文覚が刀に非、大聖文殊の智恵の剣也、不動明王ふどうみやうわうの降伏の剣也、文覚更に悪事なし、上求菩提下化衆生の方便也、とく/\一分の慈悲をたれ給へとて、護法の付たる者の様に、躍上踊上て出ざりけり。
 其時信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん、安藤右馬大夫右宗、武者所にて候けるが、走向て太刀のみねにて、左の肩を頸懸けて、したゝかに打たりけるに、少ひるみけるを、太刀を捨て得たりおうと懐く。
 文覚は右宗が小がひなを突貫、右宗乍突不放、成上成下、あちへころびこちへころびて勝負見えず。
 其後集寄て、かく/\栲して門より外へ引出し、平判官資行が下部に給。
 資行は烏帽子えぼし打落て、面目なし。
 右宗は預御感、右馬大夫に被成けり。
 文覚は悲き目をば見たれ共、少も口はへらず、門外に引張られながら、御所の方を睨へて、天子の親とも覚ず、死生不知の事せさせ給ぬる者哉。
 袈裟かけ衣著たる僧の、発心修行して、造営済度せんとするを、打張そ頸突とは宣ふべしともおぼえず、斯かる悪王の代に、生合ける文覚が身の程こそ、不当の奴にては侍べれ。
 御座席に御座師長公は、読書し給たる賢臣とこそ承に、孝経を以て、親の頬打風情かな。
 貞観政要の中に、大人は赤子の心をも失はずとこそ申たれ。
 臣愚痴君被罰といへり。
 古文少も違はじものを、況文覚と云は、発菩提心の後、浄行持律の聖也、興隆仏法ぶつぽふの勧進也、返々も口惜き事せさせ給へる君哉。
 賢王けんわう明徳の道は、弊民を育を以て先とす、況や剃髪染衣の僧をや。
 それに打擲刃傷に及条、希代の不思議也、世は已末世になり極れり、穴無慙の人共や、夢幻の栄花をのみ面白き事に思て、三途常没の猛火にこがれん事を不知、只今ただいま文覚が加様にせらるゝ事は、全く身の恥に非、臣下卿相けいしやうを始として、己等が恥と思給べし、但後生までは遥也、遠は三年近くは三月が中に、思知せ申さんずるぞ、さり共後悔こそし給はんずらめと、御所中ごしよぢゆう響けと叫けり。
 不思議の法師の悪口かなとて、以手綱縛て資行が下部に預たれば、主の烏帽子えぼし打落し突倒たる遺恨さに、首をも斬、足手をも、もがばやと思へども、御許しなければ、事にふれて辛目をぞ見せける。
 左こそいはんながらに、無慙や仏法者ぶつぽふしやにてあるものを、袈裟衣著たる者は、清浄の上人にて有ものを、蒸物にあひて腰搦みの風情哉と哀む人も有けり。
 主の資行は少物に心得こころえたる者にて、仇をば恩を以て報ずと云事也、さのみつらく当べからず、何事も前世の事ぞ、且は資行が発心の因縁、善知識と存ず、自今以後は仏道に入りて、後生を欣べしとて、髪をばそらざりけれ共、妻子を放れて閑亭の翁とぞ成にける。
 身は朝廷に仕へながら、心は仏道を望、烏帽子えぼし打落往生を遂べき宿習にこそ。
 禍は福と云事は、加様の事にや、順縁逆縁とり/゛\也。
 さて文覚は右の獄に入られたりけれ共、悪口は止ず、日月地に墜給はず、三宝争か捨給べき、去共神護寺の鎮守ちんじゆ護法、とり/゛\に利生を現じ給へと、手を合念珠を捻ければ、獄中の者共も、身の毛竪てぞ覚ける。
 さればにや上西門の女院、指たる御悩ごなうもましまさずして、御寝なる様にて隠れさせ給にけり。
 上下騒て一天晩たるが如し。
 天子千行の涙は、春の雨よりも滋く、階下九廻の炎は劫火よりも苦。
 非常の大赦被行けり。
 文覚先獄を出。
 悔先非後慮りあり〔て〕、暫は引籠ても在べきに、尚もしひず勧進する事如元。
 法皇の御助成のなき事を、安からず思て、京中白川大路、門人の集りたる所にては、浅増あさましくいまはしき事をのみぞ云ける。
 黒衣の裳短きに、黒袴脛高に著、同色の袈裟懸て、太刀を腰に横へ、指縄緒の平あしだはきて、勧進帳を手ににぎり、世にも恐れず、口もへらず、知も知ぬも人に会て云けるは、こゝの闕たるは院の所為よ、頭の腫たるは法皇の所行ぞかし、蒸物に合て腰がらみとて、法住寺殿ほふぢゆうじどのの御所の前を、東西南北にらみ廻りて、

文覚流罪事

 官位を高砂の松によそへて祝とも、春降雪と水泡消ん事こそ程なけれ。
 輪王位高けれど、七宝終に身にそはず、況下界小国の王位程こそ危ふけれ。
 十善帝位に誇つゝ、百官前後に随へど、冥途の旅に出ぬれば、造れる罪ぞ身を責る。
 南無なむ阿弥陀仏あみだぶつ/\、いつまで/\春夏は旱、秋冬は洪水、五穀には実ならず、五畿七道ごきしちだうは兵乱、家門には哀声、臣下卿相けいしやう煩て、君憂目を見給べし。
 世中は唯今に打返さんずる者を、安き程の奉加をな、阿弥陀仏あみだぶつ/\あみだぶつと高念仏申て、因果は糺縄の如、人に辛目みせ給る代は、去共/\とて上下に通ければ、及天聴公卿くぎやう僉議せんぎありて、此僧を京中に置ては悪かりなんとて、伊豆国いづのくにへ流罪の由にて、当時の国務也ければ、源げん三位ざんみ入道にふだうの子息、仲綱なかつなに被仰付ぬ。
 仲綱なかつなこれを召渡して、薩摩兵衛省に仰て、下遣すべき支度あり。
 院より庁の下部二人付られたり。
 折節をりふし伊豆国住人ぢゆうにん、近藤四郎国澄と云ふ者、年貢運送の為に、南海道より舟に乗りて上たりけるが、下りける戻舟に乗て、慥に国に付よと言伝らる。
 庁の下部放免二人も下向すべきにて有けるが、文覚に語けるは、庁の下部の習、懸事に付てこそ、自酒をも一度飲事にて候へ、去ばこそ又折々に、芳心をも申事なれ、上人御房程ならぬ人だにも、人には訪をも乞事に候。
 申さんや御房は、貴とき人にて御座上、京白川に知人多くぞおはすらん、触廻らして国の土産道の粮物にも所望し給へかし。
 只官食ばかりにては慰も有まじ、且は身の計をも存、又人の心をも兼給へかしと様々教訓しけり。
 文覚思ひけるは、法師は上下男女勧進の僧也、左様の仏物すかしとらんとて、云にこそと思ければ、返事には、縁者知音も身が身にてある時こそ自ら芳心もあれ、入道出家の後は、諂心なければ得意取事もなし、親類骨肉にも近づく事なければ、問被問ずして十余年にも成ぬ、然べき者あるらん共覚えず、縦ありとも有甲斐あらじ、大方は我人に物を与ふるにこそ、得意知る人は多けれ。
 法師は人を勧進して人に物を乞へば、うとむ者はあれども親む者はなし。

文覚清水状天神金事

 〔去さるほどに〕但東山にこそ後生までもと契りて、常に行眤ぶ事はなけれ共、朝夕に難忘思被思たる人はあれ、縦無間の底までも身に代ぬ人也、よに憑む甲斐在て、実の詮には叶ぬべき人ぞ、さらば実に道の土産にも大切也、殿原にも志をも申、吉酒をもめさせん、硯紙まうけ給へと云。
 下部悦て硯借よせ紙買儲たり。
 文覚紙を取向て見れば、如法雑紙也。
 見まゝに、奇怪なる奴原が紙の様かな、人の品をば消息せうそくにて知事也、吉紙を尋て進よ、これ人のために非ず、只今ただいま物儲て取せんずるぞとて投返す。
 放免ども悪き僧の詞かな、奴原とは何事ぞ、いざ咎めんと云けるを、其中に制して、暫一天の君をだにも悪口申物狂也、天狗の様なる者なれば、何ともいへ、人々敷者にいはれてこそ恥にも及べ、其上唯今物乞てえさせんと云人に、躍合て要事なしとて、上品の紙の神妙しんべうなるを尋出して進る。
 文覚申けるは、法師はよに腹悪者にて、悪口申て候けり、中直りし奉、抑我は天性筆をとらぬ者也、能書ん人を請じ給へ、件の人は目も心も辱しき人也、文様尋常なるべしと云ければ、穴煩しの御房やとは思へども、若興ある事や有と思て、其辺に走廻りて能書の人を尋ね出して来れり。
 文覚は手書を近呼寄て、良物語ものがたりりして、其後放免共に、やゝ殿原聞給へ、木に付虫は本を嚼、萱に付く虫は萱を啄と云事あり、能者を請じて能を顕すには、必酒を進、引出物をするは習ひ也、然も土産所望の文也、乞食だにも門出とて祝事ぞかし、虚口にては福楽無、先手書を能々翫奉べし、去ずば書給べからずと云。
 其時下部共定もなき事ゆゑに、をこがましとは思へども、支へては云人を請じて、さすが片腹痛さにいなとは云ず、直垂質におきて、酒肴買よせてよく/\進せ、腰刀一引出物にたぶ。
 手書の僧酒飲引出物懐中して後、墨磨筆染て、御文は何様にと申。
 文覚が申さん様に、少も違へず書給へとて、為高雄神護寺修造勧進、於法住寺ほふぢゆうじ御所、奏聞之処、聊蒙勅勘向伊豆国いづのくに候、抑浮雲之身、雖朝露之命、猶以難捨候哉、為旅粮之鵝眼百貫ひやくくわんしゃう牙しやうげ百石、付使者申請候、恐々謹言。
  月 日 文覚、
と書せて、立文たり。
 表書をば誰と可書候ぞと問ば、文覚打笑て、清水寺観音御房と書給へとぞ云ける。
 よに可笑事なれども、放免共は腹を立すべて不咲。
 文覚一人のみぞ手を扣て笑ける。
 下部共不安思て、和僧のさのみ庁の御使を可欺事やはある、奴原とてだにも不思議に思ふに、紙ぞ手書ぞ、酒よ引出物よとて、係る嗚呼をこの事申条後悔し給な、思知べしと、口々にののしりけれ共、文覚は猶奇異にをかしき事に思て、座にもたまらず笑飽て申けるは、殿原や中直りして物申て聞せん、されば観音に利生を申人は嗚呼をこの事にてある歟、月詣日参、夜も昼も踵を継て参る、上下男女道俗貴賤は、皆嗚呼をこの事かは。
 文覚をば悪口すると宣へども、己等こそ増て悪口の者よ、法師は法皇を悪口とて、伊豆国いづのくにへ被流、己等は観音を悪口すれば、地獄釜へ流さるべき也。
 抑観音の利生をば、いか程の事とか思。
 法華経ほけきやう八巻に、若有人受持六十二億恒河砂、菩薩名字復尽形供養、飲食衣服臥具医薬、四種功徳と、只一時也とも、観音の名号を念じて礼拝せん、功徳と正等にして、異事無と説れたり。
 されば大悲無窮の菩薩也。
 広大円満の利生也、其に己等が貪欲に住して、物ももたぬ法師に物を乞へば、物持たる観音に物乞奉りて、己等に給はれとて、消息せうそくやるを嗚呼をこ也と云は、さらばさて有かし、嗚呼をこの者共とて、又念誦うちして、睨へたり。
 力及ぬ法師哉とて、鳥羽の南門より船を出す。
 事に触て情なくこそ当りけれ。
 其夜は渡辺に著ぬ。
 水手梶取も、同一所に宿けり。
 文覚は内にあり、梶取は縁に臥たり。
 遣戸一を隔たり。
 夜さし更て梶取が云けるは、哀此上人は勧進の用途は多く持給たるらん、勅勘の人なれば、いつか帰上給はんずらん、何とかなして枉惑し、とらんなど様々に私語ささやきて、其後は音もせず。
 文覚は悪き奴原哉と思て、暁方に念珠押揉、忍声にて南無なむ帰命頂礼きみやうちやうらい、高雄山の護法、天童、為神護寺造営勧進用途にて、金百両を買、五条ごでうの天神の鳥居を左の柱の根、三尺が底に埋て候。
 文覚上洛の程、夜の守昼の守と、令守護給へと祈誓しけり。
 梶取ども目を醒して、互に頭を振合て悦けり。
 明るや遅し、四五人京へ上り、夜に入りて五条ごでうの天神の鳥居の左の柱根を、三尺ほりたれ共、金もなし、五尺計堀たれ共なかりければ、一人が云けるは、夜の耳にてはあり、而も忍音に云つれば、右の柱を左と聞てもや有らんとて、右の柱を四五尺掘りたれども、鳥居は倒て金はなし。
 浅猿あさましとて逃下ぬ。
 明日は五条ごでう渡、西洞院にしのとうゐん在地人集て、是は不思議の物恠ぞ、我は夢に見たりつる事、我は烏の此辺に集りたる事など申て、何様にも天神を宥奉べしとて臨時の祭し、鳥居を造り替、優々敷経営にぞ有ける。
 伊豆守いづのかみ仲綱なかつなが依下知、国澄暫渡辺に逗留す。
 又文覚大事の召人也、よく/\守護すべきと云下たりければ、渡辺党番に結で是を守、夜は通夜寝ず、内へ外へ出入て、昼は終日に立ぬ居ぬ、湯よ水よと云て、人をも安く置ず、聊も命に背けば散々さんざんに悪口して、親者ももてあつかへり。
 云ける事は、穴無慙や、少くより不調也と見し者は、終に果して憂目を見ぞとよ、故郷には錦の袴を著て、帰とこそ云に、さまでこそなからめ、所生の所に来て親類骨肉に被守護、恥と思心もなく、猶不当の悪口振舞して、我等われらをさへ心憂目見する事口惜さよと云処に、有し梶取が進出て、惣不当の大虚言の御房也、金百両五条ごでうの天神の鳥居の下に埋たりと宣し時に、人にも知せず親き者ばかり、少々相連て、終夜よもすがら堀共々々終になし、結句は鳥居の柱掘り倒して、浅猿あさましさに逃下たりと云。
 文覚親き者に謗られて、大に腹立しける中に、梶取めらをすかし負せたりと嬉しくて、やをれ舟流共よ、此大地の底は金輪際とて金を敷満ちたり、など其までは掘らざりけるぞ。
 但法師が埋たる金は北野天神の鳥居の事也、五条ごでうの天神には非、今一度上て掘り直せとて、ふしころびてぞ咲ける。
 其後一門の者共に向て、目を見はり嗔声にて云けるは、法師は若より千手経の持者にて二十八部衆番を結んで守護し給へば、友ほしと不思、己れ等に守られずば法師侘べきか、いかに守共、逃失んと思はば可安、一門の中に、斯かる貴き上人が出来て、院ゐんの御所ごしよ迄もさる者有と、被知召たるは、親き奴原が非面目乎、是こそ錦の袴著て故郷に帰たるにはあれ、其に不当也など聊も思申条奇恠也と云て、又散々さんざんに悪口しけり。
 角て文覚は渡辺に四五日ぞ有ける。
 是より舟に乗、国澄に相具して、住吉すみよし、住江、和歌吹上、玉津島明神を伏拝、日前黒懸をよそに見て、由良湊、田部の沖、新宮浦に船を著、熊野山を伏拝、南海道より漕廻て、遠江国名田沖にぞ浮だる。
 折節をりふし黒風俄にはかに吹起、波蓬莱を上ければ、こはいかゞせんと上下周章あわて騒けり。
 思々に仏を念じ、口々に祈事して泣悲みければ、水手梶取帆を引、沈石を下し、荷を刎船を直けれ共、いとゞ波風烈しくして、為方なければ、声を揚てぞ喚叫ける。
 去ども、文覚は舟耳を枕として、高息引かきて臥たり。
 梶取等文覚が傍に寄、良上人御房、いかに加程の大風に、打とけ眠り給ぞ、起て祈し給へと、起せ共/\不動。
 余に強く起されて、頭ばかりを持挙て、久物は不食、身は疲たり、所作すべき力なし、但痛くな騒そ、法師らがあらん限はよも苦からじ、波風の止程は、唯たれ/\も共にねよとて、又引かづきて臥。
 浅増あさましき中にも悪まぬ人はなし。
 風は弥吹しぼり、船耳に浪越ければ、今は櫓を取楫を直に及ばず、舟底に倒伏て、音を揚て喚きけれ共、文覚は泣もせず、起もあがらず、ふせりながら、穴面白と声欹してぞ有ける。
 口々に申けるは、穴不当の僧の事様や、無慙也々々々、出家染衣の形と成なば、叶はぬまでも経をよみ念珠を捻りて、慈悲を起し祈誓すべき事ぞかし、其に我身をさへ思はずして、只今ただいま波の下に沈んずる者が、いかなる心なれば、起も上らず、剰穴面白など云事、不思議さよ。
 誠や無智も無行も、僧は国の盗と、仏の仰にて有けるぞ。
 あの不当の心にて、蒙勅勘、遠国へも下るぞかしなど申あへり。
 文覚聞て良在て這起、口説言はさて歟、あゝ云も道理也、命共が惜ければ、臥も理と思へ、悶るも理物がくさければ起ず、但余に歎くが不便なるに、波風やめて見せんとて、舟舳頭に立跨て、沖の方を睨へて、竜王りゆうわうや候/\、いかに海竜王共かいりゆうわうどもはなきか、曳々とぞ呼だりける。
 舟中の者ども、こは如何なる事ぞや、浅猿あさましや斯かる折節をりふしには、竜王りゆうわう御前どもこそかしづき申すべき、悪口申ていとゞ竜神りゆうじんの御腹立進なんず、中々詮なく起にけりと、悲しき中にも今少怖しさぞまさりける。
 去ば角な宣そと制しけれども、文覚は念珠押捻、大の声のしはがれたるを以て申けるは、海竜王神かいりゆうわうじんも慥に聞、此船中には、大願発たる、文覚が乗つたる也、我昔より千手経の持者として、深く観音の悲願を憑、竜神りゆうじん八部正しく如来によらい説教の砌みぎりにして、千手の持者を守護せんと云誓を発すに非ずや、されば文覚を守らずば、誰をか可守、吾船をば手に捧、頭に載ても行べき所へは送べし、さまでこそなからめ、浪風を発条あら奇怪や/\、忽たちまちに風を和げ波を静よ、と云事を聞ずば、第八だいはち外海の小竜めら、四大海水の八大竜王りゆうわうに仰付てなく成べしとて嗔りける。
 是を聞者どもが、いや/\此僧は、敢て物狂にて有けり、聞く共聞じ、加様の者が乗たれば、懸悪風にも合にこそとつぶやきけり。
 去ども文覚が云事、竜神りゆうじんの心にや叶ひけん、沖吹風も和て岸打浪も静也。
 其時にこそ舟中の者共は安堵しつゝ、穴貴々々、是程に竜王りゆうわうを随へ給程の上人を、忝かたじけなくも舌の和なる儘に、口に任て誹り申ける事の浅猿あさましさよ、いかに加様の貴人をば、奉流やらんとてこそ悦びけれ。
 是又観音利生悲願の目出たき故也。
 故に法華経ほけきやうには、縦巨海に漂流すと云とも、観音を念ぜば、波浪に没する事なからんと云へり。
 文覚大悲の本誓を仰、千手の神咒を持故に、内徳外に顕て、風波の難をぞ遁れける。
 角て文覚云けるは、如何に殿原自今以後は知べし、勤行精進の在俗よりは、無智無行の比丘は勝たりとて、懶惰懈怠なれども、僧をば敬ふ習ぞ、法師此舟に乗ずば、誰か一人も助るべきとて、気色して、千手陀羅尼を誦しければ、其後は楫取已下の輩、手水を捧履を取、主従の礼よりも猶深して、事外にぞ敬屈しける。
 領送使国澄も、今こそ始て貴き人とも思知けれ。
 常に対面して物語ものがたりしける中に、国澄問云、抑当時世間に鳴渡雷をこそ、竜王りゆうわうと知りて侍るに、其外に又大竜王りゆうわうの御座様に仰候つるは、いかなる事にて侍るやらんといへば、文覚答て云、此等に鳴雷は、竜神りゆうじんとは云ながらわう弱わうじやくの奴原也。
 あれは大竜王りゆうわうの辺にも寄つかず、履を取までもなき小竜めらなり、八大竜王りゆうわうとて、法華経ほけきやうの同聞衆に有八竜王りゆうわう、難陀竜王りゆうわう、跋難陀竜王りゆうわう、娑伽羅竜王りゆうわう、和脩吉竜王りゆうわう、徳叉迦竜王りゆうわう、阿那婆達多竜王りゆうわう、摩那斬竜王りゆうわう、優鉢羅竜王等りゆうわうとう、各与若干百千眷属倶と説けり。
 此竜王達りゆうわうたちは面々二百千万億の眷属を具して、蒼溟三千の波の底に、金銀七宝の宝を以、八万四千はちまんしせんの宮造して、億千の竜女にかしづかれて居住せり。
 此空に鳴行く奴原は、八大竜王りゆうわうの眷属の、又従者の/\、百重ばかりにも及び難き小竜也。
 去共夏天の暑に雲を起し雨を降して、五穀を養ふ事は目出事ぞや。
 たとへば諸国の人民百姓が計に、職士定使とてわう弱わうじやくの奴原が、家園に鳴廻ば、怖恐て相構て僻事をせじ、理を失はじとて、所を治家を治むれども、実の十善の君の玉の台、日の御座に御渡あるをば、下﨟は知り進せぬ定也。
 其にさしも気高き八大竜王りゆうわうは、文覚を守護せんと云誓あり、況や小竜共が不案内、危くも煩をなす時に、只今ただいま名乗たれば、すは海上は静りぬるはと云。
 国澄又問て云、左程に気高う御座おはしましける八大竜王りゆうわうは、いかなる志にて、文覚御坊をば守護し進んとは誓給たるやらんと。
 文覚答て云、いみじくも問給たり。

竜神りゆうじん三種心

 昔釈迦如来しやかによらい、在世説法の時、八大竜王りゆうわう参りて仏に向つて申様は、仏徳尊高にして、万徳自在也、三世の知恵を極て十方世界に明也、然れども猶御心に叶はぬ御事やおはしますと申。
 時に仏答て云、我能万徳円満して、自在の身を得れども、心に叶ぬ事二種あり。
 一には娑婆に久住して、常に説法して、衆生を利益せんと思へ共、分段無常の境は、百年の内に涅槃の雲に隠なんとす、是心に任ぬ愁也。
 二には我涅槃の後、若善根の衆生ありと云とも、為魔王障碍て、所願しよぐわん成就じやうじゆの者あるべからず、其善根の衆生を誰に誂置べき共覚ず、是又大なる歎也と宣き。
 于時八大竜王りゆうわう座を起、仏を三匝さんさうして威儀を調、尊顔を奉守て、三種の大願を発て云、一我願入涅槃後、孝養報恩の者を守護すべき、二我願仏入涅槃後、閑林出家の者を可守護、三我願仏入涅槃後、可護仏法ぶつぽふ興隆者、此三の願を心に案ずれば、併がら文覚が身の上にあり。
 法師は加様に心急々にして、時々物狂の様なれども、母は吾を生んとて難産して死ぬ、父には三歳の時別ぬ、憑む方なき孤子なれば、幼なき子を思おきけん、父母の心の中、いかばかりの事案じけんと思へば、親を思ふ志今に不浅、妻に後れて出家入道すれども、本意は只至孝報恩の道念より起れり。
 八大竜王りゆうわうの第一の願に答て、被守護べき身也。
 閑林出家と誓たれば、十八歳にして、入道して、再在家に帰らず、更に人に諂事なし。
 猶山林流浪の行人也。
 第二の願に答、可守護身也。
 況仏法ぶつぽふ興隆と誓たれば、文覚こそ神護寺を修理して仏法ぶつぽふを興隆し、不断の行法を居て、平等の得脱を祈らんと云志深ければ、第三の願に答らんと覚。
 其に和殿原までも奉悪ども、八大竜王りゆうわうは如何計かは憐守給らん。
 斯かる聖教の道理を覚たれば、小竜などは物の数共存ぜず、去ば竜王りゆうわうめ/\とも申侍る也。
 さ申和殿原とても、孝養の志も深、煩しくして、而も住はつまじき世を厭ひて、入道出家し給、閑林に閉籠、仏法ぶつぽふをも興隆し給はば、八大竜王りゆうわうに被守護給はん事は疑なし、必しも文覚一人を守らんと誓たるには非、相構々々殿原も親に孝養の志深うして、仏法ぶつぽふに志を運給へ、今生後生の大なる幸なるべし、夢幻の世中有かとすれば更になし、徒に身を苦めて、悲く悪趣に歎ん事、心憂かるべし、さても/\法皇の邪見こそ糸惜けれ、さこそ辺土小国の主と申さんからに、僅わづかの助成を恨、興隆仏法ぶつぽふの法師等をなくなし給らめ、糸惜さよ、八大竜王りゆうわういかばかり本意なく思給らん、守護の天童も定て嗔りをこそ成給らめ、いざ/\殿原後に思合給へよ、災害は只今ただいま有ぬと覚ゆる者をや、大国の王は破戒なれども比丘をば敬、無実なれども勧進をば奉加す、況文覚全く妻子を養はん為に非、誑惑不善の勧に非ず、和殿原さへ相そへて、仏法ぶつぽふ粗略の人共にて、道理を責て申とも、文覚が口状をば信用し給はず、能々思慮すべき事也、内徳を顕さざれば、外相に信を取らせんとて、忍て小竜等を招、風波の難を現じて見せつる也、されば如案に今は信伏して、切て継たる礼儀をかしく、哀に覚候、小竜一旦の騒だにも不なのめならず、まして無常決定の荒き風も吹、阿坊獄卒の稠き責の来ん時は、文覚猶以叶がたし、況各に於てをや、無上世尊も入滅し給へば、高位と貴み奉国王も遁給はず、唯造れる善根ばかりぞ身をば助べき、天竺震旦をば暫置く、我朝には皇極天皇てんわう閻魔の庁に跪き、延喜聖主鉄崛苦所に墜給き、彼は正法を以て国を治、慈悲を施し民を憐給しか共、たやすき咎に報い給けり。
 増て渡世不善法の和殿原、叶べしとも覚えず、今度文覚が悪事して伊豆国いづのくにへ罷るは、仏の方便を知べし、今より後は一向に文覚が依教訓仏道に心をかけ給へ、一樹の陰に宿けるも、前世の契と見えたり、況数日同船の眤びをや、可然善知識と思べし。
 仏道に心を懸と申は、内心慈悲ありて、物を憐、常に墓なき世を疎んで、仏を念じ悟りを開と思へば、仏臨終に決定して来迎し給ふ、所以に観音勢至阿弥陀如来あみだによらい、無数の聖主諸共に弘誓の船に棹して、生死の苦海を渡り、宝蓮台の上に、往生して菩提の彼岸に遊ばん事、誰か是を望まんやと、賢き父の愚なる子を教ふる様に、泣口説教訓したりければ、金とらんとて五条ごでうの天神の鳥居掘り倒したりける放免の中に、刑部丞県の明澄と云ける男は、生年三十三歳に成けるが、さしもの邪見を改て、菩提心を発、本どり切て文覚が弟子となる。
 即剃髪授戒、名をば文覚の文をとり明澄の明を取て、文明とぞ付たりける。
 其外の者共も、出家入道迄こそなけれ共、一旦仏道に帰しけり。
 此文覚は天狗の法成就じやうじゆの人にて、法師をば男になし、男をば法師になしなどして、うつゝ心は無けれ共、ゆゝしき荒行者にて、度々鍔金顕したる者也。
 されば渡辺にて舟に乗けるよりして、大願を発しけるは、我願成就じやうじゆして神護寺を修造すべくば、縦湯水を飲ず共、国につかんまで、命を全うすべし、其願空くなるべくば、今日より後七箇日の中に、天神地祇命を召とて、飲食を断。
 預の武士様々に誘けれ共、終に飲くはず、ほしくば己らくへ、法師は己れ等が手に懸つて、干死にして無なさんと嗔りける間、力及ず、三十一日と申に、伊豆国いづのくにへ下著ぬ。
 其間五穀を食せず、湯水を不飲けれ共、形も損せず色も衰る事なし。
 行法うちして歎愁たる気なし。
 常は笑き物語ものがたりして、己も咲人をも笑はしてつれ/゛\はなかりけり。
 又道心の始、熊野金峯行ひありきける時、那智の滝に七箇日の間打れんと云ふ、不敵の大願を発けり。
 比は十二月中旬の事なれば、谷のつらゝも竪閉、松吹風も膚にしむ。
 去ぬだに寒きに、褌計に裸也。
 三重白尺の滝水、糸を乱して落たぎる滝壺にはひ入て、身に任てぞ打れける。
 一日二日打るゝ程に、身は紅色と成て、紅蓮地獄の衆生の如し。
 髪鬚には垂氷さがりて、鈴を懸たるが如に、から/\と鳴けるが、流石さすが生しき身なれば、三日と云ける日は、息絶身すくみて、死人の如し。
 かたへの行者達も、由なき文覚が荒行立て、墓なく成りぬる事よとて、或憐或猜けり。
 已に滝の底に流入けるを、誰とは不知下もやらず、ひたと捕へて、左右の手を以て、文覚が頂より足手の爪先まで、あたゝか/\と撫て、把すると思ければ、さしも石木の如くに凍りすくみたりける身も、皆解あたゝまりて、人心地していきかへる。
 文覚不思議に覚て、抑法師とり助給たまひつる人は誰と問。
 詞に付て、汝知ずや、我は是大聖不動明王ふどうみやうわうの御使、矜伽羅、勢多迦と云者也。
 汝不敵の願を不果して、命の終つるを、此滝けがすな文覚助よと蒙仰来れる也と答。
 穴貴の事や、如何なる姿ぞ、世の末の物語ものがたりにせんと思、立帰て見れば、十四五計なる童子の左右に丱結たるが、遥雲井を蹈上り、滝の上にぞ入給ふ。
 文覚思けるは、誠に明王みやうわうの御計ならば、今はいかに打共よも死なじ、さらば前後三七日打れんと思て、滝の水に入たりけれ共、落来水も身にしまず、滝壺も又湯の如し、更に寒事なければ、終には願を果しけり。
 加様に心しぶとく、身も健にして、立ぬ願もなく、せぬ業もなし。
 懸りければ、発心地物気など云て請用隙なし。
 向と向ひぬるに、空き事はなし。
 余に暇なき折は、念珠袈裟を遣して、病者の目にも見せ、手にも取せぬれば、忽たちまちに験を顕す。
 係りしかば、元来天狗根性なる上に、慢心強く高声多言にして、人をも人とせざりける余、院ゐんの御所ごしよにて悪口を吐、預勅勘流罪けり。
 伊豆国いづのくに奈古野が奥と云所に、観音の霊堂あり。
 則なこや寺と名く。
 彼傍に奇庵を結て、閉籠て年月を送つゝ、深大悲の誓願を憑て、不退の行法薫修せり。
 昼は先手経を読、夜は三時に行法せり。
 人是を貴て、折々衣裳を送けれども、返すは多く、請取は稀也。
 何とてとき料なども在けるやらん、同宿もあまた侍けるとかや。
 遠近舟の旅人は、炉壇の煙に心すみ、釣する海人の楫枕、燈炉の光に目を醒す。
 渚なぎさに遊水鳥は、振鈴しんれいの声に驚、藻に住磯の鱗は、閼伽の水にや浮ぶらん、最貴くぞ覚えける。
 されば当国の目代もくだいより始て、上下の男女帰依の思を成けれども、惣じて諂心なし。
 真実の道心者也とぞ見たりける。

津巻 第十九
文覚発心附東帰節女事

 文覚道心の起を尋れば、女故也けり。
 文覚がために、内戚の姨母一人あり。
 其昔事の縁に付て、奥州あうしう衣川に有けるが、帰上て故郷に住。
 一家の者ども衣川殿と云。
 若く盛んなりし時は、みめ形人に勝、心ばへなども優にやさしかりけるが、今は盛過て世中も衰へ、寡にて物さびしき住居也。
 娘一人あり、名をばあとまとぞ云ける。
 去共衣川の子なればとて、異名には袈裟と呼。
 親に似たる子とて、青黛の眉渡たんくわの口付愛々敷、桃李の粧芙蓉の眸、最気高して、緑の簪雪の膚、楊貴妃、李夫人は見ねば不知、愛敬百の媚一つも闕ず、さしも厳女房の、心さへ情深して、物を憐咎を恐事不なのめならず
 毛しやう西施が再誕歟、観音勢至の垂跡すいしやく歟、深窓の内に扶られて、既すでに成人也。
 軒端の梅の匂いと芳、庭上の花実に細にして、十四の春を迎たり。
 栄花名聞人々我も/\と心を通す。
 其中に並の里に、源左衛門尉げんざゑもんのじよう渡とて、一門也けるが、内外に付て申ければ、恥しからぬ事也とて、これを遣す。
 互の心不浅して、はや三年に成ぬ。
 女今年は十六也。
 盛遠は十七に成けるが、其歳の三月中旬に、渡辺の橋供養あり。
 盛遠紺村濃の直垂に、黒糸威くろいとをどしの腹巻に、袖付て、折烏帽子をりえぼし係にかけ、銀の蛭巻二筋通して巻たる長刀、左の脇にはさみ、其そのの奉行しければ、辻々固めたる兵士共下知し廻して、橋の上に立渡、ゆゝしくぞ有ける。
 供養既すでに終て、方々へ下向しける中に、北の橋爪より東へ三間隔て有ける桟敷の内より、女房達にようばうたちあまた出て下向しける中に、十六七にもや有らんと見ゆる女房、輿に乗らんとて簾を打挙けるを見れば、世に有難き女也。
 盛遠目くれ心消して、何くの者やらん、何なる人の妻子なるらんと、行末見たく思ければ、輿に付て行程に、並の里に渡と云者が家に見入たり。
 是は聞えし衣川の女房の女や、過失なき美人なりけり、如何すべきと、春の末より秋の半まで、臥ぬ起きぬぞ案じける。
 思澄して、九月十三日のまだ朝、母の衣川が許に伺行、則刀をぬき、無是非母が立頸を取て、腹に刀を指当て害せんとす。
 女うつつ心なし。
 能々見れば甥の遠藤武者盛遠也。
 女泣々なくなく申けるは、抑和殿は我には甥、我は和殿に姨母、此中には殊なる怨くねなし、就なかんづく御辺ごへんの母死して後は、孤子なれば、孫子を思様に糸惜し奉る、父とも母とも憑み給ふべし、何人か如何と讒言したたれば角うき振舞をばし給ふぞ、身に誤ありと覚ず、暫く命を助て、怨の通を宣へ、晴申さんと手を摺て泣。
 盛遠は慈悲なし、目を大に見はりて、伯母也とても、我を殺さんとし給ふ敵なれば、遁すまじ。
 渡辺党の習として、一目なれども敵を目に懸て置ず、すは/\只今ただいま指殺んとて、腹に刀をひや/\と差当たり。
 姨母は肝魂もなし、わなゝく/\、誰人の申ぞ、我寡にして夫なし、和殿に於て意趣なし、思ひよらぬ事をも宣ふ物哉、是は何なる事ぞやと申。
 盛遠は、人の申に非ず、袈裟御前を女房にせんと、内々申侍りしを聞給はず、渡が許へ遣たれば、此三箇年人しれず恋に迷て、身は蝉のぬけがらの如くに成ぬ、命は草葉の露の様に消なんとす、恋には人の死ぬものかは、是こそ姨母の甥を殺し給なれ、生て物を思ふも苦しければ、敵と一所に死なんと思ふ也と云。
 衣川は責ての命の惜さに申けるは、旁申し中に角とは聞しか共、さまでの事とも思はず、身貧なれば何方共思分ざりしを、渡奪が如して取しかば力なし、加程に思給はば安事也、刀を納よ、今夕呼て見せんと云。
 盛遠は等閑に口を竪めては悪かりなんと思て、虚言せし渡が方へ返忠せじなど、能々竪めて刀をさし、今夕参らんとて帰にけり。
 衣川は涙を流し如何はせんとぞ悲みける。
 此盛遠が有様ありさま、云事を聞ずば一定事にあひぬべし、さて又呼て逢せなば、渡が怨いかゞせんと思けるが、案廻して娘の許へ文をやる。
 此程風の心地候。
 打臥までの事はなければ、披露までは事々しく候。
 忍ておはしませ、可申合事侍。
 寡なる身には墓なき事のみ侍り。
 返々忍て只一人おはしませと書たり。
 娘消息せうそくを取上見て、心細き御文の様哉とて胸むね打騒、女の童一人具して、仮初に出づる様にて、母のもとに来れり。
 母つく/゛\と娘の顔を見て、はら/\と泣て、良久有て手箱より小刀を取出して云けるは、此を以て我を殺し給へとて与ければ、娘大に騒て、是は何事にか、御物狂はしく成給へるかとて、顔打あかめて居たり。
 母が云、今朝盛遠が来て、様々振舞つる事共、有の儘に云ひつゞけて、此事いかにも/\盛遠が思の晴ざらんには、我終に安穏なるべし共覚えず、去ばとて渡が心を破らんとにも非ず、由なき和御前故に、武者の手に係て亡びんよりは、憂目を見ぬ前に、和御前我を殺し給へとて、さめ/゛\と泣。
 娘これを聞て、実に様なき事也、心憂事哉と不なのめならず歎けるが、つく/゛\是を案じて、親の為には去ぬ孝養をもする習也、御命に代り奉らん、結の神も哀と思召おぼしめせとて、口には甲斐々々しく云けれ共、渡が事を思ひ出つゝ、目には涙をこぼしけり。
 日も既すでに暮ぬ。
 盛遠は独咲して鬢をかき髭をなで、色めきてはや来て、女と共に臥居たり。
 狭夜も漸々更行て、暁方に成ければ、鶏既すでに啼渡、女暇を乞。
 盛遠申けるは、会ずば逢ぬにて有べし、弓矢取身と生て、あかぬ女に暇をとらせて恋する習なし、会で思し思は数ならず、何なる目に合とても、暇奉らんとは申まじ、今より後は長き契、是だにあらば何事か有べきとて、太刀を抜て傍に立たり。
 嗚呼ああ今は世の乱ぞ、思儲し事なれば、会ぬる後は命くらべ、和御前のためには命も惜からず、和御前の不祥、盛遠が不祥、渡が不祥、三つの不祥が一度に可来宿習にてこそ有りつらめとて、惣て思切たる気色也。
 女良案じて云けるは、暇を奉乞は女の習、志の程を知らんとなり、角申も打付心の中〔は〕末憑れぬ様なれば、憚あれ共何事も此世の事に非ずと聞侍れば、実も前世の契にこそ侍らめ、去ば我思心を知せ奉らん、渡に相馴て、今年三年に成侍けれ共、折々に付て心ならぬ事のみ侍ば、思はずに覚て何へも走失なばやと思事度々也。
 去共母の仰の難背さに、今迄候計也、誠浅からず思召おぼしめす事ならば、只思切て左衛門尉さゑもんのじようを殺し給へ、互に心安こころやすからん、去ば謀を構んと云。
 盛遠悦ぶ色限なし。
 謀はいかにと問へば、女が云、我家に帰て、左衛門尉さゑもんのじようが髪を洗はせ、酒に酔せて内に入れ、高殿に伏たらんに、ぬれたる髪を捜て殺し給へと云。
 盛遠悦て夜討の支度しけり。
 女暇を得て家に帰、酒を儲渡を請じて申けるは、母の労とて忍て呼給し程に、昨日罷て侍しに、此暁よりよく成せ給ぬ、悦遊びせんとて、我身も呑夫をも強たりけり。
 元来思中の酒盛なれば、左衛門尉さゑもんのじよう前後不覚にぞ飲酔たる。
 夫をば帳台の奥にかき臥て、我身は髪を濡し、たぶさに取て烏帽子えぼしを枕に置、帳台の端に臥て、今や/\と待処に、盛遠夜半計に忍やかにねらひ寄、ぬれたる髪をさぐり合て、唯一刀に首を斬、袖に裹て家に帰、そらふしして思けり。
 嗚呼ああ終の禍事由なく、肝もつぶさず鎮ぬるこそ嬉けれ。
 年来日来諸々の神々廻行祈る祷の甲斐ありて、本意をとげぬる嬉しさよ、昔も今も神の御利生厳重也、春日八幡賀茂下上、松尾平野稲荷祇園に参つゝ、賽せんとぞ悦ける。
 爰郎等一人馳来て申様、不思議の事こそ候へ、何者なにものの所為やらん、今夜渡左衛門殿さゑもんどのの女房の御首おんくびを切進て侍る程に、左衛門殿さゑもんどのは口惜事也とて、門戸を閉て臥沈給へりと披露あり、吊には御渡候まじきやらんと云ければ、穴無慙や、此女房が夫の命に代りけるにこそと思て、首を取出して見れば、女房の首也。
 一目見より倒伏、音も不惜叫けり。
 三年の恋も夢なれや、一夜の眤も何ならず、落る涙にかきくれて、身の置所おきどころもなかりけり。
 其そのも暮ぬ。
 盛遠起居て、つく/゛\と諸法の無常を観けり。
 生ある者は必ず死すればこそ、三世の仏も炎の煙を示し給ふらめ、会事有りて別るればこそ、上界の天人も退没の雲には悲むらめ、況下界をや、凡夫をや、夫婦の契前後の怨み世の習也、人の癖也、されば是は然べき善知識也、非歎、あかぬ別の妻故にこそ、道心を発すためしは多かりけれ、神明三宝の御利生也と思切、明ければ例よりも尋常に出立ちて、郎等あまた相具して渡が家へ行たれば、門戸を閉て音もせず。
 門を扣て盛遠参たりといはすれば、戸をとぢながら内より答けるは、御渡悦存候、但面目なき事なる間、向後は人々に見参せじと云願を発せり、御帰あるべしと云。
 盛遠重て云けるは、女房の御首おんくび切て候奴を聞出して、かしこへ打向ひつゝ、搦捕て参つる程に、遅参仕候、急ぎ門を開給へと云ければ、歎中にも嬉て、門を開て入れたり。
 左衛門尉さゑもんのじようは、頭もなき女房の傍に臥沈たり。
 盛遠は走寄、御敵具して参たり、先御首おんくび御覧ぜよとて、懐より女房の首を取出して其の身に指合て、腰刀を抜て左衛門尉さゑもんのじように与て、盛遠が所為也、和殿の頸を掻と思たれば、係事を仕出したり、余に心憂ければ自害せんと思へ共、同は御辺ごへんの手に懸りて死なん、さこそ本意なく思給らめ、疾々切給へとて、頸を延てぞ居たりける。
 渡は、刀は我も持たれば人の刀に依べからず、但加程に思はん人の頭を切に及ばず、又自害し給たまひても其詮なし、是も然べき善知識にこそ有けめ、唯御辺ごへんも我も、無人の後世を弔、一仏土の往生こそあらまほしけれ、今生我執を起して、来世苦難を招ん事、自他互に由なし。
 倩是を案ずるに、此女房は観音優婆夷の身を現じて、我等われらが道心を催し給ふと観ずべしとて、渡自刀を抜て先髻を切てげり。
 盛遠是を見て、渡を七度礼拝して、是も髪をぞ切てげる。
 此形勢ありさまを見ける者、男女の間に三十さんじふ余人よにんぞ出家しける。
 衣川の女房も尼に成て、真の道に入けれども、恩愛前後の悲は、いつ晴べし共覚えず。
 彼女房消息せうそく細々と書て、手箱に入て形見に留む。
 是をひらき見れば、去ぬだにも女は罪深しと承り侍るに、憂身〔の〕故にあまたの人の失ぬべければ、我身を失候ぬ、独残留御座おはしまして、歎思召おぼしめさん事こそ痛しく侍れ。
 何事も然べき事と申ながら、先立進ぬる悲さよ、相構て後の世よく弔て給らん。
 仏になり侍なば、母御前をも渡をも、必迎奉るべし。
 よろづ細に申度侍れども、落涙に水茎の跡見え分ずとて、
  露深き浅茅が原に迷ふ身のいとゞ暗路に入るぞ悲しき
と、母これを披見に付ても、目もくれ心も消て、悶え焦ける有様ありさまは、実に無為方ぞ見えける。
 深淵の底猛き炎の中なりとも、共に入なんとこそ思ひしに、こは何としつる事やらん、老て甲斐なき露の身を、葎の宿に留め置、いかにせよとて残らん、昨日を限と知たりせば、などか飽まで見ざるべき、同道にと口説けども、帰らぬ旅の癖なれば、更に答事なし。
 せめての事に母泣々なくなく
  闇路にも共に迷はで蓬生に独り露けき身をいかにせん
と、娘の文に書そへてぞ詠じける。
 其後母は尼になり、天王寺に参篭して、唯疾命を召し、浄土じやうどに導給へ、救世観音、太子聖霊悟を開て、無人の生所を求め、一仏蓮台の上にして、再び行合はんと祈念しければ、次の年十月八日、生年四十五にて目出めでたき往生を遂にけり。
 左衛門尉さゑもんのじよう渡は、僧を請じ剃髪、三聚浄海を受持て、俗名に付たりし渡と云文字にて、渡阿弥陀仏とあみだぶつとぞ申ける。
 生死の苦海を渡て、菩提の彼岸に届かん事を志、渡阿弥陀仏とあみだぶつとも云けるにや。
 遠藤武者も入道して、在俗の時の盛遠の盛じやうをとり、盛阿弥陀仏じやうあみだぶつと云けり。
 失にし女の骨を拾後園に墓を築、第三年の間は、行道念仏して、不なのめならず弔けるとぞ承る。
 去ばにや、夢に墓所の上に蓮花開て、袈裟聖霊其上に坐せりと見て、さめて後歓喜の涙を流しけり。
 其後盛阿弥陀仏じやうあみだぶつ、日本国につぽんごくを修行して、求法の志最苦也。
 斯かりしかば智者になり、盛阿弥陀仏じやうあみだぶつを改て文覚と云、利根聡明にして有験世に勝れたり。
 さる知法効験の時までも、昔の女の事思出て、常は衣の袖を絞けり。
 若や慰とて彼女の影を移て、本尊と共に頸に懸て、恋しきにも是を見、悲にも是を弔ひけるこそ責ての事と哀なれ。
 懸かるためしは異国にも有けり。
 昔唐に東帰の節女と云けるは、長安の大昌里人と云者が妻也けり。
 其夫に敵あり、常に伺けれ共、殺す事叶ず。
 かたき節女が父を縛て、女を呼びて云、汝が夫は我が大なる敵也、其夫を我に与へずば、汝が父を殺さんと云ひければ、女答曰、妾夫を助ん為に、争生育の父を殺させん、速に汝が為に、妾が夫を殺さしめん、妾常に楼上に寝ぬる、夫は東首に臥、妾は西を枕とす、須来て東首を切れと教て、家に帰つて思はく、父に恩愛の慈悲深し、夫に偕老の情の浅からず、夫の命を助けんとすれば父の命危し、父が身を育まんとすれば、夫の身亡びなんとす、不如父を助けんが為に、夫を敵に与へつ、我又夫が命に替らんとて、自東首に伏して、夫を西に枕せり。
 敵伺入つて、忽たちまちに東首を切て家に帰りて、朝に是を見れば非夫首して、妻が頭也。
 敵大に悲て、此の女父の為に孝あり、夫が為に忠あり、我いかゞせんと云、終に節女が夫を招て、長く骨肉の眤をなしけり。
 夫婦が語ひとり/゛\なり。
 彼は今生の契を結び、是は菩提の道に入にけり。

文覚頼朝よりとも対面附白首附曹公尋父骸

 抑文覚配流の後、篭居したる所をば奈古屋寺と云。
 本尊は観音大悲の霊像也。
 効験無双の薩埵さつた也ければ、国中こくぢゆうの貴賤参詣隙なし。
 其上文覚、我目出めでたき相人也と披露しければ、事を御堂詣によせて、男女多く入集て相せらる。
 向後は知ず過こし方は露違はず、有難相人也と云。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのは、胡馬北風に嘶え、越鳥南枝に巣くふ習にて、都の人の床しさに、行て物語ものがたりし、身の相をも聞ばやと思召おぼしめしけれ共、人目もいぶせく機嫌も知らざりければ、思ひながらさてのみ過る程に、文覚が庵室と、兵衛佐ひやうゑのすけの館とは、無下に近き程也ければ、藤九郎盛長を以て、先文覚が弟子に相照と云僧を被招けり。
 則参たれば、佐殿遥はるかに花の都を出されて、角草深住居なれば、都の方も恋しかりつるに、何事共か侍と宣。
 相照京白川の有様ありさまより、藤氏平家前官当職、公家仙洞事に至るまで、はる/゛\と申けり。
 さて佐殿、上人に見参せばやと相存、いかゞ有べきと宣へば、相照、いと安事にこそ、庵室へ入給べきか、又被召べきか、但物狂の人にて、悪様にや御目に懸候はんずらん、其条こそ恐入たれと申。
 物狂とはいかにと御座やらんと問給へば、相照、師匠の事にて候へ共、うつゝ心なくして、或あるときは高声多言にして、傍若無人也、或あるときは柔和神妙しんべうにして禅定に入が如く也、時雨の空の晴陰る様に、紅葉の秋の濃薄が如く、取定めぬ心にて、三尺計なる榊の枝をあまた用意して、是非なく人を打侍る間、弟子共四五十人もや出入侍ぬらん、余に打程に、堪ずして皆逃失て今は一人も侍らず、此間こそ三十計なる僧の同宿せんとて見え候を、さのみ打侍る程に、彼僧腹立して、親は子を育、師は弟子を憐習也、同宿なればとて、咎なき者を角しもや打つべきとて杖を奪取、上人が頭血の流るゝほど打返す、上人頭押さすりて、此法師は神秘ある者也、法師程の者を打返は直者に非じ、文覚を打返たれば、和法師をば文覚といはんとて、同宿したる者計こそ候へ、大方うつゝ心なき人にて侍ると申す。
 佐殿打笑て、其意を得てこそ見参せめと宣へば、相照庵室に帰りて、此由文覚に語ければ、来給へかしと云。
 相照又立帰て、佐殿に申せば、盛長を召具して、上人が庵室へ渡り給ふ。
 文覚目も懸ず、詞も出さず、佐殿の御座おはする処を、黒脛かゝげ、うわげけはきて、前へ後へ通、行事四五返して後に、障子の内に入て、頭ばかりを指出して、両目にては睨、片目にては睨、立上ては睨、さしうつぶきては睨。
 佐殿は今や打/\、いかに打共こらへなん、実に堪へ難は逃んと被思て、面も損ぜず身もはたらかさず、掻刷て良久御座おはしける。
 文覚は遥はるかに加様にため見て、障子をさとあけて佐殿の前に出合て、戯呼御辺ごへんは、故下野殿の三男とこそ見奉れ、歳のかさなるとて、以外にくまれ給たまひけり、糸惜糸惜とて、やがてはら/\と泣て、切て継たる様に強に畏て礼儀しけり。
 佐殿は聞つる如く、げにも尋常ならず思はれけり。
 文覚良有て云けるは、法師日本国につぽんごく修行して、在々所々に六孫王の末葉とて、見参するを見るに、大将と成て一天四海を奉行すべき人なし。
 或は心勇て、人思付べからず、或は性穏して人に無威応、穏して威なきも身の難也、勇みて猛きも人の怨也、されば威応ありて穏しからんは、国の主と成べし。
 殿を見奉るに、心操穏して、威応の相御座、是は者の思付相也、項羽は心奢て帝位に不昇、高祖は性おだしくして諸侯を相従へり。
 御辺ごへんは後憑しき人や、目出し/\と嘆たり。
 兵衛佐ひやうゑのすけ是を聞、壁に耳、石に口、人や聞らん、恐し/\と被思ければ、其そのは館に帰給たまひぬ。
 其後は佐殿も忍て時々通給ふ。
 文覚も又折々は参じけり。
 日来よく/\相馴て、文覚重て申けるは、良佐殿、源平両家は相互に、一天の守護、四海の将軍たりき。
 而に太政だいじやう入道にふだう、一旦の果報に引れて、天下を管領すれども、悪逆無道あくぎやくぶだうにして、宿運既すでに尽たり、家を続べかりし小松内府、日本につぽんに相応せず、一門に過分して薨給ぬ、其弟共あまた有といへ共、世を治べき仁なし、今は何事か侍べき。
 御辺ごへんは大果報の後憑しき人也。
 文覚相し損じ奉るまじ、法師が目凡夫の眼に非ず、左は大聖不動、右は孔雀明王みやうわうの御目也。
 人の果報をしり、日本国につぽんごくを照し見事掌の中也。
 疾々謀叛を発し、平家を打亡して、父の恥をも雪、又国の主共成給へ、〈 漢書 〉天与不取反受其咎、時至不行反受其殃と云事あり、運の開給べき時至給へり、沈過し給ふべからず、急給へ/\と細々と申。
 兵衛佐ひやうゑのすけ聞給たまひては、此上人は心際怖しき者にて、角語はん程に、左右なく心とけて、謀叛をも起さんといはば、頼朝よりともが首を取て平家にとらせ、己が罪を遁れんと謀にもやあるらんと思はれければ、我身は勅勘を蒙りたれば、日月の光に当るだにも憚あり、池殿尼御前に身を助けられ奉りて、たもち難かりし命の、今までながらへるも、併彼御恩也、されば争か弓矢を取りて平家に向侍べき、又世の末に左様の腹黒などあらせし料に、国に下付なば、狩漁すべからず、人の為に慈悲有べし、不用の名立べからず、事に於て穏便にして、経をよみ仏を唱へて、父の菩提をも弔、我後生をも助るべしなど、差も仰を蒙侍き。
 実に栄花栄耀にほこる共、一期の作法程なし。
 意執我執を存ぜん事、三途の苦悩難遁、然べき善知識の仰と思とり侍しかば、毎日に法華経ほけきやう二部転読して、父母親属、殊には池尼御前の菩提を弔奉るより外は、営む事候はず、悪事など思寄ざる事也と宣へば、文覚懐より白き布袋の少し旧たるに、裹みたる物を取出して、やゝ佐殿、是ぞ故下野殿の御首おんくびよ、法師獄定せられたりし時、世に立廻らば奉らんとて盗みたりき。
 赦免の後は、是彼に隠したりしを、伊豆国いづのくにへ被流べきと聞しかば、定て見参し奉らんずらん、さては進せんとて頸に懸て下たりき。
 日比ひごろは次で悪く侍つれば、庵室に置奉て候き。
 国こそ多所こそ広きに、当国へしも被流けるは、然べき佐殿の父の骸に見参し給ふべき事にやと、哀にこそ候へ、其進ぜんとて、はら/\と泣きけり。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどの是を見給たまひて、一定とは不知ども、父の首と聞より、いつしかなつかしく思ひつゝ、泣々なくなく是を請取て、袋の中より取出して見給へば、白曝たる頭也。
 膝の上にかき居奉て、良久ぞ泣給ふ。
 此下野守には、子息あまた御座おはしませし中に、兵衛佐ひやうゑのすけを鬼武者とて、十ばかりまでも、膝の上に居ゑて、愛し給し志の報にや、今は其骸を請取て、ひざの上に置奉りて、眤じく覚え、其後ぞ深合体し給ける。
 志合則胡越為昆弟、由余子臧是、不合則、骨肉為讐敵、朱象管蔡是、只志を明とせり、必ずしも親を明とせずとぞ、文覚常には申しける。
 昔大国に、曹公と云し者の父、秦泉河と云川を渡けるに、流烈波高して、舟覆水に溺て失にけり。
 曹公歎悲て、彼秦泉河の底に入て、父が骸を尋けるに、水神憐之、曹公を相具して其骸の流寄たる所に行、十五里を下て、柳原の下に被推上たりけるを与たりければ、曹公泣々なくなく父の骸を懐て臥てかくぞ云ける。
  昔惜身命、為高恩、 今双遺骨恋慕
とて、亡父の骸を懐臥ながら、曹公七日に死けり。
 遠近人も是を見て、皆涙をぞ流しける。
 昔の曹公は骸を懐て臥、今の頼朝よりともはひざに安して泣、彼は十五里を去て、水神与之、是は廿余年を経て、文覚持来れり。
 恩愛骨肉の情、とりどりに哀也。

文覚入定京上事

 文覚佐殿に申けるは、我神護寺造営の志ありて、院ゐんの御所ごしよを勧進し奉りしに、辛目をみるのみに非ず、流罪の宣旨を蒙る時、心中に発願の占形をする事は、我必神護寺を造営成就じやうじゆすべき願望をとげんならば、配所へ下著まで断食せんに、死すべからず、其事難叶ならば、途中に骸をさらすべしと誓たりしが、仏神加護して建立こんりふ成就じやうじゆすべきにや、三十一日に此所に下著したり、疾々平家を打亡して後、且は父の菩提のため、且は文覚が本意の如大願を果し給へといへば、佐殿は、頼朝よりとも勅勘を免されずしては、何事も其恐有べしと宣ふ。
 文覚誠に思立給はば、京に上り院宣を申べしと云ひければ、佐殿は御免の院宣を給り、平家追討の勅命を蒙らば、争思立ざるべし、但御辺ごへんも勅勘の身也、いかがはと宣ふ。
 文覚は忍て上洛すべきとて、国中こくぢゆうに披露する様、七箇日入定とて、方丈の庵室を造り、三方をば壁にぬり、一方に口一つ開て、中に縄床を居ゑ、入定の後には戸を立て外より鎖をさせと約束せり。
 斯りければ、奈古屋の上人の入定とて、国中こくぢゆうの貴賤市の如くに集て是を拝む。
 文覚は縄床に上、結伽趺坐して、大日の印相を結で、睡れるが如なり。
 誠貴ぞ見えける。
 終日拝れて後は、弟子の僧約束に任て、扉を閉外より鎖をさす、入定の後も毎日に人多く来拝む。
 文覚は夜に入て方丈の板敷の下より、我仮屋の庵室へ、地の底を掘て、通道を構たり。
 彼穴より這出て夜に紛て上洛す。
 新都福原の楼御所に参て、院の近習者に前兵衛督光能みつよしと云人は、文覚には外戚に付てゆかり也、其人の許に行向て申けるは、伊豆国いづのくにの流人兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりともこそ、朝家の御歎、天下の牢籠を承て、院宣を下給るならば、東八箇国の家人催集て、都に上平家を亡し、仙洞の被打籠御座、逆鱗をも休め奉り、国土をも鎮侍なんと申。
 言に合て事の様伺見に、よそ目には勅勘の者とて憚様なれ共、内心は皆通用せり、況院宣など被下なば、大名小名誰か一人も背侍るべき、いつとなく御心苦き御目を御覧ぜんより、院宣を被免下よかしと奏し給へと語。
 光能みつよしのたまひけるは、実に君も被打籠御座おはしまして、世の御事不知召、さこそ御心憂思召おぼしめすらめ、我も宰相、右兵衛督うひやうゑのかみ、皇太后宮くわうたいごうぐうの権大夫、此三官を止られて歎居たり。
 頼朝よりとも左様に申らん事、帝運の再堯舜の代に改らん事こそ嬉けれとて、密に御気色おんきしよくを伺ひけり。
 然べき御事にやとて御免有ければ、即光能みつよし奉て、院宣を書て給にけり。
 文覚是を給たまひて、上下向八箇日に、伊豆に著、今日は出定の日也とて、又国中こくぢゆうの男女雲霞の如くに集て拝んとす。
 弟子の僧、鎖をはづして戸を開たり。
 威儀不乱、定印不違、髪生のびて痩黒たり。
 弟子銅の鈴を以て、入定の前にて二つ是を鳴す。
 文覚鈴に驚て出定せり。
 見人いよ/\仏の如くに貴みけり。
 角て兵衛佐殿ひやうゑのすけどのの許に行向て申けるは、院宣はよく/\申さば賜気也、今は安堵し給へ、勢を語ひ給へと云。
 佐殿は縦院宣を手に把たり共、斯かる有様ありさまには左右なく人同心すまじ、況未給さきに叶ふべからず、そも不定なる由なき上人の云事に付て、此事顕れなば、再憂目をや見るべかるらんと宣へば、文覚は申固めて下たり。
 肝をつぶし給たまひそ、法皇の仰には、頼朝よりとも左様に憑しく申なれば、子細にやと被仰出けり。
 又京上こそ煩しけれ共、佐殿の本意の叶ふ、かなはぬをば、唯文覚が計ひ也、其に取て我此国へ被流罪事も、高雄の神護寺造立の故也、又院宣を給らん事も、御辺ごへんの力にて、彼寺をや造んと云所存也、されば院宣を急ぎ給らんと思給はば、高雄へ庄園を寄進有べしと云ければ、佐殿は我身だにも安堵せずして、いかにとして奉べしと宣ふ。
 文覚が計に随て、はや寄給へと云。
 佐殿は我軍に勝て、日本国につぽんごくを手に把ば、一国二国をも乞によるべしと宣へば、文覚は手にとり得つれば、必惜き事也、なき物は惜からず、国も広博也、唯所知を十余所寄進し給へとて、紙硯取向、丹波国には、新庄、本庄、雀部、宇津、縄野、播磨国には、五箇庄、土佐国には、高賀茂郷を始として、十三箇所を選出し、それ/\と云ければ、佐殿鼻うそやきて被思けれ共、寄進状を書判形を加て、文覚に給ふ。
 文覚ほくそ咲て、あゝ御辺ごへんは以外に心広き人哉、我物顔にいみじく寄給へり、其荒涼にては、一定天下の主と成給なん、されば院宣進つらんとて、懐より文袋を取出し、中なる院宣を進る。
 佐殿は手洗嗽、浄衣に紐さしなどして、是を披見し給たまひけり。
 其状に云、
 早可討清盛きよもり法師并一類
右君子不直人者、令民成一レ愁、姦臣在于朝者、賢者不進、彼一類者、啻非緒朝家、失神威与仏法ぶつぽふ、既為仏神之怨敵、亦為王法之朝敵、仍仰さきの右兵衛権佐うひやうゑのごんのすけみなもとの頼朝よりともの朝臣あそん、宣討彼輩、早退怨敵、奉宸襟矣、依院宣執達如件。
     治承四年七月五日               散位光能みつよし
 謹上、前さきの右兵衛権佐殿うひやうゑのごんのすけどのとぞ被書たる。

義朝よしとも首出獄事

 抑昔武蔵権守平将門まさかど已下の朝敵の頭共は、両獄門に納らる。
 文覚争義朝よしともの首をば可盗取、是は兵衛佐ひやうゑのすけに謀叛を勧んが為に、奈古屋が沖に曝たる頭の有けるを以て、仮初に偽申たりける也。
 実には父義朝よしともの首獄門に有よし聞給ければ、世静て後、文覚上人を使として、奏聞して申し賜給けり。
 彼首は東の獄門の前の、樗木に係たりけるを、紺五郎と云紺掻の有けるが、下野守在生の時は、折々に参りて、深く憑み申ければ、不便の者に被思けるが、其情を忘れず博士判官兼成に付て、年来哀不便と思召おぼしめす人也。
 久獄門に被梟て、曝恥給事目もあてられず悲侍、今は被納置候へかし、孝養仕らんと申たりければ、兼成大理に申御免有て、紺五郎申給たまひて、左の獄門の乾の角に墓を築て埋たりけるを、今度掘り起して見ければ、額には義朝よしともと云銅の銘を打たり。
 正清が首も同く在けり。
 左馬頭さまのかみ義朝よしともには贈官あり、補太政大臣だいじやうだいじん、首をば蒔絵の手箱に入て、錦袋に裹、文覚上人頸に懸たり。
 正清が頭をば檜木の桶に入て、布袋に裹、弟子の僧が懸頸、公家より御使には、宮内判官公朝を副られたり。
 文覚下ると聞えければ、御迎にとて、御迎片瀬川まで参たり。
 既鎌倉に下著有ければ、佐殿は庭上に下り向給たまひて、上人の馬の口を取給ふ。
 只今ただいま父下野守殿の入給と思ひ給けるにや、涙を流して左の袖をひらきてぞ、義朝よしともの首をば請取給たまひける。
 正清が首をば娘ぞ是を請取ける。
 哀は何もとりどり也。
 大名小名皆庭上に下り居つゝ、各袖を絞けり。
 誠会稽の恥を雪めたりとぞ見えたりける。
 後にこそ角は有けれ共、初には父の首と語ければ、哀に嬉覚て、上人に心を打解て、此院宣をば給けり。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのは院宣拝奉て、先都の方に向、八幡大菩薩はちまんだいぼさつを伏拝奉りけり。

聞性検八員

 伊豆山に、聞性坊阿闍梨あじやり某と云僧は、兵衛佐ひやうゑのすけ年比の祈の師也ければ、急使を遣て招請あり。
 阿闍梨あじやり何事哉覧と胸打騒て馳来れり。
 宣のたまひけるは、頼朝よりとも勅勘に預て年久し、今平家を追討すべき由、院宣を蒙れり、是御坊の祈誓に酬と存ず。
 就之故親父下野守の為に、法華経ほけきやう千部転読の願を発して、既すでに八百部の功を訖て、今二百部を残せり。
 部数を満とすれば、二百部の転読月日を重ぬべし、平家の漏聞て、討手を下さばゆゝしき大事也。
 宿願を果さずして合戦の企あらば、源平の乱逆に懈有て、報恩の志空や成侍らん、此事進退きはまれり、よく計ひ給へと有ければ、阿闍梨あじやり暫案じて云く、八は悉地の成ずる数也、二百部の未読更に事闕侍るべからず、八百部の己読、最嘉例と云つべし。
 何にとなれば、釈迦如来しやかによらいは、八正慈悲の門より出て、八相成道の窓に入、八十の寿命を持て、八万の法蔵を説給へり。
 衆生本覚の心蓮は、八葉の貌也、一乗いちじよう妙法の首題も、八葉の蓮也、八角の幢は極楽の瑠璃治、八徳の水は宝国の金砂池に湛たり、宗に八宗、戒に八戒あり、天に八天、竜に八竜あり、八福田あり、八解脱あり、伏犠氏の時には亀八卦の文を負て来る、人の吉凶を占へり、高陽高辛の代には、八元はちげん八凱はちがいの臣を以て、天下を治むと見えたり。
 穆王は八匹の天馬に乗て、四荒八極に至り、老子は八十年胎内にはらまれて、明王みやうわうの代を待けり。
 内外に住す処是多し。
 就なかんづく諸経の説時不同にして、巻軸区に分れたれ共、法華は八箇年に説て、八軸に調巻せり。
 薬王菩薩は、八万の塔婆を立て、臂ひぢを妙法に焼、妙音大士は、八万の菩薩と来て、耳を一乗いちじように欹てり。
 況又御先祖貞純親王の御子、六孫王の御時、武勇の名を取つて、始て源氏の姓を給しより以来、経基、満仲まんぢゆう、頼信、頼義らいぎ、義家よしいへ、為義ためよし、義朝よしとも、佐殿まで八代也。
 又故伊予守頼義らいぎ三人の男を三社の神に奉る。
 太郎義家よしいへ石清水、次郎義綱賀茂社、三郎義光新羅の社、其中に佐殿正縁として八幡殿の後胤也。
 八幡宮の氏人也。
 日本国につぽんごく広し、東八箇国の中に被流給も子細あり、文覚上下往復の間、八箇日に院宣を披見給ふも不思議也、されば八百部の功既終給たまへらば、本意をとげ給べき員数也。
 急思立給へ、時日を廻し給な。
 去ば軍のうらかたには、先当国の目代もくだい、八牧の判官を被討べし。
 今二百部は追の転読と申ければ、佐殿よに嬉しげにて、師僧の教訓は神明の託宣にやとて、当国には伊豆箱根に立願の状を捧て、即聞性坊阿闍梨あじやりを以て啓白し、其外様々の立願、社々におこされけり。
 八百部の転読かつ/\供養有べしとて、飲食に能米八石、衣服に美絹八匹、臥具に筵枕に八、医薬に様々の薬八裹あり。
 已上四種の供養の上に、又四種を被副たり。
 砂金八両、壇紙八束、白布八端、綿八箇、都合八種の布施也。
 八は悉地の成ずる由申つゞくるに依也。
 如此調て、且は先考の菩提に廻向し、且は後代の繁栄を祈誓有べしとて、伊豆山の聞性坊へ被送遣けり。
 誠に銘々敷見えけり。

兵衛佐ひやうゑのすけ家人

 さて北条を召て、平家追討の院宣を給りたれ共、折節をりふし無勢也、いかがすべきと宣へば、時政悦申けるは、東八箇国には、党も高家も、大名小名君の御家人ならぬ者は候はず、去共平家世を取に依て、暫身命を続んとて、一旦平家に相従計也、思召おぼしめし立給はば、誰か参ざらん。
 就なかんづく今便を得たりと覚ゆる事は、伊藤右衛門尉忠清ただきよ配流、上総国の時、介八郎広常志を尽し、思を運て賞翫し、愛養する事甚し。
 而に忠清ただきよ厚免を蒙て、上洛後、忽たちまちに芳恩を忘て、還て阿党をなし、広常を平家に讒て、所職を奪とする間、子息能常参洛して、子細を申といへ共、猶広常を召間、含憤恨をなす折節をりふし也。
 甘言を以て召れんに、是能隙なり。
 千葉介経胤、三浦介義明は、其性有義不戻、其心有信不頑、為一族之長、已為衆兵之頭、何奉真旧之主、豈可違勅之賊乎、早被専使、院宣之趣を可仰合、土肥、土屋、岡崎の輩は、元来給仕し奉る上は、広経、経胤、義明三人御方に参なば、八箇国之輩、縦あやぶむ心ある者多と云ども、皆身の勢なければ、一人抜出て背奉らんと仕者有べからず、八箇国帰伏し奉らば、北国西国さいこくの輩、手を降参ぜん事疑なし。
 此に相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん大場三郎景親は、既すでに三代相伝の御家人なれ共ども、当時平家重恩のものにて、其そのせい国に蔓れり。
 又武蔵国住人ぢゆうにん畠山庄司重能、小山田別当有重、平家の大番勤て侍なれば、重能が男重忠、有重が男重成、固可背、其そのせい景親に劣るべからず、今事を企て勝負を決せん事、彼輩に有とぞ申ける。
 其言実ありて、其詞弁有ければ、兵衛佐ひやうゑのすけも深く信じ給たまひけり。
 時政若知天之時歟、将又得兵之法歟、其詞一事も違事なかりけり。
 昔晋文信勃てい之言以、旧威愕、斉桓用管仲之計、以天下を匡せりき。
 今頼朝よりともと時政と、合体同心して、廻籌於氈帳之中、烏合群謀之賊束手於軍門、決勝於島夷之外、狼戻返逆之徒伝、首於京都、天下遂平定、海内永一統せり。
 誠哉得其人則其国以興、失其人則、其国以亡といへる事は。
 治承四年八月三日、佐殿北条に被仰けるは、軍立ならば国々怱々にして、在々所々の八幡の御放生会、及違乱事冥の恐あり、十五日以後其沙汰有べしと被下知けり。
 斯りければ重代の家人等けにんら、内々此事聞者は、忍て夜々よなよなに参集る。

佐々木取馬下向事

 其中に故左馬頭さまのかみの猶子に、近江国の住人ぢゆうにん、佐々木源三秀義が子共、平治の乱の後は、此彼にかゞまり居たり。
 太郎定綱は、下野宇都宮にあり、次郎経高は、相模の波多野にあり、三郎盛綱は、同国渋野にあり、四郎高綱は都にあり、五郎義清は大場三郎が妹聟にて相模にあり。
 其中に高綱は心も剛に身も健也。
 姨母に付て都の東、吉田辺に有ければ、世に随習也。
 平家に奉公もすべかりけれ共、思けるは、父秀義は故六条ろくでうの判官はんぐわん為義ためよしに父子の儀をなされて、代々一門の好をなす。
 淵は瀬となる世の中也。
 あるやうあらんずらんとて、姨母に養れて居たりけるが、佐殿謀叛を起給と聞て、嬉事に思つゝ、姨母ばかりに暇を乞、偸に田舎へ下けり。
 世になき身なれば、馬もなき次第、脛巾に編笠を著、腰の刀に太刀かづきて、京をば未明に出たれ共、不習歩道なれば、なへぐ/\其そのは守山の宿に著、知たる者に馬をも乞、乗ばやとは思へども、都近程也、世中つゝましく思ければ、さもなくて暁は守山を立、野州の河原に出ぬ、如法暁の事なれば、旅人も未見けるに、草鞍置たる馬追て男一人見え来る。
 高綱、和殿はいづくの人ぞ、何へ渡るぞと問へば、是は栗太の者にて候が、蒲生郡小脇の八日市へ行く者也と答。
 名をば誰と云ぞと問へば、男怪気に思て、左右なく明さず。
 兎角誘へ問ければ、紀介とぞ名乗たる。
 高綱は、やゝ紀介殿、此河渡ん程、御辺ごへんの馬借給へかし。
 紀介叶候はじ、遥はるかの市より重荷を負せて帰らんずれば、我も労て不乗馬也、又今朝の水のつめたき事もなし、唯渡り給へと云。
 紀介殿たゞ借給へかし、悦は思当らんと云ければ、紀介思様、此人の馬のかりやう心得こころえず、歩徒跣にて誰共知ず、我身だにも合期せぬ人の、何事の悦を賀し給べき、去共借さずして悪き事もやと思ければ借てげり。
 高綱馬に打乗、此馬こそ早我物よと思つゝ、空悦して野州川原を渡つゝ、鞭を打てぞ歩せたる。
 紀介は馬に後じと走けり。
 はや下給へ/\、河ばかりとこそ宣つるにと云へ共、此にて下彼にて下とて、篠原堤まで乗て行。
 商人馬の癖なれば、肢爪竪してなづまざりけり。
 哀是だにも有ならば、下著なんと思けるに、紀介は馬を乞侘て、下給はぬ物ならば、馬盗人と叫ばんと云。
 高綱、此事穏便ならず、左様にも謂れなば、恥がましき事有りなん、さらば下なんとて馬より下けるが、馬なくては難叶、いかゞすべきと案じて、兵衛佐殿ひやうゑのすけどの世に御座おはしまさば、近江国は我物也、紀介が後生をこそ弔はめ、指殺て馬を取んと思て、やゝ紀介殿、馬奉んとて近く呼よせたり。
 八月上旬の事也。
 秋の習の癖なれば、朝露籠てよそ見えず、上下の旅人も無りけり。
 高綱腰の刀を抜持て、紀介を取て引寄つゝ、太腹に刀指通し、傍なる溝に打入て、荷鞍に乗て鞭を打、武佐宿にて知たる者二鞍を乞、夜を日に継て下けり。
 馬も究竟の逸物也、更に泥事なくて、伊豆国いづのくにへぞ下にける。
 さてこそ今の世までも紀介が後生をば吊ふなれ。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのに見参に入奉たれば、祖父故六条ろくでうの判官はんぐわん、各の親父佐々木殿と、父子の儀を奉成上は、万事阻なく憑存ずれ共、世になき身なれば思出侍らず、聞あへ給はず下向〔の条〕、返々神妙しんべうなり、平家を亡て世に立給はん事は、併人々の力を憑む也、さてさて兄弟の殿原〔達を〕尋給へと被仰ければ、高綱旁人をぞ遣ける。
 太郎定綱は下野国宇都宮より馳上、次郎盛経は相模国さがみのくに、波多野より馳参、三郎盛綱同国渋谷より馳来る、兄弟四人佐殿を守護し奉る。
 誠に一人当千いちにんたうぜんの武者、あたりを払て見えたりけり。
 五郎義清はいかにと尋給へば、大場三郎が妹に相具して候へば、人の心難知侍り、志思進せば、参らんずらん、左右なく知せじと存也とて不呼けり。

禰巻 第二十
八牧夜討事

 治承四年八月九日、佐々木源三秀義と、大場三郎景親と見参しける次に、景親佐々木に語て云けるは、駿河国長田入道、上総守忠清ただきよについて、太政だいじやう入道殿にふだうどのに訴申けるは、北条四郎時政は、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのを取立て、謀叛を発すべきの由承及、結構けつこうの所存、急御沙汰ごさた有べきかと申ければ、入道殿にふだうどのの仰には、近日源げん三位ざんみ入道にふだう三条宮を奉勧て、南都に発向して国家を乱し、当家を亡さんと云企あるに依て、宇治にして被討畢。
 今又此事を聞上は、惣じて源氏の種を諸国に置べからずと云御気色おんきしよく也。
 されば佐殿の御事も、定て御沙汰ごさた有べし、其意を得らるべきなり此間の在京に委承たりと語る。
 秀義浅猿あさましと思て急ぎ帰て、定綱を以て、密に此事を佐殿に語申たれば、返事には、年来契申しし本意既すでに顕れぬ、悦で被告仰たり、相計て左右を可仰也と。
 同八月十五日国々八幡の放生会も過ぬ。
 十六日じふろくにちに北条を招て、和泉いづみの判官兼隆と云は、平家の傍親和泉守信兼が嫡男也。
 八牧の館にあれば、八牧判官と云。
 院宣を給る上は、先兼隆を夜討にすべし、急ぎ相計と宣のたまひけり。
 北条尤然べく候、但今夜は三島社御神事にて、国中こくぢゆうには弓矢をとる事候はず、明日十七日じふしちにちの夜討也、内々人々可仰含とて出にけり。
 十七日じふしちにちの午刻に佐々木太郎定綱を召て、額を合て被仰けるは、頼朝よりとも謀叛を起すべきよしを、京都既すでに披露有なれば、定て兼隆景親等に仰て、其沙汰有ぬと覚ゆ。
 されば先試に兼隆を可誅、我天下を取べくは可討得、運命限あらば、討得事難かるべし、吉凶唯此の事にあらん、今夜則夜討を入べし、舎弟等しやていらを相催給へ、事成就じやうじゆあらば、旁の世なるべし、深憑思ふ也と有ければ、定綱は忝被仰合之条、身の面目を極る上は、更に命を惜べからずと申て、舎弟しやてい経高、盛綱、高綱等を召集て、日の暮るをぞ相待ける、ゆゝしく見えたり。
 十七日じふしちにちの夜は、忍々に兵共つはものども集けり。
 時政は夜討の大将給たまひて、嫡子宗時に先係させ、弟の小四郎義時、佐々木太郎兄弟四人、土肥、土屋、岡崎、佐奈田与一、懐島平権頭等を始として、家子も郎等も濯汰たる者の手に立べき兵、八十五騎にて、八牧が館へぞ寄ける。
 佐殿時政を呼返して宣のたまひけるは、抑軍の勝負をば争か知べしと問給へば、時政申て曰、御方勝軍ならば城に火を放つべし、負軍に成て人々討るゝならば、急使者を可進、静に御自害ごじがいと申捨てぞ出にける。
 八十五騎を二手に造る。
 佐々木兄弟四人は搦手に廻る、北条、土肥、岡崎等、追手也。
 両方より時を造て、寄たれば、城の内にも時を合す。
 八牧には折節をりふし勢こそ無りけれ。
 よき者共の有りけるは、伊豆国いづのくに、島田宿にて遊ばんとて、十余人よにん出ぬ。
 残者共十人計には過ざりけり。
 そも俄事にて物具もののぐ著にも及ばず、大肩脱にて櫓より落し矢に散々さんざんに射る、其中に河内国住人ぢゆうにん関屋八郎と名乗て、射ける矢ぞ物にも強くあたり、あだ矢も無りける。
 寄手も多く被射殺、手負ければ、五六度迄引返引返踉らひ居たり。
 佐々木搦手に廻たりけるが、次郎経高後の木戸口きどぐちまで攻入て、散々さんざんに戦ひける程に、痛手負たりけれ共、尚独城の内に打入て、兼隆が後見に権頭と云ける者が首を取てぞ出たりける。
 定綱兄弟命を捨て責詰責詰戦けれ共、館は究竟の城じやう也、追入追出し戦ければ、午角の軍にて勝負なし。
 此に当国住人ぢゆうにんに加藤太光胤、加藤次景廉とて、兄弟二人あり。
 是は、
  都をば霞と共に出でしかど秋風ぞ吹く白川のせき
と云秀歌読たりし、能因入道には、四代の孫子也。
 彼能因が子息に、月並の蔵人と云ける者、伊勢国いせのくにに下て、柳の馬入道が聟に成て、儲たりし子を、加藤五景貞と云き。
 後には使宣を蒙て、加藤判官とぞ云ける。
 其子共也ければ、加藤太、加藤次と云。
 本伊勢国いせのくにに住けるが、父景貞に敵あり、平家の侍に伊藤と云者也。
 彼敵を殺して、本国には不安堵、東国に落下て、武蔵国秩父を憑けれども、平家に恐て辞退之、千葉を憑といへども同恐て不置けり。
 伊豆国いづのくにの公藤介を憑ければ、甲斐甲斐敷請取之、妹に合て為用心憑置。
 其故は公藤介三戸次郎と云者と中悪して、常に軍しければ、剛の者は一人も大切也、加藤兄弟心際不敵也と見て、軍の方人にせんと思ければ、平家にも不憚、親く成たりけるが、常に佐殿へ参てたのみ申ければ、阻なく被思召おぼしめされけり。
 兄弟共に兵也けれども、景廉は殊さらきりもなき剛の者、そばひらみずの猪武者也。
 折節をりふし佐殿には御不審之事有ければ、催には漏たりけれ共、世間も怱々なる心地しける上、頻しきりに胸騒のしければ、何事の有やらんとおぼつかなくて、宿直申さんと思ひて、紫威の腹巻に、太刀計を帯、乳母子めのとごの州前三郎を相具して、鞭を揚て馳参る。
 門外にして馬より下、佐殿館の内へつと入。
 佐殿は小具足付て縁の上に小長刀突立給へり。
 子細は有けりと覚る処に、佐殿仰には、此間不審の事有て催事なけれ共、見来給ふ条神妙しんべう也、高倉宮たかくらのみやより平家追討の令旨を給りしかども、宮既すでに亡ぬれば、さて過る処に、一院院宣を給たまひて、平家を可誅也、先兼隆を討とて、北条と佐々木等を遣しぬ、打勝たらば館に火をかくべしと云つるが、いまだ煙も見えず、討損じぬるやらんおぼつかなし。
 折節をりふし人のなきに、景廉は是に候へと宣へば、加藤次不聞敢穴心憂、不参は知せ給まじかりける歟、世間も何となく怱々也つれば、馳参れり、加藤の御大事おんだいじを思召おぼしめし立けるに、など景廉には被仰含ざりけるやらん、殿中に人多候へば、我も我もとこそ存ずらめ共、加様の夜討にはさすが、景廉こそ侍べらめ、君に命を奉る、兼隆をば速に討て可進とて、傍若無人に申散して出る処に、佐殿景廉を呼返して、火威の鎧に白星の甲取具して、其上に夜討には太刀より柄長物よかるべし、是にて敵の首を取て進よとて、小長刀を給ふ。
 是は故左馬頭さまのかみ義朝よしともの秘蔵の物也けるを、流罪の時父が形見にも見んとて、池尼御前に申請て下給たまひたりける也。
 銀の小蛭巻に目貫には法螺を透して、義朝よしとも身を不放持れたりし宝物なれ共、且は軍を進んが為、且は事の始を祝はんとおぼして給にけり。
 景廉是を給たまひて、佐殿の雑色一人州前三郎下人二人、已上五騎ごきにて八牧城に推寄す。
 見れば時政南表に引退て扣へたり。
 景廉を見て、いかに御辺ごへんは、当時御勘当にて御座おはするにと問へば、俄にはかに召て八牧が首貫て進よとて、御長刀を給れり、是を見給へとて指出。
 抑北条殿宵より寄給たれば、城の案内知給たるらん、有の儘に語給へ、私の軍に非ず、君の御大事おんだいじ也と云。
 時政城の内の構様をば知ず、門より外に櫓あり、兵共つはものども櫓より下し矢に射る、櫓の前は大堀也、橋を引たれば入事叶はず、互に堀を隔て遠矢に射れば、宵より今まで勝負なし、佐々木の人々は搦手に廻ぬ、時政は家子郎等散々さんざんに射られて、五六度まで引退て控へたりと云。
 加藤次申けるは、殿原は宵より軍に疲たるらん、休給へ、景廉荒手也、一当当て見べし、健ならん楯突を一人たび候へ、其外楯二三枚橋に渡さんとて取聚て、弓の替弦を以て筏に組堀に打入て、北条が雑色に源藤次と云男に楯つかせて歩立に成り、州崎相具し、長刀をば下人に持せ、寄手の弓征矢乞取て、堀を渡り城内に進入、櫓の下にたゝずみたり。
 櫓に有ける者共も、宵より軍に疲ぬ、矢種も尽にければ、或落或内に入てなかりけり。
 門の戸を押開て攻入けるに、箭面に立たりける者三人大庭に射倒し、加藤次佐殿の雑色に下知しけるは、心苦思召おぼしめしつるに、先櫓と門とに火をさせと云ければ、雑色下知に依て火を差てげり。
 爰ここに武者一人進出て名乗けるは、河内国住人ぢゆうにん、石川郡の、関屋八郎とは我事也、櫓の上にて射残せる、中差一筋こゝにあり、今夜夜討の大将軍は、北条、佐々木歟、土肥、土屋歟、加藤が党か、名乗て我矢請取て名聞にせよと呼て、内に入ぬ。
 加藤次、門外に引退て、乳子を招て云けるは、関屋が詞聞つらん、彼が箭にあたらん者、命生る者有まじ、我其矢にあたらん事安事也、但我討れなば此軍鈍かるべし、佐殿を世に立奉らんと思に、汝景廉と名乗て敵の矢に中て、えさせんや、さもあらば思事を云置け、更に違事有まじと云。
 州崎是を聞て、我少きより殿に育れ奉て、難其恩、軍に出るよりして、命生べしと存ぜず、奉代べし、思事とては老たる母が事計、其は迚も乳の恩忘給はじなれば、よく育給へとて門の内に進入、伊勢いせのくにの住人ぢゆうにんに、加藤判官の次男景廉是に在、関屋八郎と聞つるは、云つる言には似ず、落ぬるかと云ひて、楯を前にさしかざして居たりけり。
 関屋然べきと悦て、三人張に大の中差取て番ひ、十五束よく引竪て、放たれば、楯を通し、冑の胸板むないた後のあげ巻へ射出たり。
 州崎西枕に倒伏。
 死人を舁出して、様々口説言して、今一度もの云へきかんと云けれ共、事切ぬれば、藤次も涙を流して、汝が母をば疎にすべからず、草の陰にてもかがみよ、敵をば討てとらすべし、南無なむ阿弥陀仏あみだぶつとて州崎を閑所に抛置て、進入て云けるは、昔は、加藤次は一人、今は源氏繁昌の御代と成て、加藤次と云者二人あり、関屋が音のしつるは落ぬるか、返合て組や/\とぞ呼びける。
 関屋是を聞て、敵のたばかるを不知して、矢を放ける本意なさよ、人に詞を懸られて、さて有るべきに非ずとて、甲の緒を強くしめ、三尺五寸の太刀を抜、いづくへか落べき、関屋爰ここに在とて、にこと笑て出合たり。
 互に打物の上手にて、切たり請たり大庭を二度三度ぞ廻たる。
 加藤次は、角ては勝負急度あらじと思ひて、態と請け、其隙を伺て吾太刀をば投捨てつと寄り、鎧草摺引寄て、得たりやおうとぞ組だりける。
 上に成下になりころびける程に、雨打際のくぼかりける所にて、関屋下に成、加藤次上に乗係て、押へて首を掻てけり。
 首を太刀のさきに貫て、鬼神の様に云つる関屋が頸、景廉分捕にしたりやと云て、抛出す。
 下部是を取て持たりけるを、北条乞取つて、鞍のしほでにぞ付たりける。
 去さるほどに景廉は太刀をば投捨て、下人に持せたる長刀を取、甲をしめしころを傾て、縁の上へつと上り侍を見入たれば、高燈台に火白掻立たり。
 さしも人有とも見えず。
 景廉進入処に、狩衣の上に腹巻著たる男の、大の長刀の鞘はづして立向たりけるを、景廉走違様にして、弓手の脇より妻手脇へ差貫て投臥たり。
 京家の者と覚えたり。
 軈やがて内へ攻入りて、寝殿をさしのぞいて見れば額突あり。
 燈白く掻立て、障子を細目に開て、太刀の帯取五寸計引残せり。
 見れば兼隆紺の小袖に上腹巻著て、太刀を額に当て、膝付居て、敵つと入らば、はたと切らんと覚しくて待懸たり。
 加藤次過せじとて、左右なくは不入、甲を脱いで長刀のさきに懸て、内へつと指入たり。
 待儲たる兼隆なれば、敵の入るぞと心得こころえて、太刀を入て、はたと切る。
 余に強打程に、甲の星二並三並切削、鴨居に鋒打立て、ぬかん/\とする処に、傍の障子を蹈倒し、長刀の柄を取直して、腹巻かけに胸より背へ差貫、軈やがてとらへて頸を掻く。
 こゝに八牧を憑て筆執して有ける、古山法師に某の注記と云けるが、萌黄糸威の腹巻に、三尺二寸にすんの太刀を抜て飛で係ければ、景廉走違て長刀をしたゝかに打懸たり。
 左の肩より右の乳の間へ打さかれて、其儘軈やがて死にける。
 即兼隆が頸片手に提、障子に火吹付て、暫、待て躍出。
 北条に向て仕たりとて、敵の首を捧たり。
 佐殿は遥はるかに焼亡を見給たまひて、景廉はや兼隆をば打てけり、門出能と独言して悦び給ける処に、北条使を立て、八牧の判官は景廉に討れ候ひぬ、高名ゆゝしくこそと申たれば、神妙しんべう神妙しんべうと感じ給へり。
 北条兼隆が頸を見て、
  法華経ほけきやうの序品をだにもしらぬみに八牧が末を見るぞ嬉しき
と、景廉は宵よりの仰也ければ、頸をば給たりける長刀に指貫、高らかに指上て参たり。
 ゆゝしくこそ見えけれ。
 佐殿大に悦びて、八牧が首を谷川の水にすゝがせて、長櫃のふたに置れて、一時是をぞ見給ける。
 謀叛の門出に、さこそ嬉しく御座おはしましけめ。

小児読諷誦

 兼隆被討後日に追善あり。
 修行者を招請して唱導を勤けるに、色々の捧物に、思々に志を載たり。
 其中に一紙の諷誦あり。
 法華経ほけきやう開八巻心成仏身と計書たる諷誦あり。
 導師是を読煩たりけるに、聴衆の中に五歳の小児あり。
 此諷誦をよまんと云けるを、乳母めのといかにとしてかと制しけれ共、膝の上より頽下、高座の下に歩寄て、
  法の花終にひらくる八牧には心仏の身とぞ成ぬる
と、不思議なりける事也。

佐殿大場勢汰事

 兵衛佐ひやうゑのすけ謀叛起し、兼隆判官討れぬと聞えければ、伊豆国いづのくにには、公藤介茂光、子息狩野五郎親光、宇佐美平太、弟の平六、平三資茂、藤九郎盛長、藤内遠景、弟の六郎、新田四郎忠経、義藤房成尋、堀藤次親家、七郎武者宣親、中四郎惟重、中八惟平、橘次頼時、鮫島四郎宗房、近藤七国平、大江平次家秀、新藤次俊長、小中太光家、沢六郎宗家、城平太等馳参、相模国さがみのくにには土肥次郎真平、子息太郎遠平、岡崎四郎義真、子息与一義貞、土屋三郎宗遠、同おなじく二郎義清、中林太郎、同次郎、築井次郎義行、同八郎義安、新開荒太郎実重、平左近太郎為重、多毛三郎義国、安田三郎明益等馳集る。
 廿日は兵衛佐ひやうゑのすけ彼輩を相具して、相模の土肥へ越え給たまひ、此にて軍の談義あり。
 真平申けるは、軍は謀と申ながら、いかにも勢により侍べし、先廻文の御教書を以て、御家人を召るべしと奉進ければ、然るべきとて、藤九郎盛長を使にて、院宣の案に佐殿の施行書を副へて、方々へ触遣はす。
 盛長是を給たまひて、先相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん波多野馬允に触るるに、良案じて是非の御返事おんへんじ申、源平共に兼て勝負を知ざれば、後悔を存ずる故也。
 同国懐島の平権頭景義に相触たり。
 此景義と申は、保元の合戦に、八郎為朝に膝の節射られたる大場平太が事也。
 弟の三郎景親が許へ行て、かゝる院宣の案と御教書を給たり。
 和殿はいかゞ思と問ふに、景親申けるは、源氏は重代の主にて御座おはしませば、尤可参なれ共、一年囚に成て既すでにきらるべかりしを、平家に奉宥、其恩如山、又東国の御後見し、妻子を養事も争か可忘なれば、平家へこそと云。
 和殿は誠に平家の恩にて世にある人なれば、さもし給へ、景義は源氏へ参らんと存ず、但軍の勝負兼て難知、平家猶も栄え給はば和殿を憑べし、若又源氏世に出給はば我をも憑給へとて、弟の豊田次郎景俊を相具して、佐殿へ参じ加りける也。
 大場は俣野五郎と二人平家に付ぬ。
 同国山内須藤刑部丞俊通が孫滝口俊綱としつなが子に、滝口三郎利氏、同四郎利宗兄弟二人に相触たり。
 折節をりふし一所に双六打て居たり。
 烏帽子子えぼしごに手綱うたせて筒手に把、御使にも不憚、弟の四郎に向て云けるは、是聞給へ、人の至て貧に成ぬれば、あらぬ心もつき給けり、佐殿の当時の寸法を以て、平家の世をとらんとし給はん事は、いざ/\富士の峯と長け並べ、猫の額の物を鼠の伺ふ喩へにや、身もなき人に同意せんと得申さじ、恐し/\、南無なむ阿弥陀仏あみだぶつ/\とぞ嘲ける。
 利宗不逆順之分、不利害之用、只恐強大之敵、忽背真旧之主、口吐妄言、心無誠信、頗非勇士之法、偏似狂人之体けり。
 三浦介義明が許へ相触たり。
 折節をりふし風気ありて平臥したりけるが、佐殿の御使と聞て、悦起て、白き浄衣に立烏帽子たてえぼし著て、出合たり。
 廻文の御教書とて被出たりければ、手洗嗽なんどして、御文披、老眼より涙をはら/\と流して申けるは、故左馬頭殿さまのかみどのの御末は、果て給たまひぬるやらんと心憂く思ひつるに、此殿ばかり生残御座おはしまして、七十有余いうよの義明が世に、源氏の家を起し給はん事の嬉しさよ、唯是一身の悦也、子孫催し聚て、御教書拝み奉るべしとて、三浦別当義澄、太田三郎義成、佐原十郎義連、和田太郎義盛、同次郎義茂、同三郎宗真、多々良三郎義春、同四郎明季、佐野平太等を始として、郎等雑色に至まで催集て、是を拝しむ。
 各聞給へ、義明今年七十九、老病身を侵して、余命旦暮を待、今此仰を蒙事、老後の悦也、我家の繁昌也、倩事の心を案ずるに、廿一年を一昔とす、それ過ぬれば、淵は瀬と成、瀬は淵となる、而を平家日本につぽん一州を押領して既すでに廿余年、非分の官位任心、過分の俸禄思の如なり、梟悪年を積、狼藉日を重たり、其運末に臨で、滅亡期極れり、源氏繁昌の折節をりふし、何疑か有べし、一味同心して兵衛佐殿ひやうゑのすけどのへ参べし、御冥加なくして、討死し給はば、各首を並べ奉りて、冥途の御伴仕れ、山賊海賊して死にたらば瑕瑾恥辱なるべし、相伝の主の逆臣追討の院宣を給たまひて、軍し給はん御伴申て、身を亡さん事、為家為君、永代の面目也、佐殿又御冥加ありて世に立給ならば、子も孫も被打残たらん輩は誇恩賞、などか繁昌せざるべきと申ければ、口々に子細にや/\とて皆憑もしげにぞ申ける。
 いか様にも悦の御使なれば、可祝とて、酒肴尋常にして、馬一匹に太刀一振相副て引き、可参上仕とて、内々其用意あり。
 義明教訓之趣、有義無私、有勇無戻ければ、聞者感之けり。
 昔晏嬰発勇於崔杼、程嬰顕義於趙武、今義明為頼朝よりとも忽報旧恩、遂立新功、彰誉於四方、奮名於百代けり。
 藤九郎盛長其より下総に越て、千葉介に相触たり。
 院宣の案御教書披見て、此事上総介に申合て、是より御返事おんへんじ申べしとて盛長を返す。
 千葉介が嫡子小太郎は生年十七に成けるが、折節をりふし鷹狩に出て帰けるが、道にて盛長に行合たり。
 互に馬を引へて対面して、如何にと問。
 盛長しか/゛\と答たり。
 小太郎不心得こころえ思て、盛長を相具して館に帰り、向父云けるは、恐ある事に候へ共、院宣の上御教書成侍ぬ。
 先度の御催促に参上の由御返事おんへんじ申されぬ、其上上総介に随たる非御身、彼が参らばまゐらん、不参は参らじと仰候べき歟、全不其下知、只急度可参由御返事おんへんじ申させ給ふべしと云ければ、賢々しく計者哉と思て、実に可然とて、可参と御返事おんへんじ申けり。
 其より上総介に相触ければ、生て此事を奉る身の幸にあらずや、忠を表し名を留ん事、此時にありとぞ申ける。
 昔魯連弁言以退燕色しう単辞以存楚。
 盛長已全使節於戦術三寸之舌、深蕩二人之心、経胤等振威勢於興衆窟、八箇国之兵遂治四夷之乱けり。
 夫弁士は国之良薬、智者は朝之明鏡也といへり。
 此事誠哉、各馳向はんとしけれ共、廻れば渡あまたあり、直には海を隔たり、八月下旬の比なれば、浪荒風烈して、心の外にぞ遅参しける。

石橋合戦事

 八月廿二日には、兵衛佐ひやうゑのすけ北条佐々木を先として、伊豆相模二箇国の住人ぢゆうにん同意の輩、三百さんびやく余騎よきを引具して、早川尻に陣を取。
 早川党進出て、爰ここは軍場には悪く侍り、湯本の方より敵山を越て、後を打囲、中に取籠られなば、ゆゝしき大事なり。
 更に一人も難遁と申ければ、其より米噛石橋と云所に移て陣を取、上の山の腰に垣楯をかき、下の大道を切塞で引籠る。
 此事角と聞えければ、大場三郎景親は、武蔵相模の勢を招相従輩、舎弟しやてい俣野五郎景尚、長尾新五、同新六、八木下五郎、漢揚五郎以下、鎌倉党は一人も不漏、海老名源八権頭季定、子息の荻野五郎季重、同彦太郎、同小太郎、河村三郎能秀、曽我太郎祐信、佐々木五郎義清、渋谷庄司重国、山内、滝口三郎経俊、同四郎、稲毛三郎重成、久下の権頭直光、子息次郎実光、熊谷次郎直実、岡部六弥太忠澄、浅間三郎、広瀬太郎、笠間三郎等を始として、宗徒の者共三百さんびやく余騎よき、家子郎等相具して三千さんぜん余騎よき也。
 同廿三日の辰時には、大場三郎景親大将軍として、三千さんぜん余騎よきを相具して、石橋の城じやうに押寄、谷を前に隔て、海を後に当て陣を取、落日西山に傾て、其そのも既すでに暮なんとす。
 稲毛三郎重成進出て、日既すでに晩ぬ、夜軍は敵御方不見分、去ば明日を期すべきやらんと申ければ、大場申けるは、明日を相待ならば、敵に大勢付重て、輙く難攻落、後には三浦の者共馳来也、両方を禦ん事、ゆゝしき大事也、道狭して足立悪き城なれば、小勢におはする時、佐殿を追落して、明日は一向三浦に向て勝負すべきと申す。
 此儀然べきとて、三千さんぜん余騎よき声を調て、時を造る。
 佐殿も同時を合て鳴矢を射通しければ、山神答て、敵も味方も大勢とこそ聞えけれ。
 大場進出て、弓杖を突、鐙蹈張立上て、抑平家は桓武帝の御苗裔、葛原親王御後胤として、代々蒙将軍宣、遥はるかに朝家の御守たり。
 天下の逆乱を和げ、海内の賊徒を随へ、武勇の名勝他家、弓矢の誉伝当家、就なかんづく太政だいじやう入道殿にふだうどの、保元平治の凶賊を鎮治しより以来、公家の重臣として、其身太政大臣だいじやうだいじんに昇、子孫兼官兼職に御座おはします、一天重之、万民誰か軽しめん、依これによつて南海西海の鱗に至まで、随其威応、東国北国の民何ぞ可忽緒
 爰ここに今たやすくも奉平家御代との合戦の企誰人ぞ、恐くは蟷螂たうらうの手を挙て向竜車喩かは、名乗名乗とぞ攻たりける。
 北条四郎歩せ出して、汝不知哉、我君は是清和せいわ天皇てんわう第六皇子、貞純親王の御子、六孫王より七代の後胤、八幡殿の四代の御孫、前さきの右兵衛権佐殿うひやうゑのごんのすけどのぞかし、傍若無人の景親が申状頗尾籠也、平家は悪行身に余て、朝威を蔑にす、依これによつて早彼一門を追討して、可逆鱗由、太政法皇の院宣を被下たり。
 錦の袋に納て御旗の頭に挟み給へり。
 且は可拝、されば佐殿こそ日本につぽんの大将軍よ、平家こそ今は朝家の賊徒よ、綸言之上は、戮誅不時刻処に、彼家人と号する輩依之、先其党類を追討して後、花洛に上り、逆臣を可誅也。
 景親慥に承れ、故八幡殿奥州あうしうの貞任宗任を被攻より以来、東国之輩代々相続て、誰人か君の御家人にあらざる、随て景親も父祖相伝の者也、馬に乗ながら子細を申条奇怪也、後勘兼て可顧歟、下て可申也、御伴には時政父子一人も不漏、佐々木太郎定綱兄弟四人、加藤太光胤兄弟と、沢六郎、近藤七、新田七郎父子、城平太、小中太、公藤介父子、土肥次郎父子、新開荒太郎、土屋三郎、岡崎四郎と其子与一、懐島豊田次郎等、侍らふ也。
 其外の人々、国々より任院宣御教書に付て、夜を日に継で馳参。
 王事無脆、八虎の凶徒に諂て後悔すな、速に甲を脱手を合て可参也といへば、大場重て申けるは、昔八幡殿後三年の軍の御伴して、出羽国仙北の金沢城被責時、十六歳にて先陣を蒐け、右の目を射させて、答の矢を射、其敵を討捕て、甲を其場に施し、名を後代に留し鎌倉権五郎景政が末葉、大場三郎景親大将軍として、兄弟親類已下三千さんぜん余騎よき也。
 是程の大事を思立給ながら、勢のかさこそ少なけれ、実に誰かは随ひ奉るべき、只ただ心にくき体にて落給へかし、命ばかり生け申さんと云。
 北条又申しけるは、景親は先祖は具に知たりけり、いかに口は口、心は心と、三代相伝の君に敵し申ぞ、忠臣は二君に不仕と云事あり、其上奉十善帝王、院宣を係蹄、弓矢を放たん事、冥加の程おぼつかなし、背勅命者は、剣を歩が如と云にや、旁以無益の事也、唯急参れと云。
 大場重て申、先祖は誠に主君、但昔は昔今は今、恩こそ主よ、源氏は朝敵と成給たまひて後は、我身一人の置所おきどころなし、家人の恩までは沙汰の外也、景親は平家の御恩を蒙事如海山高深、不恩は木石也、何ぞ世になき主を顧みて今の可恩、勇士は如諂と云事あり、只今ただいま追落たてまつるべき也とて、三千さんぜん余騎よき我も/\と勇けり。
 北条又申けるは、欲は身を失といへり、まさなき大場が詞哉、一旦の恩に耽て、重代の主を捨んとや、弓矢取身は言ば一も不輙、生ても死ても名こそ惜けれ、景親よ、権五郎景政が末葉と名乗ながら、先祖の首に血をあやす、欲心の程こそ不当なれと云ければ、敵も味方も道理なれば、一度にどつとぞ笑ける。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどの仰に、武蔵相模に聞ゆる者共は皆在と覚ゆ、中にも大場俣野兄弟先陣と見えたり。
 此等に誰をか与すべきと宣へば、岡崎四郎義真申けるは、弓箭を取て戦場に出る程の者、敵一人にくまぬ者やは侍るべき、親の身にて申事、人の嘲を顧ざるに似たれ共、存る処を申さざらんも、還つて又私あるに似たるべし、義貞は此間大事の所労仕て、未力つかずや侍らめ共、心しぶとき奴にて、弓箭取ては等倫に劣るべからず、其器に侍り、被仰含べきかと申ければ、兵衛佐ひやうゑのすけのたまひけるは、趙武挙以私讐、所奚薦以己子せり、忠有て私無には、或は敵を挙し、或は子を薦事、皆合義合法、義貞を召てけり。
 与一其そのの装束には、青地錦直垂に、赤威肩白冑のすそ金物打たるを著て、妻黒の箭負、長覆輪の剣を帯けり。
 折烏帽子をりえぼしを引立て、弓を平め跪きて、将軍の前に平伏せり。
 白葦毛なる馬をぞ引せたる、其体あたりを払てぞ見えける。
 今日の撰にあへる、誠にゆゝしく見えし。
 兵衛佐ひやうゑのすけ、佐奈田に宣のたまひけるは、大場俣野は名ある奴原也、今日の軍の先陣仕て、彼等二人が間にくめ、源氏の軍の手合也、高名せよとぞ宣のたまひける。
 与一蒙仰畏て御前を立、郎等に文三家安と云者を招寄て、義貞が母又子共が母にも語べしとて云けるは、一昨日打出しを最後と思給ふべし。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどの今度の軍の先陣勤よと直に仰たびたれば、多の人の中に択ばれたる事、弓矢取身の面目也。
 されば命を限に戦んずれば、生て再び帰る事よもあらじ。
 兼て角と知侍らば、何事も申置べかりけり。
 其事今は力なし。
 我討れぬと聞給たまひなば、母御前女房の御歎こそ思残奉れ、縦我死たり共、世のしづまらん程は、二人の稚者をば、いかならん野の末山の奥にも隠置て、佐殿世に立給たらん時、先祖なれば岡崎と佐奈田とをば申給たまひて、兄弟に知せてたび候へ、さては女房も子供が後見して御座おはしませ、仏に花香進て、後の世弔給へ。
 父岡崎殿も佐殿の御伴なれば、軍の習ひ生死を知らず、女姓は何事か有べきなれば、角申置也と慥に云伝べし、又汝も少き者共不便に生立て、世にあらば憑め、世になくば憐て、義貞が形見とも思へなど云ければ、文三申けるは、殿の二歳の時より、家安親代と成て、夜は胸にかゝへ奉りて夜通労、昼は肩にのせ終日に奉育、早く成人し給たまひて、人に勝れ給はん事を願き、五六歳に成給しかば、竹の小弓に小竹矯の矢、的、草鹿、兎こそ射れ角こそ射れ、馬に乗てはとこそ馳れ角こそ馳れと教へ奉生立。
 殿は今年は廿五、家安五十七に罷成る。
 若き人だに主命とて先陣を蒐て死なんと宣ふ、殿を見捨て家安が生残りては何にかせん、又人のいはん事こそ恥しけれ、佐奈田与一の最後には、恥ある郎等身にそはず、文三家安が幾程命を生んとてか、最後の軍に主を捨てて逃たりけりと申さん事も口惜し、死なば一所の討死也、左様の事をば誰にも仰られよかしとて、三郎丸と云童を招寄て、申含て遣けり。
 与一既すでに打出ければ、佐殿は義貞が装束毛早に見ゆ、著替よかしと宣へば、与一は弓矢取身の晴振舞、軍場に過たる事候まじ、尤欣処に侍とて、十五騎の勢を相具して進出て申けるは、源氏世を取給ふべき軍の先陣給たまひて、蒐出たるを誰とか思ふ、音にも聞らん目にも見よ、三浦介義明の弟に、本は三浦悪四郎、今は岡崎四郎義真、其嫡子に佐奈田与一義貞、生年廿五、我と思はん人々は、組や/\とて叫でかく。
 弓手は海、妻手は山、暗さはくらし、雨はいにいで降、道は狭し、馬に任てぞかけ行ける。
 平家方より、与一は能敵ぞ、あますなとて進者共には、大場三郎景親、俣野五郎景尚、長尾新五、新六、八木下五郎、漢揚五郎、萩野五郎、曽我太郎、原宗四郎、渋谷庄司、滝口三郎、稲毛三郎、久下権頭、浅間三郎、広瀬太郎、岡部六弥太、同弥次郎、熊谷次郎等を先として、究竟の兵七十三騎、佐奈田一人に組んとて、我先我先にとはやれ共、闇さはくらし道は狭し、馬次第にぞ打つたりける。
 廿三日の誰彼時の事なれば、敵も味方も見え分ず、与一は文三を呼て、家安慥に聞、我は相構て大場俣野が間に組んと思也、くむ程ならば急落合て敵の頸をとれ、此間の労に無力覚れば、兼て云ぞと云。
 文三誰もさこそ存候へ、殿の大場にくみ給はば、家安は俣野、我大場に組候はば、殿は俣野にくみ給へとて進処に、岡部弥次郎、与一に組んと志て、鹿毛なる馬に乗て馳来る。
 与一は岡部とは思よらず、大場歟、俣野かと思馳よりて、甲のてへんに手を打入て、鞍の前つ輪に引付て、頸を掻取上、雲透に見れば、思敵にはあらずして岡部弥次郎也。
 穴無慙や鹿待処の狸とは此事にや、なにしに来て義貞に討るらんとて、首をば谷へぞ抛入ける。
 与一が乗たる馬は、白葦毛太逞が、七寸しちすんに余て鼻のさき瓠の花の如く白かりければ、名をば夕貌と云ひ、東国一の強馬也。
 もと三浦介が許に有けるが、余に強て輙乗者もなかりけるを、岡崎所望して乗けるが、それも進退し煩たりけるに、与一計ぞ乗随たりける。
 去共岡崎持和て、三浦へ返たれば、本の栖へ帰たりとて都返りと名付たり。
 佐奈田折節をりふし馬なくて又乞返たれば、古巣へ帰たりとて鶯共呼けり。
 元来つよき馬也けれ共、己が力を憑つゝ、出雲轡の大なるに、手綱二筋より合てぞ乗たりける。
 岡部弥次郎が頸切ける時、鎧武者の身の落るに驚て、つと出て走行。
 猿物ぞと心得こころえて、引留ん引留んとしけれ共。
 此馬の癖として、口をば主に打くれて、胸にて走馬也けり。
 猶留んと引程に、手綱三に切れければ、左右の水付とらへたり。
 左右の水付引もぎて、心の儘に引て行。
 大場三郎は弟の俣野五郎に、構て与一に組給へ、景親も目に懸らばくまんずるぞと云。
 俣野は余に暗て敵も味方も見えわかず、与一も何哉らんといへば、与一が鎧はすそ金物の、殊にきらめきて馬の毛も白かりき。
 白き幌を懸たりつれば、験かりつる也と教。
 俣野歩せ出す、与一馬に引れて近付たり。
 俣野敵のよすると思ければ、佐奈田与一義貞と名乗つるは落ぬるかと叫けり。
 無下に近かりければ、義貞こゝにあり問は誰。
 俣野五郎景尚と名乗や遅、押並て馬の間へ落重なる。
 上に成下になり、駻返持返、山のそはを下りに、大道まで四段計ぞころびたる。
 今一返もころびなば、互に海へは入なまし。
 俣野は大力と聞に、いかゞしたりけん下に被推付てうつぶしに臥、頭は下に足は上に、起ん/\としけれ共、俣野力なかりける。
 与一は上にひたと乗得て、義貞敵に組たり、落重れ/\と叫けれ共、家安を始として郎等共らうどうども、押隔てられてつゞく者なし。
 俣野今は叶はじと思て、景尚佐奈田に組たり、つゞけや/\と叫びけるに、長尾新五声に付て落合て、上や敵下や敵と問。
 与一は上に乗ながら、角宣ふは長尾殿歟、上ぞ景尚、下ぞ与一、謬し給なと云。
 俣野下にて、上ぞ与一下ぞ景尚、過すなと云。
 頭は一所にあり、くらさはくらし、音は息突て分明に不聞分上よ下よと論じければ、思侘てぞ立たりける。
 俣野穴不覚の殿や、音にても聞知なん、鎧の毛をも捜給へかしと云。
 長尾誠にと思て、鎧の毛をぞ捜りける。
 与一あらはれぬと思て、右の足を揚げて長尾をむずと蹈、ふまれて下りに弓長三杖ばかり、とゞ走て倒にけり。
 其間に与一刀を抜て、俣野が首をかく。
 掻共掻共不切、指共指共透らず。
 与一刀を持揚げて雲透に見れば、さや巻のくりかたかけて、鞘ながら抜たりけり。
 鞘尻くはへてぬかん/\としけれ共、運の極の悲さは、岡部弥次郎が首切りたりける刀を不拭さやに差たれば、血詰して抜ざりけり。
 長尾新五が弟に新六落合て、与一が胡籙やなぐひの間にひたと乗得て、甲のてへんを引仰て頸をかく、無慙と云も疎也。
 俣野を引起して、いかに手や負たると問へば、くびこそ重覚ゆると云。
 頸をさぐればぬれぬれとあり。
 手負たるにこそとて、与一が刀を見れば、鞘尻一寸ばかり砕たり。
 つよく指たりと覚たり。
 其後俣野は軍はせず、佐奈田与一は、俣野五郎止めたりと叫ければ、源氏方には惜みけり。
 平家方には是を悦けり。
 文三家安は、大勢に被推隔、主の与一が討れたるをば不知けり。
 一所にていかにも成んと主を尋て走廻けれども、敵は山に満々たり、尾は一隔たり、死生のゆくへ不知。
 高声に云けるは、東八箇国の殿原は、誰か源氏重代の非御家人、平家追討の院宣を下さるゝ上は、今は兵衛佐殿ひやうゑのすけどのの御代ぞかし、源氏の御繁昌今にあり、明日は殿原悔給べし、矢をも一筋放ぬさきに、参候へかしとぞののしりける。
 相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん渋谷庄司重国、角云は誰そと問。
 佐奈田殿の郎等に、文三家安と答。
 重国申けるは、あゝあたら詞を主にいはせで、人がましきと云。
 家安は悪き殿の詞哉、げに人の郎等は人ならず、去共家安主は二人とらず、他人の門へ足蹈入ず、うでくび取て不追従、殿こそ実の人よ、桓武帝苗裔、高望王の後胤、秩父の末葉と名乗ながら、一方の大将軍をだにもし給はで、不思寄大場三郎が尻舞して、迷行給ふをぞ人とはいはぬ、家安人ならず共、押並て組給へかし、手の程みせ奉らんと云たりければ、敵も味方もどつと笑ふ。
 重国由なき詞つかひて、苦返てぞ聞えける。
 家安は秩父の一門に、稲毛三郎が手に合て戦けり。
 重成申けるは、やをれ文三よ、己が主の与一は討れぬ、今は誰をか可育、にげよ助けんと云。
 文三申けるは、やゝ稲毛殿、家安は幼少より軍には蒐組と云事は習たれ共、逃隠と云事は未知、主の死ればとて逃んは、御辺ごへんの郎等をば何にかはし給べき、まさなき殿の詞哉、与一殿討れ給ぬと聞て後は、誰ゆゑ身をばたばふべき、逃よと宣はんよりは、押並て組給へかしと進ければ、稲毛三郎が郎等、押阻押阻戦けり。
 家安分捕八人はちにんして、討死してこそ失にけれ、誉ぬ者こそなかりけれ。
 岡崎四郎、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのに、与一冠者こそ討れ候けれと申せば、佐殿は、穴無慙や、よき若者を、頼朝よりとももし世にあらば、与一が後世をば弔べしと被仰ければ、岡崎は縦五人十人の子をば失侍るとも、君だに御世に立給はば、其こそ本意に候へと心強くは云けれ共、流石さすが恩愛の道なれば、鎧の袖をぞぬらしける。
 与一家安討れて後は、源平互に入替入替終夜よもすがら戦けるが、軍兵もはや疲ぬ、敵は大勢也、今はいかにも難叶とて、暁方に佐殿の勢は土肥を差てぞ落行ける。
 兵衛佐ひやうゑのすけも縦引共、矢一射て落んとて後陣にさがり、返合せよ/\と下知し給。
 是を聞て三浦の太田次郎義久、加藤次景廉、三崎の堀口と云所に下り塞、散々さんざんに戦ふ。
 敵は数千ありけれども、道狭ければ二騎三騎づつ寄けるを、引つめ/\射、是にぞ多く被射ける。
 矢種尽ければ、義久景廉引退。

公藤介自害事

 八月廿四日辰刻には、兵衛佐殿ひやうゑのすけどの、上の杉山へ引給ふ。
 荻野五郎季重兄弟子息五騎ごきにて奉追係申けるは、此先に落給は、大将軍とこそ見え給へ、まさなくも後をば見せ給者哉、無益の謀叛発して、源氏の名折給ぬ、返し給へ/\とて馳来。
 佐殿不安思給ければ、唯一人留て、一の矢番て射給へば、荻野が弓手の草摺縫様に射こまれたり。
 二の矢に鞍の前輪を馬の背係て射渡し給へり。
 馬頻しきりに駻ければ、荻野馬より落。
 三の矢に彦太郎が馬の胸帯尽射させて、是も馬はねければ、足を越てぞ立たりける。
 伊豆国いづのくにの住人ぢゆうにん宇佐比三郎助茂馳参て、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのの前に指塞りて、昔より大将軍の戦なき事に侍り、疾疾引給へと申。
 防箭射者の無ればこそと宣ふ時、相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん飯田三郎家能馳来て、よき箭三射ける程に杉山へこそ懸給へ、軍兵皆山峨々として登がたかりければ、鎧に太刀ばかり帯て、此彼より落上けり。
 伊豆国いづのくにの住人ぢゆうにん沢六郎宗家是にして討れぬ。
 同国住人ぢゆうにん公藤介茂光は、如法肥太たる男也。
 悪所に懸て身苦く、気絶て登りやらず、伴したりける子息の狩野五郎親光に云けるは、此山は烈くして落延がたし、一定敵に討れぬと覚ゆ、人手に懸ずして我が頸を切れ、佐殿は末憑しき人ぞ、構て二心なく奉公して奉助と云。
 親光恩愛の名残なごりを憐て、肩に引懸上けれ共、我身だにも行き兼たるに、父をさへ角しければ更に延びえず、公藤介は、やをれ親光よ、我育んとて父子共に人手に懸て、兎角いはれん事、無き跡までも心憂かるべし、敵は既すでに近付きたり、只急ぎ我頸を切て孝養せよ、全く逆罪に成まじ、急げ/\と云けれ共、さこそ父が命也とも、争か逆罪を造るべきとや思ひけん、左右なく太刀をば不抜けり。
 父が頸を害するは孝子也、母が橋をわたすは不孝也と云本文あり。

楚効荊保事

 昔大国に楚効と云ふ者あり、若して父に後て母と共に在けるが、園内に庵を造て、寡なる母を居置て養ふ程に、母つれ/゛\を慰まんとて、忍て男に通ひつゝ年月を送り、園内に深き塹あり、往還の通路也。
 楚効母が志を知ゆゑに、心安こころやすく往来せん事を思て、彼塹に橋を亘す。
 母が為には孝子とこそ云べきに、子が知事を恥、窃に家を出て自死したりけるをば、子不孝といへり。
 又荊保と云者ありき。
 家貧して父を養ひけるが、飢饉の歳にあひて、父が命を難助かりければ、父と共に隣国りんごくに行て、他の財を却して盗て帰けるを、家主人を集て是を追。
 父子二人逃走る事、鼠の猫に合が如し。
 子は盛にして先立て逃る、父は衰て走事遅。
 父垣の中をくゞり逃るに、首をば出して足をば捕られたり。
 荊保立かへりて、父が恥みん事を悲て、剣を抜て其頸を切て、持て家に帰たりけるをば、時の人称して孝養の子と云ひける也。
 公藤介も、甲斐なき敵に首を取られて恥をみんよりは、疾く切れ疾く切れと云ひけれ共、父が命を蒙上は、孝養の子にこそ有べけれ共、恩愛の命を絶ん事悲さに、暫く案じける間に、茂光は腹掻切て臥にけり。
 田代冠者信綱は、茂光には孫子也けるが、心剛に身健也けり。
 祖父が自害を見て、つと寄頸掻落して、其孝養し給へとて、伯父狩野五郎に与へけり。
 親光冑の袖に引隠して、泣々なくなく山に登けり。
 北条次郎宗時、新田次郎忠俊、馬の鼻を返して戦ける程に、甲斐国住人ぢゆうにん平井冠者義直と、伊豆国いづのくにの住人ぢゆうにん新田次郎忠俊と馳並て、組で落差違て死にけり。
 北条次郎宗時は、波打ぎはを歩せ落けるを、伊豆いづの五郎助久、係並て取組んで落にけり。
 両虎相戦て、互に亡命、留名けり。
 兵衛佐ひやうゑのすけは尚も延やり給はざりけるを、大場三郎景親、佐々木五郎義清等、大勢にて先陣に進て追懸たり。
 佐々木五郎義清は、大場三郎が妹聟に也ければ、景親が勢にぞ打具したる。
 赭白馬に赤皮威の鎧著て、いちじるくこそ見え渡れ。
 兄の四郎高綱申ける、義清慥に承れ、父の秀義は、故六条ろくでうの判官殿はんぐわんどのに父子の儀をなされ奉りて、御子孫の今までも憑みたのまれ奉る、依これによつて兄弟四人御方にあり、汝一人一門を引分て、思係ぬ大場が尻舞いと珍し、勲功の賞には他人の手に懸べからずと云けれ共、存ずる旨の有けるにや、是非の返事はせざりけり。
 大場三郎も佐々木五郎も鞭を打てぞ責懸ける。
 大場が童〈某〉葦毛馬に乗る間、近程に責付たり。

高綱賜姓名附紀信仮高祖名

 兵衛佐殿ひやうゑのすけどの、又射残し給たりける箭を取て番ひ、既すでに引かんとし給けるに、佐々木四郎高綱矢面に塞りて、大将軍たる人の、左右なく弓を引矢を放事侍らず、御伴の者共一人もあらん程は、軽々敷事有べからず、郎等乗替其詮也、とく/\延給へ、定綱高綱兄弟御身近侍り、可禦矢仕、但姓名給らんと云ければ、佐殿子細にや、暫高綱に預給ふと宣へば、佐々木姓名を給たまひて、弓矢取て番ひ、坂を下に向て、大音揚て名乗。
 清和せいわのみかどの第六皇子貞純親王の苗裔、多田ただの新発意しんぼち満仲まんぢゆうの後胤、八幡太郎はちまんたらう義家よしいへに三代の孫子、左馬頭さまのかみ義朝よしともの三男、前さきの右兵衛権佐うひやうゑのごんのすけみなもとの頼朝よりともここにあり、東国の奴原は、先祖重代の家人等けにんら也、馬に乗ながら御前近参条狼藉也、奇怪也、罷退と云かけて、暫し竪て態と馬をぞ射たりける。
 先陣に進ける大場が童、馬の太腹を射通たれば、如屏風馬は山の細道に横ざまに倒臥、童は馬に敷れたり。
 道狭ければ乗越進て上者なし。
 馬を取除童を起んとする程に、佐殿遥はるかに延給ぬ。
 其後大場遁すな者共とて打て上けるを、定綱高綱兄弟返合て散々さんざんに防戦。
 矢種も尽ければ、四郎高綱兄弟、太刀を抜坂を下に返合返合、七箇度まで切下ければ、大場が大勢坂を下り被追返、此間に深杉山にこそ籠給へ、高綱跡目に付て奉尋逢たりければ、佐殿の仰には、汝が依忠節遁命を全せり。
 世を打取んに於ては、必半分を分給べしとぞ仰ける。
 古人いへる事あり。
 疲たる兵の再び戦ふをば一人当千いちにんたうぜんといへり、何況乎佐々木疲れて七箇度の戦をや。
 されば世静て後、七箇度の忠を感じて、備前、安芸、周防、因幡、伯耆、日向、出雲七箇国を給たりけれ共、高綱は杉山に入給たまひし時は、日本につぽん半国とこそ約束は有しに、七箇国数ならずとて、代を恨て髻切て、高野山にぞ籠にける。
 善にも悪にも、猛かりける心なり。
 昔楚国の項羽と、漢朝の高祖と諍位戦ひけるに、項羽は多勢也、高祖は小勢なり。
 去共合戦牛角にして無勝負
 項羽を討せんが為に、高祖楚国へ入と聞えければ、楚国の大勢悦て高祖を待。
 高祖は革車に乗て官兵を従たり。
 項羽が兵の被多勢、高祖難遁かりけるに、紀信と云者、高祖の車に乗替つて帝を奉逃、我は是高祖也と名乗ければ、敵誠と思ひつゝ、革車を囲て是を搦見れば、高祖には非ず、紀信と云者なり。
 項羽是を捕て、随我降人にならば赦さんと云ければ、忠臣は不二主、男士不諂言云て従はざりければ、兵革車に火を付て、紀信をぞ焼殺しける。
 佐々木四郎高綱も、此事を思ひけるにや、姓名を給たまひて敵を返し、佐殿を奉延。
 彼は死して名を遺、是は生て預恩、異国本朝かはれ共、ためしは実に一なりけり。

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