資巻 第四十二
 義経解纜四国渡附資盛清経頸可京都由事

 十六日じふろくにち午刻に、判巻既纜を解て船を出す。
 南風俄にはかに吹来て、兵船渚々に吹上て、七八十艘打破。
 其を繕とて今日は逗留。
 今や/\と待けれ共、風弥烈して、二日二夜ぞふきたりける。
 十七日じふしちにちの夜の寅時に、空かき陰急雨して、南の風は静て、北風烈く吹出したり。
 木折砂を揚。
 判官は、風既すでに直れり、急舟共出せと宣ふ。
 水手楫取等申けるは、是程の大風には争出し候べき、風少弱候てこそと申。
 判官大に嗔て、向たる風に出せといはばこそ僻事ひがことならめ、加様の順風は願処なり、日並もよく海上も静ならば、今日こそ源氏は渡らめとて、平家用心稠くして、浦々島々に大勢指向々々待ん所へ、僅わづかの勢が寄たらば、物の用にや可叶、斯る大風なれば、よも渡らじ、船も通はじなんど思て、打解あはけたらん所へ、するりと渡てこそ敵をば誅すれ、疾々此船共出せ、不出者ならば己等こそ朝敵なれ、射殺せ斬殺せと下知しければ、伊勢三郎、大の中指打くはせて射殺さんと馳廻ければ、水手楫取共如何はせん、是程の風に船出したる事いまだなし、船を出しぬる者ならば、一定水の底に沈まんず、不出箭に中て死なんず、死は何れも同事、さらば出して馳死にせよとて、寅卯間に判官の船を出す。
 兵船は数千艘有けれ共、如法夥おびたたしき大風なれば、船を出す者なかりけるに、只五艘を出す。
 一番判官船、二番畠山が船、三番土肥次郎船、四番和田小太郎船、五番佐々木四郎船也。
 五艘の船に馬のせ兵粮米積。
 夫に随下部歩走なんど乗ければ、一百いつぴやく余騎よきには過ず。
 此等は上下皆一人当千いちにんたうぜんの兵也。
 判官は、義経が船ばかりに篝をたくべし、其を本船として各馳よ、自余じよの舟に篝ともすべからず、敵の船の数を見せじ為也と下知して、渡辺島より船を出す。
 吹風木の枝を折、立波蓬莱を上。
 水手楫取吹倒されて、足を踏立るに不及けれ共、究竟の者共にて、舟を乗直し/\、帆柱を立て帆を引事不高、手打懸計也。
 風弥強当りければ、帆のすそを切て結分風を通す。
 纜三筋十丈ばかりによりさげて、沈石綱あまた下して、脇梶面梶を以船をちやうと挟立て、傍風来れば風面に乗懸、眦になれば中に乗、隙なく湯を取らす。
 舳へ打波摧けて艫を洗、艫を済波いかにも難叶けれ共、究竟の梶取也、浪の手風の手を作て、大なる波をばついくゞり、小浪をば飛越飛越、馳よ者共漕や者とて、曳声を出して馳ければ、押て三日に漕所を、只三時に阿波国はちまあまこの浦にぞ馳著たる。
 五艘の船一艘も誤なく、皆一所に漕並たり。
 汀みぎはより五六町計上て岡の上に、赤旗余多あまた立並て敵籠れりと見ゆ。
 判官宣のたまひけるは、平家此浦を固たり、各物具もののぐし給へ、船に揺風に吹れて立すくみたる馬共也。
 左右なく下して誤ちすな、沖より追下して、船に付て游せよ、馬の足とづかば、船より鞍を置べし、其間に鎧物具もののぐ取付て、船より馬には乗移れ、敵寄と見るならば、平家は汀みぎはに下立て、水より上じと射ずらん、浪の上にて相引して、脇壺内甲射さすな、射向の袖を末額にあてて、急汀みぎはへ馳寄よ、敵近付ばとて騒ぐ事なかれ、今日の矢一は敵百人ひやくにん禦べし、透間をかずへて弓を引、あだ矢射なとぞ下知し給ふ。
 軍兵随軍将之下知、礒五六町より沖にて馬を追下し、船に引付引付游せたり。
 馬の足とゞきければ、鎧物具もののぐ取付て、船より馬にひたと乗、一百五十いつぴやくごじふ余騎よきの兵共つはものども、射向の袖を甲の末額にあて、轡を並て汀みぎはへさと馳上たり。
 判官先陣に進、此浦固たる大将軍は誰人ぞや、名乗名乗と攻けれ共答る者なし。
 此浦をば、阿波民部大輔みんぶのたいふ成良が伯父、桜間外記大夫良連軍将として、三百さんびやく余騎よきにて固たりけれ共、何とか思けん不名乗ければ、判官は、此奴原は近国の歩兵にこそ有めれ、若者共責入て、一々に首切懸て軍将に奉れと下知しければ、河越小太郎茂房、堀弥太郎親弘、熊井太郎忠元、江田源三弘基、源八広綱、五騎ごき轡を並鞭を打て蒐入けり。
 城中じやうちゆうよりは簇をそろへて散々さんざんに射る。
 源氏は一百いつぴやく余騎よき後陣に支へて、責よ蒐よ隙なあらせそととゞめきければ、五騎ごきの者共郎等乗替相具して、三十さんじふ余騎よきしころを傾て攻入ければ、三百さんびやく余騎よきも不堪して、さと開て通しけり。
 取て返て竪さま横さま、おもの射に射ければ、木葉を風の吹が如く、四方へさと逃走けるを駈立つゝ、強る者をば頸を切、弱者をば虜にす。
 大将軍外記大夫も禦兼、鞭を揚て逃けれ共、不延遣して虜れけり。
 首共四五十切掛て奉軍神、悦の時二度造、西国さいこくの軍の手合也、物能物能とぞ勇にける。
 備前児島城は、去し冬土肥次郎実平、塩干に渡瀬を求て、暗夜五十ごじふ余騎よきを卒して、責寄て関を発ければ、平氏の軍兵不計ける程なれば、防戦に不及して、船に諍乗て逃けるを、或虜或頸を切ければ、其後は備中備前之輩、悉官軍に相従ひける処に、此春又平氏二百にひやく余艘よさうの兵船を調へて、夜半に彼城へ寄せて合戦しける程に、実平軍敗て、息男遠平疵を蒙り、家人多く被討捕けり。
 船軍の事西国さいこくの賊徒は自在を得たり、東国の官兵は寸歩を失て、実平毎度に被敗けり。
 懸りし程に豊後国住人ぢゆうにん等、舟を艤て官兵を迎ければ、参川守範頼已下彼国へ入にけり。
 又三位中将さんみのちゆうじやう資盛入道、并左中将清経朝臣を、当国輩討捕て、首を範頼の許へ送けり。
 清経朝臣は不劣心不死、敵を討自害し給たりけるを、資盛入道の頸と取具して、京都へ可献由其沙汰有けり。
 平家は源氏の討手下ると聞えしより、讃岐国屋島の浦に城郭じやうくわくを構へ、軍兵を儲て相待けり。
 前さきの内大臣ないだいじん宗盛、前平中納言教盛、前権ごん中納言ぢゆうなごん知盛、前修理しゆりの大夫だいぶ経盛、前さきの右兵衛督うひやうゑのかみ清宗、小松少将有盛、能登守教経、小松新侍従忠房已下、五十ごじふ余騎よきとぞ聞えし。
 浦々島々指塞てぞ守護しける。

勝浦合戦附勝磨並親家屋島尋承事

 判官虜の者に問給けるは、平家軍兵は、屋島よりこなたには何の所にか在と宣ふ。
 此より三十さんじふ余町よちやう罷候て、阿波民部大夫たいふの弟に、桜間介良遠と申す者こそ五十ごじふ余騎よき計にて陣を取りて候へと申。
 さては小勢や打や/\とて押寄、時を造る。
 城内にも時も合たり。
 良遠は大堀を掘て水を湛、岸にひし植櫓掻て待受たり。
 輙く難責落かりけるを、源氏の兵其辺の小家を壊堀に入浸して、しころを傾一味同心に責入ければ、城内乱て我先にと落行けり。
 良遠を延さんとて、家子郎等三十さんじふ余騎よき残留つて禦矢射けるが、一々搦捕れて、忽たちまちに首被刎、被軍神
 両陣を追落して後、又浦人を召て、此所をば何と云ぞと問。
 勝浦と申と答。
 軍に勝たればとて、色代してけう飾けうしよくを申にこそ、加様の奴原が不思議の事をばし出すぞ、返忠せさすな、義盛は無き歟、しや頸斬れと宣へば、伊勢三郎太刀をぬき進出たり。
 浦人大に恐戦て、其儀は候はず、此浦は御室の御領五箇庄にて、文字には勝浦と書て候なるを、下﨟は申安きに付てかつらと呼侍き。
 上﨟の御前にて侍れば、文字の儘に申上候と云。
 判官是を聞て、さては神妙しんべう神妙しんべう、去ためしあり。
 昔天武天皇てんわうの未東宮とうぐう位に御座おはしましける時、大友皇子に、〈 天智子 〉襲て、近江国湖水に船を浮て東の浦に著給。
 葦の下葉を漕分て船を岸に寄給ふ。
 田作る男一人あり。
 春宮とうぐう問曰、汝何者なにものぞ、此をば何所と云ぞと。
 田夫答て申さく、是をば勝浦と云、我身をば月下勝磨と申也とて、賤が藁屋に請入奉り、様々貢御進め進せたりければ、春宮とうぐう大に御悦ありて、朕勝浦に著て勝磨にあへり、軍に勝て帝位につかん事疑なし、御即位の後に御願寺ごぐわんじを可立と御誓ありけるに、果して帝位に即て、彼所に寺を被立けり。
 月上寺とて今にありと伝へ聞。
 義経軍の門出に、はちまあまこの浦にて軍に勝て、又勝浦に著て敵を亡す、末憑しとぞ悦ける。
 判官又浦の人に問給ふ。
 此勝浦より屋島へは、行程いくら程ぞと。
 二日路候と申。
 さらば敵の聞ぬ先に打や/\とて、鞭障泥を合て打処に、大将軍と覚しくて、黒革威くろかはをどしの鎧に、くろ馬に乗て一百いつぴやく余騎よきにて歩せ来る。
 笠符も不付旗も不指。
 判官宣のたまひけるは、見来軍兵源平いづれ共不見分、敵の謀やらん、不心許、義盛罷向て子細を尋て将参と下知しければ、伊勢三郎仰承て、十五騎にて行向て、何とか云たりけん安々と具して参。
 判官汝は何者なにものぞ、源平何れ共不見と問給へば、是は阿波国住人ぢゆうにん臼井近藤六親家と申者にて侍が、近年源平の乱逆に不安堵、浪にも磯にも著ぬ風情也、何れにても日本につぽんの主と成給はん方を主君と憑奉らんと相待処に、平家都を落、源氏軍将の蒙院宣給ふと承る間、白旗を守て馳参ずと申す。
 判官宣のたまひけるは、神妙しんべう也、源氏の大将軍鎌倉の兵衛佐殿ひやうゑのすけどのの弟に、九郎大夫判官たいふはうぐわんと云は我也、平家追討の蒙院宣西国さいこくに発向せり、親家を西国さいこくの案内者に憑、屋島の尋承せよ、但所存を知ん程は物具もののぐをば不免とて、甲冑をぬがせて召具しけり。
 やをれ親家、屋島には勢幾程とか聞と。
 よも千騎せんぎには過候はじ。
 凡は五千ごせん余騎よきとこそ承しか共、臼杵、戸槻、松浦党、尾形三郎等が依背、平家彼輩を被誅とて、此間は軍兵等多所々へ被分遣
 其外阿波讃岐の浦々島々に、五十騎ごじつき三十騎さんじつき百騎二百騎被指遣間に、勢は少と承と。
 偖屋島より此方に敵ありやと問へば、近藤六申けるは、今三十町計罷て勝宮と云社あり、彼に阿波民部大輔みんぶのたいふ成能が子息、伝内左衛門尉でんないざゑもんのじよう成直、三千さんぜん余騎よきにて陣を取たりつるが、此間河野四郎通信を攻んとて、伊予国へ越たりと聞ゆ、余勢などは少々も候らんと云ければ、判官急々とて、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、佐々木四郎高綱、平山武者所季重、熊谷次郎直実、奥州あうしうの佐藤三郎兵衛継信、同弟四郎兵衛忠信、鎌田藤次光政等、一人当千いちにんたうぜんの者共を先として、打や/\とて勝社に押寄せて見れば、伝内左衛門尉でんないざゑもんのじようが兵士に置たりける歩兵等少々在けれ共、散々さんざんに蹴散して、逃るはたま/\遁けり。
 向奴原一々に頸切懸て打程に、新八幡の宝前をば、判官下馬して再拝すれば、郎等も又如此。
 判官は勝浦の勝もかつと読、勝宮の勝もかつとよむ、傍の軍に打勝て、今大菩薩だいぼさつの御前に参、源氏の吉瑞顕然也、平家の滅亡無疑、八幡三所遠き守と守り幸給へとて、馬に打乗馳つひかへつ/\、讃岐屋島へ打程に、

金仙寺観音講附六条北政所きたのまんどころ使逢義経

 〔斯る処に〕中山と云所の道のはたより、二町計右に引入て竹の林あり、中に古き寺あり、栗守后の御願ごぐわん金仙寺と云伽藍なり。
 本尊は観音、所の名主百姓が集りて、月次の講営とて、大饗盛並盃居て、既すでに行はんとしけるが、長百姓は善と嘆、若者共は悪ときらふ。
 善悪しと讃毀程に、百余人よにんの講衆とゞめきけり。
 軍兵是を聞て、敵の籠たるぞと心得こころえて、弓取直し片手矢はげて、時をどと造て押寄たれば、講衆は始て、汁御菜持運たる尼公女童、下取んとて集たる子孫童部わらんべに至まで、取物も取敢とりあへず、蜘蛛子を散したるが様にぞ逃迷ける。
 幼少の子孫が尻随たるをも打捨、老耄の親祖父が杖に懸をも不助、我先我先と此彼に隠忍て是を見。
 軍兵縁の際まで打寄て、御堂の内に下居て、我物がほに講の座に著す。
 五種御菜に三升盛を、百二三十前計組調たり。
 座上に坏居、大桶に汁入、樽二に濁酒入て座中に舁居たり。
 仏前には花香供じ、仏供燈明備へたり。
 机上に巻物一巻あり、講式と覚ゆ。
 判官は座上に著す、兵共つはものども思々に列座せり。
 武蔵房むさしばう弁慶べんけい座より起て、判官の前に五本立に取並て、戯呼今月の講は、随分尋常に営出して覚候、来頭は誰人ぞ、此定候ぞよと云。
 判官実に此講目出し、来頭は義経営侍るべしと宣へば、兵皆咲壺会也。
 飯酒共に行て、仏壇の中より老翁を尋出して、是は何講ぞと問へば、翁ふるひ/\、是は月並の観音講にて候が、只今ただいまは御景気共の恐しさにわなゝくとぞ云ける。
 講食てたゞ有べきに非ず、誰か可式読と云ければ、弁慶べんけい、黒皮威くろかはをどしの鎧に矢負太刀帯ながら、礼盤に昇て高声に、観音講式をたゝめかしてよむ。
 判官は式は観音講、貌は毘沙門講、穴貴おそろしと云ければ、兵共つはものども皆笑けり。
 さても勇士等西国さいこくの軍の門出に、勝浦勝社に著、今また講座に著す、事に於勇あり。
 昔八幡殿の奥州あうしうを被責けるにこそ剛臆の座をば被分けれ、今の軍兵一人も洩ず講座に著、平家を亡さん事子細なしとぞののしりける。
 其より屋島へ打程に、中山路の道の末に、貲の直垂に立烏帽子たてえぼし、立文持て足ばやに行下種男あり、京家の者と見ゆ。
 判官馬を早めて追付問けるは、汝は何者なにものぞ、何所へ行人ぞと。
 此男判官とは夢にも不知、国人ぞと思て、是は京より屋島の方へ下者也と答。
 京よりは誰人の御許より、屋島の何れの御方へぞと問ば、いや只と云て最不分明
 判官、はや殿是は阿波国の者にてあるが、屋島の大臣殿の依御催参る者ぞ、誠や九郎判官と云者が、源氏の大将にて下なるが、淀河尻にて舟汰へして、今日明日の程に屋島の内裏へ寄べしと聞ば、御辺ごへんは京より下給へば定めて見給ぬらん、勢幾ら程とか申など問て、昼の破子食せ、能々心を取て後、さても御辺ごへんは誰れ人の御使ぞと問。
 是は六条摂政殿せつしやうどのの北政所きたのまんどころより、大臣の御方へ申させ給御文なりと申。
 御文には何事をか被仰下らんと問へば、下﨟は争か御文の中を奉知べき、御詞には源氏九郎大夫判官たいふはうぐわん、既すでに西国さいこくへとて都を立ぬ。
 浪風静りなば一定渡るべし、さしも鬼神の如くに畏恐し木曾も、九郎上ぬれば時日を廻さず亡しぬる怖しき者に侍り、城をもよく構へ兵をも催集て、可御用心とこそ申させ給つれば、御文も定其御心にこそ候らめ、誠に淀河尻には軍兵充満て雲霞の如し、六万余騎よきが二手に分て、参川守、九郎判官兄弟して、四国長門より指挟みて下るべしと披露しき。
 波風やみなば今日明日の程には軍は一定あるべし、急々屋島へ可御参とて、抜々と判官に相連て行。
 さて御辺ごへんは始て下る人歟、先々も下給へる人歟と問ば、六条摂政殿せつしやうどのの北政所きたのまんどころと大臣殿とは、御兄弟ごきやうだいの御中にてましませば、西国さいこくの御住居おんすまひ御心苦く思召おぼしめし、源氏上洛の後は、都の形勢ありさま人の披露、聞召に随て仰らるれば、常に下向する也と云。
 さては屋島城の有様ありさまはよく知給たまひたるらん、誠や究竟の城じやうにて、敵も左右なく難寄所と聞は実か、哀さやうの城じやうにて高名をして、勲功に預ばやといへば、男が云けるは、是は敵に聞すべき事には非ず、御方へ参らるれば申、源氏が知でこそよき城とは申せ、事も無所也、あれに見ゆる松原は武例高松と申、彼松原の在家に火を懸て、塩干潟に付て山のそばに打そうて渡らば、鐙鞍つめの浸る程也、百騎も二百騎も塩花蹴立て押寄ば、あは大勢の寄はとて、平家は汀みぎはに儲置たる船に乗て沖へ押出さば、内裏を城にして戦は無念の所也と、細々と語けり。
 判官是を聞、実に無念の所や、可然八幡大菩薩はちまんだいぼさつの御計也とて、都の方を拝つゝ、やをれ男め、我こそ九郎大夫判官たいふはうぐわんよ、其文進よとて奪取、海の中に抛入て、男をば中山の大木に縛上てぞ通ける。
 其そのは阿波国坂東西打過ぎて、阿波と讃岐の境なる中山山口の南に陣を取。
 翌日は引田浦、入野、高松郷をも打過て、屋島城へ押寄けり。

屋島合戦付玉虫立扇与一射扇事

 屋島には、伝内左衛門尉でんないざゑもんのじよう成直が伊予国へ越、河野四郎通信を攻けるが、通信をば討遁して、其伯父福良新三郎以下の輩、百六十人が頸を切つて、姓名注して進せたりけるを、内裏にて首実験かわゆしとて、大臣殿の御所にて実験あり。
 大臣殿は、小博士に清基と云者を御使にて、能登殿へ被仰けるは、源九郎義経、既すでに阿波国あまこの浦に著たりと聞ゆ、定て終夜よもすがら中山をば越候らん、御用意あるべしと被申。
 去さるほどに夜も明ぬ。
 屋島より塩干潟一隔、武例高松と云所に焼亡あり。
 平家の人々、あれや焼亡焼亡と云ければ、成良申けるは、今の焼亡誤にあらじ、源氏所々に火を懸て焼払やきはらふと覚えたり、敵は六万余騎よきの大勢と聞、御方は折節をりふし無勢也、急御船に召、敵の勢に随て、船を指寄指寄御軍あるべし、侍共は汀みぎはに船を用意して、内裏を守護して戦べしと計申ければ、可然とて、先帝を奉始、女院二位殿にゐどの以下女房達にようばうたち、公卿殿上人てんじやうびと、屋島惣門の渚なぎさより御船にめさる。
 去年一谷いちのたににて被討漏たる人々也。
 前さきの内大臣ないだいじん宗盛、前平中納言教盛、前権ごん中納言ぢゆうなごん知盛、修理しゆりの大夫だいぶ経盛、前さきの右衛門督うゑもんのかみ清宗也。
 小松少将有盛、能登守教経、小松新侍従忠房已下、侍共は城中じやうちゆうに籠れり。
 大臣殿父子は一船に乗給たりけるが、右衛門督うゑもんのかみも鎧著て打立んとし給けるを、大臣殿大に制して、手を引いて例の女房達にようばうたちの中へ座しけるこそいつまでと無慙なれ。
 同廿日卯時に、源氏五十ごじふ余騎よきにて、屋島の館の後より責寄て鬨を発す。
 平家も声を合て戦。
 判官は紺地の錦の直垂に、紫坐滋鎧に、鍬模打たる白星甲に、滋紅幌懸て、二十四指たる小中黒征矢に、金作の太刀を帯、滋籐の弓真中取、黒馬の太逞に白覆輪の鞍を置、先陣に進で、馬に白沫かませ軍の下知しけり。
 武蔵三郎左衛門さぶらうざゑもんのじよう有国、城の木戸の櫓にて大音声を揚て、今日の大将軍は誰人ぞと問。
 伊勢三郎義盛歩出して、穴事も疎や、我君は是清和せいわのみかどの九代後胤、八幡太郎はちまんたらう義家よしいへに四代の孫、鎌倉右兵衛権佐殿うひやうゑのごんのすけどのの御弟、九郎大夫判官殿たいふはうぐわんどのぞかしと云。
 有国是を聞て大に嘲、故左馬頭さまのかみ義朝よしともが妾、九条院雑司常葉が腹の子と名乗て、京都に安堵し難かりしかば、金商人が従者して、蓑笠笈背負つゝ、陸奥へ下し者の事にやといへば、伊勢三郎腹を立て、角申は北国砥波山の軍に負て山に逃入、辛命生て、乞食して這々京へ上ける者也。
 掛忝かたじけなく舌の和なる儘に角な申しそ、さらぬだに冥加は尽ぬる者ぞ、甲斐なき命も惜ければ、助させ給へとこそ申さんずらめと云。
 有国は我君の御恩にて、若より衣食に不乏、何とて可乞食、東国の者共は、党も高家も跋跪こそ有しか、金商人と云をだに舌の和なる儘と云、況や年来の重恩を忘、十善帝王に向進て悪口吐舌は如何有べき、就なかんづく汝が罵立耳はゆし、伊勢国いせのくに鈴鹿関にて朝夕山立して、年貢正税しやうぜい追落、在々所々に打入、殺賊強盗して妻子を養とこそ聞、其は有し事なれば諍所なしと云。
 金子十郎家忠進出て申けるは、雑言無益也、合戦の法は利口に依ず、勇心を先とす、一谷いちのたにの戦に、武蔵相模の兵の勢は見給けん、それよりは只打出て組や/\と云処に、家忠が弟に金子与一引儲て、有国が頸骨を志て射たりけるに、有国甲を合立たりければ、胸板むないたにしたゝかに中る。
 矢風負て後は言戦は止にけり。
 東国之輩九郎判官を先として、土屋小次郎こじらう義清、後藤兵衛尉実基、同息男基清、小河小次郎こじらう資能、諸身兵衛能行、椎名次郎胤平等、我も/\と諍蒐。
 平家方より越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、矢野右馬允家村、同七郎高村已下の輩、櫓より下合て防戦ければ、時を移し日を重けり。
 能登守教経は、打物取ても鬼神の如し、弓矢を取ても精兵の手聞也ければ、源氏の兵多此人にぞ討れける。
 判官下知しけるは、平家は大勢也、御方の勢はいまだ続ず、敵内裏に引籠て、出合出合戦はんには優々敷大事、其上兵船海上に数を不知、屋島の在家を焼払やきはらひて、一方に付て責べしと云ければ、条里を立て造並たる在家、一千五百いつせんごひやく余家よかありけるに、軍兵家々いへいへに火を放。
 折節をりふし西風烈く吹、猛火内裏に覆、一時が間に焼亡ぬ。
 余煙海上に浮て、雲の波煙波と紛けり。
 城内の軍兵は儲舟に諍乗。
 船の中の男女は、遥はるかに是を見給けり。
 遂に安堵すまじき旅の宿、是も哀を催す。
 軍陣忽たちまちに陸の辺に乱て、兵船頻しきりに波の上に騒。
 平家は兼て海上に舟を浮べ、舳屋形へやがたに垣楯掻たりければ、彼に乗移て、或一艘或二艘、漕寄漕寄散々さんざんに射。
 源氏の方より判官を先として、畠山庄司次郎重忠、熊谷次郎直実、平山武者所季重、土肥次郎実平、和田小太郎義盛、佐々木四郎高綱と名乗て、一人当千いちにんたうぜんの兵也。
 東国にも誰かは肩を並ぶべきなれ共、我と思はん人々は、推並て組めや/\とののしり懸て、追物射にいる。
 源平何れも勝負なし。
 源氏七騎兵は、馬足を休め身の息をも継んとて、渚なぎさに寄居たる船の陰に休居たり。
 平家も船を奥に漕除て、暫猶予する処に、勝浦にて軍しける輩、屋島浦の煙を見て、軍既すでに始れり、判官殿はうぐわんどのは無勢におはしつるぞ、急々とて追継追継に馳加る。
 此外武者七騎出来れり。
 判官何者なにものぞと問給へば、故八幡殿御乳母子おんめのとごに、雲上後藤内範明が三代の孫、藤次兵衛尉範忠也、年来は、平家世を取て天下を執行せしかば山林に隠居て、此二十余年明し暮し侍りき。
 今兵衛佐殿ひやうゑのすけどの院宣を承給たまひて、平家誅戮と披露之間、余嬉さに馳参ずと申。
 判官昔の好を思出て、最哀に思けり。
 即荒手の兵を指向て、入替入替戦けり。
 源平互に甲乙なし。
 両方引退き、又強健処に、沖より荘たる船一艘、渚なぎさに向て漕寄。
 二月廿日の事なるに、柳の五重ごぢゆうに紅の袴著て、袖笠かづける女房あり。
 皆紅の扇に日出たるを枕に挟て、船の舳頭に立て、是を射よとて源氏の方をぞ招たる。
 此女房と云は、建礼門院けんれいもんゐんの后立の御時、千人せんにんの中より撰出せる雑司に、玉虫前共云又は舞前共申。
 今年十九にぞ成ける。
 雲の鬢霞の眉、花のかほばせ雪の膚、絵に書とも筆も及がたし。
 折節をりふし夕日に耀て、いとゞ色こそ増りけれ。
 懸りければ、西国さいこくまでも被召具たりけるを、被出て此扇を立たり。
 此扇と云は、故高倉院たかくらのゐん厳島へ御幸の時、三十本切立てて明神に進奉あり。
 皆紅に日出したる扇也。
 平家都を落給し時厳島へ参社あり、神主佐伯景広此扇を取出して、是は一人の御施入、明神の御秘蔵也、且は故院の御情おんなさけ、帝業の御守たるべし、されば此扇を持せ給たらば、敵の矢も還て其身にあたり候べし、と祝言して進せたりけるを、此を源氏射弛したらば当家軍に勝べし、射負せたらば源氏が得利なるべしとて、軍の占形にぞ被立たる。
 角して女房は入にけり。
 源氏は遥はるかに是を見て、当座の景気の面白さに、目を驚し心を迷す者もあり、此扇誰射よと仰られんと肝膾を作り堅唾を飲る者もあり。
 判官畠山を召。
 重忠は木蘭地直垂に、ふし縄目ふしなはめの鎧著て、大中黒の矢負、所籐の弓の真中取、くろの馬の太逞に金覆輪の鞍置、判官の弓手の脇に進出て畏つて候。
 義経は女にめづる者と平家に云なるが、角構へたらば、定て進み出て興に入ん処を、よき射手を用意して、真中さし当て射落さんと、たばかり事と心得こころえたり、あの扇被射なんやと宣へば、畠山畏つて、君の仰、家の面目と存ずる上は子細を申に及ず、但是はゆゆしき晴態也、重忠打物取ては鬼神と云共更に辞退申まじ、地体脚気の者なる上に、此間馬にふられて、気分をさし手あはらに覚え侍り、射損じては私の恥はさる事にて、源氏一族の御瑕瑾と存ず、他人に仰よと申。
 畠山角辞しける間諸人色を失へり。
 判官は偖誰か在べきと尋ね給へば、畠山、当時御方には、下野国住人ぢゆうにん那須太郎助宗が子に十郎兄弟こそ加様の小者は賢しく仕り候へ、彼等を召るべし、人は免し候はず共、強弓つよゆみ遠矢打者などの時は、可仰と深申切たり。
 さらば十郎とて召れたり。
 褐の直垂に、洗革の鎧に片白の甲、二十四指たる白羽の矢に、笛籐の弓の塗籠たる真中取て、渚なぎさを下にさしくつろげてぞ参たる。
 判官あの扇仕れと仰す。
 御諚の上は子細を申に及ね共、一谷いちのたにの巌石を落し時、馬弱して弓手の臂ひぢを沙につかせて侍しが、灸治も未愈、小振して定の矢仕ぬ共不存、弟にて候与一冠者は、小兵にて侍れ共、懸鳥的などはづるゝは希也、定の矢仕ぬべしと存、可仰下と弟に譲て引へたり。
 さらば与一とて召れたり。
 其そのの装束は、紺村紺の直垂に緋威ひをどしの鎧、鷹角反甲居頸に著なし、二十四指たる中黒の箭負、滋籐の弓に赤銅造の太刀を帯、宿赫白馬の太逞に、州崎に千鳥の飛散たる貝鞍置て乗たりけるが、進出て、判官の前に、弓取直して畏れり。
 あの扇仕れ、晴り所作ぞ不覚すなと宣ふ。
 与一仰承、子細申さんとする処に、伊勢三郎義盛、後藤兵衛尉実基等、与一を判官の前に引居て、面々めんめんの故障に日既すでに暮なんとす。
 兄の十郎指申上は子細や有べき、疾々急給へ/\、海上暗く成なばゆゝしき御方の大事也、早々と云ければ、与一誠にと思ひ、甲をば脱童に持せ、揉烏帽子えぼし引立て、薄紅梅の鉢巻して、手綱掻繰、扇の方へぞ打向ける。
 生年十七歳、色白小鬚生、弓の取様馬の乗貌、優なる男にぞ見えたりける。
 波打際に打寄て、弓手の沖を見渡せば、主上を奉始、国母建礼門院けんれいもんゐん、北政所きたのまんどころ、方々の女房達にようばうたち、御船其数漕並、屋形やかた屋形やかたの前後には、御簾も几帳もさゝめけり。
 袴温巻の坐までも、楊梅桃李とかざられたり。
 塩風にさそふ虚焼は、東袖にぞ通ふらし。
 妻手の沖を見渡せば、平家の軍将屋島大臣を始奉、子息右衛門督うゑもんのかみ清宗、平中納言教盛、新中納言知盛、修理しゆりの大夫だいぶ経盛、新三位中将しんざんみのちゆうじやう資盛、左中将清経、新少将有盛、能登守教経、侍従忠房、侍には、越中次郎兵衛盛嗣、悪七兵衛景清、江比田五郎、民部大輔みんぶのたいふ等、皆甲冑を帯して、数百艘の兵船を漕並て是を見。
 水手梶取に至まで、今日を晴とぞ振舞たる。
 後の陸を顧れば、源氏の大将軍、大夫判官たいふはうぐわんを始て、畠山庄司次郎重忠、土肥次郎実平、平山武者所季重、佐原介能澄、子息平六能村、同おなじく十郎能連、和田小太郎義盛、同三郎宗実、大田和四郎能範、佐々木四郎高綱、平左近太郎為重、伊勢三郎義盛、横山太郎時兼、城太郎家永等、源氏大勢にて轡を並て是を見る。
 定の当を知ざれば、源氏の兵各手をぞ握りける。
 されば沖も渚なぎさも推なべて、何所も晴と思けり。
 そこしも遠浅也、鞍爪鎧の菱縫の板の浸るまで打入たれ共、沛艾の馬なれば、海の中にてはやりけり。
 手綱をゆりすゑ/\鎮れ共、寄る小波に物怖して、足もとゞめず狂けり。
 扇の方を急見れば、折節をりふし西風吹来て、船は艫舳も動つゝ、扇枕にもたまらねば、くるり/\と廻けり。
 何所を射べし共覚ず。
 与一運の極と悲くて、眼をふさぎ心を静て、帰命頂礼きみやうちやうらい八幡大菩薩はちまんだいぼさつ、日本国中につぽんごくぢゆう大小神祇、別しては下野国日光宇都宮、氏御神那須大明神だいみやうじん、弓矢の冥加有べくは、扇を座席に定めて給へ、源氏の運も極、家の果報も尽べくは、矢を放ぬ前に、深く海中に沈め給へと祈念して、目を開て見たりければ、扇は座にぞ静れる。
 さすがに物の射にくきは、夏山の滋緑の木間より、僅わづかに見ゆる小鳥を、不殺射こそ大事なれ、挟みて立たる扇也、神力既すでに指副たり、手の下なりと思つゝ、十二束二つ伏の鏑矢を抜出し、爪やりつゝ、滋籐の弓握太なるに打食、能引暫固たり。
 源氏の方より今少打入給へ/\と云。
 七段計を阻たり。
 扇の紙には日を出したれば恐あり、蚊目の程をと志て兵と放。
 浦響くまでに鳴渡、蚊目より上一寸置て、ふつと射切たりければ、蚊目は船に留て、扇は空に上りつゝ、暫中にひらめきて、海へ颯とぞ入にける。
 折節をりふし夕日に耀て、波に漂ふ有様ありさまは、竜田山の秋の暮、河瀬の紅葉に似たりけり。
 鳴箭は抜て潮にあり、澪浮州と覚えたり。
 平家は舷を扣て、女房も男房も、あ射たり/\と感じけり。
 源氏は鞍の前輪箙を扣て、あ射たり/\と誉ければ、舟にも陸にも、どよみにてぞ在ける。
 紅の扇の水に漂ふ面白さに、玉虫は、
  時ならぬ花や紅葉をみつる哉芳野初瀬の麓ならねど
 平家侍に、伊賀平内左衛門尉へいないざゑもんのじようが弟に、十郎兵衛尉家員と云者あり。
 余りの面白さにや、不感堪して、黒糸威くろいとをどしの冑に甲をば著ず、引立烏帽子ひきたてえぼしに長刀を以、扇の散たる所にて水車を廻し、一時舞てぞ立たりける。
 源氏是を見て種々しゆじゆの評定あり。
 是をば射べきか射まじきかと。
 射よと云人もあり。
 ないそと云者もあり。
 是程これほどに感ずる者をば、如何無情可射、扇をだにも射る程の弓の上手なれば、増て人をば可弛とはよも思はじなれば、な射そと云人も多し。
 扇をば射たれ共武者をばえいず、されば狐矢にこそあれといはんも本意なければ、只射よと云者も多し。
 思々の心なれば、口々にとゞめきけるを、情は一旦の事ぞ、今一人も敵を取たらんは大切也とて、終に射べきにぞ定めにける。
 与一は扇射すまして、気色して陸へ上けるを、射べきに定めければ、又手綱引返て海に打入、今度は征矢を抜出し、九段計を隔つゝ、能引固て兵と放。
 十郎兵衛家員が頸の骨をいさせて、真逆に海中へぞ入にける。
 船の中には音もせず、射よと云ける者は、あ射たり/\と云、ないそと云ける人は、情なしと云けれ共、一時が内に二度の高名ゆゝしかりければ、判官大に感じて、白め馬さめむまに、〈 尾花毛馬也 〉黒鞍置て与一に賜。
 弓矢取身の面目を、屋島の浦に極たり。
 近き代の人、
  扇をば海のみくづとなすの殿弓の上手は与一とぞきく
 平家不安思、楯突一人、弓取一人、打物一人、已上三人小舟に乗、陸に押付浜に飛下、楯突向て寄よ/\と源氏を招。
 判官は、若者共蒐出て蹴散と下知し給へば、武蔵国住人ぢゆうにん丹生屋十郎、同四郎等喚て蒐。
 十五束の塗箆に、鷲の羽、鷹羽、鶴の本白、矯合たる箭を以て、先陣に進む十郎が馬の草別を、筈際射込たれば、馬は屏風をかへすが如く倒けり。
 十郎足を越て、妻手の方に落立処に、武者一人長刀を額に当て飛で懸る。
 十郎不叶と思て、貝吹て逃。
 逃も追も雷の如し。
 十郎希有にして逃延て、馬の陰に息突居たり。
 敵長刀をつかへて扇ひらき仕。
 今日此頃、童部わらんべまでも沙汰すなる上総悪七兵衛景清、我と思はん人々は落合や、大将軍と名乗給ふ判官は如何に、三浦、佐々木はなきか、熊谷、平山は無歟、打物取ては鬼神にも不負と云なる畠山はなきか、組や/\といへ共、名にや恐れけん打て出る者はなし。
 平家方に、備後国住人ぢゆうにんともの六郎と云者あり。
 六十人が力持たりける力士なりければ、大臣殿、判官近付たらば組で海にも入、程隔たらば遠矢にも射殺せとて、船に被乗たり。
 松浦太郎艫取にて、屋島浦を漕廻し/\、判官を伺けれ共便宜を得ず、責ては日の高名を極たる那須与一を成共射殺さばや、組ばやと伺廻けれ共叶ず。
 爰ここに伊勢三郎義盛が郎等に、大胡小橋太と云者有。
 駿河国田子浦にて生立、富士川に習、究竟の水練の上手にて、水底には半日も一日も潜ありきけるが、兵の乗ながら而も軍もせずして漕廻々々するは、大将軍伺やらん、直者にはあらじと危思て、人にも不知、焼内裏の芝築地の陰より、裸になりて犢鼻褌を掻、刀二持て海へ入、敵も御方も是を不知。
 鞆ともの六郎がせがいに立て、己は軍もせず、人の船を下知して、軍はとこそすれ角こそすれと云ける処に、つと浮上て、足を懐いて曳声を出し、海へだぶと引入たり。
 陸にてこそ六十人が力と云けれ共、水には不心得こころえければ、深き所へ引て行、六郎が頸を取、髻を口にくはへて水の底をはひ、源氏の陣の前にぞ上たる。
 判官見給たまひて尋聞給へば、上件の子細を申。
 下﨟なれ共思慮賢とて、鷲造の太刀を給り、世静て後、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのも、武芸の道神妙しんべう神妙しんべうとて、千余石の勧賞あり、誠にゆゝしかりける面目也。
 平家二百にひやく余人よにん船十艘に乗、楯二十枚つかせて漕向へて、簇を汰へて散々さんざんに射る。
 源氏三百さんびやく余騎よき、轡を並て波打際に歩せ出て是を射。
 矢の飛違事は降雨の如し。
 源平の叫音は百千の雷の響くに似。
 平氏は浪に浮みたり、源氏は陸に引へたり。
 天帝空より降、修羅海より出て、互に火焔剣戟を飛せつゝ、三世不休戦も、角やと覚えて無慙なり。
 平家射調れて、船共少々漕返す。
 判官勝に乗て、馬の太腹まで打入て戦けり。
 越中次郎兵衛盛嗣、折を得たりと悦て、大将軍に目を懸て熊手を下し、判官を懸ん/\と打懸けり。
 判官しころを傾て、懸られじ/\と太刀を抜、熊手を打除打除する程に、脇に挟たる弓を海にぞ落しける。
 判官は弓を取て上らんとす。
 盛嗣は判官を懸て引んとす。
 如法危く見えければ、源氏の軍兵あれはいかに/\、其弓捨給へ/\と声々に申けれ共、太刀を以て熊手を会釈ひ、左の手に鞭を取て、掻寄てこそ取て上。
 軍兵等が、縦金銀をのべたる弓也共、如何寿に替させ給ふべき、浅猿あさまし浅猿あさましと申ければ、判官は、軍将の弓とて、三人張五人張ならば面目なるべし、去共平家に被責付て弓を落したりとて、あち取こち取、強ぞ弱ぞと披露せん事口惜かるべし、又兵衛佐ひやうゑのすけの漏きかんも云甲斐なければ、相構て取たりと宣へば、実の大将也と兵舌を振けり。
 小林神五宗行と云者あり、越中次郎兵衛盛嗣が、熊手を似て判官を懸て取んとしけるを、大将軍を懸させじとて、続いて游せたりける程に、事由なく上り給たりければ、盛嗣判官を懸弛て不安思ひ、游艇に乗移り、指寄て宗行が甲の吹返し、熊手をからと打懸て、曳音を出して引。
 宗行鞍の前輪に強く取付て鞭を打。
 主も究竟の乗尻也、馬も実にすくやか也。
 水に浮る小船なれば、汀みぎはへ向舳浪つかせて、ささめかいてぞ引上たる。
 宗行熊手に被懸ながら馬より飛下、貫帯たりけるが、沙に足を踏入つゝ、頸を延て曳々とぞ引たりける。
 盛嗣も大力、宗行も健者、勝劣何れも不見けり、金剛力士の頸引とぞ覚えたる。
 両方強く引程に、鉢付の板ふつと引切、鉢は残て頭にあり、しころは熊手に留りぬ。
 盛嗣船を漕返せば、宗行陣に帰入。
 源平共に目を澄し、敵も御方も感嘆せり。
 判官宗行を召て、只今ただいまの振舞凡夫とは見えず、鬼神のわざと覚えたりとて、銀にて鍬形打たる竜頭の甲を賜はる。
 此甲と云は、源氏重代の重宝也。
 銀にて竜を前に三、後に三、左右に一宛打たれば、八竜と名付たり。
 保元軍に、鎮西八郎為朝の著たりける重代の宝なれ共、命に替んとの志を感じ、強力の挙動神妙しんべう也とて是を給ふ。
 宗行家門の面目と思ひて、畏てぞ立にける。

源平侍共軍附継信盛政孝養事

 大臣殿船中にて是を見給たまひて、能登殿へ被仰けるは、源氏の軍将九郎冠者を、度々目に懸て討外しぬる事、返々遺恨也。
 最前七騎にて寄たりしには、残党に恐て不討留海上に馳入るゝ時は、盛嗣熊手に懸弛ぬ、鍬形の甲に金作の太刀、掲焉装束也、船より上て軍し給へ、相構て九郎冠者を目にかけ給へと宣ふ。
 能登守は返事に、其条は存ずる処に候とて、飛騨三郎左衛門さぶらうざゑもんのじよう景経、同四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同七郎兵衛景清、矢野馬允家村、同七郎高村已下、究竟の輩三十さんじふ余人よにん、船を漕寄陸に上り、芝築地を前にあて後にあて、進退招たり。
 判官日既すでに及晩、夜陰の軍は有憚、只今ただいまの敵は名ある者共と覚たり、列者共一揉揉んとて打立給へば、土肥次郎実平、大将軍度々の合戦軽々敷候、若者共に預給へとて、判官をば本陣に留置、実平先陣に進ければ、子息弥太郎遠平、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、佐々木四郎高綱、金子十郎家忠、渋谷庄司重国、子息馬允重助、渡辺源五馬允眤、伊勢三郎義盛、鎌田藤次光政、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信、片岡八郎為春等を始として、一人当千いちにんたうぜんの者共五十ごじふ余騎よき、轡を並て蒐出づ。
 平家は歩立にて、芝築地より打出て、引詰引詰馬の上を射る。
 源氏は馬上より指当指当落し矢に射る。
 寄つ返つ追つ追れつ、入替入替々々射合たり。
 流るゝ血は砂を染、揚塵は煙の如し。
 源氏手負は陣に舁入、平家討れば舟に運びのす。
 此にして、常陸国住人ぢゆうにん鹿島六郎宗綱、行方六郎、鎌田藤次光政を始として、十余人よにんは討れにけり。
 能登守は心も剛に力も強、精兵の手聞てききなり。
 源氏が懸廻し懸廻して、ちとやすらふ所を見負せて、指詰々々射ける矢に、武蔵国住人ぢゆうにん河越三郎宗頼、目の前に被射て引退。
 次に片岡兵衛経俊、胸板むないた射て引退く。
 次に河村三郎能高、内甲被射落にけり。
 次大田四郎重綱、小かひな射られ引退。
 次に判官乳母子めのとご、奥州あうしうの佐藤三郎兵衛継信は、黒革威くろかはをどしの鎧を著たりけるが、首の骨を被射貫、真逆さまに落たりけるを、能登守童に菊王丸と云者あり、本は通盛の下人成けるが、越前三位討れて後、其弟なればとて此人に付たりけるが、萌黄糸威腹巻に、左右射こてさして、三枚甲居頸に著なし、太刀を抜て飛で懸り、継信が首を取らんとする。
 四郎兵衛忠信立留り、引固て放矢に、菊王丸が腹巻の引合つと被射貫て、一足もひかず覆倒。
 忠信が郎等に八郎為定、小長刀を以開て、童が首を取んと懸る。
 能登守童が頸取れじと、太刀を打振つとより、童が手を取引立て、曳声を出して船に抛入。
 暫しは生べくや有けんに、余り強被投て、後言もせず死にけり。
 忠信は此間に、兄の継信を肩に引懸、泣々なくなく陣の中へ負て入たり。
 判官近く居寄給、いかに継信よ/\、義経爰ここに有、一所にとてこそ契しに、先立る事の悲さよ、如何にも後生をば可弔、冥途の旅心安こころやすく思ふべし、さても何事をか思ふ、云置かしと宣へ共、只涙を流す計にて、是非の返事はなし。
 判官重て、汝心があればこそ涙をば流すらめ、猛兵の矢一に中て、生ながら不言事やはある、左程の後れたる者とは不存者を、今一度最後の言聞せよと宣へば、継信息吹出し、よに苦しげにて息の下に、弓矢取身の習也、敵の矢に中て主君の命に替は、兼て存る処なれば更に恨に非ず、只思事とては、老たる母をも捨置、親き者共にも別れて、遥はるかに奥州あうしうより付奉し志は、平家を討亡して、日本国につぽんごくを奉行し給はんを見奉らんとこそ存しに、先立奉計こそ心に懸侍れ、老母が歎も労しと申ければ、さしも猛武士なれ共、判官涙をはら/\とぞ流し給ける。
 実に思ふも理也、敵を亡さん事は不年月、義経世にあらば、汝兄弟をこそ左右に立んと思ひつるにとて、手に手を取合て泣給へば、継信穴嬉しと、其を最後の詞にて、息絶けるこそ無慙なれ。
 此を聞ける兵共つはものどもも、鎧の袖を絞けり。
 日も西山に傾ける上、判官には多くの郎等の中に四天王とて、殊に身近く憑み給へる者は四人あり。
 鎌田兵衛政清が子に、鎌田藤太盛政、同藤次光政と、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信也。
 藤太盛政は、一谷いちのたににて討れぬ、一人闕たる事をこそ日比ひごろ歎しに、今日二人を失て、今は軍も無為とて、継信、光政が死骸を舁て、当国の武例高松と云柴山に帰給たまひて、其辺を相尋て僧を請じ、薄墨と云馬に、金覆輪の鞍置て申けるは、心静ならば懇にこそ申べけれ共、斯る折節をりふしなれば無力、此馬鞍を以て、御房庵室にて卒都婆経書、佐藤三郎兵衛尉継信、鎌田藤次光政と廻向して、後世を弔給へとて、舎人に引せて僧の庵室に被送けり。
 此馬と云は、貞任がをき黒の末とて、黒き馬の少ちひさかりけるが、早走の逸物也。
 多の馬の中に、秀衡殊に秘蔵也けれ共、軍には能馬こそ武士の宝なれば、山をも河をもこれに乗て敵を攻給へとて、判官奥州あうしうを立ける時、進たる馬也。
 宇治川うぢがはをも渡し、一谷いちのたにをも落せし事此馬也。
 一度も不覚なかりければ、吉例と申けるを、判官五位尉に成りけるに、此馬に乗たりければ、私には大夫とも呼けり。
 片時も身を放じと思給けれども、責ても継信光政が悲さに、中有の路にも乗かしとて被引たり。
 兵共つはものども是を見て、此君の為に命を失はん事不惜とぞ勇ける。
 源氏は武例高松に陣を取、平家は屋島焼内裏に陣を取、源平の両陣三十さんじふ余町よちやうを隔たり。
 源氏は軍にし疲て、箙を解て枕とし、鎧を脱で寄臥たり。
 伊勢三郎義盛ぞ終夜よもすがら夜打もぞある。
 打とけ寝給ふなよ/\と、立渡立渡触れ明しける。
 平家は夜討の評定あり。
 敵は三百さんびやく余騎よきにはよも過じ、今夜は軍に疲し、柴山にこそ臥たるらめ、御方の軍兵一千いつせん余騎よき、足軽に出立て、高松山を引廻し、一人も不漏などか夜討にせざるべきと、此儀可然とて、思々に出立ける程に、美作みまさかのくにの住人ぢゆうにん江見太郎守方と、越中次郎兵衛盛嗣と、先陣後陣を諍程に、其夜も空く明にけり。
 夜討は実に可然かりけれ共、是も平家の運の尽るゆゑなり。
 廿日夜も既すでに暁に成ぬ。
 野寺の鐘も打響、孀烏のうかれ声、旅寝の眠を驚す。
 判官急起直り、軍にはよく疲にけり、暫と思ひたれば早明にけり、いざや殿原よせんとて、七十余騎よきにて、焼内裏の前、平家の陣へ押寄て時の声を発す。
 平家も期したりければ声を合せ、楯つき向て支たり。
 平家には次郎兵衛、悪七兵衛、五郎兵衛、三郎左衛門さぶらうざゑもん等、三十人ばかり歩立に成て、熊手、薙鎌、手鋒、長刀を以て、馬をも人をもきらふ事なし。
 刺たり、突たり、切たり、薙たり、飆つじかぜの吹が如くに狂廻る、面を向べき様もなし。
 源氏には熊谷、平山、畠山と、佐々木、三浦と、土肥、金子、椎名、横山と、片岡等三十さんじふ余騎よき、薙鎌長刀に恐て、馬足一所にとめず、弓手に廻し妻手に馳、指詰指詰、追物射にこそ射たりけれ。
 兵五六人被射伏て、平家こらへず舟に乗て漕出す。
 能登守又二十騎にじつき計船より下、芝築地を木陰として、引取指詰散々さんざんに射ければ、昨日矢風は負ぬ、進者もなし。
 武蔵房むさしばう、常陸房、旧山法師にて、究竟の長刀の上手にて、七八人しちはちにん歩立になり、長刀十文字に採、掃木を以て庭を払が如く薙入ければ、平氏の軍兵十余人よにんなぎ伏たり。
 能登守無下に目近く見えければ、打懸る処に、いぶせくや思はれけん、又船に乗て指出す。
 去さるほどに、大風に恐て留たりける軍兵、跡目に付て屋島の浦に馳来る也。

衛巻 第四十三
湛増同意源氏附平家志度道場詣並成直降人事

 熊野別当湛増法眼は、頼朝よりともには外戚の姨聟也。
 年来は平家致安穏祈祷けるが、国中こくぢゆう悉源氏に志を運。
 湛増一人背ても後難あり、今更平家をすてん事も昔の好を忘に似たり、如何あるべからんと進退思煩ふ。
 所詮非人力、可神明冥覧とて、田部の新宮にて臨時の御神楽を始む。
 神明託巫女曰、白鳩は白旗に付と。
 湛増猶不之、同新宮御前にて、赤は平家白は源氏とて、七番の鶏を合けるに、赤鶏白鶏を見て、一番も不番逃にけり。
 此上は奉神慮とて、熊野三山、金峯、吉野、十津河、死生不知の兵共つはものどもを語集、若一王子の御正体を奉下、榊枝に飾付、日月山端を出るが如し。
 旗紋、楯面には金剛童子を画に顕す、見るに身毛みのけ竪けり。
 兵船二百にひやく余艘よさうを調て、紀伊国田部湊より漕渡て源氏に加る。
 河野四郎通信は、元来源氏に志有ければ、所々の軍に家子郎等多く討れたりけれ共、千余騎よきの軍兵を卒して、伊予国より馳来て勢を合す。
 懸りければ、判官弥力付て、荒手の兵入替々々責ければ、平家遂に被責落て、二十一日の巳刻には、屋島の渚なぎさを漕出て、塩に引れ浪に諍、何を指とはなけれ共、風に任動行こそ悲けれ。
 先帝を奉始て、女院二位殿にゐどの、女房男房宗徒の人々は、讃岐志度へぞ御座おはしましける。
 源氏は屋島軍に討勝て、三箇日逗留して四国の勢を招。
 判官伊勢三郎義盛を召て、河野四郎追討のために、成良が嫡子伝内左衛門尉でんないざゑもんのじよう成直、三千さんぜん余騎よきにて伊予へ越えたり、召捕て進せよと下知す。
 依命起座。
 義盛は究竟の山賊海賊、古盗人の謀賢き男也。
 先下﨟男を一人出し立て、次第脛巾、簔笠に旅籠持て、伝内左衛門でんないざゑもんに伺遇て云べき様委教て、一日路を先立て伊予国へ越。
 義盛は三千騎さんぜんぎを従へんとて、十七騎の勢を具して、一日路さかりて向けり。
 人々嗚呼々々敷思ける。
 成直は河野が館へ推寄たれ共、通信をば漏つ、家子郎等多く討捕、館に火懸て、首をば兼て進り、虜共あまた編連て、屋島もおぼつかなしとて、伊予より讃岐へ帰けり。
 道に夫男に遇。
 伝内左衛門尉でんないざゑもんのじよう、己は何所よりいづくへ通る者ぞと問。
 屋島より伊予へ罷る者にて候と答。
 偖屋島には何事かあると問。
 夫男答て云様は、伊予国河野四郎殿の伯父、福良新三郎殿頸実検くびじつけんの日、源氏九郎判官と名乗て、雲霞の勢屋島の内裏へ押寄て、夥おびたたしき軍にて候しが、源氏の為に内裏を被焼て、平家は船に乗て、下会々々戦給し程に、平家は無勢に御座、源氏は大勢なれば、平家軍に負て、大臣殿父子、小松殿こまつどの公達生捕れ給ぬ、桜間大夫殿だいぶどのは十七日じふしちにち阿波勝浦の軍に虜と披露あり、民部太輔殿みんぶのだいふどのは、軍破て降人に被参けり、其外の人々死るも被捕も、いくらも有と聞え候き、能登殿こそ由々しく御座おはしましけれ、源氏も其手に多く討れて、終には小船に乗て漕出し、海に沈み給ぬとて上下嘆奉候き、東国の勢はさる事にて、熊野別当とて二百艘の兵船を漕、河野四郎殿は、千余騎よきにて屋島へ被馳き、其外五十騎ごじつき百騎、四国九国より馳集て、阿波讃岐の浦々は軍兵にて候。
 判官は暫逗留して、平家の方人を平ぐべしとぞ承つる、其外の事は不知と申て過ぬ。
 伝内左衛門でんないざゑもん此言を聞より、心弱く思て、一所にて何とも成べかりける者を、無由伊予へ越てけり、父降人に参給ける事は、成直を今一度見もし見えん為歟、但下﨟の説不信用、実否を聞んとて馬を打て行程に、讃岐国三木郡、琴造の宮と云所にて、伊勢三郎と伝内左衛門でんないざゑもんと行会たり。
 義盛鐙踏張弓杖つき、あれは伝内左衛門尉でんないざゑもんのじようと見は僻事ひがこと歟、是は源氏の郎等に伊勢三郎義盛と云者也、平家は屋島の軍に負て、内裏以下人々の家々いへいへ皆焼ぬ、大臣殿父子、小松殿こまつどのの公達、恥あるは大底被虜給ぬ、汝が父民部大輔みんぶのたいふは、頸を延て降人に参ず、桜間大夫勝浦にて虜る、此二人義盛預。
 汝が父は降人なれば頸をば可継、桜間大夫は死罪難遁、種々しゆじゆ歎申間、御恩に申かへんと存ず、能登殿こそ由々敷振舞給たりしが、判官殿はうぐわんどの乳母子めのとご佐藤三郎兵衛、鎌田藤次を始として、多の郎等討れぬ、結句舟に乗海に入給ぬ、実の大将軍と覚き、抑汝源氏に可随か、猶意趣あるか、民部大輔みんぶのたいふの降人に参る事、今一度汝を見んとの恩愛の情と存ず、父をも見故郷にかへらんと思はば義盛につけ、命をば可申請、角云をそむき給はば通し侍るまじと云。
 弓取直し矢束を解。
 成直は夫男が詞、義盛口上無相違と思ければ、父左様に参ける上は、成直以て同事とて、弓を弛し甲を脱て義盛に随。
 伊勢三郎申けるは、降人として軍兵を引卒す、不審可相貽と云。
 成直郎等に暇をたび、其より散々ちりぢりに返す。
 義盛謀澄して判官の許へ将向。
 十七騎の勢にて三千さんぜん余騎よきを従る事、古今無類。
 判官は参上神妙しんべう也、成直己が頸をも継で父をも見んと思はば、状を父が許へ音信おとづれよと宣ふ。
 成直畏て状を遣す。
 源平の合戦勝劣雲泥也、後勘有恐、前降源家、早住同心之思、必遂面謁之志と。
 阿波民部成良は、平家の軍如何にも叶べくも不見ければ、心を源氏に懸たりけるに、成直虜れぬと聞ければ、判官に通じて阿波国へ渡ぬ。
 彼国の住人ぢゆうにん等、成良が命を守て皆随属源氏
 此三箇年の間は平家に忠を尽して、度々軍にも父子共に忠を致しけるに、忽たちまちに心替しぬ。
 平家運尽とはいひながら無慙なり。
 二月十七日じふしちにちは阿波勝浦の軍、二十一日には屋島を責落し、二十二日にじふににちには讃岐志度を被攻けり。
 二十三日に梶原已下の兵屋島の渚なぎさに著。
 諍終のちぎりぎの風情なりとて、人皆口をすくむ。
 源氏は讃岐屋島にあり。
 平家は屋島の城じやうを被落、同国志度へ移たりけれども、爰ここをも被攻出て、長門国引島に著。
 如何が有べかるらんとおぼつかなし。
 其をも漕出して、浦伝島伝に落行けり。
 白鳥丹生の社をも漕過て、筑前国箱崎津に著給ぬ。
 九国の輩源氏に心を通じて、彼津をも可責由聞えければ、平家かしこをも出給ぬ。
 何れの所を宿と不定れば、浪と共に諍て、漕れ行こそ哀なれ。

住吉すみよし鏑並神功責新羅附住吉すみよし諏訪並諸神一階事

 元暦二年二月十六日じふろくにち夜の子刻に、住吉社第三神殿より、鏑矢の声出て西を指て出行ぬと、当番の神人、并祝等是を聞由、神主長盛、并権祝有遠奏状を進する。
 賊徒滅亡神兵の力ありと叡信を被垂ければ、御剣已下色々いろいろの幣帛へいはく、種々しゆじゆの神宝即長盛有遠を召て奉進あり。
 昔第十五代帝仲哀天皇てんわうの后、神功皇后じんぐうくわうごうの御宇ぎよう、新羅の西戎我国を背く由聞えければ、皇后可異賊旨、天照太神てんせうだいじんに被申、謹で無懈とて、二人の荒みさきを差副給へり。
 皇后懐胎月満て産月也。
 纜を解給時、御産の気出来給。
 皇后仰云、胎内王子慥に聞しめせ、為妾本朝新羅の異賊を責んとて、遥はるかに海上に浮、若今生給はば、必水中の鱗と成給ふべし、君吾国の主と成て、百王の位に即せ給ふべくば、異賊を随へ、本朝に帰て誕生たんじやうし給へと宣命し給ければ、御産気止りて、異国へ渡り給しに、二人荒みさき艫舳に立て守奉しかば、新羅高麗の西戎を平げて日本につぽんに帰、筑前国にして御産あり。
 其よりして其所を宇美庄と云。
 即宮を造て宇美明神と名く。
 皇子位に即給ふ、応神天皇てんわう是也。
 神と顕給たまひては、宇佐八幡大菩薩はちまんだいぼさつと申。
 二人の荒みさき、一人は摂津国つのくに住吉郡に留給ふ、今の住吉すみよし大明神だいみやうじん是也。
 巨海の浪に交ては水畜を利益し、禁闕の窓に臨では玉体を守護せり。
 社は千木の片殺神寂、松の緑生替、形は皓々たる老翁也。
 幾万世を経給けん。
 一人は信濃国しなののくに諏訪郡に跡を垂、即諏訪明神是也。
 昔柏原天皇てんわう、皇子に沙門開城と申人御座おはしましき。
 是は摂津国つのくに勝尾寺の善仲、善算、両上人に随て、出家受戒の御弟子也。
 金字如法の大般若経を為書写、奉三宝、得清浄水思召おぼしめしけるに、形夜叉の如して、一すくひの水を進むる者あり。
 皇子怪みて、汝何者なにものぞ、此水大清浄也やと問給ふ。
 夜叉答て申さく、我は是信濃国しなののくに諏訪南宮也、八幡大菩薩はちまんだいぼさつの厳命を賜て、西天白鷺池の水を汲、一夜が程に往還来れりと申。
 彼水を硯に入、六箇年の間六百巻を書写せしに、一度入て後、其水終に不尽けり、不思議なりし事也。
 道場建立こんりふし、件の経を安置して、遥はるかに慈尊の出世を待故に、弥勒寺と名けたり。
 水尾天皇てんわう臨幸の時、改寺号勝尾寺と申。
 懸る現人神達あらひとがみたちなれば、新羅征伐之時は、天照太神てんせうだいじんも被差副けるにこそ。
 昔の征伐今の神託、御憑敷ぞ思召おぼしめす
 同三月三日平家追討の御祈おんいのりに、諸国の明神に被一階之由、被宣下けり。
 凡兵革の祈祷、天下安穏をために、諸国の神明に一階を増さらるゝ事、代々之例也。
 仁明天皇てんわうの御宇ぎよう、嘉祥四年正月に、天下諸神不有位無位むゐ、共叙正六位上云官府を被下より以降、朱雀院御宇ぎよう天慶三年正月諸国諸神奉一階、白河院しらかはのゐんの御宇ぎよう、永保元年二月、同奉一階
 崇徳院御宇ぎよう、永治元年七月、同奉一階
 高倉院たかくらのゐんの御宇ぎよう治承四年十二月、同奉一階、仍今度もかように被行けり。

源平侍遠矢附成良返忠事

 平家は屋島をば落ぬ、九国へは入られず、寄方もなく浮宕て、長門、壇浦、赤間、門司関、引島に著て波上に漂、船中に送日給ふ。
 源氏は阿波国勝浦に著。
 所々の軍に討勝て、屋島の内裏を追落し、平家の船の行に任て陸より責追。
 焼野雉の隠なく、鷹の責るに不異。
 源氏は於井津部井津と云所に著。
 平家の陣を去事二十余町よちやう也。
 同三月二十四日、九郎判官義経已下の軍兵、七百しちひやく余艘よさうにて夜の陵晨に責寄す。
 平家待請たり。
 五百ごひやく余艘よさうの兵船を漕向へ、矢合して戦。
 源平両方の軍兵十万余人よにんなれば、互に時を発す声鏑矢の鳴違音、上は蒼天に聞え、下は海底に響らんとぞ驚れける。
 参川守範頼、千葉介常胤、稲毛、榛谷、海老名、中条、相馬、大田、大胡、広瀬、小代、中村、久下、塩谷、三万さんまん余騎よきにて九国地に著、前をきる。
 籠中の鳥出難く、網代ひを免れんや。
 海には船を浮たり、陸には轡並たり、東西南北塞て、漏べき方こそなかりけれ。
 権ごん中納言ぢゆうなごん知盛卿、船の舳に立出て被申けるは、軍は今日を限、各退く心有べからず、自昔至于今まで、軍敗運尽ぬれば、名将勇士も、或路人の為に被獲、或為行客囚、是皆難去死を遁んと思故也、各命を此時に失て、必名を後の世に留よ、東国の奴原にわるびれて見ゆな、何の科にか命をも可惜、心を一にして義経を取て海に入よ、今度の合戦の執心此事にありと被申ければ、近く候ける武蔵三郎左衛門さぶらうざゑもん有国、各此仰奉れやと申。
 悪七兵衛景清が、中坂東の者共は、馬上にてこそ口は聞候へ共、船軍は未練なるべし、只魚の木に登らん如くなるべし、必失寸歩弓箭、一々に取て海に入なんと申。
 由々敷ぞ聞し。
 越中次郎兵衛盛嗣申けるは、九郎冠者が軍将として上ると承し間、縁に付て其様を尋聞しかば、面長して身短く、色白して歯出たり。
 身を窄してよき鎧をきず、日々ひび朝夕に物具もののぐを替ふと云き、得其意くまん/\と申。
 人々口々に、九郎は心こそ猛共、勢が小あるなれば、其冠者何事か有べき、目にかれてんには寄合、片脇に掻挟でつと海へ入なんと申。
 伊賀平内左衛門へいないざゑもん家長は、あゝ世は不思議の事哉、金商人が従者して奥州あうしうへ下たりける者が、源氏の大将軍して、君に向ひ進矢を放事よ、御運の尽させ給ふと云ながら、口惜事哉とてはら/\と泣。
 権ごん中納言ぢゆうなごん知盛卿、大臣殿の前へ進で被申けるは、今日の合戦兵の景気勇ありて見え候、但成良は一定心替したりと覚ゆ、頸を切侍ばやと宣へば、大臣殿は、そも実否を聞定てこそ、若僻事ひがことならば不便也とて不詳ければ、度々被諌申成良を召。
 木蘭地直垂に、洗革の冑著て、大臣殿の前に蹲踞せり。
 成良こそ先々の様に事をもおきてね、今日はわるびれて見ゆ、若臆し侍るか、四国の者どもに軍よくせよと下知すべしと被仰ければ、なじかは臆し侍べきとて立ぬ。
 知盛卿は太刀の管に手を懸て、頸を打ばやと思召おぼしめしけれ共、免し給はねば力なし。
 肥後国住人ぢゆうにん菊地次郎高直、原田大夫種直等は、平家に相従たりければ、三百さんびやく余艘よさう先陣に漕向へ、弓の上手大矢共をそろへて散々さんざんに射ければ、源氏の兵多く討れて舟共指退。
 平家は勝ぬとて、阿波国住人ぢゆうにん新居紀三郎行俊、唐鼓の上にのぼりて、責鼓を打てののしりけり。
 判官は軍負色に見えければ、塩瀬の水に口を漱、目を塞て合掌、八幡大菩薩はちまんだいぼさつを祈念し奉る。
 加神明擁護をうご給、白鳩二羽飛来て、判官の旗の上にぞ居たりける。
 源平共にあれ/\と云程に、東の方より一村の黒雲たなびき来て、軍場の上にかゝる。
 雲中より白旗一流おり下て、判官の旗頭ひらめきて雲と共に去ぬ。
 源氏は合掌拝之、平家は身毛みのけ竪て心細く覚しける。
 源氏の軍兵等、此等の霊瑞を拝ければ勇ののしりて、或船に乗移て、漕寄々々戦者もあり。
 或は陸を歩せて、指詰々々射者もあり。
 強弓つよゆみ精兵矢継早の手だり共、不劣不負と散々さんざんに射ければ、平家乱合て戦、勝劣更に不見。
 三浦平太郎義盛、船には不乗浦路を歩せ、敵の舟をさしつめ/\射けるこそ物に当るも健く、遠も行けれ。
 前権ごん中納言ぢゆうなごん知盛卿乗給へる船、三町さんちやう余を隔て澳に浮ぶ。
 三浦義盛十三束二伏の白箆に、山鳥の尾を以矯たりけるを、羽本一寸ばかり置て、三浦小太郎義盛と焼絵したりけるを、能引て兵と放つ。
 知盛卿の舷に立て動けり。
 中納言此矢を抜せて、舌振して立給へり。
 三浦は遠矢射澄したりと思て、鐙踏張弓杖つき立上つて、扇をひらいて平家を招。
 其矢射返せとの心也。
 中納言是を見給たまひて、平家の侍の中に、此矢可射返者はなきかと被尋けるが、阿波国住人ぢゆうにん新居紀四郎宗長、手は少し亭なれ共、遠矢は四国第一とて被召たり。
 宗長三浦が箭をさらり/\と爪遺て、此箭箆姓弱矢つか短し、私の矢にて仕侍べしとて、黒塗の箭の十四束なるを、只今ただいま漆をちと削のけ、新居紀四郎宗長と書付て、舳屋形へやがたの前ほばしらの下に立て、暫固て兵と放つ。
 三浦義盛が弓杖に懸けて居たりける甲の鉢射削、後四段計に引へたる三浦石左近と云ふ者が、弓手の小かひな射通す。
 源氏軍兵等、嗚呼、義盛無益して遠矢射て、源氏の名折ぞ/\と云ければ、判官宗長が矢を取て、これ返すべき者やあると被尋ければ、土肥次郎実平が申けるは、東八箇国には此矢に射勝べき者不覚、甲斐源太殿の末子に、浅利与一殿ぞ遠矢は名誉し給たると挙す。
 さらば奉呼とて招寄。
 判官宣のたまひけるは、三浦義盛遠矢射損じて、答の矢被射たり、時の恥に侍、其返給ひなんやといはれければ、与一は宗長が矢を取て、さらりさらりと爪遣て、此は箆誘も尋常に、普通には越侍、但遠忠が為には不相応、私の具足にて仕べしとて判官の前を立。
 其そのの装束には、魚綾の直垂に、折烏帽子をりえぼしを引立て、黄河原毛馬に、白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。
 白木弓の握太なるを召寄て、白篦十四束二伏に誘たる、切府に鵠の霜降破合て矯たる征矢一手取り添て、遠矢の舟はいづれぞと問。
 舳屋形へやがたの前に扇披きつかひて、鎧武者の立たる船と教ふ。
 遠忠能引固て兵と放つ。
 宗長が遠箭射澄たりと存て、ほばしらにより懸り、小扇ひらき仕ける鎧のむな板むないたかけずつと射とほし、其矢はぬけて海上五段計にさと入。
 宗長ほばしらの本に倒る。
 其後源平の遠矢はなかりけり。
 三浦義盛遠矢射劣て、此恥を雪んと思、小船に乗、楯突向て漕廻々々、面に立平家の侍共、差詰々々射倒す。
 元来精兵の手だりなれば、簇に廻者なし。
 源氏方に斉院次官親能と名乗ののしり懸て戦ふ。
 平家方には誰とは不知武者一人、舷に立て、あゝ親能は右筆ばかりは取も習たるらん、弓矢の道は不知者をと云たりければ、敵も御方もはつと笑。
 親能赤面してぞ侍りける。
 源氏は大勢也、勝に乗て攻戦。
 平家は小勢也、今日を限と振舞けり。
 帝釈修羅の闘諍、争かこれには勝るべき。
 平家は船を二三重に構たり。
 唐船には、軍将の乗たる体にて軍兵を乗たり。
 兵船には大臣殿已下、可然人々被乗たり。
 源氏軍将の唐船を攻ん時、兵船源氏の船を指廻して、中に一人も取籠不洩うたんとの謀也。
 民部大輔みんぶのたいふ成良は、さしも平家に忠を致しか共、忽たちまちに心替して、四国の軍兵三百さんびやく余艘よさう漕却て、軍の見物して居たり。
 平家強らば源氏をいん、源氏勝色ならば平家を射んとぞ強健たる。
 天をも可度地をも可度、只不度は人の心と、誠哉成良。
 源氏、海には櫓械を並て兵船数を不知、陸には轡を並て其そのせい雲霞の如。
 平家如何にも難叶見えける上、子息伝内左衛門でんないざゑもんが事も悲ければ、成良判官へ使を立て申けるは、唐船には、大将軍の乗たる様にて軍兵を被乗たり、兵船には、大臣殿已下の公達召れたり、唐船を責させて、源氏を中に取こめんと支度し侍、御意有べき中言して、成良が一類、相従四国の者共、三百さんびやく余艘よさう漕寄つゝ、指合て平家を射。
 成良は心替者なり、頸を切ばやと中納言のよく宣のたまひける者をと、大臣殿後悔し給けれ共云がひなし。

知盛船掃除附占海鹿並宗盛取替子事

 〔去さるほどに、〕源氏の兵共つはものどもいとゞ力を得て、平家の船に漕寄々々乱乗。
 遠をば射近をば斬、竪横散々さんざんに責。
 水手かんどり、櫓をすて梶を捨て船を直すに及ず、被射伏切伏、船底倒れ水の底に入。
 中納言は、女院二位殿にゐどのなどの乗給へる御船に参られたりければ、女房達にようばうたち、こはいかに成侍ぬるぞと宣のたまひければ、今は兎も角かくも申にことば不足、兼て思儲し事也、めづらしき東男共をこそ御覧ぜんずらめとて打笑給。
 手自船の掃除して、見苦き物共海に取入、こゝ拭へかしこ払へなど宣ふ。
 さほどの事に成侍なる閑なるに戯言哉とて、女房達にようばうたち声々をめき叫給。
 此に海鹿と云大魚二三百もやあるやらん、塩ふき立て食て来る。
 安部晴延と云小博士を召て、いかなるべきぞと尋給ふ。
 晴延占文披いて、此海鹿食返ば源氏有疑、食通ば御方に無憑と申けるに、此魚一も不食返。
 平家の船の下をついくぐり、ついくゞり食て過ぬ。
 小博士今はかう候とて、涙をはら/\と流ければ、人々声を立てぞをめき給ふ。
 二位殿にゐどのは今を限にこそと聞給ければ、宗盛は入道大相国たいしやうこくの子にも非ず、又我子にもなし、されば小松内府が心にも似ず、思おくれたるぞとよ、海に入自害などもせで、虜れて憂目などをや見んずらん、心憂こそ覚れとぞ宣のたまひける。
 宗盛、入道の子に成ける故は、二位殿にゐどの重盛しげもりを嫡子に儲て後、又懐妊したりけるに、入道、弓矢取身は男子こそ宝よ、嫡子に一人あれば心苦、必弟儲て給へ、とぎにせさせんと云。
 二位殿にゐどのなのめならず仏神に祈申、月満じて生れたれば女子也、音なせそ如何がせんとて、方々取替子を尋ける程に、清水寺の北坂に、唐笠を張て商ふ僧あり。
 憖なまじひに僧綱そうがうに成たりければ、異名に唐笠法橋と云ける者が許に、男子を産たりけるに取替つゝ、入道に男子儲たる由告たれば、大に悦で、産所もはてざりけれ共、嬉さには穢事も忘て女房の許に行、あゝ目出々々とぞ悦給ける。
 入道世に有し程は、露の言葉にも出し給はず、壇浦にてぞ初角語給ける。

二位禅尼入海並平家亡虜人々附京都注進事

 二位殿にゐどの今は限と見はて給にければ、練色の二衣引纏、白袴のそば高く挟て、先帝を奉懐、帯にて我身に結合進せ、宝剣を腰にさし、神璽を脇に挟て艇に臨給。
 先帝は八にぞ成せ給ける。
 御年の程よりはねびとゝのほらせ給たまひて、御形あてにうつくしく、御髪黒くふさやかにして、御背に懸給へる御貌、無類ぞ見えさせ給ける。
 御心迷たる御気色おんきしよくにて、こはいづこへ行べきぞと被仰けるこそ悲けれ。
 二位殿にゐどのは兵共つはものどもが御船に矢を進せ候へば、別の御船へ行幸なし進せ候とて、
  今ぞしる御裳濯河の流には浪の下にも都ありとは
と宣のたまひもはてず海に入給ければ、八条殿同つゞきて入給にけり。
 国母建礼門院けんれいもんゐんを始奉て、先帝御乳母おんめのと、帥典侍そつのすけ、大納言典侍だいなごんのすけ已下の女房達にようばうたち、船の艫舳に臥まろび、声を調て叫給も夥おびたたし。
 軍喚にぞ似たりける。
 浮もや上らせ給と暫しは見奉けれ共、二位殿にゐどのも八条殿も、深沈て不見給
 昔は一天の主として、殿をば長生と祝、門をば不老と名けしか共、今は雲上の竜下て、忽たちまちに海中の鱗と成給こそ悲けれ。
 哀哉花に喩し十善の御粧、無常の風に匂を失ひ、悲哉月に瑩し万乗の玉体、蒼海の浪に影を沈御座事を。
 無常元来定なし、有待誰かは恃有なれ共、清涼紫宸の玉台を振棄て、闘戦兵革の船中に行幸して、未十歳にだにも満せ給はぬ御齢に、忽たちまちに波の底に入給けん、哀と云も疎也。
 女院は後奉らじと、御焼石と御硯の箱とを左右の御袂おんたもとに宿し入、御身を重くしてつゞきて海に入せ給たまひけるを、渡辺源次兵衛尉番が子に、源五馬允眤と云者、急飛入て奉潜上けるを、眤が郎等熊手を下て御髪をから巻て御船へ引入奉。
 弥生の末の事なれば、藤重の十二単の御衣を召れたり。
 翡翠の御髪より始て、皆塩垂御座ぞ御痛しき。
 帥典侍そつのすけも同飛入給けるを、衣のすそと御袴とを舷に射付られ給たまひて、沈み遣給はざりけるを、源次兵衛番奉取上
 眤はもしやの時とて、鎧唐櫃の底に持たりける唐綾の白小袖一重取出して女院に進たりけるぞ、夷なれ共情あり。
 眤は近くは不参寄、程を隔畏て、君は女院にて渡らせ御座かと、度々尋申ければ、御覧じ馴ぬ夷の有様ありさま、恐しく思召おぼしめしけれ共、御言をば出させ給はず、二度打うなづかせ給けり。
 眤御船を漕て、女院をば判官の船に渡入奉。
 近衛殿このゑどのの北政所きたのまんどころも、海へ飛入せ給けるを、人々取留奉。
 判官伊勢三郎義盛を以、海には大事の人々入せ給たるを、取上進せたらん者共、狼藉仕るなと下知しければ、義盛小船に乗て触廻。
 此彼より女房達にようばうたちをば判官の船へ送渡奉る。
 兵共つはものども先帝の御船へ乱入て、大なる唐櫃の鎖ねぢ破、中なる箱を取出し、箱のからげ緒切解て、蓋をあけん/\としければ、忽たちまちに目眩鼻血たる。
 平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやう見給たまひて、内侍所の御箱也、狼藉也と宣へば、判官是を聞て制止を加ふ。
 武士共御船を罷出ぬ。
 即平へい大納言だいなごんに申て、如元御唐櫃に奉納入
 末代といへ共かく霊験の御座こそ目出けれ。
 神璽は海上に浮給たりけるを、片岡太郎経春取上奉る。
 前左馬頭さまのかみ行盛は其盛子、前左少将有盛は小松大臣の息男、共に太政だいじやう入道にふだうの孫也。
 同船して御座おはしましけるが、軍の様今を限と思ければ、甲を脱捨鎧の袖切落、身軽して舷に進み出、有盛先陣に在て源氏の兵と射合けり。
 行盛は暫最後所作と覚くて、船の舳頭にして、提婆品をぞ読給ふ。
 一品既すでに終ければ、西に向て廻向して、有盛と立並、簇をそろへて射けるにこそ数の兵も亡びけれ。
 熊井太郎忠元、江田源三弘基已下の輩、舟を押廻て両方より乗移ければ、行盛、有盛弓をば棄、剣を抜、不心不いのちををしまず艫舳に廻て散々さんざんに戦、首をならべて討死してぞ亡にける。
 勇兵の振舞尤くぞ覚ける。
 行盛提婆品を読給たまひける事は、父基盛大和守に任じて上洛時、宇治河うぢがはのはたに下て、水練して游けるに、水に流て死けり。
 其後基盛の女房夢に見えけるは、我思かけず宇治左大臣頼長の為にとられて河の底に沈ぬ、法華経ほけきやうにあらずば得道しがたし、追善には提婆品読誦どくじゆ書写して廻向せよと見えたりければ、此夢を阿翁入道殿にふだうどのに語たれば、不便なりとて福原の経島に御堂を立て、八人はちにんの持経者を置て、毎日に法華経ほけきやうを転読し、殊に提婆品をば極信に被読けり。
 行盛其此は幼少也、成人して是を聞、毎日に不懈此品をよみ給けるが、今日は未読給はざりけるやらん、又今を最後と思召おぼしめしけるにや、最貴哀にぞ覚えける。
 源氏の郎等に後藤三範綱は、平家の船に飛入て、弓をば捨て打物抜て走廻けるを、越中次郎兵衛盛嗣、寄合組で重り、上に成下になり、船中を五ころび六ころびしければ、互に刀を抜隙もなかりける処に、盛嗣を助とて悪七兵衛景清、範綱をばさしてけり。
 前能登守教経は、元来心剛に身健にして、有進事退事
 軍敗ぬと見えければ思切、死生不知に振舞。
 是ぞ聞ゆる能登守とて、我先我先にと諍て懸けれ共、少も面も振ず戦。
 矢ごろに廻者をば指詰々々指詰射けるに、更にあだ矢なし。
 近付者をば引寄、提て海へ抛入ければ、面を向がたし。
 太刀にて切は少く水にはまるは多し。
 前中納言知盛卿是を見て、由なき事し給者かな、此輩は皆歩兵にこそ侍める、強に目にたて給べきにあらず、自害をもし給へかしと宣へば、偖は九郎冠者に組とにこそ、其は存る処也。
 如何がはせんと伺廻処に、判官の船と能登守の船と、すり合て通りけり。
 能登守可然とて、判官の船に乗移、甲をば脱棄大童になり、鎧の袖草摺ちぎり捨、軽々と身を認て、何れ九郎ならんと馳廻る。
 判官兼て存知して、兎角違て組じ/\と紛れ行。
 さすが大将軍と覚て、鎧に小長刀突て武者一人あり。
 能登守懸目て、軍将義経と見るは僻事ひがこと歟、故太政だいじやう入道にふだうの弟、門脇かどわきの中納言ちゆうなごん教盛の二男に、能登守教経と名乗、にこと笑飛懸る。
 判官は組では不叶と思て、尻足踏でぞやすらひける。
 大将軍を組せじとて、郎等共らうどうどもが立隔々々しけれ共、除奴原人々敷とて、海の中へ蹴入取入つと寄。
 既すでに判官に組んとしければ、判官早態人に勝たり、小長刀を脇に挟み、さしくゞりて、弓長二つばかりなる隣の船へつと飛移、長刀取直て、舷に莞爾と笑て立たり。
 能登守は力こそ勝たりけれ共、早態は判官に及ねば、力なくして舟に留あゝ飛たり/\と嘆。
 其後能登守、今を限と狂廻ければ面を向難し。
 爰ここに安芸太郎時家と云者あり。
 是は安芸国住人ぢゆうにんにもなし、安芸守が子息にも非ず、阿波国住人ぢゆうにん安芸大領と云者が子也。
 三十人が力持たりと聞ゆ。
 郎等二人あり、同三十人づつ力あり。
 時家二人の郎等に云けるは、我等われら三人心を一にしてくまんには、鬼神と云共負まじ、能登殿強しと云共、やは三人には勝給べき、三人取つて合すれば九十人が力也、私の力態は人の証拠にたゝず、能登守に組で力をも人に知せ、剛の名をも極めんと思ふは如何にといへば、郎等子細にや及べきとて、三人一度に傾しころをかたぶけ打て懸る。
 能登守は、源氏の郎等に名もあり力あればこそ教経には懸るらめ、是ぞ軍の最後なると思ければ、閑々しづしづと相待処に、三人鼻を並透間もなくつと寄。
 一人をば海中へたふと蹴入、二人をば左右の脇に掻挟で、一凍々て、いざおのれら教経が御伴申せ、南無なむ阿弥陀仏あみだぶつ/\あみだぶつとて海の底へぞ沈ける。
 異説には自害云云。
 宗盛公、子息清宗二人は海にも入ず自害をもせず、船中を兎違角違々行給ければ、侍共余に悪く思て、通様にて海に奉突入
 人は鎧の上に碇を置、冑の上に鎧を重て、身を重してゐればこそ沈むに、是はすはだにて、而も究竟の水練也。
 清宗は父沈給はば我も沈んとおぼし、宗盛は子沈ば我も沈んと思て、二人ながら沈ず、竪ざま横ざま立游、犬游して沈み給はざりけるを、伊勢三郎義盛船を押寄せて、右衛門督うゑもんのかみを熊手に懸て引上。
 大臣殿此様を見て、態義盛が船近く游寄て、被取上給にけり。
 飛騨三郎左衛門さぶらうざゑもん景経見是て、何者なにものなれば我君をば奉取ぞと云て、太刀を抜て打てかゝる処に、義盛が童主を不討と中に隔り戦けるが、童一の刀に甲を被打落て、二の刀に頸を切落されぬ。
 即義盛に打懸。
 危見えけるに、堀弥太郎親弘固て放矢に、景経が内甲を射。
 ひるむ処を親弘弓を捨て得たりと懐く。
 上になり下になりころびける処を、親弘が郎等落合て、景経が首をとる。
 此三郎左衛門さぶらうざゑもんと云は、大臣殿の乳母子めのとご也。
 目の当見給へば、さこそ悲く覚しけめ。
 前さきの内大臣ないだいじん宗盛は、苟も為征夷之将、忽囚匹夫之手、永懸そしり於万人之唇、独残恥於累祖之跡、無慙と云も疎也。
 前修理しゆりの大夫だいぶ経盛卿は、船を遁去て入南山、自害して被堀埋にけり。
 去難不死、骨を埋共、不名。
 前平中納言教盛、同新中納言知盛卿は、一所に御座おはしましけるが、伊賀平内左衛門へいないざゑもんを被召て、いかに家長見るべき事は見つ、先帝を始進せて、一門の人々自害し海に入ぬ、今までも角あれば、強面命を惜むに似たり、大臣殿は如何に成給ぬるやらんと問給。
 家長涙を流して、大臣殿右衛門督殿うゑもんのかみどの二人は、一度に海に入給たりつるを、敵熊手にかけ奉て、二所ながら引上取進せ候ぬ、景経も討死候ぬと申ければ、知盛卿は穴心憂、など深は沈給はざりけるぞと二度宣て、涙をはら/\と流て、今は何をか可見聞、家長日比ひごろの約束はいかにと仰られければ、今更君に離奉て、いづちへ行べきに候はず、御伴なりと申せば、知盛卿余に嬉しげに思て、平中納言教盛卿のりもりのきやうと冑脱捨て、西に向念仏申て、両人被自害ければ、有国家長已下侍八人はちにん、同枕に自害して伏ぬ。
 知盛卿は不猛将之聞、教盛卿のりもりのきやうは不武勇之名、共亡命於西海、互伝誉於東路たる。
 一説云、知盛、教盛両人は、腹巻の上に鎧を著、身を重して手を取組、海に入給ければ、侍共八人はちにん同続て入にけり。
 源氏の兵共つはものども哀とみる処に、年三十計の男の、木蘭地直垂に黒糸威くろいとをどしの腹巻に、二所籐の塗籠たる弓の真中取、甲をも著ず箙も負ず、矢二三執添て、赤銅作の太刀帯て、中納言の海へ入給へるせがいへつと出来、海を睨て立たり。
 源氏其意をば不知、目を澄て是を見、あはれよき侍共をば召仕給ける者哉、或ひは虜、或海に沈て、主は一人もなけれ共、事に遇べき事様也、何者なにものに目を懸伺居たるらんと私語ささやき見けれども、近付寄者なければ、仕出せる事はなし。
 良久海を睨て後、弓矢をざぶと投入つゝ、我身も海につと入、又も浮まで沈にけり。
 こは何としつる事ぞと、取々不審を成けるに、或人の申けるは、此者は一定中納言の侍なり、中納言さる謀賢人にて、身をばよく認て入たりとも、若浮上事もあらば、敵の手に懸ずして汝射殺と約束せられたりけると覚る。
 大臣父子沈もやらで、敵に虜れ給へるをも心憂こそ覚しけめ、さればこそ主の入たる処を睨で、別に子細はなくして共に海には沈らめ。
 哀此人に世を譲たらば、たとひ運の極也とも、都にて如何にも成給なましと、惜まぬ者はなかりけり。
 赤旗赤符海上に充満て、紅葉を嵐の吹散したるが如し。
 海水も血に変じて、渚々に寄波、薄紅にして流ける。
 主を失へる船は、風に随塩に引れて、越路の雁行を乱れるが如、膚を離たる衣は、水に浮波に諍て、蜀江の錦色を洗かと疑る。
 玉楼金殿の昔の栄花、船中の浪の底、今の有様ありさま、思並て哀なり。
 元暦二年の春の暮、如何なる年如何なる日ぞ、一人海底に沈、百官水泡と消ゆ。
 豊後国八代宮の神主に、七郎兵衛尉某と云者父子は、平家に被催軍しける程に、壇浦の軍敗て遁べき方なし、自害をせばやと思て、子息の大夫を招て、平家ははや亡ぬ、我等われら囚〔びと〕に成なば一定可誅、旧里に帰今一度妻子をも見ばやと思、又可自害歟それ計へと云。
 子息大夫申けるは、我等われら必しも平家重代の侍に非、又心より発て軍せず、十善帝王御座とて、被駈催一旦参ず、強に罪深からず、只旧里に返退て、無あやまりなき由を陳じ申給へ、但只今ただいま舟を漕行ば、落人とてよも不生、年来の水練此時にあり、水底を游給へと云。
 可然とて鎧物具もののぐ脱棄て裸に成、褌かき、父子共水底に飛入て、豊前国柳浦を志て游行。
 門司が浦より柳浦までは、海の面五十ごじふ余町よちやうの処也。
 今二十町計不行著して、父の兵衛尉子息大夫を呼返して云、去共と思つれ共、我左の足を引入/\する者あり、今は故郷に游著ん事難叶、去ばこそ汝にも游後ると云。
 大夫は疲給たるにこそ、何物なにものかは足を引侍べき、只我肩に懸給へといへば、我身こそ死ぬ共、汝をさへ沈めん事不便也、如何にも足が重ければ叶はじと云へば、大夫水底に入て足を捕て見れば、余に周章あわてて、髄当の片方の緒をば解て、今片方を不解けるが、水にしとみて重かりけり。
 引切て角といへば、さては游んとて、二時計に柳浦へ游上る。
 宿所に帰て妻子を見悦事極なし。
 世静て鎌倉に下陳じ申ければ、難遁罪科なれ共、社官に被咎行事、思へば神慮難量とて、八十五町の神田相違なく、如元被神主職罷下にけり。
 平家亡て、猪俣近平六と、常陸の八田左衛門知家と乗たる船の本へ、つきうす一つゆられ来。
 機嫌なしと笑けるに、近平六、平家の臼と見ゆる也けりと云。
 八田知家、年来の憑も今はつきはててと付、人々興に入てぞ笑ひける。
 同四月四日、九郎判官義経合戦の次第注進して、以飛脚ゐんの御所ごしよへ奏申けり。
 注進状には、去三月廿四日午刻、於長門国壇浦、平氏悉討取、大将軍前さきの内大臣ないだいじん已下虜、神璽、内侍所、無為可帰入御座、宝剣厳島神主景弘仰、探求海底、虜人、建礼門院けんれいもんゐん、若宮冷泉局、大納言典侍だいなごんのすけ、帥典侍そつのすけ、前さきの内大臣ないだいじん、前平中納言時忠卿ときただのきやう、前右衛門督うゑもんのかみ清宗卿、前さきの内蔵頭くらのかみ信基朝臣、前左中将時実朝臣、前兵部少輔尹明、蔵人大夫親房、全真僧都そうづ、能円法師、自害人、前中納言教盛卿のりもりのきやう、同知盛卿、前修理しゆりの大夫だいぶ経盛卿、〈 登山自害掘埋 〉前能登守教経、戦死者、前左馬頭さまのかみ行盛朝臣、前左少将有盛朝臣、入海中人、先帝、准后、八条局、侍虜、美濃守則清、左衛門尉さゑもんのじよう信康、阿波民部大輔みんぶのたいふ成良、降人、前安芸守景弘、〈 厳島神主 〉民部大輔みんぶのたいふ景信、雅楽助貞経、〈 貞能さだよし男 〉伝内左衛門尉でんないざゑもんのじよう則長、矢野右馬允家村、同舎弟しやてい高村、相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん熊代三郎家直とぞ注し申たりける。
 法皇大に有御感、貴賎悦あへり。
 使節広綱を御坪に召れて、合戦の次第委有御尋おんたづね
 叡感の余り広綱左兵衛尉に補す。
 同日に徳大寺とくだいじの内大臣ないだいじん定実、院ゐんの御所ごしよ六条殿へ被参たり。
 以大蔵卿おほくらのきやう泰経卿、神鏡神璽は無為に御座。
 宝剣は厳島神主仰景弘、探求海底之由、義経言上す。
 虜前さきの内大臣ないだいじん已下の罪科、何様に可行哉と被仰下ければ、実定畏て、璽鏡事、弁官并近衛司等を雖指遣、定て及遅怠歟、先為軍将沙汰、奉淀辺事由を奏せば、供奉人等参向して奉迎之条可宜歟、生捕の輩が罪の所致、唯可叡慮かとぞ被申ける。
 同五日猶依御不審、北面下﨟に、藤判官信盛を西国さいこくへ被下遣
 信盛宿所に不帰、鞭を上て急馳下る。
 権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう北方伝聞給たまひては、賢ぞ身抛給ける、つひの別は同事と云ながら、今迄もながらへて角聞なさば、如何計かは悲しからましと、今こそ思知れけれ。
 奉建礼門院けんれいもんゐん、北政所きたのまんどころ、帥典侍そつのすけ、大納言典侍だいなごんのすけ以下、或は討れ或は捕れたる人々北方、上﨟下﨟船底に臥まろび、声を調てをめき叫給へり。
 人目をも見ぬ人々の、不見馴武士の手に懸て、都へ帰上給しは、王昭君が夷の手に被渡て、胡国へ行し悲さも、争か是には勝るべき。
 抑依諸国七道合戦、公家も武家も騒動し、諸寺諸山も破滅す。
 春夏は旱魃して、秋冬は大風洪水、適雖東作之業、終不西収之勤、三月無雨、寒風起麦黄不秀、多横はる。
 九月に霜降て、秋早寒ければ、秋の穂不熟して青苗皆乾、兵乱打つづきて、口中の食を奪取ば、天下の人民及餓死
 僅命を生たる者も、譜代相伝の田地を棄、恩愛慈育の子孫にわかれ、家を出ても身を助けんと逃隠、境を越ても命を生んと迷行ければ、浪人街くにさすらひ、愁の音こゝかしこに充満たり。

安徳帝不吉瑞並義経上洛事

 此帝をば安徳あんとく天皇てんわうと申て、御位を受させ給たまひて、様々の不思議御座おはしましけり。
 受禅の日は、昼御座御茵の縁、犬食損、夜の御殿の御帳の中に鳩入籠り、御即位の時は、高御厨子の後に、女房俄にはかに絶入し、御禊ごけいの日は、白子帳の前に夫男上居き。
 惣じて御在位三箇年の間に、天変地震打続て無隙、諸寺諸山よりさとしを奏する事頻也。
 堯の日光を失、舜の雨潤なし。
 山賊、海賊、闘諍、合戦、天行、飢饉、疫病、焼亡、大風、洪水、三災七難残事なし。
 貞観の旱、永祚の風、承平の煙塵、正暦の疾疫、上代にも有けれ共、彼は其一事計也。
 此御代の様は不伝聞、御裳濯河の御流、懸るべしやと人傾申けり。
 漢高祖は太公の子、秦王を討て即位、秦始皇しくわうは呂不韋が子、荘襄王の譲を得、舜王は瞽そうが息堯王天下を任たり。
 人臣の位を受、猶以帝位を全せり。
 先帝は人皇八十代帝、高倉院たかくらのゐんの后立の皇子に御座おはしませば、天照太神てんせうだいじんも定て入替らせ給、正八幡宮しやうはちまんぐうも必守護し奉るらんに、いかに角は申けり。
 是を聞人云、異国には実にさる様し多し、我朝には、人臣の子として位を践事なし、此帝高倉院たかくらのゐんの后立の皇子と申ながら、故清盛きよもり入道にふだう、天照太神てんせうだいじんの御計をも不知、高倉院たかくらのゐんの御恙もましまさぬに御位を奉退、推て奉即位
 其身帝祖といはれ、非摂政せつしやう関白くわんばく、恣に天下を執行、君をも臣をも蔑如にし、諸寺仏閣焼払やきはらひ、上下男女多亡しかば、人の歎神の怒、末の露もとのしづくに帰る様に、平家の悪行君に帰し、天地の心にも違、冥慮の恵にも背にあり。
 不位之不一レ貴、而患徳之不一レ崇、不禄之不一レおほからざるを、而恥智之不一レ博云といへり。
 先帝も猶帝徳の至ましまさゞりけるを、入道横に計申たれば、懸る不思議多して天下も不治、終に亡御座おはしましけりとぞ申ける。
 同おなじき十六日じふろくにち、九郎判官義経虜の人々を相具して、播磨国明石浦に著。
 名にしおふ名所なる上、今夜はことに月隈なくさえつゝ秋の空にも不劣、深行儘に女房達にようばうたち頭さしつどへて、旅寝の空の旅なれば、夢に夢見る心地にて、終夜よもすがら打まどろむ事もなし。
 唯顔に袖を当て、忍音をのみぞ泣れける。
 時忠卿ときただのきやうの北方帥典侍そつのすけ、つく/゛\と泣明し給にも、
  雲の上に見しに替ぬ月かげの澄に付ても物ぞ悲き
 判官情ふかき人にて、
  都にて見しに替らぬ月影の明石浦に旅ねをぞする
と。
 帥典侍そつのすけは、妹背の契の悲さに、思残す事もおはせず、時忠卿ときただのきやうも虜れて程近く御座なれ共、相見る事もなければ、昔語も恋しくて、
  詠ればぬるゝ袂たもとにやどりけり月よ雲井の物語ものがたりせよ
と、時忠卿ときただのきやうも、身は所々に隔たれ共、通ふ心なりければ、
  我思おもふ人は波路を隔てつゝ心幾度浦つたふらん
と、二人の心中被推量て哀なり。
 昔北野天神の移され給ふとて、此所に留給たまひ、
  名にしおふ明石の浦の月なれど都よりなほ雲空哉
と詠じ給たまひける御心の中、帥典侍そつのすけの、月よ雲井の物語ものがたりせよの心の中、取々に哀也。
 故郷に還上る事の嬉しかるべけれ共、指も眤まじき人々、多は水の底に入ぬ。
 適生残たるは此彼に被誡、憂名を流す。
 縦都に上たり共、家々いへいへは一年都落に焼ぬ。
 何処に落留誰育べきに非ず。
 雲上の昔の楽、旅枕の今の歎、思も並て、月よ雲井物語ものがたりと口ずさみ給たまひて、涙に咽給へば、人皆袖を絞けり。
 判官は東男なれ共、物めでし情ある人にて、様々慰労けり。

神鏡神璽還幸事

 同おなじき二十一日、神鏡神璽還幸事、院ゐんの御所ごしよにして議定あり。
 左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣ないだいじん実定、皇后宮大夫実房、中御門大納言だいなごん宗家、堀川ほりかはの大納言だいなごん忠親ただちか、前源げん中納言ぢゆうなごん雅頼、左衛門督実家、源げん中納言ぢゆうなごん通親、新藤しんとう中納言ぢゆうなごん雅長、左大弁さだいべん兼光ぞ被参たりける。
 頭とうの中将ちゆうじやう通資朝臣、諸道勘文を左大臣に下しければ、次第に伝下す。
 左大弁さだいべん之。
 群議之趣雖事多、神鏡神璽入御事、供奉之人鳥羽に参向して奉朝所、朝所より儀を整て、可大内とぞ、被定申ける。

緋巻 第四十四
神鏡神璽都入並三種宝剣事

 同おなじき二十五日、神鏡神璽入御あり。
 上卿は権ごん中納言ぢゆうなごん経房、参議は宰相さいしやうの中将ちゆうじやう泰通、弁左少弁させうべん兼忠、近衛には、左中将公時朝臣、右中将範能朝臣也。
 両将共に壺胡籙つぼえびらを帯せり。
 職事蔵人くらんど左衛門権佐さゑもんごんのすけ親雅ぞ供奉しける。
 四塚より下馬して各歩行す。
 先頭とうの中将ちゆうじやう通資朝臣参向して行事す。
 内侍所、内蔵寮新造唐櫃に奉納、大夫尉義経、郎等三百騎さんびやくきを相具して前行す。
 御後又百騎候。
 朱雀北行、六条東行、大宮おほみやを北行、入御待賢門、在御朝所けり。
 蔵人左衛門尉さゑもんのじよう橘清季、兼て此所に候けり。
 神鏡神璽は入御あれ共、宝剣は失にけり。
 神璽は海上に浮けるを、常陸国住人ぢゆうにん片岡太郎経春が奉取上けるとぞ聞えし。
 神璽をば注の御箱と申、国手璽也、王者の印なり、有習云々。
 抑神代より三柄の霊剣あり。
 天十握剣、天叢雲剣、布流剣是也。
 十握剣をば羽々斬剣と名。
 羽々とは大蛇の名也。
 此剣大蛇を斬ば也。
 又は蝿斬剣と云、此剣利剣也。
 其刃の上に居る蝿の、不自斬と云事なければ也。
 素盞烏尊そさのをのみことの天より降り給けるに帯給たる剣也。
 今石上宮に被籠たり。
 天叢雲剣をば草薙剣と云。
 日本武尊草を薙で、野火を免給へる故也。
 又は宝剣と云、内裏に留て、代々帝の御宝なれば也。
 布留剣は、即大和国やまとのくに添上郡、礒上布留明神是也。
 此剣を布留と云事は、布留河の水上より一の剣流下。
 此剣に触者は、石木共に伐砕流けり。
 下女布を洗て此河にあり。
 剣下女が布に留て不流遣、即神と奉祀。
 故に布流大明神だいみやうじんと云。
 宝剣は、昔素盞烏尊そさのをのみこと、天より出雲国へ降給けるに、其国の簸河上山に入給ける時啼哭する音あり、声を尋て行て見れば、一の老公と老婆と、小女を中間に置て、髪掻撫哭し居たり。
 尊問曰、汝等なんぢら誰人ぞ、哭する故いかにと。
 老公答曰、我は是国津神也、名をば脚摩乳と云、女をば手摩乳と申、此河上の山に有大蛇、年年に呑人、親を食るゝ子を呑、親子互に相歎て、村南村北に愁の音無絶事、就なかんづく我に八人はちにんの有小女、年々八岐の大蛇の為に呑る、今一人を残せり、貌勝人、心世に無類、名をば棄稲田姫と云、又曽波姫とも申、今又大蛇の為に呑れんとす、恩愛の慈悲無為方、別を悲て泣也と申せば、尊憐之給たまひて、汝が娘命を助けば我にえさせてんやと宣へば、老公老婆手を合て悦。
 縦怪の賤男なりとも、娘の命を助は不惜、況尊をやとて即棄稲田姫を進、即奉后祝
 小女湯津、湯津とは祝浄詞也、女を后に祝へば也。
 浄櫛を御髪にさし給ふ。
 浄櫛とは潔斎の義也。
 さて山頂に奉昇、父老公に八うんの酒を被召。
 老公出雲国飯石郡長者なれば、取出して奉之。
 尊彼酒を八の槽に湛て、后を大蛇の居たる東の山の頂に立て、朝日の光に后の御影を槽の底に移し給たりけるに、大蛇匍匐来れり。
 尾頭共に八あり。
 背には諸の木生苔むせり。
 眼は日月の如して、年々呑人幾千万と云事を不知。
 大蛇の八尾八頭、八岡八谷にはびこれり。
 大蛇此酒を見るに、八の槽中に八人はちにんの美人あり。
 実の人と思ひ、頭を八の槽に浸して、人を呑んと思て其酒を飲干。
 大蛇頭を低て酔臥。
 尊帯給へる十握剣を抜て、大蛇を寸々に斬給ふ。
 故に十握を羽々斬と名く。
 蛇の尾不切、十握剣の刃少欠たり。
 恠て割破て見之、一の剣あり。
 明なること瑩る鏡の如し。
 素盞烏尊そさのをのみこと是を取て、定て是神剣ならん、我私に安かんやとて、即天照太神てんせうだいじんに奉る。
 太神大に悦まし/\て、吾天岩戸に閉籠し時、近江国胆吹嶺に落たりし剣なりとぞ仰ける。
 彼大蛇と云は、胆吹大明神だいみやうじんの法体也。
 此剣大蛇の尾に有ける時、常に黒雲聳て覆ける故に、天雲叢剣とは名たり。
 天照太神てんせうだいじんの御孫、天津彦尊を葦原瑞穂国の主とせんとて、奉天降時、八咫鏡、叢雲剣、神璽、三種の神器を奉授、其一也。
 代々帝の御宝なれば宝剣と云。
 素盞烏尊そさのをのみことと申は、今出雲国杵築大社是也。
 彼老公女を尊に奉る時、潔斎の義にて浄櫛をさす。
 奉后湯津しけり。
 湯は祝の義也、津は詞の助也、天津社、国津社と云が如し。
 されば今の世までも、斎宮群行の時、帝自斎宮の御額に櫛をさして宣はく、一度斎宮に祝給なば、再都に不帰給と仰なるは此故也。
 又櫛に取なし給けるは、蛇の難を遁んと也。
 爪櫛には悪者の怖事あるにこそ。
 或人醜女に追れて逃けるに、如何にも難遁して捕れなんとしけるに、懐より爪櫛を取出して打蒔たれば、鬼神其より還ぬ。
 さてこそ命は延にけれ。
 今の世までも、抛櫛を取ぬと云は是より始れり。
 老公女を浄櫛に取成して奉尊たれば、遁大蛇の難命は延給にけり。
 娘に櫛をさす事を、今の世の人歌にも、
  かつみれど猶ぞ恋敷わきもこがゆづの爪櫛いかゞさゝまし
 崇神天皇てんわうの御宇ぎよう神威御座、同殿不輙とて、更に剣を改鏡を鋳移、古をば太神宮に奉返送、新鏡新剣を御守とす。
 霊験全く減らせ給はず。
 景行天皇けいかうてんわう四十年夏六月に、東夷背朝家、関より東不静。
 天皇てんわう日本武尊に命じて、数万の官兵差副て東国へ発向す。
 冬十月朔〈 癸丑 〉日本武尊道に出給ふ。
 〈 戊午 〉先伊勢太神宮を拝し給ふ。
 厳宮倭姫命を以、今蒙天皇てんわう之命、赴東征諸叛者
 こゝに倭姫命、天叢雲剣を取て日本武尊に奉授云、慎で無懈事、汝東征せんに、危からん時以此剣防て可助事
 又錦袋を披て異賊を平げよとて、叢雲剣に錦袋を被付たり。
 日本武尊是を給たまひて東向。
 駿河国浮島原著給。
 其所凶徒等きようとら、尊欺んが為に、此野には麋多し、狩して遊給へと申。
 尊野に出て、枯野荻掻分々々狩し給へば、凶徒きようと枯野に火を放て尊を焼殺さんとす。
 野火四方より燃来て、尊難遁かりければ、佩給へる叢雲剣を抜て打振給へば、刃向草一里までこそ切れたりけれ。
 爰ここにて野火は止ぬ。
 又其後剣に付たる錦袋を披見るに燧あり。
 尊自石のかどを取て火を打出、是より野に付たれば、風忽たちまちに起て、猛火夷賊に吹覆、凶徒きようと悉に焼亡ぬ。
 偖こそ其所をば焼詰の里とは申なれば、此よりして、天叢雲剣をば草薙剣と名たり。
 彼燧と申は、天照太神てんせうだいじん百王の末帝まで、我御貌を見奉らんとて、自御鏡に移させ給けるに、初の鋳損の鏡は、紀伊国日前宮に御座、第二度御鏡を取上御覧じけるに、取弛して打落し、三に破たるを燧になし給へり。
 彼燧を錦袋に入剣に被付たりける也。
 今の世までに、人腰刀に錦の赤皮を下て、燧袋と云事は此故也。
 日本武尊猶夷を鎮んが為に、これより奥へ入、武蔵国より御船に召、上総へ渡給けるが、浪風荒して、御船危かりけるに、旅の御徒然の料に、御志深き下女を相具し給たりけるが、風波は竜神りゆうじんの所為也、君は国を治んが為に、遥はるかに東夷を平げ給、我争か君を助奉らざらん、童竜神りゆうじんを宥んとて、舷に立出て、千尋の海に入にけり。
 実に竜神りゆうじん納受なふじゆありけるにや、風波即静りぬ。
 尊其後上総に渡り、夷を随へ給ける。
 折々をりをりには海に入し下女恋しく思召おぼしめし出ては、常に我妻よ/\と被召ける。
 御片言あつま/\とぞ聞させ給ける。
 東をあつまと云事は、其よりして始れり。
 尊東夷の凶賊討平、所々の悪神を鎮給たまひて、同四十三年〈 癸丑 〉に帰上給けるが、異賊の為に被呪咀たまひて、日本武尊、尾張国よりぬるみほとほり給けるが、いとゞ燃焦るゝ御心地おんここちし給ければ、御身を冷さんとて、弓の弭にて地を掘り給たりけるに、冷水忽たちまちに湧出て河を流す。
 これに下浸給たまひて御身を冷給へり。
 近江国醒井の水と云は是也。
 去共御悩ごなういとゞ重く成給ければ、是より伊勢へ移給。
 虜の夷并草薙剣を天神に返進て、御弟の武彦尊を御使にて、天皇てんわうに奏し申させ給けり。
 日本武尊終に崩じ給ふ、御年三十。
 白鶴と変じて西を指て飛去。
 讃岐国白鳥明神と顕れ給ふ。
 草薙剣を、天神より尾張国熱田社に預置。
 天智天皇てんわう七年に、沙門道行と云僧あり。
 本新羅国者也。
 草薙剣の霊験を聞て、熱田社に三七日籠て、剣の秘法を行て社壇に入、盗出して五帖の袈裟に裹て出。
 即社頭にして、黒雲聳来て剣を巻取て社壇に送入。
 道行身毛みのけ竪て弥霊験を貴、重て百日行て、九帖袈裟に裹て近江国まで帰処に、又黒雲空より下、剣を取て東を指て行。
 道行取返とて追て行。
 近江国蒲生郡に大磯森と云所あり、追初森也。
 道行剣を取返さんとて、此より追初ければ也。
 行業の功日浅ければこそ角はあれとて、道行又千日行して上、二十五帖の袈裟に裹て出。
 筑紫に下船に乗て海上に浮み、望既足。
 又新羅国の重宝と悦程に、俄にはかに波風荒して不渡得ければ、如何にも難叶とて海中に抛入。
 竜王りゆうわうこれを潜上て、熱田社へ送進す。
 末代には又懸者も有なんとて、少も不替剣を四造具して、社頭の中に被立たり。
 一の社官が一人に教授る時、五の指を差上てこれを伝る様あり。
 其外の人、本剣新剣を不知といへり。
 天武天皇てんわう朱鳥元年六月〈 己巳 〉天皇てんわう病崇。
 草薙剣を尾張国熱田社に被送置
 此事沙門道行は、天智天皇てんわう七年に盗之。
 たとひ三年行ひたらば、天智天皇てんわう九年歟十年歟の事也。
 天武天皇てんわう朱鳥元年は、十四年を隔たり。
 此時熱田へ送遣すと。
 両説不実、可決。

老松若松尋剣事

 〔去さるほどに〕平氏取て都の外に出。
 准后持て海中に入給たり共、上古ならば失ざらまし、末代こそ悲けれ。
 潜する蜑に仰て探り、水練する者入れて被求けれ共、終に不見。
 天神地祇に祈誓し、大法秘法を被行けれ共無験。
 法皇大に御歎あり、仏神の加護に非ずば難尋得とて、賀茂大明神かものだいみやうじんに七日有御参籠、宝剣の向後を有御祈誓
 第七箇日に有御夢想ごむさう、宝剣の事、長門国壇浦の老松若松と云海士に仰て尋聞召と、霊夢新なりければ、法皇有還御、九郎判官を被召て、御夢旨に任て被仰含
 義経百騎の勢にて西国さいこくへ下向、壇浦にて両蜑を被召。
 老松は母也、若松は女也。
 勅定の趣を仰含。
 母子共に海に入て、一日ありて二人共に浮上る。
 若松は子細なしと申す。
 我力にては不叶、怪き子細ある所あり、凡夫の可入所にはあらず、如法経を書写して身に纏て、以仏神力入由申ければ、貴僧を集て、如法経を書写して老松に給ふ。
 海人身に経を巻て海に入て、一日一夜不上。
 人皆思はく、老松は失たるよと歎ける処に、老松翌日午刻計に上。
 判官待得て子細を問。
 非私申、帝の御前にて可申と云ければ、さらばとて相具し上洛。
 判官奏し申ければ、老松を法住寺ほふぢゆうじの御所に被召、庭上に参じて云、宝剣を尋侍らんが為に、竜宮城と覚しき所へ入、金銀の砂を敷、玉の刻階を渡し、二階にかい楼門を構、種々しゆじゆの殿を並たり。
 其有様ありさま凡夫栖心言難及。
 暫惣門にたゝずみて、大日本国だいにつぽんごくの帝王の御使と申入侍しかば、紅の袴著たる女房二人出て、何事ぞと尋、宝剣の行へ知召たりやと申入侍しかば、此女房内に入、やゝ在て暫らく相待べしとて又内へ入ぬ、遥在て大地動、氷雨ふり大風吹て天則晴ぬ。
 暫ありて先の女来て是へと云。
 老松庭上にすゝむ。
 御簾を半にあげたり。
 庭上より見入侍れば、長さは不知、臥長二丈にぢやうもや有らんと覚る大蛇、剣を口にくはへ、七八歳の小児を懐、眼は日月の如く、口は朱をさせるが如く、舌は紅袴を打振に似たり。
 詞を出して云、良日本につぽんの御使、帝に可申、宝剣は必しも日本につぽんみかどの宝に非ず、竜宮城の重宝也。
 我次郎王子、我蒙不審海中に不安堵、出雲国簸川上に尾頭共に八ある成大蛇、人をのむ事年々なりしに、素盞烏尊そさのをのみこと、憐王者民、彼大蛇を被失。
 其後此剣を尊取給たまひて、奉天照太神てんせうだいじん、景行天皇けいかうてんわうの御宇ぎように、日本武尊東夷降伏の時、天照太神てんせうだいじんより厳宮御使にて、此剣を賜ひて下し給たまひし、胆吹山のすそに、臥長一丈の大蛇と成て此剣をとらんとす。
 去共尊心猛おはせし上、依勅命下給間、我を恐思事なく、飛越通給たまひしかば力及ず、其後廻謀とらんとせしか共不叶して、簸川上の大蛇安徳あんとく天皇てんわうとなり、源平の乱を起し竜宮に返取、口に含るは即宝剣なり、懐ける小児は先帝安徳あんとく天皇てんわう也、平家の入道太政大臣だいじやうだいじんより始て、一門人皆此にあり。
 見よとて傍なる御簾を巻上たれば、法師を上座にすゑて、気高上﨟其数並居給へり、汝に非見、然而身に巻たる如法一乗いちじようの法の貴さに、結縁の為に本の質を不改して見ゆる也、尽未来際まで、此剣日本につぽんに返事は有べからずとて、大蛇内にはひ入給たまひぬと奏し申ければ、法皇を奉始、月卿げつけい雲客うんかく皆同成奇特思たまひにけり。
 偖こそ三種神器の中、宝剣は失侍りと治定しけれ。
 疑崇神天皇てんわうの御宇ぎよう、恐霊威新鏡新剣を移して、本をば太神宮に被送といへり。
 然者しかれば壇浦の海に入は新剣なるべし。
 何んぞ竜神りゆうじん我宝と云べきや。
 次素盞烏命蛇の尾より取出たる時、奉太神宮には、天神の仰に、我天岩戸に有し時、落たりし剣也と仰す。
 今又竜神竜宮の宝と云。
 然者しかれば竜神りゆうじんと天照太神てんせうだいじんとは一体異名歟、不審可決云々。
 同日夜に入て、故高倉院たかくらのゐんの第二宮、都へ帰入せ給。
 法皇より御迎御車被進、七条侍従信清御伴に候けり。
 七条坊城の御母儀おぼぎの宿所へ入せ給ふ。
 此宮は当時の帝の同御腹の御兄、もしの事あらば儲君までと、二位殿にゐどの賢々敷被具進たり。
 都に御座おはしまさば、此宮こそ御位にも即せ給べきに、其可然事なれ共、四宮御運は目出かりけりと人申あへり。
 今年七歳にならせ給ふ。
 御心ならぬ旅の空に出て、三年を過ければ、御母儀おぼぎも御乳人おんめのと持明院の宰相も、おぼつかなく恋しく思奉けるに、事故なく入給たまひたれば、奉見ては誰々も悦泣してぞ御座おはしましける。

平家虜都入附癩人法師口説言並戒賢論師事

 同四月二十六日にじふろくにち申時に、前さきの内大臣ないだいじん、前平へい大納言だいなごん時忠、前さきの右衛門督うゑもんのかみ清宗已下、虜入洛。
 内府並清宗卿は同車どうしや、八葉の車に前後の簾を巻、左右物見をあぐ。
 各浄衣を被著たり。
 時忠卿ときただのきやう同車どうしやを遣つづけ給へり。
 子息の讃岐中将時実は、現所労にて不渡、内蔵頭くらのかみ信基、蒙疵閑道より入。
 武士百余騎よき車の左右にあり、兵三騎又車の前にあり。
 内大臣ないだいじんは四方を見廻して、痛思入たる無気色、さしも声花に麗しかりし人の、あらぬ貌に疲衰へ給へり。
 右衛門督うゑもんのかみは、うつぶして目も見挙給はず、深思入たる有様ありさま也。
 貴賤上下都の内にも不限、近国遠国、山々寺々より、老たるも若も来集て、鳥羽の南の門、造道、四塚、東寺、洛中に充満たり。
 人は顧事を得ず、車は轅を廻らすに不及、治承養和の飢饉、東国西国さいこくの合戦に、人は皆死亡ぬと思へるに、残は猶多かりけりとぞ見えし。
 都を出給たまひて、僅わづかに三年まぢかき事なれば、其有様ありさま一として不忘、今日の事がら夢現分兼たり。
 心なき賤男賤女までも、涙を流し袖を不絞者なかりけり。
 増て馴近付言葉にも懸ん人、さこそは哀と思けめ。
 年来重恩をも蒙、親祖父が時より伝はりたりける輩も、身の棄がたさに、多く源氏に付たりけれ共、昔の好み争か可忘なれば、袖を覆て面をもたげぬ者も多かりけり。
 其中に鳥羽里の北、造道の南の末に、溝を隔て白帯にて頭をからげ、柿のきものに中ゆひて、かせ杖かせづゑなど突て十余人よにん別に並居たり。
 乞者の癩人の法師共也。
 年闌たる癩人の鼻声にて語を聞ば、人の情を不知、法を乱るをば悪き者とて、不敵癩と申たり。
 去共此病人達の中にも、不敵たるもあり不敵ならざるもあり、又直人の中にも、善者も不善者もこも/゛\也。
 世の習人の癖也。
 此法師加様の病を受たる事此七八年也。
 当初事の縁有て、文章博士殿に候し時、田舎侍に小文を教られしを聞ば、世は人の持にあらず、道理の持也と云事をよまれき。
 又清水寺に詣て通夜したりし時、参堂の僧の中に、法華経ほけきやうを訓に綴読あり。
 近付寄て聴聞せしかば、不信の故に三悪道に落と読れき。
 此内外典に教たる二の事、耳の底に留て明暮忘ず、心の中にたもたれて候ぞ、前世の不信の故、道理を不知ける罪の報にて、此世まで懸る病を受て候へ共、程々に随は、道理をば背かじと不信ならじと、深く思執て候へば、心中をば神も仏もかゞみ給たまひて、本地垂跡すいしやくの御誓誠ならば、来世は去共と憑思て候ぞ。
 就其も不及事なれ共思合せらる。
 此平家の殿原の、世にはやらせ給し有様ありさまと、今日の事様と、申ても/\浅増あさましく候。
 故太政だいじやう入道殿にふだうどのは、申も恐ある事なれ共、道理を不知人にて、只我思儘に振舞れし事は、世一の事にあらず、前世の果報也とは思ながら、身の程も顧ず、我身より始て、一家の子孫に至るまで、高官位に推なるのみに非ず、掛も忝帝王院宮を奉煩、多の上﨟達を殺し流し、余に狂して不信故に、三井寺みゐでら興福寺こうぶくじを亡し、金銅こんどうの大仏をさへ奉焼。
 本尊聖教の咎は何か有し、家人眷属に至までも、彼心に叶はんとて、欲をかき恥を忘たりき。
 皆道理を忘たる振舞と承たりしが、答ぬ事にて、入道殿にふだうどの世盛にて失られぬ、取つゞきいつしか数の公達郎等までも都を打出でて、今日はよろづの人の口にのり目をさます、皆道理ゆゑと覚ゆ、文虚言せずとは是也。
 嫡子にて最愛し給し小松こまつの内大臣殿ないだいじんどのは、みめも心も能人にて、父の入道の余に僻事ひがことせられしを制し兼て平家の世はこたゆまじ、答ざる父の後まで生て何にかはせん。
 命をめせと熊野に参て被祈ければ、程もなく腫物をやまれけれ共、様ありとて療治りやうぢもし給はで死給き。
 其公達あまた御座おはしましけれ共、一人も刀のさきにかゝらず、心と海に入給けり、今の内大臣殿ないだいじんどのの有様ありさまこそはかなく無慙なれ、其に取ても禁忌敷事を承ぞとよ、入道殿にふだうどのの世におはせし時より、妹の建礼門院けんれいもんゐんに親しくよりて被儲ける子を、高倉院たかくらのゐんの御子と云なして、王位に即申たりけるとかや、不及心にも、さも有りけるやらんと覚え候ぞ、去ばこそ受禅の君とて、内侍所なんど申す様々の御守共を取加られて御座ながら、不持して、かゝるひしめきは出来て候にこそ、此事の起たゞ不信よりなる事也、されば入道殿にふだうどのも、臨終浅増あさましくして悪道に堕給けり、今わたさるゝ人々も、生ながら三悪道に堕られたりと覚ゆと云。
 又並居たる長しき乞者が云様は、御房の宣ふ様に、人と生て仁義を不顧、恥を不知者をば人癩と云、聞え給大臣殿に近づきよりて見参をせばやな、恥を不知人に御座おはしましけるにこそ御座おはしましけれ。
 一門の殿原は皆海に入給けると聞ゆるに、何とて命の惜かるべきぞ、哀人癩の上﨟癩かな、子細なき我等われらが同僚にや、但此間の御心は、恐らくは我等われらには劣給へり、いざ/\御房達、大臣殿の此前をとほり給はん時車を抑て、辱号かくに爪つひず、勘当かぶるに歯かけずと、拍子で舞踊らんと云。
 是を聞ける徐人々云けるは、哀也、みめさまこそ禁忌しけれ共、心の至は恥しくも語りたりといへば、又傍に有ける僧の云様は、病は四大の不調よりも発る、又先業の報ふ事もあり、心は失ぬ事なれば形にや依べき、天竺に戒賢論師と云けるは法相唯識の法門ほふもんを護法へ受伝へて、大小乗の奥義をきはめ、有空中の三時教をぞ立たりける。
 知慧の光は一天空を耀し、徳行の水は卒土の塵を潤しけれ共、身に癩病を受て、療治りやうぢに力を失へり、如仏天加護、三宝冥助し給ざるか、内外の治術不及して、即に自殺せんとし給けるに、天人来下して告云、汝深く如来によらいの教籍を達すといへ共、業病難助、釈尊頭痛背痛し給へり、況凡身をや、空く身命を不捨して、宜仏法ぶつぽふを流布すべし、聖僧震旦より来て、必汝が法を伝受すべしと、戒賢諸天の告に驚、捨身をとゞめて相待処に、玄弉三蔵天竺に渡て謁戒賢論師、五相宗の教を伝たり、然して後に論師浮生の重病を厭て、終に自殺し給けり。
 覚り深き人なれ共、身あれば必病あり、心あらん者は心を浄く持べき事なれば、加様の乱僧なればとて、心さへ拙かるべきに非ずとぞ語ける。
 去さるほどに内大臣殿ないだいじんどのの車近なるとて、見物の上下色めきければ、武士共雲霞の様に打囲て雑人を払ければ、口立る乞者法師原ほふしばらも、蜘蛛子を散して失にけり。
 法皇は六条朱雀に御車を立て御覧あり。
 人々多御伴に候けり。
 近く召仕れ奉しかば、御心弱く哀に思召おぼしめされて、御衣の袖を竜顔にあてさせ給。
 供奉の人々も只夢の心地にて、現とは不覚けり。
 貴も賤も目をも懸てし、詞ばにも懸らばやとこそと思あへりしに、今角可見成とは不測也。
 真竜失勢同蚯蚓といへり、此ことわざ誠也けり。
 一年大臣に成給たまひて拝賀の時、公卿には花山院大納言だいなごんを始奉て十二人、中納言四人、三位中将さんみのちゆうじやう三人、殿上人てんじやうびとには、蔵人頭くらんどのとう右大弁親宗以下十六人伴をして、公卿も殿上人てんじやうびとも、今日を晴と花を折てきらめき遣列てこそ有しか。
 即此平へい大納言だいなごん、其時は左衛門督にて御座おはしましき。
 院ゐんの御所ごしよより始て参給処ごとに、御前へ召れて御引出物給り、もてなされ給へりし気色、目出かりし事ぞかし。
 今懸るべしとは不思寄、是やこの楽尽て悲み来なる天人五衰なるらんと、只涙を流しけり。

大臣殿舎人附女院移吉田並頼朝よりとも二位

 今日車を遣ける牛飼は、木曾が院参ゐんざんの時車遣て、出家したりし弥次郎丸が弟に、小三郎丸と云童也。
 西国さいこくまでは仮男に成て、今度上りたりけるが、今一度大臣殿の車をやらんと思ふ志深かりければ、鳥羽にて九郎判官の前に進出て申けるは、舎人牛飼とて下﨟のはてなれば、心あるべき身にて候はね共、最後の御車を仕ばやと深く存候、御免有なんやと泣々なくなく申ければ、何かは苦かるべきとて免てけり。
 手を合額を突て悦つゝ、心計はとり装束てぞ車をば仕りける。
 道すがら涙に咽て面をももたげず、此に留つては泣彼に留つては泣ければ、見人いとゞ袖をぞ絞ける。
 大路を渡して後は、判官の宿所六条堀川ほりかはへぞ被遣ける。
 物まかなひたりけれ共、露見も入給はず、互に目を見合て、たゞ涙をのみぞ流し給ける。
 夜に入けれ共装束もくつろげず、袖片敷て臥給へり。
 暁方に板敷のきしり/\と鳴ければ、預の兵奇て、幕の隙より是を見れば、内大臣ないだいじん子息の右衛門督うゑもんのかみを掻寄て、浄衣の袖を打きせ給けり。
 右衛門督うゑもんのかみは今年十七歳也。
 寒さを労給はんとて也。
 熊井太郎、江田源三など云者共是を見て、穴糸惜や、あれ見給へ殿原、恩愛の慈悲ばかり無慙の事はあらじ。
 あの身として単なる袖を打きせ給たらば、いか計の寒を禦べきぞや、責ての志かなとて、猛きもののふなれ共皆袖を絞けり。
 建礼門院けんれいもんゐんは、東山の麓吉田の辺に、中納言法橋慶恵と申ける奈良法師の坊へぞ入らせ給たまひける。
 住荒して年久成にければ、庭には草高く、軒には垣衣繁、簾絶て宿顕なれば、雨風たまるべくもなし。
 昔は玉の台を瑩、錦の帳に纏れて、明し暮し給しに、今は悲人々には皆別果ぬ。
 浅増気なる朽坊に、只一人落著給ける御心中、被推量て哀也。
 道の程伴なひ進せける女房達にようばうたちも、一所に候べき様もなければ、是より散々ちりぢりに成ぬ。
 御心細さにいとゞ消入様に被思召おぼしめされけり。
 誰憐誰孚むべし共思召おぼしめさねば、魚の陸に上りたるが如、鳥の子の栖を離たるよりも尚悲し。
 憂かりし波の上船の中、今は恋しくぞ思召おぼしめし出ける。
 同底のみくづと成べき身の責ての罪の報にや、被取上残留てぞ思召おぼしめすも哀也。
 天上の五衰の悲みは、人間にも有けりとぞ見させ給ける。
 同おなじき二十七日にじふしちにち、主上閑院より内裏に行幸有けり。
 大納言だいなごん実房卿以下ぞ被供奉ける。
 内侍所、神璽、官庁より温明殿うんめいでんへ被渡。
 上卿、参議、弁次将、皆もとの供奉人なりけり。
 三箇日被臨時御神楽けり。
 三条大納言だいなごん実房卿参、件座著て、大外記頼業を召て、源みなもとの頼朝よりとも、追捕前さきの内大臣ないだいじん賞に叙従二位じゆにゐ由、可内記とぞ仰給ける。
 頼朝よりとも本位正下四位しゐ也。
 勲功の越階常例也。

宮人曲内侍所効験事

 二十九日、国忌なりければ御神楽被止、五月一日に又被行ける。
 宮人曲多好方仕ければ、勧賞には、子息右近将曹好節を被将監けり。
 宮人の曲と云は、好方祖父八条判官資忠と云々。
 舞人の外は知者なし。
 堀川院ほりかはのゐんばかりにぞ奉授たりける。
 資忠は山村政連が為に被殺ければ、此曲永世に絶なんとしけるを、内侍所の御神楽被行とて、堀川院ほりかはのゐん、資忠が子息近方を砌下に召置れて、主上御簾の中にして拍子をとらせ給たまひ、近方に被授下けり。
 父に習ひたらんは尋常の事也。
 苟孤子として父にだにも不習者が、懸る面目を施す、道をただしと思召おぼしめし、絶たるを継廃れたるを興給へれば、其より以来今に伝彼家
 内侍所は、昔天照太神てんせうだいじん天岩戸に御座おはしましける時、我御形を移留給へる御鏡也。
 捧天神手於宝鏡天忍穂耳尊に授給たまひて云、我子孫此宝鏡を視しては、必我を見と思へ、同殿に床を一にして奉祝とて奉授より次第に相伝へて、一御殿に有御座けるを、第十代帝崇神天皇てんわうの御宇ぎように及で、恐霊威たまひて被別殿、後には温明殿うんめいでんにぞ御座おはします。
 遷都の後百六十六年を経て、村上天皇てんわうの御宇ぎよう天徳四年九月二十三日子刻に、内裏焼亡。
 火は左衛門陣より出来たりければ、内侍所の御座温明殿うんめいでんも程近かりける上、如法夜半の事なれば、内侍も女官も不参会、内侍所をも不出。
 小野宮急参給たまひて見給へば、温明殿うんめいでんははや焼けり。
 内侍所も焼させ給ぬるにや、代は角にこそと思召おぼしめし、涙を流し給ける程に、灰燼上にして奉見出たりけるに、木印一面其文に、天下太平の四字ありけり。
 又南殿の桜の梢に飛かゝらせ給たりけるが、光明くわうみやう赫奕として朝日の山端を出づるが如し。
 代は猶不失けりと悦の涙関敢給はず、右の膝を突左袖を披て、昔天照太神てんせうだいじん百皇移し留給へる御鏡也。
 御誓未改給者、神鏡実頼が袖に宿入らせ給へと被仰ける。
 御言の未終に、高梢より飛下らせ給たまひて、御袖に入せ給へり。
 即つゝみ奉て御前を進で主上の御在所、太政官の朝所へぞ被渡進ける。
 猛火の中にして無損失けるこそ霊験掲焉と覚ゆれ。
 今の代には、誰人か請じ奉らんと可思寄、神鏡も飛入せ給はん事そも不知、上代は目出かりけりと、身毛みのけ竪て貴かりけり。

時忠卿ときただのきやう罪科附時忠聟義経

 同五月三日、頭弁光雅朝臣仰承て、内大臣ないだいじん実定に被問けるは、依時忠卿ときただのきやう申状、奉扶持先帝、同意謀叛臣畢、令所当罪之条、更無遁申、但於内侍所者、前さきの内大臣ないだいじん、入海時可海中之由、再三雖之、奉頭上帰降畢、此雖命、又非微忠哉、今度被罪科、剃髪染衣と望申之間、内侍所事、被義経之処に、有其実之由所言上也。
 何様に可行哉、可計申之由被仰下ければ、実定返事被申けるは、虜の人々の罪科の所致如臣下、非計申、可叡慮之由、先日申入畢。
 但於時忠卿ときただのきやう者、非武勇人、任申請優怒之条、尤可善政歟とぞ被申たりけれ共、院宣の御使花方が鼻をそぎ、本鳥切などして、己おのれにするに非と狼藉申振舞たりけるに依て、遂に流罪に定にけり。
 此時忠卿ときただのきやう、子息讃岐中将時実も、判官の宿所近くおはしけり。
 心猛人也。
 かほどに成ぬる上は思切べきに、尚も命の惜く思けるにや、中将に語て、如何がはすべき、散すまじき状共を入たる皮籠を一合判官に取れたり、彼状共鎌倉に見えなば、損する者も多、我身も難死と歎給。
 中将計申、判官は大方も情ある上、女などの打堪歎事をばもちはなれずと承侍、懸る身々と成ぬれば非苦、親成給へかし、さらばなどか情をもかけざらんと云。
 時忠卿ときただのきやう涙をはら/\と流して、我世に在し時は女御后にもと思て、なみ/\の人に見せんとは不思とて袖を顔に当給へば、中将も同涙を流して、今は云に甲斐なし、只疾計ひ給べしと宣のたまひければ、当時の北方帥典侍そつのすけの腹に、今年十八になる姫君の不なのめならず厳をぞ中将は申けれ共、其をば猶労く覚して、先腹に二十八に成給へるを、内々人して風めかしければ、判官も可然とて迎取ぬ、年こそ少し長しく侍けれ共、清たわやかに、手跡うつくしく、色情ありて声花なる人也。
 判官志深く思ければ、本妻河越太郎重頼が女も有けれ共、是をば別の方をしつらひて居たり。
 中将の計少しも不違、やゝ相馴て後、彼文箱の事申たりければ、判官封を不披返送けり。
 大納言だいなごん大に悦て、坪中にして焼之。
 何事にか有けん、悪事共の日記とぞ聞えし。

頼朝よりとも義経中悪附屋島内府子副将亡事

 〔去さるほどに〕平家は北国西国さいこく度々の合戦に亡ぬ。
 前さきの内大臣ないだいじん以下被虜ぬ。
 今は国々も鎮て、人の行通も無煩。
 都の上下安堵したりければ、九郎判官神妙しんべう也と法皇被思召おぼしめさる
 洛中の男女、哀此人の世にて侍れかしと云と鎌倉に披露有ければ、源二位宣のたまひけるは、九郎が高名何事ぞ、以頼朝よりとも軍兵を指上せて平家を亡し天下を穏にす、九郎一人して争か世をば可鎮、其に法皇の叡慮も不心得こころえ、人の云に誇て、世をば我儘に計たるにこそ、早晩しか人こそ多けれ、時忠の聟に成て、彼大納言だいなごんをもてあつかふなるも無謂、又世に恐をなさず、時忠九郎を聟に取も不思議也、此定ならば、九郎鎌倉へ下ても、過分の事共計ん歟、存外々々と宣のたまひければ、始終中よからじ、世の乱とは成なんと私語ささやきけり。
 同七日前さきの内大臣ないだいじん以下虜共、九郎判官義経相具して、関東下向すべしとてひしめきあへり。
 六日晩に大臣判官に宣のたまひけるは、虜の中に八歳になる小童は、宗盛が末子に侍、誠や明日 関東下向と聞侍り、彼小童今一度見たく侍り、免し給なんやと被仰ければ、判官最安事なりとて、奉之。
 此児をば判官の兄公に、河越小太郎茂房預て宿所に奉置。
 介錯に少納言殿、乳母めのとに冷泉殿とて、二人の女房つき奉、はては如何にと見なさんと、若君を中にすゑ奉て旦暮泣歎けり。
 理也。
 血の中より手を離たず、八歳まで生立たれば、親をも捨都をも隔て、倦旅の空波の上までも付奉て、今虜れて見馴し父にも引別、恐しき夷中に御座おはしましければ、歎思も哀也。
 六日晩程に判官の使とて、少人急度奉具と申たれば、二人の女房は、穴心憂や、朝鎌倉へと聞に、今夜可失にこそとて、足手を摺てをめき叫。
 いづくにあらば可遁ならね共、左右の袂たもとに取付て、悶焦も哀也。
 既すでに出ければ、二人の女房も相連て出たるが、涙にくれて行空も見ず。
 大臣殿は此間恋しく覚しけるに、若君父を奉見、急冷泉殿が手を下て、膝上に居給へり。
 大臣はいかに副将々々とて、髪掻撫はら/\と泣給へば、右衛門督うゑもんのかみ二人の女房、共に涙を流けり。
 内大臣ないだいじんやゝ有て、涙の隙に仰られけるは、あの右衛門督うゑもんのかみ、三歳と申侍る時母には後候ぬ、其後是が母を相具して侍しか共、右衛門督うゑもんのかみ七に成まで子もなかりしかば、人の孤子は無慙なる者をと思て、厳島社に参て祈申侍りし程に、明神の御利生に懐妊したりしかば、母も不なのめならず悦て、同は男子にて侍れかしと申し程に、難産せし間、数の宝を抛て仏神に祈申しかば、此子を生たりしか共、母は命生べき様もなし、よわ/\しく成て、七日と申ししに、既すでに限と見え侍しに、母が申し事思出て無慙に候。
 我身まかりなば、人は齢若ければ、定て人を語、子をも儲給べし、其は尋常の事なれば恨に非ず、此子出来て、幾程もなく無墓ならん事の悲さよ、人は不来子をば申まじかりけり。
 身まかりて後は、相構て我孝養には、別に仏事功徳をば営給はず共、此子不便にせよ、なさぬ中は愛する事と聞見侍れば、七歳の少人をも情を懸て過しき。
 此事を思に、後世の障と成ぬべしと口説侍しかば、人一人が子ならばこそ角は仰られめ、何も宗盛が子也。
 な歎給そ、三にならば袴著せ、五にて元服げんぶくせさせ、能宗となのらせて兄弟左右におきて、人々の忘形見にみんずれば、心苦しく思給な、夫妻に縁なき身也、今は男聖して二人の者を育んずれば、更に疎の事有まじと申しかば、偖は嬉き事哉、哀さらんを見て死ばや、能宗よ/\、いとゞ命の惜ぞと、是を最後の言にて消入侍き。
 母が云置し事、よに無慙に侍りしかば、つかの間も突て、朝夕前にて生立侍りき。
 おとなしく成儘に、よに宗盛に似たりと申せば、いとゞ不便に覚えて、哀これを母に見せばや、さしもこそ歎しにと思侍。
 是を副将と申事は、小松内府薨じて、入道世を我に譲りしかば、右衛門督うゑもんのかみは嫡子なれば、大将軍して東国を知せん、是は弟なれば、副将軍とて西国さいこくを知せんと存じて、副将々々と申侍ける兼言こそはかなけれとて、浄衣の袖にかゝへ給、髪掻撫てさめ/゛\と泣給ふ。
 右衛門督うゑもんのかみも二人の女房も、声を不惜をめき給へば、上下品こそ替共、子は悲事なれば、さこそ覚すらめとて、武士も袂たもとを絞けり。
 若公此有様ありさまを見給たまひて、浅増あさましげにぞ覚して、みろ/\とかいを造給ふぞ糸惜き。
 夜も漸く深ければ、内大臣ないだいじん今はとくとく帰れ、嬉しく見つと宣へば、ひし/\と浄衣の袖に取付て泣給ふ。
 大臣は穴無慙、終につれはつまじき者をとて御涙おんなみだに咽、無為方ぞおはしける。
 右衛門督うゑもんのかみ泣々なくなく、今夜は是に見苦き事あるべし、帰て明日とく/\よと宣へ共、父の膝の上を離給はざりければ、兎角すかして押のけ奉る。
 乳母めのと冷泉殿懐取、少納言局と泣々なくなく出ければ、内大臣ないだいじんは日比ひごろの恋しさは事の数にも侍ず、今を限の別こそとて、袖を顔に押あて給ふぞ糸惜き。
 判官は河越小太郎茂房を召て、此少者をば夜中に可失と宣へば、茂房仰承て、駿河次郎と云中間を相具し、二人の女房に懐せて、六条を東川原までこそ出にけれ。
 今は奉失べきにこそ、本の宿には帰ぬ方へ行事よと、肝胸騒て現心なし。
 六条川原に敷皮しき、乳母めのとの女房の手より武士懐きとらんとしければ、二人の女房可惜遂あらね共、永別を悲て、共にかゝへて不之、唯悶焦てをめき叫。
 さすが岩木をむすばぬ身成ければ、武士も涙を流て、無左右之、夜も既深ければ、さのみは如何がとて若公を奪取、鎧の上に懐つゝ、二人女房を押隔れば、若公あまり恐ろしさに声を挙て、冷泉殿はなきか少納言殿はなきか、我をば畏しき者に預ていづくへ行ぬるぞ、恐々と叫ければ、二人女房も遥はるかに是を聞、石上に臥倒てをめきけり。
 駿河次郎布革のそばに寄、腰刀を抜出して既指殺んとしければ、穴畏し、冷泉殿是いかにせん、少納言殿とて、敵の鎧の袖下にはひ入て、ひし/\とこそ懐付けり。
 余に悲思ければ、刀の立所も不知けり。
 主命力及ねば、目を塞歯をくひ固て、心先三刀指て押退つゝ穴を堀、川原に埋て武士は帰にけり。
 二人女房は猶留て、指爪のかけ損ずるをも不顧、空き骸を堀起し、引上中に置、手取足取いかに/\と叫けり。
 責ての思の余に身を懐き、河の耳を下に行、八条が末に深き所の有けるに、冷泉殿若公の身我身に結びつけ、少納言局と手を取組て、水に沈て死にけり。

女院出家附忠清ただきよ入道にふだう切事
 同八日建礼門院けんれいもんゐん、吉田辺にて御餝下させ給、御戒師は長楽寺の阿証坊印西上人とぞ聞えし。
 御布施は先帝の御直衣なりけり。
 上人給之、申出せる詞はなくして涙を流す。
 墨染の袖も絞計也。
 其期まで召れたりければ、御移香も未残。
 西国さいこくより御形見とて、いかならん世までも御身をはなたじと思召おぼしめされて、朝夕取出して御覧じけれ共、可成御布施物のなき上、殊に御菩提の御為にとて、泣々なくなく御自これを取出させ給けるぞ悲き。
 上人庵室に帰、十六流の幡に縫、長楽寺常行堂に被懸たり。
 阿証坊の印西と申は、柔和を性に受、慈悲の心深し。
 釈尊平等の思に住し、菩薩抜苦の恵あり。
 世の人のことわざに、知慧第一法然坊、持律第一葉上房えふしやうばう、支度第一春乗房、慈悲第一阿証坊といはれけり。
 されば同追善と云ながら、先帝の御事、奉深思入、道場荘厳の旗に被懸けり。
 縦沈蒼海之底、雖修羅之苦患、豈生白蓮之上、不菩提之快楽やと、憑しくぞ覚えける。
 女院は御年十五にて入内ありしかば、十六にて后妃の位にそなはり給き。
 二十二にて皇子誕生たんじやう、いつしか立皇太子たまひて、程なく位に即せ給しかば、二十五にて院号ありき。
 入道大相国たいしやうこくの御女おんむすめの上、天下国母にて御座おはしまししかば、世の重く奉仰事理にも過たり。
 今年は二十九にぞ成給へる。
 桃李粧濃、芙蓉形衰給はね共、高倉院たかくらのゐんにも後させ給ぬ。
 先帝も海に入給たまひて、御歎打続き晴る御事なければ、翡翠の簪、今は付ても何かはせさせ給べきなれば、御様おんさまを替させ給へり。
 憂世うきよを厭ひ真の道にいらせ給へ共、御歎は休まらず。
 人々の今はかうとて海に入し有様ありさま、先帝の御面影、いかならん世にかは可思召おぼしめし
 はかなき露の命と云ながら、何に懸て消やらざるらんと思召おぼしめしつゞけては、御涙おんなみだにのみぞ咽給ふ。
 五月短夜なれ共明し兼させ給へり。
 露まどろませ給ふ御事なければ、昔の御有様おんありさまを夢にだにも御覧ぜず、壁に背たる残燈影幽に、暗き雨の窓を打音も閑なり。
 上陽人が上陽宮に被閉たりけん悲しみも有限、寂さは争か是には過じとぞ思召おぼしめす
 昔を忍妻となれとや、本の主の移し植たりける軒近き盧橘に、風なつかしくかをりける。
 折しも郭公の鳴渡ければ、角ぞ思召おぼしめしつゞけける。
  郭公花たちばなの香をとめて啼けば昔の人や恋ひしき
 大納言典侍だいなごんのすけ聞給たまひて、
  猶も又昔をかけて忍べやとやふりしに軒に薫るたちばな
 女房達にようばうたち多くおはしけれ共、二位殿にゐどのの外は水の底にも沈人なし。
 武士の手に捕れて故郷に帰上たれ共、住馴し宿も煙と昇し後は、空き跡のみ残て滋野辺と成、そこはかとも不見けり。
 適見馴し人の問来もなし。
 謬て仙家に入りし樵夫が、里に出て七世の孫に逢たれ共、誰と咎めざりけんも角やと覚ていと悲し。
 されば若も老たるも様を替形を窄て、在にもあらぬ有様ありさまにて、不思懸谷の底にも柴の庵を結。
 岩の迫に赤土の小屋を修て、露の命を宿しつゝ、明し暮すぞ哀なる。
 昔は雲台花閣の上にして、詩歌管絃に興ぜしに、今は人跡絶たる朽房に、友なき宿を守御座おはしませば、会坂の蝉丸が、藁屋の床に独居て、宮も藁屋もはてしなければと読けるも、今こそ被思召おぼしめされけれ。
 此大納言佐だいなごんのすけと申は、本三位中将ほんざんみのちゆうじやうの北方、邦綱卿くにつなのきやうの御女おんむすめ、先帝の御乳母おんめのとにておはしけり。
 重衡一谷いちのたににて虜られて京へ上給しかば、旅の空に憑もしき人もなくて、歎悲み給にしか共、先帝につき進せて西国さいこくにおはせしが、水に入せ給にしかば、故郷に還上て、建礼門院けんれいもんゐんにつき進せて、暫は吉田に候はれけれ共、其も幽なる御有様おんありさまにて可叶もなければ、姉にておはする人、大夫三位に同宿して、日野と云所におはするを憑て移居給へり。
 重衡卿しげひらのきやうも露命未消と聞給へば、いかゞして今一度見もし見えもすべきと思召おぼしめしけれ共、風の便の言伝をだに聞給はねば、唯泣より外の事なくして、明し暮し給ふぞ糸惜き。
 同おなじき十日、上総入道忠清ただきよをば、姉小路川原にして、河越小太郎茂房斬首。
 遂に遁ざりけるに、命を惜みて降人になりて、斬られにけるこそ無慙なれ。

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