辺巻 第六
 丹波(たんばの)少将(せうしやう)召捕附謀叛人被召捕

 新しん大納言だいなごん成親卿なりちかのきやうの嫡子に、丹波たんばの少将せうしやう成経なりつねとて、今年廿一に成給ふ。
 折節院ゐんの御所ごしよに上臥して、未罷出程なりけるに、大納言の供に有ける侍一人走来て、上には西八条殿に被召籠させ給ぬ。今夜可失と承りき。
 君達も一々に召し給べしと申あへりと聞えければ、こはいかにとてあきれ給たまひ、物も覚給はず。
 左程の事に、如何に宰相の許よりは告給はざるらんと、舅を恨み給けるに、門脇殿かどわきどのよりとて使あり。
 聞給へば、八条殿より少将相具して来れと被申遣たり。
 急ぎ先是へ入給へ、いかなる事にか浅猿と云も疎也と被申たれば、肝魂も消はて、うつゝ心なし、兵衛佐と云女房を尋出して、泣々なくなく語けるは、夜部より世間の物騒き様に聞ゆれば、例の山大衆の下るやらんと、徐がましく思侍れば、かゝる身の上の事に聞なせり。御前に参て今一度君をも見進せたく侍れ共、憚ある身なれば、思ながら空くて罷出候ぬと、御披露あれと、云もはてず袖を絞けり。日比年比は馴戯たりける女房達も出合つゝ、何事にか浅増や、さて出給なば、後いかが聞なし奉らんとて、涙を流し各別を悲けり。少将宣のたまひけるは、八歳にて見参に入、十二より立も去事なく、夜も昼も御所に伺候して、自労なんどの外は、一日も不参事はなかりき。
 朝夕に竜顔に近づき進て、奉公忝く、君の御糸惜み深くして朝恩に飽満明し晩しつるに、いかなる目をみるべきやらん、父大納言も此の暮に被失べしときけば、同罪にてこそあらんずらめ。
 父左様に成給はんには、其子として命生ても何かはすべきと云もはて給はず、狩衣の袖を顔に押あてて泣給へば、近候ける人々も、袂を絞ぬはなし。
 兵衛佐御前に参て、此由角と申ければ、法皇大に驚かせ御座て、今朝の相国が使も不御意つるに、此等が内々計し事の漏にけるよと、浅間敷あさましく思召おぼしめされて、去にても是へと御気色有ければ、世はつゝましかりけれ共、今一度君をも見進せんと思つゝ、志計にて、御前へは参たれ共、涙に咽て物も不申。
 法皇も御涙を押へ御座して、御詞も出させ給はず、少将はいとゞ涙の流ければ、袖を顔にあてて罷出給ぬ。
 御所中に候合給たりける人々、門外まで遥はるかに見送て、各袖をぞ被絞ける。
 法皇は又も不御覧事もやと思食おぼしめしけるにや、御簾近御幸ありて、御涙を拭はせ給けるぞ忝き。
 末代こそ心憂けれ、角しもや有べき、王法の尽ぬるかと、御口惜ぞ思召おぼしめされける。
 近奉召仕人々も、此は人の上と不思、又いかなる事か聞みんずらんと安き心もなし。
 少将は宰相の許へ被出たりけれ共、此事の聞えけるより、北方はあきれ迷て、物も覚ぬ様にてぞ御座ける。
 近産し給べき人にて、何となく日比も悩給けるが、此を聞給たまひて後は、いとゞ臥沈てぞ御座ける。
 少将は今朝より流涙尽せざりける上に、北方の形勢ありさまを見給たまひけるにこそ無為方けれ。
 責ては此人の身々と成たらんを見て、何にも成ばやとおぼされけるぞ糸惜き。
 六条とて乳母の女房の有ける臥倒て喚叫けり。
 血の中に御座を此年比生し立奉りて、糸惜悲しと思そめ奉りしより、明ても暮れても此御事より外に又いとなむ事もなし、我身の年の積をば顧ず、早く成人し給はん事をのみ思て、廿一まで奉生、院内へ参らせ給たまひても、遅く出させ御座せば、心本なく恋しくのみ奉思つるに、こは何へ御座ぞや、棄られ進て、一日片時堪て有べし共覚えずと口説立て泣ければ、げにもさこそは思らめとて、少将も涙を押て、痛く歎思給べからず、角宣へば、いとゞ打副無為方覚るに、乍去我身に誤なし、又宰相殿角て御座せば、縦いかなる咎に当べくとも、一度が定はなどか申請られざるべきと、去共とこそ思へなど誘へ給へども、人目も知ず泣もだえけり。
 八条殿より使度々に及で、遅々と申ければ、何様にも罷向ひてこそは兎も角かくも申さめとて、宰相出給ければ、少将も車に乗具して出給。
 今を限と思ければ、無人を取出す様に見送つゝ、男も女も声を調て泣きあひけり。
 八条近遣寄て見れば、其辺四五町には武士充満て、いくらと云事を知ず、いとゞ恐しなんども云ばかりなし。
 少将は此を見給に付ても、大納言の事いかゞ成給ぬらんと思給けるぞ悲き。
 宰相車を門外に止て、案内被申たれば、少将をば内へは不入とて、侍の許に下し置、武士余多来て守護之
 宰相内へ入、源大夫判官季貞を以て、参給へるよし申入給へり。
 入道は聟の少将が事を申さん料にぞ在らん、此程風気有て不見参と云へ、曳とて出合れず。
 此由御返事申せば、宰相又季貞に被仰けるは、無由者に親く成て候、返々悔思へども、兼て不存事なれば今は云に甲斐なし、相具せる者の痛歎焦を思はじと思へども、恩愛の道とて、余に不便に覚ゆるを〔以〕いかゞ仕るべきと存る上、近産すべき者にて侍なるが、月比日比も悩なるに、此歎打副て、身々とならぬ前に命も絶えぬべく見ゆれば、相助ばやと存て乍恐角申入也。
 成経ばかりは、罪科治定の程は申預候ばや、教盛角て候へば、僻事努々有べからず、おぼつかなく思召おぼしめさるべからずと泣々なくなく口説被申けり。
 季貞又此由入道殿にふだうどのに申せば、打聞てへし口して、去ばこそとて能々心得ぬ事に思、急と返事なし。
 宰相殿は中門にていかゞ返事し給はんずらんと、今や/\と待給へり。
 入道良久有て宣のたまひけるは、成親卿なりちかのきやう此一門を亡して国家を乱らんとする企て有けり。
 去ども家門の運尽ざる間、事既すでに顕れぬ、成経と云は彼卿の嫡子也、親く成給たりとても宥申がたし、且は遼迹おもんばかりも有べし、其企本意とげば、御辺とても安穏にやおはすべき、御身の上をばいかに、よそほかの様には思給ふ、聟も娘も身に勝るべきかはと云へとて、少もゆるぎなかりければ、季貞出て此様を申す。
 宰相大に本意なき事に思て、重て被申けるは、仰の上に又申入る事その恐なれども、心中に所存を残さん事も妄念也。
 流罪にも死罪にも被定行を、免ぜられんと申さばこそ竪からめ。
 それとても縁に付日ば、寛宥せらるゝ事尋常也。
 さまでこそなからめ、罪科治定の程、暫被預置事、何の苦か有べき。
 保元平治両度の合戦には、御命に替奉り、身を捨て振舞侍き。
 向後とても荒風をば先禦ぎ奉らんと深存ず、教盛こそ老耄也共、子息等あまた侍れば、御大事の時は、一方の御固とは憑思召おぼしめすべし。
 成経を預置給はずは、二心有者と思食おぼしめすにこそ、後闇者ぞと被思穢たてまつりて、世に立廻ては何の面目か有べき。
 大中納言の望も、富貴栄輝えようの欲ほしさも、子を思故也、我身一人が事ならば、いかでも在なん。
 御一門の端と成て、是程ほどに歎申事の不叶には、世に諂て何の詮か有べき。
 今は身の暇を給たまひて出家入道し、片山陰に篭居して、後の世をこそ助め。
 世に随へば望あり、望叶はねば怨あり、恨も望も思へば共に輪廻の妄念也。
 よし/\憂世を厭ひて実の道に入らん事、可然善知識にこそ侍らめ。
 参つるまでは無由、子ゆゑと存じつるに、聞入給はねば思切なん、人の御心つよきは、我菩提の指南なるべしとまでこそ口説かれたれ。
 宰相のかく被申も理也。
 子息に通盛教経業盛とて、一人当千の人々御座しければ、荒風をばまづ可防と述懐し給たまひけるなり。
 季貞世に苦々敷思て、立帰入道殿にふだうどのに委申ければ、物にも心えぬ人かな、吐己其程ほどに聟の悲く思覧よとて、打傾て又返事なし。
 李貞は暫候て、門脇殿かどわきどのは思召おぼしめし切たる御気色に見えさせ給也、能様に御計ひ有べくもやと申ければ、入道宣のたまひけるは、成経が事たゞ家門の煩なき様を計ひ申処に、出家入道とまで被仰之上は、少将をば暫御宿所に置給へかしと渋々に宣ふ。
 李貞此旨申ければ宰相大に悦て、急少将の御座る所へ立入給、被預置こと叶まじと、再三に及びつれども、出家遉世とまで恨くどきたれば、暫宿所に具し還れと宣き、事の様後いかゞとおぼつかなしと語給へば、少将は一日の命とても疎なるべきかとて被泣けるを見給たまひて、宰相は、人の身に女子は持まじき物ぞと云は理也と、始て思知れけり。
 我子につかずはなにとて角歎べきぞ、徐外にこそ見聞べきにとおぼされけり。
 平家は保元平治より已来楽み栄は在つれども、愁歎はなかりしに、門脇殿かどわきの宰相さいしやうばかりこそ、由なかりける聟ゆゑに係る歎はし給たまひけれ。
 少将は我身の少し甘ぐに付ても、父いかゞ成給ぬらむ、かばかり暑き折節に、装束もくつろげ給はず、狭き所にこそ奉押籠たるらめと心苦さに、大納言の事はいかゞ聞召つると問給へば、宰相は一筋の御事をのみ申つれば、亜相の御事までは心も不及と答給ふ。
 少将理とは思ながら、我身の命の惜も、父の行末を知ばやと也。
 大納言の世に御座ぬ事ならんには、其子としては只同じ道にこそとて泣給ふ。
 宰相は車に乗給へども、少将は倒臥て立も上給はず。
 宰相哀に覚して其心を慰給はん為に、誠や自は奉問事は無りつるを、李貞が物語しつるは、亜相の事をば内大臣ないだいじんの様々に被申て、食事をも奉進、又休まゐらするなんど承りつれば、命のおはせぬ程の事はよもと覚ゆと宣へば、少将手を合悦て、泣々なくなく車に乗給へり。
 宰相は帰給ふ道すがら、子は有も歎き無も歎と云ながら、無はほしと楽思ばかり也、有ては旁煩多し。
 心地観経には、世人為子造諸罪堕在三途長受苦とも説、無量寿経には、不如無子とも宣べ給へり、子を思妄念に依て、今生にも心苦く、後生も悪趣に堕と見えたり。
 教盛子故にかく心を尽す事よと被思けるが、少将の我身の歎に打そへて、父の事をあながちに心苦く悲む事の哀さよ、子ならでは誰かは此程ほどに思べき。
 恩愛の道こそ糸惜けれ、子は持べかりけりと、兎にも角にも只涙をぞ流し給ふ。
 宰相の宿所には、少将の出けるより、北方を奉始て、母上乳母の六条諸共に臥沈て、いかゞ聞なさんと、肝心も消失て起もあがり給はざりけるに、宰相入給ふと云ければ、穴心憂、少将をば打捨ておはするにこそ、憑しき人には捨てられぬ、いかに心細かるらんと被歎ける処に、少将殿も同く帰入せ給と申ければ、人々泣々なくなく起上、車寄に出向て、真歟真歟と声々に問給ふ程ほどに、少将も宰相も同車して入給ふ。

 後は知ず、さて帰入給たれば、無人の蘇生たる様に悦泣の涙は、先よりも猶色深こそ見えられけれ。
 内に入て宰相宣のたまひけるは、入道の憤こと不なのめならず、対面もなし、ゆゝしく悪気なりき。
 宣事も理也つれども、李貞を以て推返推返、出家遁世して山林に籠らん、暇を給へとまで恨口説たれば、渋々に暫くとは宣つれども、始終よかるべしとも不覚と云れければ、人々始終の事はいかがはせん、今朝を限とこそ思ひ侍つるに、二度奉見事のうれしさよとぞ悦給ふ。
 此平宰相へいざいしやうと申は入道の弟也。
 兄弟多くおはしける中に、ことに此人をば糸惜おぼして、一日も見ねば恋くおぼつかなければとて、六波羅の惣門の脇に家を造て居置給たまひたれば、異名に門脇殿かどわきの宰相さいしやうと申ける也。
 係中なれば、しひても歎き暫免しも預け給けり。
 入道当時八条に御座けり。
 世もつゝましとて少将の方には、蔀の上計を上てぞ居たりける。
 大納言父子は今夕可首と披露有けれ共、其夜殊なる事無りければ、是は小松殿こまつどのと門脇殿かどわきどのとの歎教訓し給験にやと、当家も他家も、女房も男も悦申けり。
 新しん大納言だいなごん父子にも不限被召誡輩は、新判官資行をば、源大夫判官季貞に仰せて、佐渡国へ流す。
 山城守基兼をば、進の二郎宗政に仰て、淀の宿所に召置、平判官康頼、法勝寺執行俊寛をば、妹尾せのをの太郎たらう兼康かねやす承つて福原に被召置
 丹波たんばの少将せうしやう成経なりつねをば、舅の平宰相へいざいしやう教盛申預り給ぬ。
 近江中将入道蓮浄をば、土肥次郎に仰て、常陸国へ遣す。

西光父子亡事

 西光さいくわう法師ほふしは、入道の三男に三位中将知盛の乳人に、紀伊次郎兵衛為範と云者が舅也けるに依て、為範が主の三位中将に歎申、中将又様々に預り候はんと被申けれ共、入道不用給、責ては手に懸んより、聟にて侍べれば為範に預給候へと、低臥被申けれ共、種々の悪口申たりけるに依て、入道終に聞入給ず、口を割れて被禁置たりけるを、松浦太郎高俊承つて朱雀大路に引出し、なぶり切にぞ切てげる。
 郎等三人同被切。
 見聞の者中に、哀西光さいくわう法師ほふしは詮なき悪口して口を割るゝのみに非ず、終に被切ぬる無慙さよ、倩事の心を案ずるに、雖冠古猶居頭、雖履新尚蹈地、嗔れる拳不笑顔、故不順、下に居て嘲上、愚にして賢を蔑にして、かく被死ぬるこそ不便なれ、同罪にてこそ有らめども、余の輩は角はなし。
 或は流され、或は被禁てこそ有にと申ければ、不敵の者ねも有けり、終に切らるゝ者故に、よくこそ云たれ、無事ならばこそと云者も在けり。
 聞之耳こそばゆく思者は、立退人も多かりけり。
 西光さいくわう法師ほふしが子息に加賀守師高もろたか、左衛門尉師平、右衛門尉、師親兄弟三人をば、依山門之訴訟尾張国たりけるが、当国井戸田と云所に在けるを、為追討武士を被差下、師高もろたかが母聞之、急ぎ人を下して角と告げたり。
 師高もろたか折節河狩して遊けり。
 国中の者共多集て、水辺に仮屋を造並べ、遊君其数喚集て、今様うたひ琴琵琶弾、面白かりける酒宴の座へぞ告げたりける。
 師高もろたか周章あわて迷て彼配所を逃出て、同国蚊野と云所に忍居たりけるを、討手の使下向して、小熊郡司惟長、川室の判官代範朝等を相具して押寄、散々さんざんに戦ふ。
 師高もろたか、師平、師親、兄弟三人思切て振舞けれ共終に叶ず、惟長が為に被誅けり。
 郎等三人同被誅、又主従六人が頸河の耳に切係たり。
 身は河原に倒臥、沙に交りて在けるを、師高もろたかが思ける萱津宿の遊君、僧を語ひ孝養して、骨を拾ひて堂塔に納つゝ、尼に成て後世弔けるこそ哀なれ。
 西光師高もろたか父子共に、法皇の切者にて世をば世とも思はず、人をも人共せざりし余りに、白山妙理権現はくさんめうりごんげんの神田講田没倒し、涌泉寺やうせんじの坊舎聖教焼払、末社の神与登山、日吉御輿及入洛、其上顕密之法燈智行先達に御座し、天台座主てんだいざす種々に奉讒奏しかば也。
 人の歎神の恨、三千の咒咀も不空、十二神将の冥罰も掲焉にして一門終に亡ぬるこそ無慙なれ。
 左見つる事よと云者は多けれ共、ほむる人こそ無りけれ。
 大方は女と下臈げらふとは賢き様なれ共、思慮浅き者也、西光も本は田舎の夫童なれば、無下の下臈げらふぞかし、去共一旦賢々敷心様也ければ、一天の君に奉召仕、忝く竜顔に近づき進せしかば、果報や尽けん其心大に奢つゝ、其官職にあらねども、天下の事共執行、よしなき謀叛に与しつゝ、我身も加様に失にけり、不其位其政と云事あり、相構て人は身の程の分を相計て可振舞とぞ申合ける。

西光卒都婆事

 或人の云けるは、今生の災害は、過去の宿習に報ふべし、貴賤不其難、僧俗同く以て在之、西光も先世の業に依てこそ角は有りつらめども、後生は去とも憑しき方あり、当初難有願を発せり、七道の辻ごとに六体の地蔵菩薩を造奉り、卒都婆の上に道場を構て、大悲の尊像を居奉り、廻り地蔵と名て七箇所に安置して云、我在俗不信の身として、朝暮世務の罪を重ぬ、一期命終の刻に臨ん時は、八大奈落の底に入らんか、生前の一善なければ、没後の出要にまどへり。
 所仰者今世後世の誓約なり、助今助後給へ、所憑大慈大悲の本願也、与慈与悲給へとなり。
 加様に発願して造立安置す、四宮河原、木幡の里、造道、西七条、蓮台野、みぞろ池、西坂本、是也。
 たとひ今生にこそ剣のさきに懸共、後生は定て薩埵さつたの済渡に預らんと、いと憑しとぞ申ける。

大納言音立事

 新しん大納言だいなごん成親卿なりちかのきやうをば、速に死罪に行はばやと、入道はおぼされけれ共、小松大臣の様々被宥申ければ、遉が子ながらも恥かしき人にておはすれば、其教訓も難背して、死罪までの事はなけれども、西光さいくわう法師ほふしが白状に安からず被思つゝ、大納言のおはする後の障子をあらゝかにあけて出で給へり。
 生の衣の裳短きに、白き大口を著給たり。
 聖柄の腰の刀をさし、大に嗔たる体也。
 大納言に向て、一長押上たる所に尻打係て、はたと睨給へば、大納言はあは只今被失歟、又いかなる事のあらんずるやらんと思より、いとゞ胸打騒ぎ伏目にて打うつぶき給たりければ、入道、やゝ大納言殿だいなごんどの々々だいなごんどのと呼仰て、あら悪の殿の顔やな、御辺は平治の乱逆の時失給ふべかりし人ぞかし、其に小松の内府が頻に歎申に依て、心弱く宥置奉て、頸を継、大国庄園数多給り、官位と云俸禄と云、身に余る程ほどに成給へる人の、何の飽足ずさに其恩を忘て、忽に此一門を滅さんと結構し給けるぞ、入道が咎何事に侍るぞや、一門の運依尽、今其企顕れたり、同意の北面の奴原、一々に食禁て候、御辺又加様に奉迎候へば、今は別事あらじと存ずれ共、入道に深宿意の有けん子細、謀叛悪行の企語給へ、承らんと宣へば、大納言は、人の讒言にてぞ候覧、御一門に向進せて、何事の怨有りてか左様の事思立侍るべき、努々無事也と被申たり。
 入道立直て大の音を以て、侍に人や在/\と呼給ひければ、貞能さだよし候とてつと参。
 やをれ、此に物論ずる人の有ぞ、西光が白状進よと宣へば、貞能さだよし巻物一巻持て参る、四五枚も在らんと見ゆ。
 入道自さと披て、慥に聞給へとて高声に二返読聞せ奉て、此上争か論じ給べき、穴悪の人の物論じたる顔の誠し気さよ、穴悪やとて白状を取直して、大納言の顔をすぢかへに打つて、障子を立て入給ぬ。
 入道角しても猶腹居かねて、難波妹尾を召て、大納言をめかせよと宣ふ。
 二人の武仰奉て、一間より引出し奉て壺の内に召居、数のしもとを支度したり。
 入道は壁を隔て立聞給けり。
 難波妹尾、大納言に無情当たりとて、小松殿こまつどの深く禁給たまひける事を大に恐思ければ、忍やかに大納言の耳に申けるは、上の仰なれば奉誡由なるべし、真に争か其義有べき、入道殿にふだうどの壁を隔て立聞給へり、叫給へと申て、大納言の居給へる傍をしたゝかに打ちければ、あゝ難堪、助給へや、休給へや、物申さんとのたまひければ、入道、何事ぞ暫休て、物云せよ、きかんと有ければ、経遠つねとほ兼康かねやす杖を納む。
 大納言は、我平治の乱に既すでに可首かりし者が、小松殿こまつどのに奉命、位正二位、官大納言に経上つゝ、大国数多給たまひて、官禄共に身に余たる我身の今なる果こそ悲けれ。
 平家御恩を蒙たる身也、争奉其恩、謀叛の企候べきとぞ口説給ふ。
 入道はさこそ思べき事よ、但虚言ぞ、今一度をめかせよと宣へば、又傍をぞ強打たりける。
 大納言は、あら難堪助給へ、妹尾殿、休給へ難波殿とぞ叫び給ふ。
 物に能々喩れば、罪深き衆生の、所造の業に随ひて、刑罰を蒙り、獄卒阿旁羅刹にさいなまるらん、冥途の旅の有様ありさま、角やと覚えて哀也。
 入道聞之給たまひて、少し腹居て、さばかり候へとて、又本の所へ推籠奉る。

入道院参ゐんざん企事

 入道は加様に人々禁置て後も、猶不安おぼされければ、生衣の帷の脇掻たるに、赤地錦鎧直垂に、白金物打たる黒糸威の腹巻に、打刀前垂に指、当初安芸守と申時、厳島社の神拝の次に、蒙霊夢賜ると見たりけるが、うつゝにも実に有ける銀の蛭巻したる手鋒の、秘蔵して常枕を不放被立たる、鞘はづし左の脇に挟て、中門の廊に被出たり。
 其気色大方あたりを払てゆゆしくぞ見えける。
 貞能さだよし貞能さだよしと召ければ、筑前守木蘭地の直垂に火威の鎧著て、跪て候ひけり。
 入道嗔声にて宣のたまひけるは、やをれ貞能さだよし慥に承れ、入道が過分とては、官途の涯分計也。
 坂上田村丸は、刈田丸が子也しかども、東夷の辺土を平げし忠に依て、左近大将を兼たり。
 朝敵を誅して高位に登事、異域本朝其跡相伝れり、浄海一人に非ず、君強に御憤おんいきどほり有べき事ならず、其奉公を案ずるに一度一旦の勲功に非ず、一年保元逆乱の時、平馬助を始として、親者共も半に過て、新院の御方に参き。
 一宮重仁親王の御事は、故刑部卿殿ぎやうぶきやうどのの養君にて御座しかば、旁思放進せがたかりしかども、故院の御遺誡に任て、御方にて前を蒐、凶徒を討平たりき。
 是一の勲功也。
 次平治元年に右衛門督信頼卿、下野守義朝よしとも等が振舞、入道命を惜ては叶ふまじかりしを、命を重じ身を軽じて凶党を退き、経宗惟方を召し禁しに至るまで、度々天下を鎮海内を平げて、君の御代になし進たる入道也。
 たとひ人いかに讒申とも、争か子々孫々ししそんぞん迄も捨思召おぼしめすべき。
 成親卿なりちかのきやうが讒奏につかせ御座て、一門追討せらるべき由の院中の御結構ごけつこうこそ返々遺恨の次第なれ。
 此事行綱不告知顕、不顕は入道安穏に有るべしや、猶も北面の下臈共げらふどもの中に申事なんど有ば、御軽々の君にて、一定当家追討の院宣被下ぬと覚ゆ。
 朝敵と成なん後は悔に甲斐有まじ。
 世を鎮程、仙洞を鳥羽の北の御所へ移しまゐらする歟、去ずば御幸を是へなし進せばやと思也。
 其儀ならば北面の者共の中に、矢をも一つ射出す者も有ぬと覚ゆるぞ、侍共に可用意と触べし、大方は入道院中の宮仕思切ぬ、きせなが取出せ、馬に鞍置せよとぞ宣のたまひける。
 又然べしとは云まじけれ共、是程の大事争か内府に可申合とて、急ぎ立寄給へ、申べき事等侍りと、使者を立られたりけれ共、強にさわがぬ人におはしければ、けしからず只今何事か有べきとて、急ぎ出給ふ事なし。
 其間に侍共は入道の下知に随て、弓よ矢よ、馬鞍などひしめけり。
 一門の人々も色々に出立て、つと出給はんずる体也。
 入道は小具足取付腹巻著て、中門の廊に打立給へり。
 主馬しゆめの判官はんぐわん盛国もりくに此形勢ありさまを見て、穴浅猿と思ひければ、小松殿こまつどのに馳参、世は既すでにかうと見え侍り、入道殿にふだうどの御きせながを被召たり、公達も侍も悉く被打立たり、法住寺殿ほふぢゆうじどのへ御参有て、法皇を鳥羽の御所に移し進すべしと披露候へども、実は西国の方へ御幸有べきとこそ内々承つれ、いかに此御所へ御使は不進やらんと申ければ、大臣大に騒給たまひて、使者は有りつれ共何事かは有べきと思食おぼしめしつるに、今朝の入道の気色、さる物狂しき事も有覧とて、急ぎ西八条へ被馳参けり。
 其時も猶今朝の姿にて、烏帽子えぼし直衣にて、物具したる者をば一人も具し給はず、差入て見給へば、入道既すでに腹巻を著給ける上は、一門の卿上けいしやう雲客うんかく数十人、各思々の鎧直垂に色々の鎧著て、中門の廊に二行に著座せられたり。
 諸国の受領なんどは、縁に居覆て庭にもひしと並居たり。
 馬の腹帯強しめて、手綱打係打係、旗竿共引そばめ、熊手薙鎌、手々にさゝげ、甲を前に置て、主人あと云ば、郎等さと出べき体也けり。
 小松大臣は引替、烏帽子えぼし直衣に奴袴の稜取さやめき被入ければ、人々事の外にぞ奉見。
 右大将宗盛出向て、内府の直衣の袖を引へて、是程の大事出来て、入道殿にふだうどのすでに甲冑を被帯候の上は、御装束何様にか候べきと宣のたまひければ、何事かは有べき、朝家の重事をこそ大事とは申せ、此は私事也、入道の物狂の至る所歟、武具を帯する事輒らず、重盛しげもり憖に其職に居ながら甲冑を著せん事、太不然、就なかんづく近衛大将は世の重ずる官、他に異なる職也。
 兵共も数千騎候之上は、云がひなく重盛しげもり一人物具したらば、何程の事かは候べき、礼儀を知ぬに似たり。
 夷賊朝家を乱り、凶徒勝に乗て御方敗れんとせん時は、たとひ丞相の位に至るとも、自禦戦べし、而を敵方も無其仁も不知、何に向てか合戦すべき、沙汰之趣尤以つて不審也とて、よに悪気にて尻目に懸て通られければ、宗盛卿むねもりのきやう苦々敷思給たまひ、帰入給ぬ。
 実に理也ければ、聞人々皆苦りあへり。
 内府内へ入り給へば、入道見之給たまひて、臥目にこそ成給へ、例の此内府が世を表する様に振舞とて不意得気には御座しけれども、子ながらも遉あの貌に物具して相向はん事、面早くや被思けん、物具脱置隙もなかりければ、障子を少し引立て、腹巻の上に薄墨染の素絹の衣を引懸て出給たりけるが、胸板むないたの金物のはづれて見えけるをかくさんと、頻に衣の頸を引違引違し給たまひければ、引綻ばかして、いとゞきらめきて見えにけり。
 入道はへらぬ体にて、抑此間の事、西光さいくわう法師ほふしに委く相尋ぬれば、成親卿なりちかのきやうの謀叛は事の枝葉也、実は叡慮より思食おぼしめし立と承れば、世の鎮らん程ほど、暫く法皇を奉迎、片辺に御幸なし進せんと存ず、大方近来いとしもなき者共が近習者し、下尅上して折を待時を伺て、種々の事を勧申なる間に、御軽々の君にては御座、係乱国の基をも思召おぼしめし立けり、向後とても非打解、一天之煩当家の大事、一定出来ぬと覚ゆ。
 されば奉申合ばやと存じて使者を進たれば、いかなる遅参候ぞやと宣のたまひけり。
 小松殿こまつどのは弟の右大将宗盛より上座し給たりけるが、檜扇半ばかり披仕給けるが、入道の言を聞給たまひ、双眼より涙をはら/\と流し、暫物も宣はず、先興醒て御座ければ、入道又物もいはれず、一門の殿原なりを鎮て音もせず、庭上の軍兵等皆畏て候けり。

小松殿こまつどの訓父

 内府やゝ暫く在て、直衣の袖より畳紙を取出し、落る涙を推拭被申けるは、左右の子細は暫閣、此御貌見進するこそ現とも存じ候はね。
 我朝さすがは辺鄙粟散の境と申ながら、天照太神てんせうだいじんの御子孫国の主として、天児屋根尊あまのこやねのみことの御末、朝政を掌給しより以来、太政だいじやう大臣だいじんの官に昇れる人、甲冑を著する事輙かるべしとも覚えず、就なかんづく出家の御身也。
 夫三世の諸仏の解脱とう相の法衣を脱捨て、忽に弓箭を帯し御座さん事、内には既すでに破戒無慚の罪を招き給、外には又仁義礼智信の法にも背御座覧と覚ゆ。
 旁恐ある申事にて候へ共、暫く御心を閑め御座て、重盛しげもりが申状を具に可聞召哉覧、且は最後の申状と存れば心底に旨趣を不残、先世に四恩と云事あり、諸経の説相不同に、内外の存知各別也と云ども、且く心地観経を見候に、一には天地恩、二には国土恩、三には父母恩、四には衆生恩是也。
 以之人倫とし、不知を以て鬼畜とす。
 其中に尤重きは朝恩也。
 普天之下、莫王土、卒土之浜莫王臣、されば彼頴川の水に耳を洗き、首陽山に蕨を折ける賢臣も、勅命の難背礼儀をば存とこそ承れ。
 何況倩上古を思ふに、御先祖平将軍へいしやうぐん貞盛さだもりは、相馬さうまの小次郎こじらう将門まさかどを被誅たりけるも、勧賞被行事受領には過ぎざりき。
 伊予入道頼義らいぎが貞任宗任を滅したりけるも、いつか丞相の位に昇り不次の朝恩に預し。
 就なかんづく此一門は、忝く桓武天皇の御苗裔、葛原親王の後胤とは申ながら、中比よりは無下に官途も打下て、下国の受領をだにも宥されずこそ有りけるに、故刑部卿殿ぎやうぶきやうどの備前守の御時、鳥羽院とばのゐんの御願ごぐわん、徳長寿院造進の勧賞に依て、家に久く絶えたりし内の昇殿をゆるされける時は、万人唇を反し侍けるとこそ伝承候へ。
 去ども御身は既すでに先祖にも未拝任の例をきかざりし太政だいじやう大臣だいじんを極めさせ御座上、又大臣の大将に至れり、所謂いはゆる重盛しげもりなど暗愚無才之身を以、蓮府槐門の位に至る、加之国郡半は一門の所領となり、田園悉く一家の進止たり。
 是希代の朝恩に候はずや。
 今此等の莫大の御恩を忘て、濫く君を奉傾らんと思食おぼしめし立こと、天照大神てんせうだいじん、正八幡宮しやうはちまんぐうの神慮にも定めて背き給ふべし、背朝恩者は、近は百日、遠は三年をすごさずとこそ申伝て侍れ。
 昨日までは人の上にこそ承つるに、今日は我身に係なんとす。
 其上日本はこれ神国也。
 神は非礼を受給はず。
 而に君の思召おぼしめし立処、道理尤も至極せり。
 此一門代々朝敵を平げて、四海の逆浪を鎮る事は、無双の勲功に似たれ共、面々の恩賞に於ては、傍若無人と申べし。
 聖徳太子しやうとくたいし十七箇条憲法には、人皆有心、心各有執、彼是則我非、我是則彼非、我必非聖、彼必非愚、共に是凡夫耳、是非之理、誰か能可定、相共に賢愚にして、如環無一レ端、是以彼人雖も嗔還恐我失とこそ承れ。
 依之君事の次を以て奇恠也と思召おぼしめせば、尤御理にてこそ候へ、然而御運の尽ざるによりて此事既すでに顕ぬ、被仰含大納言、又被召置ぬる上は、縦君如何なる事思食おぼしめし立と云とも、何の恐か御座べき。
 大納言已下の輩に、所当の罪科を被行候はん上は、退て事の由を陳じ申させ給たまひて、君の御為には弥奉公の忠勤を尽し、人の為にはます/\撫育の哀憐を致させ給はば、仏陀の加護に預り、神明の冥慮に背べからず、神明仏陀の感応あらば、君もなどか思召おぼしめし直す御事もなかるべき、濫く法皇を傾進せんとの御計、方々不然、重盛しげもりに於ては御供仕べしとも存侍らず。
 不父命王命、以王命父命、不家事王事、以王事家事と云本文有り。
 又君と臣とを並、親疎を分事なく、君に付き奉るは、忠臣の法也。
 道理と僻事とを並べんに、争か道理に付ざらん。
 是は専君の御理にて御座候へば、神明擁護を垂給らん。
 さらば逆臣忽に滅亡し、凶徒即退散して、八えん風和ぎ、四海浪静らん事、掌を返すよりも猶速なるべし。
 去ば重盛しげもり院中を守護し進せ侍ばやとこそ存候へ。
 重盛しげもり始は六位に叙し、今三公に列るまで、朝恩を蒙る事家に其例なし、身に於て過分也。
 其重き事を思へば、千顆万顆の珠にもこえ、其深色を論ずれば、一入再入の紅にも定て過たるらん、然者しかれば院中に参り籠り侍なん。
 其儀ならば重盛しげもりが命に替身に替らんと契を結べる侍、二百余人よにんは相随へて持て候らん、此者共は去共重盛しげもりをば捨思はじとこそ存候へ、是以て先例を思に、一年保元の逆乱の時、六条ろくでうの判官はんぐわん為義ためよしは、新院の御方に参り、子息下野守義朝よしともは、内裏に参りて父子致合戦、新院の御方軍破て、大炊殿戦場の煙の底に成しかば、院は讃州〔へ〕御下向、左府は流矢にあたりて失給ぬ。
 大将軍為義ためよし法師をば、子息義朝よしとも承つて、朱雀大路に引出し、首を刎たりしをこそ、同く勅定の忝なさと云ながら、悪逆無道あくぎやくぶたうの至、口惜事哉と存候しか、正御覧ぜられし事ぞかし、其に人の上の様に浅増と悲かりし事の、今日は又重盛しげもりが身の上に罷成ぬる事よと存こそ、心憂覚え候へ。
 悲哉、君の御為に奉公の忠を致さんとすれば、迷廬八万の頂より猶高き父の御恩忽ちに忘なんとす。
 痛哉、不孝の罪を遁とすれば、又朝恩重畳の底極がたし。
 君の御為に既すでに不忠の逆臣となりぬべし。
 雖、不臣以不、雖父不、不子以不といへり。
 云彼云此、進退こゝにきはまれり、思ふに無益の次第也。
 只末代に生を受て、係る憂目を見る重盛しげもりが、果報の程こそ口惜けれ。
 されば申請くる処、御承引なくして、猶御院参ごゐんざん有べくば、只今重盛しげもりが頸を召るべく候。
 所詮院中をも守護仕べからず、悪逆あくぎやくの咎難遁、又御供をも仕るべからず、忠臣の儀忽に背候、申し請る詮たゞ頸を召るべきにあり。
 唯今思食おぼしめし合せ御座すべし。
 御運は既すでに末に望ぬと覚候。
 人の運命の尽んとする時、加様の事は思立事にて侍り。
 老子の詞こそ思ひしられ候へ。
 功名称遂不退身避一レ位則、遇於害と申せり。
 彼漢蕭何は勲功を極に依つて、官大相国たいしやうこくに至り、剣を帯し冠を著ながら殿上に昇る事を被免しか共、叡慮に背く事有しかば、高祖重く禁て、廷尉に下して、深く罪せられき、加様の先蹤を思侍るにも、御身富貴と云ひ、栄花と云、朝恩と云ひ重職と云、極させ御座しぬれば、御運の尽事も難かるべきに非ず。
 富貴之家禄位重畳、猶再実之木、其根必傷とも申す、心細くこそ覚候へ。
 噫呼邦無道富貴恥と云本文あり。
 去ば重盛しげもり何迄か命生て、乱ん世をも見べき。
 唯速に頸を食れ候べし。
 人一人に被仰付て、御つぼに引出されて、重盛しげもりが首を刎られん事、安事にこそ候へ。
 人々是をばいかゞ聞給やとて、又直衣の袖を絞つゝ、泣々なくなく諌申けり。
 是を見給ける一門の人々も、涙を流し袖を絞らぬはなかりけり。
 入道は口説立られて、おろ涙色には御座けれども、猶へらぬ体にて、さらば今は世にもいろひ侍まじ、院参ゐんざんも思止候ぬ、其上は召誡る者共をも、死罪にも流罪にもせでこそあらめ。
 但入道かく計申す事も、全く身の為ならず、浄海年闌て余命幾なし、唯子々孫々ししそんぞん末の代までも安穏にやと存する計也。
 其事人望に背愚案の企にあらば、何様にも御計ひなるべしと宣て内へ被入けり。
 小松殿こまつどのは弟の殿原に向ひて、いかに加様のひけうは結構せられ候ぞや、縦入道殿にふだうどのこそ老耄し給たまひて、あらぬ振舞あり共、今は各こそ家門をも治め、悪事をも可宥申に、相副たる御事共おんことども候哉と被仰ければ、宗盛已下の人々苦々敷そぞろぎてぞ見え給ける。
 内大臣ないだいじんは中門廊に立出給たまひ、さも然べき侍共の並居たりける所にて仰けるは、重盛しげもりが申つる事共慥に承りつるにや、去ば院参ゐんざんの御供に出ば、重盛しげもりが頸の切られんを見て、後に仕べしと覚るはいかに、今朝より是に候て、加様の事共叶はざらんまでも申ばやと存つれども、此等が体の、あまりに直騒ぎに見えつる時に帰りつるなり。
 今は憚処有べからず、猶も御院参ごゐんざん有べきならば、一定重盛しげもりが頸をぞ召れんずらん、各其旨をこそ存ぜめ、但さも未仰られぬは、何様成べきやらん、去ば人々参れやとて、又小松殿こまつどのへぞ被帰ける。

内大臣ないだいじん兵事

 内大臣ないだいじんは、入道猶も腹悪き人なれば、院参ゐんざんの事もやあらんずらんと思召おぼしめしければ、其悪行を塞がん為と覚しくて、主馬しゆめの判官はんぐわん盛国もりくにを使にて、重盛しげもりこそ別して天下の大事を聞き出したれ、我を吾と思はん者共は急ぎ参れと被催たり。
 是を承る者共、おぼろげにては騒給はぬ人の、係る仰の下るは実に別の子細の有にこそとて、難波なんばの次郎じらう経遠つねとほ、妹尾せのをの太郎たらう兼康かねやす筑後守ちくごのかみ家貞いへさだ、肥後守ひごのかみ貞能さだよし等を始として、如法夜中の事なれども、我先にとぞ馳参りける。
 係ければ老も若も留る者はなし。
 小松殿こまつどのへとて周章あわてて参けり。
 入道は、何事ぞ世間の物騒ぎは、是に候や/\と宣のたまひけれ共、そら聞ずして馳出ければ、西八条には青女房老尼、若は筆執ばかり残たる。
 少も弓馬に携る程の者は、一人もなかりけり。
 是のみらず、夜も明ければ、次第次第に聞伝て、洛中白川の外、北山、西山、嵯峨、広隆、梅津、桂、淀、羽束、醍醐、小栗栖、日野、勧修寺、宇治、岡屋、大原、閑原、賀茂、鞍馬、大津、粟津、勢多、石山迄も聞伝て、馬に乗ものらざるも、弓を取も取らざるも、出家遁世の古入道に至迄馳参ければ、洛中辺土の騒斜なのめならず、保元平治の逆乱に物懲して、貴賤上下肝をけす。
 入道宣のたまひけるは、内府は何と思て、此等をば呼取ぬるやらんと、よく心得ずげにて、腹巻脱て素絹の衣に、長念珠後手にくりて、縁行道して、あゝ内府に中違たらんもよき大事やと宣て、いと心も発ぬ哀念仏をぞ被申ける。
 又小松殿こまつどのには、盛国もりくに承て侍の著倒しけり。
 宗徒の侍三千余人よにん、郎等乗替打具て、二万余騎よきとぞ注したる。
 内大臣ないだいじんは著倒披見の後、家貞いへさだ貞能さだよしを召して子細を下知し給たまひて、西八条へ遣れけり。
 二人の者共入道殿にふだうどのに参て、弓脇に挟申を脱高紐に懸て、庭上に候けり。
 入道殿にふだうどのは人々に捨られて、徒然の余に猶縁行道して御座けるが、此等を見給たまひてへらぬ体に宣のたまひけるは、如何に家貞いへさだ貞能さだよしよ、小松殿こまつどのには軍兵を誘引して、是には人一人もなし、所存何事ぞ、其意を得ずと宣へば、家貞いへさだ畏て、可御院参ごゐんざん之由仙洞依聞召、法皇大に驚御座て、勅定に為天下軍将之宣旨之後、経多年之間、云官位福禄、秀于先例、深可朝恩之処、還而欲国家之条、既為朝敵之上者、速に可追討之旨、所院宣也。
 昨日申入しが如、奉父弓矢を引事は有べからずといへ共、重盛しげもり今官に居し、禄を貪る上は、勅定又難背。
 此事聞食されなば、御自害もやあらんずらん、先守護し進せよ、重盛しげもり角て侍れば、御命をば奉公に申替侍らんと被仰下と申たれば、入道殿にふだうどのまづ興醒て、俄に道心も失果つゝ、実か虚言かと宣へば、一定に候と申す。
 よもさらじ、入道を矯見とてこそといはれければ、家貞いへさだは、今始て小松殿こまつどの左様の軽々敷御事有べしと不存、院宣とて軍兵の中に御披露有りしは、一定の事にこそと申時、入道大に歎給たまひていはれけるは、家貞いへさだ貞能さだよし慥に承れ、昨日申しし様に、出家入道の身也、余年日数少し、内府に奉世ぬる上は、向後は物にいろひ申す事あるべからず、院宣の御返事もよき様に可奏聞、兎も角も相計はれんにこそ奉随らめと、曳去ばとく還り行て、此由を申べしと宣へば、二人の者共は、守護に候べしとの仰也、別の御使を以て可仰や候らんと申す。
 入道の仰には、只急帰れ、我一人いづくへか落行くべき、是に不働して居べしなんど、様々怠状被申けり。
 二人帰て細に角と申せば、内府は打頷許涙ぐみ給たまひて、やをれ家貞いへさだ貞能さだよしよ、まことには勅定なりとても、争か父に向ひ奉て、無道の逆罪を犯すべき、只入道殿にふだうどの違勅の振舞をしづめ奉り、天下の煩を止との方便なりと云へども、重盛しげもりかゝる悪人の子と生れて、五逆罪の一を犯する事こそ悲けれ、いかにといへば、子の身としては我こそ何度も父の命には随奉べきに、今父に向ひ奉りて御心を傷り奉り、御怠状をせさせ奉る事の心憂さよとて、はら/\と泣き給へば、二人の者共も鎧の袖をぞぬらしける。
 其後大臣は軍兵等に仰られけるは、日比の契約たがへず、下知に随て馳参り、聞伝て参上の条、返々神妙。
 聞召す事ありて被仰たりつれども、其事聞なほしつ、僻事にありけり、とく/\罷帰べし、但今度別の事なければとて、後々の催促に悠々を存ずべからず、たとひ事無しと云とも、何度も可下知也、終には御用に叶ふべし。

幽王褒娰ほうじ烽火事

 去さるほどに異国の幽王にありき、度々の御召に事なければとて、官兵後日の催に参らざりければ、つひに国をほろぼしけり、其こゝろあるべしとぞ仰ける。
 昔異国に周の幽王と云しは、宣王の子也。
 位に付給たまひて二年と云ふ春、山川大に震動せり。
 于時伯陽甫と云人申けるは、周すでに亡なんとす。
 昔伊洛竭て夏亡、河竭て商亡たりき。
 国は必ず山川による。
 山崩河竭は亡之徴也。
 河竭ときは山必崩。
 周の亡ん事十年にすぎじと被歎けるに、次の年幽王美人を得たり、其名を褒娰ほうじと云ふ。
 いつしか懐姙して皇子誕生あり、伯服とぞ云ける。
 幽王の本の后は申候と云ふ人の女めなりけれども、彼を捨てて褒娰ほうじを后とし、伯服を太子に立給たまひければ、世は既すでに亡ぬとぞ群臣歎申ける。
 此后三千の寵愛にすぐれ、万女の綺羅に越たれども、笑事さらに御座さず。
 王心元なく思食おぼしめして、宮中に心をとゞめ給はぬにや、いかゞして笑顔を見んと思食おぼしめしけるに、大国の習朝敵を禦ぎ亡さんとて、官兵を召時は、必烽火を揚る事あり。
 烽火とは我朝の高燈篭の如く、大なる続松に火を付て、高き峯にさゝげともせば、烽火の司人是を見継て、四方の岳々峯々にともしつゞけて、国々の兵を召例あり。
 されば一月に行べき道なれども一日の内に知せけるなり、是を飛火と名たり。
 燧帝の猛火といへるは是也。
 我朝にも奈良帝の御時、東より軍おこらんとせしかば、春日野に飛火を立始て、其火を守人を被置たりき。
 春日野を飛火野と申は是也。
 異賊幽王を可傾之由聞えければ、飛火をあけて兵をめす。
 官兵馳集て旗をなびかし、戈をさゝげて、□を並べ時を作りけるに、后始て笑給へり。
 さらぬだに見目形たぐひなく、うつくしかりける上、咲ひ給たまひたりければ、いとゞ百の媚をぞ増給ふ。
 帝嬉しき事に思召おぼしめし、常に飛火を揚られて兵を集給ふ。
 或は千里の山川を分来、或は八重の波路を凌上る。
 そも軍ならねば、兵本国に帰下る。
 国の費人の歎云ふばかりなし。
 かゝりし程ほどに、幽王を亡ぼさんとて、凶賊襲来ければ、又烽火を被上たり。
 諸国の軍兵是を見て、例の后の烽火と思ければ、官軍進み参事なくして、幽王忽に滅にけり。
 さてこそ后を褒娰ほうじ僻愛とは申けれ、又は傾城とも名たり。
 都を傾と云ふ読あれば、当初は誡けれども、近来は人ごとに傾城とぞ呼ける。
 彼后幽王亡給たまひて後、尾三つある狐と成て、こう/\鳴して古き塚に入りにけり。
 狐人を蕩とては、化して婦人と成りて顔色好。
 頭は雲の鬢と変じ、面は厳き粧と成て、翠眉不挙、華の顔低たり。
 忽然に一たび笑ば、千万の態有。
 見人十人が八九は迷ぬとぞかゝれたる。
 或説云、褒娰ほうじは亀の子也。
 周□王の時、南庭に二の白龍出来て蟠居れり。
 帝いぶせく思召おぼしめしければ、可殺よし宣下せられけるを、大臣公卿くぎやう僉議せんぎありて云、竜は命長して必如意宝珠を持と云へり。
 朝家安穏の為に出現するにもやあるらんと、巫に依て死生を可定歟と奏しければ、然べしとて御占あり。
 不殺と云占也ければ、早汝が命を助く。
 速に可罷去と被宣下、二龍恩を報ずとや思けん、暫庭上に泡を吐て去ぬ。
 彼吐所の泡を見れば、さま/゛\厳しき玉也けり。
 希代の重宝也。
 末代までも朝家の宝とすべし、輙く不開とて、是を檜の唐櫃に納入て、勅封を付おかれけり。
 其後□王宣王幽王三代は、国治り民豊なりしを、幽王始て是を開き給へり。
 日記の如くには非ず、忽然として青亀也。
 王是を愛し給たまひけり。
 宮中に七歳の姫宮御座、即幽王の后に祝奉べき仁なりけるが、此亀を愛して、常に唐櫃の辺に遊給ける程ほどに、何としたりけんいまだ歯かゝざる程の御齢也けるに、亀と嫁て懐姙し給へり。
 折節天下に童部歌を歌ふ事あり。
 山桑の弓生柄の矢を以て、此国を可滅とぞ歌ひける。
 不久して男一人出来、山桑の弓生柄の矢をぞ売たりける。
 是をきゝ、聞ゆる事にこそとて、件の男を搦捕て、土の籠に誡入、七歳の懐姙の姫宮をも追捨てられたりけるが、少き御心にさまよひありき給ける程ほどに、彼籠舎の砌に迷行。
 獄人是を見るに、みめ形よのつねならずありければ、汝をば我子にすべしとて、官食を分てこれを養ふ。
 懐姙の期満て生産す、即女子也。
 無双みめよし、長大するに随ひて美人の誉れ国中に極れり。
 幽王是を召て后とす。
 此忠に依て籠舎の者も被出けり。
 此后生てより笑事なしと、云々。
 如先、山桑の弓、なまえの矢うりける者と云は、他国の王幽王を亡さん為に、陀天の法を祭り付て是を売らせり、陀天は狐也。
 山桑なまえは、陀天の三摩耶形也なりければ、かくはかり事にしたりけりと、云々。
 此事大に不審、周の代には仏法未渡真言なし、僻事にや、可相尋也。
 内大臣ないだいじんも此意を得給けるにや、今度事無とて後日の催しに、悠々を不存とは仰せけるにこそ。
 実に君の為には忠勤あり、父の為には孝道を存す、臣以不臣不有、子以不子不有と宣へる、文宣王の言に不相違ぞありける。
 法皇聞召て、今に不始事と云ながら、怨をば恩を以て被報ぬ、返々も重盛しげもりが心の中こそはづかしけれ。
 勁松彰於歳寒、貞臣見於国危と云へり。
 恥かしくも憑しくも思食おぼしめす臣也。
 南無天照太神てんせうだいじん、正八幡宮しやうはちまんぐう、春日、日吉の神明、願は小松内府より先立て、朕が命を召給へとて、竜眼より御涙を流させ給たまひけるぞ忝なき。
 東方朔が詞に、水至清無魚、人至察無友と云へり。
 嘉応の相撲の節会に、大将にて右の片屋に事行し給たまひけるに、見物の中に立たりける人の申けるは、果報冥加こそ目出くて、近衛大将に至り給ふとも、容儀心操さへ、人に勝れ給たまひける難有さよ、但此国は小国なり、内大臣ないだいじんは大果報の人也、末代に相応せずしてとく失給ふべきにやと申たりけるが、露たがはざりけるこそ不思議なれ。

登巻 第七
成親卿なりちかのきやう流罪事

 六月二日、新しん大納言だいなごん成親卿なりちかのきやうをば、公卿の座に出し奉りて、物進らせたれ共、胸むねせき喉ふさがりて、聊もめされず。
 追立の官人来て、車さしよせてとく/\と申せども、すゝまぬ旅の道なれば、座を立ちて急乗給はざりけるを、御手を取あらゝかに引立奉、うしろざまに投のせて、車の簾を逆に懸て、門前に遣り出す。
 大路にて先火丁よりて車より引き落し奉て、誡めのしもととて三杖あてたれば、次に看督長殺害の刀とて、二刀突まねをして、其後山城判官秀助宣命を含させて、又車に押乗奉りて、前後には障子をぞ立たりける。
 人の上をだにも見給はぬ事なれば、増て我身の上の悲さは、推量れて哀なり。
 軍兵前後に打囲て、我方ざまの者は一人もみえず、なにと成りいづくへ行やらんも知らする人もなし。
 内大臣ないだいじんに今一度会申さばやと宣へども、それも叶はず、憂身に添る者とては、尽せぬ涙ばかりなり。
 唐の呂房と云人、旅の空に行しかども、故宮の月に慰みけり。
 此大納言は車の物見を打塞、前後に障子を立たれば、月日の光も見給はず、西も東も不知けり。
 加様の歎の深さには、晩を待べしとも覚えざりければ、難波なんばの次郎じらう経遠つねとほを以て、成親縦いかなる浦島にはなたるとも、責ては月日の光をだにも免れて侍らば、いさゝかなぐさむ方も候なん、さしも罪深き者と思食おぼしめすとも、かばかりの御誡までや候べきなんど、内府へ被申たりければ、大臣聞給たまひて、こは不便の事也とて、月日の光はゆり給ふ。
 八条を西へ朱雀を南へ遣行けば、大内山を遥はるかに顧給ふにも、思出事のみ多かりけり。
 造路四塚をも過給へば、今を限の御名残おんなごり、心は都に留れども、車に任せて遣り行。
 鳥羽殿を過給へば、年来召仕給ける舎人牛飼共並居つゝ、涙を流し袖を絞ること理也とぞ哀なる。
 よそほかの者までも、悲を含み哀を催して、涙にむせばぬ者はなし。
 まして都に残留る者共の歎悲らんこと思ひつゞけ給ふにも、只袖をぞ被絞ける。
 我世にありし時付て仕し者の、一二千人いちにせんにんはありけれども、人一人も身にそはで、今日を限に都を出る悲しさよ、重き罪を蒙て遠き国へ行者も、人の一人身にそはぬ事やあるなんど種々独言をの給たまひて、声もをしまず泣給へば、車の前後に候ける武士共も、さすが岩木をむすばねば、各袖をぞぬらしける。
 此御所へ御幸のありしには、一度も御供に闕る事なかりきと、せめて昔のゆかしさに、今日の憂身を悲しめり。
 我宿所の前を見入て過給ふに付ても、いとゞ涙を流されけり。
 南門を過河の耳に御舟の装束とく/\とひそめけば、こはいづくへやらん、終に可失ならば、同くは只都近此辺にても失へかしと、おぼしけるぞせめての事と哀なる。
 近候ける武士を召て、是は誰人ぞと問給へば、難波なんばの次郎じらう経遠つねとほと名乗る。
 此辺に若我ゆかりの者や在と尋ねてえさせよ、舟にのらぬさきに云ひ置べき事ありと宣のたまひければ、経遠つねとほ其辺近あたりを打廻て相尋けれ共、有と答る者なし。
 可しかるべき者候はずと申せば、大納言は、などか我ゆかりの者なかるべき、世に恐てぞ出ざるらん、命に替身に替らんと云契し者共は、この程ほどにも一二百人はありけん者を、よそにて此形勢ありさまを見んと思はざるらん口惜さよ、鳥羽の御所に被候し時には、非番当番して、目にかゝらん詞にかゝらんとこそ振舞しか、世あらたまり勢いきほひかはればにや、うらめしくも云ひ置べき事を、きかじとまで思ふ覧よと、口説給へば、武き夷なれ共、流石さすが心の有ければ、すぞろに涙をすゝめけり。
 大納言は既すでに船に乗波に流れて漕行けども、心は妻子につながれて、思ひは都にとゞまりけり。
 鳥羽殿を顧給たまひて、泣々なくなく武士に宣のたまひけるは、去じ永万えいまん元年の春、鳥羽の御所に御幸ありて、終日御遊ぎよいうありしに、四条太政だいじやう大臣だいじん師長は琵琶の役、花山院中納言忠雅、按察大納言資賢は笛の役、葉室中納言俊賢は篳篥の役、楊梅の三位顕親は笙笛の役、盛定行家は打物を仕き。
 調子盤渉調、万寿楽の秘曲を奏せられしに、五六調に成て宮中澄渡り、諸人感涙を流しに、天井に琵琶の音しき。
 著座の公卿は怪を成して色変ぜしかども、君は少も御騒なし。
 何人ぞと尋可申之由、勅定を蒙りし間、成親畏て、左右の袖を掻合天井に仰向つゝ、何なる人に御座すぞ、御名乗し給へ、勅定也と申ししに、我は是摂津国つのくに住吉すみよしの辺に、居住せる小樵なり。
 君子の御遊ぎよいう、群臣管絃の目出さに、望み参れりと答て、其後は琵琶の音もせざりき。
 住吉すみよし大明神だいみやうじんの、御影向にやと、諸人身の毛竪ちし程ほどに、又池汀に赤き鬼の青き褓をかきて、扇を三本結立たり。
 誠に御遊ぎよいうの妓楽に目出給たまひ、明神のかけらせ給けるにこそとて、其よりして州浜殿をば、住吉殿とは申けれ。
 、係し時も、多くの人の中に、成親こそ宣旨の御使を勤て、奉霊神て、問答をば申て侍しが、非朝敵、今赴配所事、先世の宿報とは思へ共、憂かりける身の果かなとて、音も惜まず泣き給ふ。
 盛者必衰の理、実也とぞ哀なる。
 大納言の世におはせし昔、熊野詣などには、二瓦の三棟に造りたる舟に、次の船二三十艘漕列けてこそ下りしに、今はけしかる舁居屋形の舟の浅猿あさましかりけるに大幕引廻して、見も馴ぬ武士に乗具して、いづくを指て行とも知らず、下給けん心の中、さこそ悲く覚しけんと、押計られて無慙也。
 淀の泊の黎明に白雲係八幡山、木津殿、う殿、渚院、江口、神崎漕過て、今夜大物が浦に著給ふ。

 大納言は死罪を宥られて、流罪に定りぬと聞えければ、相見事は竪かりけれ共、是れは小松内府のよく/\入道に申給たるにこそ。
 国有諌臣其国必安、家有諌子其家必直といへり。
 誠なるかな此言とぞ、人々悦び給ける。
 此大納言の中納言にて御座し時、尾張国守にて、去嘉応元年冬の比、目代もくだいにて、衛門尉政友を当国へ被下けるが、美濃国杭瀬河にて宿を取、山門領平野庄の神人、くすを売て出来れり。
 政友是を買はんとて、直の高下を論じて、様々になぶる程ほどに、くすに墨をぞ付たりける。
 懸ければ神人等憤起て、山門に攀登つて、致訴訟間、衆徒及奏聞、聖断遅々に依て、同年十二月廿四日に、大衆等日吉の神輿を頂戴して下洛す。
 武士に仰て被防しか共、神輿を建礼門の前に奉振居、国司成親卿なりちかのきやうを流罪なり、目代もくだい政友を可禁獄之由訴申ければ、成親卿なりちかのきやうは備中国へ流罪、政友をば禁獄之由被仰下
 即西の朱雀まで被出たりしか共、同廿八日に被召返、同丗日本位に復し、中納言に成返て、嘉応二年正月五日右衛門督を兼して、検非違使けんびゐしの別当に成給ふ。
 其後目出くときめき栄給たまひて、去承安二年七月廿一日に従二位じゆにゐし給し時も、資賢兼雅を越給き。
 資賢は古人の宿老にて御座き。
 兼雅は清花英才の人にや、越られ給も不便也とぞ人々申ける。
 是は三条殿造進の賞とぞ聞えし。
 御徙移の日也。
 同三年四月十三日に、又正二位し給けるには、中御門中納言宗家卿越られ給けり。
 去々年安元あんげん元年十一月二十八日に、第二の中納言左衛門督、検非違使けんびゐしの別当権大納言に成上給ふ。
 加様に栄給ければ、越られ給ふ方様の人々は、目醒しく思嘲て、山門の大衆に咒咀せらるべかりける者をと云けるぞ恐しき。
 神明の罰も人の咒咀も、疾もあり遅もあり、遂には必報けりとぞ申ける。
 林に闌たる木は必ず風に摧、衆に秀たる者は正に怨に沈。
 たとひ高位に昇るとも、身を約しくもてなし、縦ひ栄花に誇るとも、心に驕事なかれ。
 此大納言は、官職先祖に越、朝恩傍輩に過たれば、奢る思も多かりけん、人の恨も積つゝ、角成給たまひけるこそ不便なれ。
 同三日のまだ暁、京より御使有とてひしめきけり。
 既すでに失へとにやと聞ば、備前国へと云て、船を出すべき由ののしる。
 内大臣ないだいじんより御文あり、大納言泣々なくなく披見給へば、都近片山里にも置奉んと様々誘申しつれ共、死罪を宥申だにあるに、其事努々叶まじと、入道竪宣へば力及ばず、世に有甲斐なく覚侍り、但御命計は申請ぬ、いづくの浦に御座共、御心安可思召おぼしめす、さても替行憂世の有様ありさま、よく/\思ひつゞけて念仏申永悟を開かんと思召おぼしめすべし、うきもつらきも夢の世の中、兎にも角にも現ならず、由なき妻子に心を留て、晴ぬ闇路に迷給ふな、我世にあらん程は、人々の事をば可育申なんど遊して、旅の粧様々に調へてぞ奉つれる。
 難波なんばの次郎じらうが許へも、よく/\仕へ申べし、愚にあたり奉るなとぞ被仰下ける。
 さばかり忝く思食おぼしめしける君にも別れ進せ、尻頭ともなき小君達の、糸惜く悲しきをも振捨て、知らぬ国、習はぬ旅にさすらひつゝ、都をば雲井の外に立隔、かへるさ知らぬ配所なれば、二度妻子を見事も有難しと、思残す事もなし。
 一年山門の大衆の訴により、日吉の神輿下洛して、朝家の御大事に及しも、西三条に五箇日こそ在しか、其なほ御免し有き。
 是はさせる君の御誡にも非ず、又山門の訴にもなし、こは何なる事ぞやと我身の悪事をば忘つゝ、天に仰地に臥て、喚叫び給けり。
 夜も既すでに明ければ、大納言は大物が浦より舟に乗、塩路遥はるかに漕出し、浪にぞ浮み給ける。
 難波の里に飛蛍、蘆屋の沖の舟呼ひ、武庫山下風、福原の京、渚河、和田の御崎、逆手河行来の人のしげければ、小馬の林に隙ぞなき。
 彼は須磨関屋にや、行平中納言藻塩たれつと侘にけん、此浦の事ならん。
 昔源氏の大将の流されて、月日を送り給つゝ
  秋の夜の月げのこまよわがこふる雲井にかけれときのまもみん
と詠じけんも我身の上と哀也。
 淡路の絵島を見給ふにも、昔廃太子の遷れて、波に朽せぬ絵島をば、誰筆染て写けんと、昔語もいと悲し。
 月名にしおふ明石の浦えい崎林崎、小松原高砂や尾上の松も過ければ、室の泊に就給ふ。
 藻懸の瀬戸蓬が崎やよりの浜を漕渡、備前国阿江の浦より、内海を通て皃島と云所に著き給ふ。
 都を出給にし後、日数ふれば、遠成行古里のみ恋くて、道すがら只涙のみにぞ咽び給ふ。
 はか/゛\しく湯水をだにも聞入給はざりければ、ながらふべしとも覚さゞりけれ共、さすが露の命の消やらで、此まで下り著給にけり。
 民の家の恠げなるに奉居置
 彼所は後は山、前は磯、岸うつ浪は瀝々として音幽に、松吹風は蕭々として物さびし。
 去ぬだに旅のうきねは悲きに、汗に諍涙の色、耳おどろかす波の音、いとゞ哀ぞ増りける。
 しばしは皃島にまし/\けるを、こゝは猶津宿近して人繁し、悪かりなんとて、後には難波と云所へ奉移居けり。

丹波たんばの少将せうしやう召下事

 廿日太政だいじやう入道にふだう福原より平宰相へいざいしやうの許へ被申けるは、丹波たんばの少将せうしやうをば是へ渡し給へ、都におきてはいかにも悪かりぬと覚侍り、相計て何所へも遣すべしとぞ宣たる。
 宰相聞給たまひてあきれつゝ、こはいかなる事ぞ、日数へぬれば今は異なる事あらじとこそ思つるに、又加様に宣ふ事こそ悲けれ。
 中々在し時に、左も右も成たりせば、忘るゝ事も有なましと、責の事には覚されけり。
 今は惜とても甲斐あるまじ、終にすまじき別に非、疾々出立給へと宣へば、少将は、今日までもかく延たる事こそ有難けれとて急給ふ。
 少将も北方も乳母の六条も、今更絶焦給ければ、猶も入道殿にふだうどのへ仰候へかしと人々申しけれ共、宰相は存ずる処は前に委く申き。
 其上に角宣はん事力及ばず。
 世を捨より外は何と申べき。
 乍去御命のなき程の事はよもとこそ存侍れ。
 何の浦島に御座とも、教盛が命のあらん限は何にも可音信訪憑しく思召おぼしめすべしとぞ宣のたまひける。
 少将は少き人呼出し、髪掻撫て、七歳にならば元服せさせて、御所へ進せんとこそ思しに、今は日比の有増事も云に甲斐なし、成人たらば相搆て法師になり、我後の世弔へよと涙もかき敢ず、成人に物を云様に打口説給ければ、四歳に成給御心なれば、何とは弁給はざりけめども、父の顔を見上給たまひて、うなづき給けるにも、いとゞ為方なくぞ被思ける。
 北方も六条も、此形勢ありさまを見聞きては、臥倒、音を調てをめき給ふ、理なれば哀也。
 少将は今夕鳥羽までとて急出けれども、宰相は世のうらめしければとて、今度は相具し給はず、行くも留も互に心ぼそくぞ被思ける。
 廿二日に少将は福原に下著給へり。
 妹尾せのをの太郎たらう兼康かねやす預て、宿所に奉居、是も我方様の者は一人も付ざりけり。
 妹尾は宰相の返り聞給はん事を恐けるにや、様々志ある体に労り振舞けれ共、少将は慰む方もおはせず、都の人の恋おぼされければ、責の事には哀声にて唯仏の御名を唱て、夜も昼も泣より外の事なかりけり。
 少将は備中国へ配流の由聞給ければ、相見奉事は有まじけれども、責ての恋しさの余に、大納言の御座国は幾ら程近やらん、いづくとだにも聞まほしく思て、妹尾を召被仰けるは、いかに兼康かねやす、汝が候妹尾より、大納言殿だいなごんどののおはすらん所へは、いか程かあると問ひ給へば、大納言の御座する有木の別所高麗寺と申は、備前に取ても備中の境、妹尾と云は備中に取りても備前の境也。
 両国の間に御部川とて、川を一つ阻たり。
 其間は纔に三十余町有けるを、しらせ奉りては悪かりなんとや思けん、大納言殿だいなごんどのの御渡候所へは、行程十三日とぞ申ける。

日本国広狭事

 少将被思けり、日本は是本三十三箇国也けるを、六十六に被分たり。
 越前、加賀、能登、越中、越後五箇国は、本一国也。
 中比三箇国に分たりしを、越前加賀両国の間に、四の大河あり。
 庁参の時、洪水の為に人多く損じければ、是は庁の遠き故也とて、嵯峨天皇御宇、弘仁十四年に上奏を経て、加賀郡を四郡に分ちて、加賀国と定め、能登郡広しとして、四郡に分て能登国と定む。
 さてこそ五箇国をば、越路とて道は一なれ。
 又陸奥、出羽両国、是も一也けるを二箇国に被分たり。
 一条院御宇、大納言行成の末殿上人てんじやうびとにて御座ける時、参内の折節、実方中将も参会して、小台盤所に著座したりけるが、日比の意趣をば知ず、実方笏を取直て、云事もなく、行成の冠を打落、小庭に抛捨たりければ、もとゞりあらはになしてけり。
 殿上階下目を驚して、なにと云報あらんと思けるに、行成騒がず閑々と主殿司を召て、冠を取寄せかうがい抽出して、髪掻なほし冠打きて、殊に袖掻合、実方を敬して云けるは、いかなる事にか侍らん、忽にかほどの乱罰に預るべき意趣覚えず、且は大内の出仕也、且は傍若無人也。
 その故を承て報答後の事にや侍るべからんと、事うるさくいはれたりければ、実方しらけて立にけり。
 主上折節櫺子の隙より叡覧有つて、行成は勇々しき穏便の者也とて、即蔵人頭になされ、次第の昇進とどこほりなし。
 実方は中将を召て、歌枕注して進よとて、東の奥へぞ流されける。
 実方三年の間名所名所を注しけるに、阿古野の松ぞなかりける。
 正く陸奥国にこそ有と聞しかとて、此彼男女に尋問けれ共、教る人もなく知たる者もなかりけり。
 尋侘てやすらひ行ける程ほどに、道に一人の老翁あへり。
 実方を見て云けるは、御辺は思する人にこそ御座れ、何事をか歎給と問。
 あこやの松を尋兼たりと答ければ、老翁聞て最情ぞ侍る、是やこの
  みちのくのあこやの松の木高に出べき月の出やらぬ哉
と云事侍り。
 此事を思出つゝ都より遥々はるばる〔と〕尋下り給へるにやといへば、実方さにこそと云。
 翁日、陸奥出羽一国にて候し時こそ、陸奥国とは申たれ共、両国に分れて後は出羽に侍也、彼国に御座して尋給へと申ければ、即出羽に越て阿古野の松をも見たりけり。
 彼老翁と云けるは、塩がまの大明神だいみやうじんとぞ聞えし。
 加様に名所をば注して進せたれ共、勅免はなかりける。

笠島道祖神事

 終に奥州名取郡、笠島の道祖神に被蹴殺にけり。
 実方馬に乗ながら、彼道祖神の前を通らんとしけるに、人諌て云けるは、此神は効験無双の霊神、賞罰分明也。
 下馬して再拝して過給へと云。
 実方問て云、何なる神ぞと。
 答けるは、これは都の賀茂の河原の西、一条の北の辺におはする、出雲路の道祖神の女也けるを、いつきかしづきて、よき夫に合せんとしけるを、商人に嫁て、親に勘当せられて、此国へ被追下給へりけるを、国人是を崇敬ひて、神事再拝す、上下男女所願ある時は、隠相を造て神前に懸荘り奉りて、是を祈申すに叶はずと云事なし。
 我が御身も都の人なれば、さこそ上り度ましますらめ、敬神再拝し祈申て、故郷に還上給へかしと云ければ、実方、さては此神下品の女神にや、我下馬に及ばずとて、馬を打て通けるに、神明怒を成て、馬をも主をも罰し殺し給けり。
 其墓彼社の傍に今に是有といへり。
 人臣に列て人に礼を不致ば被流罪、神道を欺て神に拝を不成れば横死にあへり。
 実に奢る人也けり。
 去共都を恋と思ひければ、雀と云小鳥になりて、常に殿上の台盤に居、台飯を食けるこそ最哀なれ。
 又備前、備中、備後、本は一国也けり。
 豊前、豊後も如此、筑前、筑後も同事、肥前、肥後もしかの如し。
 日本国は東西へ去事二千七百五十里、南北は五百三十七里也。
 筑紫よりはらかの使の上るこそ行程十五日とは聞えしか。
 是より奥鎮西なんどへ下らんこそ、仮令十二三日にも行んずれ。
 備前備中さしもの大国とは聞ざりしものを、父の御座所をしらせじとて、角は云よと被思ければ、其後は又問事もなかりけり。

大納言出家事

 二十三日に大納言は、少しくつろぐ事もやと覚しける程ほどに、少将も福原へ召下など聞えければ、いとゞ重のみ成ゆけば、姿を不替してつれなく月日を過さんも憚あり、何事を待つにか、猶も世にあらんと思ふやらんと、人の云思はんも恥しければとて、出家の志有よし、小松殿こまつどのへ被申たりければ、終には其こそ本意なれば、左在べきにこそと免されて、備中国安養寺に、調御房と云僧を請じて、備中国朝原寺にて出家受戒し給けり。
 御布施には、六帖抄と云歌双紙をぞ被渡ける。
 彼抄と申は、村上帝の第八御子、具平親王家の御集なり。
 此親王をば六条宮とも申、後中書王共申、中務親王とも申けり。
 内に道念御座して、外に仁義をたゞしくし、管絃の妙曲を極、詩歌賦の才芸に長じ給へり。
 歌道殊に巧に御座けるが、後の世の御形見とて集させ給たまひたりける草子也。
 此大納言も彼抄をば無類おぼされければ、配流の時身に付る物はなけれ共、此抄計をば是迄も被随身たりけり。
 旅の空布施になるべき物なかりければ、泣々なくなく出けるにこそ、最哀也。

信俊下向事

 大納言の北方、北山の栖ひ只推量るべし。
 住馴ぬ山里は、さらぬだにも物うかるべきに、柴引結庵の内、まだしも馴ぬ草枕、過行月日も暮しかね、明し煩有様ありさま也。
 女房侍共の其数多かりしも、流石さすが身々の捨難ければ、世に恐れ人目をつゝむ程ほどに、最後を訪ひ奉る者もなかりけり。
 其中に大納言の年比身近く召仕給ける源左衛門尉信俊と云侍あり。
 情ある男にて、時々奉事問けるが、或暮つかたとぶらひに参たりける次に、北方御簾近く召よせて宣のたまひけるは、やゝ信俊承れ、大納言殿だいなごんどのは備前国児島とかや云所へ流され給ぬとは聞しか共、此渡より尋参人一人もなし、未生て御座するやらん、又堪ぬ思に忍煩て、昔語にもや成給ぬらん、其行末をも不知、未生ても御座さば、流石さすが此渡の事いかばかりか聞まほしく覚すらん、又少き人どもの住馴ぬ山里の栖ひ、中々申も愚也、只推量給べし。
 懸憂身の有様ありさま思出て、無昔も猶忍がたかるべきに、朝夕の事叶はねば、少き者共がうき事をも不知、おそし/\と進るを聞に付ても、先立物とては只涙ばかりなり。
 今は甲斐なき身なれ共、露の命の消も失なで、明し暮すなり、聞給たまひなばいとゞ心苦こそ覚さんずれども、責の事には、加様のうき事をも恋き事をも、申ばやと思に、汝いかなる有様ありさまをもして尋参なんや、御文をも進返事をも待見ならば、限なき心の中をも慰事もやと思はいかゞすべきと宣のたまひければ、信俊涙を流して申けるは、誠年比近く召仕れ進せし身にて候へば、今は限の御共をも申べくこそ候しか共、御下の御有様おんありさま、人一人も付進する事有まじと承しかば、思ながら罷留候き。
 明暮は君の御事より外は思出事侍ず、召れ進せし御声も耳に留、御諌の御詞も肝に銘じて忘まゐらせず、年比日比身を助、妻子を育し事、君の御恵に非と云事候はず、上下品替といへども、まのあたりの御有様おんありさま共と申、西国御下向の御恋さと申、袖に余たる涙絞煩たる折節、かく承候へば、身は何様に成候共、いかゞは仕候べき、御文を給、急尋参んと申ば、北方無限悦て、細に文遊して賜にけり。
 信俊給之、泣々なくなく小島へ下けり。
 既すでに彼に行著て、預の武士に申けるは、是は大納言殿だいなごんどのの年比の侍に、源左衛門尉信俊と云者に侍り、君当国へ御下向の時も、御伴申度候しを、御方様の者をば一人も付られずと承しかば、思ながら今は限の御伴をも申さず、差も御糸惜深く食仕れまゐらせしかば、奉別後は、明暮唯此御事のみ悲く恋く思出まゐらすれば、若今一度奉見事もやと存るうへ、さこそ都の事をも君達北方の御事どもをも、聞まほしく被思召おぼしめされ候らめ、音信便も絶ぬ、伝申人もなくて、空御事にも成給なば、如何計の御妄念にかと罪深思進すれば、其御渡の事をも語申て、聊御妄念もはるゝ御心もやと存じて、遥々はるばると罷下れり。
 然べくは蒙御免て、今一度最後の見参にいり進ばやと申けるを、始は緊く恠嗔て叶まじと云けれ共、泣々なくなく掻口説云ければ、武士共涙を流し、最哀に思つゝ、何かは苦かるべきとて、終には是を免けり。
 信俊不なのめならず悦て、大納言の御座する所へ参て奉見に、浅猿あさましく悲かりける事がら也。
 奇気なる小屋に、垣には土を壁に塗廻、戸には藁のこもを懸垂たり。
 内に差入て見廻せば、藁の束と云物を敷て、痩衰たる法師あり。
 よく/\見れば大納言入道殿にふだうどのにてぞおはしける。
 下には垢付たる布の服、上には袖やつれたる墨染の衣也。
 傍には竹の杖を立て、前には縄緒の足駄を置り。
 是やこの賤が伏戸の赤土の小屋、民の住居の草の戸ざしなるらんと、心憂こそ思けれ。
 中御門高倉の御宿所より始て、所々の御山庄屋敷を尽棟を並べ、とぼそを研柱を彩、屏風障子を立交、雲繝高麗を敷満つゝ、殿には風月の双紙を取乱、琴瑟の具足を立並、庭には四季の草木枝を通合、浦の沙玉を蒔て、或は仙院仙洞の御幸も有、或は卿上けいしやう雲客うんかくの遊宴も有しかば、絃歌の妙なる声絶る事なく、海陸の珍味尽ざりき。
 車を馳る賓客は、門前事騒しく踵を継。
 男女は庭上狼藉也。
 角こそ栄給たりしに、今成給へる有様ありさまの悲さに、目もくれ心も消て、前に臥倒て喚叫外は何事も申されず。
 大納言入道も信俊を見給たまひては、墨染の袖を顔に当給たまひて、唯さめ/゛\とぞ泣給ふ。
 入道良在て宣のたまひけるは、多の者共の中に、いかにとして是迄尋下けるぞや、余に都の恋さに、夢なんどに見るやらん、更に現とは覚えずとて、こぼるゝ涙せき敢ず、悲の色ぞ深かりける。
 信俊泣々なくなく申けるは、去し六月一日より、北御方君達相具し進せて、北山の雲林院の僧坊、菩提講行ひ候所に忍つゝ、幽なる御住居、若君姫君の恋かなしみ奉る御事、今度罷下べき由、懇に仰を蒙候し事共細に申て、懐より文を取出して進たり。
 入道は世にも有難なつかしげにおぼして、披見給はんとし給へども、落涙は降雨の如くにして、文の上にかゝりければ、筆の跡も見分給はず見えければ、信俊もいとゞ袂を絞けり。
 兎角して涙の隙よりほの是を御覧ずるに、若君姫君の限なく恋悲み奉痛しさに、我身も又月日を過べき心地もなけれ共、如何にと結べる露の命やらん、強面消も失なで、焦て物を思ふ事、朝夕の煙たえて、心細く幽なる住居、思出る昔の恋しき事、若君姫君行末いかにと心苦き事、心に任する旅の御住居ならば、共に下て見、見え奉たき事、愚なる心にも、今一度上り給はぬ事やは有べきと奉待思事、丹波たんばの少将せうしやうさへ福原へ被召下給へり。
 悲き事共、細々と書つゞけ給へるを見給たまひては、日比覚束なかりしよりも、今少し悲しく思給たまひて、暫し絶入てぞ御座ける。
 信俊やゝ労り奉ければ、人心地出来給たまひて、生て物を思も悲ければ、よき次に消果べかりける物をと宣のたまひけるこそ、責の事と哀なれ。
 信俊二三日候て、泣々なくなく申けるは、角ても付添進て、限の御有様おんありさまをも見進せて、後の御孝養をも仕べく候へども、都にも見継進る便もなし、立隔ぬる御旅の空、又もと思召おぼしめす御眤言も絶や果なんなれば、今一度御返事をなり共御覧ぜばやと、罪深思召おぼしめされて被下遣たるに、日数積らば跡もなく験もなきやらんと、いか計かは御心苦く思召おぼしめされんなれば、今度は御返事を賜て、急罷上て見参に入進て、又こそ罷下候て奉公をも申、終の御事をもと申せば、入道よに名残なごり惜は被思けれ共、誠にさるべし、疾々還上、都にて待らん事も痛しし、北方少者共に能々宮仕申べし、係憂身と成ぬる上は、左にも右にも云計なし、人々の事こそ心苦く覚ゆれ、但汝が又こんたびを待付べき心地もせず、いかにも成ぬと聞ば、後世をこそ弔めとて返事細に遊ばして、剃髪の有けるを引裹て、是を形見と御覧ぜよ、ながらへて世に聞はてられ奉べしとも、今生にこそ相見事の空とも、後の世には必など、心細げに書連てたびてけり。
 信俊給之て出けるが、行もやらず、又大納言入道も、差て宣べき事は皆尽にけれ共、慕さの余には、度々是を呼び返す。
 還行べき旅だにも、程ふれば、故郷は恋きに、今を別の心の中、被推量て哀也。
 さても有べきならねば、信俊都へ上にけり。
 北山へ参て北方に御返事進たりければ、穴珍々々や、御命の今まで存へておはしけるなとて、文を披て見給ふに、髪の黒々として有けるを一目見て、此人は様替られにけるよとばかり宣て、又物も不宣、やがて引潛てぞ伏給ふ。
 其後良起居給たまひても、此髪を懐に入て、胸に当ては取出、顔に当てはもだえ給へり。
 移香も未昔に替ざりければ、差向たる様に被思けれ共、主は遠国を隔たれば、只面影ばかりなり。
 若君姫君もいづら父の御ぐしとて、面々に取渡泣あひ給へり。
 形見こそ今は還て悔しけれ、是なかりせばかくばかり覚えざらましと歎かれけるぞ糸惜き。
 新しん大納言だいなごんと俊寛僧都そうづとは宗人の事、丹波たんばの少将せうしやうは成親卿なりちかのきやうの嫡子なれば、罪科実に難遁、首を切れ給はぬ事は、小松大臣の御助也。
 康頼が無類になる事は、何の罪なるらんと無慙也。
 北面の輩あまたこそは被召誡けるに、他人は指もやは有し、此事は同意の輩、鹿谷の評定の時、瓶子の倒て頸を打折たりけるを、平氏既すでに倒たり、頸を取には過ずとて、様々振舞たりければ、満座の人此秀句を感じけるに、西光さいくわう法師ほふし折たる瓶子を取合て、猶平氏の首取たり/\と云けるを、入道聞給たまひて、かく深き罪には被行けり。
 契浅からぬ輩こそ、其座には有りけめ。
 何として漏けるやらん、後にこそ行綱が讒言とも聞えしか、天可度地可度、只不度人心と云り。
 よく/\其を知ずして、左右なく人には人の打とけまじき者と覚えたり。
 丹波たんばの少将せうしやう成経なりつねをば、福原へ召下し、妹尾せのをの太郎たらうに預置、備中国へ遣したりけるを、俊覚僧都そうづ、平判官康頼に相具して、薩摩方鬼界が島へぞ被放ける。
 康頼は都を出て配所へ赴けるが、小馬林を通るとて、
  津国やこまの林をきてみれば古はいまだ変らざりけり
と思連、やがて爰にて僧を請じ、出家入道して、法名性照とぞ云ひける。
 髪をおろし袈裟を戴とて、
  終にかく背はてける世中をとく捨ざりし事ぞくやしき
剃たる髪を紙に裹、此歌に取添へて、故郷に遣したりければ、其妻一目見つゝ、何とだにも云ずして、絶入けるこそ無慙なれ。

俊寛成経等移鬼界島

 薩摩方とは惣名也、鬼界は十二の島なれや、五島七島と名付たり。
 端五島は、日本に従へり。
 康頼法師をば五島の内ちとの島に捨て、俊寛をば白石の島に捨けり。
 彼島には白鷺多して石白し、故に白石の島と云。
 丹波たんばの少将せうしやうをば、奥七島が内、三の迫の北、硫黄島にぞ捨たりける。
 尋常の流罪だに悲かるべきに、道すがら習はぬ旅にさすらひて、そぞろに哀を催けり。
 前途に眼を先立れば、早行事を歎、旧里に心を通はせば、終に還らん事難し。
 或は雲路遠山の遥なる粧を見ては、哀涙袖を絞り、或は海岸孤島の幽なる砌に臨では、愁烟肝を焦しけり。
 さらぬだに、旅の憂寝は悲しきに、深夜の月朗に木綿付鳥も音信り。
 遊子残月に行けん、函谷の有様ありさま思ひこそ出でけれ。
 日数ふれば、薩摩国に著にけり。
 遥々はるばると海上を漕渡て、島々にこそ被捨けれ。
 此島々へは、おぼろげならでは、人の通事もなし。
 島にも人稀也。
 自有者も此土の人には不似、身には毛長生、色黒して如牛、云事の言も聞知ず、男は烏帽子えぼしもきず、女は髪もけづらず、木の皮を剥てさねかづらにしたり。
 ひとへに鬼の如し。
 眼に遮る物は、燃上火の色、耳に満る物は、鳴下雷の音、肝心も消計なれば、一日片時堪て有べき心地せず。
 賤が山田も打ざれば、米穀の類も更になく、園の桑葉も取ざれば、絹布服も稀也。
 昔は鬼の住ければ、鬼界の島とも名付たり。
 今も硫黄の多ければ、硫黄の島とぞ申ける。
 少将は中々被首たらんはいかゞせん、生ながら係悲き島に放れて、憂目をみん事の罪深さよと思はれける中にも故郷に残留て、此島の有様ありさま伝聞て歎らんこそ無慙なれと、覚しけるこそ哀なれ。
 此人々始には三の島に被捨、所々に歎けり。
 彼海漫々として風皓々たり。
 雲の浪煙の波に咽らん。
 蓬莱、方丈、瀛州の、三の神仙の島ならば、不死の薬も取なまし。
 此島々の中には、慰事こそなかりけれ。
 責ては三人一所にだにあらば、悲事も憂事も互に語て心をもやりなん、島をかへ海を隔て、所々に歎けるこそ無慙なれ。
 少将には門脇殿かどわきの宰相さいしやうより訪給けれ共、二人をば助る者もなし。
 僧都そうづも入道も、身も悲しく人も恋しかりければ、後には網舟釣舟に手をすり腰をかゞめつゝ、俊寛も康頼も、硫黄が島へぞ寄会ける。
 少将と判官入道とは、痛く思沈たる事はなし。
 浦々島々見巡て、都の方をも詠けり。
 僧都そうづは強歎痩て、岩の迫に苔の下に倒伏て、浦吹風に身を冷る事もなく、岸打浪に思をも消ざりけり。
 判官入道は、泣悲ても由なし、只仏の御名をも唱神にも祈申てこそ、二度都へ帰上らん事をも願、後世菩提をも助めとて、己が能也ければ、歌をうたひ舞をまうて、島の明神に手向けり。
 端島の者共、時々来て見けるが、興に入て舞などしけるぞ、歎の中にもをかしかりける。

康頼造卒都婆

 判官入道は都の恋さも猿事にて、殊に七十有余の母の、紫野と云所に在けるを思出侍けるに、いとゞ為方なくぞ思ける。
 流されし時かくと知せまほかしけれ共、聞給なば悶焦給はん事の痛はしくかなしさに、角とも云ずして下たれば、ながらへて今迄もおはせば、此形勢ありさまを伝聞ていかばかりかは歎給はんと、云つゞけては、唯泣より外の事なし。
 悲さのあまりには、角ぞ思つづけゝる。
  薩摩潟沖の小島に我ありと親には告よ八重の塩風
  思やれ暫しと思ふ旅だにもなほ故郷は恋しき物を

 千本の卒都婆を造り、頭には阿字の梵字を書、面には二首の歌をかき、下に康頼法師と書て、文字をば彫つゝ誓ける事は、帰命頂礼きみやうちやうらい熊野三所権現、若一王子、分ては、日吉山王々子眷属、惣而は上梵天帝釈、下竪牢地神、殊には内海外海竜神りゆうじん八部憐を垂給、我書流す言葉、必風の便波に伝に、日本の地につけ給、故郷におはする我母に見せしめ給へと祈つゝ、西の風の吹時は、八重の波にぞ浮べける。
 行に百行あり、国土を治謀、善に万善あり、生死を出る勤なり。
 卒都婆は万然の随一、諸仏是を勧喜し、孝養は百行の最長、竜天必ず哀愍す。
 漫々たる海上、塩路遥の波の末、必左とは思はねど、責ても母の悲さに、角してこそは祈けれ。
 思ふ思も風と成、願ふ願もこたへつゝ、竜神りゆうじん納受を垂給たまひ、新宮の湊に卒都婆一本寄たりけるを、浦人是を見咎て、熊野別当に奉りたれ共、世を恐たりけるにや、披露はなし。
 安芸の厳島にも一本付たりけり。
 折節判官入道のゆかり也ける僧、康頼西海の浪に被流ぬと聞ければ、何となく都をあくがれ出て、西国の方へ修行し行けるが、便風あらば彼島へも、渡らばやと思ひけれ共、おぼろけにては船も人も通はず、自商人などの渡るも、僅わづかに日よりを待得てこそ行など申ければ、いかにも尋行べき心地もせずは有けれども、安芸国までは下にけり。
 厳島明神に参詣して、両三日ぞ有ける。
 当社の景気を拝すれば、後は翠嶺山高して、吹風効験の高事を示し、前には巨海水深して、立浪弘誓の深事を表す。
 さす塩社壇を浸す時は、紺瑠璃を瑞籬に敷かと疑はる。
 引塩神前を去時は、合浦の玉を庭上に蒔歟とうたがはる。
 和光わくわう同塵どうぢんの利益は、何もとり/゛\なりといへ共、海畔の鱗に、契を結給らん、因縁誠に知難し。
 参詣合掌の我までも、八相成道の結縁は、憑しくこそ思けれ。
 此神明をば、平家の大相国たいしやうこく深く崇敬し給事ぞかしと思出るも恐し。
 繖取敢ぬ事なれば、只法施をぞ手向奉ける。
 心中に祈念申けるは、帰命頂礼きみやうちやうらい、和光わくわう垂迹当社権現、硫黄島流人康頼が生死知せしめ給へ、猶も存命あらば、夜の守昼の守と成給たまひて、浪の便の言伝をも聞しめ、再故郷の雲に返し入しめ給へと、祈けるこそ哀なれ。
 終日念誦したりける晩程ほどに、社司神女御前の渚に遊覧す。
 月の出塩満けるに、そこはかともなく浪に流るゝもづくの中に、卒都婆一本見え来る。
 あやしや何なる事にかとて取上見之ば、二首の歌を書、下に康頼法師と書付たり。
 各手々に是を取渡し、歌を詠じて哀なる事也。
 作者何者やらんと云ける中に、社僧の有けるが云けるは、糸惜事かな、是は一年都より薩摩方硫黄島へ、三人の流人有りき。
 法勝寺の執行俊寛、丹波たんばの少将せうしやう成経なりつね、平判官康頼也。
 此康頼法師が故郷も恋く、恩愛の親も悲くて、角書流せるにこそ、懸様昔も有とこそ聞、是をば如何情なく捨ては置べき、都の妻子もさこそ恋し悲しと思て、ゆくへ聞まほしかるらめ、如何して是を故郷の親き者の許へ、急ぎ慥に付べきとぞ申ける。
 ゆかりの僧も見聞けり、心も消涙もこぼれて嬉く悲かりける、中にも是は明神の御計にやと、忝貴ぞ思ける。
 社僧此僧を語ひ申けるは、やゝ修行者の御坊、もし都へ上給はば、此卒都婆を事伝申さん、慥に平判官康頼が妻子の許へ伝給なんやといへば、僧答て曰、此事承るに、よにも有難く哀なる事にこそ、修行者の習、宿定らぬ事なれども、本都の者にて侍りしが、折節都へ還上侍、康頼がゆかりほの知て候へば、たしかに伝送べし、且は明神も御照覧候べしとて、件の卒都婆を請取て、笈の肩に挟み、泣々なくなく都へ上にけり。
 母の尼公妻子親類招集て見せたりければ、もだえこがれ泣悲みける心の中たゞ推量るべし。
 康頼は卒都婆に歌を書、名を注し、文字をば彫刻、其に墨を入たれば、塩にも浪にも消ずして、鮮にこそ見えたりけれ。
 此事京中に披露有ければ、既すでに及叡聞、彼卒都婆を被召つゝ、叡覧有りて竜眼より御涙を流させ給たまひ、康頼法師未ながらへて、彼島に有らん事こそ不便なれ、水茎の跡なかりせば知らざらましとて、御むつかり有ければ、御前に候ひける人々も各袖を絞けり。
 小松内府の被参たりけるに、康頼法師が歌哀にこそとて賜下されたりければ、大臣も打見給つゝ涙ぐみて御前を立て、父の入道に奉たれば、相国禅門もさすが哀にこれ覚しけめ。
 係ければ判官入道未都へ帰上らざりけれ共、此歌は上下哀に翫けるとかや。

和歌徳事

 凡和歌は、国を治人を化する源、心を和思を遣基也。
 故に古の明王、月の夜雪の朝、良辰美景ごとに、侍臣を召集めて、夢の歌を奉らしめて、人の賢愚を知召といへり。
 奈良御門の往躅より始て、延喜天暦の以来、夜の雨塊を穿たず、秋の風枝を鳴さぬ御代には、必ず勅撰ある事今に絶ず、只住吉すみよし玉津島の此道の崇神たるのみに非ず、伊勢、石清水、賀茂、春日より始奉て、託宣の詞は夢想の告、何も歌に非ざるは少し。
 霊神の御歌に名を連、明王の御製に肩を並事、此道の外は又何事かは有るべき。
 能因が歌には三島の明神納受し、小式武が歌には冥途の使を退くと見えたり。
 唯治世の基、神道の妙に叶のみに非、又仏法の正理にも通ずる故にや、清水の観音は、しめぢが原のさしも草と詠給、善光寺の如来によらいは、厩戸の王子に贈答し給へり。
 凡三十一字は、無間頂を除いて三十二相にかたどり、五句六義の趣は、五輪六丈の瑜伽ゆがを顕す。
 此故にや行基菩薩、婆羅門僧正そうじやう、伝教大師、慈覚より以来、或は釈門の棟梁、法家の竜象、或は名を玄地に遁れ、跡を白雲に暗くする人、此道に携ざるは稀なり。
 玄賓僧都そうづは、山田を守りて、秋果ぬればと恨み、空也上人は、市の中にも墨染の袖と詠じ給ふ。
 されば西行法師が夢にも、時澆季に及、世末代に臨て、万事零落すれども、歌道計は猶古におとらずといへり。
 判官入道も、難波津の言の葉、卒都婆の面に書集、海へぞ入たりける。
 薩摩方より、新羅、高麗、震旦、天竺、島々国々にも寄つらん。
 異国なればよもしらじ、縦一丈二丈の木也共、漫々たる海上茫々たる繁浪に、争か当国に来べき。
 況や一尺二尺にはよも過じ。
 祈る祷も叶つゝ、竜神りゆうじん恵を顕して、当社の砌に付寄けり。

近江石塔寺事

 大江定基三河守に任じて、赤坂の遊君力寿に別て、道心出家して其後、大唐国に渡、清涼山に参たりければ、寺僧毎朝に池を廻る事あり。
 寂照故を尋れば、僧答て曰、昔仏生国の阿育王、八万四千基の塔を造、十方へ抛給たりしが、日本国江州石塔寺に一基留り給へり、朝日扶桑国に出れば、石塔はるかに影を此池に移し給ふ。
 故に彼塔を拝せんが為に此池を廻る也とぞ申ける。
 寂照上人聞給たまひて、信心骨に入、随喜肝に銘じて、墨を研筆を染、其子細を注しつゝ、震旦にして大海に入たりけるが、播磨国僧位寺へ流寄たりけるも、角やと思ひ知られたり。

智巻 第八
漢朝蘇武事

 昔漢武帝の時、故国の凶奴朝家に不随ければ、李陵を大将軍とし蘇武を副将軍として、胡国の王単于を被責けり。
 漢朝より彼国へは五万里の道なれば、九年に一度行還程也。
 胡国の狄、城を百重に構たり。
 李陵勅を重じ命を軽じて、先陣に進て攻戦。
 狄不堪して引退。
 勝に乗て攻入つゝ、九十九の城を靡しけり。
 李陵今一の城に打入て見に、凶賊退散して只胡国の美人のみ有。
 官軍乱入ければ、美人歎て云、天命を背たてまつるに依て、妾が輩ども、或は身命を亡し或は行方を知ず、生ても別、死ても別れぬ。
 願は漢の使、我等を助よと悲泣。
 李陵敵の謀とは不知して、胡国の女に心を移て遊ける処に、凶奴四方を打囲み、李陵を生捕にしけり。
 副将軍に引へたる、蘇武生年十六歳、心うしと思て死生不知に戦けれ共、大陣破ぬれば残党不全習にて、蘇武も同く虜る。
 胡王議して云、大将二人は定是漢朝の功臣ならん、徒に命を断事不然、罪を宥て我国の臣下とすべしとて、自余の兵は皆片足を切て追放つ。
 死する者は多、助る者は希也。
 李陵此形勢ありさまを見て終に胡王に従へり。
 蘇武未随ざりければ、胡王語て云、汝命を助けんと思はば我に従へ、将相として召仕んと。
 蘇武答て曰く、我忝漢王の勅を蒙て、汝等従へん為に此国に来れり。
 何ぞ死を遁れんが為に、還て狄の類にくつせんといへば、胡王大に嗔て、武を悩事二年、後には囚に籠て食を絶。
 蘇武羊の毛に雪を裹て食しつゝ、不死ければ、胡王いよ/\其賢なる事を知て、囚より出して誘て云、我に公王と云秘蔵の娘あり、形世に勝たり、汝に与て将相とせんといへ共不従。
 胡王問て云、命は人の宝也、官は人の品也、汝何ぞ将相には不成、空く身を亡さんとすると。
 蘇武答云、授妻為相、汝当不仁、任身受死、我為忠臣といへば、胡王不力、北海の辺に放捨て、羊をぞ飼ける。
 漢王此事を伝聞給たまひて、蘇武は実に功臣也、李陵は二心有とて、父が死骸を堀起し、老母兄弟罪せらる。
 蘇武は甲斐なき命は生たれ共、形を宿す奇の臥戸もなく、飢を支る朝夕の食物もなし。
 韋いこう毳幕以之禦風雨、羶肉酪の漿かれを以て飢渇を休、年月を送ければ、故郷の恋さ不なのめならず
 角て海辺野沢田中などに迷ひ行ける程ほどに、後には禽獣鳥類も見馴て驚事なし。
 繋ぬ月日明暮て、十九年をぞ経たりける。
 秋の鴈の連を乱らず飛けるに、蘇武天に仰て、歎云、春は北来の翅、秋は南往の鳥なり、我旧里をも飛過らん、心あらば言伝せんと云ければ、天道哀とや覚しけん、二羽のかりがね飛下、蘇武が前にぞ居たりける。
 武悦て指を食切て血を出し、一紙の文を書つゝ鴈の翅に結付たりければ、南を指て飛行ぬ。
 漢昭帝上林苑に御幸して、木々の紅葉叡覧有ける折節、秋のたのむの鴈、雲居遥はるかに飛けるが、一紙の書を落したり。
 帝怪思召おぼしめし、取上是を御覧ずれば、蘇武が状にぞ有ける。
 其状に云、
  昔籠巌穴之洞、徒送三春之愁歎、今放稽田之畝、空同胡敵之一足、設身留
  永朽於胡国、必神還再仕于漢君
とぞ書たりける。
  昔為帝闕之近臣、今同一足之諸鳥、悲涙空成野外之露、争帰故郷再仕漢王
是を叡覧有て、さては蘇武は未胡国にあり、争か空く他国の民となすべきとて、昭帝胡王単于に眤をなし給たまひ、金銀の宝を遣して、蘇武を贖給ければ、単于蘇武を許して漢宮へぞ返しける。
 李陵見之、いかなれば大将軍に被選て、一人は召返し、一人は沈らん、心憂や我年来君に仕奉て二心なし、命を重じ忠を尽すといへ共、官軍敗て誤つて虜れぬ。
 不如素懐を遂んと存じて、一旦凶奴に仕て終に胡狄を亡し、必漢宮にかへらんと、而も父が死骸を堀起し、老母兄弟罪せられけんこそ悲けれとて、一巻の書を注してぞ進じける。
 其中に、
  双ふ倶北飛 一ふ独南翔 余自留新館 子今帰故郷
とぞ書たりける。
 蘇武は十六にして胡国に行、十九年を経て後、三十五にて旧里に帰る。
 盛なりし年なれども、胡国のもの思に、鬢鬚白く成て、漢王の御前に参て、単于に被虜て、十九年悲みを含みし事、官兵悉片足を切れし事語申て、其後に李陵が一巻の書を進。
 漢王叡覧有て御涙を流、大に後悔し給へ共無力。
 去共蘇武は旧里に帰て再妻子を見のみに非、後には典属国と云官を賜て君に仕へ奉。
 孝宣皇帝の御宇、神爵二年に、八十余にして薨じけり。
 甘露三年に帝功臣四十二人を麒麟閣に昼し給けるに、蘇武其中にあり、一紙の鴈の書なからましかば、争か加様の幸有べき。
 去ば是よりして、文をば鴈書とも雁札とも云、使をば雁使とも名付たり。
 善友悪友両太子事
 鳥の翅に書を付事、天竺にも有けり。
 波羅奈国、月蓋王に二人の太子御座す。
 善友、悪友と云。
 兄の善友太子、弟の悪友太子に眼を被損たりければ、今は位を継べきに非とて、諸国に流行し給けるに、母后太子の行末を悲て、御書をあそばし、善友太子の年比飼給たまひける鷹の頸に被懸たりければ、其鳥高飛去て、是を太子に奉たりとぞ、報恩経には説れたり。
 蘇武は漢家の勅使也。
 一紙の筆の跡、鴈金雲井を通、康頼は本朝の流人也、二首の歌の詞は、卒都婆浪路を伝へたり。
 彼は十九の春秋を送迎、是は三年の月日を明し暮しけり。
 上代末代時替り、漢家本朝所異なれども、ためしは同じかりけり。
 理や彼は天道哀みを垂給たまひ、是は神明恵を施し給へばなり。

康基読信解品

 平判官康頼が嫡子平左衛門尉康基は、摂津国つのくに小馬林まで父が供して見送たりけるが、康頼出家してければ、康基其より還上、精進潔斎して、日数を百日に限て、清水寺へ参詣し、信解品を読誦どくじゆす。
 隔夜する折も有、夙夜する時もあり。
 願は大慈大悲千手千眼憑をかけ志を運べば、朽たる木草も花さきみのると御誓ある也。
 如来によらいの金言誤なく、薩埵さつたの誓約誠あらば、今生に再父を相見せしめ給へと、三千三百三十三度の礼拝をぞ奉る。
 既すでに八十余日も積けるに、硫黄が島にて判官入道の夢に、海上遥はるかに詠れば、白き帆懸たる船一艘走来り、近付を見れば嫡子康基此舟にあり。
 舟の帆には妙法蓮華経信解品と銘を書り。
 急舟を付て、左衛門尉が下来れかし、余に都も恋きに物語ものがたりせんと思ひ、能々見れば舟にはあらで、白馬に乗たりと見て打驚ぬ。
 何なる妄想やらんと汗押拭て、人にも不語、都へ還上て、子息康基に語たりければ、康基此を聞て、貴にも涙、うれしきにも涙也。
 泣々なくなく語けるは、我信解品を転読して百日清水寺の観音に祈誓し奉き、観音は白馬に現じ給ふなれば、掲焉御夢想ごむさう也とて、父子感涙を流しけり。
 さても康基、観音の御前にては、観音品をこそ可読に、信解品を読ける事は、此品に賢き長者、愚なる子を失て、跡を同居の塵にとゞめて、二度親子互に見事を得たり。
 以之一実の慈悲、求子不得、中止一城、伺窮子之機、父子相見後、初脱瓔珞之衣といへり。
 されば父子再会の金言を憑て、此品を読ける也。
 彼は三千塵点、子を失て父かなしみ、此は三年の春秋、父を被流て子哀む、愛敬之道は、中心より出たれば、父子の情ぞ哀れなる。

大納言入道薨去事

 大納言入道殿にふだうどのは、少将も硫黄島へ流され、北方の君達も、此彼に逃隠れて安堵せずなど聞給たまひては、いとゞ心憂思食おぼしめし、日に随而弱給けり。
 七月十日比よりは、起臥も輙らず、かく痛苦給へども、跡枕に侍て湯水を進る者もなし。
 何事に付ても唯故郷の人々のみ恋く、今一度相見事のなくて露の命の消なん事をぞ歎給ふ。
 適見ゆる物とてはあらけなき武士也。
 大納言入道をば急ぎ可失と六波羅より難波が許へ被下知たりければ、直に足手をきり奉首こと、流石さすがかはゆくや思けん、不知して奉失とて、深きがけの底にひしを植て、突落してぞ殺しける。
 只一度に刎首たらば、尋常の習にて有べきに、心うくも計たりけりと、無情こそ云けれ。
 其より取挙て、備前備中の境なる、有木の別所と云所に送捨、形の如穴を掘、石を畳て奉納。
 難波が後見に、智明と云法師あり。
 加様のかまへ、此法師ぞ奉行したりける。
 其故にや女子三人持たりけるが、俄に物狂しき心地出来て、一人は深き筒井に落入て死ぬ。
 二人は竹の林に走入て、竹の利杙に貫かりて失にけり。
 大納言入道の死霊の故にやと、人皆舌を振て怖合けり。
 智明恐をなし、社を造て怨霊を祝ひ奉る。
 智明が若宮とて今に有り。

大納言北方出家事

 大納言の北方伝聞給たまひて、相見事はなけれども、露の命の未消給はずと聞つる程は、心苦しながら頼しくて、ながらへば、もし奉見事もやとて、つれなく髪をも落さゞりつるに、隠給けるにこそ、今は甲斐なしとて、自ら御髪をはさみ下し、雲林院の菩提講に忍参り、出家して戒を持ち、如形追善をも其にてぞ営給たまひける。
 若君閼伽をむすぶ日は姫君花を摘、姫君燈を挑ける折は、若君香を焼、明ても暮ても、両共に、父の菩提を弔給ふも哀也。
 昔皇門鳳城に仕へて、恣に槐門の春の花を詠ぜしに、今は民烟蝸屋を遷て、望郷の暁の露に埋れけり。
 楽尽て悲来るなる、天人の五衰も角やと覚えて無慙也。

讃岐院事

 新院讃州配流の後は讃岐院と申けるを、廿九日に御追号有て、崇徳院とぞ申ける。
 去る保元元年七月に当国に遷され御座て、始は直島に渡らせ給けるが、後には在庁一の庁官野大夫高遠が堂に入せ給けるを、鼓岡に御所を立て奉居、御歎の積にや、御悩の事有ければ、関白殿くわんばくどのへ能様に申させ給へと仰有けれ共、世を恐させ給たまひつゝ御披露も無りければ、思召おぼしめし切らせ給たまひて、三年の間に五部大乗経をあそばし集て、貝鐘の音もせぬ遠国に捨置進せん事、心憂く覚え侍るに、御経ばかり、都近き、八幡鳥羽辺迄、入まゐらせばやと、御室へ申させ給けり。
 其御書云、昔は槐門崇べうの窓にして玉体遊宴の心をやすめ、今は離宮外土の西海の波にくだかれて、江南浮沈の哀声を加ふ。
 嵐松を払て独筵に月を見。
 争か再、旧郷に還て、自玉聖の気を成ん。
 月西山に傾けば、都城仙宮の暁の詠を思出。
 日晨岳に出れば、竜楼竹園の甚しき興を忘ず、早く民煙蓬屋の悲涙を止て、必三仏菩提の妙位に昇らんとあそばして、奥に一首の御製あり。
  浜千鳥跡は都へ通へ共身は松山に音をのみぞ啼
 御室より此御書を以、関白殿くわんばくどのへ被仰けり。
 関白殿くわんばくどの又内へ被申たりければ、少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいを召て仰含らる。
 信西さる事争か候べきと、大に諌申ければ、御免もなかりけり。
 讃岐院此由聞召れては、御心憂事也。
 天竺、震旦、新羅、高麗にも、兄弟国を論じ、叔父甥位を諍て、致合戦事、尋常の習なれども、依果報、兄も負甥も勝、されども手を合膝を折て降人に成ぬれば、辛罪に行るゝ事やはある。
 我今悪行の心を以、係苦みを見れば、今生の事を思捨て、後生菩提の為にとて書奉る、五部の大乗経の置所をだにも宥されねば、今生の怨のみに非ず、後生までの敵にこそと仰られて、御舌のさきを食切給たまひ、其血を以て御経の軸の本ごとに、御誓状をぞあそばしける。
 書写し奉る処の五部の大乗経を以て、三悪道に抛籠畢。
 此大功徳の力に依、日本国の大魔と成て、天下を乱り国家を悩さん、大乗甚深の回向、何の願か不成就じやうじゆ哉、諸仏証知証誠し給へ、顕仁敬白とあそばし、誓はせ給たまひて其後は、御爪も切せ給はず、御ぐしも剃せ給はず、生ながら天狗の貌に顕れ、御座けるこそ恐しけれ。
 小河侍従入道蓮如とて、世捨上人あり。
 昔陪従にて公事勤ける時、御神楽などの次に、自幽に見参に入進せける計なれば、さしも歎き思進すべきにしも無れども、大方情深き人にて、只一人自負かけて都を迷出、はるかに讃岐国へ下りにけり。
 御所の渡に余所ながら立回て見けるに、目も当られぬ御有様おんありさま也。
 いかにもして内に入り、角と申入ばやと、志深く伺けれ共、奉守ける武士はげしくとがめければ、空く日も暮にけり。
 折節月隈なかりければ、蓮如心を澄して笛を吹て、通夜御所を廻、暁方に黒ばみたる水干袴きたる人内より出たり。
 便を悦て相共に内に入、事の体を見に、草深しては朝の露袖を湿し、松高しては夜の風膚を融す。
 人跡絶たる庭上に、奇げなる柴の御所、まことにいぶせき御住居也。
 伝聞しよりも猶心憂く悲しかりければ、中々無由下にけりとぞ思ける。
 哀哉姑射山の上にしては、曇らぬ月を詠め、蓬莱洞の内にしては、四海の波を澄し御座しに、庭の千草は枝かはし、往還人も絶果て、賤か宿戸の庵より猶うたてき様なれば、蓮如涙に咽けり。
 さても有つる人して角と申入たりければ、院はさしも恋しき都の人なる上、昔御覧ぜし者なれば、御前へも被召度は思召おぼしめしけれ共、問につらさも思し出ぬべし。
 又係浅増あさましき御貌を見えん事も憚あれば、中々無由とて、只御涙をのみぞ流させ給ける。
 御気色角と申ければ、蓮如誠にもとて、一首を詠じ、見参に入よとて、
  朝倉や木の丸殿に入ながら君にしられで帰る悲しさ
 御返事あり。
  朝倉やたゞ徒に帰すにも釣する海士の音をのみぞ啼
 蓮如いと悲く覚て、是を笈に入つゝ、泣々なくなく都へ帰上る、哀にやさしく聞えし。
 其後長寛二年の秋八月廿四日、御年四十六にて、支度と云所にて終に隠れさせ給にけり。
 讃岐御下向之後、九年にぞ成給ける。
 白峯と云山寺に送奉り、焼上奉りけるが、折節北風けはしく吹けれ共、余に都を恋悲み御座けるにや、煙は都へ靡きけるとぞ。
 御骨をば必高野へ送れとの御遺言有けるとかや。
 鳥羽院とばのゐんの北面に佐藤兵衛尉義清と云し者、道心を発し、出家入道して西行法師と云けるが、大法房円意と改名して、去仁安二年の冬の比、諸国修行しけるが、中比のすき者にて、東は壺の石、歩夷が島、西は金の御崎、松浦の沖、名処旧跡の歌枕を歩み、見ぬ所はなかりけり。
 不破の関屋に留ては、月には雲のふはと云、武蔵野を過とては、柏木の葉守の神を恨けり。
 実方中将の墓にては、一村薄を悲み、白川の関にかゝりては、関屋の柱に筆を止む。
 四国の方の修行を思立けるときは、江口の妙に宿をかり、仮の宿と読しかば、心とむなと返しつゝ、一夜の宿をぞ借にける。
 讃岐国へ入て、松山の津と云所に行きぬ。
 こゝは新院流されてわたらせ給たまひける所ぞかしと思出し、昔恋しく尋まゐらせけれ共、其御あともなかりければ、竜顔奉公の古より、鵝王帰依の今までも、御事忝く哀に覚えければ、
  松山の浪に流れてこし舟のやがてむなしく成にける哉
と打詠て、支度と云山寺に遷らせ給たまひても年久成にければ、御跡なきも理に覚て、御墓はいづくぞと問ければ、白峯と云山寺と聞て尋参りたりけるに、あやしの下臈げらふの墓よりも猶草繁し。
 いかなる前世の御宿業にかといと悲し。
 昔は清涼紫宸の玉台に、四海の主とかしづかれ御座しに、今は民村白屋の外土に、八重の葎に埋れ給へる事、御心うき事なれ共、翠帳紅閨の中に、三千の君と仰がれ、竜楼鳳闕の上に、二八の臣とあがめられて、弁才世にかまびすしく、威勢朝に振し人々も、名ばかり留る世の習、咸陽宮も徒に、片々たる煙と昇、姑蘇台も空ぢやうぢやうたる露繁し。
 宮も藁屋もはてしなし、兎ても角ても世の中は、只かげろふの仮の宿、すみはつまじき所也とて、西行古詞を思出て、
  松樹千年終是朽、槿花一日自成栄
と詠じつゝ、暫くこゝに候ひけれども、法華三昧つとむる、住持の僧もなく、焼香散華を奉る、参詣の者も無りけり。
 最物さびしかりければ、
  よしや君むかしの玉の床とても係らんのちは何にかはせん
と読けるは、彼延喜の聖主の、
  いふならく奈落の底に入ぬれば刹利も首陀も異らざりけり
と申御歌に思合て哀なり。
 さても七箇日逗留して、花を手向香を焼読経念仏して、聖霊決定往生極楽と回向し奉て立けるが、御廟の傍に松の有ける本を削り、無らん時の形見にもとて二首の歌をぞ書付ける。
  久に経て我後の世を問へよ松跡忍ぶべき人もなき身ぞ
  爰を又我住うくてうかれなば松は独にならんとやする

 書注てぞ出にける。
 是にや怨霊も慰給けんとおぼつかなし。
 さても西行発心のおこりを尋れば、源は恋故とぞ承る。
 申も恐ある上臈女房を思懸進たりけるを、あこぎの浦ぞと云仰を蒙て思切、官位は春の夜見はてぬ夢と思成、楽栄は秋の夜の月、西へと准へて、有為世の契を遁つゝ、無為の道にぞ入にける。
 あこぎは歌の心なり。
  伊勢の海あこぎが浦に引網も度重なれば人もこそしれ
と云心は、彼阿漕の浦には神の誓にて、年に一度の外はあみを引ずとかや。
 此仰を承て、西行が読ける、
  思きや富士の高根に一夜ねて雲の上なる月をみんとは
此歌の心を思には、一よの御契は有けるにや、重て聞食きこしめす事の有ければこそ阿漕とは仰けめ、情かりける事共也。
 彼貫之が御前の簀子の辺に候て、まどろむ程も夜をやぬるらんと云ふ、一首の御製を給たまひて、夢にやみるとまどろむぞ君と、申たりけん事までも、想やるこそゆかしけれ。

宇治左府贈官事

 八月朔日は、宇治左府の贈官贈位の御事有て、少納言惟基は、彼御墓所に参て、宣命を捧て、太政だいじやう大臣だいじん正一位を被送之由読かけ奉る。
 件の御墓は、大和国やまとのくに添上郡、河上の村、般若野の五三昧也。
 昔堀起し奉り、捨られにし後は、死骸道の辺の土と成て、年々に春の草のみ繁れり。
 今勅使尋入て、宣命を伝けん、亡魂如何思召おぼしめしけんおぼつかなし。
 思の外の事共有て、世の乱るゝは直事に非、偏に怨霊の致す処也。
 冷泉院の御物狂御座し、花山法皇の御位をさらせ給たまひ、三条院の御目のくらかりしも、元方の民部卿の霊とこそ承れ。
 怨霊は昔も今も恐しき事なれば、早良廃太子をば崇道天皇と号し、井上の内親王は皇后の職位に復す、皆是怨霊を被宥し謀也。
 されば今度も可然にこそと、人々計ひ被申ければ、贈号贈官有て、院をば崇徳院と申し、臣をば正一位と宥行はれけれ共、後いかがあらんと覚束なし。

彗星出現事

 同十二月廿四日、彗星東方に出で、廿八日に光を増。
 蚩尤旗とも申し、赤気ともいへり。
 何事の有べきにかと上下恐をなす。
 天文勘して申く、五行の気五星と変ずる内に、彗星は是大乱大兵之瑞相なりと奏す。
 何様にもおだしかるまじとぞ歎あひける。
 五行者、木火土金水、五星者、彗星、□惑星、鎮星、太白星、辰星なり。
 治承二年正月一日、院ゐんの御所ごしよには礼拝被行、四日朝覲行幸有て、例に替たる事はなけれども、去年成親卿なりちかのきやう已下近習の人々、多く被失にし事、法皇不安思召おぼしめされて、御憤おんいきどほり未やすませ給はず、世の御政も倦く思召おぼしめされて、御心よからぬ事にてぞ有ける。
 入道も多田蔵人行綱が告知せ奉てより後は、君をも後暗御事に思奉て、世の中打解たる事もなし。
 上には事なき様にもてなせども、下には用心して只苦咲ひてぞ有ける。

法皇三井灌頂くわんぢやうの

 法皇は三井寺みゐでらの公顕僧正そうじやうを御師範として、真言の秘法伝受せさせ給けるが、今年の春三部の秘経を受させ給たまひ、二月十九日、三井寺みゐでらにて御灌頂ごくわんぢやう有べき由思召おぼしめし立と聞えし程ほどに、山門大衆憤申けるは、昔よりして今に至るまで、御灌頂ごくわんぢやう御受戒、みな我山にして遂させ給へり、山王の化導専受戒灌頂くわんぢやうの為也。
 就なかんづく園城寺をんじやうじ者、昔天智天皇の御子、大友王子、国家を乱らんとて軍を起給たまひし謀叛悪逆あくぎやくの境也。
 始て今御入寺有て御灌頂ごくわんぢやうあらん事、旁以不然と申ければ、様々誘へ仰けれ共、例の山大衆更に院宣を用ず。
 三井寺みゐでらにして御灌頂ごくわんぢやう有ば、彼寺を可焼払やきはらふ之由、僉議せんぎすと聞えければ、権大納言隆季卿の、奉書にて、院宣を被下云く、御入壇、偏に可秘密結縁之処、還及騒動の条、不慮の次第歟、因茲園城寺をんじやうじ御幸所延引也。
 是延暦園城をんじやう安全の謀也と有けれ共、大衆猶憤申けるは、延引の院宣全く山門の眉を開かず、永く三井の御幸を不停止、彼寺に発向して、仏閣僧坊一宇も残さず、可焼払やきはらふ之由、騒動すと聞えければ、重て院宣を被下て云、御幸の事被停止之由、一日被仰下畢。
 山門衆徒等、明日二日猶発向彼寺之由風聞、可制止云云と有ければ、御幸停止之院宣に依て、山門既すでに静ぬ。
 法皇は即御加行結願して、思召おぼしめし止らせ給にけり。
 去ども猶御宿願を遂させ給はんが為に、年序をへて文治二年の春の比、三井寺みゐでらにして御灌頂ごくわんぢやう有るべきよし聞えければ、山門大衆又騒動して云、園城寺をんじやうじの御幸の事、治承年中に其沙汰有て被停止畢、而を彼寺にして御灌頂ごくわんぢやうあらば、三井寺みゐでらを可焼払やきはらふなんど聞食きこしめされければ、当時の座主全玄僧正そうじやうを、法住寺ほふぢゆうじの御所に召れて、行隆を以被仰下云、求法の御志有に依て、公顕僧正そうじやうを以て智証流之灌頂くわんぢやうを可受の由思食おぼしめす処に、公顕の申さく、智証大師一行禅師の釈に依て、一流の灌頂くわんぢやうに於ては、不寺中之由、殊所誡也。
 然ば早く当寺に御幸有て、可御伝法と、所申既すでに道理也。
 仍三井寺みゐでらに御幸有べし。
 爰ここに山僧此事を訴申之条甚其謂なし。
 凡一天之下皆王土也。
 何の所なりと云共、臨幸可叡慮、依これによつて或は本尊を拝せんが為、或は神道を仰ぐ故に、熊野金峰清水広隆に臨幸あり、昔より不違乱、何ぞ三井の一寺に限て訴訟に及べきや、不日登山して可制止也と。
 座主の御返事には、勅定は石よりも重し、争か子細を申べき。
 不日罷上て可制止候。
 但先師大僧正治山の時、北国白山を山門に可賜之由致訴訟刻、甚深の以道理仰下に付て、三箇年の間加制止と云へども、山徒の訴弥以て熾盛なるに依て、終に以て蒙裁許畢ぬ。
 全玄が治山、先師の威徳に及べからず、然而勅定の趣き、不日披露仕べく候。
 又山門の訴訟は、叡慮に背に似たれども、其本意を論ずれば、忠節の至也。
 長寛に三井に幸有て後、天下不吉也、万人所知也。
 彼寺三代叛逆の地たるに依て、此災を成。
 適安楽に属する処に、又臨幸あらば天下の滅亡歟。
 鎮国の御祈祷ごきたうを致山僧等、諫諍の制止を加へ奉るをや、抑公顕申状不審甚多し。
 不寺中之由、智証大師の遺誡ならば、何ぞ智証大師帰朝の後、叡山えいさんにして度々灌頂くわんぢやうを修べき、又智証の門流静観僧正そうじやう、争我山惣持院にして、灌頂くわんぢやうを寛平法皇に奉授べき。
 智証の遺誡頗不信用
 就なかんづく一行大日経の義釈には、三所の道場あり、王城と深谷と寺中と也。
 寺中とは、是僧伽藍の中也。
 大唐の人師豈独三井寺みゐでらを支んや。
 三所の道場は猶是浅略也。
 本経の説の如は、三種の灌頂くわんぢやうあり、所謂いはゆる結縁灌頂くわんぢやう、伝法灌頂くわんぢやう、自証灌頂くわんぢやう也。
 法界宮の大日法界を以て道場とすと説り。
 不三所と見えたり。
 公顕申状不偏信哉と被申たりければ、叡感の気ありて、三井寺みゐでらの御幸は被止けり。
 抑三部経と申は、大日経、金剛頂経、蘇悉地経是也。
 今此経の大意を尋れば、若有人此経、受持読誦どくじゆ者、即身成仏故、放大光明円と説、又若有人受持読誦どくじゆ、此経典者、父母所生身、忽に成大日如来によらい、放胸間大光明、照六道三有黒闇とも説る秘典也。
 後白川の法皇、忝も観行五品の位に御心を係御座て、法花修行の道場に五種法師の燈を挑て、七万八千余部転読、上古にも未承及、況や於末代乎。
 十善玉体の御膚、三密護摩の烟に蒼て、即身菩提の聖帝とぞ見させ給けり。
 彼公顕僧正そうじやうと申は、法皇の御外戚、顕密両門の師徳也。
 止観玄文の窓の前には、一乗いちじよう円融の玉を磨き、三密瑜伽ゆがの宝瓶には、東寺山門の花開け給へり。
 内に付外に付て、御帰依の御志深によりて、此妙典をも公顕僧正そうじやうに受、御灌頂ごくわんぢやうをも三井寺みゐでらにてと思食おぼしめしたりけるに、山門騒動して打止め奉ければ、御心うしと被思召おぼしめされけり。
 法皇、我朝は是、辺土粟散国也。
 何事も争か大国に等かるべきなれども、中にも雲泥不及けるは、律の法文僧の振舞にてぞ有らん。
 僧衆の法は、帰僧息諍論、同入和合海といへり。
 縦和合海にこそ入ざらめ、諍論を専にして、させる咎もなき三井寺みゐでらを、焼失せんとする条、無道心の者共かな、破和合僧は五逆罪の随一に非や、形ばかりは出家にして、心はなほ在俗よりも不当也。
 愚痴のやみ深して、驕慢の幢高し。
 比丘の形と成ながら、難値如来によらいの教法をも修行せず、大日覚王の智水の流に身をも不洗、朕が適入壇灌頂くわんぢやうせんとするを、障碍する事の無慙さよ、縦朕が理を枉て非法を宣旨し、若は山門の所領を、別院に寄とも、王威王威たらば誰か背申べき、何況受戒灌頂くわんぢやうと云は、上求菩提、下化衆生の秘要也。
 智徳明匠讃嘆し、貴賤男女も随喜せり。
 たとひ随喜讃嘆褒美するまでこそなからめ、無上福田の衣の上に、邪見放逸の冑を著、定恵一手の掌の内に、仏法破滅の続松を捧て、三井寺みゐでらを焼亡さんと計ふらん条、少しもたがはず。
 提婆達多が類にこそ、さこそ末代といはんからに、此程ほどに王威を軽すべき様やは有べき、口惜事哉とて、宸襟しづかならず、逆鱗しば/\忝し。
 抑王威は仏法を崇め、仏法は王威を守るこそ、相互に助て効験も目出く明徳もいみじけれ、若王威を王威とせずば、何の仏法か我朝に興隆すべきや、今度山僧等、園城寺をんじやうじを焼失はんに於ては、天台座主てんだいざすを流罪し、山門大衆を禁獄せんと思召おぼしめしけるが、又返つて山門の衆徒、内心こそ愚痴の闇深して、邪雲仏日の影を犯とも、形は已比丘に似たり。
 一々に禁籠せん事、罪業又消滅すべからず、且は五帖の法衣身にまとへり。
 帰依の志全竪誓師子におとるべからず、且は大師聖霊の御計をも奉待べし、且は医王山王も争か捨果させ給べきやとて、御涙にぞ咽ばせ給ける。
 法皇は百王七十七代の帝、鳥羽院とばのゐん第三の御子雅仁親王とぞ申しし。
 治天僅わづかに三年也。
 忽に御位をすべらせまし/\ける。
 御志は無官無智の僧に近付て、甚深の仏法をも聴聞し、壇処行法の花香をも、手ら自らいとなまんと思召おぼしめさるゝ故なり。
 抑百王と申は、天神七代地神五代の後、神武天皇より奉始て、御裳濯川の流涼く、竜楼鳳闕の月陰なかりしか共、第廿九代帝、宣化天皇の御時迄は、仏法未我朝に伝らざりしかば、名字をすら聞事なかりき。
 されば其時までは、罪業を恐る人もなく、善根を修行する人も無りき。
 親に孝養する事をも知ず、心に善悪の業をも不弁、持律斎戒の作法もなく、念仏読経のわざも無りき。
 而るに第三十代の帝、欽明天皇の御宇十三年壬申歳十月十日、百済国の聖明王より、金銅の釈迦如来しやかによらい、並に経論、どう幡宝蓋どうばんほうがい、宝瓶等の仏具なんど被送たりしかども、仏の功能を知、聖教の談議する僧法もなかりしかば、三宝を供養し仏教を随喜せず、唯闇の夜の錦にてぞ侍ける。
 第三十二代の帝、用命天皇と申は、御諱豊日天皇とも申き。
 此御時より三宝普く流布して、大小乗の法文の光天下に耀しより以来、仏法修行の貴賤、其数多といへ共、此法皇程の薫修練行の御門を不承、子に臥寅に起させ給ふ、御行法なれば、打解て更に御寝もならず、金烏東に耀ては六部転読の法水、三身仏性の玉を磨き、夕日西に傾ば、九品上生の蓮台に、三尊来迎の御心を運給へり。
 常の御座の御障子の色紙に書せ給たりける名句に云、身は暫雖東土八苦蕀之下、心常令西方九品蓮之上とぞあそばしたる。
 又常の御詠吟に、智者は秋の鹿鳴て入山、愚人は夏の虫飛んで火に焼とぞながめさせ給ける。
 此は止観行者、四種三昧の大意を釈しける絶句とかや。
 昔より常に此事を詠させ給ける御事なれども、今度山門の大衆に御灌頂ごくわんぢやう御入寺を打さまされ給し時より、何なる深き山にも閉籠、苔むす洞にも隠れ居ばやとや思召おぼしめしけん、御心を澄して、智者は秋の鹿とのみ御詠有ければ、后宮さい女も浅猿あさましく思召おぼしめし、雲客うんかく月卿げつけいも肝神を失ひ給き。
 既青陽暮春の比にも成にければ、三月桃花の宴とて、桃花も盛に開たり。
 西王母が園の桃とて、唐土の桃を南庭の桜に植交て、色々様々にぞ御覧じける。
 桜が先に開時もあり、桃が先に開時も在、桃と桜と一度に開て匂を交る折もあり。
 今年は桜は遅つぼみて、桃花はさきに開たりけれ共、智者は秋の鹿とのみ詠ぜさせ給たまひて、花を御覧ずる事も無き。
 依これによつて、雲上人、更に一人も花を詠める人は、御座ざりけるに、三月三日たりしに、
  春来遍是桃花水、 不仙源何処尋、
と高声に詠ずる人あり。
 法皇誰ぞやと被聞食きこしめされしほどに、やがて清涼殿に参て、笛を吹鳴して、時の調子黄鐘調に音取すましたり。
 さるかとすれば、又御厨子の上なる、千金と云琵琶を懐下し奉りて、赤白桃李花と申楽を、三返計ぞ引たりける。
 直人とは覚えず、希代の不思議哉とぞ、法皇は被思召おぼしめされける。
 赤白桃李花を三返弾て後は、琵琶を引ず、詩歌をも不詠、笛をも不吹、良久音もせざりければ、此者は帰ぬるやらんと思召おぼしめして、やゝ赤白桃李花をば何者が弾つるぞと仰在ければ、御宿直の番衆とぞ答奏しける。
 番衆とは誰ぞやと御尋あれば、開発源大夫住吉すみよしとぞ名乗給たりける。
 さては住吉すみよし大明神だいみやうじんにこそと思食おぼしめして、急御対面あり。
 夢にも非覚とも思召おぼしめさず、希代の不思議かなとぞ被思召おぼしめされける。
 さて種々の御物語おんものがたり有ける中に、大明神だいみやうじん仰けるは、今夜は当番衆、松尾大明神だいみやうじんにて候へ共、急ぎ申べき事候て引替て参て候。
 昨日の暁山王七社しちしやと伝教でんげう大師だいしと、翁が宿所に来臨し給たまひて、日本国の吉凶を評定候しに、今度山門の大衆等邪風殊に甚く、宸襟を悩し奉る条、存の外の次第にて候。
 但むつ心にては候はざりつる也。
 日本国の天魔集て、山の大衆に入替て、君の御灌頂ごくわんぢやうを打止めまゐらせ候処也。
 されば衆徒の咎には非ず、併天魔の所為にこそと。
 其時法皇の仰に、抑天魔と申は、人類歟、畜類歟、修羅道の族歟、何なる業因の者なれば、加様に仏法を障碍し侍らん、と御尋有りければ、大明神だいみやうじん答て宣く、聊通力をえたる畜類也。
 此に付て三品あり。
 一には天魔、諸の智者学匠がくしやうの、無道心にして、驕慢の甚き也。
 其無道心の智者の死すれば、必天魔と申鬼に成候也。
 其形頭は天狗、身は人にて、左右の羽生たり、前後百歳の事を悟て通力あり、虚空を飛事如隼。
 仏法者なるが故に、地獄には不堕、無道心なる故に、往生もせず、驕慢と申は人に増らんと思ふ心也。
 無道心と申は、愚痴の闇に迷へる者、智者の燈をも授けばやとも思はず、剰念仏申て後世欣者を妨て、嘲笑などする者、必死ぬれば天狗道てんぐだうに堕すといへり。
 されば末世の僧皆道心にして驕慢あるがゆゑに、十が八九は必天魔にて、仏法を破滅すと見えたり。
 八宗の智者は、皆天魔となるが故に、是をば天狗と申也。
 浄土門の学者も、名利の為にほだされて、虚仮の法門を囀り、無道心にして、念珠をくり、慢心にして数反すれば、天魔の来迎に預り、鬼魔天と云所に年久といへり。
 当知魔王は、一切衆生の第六の意識かへりて魔王となるが故に魔王形も又一切衆生の形に似り。
 されば尼法師の驕慢は、天狗に成たる形も尼天狗法師天狗にて侍也。
 頬は天狗に似たれども、頭は尼法師也。
 左右の手に羽は生たれ共、身には衣に似たる物を著て、肩には袈裟に似たる物を懸たり。
 男驕慢は、天狗と成ぬれば、頬こそ天狗に似たれ共、頭には烏帽子えぼし冠を著たり。
 二の手には羽生たれ共、身には水干、袴、直垂、狩衣なんどに似たる物を著たり。
 女の驕慢は、天狗と成ぬれば、頭にかつら懸て、紅粉白物の様なるものを頬に付たり。
 大眉作てかね黒なる者もあり、紅の袴に薄衣かづきて大虚おほそらを飛もあり。
 二には、波旬、天狗の業已に尽果て後、人身を受んとする時、若は深山の峯、若は深谷の洞、人跡絶果て、千里有所に入定したる時を、波旬と名く、一万歳の後人身を受といへり。
 三には魔縁、驕慢無道ぶだう道心の者必天狗となれりといへ共、未其人不知時に、人に増ばやと思ふ心の有を縁として、諸の天狗集るが故に、此を名付て魔縁と申。
 されば驕慢なき人の仏事には、魔縁なき故に、天魔来て障を成事なし。
 天魔は世間に多しといへ共、障碍を成べき縁なき人の許へは、翔り集る事更になし。
 されば法皇の御驕慢の御心、忽に魔王の来べき縁と成せ給たまひて、六十余州の天狗共てんぐども、山門の大衆に入替て、さしも目出めでたき御加行をも打醒進て候也。
 御驕慢の発らせ給ふ実に御理也。
 両界の曼陀羅、一夜二時に懈怠なく行はせ給事、四十代の帝の中にも御座ざりき。
 僧中にも希にこそあらめと思召おぼしめす、御心則魔縁となれり。
 二十五壇の別尊の法、諸寺諸山の僧衆も、朕には争かと思召おぼしめすも魔縁なり。
 三密瑜伽ゆがの行法、護摩八千の薫修、上古の御門にましまさず、まして末代にはよもあらじ、仏法修行の智者達にもまさらばやと思召おぼしめすも是魔縁也。
 光明真言、尊勝陀羅尼、慈救真言、宝篋印、火界真言、千手経、護身結界十八道、仁王、般若、五壇法、朕に過たる真言師も、希にこそあるらめと思食おぼしめしたるも魔縁也。
 況や入壇灌頂くわんぢやうして、金剛こんがう不壊の光を放て、大日遍照の位にのぼらん事、明徳の中にも希なるべし。
 天子帝王の中にも、我はすぐれたらんと、大驕慢をなさせ給が故に、大天狗共てんぐども多集て、御灌頂ごくわんぢやうは空く成たる事こそ浅増あさましく覚候へとぞ申させ給ける。
 又法皇の仰に、日本国中に、天狗に成たる智者幾か侍やと。
 明神宣く、よき法師は皆天狗に成り候間、其数を知ず。
 大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗、一向無智の僧中にも随分の慢心有。
 其等は悉ことごとく畜生道に堕て朝夕に責つかはれ、行歩に打はらるゝ諸の馬牛共は是なり。
 中比我朝に柿本の紀僧正きそうじやうと聞えしは、弘法大師の入室灑瓶の弟子、瑜伽ゆが灌頂くわんぢやうの補処、智徳秀一にして験徳無双聖たりき。
 大法慢を起して、日本第一の大天狗と成て候き。
 此を愛宕山の太郎坊と申也。
 惣じて驕慢の人多が故に、随分の天狗と成て、六十余州の山峯に、或は二三十人、或は五十百二百人にひやくにん集らざる処候はずと。
 其時法皇、誠に如仰、朕が行法は王位の中に、仏法者の中にも、最希にこそあらめと思て侍りつる也。
 先両界を空に覚て、毎夜の二時に、供養法し給ふ、御門、上古には未聞と思侍りき。
 別尊法鈴杵を廿五壇に建たる帝王も未聞と思侍て、子に臥し寅に起る行法、帝王の中には未聞と思侍りき。
 毎日法華経ほけきやう六部を信読し奉る。
 国王も、我朝には未聞と思侍き。
 況や三部秘経の持者、上乗灌頂くわんぢやうの聖と成て、本寺本山の智者達にも勝れたりと、被嘆と思ふ慢心を起こと度々也き。
 而今如是聞召るゝにこそ、罪業の雲既すでに晴て覚え候。
 全く山門の大衆の狼藉にては侍らず、我身の慢心則天魔の縁と成て、六十余州の天狗ども、数日精進の加行を打破けるにこそ道理にては侍りけれ。
 今に於ては慙愧懺悔の風冷に、魔縁境界争かはれざらん。
 さては忍やかに宿願を果し候ばやと存ず、御計候へと仰有ければ、大明神だいみやうじん宣く、伝教大師の申せと候つるは、延暦寺と申は愚老が建立こんりふ、園城寺をんじやうじと申は、又智証大師の草創也。
 効験何も軽して御帰依の分にあたはず、我朝の霊地には、四天王寺勝れたり。
 聖徳太子しやうとくたいしの御建立ごこんりふ、仏法最初の砌也。
 彼聖徳太子しやうとくたいしは求世観音の応現、大悲闡提の菩薩也。
 信心空に催さば、勝利何ぞ少からんや。
 折節彼寺に入唐の聖、帰朝して、恵果法全の流水、五智五瓶に潔なり。
 灌頂くわんぢやうの大阿闍梨あじやり其器に可足、密に御幸ならせ御座して、御入壇候へと被仰て、明神忽に失給ぬ。
 其時法皇御落涙有て、良思食おぼしめしけるは、慢心いかに発さじと思へども、事により折に随て起べき者にて有けり。
 さしも大明神だいみやうじんの教給たまひつる慢心の、今更起たるぞや。
 其故は、大唐国に一百余家の、大師先徳御座ける中に、毘沙門天王の御子に、韋駄天と申将軍に対面して、仏法の物語ものがたりし給ける明徳は、律宗の祖師終南山の道宣大師ばかりと見えたり。
 日本に七十余代の御門座ししかども、親住吉すみよし大明神だいみやうじんに対面して、種々に物語ものがたりしたる帝王は、朕ばかりこそ在らめと、慢心の起たるぞやとて、阿弥陀仏/\助させ御座おはしませと、御祈念ぞ在ける。
 さても法皇は公顕僧正そうじやうを被召具て天王寺へ御幸あり。
 彼寺の西門にして、御手を合つゝ、御心中に住吉すみよし明神みやうじんを拝せ給たまひつゝ、
  住吉すみよしの松吹く風に雲晴て亀井の水にやどる月影
とあそばして、五智光院にして亀井の水を結び上、五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ、伝法灌頂くわんぢやうをば遂させ給たまひける。
 法皇今年六十一、智証大師より十五代の御付法也。
 無上菩提の御願ごぐわん、忽に成就じやうじゆして、有待不定の玉体、速に金剛こんがう仏子に列御座、六大無碍の春の花は、出胎蔵界理門、三密瑜伽ゆがの鏡の面は、浮五智円満聖体、八葉肉壇の胸むねの間には、耀三十七尊光円、五輪成身の宝冠には、厳八十種好金花、遍照遮那の悟開て、密厳花蔵之土に遊給ふも、あな目出た。

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