伝巻 第三十五
範頼義経京入事

 大手搦手、尾張国熱田社より相分て、宇治勢多へ向けり。
 大手の大将軍は蒲冠者範頼、相従ふ輩には、武田太郎信義、加々見次郎遠光、一条次郎忠頼、小笠原次郎長清、伊沢五郎信光、板垣三郎兼信、逸見冠者義清、侍には稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、森五郎行重、千葉介経胤、子息小太郎胤正、相馬次郎成胤、国府五郎胤家、金子十郎家忠、同与一近範、源八広綱、渡柳弥五郎清忠、多々良五郎義春、同六郎光義、別府太郎義行、長井ながゐの太郎義兼、筒井四郎義行、葦名太郎清高、野与、山口、山名、里見、大田、高山、仁科、広瀬、家子郎等打具して三万さんまん余騎よき、海道を上りに、宿々山河打過て、近江国勢多長橋に著にけり。
 搦手の大将軍は九郎冠者義経、相従輩には、安田三郎義定、大内太郎維義、田代冠者信綱、侍には佐々木四郎高綱、畠山次郎重忠、河越太郎重頼、子息小太郎重房、師岡兵衛重経、梶原平三景時、子息源太景季、同平次景高、同三郎景家かげいへ、曽我太郎祐信、土屋三郎宗遠、土肥次郎実平、嫡子弥太郎遠平、佐原十郎義連、和田小太郎義盛、勅使河原権三郎有直、庄三郎忠家、勝大八郎行平、猪俣金平六範綱、岡部六弥太忠澄、後藤兵衛真基、新兵衛尉基清、鹿島六郎維明、片岡太郎経春、弟八郎為春、御曹司手郎等に、奥州あうしうの佐藤三郎継信、弟四郎忠信、伊勢三郎義盛、江田源三、熊井太郎、大内太郎、長野三郎、武蔵坊弁慶べんけいを始として、家子郎等相具して二万五千にまんごせん余騎よき、伊勢路いせぢを廻て攻上と聞けり。大手搦手都合して、六万余騎よきの兵也。
 去さるほどに木曾きそ義仲よしなかは、折節をりふし勢こそなかりけれ。
 樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家を攻んとて河内国へ越ぬ。
 今井いまゐの四郎しらう兼平かねひら、方等三郎先生義弘、五百ごひやく余騎よきにて勢多手に指遣す。
 根井大弥太行親、楯たての六郎ろくらう親忠ちかただ進六郎親直、仁科、高梨、三百さんびやく余騎よきにて宇治手に指遣す。
 木曾は力者りきしや二十人汰て、関東の兵強くば、院を取進せて西国さいこくへ御幸成進せんと支度して、上野国住人ぢゆうにん那和太郎弘澄を相具して、院ゐんの御所ごしよを奉守護、其そのせいわづかに百騎計には不過けり。
 九郎義経は、伊勢国いせのくにより伊賀路に懸て責上けるが、音に聞ゆる鈴鹿山の麓関を通るにも、去年の白雪はくせつ村消て、谷の氷も猶残れり。
  見る儘に跡絶ぬれば鈴鹿山雪こそ関のとざし成けれ
と詠じけるを思つゞけて、八十瀬の白浪分過つゝ、加太山にぞ懸ける。
 此山の為体、峯高して峙て上り。
 巌嶮して身を側て伝ひ、谷深して漲落る水早ければ、足を危して渡る。
 河を渡ては山路に上り、山を越ては河瀬に浸る。
 興を催す所もあり、心を摧く砌みぎりもあり。
 角て山路を出ぬれば、殖柘里、くらぶ山、風の森をも打過て、当国の一宮、南宮大菩薩だいぼさつの御前をば、心計に再拝して、暫新居川原に磬たり。
 西に平岡あり、九郎義経里人を招きて、是より宇治へ向はんには、何地が道は能と問給へば、西に見え候平岡をば、あをた山と申、其より前に、頸落滝と云所を通るには近く候と申。
 其外又道はなきかと問給へば、是より長田里、花苑と云所を廻て、射手大明神いとのだいみやうじんの御前を、笠置に懸つても道能候と申。
 射手大明神いとのだいみやうじんとは何なる神にて御座ぞと問ひ給へば、其までの事は争知り候べき、いとゝは射手と書て候なれ共、申易に付ていとと申し候とぞ承ると云ければ、九郎義経は、戦場に向に、あらた山、首落の道禁忌也、射手明神いとのみやうじん然とて、長田里花苑を廻り、射手大明神いとのだいみやうじんの御前にて下馬し給たまひ、所願しよぐわん成就じやうじゆと祈請して、当来導師弥勒菩薩の笠置寺、今日甄原和泉河、河風寒く打過て、柞森を弓手になし、高倉宮たかくらのみや討れさせ給し光明山の鳥居の前を妻手に見て、山城国宇治郡、平等院びやうどうゐんの北の辺、富家の渡りへ著給ふ。
 元暦元年正月廿日、大手搦手宇治勢多に著。
 九郎義経河端に推寄見給へば、橋板を破取て向の岸に垣楯に掻、櫓に構たり。
 水は長さ増て底不見、其上乱杭らんぐひ逆茂木隙なく打て、大綱小綱引張て流し懸たれば、鴛鴨などの水鳥も、輙くゞり通るべし共見ざりけり。
 川の耳分内狭して、打臨たる者四五千騎しごせんぎには不過、二万にまん余騎よきは寄付べき所なくして、只徒に後陣に引へたり。
 河の様をも見ず、橋を引たるも知ぬ者のみ多ければ、渡るべき評定にも不及けり。
 御曹子は雑色歩走の者共を集て、家家いへいへの資財雑具一々に取出させて、河端の在家を悉ことごとく焼払やきはらひ、大勢を一所に集べしと下知し給。
 此由走散てののしりけれ共、兼て山林に逃隠たりければ家々いへいへには人もなし。
 此上は手手てんでに続松を指上て、宇治の在家を焼払やきはらひ、行歩に叶はぬ老者少者共、さり共と忍居たりけれ共、猛火に焼死、適遁出たれども、馬人に踏殺さる。
 まして牛馬の類は助る者もなければ、其数を不知焼死けり。
 風吹ば木安からずとは加様の事なるべし。
 広々と焼払やきはらひたりければ、二万五千にまんごせん余騎よき、貽る者もなく河耳に打臨たり。
 御曹子河の辺近く高櫓を造らせて、此上に登て四方を下知し給けり。
 矢立の硯を取寄て、宇治川うぢがはの先陣と剛者とを、次第明々に注して、鎌倉殿かまくらどのへ見参に入べしと被仰ければ、軍兵各勇を成て、抽忠とぞ色めきける。
 御曹子は櫓の上にて、様々の事下知し給けれ共、大勢思々にとゞめきければ、打紛れて聞えざりければ、平等院びやうどうゐんの御堂より太鼓を取寄、櫓の下にて打ければ大勢静りて、何事やらんと鳴をしづめて軍将に目を懸る時、大音揚て下知し給たまひけるは、二万五千にまんごせん余騎よきの勢の中に、海の辺川端に栖て、水練の輩多かるらん、郎等家子舎人雑色までも、懸る時こそ群に抜たる高名をもすれ、我と思はん者どもは、物具もののぐぬぎ置て瀬踏して、川の案内を試るべし、向の岸を見に、矢筈を取たる者四五百騎しごひやくきと見たり、瀬踏する者あらば、定て引取ひきとり々々ひきとり射んずらん、剛座に付んと思はん人々は、馬をも捨て橋桁を渡り、向の岸の軍兵を追払て、水練の輩を思様に振舞せよと被下知ければ、是を聞、平山馬より飛下、橋桁の上に走登、弓杖を衝つき扇はら/\と仕うて申けるは、二万五千にまんごせん余騎よきの其中に、橋桁の先陣渡は、武蔵国住人ぢゆうにん平山武者所季重と云小冠者也とぞ名乗ける。
 抑当河の有様ありさま、深淵潭々として巨海の波に浮めるが如、下流べう々べうべうとして滝水の漲落るに臨るに似たり。
 虹の橋桁危くして、雁歯の構奇しければ、渡えん事難けれ共、軍将の下知を背ば命を惜むに似たり。
 身をば宇治川うぢがはの底に沈むとも、名をば後代の末に流さんとて、平山是を渡処に、佐々木太郎定綱、渋谷右馬允重助、熊谷次郎直実、子息小次郎こじらう直家、已上五人ぞ続て渡しける。
 矢比も近成ければ、向の岸の軍兵、弓を強く引んが為に態と甲を脱で、思々に引取ひきとり々々ひきとり放ける矢、雨の足の如に飛来けれ共、甲冑をゆり合せ/\、矢間をたばひて振舞ば、鎧は重代の重宝也、裏かく矢こそ無りけれ。
 熊谷橋桁を渡らんとて、子息の小次郎こじらうを招きて云けるは、汝は今年十六歳、心は猛く思ふ共、さねは未竪まらじ、直実だにも平に渡付事難かるべし、汝は大勢の川を渡ん時、惣を力にして渡るべしと聞えければ、小次郎こじらう打咲ひて、秋の菓にこそ核の固る固まらぬと申事は侍れ、十歳已後の者、実の固まらぬ事や有べき、若又竪まらざらんに付ても、父をば争か奉離べき、恐くは父こそ常は風気とて、目のまふ膝の振ふとは仰られ候へ、此大河に向て細桁を渡給はん事危く覚侍り、目舞足振給はば直家を憑給へ、渡申さんと云ければ、父是を聞て、さらばつゞけ小次郎こじらうとて、親子連てぞ渡しける。
 誠に瀬には子に過たる宝なし、死出山三途河の旅の道も、親子ぞ互に助ける。
 五人の兵流石さすが目舞足振て、水は逆に流るゝかとぞ覚ける。
 各弓をば手に懸て、はふ々はふはふ渡る有様ありさま、誠に余あまりの命とぞ見えし。
 熊谷は我身の事は去事にて、子息の事の心苦さに、続くか小次郎こじらう誤すな/\と呼ければ、直家は、心ゆるし給たまひて落入給ふな/\とぞ教ける。
 父子の情の哀さに、熊谷は是よりして、発心の思は有けるとかや。

高綱渡宇治河うぢがは

 〔去さるほどに〕直実大音揚て云けるは、抑此川固たる倫は、木曾殿きそどのの樹根の郎等にはよもあらじ、一旦付従ひたる人共にこそ有らめ、命は惜き習也、無詮合戦に与力して、大事の命失ふな、落ば助んと云儘に、引取ひきとり引取ひきとり放箭に、木曾殿きそどのの郎等に、藤太左衛門尉とうたさゑもんのじよう兼助と云者逆に被射落けり。
 是を始として、水練の者あらば防矢射んとて、五人進寄て散々さんざんに射ければ、多の郎等手負討れけり。
 其間に佐々木が郎等に、常陸国住人ぢゆうにん鹿島与一とて無双の水練あり。
 鎧脱置褌をかき、腰には鎌を指、手には熊手を以河の底に入、良久沈みくぐりて、乱杭らんぐひ逆母木さかもぎ引落し、大綱小綱切棄けり。
 実の器量と見えたりけり。
 去共未川を渡す者はなし、如何有べきと評定様々なりけるに、畠山庄司次郎重忠進出て申けるは、事新し、此河は近江の湖の末、今始て出来たる川にあらず、春立日影の習にて、細谷川の氷解、比良の高峰の雪消て、水のかさは増共、水の減事有べからず、足利あしかがの又太郎またたらう忠綱ただつなも、高倉宮たかくらのみやの御謀叛ごむほんの御時は、渡せばこそ渡けめ、鎌倉殿かまくらどのの御前にて、さしも評定の有しは是ぞかし、始て驚べき事に非ず、兼ての馬用意其事也、重忠渡して見参に入れんと云処に、平等院びやうどうゐんの小島崎より武者二騎蒐出たり。
 梶原源太と佐々木四郎と也。
 景季が装束には、木蘭地直垂に、黒革威の鎧に、三枚甲の緒をしめて、滋籐の弓の中を取、二十四差たる小中黒の矢負、練鐔の太刀佩て、鎌倉殿かまくらどのより給りたる磨墨と云名馬に、黒塗の鞍置て騎たり。
 高綱は褐衣の直垂に、小桜を黄に返たる鎧に、鍬形打たる甲に、笛籐弓の真中取、二十四差たる石打の征矢頭高に負、嗔物造の太刀帯て、是も鎌倉殿かまくらどのより給たる生いけずきに、黄覆輪の鞍置てぞ騎たりける。
 誰か先陣と見処に、源太颯と打入て遥はるかに先立けり。
 高綱云けるは、如何に源太殿、御辺ごへんと高綱と外人になければ角申。
 殿の馬の腹帯は以外に窕て見物哉、此川は大事の渡也、河中にて鞍踏返して敵に笑はれ給なと云ければ、左も有らんと思て馬を留、鐙踏張立挙、弓の弦を口にくはへ、腹帯を解て引詰々々しめける間に、高綱さと打渡して二段計先立たり。
 源太たばかられけりと不安思て、是も打浸して渡しけるが、馬の足綱に懸て思様にも不渡。
 高綱は究竟の逸物に乗たれば、宇治河うぢがははやしといへ共、淵瀬を不云さゞめかして金に渡し、向の岸近く成て、高綱が馬綱に懸て足をさと歩除ければ、自元期する事なれば、太刀を抜、大綱小綱三筋さと切流し、向の岸へ打上り、鐙踏張弓杖突て、佐々木四郎高綱、宇治河うぢがはの先陣渡たりやと名乗も果ぬに、梶原源太も流渡に上りにけり。
 源太佐々木鎌倉へ早馬を立。
 何れも劣じ負じと馳て行。
 源太が早馬は先立たりけるが、如何したりけん、足柄の中山にて高綱が早馬先立ぬ。
 三日と申に馳付て、高綱宇治川うぢがはの先陣と申たり。
 同時に梶原が使又来て景季先陣と申けり。
 右兵衛佐殿うひやうゑのすけどのは、安立新三郎清恒を召て、佐々木梶原生たりやと問給へば、共に候と申。
 其後は尋給事なし。
 後日の注進に、宇治川うぢがはの先陣は高綱と被注たりけるを見給たまひてこそ言と心と相違なしとは宣のたまひけれ。
 佐々木梶原一陣二陣に渡を見て、秩父、足利、三浦、鎌倉、党も高家も、我も/\と打浸々々渡しけり。
 庄五郎広賢、糟谷藤太、榛谷、此等は馬より下弓杖を衝、橋桁を渡らんとしけり。
 武蔵国住人ぢゆうにん男衾郡、畠山庄司重能が子息重忠は、青地錦直垂に、赤威の鎧著て、鬼栗毛と云馬に、巴摺たる貝鞍置、糸総鞦懸て乗たりけるが、手勢五百ごひやく余騎よき、さと河にぞ打入たる。
 此河余所に聞しには不員思しに、水面杳にして上は白浪流早、底は深うして水漲下れり。
 瀬臥の石も高して、馬の足立べき様なし。
 軍兵等皆危く思けるに、畠山は、渡せ殿原々々、佐々木梶原も鬼神にあらず、渡せばこそ一陣二陣に渡らめ、馬の足の立ん程は手綱すくへ、馬の足はづまば手綱をくれて游がせよ、水しとまばさうづに乗さがり、鞍坪を去て水をとほせ、強馬をば上手に立て、たかく流を防せよ、弱き馬をば下手に立て、ぬるみに付て渡べし、河中にして弓引ざれ、射向の袖を真顔に当て、鐙を常にゆり合よ、弓に弓を取違へて、前なる馬の尻輪さうづに、後の馬の頭を持て息を継せよ、息はづめば馬の弱るに、透をあらせて押並々々て、馬にも人にも力を副へよ、金に渡て誤すな、水の尾に付て渡や/\と下知したり。
 是に続て、党も高家も力を得て、打浸し々々渡けり。
 爰ここに木曾が方より、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん根井大弥太行親と名乗て、褐直垂に、小桜威の腹巻に、洗革の大鎧重て、三尺六寸の大太刀に、二十四指たる黒羽の征矢負て、白星の五枚甲ごまいかぶとを猪頸に著、塗籠籐の弓真中取、黒糟毛の馬の太逞に、金覆輪の鞍置て乗たりけるが、垣楯面へ進出、弓杖つき敵の陣を見渡し、軍掟する事柄ことがらを見に、容儀人に勝たり。
 蒲御曹子歟、九郎御曹子歟、田代殿歟、此等の大将軍にてぞ御座らん、行親が今日の得分と思て、十四束を取番、引竪て兵と放つ。
 畠山が乗りたりける鬼栗毛が吹荒をぞ射通しける。
 行親一の矢射損じて、御方の運は早尽にけり、大将軍たる者が一の矢を放つは、弓箭の運の尽る所也、一の矢射損じて二の矢射事なし、敵に鎧の毛見知れぬ先にとて、掻楯の内へ引退く。
 畠山が鬼栗毛も、天馬の駒とはやりしか共、手負ぬれば疵を痛て弱ければ、重忠馬より下、前足二取て妻手の肩に引懸て、水の底をくゞりたりける。
 徐目には、はや畠山流れぬと見けるに、只一度弓杖衝浮上て、息をちと継、猶水の底をくゞりて向の岸へ渡けるに、草摺重く覚て、見れば黒革威の鎧著たる武者、然べくば助給へと云ければ、何者なにものぞ名乗れ、向の岸へ抛つべしと云ければ、其を好む者也、奉投、名乗んと申。
 さらばとて冑総角つかんで提持て行。
 又赤威の鎧著て、黒馬と劣らじ負じと流行者あり、穴無慙何者なにものぞ、是に取付とて弓の筈を指出したり。
 塩冶小三郎維広と名乗て弓に取付、弓を引寄、其馬の鞦しほでの間に取付と教ければ、維広しりがいに取付つゝ浅き所に上にけり。
 其後河耳一段計に近付て、汝何者なにものぞ、好まば抛ぞ誤すなと、件の提持て行つる大の男をゆらりとなぐ。
 被投上て弓杖にすがりて立直て、只今ただいま歩にて宇治川うぢがは渡たる先陣は、武蔵国住人ぢゆうにん大串次郎と名乗けり。
 敵も御方もとゝ笑ふ。
 悪く云ぬとや思けん、一陣畠山、二陣大串とぞ云直したる。
 畠山向の岸に打昇つて、何和君は重忠に被助て、重忠を蔑如にして一陣とは名乗と云ければ、大串申けるは、殿に奉助、争其恩を忘べき、余に音もし侍らねば、をめて見候らんとて名乗たりと陳ずれば、弓取の法也神妙しんべう也とぞ感じける。
 さて塩冶に如何にと問へば、八箇国の倫、誰か殿の家人ならぬ人侍る、され共今命を助られ奉ぬれば、向後深奉憑候と申。
 神妙しんべうなりとて、馬は流れぬ、是に乗て京入し給へとて、小鴾毛とて秘蔵の馬を与たりけり。
 塩冶は今日流たるが高名にて、還馬まさりとぞ申ける。
 佐々木、梶原、一陣二陣と申せ共、畠山馬人三人、水の底にて助けるこそ由々しけれ。
 去ば重忠蒙御勘当たりけるに、大串陣の前へは寄たれ共、弓を平めて帰けり。
 宇治川うぢがはの恩を報ずとぞ見えたりける。
 畠山は二人の武者を助て後、馬に打乗て向の岸につと揚る。
 敵は矢さきを汰へて散々さんざんに射けれ共、重忠しころを傾て攻寄る処に、木曾が従弟に、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん長瀬判官代はんぐわんだい義員と名乗て蒐出たり。
 赤地錦直垂に、黒糸威くろいとをどしの鎧の、鍬形の甲に白総馬に白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。
 金造の太刀を抜て向けるに、畠山は、是ぞ宇治路うぢぢの大将なるらんと見て、秩父がかう平と云は、平四寸長さ三尺九寸の太刀也。
 抜儲て歩せ寄れば、義員如何思けん、引退いて垣楯の中に入にけり。
 返合/\戦はんとはしけれ共、畠山にや恐けん、かう平にや臆しけん、引退々々、都に向て落行けり。
 中にも根井大弥太行親は、七八度まで返し合て戦けるが、暫息を継んとて、思坂の辺に引たりけるに、武蔵国住人ぢゆうにん河口源三と云者と、駿河国住人ぢゆうにん船越小次郎こじらうと云者と、二人先陣に進たりけるが、落武者の身として、敵に後を見せじ/\と、返合々々戦けるこそ由々しけれ。
 今日の大将軍と見えたり。
 いざや組んとて二騎喚て懸る。
 行親は矢種は射尽つ、太刀打には一人にこそあひしらはめ。
 其間に一人無覚束、二人を一度に捕んと思て、左右の手をはたけて待懸たり。
 舟越、河口、弓手に廻り、妻手に廻、左右の脇よりつとより、えたりやとてむずといだく。
 行親は二人を脇に挟んで強くしめたれば、草葉の如してちとも働かず。
 先妻手の脇に取付たる舟越が、鎧の上帯を取てむずと引上、妻手の深田へ向て投なげたれば、冑は重し、田は深し、起ん/\としけれ共不叶して死にけり。
 其後弓手の脇なる河口を、前後の上帯取て曳々と引けれ共、船越が様にせられじとて、鐙を馬の腹に踏廻し、強く乗て上らざりければ、大弥太弓手の肘ひぢを馬の下腹へ指やりて、馬と主とを中に上、弓手の深田へ曳と云て投なげたれば、河口泥の中にて馬に敷れて死にけり。
 馬も深田に打こまれて、主と共にぞ失にける。
 東国の兵是を見て、舌振して不進ければ、大弥太は、いかに殿原続給はぬぞ、去ば都に上、木曾殿きそどのと一所にて侍奉らんとののしり懸て、木幡庄へ入とは見えけれ共、自害やしけん落もやしつらん、其後は向後を不知けり。
 九郎義経宣のたまひけるは、今度大将軍として、郎等に先陣を被渡て、二陣に続ん事不然とて、橋より引下て橘小島に馬を引へ、爰ここは水は早けれ共遠浅也、渡せ/\と下知し給へば、我も/\と進けり。
 是は大事の川、加様の河を渡には馬筏を組、健馬をば上手に立、弱き馬をば下手に立よ、馬の足の届ん迄は、手綱をくれて游せよ、馬の足はづまば、弓手の手綱を指甘げて、妻手の手綱をちと縮めよ、四居にのりこぼれて游せよ、手綱強引て、馬に引れて誤すな、尾口沈まば前輪にすがれ、馬に石突せさすな、常に内鐙を合よ、我等われら渡ると見ならば、敵は定て矢衾を作つて射ずらん、敵は射る共射返すな、相引してしころ射らるな、痛く俛て手変射らるな、射向の袖を指かざせよ、物具もののぐに透間あらすな、水強してさがらん武者をば、弓の弭を指出て取付て游せよ、金に渡して誤ちすな、馬の頭を水面に引立て、童すがりに弓の本筈を打懸て、曳音を出して馬に力を副よ、渡せ者共、渡せ者共と下知しつつ、真前懸て渡けり。
 二万にまん余騎よきの大勢、一度に颯と打入て渡しければ、漏水こそ無けれ。
 前後のはづれの水にこそ何れもたまらず流れけれ。
 大勢河を渡しぬれば、千騎せんぎ二千騎にせんぎ五千ごせん六千、二百騎三百騎七百八百騎はつぴやくき、思々心々に、或は木幡、大道、醍醐路に懸つて、阿弥陀あみだが峰の東の麓より攻入もあり、或は小野庄、勧修寺を通つて、七条より入者もあり。
 或櫃川を打渡、木幡山、深草里より入もあり、或は伏見、尾山、月見岡を打越て、法性寺一二橋より入もあり。
 道は互に替れ共、同都へ乱入。
 行親、親忠等、宇治橋を引て防戦といへ共、義経河を渡して合戦す。
 行親等が軍忽たちまちに敗て四方に馳散由、使を木曾が許へ立たれば、義仲よしなか大に驚て、先使者を院ゐんの御所ごしよへ奉て申けるは、東国の凶徒きようと已宇治川うぢがはを渡して都へ攻入る、急醍醐寺の辺へ御幸有べきと申たりければ、更に此御所をば不御出と被仰遣けり。
 爰ここに義仲よしなか、赤地錦鎧直垂よろひひたたれに紅の衣を重て、石打の胡籙やなぐひに紫威の鎧を著て、随兵六十余騎よきを率して院ゐんの御所ごしよに馳参じ、剣を抜懸目を嗔らかして砌下に立て、御輿を寄て可臨幸由を申す。
 上下色を失ひ貴賎魂を消。
 公卿には花山院大納言だいなごん兼雅、民部卿成範、修理しゆりの大夫だいぶ親信、宰相さいしやうの中将ちゆうじやう定能、殿上人てんじやうびとには実教、成経、家俊、宗長祇候したりけるが、各皆藁沓を著して御伴に参ぜんとて、庭上に被下立たりければ、人々涙に咽て東西を失ひ給へり。
 叡慮只可推量
 義仲よしなかが郎等一人馳来て、敵既すでに木幡伏見まで責来れりと申ければ、義仲よしなかは抛臨幸事、門下にして騎馬して罷出ぬ。
 法皇は内々諸寺諸社へ御祈おんいのりを懸させ給ける上、御所中ごしよぢゆうの女房男房、立ぬ願も無りける験にや、無事故罷出たれば、手を合て悦あへり。
 其後は門をさせとてさゝれにけり。

木曾惜貴女遣

 木曾は院ゐんの御所ごしよをば出たれ共、軍場には不出けり。
 五条内裏ごでうだいりに帰て、貴女の遺を惜つゝ、時移るまで籠居たり。
 彼貴女と申は松殿殿下基房公の御娘、十七にぞならせ給ける。
 無類美人にて御座おはしましければ、女御后にもと労りかしづき進けるを、木曾聞及奉て、押て奉掠取
 御心憂は思召おぼしめしけれ共、混ら荒夷にて、法皇をも押籠進せ、傍若無人に振舞ければ、不御力事なりけり。
 賤が編戸の女にも、馴なば情は深して、別路は猶悲きに、まだ見も馴ぬ御有様おんありさま、さこそ名残なごりは惜かりけめ。
 斯る処に越後中太能景馳来つて、敵は既すでに都に乱入れり、如何に閑に打解給たまひ角はと云けれ共、引物の中に籠り居て、尚も遺を惜けり。
 能景、弓矢取身の心を移まじきは女也、只今ただいま恥見給はん事の口惜さよとて、今年三十六に成けるが、縁より飛下腹掻切て失にけり。
 加賀国住人ぢゆうにん津波田三郎も此由云けれ共、出ざりければ、御運ははや尽給にけりとて、引物の前にて此も腹切つて臥にければ、津波田が自害は義仲よしなかを進むるにこそとて、百余騎よきの勢を率して、五条ごでうを東へ油小路を直違に、六条河原へ出たれば、根井行親、楯たての六郎ろくらう親忠ちかただ等、二百にひやく余騎よきにて木曾に行逢、主従勢三百さんびやく余騎よき、轡を並て見渡せば、七条八条の河原、法性寺柳原に、白旗天にひらめきて、東国の武士隙を諍て馳来る。
 義仲よしなか申けるは、合戦今日を限とす、身をも顧命をも惜まん人々は此にて落べし、臨戦場逃走て東国の倫に笑はれん事、当時の欺くのみに非、永代に恥を貽さん事口惜かるべしと云ければ、行親、親忠等を始として申けるは、人生て誰かは死を遁ん、老て死るは兵の恨也、其恩を食で其死を去ざるは又兵の法也といへり、更に退者有べからずと云処に、畠山次郎重忠五百ごひやく余騎よきにて進来。
 義仲よしなか馬頭を八文字に寄せて声を揚、鞭を打て懸入ば、重忠が郎等中を開て入組々々、妻手に違ひ弓手に合、又弓手に違ひ妻手に相闘て、義仲よしなか裏へ通れば、二河左衛門尉頼致を始として、三十六騎被討捕ぬ。
 川越小太郎茂房三百さんびやく余騎よきにて進たり。
 義仲よしなか馬の頭を雁の行を乱さず立下し蒐入、茂房が兵、外を囲内を裹て折塞て戦。
 義仲よしなかうらへ懸通れば、楯たての六郎ろくらう親忠ちかただを始として十六騎は討れにけり。
 佐々木四郎高綱二百にひやく余騎よきにて引へたり。
 義仲よしなか馬の足を一面に立直して、敵を弓手に懸背いて前輪に懸、甲をひらめて馬を馳並、裏へぬくれば、高梨兵衛忠直を始として十八騎討れにけり。
 梶原平三景時三百さんびやく余騎よきにて引たり。
 義仲よしなか馬の足を一所に立重て、敵を先に蒐余て、うらへ蒐通れば、淡路冠者宗弘を始として十五騎被討捕けり。
 渋谷庄司重国二百にひやく余騎よきにて引へたり。
 義仲よしなか馬の足を立乱て、思々に蒐入ければ、重国が随兵共押囲て、隙を諍詰寄て、折懸々々責戦ふ。
 義仲よしなか裏へ通れば、根井行親を始として二十三騎は討れにけり。
 爰ここに源九郎義経是を見、三百さんびやく余騎よき馬の足を詰並重入ければ、敵両方へ相分れけるを、四方へ蒐散し駆立て、矢前やさきを調て討取ければ、義仲よしなかが軍忽たちまちに敗れて、六条より西を指て馳走る。
 義仲よしなか忽威三軍之士、雖方囲之陣、義経又廻必勝之術、退強大之兵けり。
 義仲よしなか左右の眉の上を、共に鉢付の板に被射付て、矢二筋折懸て院ゐんの御所ごしよへ帰参しけるに、少将成経門を閉て鎖を指たりければ、再三扣押処に、源九郎義経、梶原平三景時、渋谷庄司重国、佐々木四郎高綱等十一騎じふいつき、鞭を打、轡を並、矢前やさきを汰て放射ければ、義仲よしなか堪して落て行。
 義経の郎等共らうどうども、北を追て攻行けり。

義経院参ゐんざん

 大膳大夫業忠、築地に登て世間の作法を見ければ、武士六騎門外に馳参ぜり。
 木曾が帰参にこそ、今度ぞ君も臣も、有無の境とわなゝき見る程に、義仲よしなかに非して東国の武士也。
 門外に馬に乗ながら、築地を見上て高声に、鎌倉兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりともの使、舎弟しやてい九郎冠者義経、宇治路うぢぢを破て馳参ぜり、御奏聞あれやと申。
 業忠嬉しさの余に、手の舞足の踏所ふみどころを忘て急下ける程に、悪く飛で腰を損じて、にがみ入たりける顔の気色、いと咲しくぞ見ける。
 はふ々はふはふ御前へ参て、義経が申状具に奏聞申ければ、法皇を始進せて、人々大に悦、門を開れたり。
 義経已下の兵六騎門外にして下馬す。
 御気色おんきしよくに依、中門の外、御車宿の前に立並たり。
 法皇は中門の羅門より有叡覧、出羽守貞長を以六人が年齢交名住国を被聞召きこしめさる
 貞長は、狩衣の下に紺糸威の腹巻を著し、立烏帽子たてえぼしに嗔物作の太刀脇に挟て出けるが、太刀をば御所の簀に立て、御気色おんきしよくの次第を相尋ぬ。
 赤地錦直垂に、萌黄の唐綾を畳て、坐紅に威たる鎧著て、鍬形の甲下人に持せて後にあり、金作の太刀帯たるは、鎌倉兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりとも舎弟しやてい九郎義経、生年二十五歳、今度の大将軍と名乗に合て、鎧の袖に南無なむ宗廟八幡大菩薩はちまんだいぼさつと書付けり。
 寔に軍将の笠璽と見たり。
 薄紅の紙を切て、弓の鳥打の程に左巻にぞ巻たりける。
 青地の錦の直垂に、赤威鎧を著、備前作のかう平の太刀帯たるは、武蔵国住人ぢゆうにん秩父末流、畠山庄司重能が一男、次郎重忠生年二十一と名乗。
 菊閉直垂に緋威ひをどしの鎧は、相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん渋谷三郎重国が一男、右馬允重助生年四十一と名乗。
 蝶丸の直垂に、紫下濃の小冑は、同国住人ぢゆうにん河越太郎重頼と名乗、子息小太郎茂房、生年十六歳と云。
 大文を三宛書たる直垂に、黒糸威くろいとをどしの冑は、同国住人ぢゆうにん梶原平三景時、子息源太景季、生年二十三と名乗。
 三目結の直垂に、小桜を黄に返たる冑の裾金物の殊にきらめきて見けるは、近江国住人ぢゆうにん佐々木源三秀義が四男に、四郎高綱生年二十五、今度宇治川うぢがはの先陣と名乗けり。
 大将軍義経は熊皮の頬貫をはき、自余は牛皮をはく。
 貞長一一に此由を奏す。
 法皇聞召御覧じては、誠頬魂事柄ことがらゆゝしき荘士也とぞ仰ける。
 重て上洛の子細を被尋下
 義経畏て申けるは、木曾きそ義仲よしなか上洛の後、狼藉重畳之間、為追討頼朝よりとも大に驚き、範頼、義経両人を指上候、郎等六十人、其数六万余騎よき、二手に分て宇治勢多より上洛す、義経は宇治路うぢぢを敗て罷上る、範頼は勢多より入洛未見来候、木曾は河原まで打出たりつるを、郎等共らうどうどもに留よと加下知候畢、今は定打捕ぬらん、義経は仙洞の御事おぼつかなく存て先参上之由、最事もなげに申たり。
 重て院宣には、義仲よしなかが余党など、帰参して狼藉もや仕る、今夜は御所に候て守護仕べしと。
 義経随勅定候けり。
 懸りしかば諸衛官人諸国の宰史、兵杖を帯して其夜は法皇を守護し奉る。
 さてこそ君を始進せて、女房も男房も、安堵の思は出来けれ。

東使戦木曾

 木曾は六条河原軍に負て、院ゐんの御所ごしよに参、法皇を取進せて西国さいこくへ御幸成進せんと思けれ共、門を閉られたりける上、義経が兵共つはものどもに被責立て、又河原に出て三条を指て落行けり。
 其そのせい七八十騎しちはちじつきには過ず。
 義経の軍兵は、党も高家も雲霞の如して、我先々々と隙を有せず進けり。
 義仲よしなかも今日を限と思ければ、命を不惜散々さんざんに戦。
 武蔵国住人ぢゆうにん塩谷太郎兄弟三騎、四条河原の東の端に引へたりけるが、兄の太郎弟の三郎に云様は、御辺ごへんは栗子山にて能敵に組で、物具もののぐ剥取て高名せんと云しは忘たりやとはげませば、三郎争か忘るべきとて、馬を川に打入て、西へ向て渡る処に、木曾方より、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん長瀬判官代はんぐわんだいと云者、黒糸威くろいとをどしの鎧に、葦毛の馬に乗て、河の西の端より打入て東へ向て渡たり。
 長瀬。
 塩谷東西より河中に歩せ寄、馬と馬とを並て、組でだんぶと落にけり。
 手に手を取組、腹に腹を合て、上になり下になり、浮ぬ沈ぬ俵のころぶ様に、四五段計流たり。
 敵も御方も目を澄して是を見、深き所に流入て、水の底にて組合たり。
 良暫不見けるに、水紅に流ければ、誰討れぬらんと思処に、塩谷は左の手に敵の首を捧、右の手には敵の物具もののぐ剥取て口に刀をくはへつゝ、東の陸へさと上り、武蔵国住人ぢゆうにん塩谷三郎某、長瀬判官代はんぐわんだいが首捕たりやと名乗。
 由々敷ぞ聞えし。
 義仲よしなかは、上野国住人ぢゆうにん那和太郎弘澄、多胡次郎家包、越後中次家光等を引具して落けるが、家光は遂遁まじき物故に、人手にかゝらんよりはとて馬より飛下、腹掻切て三条河原に伏にけり。
 軍兵追懸々々戦ければ、八十余騎よきとは見しかど、五十ごじふ余騎よきに成にけり。
 武蔵国住人ぢゆうにん勅使河原権三郎有直は、木蘭地の直垂に、黒糸威くろいとをどしの冑に白星の甲、二十四指たる黒布露の矢、黒漆の弓に、黄駱馬に黒漆の鞍置てぞ乗たりける。
 同四郎有則は、ひらくゝりの直垂に、赤威の鎧、同色の甲に、十八指たる鴟の石打頭高に負、三所籐の弓の中取て、黒駮馬に金覆輪の鞍置て乗たりけり。
 兄弟二騎は三百さんびやく余騎よきにて追懸申けるは、北陸道の大将軍、朝日将軍と呼れ給し人の、正なくも後をば見せ給もの哉、源氏の名折とは不思召おぼしめさずや、無跡までも名こそ惜けれ、返合給や/\とて、二重三重に打並て、武蔵国住人ぢゆうにん、勅使河原権三郎有直生年三十一、同四郎有則二十八と名乗懸て、轡をならべて喚て蒐。
 木曾十余騎よき馬の鼻を引返し、杉のさきにさと立て宣のたまひけるは、有直慥に承れ、義仲よしなかにはあはぬ敵と思へ共、弓矢取身は、大将軍の詞は一も得こそ嬉けれ、現世の名聞後生の訴にもせよとて、弓をば脇にはさみ、太刀の切鋒打つるべて、勅使河原余すなとて、蛛手十文字竪様横様切廻ければ、三百さんびやく余騎よきの大勢も五十ごじふ余騎よきに被懸立て、馬の足立る隙こそ無りけれ。
 只小勢に付て五廻六廻が程廻けるが、有直弓手の肘ひぢ打落て、神楽岡を指て引退。
 五十ごじふ余騎よきの勢も被打取て、二十五騎にぞ成にける。
 木曾危見けるを、根井小弥太、左近五郎、岡津平六兵衛、城小弥太郎、兄弟二人、佐竹の者共防矢射てこそ遁れけれ。
 又秩父師岡打囲て散々さんざんに攻ければ、木曾方にも、根井次郎行直、進六郎親直等、思切て大勢の中へ打入て、命を不惜我一人と戦たり。
 小勢懸れば大勢さと引退、大勢懸れば小勢さと引退。
 寄つ返つせし有様ありさまは、辻風の塵を巻にぞ似たりける。
 其手をも打破て落行ば、横山党に奥次弥次と、三浦党に佐原十郎、三浦二郎、三百さんびやく余騎よきにて、漏すなとてこそ戦けれ。
 二十五騎と見しか共、僅わづかに十二騎に成。

巴関東下向事

 畠山は、九郎義経と院ゐんの御所ごしよに候けるが、木曾漏やしぬらん覚束おぼつかなしとて、三条河原の西の端まで打出たり。
 義仲よしなかは三条白河を東へ向て引けるを、重忠は本田半沢左右に立歩出し、東へ向て落給は大将と見は僻事か、武蔵国住人ぢゆうにん秩父の流れ、畠山庄司、次郎重忠也、返合給へや/\と云ければ、木曾馬の鼻を引返し、誰人に合て軍せんより、一の矢をも畠山をこそ射め、恥しき敵ぞ思切と下知して河を阻て射合たり。
 さすが敵は大勢也、木曾は僅わづかに十三騎、畠山が郎等の放矢は、雨の降が如に飛ければ、わづか小勢堪兼て、三条小河へ引退。
 重忠勝に乗て責懸ければ、木曾も引返々々、弓箭に成、打物に成、追つ返つ返つ追つ、半時計戦ける。
 其中に木曾方より、萌黄糸威の鎧に、射残したりける鷹羽征矢負て、滋籐の弓真中取、葦毛馬の太逞きに、少し巴摺たる鞍置て乗たりける武者、一陣に進て戦けるが、射も強切も強、馳合馳合責けるに、指も名たかき畠山、河原へさと引て出。
 畠山半沢六郎を招て、如何に成清、重忠十七の年、小坪の軍に会初て、度々の戦に合たれども、是程軍立のけはしき事に不合、木曾の内には、今井、樋口、楯、根井、此等こそ四天王と聞しに、是は今井、樋口にもなし、さて何なる者やらんと問ければ、成清、あれは木曾の御乳母おんめのとに、中三権頭が娘巴と云女也、つよ弓の手だり荒馬乗の上手、乳母子めのとごながら妾にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を不取、今井樋口と兄弟に〔し〕て怖しき者にて候と申。
 畠山さてはいかゞ有べき、女に追立られたるも云甲斐なし、又責寄て女と軍せん程に、不覚しては永代の疵、多者共の中に、巴女に合けるこそ不祥なれ、但木曾の妾といへば懐きぞ、重忠今日の得分に、巴に組んで虜にせん、返せ者共とて取て返し、木曾を中に取籠て散々さんざんに蒐、畠山は巴に目をぞ懸たりける。
 進退き廻合ん/\と廻ければ、木曾巴を組せじと蒐阻々々て、二廻三廻が程廻ける処に、畠山、巴強ちに近く廻合。
 是は得たる便宜と思、馬を早めて馳寄て、巴女が弓手の鎧の袖に取付たり。
 巴叶じとや思けん、乗たる馬は春風とて、信濃第一の強馬也。
 一鞭あててあふりたれば、冑の袖ふつと引切て、二段計ぞ延にける。
 畠山、是は女には非ず、鬼神の振舞にこそ、加様の者に矢一つをも射籠られて、永代の恥を不残、引に過たる事なしとて、河原を西へ引退き、院ゐんの御所ごしよへぞ帰参ける。
 木曾は此彼を打破て、東を指て落行けり。
 竜華越に北国へ伝とも聞けり。
 長坂にかゝり、播磨へ共云けり。
 其口様々也けれども、大津へ向て被打けるが、四宮河原にて見給へば、僅わづかに七騎に残たり。
 巴は七騎の内にあり。
 生年二十八、身の盛なる女也。
 去剛の者成ければ、北国度々の合戦にも手をも負ず、百余騎よきが中にも七騎に成まで付たりけり。
 四宮河原、神無社、関清水、関明神打過て、関寺の前を粟津に向てぞ進ける。
 巴は都を出ける時は、紺村紅に千鳥の鎧直垂よろひひたたれを著たりけるが、関寺合戦には、紫隔子を織付たる直垂に、菊閉滋くして、萌黄糸威の腹巻に袖付て、五枚甲ごまいかぶとの緒をしめ、三尺五寸の太刀に、二十四指たる真羽の矢の射残したるを負、重籐の弓に、せき弦かけ、連銭葦毛れんせんあしげの馬に金覆輪の鞍置てぞ乗たりける。
 七騎が先陣に進て打けるが、何とか思けん甲を脱、長に余る黒髪を、後へさと打越て、額に天冠を当て、白打出の笠をきて、眉目も形も優なれけり。
 歳は二十八とかや。
 爰ここに遠江国住人ぢゆうにん、内田三郎家吉と名乗て、三十五騎の勢にて巴女に行逢たり。
 内田敵を見て、天晴武者の形気哉、但女か童かおぼつかなしとぞ問ける。
 郎等能々見て女也と答。
 内田聞敢ず、去事あるらん、木曾殿きそどのには、葵、巴とて二人の女将軍あり、葵は去年の春礪並山の合戦に討れぬ、巴は未在ときく、是は強弓つよゆみ精兵、あきまを数る上手、岩を畳金を延たる城也共、巴が向には不落と云事なし、去癖者と聞召きこしめして、鎌倉殿かまくらどの、彼女相構て虜にして進べき由仰を蒙たり。
 巴は荒馬乗の大力、尋常の者に非ずと聞、如何がすべきと思煩けるが、郎等共らうどうどもに云様は、女強といふとも百人ひやくにんが力によも過じ、家吉は六十人が力あり、殿原三十さんじふ余人よにん、既すでに百人ひやくにんにあまれり、殿原左右より寄て、左右の手を引張れ、家吉中より寄て、などか巴を取ざらんと云けるが、内田又思返す様、まて/\暫し、槿花の朝に咲て夕べに萎だにも、己が盛は有物を、八十九十にて死なん命も、二十三十にて亡ん命も同事、女程の者に組むとて、兎角計ごとを出しけるよと、殊に後陣に引へたる、甲斐の一条の思はん事こそ恥しけれ、殿原一人も綺べからず、家吉一人打向て巴女が頸とらんと云ければ、三十さんじふ余騎よきの郎等は、日本につぽん第一に聞えたる怖しきものに組むまじき事を悦びて、尤々もつとももつともと云ければ、内田只一人、駒を早めて進む処に、巴是を見先敵を讃たりけり。
 天晴武者の貌哉。
 東国には、小山、宇都宮歟、千葉、足利歟、三浦、鎌倉か、おぼつかな誰人ぞ、角問は木曾殿きそどのの乳母子めのとごに、中三権頭兼遠が娘に巴と云女也、主の遺の惜ければ、向後を見んとて御伴に侍ると云。
 鎌倉殿かまくらどのの仰を蒙、勢多手の先陣に進るは、遠江国住人ぢゆうにん内田三郎家吉と名乗進けり。
 巴は、一陣に進むは剛者、大将軍に非ずとも、物具もののぐ毛の面白きに、押並て組、しや首ねぢ切て軍神に祭らんと思けるこそ遅かりけれ。
 手綱かいくり歩せ出す。
 去共内田が弓を引ざれば、女も矢をば不いざりけり。
 互に情を立たれば、内田太刀を抜ざれば、女も太刀に手を懸ず。
 主は急たり馬は早りたり。
 巴、内田、馬の頭を押並、鐙と/\蹴合するかとする程に、寄合互に音を揚、鎧の袖を引違たり。
 やをうとぞ組だりける。
 聞る沛艾の名馬なれ共、大力が組合たれば、二匹の馬は中に留て働かず。
 内田勝負を人に見せんと思けるにや、弓箭を後へ指廻し、女が黒髪三匝さんさうにからまへて、腰刀を抜出し、中にて首をかゝんとす。
 女是を見て、汝は内田三郎左衛門さぶらうざゑもんとこそ名乗つれ、正なき今の振舞哉、内田にはあらず、其手の郎等かと問ければ、内田我身こそ大将よ、郎等には非ず、行跡何にと申せば、女答て云、女に組程の男が、中にて刀を抜、目に見する様やは有べき、軍は敵に依て振舞べし、故実も知ぬ内田哉とて、拳を握り、刀を持たる臂ひぢのかゝりをしたたかに打。
 余に強く被打て、把る刀を被打落、やをれ家吉よ、日本一につぽんいちと聞たる木曾の山里に住たる者也、我を軍の師と憑めとて、弓手の肘ひぢを指出し、甲の真顔取詰て、鞍の前輪に攻付つゝ、内甲に手を入て、七寸しちすん五分の腰刀を抜出し、引あふのけて首を掻、刀も究竟の刀也、水を掻よりも尚安し。
 馬に乗直り、一障泥あふりたれば、身質むくろは下へぞ落にける。
 首を持ち木曾殿きそどのに見せ奉れば、穴無慙や、是は八箇国に聞えし男、美男の剛者にて在つる者を、被討けるこそ無慙なれ、是も運尽ぬれば汝に討れぬ、義仲よしなかも運尽たれば、何者なにものの手に懸、あへなく犬死せんずらん、日来は何共思はぬ薄金が、肩に引て思也、我討れて後に、木曾こそ幾程命を生んとて、最後に女に先陣懸させたりといはん事こそ恥しけれ、汝には暇を給ふ、疾々落下とぞ宣のたまひける。
 巴申けるは、我幼少の時より君の御内に召仕れ進せて、野の末山の奥までも、一の道にと思切侍り、今懸る仰を承こそ心うけれ、君の如何にも成給はん処にて、首を一所に並べんと掻詢かきくどき云ければ、木曾誠にさこそは思ふらめ共、我去年の春信濃国しなののくにを出し時妻子を捨置、又再び不見して、永き別の道に入らん事こそ悲けれ、去ば無らん跡までも、此事を知せて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりも可然と存る也、疾々忍落て、信濃へ下り、此有様ありさまを人々に語れ、敵も手繁く見ゆ、早々と宣のたまひければ、巴遺は様々惜けれ共、随主命、落涙を拭つゝ、上の山へぞ忍びける。
 粟津の軍終て後、物具もののぐ脱捨、小袖装束して信濃へ下り、女房公達に角と語、互に袖をぞ絞ける。
 世静て右大将家うだいしやうけより被召ければ、巴則鎌倉へ参る。
 主の敵なれば、心に遺恨ありけれ共、大将殿も女なれ共、無双の剛者、打解まじきとて森五郎に被預。
 和田小太郎是を見て、事の景気も尋常也、心の剛も無双也、あの様の種を継せばやとぞ思ける。
 明日頸切べしと沙汰有けるに、和田義盛申預らんと申けるを、女なればとて心ゆるし有まじ、正しき主親が敵也、去剛の者なれば、隙もあらば伺思心有らん、叶まじと被仰けるを、三浦大介義明が、君の為に命を捨、子孫眷属二心なく、君を守護し奉て、年来奉公し奉る、争思召おぼしめし忘給ふべき、義盛相具して候さうらふとも、僻事更に在まじきと、様々申立預にけり。
 即妻と憑て男子を生。
 朝比奈三郎義秀とは是なりけり。
 母が力を継たりけるにや、剛も力も并なしとぞ聞えける。
 和田合戦の時朝比奈討れて後、巴は泣々なくなく越中に越、石黒は親かりければ、此にして出家して巴尼とて、仏に奉花香、主親朝比奈が後世弔ひけるが九十一まで持て、臨終目出して終りにけるとぞ。
 或説には、赤瀬の地頭の許に仕るといへり。
 高望王より九代孫、三浦大介義明、杉本太郎義遠、和田小太郎義盛、朝比奈三郎義秀也。

粟津合戦事

 範頼は勢多の手に向給たりけれ共、橋は引れぬ底は深し、渡べき様なければ、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝を先として、田上の貢御瀬を渡しつゝ、石山通に攻上、今井いまゐの四郎しらう兼平かねひら、五百ごひやく余騎よきにて国分寺の毘沙門堂に陣を取たりけるが、出合防戦けり。
 方等三郎先生義弘爰ここにして討れぬ。
 三万さんまん余騎よきの兵雲霞の如くに重なりければ、何にも難防ける上に、宇治の手已敗て、軍兵都へ乱入と聞ければ、兼平かねひら心弱覚て、木曾殿きそどのは北国へぞ趣き給らんと思ければ、湖の西の渚なぎさを、三百さんびやく余騎よきにて北へ向て歩行。
 義仲よしなかは関山関寺打過て、南を指て行程に、粟津浜にて行会ぬ。
 木曾云けるは、都にていかにも成べかりつるに、今一度互に相見んとて、多の敵に後を見せ是まで来れりと語て涙ぐみけり。
 今井も勢多にて如何にも成べう候つれ共、御向後のおぼつかなく侍て、是まで遁参たりと申けり。
 義仲よしなか、兼平かねひら馬を打並て宣のたまひけるは、川原の合戦に、高梨、仁科、根井も討れぬ。
 身も已すでに疵を蒙て、心疲力尽て進退歩を失、為敵被得事名将の恥也、軍敗れ自害するは猛将之法也と申ければ、兼平かねひら申けるは、勇士は不食不飢、被疵被屈、軍将は遁難求勝、去死決辱、就なかんづく平氏西海に在す、軍将北州に入給ば、天下三に分ち海内発乱せん歟、先急で越前国府まで遁給へ、兼平かねひら此にて敵を可相禦と云て挙旗。
 義仲よしなかが随兵共、多は北国の輩なれば、北を指て落けるが、旌の足を見て、五十騎ごじつき三十騎さんじつき此彼より馳集る。
 勢多より落来者、二十騎にじつき三十騎さんじつき集加ければ四五百騎しごひやくきに及。
 兼平かねひら力を得、左右を顧て云、各思を報じて命を棄ん事有此時、禦矢射て奉延んと申ければ、五百ごひやく余騎よきの輩心を一にして、西の山を後に当て、東の浜を前に得て、馬の足を軽して、矢筈を取ける程に、武石三郎胤盛、猪俣金平六範綱等を始として、七百しちひやく余騎よき攻来て時音を発す。
 兼平かねひら已下の軍士又声を合す。
 木曾宣のたまひけるは、此等は源氏郎等共らうどうども、我と思はん若者共、蒐出て追散せと下知し給ければ、二河次郎頼重と云者、三十さんじふ余騎よきにて鞭を打て敵の中へはり入て、両方互に乱合て相戦。
 範綱已下の輩小勢を押裹、中に取籠てければ、頼重を始として、不漏皆討捕れにけり。
 其後甲斐の源氏に、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、七千しちせん余騎よきにて先陣に進、粟津浜に打出たり。
 木曾は赤地錦の鎧直垂よろひひたたれに、薄金と云冑著て、射残したる護田鳥尾の矢負て、歩ばせ出して名乗けるは、清和せいわのみかどに十代後胤、六条ろくでうの判官はんぐわん為義ためよしには孫、帯刀先生義賢次男、木曾左馬頭さまのかみ兼伊予守、今は朝日将軍、源みなもとの義仲よしなか生年三十七、甲斐の一条と見は僻事か、雑人の手にかけんより組や組とて、轡を並てやすらひたり。
 一条次郎忠頼も、同流の源に、伊予守頼義らいぎの三男、新羅三郎義光が孫、武田太郎信義が嫡子、一条次郎忠頼、同三郎兼信、兄弟二人と名乗て進出つゝ、木曾と一条と、魚鱗、鶴翼の戦をぞ並たる。
 一条忠頼は鶴翼の戦とて、鶴の羽をひろげたるが如くに、勢をあばらに立成て、小勢を中に取籠んとぞ構たる。
 木曾きそ義仲よしなかは魚鱗の戦とて、魚の鱗をならべたるが如、さきは細く、中ふくらにこそ立たりけれ。
 一条板垣は甲斐源氏、木曾きそ義仲よしなかは信濃源氏也、共に清和せいわの苗裔同多田ただの後胤也。
 一門弓箭を合せ、同姓勝負を決せんとす。
 義仲よしなか魚鱗の構にて、五百ごひやく余騎よき轡を並べてさと蒐入たれば、忠頼鶴翼の支度にて、大勢の中に小勢をくるりと巻、馳合馳却、戦たり。
 義仲よしなかは今を限の軍也、いつまで命を惜べき、一条次郎能敵ぞ、あますな者共とて、蒐破ては出喚ては入、五六度まで戦て、くと抜て出たれば、二百にひやく余騎よきは討れにけり。
 次に同甲斐源氏に武田太郎信義、加々見次郎遠光、兄弟二人大将軍にて二千にせん余騎よき、木曾を中に取籠て散々さんざんに戦、かけ入かけ出て、四廻五廻戦て先へ抜て見れば、八十余騎よきは討れけり。
 次同国源氏に逸見四郎有義、伊沢五郎信光兄弟二人、従弟に小笠原小次郎こじらう長清、三人大将軍にて三千さんぜん余騎よき、木曾を中に取籠て戦、追入追出し、一時戦て懸抜て見れば、五十ごじふ余騎よきは討れにけり。
 次に武蔵国住人ぢゆうにん稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、兄弟二人大将として二千にせん余騎よき、木曾を中に取籠てあますなとて散々さんざんに戦。
 蛛手十文字にかけ破て、くと抜て見たれば、五十ごじふ余騎よきは討れにけり。
 次に下総国住人ぢゆうにん千葉介経胤、大将軍にて三千さんぜん余騎よき、木曾を中に取籠て遁すな者共とて、透間なくこそ戦たれ。
 思切たる木曾なれば、命も不惜振舞けり。
 散々さんざんにかけ破て後へ通て見たれば、七十余騎よきは被討て、僅わづかに二十余騎よきにぞ成にける。
 次に大将軍蒲冠者範頼、七千しちせん余騎よきにて木曾を中に取籠て、ましぐらにこそ戦たれ。
 木曾は此大勢にて追つ返つ/\、粟津原より打出浜まで、引退々々こそ堪たれ。
 二十余騎よきとは見えしかど、落ぬ討れぬする程に、主従五騎ごきに成たりけるが、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん手塚太郎討れければ、手塚別当も落にけり。
 上野国住人ぢゆうにん多胡次郎家包と名乗て打出ければ、大勢の中を打廻、我と思はん人々は、家包討捕て勲功の賞に預れやと云て、散々さんざんに切廻けり。
 鎌倉殿かまくらどの兵共つはものどもに相触れて、多胡次郎家包木曾に付て在也、相構て虜て進せよと被仰含たりければ、家包は大狂廻切廻けれ共、軍兵は疵を付じと射もせず切もせず、手をひろげて取ん取んとしけるこそ由々しき大事なりけれ。
 兵の中に、家包甲を脱太刀を納て降人に参れ、助ん、木曾殿きそどのも今は主従三騎也、和君一人命を棄たり共、木曾殿きそどの軍に勝給ふべしや、唯降人に参れ、無由々々と云ければ、家包申けるは、弓矢取身は主は二人不持、軍の習討死は期する処也、惜命降人に成て、角云人々に面を合すべしや、正なし/\教訓も事によるべし、其よりも只寄合、組で討取給へや殿原とて斬廻りけれども、大勢しころを傾けて押寄、終に生捕にけり。
 去年六月に木曾北陸道を上しには、五万余騎よきと聞えしに、今四宮河原を落けるには、只七騎には不過けり。
 粟津の軍の終には、心は猛く思へ共、運の極めの悲さは、主従二騎に成にけり。
 増て中有の旅の空、独行なる道なれば、想像こそ哀なれ。
 木曾殿きそどの鐙踏張弓杖衝て今井に宣のたまひけるは、日来は何と思はぬ薄金が、などやらん重く覚る也と宣へば、兼平かねひら何条去事侍べき、日来に金もまさらず、別に重き物をも付ず、御年三十七御身盛也、御方に勢のなければ臆し給ふにや、兼平かねひら一人をば、余の者千騎せんぎ万騎とも思召おぼしめし候べし、終に可死物故に、わるびれ見え給ふな。
 あの向の岡に見ゆる一村の松の下に立寄給たまひて、心閑に念仏申て御自害ごじがい候へ、其程は防矢仕て、軈やがて御伴申べし、あの松の下へは、廻らば三町直には一町にはよも過侍らじ、急給へと泣々なくなく涙を押へ詢ければ、木曾は遺を惜つゝ、都にて如何にも成べかりつれ共、此まで落きつるは汝と一所にて死なんと也、何迄も同枕に討死せんと思也と宣へば、今井いかに角は宣ふぞ、君自害し給はば兼平かねひら則討死也、是をこそ一所にて死ぬるとは申せ、兵の剛なると申は最後の死を申也、さすが大将軍の宣旨を蒙程の人、雑人の中に被打伏て首をとられん事、心憂かるべし、疾々落給たまひて御自害ごじがいあるべしと勧ければ、木曾誠にと思ひ、向の岡松を指て馳行けり。
 今井は木曾を先に立て、引返々々命も不惜戦けり。
 木曾は今井を振捨て、畷に任て歩せ行。
 比は元暦元年正月廿日の事なれば、峯の白雪はくせつ深して、谷の氷も不解けり。
 向の岡へ直違にと志。
 つららむすべる田を横に打程に、深田に馬を馳入て、打共々々不行けり。
 馬も弱り主も疲たりければ、兎角すれ共甲斐ぞなき。
 木曾は今井やつゞくと思つゝ、後へ見返たりけるを、相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん石田小太郎為久が、能引て放つ矢に内甲を射させて、間額を馬の頭に当て、俛しに伏にけり。
 為久が郎等二人馬より飛下、深田に入て木曾を引落し、やがて首をぞ取てける。
 今井是を見て、今ぞ最後の命なる、急御伴に参らんとて進出て申けるは、日比ひごろは音にも聞けん、今は目にも見よ、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん中三権頭兼遠が四男、朝日将軍の御乳母子おんめのとご、今井いまゐの四郎しらう兼平かねひら也、鎌倉殿かまくらどのまでも知召たる兼平かねひらぞ、首取て見参に入よやとて、数百騎すひやくきの中に蒐入て散々さんざんに戦けれ共、大力の剛の者成ければ、寄て組者はなし、唯開て遠矢にのみぞ射ける。
 去共冑よければ裏かゝず、あきまを射ねば手も不負。
 兼平かねひらは箙に胎る八筋の矢にて八騎射落しける。
 太刀を抜て申けるは、日本一につぽんいちの剛者、主の御伴に自害する、見習や、東八箇国の殿原とて、太刀の切鋒口にくはへ、馬より逆に落貫てぞ死にける。
 兼平かねひら自害して後は、粟津の軍も無りけり。
 樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家を追討のために、五百ごひやく余騎よきにて河内国へ下たりけるが、行家をば討漏して、兼光女共虜にして京へ上ける程に、淀の大渡にて、木曾殿きそどのすでに討れ給ぬと聞て、虜をば追放て、兵共つはものどもに云けるは、木曾殿きそどの早討れ給にけり、御内には今井樋口とて一二の者也、遂に遁べき身に非、我身は京に上て可討死也、命も惜く故郷も恋しからん人々は、是より落べしと云ければ、五百ごひやく余騎よきの兵共つはものども、木曾殿きそどの左様に討れ給ける上は、誰が為に命をも捨べきとて、思々に落失て、僅わづかに五十ごじふ余騎よきにて上けるが、鳥羽殿とばどのの秋の山の程にて見ければ、三十騎さんじつきには不過けり。
 造道、四塚、東寺の門へ歩せ行。
 樋口次郎京へ入と聞えければ、九郎義経の郎等共らうどうども、七条を西へ朱雀大宮おほみやを下に、造道へ馳向。
 信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん茅野太郎光弘と云者は、樋口次郎兼光が甥也。
 木曾殿きそどの誅罰、東国より討手上と聞て、山道より只一騎いつき上けるが、今日都に著て聞ば、木曾殿きそどのは已すでに討れぬ、樋口今日京に入と聞て、急四塚辺へ馳向て、兼光が勢に打具して戦けり。
 何まで助るべきにはなけれ共、親き中こそ哀なれ。
 光弘矢さきに塞て散々さんざんに戦処に、筑前国住人ぢゆうにん原十郎高綱と名乗つて蒐出たり。
 光弘申けるは、何れの十郎にてもあれ、敵をば嫌まじとて、間近き程に攻寄て、太刀を抜て戦けるが、茅野太郎が手に懸り、原十郎討れにけり。
 同国上宮の茅野大夫光家、其弟に茅野七郎光重も、兄弟鼻を並て戦けるが、敵四人切殺して我身も討死してぞ失にける。
 児玉党団扇の旗指て、百余騎よきの勢にて出来れり。
 樋口を中に巻籠て、軍をばせず申けるは、やゝ樋口殿軍を止給へ、和殿計は助奉らん、広き中に入て聟に成は、加様の時の料也、無詮々々とて、心ならず取籠て具して京へ上り、軍将義経に角と申ければ、奏聞してこそ助めとて、院ゐんの御所ごしよに将参、此旨申入ければ、今日は不斬けり。

木曾頸被渡事

 二十二日に新摂政しんせつしやうを奉止て、元の摂政せつしやうに成返り給へり。
 摂録の詔書を被下て僅わづかに六十日、そも春日大明神かすがだいみやうじんの御計なれば、可然事と云ながら、見果ぬ夢とぞ思召おぼしめしける。
 去共人の申けるは、昔一条院御宇ぎように右大臣道兼と申しは、太政大臣だいじやうだいじん兼家公次男也。
 〈号東三条殿とうさんでうどの也。〉
 正暦六年四月廿七日に、関白くわんばくの諂事を下給らせ給たまひて、御拝賀の後只七日、前後十二日ぞ御座おはしましける。
 是を粟田関白くわんばくと申き。
 懸る様も有しぞかし、是は六十日が間に、除目も二箇度行給しかば、思出ましまさぬには非ず。
 一日とても摂録を黷し給こそ目出けれ。
 二十六日にじふろくにちに、伊予守義仲よしなかが首大路を被渡。
 法皇は御車を六条東洞院ひがしのとうゐんに立て被御覧、九郎義経六条河原にて検非違使けんびゐしの手に渡す。
 検非違使けんびゐし是請取て、東洞院ひがしのとうゐんを北へ渡して、左の獄門の樗木に懸らる。
 其首四つ、伊予守義仲よしなか郎等に信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん、高梨六郎忠直、根井四郎行親、今井いまゐの四郎しらう兼平かねひら也。
 是三人は、四天王に員へられて一二の者なりければ、義仲よしなかと同く懸られたり。
 何者なにものが所為にか、獄門の木の下に、札を書き立たりけるは、
  信濃なる木曾の御料に汁懸て只一口に九郎義経
伊予守の頸、剣に貫て赤絹を切て、賊首源みなもとの義仲よしなかと銘を書て髻に付、義仲よしなか左右の眉の上に、被きずをかうむりたれば、粉米をぞ塗たりける。
 次に降人中原兼光、葛紺水干葛袴の練色衣に、引立烏帽子たてえぼしを著す、徒跣にて渡けり。
 法皇御車の前にして被召留て御覧あり。
 上下市を成て見物す。
 兼光死を遁れて降人と成、大路を被渡面を曝す、其心勇士にはあらざりけり。
 皆人恥しめあへりけり。
 度々の合戦に功有しかば、其名を得たる兵なりしに、今人の嘲を招けるも、可然運の極と覚たり。

兼光被誅並沛公はいこう咸陽宮

 樋口次郎兼光は、児玉党が依嘆申、義経被奏聞ければ、宥死罪大路を渡し、被禁獄たりけるを、院ゐんの御所ごしよ法住寺殿ほふぢゆうじどのの軍の時、然べき上﨟女房達にようばうたちなどを捕て衣裳を剥取、裸に成て五六日奉取籠、恥を奉見たりける故に、彼女房達にようばうたち口惜事に思召おぼしめして、かたへの女房達にようばうたちを相語、兼光男を生置せ給はば、尼にならん御所を出ん。
 淀河、桂河に身を投んなど、様々に訴申させ給ければ、法皇も力及せ給はず、公卿有僉議せんぎ、女房の訴訟も難黙止
 兼光は木曾殿きそどのが四天王の随一ずゐいち、死罪を被宥事有虎養恐と、殊に有沙汰て、明二十七日にじふしちにちに獄舎より取出て、五条ごでう西朱雀に引出て被斬けり。
 伝聞、虎狼の国衰て諸侯蜂の如く起り、沛公はいこう先咸陽宮に入といへ共、項羽が後に来らん事を恐て、金銀珠玉をも掠めず、軍兵美人をも不犯、徒に函谷関を守て漸々に敵を亡し、遂に天下を治る事を得たりといへり。
 漢高祖と申は彼沛公はいこうの事也き。
 義仲よしなかも先都に入と云とも其慎み有て、頼朝よりともの下知を守らましかば、彼沛公はいこうが謀に同くして、世を取事も有なまし。
 義仲よしなか早晩奢つゝ、奉天命、叛逆を起し、悪事身に積て、首を粟津に被刎て、恥を獄門に被曝けり。
 但帝王に向て弓を引者、大果報之人は六十日を持、小果報之人は四十日を不過といへり。
 木曾は五十ごじふ余日除目二箇度、松殿の御聟になり、朝日将軍の宣旨を被下たり。
 大果報とも云べきか。

阿巻 第三十六
一谷いちのたに城構事

 平家は播磨国室山、備中国水島、二箇度の合戦に討勝つてぞ会稽の恥をば雪めける。
 懸りければ、山陽道七箇国、南海道六箇国、都合十三箇国の住人ぢゆうにん等悉に靡く、軍兵十万余人よにんに及べり。
 木曾討れぬと聞ければ、平家の人々は讃岐国屋島をば漕出て、摂津国つのくにと播磨との境、難波潟一の谷にぞ籠ける。
 去る正月より、此能所也とて城郭じやうくわくを構たり。
 東は生田森を城戸口とし、西は一谷いちのたにを城戸口とす。
 其中三里は、須磨板宿、福原、兵庫ひやうご、明石、高砂、隙なく続きたり。
 北は山の麓、南は海の汀みぎは、人馬の隙ありと見えず。
 陸には此彼に堀をほり逆茂木を引、二重三重に櫓を掻垣楯を構たり。
 海上には数万艘すまんさうの舟を浮て、浦々島々に充満たり。
 一谷いちのたにと云所は、口は狭して奥広し。
 南は巨海漫々として浪繁く、北は深山しんざん峨々として岸高し。
 屏風を立たるが如くなれば、馬も人も通べき様なし。
 誠に由々しき城郭じやうくわく也。
 海には兵船数万艘すまんさうを浮て算を散せるが如く、陸には赤旗立並て不其数、春風に吹れて翻天、猛火の燃上に似たり。
 誠に夥おびたたし共云計なし。
 縦敵寄たりとも免出べき様見えず。
 平家年来の伺候人、伊賀、伊勢、近国に死残たる輩、北陸南海より抜々に来著ければ、云に及ばず。
 山陽、山陰せんいん、四国、九国に宗むねと聞る者共、阿波民部大輔成良が口状を以て、安芸守基盛の息男、左馬頭さまのかみ行盛執筆として、交名記して被催たり。
 先播磨国には津田四郎高基、美作みまさかには江見入道、豊田権頭、備前には難波なんばの次郎じらう経遠つねとほ、同三郎経房、備中には石賀入道、多治部太郎、新見郷司、備後国には奴賀入道、伯耆国には小鴨介基康、村尾海六、日野郡司義行、出雲国には塩冶大夫、多久七郎、朝山紀次、横田兵衛維行、福田押領使、安芸国には源五郎兵衛朝房、周防国には石国源太維道、野介太郎有朝、周防介高綱、石見国には安主大夫、横川郡司、長門国には郡東司秀平、郡西大夫良近、厚東入道武道、鎮西には菊池次郎高直、原田大夫種直、松浦太郎高俊、郡司権頭真平、佐伯三郎維康、坂三郎維良、山鹿兵藤次秀遠、坂井兵衛種遠也。
 豊後国には尾形三郎維義一党、伊予国には河野四郎通信が伴類の外は、弓矢に携宗徒の輩大略参ければ、其次々の者共も、必志はなかりけれ共、人並々々出立て、漏者こそ無りけれ。
 昔項羽が鴻門に向しが如し。
 何かは是を攻落さんとぞ見たりける。

能登守所々高名事

 四国九国の輩、我も/\と参ける中に、讃岐国在庁等、平家を背て源氏に心を通じ、船三十さんじふ余艘よさうに、二千にせん余騎よき乗連て都へ上けるが、抑源氏へ参に、争か平家に一矢不いずしては通るべきとて、門脇かどわきの中納言ちゆうなごん教盛の、備中国下道郡に五百ごひやく余騎よきにて御座おはしましける所へ、押寄て時を造懸たり。
 教盛事ともし給はず、昨日までは平家に奉公して、馬に草刈水汲し奴原也。
 今当家を背き源氏に心をかはす条奇怪也、一々に射殺せやとて子息に越前三位通盛、能登守教経大将軍にて、船十余艘よさうに乗て押向て、散々さんざんに禦戦給ければ、在庁等被追散て、はか/゛\しき矢一も不いず
 奥懸に淡路国福良と云所へつく。
 淡路国に淡路冠者、掃部冠者とて二人あり。
 故六条ろくでうの判官はんぐわん為義ためよしが孫共也。
 淡路冠者は為義ためよしが四男、左衛門尉さゑもんのじよう頼賢が子、掃部冠者は同五男、掃部助頼仲が子也。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのには共に従父兄弟也。
 当国住人ぢゆうにん等、此両人が下知に随ければ、讃岐在国庁も同彼に靡付にけり。
 通盛教経是を聞、淡路国へ推渡、一日一夜攻戦ける程に、淡路冠者、掃部冠者共に討れぬ。
 大将軍二人討れしかば、残る輩、此彼に被追詰て一々に被射殺射殺、能登守は百三十二人が首を取て、姓名書副福原へ進する。
 門脇かどわきの中納言ちゆうなごんは、下道郡より福原へ帰給ふ。
 伊予国住人ぢゆうにん河野四郎通信を責とて、通盛教経二手に分て四国へ渡る。
 越前三位は阿波国北郡花苑に著給。
 能登守は讃岐国屋島御崎にぞ著給ふ。
 河野四郎此事をきゝ、安芸国奴田太郎は源氏に志あり。
 一に成て軍せんと思て奴田尻へ渡りけるが、今日は備後の蓑島に懸て、翌日は蓑島を漕出て奴田尻に著。
 能登守是を聞、奴田城に推寄て一日一夜責戦。
 奴田太郎矢種射尽て、叶じとや思けん、鎧を脱弓を外して降人に参けり。
 河野は郎等皆討れて主従七騎に成、細縄手を浜へ向て落けるを、能登守の郎等に平八為員と云者、引詰々々射ける矢に、六騎被射落て二人は則死す。
 四人は半死半生也。
 河野は、口惜事也、敵一人に六騎まで被射殺て、我一人生たらば何の甲斐かは有べきと思切て、太刀を額に当て、手負の上を飛越々々打懸。
 平八為員を打取て落けるが、手負四人が中に、讃岐七郎為兼と云ける郎等は、命に替て不便の者なれば引起し、肩に懸て小舟に乗せ、伊予国へぞ渡にける。
 能登守は河野をば討漏たれ共、大将軍奴田太郎を虜て、福原もおぼつかなしとて帰られけり。
 淡路国住人ぢゆうにんに安摩六郎宗益、源氏に志あて、淡路冠者、掃部冠者に同意したりけれ共、両人討れければ、宗益忍て五十ごじふ余騎よきにて、兵船六七艘に乗て都へ上ると聞ければ、能登守百五十騎ごじつきにて、十二艘に漕連て追けるが、西宮にしのみや沖にて追詰、前を切て散々さんざんに射。
 安摩六郎河尻へは不入して、紀伊路をさして落行けり。
 紀伊国住人ぢゆうにん園部兵衛重茂も、源氏に志有けるが、淡路安摩六郎、能登殿に被追返て、和泉国吹井谷川と云所に著たりと聞て、一に成て可上洛と聞えければ、能登守紀伊路へ押渡、園部館へ攻入て散々さんざんに追払、三十六人が首を切、姓名を注して福原へ進する。
 伊予国河野四郎、豊後国尾形三郎、海田兵衛宗親、臼杵次郎維高等が、一に成て備前国今木城に籠たりと聞ければ、能登守二千にせん余騎よきにて推寄て、一日一夜戦今木城を追落す。
 尾形は豊後へ漕戻す。
 河野は伊予へ渡にけり。
 能登守は今木城を追落て、福原もおぼつかなしとて帰給ふ。
 能登殿所々の高名、大臣殿大に被感仰けり。
 誠由々しくぞ見えし。
 平家は浦々島々にて、朝夕の軍立に過行月日も忘て、憂かりし春にも廻あふ。
 世が世にてあらましかば、故禅門相国の遠忌を迎て、兼て堂塔をも起立し仏経をも用意して、後世菩提を吊はるべけれ共、懸乱の世中なればそも叶はずして、只男女の人々、指つどひては泣給へる計也。

福原除目付将門まさかど平親王

 元暦元年二月四日、平家は福原にて故入道の忌日とて、仏事如形被行て、都へ可帰上之由聞えければ、旧里に残留てさびしさを嘆ける者共、多く隠下ければ、福原にはいとど勢こそ付増けれ。
 三種の神器を帯して、君かくて渡らせ給へば、爰こそ都なれとて、叙位除目僧事など被行ければ、僧も俗も官を給る。
 大外記中原師直が子、周防守師澄は大外記に成、兵部少輔尹明は五位蔵人に成つて蔵人少輔と云。
 門脇かどわきの中納言ちゆうなごん教盛卿のりもりのきやうをば、正二位しやうにゐの大納言だいなごんにあがり給へと聞書を送進たりければ、やゝ打見給たまひて御返事おんへんじに、
  今日迄もあればあるとや思ふらん夢の中にも夢を見る哉
と、誠にと覚えて哀なり。
 昔将門まさかどが東八箇国を打靡したりけるに、下総国相馬郡に都を立て、我身平親王と被祝て百官をなす。
 将門まさかどが舎弟しやてい、御厨三郎将頼下野守に任ず。
 同大葦原四郎平将平上野介に任ず。
 同平将為下総守に任。
 同平将武伊豆守いづのかみに任ず。
 常羽御厩別当多治経明常陸介に任ず。
 藤原玄茂上総介に任ず。
 武蔵権守奥世安房守に任ず。
 文屋好兼相模守に任ず。
 諸国の受領を点定し、王城を建べき記文に云、下総国に可立亭、南以礒橋都山崎、以相馬郡津京の大津とすべしと申て、大臣納言参議文武六弁八史等、百官を成たりけるに、暦博士計ぞなかりける。
 是は彼に似べきに非、故郷をこそ出させ給たれ共、故高倉院たかくらのゐんの王子万乗の位に備給へり。
 内侍所御座おはしませば、叙位除目行はるゝ事非僻事と申けり。
 大臣殿已下宗徒の人々は福原の旧都に御座おはしまして、加様に除目被行軍の評定あり。
 一門の若人、諸国の侍共は、東西の城戸に分遣したり。
 平家は西国さいこくことごとく打靡して、既すでに都へ還入給べしと聞ければ、余党の残留たりけるも皆福原へ参向ふ。
 其外他家の人々も、実も都へ帰上て、再世にもや御座おはしまさんずらんとて、色代の使等閑の消息せうそく、各被下ければ、平家の一門も侍も、いとゞ力付て覚けり。

維盛住吉すみよし詣並明神垂跡すいしやく

 権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやうは、月日の過儘に、明ても暮ても故郷のみおぼつかなくて、軍の事も心に入給はず、弟の新三位中将しんざんみのちゆうじやうを招具し奉りて深く身を窄し、住吉社へ参給つゝ、一夜の通夜をぞ被申ける。
 祈誓は今一度都へ帰入、再妻子令見給へと也。
 抑此明神と申は、元は是高貴徳王の変身として名を仏教に顕し、今は即叡哲聖主の周衛として、化を神州に被らしめ給へり。
 本地の悲願垂跡すいしやくの化導を奉仰、御祈念あるぞ哀なる。
 明ぬれば住江殿の釣殿に御座おはしましてつく/゛\と嘯て、彼住吉すみよしの姫君、昔誰松風の絶ず吹らんとて、琴掻鳴し給けるを思出て、無常の句をぞ被頌ける。
 山に入市に交ても難遁は無常の使、関固め兵を集ても難防は生死の敵、漢高祖三尺の剣を提し、獄率の武きをば征せず。
 張良一巻の書に携し、閻王の攻には靡けり。
 名利身を助れ共、野原の末に被棄て、雨露骸を潤し、恩愛心を悩せ共、中有の旅に出ぬれば黒業神に随と、口には誦し給へ共、心は都に通けり。
 能因法師と云しは中比の数寄者也。
 在俗の時は永愷と云けり。
 備前守元愷子也。
 伊豆三島社にては、天降ます神ならばと詠、奥州あうしう白川関にしては、秋風ぞ吹白川の関と読て、関屋の柱に筆を止む。
 其能因が修行の時、
  心あらん人に見せばや津国の難波渡の春のけしきを
と読とゞめて、名にし負歌枕なれば、良詠しめ帰給ふ。

忠度見名所々々付難波浦賤夫婦事

 薩摩守忠度も、源氏も未寄ければ、能隙と覚して、摂津国つのくに名にし負名所々々を巡見給ふ。
 山には玉坂山、有馬山、待兼山をも見給けり。
 河には玉川、三島、稲河、芥河とかや。
 江には三島江、住江、堀江、玉江、難波江、浦には須磨浦、長井ながゐの浦、蓋篋浦、野には印南野、昆陽野とかや。
 森には生田森、てくらの森、滝には布引滝、関には須磨関、橋には長柄橋、島には砥島、豊島、田蓑島、里には長井ながゐの里、玉川里、此に移り彼に渡て見給。
 中にも難波浦こそ古の事思出つゝ哀なれ。
 村上天皇てんわうの御宇ぎよう天暦の比とかや、此浦に或人夫婦相住。
 指もの賤女なりけれ共、妻は情ある女にて、生死の無常を恐れ、慈悲心に深くして、乞食貧人に物を施しければ、夫は邪見放逸にして、更に憐の思なし。
 我貧は汝が宝を費故也と大に是を嗔けれ共、女是を不用して、隠忍ても与へければ、夫今は制するに不及とて、永く其妻を去てけり。
 女はいみじき心有ければ、蒙諸天の加護て則国主の妻室と成ぬ。
 男は其後仏神にや被捨たりけん、貧成てすべき方の無りければ、日々ひびに難波堀江に行て葦を刈て世過けり。
 此女輿に乗て道を過ける時、元の夫は葦を刈て立たり。
 女輿の中にて是を見ていと哀に無慙に思、彼男を召寄て、何汝我を捨ぬれ共、角こそはあれと云ければ、男限なく辱しく思て、
  君なくてあしかりけりと思にもいとゞ難波の浦ぞ住憂き
 女の返事には、
  あしからじとてこそ人は別れしか何か難波の浦は住うき
と読たりければ、男則消入にけるとなん。
 或説には、翌日に百石を元の男に送共あり。
 彼夫婦の住ける所とて里人の教けるを見給へば、今は家の跡だにも見えず、混ら野にこそ成にけれ。
 物思所なれば、被思知て哀也。
 浦々島々の名所注して、一巻の書に留給たまひつゝ、福原へこそ帰給けれ。

維盛北方歎並梶井宮遣全真歌

 三位中将さんみのちゆうじやう維盛は、日重り年阻ぬるに随て、故郷に留置し人々も恋しく聞まほしく思召おぼしめしけるに、適商人の便を得て、北方より御文あり。
 珍とて披き見給へば、相構て迎取給べし。
 人しれず歎悲心の中、争か知せ奉べきとまで、責ての事には覚て候、只推量給べし、少者共の不なのめならず恋しがり奉れば、我身の尽せぬ思に打副て無為方思へば、ながらへ候べし共覚えず、生て物を思も苦しければ、消も入なばやと思へども、又憂世うきよに立廻らば、などか今一度見もし見えもし奉る事なからんと、難面心につながれて、今迄は角て侍れども、遂に如何なるべし共思分ず。
 若昔語とも成なば、少き人々の父にこそ奉捨らめ、母にさへ後て、憑方なき者と成て、奉誰育たれにはごくまれたてまつらんと、兼て思も悲くこそ侍れ、さても如何に只一人は御座おはしまし候なるぞ、心苦くこそ、如何ならん人をも相語ひ給たまひて、旅の御徒然をも慰給へかし、契はそれにしも依べきかはと濃に書給たまひたりれけば、最悲く覚えて伏沈給けるぞ哀に見え給ける。
 是をば角とも知給はず、三位中将さんみのちゆうじやうは、池いけの大納言だいなごんの様に二心あるにこそとて、大臣殿も打解給事なければ、怒々さは無物をとて、いとゞあぢきなしとて、さらば迎取て一所にて何にも成ばやと、常は思立給けれ共、我身こそ角憂からめ、人の為に糸惜ければとて明し晩し給たまひけるぞ責ての志の深さと覚て哀なる。
 二位僧都そうづ全真は、梶井宮の御同宿也。
 僧都そうづ西海の浪に漂て、何れの国に落居とも不聞ければ、宮も御心苦事に思召おぼしめし、風の便にはと思出けれども、空く月日を送らせ給けるに、都近く福原まで上たりと聞召ければ、旅の有様ありさま思召おぼしめし遣こそいと御心苦しけれ。
 都も未閑、浮世の習と云ながら、何かなるべし共不思召おぼしめし、月日の重るに付て、御恋しさ理に過てこそなど、濃にあそばして御書を被下けり。
 奥に一首の歌あり。
  人しれずそなたを忍心をばかたぶく月にたぐへてぞやる
 全真は此御書を給たまひて、衣の袖をぞ被絞ける。
 九郎義経は、平家追討の為に西国さいこくへ発向すべしと聞ければ、義経を院ゐんの御所ごしよ六条殿へ召て、我朝には神代より伝たる三種の御宝あり。
 則神璽宝剣内侍所是也。
 天津御神の国津主に伝て、百王鎮護の神宝、万民豊饒の霊珍也。
 相構て無事故都へ奉還入とぞ被仰含ける。
 義経畏ていと事安げに、子細や候べきとて罷立ければ、法皇御嬉気に被思召おぼしめされけり。

福原忌日事

 二月三日、源氏は一谷いちのたにへ向べしとて勢汰あり、評定ありけるには、明日四日は故太政だいじやう入道にふだうの忌日と聞ゆ。
 妨仏事ぶつじをさまたぐること罪深し、延引すべし。
 五日は西塞り、六日は悪日也。
 七日の卯刻の矢合と定て、東西の城戸より、兄弟大将軍として攻べきにぞ有ける。
 抑源氏は入道の忌日に芳心情あり。
 忌日と云事は内外の典籍に明文あり。
 天竺震旦にも有先規
 梵網経には、父母兄弟死亡日講菩薩戒律云々、礼記には、忌日には忌人云云。
 廬山僧慧は鶴を詞けるに、僧慧死して後、彼鶴年々の忌日に来て、羽を垂て終日に啼居たりき。
 晉代に師曠と云人は、秘蔵して一挺琴を持てんげり。
 其主死て後、此琴忘形見に留つて空き壁にそばだち、塵積れども払人無りけるに、師曠が年々の忌日に、不弾に自鳴て悲の音を含けり。
 琴は非情也、鶴は畜趣也けれども、知恩の志如此。
 況人倫争か不優。
 就なかんづく或経には、忌日には亡者必閻魔宮より暇を得て、旧室に来て子孫の善悪を見るに、善を見ては悦咲、悪を見ては歎泣と云文あり。
 源氏も此意を得たりけるにや。
 情を忌日に籠けるも優也と、讃ぬ人こそ無りけれ。

源氏勢汰事

 同七日法皇、八条烏丸の御所にして、平氏追討の御祈おんいのりに、五尺の毘沙門天像を被造。
 始先御衣の木を安置す、二丈にぢやう五尺也。
 南を以為上。
 法印院尊為大仏師、権僧正ごんのそうじやう定遍奉持御衣木西へ向へり。
 法皇は鈍色の裳付衣を召れて、砌下の御座に著御あり。
 高麗縁の畳一帖を地上に敷て御座とす。
 御仏作始て後、北に向て立奉て、法皇三度御拝あり。
 〔其後九郎義経は、平家追討の為に西国さいこくへ発向すべして聞召ければ、義経を院ゐんの御所ごしよ六条殿へ召て、我朝には神代より伝たる三種の御宝あり、則神璽宝剣内侍所是也、天津御神の国津主に伝て、百王慎護の神宝、万民豊饒の霊珍也、相構て無事故都へ奉還入とぞ被仰含ける。
 義経畏ていと事安げに、子細や候べきとて罷立ければ、法皇御嬉気に被思召おぼしめされけり。〕
同日卯刻には、源氏已すでに発向す。
 追手の大将軍には蒲冠者範頼、相従ふ輩には稲毛三郎重成、同舎弟しやてい榛谷四郎重朝、同森五郎行重〈兄弟三人〉、長野五郎清重、梶原平三景時、子息平太景季、同平次景高、同三郎景家かげいへ、曽我太郎祐信、千葉介常胤、子息太郎胤将、小次郎こじらう成胤、相馬次郎師常、子息国分五郎胤通、同六郎胤頼、武石三郎胤盛、舎弟しやてい大須賀四郎胤信、佐貫四郎大夫広綱、海老名太郎兄弟四人、中条藤次家長、児玉には、庄太郎家長、同三郎忠家、同五郎広賢、塩谷五郎維広、小林次郎、同三郎小河五郎、勅使河原権三郎有直、秩父武者四郎行綱、大田兵衛重平、広瀬太郎実氏、大田四郎重治、安保二郎実能、中村小三郎時経、玉井四郎助重、高山三郎、八木次郎、同小二郎、河原太郎高直、同次郎盛直、小代八郎行平、久下次郎実光、小野寺太郎道綱等を先として五万余騎よき、播磨路に懸て、次の日は摂津国つのくに昆陽野に陣を取。
 入道の仏事の日なれば、馬も我身も休けり。
 搦手の大将軍は九郎義経、相従輩には安田三郎義定、一条二郎忠頼、逸見冠者義清、武田右兵衛有義、畠山庄司重忠、久下権頭直光、大内冠者維義、斎院次官親能、山名太郎義範、土肥二郎実平、子息弥太郎遠平、三浦別当義澄、和田小太郎義盛、佐原十郎義連、多々良五郎義春、同次郎光義、糟谷権頭重国、同藤太有季ありとし、河越太郎重頼、同小太郎茂房、後藤兵衛実基、猪俣金平六範綱、平佐古太郎為重、熊谷次郎直実、子息小次郎こじらう直家、平山武者所季重、大川戸太郎広行、師岡兵衛重経、金子与一近範、源八広綱、小川小次郎こじらう助茂、山田太郎重澄、原三郎清益、片岡太郎経治、長井ながゐの小太郎義兼、筒井次郎義行、伊勢三郎義盛、葦名太郎清高、蓮沼太郎忠俊、同六郎国長、岡部六弥太忠澄、同三郎忠康、渡柳弥五郎清忠、江田源三、熊井太郎、蒲原太郎正重、同三郎正成、池上次郎、香河五郎、諏訪三郎、藤沢六郎、平賀次郎景宗、封戸次郎、同六郎正頼、手郎等には奥州あうしうの佐藤三郎兵衛継信、同四郎兵衛忠信、城三郎、片岡八郎為春、備前四郎、鈴木三郎重家、亀井六郎重清、武蔵坊弁慶べんけい等を始として一万いちまん余騎よきにて、是も同四日の寅卯刻に都を出て、丹波路に懸て、二日路を一日に打て、播磨、丹波、摂津国つのくに、三箇国の境なる丹波国氷上郡、三草山の東の山口、小野原と云里に、戌刻に馳付て、即爰ここに陣を取。
 但し関東の評定には、梶原平三は、侍大将軍にて九郎義経に付、土肥次郎は、侍大将軍にて蒲冠者に相従べしと被定たりけるに、実平は範頼を捨て九郎義経に付、景時は義経を離て、五百ごひやく余騎よきを引分て蒲冠者に属にけり。
 畠山は、元は九郎義経に打具して宇治川うぢがはを渡たりけるが、京にては蒲冠者に伴けり。
 今度一谷いちのたにへ発向には、畠山又範頼の手を引分て、五百ごひやく余騎よきにて義経に付、其故は、梶原兵衛佐殿ひやうゑのすけどのの気色誇して、諸国の侍共を手に握、我儘にと振舞ければ、景時に被下知事目ざましく思ける上、蒲冠者の軍将様、九郎御曹司には雲泥を論じて劣給へりとて、搦手にぞ付にける。
 九郎義経は此等が出入を見給たまひて、梶原が義経を悪しとて出たれ共、畠山又返入たれば、よしよし無利無損、同五百ごひやく余騎よき、武も剛も同事也。
 去共力は争か畠山に並ぶべきなれば、猶替勝りとぞ宣のたまひける。
 三草山は山内三里也。
 源氏既すでに東山口に陣を取と聞えければ、平家は西の山口を固べしとて、大将軍には新三位中将しんざんみのちゆうじやう資盛、左少将有盛、備中守師盛、副将軍には平内兵衛清家、江見太郎清平を始として七千しちせん余騎よき、三草山を西の山口に馳向て陣を取。
 源平互に大勢にて、三里の山の中に阻て支へたり。

義経向三草山

 〔去さるほどに〕九郎義経、招土肥次郎て、軍は如何有べき、夜討にやすべき暁や寄べきと問給。
 土肥未物も云ざる前に、伊豆国いづのくにの住人ぢゆうにん田代冠者信綱と云者申けるは、平家はよも夜討の用意はあらじ、是程の大勢也、定て夜明にぞ軍はあらんずるとて、馬の足休め物具もののぐ甘げなんどして休らん、去ば夜討は能候ぬと存ず、敵は七千しちせん余騎よきと聞ゆ、御方は一万いちまん余騎よき、何事か有べき、夜の紛に押寄、踏散して通給へかしと被申ければ、土肥は、田代殿の御儀可然候、実平も角こそ存候へ、先制人、後為人制せらるとも云、一陣破残党不全とも申せば、先夜討に追落して不勝と同じつゝ、此上はいかにと申せば、夫は元来義経が所存也、さはあれ共、一義二義を出して惣に味はゝするは故実也、去ば疾々急給へとぞ宣のたまひける。
 彼田代冠者と申は、俗姓は後三条院ごさんでうのゐん第四皇子御子、左皇有佐五代の孫とぞ承る。
 父為綱卿蒙朝恩伊豆いづの国司を給り、任国の神拝に下給たりけるが、暫在国の間、工藤介茂光が娘を思て儲たりし子也。
 任限の後は為綱は上洛しけれ共、信綱は未嬰児の事なれば、外戚の祖父工藤介夫婦是を憐て、伊豆国いづのくににて養立ける程に、生年十一歳より流人兵衛佐ひやうゑのすけの見参に入て、内外なき事にて御座おはしましけり。
 石橋山の合戦にも、兵衛佐ひやうゑのすけの軍破て杉山へ入給けるに、祖父狩野介が首を取、伯父甥つれて萩野五郎を射払、佐殿の方へ馳参たる剛者也。
 木曾追討之時、軍兵多く被指上けるに、此田代冠者をば、自然の用心にとて鎌倉に被留たりけるが、木曾が合戦に勢多討手負て無勢也、猶軍兵を被副べしと関東へ申されたりけるに依て、九郎都に候へば、何事も被仰含候べしとて、後れ馳に狩野五郎に打具して、五百ごひやく余騎よきにて上洛せり。
 文は父方を学、武は外方を伝つゝ、兼帯公家武家、文武一双の達者なりければ角被計申けり。
 九郎義経は、さらば夜討にせよとて、一万いちまん余騎よきにて三草山を山越に、西の城戸へと打給。
 平家の方には、先陣こそ自夜討もやと用心しけれ共、後陣は明日の軍とて、甲を脱箙を解て枕として、打重々々前後も不知伏たりけり。
 源氏の兵は、幽なる山中を而も無案内にて、木の本いぶせき闇の夜に、過る事こそ難治なれ。
 上下嘆思けるに、軍将真先蒐て打給。
 大将も流石さすが始たる山なれば、武蔵坊々々々と召、弁慶べんけい前に進出たり。
 例の大続松用意せばやと宣ふ。
 軍兵等は不其意けれ共、弁慶べんけいは用意仕て候とて、大勢に先立て、道の辺の家々いへいへに追継々々火を指けり。
 火焔天に耀て地を照しければ、山中三里は此光にてするりと越にけり。
 誠に大続松とは今こそ人々心えけれ。
 既すでに子丑刻にも成ぬ。
 如法夜半の事なれば、くらさは闇し東西も不見けるに、夜討の声に驚て、平家取物も取あへず、甲を著て鎧をば棄、矢をば負て弓をば取ず、馬一匹には二三人取付て我先にと諍。
 弓一張には四五人取合て引折たり。
 主は従者を不知、親は子を省ず。
 適太刀を抜て適を斬と思へ共、目指とも知ぬ闇なれば、多は友討にこそ亡けれ。
 大将軍新三位中将しんざんみのちゆうじやう資盛は、大勢に追散されて、一矢を射までは不思寄、はう々はうはう落て遁給たりけるが、面目なしとて福原へは入給はず、船に取乗讃岐屋島城へ渡り給。
 源氏は軍の手合に、門出能とて勇けり。
 虜共の首切て、西の山口に竿結渡して、百八十人を懸、

平氏嫌手向付通盛請小宰相局

 同五日備中守師盛、平内兵衛清家、大臣殿へ参給たまひて、御方の兵共つはものども兼夜討有べき共不存之間、暁までとて休伏たる処に、源氏等げんじら法夜半に推寄て散々さんざんに懸廻せば、不思寄俄事にて、我先々々にと落失ぬ。
 山手ゆゝしき大事の所に候、猶も手を向らるべきにて候と被申ければ、大臣殿浅増あさましき事にこそとて、安芸右馬助うまのすけ基康を使にて、方々へ被仰けれども、面々に辞退申さる。
 能登殿へ被仰けるは、三草山既すでに夜討に被破ぬと申、一谷いちのたにをば貞能さだよし、家仲に仰付ぬれば、さり共と存ず、生田をば新中納言、本三位中将ほんざんみのちゆうじやう固候ぬれば心安こころやすく覚ゆ、山の手には盛俊を遣しぬれ共、大事の所と承はれば心苦しく存る間、なほ手を向ばやと思侍るに、兵共つはものどもが、大将軍一人もおはしまさでは悪かりなんと歎申に付て、人々に申せば、何の殿原も、悪所なれば向はじと申合する、如何し侍べき、且は身々の御大事おんだいじ也、被向候て兵共つはものどもをも御下知あれかしと被仰たり。
 能登守の返事には、軍は相構て我一人が大事と存じて振舞だにも、時の臨悪き様の事多し、其に心々にて、悪所をば、不行不固と嫌、善方へは向はん守らんと申されんには、遂によかるべし共覚えず、悪所とて被簡、兵の命を惜にこそ、身をたばはんには軍場へ向ぬには不如、源平東西に諍て、命を限の軍なれば身命を惜むべからず、死はいつも同事也、人々の強し悪しとて嫌給処をば教経に預給へ、幾度も可固候、御心安おんこころやすく思召おぼしめせとて、能登殿は三草山へぞ被向ける。
 誠に由々敷ぞ聞し。
 越中前司盛俊が仮屋の前に仮屋打て、敵を今や/\とぞ待懸たる。
 然程に五日も既すでに暮にけり。
 源氏の大手は、昆陽野に陣を取て遠火を焼。
 平家は生田森に陣を取て向火を合す。
 彼方此方の篝火を、更行儘に見渡せば、晴たる天の星の如、沢辺の蛍に似たりけり。
 越前三位通盛は、旅の仮屋にて物具もののぐ脱置て、小宰相局と申女房を船より被迎たり。
 何も会夜の度毎に、眤言尽ぬ中なれば、短き春の夜のうらめしさは、丑みつ計に成にけり。
 能登守は、宵程は骨なしと覚して不申けるが、既すでに夜半も過ければ、高らかに、此手をば強方とて人々も辞申されつれ共、教経向へと候へば罷向ぬ、所の体を見に誠にこはかるべし、後は山々なれ共、平地にして下透たれば馬の馬場と云べし、前は海なれ共遠浅にて、船付わるくして船を難出、去ば敵後の山より跋と落さば、鎧を著たり共甲を不著、弓を取たり共矢をはげんに暇あるまじ、去ばこそ新三位中将しんざんみのちゆうじやうも、西の山口をば落れけめ、帯紐解広げて思事なくおはする事勿体なし、女房の悲も子の糸惜も、身の豊なる時の事也、自然の事あらば如何はし給べき、其上九郎冠者は謀賢者にて、今もや夜討に攻来らん、御心得おんこころえ有べしと被申ければ、三位げにもと被思ければ、衣々に起別て、船へぞ被返送ける。
 三位討れて後にこそ是を最後と被泣けれ。

清草射鹿並義経赴鵯越

 〔同〕六日の未明、上の山より巌崩て落、柴の梢ゆるぎければ、城の中には、すはや敵の寄はとて、各甲の緒をしめ馬に騎、筈を取て待処に、雄鹿二雌鹿一つゞきて出来れり。
 能登守は、此鹿の下様を思に、一定敵が寄ると覚たり、爰ここにはまん鹿だにも人に恐て深く山に入べし、深山しんざんの鹿争か人近く下るべき、菩薩を山の鹿に喩たり、招けども不来といへり、敵の近付る条子細なし、我と思はん者あますなと宣へば、伊予国住人ぢゆうにん高市武者所清章は、馬の上にも歩立にも弓の上手なる上に、而も猟師成けるが、折節をりふし射付馬の早走に乗たりけり。
 一鞭あてて弓手に相付て、箙の上ざし抜出して、雄鹿二は同草に射留つ、雌鹿一は逃てけり。
 不意狩したり、殿原草分のかふ、そしゞのはづれ、肝のたばね、舌根、鹿の実には能処ぞ、鹿食殿原と云けれ共、大形の怱々の上、軍場にて鹿食事憚あり、其上稲村明神とて程近く御座おはしましければ、松の二三本有ける本に棄置けり。
 其よりしてこそそこをば鹿松村とぞ名付けれ。
 大将軍の仰なれ共、只今ただいまの矢一は敵十人は防べし、清章が鹿射、由なし/\と口々に云ければ、高名も還をこがましく見けり。
 〔去さるほどに〕軍は七日の卯刻に矢合と被定たりければ、義経、田代冠者を招て宣ふ様、土肥次郎実平等を具して、七千しちせん余騎よきにて、一谷いちのたに西の城戸口、山の手を破給へ。
 義経は音に聞ゆる鵯越を落し候べしとて、佐藤三郎継信兄弟、江田源三、熊井太郎、伊勢三郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、片岡八郎為春、佐原十郎義連、後藤兵衛真基、源八広綱、武蔵坊弁慶べんけい等を始として、手に立べき究竟の兵三十さんじふ余騎よきを撰勝り、一万いちまん余騎よきが中より三千さんぜん余騎よきを相具して、三草山奥へ入、綱下峠打過て、青山にかゝり、折部山、鉢伏峯、蟻戸と云所へ向けり。
 軍将の其そのの装束には、青地錦の直垂に、黒糸威くろいとをどしの鎧著て、鹿毛なる馬の太く大なるに、貝鞍置て乗給ふ。
 一説には、赤地錦の直垂に、黄返の鎧著て、宿鴾の馬の太く逞が、尾髪足れるに乗給。
 名をば青海波とて、東国第一の名馬と云云。
 太夫と云黒馬には、白覆輪の鞍置て、労て引せらる。
 此黒は今度の上洛に鎌倉殿かまくらどのより得給へり。
 本名をば薄墨とぞ申ける。
 彼山道は、長山遥はるかに連て人跡殆絶たり。
 鵯越とて由々しき嶮難の石巌也。
 自鹿計こそ通けるに、軍将前に進で宣のたまひけるは、義経が乗たる大鹿毛は、陸奥国にて名を得たる気高き逸物也、敵にあはん時は必此馬に乗べしとて、平泉を立し時、秀衡が我に得させたりき。
 鎌倉殿かまくらどののたびたる薄墨にも、底はまさりてこそ在らめ、去ば宇治川うぢがはを渡し時も、此二匹の馬共は、鞍取より上を不濡、逸物也。
 さても我朝の名馬には、三日月、和琴、鳥形、浦々、荒磯、望月、宮木、大耳子、小耳子、夏引、小花なんど也。
 或は長七尺しちしやくにあまり、或は八尺なんど有けりと云ふ。
 満政が赤六、貞任が大黒も劣べし共不覚、音に聞ゆる鵯越の巌石、此馬のかけらざるべき所にしもあらじ、卯刻の矢合也、急や/\夜中にとて、伏木磯道をも嫌ず、木透を守て引懸々々、指窕て打給へば、我も/\とつゞきたり。
 去共六日の月は既すでに入ぬ、山嶮して大木茂り、岩高して道幽也ければ、手綱を引へてやすらひやすらひぞ歩せける。
 九郎義経宣のたまひけるは、御方の勢の中に、若此山の案内知たる者やあると問給ふ。
 答者なし。
 爰ここに武蔵国住人ぢゆうにん別府小太郎忠澄、生年十八に成けるが、進出て申けるは、加様の事は先長達の申べき事に候、末の者申入事其恐侍れ共、親にて候し入道の常に教へ候しは、若者は聞も習へ、山越の狩をもせよ、敵をも攻よかし、山に迷たらんには、老たる馬を先に立て行べし、其必道に出なりと教訓申候き。
 今思出られ候、さもや有べかるらんと申ければ、御曹司、戯呼さる事聞侍り、斉国の桓公が胡竹の国を伐ちし時、深雪路を埋て帰事不叶けるに、管仲と云者、老馬を雪に放て道を得たりと云本文に叶へり、返々も神妙しんべう々々しんべうとぞ感じ給ける。
 爰ここに同国住人ぢゆうにん平山武者所進出て、季重此山案内よく存知仕りて候、先陣給はらんと申。
 近打連たる土肥、畠山、熊谷等、取々口々に云けるは、武蔵国者が、今度始て西国さいこくの討手に下、今度始て此山を通る、西国さいこく初旅也、摂津国つのくにと播磨との境なる山の案内をば争知べき、得通の聖者に非、飛行の神仙にもあらじかしと笑ければ、平山云様は、鹿付の山をば猟師知、鳥付の原をば鷹師知、魚付の浦をば網人しり、知恵ある人をば智者ぞしる、吉野泊瀬の花の色、須磨や明石の月の影は、其里人は不知ども、数奇たる人こそ知る習なれ、於諸事道をば道が知事ぞかし。
 桃李不語、下自成蹊、況敵を招城の内、軍を籠たる山中には、剛者こそ案内者よとて、鞭を揚て先陣に進けり。
 兵共つはものども当座の会釈の面白さに、平山が詞傍若無人也、誰か心に可劣と計云捨て、各勇進けり。

鷲尾一谷いちのたに案内者事

 〔去さるほどに〕九郎御曹司下知し給けるは、此山の足立極て悪し、鹿の落しも有らん、熊押なども上たるらん、悪所に懸て馬をも人をも不損とて、武蔵坊弁慶べんけいと召。
 弁慶べんけい候とて進参す。
 装束には褐衣の直垂に、黒革威の鎧に、同毛甲に、三尺五寸の黒漆の太刀帯て、黒羽の征矢負て、塗籠の弓に、好長刀取具して馬より下、軍将の前にあり。
 元来色黒長高法師也。
 身の色より上の装束まで、牛驚く程に有ければ、焼野の鴉に似たりけり。
 やゝ弁慶べんけい承れ、木陰茂て道見えず、山の案内者尋てんやと宣へば、取定たる事もなきに、候なんとて馬に乗、乾に向て十余町よちやう歩はせ下つて谷の底を伺求に、幽に火の見けるを、打寄て見ればけしかる萱屋あり。
 内に七十余なる翁と六十余なる嫗と、腹掻出して火にあたり居たり。
 弁慶べんけいこわづくろひして事々敷申けるは、鎌倉兵衛佐殿ひやうゑのすけどの、朝敵追討の院宣を給り御座によりて、軍兵を被指上間、平家都を落て此山に籠、則御弟の蒲御曹司大手に向給ぬ、九郎御曹司搦手として、此上の山に御座、案内者に参との御使に、武蔵坊弁慶べんけいとて古山法師の怖者が来れり。
 疾々可参也と云。
 老人急起上て、烏帽子えぼし打著て申けるは、若侍し時は、摂津国つのくに丹波山々暗き所なし、春夏はねらひ射、秋冬は笛待落しくゝり押上、犬山など申て、昼夜に山に侍しかば、木根岩角知ぬはなし、年闌身衰て、此二十余年は不弓引、行歩不叶候、子息の小冠者は不敵の奴、案内よく知て候らん、被召具べしとて、片屋に有けるを呼起して心を含て進せけり。
 柿の衣物に同色の袴、節巻の弓に猿皮靭、鹿矢あまた指て半物草をぞはきたりける。
 弁慶べんけいに相具して参たり。
 続松とぼして見給へば、頬骨あれて輔車たかく、まかぶら覆うて勢大なり。
 御曹司は、如何に汝が居所をば何くと云ぞ、年はいかにと問給へば、歳は生年十七、居所は山鼻が指覆て、鷲の貌に似たりとて、鷲尾と申付て候。
 さて汝が親には嫡子か末子かと、名乗はいかにと問給へば、名は未付、親には三郎に相当候と申。
 旁聞召きこしめして、仏の正法説給し処、鷲に似たれば鷲峯山と被号、達多が邪法を弘めける砌みぎりは、象の頭に似たりとて象頭山と呼けり。
 震旦には、香炉に似たる山とて香炉山、竜の臥るに似たりとて驪竜山、我朝には比叡山ひえいさんは長ければ長柄山、金獄は金の多ければ金峯山と名を得たり。
 様無にしもあらず、去ば汝をば鷲尾三郎と云べし、名乗は我片名に父が片名を取て経春と付べし、片岡と同名なれ共、多き人なれば事かけじ、只今ただいま烏帽子親えぼしおやの引出物とて、花憐木の管に白金筒の金入たる刀に、鹿毛の馬に鞍置て、赤革威の甲冑小具足付て給たりけり。
 是より思付奉て、一谷いちのたにの案内者より始て八島、文司関、判官奥州あうしうへ落下給し時、十二人の虚山伏の其一也。
 老たる親をも振捨て、悲き妻をも別つゝ、奥州あうしう平泉の館にして最後の伴をしたりしも、情ある事とぞ聞し。
 或人の云けるは、摂津国つのくに源氏にて、如形所領の有けるを、難波なんばの次郎じらうに被押領山林を狩て此に住けるとぞ云ける。
 異説に云、三草山の夜討の時、虜多かりける中に、斬べきをば被斬棄、可宥をば木の本に結付て、山案内者にとて、兵具をば不許召具し給たまひたりける。
 男を引出し問給けるは、抑和俗は平家伺候の家人か、国々の駈武者かと。
 是は平家之家人にも非ず、又駈武者にも侍らず、播磨国、安田庄下司、多賀管六久利と申者にて候が、重代の所領を平家侍越中前司盛俊に被押領て、年来訴申候へ共、理訴を権威に被押、妻子を養ふ便なければ此山に住、鹿鳥を捕て世を渡り侍つる程に、懸る源平の御合戦と承れば、軍に交つて疵をも蒙り、命をも失たらば、子孫の安堵にも成候へかしとて、自然に伴たりと申。
 偖ば汝を深く山の案内者には憑、所領の安堵子細あらんとて、誡を免して、馬鞍兵具たびて被召具たりけり。
 問答鷲尾三郎が如し。
 平家亡て後、九郎判官加判形、安田庄の安堵を給と云云。
 御曹司は、如何に鷲尾、山の案内はと問給ふ。
 此山をば鵯越とて極たる悪所、左右なく馬人通るべし共覚ず、上七八段は屏風を立たる様にて、白砂交の小石なれば、草木不生、馬の足留がたし、夫より下五六段は岩磯にて、人だにも難通と申す。
 さて此山には鹿は無か、彼悪所をば鹿は通らずやと問給ふ。
 鹿こそ多候へ、世間寒く成候へば、雪の浅りにくらはんとて、丹波の鹿が一谷いちのたにへ渡り、日影暖に成ぬれば、草の滋みに臥さんとて、一谷いちのたにより丹波へ帰候也と申す。
 さて其下には落堀ひしなど植たりやと問ば、去事承らず、御景迹候へかし、馬も人も通べき所ならねば、争其用意侍べきと答。
 御曹司は是を聞給たまひ、殿原さては心安こころやすし、やをれ鷲尾、鹿にも足四、馬にも足四、尾髪の有と無と、爪の破と円と計也。
 西国さいこくの馬は不知、東国の馬は鹿の通所は馬場ぞ、打や殿原とて、岩の鼻岸の額、馬の足を手綱に合て馳落し馳上、尻輪に乗懸前輪に平み、引居引詰、鞭と鐙と打合せ打乱し、狼の如くに翔り虎の如くに走て、北の山の下にぞ至りける。
 義経兵法其術を得て、軍将其器に足り、相従ふ者又孟賁の類樊くわいの輩成ければ、連て同通にける。
 二月上の六日の事なれば、月は宵よりはや入ぬ。
 木陰山陰やまかげ暗して、夜も五更ごかうに及けれ共、鷲尾に被具て、敵の城じやうの後なる鵯越をぞ登ける。
 鷲尾東に指て申けるは、あれにほの見え候は河尻、大物浜、難波浦、昆陽野、打出浜、西宮にしのみや、葦屋里と申、南は淡路島、西は明石浦、汀みぎはに続て火の見しは平家の陣の篝火、此下社一谷いちのたによ、東西の城戸の上、東岡をば平りうとて、海路遥はるかに見渡して、眺望殊に面白ければ、望海楼をも構ぬべし、西の岡をば高松原とて、春の塩風身に入て、秋の嵐の音冷き所也とぞ申たる。
 軍兵を漫々たる海上に見渡し、渚々の篝の火、海士の篷屋の藻塩火やと、最興ありて思けるに、鷲尾角申つゞけたれば、御曹司は武き事がらも、優なる詞をも感じ給つゝ、皆紅に日出したる扇を以鷲尾にたび、是にて敵を招き高名仕れ、勲功は乞によるべしとぞ宣のたまひける。
 空も未ほの晩かりければ、暫爰ここにて馬の足をぞ休めける。
 異説には、扇を多賀菅六久利にたびて、安田庄の下司、不子細と宣のたまひけり。
 大手の勢は、宵の程は昆陽野に陣を取たりけるが、三草山の手に向たる越前三位、能登守の陣の火を、湊河より打上て、北の岡に燃たりけるを、搦手已すでに城戸口に馳付給へりと心得こころえて、打や/\とて、我先に/\と五万余騎よき、手毎に松明捧て急けり。
 所々に火を放ければ、汀みぎはにつゞき海上に光て、身の毛竪て夥おびたたし。
 七日の暁は、源氏大手搦手挟みて東西の城戸口まで攻寄たり。

熊谷向大手

 〔去さるほどに〕六日の夜半計に、熊谷は子息の小次郎こじらうを近く招て私語ささやきけるは、明日の軍は磯を落んずれば、打こみの合戦にて、誰先陣と云事あらじ。
 又馬損じても由々しき大事、一方の一陣を懸て、鎌倉殿かまくらどのにも聞え奉、子孫のため名をも挙ばやと思也。
 宇治川うぢがはにても先陣を志行桁を渡しに、佐々木四郎、生ずきと云土竜に乗て渡しかば、直実二陣にさがりぬ、心憂かりしか共、身独が事ならねば自害するに及ばず、又向の岸より馬を遅越たりしかば、九郎御曹司と相共に院ゐんの御所ごしよへも不参、旁本意を失ひき。
 去ば潜に此手をば出て、音に聞える播磨大道の渚なぎさに下て、一谷いちのたにの城戸口へ先陣に寄ばやと思は如何が有べき、矢合は卯刻也、今は寅の始にもなるらんと覚ゆ、さもあらば急がんと云。
 小次郎こじらうは、直家も存処にて候、平山が山案内者たててひしめき候つるも音もせず、よに奇く覚候、其上此殿は郎等に先陣懸さする事おはしまさず、自一陣を懸給ふ時に、此殿に連たらん侍共の、先陣つとめて高名する事は難有覚候、疾々急給へと勧む。
 熊谷は子ながらも、あの年齢にはしたなく思もの哉と思。
 さらば小次郎こじらう同心ぞとて、搦手をば密に出て、渚々の篝火を験として大手へとて下りけるが、内々平山が陣を見せければ人なしと云。
 さればこそ平山も大手を志て一陣を蒐ると思にこそ、急々とて、旗指具して親子三騎、坂を下に歩せたり。
 熊谷は褐鎧直垂よろひひたたれに、家の紋なれば、鳩に寓生をぞ縫たりける。
 黒糸威くろいとをどしの鎧に同毛の甲、大中黒の征矢に二所籐弓を持、紅の母衣懸て、権太栗毛に乗たりけり。
 此馬は、熊谷が中に権太と云舎人あり。
 李緒が流をも不習、伯楽が伝をも不聞けれ共、能馬に心得こころえたる者成ければ、召向て、当時に源平の合戦あるべし、折節をりふし然べき馬なし、海をも渡し山をも越べき馬尋得させよと云て、上品の絹二百匹持せて奥へ下す。
 権太陸奥国一戸に下て、牧の内走廻て撰勝つて、四歳の小馬を買たりけり。
 長こそちと卑かりけれ共、太逞こたへ馬の、はたはりたる逸物也。
 さてこそ此馬をば権太栗毛とは呼けれ。
 燕昭王は、五百両の金にて、駿馬の骨を買てこそ駿足後に至りけれ、熊谷直実は二百匹の絹を以て、栗毛の馬を商なひて、軍陣の先を懸にけり。
子息小次郎こじらうは、練貫に沢潟摺たる直垂に、ふし縄目の鎧著て、妻黒の征矢重籐の弓持て、是も紅の母衣懸て、白浪と云馬に乗たりけり。
 此馬は奥州あうしう姉葉と云所に、白波と云牧より出来たる上に、尾髪飽まで白ければ白浪と名けり。
 権太栗毛に上下論じたる逸物也。
 又西楼と云秘蔵の馬あり。
 後戸風と云舎人男に引せたり。
 権太栗毛いかなる事もあらん時はとて、乗替の料に引せたり。
 白き馬の太逞が、尾髪飽まで足れり。
 三戸立の馬也。
 余に秘蔵して、仮居の西に厩を立て、昼は人目を憚て、夜は引出し愛しければ、馬の白きを月に喩、西の厩を楼に喩へ、西楼とぞ号けたる。
 熊谷兼て舎人に云含けるは、乗たる栗毛は終夜よもすがら山坂馳たる馬なれば、明日の軍には西楼にのるべし、其意を得べき也、狩場に出て鹿を射に、先なる鹿をとほしぬれば、射手手迷して次々の鹿やすく通る、軍は重々城を構たれ共、一の城戸を破ぬれば、後陣の兵武く勇と、鎌倉殿かまくらどの仰しかば、千万騎軍も籠れ、我は城戸口をば離るまじきぞ、西楼をば引儲よとぞ下知しける。
 旗差は、秋の野摺たる直垂に、洗革の鎧著て、鹿毛馬に黒鞍置て乗。
 主従三騎打連て、播磨大道の渚なぎさと志て下けるに、小峠坂の人宿りに、人あまた音しけり。
 忍聞ければ平山と成田と也。
 此等も大手へ行にやと心得こころえて、物具もののぐ裹み轡とらへ、峠の下七八段打下、深く忍て通けり。
 其後はいとゞうしろいぶせく覚て、鞭に鐙を合せければ、寅の終に一の城戸口へ馳付たり。
 くらさは暗し敵に未出合、御方に続く勢はなし、只三騎ぞ引へたる。
 夜半の嵐に誘れて、寄来波ぞ高かりける。
 木綿付鳥の音もせず、明行鐘の響もなし。
 やもめ烏のうかれ声、渚なぎさの鵆音信おとづれて、武き心の中までも、物哀にぞ覚しける。
 さても城の構ぞ夥おびたたしき。
 山の岸より海の遠浅まで大なる岩を取積て、岩の上に大木を切伏、其上の櫓を二重にかいて狭間を開たり。
 上には楯を並て兵共つはものども矢たばね解、弓張立て並居たり。
 下には岩の上に逆茂木を引懸て、郎等下部まで熊手薙鎌持て、あと云ばさと出べき体成けり。
 其後には鞍置馬二三十里に引立て其数を不知、其と云ばつと可引出様也。
 南の海の浅所には大船を傾て、其を便として櫓を隙なく掻、深所には儲舟、数万艘すまんさううかべたり。
 蒼天に行を乱せる雁の如くなり。
 大形高所には弩を張柵を掻、卑所には堀ほりひしを植、屋形やかた屋形やかたの前には、此にも彼にも赤旌立並て、天に耀き地を照せり。
 鬼神と云共輙難落こそ見えたりけれ。

佐巻 第三十七
熊谷父子寄城戸口並平山同所来付成田来事

 熊谷父子城戸口に攻寄て、大音揚て云けるは、武蔵国住人ぢゆうにん熊谷次郎直実、同小次郎こじらう直家生年十六歳、伝ても聞らん、今は目にも見よや、日本につぽん第一の剛者ぞ、我と思はん人々は、楯面へ蒐出よと云て、轡を並べて馳廻けれ共、只遠矢にのみ射て出合者はなし。
 熊谷城の中を睨へて申けるは、去年の冬、相模国さがみのくに鎌倉を出しより、命をば兵衛佐殿ひやうゑのすけどのに奉り、骸をば平家の陣に曝し、名をば後代に留んと思き、其事一谷いちのたにに相当れり、軍将も侍も、我と思はん人々は、城戸を開き打て出て、直実、直家に落合、組や/\と云へ共、出者もなく名乗者もなかりければ、此城戸口には恥ある者もなき歟、父子二人はよき敵ぞ、室山、水島二箇度軍に高名したりと云なる越中次郎兵衛、悪七兵衛等はなき歟、所々の戦に打勝たりと宣ふなる能登殿はおはせぬか、高名も敵によりてする者ぞ、流石さすが直実父子には叶はじ者を、穴無慙の人共や、いつまで命を惜らん、出よ組ん出よくまんといへ共、高櫓の上より城戸を阻て、雨の降が如にぞ射ける。
 熊谷小次郎こじらうに教へけるは、汝は是れぞ初軍、敵寄すればとて騒ぐ事なかれ、射向の袖を間額にあてよ、あき間を惜て汰合よ、常に鎧つきせよ、立はたらかで裡をかゝすな、あふのき懸て内甲射さすな、指うつぶきて手返射らるな、賢かれとぞ申ける。
 直実は小次郎こじらうを矢前やさきにあてじと、鎧の袖をかざして立隠せば、家直は父を孚て、前に進て箭面に立、武心の中にも親子の情ぞ哀なる。
 かく寄て一軍したりけれ共、夜は猶深し、城戸口は不開、御方も未続ねば、死る命は何も同事なれ共、晩闇に証人もなく死にたらんは、正体なしと思ければ、明るを遅と侍居たり。
 平山も熊谷が心に少も不違、先陣を心に懸て、三草の閑道にかゝりて浦の手に打出て、後陣を待て城戸口を破らんと思ひ、あれこそ浦へ出る道よと云ける計を聞、大勢をば弓手に見なし、三草の山を打過、尾一つ越て、須磨の浦を指てうつ程に、先立て武者一人歩せ行。
 あれは誰ぞと問ければ、景重と答。
 成田五郎にてぞ有ける。
 成田思ひけるは、平山が馬は聞ゆる逸物也、我馬は弱ければ、打つれて先陣蒐事叶ふまじ、たばかり返さんと思て、馬の鼻を引返て平山に云けるは、高名は大手搦手に依まじ、聞が如きは平家の大勢、なほ三草小野原越に向て、両方より指合せ、源氏を中に取籠て洩じと支度する也、誠に被取籠なばゆゝしき大事也、其上大勢の中を忍出て先を蒐たりとても、誰かは証人に立べき、後陣の勢を相待て、先陣をこそ蒐べけれと云ければ、げにもさるべしとて、暫く休居たれば、成田白地なるやうにもてなして、甲の緒をしめて進行。
 平山は、我をたばかるにこそと思て、馬に打乗、鞭に鐙を合て行ければ、成田今は叶はじと思ひて、へらぬ体にもてなし、誠は家正馬弱て、如何にも御辺ごへんに先せられぬと思つれば、たばからんとて申たり、強からん乗替一匹たべ、命生たらば後の証人にもし給へかしと云けれども、平山耳にも不聞入、成田を弓手に見成て打ち通りけるが、遥はるかに延て思けるは、成田が馬を乞つれ共、余あまりの悪さに返事いはざりつる事情なし、見合たらば取て乗かしとて、宿鴾毛なる馬の五臓太なるが、七寸しちすんに余たるに鞍置たるを、道の耳なる木に繋付てぞ通りける。
 成田此馬を見て、同じくれば早くれて、共に打つれて行なましと、一人言して打乗つつ、鞭を打てぞ馳行ける。
 熊谷暫休みて小次郎こじらうに云けるは、実や平山も打こみの軍をば不好、小手向に音のしつるは、一定爰ここへぞ来らんずる、城戸口開事あらば、相構て先蒐らるなと云教ゆ。
 平山は成田をば打捨て、山の細道分行ば、暗さは闇し、さしうつぶき/\見ければ、薄氷を踏破て馬の通る跡あり。
 既すでに熊谷に先懸られぬよと本意なくて、いとゞ馬をぞ早めける。
 其そのの装束には、重目結の直垂に、赤威の鎧著て、二引量の母衣を懸て、目油馬にこそ乗たりけれ。
 熊谷は西の城戸口浜の際に扣へて、誰かは先をば蒐べき、はや城戸口を開けかしとぞ相待ける。
 後の方に馬の足おと、人影のする様に覚えければ、雲透に是を見るに、武者二騎馳来れり。
 近付を見れば平山也。
 案に不違と思て、いかに平山殿歟。
 季重、問は誰ぞ、熊谷殿歟。
 直実と名乗合、共に一所に寄合たり。
 平山熊谷に語けるは、打籠の軍は剛臆見えず、如何にも追手にて鍔金顕さんと思て、子時に山の手を忍出たりつれば、寅時には爰ここへ来付べかりつるを、小手向にて成田来て申様、御辺ごへんは追手へ向給ふ歟、誰もまかるぞ打列給へ、只一人敵の中へ打入たり共、証人なき所にて死たらば、なにともなき徒事、犬死とは左様の事也、御方のつゞきたらん時に、先を懸命を捨てこそ我も人も高名にて子孫に勲功もあらんずれ、闇討に射殺されては、且は嗚呼の事、卯の始の矢合といへ共、辰の始にぞあらんずる、是非軍は夜の凌晨しののめ、暫此にて馬労り後陣を待給へ、家正も休と云つれば、げにもさりと思て、暫峠に下居て、腹帯くつろげ甲脱で、人宿に休程に共に休、暫ためらひて、成田甲打著、馬に乗坂を上、先にすゝむ時に、我をたばかるにや、悪き事也、其義ならば劣まじと言を懸て、馬に乗一鞭あてて追並、鐙の鼻にて成田が馬を一摺すらせて先立つれば、馬を所望しつる間、悪くけれ共道に馬を繋せて先立たり。
 彼は谷河を下に、西の尾を北へ廻つれば、今十二十町はさがりぬらん、されば如何にも弓箭取身はよき馬を可持也、季重は馬は武蔵国姉埣立の名馬也。
 左の目にちと篠突のあれば目油毛と申。
 熊谷殿の御馬と勝劣あらじと語りつゝ、共に夜の明るをぞ待居たる。
 去さるほどに成田五郎も主従三騎にて追来れり。
 各浜際に打並て、渚なぎさに寄来白波に、馬の足洗はせて、城内をきけば、櫓の上に伎楽を調べ管絃し、心を澄して被遊けり。
 夜深更に及で山路に風やみ、海上に水静なれば、寄手の者共も弓杖にすがりて是を聞。
 熊谷感じて云けるは、実や大国にこそ、軍の庭にして管絃し、歌を詠じ調子を糺し、勝負を知ると云事は有なれ、我朝には未其例を聞ず、哀げに上﨟都人は情深く、心もやさしき事哉、斯る乱の世の中に、竜吟鳳鳴の曲を調べ、詩歌管絃の興を催す事の面白さよ、我等われらいかなれば邪見の夷と生れ、いつまで命を生んとて、身には甲冑をはなたず、手には弓矢を携て、加様の人に向奉り、闘諍の剣を研事の悲さよとて、涙ぐみけるこそ哀なれ。
 去さるほどに夜もほの/゛\と明にけり。

平家開城戸口並源平侍合戦事

 平山、熊谷に云けるは、城の構様を見に、二重の櫓には平家の侍、国々の兵共つはものども並居たり、高岸に副て屋形やかたを並て大将軍御座、海には石を畳重て、大船共を片寄置り、上には櫓を掻り、城戸口には逆茂木重重に引廻してひらかねば、輙く蒐入事叶難し、如何すべきと云程に、城内の兵共つはものどもの評定しけるは、熊谷父子と名乗て、組ん組んとののしるを、此陣固ながら漏さん事云甲斐なし、さりとて大勢にも非ず、只三騎也、さて又後陣の大勢の連にもあらず、東国にはげに是等こそ名ある者にて有らめ、日本につぽん第一の剛者と名乗をば、如何空は返すべき、いざ殿原、熊谷父子虜にして、大臣殿の見参に入れんと云。
 然べしとて、越中次郎兵衛尉盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門さぶらうざゑもん景経、後藤内定綱已下、早り雄の若者共二十三騎、城戸口の逆母木さかもぎを引却させて、轡並て喚て蒐出ける処に、平山は波打際より馬を出して、主従二騎懸出つゝ、武蔵国住人ぢゆうにん平山武者所季重、角こそ先をば懸れとて、城戸口へぞ馳入たる。
 城内の者共は、熊谷鬼神成共、廿余騎よきの勢にては手取にせんと見る所に、指違て平山と名乗て懸入ければ、廿三騎も平山に付て内に入。
 城中じやうちゆうには、源氏の大勢に城戸口を破られぬと心得こころえて引退。
 櫓の上より是を見て、敵は二騎ぞ痛な騒そとて、矢をはげ射んとすれ共、御方は多し敵は二騎、一所にたまらず、電なんどの様なれば、弓を引てはゆるし、引ては免しけれ共、矢のあて所はなかりけり。
 櫓にて下知しけるは、平山と名乗は、本所経たる名ある侍、よき敵ぞ、其男取て引落せ、中に坂東者は馬の上にてこそ口は聞共、組で後には物ならじ、落合へ/\殿原と、両方の櫓の上より進けれ共、平家の侍の乗たる馬は、船にゆられ飼事は希也、乗事は隙なし。
 日数は遥はるかに経たり。
 平山が目油馬は、勇嘶たる大馬の、狂象のたける様に、弓手妻手を嫌ず、一所にとまらず馳ければ、相構てあてられじとぞためらひける。
 まして落合までは思よらず、熊谷父子は、二十三騎が後を守て喚て蒐。
 二十三騎は平山をば内はに成して、取て返て熊谷に向ば、平山又喚て蒐。
 二十三騎は熊谷を外様に成して、取て返して平山に向ば、熊谷又をめきて蒐く。
 三廻四廻くるり/\と廻たれ共、何にも不組して、終には敵五騎ごきをば、外様に成てぞ禦たる。
 熊谷は平山を休めんとて、暫和殿は気を継給へとて、父子二人面に立て散々さんざんに戦。
 左右櫓より射ける箭は、雨の足の如くなれども、冑に立ば裏かゝず、あきまを射ねば手を負はず。
 越中次郎兵衛尉盛嗣、好装束なれば、紺村紺の直垂に、赤糸威の鎧著て、白星の甲に、葦毛の馬に乗、先に進て、熊谷に打並て組まんずる様にはしけれ共、熊谷父子は上食しつゝ、間もすかさず待懸て、父に組ば直家落合、子に組ば直実落重なるべき気色にして、少も退かざりける頬魂、叶じとや思けん、盛嗣一段計を阻て申けるは、大将軍に遇てこそ命をも捨め、和君に不組事と云。
 熊谷勝に乗て、きたなし盛嗣よ、直実をだにも恐てくまぬ者が、大将軍にくまんと云はへらぬ体の詞か、先直実にくんで、源氏の郎等の手の程見よやと云けれ共、盛嗣終に組ずして、廓ぬ体にて引へたり。
 悪七兵衛景清は、盛嗣が不組けるを悪しとや思けん、次郎兵衛をば妻手になし、渚なぎさの方より熊谷に組んと喚て懸ければ、直実父子景清に目を懸て進ける有様ありさまは、鬼をすに指て食んずる景気也。
 既すでに組んとしけるを、次郎兵衛、やゝ七郎兵衛殿、君の御大事おんだいじ是に限まじ、あれ程のふて癩に会て、命を捨ん事無益也、止まり給へ無詮無詮と制しければ、悪七兵衛も事がらには出たりけれ共、何がして留らんと思処に、角制しければ立止て不組けり。
 其外二十三騎の者共、口々にはののしりけれ共、熊谷平山に近付よる者はなし。
 共に武蔵国住人ぢゆうにん、直実季重日本につぽん第一の剛の者、一人当千いちにんたうぜんの兵と名乗て、逸物の馬共に乗たれば、爰かとすれば彼にあり、彼かとすれば此にあり、二三疋が走廻ける有様ありさまは、四五十疋が馳違ふに似たり。
 平家侍組事は不叶して馬を射る。
 熊谷馬の腹を射させて頻しきりに駻ければ、足を越て下立、落合へ/\といへ共終に人落合。
 小次郎こじらうは、父が馬に矢立ぬとみてければ、今は最後と思切て、二の垣楯の際まで押寄て、熊谷小次郎こじらう直家生年十六歳、軍は今日ぞ始、くめや者共落合へ人共と云ければ、平家の侍共、狐の子は頬白と、親に似たる不敵者哉、聞ば十六と云、誠にさ程にぞ成らん、あますなとて散々さんざんに射ける矢に、小肱を射させて引退。
 熊谷は小次郎こじらう手負ぬと思、打寄て見ければ、直家父に向て此矢抜て給へと云。
 熊谷是は非痛手、暫ししこらへよ隙のなきぞと云捨て、又喚て攻入戦けり。
 平家追討の軍兵今度上洛の時、鎌倉殿かまくらどのの侍所にて評定あり。
 十五六は少、十七以上は可上洛と被定たりけるに、小次郎こじらうは十六也、有の儘に申ては御免あらじ、十七と名乗て父が伴せんと思ければ、鎌倉にて其定に申。
 父も我身の伽にもせん、軍をもし習へかしと思ければ、同おなじく十七と申て、西国さいこくまで具したりけれ共、一谷いちのたににては、実正に任せて十六歳とぞ名乗ける。
 平山は暫し休みて馬をも気を継せけるに、熊谷は馬を射させて歩立に成。
 小次郎こじらうも手負ぬと見ければ、又入替て戦けり。
 旌指は黒糸威くろいとをどしの鎧に三枚甲を著たり。
 馬より真倒に被射落たりければ、不安思て、余の者には目を不懸、旗指が敵に押並べ、引組で馬の上にて頸を切、手に捧、一人当千いちにんたうぜんの兵平山武者所季重、一陣懸て敵の首取て出づ、剛者の挙動見よや殿原、我と思ん者組や者共とて、城の外へこそ出にけれ。
 誠に由々敷ぞ見えたりける。
 平山が二度の蒐とは是也けり。
 平家の侍共、平山一人をば安く討べかりけるを、後に熊谷ありけるをいぶせく思て、終に漏して出しにけり。
 後日に関東にて、一陣二陣の諍ありけるに、熊谷は城戸口へ寄事は一陣、平山は城の内に蒐入事一陣、而も敵の頸を取、甲は何れも取々なれ共、平山先陣に定りけり。
 其後成田五郎三騎にて押寄て、一戦して出にけり。
 次に白旗一流上て、五十ごじふ余騎よきにて馳来る。
 熊谷誰人ぞと問へば、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん村上二郎判官代はんぐわんだい基国と名乗て、一時戦て出づ。
 此等を始として、高家には秩父、足利、三浦、鎌倉、武田、吉田、党には小沢、横山、児玉党、猪俣、野与、山口の者共、我も我も白旗さゝせて、十騎じつき二十騎にじつき百騎二百騎、入替入替劣じ負じと戦けれ共、西国さいこく第一の城じやうなれば、可落様こそなかりけれ。
 赤旗白旗相交り、風に靡ける面白さは、竜田の山の秋の暮、白雲懸る紅葉ばや、梅と桜と挑交て、花の都に似たりけり。
 喚叫音山を響し、馬の馳違ふ音如雷、太刀長刀のひらめく影如電。
 組で落る者もあり、矢に当て死者もあり。
 指違へて臥者もあり、蒙疵て退者もあり、源氏も平氏も隙ありと見えず。
 源平此にて多討れにけり。

景高景時入城並景時秀句事

 〔去さるほどに〕大手の大将軍蒲御曹司後陣に引へて、武蔵相模の若者共、敵に息な継せそ、責よ蒐よと下知し給へば、三百騎五百騎ごひやくき、入替々々喚叫て戦けり。
 天帝修羅の合戦も、角やと覚て恐しや。
 敵の頸を取る者は、気色して城戸に出。
 主親を討せたる者は、涙を流して引退。
 馬を射させたる者は歩立にて出るもあり、蒙疵者は、人に被助て出るもあり。
 寄る時には旗指あげ、名対面して入けれ共、引時は又旗かき巻て出るとかや。
 梶原平三景時が二男に平次景高、一陣に進んで責入る。
 大将軍宣のたまひけるは、是は大事の城戸の口、上には高櫓に四国九国の精兵共を集置たるなるぞ、あやまちすな、楯を重馬に冑を可著、無勢にしては悪かりなん、後陣の大勢を待そろへて寄べしと下知し給へば、人々承り継て、大将軍の仰也、勢を待儲て寄給へといへば、梶原はきと見かへりて、
  武士のとりつたへたる梓弓引ては人の帰る物かは
と詠じて、城戸口近く押寄て散々さんざんに戦。
 是を見て、党も高家も面々に、轡を並て三千さんぜん余騎、我先々々にと攻付たり。
 白旌其数を不知指上たれば、白鷺の蒼天に羽を並るが如し。
 平家は高櫓より矢衾を造て散々さんざんに射。
 城は究竟の城じやう也。
 生田杜を一の城戸と定て、三方には堀をほり、東の方に引橋渡して、重々に逆木さかもぎを曳、北の山本より南の海の際まで垣楯掻、矢間をあけて、一口こそ開たれ。
 城の内へ入るべき様もなかりけるに、武蔵国住人ぢゆうにん篠党に、河原太郎高直、同おなじく二郎盛直、兄弟二人馳来て馬より飛下、藁下々をはき、木戸口に責寄て、今日の先陣と名乗て逆木さかもぎを登越々々、城の内へ入けるを、讃岐国住人ぢゆうにん真鍋五郎助光、弓の上手精兵の手足成ければ、木戸口に被撰置たりけるが、さし顕れて能引、暫竪て放つ矢に、河原太郎が弓手の草摺の余を射させて、弓杖にすがりて立すくみたりけるを、弟の次郎つと寄、肩に引懸て帰けるを、助光二の矢を以て、腰の骨懸て冑かけず射こみたりければ、兄弟逆木さかもぎのもとに、太刀の柄を把て並居たり。
 真鍋が下人是を見て、櫓の下よりつと出て落合けれ共、二人ながら痛手なれば、左も右も戦に及ずして、二人が頸はとられにけり。
 心の甲は熊谷、平山に劣らずこそ思ひけれ共、運の極に成ぬれば、敵一人も不取して討れけるこそ無慙なれ。
 同国猪俣党に、藤田三郎大夫行安、つゞきて逆木さかもぎを登越んとしけるを、真鍋引固て放矢に、同此にて討れにけり。
 藤田が妹の子に江戸四郎と云者あり。
 今年十七に成けるが連て蒐入、散々さんざんに戦程に鎧の胸板むないたを射られて弱る処を、阿波民部大輔成良が甥に、桜間外記大夫良連が手に討れぬ、人見四郎も此にして討れにけり。
 勲功の時、河原太郎と藤田行安が子共に、生田庄を給、其墓所の為也。
 今の世までも彼社の鳥居の前に、堂塔を造立して菩提を弔ふとかや。
 真鍋五郎は櫓より下、河原兄弟二人が首を手鋒に貫、木戸の上に昇、高く捧て、源氏の殿原是を見よ、進敵をば角こそ取、つゞけ/\と招たり。
 梶原是を聞、口惜人共也、つゞく者がなければこそ兄弟二人は討れたれとて、五百ごひやく余騎よきにて押寄せつゝ、足軽四五十人に腹巻きせ、手楯つかせて、曳声出して逆茂木を引除。
 爰ここに討れたる鎧武者一人あり、見れば藤田小三郎大夫行安也。
 穴無慙、敵に首とらすな隠せとて、沙の中に堀埋て、後に角と云ければ、子息郎等共らうどうども堀起て、生田庄に納てけり。
 櫓よりは逆木を引せじと、矢衾を造て是を射る。
 寄手は是を引せんと、指詰指詰矢倉を射る。
 是や此天帝須弥より刃を雨し、修羅大海より箭を飛すらん戦なるらんと夥おびたたし。
 両方の箭の行違事は、群鳥の飛集れるが如し。
 懸けれ共、足軽共一つ二つと引程に、逆木をば遂皆引除にけり。
 梶原は、今は軍庭平也、寄せよ者共とて、子息の源太相具して五百ごひやく余騎よき、喚て中へぞ入にける。
 此手には中納言父子、本三位中将ほんざんみのちゆうじやう、大将として御座おはしましけるが、敵内に乱入と見給たまひて、二千にせん余騎よきを指向て、梶原が五百ごひやく余騎よきを中に取籠て、あますな漏すなとて、一時計ぞ戦ける。
 何れも互に引ざりけるが、流石さすが無勢なれば、梶原下手に廻て、さと引てぞ出たりける。
 源太は如何にと問へば、御方を離て敵の中に取籠られ給ぬと云。
 穴心憂、さては討れぬるにや、景時生て何かせん、景季が敵に組で死なんとて、二百にひやく余騎よきを相具して、平家の大勢蒐散して内に入、声を揚て、相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん鎌倉権五郎平景政が末葉、梶原平三景時ぞ。
 彼景政は八幡殿の一の郎等、奥州あうしうの合戦の時、右の目乍射、其矢を抜ずして、当の矢を射返して敵を討、名を後代に留し末葉なれば、一人当千いちにんたうぜんの兵ぞ、子息景季が向後おぼつかなくて返入れり、我と思はん大将も侍も、組や/\と名乗懸て、轡を並べて責入ければ、名にや実に恐けん、左右へさとぞ引退く。
 源太尋よとて責入見れば景季未討、初は菊地の者共と射合けるが、後には太刀を抜合せて名乗けり。
 和君は誰そ。
 菊地三郎高望和君は誰そ。
 梶原源太景季と、名対面して切合たり。
 源太は甲を被打落、大童にて三十さんじふ余騎よきに被取籠て切合けるが、菊池三郎に押並て引組で、馬の際に落重て菊地が頸を取、太刀の切鋒に指貫て馬に乗出けるが、父の梶原に行合たり。
 平三景時源太を後に成て、矢面にすゝみ禦戦つゝ、其間に源太に鎧きせ、暫し休めて寄つ返つ戦けり。
 城戸口に真鍋四郎五郎と名乗て出合たりけるが、四郎は梶原に討れぬ、五郎は手負て引退く。
 平家の兵共つはものどもも、入替入替戦けれ共、景時は源太が死なぬ嬉さに、猛く勇て竪さま横さま戦けり。
 暫し息をも継ければ、父子相具して、引て木戸へぞ出にける。
 さてこそ梶原が、生田杜の二度の蒐とはいはれけれ。
 詩歌管絃は公家仙洞の翫物、東夷争磯城島難波津の言葉を可存なれ共、梶原は心の剛も人に勝れ、数寄たる道も優也けり。
 咲乱たる梅が枝を、蚕簿に副てぞ指たりける。
 蒐れば花は散けれども、匂は袖にぞ残りける。
  吹風を何いとひけん梅の花散くる時ぞ香はまさりける
と云ふ古き言までも思出ければ、平家の公達は花箙とて、優也やさししと口々にぞ感じ給ける。
 此梶原、右大将家うだいしやうけの奥入し給たまひけるとき、名取川にて、
  我独けふの軍に名とり川
と、くり返し/\詠じ給たまひければ、大名小名うめきすめきけれ共、付る者なかりけるに、梶原
  君もろともにかちわたりせん
と付たりけり。
 又京上の御伴に、相模国さがみのくに円子川を渡給へりけるに、梶原少用ありて片方に下居たりけるが、御伴にさがりぬと、一鞭あてて打程に、此川の川中にて馳付奉たりけるに、沛艾の馬にて、鎌倉殿かまくらどのに水をさゝと蹴懸奉、御気色おんきしよく悪くてきと睨返し給たまひたりけるに、梶原
  円子川ければぞ波はあがりける
と仕りて、手綱をゆりすゑければ、御気色おんきしよくなほり給たまひて打うそぶき、ければそ波はあがりけると、二三返詠じ給たまひて、向の岸に打上り、馬の頭を梶原に引向て、
  かゝりあしくも人や見るらん
と付給たまひ、いかに発句脇句いづれ増りとぞ仰ける。
 懸るやさしき男成ければ、さしもの戦場思寄べきにあらね共、折知貌の梅が枝を、箙にさして寄たれば、源氏の手折れる花なれ共、平家の陣にぞ香ける。
 東国の兵共つはものども百騎二百騎、入替入替我も/\と戦けり。
 此にて源平の兵多く討れけり。
 東西の城戸口、人種は尽共可落様とは見えざりけり。

義経落鵯越並畠山荷馬付馬因縁事

 〔同〕七日の暁、九郎義経は鷲尾を先陣として、一谷いちのたにの後鵯越へぞ向ける。
 比は二月の始也、霞の衣立阻て、緑を副る山の端に、白雲絶々聳つゝ、先咲花かとあやまたる。
 未歩なれぬ山路也、行末はそこと知ね共、征馬の足に任せつゝ、各先にと進けり。
 まだ夙暗程也。
 道には泥けれ共、矢合時を定たれば、明るを待に及ばずして、谷に下峯に登、引懸引懸打けるに、一谷いちのたにの後に、篠が谷と云所に人の音しければ、押寄て何者なにものぞと問。
 名乗事はなくて散々さんざんに射ければ、此奴原は平家の雑兵にこそ有らめ、一々に搦捕頸を切、軍神に祭れとて、源氏も散々さんざんに射ければ、此にて平家多討れにけり。
 其後鷲尾尋承にて下上打程に、辰半に鵯越一谷いちのたにの上、鉢伏礒の途と云所に打登。
 兵共つはものどもはるかに指のぞきて谷を見れば、軍陣には楯を並突、士卒は矢束をくつろげたり。
 前は海後は山、波も嵐も音合せ、左は須磨右は明石、月の光も優ならん。
 追手の軍は半と見えたり。
 喚叫声射違鏑の音、山を穿谷を響し、赤旗赤符立並て春風に靡く有様ありさまは、劫火の地を焼らんも角やと覚たり。
 時既すでに能成たり。
 大手に力を合せんとて見下せば、実に上七八段は小石交の白砂也。
 馬の足とゞまるべき様なし。
 歩にても馬にても落すべき所に非ず。
 さればとてさて有べき事ならねば、只今ただいままで乗たりける大鹿毛には、佐藤三郎兵衛を乗せ、我身は大夫と云馬に乗替て、谷へ打向け給、鹿の通路は馬の馬場ぞ、各落せ落せと勧給ふ。
 兵共つはものども、我も我もと馬をば谷へ引向けて、心は先陣とはやれ共、流石さすがいぶせきがけなれば、手綱を引へてやすらへば、馬も恐て退けり。
 互に顔と顔とを見合て、いづくを落すべし共見ず。
 軍将宣のたまひけるは、一は馬の落様をも見、一は源平の占形なるべしとて、葦毛馬に白覆輪白ければ、白旗に准へて源氏とし、鹿毛馬に黄覆輪赤ければ、赤旗になぞらへて平氏とて追下す。
 各木間にて是を見上るに、七八段は小石交の白砂なれば、宛転ともなく落るともなく下つゝ、巌の上にぞ落著たる。
 良暫有、岩の上より宛転下り、越中前司盛俊が、仮屋の後に落付て、源氏の馬は這起つゝ、身振して峯の方を守、二声ふたこゑ嘶、篠草はみて立たり。
 平家馬は身を打損じ臥て再起ざりけり。
 城中じやうちゆうには是を見て、敵のよすればこそ鞍置馬は下らめとて騒ぎ迷ひける処に、御曹司は源氏の占形こそ目出けれ、平家の軍様あるべし、人だに心得こころえて落すならば、あやまち更にあるまじ、落せ/\と宣へども、我だに恐て落ねば、人も恐てえおとさず。
 白旗五十流計、梢に打立て宣のたまひけるは、守て時を移べきに非、がけを落すには手綱あまたあり、馬に乗には、一つ心、二つ手綱、三に鞭、四に鐙と云て四の義あれ共、所詮心を持て乗物ぞ、若き殿原は見も習乗も習へ、義経が馬の立様を本にせよとて、真逆に引向、つゞけ/\と下知しつゝ、馬の尻足引敷せて、流落に下たり。
 三千さんぜん余騎よきの兵共つはものども、大将軍につゞけとて、白旌三十流城の内へ指覆、轡並て手綱かいくり、同様に尻足しかせて、さと落して壇の上にぞ落留る。
 夫より底を差のぞいて見れば、石巌峙て苔むせり。
 刀のはに草覆へる様なれば、いといぶせき上、十二十丈もや有らんと見え渡る。
 下へ落すべき様もなし、上へ上るべき便もなし、互に竪唾を呑て思煩へる処に、三浦党に佐原十郎義連進出て、我等われら甲斐信濃へ越て狩し鷹仕時は、兎一つ起いても鳥一つ立ても、傍輩に見落されじと思には、是に劣る所やある、義連先陣仕らんとて、手綱掻くり鐙踏張、只一騎いつき真先蒐て落す。
 御曹司是を見給たまひて、義連討すなつゞけ者共/\と下知して、我身もつゞきて落されけり。
 畠山は赤威の冑に、護田鳥毛の矢負、三日月と云栗毛馬の、太逞に乗たりけり。
 此馬鞭打に、三日の月程なる月影の有ければ名を得たり。
 壇の上にて馬より下り、差のぞいて申けるは、爰ここは大事の悪所、馬転して悪かるべし、親にかゝる時子に懸折と云事あり、今日は馬を労らんとて、手綱腹帯より合せて、七寸しちすんに余て大に太き馬を十文字に引からげて、鎧の上に掻負て、椎の木のすたち一本ねぢ切杖につき、岩の迫をしづ/\とこそ下けれ。
 東八箇国に大力とは云けれ共、只今ただいまかゝる振舞、人倫には非ず、誠に鬼神の所為とぞ上下舌を振ける。
 倩竜樹論のしよを考るに、馬は是十二神将じふにじんじやうの封体の中也とも云、又は南方旃檀香仏の変化身共云。
 馬郁経には、観自在菩薩、為大功徳力、重事成馬来償人役、人の以六歩馬一歩、広天上には馬為竜、人中には竜為馬。
 又或経には、父は成吉馬子被乗、母は為吉魚子被食、旁以不疎、此心を得たりけるにや。
 畠山は、此岩石に馬損じては不便也、日比ひごろは汝にかゝりき、今日は汝を孚まんと云ける。
 情深しと覚たり。
 其後三千さんぜん余騎よき、手綱かいくり鐙踏張、手をにぎり目を塞ぎ、馬に任せ人に随て、劣らじ/\と落しけるに、然べき八幡大菩薩はちまんだいぼさつの御計にやと申ながら、馬も人も損せざりけるこそ不思議なれ。
 落しもはてず、白旗三十流さと捧、三千さんぜん余騎よき同時に時を造、山彦答て夥おびたたし。
 平家の城郭じやうくわくに乱入て、竪さま横さま蜘蛛手十文字に馳廻り、喚叫て戦ければ、城中じやうちゆうには東西の城戸口ばかりこそ防けれ。
 さしも恐しき巌石より、敵よすべし共思はざりければ、打延て、左右の城戸口の弱からん時軍せんとて、鎧物具もののぐ脱置て、小具足ばかりにて居たる所へ、はと寄せ咄と時を造りたれば、弓矢を取馬にのる隙を失ひ、周章あわて迷、御方の兵も皆敵に見えければ、適馬にのり弓矢を番ける者も、御方討に討殺れ切殺されて、上に成下に成て、肝も心も身にそはず、失度騒ふためきける有様ありさまは、少魚のたまり水に集り、宿鳥の枝を諍に異ならず、御曹司下知し給けるは、城郭じやうくわく広博也、賊徒数を不知、多く官軍を亡さん事最不便也、火を放てと宣へば、武蔵房弁慶べんけい、屋形やかたに打入仮屋に火をさす。
 折節をりふし西の風烈くして、猛火城の上へ吹覆、平家の軍兵煙に咽び火に被責て、今は敵を防に及ず、取物も取敢とりあへず、浜の汀みぎはに逃出つゝ、海の藻塩に馳入、船にのらんとぞ迷ける。
 助舟も多有けれ共、そも然べき人々をこそ乗けれ、次々の者共をば乗ざりければ、乗んのせじとする程に、多く海にぞ沈ける。
 猛火の煙蹴立の灰、逃去道も見えざりければ、皆敵にぞ討れける。
 されば助かるは希に亡るは多し。
 無慙と云も疎なり。

則綱討盛俊

 能登守教経は、室山、水島、淡路島、高綱、苑部、今木城、所々の合戦に高名し給へりと聞えしか共、大勢傾立ぬれば力及ざる事にて、薄墨と云馬にのり、須磨関屋を指て落、夫より船に乗移、淡路の岩屋に渡給ふ。
 越中前司盛俊は、迚可遁身に非、角傾ぬる上はとて思切、只一人残留て、馳合馳合戦けるが、猪俣近平六則綱に馳並て、引組でどうと落、盛俊は聞えたる大力の大の男、徐には二十人が力と云けれ共、内々は六十人にして上下す大船を、一人してあつかひける者也ければ、七八十人が力もや有けん、近平六も普通には力勝たる人と云けれ共、盛俊に遇ぬれば数ならず、取て押付られて不働。
 既すでに甲の手変をつかみ上、刀を頸にさしあてて掻落さんとしけるに、近平六は刀を抜にも及ず、刎落すにも力なし。
 去共はかり事賢き甲者にて、少も不騒申けるは、抑御辺ごへんは誰人ぞ、敵をば慥に名を聞て後、首を取てこそ勲功の賞にも預れ、誰とも知ぬ頸取ては何にかはすべき、我身は東国には恥ある侍、誰か不知、されども平家の公達にも、侍の殿原にも被見知たる事なければ、是は誰が頸とも見る人有まじ、唯犬鳥の頸の定や、名乗せて切て実検じつけんに合せ給へと云。
 盛俊さもと思て、おさへながらさて和君は誰と問。
 是は武蔵国住人ぢゆうにん、猪俣近平六則綱とて、東国には名誉の者也、兵衛佐殿ひやうゑのすけどの御内には、一二の者に数へられたり、抑又御辺ごへんはたれぞと返て問。
 是は平家の侍に、京童部きやうわらんべまでも数へらるゝ越中前司盛俊と云者ぞと答へたり。
 近平六、あゝさては聞え給ふ人にこそ、弓矢取ても並者なく、情も類少しと伝承、則綱只今ただいま御辺ごへんに切れんずれ共、よき敵に組てけり、同は死ぬとも雑人の為に切れんよりは然るべき事にや、但殿原は今は落人ぞかし、されば則綱一人を討たりとても、平家世におはせん事有まじ、主世におはせずば、縦則綱が首を捕たり共、神妙しんべうとて勧賞勲功に預給はん事いさ不知、只則綱が命を生られよかし、鎌倉殿かまくらどのに申て、和殿並親き人々をも宥申さんと云ければ、盛俊嬉敷思て、猶抑ながら、実に助給べきか猪俣殿と問。
 子細にや及べき、我を助給たらん人をば、争か我も助奉らで有べき、怪の鳥獣だにも恩をば不忘とこそ申せ、況人として非忘、ためし外になし、池の尼御前の兵衛佐殿ひやうゑのすけどのをたすけさせ給たれば、同平家の御一門ながら、池殿の公達をばたすけ進すべしとぞ承はり候へと云ければ、盛俊実にと思ひて、おめ/\と引起して、前は畠後は水田なる所の中に畔のあるに、二人尻打懸て、心静に物語ものがたりを始む。
 越中前司申けるは、やゝ猪俣殿、盛俊は男女の子供二十余人よにん持て候ぞよ、我一人に侍ならばいかでも候べし、彼等が行末の悲さに、御辺ごへんの命を助奉也、同御恩あるべくば、何れをも相構て申宥給へと云。
 近平六は、宗徒の御辺ごへんを助奉んに、末々の事はさこそ候はんずれ、中々仰にや及べきと云処に、塩谷五郎惟広と云者、五騎ごきにて浜の方より馳来る。
 哀よき敵に行合て分捕せばやと思たる景気也。
 盛俊是を見て、よに恠げに思て、源平軍兵近付候、降人也と会釈ひ給へ猪俣殿と云。
 近平六立上り是を見て、イヤ/\事かくまじ、塩谷五郎惟広也、おぼつかなく思給ふべからずといへ共、猶惟広に目を懸たり。
 則綱思けるは、惟広を待付て盛俊を討たらば、二人して討たりと人のいはんも本意なし、和与して命は生たれ共、とても遁まじき盛俊也、塩谷に取れて云甲斐なし、後の世をこそ弔はめと思ひ、則綱角て候へば、心苦く思ひ給ふべからずとて、本所に居直る様にて、左右の手に力を加て、真逆に後の深田に突倒す。
 盛俊頭は水の底に足は岸の耳に、起ん/\としけるを、則綱上にのらへて頸を掻、太刀の鋒に貫て、高く捧て馬に乗、大音揚て、敵も御方も是を見よ、平家の侍、今日近来鬼神と聞えつる越中前司盛俊が頸、猪俣近平六則綱分捕にしたりと叫けり。
 誠に由々敷ぞ聞えける。
 彼刀は薩摩国住、浪平造の一物なりけり。

一谷いちのたに落城並重衡卿しげひらのきやう虜事

 〔斯りける処に〕一谷いちのたにを中に挟、大手五万余騎よきは東の城戸口より攻寄ける上に、熊谷平山一陣二陣に蒐入ぬ。
 今は防ぐ者なし。
 搦手は一万いちまん余騎よきの内、七千しちせん余騎よきは三草山の山口、西の城戸口へ廻て責む。
 三千さんぜん余騎よきは鵯越より落し合せて攻む。
 東生田杜をば三千さんぜん余騎よきにて固たれ共、屋形やかた屋形やかたは猛火燃ひろがりて夥おびたたし。
 東西より火に責られ人に被責て、皆舟にのらんと渚なぎさに向て落行けるも、海へのみこそ馳入けれ。
 助船有けれ共、余に多くこみ乗ければ、大船三艘は目の前に乗沈めける。
 然るべき人々をば乗すれども、次様の者をば不乗とののしりけれ共、暫しの命も惜ければ、若や/\とて、舟にのらんと取付けるを、太刀長刀にて薙ければ、手打落され足切折れて、皆海にぞ沈ける。
 角はせられて死けれども、敵に組で死する者はなし。
 多は御方打にぞ亡にける。
 先帝を始進せて、女院、北政所きたのまんどころ、二位殿にゐどの三位殿さんみどの已下の女房達にようばうたち、大臣殿父子已下の人々は、兼てより御船に召て、海上に出浮てこれを被御覧、いかばかりの事をか思召おぼしめしけんと哀なり。
 本三位中将ほんざんみのちゆうじやう重衡は、国々くにぐにの駈武者取集て、三千さんぜん余騎よきにて生田杜を固給たりけるが、城中じやうちゆう乱つゝ、火焔屋形やかた屋形やかたに充満て黒煙空に覆、軍兵散々さんざんに蒐阻られて東西に落失ぬ。
 恥をも知たる者は敵に組で討れぬ。
 走付の奴原は、海に入山に籠けれ共、生るは少なく死るは多く、敵は雲霞の如し、御方の勢なかりければ、重衡卿しげひらのきやう今は叶じとて、浜路に懸り渚なぎさに打副て、西を指て落給ふ。
 其そのの装束は、褐衣に白糸を以て群千鳥を縫たる直垂に、紫すそごの鎧をぞ著給へる。
 馬は童子鹿毛とて究竟の逸物早走也。
 大臣殿の御馬を預給たまひてぞ乗り給へる。
 庄三郎家長が、よき大将軍と見て、父子乗替の童三騎にて追て懸。
 三位中将さんみのちゆうじやうは蓮の池をも打過、小馬の林を南に見なし、板宿須磨にぞ懸給ふ。
 庄三郎に目に懸て、鞭に鐙を合せて追けれ共、逸物には乗給へり。
 只延にのび給ける間、今は叶はじと思、十四束取て番て、追様に馬を志て遠矢に射、其矢馬の草頭に射籠たり。
 其後は障泥ども打共、疵を痛て働かず。
 三位中将さんみのちゆうじやうの侍に、後藤兵衛尉守長とて、少くより召仕給たまひて、如何なる事有とも一所にて死なんと深く契給たまひて被召具たり。
 三位中将さんみのちゆうじやうの秘蔵せられたりける夜目なし鴾毛と云馬にぞのせられたる。
 是は童子鹿毛若の事あらば、乗かへんとの約束也。
 馬も秘蔵の馬也、主は深く憑給へる侍也けれ共、童子鹿毛に矢立ぬと見て、守長は我馬召れなば我如何せんと思て、主を打捨奉り、射向の袖の赤注かなぐり棄て、西を指て落行けり。
 三位中将さんみのちゆうじやうは、如何に守長其馬進せよ/\と仰けれ共、空聞ずして馳行けり。
 穴心憂や、年来は角やは契し、重衡を見棄ていかに守長何の国へ行ぞ、留れ守長、其馬進せよと宣へども、耳にも不聞入見もかへらず、渚なぎさに添て馳行けり。
 三位中将さんみのちゆうじやう今は不力して、相構て馬を海へぞ打入れんとし給ふ。
 そこしも遠浅なりける上、馬も弱て進ざりければ、汀みぎはに下立、刀を抜冑の引合を切、自害し給はんずるにや、又海へ入給はんずるかと見えければ、家長手しげく責より、馬より飛下、乗替に持せたる小長刀を取、十文字に持て開き、する/\と歩より、君の御渡と見進せて家長参て候、如何に正なく御自害ごじがい有べからず、いづくまでも御伴仕べきとて、畏て有ければ、三位中将さんみのちゆうじやう自害をもし給はず、遠浅なれば海にも入給はず、立煩給たりけるを、家長つと寄、我馬に奉掻乗指縄にて鞍のしづわにしめ付て、我身は乗替に乗てぞ帰にける。
 其勲功の賞には、陸奥国しつしと云所を給けり。
 多くの人の中に、重衡卿しげひらのきやう一人被虜給へる事、大仏焼失の報にや、重衡は只悋七歩之命、纔わづかに遁一旦之死、曝顔於都鄙、辱名於遠近けり。
 去頃東大寺とうだいじ大仏上人の夢に、我右の手急ぎ鋳成べし、敵を討せんが為也と示給と見てければ、急ぎ奉鋳てけり。
 去七日右の御手成給けるに、彼卿虜れける事、測知ぬ大仏の御方便也と云事を、末代也といへ共、霊験まことにいちじるくぞ覚ける。
 さても後藤兵衛尉守長は、逸物に乗たりける甲斐ありて、命計は生にけり。
 後には熊野法師に尾張法橋と云ける者の、後家の尼に後見してぞ在ける。
 彼尼訴訟有、後白川【後白河】ごしらかはの法皇ほふわうの御時、伝奏し給ふ人の許へ参じたりけるに、人是を見て、三位中将さんみのちゆうじやうのさばかり糸惜し給しに、一所にて如何にも成べき者がさもなくて、指もの名人の不思懸、尼公の尻舞して、晴の振舞こそ人ならねと、悪まぬ者こそなかりけれ。
 又人の云けるは、剛臆も賢愚も、世を治るはかりごと、命を助る有様ありさま、とり/゛\の心ばせ、争是非を弁べし、弓矢を取身が前には、不覚とも云べけれ共、命を惜時は、臂ひぢを折し様も有ぞかし、され共此守長は、歌の道にはやさしき者にて、帝までも知召たる事也。
 一年一院〈後白河院ごしらかはのゐん〉鳥羽御所に有御幸御遊ぎよいうき。
 比は五月の廿日余あまりの事也。
 卿相けいしやう雲客うんかく列参あり、重衡卿しげひらのきやうも出仕せんとて出立給たまひけるが、卯花に郭公書たる扇紙を取出て、きと張て進よとて守長にたぶ、守長仰奉て、急張ける程に、分廻をあし様に充て、郭公の中を切、僅わづかに尾と羽さき計を残したり。
 あやまちしぬと思へ共、可取替扇もなければ、さながら是を進する。
 重衡卿しげひらのきやう角共知ず出仕し給たまひて、御前にて披て仕給けるを、一院叡覧ありて、重衡の扇を被召けり。
 三位中将さんみのちゆうじやう始て是を見給つゝ、畏てぞ候はれける。
 御定再三に成ければ、御前に是を閣れたり。
 一院ひらき御覧じて、無念にも名鳥に疵をば被付たる者哉、何者なにものが所為にて有ぞとて打咲はせ給ければ、当座の公卿達も、誠にをかしき事に思合れたり。
 三位中将さんみのちゆうじやうも、苦々しく恥恐れ給る体也。
 退出の後守長を召て、深く勘当し給へり。
 守長大に歎恐て一首を書進す。
  五月やみくらはし山の郭公姿を人にみするものかは
と、三位中将さんみのちゆうじやう此歌を捧て御前に参、しか/゛\と奏聞し給たりければ、君、さては守長が此歌よまんとて、態との所為にやと有叡感
 ためしなきに非ず、能因入道が、
  みやこをば霞と共に出でしかど秋風ぞ吹く白川のせき
と読たりけるを、我身は都に有ながら、いかゞ無念に此歌を出さんとて、吾妻の修行に出ぬと披露して、人に知られず籠居て、照日に身を任せつゝ、色を黒くあぶりなして後に、陸奥国の方の修行の次でに、白川関にて読たりとぞ云ひろめける。
 又待賢門院の女房に、加賀と云歌よみ有けり。
 是も、
  兼てより思し事をふし柴のこるばかりなる歎せんとは
と云歌を読て年比持たりけるを、同は去べき人に云眤て、忘られたらん時によみたらば、勅選なんどに入たらん面も優なるべしと思けり。
 さて如何したりけん、花園大臣に申そめて、程経つゝかれ/゛\に成にけり。
 加賀思の如くにや有けん、此歌を進せたりければ、大臣いみじく哀におぼしけり。
 世の人、附子柴の加賀とぞ云ける。
 さて思の如く千載集に入にけり。
 守長も角しもや有らんと覚束おぼつかなし。
 秀歌なりければ、鳥羽御所の御念珠堂の杉障子に彫付られて今にあり。
 されば賢も賤も讃も毀も、とり/゛\なるべしとぞ申ける。

忠度通盛等最後事

 薩摩守忠度は生年四十一、色白くして鬚黒く生給へり。
 赤地錦直垂に、黒糸威くろいとをどしの冑に、甲をば著給はず、立烏帽子たてえぼし計にて、白鴾毛の馬に、遠雁の文を打たる鞍置てぞ乗たりける。
 かるも河、須磨、板宿を打過つゝ、渚なぎさに付てぞ落給ふ。
 武蔵国住人ぢゆうにん岡部六弥太忠澄、十余騎よきの勢にて鞭を打て追懸て、爰ここに西を差て過給は、敵か御方か名乗れと云。
 是は源氏の軍兵ぞと答て、いとゞ駒を早めて落給ふ。
 御方には立烏帽子たてえぼしに、金付たる人はなき者を、是は一定平家の大将軍にこそと思て、追て懸処に、源次源三百兵衛と云侍共、中を塞て防けり。
 彼等三人をば郎等に打預てなほ進けり。
 熊王と云童、主を延さんと命を棄て戦けり。
 熊王は敵一人切殺して、我身も爰ここにて討れにけり。
 源次源三百兵衛も、太刀の切鋒打そろへて散々さんざんに振舞けるが、敵二人討取て、余多あまたに手負せ、三人一所に亡にけり。
 今は忠度一人に成給たりけるを、忠澄馳並て引組で落、六弥太上に成。
 忠度は赤木の管に、銀の筒金巻たる刀を抜儲て座しければ、六弥太を三刀までぞ突給ふ。
 馬の上にて一刀、落ざまに一刀、落付て一刀、隙あり共見えず。
 一二の刀は鎧の上を突給へば手も負ず、三の刀に胸板むないたを突はしらかし、頷の下片頬加へにつと突貫、忠澄既すでにと見えければ、郎等落合て、薩摩守をみしと切、射鞴を以て合せ給たりければ、妻手の腕射鞴加に打落さる。
 忠度今は叶はじと思召おぼしめしければ、上なる六弥太を持興て片手に提、こゝのけ、念仏申て死なんとて抛給へば、弓長二長ばかり抛られて、忠澄とゝ走て安堵せず。
 其間に忠度は鎧の上帯切、物具もののぐ脱捨て端座して西に向、念仏高声に唱へ給ふ。
 其後忠澄太刀を抜寄ければ、今は汝が手に懸て討れん事子細なし、暫相待て最後念仏申さんと宣へば、忠澄畏て、抑君は誰にて渡らせ給候ぞと問ければ、薩摩守、己は不覚仁や、何者なにものぞ。
 名乗といはば名乗べきか、景気を以て見も知れかし、己おのれに会て名乗まじ、去ながら最後の暇えさせたるに、己はよき敵取つる者ぞ、同じ勲功と云ながら、必よき勧賞に預りなんとて、最後の十念高声に唱つゝ、はやとくと宣のたまひければ、六弥太進寄て頸を取、脱捨給へる物具もののぐとらせけるに、一巻の巻物あり。
 取具して頸をば太刀の切鋒に貫て指上つゝ、陣に帰て是は誰人の頸ならん、名乗と云つれ共しか/゛\とて名乗ざりつれば、何なる人共見しらざりけるに、巻物を披見れば、歌共多く有ける中に、旅宿花と云題にて一首あり。
  行暮て木下陰を宿とせば花や今夜のあるじならまし
 忠度と書れたりけるにこそ薩摩守とは知りたりけれ。
 此人は入道の弟公達の中には、心も剛に身も健に御座おはしましけれども、運の極に成ぬれば、六弥太にも討れにけり。
 勧賞の時は、六弥太神妙しんべうなりとて、薩摩守の知行の庄園五箇所を給たまひて、勲功に誇けり。
 越前三位通盛は、紫地錦直垂に、萌黄に沢潟威たる鎧に、連銭葦毛れんせんあしげの馬に乗て、湊河の耳を下に落給ふ。
 団扇の旗指て、児玉党七騎にて追懸奉る。
 三位幾程命を生んとて、鞭をあててぞ落給ふ。
 然べき運の極にや、馬を逆さまに倒て頸へ抜てぞ落給ふ。
 児玉党いまだ不追付けるに、近江国佐々木庄住人ぢゆうにん木村源三成綱と云者、落合ひて組でけり。
 両鼠木の根を嚼、其木たふれば、毒竜底に在て害を成んとする喩あり。
 児玉党追懸たり、佐々木待得たり、実遁がたくぞ見え給ふ。
 三位上に成給ふ。
 源三駻返々々としけれ共、三位力増也ければ、抑て更に働さず。
 刀をぬき、源三が頸を掻共掻共落ず、持上是を見給へば、鞘ながら脱たれば不切けり。
 源三成綱は、紀中将成高の四代の孫、木村権頭が子息なり。
 佐々木庄に居住したりけるが、本は小松大臣に奉公せし程に、おくれ奉て後は新中納言殿ちゆうなごんどのに奉付ければ、平家の人々には見馴奉たりけり。
 源平の合戦に、佐々木源三秀能が子息等、皆関東へ下ける間、源三成綱も近く鎌倉へ下たりけり。
 軍兵に被催て上たれば、越前三位とも奉組。
 成綱叶はじと思ければ、下に臥ながら、誰やらんと奉思候へば、君にて渡らせ給けり。
 知進せて候はんには、争か近く可参寄、年比平家に奉公の身なれば、御方へこそ参べきにて侍つるに、心ならず親者共に詐し下されて、今戦場に被駈向たり、何の御方も疎の御事は候はね共、殊に見なれ進て奉御眤思、只今ただいま角組れ進せぬる事よ、同は人手に懸なんより嬉しくこそと申。
 三位は誰もさこそは思へ、年比日比ひごろ見馴し者なれば、不便にも思へ共、軍の道は力なし。
 今加様に申を聞ば、実にさこそ思らめとてためらひ給ける程に、佐々木五郎義清、主従五騎ごきにて波打際を歩せ来る。
 成綱是を見て、五郎はよも見放たじ者をと思て、三位案じ煩たる処に、太刀の管とえびらとにかせいて、甲の透間の有けるより、源三刀をぬき三位を二刀さす。
 指れて弱り給けるを、力を入て駻返、起しも立ず軈三位の首を取。
 此世に源三が郎等二人、三位侍三騎、互に主を育て、爰ここにて五人亡にけり。
 源三三位首を取、郎等に項の重はいかにと問。
 疵を負給へりと云。
 三位刀を取て見れば、鞘ながら掻たれば、鞘尻二寸にすんばかり砕て、刀の鋒二寸にすん入て、其疵にてぞ在ける。
 源三成綱は左手にて頷さゝへ、右の手に首を捧て陣に帰、ゆゝしくぞ見えたりける。
 蔵人大夫業盛は今年十七に成給ふ。
 長絹の直垂に、所々菊閉して、緋威ひをどしの冑に、連銭葦毛れんせんあしげの馬に乗給へり。
 御方には離ぬ、いづちへ如何に行べき共知給はざりければ、渚なぎさに立て御座おはしましけるを、常陸国住人ぢゆうにん泥屋四郎吉安と組で落、上に成下に成ころびける程に、古井の中へころび入て、泥屋は下になる。
 兄を討せじとて、泥屋五郎落重つて、大夫の甲のしころに取付て、ひかん/\としければ、大夫頭を強く振給ふに、甲の緒を振切。
 五郎甲を持ながら、二尋計ぞ被なげうたれたる。
 去共不手負ければ、起上て業盛の頭を取。
 兄をば井より引立たり。
 十七歳の心に、よく力の強く座おはしけるにやと、人皆是を惜けり。

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