幾巻 第三十八 目録
知盛遁戦場船事

 〔去さるほどに〕新中納言知盛卿は、浜へ向て落給けるを、武蔵国司にて御座により、奉見知たりけるにや、児玉党団扇旗指て、三騎をめきて奉追懸
 爰ここに落給ふは大将軍とこそ見進せ候へ、如何にまさなく後をば見せ給ふぞとて、無下に近付寄ければ、中納言の侍に、監物太郎頼賢は究竟の弓の上手、能引放矢に、旗指頸の骨を射させて馬より落。
 二騎の者共しころを傾て打て懸る。
 中納言危く見え給ければ、御子武蔵守知章中に阻て、引組て落て、取て押て頸を掻、敵の童落重つて武蔵守をば討てけり。
 監物太郎頼賢、弓矢をばからと棄て落合童が首を取。
 頼賢は主の首と童が頸と取具して、馬にのらんとしけるが、膝の節を射させ、今は最後と思ければ、人手にかゝらじとて、腹掻切て死にけり。
 其紛に新中納言は、井上と云究竟の馬に乗給たまひたりければ、海上三町さんちやう計游せて、船に乗移て助り給にけり、知章は忽獲勇兵之首、専顕荘士之名、遂救父子死、永亡己之命
 船には馬立べき所なかりければ、舟のせがいより馬の頭を礒へ引向て、一鞭あてたれば馬は游返けり。
 阿波民部大夫成良が、あの御馬射殺給へ、敵の物に成なんと申けれ共、中納言は、敵の馬に成とても、如何我命を助たらん馬をば殺すべきとて、遺惜げにぞおはしける。
 馬は渚なぎさに游上り、塩々とぬれて、年来の好みを慕ひつゝ、舟の方を見返りて三度嘶たりけるこそ蓄類なれ共哀なれ。
 此馬は中納言の武蔵国司にて座しける時、当国河越より進たりければ、名をば河越の黒とぞ申ける。
 余に秘蔵し給たまひて、馬の為に月に一度太山府君の祭をぞせられける。
 其験にや馬の命も四十に成けり。
 我御身も今度被助給ぬ。
 九郎御曹司、此馬を院ゐんの御所ごしよへ被進たりければ、聞ゆる名馬也とて、御厩にぞ立られける。

平家公達最後並頸共掛一谷いちのたに

 修理しゆりの大夫だいぶ経盛の子に若狭守経俊は、兵庫ひやうごの浦まで落延給たりけるを、那和太郎に組で討れ給ふ。
 同経盛末子に無官むくわんの大夫敦盛は、紺錦直垂に、萌黄匂の鎧に、白星の甲著て、滋籐弓に十八指たる護田鳥尾の矢、鴾毛の馬に乗給、只一騎いつき、新中納言の乗給ぬる舟を志て、一町計游せて、浮ぬ沈ぬ漂給ふ。
 武蔵国住人ぢゆうにん熊谷次郎直実は、哀よき敵に組ばやと、渚なぎさに立て東西伺居たる処に、是を見付みつけて馬を海にざぶと打入。
 大将軍とこそ奉見、まさなくも海へは入せ給ふ者哉、返給へや/\、角申は日本につぽん第一の剛者、熊谷次郎直実と云ければ、敦盛何とか思はれけん、馬の鼻を引返し、渚なぎさへ向てぞ游せたる。
 馬の足立程に成ければ、弓矢をば抛捨て、太刀を抜額にあて、をめきて上給けるを、熊谷待受て上もたてず、水鞠さと蹴させつゝ、馬と/\を馳並て取組、浪打際にどうと落、上に成下になり、二度三度は転たりけれ共、大夫は幼若也、熊谷は古兵也ければ、遂に上に成、左右の膝を以て冑の袖をむずと押たれば、大夫少も働給はず。
 熊谷は腰の刀を抜出し、既すでに頸をかゝんとて内甲を見ければ、十五六計の若上﨟、薄気壮に金黒也、にこと笑て見え給ふ。
 熊谷は穴無慙や、弓矢取身は何やらん、是程若く厳き上﨟に、いづこに刀を立べきぞと心弱ぞ思ける。
 抑誰の御子にて渡らせ給ふぞと問ければ、只とく切とぞ宣のたまひける。
 奉斬て雑人の中に棄置進せんも無便侍り、うきふしも知ぬ東国の夷下﨟に逢て、名乗まじと被思召おぼしめさるるか、それも理に侍れ共、存ずる旨有て申也と云。
 大夫思はれけるは、名乗たり共不名乗とも非遁、但存ずる旨とは勲功の賞を申さん為にこそ有らめ、組も切るゝも先世の契、讐をば恩で報也、さあらば名乗んと思ひつゝ、存る旨の有なれば聞するぞ、是は故太政だいじやう入道にふだうの弟に、修理しゆりの大夫だいぶ経盛と云人の末の子、未無官むくわんなれば無官むくわんの大夫敦盛とて、生年十六に成也と宣のたまひけり。
 熊谷涙をはら/\と流けり。
 穴心憂の御事や、さては小次郎こじらうと同年にや、実に左程ぞ御座らん、岩木をわけぬ心にも、子の悲みは類なし、況や是程わりなく厳き人を奉失て、父母も悶こがれ給はん事の哀さよ、中にも小次郎こじらうと同年に成給なる糸惜さよ、奉助ばや、又御心も猛人にて座しけり、日本につぽん第一の剛者と名乗に、落武者の身として、此年の若に返合給へるも、大将軍と覚たり。
 是は公軍也、穴惜や如何せんと思ひ煩て、暫し押へて案じけるに、前にも後にも組で落、思々に分捕しける間に、熊谷こそ一谷いちのたににて現に組たりし敵を逃して、人にとられたりといはれん事、子孫に伝て弓矢の名を折べしと思返て申けるは、よにも助進せばやと存侍れ共、源氏陸に充満たり、迚も遁給べき御身ならず、御菩提をば直実能々訪奉べし、草の陰にて御覧ぜよ、踈略努々候まじとて、目を塞歯をくひあはせて涙を流し、其頸を掻落す。
 無慙と云も愚也。
 敦盛不死不心、雖幼齢之人、頗非凡庸之類けり。
 平家の人々は、今被討給までも情をば不捨給、此殿軍の陣にても、隙には吹んとおぼしけるにこそ、色なつかしき漢竹の笛を、香もむつましき錦の袋に入て、鎧の引合に指れたり。
 熊谷是を見奉り、糸惜や此程も城の中に、此暁も物の音の聞えつるは此人にて御座おはしましけり。
 源氏の軍兵は東国より数万騎上たれ共、笛吹者は一人もなし、如何なれば平家の公達は、加様に優には御座らんとて、涙を流して立たりけり。
 彼笛と申は、父経盛笛の上手にて御座おはしましけるが、砂金百両宋朝に被渡て、よき漢竹を一枝取寄、殊によき両節間を一よ取、天台座主てんだいざす前明雲めいうん僧正そうじやうに被仰て、秘密瑜伽ゆが壇に立て、七日加持して、秘蔵して被彫たりし笛也。
 子息達の中には、敦盛器量の仁なりとて、七歳の時より伝て持れたりけり。
 夜深る儘にさえければ、さえだと名付られける也。
 熊谷は笛と頸とを手に捧、子息の小次郎こじらうが許に行、是を見よ、修理しゆりの大夫殿だいぶどのの御子に無官むくわんの大夫敦盛とて、生年十六と名乗給たまひつるを、奉助ばやと思けれ共、汝等なんぢらが弓矢の末を顧て、角憂目を見悲しさよ、縦直実世になき者と成たりとも、穴賢奉後世吊と云含、其よりして熊谷は弥発心の思出来つゝ、後は軍はせざりけり。
 但馬守経正は大夫敦盛の兄也。
 赤地錦直垂に、鎧は態と不著けり。
 身を軽くして落給はん料にや、小具足計、長覆輪の太刀を帯、黄駱馬に乗、侍一人も具し給はず、大蔵谷へ向て落給ふ。
 是は武蔵国住〔人〕ぢゆうにん城四郎高家と云者也。
 此に落給は平家の公達と奉見、返合て組給や/\と申懸て追て行。
 経正きつと見返て、逃には非己を嫌也とて馬を早む。
 高家腹を立て、まさなき殿の詞哉、軍の習は不上下、向ふ敵に組は法也、其義ならば虜にして恥を見せよ、打や者共/\とて、主従三騎鞭をあてて追て懸る。
 今は叶はじと思給ければ、馬より飛下、腹掻切て臥給にけり。
 高家落合、首を捕て見ればたぶさに物を結付たり。
 軍終て人に是を問ければ、梵字の光明くわうみやう真言也。
 其真言の奥に、縦朝敵と成て頸をば被渡とも、此真言をば必たぶさに可結付とぞ被書たる。
 哀にぞ覚えける。
 首を被渡ける時聞えけるは、此経正は仁和寺にんわじの守覚しゆうかく法親王ほふしんわうの年比の御弟子にて、都を落し時、彼宮に参て御暇を申けるに、宮哀と思召おぼしめし、御自筆にあそばして給たりける真言也。
 哀也とて結付たりける定にして、頸をば渡されける也。
 獄門の木に被懸て後、御室より被申て、骨をば高野に送られて、様々御追善有ける也。
 土沙加治の功徳、なほ無間の苦を免といへり、況即身に受持てらんに於をや。
 師資の契は多劫の因縁といへり、誠なるかな此事をや。
 備中守師盛は、軍場をば遁出て、小舟に乗て渚なぎさを漕せて、助船に移らんとおぼしける程に、武者一人高岸に立て云、あれは備中守殿の御舟と見進す、是は薩摩守殿の御内に、豊島九郎実治と申者にて侍り、助させ給へやと云て招ければ、只一人也、それ乗よと宣ふ。
 水手等、御船狭候、如何と申けれ共、只寄て乗せよと被仰ければ、漕寄たり。
 実治は大の男、而も鎧著ながら、高岸より力を添て飛乗。
 船ばたに飛懸て、船を踏傾けたるを、のり直さん/\としける程に、踏返て皆海に沈にけり。
 師盛は浮上たりけるを、伊勢三郎義盛、熊手に懸て引上、首を取てけり。
 異本には、大臣御乳人子おんめのとごに、清九郎馬允と名乗て舟を覆と云々。
 一谷いちのたににて被討残たる平家の人々、船にこみ乗波にゆられて、浮ぬ沈ぬ有か無かに漂ひけり。
 新中納言、大臣殿に被申けるは、武蔵守にも後れぬ、頼賢も討れぬ、家長、有国などもよも生侍らじ、心細こそ候へ、只一人持たる子が、父を助んとて敵に組を見ながら、親の身にて子を育心なく落延たるこそ、命はよく惜者哉と、身ながらもうたてく覚候へ、人々の思召おぼしめすらんも恥敷こそとて、さめ/゛\と泣給ふ。
 大臣殿は、武蔵守は心も剛に手もきゝ、能大将軍にて座せし者を、穴惜やとて御子の右衛門督うゑもんのかみを打見給、今年は同年にて十七ぞかしとて涙ぐみ給ければ、人々も皆袖をぞ絞ける。
 家長とは伊賀平内、左衛門有国とは武蔵三郎左衛門さぶらうざゑもん也。
 此等は新中納言の一二の者にて、命にも替、一所にて如何にもならんと契深かりければ、中納言も子息の武蔵守と同惜み給ける侍共也。
 九郎義経は、一谷いちのたにに棹結渡て、宗人の首共取懸たり。
 千二百とぞ注したる。
 大将軍には、越前三位通盛〈門脇子〉蔵人大夫業盛、〈同子〉薩摩守忠度、〈入道弟〉武蔵守知章、〈新中納言子〉備中守師盛、〈小松殿こまつどの子〉若狭守経俊、但馬守経正、無官むくわんの大夫敦盛〈已上三人は修理しゆりの大夫だいぶ子〉、侍には越中前司盛俊、伊賀平内左衛門尉へいないざゑもんのじよう家長、武蔵三郎左衛門有国已下、京都辺士の輩、四国西国さいこく者共也。
 其外はさのみ名を注すに及ず。
 箭にあたり剣に触て巷に臥族、一谷いちのたにの城郭じやうくわくの内、東西の城戸辺、死人の多き事麻を散せるが如也。
 水に溺山に隠し者は幾千万と云事を知ず。
 主上女院二位殿にゐどの、内大臣ないだいじん、平大納言已下、并に人々の北方、御船に召てまのあたり是を被御覧
 いかばかりの御事思召おぼしめしけんと、被推量哀也。
 翠帳紅閨万事の礼法引替て、船中波の上一生の悲、喩ん方こそ無りけれ。
 親は波の上に漂、子は陸の砂に倒、妻は船の中に焦こがれて、夫は渚なぎさの側に亡ぬ。
 友を忘主を忘ても、片時の命を惜み、兄を奇て弟を奇も、しばしの身をぞ畜たる。
 小水の魚の淡にきつくが如く、客舎の羊の屠所に歩むに似たり。
 いつまで命を生んとて、各身をぞ惜ける。
 被討漏たる人々は、水手梶取、八重の塩路に棹指て、波にぞゆられ給ける。
 或は生田沖を漕過て、雀の松原、混陽の松、南宮の沖を沖懸に、紀伊の地へ移る船もあり、或芦屋の沖に懸て、九国へと急船もあり、鳴門沖を漕過て、屋島へ渡る船もあり、明石浦の浪間より、淡路の狭迫を漕過て、島隠れ行船もあり、未一谷いちのたにの沖に漂て、波にゆらるゝ舟もあり、霜枯の小竹が上の青翠、紫野に染返し、細谷川の水の色、薄紅にて流たり。
 汀みぎはの波湊の水、錦を濯ふに似たりけり。

熊谷送敦盛頸並返状事

 熊谷次郎直実は、敦盛の頸をば取たれ共、嬉敷事をば忘て、只悲みの涙を流し、鎧の袖を濡けり。
 倩事の有様ありさまを案ずるに、愚なる禽獣鳥類までも、子を思ふ道は志深し。
 焔の中に身を亡し、矢さきに当て命を失ふ事も、子を思情に有、人倫争憐まざらん。
 弓矢取身とて、なにやらん子孫の後を思つゝ、他人の命を奪らん、蜻蛉の有か無かの身を以て、何思べき世の末を、是程に若く厳き上﨟を失歎給ふらん、父母の心中こそ糸惜けれ。
 縦勲功之賞には不預共、此首遺物返送、今一度替れる貌をも奉見ばやと思ひければ、実検じつけんにも合せ、懸頸にもしたりけれ共、大将軍に申請て、馬、鞍、冑、甲、弓矢、漢竹の笛、一も取落さず、一紙の消息せうそく状に相具して、敦盛の首をば、父修理しゆりの大夫だいぶへぞ送りける。
 其状に云、
 直実謹言上、不慮奉会此君之間、挿呉王得匂践、秦皇遇燕丹之嘉直勝負之刻、依容儀、俄忘怨敵之思、忽抛武威之勇、剰加守護、奉供奉之処、大勢襲来之間、始雖源氏平家彼多勢也、此無勢也、樊くわい之威還縮、養由やういう之芸速約、爰直実適禀生於弓馬家、幸眩武勇於日域、廻謀落城、靡旗、虐敵、雖天下無双之得一レ名、如蟷螂たうらう力而覆車、螻蟻一心而穿上レ岸、憖挽弓放箭、空被愚命於同軍之戟塵、覃于憂名於傍輩之後代、自他背身之本望、非家之面目、然間奉此君御素意之処、早賜御命、可菩提之由、依仰下、乍抑落涙、不謀而賜御頸畢、恨哉此君与直実縁於悪世、悲哉宿運久萌至今、成怨酬之害、雖然翻此逆縁者、争互截生死之糾、不一蓮之実哉、然則偏卜閑居之地形、懇可御菩提、直実所申、真偽定後聞無其隠候歟、以此趣、可御披露候、恐惶謹言。
  二月十三日                    直実状
 進上  平左衛門尉殿さゑもんのじようどのとして書たりける。
 修理しゆりの大夫だいぶ経盛は、此頸遺物を送得て、夢か現か分兼て、物も覚えず泣給ふ。
 公達あまた御座おはしましけれ共、此殿は末の子にて、殊に憐給つゝ、前にて生立て、みめも心も世に有難人にて、分方なく思はれしに、軍場に出て其後、敵にや取られけん深海にや沈けん、遁て徐にや有らんと、其行末を知給はねば、忍の涙を拭て、神に祈仏に誓て、存命せるか死せるか知ばやと被思けるに、今は不審は晴れたれ共、見ては歎ぞ増りける。
 生しき首を膝の上に舁載て、如何にや/\敦盛よ、懸貌をみする事こそ悲けれとて、流るゝ涙は雨の如し。
 前に候ける女房も兵も、只夢の如くに思つゝ、袖をのみこそ絞けれ。
 使の侍も心元なしとて、泣々なくなく返事せられけり。
 其状に云、
 敦盛并遺物等給候畢、此事自花洛之古郷、漂西海之波上以降、兼所存也、今非驚、故望戦場之上者、何有再帰之思哉、盛者必衰者、無常之理也、老少前後者、穢土之習也、然而為親為子、先世之契不浅、釈尊愛羅ご之存、楽天悲一子之別、応身権化猶以如此、況凡夫争不歎哉、而去七日、自立于戦場之朝于後旅船之暮、其面影未身、来燕之声幽、帰雁之翅空、死生無告者、而迷行方存亡音信おとづれ、而知由緒、仰天伏地訴之、砕心焦肝祈之、偏仰神明之納受なふじゆ、併待仏陀之感応之処、於七日之内今見此之貌、仏神之効験有誠而不虚、内哀傷徹骨、外感涙洒袖、生而不再来、蘇而相同重見、抑非貴辺芳恩者、争今得相見哉、一門風塵猶捨退、況於軍徒怨敵人乎、訪和漢両国之儀、顧古今数代之法、未其例、此恩深厚須弥頗下、蒼海還浅、進酬自過去遠々、退難報未来永々者歟、万端雖多難筆紙、謹言。
  二月十四日                 左衛門尉さゑもんのじよう平公朝
  熊谷次郎殿  御返事おんへんじとぞ被書たる。
 直実は此返事を給たまひて、いとゞ涙を流しつゝ、為方なくぞ思ける。
 穢土の習を悲みて、遁ばやと思けるが、西国さいこくの軍鎮て、黒谷法然房に参つゝ、髻を切蓮生と名を付て、終に世をこそ背けれ。

小宰相局付慎夫人事

 偖も今度討れ給へる人々の北方、皆髪を下して姿を替、流るゝ涙に袖朽て、身を墨染に窄しつゝ、念仏申て後世弔合れけるこそ哀なれ。
 其中に本三位中将ほんざんみのちゆうじやう重衡卿しげひらのきやうの北方も、既すでに御髪下さんとし給けるを、内御乳母おんめのと也、いかゞは猿御事侍べきと、大臣殿強ちに被制申ければ、力及ずして尼には成給はざりけり。
 越前三位通盛は、大臣殿の御聟にておはしけれ共、女房未少く御座おはしましければ、近付き給事はなし。
 小宰相の局と申女房をぞ相具し給たりける。
 彼局と申は、故刑部卿ぎやうぶきやう憲方の娘、上西門院の女房也。
 心に情深く、形人に勝給たりと聞えしかば、心を懸ぬ人はなし。
 上西門院四方の花を御覧の為に、北野御幸有けるに、小宰相局をも召具せさせ給へり。
 越前三位の左衛門佐にて座しけるをも御伴にさゝれて参けり。
 万里を飛し梅の花、一夜に生る松枝、現神人の効験も、今更貴く思召おぼしめし、漸社壇も近付ば、大内山の霞は木隠てのみ見渡る。
 女院御車より下させ給へば、小宰相局も下給けり。
 通盛風見給たまひて、宿所に帰て忘れんとすれ共忘ず、如何せんとぞ思はれける。
 又萌出る春の草、主なき宿の埋火は、下にのみこそ焦れけれ。
 乳母めのとの女房を招て、いかゞはせんと此物語ものがたりありければ、不思寄御事也、当時女院の御方に候はせ給たまひて、片時も御前を立離させ給はぬものをと申ければ、一筆の文までも叶まじき歟と問給へば、それは何か苦く侍るべきと申。
 さらばとて御文あり。
  吹送風のたよりに見てしより雲間月に物思ふかな
と書て奉る。
 小宰相は人や見つらん浅増あさましや、不思懸とて返事なし。
 此を便として三年が程、書尽ぬ水茎の数積れ共、終に返事なかりけり。
 通盛御所の舎人を語ひて、御文を書て、是を持て小宰相局に奉て、散ぬ所に打置とて給たまひてけり。
 舎人御文を給たまひて隙を伺けるに、局女院によゐんの御所ごしよへ参給けり。
 折節をりふし御所近成て、車の物見より投入て、使ははや失にけり。
 小宰相局、車の内にて忍騒給。
 是は如何なる人の伝へぞやと宣へ共、御伴の者も知ずと申ければ、大路に捨んも流石さすが也、車に置んもつゝましく思煩、いかにすべき様もなくて、袴の腰に挟みて御前へ参らせ給ぬ。
 隙なき御遊ぎよいうに打紛て御座おはしましける程に、女院の御前にしも此文を落給にけり。
 女院御衣の御袂おんたもとに引隠させ御座おはしまして、御遊ぎよいうの後、女房達にようばうたちの中にて懸文を求めたり、主誰ならんと仰ければ、我も/\不知と申させ給けるに、小宰相局ゆゝしく浅増気なる有様ありさまにて、あきれてぞ見え給ふ。
 女院此文を取出させ給へば、妓炉の煙に薫つゝ、香もなつかしき匂あり。
 手跡もなべてならず厳く、筆の立所もめづらかなり。
  わがこひは細谷川の丸木橋ふみ返されてぬるゝ袖かな
  踏かへす谷のうき橋浮世ぞと思しよりもぬるゝ袖かな

 難面御心も、今は中々嬉くてなんと書たり。
 是は逢ぬを恨たる文也。
 何と思なるべき人やらん、左衛門佐の申とは聞召しかども、細かには不知召、あまりに人の心づよきも讐となる者をや。
 此世にはまのあたり青鬼と成て、身を徒になし、又後世の障ともなる。
 今の世には又独行道にしも合て、情なき事を宛共申伝侍、人をも身をも鬼になして何にかせん、懸念無量劫とかやも罪深し、中比小野小町と云けるは、容顔人に勝、情の色も深かりければ、見人も聞人も、肝を働かし心を傷しめぬはなかりけり。
 去共其道には心づよき名を取たりけるにや、人の思の積つゝ、はては風を禦便もなく、雨を漏さぬわざもなし。
 空に陰らぬ月星を涙にやどし、人の惜む物を強て乞ひ、野辺の若菜摘て命を継げるには、青鬼こそ床をば並べける。
 一夜契何か左程苦しかるべきとて、女院御自御硯引寄せ御座おはしまして、
  たゞ憑め細谷川の丸木橋ふみ返かへしては落る習ならひ
  谷水の下に流
ながれて丸木橋ふみ見て後ぞ悔しかりける
と遊して、女院御媒にて渡らせ給へば、力及ばで終に靡き給たまひにけり。
 仙宮玉妃、天地を兼て契りけん深き志も床敷て、雲上の御遊ぎよいうにも、今はすゝましからぬ程のなからひ也。
 角て馴初給たまひて日比ひごろへけるに、通盛或女房に心を移してかれ/゛\に成ければ、小宰相局角ぞ怨やり給たまひける。
  呉竹の本は逢夜も近かりき末こそ節は遠ざかりけれ
 本より悪からざりける中なれば、通盛此文にめで給、互に志浅からずして、年比にもなり給たまひければ、是までも具し下り給たまひけり。
 昔漢文帝、上林園に御幸あり。
 慎夫人といへる女御座を並て御座、爰あうと云臣下、夫人の座を退く。
 帝御気色おんきしよくかはり、夫人嗔れる色あり。
 爰あう畏つて申。
 公に后御座、又妾御座、妾は座を不並とも、后は席を一にす。
 夫人は妾にして后に非ず、何ぞ公と床を一にせん。
 昔の人しがためしを思知給へと云ければ、夫人此言を悟得て、爰あうが賢心を歎給、金五十斤を給といへり、迎たるを云妻、走れるを云妾本文あり。
 越前三位通盛も、此事を思知給けるにや、大臣殿の御娘は妻室也。
 夫婦契におはしければ、小宰相局は仮初の眤也、妾にてぞ御座おはしましける。
 一つ御船には住給はで、別の舟に宿し置奉、三年の程波の上に漂、時々事を問給へり。
 中々情ぞ深かりける。
 軍より先に三草山の仮屋へ奉呼給けり。
 旅寝の空の草枕を、今こそ最後と知給へ。
 三位の侍に宮太滝口時員と云者あり。
 一谷いちのたにの合戦に被討漏たりけるが、船の中に参て申けるは、三位殿さんみどのは湊川下にて、近江国住人ぢゆうにん、佐々木の一党木村源三成綱と云者が手にかゝりて討れさせ給たまひぬと泣々なくなく語申ければ、北方は露物も仰られず、兼て思はぬ外の事の様に引かづき臥給たまひて後は、枕も床も浮ぬ計ぞ泣給ふ。
 今度討れ給へる人々の北方、いづれも歎悲み給へる有様ありさま、疎也共見えざりけれ共、是は理にも過給へり。
 乳母子めのとご成ける女房の只一人奉付たりけるも、同枕に臥沈たりけるが、涙を押へて申けるは、今は如何に思召おぼしめす共甲斐あるまじ、御身身とならせ給たまひて後、御さまをも替、後世をも弔進せさせ給へ、懸浮世の習なれば、始て驚思召おぼしめすべからず、御身一の事也共如何はせん、人々の北の御方も皆角こそなど慰め申けれ共、只泣より外の事なし。
 返事をだにもし給はず。
 一定討れぬとは聞給けれ共、若や生て帰ると待給けるに、日数経て四五日にも成ぬ。
 一谷いちのたには七日に落されたりけるに、十三日までぞ臥沈給へる。
 明日十四日に屋島の磯へ付べしと聞えける其夜、人定て乳母子めのとごの女房に宣のたまひけるは、三位は討れたりと人毎ひとごとに云つれ共、余の人々もかなたこなたに落散給ぬと聞ば、さもや有らんと思て誠とも思はざりつるが、此暁よりはげにもさも有らんと思定めたる也、其故は、明日打出んとての夜は、終夜よもすがらいつよりも心細き事どもを云継て涙を流つゝ、如何にも我は明日の軍に討れんずると覚ゆるぞ、去ば後にいかなる有様ありさまにてか、世にもおはせんずらんと思こそ心苦しけれ。
 世の習なれば、さてはよもおはせじな、如何なる人にか見え給はんずらん、そも心憂など云しかば、いかに角は宣ふやらんと、心騒して覚えしかども、必しも懸べしとは思はざりしに、げに限にて有ける事の悲さよ、生て物を思ふも苦ければ、水の底にも入なんと思ふ也、是まで付下りて、一人残り居て思はん事こそ糸惜けれ、故郷に待聞て歎給はんも罪深けれども、此世に存へて有ならば、心の外の事も有ぞかし、なき人の魂、草の陰にて見んもうたてかるべし、如何なる男なれば、蓬が杣にも後じとは契りけるぞ、如何なる女なれば、難面く残居て歎くべきぞ、たゞならず成たる事を、其夜始て知せたりしかば、不なのめならず悦て、我三十に成ぬれ共、未子のなかりつるに、始て見ん事は嬉けれども、角いつとなき船の中、波の上の住居なれば、身々とならん時も通盛いかゞはせんずると、只今ただいまあらんずる事の様に歎しぞや、はかりなかりける兼言哉、中々何しに知せけんとて、涙も関敢ず泣給ければ、乳母子めのとごの女房思けるは、日比ひごろは泣給より外の事なくて、墓墓敷物も宣はざりつるに、角細やかに、来方行末の事まで口説給こそ怪けれ、げにも千尋の底までも思入給はんずるやらんと、胸打騒申けるは、水の底に入らせ給たりとても、恋しき人を非見、今は云に甲斐なき御事也、其よりは只平かに身々とならせ給たまひて後、をさなき人をも奉生立、御形見共御覧じ、又故郷に御座おはします人々にも奉見御座おはしまし候べし、御身をなき者になし給たまひては、何の詮かは侍るべき、我身も故郷に老たる親をも棄て、是まで下侍し事は、いかならん野末山の奥までも奉離らじとこそ思ひしか、されば無人の御事は、今は力なき御事にて侍り、童も知ぬ旅の空、習ぬ船の中に住居して、夜昼心を砕、憂目を見候事も、御故にこそ堪へ忍ても過し侍、志を忘させ給たまひて、誰を憑何に慰とて左様の事思召おぼしめし立らん悲さよ、責ては御貌を替させ給たまひて、墨染の袖に身を窄し、苔むす庵に籠居て、閼伽を結花を採、御菩提をこそ訪御座おはしますべきに、悲の余りに海に入せ給たまひたらんは、中々罪深御事にてこそ候はめなど、細々に慰制しける程に、夜も漸更にければ、乳母子めのとごの女房もまどろみて、船の中もはや定たりけるに、小宰相局忍びて船耳に立出給つゝ、念仏百返ばかり申て後、南無なむ西方極楽世界、大慈大悲阿弥陀如来あみだによらい、本願あやまり給はず、別にし三位通盛と、一仏浄土じやうどの蓮葉に導給へと、忍音に祈つゝ、漫々たる海上なれば、いづくを西とはわかね共、月の入さの山の端を、そなたと計伏拝、海へぞ飛入給ける。
 三位は此女房の十五と申けるより見初給たまひて、今年は十九に成給ふ。
 束の間も難離思はれけれ共、大臣殿の御聟にて御座おはしましければ、其方様の人には知せじとて、官兵共の船に奉宿置て、時々見参せられけり。
 屋島へ漕返夜半計の事なれば、船人も皆より臥たりけるに、梶取共は是を見て、こは如何に、女房の海へ入給ぬるぞやとののしりければ、乳母子めのとごの女房打驚き心迷して、傍を探るに人もなし。
 穴心憂やあれや/\と叫ければ、各海に飛入て、取上奉らんとしけれ共、折しも月さへ朧にて、阿波の鳴戸癖なれば、満塩引塩諍て、潜共々々見えざりけり。
 相構て取上たりければ、此世にもはや無人に成給にけり。
 白袴に練貫の二衣引纏て、髪より始てしをれつゝ、僅わづかに息ばかり通給けれども、目に見開給はず、寝入たる様にぞ座しける。
 乳母子めのとごの女房をめき叫て近づくより、手を取組て、如何に角心憂き目をば見せ給ふぞや、多人の中に相具せんと候しかば、老たる親にも別れ少子をも振捨て、是まで付進らせて下りたる志をも思召おぼしめし忘させ給、我身一人を残置、角成給ぬる事の口惜さよ、水の底へも引具してこそ入給はめ、片時離れ奉らんとも思ざりつる者をや、長き世の恨如何にせよとて、責ては今一度物被仰て聞させ給へ、さしも終夜よもすがら此事をこそ申侍しに、まどろむを待給ける悲さよとて、手に手を取、顔に顔を並て口説けれども、一言の返事もし給はず。
 舟の中の上下是を見て、皆涙をぞ流しける。
 夜も既すでに明なんとして、程も経にければ可叶も見えず。
 たま/\通ける息も止て、事切果にけり。
 さてしも有べきに非とて、三位の著背の残たりけるに、浮もぞ上るとて押巻、又海へ入奉、乳母子めのとごの女房も後れじと連て海へ入けるを、人々取留たりければ、船の中に臥倒をめき叫けり。
 理に過て無慙也。
 余りの悲さに自髪をはさみ下したりければ、中納言律師忠快、尼になし戒を授給ふ。
 門脇かどわきの中納言ちゆうなごんも、憑給へる嫡子越前三位と、最愛の乙子蔵人大夫業盛とて今年十七に成り給へりし二人の御子達おんこたちを討れつゝ、旁歎深かりけるに、三位の形見とて、此小宰相局をこそ見奉らんとおぼしけるに、角成給ぬる哀さよ。
 兎にも角にも涙関敢給はず、心の中只可推量
 薩摩守忠度、但馬守経正、此人々の北方も座し合れけれ共、涙に沈ながらさてこそおはしけれ。
 昔も今も夫に後れて、様などかゆるは尋常の習也。
 忽たちまちに身を投る事はためし少なくぞ有らん。
 昔天竺の金地国の后は、王の遺を惜て、王と一所に生れんとて、葬火の中に飛入て亡にけり。
 今日本につぽんの通盛の北方は、三位の別を悲て、海に沈みて消にけり。
 火に飛入水に入る志、とり/゛\にこそ哀なれ。
 権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう維盛は、此有様ありさまを見給たまひて打涙ぐみ、賢ぞ此人共を心づよく留置てける。
 我も具したりせば、懸事にこそあらんずらめと宣のたまひけるこそ糸惜けれ。

平家首掛獄門付維盛北方被頸事

 源氏は、七日卯時に一谷いちのたにの矢合して、巳時に平家を追落し、二千にせん余人よにんが首共切懸。
 其内宗徒の人々十人が首取持せて、同おなじき十日上洛と披露あり。
 平家のゆかりの人々、さすが多く京に残留たりければ、是を聞、誰々なるらんと肝心を消す。
 其中に権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやうの北方は、遍照寺の奥、小倉山の麓、大覚寺と云所に忍て住給けるも、隙なき襟にてぞおはしける。
 風の吹日は、今日もや此人の舟に乗給ふらんと肝を消し、軍と聞ゆる折節をりふしは、今日や此人の討れ給ぬらんと閑心なく思しけるに、首共の多上るなれば、此中にはよもはづれ給はじと思はれけるこそ糸惜けれ。
 三位中将さんみのちゆうじやうと云ふ人の、虜にせられて上と聞えければ、少き者共の恋しさも難忍、いかにして此世にて今一度相見んずると返々云しかば、都に有ならば、若見る事もやなど思て、此人の生ながら取れて上たるやらん、縦見々えん事は嬉しけれ共、京鎌倉恥をさらさん事は、其身の為心憂かるべしなど口説つゞけ給たまひて、伏沈てぞ座しける。
 さても三位中将さんみのちゆうじやうとは、重衡卿しげひらのきやうの事也と聞て後も、今度はづれ給たりとも、終には如何聞えんずらんと、慰む心もなきぞよとて袖を絞給ふこそ責ての事と哀なれ。
 同七日夜半に、西海の追討使源九郎義経、飛脚を奉て申けるは、逆徒自去五日摂津国つのくに一谷いちのたにに、上には構城郭じやうくわく軍陣を張、下には砂浜を掘て逆木を立、大将軍前内大臣ないだいじん已下は、兵船に乗て浮海上、其そのせい十万余騎よき也。
 南浜の繋手は範頼、北の山の搦手は義経、今日辰刻に両方より繋襲賊徒之軍、忽たちまちに敗れ、平三位通盛卿、前但馬守経正、前薩摩守忠度、前若狭守経俊、前備前守国盛、前備中守師盛、前武蔵守知章、散位業盛、敦盛、郎従、前越中守盛俊等、討捕畢。
 此外斬首者三百八十人、前左三位中将さんみのちゆうじやう重衡卿しげひらのきやうは、甲冑を脱棄て上の山へ遁入といへ共、延やらずして、即虜れ畢。
 前内大臣ないだいじん、前平中納言教盛已下は、乗船逃去畢とぞ申たりける。
 十三日に大夫判官たいふはんぐわん仲頼、六条河原にて、九郎義経の手より平氏の首共請取て、東洞院ひがしのとうゐんの大路を北へ渡して、左の獄門の樗木に懸らる。
 通盛、忠度、知章、経俊、師盛、経正、業盛、〈 已上大将軍 〉盛俊、家貞いへさだ、〈 侍 〉此人々の頸也。
 抑此頸ども、大路を渡し獄門に可懸之由、範頼、義経、兄弟両人奏し申ければ、法皇思召おぼしめし煩はせ給たまひて、蔵人くらんど右衛門権佐うゑもんごんのすけ定長さだながを御使にて、太政大臣だいじやうだいじん、左右大臣、内大臣ないだいじん、堀川ほりかはの大納言だいなごんに有御尋おんたづね、五人公卿一同に被申けるは、此輩は先帝の御時、戚里の臣として久朝家に奉仕、就なかんづく卿相けいしやうの首、大路を渡し獄門に掛らるゝ事、未其例なし。
 範頼義経が申状、強に不御許容と被申ければ、渡さるまじきにて有けるを、九郎義経重て奏し申けるは、父義朝よしともは、保元の逆乱に御方に参て、凶徒きようとを退け雖合戦之忠平治に悪衛門督信頼卿のぶよりのきやうの語により、不意蒙勅勘間、其頸大路を渡されて、曝骸於獄門、彼を以案之、平家昨日までは朝家之重臣として雖卿相けいしやう、今日は国家之逆臣として已すでに勅勘
 就なかんづく命捨身合戦を仕事、且は奉朝威、且は為父之恥也。
 舎兄鎌倉頼朝よりとも深此旨を存ず、而を且取得処の平家之首、任申請大路を渡れずば、向後何の勇有てか朝敵を可誅戮と殊に憤申ければ、力及せ給はで、終に大路を渡し獄門に懸られけり。
 昔は列北闕之群臣ぐんしん足雲上之台を踏しか共、今は成西海之凶賊、首を獄門之枝に懸られたり。
 京中の貴賤多く是を見。
 老たるも若も、涙を流し袖を不絞と云事なし。
 権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやうの北方は、此事伝聞給たまひて、彼首の内には我人よも遁給はじとおぼしければ、斎藤五、斎藤六を召て、己れ等は無官むくわんの者とて、出仕の伴をもせざりしかば痛く人に知れず、此二三年の程入籠て色も白くなり、老替りたる様なれば、知たる者も今は見忘たるらんと覚ゆるぞ、渡さるゝ頸の中に、此人やましますらん、見て参れと被仰ければ、兄弟様を窄し姿を替て、大路に出て是を見るに、維盛の御頸はなかりけれ共、一門の人々の首共なれば目もあてられず、哀に悲く覚えて、つゝむ袂たもとの下より余て涙ぞこぼれける。
 片辺の者ども怪げに見ければ、流石さすが空恐しく覚えつゝ、急大覚寺に帰て申けるは、小松殿こまつどのの公達には、備中守殿の御頸ばかりぞ御座ござ候つる。
 其外は誰々と語申ければ、北方は、心憂や人の上共覚えずとて泣給たまひけるぞ誠にと覚えて糸惜き。
 斎藤五が申けるは、見物の者の中に、雑色かとおぼしきが、由々しく案内知りたりげに候つるが、四五人立て互に物語ものがたり申侍りつるは、小松殿こまつどのの公達は、今度は三草山の大将軍にて、新三位中将殿しんざんみのちゆうじやうどの、小将殿、備中殿、三所向せ給たりけるが、陣を破られて、二所は御船に召て讃岐の地へ著給にけりと聞るに、此備中殿は、いかにして兄弟の御中を離て、討れ給けるやらんと申つるに、偖三位中将殿さんみのちゆうじやうどのはいかにと尋進せ候つれば、其殿は御所労にて今度は打立給はず、船に乗給たまひて淡路へ渡らせ給けるぞと、語り候つると申ければ、北方穴痛しや、故郷に残留給へる身々の事の悲さに、思歎の積つゝ、病と成にけるにこそ、世にも又心強き人かな、所労大事ならば、角こそ有て軍にもあはず淡路へ渡ぬると、などや音信おとづれ給はざるらん、人は加様に心強きにこそとて、又雨々と泣給へば、げに理と覚えつゝ、よその袂たもとも絞にけり。
 さても都を出給しより後は、我身の侘しき事をば一言も宣はず、少き者共はわぶるか、終には一所にてこそすまんずれとのみ時々音信おとづれ給ふ計也。
 それも憑もしくも覚えず、皆人も具すればこそ野の末山の奥にも、一所にあらば互に悲しき事をも慰べきに、所々に住ばこそ折に触て角のみ心をも砕き又人も労り給ふらめ、いかゞして人を下して、何事の御労ぞと慥の事をも聞べきと、怨み口説給たまひければ、六代殿〔仰けるは、〕などやをれ斎藤五、其程に細々と物語ものがたりする程の者に、何の御労ぞとは問はざりけるぞ、穴不覚の者やと宣のたまひければ、斎藤五は未少御心に、是まで思召おぼしめし寄ける事よと、いとゞ涙を催しけり。
 三位中将さんみのちゆうじやうも通心の中なれば、被渡頸の中に我首なくば、水の底にも入にけるやらんと、如何におぼつかなく思らんとて、疎ならぬ者を使にぞ被上ける。
 今日までは露の命も消やらでこそ侍れ。
 打棄て下りし後は、いかにして世にも立廻給らんと心苦し。
 少き者共の方に何事かなど細やかに書給へり。
 心の中に思立給こと有ければ、是を限とおぼしけるに、涙にくれて書もやり給はず。
 若君姫君の御許へも御文あり。
 旅の空に憂事もやとて留置たりしか共、中々心苦ければ、必迎取互に相見んずる也、若又世になき者と聞なし給はば、是を形見にも御覧ぜよと書給たれ共、是が最後の筆のすさみ共争か思召おぼしめすべき。
 只いつか無人と聞なさんずらんと、兼ておぼすぞ悲しき。

重衡京入並定長さだなが問答事

 本三位中将ほんざんみのちゆうじやう重衡卿しげひらのきやうは、庄三郎家長に虜れて、再都へ帰上給ふ。
 掛らるゝ頸共も去事なれ共、生ながら故郷に恥を曝し給こそ無慙なれ。
 六条を東へ渡れけり。
 貴賤男女市の如くに集り是を見る。
 口々に申けるは、あまたの殿原の中に、入道殿にふだうどのにも、二位殿にゐどのにも、覚えの御子にて御座おはしまししかば、一家の人々も重ずる事に思給たりき、院内へ参り給しかば、老たるも若も所を置、もてなし奉らせ給き、時々は口をかしき事なんどをも云置て、人に忍ばれ給し者を、如何なる罪の酬にて、角は成給たまひぬるやらんといへば、或人の申けるは、争可報、親り南都東大寺とうだいじより始て、仏像経巻焼亡しゝ報なれば、懸る憂目を見給にや。
 去共哀、事に触て人に情を懸、万に甲斐々々敷はなやかなりし人々ぞかし。
 親のいとほしみも去事にて、よその人迄も憑しき事に思申しゝぞかしなんど、上下口々に憐けり。
 院宮の女房達にようばうたちの中にも、馴近付給たる人々も多く御座おはしましければ、是を聞見ては、只夢の心地してぞおぼしあはれける。
 十四日蔵人くらんど右衛門権佐うゑもんごんのすけ定長さだなが、依法皇之仰故中御門中納言家成卿の八条堀川ほりかはの御堂にて、本三位中将ほんざんみのちゆうじやうを可召問とて、土肥次郎実平同車どうしやして来給へり。
 重衡卿しげひらのきやうは、紺村紺の直垂に練貫の二小袖を著られたり。
 折烏帽子をりえぼしを引立給へり。
 土肥次郎は、木蘭地直垂に膚に腹巻を著たり。
 郎等三十人を相具して皆甲冑を著す。
 蔵人くらんど右衛門権佐うゑもんごんのすけは赤衣に剣笏を帯せり。
 昔は人の数共おぼさゞりしに、今は生ながら冥官に値給へる心地して恐しくぞ被思ける。
 定長さだなが院宣趣条々、委重衡卿しげひらのきやうに被思含ける中に、三種神器を都へ返入奉らば、頼朝よりともに仰られて死罪をも被宥、西国さいこくへも可返遣とぞ仰ける。
 重衡卿しげひらのきやう、院宣の御返事おんへんじ申けるは、先祖平将軍へいしやうぐん貞盛さだもりが時より、故入道にふだう相国しやうこくに至まで、代々朝家の御守として一天の御固たりき、而を入道薨去之後、子孫君に棄られ進せて西海の浪に漂ふ。
 通盛已下の一門、多一谷いちのたににして被誅、其首獄門に掛られぬ。
 重衡又懸る身に成ぬれば、一人西国さいこくに帰下て候さうらふとも、負べき軍に勝事侍まじ、不返下共、勝べき軍に負事候まじ、宿運忽たちまちに尽て、一門の中に重衡一人虜れて、故郷に帰上り恥をさらす、されば親き者に面を合べし共不覚、今一度見んと思ふ者はよも候はじ、若母の二位の尼などや、恩愛の慈悲にて無慙とも思候はん、其外は哀を懸べし共不存、就なかんづく主上の帰入せ給はざらんには、三種神器計を奉入事は難有こそ存候へ、然而忝蒙院宣上は、若やと私使にて申試侍べしとて、平左衛門尉へいざゑもんのじよう重国と云侍を可下遣由被申けり。
 此重国と云は、重衡卿しげひらのきやうの少くより不便の者に思はれて、自烏帽子えぼしを著せ給。
 片名をたびて重国と呼れけり。
 三位中将さんみのちゆうじやう、加様に甲斐々々敷御返事おんへんじをも被申けれども、心憂事におぼされつゝ、打うつぶきて只涙をのみぞ流し給ふ。
 御使定長さだながも、岩木をむすばぬ身成ければ、落涙に袖ぬれて、赤衣の袖を絞りけり。

重国花方帯院宣西国さいこく下向同上洛奉返状

 同おなじき十五日に、重衡の使平左衛門尉へいざゑもんのじよう重国、院宣を帯して西国さいこくへ下向。
 院よりは御壺召次に、花方と云者を被副下けり。
 彼院宣に云、
一人聖帝出北闕九重之台、而幸于九州、三種神器移南海四国之境、而経数年、尤朝家之御歎、亡国之為基也、彼重衡卿しげひらのきやう者、東大寺とうだいじ焼失之逆臣也、任頼朝よりとも申請之旨死罪、独別親類已為生虜、籠鳥恋雲之思、遥浮千里之南海、帰雁失友之情、定通九重之中途歟、然則於入三種神器者、速可宥彼卿也、者院宣如此、仍執達如件。
  元暦元年二月十四日               大膳大夫業忠奉
 平へい大納言殿だいなごんどのとぞ被書たる。
 三位中将さんみのちゆうじやうも、内大臣ないだいじん、並平へい大納言だいなごんの許へ、院宣の趣委く被申下けり。
 母二位殿にゐどのへも、御文細やかに書て、今一度重衡を御覧ぜんと思召おぼしめさば、内侍所を都へ返入進する様に、よく/\大臣殿に申させ給へとぞ書下し給ける。
 北方大納言佐殿だいなごんのすけどのへも御文進せ度思けれ共、私の文はゆるさゞりければ、詞にて、旅の空にも人は我に慰、我は人にこそ奉慰しに、此六日は必限共知ず、申置度事も多く有し者を、憑もしき人もなきに、明し暮し給ふ覧と想像こそ心苦しけれ。
 又身の有様ありさまも心の中も只推量り給へ、憂かりし船の中波の上も、今は思出して恋くこそと宣もあへず泣給へば、重国も涙を流しけり。
 預り守武士も、鎧の袖をぞ絞合ける。
 十六日じふろくにちには、重て重衡卿しげひらのきやうを召問れけり。
 平家は都を出て西国さいこくに落下給たりけれ共、只浪の上舟の中にのみ漂て、安堵し給はざりける上に、一門多く一谷いちのたににて亡にければ、いとゞ為方なくぞおぼされける。
 被討漏たる人々も、春の尾上の残の雪、日影に解る風情して、消なん事を歎けり。
 十八日じふはちにちには、在々所々に武士の狼藉を止べき由、蔵人くらんど右衛門権佐うゑもんごんのすけ定長さだなが、依院宣頭左中弁光雅朝臣に仰。
 廿二日には、諸国兵粮米の貢を可止之由、定長さだなが、依院宣光雅朝臣に仰す。
 二十七日にじふしちにちには、両国へ被下遣重衡卿しげひらのきやうの使重国、召次花方、両人帰洛して、右衛門権佐うゑもんごんのすけ定長さだながの宿所に行向て、前内大臣ないだいじん宗盛の被申たる奉院宣御返事おんへんじ、定長さだなが則院参ゐんざんして是を奏聞す。
 彼状に云、
 右今月十四日院宣、同おなじき二十四日、讃岐国屋島浦到来、謹所承如件、就之案之、通盛已下当家数輩、於摂津国つのくに一谷いちのたに、已すでに誅畢、何重衡一人可寛宥之院宣、抑我君者、受故高倉院たかくらのゐん之御譲、御在位既四箇年、雖其御恙、東夷結党責上、北狄成群乱入之間、且任幼帝母后之御歎尤深、且依外戚外舅之愚志不浅、固辞北闕之花台、遷幸西海之薮屋、但再於旧都之還御者、三種神器争可玉体哉、夫臣者以君為体、君者以臣為体、君安則臣不苦、君憂則臣不楽、謹思臣等しんら之先祖、平将軍へいしやうぐん貞盛さだもり、追討相馬さうまの小次郎こじらう将門まさかど、而自東八箇国以降、伝子々孫々ししそんぞん、誅戮朝敵之謀臣、及代々世々、奉禁闕之朝家、就なかんづく亡父太政大臣だいじやうだいじん、保元平治両度合戦之時、重勅威、軽愚命、是偏奉君非身、而彼頼朝よりとも者、父左馬頭さまのかみ義朝よしとも謀叛之時、頻可誅罰之由、雖下于故入道大相国たいしやうこく、慈悲之余所宥流罪也、爰頼朝よりともすでに昔之高恩、今不芳志、忽以流人之身、濫列凶徒きようと之類、愚意之至思慮之讐也、尤招神兵天罰速、期廃跡沈滅者歟、日月為一物其明、明王みやうわう一人其法、何以一情大徳文、但君不召忘亡父数度之奉公者、早可幸于西国さいこく歟、于時臣等しんら院宣、忽出蓬屋之新館、再帰花亭之旧都、然者しかれば四国九国、如雲集靡異賊、西海さいかい南海、如霞随誅逆夷、其時主上帯三種神器、幸九重之鳳闕、若不会稽之恥者、相当于人王八十一代之御宇ぎよう我朝之御宝、引波随風、赴新羅、高麗、百済、契丹、雖異朝之財、終無帰洛之期歟、以此旨然之様、可奏聞、宗盛頓首謹言。
  元暦元年二月二十八日にじふはちにち                 内大臣ないだいじん宗盛請文
とぞ被書たりける。
 御壺の召次花方は、平左衛門尉へいざゑもんのじよう重国に具して、院宣の副使に西国さいこくへ下たりければ、平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやう、花方を捕て以金焼頬に、波方とぞ焼付たる。
 其後髻を切鼻をそいで、是は己をするには非ずとて追放けり。
 無益の院宣御使勤て、身のかたはをぞ付にける。
 さてこそ花方をば、異名には波方とも呼けれ。
 時忠卿ときただのきやうの己をするに非ずと宣のたまひけるは、されば法皇の御事を申けるにや、畏々とぞ人皆舌を振ける。
 偖重国申けるには、依東国之逆乱、西国さいこくに臨幸あり。
 主上無還御、三種神器輙難返入、倩慮夷狄之俗、已すでに虎狼之性、只殉利不名、偏忘廉譲之思、深淫色欲之心、然忽被異類之賊、永被一族之輩、或称勲功、或振威猛、云国衙こくが、云庄園、無針之土地、虜掠之、無片粒之官物くわんもつ、却略之、世之衰乱逐日弥甚、国之残滅積年益滅歟、臣若被国家安全之諌言、君何不天下和平之叡慮哉、前内大臣ないだいじん申之由を奏しける。

遊巻 第三十九
友時参重衡許付重衡迎内裏女房

 本三位中将ほんざんみのちゆうじやうの侍に木工馬允友時と云者は、八条院に兼参しける者也。
 平家都を落と聞えしかば、友時も定て重衡に具して下らんずらんとて、八条院より、友時を召て人に預置れたりければ、力及で西国さいこくへも不下して有けるが、三位中将さんみのちゆうじやう虜れて都に上り給たりと聞て、預の武士の許に行向て、是は八条院に木工馬允友時と申者にて侍が、是に御渡候ける三位中将殿さんみのちゆうじやうどのは、年来の主君にて御座おはしまししかば、御一門に相具して西国さいこく下向の時御伴申べかりしを、折節をりふし身に相労事あて、心ならず罷留たりしかば、如何成給ぬらんと、月頃日頃ひごろ御向後の奉おぼつかなく思つるに、御上と承れば、今一度余りに見進せ度て推参仕れり、可然ば蒙御免なんやと申けれども、武士不之。
 友時腰の刀を抜て武士の中へ抛入て、腕頸を取腰をかゞめ、僻事更に候まじ、只年来の御情おんなさけ忘思、一目見えもし奉り見も進ばやの志ばかりの事也と泣々なくなく歎申せば、土肥次郎世にも哀に思ひければ、何かは苦かるらんとて免入けり。
 三位中将さんみのちゆうじやうは友時を見付みつけ給、傍近く呼び寄て、あれは如何にして参たるぞ、珍くこそと宣も敢ず、袖を顔に押当て、御涙おんなみだ関敢給はざりければ、友時も共に袂たもとを絞りけり。
 良久有て、互に昔今の物語ものがたりし給ける中に、中将宣のたまひけるは、さても内裏に、年頃不疎申馴たる女房あり、都を落し時も敢あへぬ事也しかば、云たき事も有しか共空く止ぬ、年月の重りぬるに付てもいぶせさのみ積れば、文をやりて返事をも見ならば、懸憂身の慰にもとは思へ共、誰してやるべし共なかりつるに、友時持て行なんやと宣へば、安き程の御事にこそと申。
 三位中将さんみのちゆうじやう悦て、土肥次郎に被仰けるは、年頃相知たる女房の許へ、文をやらばやと思ふは叶はじやと問給ければ、猛き夷なれ共流石さすが岩木ならねば、哀とや思けん、何か苦しく候べきとて奉免。
 乍去御文をば見進せんと申ければ、被見けり。
 土肥次郎是を披見れば、誠に女房の許へも御文也。
 歌もあり。
 実平哀にぞ思ける。
 友時御文を給たまひて内裏へ参けるが、未明ければ、其辺近き小家に立入て、晩程に彼女房の局近くたゝずみて思様、そも三位中将殿さんみのちゆうじやうどのは角思召おぼしめせ共、女房は御心替もや有らん、左様ならんにはいみじからぬ御身に、中々如何有べからるらんと思つゝ、良久立聞ば、彼女房の音して、かたへの女房に語とおぼしくて、人にも勝て世の覚も有き、又心様も類なかりしかば、情を懸ぬ者も無りき、我身も馴初て年頃にも成しかば、何事に付ても阻なく、憑しき事にこそ云しか、都を落なんとせしにも、不取敢事也しかば、墓々しく心静なる事もなかりしに、云し事は、我は西国さいこくへ落行なんず、別て後の恋さを兼て思こそ悲けれ、人は同心ならずもや有らん、我心よりおこらぬ事なれ共、日本につぽん第一の大伽藍を焼亡したれば、末の露本の雫に帰つゝ、人に勝て罪深くこそあらんずれ、終に如何聞なし給はんずらんと物語ものがたりせしか共、そもさるべきかはと思しに、人しもこそ多きに、生ながら捕れて、京田舎恥を曝す事の心憂さよ、三位都を出にし後には、堪忍ぶべし共思ざりしかば、雲の上のまじはりも倦けれども、独隙なく歎かんも罪深ければ、時の間も慰忘るゝ事もやとこそ思しに、露命と云ながら、消もうせなで又憂事を聞悲さよとて、忍もあへず泣悲み給音しけり。
 友時、さては此女房も忘れず歎給けりと、哀に覚て立寄、戸を打扣、もの申さんといへば、内より童指出て、いづこ[* 「いとこ」と有るのを他本により訂正]よりと問。
 忍音に三位中将殿さんみのちゆうじやうどのよりと申せば、さき/゛\は人にも見え給はぬ女房の、余りの有難さにや、人目も恥も忘つつ、端近く出給たまひ、いかにや/\と問給へば、御文候とてさし上たり。
 披見給へば、いかならん野の末山の奥にも、甲斐なき命あらば、申事も有なんとこそ思しに、そも叶で生ながら捕れて、恥をさらす事の心うさ、是も可然先の世の報にこそと思へば、我身の咎と覚て人を怨事なし、偖も此世に候はん事今明にこそ、争今一度可相見なんど、哀に心細き事共細々書続て、奥に一首ぞ有ける。
  涙河浮名を流す身なれども今一しほの逢せともがな
 女房此文を見給ふに、いとゞ為方なくて倒臥し、引かづきてぞ泣給ふ。
 友時も奉之、よしなかりける御使哉とぞ悶ける。
 良久ありて起あがり、使の待らんも心つきなしとて、細に返事書給たまひつゝ被帰けり。
 三位中将さんみのちゆうじやう返事を待得て限なく悦、披見給へば、何国の浦にもましまさば、自申事こそ難くとも、露の命のあらん限は、風の便にはとこそ思侍つるに、偖は近く限に座すらん事こそ悲けれ、誠に人のさもおはせんには、我が身とても日来の歎に打副て、ながらへん事も有難し、誠にいかにもしてか今一度見奉るべきと書給たまひて、
  君故に我も浮名を流しなば底のみくづと共に成ばや
 中将は此文を見給たまひては、物も覚ず只泣給ふ計也。
 此女房と申は、故少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいの孫、桜町中納言成範卿の娘、中納言局とぞ申ける。
 今年二十一にぞ成給。
 琴琵琶の上手にて、絵書、花結、歌読、手厳書給ける上、貌細やかに情深き人にて座しければ、三位中将さんみのちゆうじやう殊にわりなき事に思入給たまひて、替る心なく申通じ給ける御中也。
 御子一人御座おはしましけれ共、北方、大納言佐殿だいなごんのすけどのに憚給たまひて、世には角とも披露なし。
 西海の旅までも、引つれ奉度思しけるが、大納言佐殿だいなごんのすけどの、先帝の御乳母おんめのととて下らせ給へば、そも叶はで都に残し置給ける也。
 三位中将さんみのちゆうじやう返事披見給、悲しき中にも不なのめならず悦、又土肥次郎に宣のたまひけるは、此文の主の女房を呼て、最後の見参して申度事の侍るは免し給たまひてんや、懸身に成ぬる上は、何事をかとおぼすらめ共、尽ぬ思の晴難ければ、今一度逢みばやと思ふ也、如何有べきと問給へば、実の女房にて御座侍らんには、などか苦しかるべきとて奉免。
 中将悦て、友時して乗物尋出て内裏へ遣す。
 女房世もつゝましく思召おぼしめしけれ共、責ての志の余に御車に召出給けるが、涙にくれて行さきも見え給はず。
 彼宿所におはし付て、車差寄せて下んとし給ければ、中将急立出て、武士のみんも見苦く侍るにとて、我身は縁に乍立、車の簾うち纏、手に手を取組、互の涙せき兼給へり。
 中将やゝ有て宣のたまひけるは、都を落下し時、友時が他行して侍し程に、何事も不申置、文をも奉ずして下たりしかば、年頃日頃ひごろ申しゝ事は皆偽言にて有けるよと、思召おぼしめしなん恥しさよと思しかば、軍に出る日は、今日は矢に中て死なば、又申さでもや果なんと思はれ、船に乗時は、今日や水に沈みて、晴る事なくて止んと悲かりしに、今度生ながら捕れて、故郷の大路を渡されたるは、人を可再見契の朽ざりけるにやとて泣給へば、女房は詞も出されず、只泣より外の事なし。
 深行儘に終夜よもすがら御物語おんものがたりし給ける。
 中にも女房は、三位中将さんみのちゆうじやうの事は、今は猿事にて如何がはせん、御子の事をぞ歎れける。
 西海に落下り給たまひて後は、東国の武士家々いへいへに充満て、うつゝなき世中なれば、如何なる憂事をか見聞んずらんと、明けても暮ても肝心を迷し、爰ここに隠れ彼に忍なんとするも、墻壁もいぶせければ、便に伝て下し奉らばやと、責の事には思しか共、人にこそ生ながら奉別らめ、行末遠き少人をさへ、旅の空に打棄ん事よと悲ければ、さてこそ過し侍しか。
 西海の波の上に、偖も御座おはしましし程は、再昔に還事もやと愚に被思つるに、今は角成給ぬれば憑む甲斐なし。
 さては何と成べき世中ぞや、御身の果如何聞なし奉るべきと忍音にて泣給けり。
 三位中将さんみのちゆうじやうは、我罪深き者とて懸身に成ぬる上は申置しあらましも夢の中の物語ものがたり也、罪深き者の子なれば、枝葉までも末憑しくはなけれ共、如何にもして助隠して、片山寺に下置、僧になして我苦を弔はせ給へと被仰て、袖のしがらみ関兼給へり。
 昔今の物語ものがたり、夜を重日を重ぬ共難尽おぼしけるに、暁かけて打響く野寺の鐘の声、孀烏の一声、今夜も明ぬと告渡る。
 尾上に廻白雲、西山に傾く暁の月、互に遺りは惜けれども、さて有べき事ならねば、疾々とて返されける。
 女房別を悲て、車の内に倒伏、物も覚ず泣給ふ。
 既すでに車を遣り出さんとし給へば、三位中将さんみのちゆうじやう、飽ぬ遺の悲さに、女房の袂たもとを引へつゝ、命あらば又も奉見嬉こそ、世になき者と聞給はば、必後世弔給へと宣て、
  あふ事も露の命ももろともに今宵ばかりや限なるらん
 女房泣々なくなく
  限りとて立別なば露の身の君よりさきに消ぬべきかな
とて出給けるが、此に御座おはしまさん程は常によと計にて、又物も宣はず、車を遣出し給けり。
 後にこそ是を最後とはおぼしけん、永き別の心中、帰るも止るも被推量哀也。
 女房内裏に帰給たりけれ共、打臥給たまひて衣引纏て、只泣より外の事ぞなき。
 傍の女房達にようばうたちも、共に袖をのみぞ絞りける。
 其後は中将仰られけれ共、武士奉免事なかりければ、時々消息せうそく計こそ友時して通けれ。
 女房は内裏にも角ておはせん事つゝましくおぼしければ、里にのみこそ住給へ、責ての事と哀也。

重衡請法然房

 三位中将さんみのちゆうじやうは九郎義経の許へ、出家をせばやと思ふは、免し給たまひてんやと宣のたまひければ、義経が計には難叶、御所へ申入て可其御左右とて奏聞あり。
 頼朝よりともに不仰合して出家暇を免ん事、難治之由被仰下ければ、御気色おんきしよく角とて不力給
 中将重て、出家は御免なければ今は申すに及ばず、さあらば年来相知て侍る上人を請じて、後世の事をも尋聞ばやと有ければ、上人は誰にて御座ぞと問奉。
 黒谷法然房と被申たり。
 兼て貴き上人と聞給ければ、後世の情にと思つゝ是を奉免。
 三位中将さんみのちゆうじやうなのめならず悦て、軈友時を使にて、黒谷の庵室へ申されたりければ、法然上人来給へり。
 中将泣々なくなくのたまふ
 重衡が身の身にて侍し時は、誇栄花驕楽けう慢けうまんの心は在しか共、当来の昇沈かへり見る事侍らず、運尽世乱て後は、此にて軍彼にて戦と申て、人を失ひ身を助んと励悪念は無間に遮て、一分の善心会て起らず、就なかんづく南都炎上えんしやうの事、公に仕り世に随ふ習にて、王命と申父命と申、衆徒之悪行を鎮ん為に罷向処に、不側に伽藍の滅亡に及し事、不力次第也といへ共、大将軍を勤めし上は、重衡が罪業と罷成候ぬらん、其報にや、多き一門の中に我身一人虜れて、京田舎恥を曝すに付ても、一生の所行墓なく拙き事今思合するに、罪業は須弥よりも高く、善業は微塵計もたくはへ侍らず、さても空く終なば、火穴刀の苦果且て疑なし、出家の暇を申侍れ共、責ての罪の深さに御免なければ、頂に髪剃を宛て、出家に准へ奉戒候ばや、又懸罪人の一業をも、まぬかるべき事侍らば一句示し給へ、年来の見参其詮今にありと宣のたまひければ、上人哀に聞給たまひて、誠に御一門の御栄花は、云官職俸禄と申、傍若無人にこそ見え御座おはしまししか、今角成給へば、盛者必衰の理夢幻の如也。
 されば善に付悪に付、怨を起し悦をなす事有べからず、電光朝露の無益の所、兎ても角ても有ぬべし、永世の苦みこそ恐れても恐あるべき事にて侍れ。
 難受人界の生也、難値如来によらいの教也。
 而今悪逆あくぎやくを犯して悪心を翻し、善根無して善心に住して御座おはしまさば、三世の諸仏争随喜し給はざらん、先非を悔て後世を恐るゝ、是を懺悔滅罪功徳と名。
 抑浄土じやうど十方に構、諸仏三世に出給へ共、罪悪不善の凡夫入事実に難し、弥陀の本願念仏の一行ばかりこそ貴く侍れ、土を九品に分て、破戒闡提嫌之事なく、行を六字につゞめて、愚痴暗鈍も唱るゝに便あり。
 一念十念も正業となる、十悪五逆も廻心すれば往生と見えたり。
 念々称名常懺悔と宣て、念々ごとに御名称ずれば、無始の罪障悉ことごとく懺悔せられ、一声称念罪皆除と釈して、一声も弥陀を唱れば、過現の罪皆のぞかる。
 故に南無なむ阿弥陀仏あみだぶつと申一念の間に、よく八十億劫之生死の罪を滅す、憑ても憑むべきは五劫思惟の本願、念じても念ずべきは此弥陀の名号也。
 行住坐臥を嫌ねば、四儀の称念に煩なく、時所諸縁を論ぜねば、散乱の衆生に拠あり。
 下品下生の五逆の人と称して已すでに遂往生、末代末世の重罪の輩も、唱へば必可来迎、是を他力の本願と名。
 又は頓教一乗いちじようの教と云。
 浄土じやうどの法門ほふもん、弥陀願巧、肝要如此とぞ善知識せられたりける。
 其後上人剃刀をとり、三位中将さんみのちゆうじやうの頂に三度宛給。
 初には三帰戒を授、後には十重禁をぞ説給。
 御布施と覚しくて、口金蒔たる双紙箱一合差おき給へり。
 此箱は中将の秘蔵しおはしけるを、侍のもとに預置給たまひたりけるが、都落の時取忘給たりけるを思出給たまひて、友時を以て召寄給たまひたりける也。
 偖も三位中将さんみのちゆうじやうは、今の知識受戒の縁を以、必来世の得脱を助給へと宣も敢ず泣給へば、上人は衣の袖に双紙箱を裹、何と云言をば出し給はず、涙に咽て出給へば、武士も皆袂たもとを絞けり。
 此法然上人と申は、本美作みまさかのくに久米、南条、稲岡庄の人也。
 父は押領使染氏、母は秦氏、一子なき事を歎て仏神に祈る。
 母髪剃を呑と夢に見姙たりければ、父汝が産なん子、必男子として一朝の戒師たるべしと合たりけり。
 生れて有異相、抜粋にして聡敏也。
 童形より比叡山ひえいさんに登、出家得度して、博八宗の奥さくを極て、専円頓の大戒を相承せり。
 世挙て知慧第一の法然房と云。
 依これによつて王后卿相けいしやうも戒香の誉を貴、道俗緇素智徳の秀たる事を仰ければ、重衡卿しげひらのきやうも最後の知識とおぼし、戒をも持ち給けり。

重衡関東下向付長光寺事

 三月二日、三位中将さんみのちゆうじやう重衡卿しげひらのきやうをば、土肥次郎実平が手より、梶原平三景時奉請取、宿所に置奉る。
 五日主馬入道盛国もりくに父子五人、九郎義経召捕て誡置、七日板垣三郎兼信、土肥次郎両人、平家追討の為に西国さいこくへ発向す。
 十日本三位中将ほんざんみのちゆうじやう重衡卿しげひらのきやうは、兵衛佐ひやうゑのすけ申請、梶原平三景時に相具して関東へ下向。
 昨日は西海の船の中にして、浮ぬ沈ぬ漕れしに、今日は初めて東路に、駒を早めて明し暮さん事、されば是は如何なりける宿報の拙さぞとおぼすぞ悲き。
 御子の一人もおはしまさぬ事を恨給しかば、母二位殿にゐどのも本意なき事におぼし、北方大納言佐殿だいなごんのすけどのも不なのめならず歎給たまひて、神に祈り仏に申給しに、賢くぞ子のなかりける、子あらましかば、いかばかり心苦しからましと宣ふぞ責の事と覚えて哀なる。
 既すでに都を出給、三条を東へ賀茂川、白川打越て、粟田口、松坂、四宮河原を通には、延喜第四の皇子蝉丸の、藁屋の床に捨られて、琵琶の秘曲を弾じ給しに、博雅三位三年まで、よな/\ごとに通つゝ、秘曲を伝たりけんも、思ぞ出給ける。
 東路や袖くらべ、行も帰も別てや、知も知ぬも会坂の、今日は関をぞ通られける。
 大津浦、打出宿、粟津原を通るに、心すごくぞおぼされける。
 左は湖水、波浄くして一葉いちえふの船を浮べ、右は長山遥はるかに連りて影緑の色を含めり。
 三月十日余あまりの事なれば、春も既すでに晩なんとす。
 遠山の花色、残雪かと疑れ、越路に帰る雁金、雲井に名のる音すごし。
 さらぬだに習に霞春の空、落涙に掻暮て、行さきも不見けり。
 駒に任て鞭を打、道すがら思ひ残さる事ぞなき。
 帰雁歌霞、遊魚戯浪、雲雀沖野、林鶯囀籬、禽獣猶春楽に遇共、我身独は秋の愁に沈めりと、目に見耳にふるゝ事、哀も催思を傷しめずと云事なし。
 さこそは歎きも深かりけめ。
 勢多唐橋野路宿、篠原堤、鳴橋、霞に陰る鏡山、麓の宿に著給ふ。
 明ぬれば馬淵の里を打過て、長光寺に参て、本尊の御前に暫念誦し給へり。
 此寺は武川綱が草創、上宮王の建立こんりふ也。
 千手大悲者の常住の精舎、二十八部衆擁護の寺院として、法華転読の声幽に、瑜伽ゆが振鈴しんれいの音澄り。
 中将寺僧に硯を召寄て、柱に名籍を書給。
 正三位行左近衛権中将平朝臣重衡とぞ被注たる。
 今の世までも其銘幽残れり。
 後世を祈給けるやらん覚束おぼつかなし。
 抑長光寺と云は武作寺の事也。
 昔聖徳太子しやうとくたいし、近江国蒲生郡、老蘇杜に御座おはしましけるに、太子の后高橋の妃、御産の気ありて十余日まで難産し給ければ、太子妃に語て曰、汝偏ひとへに新道をのみ信じて未仏法ぶつぽふを不仰、胎内の小児は必聖人なるべし、汝が身は不浄也、早く精進潔斎し、清浄の衣を著して仏力を憑まば、自平産せんとのべ給。
 妃曰、妾君を仰事日月星宿に相同じ、不正命、我産賀して如在ならば、君と仏法ぶつぽふに合力して、伽藍を興隆し群生を可済度、但仏法ぶつぽふ真あらば、威力を示給へと誓給ふ時、老蘇宮の西南の方より、金色の光照し来て、后の口中に入ければ、王子平産あり。
 異香殿中に匂て栴檀沈水の如くなり。
 妃瑞相に驚、武川綱に仰て光の源をみせらる。
 命を承つて尋行て是を見れば、西南に去事三十さんじふ余町よちやうを阻て、一山の麓に方三尺の石あり、青黄赤白紫の五色にて、眼を合するに目まぎれせり。
 傍に八尺余あまりの香薫の木あり、匂人間に類なし。
 此由妃に奏すれば、妃又太子に奏せらる。
 太子宣て曰、石は補陀洛山にしては宝石と名、或は金剛石と云。
 大唐には瑪瑙と名たり。
 木は是白檀なり、天竺には栴檀と云。
 海中に入ては沈香共号せり。
 何れも人物に不用、早く以白檀仏を造、彼石の上に安置せよ、彼所は転妙法輪の跡、仏法ぶつぽふ長久の砌みぎり也と。
 妃大に随喜して、武に仰て彼木石の上にして、仮初に三間の堂を造覆給けり。
 武が作れる寺なれば、武作寺と云けるを、法興元世二十一年、〈 壬子 〉二月十八日じふはちにち、太子と妃と相共に、彼寺に御幸して、手自地を引柱を列ね、金堂法堂鐘楼僧堂を建闊、太子自彼以白檀后高橋妃の等身に千手の像を造て宝石の上に安置し、法華、維摩、勝鬘等の三部の大乗を籠られつゝ、武作寺を改て長光寺と定らる。
 異光遠より照来て、妃口中に入しかば是を寺号とし給へり。
 来詣参入之類、花散し合掌之輩、普現には千幸万福に楽て、当には補陀洛山に生んと誓ひ給へる寺也けり。
 上宮建立こんりふの聖跡、千手大悲の霊像に御座おはしませば、重衡も武士に暇を乞ひ給、暫念珠せられけり。
 其後寺を出給、平の小森を見給ふにも、杉の木立の翠の色、羨くぞおぼしける。
 鶉啼なる真野の入江を左になし、まだ消やらぬ残の雪、比良の高峯を北にして、伊吹がすそを打過つゝ、心を留めんとには無れ共、荒て中々やさしきは、不破の関屋の板庇、如何に鳴海の塩干潟、涙に袖ぞ絞ける。
 在原業平が、きつゝ馴つゝと詠ける三川国八橋にも著しかば、蛛手に物をや思らん。
 浜名の橋を過行ば、又越べしと思はねど、小夜中山も打過、宇津山辺の蔦の道、清見が関を過ぬれば、富士のすそ野にも著にけり。
 左には松山峨々と聳て松吹風蕭々たり。
 右には海上漫々と遥はるかにして岸打浪瀝々たり。
 浮島原を過給へば、是や此、恋せば痩ぬべしと歌給たまひし足柄関をば余所に見て、同おなじき二十三日には、伊豆いづの国府にぞ著給ふ。

頼朝よりとも重衡対面事

 兵衛佐殿ひやうゑのすけどの、折節をりふし伊豆奥野の焼狩とて、狩場に御座おはしましけり。
 此由角と申たりければ、北条へ奉入と也。
 翌の日は北条へ奉具、其そのは浄衣をきせ奉て、以白帯左右手をしたゝかに奉誡。
 中将うち涙ぐみ、罪深き罪人の冥途へ趣くにこそ白き物著て閻魔庁へは望むと聞、それに少も違はぬ重衡が有様ありさま哉と、心細くぞ思はれける。
 北条へ入給たりければ、一法房を使にて、是まで御下向、返々難有覚え侍り、此間焼山狩仕て、狩場の灰など懸りて見苦く候へば、静に可見参と宣棄て、鎌倉へ入給けり。
 二十五日に梶原平三、三位中将さんみのちゆうじやう相具、同二十六日にじふろくにちに鎌倉へぞ入にける。
 二十七日に兵衛佐ひやうゑのすけと、三位中将さんみのちゆうじやうと対面有べきの由披露あり。
 大名小名門前成市。
 其そのに成ければ、三位中将さんみのちゆうじやう相具し奉て、兵衛佐ひやうゑのすけの宿所へ参。
 佐殿の屋形やかた新く造て、未門をば不立、四方に築地つき、三方は覆したりけれ共、今一方せざりけり。
 寝殿に引つゞきて、内侍に九間、外侍七間、十六間にしつらはれたり。
 内侍の上十二間を拵へ、中に障子を立切、六間づつにしつらひ、上の六間に高麗縁の畳を敷、三位中将さんみのちゆうじやうを奉居、内には国々の長大名並居たり。
 外侍には若侍其数来集れり。
 内外の侍を見給へば、古平家に仕て重恩深き者も多くあり。
 瀝々としたる所に只一人ぞ座しける。
 良久有て白き直垂著たる法師来、三位中将さんみのちゆうじやうの向ておはする御簾を半ばに揚、錦の縁刺たる畳押直して返にけり。
 法昌寛是也。
 良ありて兵衛佐ひやうゑのすけ、渋塗の立烏帽子たてえぼしに白直垂著して、寝殿に出て著座。
 空色の扇披仕て、梶原平三景時を使にて、三位中将殿さんみのちゆうじやうどのに被申けるは、頼朝よりとも、故入道殿にふだうどのの御恩山よりも高く海よりも深く罷蒙て候へば、御一門の事露疎ならね共、朝敵とて追討の院宣を下さるゝ上は、私ならねば力及ず、加様に思よらぬ世の習にて候へば、何様にも屋島の大臣殿の見参にも入ぬとこそ覚て、加様に申ばとて御意趣有べきに非ず候へ、なほ/\是までの御下向、不思寄有悦入て候と申べきと宣ふ。
 梶原、三位中将さんみのちゆうじやうの前に跪て申さんとしければ、何条申継とや思はれけん、一門運尽て都を落し上は、西国さいこくにて如何にも成べき身の、是まで下向思よらざりき、実に故入道の芳恩思忘給はずば、今一両日の内に兵に仰て、被頭事いと安事に侍り、但事の心を案ずるに、殷紂は夏台に囚れ、文王はゆうりに囚ると云文あり、上古猶如此、況末代をや、王者又難遁、況凡夫をや。
 就なかんづく我朝には、源平両家昔より午角の将軍として、奉護帝位互に狼藉を誡き、而重衡一谷いちのたににして、討にも非遁るにも非、誤つて虜れて再故郷に還て憂名流し、今此恥を蒙る、昨日は人の上、今日は我に懸れり、雖身恥、弓矢取の敵に虜るゝ事非先例、これ先世の宿業也、又怨憎の果ぬ処也、只御芳恩には急頸を可召と宣のたまひければ、大名小名皆涙をぞ流ける。
 景時又佐殿に申さんとしければ、佐殿よしや皆聞つるぞ、昌寛参れと被召たり。
 一法来り畏る。
 宗茂召て参れと宣のたまひければ、狩野介召れて参。
 四十計なる男の小鬚なるが、浅黄の直垂著て前に進む。
 やゝ宗茂、三位中将殿さんみのちゆうじやうどの入、よく/\なぐさめ進せよ、疎にあたり奉て頼朝よりとも恨な、南都の衆徒も申旨有とて入給ぬ。
 宗茂武具したる者五十人ばかり具し来て、中将を中に取籠我屋形やかたへ入奉て守護しけり。
 重衡卿しげひらのきやう、一谷いちのたににては庄四郎に虜れ、都へ上るには九郎義経に被具、京中にては土肥次郎に被守護、関東下向の時は梶原に被渡、今は狩野介預らる。
 譬へば娑婆世界の罪人の冥途中有の旅にして、七日々々に十王の手に渡さるらんも角やと思知れたり。

重衡酒宴付千寿伊王事

 〔同〕晦日比ごろに成て、狩野介湯殿尋常にこしらへて、御湯ひき給へと申す。
 中将嬉事かな、道の程疲て見苦かりつるに、身浄めん事の嬉しさよ、但今日は身を清め、明日はきらんずるにやと心細くぞ思はれける。
 一日湯ひき給ふ程に、昼程に及て、二十計かと見ゆる女の、目結の帷に白き裳著たりけるが、湯殿の戸少し開て、無左右内へも不入。
 中将如何なる人ぞと問給ふ。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのより御垢に参れと仰つる也と聞しは、有べくも侍らずと被仰けるに、狩野介湯の奉行して候けるが、兎角の事な申されそ、はや参給へと聞ければ、女湯殿の内に入、湯とり水取などしてひかせ奉。
 晩程に十四五計なる美女の、地白の帷に染付の裳著たりけるが、金物打たる楾に、新き櫛取具して、髪に水懸洗梳なんどして上奉る。
 休所に入奉て、暫有て此女、何事も思召おぼしめさん事をば無御憚承べしといへば、中将宣のたまひけるは、指て可申事なし、只此髪のそり度計也と。
 彼女佐殿に角と申ければ、私の宿意計ならば安事なれ共、朝敵とて下向し給たる人を、私に出家を赦す事難叶、南都の大衆も申旨のある者をと宣へば、女此由角と申せば、中将打頷許て又も物宣はず、其夜に入て、佐殿狩野介を召て、三位中将さんみのちゆうじやうは無双の能者にて座します也、和君が私なる様にて琵琶弾せ奉れ、頼朝よりともも汝が後園にたゝずみて聞べしと宣のたまひけり。
 宗茂宿所に帰て、時の景物尋て、奉酒勧と支度したり。
 酌取には昼の女を出して、狩野介瓶子懐き、家子侍肴盃面々に持て参たり。
 中将酒三度うけて、最無興に思はれたり。
 狩野介女に向て、兎ても角ても御前御徒然を慰進せん料也、一声挙て今一度申させ給へと云ければ、女兼て心得こころえたる事なれば、酌さしおきて、
  羅綺之為重衣情於機婦 管絃之在長曲をへ於伶人
と云朗詠を二三返したりけるが、節も音こゑも調て、大方優にぞ聞えける。
 中将宣のたまひけるは、折節をりふしの朗詠こそ思合て痛はしけれ。
 此句は北野天神の、春嫩無気力と云ふ事を、内宴序にあそばせり。
 譬へば春嫩とはみめよき女也、無気力とは力の弱き也、上句に羅綺とて、薄く厳き衣を著して、美女の舞時には軽き衣も重く覚、これは機婦に妬とて、機織けん女もうらめしく覚え、下句に管絃をさしも面白けれ共、舞姫の舞弱りて力なければ、速に入ばやと思へ共、長曲を弾ずる時、伶人に怒るとて、管絃する人も悪覚ゆと云心也。
 されば永日ながら湯ひかせ、夜さへ又長々と酒勧る事よとおぼして、此朗詠をばし給ふか、誠に心元なくこそ覚れ、湯も酒も我心よりおこらね共、折から優に聞ゆる者哉、但天神此句をあそばして、我ながらいみじくも作りたり。
 此句を詠ぜん所には、必我魂行望て、其人を守らんと御誓ありけり。
 重衡は逆罪の身にて、神明にも仏陀にも奉放たれば、其助音仕るに憚あり、仏道成べき事あらば、さも有なんと宣のたまひければ、女承りて、
  十方仏土中以西方望、九品蓮台間雖下品足、雖十悪兮猶引接、
  甚
疾風之披雲霧、雖一念兮必感、応之巨海之納涓路
とて朗詠して、
  極楽欣はん人は、皆弥陀の名号唱ふべし、阿弥陀仏あみだぶつ々々々々あみだぶつ、南無なむ阿弥陀仏あみだぶつ、阿弥陀仏あみだぶつ阿弥陀仏あみだぶつ、大悲阿弥陀仏あみだぶつ
と云ふ今様四五返うたひけるにぞ、中将助音し給ける。
 其後三度うけて女に賜ふ。
 女給たまひて宗茂に譲る。
 親き者共五六人取渡て止ぬ。
 纐纈の袋に入たる琵琶一面、錦の袋に入たる琴一挺、女の前に置たり。
 中将琵琶を取寄見給ふ。
 女柱立て弾たりけり。
 中将宣のたまひけるは、只今ただいまあそばす楽をば五章楽とこそ申習はして侍れども、重衡が耳には後生楽とこそ聞侍れ、往生の急つげんとて、てんじゆねぢつつ、妙音院殿の口伝の御弟子にて御座おはしませば、皇障の急、撥音気高く弾らる。
 楽二三反弾じ給たまひて、同は一声と勧め給へば、女承はつて、一樹の陰に宿り一河の流を汲人も、先世の宿縁也と云。
 契の白拍子を、一時かすへ澄したりけるが、夜は深更になりぬ、人は鳴を静たりければ、徐までも耳目を驚し、袂たもとを絞計也。
 懸りければ、人々是を見奉らんとて、障子を細目にあけたる間より、風吹入て前の燈消にけり。
 狩野介、星燈参せよと申けるに、中将爪調べして、
  燈暗数行虞氏涙 夜深四面楚歌声
と云朗詠を二三反し給けり。
 夜明にければ女暇給たまひて帰ぬ。
 中将人を召て、夜部の女は如何なる者ぞと尋給ければ、白川宿長者の娘、千手前とて今年二十に罷成、当時は鎌倉殿かまくらどののきり人にて、御気色おんきしよくよき女房也とぞ申ける。
 さて召具したりつる美女はいかにと問給へば、猶子にて侍とぞ答ける。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのは、斎院次官親義を招て、中将の朗詠に、燈闇うしては数行虞氏涙と云つるは、如何成心ぞと問給。
 親義申けるは、此は史記項羽本紀文也、項羽と云し人は天下に並なき兵、身の長八尺鼎を挙けり。
 漢高祖と天下を諍事九箇年、相戦事七十一度、毎度項羽勝けるに、漢大将軍に韓信と云者の謀を以、項羽を囲て既すでに難遁かりければ、楚国の軍敗て落去ければ、漢の兵楚の陣に入て、漢旗を立て楚国の歌をうたひければ、我兵も皆敵に随にけりと悲みて、騅と云第一の馬に乗て出んとするに、馬身を振て出ず、駅と云第二の馬に乗て出けるに、項羽が妻の虞氏、夫の別を惜て泣ければ、項羽歌つて云、力抜山威は覆天、天不福騅何、天不福虞氏何んと歌て、終に別て失にけり。
 燈の闇き下にして、虞氏別を惜て数行の涙を流しかば、燈暗数行虞氏涙とは申也。
 大国法には、軍に勝ぬれば必悦の歌をうたふ。
 譬ば我朝に、軍に勝て悦の時を造る是也。
 項羽軍に負て、夜深耳を側てて聞ば、敵打入て四方に楚の歌をうたひて心細かりければ、夜深四面楚歌声とは申て侍る、其様に暁かけて燈消、千手の前も帰らんずれば、さすが遺の惜くおぼすにこそ、虞氏は夫の別れを悲み、中将は女の好を慕ふかと覚たり、偖も朗詠し歌を謡ふも、敵の中より慰る音なれば、心細思はれつゝ、燈の消たる折節をりふしに、此朗詠を思出給ふにこそとぞ釈しける。
 さて楽はいかにと問給へば、親義申けるは、廻骨と云楽にて候、文字には骨を廻すと書り、大国には死人を野外へ葬送するには、必斯楽を弾と承る、朗詠の様、楽の弾様、遂に我死せん事を思兼て、此楽をひき給ふにと哀に候とて、涙を流しければ、佐殿も中将の琵琶をひき朗詠し、千手が琴を弾歌をうたひたりしよりも、親義一々に釈し申たりければ、哀に思給たまひて同袖を絞給。
 やゝ有て兵衛佐ひやうゑのすけは千手に向ひて、さても頼朝よりともが媒こそしすまして覚ゆれと被仰ければ、女顔打赤めて、全く情を懸給事侍らずと申。
 年来只千手をば正直者ぞと思たれば、真ならぬ時も有けるや、争か御前にて可偽申、さて汝誓言してんやと宣へば、御赦し候はば安く候と申。
 其時佐殿顔けしき悪ざまに成つて、是までは仰らるまじけれ共、汝をやるは中将を慰ん為也、中将争か汝に情を懸ざらん、争か悪きに、さらば誓言仕と仰す。
 女涙を流つゝ、若中将に召ながら、御前にて偽り言申侍らば、近くは江柄足柄伊豆箱根より奉始、日の下に住し給諸の神のにくまれを蒙らんとぞ申たる。
 佐殿手をはたと打て、頼朝よりともが心には、並は有とも勝はあらじと思たる千手を、中将に嫌れたるこそ無念なれ、吾内に女のなきに似たりとて、平六兵衛が姪女に伊王前とて歳二十に成りけるが、みめ形たらひ、遊者ならねば、今様朗詠こそせざれ共、琵琶琴の上手にて、歌連歌よろづ情ありける女也。
 はなやかに出立て、結四手と云美女相具して中将へ被進、敵ながらも頼朝よりともは、都なれてやさしき女を余多あまた持たりけり、又情深くも振舞たりとおぼしければ、終夜よもすがら優におかしき御物語おんものがたりは有けれ共、是にも心は移されず。
 夜も明にければ女暇申て帰けり。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどの待得て、よにも心元なく覚て、いかに伊王と尋給ふ。
 是も奉嫌たりと申せば、偽かと被仰。
 誠にと申ければ、佐殿、是きけ人共、中将は院内の御気色おんきしよくも人に勝れ、父母にも覚えの子、上下万人に重く思はれけるは理也、三十の内外の人の千手と伊王とを見て、争か打解る心なかるべき、去共只今ただいま敵の前に思入たる気色なく、其道あらじと思ける、武くもやさしくもおはしけり、去ばとて寂しめ奉べからず、二人毎夜に参べけれ共、出立も煩あり、是におはせん程は、夜まぜに参りて宮仕せよ、努々疎に仕べからずと仰られければ、千手は榊葉と云美女を具し、伊王は結四手と云美女を共にて、今年の卯月の一日より、明る年の六月上旬迄、打替打替参つゝ、御宮仕ぞ申し〔け〕る。
 偖も中将南都に被渡て斬れ給にしかば、二人の者共さしつどひて臥沈てぞ歎ける。
 由なき人に奉馴、憂目を見聞悲さよ、中将岩木を結ばぬ身なれば、などか我等われらに靡心もなかるべきなれ共、加様に成給べき身にて、人にも思をつけじ、我も物を思はじと、心強御座おはしましける事の糸惜さよとて、共に袖をぞ絞りける。
 何事も先の世の事と聞ば、思残すべき事はなけれども、後世弔ふべき一人の子のなき事こそ悲けれと被仰し者をとて、二人相共に佐殿に参て、故三位中将殿さんみのちゆうじやうどのに去年より奉相馴、其面影忘奉らず、後世を助べき者なしと歎き仰候き、見参に入侍けるも可然事にこそ候なれば、暇を給り様を替て、菩提を助奉らんと申けれども、其赦しなければ、尼にはならざりけれ共、戒を持ち念仏唱へて、常は奉弔けり。
 中将第三年の遠忌に当けるには、強て暇を申つゝ、千手二十三、伊王二十二、緑の髪を落し、墨の衣に裁替て、一所に庵室を結び、九品に往生を祈けり。
 中将は狩野介に被具て、且く伊豆におはしけり。

維盛出屋島詣高野付粉川寺謁法然房

 権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう維盛は、故郷は雲井の余所に成果て、思を妻子に残しつゝ、人なみ/\に西国さいこくへ落下給たりけれども、晴ぬ歎きにむすぼほれ、其身は屋島に在ながら、心は都へ通ひけり。
 三月十五日に、与三兵衛尉重景、石童丸と云童、船に心得こころえたる者とて武里と申舎人、此三人を具し給、忍つゝ屋島館を出て、阿波国由木浦にぞ著給ふ。
 心憂き浪路の旅と云ながら、今までも一門の人々に相具して明し晩しつるに、今日を最後と思召おぼしめしければ、御余波惜くて、あまの篷屋の柱に、
  折々はしらぬ浦路のもしほ草書置跡を形見共見よ
 重景御返事おんへんじ申けり。
  我恋は空ふく風にさも似たりかたぶく月に移ると思へば
 石童丸、大臣殿御事を思出し給らんと思奉りて、
  玉鉾や旅行道のゆかれぬはうしろにかみの留ると思へば
 さても御舟に乗移り給、音に聞阿波の鳴戸沖を漕渡り、紀伊の路をさして楫を取。
 比は三月十日余あまりの事なれば、尾上に懸る白雲は、残の雪かと疑れ、礒吹風に立波は、旅の袖をぞ濡しける。
 きやうけいのうかれ声おしあけ方に成しかば、八重立霞のひまより、御船汀みぎはに押寄たり。
 爰ここはいとこなるらんと尋給へば、名にしおふ紀伊国和歌浦とぞ聞給。
 夫より吹上の浦を過給けるに、一門を離兄弟にも知れねば、一は恨に似たれ共、かゝらざらましかば、係名所をば争か可見と聊慰給けり。
 彼和歌浦と申は、衣通姫卜居、山の岩松礒打波、沖の釣船月の影、しらゝの浜の真砂に、吹上の浦の浜千鳥、日前国懸の古木の森、面白かりける名所哉。
 されば衣通姫、玉津島姫明神と彰て此所に住給へり、理也とぞ思召おぼしめし、由良の湊と云所に舟をつけ、是より下り給へり。
 山伝に都へ上て、恋き人共をも今一度見ばやと思けるが、御様おんさまを窄給へ共、猶尋常の人にはまがふべくもなし。
 本三位中将ほんざんみのちゆうじやうの虜られて、京田舎恥を曝すだに心憂に、我さへ憂名を流さんも口惜く思はれければ、千度心は進けれ共、心に心をからかひて、泣々なくなく高野へ参給ふ。
 思召おぼしめし出事ありければ、此次に粉川寺へぞ被参ける。
 此寺は大伴小手と云し人、我朝の補陀落是也とて、甍を結べる所也。
 去治承の比、小松殿こまつどの熊野参詣の次に、彼寺に参給たりけるに、書置給へる打札あり。
 今一度父の手跡を見給はんと思出給けり。
 彼札を御覧ずれば、落涙に墨消て、文字の貌は見えね共、重盛しげもりと云字計は彫りて墨を入たれば、有しながらに替らねば、泣々なくなく之をぞ見給ける。
 手跡は千代の形見也と云置けることのはも、げに哀にぞ思召おぼしめす
 御堂に入、観音の御前に念誦して御座おはしましけるに、僧一人来て共に念誦して有けるが、あやしげに見奉て、是はいとこより御参ぞと問。
 京の方よりと答給へば、法然上人の入給へるを聞召きこしめして御参りかと云。
 三位中将さんみのちゆうじやうは其事兼て不知、何事に入寺し給へるぞと返し問給へば、此間念仏法門ほふもんの談議也と申て、細かに問答して立ぬ。
 中将は与三兵衛を招て、態も都に上、法然房に奉逢、後世の事をも尋聞べきにこそあれ共、道狭き身なれば力なし、上人たま/\此寺におはす也、憚あれ共、見参し奉ん事いかゞ有べきと宣へば、重景畏つて、何の御慎おんつつしみか候べき、上人をば生身の仏と承、然べき善知識にこそ、後世菩提の御為に御聴聞あらん折節をりふし、たとひ災害にあはせ給ふとても、痛み思召おぼしめすべからず、闘諍合戦の場にして、身を失て修羅の悪所にも生候なるぞかし、況聞法随喜の窓にして、命を亡す事あらば、弥陀の浄刹に往生せんと可思召おぼしめさるべしなど小賢申ければ、可然とて、夜に入て重景を御使にて、法然上人へ申されけるは、維盛高野参詣之志有て、屋島を忍出て是まで罷伝て侍るが、折節をりふし然事と存候、出離の法門ほふもん一句承らばやと仰られけり。
 上人哀におぼして、軈三位中将さんみのちゆうじやうを奉請入、見参し給たまひて、いかにや/\難有こそ思奉れ、都を出給たまひて後、人々此彼にて亡給ふと承るに付ては、御身如何成給ぬらんと心苦く思奉るに、奉入再見参御事、哀に悦入侍り、偖もさしもの世の乱の中に、遥々はるばると高野参詣の御志目出くも思召おぼしめし立ける御事哉とて泣給ふ。
 中将宣のたまひけるは、家門の栄花既身に極て、先帝を始進せて、一族悉ことごとく西海に落下りし上は、人なみ/\にあくがれ出て候ぬ、憂き事も多かりし中に、難波潟一谷いちのたににて卿相けいしやう雲客うんかく数亡ぬ、適被討残たる者もある空も侍らず、夜は終夜よもすがら今や水底に沈むと歎、昼は終日に今や敵に失るゝと悲む、兎にも角にも閑心なし、されば遂に遁まじきもの故に、貴き結戒の地と承はれば、高野に参て出家をもして、其後如何にもならばやと思事侍て、屋島を出て是まで伝つゝ、奉見こそ嬉しけれとて、其夜は庵室に留給、泣口説物語ものがたりし給けるが、暁方に、維盛少より身を放たず、日所作に奉読御経御座おはします、水の底にも沈まん時は、同沈め奉らん事罪深く覚え候、若世になき身と聞給はん時は、思出して後世弔給へと宣て是を奉渡。
 上人請取給たまひて、縦是なし共争か可忘なれ共、角思召おぼしめし入て承れば、披見ん折々は可必弔とて拝奉ば、四半の小双紙に、金泥に書たる小字の法華経ほけきやう也、最哀にぞ思ける。
 三位中将さんみのちゆうじやうは、今日は留て遺をも惜度侍れ共、維盛をば平家の嫡々とて、頼朝よりともことに可相尋と披露あり。
 人口も恐ろし、戒を持暇申ばやと宣へば、上人は此間説戒の程、御聴聞もあれかしと存れ共、御急と承れば可戒とて、円頓無作の大戒、梵網の十重禁をぞ説給ふ。
 上人結して曰、塔中の釈迦は此法を説て、仏位を十界の衆生に授、台上の舎那は此戒を受て、正覚を花蔵世界に唱ふ。
 法華一実の妙戒は、能持の一言に戒珠をむねの間に研、合掌の十指に十界を実際に安じ、衆生正覚の直道、即身成仏じやうぶつの要路也、是則薄地底下の凡夫の、一毫の善なき者の罪悪、生死の衆生の出離の期なき輩、修行覚道に不入ども、速に仏果を成ずる計と此戒に如くはなし、依これによつて梵網経に曰、一切有心者、皆応摂仏戒、衆生受仏戒、即入諸仏位、位同大覚已、真是諸仏子、一度受此戒者、入諸仏位同大覚位と説給へば、誠難有功徳也。
 戒師戒を授るは、授戒灌頂くわんぢやうとて、仏前智水を後仏に授る意なれば、此戒を受るは即身に正覚を唱ふる也。
 故に此戒をば、一得永不失の戒とて、一度受て後、永失事なしとぞ宣のたまひける。
 中将も聴衆も、皆随喜の涙を流けり。
 其後念仏の法門ほふもん、弥陀の本願こま/゛\と説給、様々被教化ければ、維盛然べき善知識と嬉くて、泣々なくなく庵室を出給けるが、契あらば後生には必参会と宣て、夫より高野へ参給ふ。
 上人も哀に思給、遥はるかに見送奉り、衣の袖を濡し給へば、見る人袂たもとを絞りけり。
 三位中将さんみのちゆうじやうは高野山に参つゝ、人々をぞ尋給ける。

時頼横笛事

 三条斎藤左衛門大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼入道と云者也。
 彼時頼は小松大臣殿に候けるが、高倉院たかくらのゐん御位の時、建礼門院けんれいもんゐん后宮にて渡らせ給けるに、二人の半物有、横笛、刈萱とぞ云ける。
 共にみめ形類なく、心の色も情あり。
 刈萱をば越中前司盛俊相具しけり。
 横笛と云は、本は神崎かんざきの遊君、長者の娘也。
 大方も無双の能者、今様朗詠は、所の風俗なれば云に及ず、琴琵琶の上手、歌道の方にも勝たり。
 太政だいじやう入道にふだう、福原下向之時召具たりけるを、女院未中宮にて渡らせ給けるとき被進たり。
 小松内府如何覚けん、横笛と名を付られたり。
 時頼人しれぬ見参して、白地と思けれ共、松蘿の契色深、蘭菊の情匂細やかにして、志切にして思ける。
 父此事を聞て滝口を呼つゝ、横笛は当時殿上の官女也、それに汝が契を結通ふと云事、世に普く披露あり、此事若達上聞珍事出来りなん、加様に尾籠ならんを、其親として不教訓之条奇怪也と被仰下ば、身に取て一期の大事、可面目、其上憑しき人の聟に成て世に立べき振舞も有べし、加様の独人を相憑ては、遂にいかなるべきぞ、由なき事也と様々云けれども、可然先世の契にや、つゆ難忘かりければ、父母の諌にもかゝはらず、いとゞ志浅からず通ければ、父茂頼重て時頼を呼向へて様々教訓して、所詮不親命者不孝也と云ければ、仰畏て、承候ぬと申て父が前を立、常に住ける所に立入て、安然として思けるは、穴あぢきなの事共や、程なき此世に住ひつゝ、心に任ぬ悲さよ、縦長命を保とも、七八十にはよも過じ、若又栄花に誇とも、二十年をば不出、夢幻の世中に、楽ければとて悪からん女に相具せん事心憂し、同僚傍官が欲にふけると笑はん事も最恥し、但是程の父の教訓し給事を不用ば逆罪也、不孝父母当堕悪道と云故に、さても終りなば地獄に入べし、親の命に随、女の心を違へば永き世の恨あり、懸念無量劫と云故に、兎にも角にも世にあらば、悪縁也不孝也、不如奇恩入無為は、真実報恩の者といへり。
 然べき善知識にこそと思きり、生年十八の歳菩提心を発しつゝ、嵯峨さがの奥の法輪寺にして出家し、法名阿浄と名を付て行澄て居たりけり。
 深く契し中なれ共、時頼角共云ざれば、横笛つゆも知ざりけり。
 日比ひごろ月比経けれ共、夫も見えず音信おとづれもなし。
 只仮初の契かや、移れば替る心かと、独思に焦れけり。
 縦我許へこそ不通とも、本所の衆にて侍に、出仕の止るべき事はなしと、昼は終日に思くらし、夜は八声の鳥と鳴明す。
 心は日々ひびに駿河なる、不尽の高峯と焦るれども、煙たたねば人とはず。
 さりとて人に知れねば、語りて慰方もなし。
 呉竹の夜ごとに物が思はれて、音のみ泣れて琴の音の、伊勢の国鈴鹿の山の心して、何と成べき我身やらんと、朝夕歎けるこそ哀なれ。
 適ありと聞えつゝ、我故様を替けん事の無慙さよ、背世深き山に籠共、などかは角と知せざる、夜かれ日枯をだにも歎しに、絶ぬる中こそ悲けれ。
 人こそ心強く共、尋て恨んと思ければ、忍て内裏を紛れ出て、法輪寺へぞ尋行。
 暮行秋の習とて、道芝の露深ければ、夜寒に成ぬ旅衣、重し妻こそ恋しけれ。
 十市の里の砧の音、よわり終ぬる虫の声、一方ならぬ哀さも、誰ゆゑにとぞ悲みける。
 都をば月と共に出たれども、まだ踏なれぬ道なれば、涙に曇る夜の空、此彼にぞ迷ける。
 つゞきの里もおともせず、人を咎むる里の犬、声澄程に成てこそ、法輪寺には入にけれ。
 此寺とは聞たれども、住らん坊は不知けり。
 女其夜は御堂に詣、仏の御前に通夜しつゝ、南無なむ帰命頂礼きみやうちやうらい大聖虚空蔵菩薩、あかで別し滝口に、今一度と心中に祈念して、礼拝をぞ奉ける。
 人の心を尽しつゝ、我も思にこがるとぞ、思合て悲みける。
 五更ごかうの鐘も鳴ければ、さすが人目もいぶせくて、空く帰ける程に、責ては其庵室共知ばやとて、此彼やすらひけり。
 住荒したる僧坊の、流石さすがよしある門の中に、法華経ほけきやうの提婆品をよむ声しけり。
 いと奇く立聞ば、若有善男子善女人、聞妙法華経ほけきやう提婆達多品、浄心信敬不生疑、或者不堕地獄、餓鬼畜生、生十方仏前、所生之処、常聞此経若生人天中、受勝妙楽、若在仏前、蓮華化生と読止て声を揚て、戯呼三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別と云華巌経の文をくり返/\二三返をぞ唱へたる。
 聞ば尋る滝口入道が声也けり。
 思か呼声はきこゆ〔る〕なるためしも誠なる心地して、暫是を立聞ば、滝口入道申けるは、我親世に有しかば、何不足とも思はざりしか共、横笛がことに心に叶はぬ憂世うきよの中も思知れて、様をかへ角行て候へば、悲き女は還て菩提の善知識と覚えたり、人は心弱ては仏道は遂まじきにて有けるぞ、後生はさり共助りなんものをなんとぞ口説たる。
 横笛慥に是を聞得つゝ、軒近く立寄て、竹の編戸を扣けり。
 内より誰と問ければ横笛とぞ答ける。
 滝口入道是を聞、誠ならぬ事哉とむね打騒、障子の間より是を見れば、実に横笛にぞ有ける。
 色々の小袖に薄衣引纏ひ、そやうの耳踏きりて、袖は涙、すそは露にぞしをれたる。
 通夜尋侘たるけしきは、竪固の道心者も心弱くぞ覚えける。
 無慙やな誰これにとは教へけん、何とて是まで来りけん、出て物語ものがたりをもせばや、見えて心をも慰ばやと思ひけれ共、主の見るも恥しく、云つる言も験なく、さては仏道成なんやと思切。
 人を出して、是には去事候はず、人違へにておはするか、滝口とは誰人ぞと、事外に云ければ、横笛しひて申様、げに入道の声のし給たまひつる者をや、様をこそ替給はんからに、心さへ強面なり給けるうらめしさよ、させる妨に成まじ、我故に貌をやつし給へると承れば、今一度墨染の姿をも奉見、又便あらば自も苔の袂たもとに裁替て、花を求め香を焼、共に後生を助らんと思てこそ遥遥はるばる尋参たれ、其まで誠に不叶ば、只出給たまひて今一度見え給へと云ければ、入道千度百度出ばやと思へ共、云つる事も恥しく、出て由なき事もやと思つゝ、遂に隠て不逢けり。
 比は十月中の六日の事なれば、嵐に伴ふ暁の鐘、今夜も明ぬと打響、月に耀紅葉葉も、幾重軒端に積るらん、落る涙に時雨つつ、横笛袖をぞ絞ける。
 適有と聞得つゝ、声をたよりに尋れば、主の僧ははしたなく、なしと答て出さねば、憂身の程もあらはれて、今は人を恨に及ず、さすが明行空なれば、人のためつゝましと思ひつゝ、
  山ふかみ思ひ入ぬる柴の戸の真の道に我をみちびけ
と読棄て、此世の見参は不叶共、朽せぬ契にて、後世には必と、さらば暇申て入道殿にふだうどのとて、女そこより帰にけり。
 時頼入道も、心強は出ねども、悪からぬ中なれば、庵室の隙より後姿を見送りて、忍の袖をぞ絞りける。
 横笛は泣々なくなく都へ帰けるが、つく/゛\物を案じつゝ、如何なる滝口は悲き中を思切、かく心づよく世を背ぞ、如何なる吾なれば、蚫の貝の風情して、難面くながらへて、由なき物を思べきぞと思ければ、桂川の水上、大井川の早瀬、御幸の橋の本に行、潜たりける朽葉色の衣をば柳の朶にぬき懸、思ふ事共書付て同じ枝に結置、歳十七と申に河のみくづと成にけり。
 法輪近き所にて、入道此事を聞河端に趣、水練を語て淵に入、女の死骸を潜上、火葬して骨をば拾ひ頸に懸、山々寺々修行して、此彼にぞ納ける。
 いかにも都近ければこそ懸る憂事をも見聞とて、高野山に登つゝ、奥の院に卒都婆を立て、女の骨を埋つゝ、我身は宝幢院の梨坊にぞ住しける。
 異本には、蓮華谷、小松大臣の建立こんりふと云云。

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