那巻 第二十一
  兵衛佐殿ひやうゑのすけどの臥木附梶原助佐殿

 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのは、土肥杉山を守て、掻分々々落給ふ。
 伴には、土肥次郎実平、北条四郎時政、岡崎四郎義真、土肥弥太郎遠平、懐島平権守景能、藤九郎盛長已下の輩、相随て落給たまひけるを、大場、曽我案内者として、三千さんぜん余騎よきにて追懸たり。
 杉山は分内狭き所にて、忍び隠るべき様なし。
 田代冠者信綱は大将を延さんとて、高木の上に昇て、引取々々散々さんざんに射る。
 敵三千さんぜん余騎よき、田代に被防て左右なく山にも入らざりけり。
 其隙に佐殿は、鵐の岩屋と云谷におり下り見廻せば、七八人しちはちにんが程入ぬべき大なる伏木あり。
 暫く此に休て息をぞ続給たまひける。
 去さるほどに御方の者共多く跡目に付いて来り集る。
 爰ここに佐殿仰けるは、敵は大勢也、而も大場、曽我案内者にて、山蹈して相尋ぬべし、されば大勢悪かりなん、散々ちりぢりに忍び給へ、世にあらば互に尋ねたづぬべしと宣へば、兵者我等われらすでに日本国につぽんごくを敵に受たり、遁べき身に非ず、兎にも角にも一所にこそと各返事申しければ、兵衛佐ひやうゑのすけ重て宣のたまひけるは、軍の習、或は敵を落し或は敵に落さるゝ是定れる事也。
 一度軍を敵に被敗、永く命を失ふ道やはあるべき、爰ここに集り居て、敵にあなづられて命を失はん事、愚なるに非や。
 昔范蠡不会稽之恥、畢復勾践こうせん之讎あだ、曹沫不三敗之辱、已報魯国之羞、此を遁れ出て、大事を成立てたらんこそ兵法には叶ふべけれ。
 いかにも多勢にては不遁得、各心に任て落べし、頼朝よりとも山を出て、安房上総へ越ぬと聞えば、其時急尋来給ふべしと、言を尽て宣へば、道理遁れ難して、各思々にぞ落行ける。
 北条四郎は、甲斐国へぞ越にける。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのに相従て山に籠ける者は、土肥次郎実平、同男遠平、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長也。
 兵衛佐ひやうゑのすけは、軍兵ちり/゛\に成て、臥木の天河に隠れ入にけり。
 其そのの装束には、赤地の錦の直垂に、赤威の鎧著て、伏木の端近く居給へり。
 すそ金物には、銀の蝶の丸をきびしく打たりければ、殊にかゞやきてぞ見えける。
 其中に藤九郎盛長申けるは、盛長承り伝へ侍り。
 昔後朱雀院御宇ぎよう天喜年中に、御先祖伊予守殿、貞任宗任を被責けるに、官兵多く討れて落給たまひけるに、僅わづかに七騎にて山に籠給たまひけり、王事靡塩終に逆賊を亡して四海を靡し給たまひけりと、今日の御有様おんありさま、昔に相違なし、吉例也と申ければ、兵衛佐ひやうゑのすけ憑もしく覚して、八幡大菩薩はちまんだいぼさつをぞ心の内には念じ給たまひけり。
 田代冠者は、矢種既すでにつきぬ。
 佐殿今は遥はるかに落延給たまひぬらんと思ひければ、木より飛下て、跡目に付て落給たまひ、同臥木の天河にぞ入りにける。
 田代佐殿に頬を合せて、いかゞすべきと歎処に、大場曽我俣野梶原三千さんぜん余騎よき山蹈して、木の本萱の中に乱散て尋けれ共不見けり。
 大場伏木の上に登て、弓杖をつき蹈またがりて、正く佐殿は此までおはしつる物を、伏木不審なり、空に入りて捜せ者共と下知しけるに、大場がいとこに平三景時進出て、弓脇にはさみ、太刀に手かけて、伏木の中につと入、佐殿と景時と真向に居向て、互に眼を見合たり。
 佐殿は今は限り、景時が手に懸ぬと覚しければ、急ぎ案じて降をや乞、自害をやすると覚しけるが、いかゞ景時程の者に降をば乞べき、自害と思ひ定めて腰の刀に手をかけ給ふ。
 景時哀に見奉りて、暫く相待給へ、助け奉るべし、軍に勝給たまひたらば公忘れ給な、若又敵の手に懸給たまひたらば、草の陰までも景時が弓矢の冥加と守給へと申も果ねば、蜘蛛の糸さと天河に引たりけり。
 景時不思議と思ひければ、彼蜘蛛の糸を、弓の筈甲の鉢に引懸て、暇申て伏木の口へ出にけり。
 佐殿然るべき事と覚しながら、掌をあはせ、景時が後貌を三度拝して、我世にあらば其恩を忘れじ、縦ひ亡たり共、七代までは守らんとぞ心中に誓はれける。
 後に思へば、景時が為には忝とぞ覚えたる。
 平三伏木の口に立塞りて、弓杖を突申しけるは、此内には蟻螻蛄もなし、蝙蝠は多く騒飛侍り、土肥の真鶴を見遣ば、武者七八騎見えたり、一定佐殿にこそと覚ゆ、あれを追へとぞ下知しける。
 大場見遣て、彼も佐殿にてはおはせず、いかにも伏木の底不審也、斧鉞を取寄て、切破て見べしと云ひけるが、其も時刻を移すべし、よし/\景親入て捜てみんとて、伏木より飛下て、弓脇ばさみ太刀に手かけて、天河の中に入んとしけるを、平三立塞り、太刀に手懸て云けるは、やゝ大場殿、当時平家の御代也、源氏軍に負て落ちぬ、誰人か源氏の大将軍の頸取て、平家の見参に入て、世にあらんと思はぬ者有べきか、御辺ごへんに劣て此伏木を捜すべきか、景時に不審をなしてさがさんと宣はば、我々二心ある者とや、兼て人の隠たらんに、かく甲の鉢弓のはずに、蜘蛛の糸懸べしや、此を猶も不審して思けがされんには、生ても面目なし、誰人にもさがさすまじ、此上に推てさがす人あらば、思切なん景時はと云ければ、大場もさすが不入けるが、猶も心にかゝりて、弓を差入て打振つゝ、からり/\と二三度さぐり廻ければ、佐殿の鎧の袖にぞ当ける。
 深く八幡大菩薩はちまんだいぼさつを祈念し給ける験にや、伏木の中より山鳩二羽飛出て、はた/\と羽打して出たりけるにこそ、佐殿内におはせんには、鳩有まじとは思けれ共、いかにも不審也ければ、斧鉞を取寄て切て見んと云けるに、さしも晴たる大空、俄にはかに黒雲引覆雷おびたゞしく鳴廻て、大雨頻しきりに降ければ、雨やみて後破て見べしとて、杉山を引返けるが、大なる石の有けるを、七八人しちはちにんして倒寄、伏木の口に立塞てぞ帰にける。

聖徳太子しやうとくたいし椋木附天武天皇てんわう榎木事

 昔聖徳太子しやうとくたいしの仏法ぶつぽふを興さんとて、守屋と合戦し給しに、逆軍は大勢也、太子は無勢也ければ、いかにも難叶、大返と云所にて、只一人引へ給けるに、守屋の臣と勝溝連と行会て難遁御座おはしましけるに、道に大なる椋木あり、二つにわれて太子と馬とを木の空に隠し奉り、其木すなはち愈合ひて太子を助け奉、終に守屋を亡して仏法ぶつぽふを興し給たまひけり。
 天武天皇てんわうは大伴王子に被襲て、吉野の奥より山伝して、伊賀伊勢を通り、美濃国に御座おはしましけるに、王子西戎を引率して、不破関まで責給けり。
 天武危くて見え給けるに、傍に大なる榎木あり、二にわれて、天武を天河に奉隠て、後に王子を亡して天武位につき給へり。
 是も然るべき兵衛佐ひやうゑのすけの世に立べき瑞相にて、懸る伏木の空にも隠れけるにやと末憑もし。
 佐殿は三千さんぜん余騎よきが引退たる其隙に、内より石をころばしのけ、伏木を出て小道越と云岩石を上り、土肥の真鶴へ向て落行けり。
 雨やみければ、大場馬を引へて、いかにも伏木おぼつかなし、捜て見んとて押寄見れば、口を塞げる大石をころばしのけて落たる跡あり。
 さればこそ空の中におはしけり、是は梶原平三が計にて落しけり。
 さり共時の間に遠くはよも延給はじ、つゞきて攻よとて、跡目に付て追懸たり。

小道地蔵堂附韋提希夫人事

 〔去さるほどに〕主従八人はちにんの殿は小道の峠向に登て、後を顧れば、敵まぢかく追上る、いかがはすべき、此上は自害すべきかと宣へば、土肥申けるは、物さわがし、事の様見んとて、高所に上て見廻せば、傍に御堂あり、小道の地蔵堂と云寺也。
 八人はちにん堂に入て見れば、上人法師一人あり、仏前に念珠して居たり。
 土肥上人に云様は、是は源氏大将軍に、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのと申人ぞ、石橋の軍破て、敵の為に被追懸、忍べき所やある、可助申、仏壇の中にも隠しおけと申ければ、上人思様、ありがたき事哉、げに聞奉る源氏の大将軍なり、軍に負給はずば、今争かかやうの法師に助けよと手を合せ給ふべき、忝事也、助奉て世に御座おはせば、奉公にこそと思て申けるは、此堂は人里遠して山深ければ、身の用心の為に、仏壇の下に穴を構て、人七八人しちはちにん入ぬべき程に用意せり、暫く忍入て御覧ぜよとて、八人はちにんの殿原を押入つゝ、上に蓋して其上に雑具取ひろげて、我身は仏前に座禅の由にて眠居たり。
 大場大勢引具して、御堂の前まで追懸て、此寺に人やある、只今ただいま落人の通つるは不知や否と、再三問へども答る者なし。
 大場打寄仏前を見れば法師あり。
 いかに人の物を問にいらへはなきぞ、不思議也と責ければ、僧の云、是は三箇年の間四時に坐禅する者也、入定の折節をりふしにて不承と申す。
 重て問ふ、落人の此軒を通つるをば聞ずや、不知やといへば、加様に座禅して侍れば、外声耳に入ず、内心思慮なければ不聞不知と云。
 景親大に嗔て、争かしらざるべき、拷問せよとて軍兵堂内に打入つて、上人を捕て大庭に引出し、拷木にかけて、巳午の時より申の時ばかりまで、上つ下つ推問すれば、絶入ぬる事度度也。
 只云事とては、全く不知聞、落人とは何者なにものぞ、骨肉の親類にも非ず、又一室いつしつの同朋にも非ず、其分にもあらぬ人を隠さんとて、仏法ぶつぽふ修行の身をや可痛、只御ぎゃう迹ぎやうじやくと云けれ共、死れば水をふき、生かへれば拷木に上て責る程に、四五度の時は、終に上人を責殺す。
 猶も面に水をそゝぎ、喉に漿を入ければ、又蘇たりけり。
 思ひけるは、人を助んとて、かく憂目を見るこそ悲けれ、何事も我身にまさる事なし、さらばおちんと心弱く思けるが、良案じて、生ある者は必死す、我身一つをいきんとて、争か七八人しちはちにんを亡すべき、昔釈尊の菩薩の行を立て給けるには、薩埵さつた王子としては、飢たる虎に身を任せ、尸毘大王としては、鳩に代て命をも捨給けり。
 縦ひ身は徒に亡とも、此人々を助たらば、此堂をも建立こんりふし、我後生をも訪なんと思返て、問へ共落ざりければ、申の時には、上人終に攻殺さる。
 大場は、不便々々上人は誠に不知けり、非業の死にこそ無慙なれ、此間に敵は遥はるかに延ぬらん、急々とて上人をば打捨てて、まな鶴へむけてぞ責行ける。
 其そのも既すでに晩ければ、遠近の入逢の、野寺の螺鐘打ひゞけ共、小道の堂には音もなし。
 佐殿は、実平が袖をひかへて宣のたまひけるは、寺々の螺鐘は聞ゆれ共、此寺の鐘音もせず、上人法師何なる目に相たるやらん、覚束おぼつかなし、出て見よと有ければ、壇の下よりはひ出て、堂の内外を見廻れば、被責殺て庭に有。
 角と申ければ、佐殿も人々も壇より出て庭に下給たまひて、是を見て、頼朝よりともが命に替たるこそ不便なれ、如何せんと歎給たまひ、膝の上に掻載つゝ、涙ぐみ給ふも哀れなり。
 七人の者共も、面々に袖を絞けり。
 佐殿理過て泣給たまひける涙の上人の口に入りければ、喉潤て又よみがへる。
 御堂の内に舁入て夜のふくるまで労り、物語ものがたりし給へり。
 上人申けるは、今までは御命に替り奉りぬ、大場心深き人也、又帰来て御堂の内外捜尋侍らば、御心憂目をも御覧じぬと覚ゆ、夜中なれば何事か侍べき、忍給へと申。
 佐殿は上人が志云に余あり、頼朝よりとも世を取ならば、此堂の修理と云ひ、今の恩の報答と云ひ、心にかけて不忘、さらば暇申さんとて佐殿立給へば、七人の人々も足をはやめて落行けり。
 大場は三千さんぜん余騎よきにて杉山を打囲、数日の間さがしける。
 兵衛佐ひやうゑのすけも此程は、此山にぞ隠れ居給へるが、嵐みねの松を吹声をきいては、敵の責下かと太刀の柄を把り、水谷川に流るゝ音に驚きては、軍の競上るかと腰の刀を抜儲て、網代の氷魚の亡安き命、籠の内の鳥の出難き身、今こそ思知れけれ。
 土肥次郎が女房は、心さか/\しき者にて、僧を一人相語ひ、杉山に御座おはしましける程は、あじかに御料をかまへ入、上に樒を覆、閼伽の桶に水を入て、上人法師の花摘由にもてなして、忍々に送りけり。
 地蔵堂の上人も、夜々よなよなにさま/゛\訪申けり。
 さてこそ深山しんざん寂寞の中にして、五六日をば経たりけれ。
 昔天竺に、摩訶陀国の大王、頻婆娑羅王の太子、阿闍世に禁ぜられ給しに、国大夫人韋提希の、夫婦の情を忘れずして、身に砂蜜を塗付、御衣の下に隠しつゝ、楼珞の中に漿をもり入給たまひて、密に王に奉り、三七日まで有けるも、角やと思ひしられたり。
 彼は一人を操り、是は七人を養けり。
 異説に云、兵衛佐ひやうゑのすけ伏木に隠んとし給ける時は、土肥次郎実平子息遠平、新開荒太郎実重、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、土肥が小舎人に七郎丸と云冠者、佐殿共に七人也。
 跡目に付て尋来たりけれ共、大勢にては難忍、何方へも各隠れ籠て後にはと宣のたまひければ、北条時政と子息義時とは、山伝して甲斐国へ落ぬ。
 田代冠者信綱と加藤次景廉二人は、三島の社に隠れたりけるが、隙を伺ひ社を出でて落行く程に、加藤太に行合て、是も甲斐へぞ越にけるとあり。

大沼遇三浦

 八月二十三日には、石橋の合戦と兼て被触たれば、三浦は可参よし申たれば、其その衣笠が城より門出し、船に乗て三百騎沖懸りに漕せけるに、浪風荒くして叶はず。
 二十四日に陸より可参にて出立けるが、丸子川の洪水に、馬も人も難叶と聞て、其そのも延引す。
 二十五日に和田小太郎義盛三百さんびやく余騎よきにて、軍は日定あり、さのみ延引心元なし、打や/\とて鎌倉通に、腰越、稲村、八松原、大磯、小磯打過て、二日路を一日に、酒勾の宿に著。
 丸子河の洪水いまだへらざれば、渡す事不叶して、宿の西のはづれ、八木下と云所に陣を取。
 洪水のへるを待、暁渡さんとて引へたり。
 和田小太郎は、源遠して流深し、いつを限と待べきぞ、日数遥はるかに延ぬ、事の様見て渡さんとて、高所に打上り、雲透に水の面を見渡ば、河の西の耳に馬を引へて武者一人在て、東を守てたゝずみたり。
 漲り下る洪水の習にて、流はげしくして水音高し。
 小太郎大音揚て、西の川の耳におはするは誰人ぞと問ふ。
 音に付て、三浦党に、大沼三郎也、佐殿の御方に参たりき、軍は既すでに散じぬ、参りて申さん、河の淵瀬を不知、健ならん馬を給はらん、三浦の人々と奉見は僻事歟と喚。
 三浦はあな心苦し、急ぎ馬をやれとて、高く強き馬を渡たり。
 大沼是に乗て河を渡り、陣に下りて云ひけるは、軍は二十三日の酉の時より始めてゆゝしき合戦なりき、され共敵は大勢三千さんぜん余騎よき、御方は僅わづかに三百さんびやく余騎よき、終に御方の軍敗れて、遁べき様なし、三浦与一は、俣野五郎に組で討れぬ、佐殿も遁方なく、手をおろして戦給しか共討れ給ぬ、大将軍亡給ぬる上は、ちり/゛\に落失ぬ、我身も希有にして遁たりしかば、此様人々に披露せんとて落たりしか共、敵山々に充満、余党の人を尋捜間、兎角隠忍て紛来れりと、一つは実一つは虚言を語けり。
 此大沼は与一が討るゝまでこそ軍場には有りけれ、大勢に恐て急ぎ落たりしかば、争か兵衛佐殿ひやうゑのすけどのの実否をば知べきに、角語たれば、三浦の輩是を聞、さてはいかゞすべき、大将軍の慥に御座おはしまさばこそ百騎が一騎いつきに成るまでも軍はせめ、今は日本国につぽんごくを敵にうけたり、是より帰ても叶まじ、前には伊藤梶原大場俣野等引へたりと聞ゆ、後には畠山五百ごひやく余騎よきにて金江河の耳に陣を取て待つときく、前後の勢に取籠られなば由々しき大事、縦ひ一方を打破て通りたり共、敵朝と成なん後は、安穏なるべきに非ず、されば人手に懸りて犬死にせんよりは、爰ここにて自害せんとぞ申ける。
 三浦別当義澄大沼に問けるは、佐殿の討れ給たりけるをば、正く目とみ給たりやといへば、自奉見たる事はなし、伝に聞つる計也。
 さては推量なり、只人が角と云ひたればとて実と思べきに非ず、平家の方人共が敵をたばからん為めに、討れ給ぬと云にもや有らん、又御方の者也共、負軍に成ぬれば、敵に心を通して、角もや云けん不審也、天をも地をもはかれ共、人の心は難測、其上佐殿は、御身すくやかに心賢き人なれば、左右なく討れ給はじ、縦自害なんどし給共、敵に物をば思はすべし。
 就なかんづく石橋と云所は、浦近して海漫々たり、船に乗て安房上総へもや伝給けん、峯つゞきて山深ければ、岩の迫谷の底にもや隠れ忍び給らん、そも知難し、慥に目と不見ほどは、自害もの騒し、如何様いかさまにも御身近き田代殿を始めて、佐々木北条土肥土屋此者共に尋逢て、慥の説を聞べき也、一定討れ給たらば、主の敵なれば、大場にも畠山にも打向て、命を限に軍すべし、佐殿の死生聞定ざらん間は、相構て身をたばへとて、其夜の中に三浦へとて帰けり。
 抑畠山五百ごひやく余騎よきにて、金江川に陣を取て待と聞、いかゞ有べきと云ければ、和田小太郎は、佐殿の左右をきかん程は、命を全して君の御大事おんだいじに叶ふべし、去ば小磯が原を過て、波打際を忍とほらんと云けるを、佐原十郎は、何条さる事か有べき、畠山は若武者也、而も五百ごひやく余騎よき、思へば安平也、我等われらが三百さんびやく余騎よきにて蒐散して、馬共とりて乗てゆかんと云けるを、三浦別当は詮なき殿原のはかり様や、畠山は今日一日馬飼足休めて身をしたゝめたり、我等われらは此両三日、あなたこなた馳つる程に、馬もよわり主も疲たり、人の強き馬とらんとて、我弱き馬とられて其詮なし、馬の足音は波に紛れてよも聞えじ、轡鳴すなとてみづつき結ひ、鎧腹巻の草摺巻上なんどして打けるに、和田小太郎は本よりつよき魂の男にて、いつの習の閑道ぞ、畠山は平家の方人也、我等われらは源氏の方人なり、源氏勝給はば、畠山旗を上て参べし、平家勝給はば、三浦旗を上て参べし、爰を問はずは後に被笑事疑なし、人は浪打際をも打給へ、義盛は名乗て通らん、同心し給へ佐原殿とて、鎧の表帯しづ/゛\と結かため、甲の緒をしめ弓取直して、鐙に幕付けさせて、大音あげて、是は畠山の先陣歟、角云は三浦党に和田小太郎義盛と云者也、石橋の軍に、佐殿の御方へ参つるが、軍既すでに散じぬと聞けば、酒勾宿より帰也、平家の方人して留んと思はば留よと、高く呼てぞ打過る。
 敵追来らば返合て戦はん、さらずは三浦へ通らんとて、馬を早めて行程に、八松が原、稲村崎、腰越が浦、由井の浜をも打過て、小坪坂を上らんとし〔たり〕ける時に、

小坪合戦事

 〔斯かる処に〕畠山は本田、半沢に云けるは、三浦の輩にさせる意趣なし、去共加様に詞を懸らるゝ上に、父の庄司伯父の別当平家に奉公して在京なり、矢一射ずは平家の聞えも恐あり、和田が言も咎めたし、打立者共と下知しければ、成清は仰の旨透間なし、急げ殿原とて、五百ごひやく余騎よき、物の具かため馬にのり、打や早めとて追ければ、同小坪の坂口にて追付たり。
 畠山進出て、重忠爰ここに馳来れり、いかに三浦の殿原は口には似ず、敵に後をばみせ給ぞ、返合せよとののしり懸て歩せ出づ。
 三浦三百さんびやく余騎よき、畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡を並て引へたり。
 小太郎伯父の別当に云けるは、其には東地に懸りて、あふすりに垣楯かきて待給へ、かしこは究竟の小城なり、敵左右なく寄がたし、義盛は平に下て戦はんに、敵よわらば両方より差はさみ中に取籠て、畠山をうたんにいと安し、若又御方弱らば、義盛もあふすりに引籠て、一所にて軍せんと云。
 別当然べきとて百騎を引分て、後のあふすりに陣を取て左右を見る。
 畠山次郎は五百ごひやく余騎よきにて、由井浜、稲瀬河の耳に陣を取て、赤旗天に耀けり。
 和田小太郎は、白旗さゝせて二百にひやく余騎よき、小坪の峠より打下り、進め者共とて渚なぎさへ向て歩せ出づ。
 爰ここに畠山、横山党に弥太郎と云者を使にて、和田小太郎が許へ云けるは、日比ひごろ三浦の人々に意趣なき上は、是まで馳来べきにあらず、但父の庄司伯父の別当、平家に当参して六波羅に伺候す、而を各源氏の謀叛に与して軍を興し、陣に音信おとづれて通給ふ、重忠無音ならば、後勘其恐あり、又伯父親が返りきかんも憚あれば、馳向ひ奉るばかり也、御渡を可待歟、又可参申かと、牒使を立たりけり。
 和田小太郎は、藤平実国を使に副て返事しけるは、御使の申条委く承りぬ、畠山殿は三浦大介には正き聟、和田殿は大介には孫にて御座おはします、但不成中と申さんからに、母方の祖父に向て、弓引給はん事如何か侍るべき、又謀叛人に与する由事、いまだ存知給はずや、平家の一門を追討して、天下の乱逆を鎮べき由、院宣を兵衛佐殿ひやうゑのすけどのに被下間、三浦の一門勅定の趣と云ひ、主君の催と云ひ、命に随ふ処なり、若敵対し給はば、後悔如何が有べき、能々思慮を廻さるべきをやと云たりければ、畠山が乳母子めのとごに半沢六郎成清、和田小太郎が前に下塞て云ひけるは、三浦と秩父と申せば、一体の事也、両方源平の奉公は世に随ふ一旦の法也、佐殿いまだ討れ給はずと承、世に立ち給はば、畠山殿も本田半沢召具して、定て源氏へ被参べき、平氏世に立給はば、三浦殿も必御参あるべし、是非の落居を知ずして、私軍其詮なし、両陣引退かせ給はば、公平たるべき歟と云ければ、半沢が角云は、畠山が云にこそ、人の穏便を存ぜんに、勝に乗に及ばずとて、和田小太郎は小坪の峠に引返す。
 軍既すでに和平して各帰りちらんとする処に、和田小太郎義茂が許へ、兄の小太郎人を馳て、小坪に軍始れり、急ぎ馳よと和平以前に云遣たりければ、小次郎こじらうはいさゝか少用ありて、鎌倉に立寄たりけるが、是を聞驚騒ぎて馬に打乗り、犬懸坂を馳越て、名越にて浦を見れば、四五百騎しごひやくきが程打囲て見えけり。
 小次郎こじらう片手矢はげて鞭をうつ。
 小太郎は小坪坂の上にて軍和平したれば、畠山に不向と云ふ心にて、手々に招けれ共、角とは争か知べきなれば、急と云ぞと心得こころえて、をめきてかく。
 畠山は軍和平しぬる上はとて馬より下、稲瀬川に馬の足涼して休居たりけるに、小次郎こじらうが馳を見て、和平は搦手の廻るを待けるを知ずして、たばかられにけり、安からずとて馬に打乗、小次郎こじらうに向て散々さんざんに蒐。
 小次郎こじらうは主従八騎にて、寄つ返つ/\火出程こそ戦けれ。
 敵六騎切落し、五騎ごきに手負せて暫休けるを、小太郎は、小次郎こじらううたすな、始に手をひらきて招けば知ざるにこそ、大なる物にて招けとて、四五十人手々に唐笠にて招けるを、弥深入して戦へと云にこそと心得こころえて、暫気をやすめ、又馳入てぞ戦ける。
 今は叶はじ、小次郎こじらううたすなつゞけ者共とて、和田小太郎二百にひやく余騎よきにて小坪坂を打下り、河を隔て引へたり。
 小太郎藤平に問けるは、義盛は楯突の軍には度々あひたれ共、馬の上は未知、いかゞ有べきといへば、実光今年五十八、軍に逢事十九度也、軍は尤故実に依べし、馬も人も弓手に合事なり、打とけ弓を不引、開間を守てためらふべし、我内甲をば惜べし、矢をはげたり共、あだやを射じと資べし、敵一の矢を放て、二の矢いんとて打上たらん、まつかふ内甲頸のまはり、鎧の引合、すきまを守て射給ふべし、矢一放ては、急ぎ二の矢を番て、人のあきまを守給へ、敵も角こそ思ふらめなれば、透間を資て常に冑突し給ふべし。
 昔は馬を射事候はず、近年は敵の透間なければ、まづ馬の太腹を射て主を駻落して、立あがらんとする処を、御物射にもする候、敵一人をあまたして射事有べからず、箭だうなに相引して誤すな、敵手繁くよするならば、様あるまじ、押並て組で落、腰刀にて勝負をし給へとぞ教たる。
 去ければ、敵は引詰々々散々さんざんに射けれ共、或は上り或は下る、自あたる矢も、透間をいねば大事なし。
 三浦は実光が云ふに任て、敵の二の箭いんとて打上るすきまを守りて、差つめ/\射ければ、あだや一も無りけり。
 去さるほどにあふすりの城じやう固めたる三浦の別当義澄、爰ここにて待つも心苦し、小坪の戦きびしげなり、つゞけ者共とて、道は狭し、二騎三騎づつ打下けるが、遥はるかに続て見えければ、畠山是を見て、三浦の勢計にはなかりけり、一定安房上総下総の勢が、一に成と覚えたり、大勢に被取籠なば、ゆゝしき大事、いざや落ちなんとて五騎ごき十騎じつき引つれ/\落行けり。
 三浦勝に乗て散々さんざんに是を射。
 爰ここに武蔵国の住人ぢゆうにん綴党の大将に、太郎、五郎とて兄弟二人あり。
 共に大力也けるが、太郎は八十人が力あり、東国無双の相撲の上手、四十八の取手に暗からずと聞ゆ。
 大将軍畠山に向ひて云けるは、和田に蒐られて御方負色に見ゆ、思切郎等のなければこそ軍は緩なれ、和田小次郎こじらう討捕つて見参に入れんと云捨て、肌には白き帷に脇楯、白き合の小袖一重、木蘭地の直垂に、赤皮威の鎧に、白星の甲を著、二十四差たる黒つ羽の箙、四尺六寸の太刀に熊の皮の尻鞘入てぞ帯たりける。
 滋籐の弓の真中とり、烏黒なる大馬に、金覆輪の鞍にぞ乗たりける。
 和田小次郎こじらうは、陣に打勝つて弓杖つき、浪打際に引へたり。
 綴太郎近く歩せよす。
 小次郎こじらう是を見て、和君は誰そと問。
 武蔵国住人ぢゆうにん綴太郎と云者也、畠山殿の一の郎等と名乗る。
 小次郎こじらうは、和君が主人畠山とこそくまんずれ、思ひもよらず義茂にはあはぬ敵ぞ、引退と云へば、綴云ひけるは、まさなき殿の詞かな、源平世にはじまりて、公私に付て勢を合する時、郎等大将に組む事なくば何事にか軍あるべき、さらば受て見給へとて、大の中差取て番ひ、近づき寄ければ、射られぬべく覚て、綴をたばかりて云やう、詞の程こそ尋常なれ、恥ある敵を遠矢に射る事なし、寄て組み、腰の刀にて勝負せよとぞ云ひける。
 綴然るべきとて、弓箭をば抛棄て、歩せよせ、推並て引組で、馬より下へどうど落。
 綴は大力なれば、落たれ共ゆらりと立、小次郎こじらうも藤のまとへるが如く、寄り付てこそ立直れ。
 綴の太郎は大力なる上、太く高き男にて、和田小次郎こじらうが勢の小き、かさに係りて押付てうたんとしけり。
 和田は細く早かりければ、下をくゞりて綴を打倒して討たんと思へり。
 勢の大小は有けれ共、力はいづれも劣らず、相撲は共に上手也。
 綴は和田が冑の表帯引寄て、内搦に懸つめて、甲のしころを傾て、十四五計ぞはねたりける。
 和田綴に骨ををらせて、其後勝負と思ければ、腰に付てぞ廻ける。
 綴内搦をさしはづし、大渡に渡して駻けれ共、小次郎こじらうはたらかず、大渡を曳直、外搦に懸、渚なぎさにむけて十四五度、曳々と推ども/\、まろばざりけり。
 今は敵骨は折ぬらんと思ければ、和田は綴が表帯取て引よせ、内搦にかけ詰て、甲のしころを地に付て、渚なぎさへむけて曳音出してはねたりけり。
 綴骨は折ぬ、強はかけてはねたれば、岩の高にはね懸られて、かはと倒る。
 刎返さん/\としけれ共、弓手のかひなを踏付て、甲のてへんに手を入、乱髪を引仰て頸を掻落す。
 首をば岩上に置、綴が身に尻打懸て、沖より寄来る波に足をひやし、息を休めて居たりけるが、敵定て落逢んずらんと思ければ、綴が首をしほでの根に結付て、馬に打乗弓杖つき、敵落合とぞ呼ける。
 綴五郎兄を討れて、をめきて蒐。
 小次郎こじらう云けるは、和君は綴が弟の五郎にや、兄が敵とて義茂にくまんと思て懸るが、汝が兄の太郎は東国第一の力人、それに組て被取損たれば今は力なし、疾々寄て義茂が頸をとれとぞ云ひける。
 五郎まのあたり見つる事なれば、実と思ひ押並べてひたと組、馬より下へ落。
 如何がはしたりけん、五郎下になり、是も頸をぞ捕にける。
 角て岩に尻懸浪に足うたせて休処に、綴小太郎父と伯父を被討て、三段計に歩せ寄せ、大の中差取て番ひ、さしあて兵と射、冑の胸板むないたに中て躍り返る。
 小次郎こじらうは射向の袖を振合せ、しころを傾、苦しげなる音して云けるは、やゝ綴小太郎よ、親の敵をば手取にこそすれ、而に親の敵也、人手にかくな落合かし、近くよらぬは恐しきか、和君が弓勢として、而も遠矢にては、義茂が冑をばよもとほさじ物を、但義茂は、昨日一昨日より隙なく馳せあるき、兵粮もつかはず、大事の敵にはあまた合ひぬ、既すでに疲に臨んで覚ゆれば力なし、父が敵なればさこそ汝も思らめ、人にとられんよりは、寄て首を切、延て斬せんと云ければ、小太郎まこと貌に悦びつつ馬より飛下、太刀を抜て走懸り、小次郎こじらうが甲の鉢を丁と打、一打うたせてつと立あがり、取て引よせ懐きふせ、てへんに手を入れて頸を切る。
 三の首を二をば取付につけ、一をば太刀のさきに貫いて馬に乗、指挙つゝ名乗けるは、只今ただいま畠山が陣の前にて、敵三騎討捕て帰る剛の者をば誰とか思ふ、音にも聞らん目にも見よ、桓武天皇てんわうの苗裔高望王より十一代、王氏を出て遠からず、三浦大介義明が孫和田小次郎こじらう義茂、生年十七歳、我と思はん者は、大将も郎等も寄て組とぞ呼ける。
 畠山は小坪の軍に、綴太郎五郎、同小太郎、河口次郎太夫、秋岡四郎等を始として、三十さんじふ余人よにん討れぬ、手負は五十ごじふ余人よにん也。
 三浦には多々良太郎、同次郎、郎等二人、纔わづかに四人ぞ討れける。
 畠山は郎等多く討れて、敵にくまんと招かれて安からず思ければ、畠山は重忠くまんとて打出けり。
 紺地の錦の直垂に火威の冑に、蝶のすそ金物をぞ打たりける。
 白星の甲に、二十四差たる鵠羽のやなぐひ筈上に取てつけ、紅の母衣懸、薄緑と云太刀の三尺五寸なるに、虎皮の尻鞘入てぞ帯たりける。
 泥葦毛の馬に、中は金覆輪、耳は白覆輪の鞍を置、燃立つばかりの厚総の鞦かけ、武蔵鐙に重籘の真中取て歩せ出づ。
 本田半沢左右にすゝむ。
 名乗けるは、同流の高望王の後胤、秩父十郎重弘が三代の孫、畠山庄司次郎重忠、童名氏王、同年十七歳、軍は今日ぞ始、高名したりとののしる和田小次郎こじらうに、見参せんとて進出。
 本田次郎中に隔りてくつばみ押へ云けるは、命を捨るも由による、宿世親子の敵に非ず、只平家に聞えん計、一問にこそ侍れ、就なかんづく三浦は上下皆一門也、秀を大将としなし、後を郎等乗替に仕ふ、されば一人当千いちにんたうぜんの兵にて、親死子死とも是を顧ず、乗越々々面を振ず、後を見せじと名を惜む、御方の勢と申は、党の駈武者一人死すれば、其親しき者共よき事に付とて、引つれ/\落れば、如何なる大事あり共、君の御命に替る者候はじ、成清近恒ぞ矢さきにも塞るべけれ共、是は公軍なり、只引返し給へと云けれ共、小次郎こじらうに組で死なんとて打寄ければ、和田は度々の軍に身をためしたる武者にて、畠山矢ごろにならば、唯一矢にと志、中差取て番ひ相待。
 ほど近くなりければ、能引て放つ。
 畠山が乗たる馬の、 当胸尽より鞦の組違へ、矢さき白く射出す。
 馬は屏風を返すが如臥ければ、主は則下立けり。
 成清馬より飛下て、主を懐き上て我馬に乗す。
 弓取はよき郎等を持べかりけり。
 半沢無りせば、あぶなかりける畠山なり。
 成清歩武者に成て間に隔たる。
 小次郎こじらう太刀を額にあてて進寄。
 畠山同太刀を額に当てて小次郎こじらうを待処に、三浦介の手より、小次郎こじらうは骨を折ぬと覚ゆ、討すな者共とて、兄の小太郎義盛、佐原十郎義連、大党三郎、舞岡兵衛を始として、十三騎太刀をぬき打て向ければ、畠山も討るべかりけるを、本田、半沢中に阻り、以前に如申、大形も御一門、近は三浦大介殿は祖父、畠山殿は孫に御座おはします、離れぬ御中なり、指たる意趣なし我執なし、私の合戦其詮なく覚ゆ。
 本田、半沢に芳心ありて、御馬を返し給へと云ければ、和田是を聞、郎等の降を乞は、主人の云にこそ、今は引けとて、和田は三浦へ帰ければ、畠山は武蔵へ返りけり。
 さてこそ右大将家うだいしやうけの侍に座を定られけるには、左座の一﨟は畠山、右座の一﨟は三浦、中座の一﨟は梶原と定りける時は、畠山は、三浦の和田に向て降乞たりし者也、左座無謂と云けるを、重忠全く不存知、弓矢取る身の命を惜み、敵に降乞事や有べき、若郎等共らうどうどもが中に云ふ事の有けるか、返々奇怪也とぞ陳じける。

羅巻 第二十二
衣笠合戦事

 義澄義盛小坪軍に打勝て三浦に帰、軍の次第こま/゛\と語ければ、大介義明よく/\きき、莞爾と笑ひ頷許入て、無左右左右若殿原、弓矢の運は弥増々々に繁昌せり、中にも小次郎こじらうが振舞神妙しんべう々々しんべうとて感涙を流し、孫引出物とて太刀一振をぞ給たまひたりける。
 さても大介云けるは、敵は一定明日寄べし、佐殿よも討れ給はじ、急ぎ衣笠に引籠て軍せよ、敵こはくとも散々さんざんに蒐破て、今一度佐殿尋奉べし、難遁は討死をせよといへば、義盛申けるは、衣笠は馬の足立よき所なれば、寄手の為には便あり、忽たちまちに追落されなん、奴田の城じやうは、三方は石山高して馬も人も通ひ難き悪所也、一方は海口に道を一つ開たれば、よき者一二百人いちにひやくにんあらば、縦敵何万騎寄たり共輙く責落すべからずと申。
 大介重て申、奴田と云は僅わづかの小所、人是を不知、衣笠こそ聞えたる城よ、三浦の者共は小坪の軍に打勝て、軈衣笠に引籠て、散々さんざんに戦て討死しけりといはば、嗚呼ああさる名誉の城じやうあり、其はよき所也など人も沙汰すべし、奴田城にて討死といはば、奴田とはどこぞ、未知といはれん事面目なし、只衣笠に籠れ、急げ/\と云。
 義盛が云けるは、奴田も三浦も皆御領内也、就なかんづく軍と申は身を全して敵に物を思はせ、日数をへて戦ふこそ面白けれ、衣笠に籠たり共、やがて追落されなば無下に云甲斐なし、能々御計候べしといへば、大介腹を立て、やをれ義盛よ、今は日本国につぽんごくを敵に受たり、身を全せんと思とも何日何月か有べき、縦命生べく共、人のいはんずる事は、三浦こそ一旦命を延んとて、さしもの名所を閣て、奴田城に籠たりけれと沙汰せん事も口惜し、若又百人ひやくにんが中に一人なりとも生残て、佐殿世に立給たまひたらん時、父や祖父が骸所とて知行せんにも、衣笠こそ知たけれ、軍と云は所にはよらず、手がら謀に依べし、荒野の中にて戦とも、能くあひしらはば不負、石の櫃に籠たり共、悪く戦ならば難叶、命惜くば軍なせそ、などや己は物には覚ぬ、且は父の命也、老者の云言は験あり、義明は只一人也とも衣笠にて討死せん、敵よせずば干死にも彼にてこそ死なめと、大に嗔り云ければ力及ばず、孫引連て衣笠城に籠にけり。
 上総介弘経が弟に金田大夫と云者は、義明が聟なりければ、七十余騎よきを引率して同城に籠にけり。
 都合勢僅わづかに四百五十三騎ぞ有ける、大介は敵寄るならば暇あるまじ、先静なる時よく/\兵糧つかふべしとて、酒肴椀飯舁居て是を勧む。
 さて下知しけることは、弓したゝかに射者は、家の子も侍も舎人草刈に至まで汰置、弓は一人して二張三張、矢は四腰五腰も用意せよ、弓え射ざらん者は、七八人しちはちにんも十人も又四五人も徒党して、好々の杖共を支度せよ、木戸を三重にこしらふべし、敵は軍の法なれば、定て追手搦手二手にわけて寄べし。
 追手の方には道を造れ、広さ七八尺に不過、道広ければ大勢くつばみを並て押寄れば、城の中に隙なくして防えず、馬二匹ばかり通る程に造れ、道の片方は沼なれば兎角するに及ばず、片方には大堀をほれ、道をば三重に掘切て、一の堀には橋を広くわたせ、中堀には細橋を渡せ、二の堀には逆茂木を引、堀ごとに掻楯を構へ櫓をかけ、弓よく射者共は甲を著ざれ、腹巻腹当筒丸などを著て、矢倉に上て敵の冑の胸板むないたを差詰て射よ、又歩走の者共は角きはりをこしらへ置、杖打の奴原は、西の方の小竹の中に籠り居よ、小竹の中より造道へ向て細道を造れ、敵一の橋を打渡て二の橋まで寄るならば、角きはりを以て馬の太腹を射よ、射られて駻るならば、冑武者左右の堀と沼とへはね落されて、おきん/\とせん処を、小竹の中より杖打の奴原つと出て、杖の前そろへておこしも立ず能者をば打殺せ、駈武者共をば死ぬる程に打成して、生殺にしてはひ行せよ、其こそ軍の目醒なれ、各不覚すなとぞ下知したる。
 廿七日の小坪軍の後、中一日ありて廿九日の早朝、河越又太郎またたらう、江戸太郎、畠山庄司次郎等大将軍として、金子、村山、山口党、児玉、横山、丹党、をし、綴党を始として三千さんぜん余騎よき、衣笠の城じやうへ発向す。
 追手は河越、搦手は畠山、二手に分て推寄つゝ、時の音三箇度さんがど合てためらふ処に、綴の一党、当家の軍将三人まで小坪の軍に討れて不安思ければ、二百にひやく余騎よき先陣に進て、木戸口きどぐち近く攻寄たり。
 城の内には本より支度の事也、掻楯の上精兵共、一騎いつき々々いつきを主付て差詰々々射ける矢に、馬共いさせてはね落されて深田に落入、あがらん/\としける処を、小竹の中より杖打の冠者原、鼻を並て細道よりつと出て、打殺差殺て、乗替郎等多く討れて、生る者は少く死る者は多かりければ、綴党も不叶して引退く。
 金子十郎家忠と名乗て、一門引具し三百さんびやく余騎よき、入替々々戦ける中に、人は退ども家忠は不退、敵は替ども十郎は替らず、一の木戸口きどぐち打破り、二の木戸口きどぐち打破て、死生不知にして攻たりける。
 城中じやうちゆうよりも散々さんざんに是を射る。
 甲冑に矢の立事廿一、折懸々々責入つゝ更に退事なかりけり。
 城の中より提子に酒を入て、杯もたせて出しけり。
 城の中より大介、家忠が許へ申送けるは、今日の合戦に、武蔵相模の人々多く見え給へ共、貴辺の振舞ことに目を驚し侍り、老後の見物今日にあり、今は定てつかれ給ぬらん、此酒飲給たまひて、今ひときは興ある様に軍し給へ、と云遣したりければ、家忠甲振仰弓杖つき、杯取三度飲て、此酒のみ侍て力付ぬ、城をば只今ただいま責落奉べし、其意を得給へとて使をば返してけり。
 軍陣に酒を送は法也、戦場に酒を請は礼也、義明之所為と云、家忠之作法と云、興あり感ありとぞ皆人申ける。
 家忠唯非勇心之甚、専存兵法之礼けり。
 金子十郎、わざと人をば具せざりけり、命をすてんとの心也。
 ふし縄目鎧に三枚甲の緒をしめ、甲の上に萌黄の腹巻打かづき、櫓の本まで責付たり。
 大介云けるは、哀金子は大剛者かな、一人当千いちにんたうぜんの兵とは是なるべし、軍は角こそ有べけれ、あれ射つべき者はなきか、惜き者なれ共日比ひごろの敵也、あれを射留よとぞ下知しける。
 三浦の別当申けるは、和田小太郎は、弓勢も矢管もはしたなく尻全く候、彼を召て仰たべとぞ申。
 大介小太郎を招て、あの家忠射留よと云。
 仰承ぬとて立にけり。
 三人張に十三束三伏をぞ射ける。
 荒木の弓のいまだ削治ざるを押張て、すびきしたりければ、ちと強きやらんと思けるに、かね能征矢二つ把具し、櫓に上て見れば、十郎二段ばかり隔て水車を廻し、次第々々に責寄て櫓の内へはね入らんとする処を、和田小太郎義盛、十三束三伏しばし固て落矢に兵と放つ。
 金子が甲に懸たりける腹巻の一の板、甲の鉢かけてがらと射貫き、額の方により頷の下をつと通り、冑の胸板むないたのはた覆輪にぞ射付たる。
 痛手なれば少しもたまらずどうど倒る。
 三浦の藤平落合て頸をとらんとする処に、金子与一つとより肩に引懸、木戸口きどぐちの外へ出けるを、三浦与一追て懸る。
 あますまじきぞ/\とて、余に手しげく追ければ、金子与一、十郎をば打棄て太刀を抜て返合て打懸る。
 与一と与一と立合て、太刀打にこそ戦けれ。
 三浦与一受太刀に成ければ、不叶と思てかいふつて逃けるを、金子与一追付て三浦与一を懐き留、虜にして首を切。
 敵の頸を手に提げ、十郎を肩に係て陣の内にぞ入にける。
 家忠が疵は痛手なれ共、ふえ切ざれば不死けり。
 今日の高名、金子党にぞ極たる。
 武蔵国の者共、入替々々戦けり。
 三浦の別当下知しけるは、城の内を不離して、よせん敵を引詰々々射よ、与一も長追して、城を離てこそ討れぬれ、身をたばひて敵に物を思はせよと云ければ、大介是を聞て、若者共が軍の様こそをかしけれ、何の料とて命をたばふべきぞ、京童部きやうわらんべの向つぶて、河原印地の様也。
 坂東武者の習として、父死れ共子顧ず、子討れども、親退ず、乗越々々敵に組で、勝負するこそ軍の法よ。
 されば二十騎にじつきも三十騎さんじつきも馬の鼻を並べて蒐出つゝ、案内もしらぬ者共を悪所へ追詰々々笑たるこそ目覚して面白けれと云けれ共、別当は、幾程もなき勢を以てかけ出ん事あしかりなんとて不出けり。
 大介云けるは、我老々として所労の折節をりふし再発せり、義明十三已来このかた弓矢を取て今年七十九、今此軍に会事老後の面目也、殿原こそ出給はずとも、いで/\義明かけ出て、最後の軍して見せ奉らんとて、白き直垂の袖せばきに、萎烏帽子もみえぼしを引立て、雑色二人に馬の口引せ、中間六人に左右の膝をさせ、太刀計を腰に付けて、右の手に鞭を貫入、左の手に手綱かいくり、既すでに打出んとしけり。
 子息の別当是を見て、馬の口に取付て、如何に角はおはするぞ、其御歳にて打出給たらば、何の詮にか立給ふべき、老衰て物に狂給ふかと云ければ、大介は、やをれ義澄よ、武者の家に生て軍するは法也。
 敵の陣に向て命を惜むは人ならず、義明をば老て物に狂と笑へども、己等は若き物狂ぞと覚たり、軍と云は、かけ出/\追つ返つ進み退き、組んづ組れつ討つ討れつ、敵も御方も隙のなきこそ面白けれ。
 いつを限りと云事なく、草鹿的を射様に、一所にて敵を射事やは有べき、そこのけ奴原とて鞭を以て打けれ共、甲を打はいたからず、別当馬の鼻を取て城の内へぞ引もて行。
 是は大介が、実に軍場に出べきにはなけれ共、兵をすゝめん計事と覚たり、ゆゝしき大将とぞ見えたりける。
 日も漸く暮ければ、各軍に疲つゝ、事外に弱々しく見えければ、大介子孫郎等呼居ゑて、老眼より涙を流し云けるは、軍はすべき程は仕つ、人の笑れぐさにはよもならじ。
 又義明も可見程は見つ、各疲給へり、殿原左右なく自害し給ふべからず、佐殿御心賢き人にて御座おはしませばよも討れ給はじ、いかにも安房上総の方にぞ御座らん、相構て尋参りて、義明が有様ありさまをも語申べし。
 君に力を付奉て、一味同心に平家を亡し、佐殿を日本につぽんの大将軍になし進せて、親祖父が墓所也とて、骸所をも知行して我孝養に得させよ。
 東国の人共、誰か君の重代の御家人にあらざる。
 去共今一旦の恩を蒙るに依て、平家の方人に似たれども、争か昔の好みを忘奉べきなれば、終には皆参べし、老たる馬は道を忘れず、古人は言誤りなし、必思合すべし、穴賢自害すべからず、穴賢二心なかれ、但義明をば爰ここに捨よ、只身々を助て急ぎ落よ、我既すでに老耄せり、行歩にも不叶、馬にも乗得がたし、汝等なんぢらは今は落人也、道狭き者ぞ、我労り具せんとせば倶に悪かるべし、延得ずして打捨なば無益の恥を見るべし、明日は人の笑べし、大介は幾程命をいきんとて終に死ける物ゆゑに、衣笠にては死せずして、骸を径にさらす無慙さよと、又三浦の者共が父を具して落けるが、責ての命の惜さに、老たる親を道に捨て、人手に懸し甲斐なさよと、彼と云ひ此と云ひ、我ため人のため、糸口惜事なるべし、さればとく/\落てゆけ、我をば此に留置、老は悲しき物也けり、哀糸惜き子孫と相共に、佐殿の世に立給たまひて日本国につぽんごくを知行し給はんを見て死たらば、いかに嬉しからん、只今ただいま死なんずる義明が、是程君を思進するとは不知召もや有らんとて、直垂の袖を絞りければ、家子も郎等も、最後の教訓を憐て、音を挙てぞ叫ける。
 さても大介は、捨よ/\と云けれ共、子孫名残なごりを惜みつゝ、輿を寄て具し申さんと云けれ共、大介終に不乗。
 義澄以下の子孫は父をば捨て、泣々なくなく主君を尋奉て、夜中に栗浜の御崎に出て、船に乗て安房の方へ漕行けり。
 其外は三騎五騎ごきぬけ/\に落失ける中に、年比の郎等共らうどうどもの有けるが、主の名残なごりををしみ、手輿にのせて舁て出づ。
 大介云けるは、我は子孫に暇乞て此にて死する者也、如何に角はするぞ、只捨て行とて、扇を以輿舁共を打けれ共、一里計ぞ舁もて行く。
 敵既近付ければ輿を捨て逃けるを、いかにや/\、下﨟程口惜ものは無りけり。
 さしも城中じやうちゆうにすてよと云つる物を、此輿舁助よ、さらずば己等が手に懸て恥を隠せと云けれ共、敵は無下に近付ければ、皆散々さんざんにぞ失にける。
 敵の下部共来て輿の中より引出して、衣裳を剥取ければ、己等に逢て名乗べきに非ず、知らぬばかく振舞か、恥ある者に恥を見すべからず、我は三浦大介と云者ぞ、角なせそ/\と云けれ共、赤裸にぞはぎなしける。
 大介は、哀同は畠山に見合てきらればや、継子孫也、其ゆかりむつましと思ひけれども、願の畠山には非ずして、すずろなる江戸太郎に被斬にけり、如何にも老者の云言末のあふ事也。
 大介が兼て云ける様に城中じやうちゆうに棄てたりせば、さまでの恥はあらじものとぞ申ける。

土肥焼亡舞同女房消息せうそく附大太郎烏帽子えぼし

 去さるほどに大場伊藤は、此間山を廻して捜尋けれ共、佐殿見え給はねば、今は力なしとて我が館々へ帰にけり。
 敵散ずと聞えければ、兵衛佐ひやうゑのすけ杉山を出て土肥の真鶴へ落んとし給ふ。
 真平は、残党も猶不審し、我館も如何が有らんと思て、高峯に上り、眼影をさして見渡せば、山内には人ありとも覚えず、我が所領へは、伊藤入道三百さんびやく余騎よきにて押寄て、土肥の在家一一に追捕し、此彼に火を放て一宇も残さず焼払やきはらふ
 七人同く是を見る。
 真平佐殿の御前にて、一時乱舞ぞしたりける。
 土肥に三の光あり、第一は八幡大菩薩はちまんだいぼさつ我君を守給ふ和光わくわうの光と覚えたり。
 第二は我君平家を打亡し、一天四海を照し給ふ光なり。
 第三は真平より始て、君に志ある人々の、御恩によりて子孫繁昌の光也。
 嬉しや水々鳴は滝の水、悦開て照したる土肥の光の貴さよ、我屋は何度も焼ばやけ、君だに世に立たまはば、土肥の杉山広ければ、緑の梢よも尽じ、伐替々々造らんに、更に歎にあらじかし、君を始て万歳楽、我等われらも共に万歳楽とぞ舞たりける。
 人々あらまほしき祝事にゑみまげて勇けるに、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのは、土肥が舞は今に始ぬ事なれ共、只今ただいまは殊に目出く面白と感じ給ふ処に、土肥女房が許より消息せうそくあり。
 真平披之見れば、三浦の人々は、廿三日に船にて石橋へ参らんと支度したれば、浪風荒くして不叶、廿五日に酒勾宿まで参たれ共、軍敗ぬと聞て帰る程に、廿七日に小坪にて畠山に行合て、さま/゛\戦けるが、畠山軍に負て、三浦衣笠に籠て相待侍けるに、江戸河越畠山等、三十さんじふ余騎よきにて衣笠城を責落し、大介討れ候けり。
 其外の人々は君を尋進せて、安房国へ漕給けると聞え侍り。
 無勢にて御山隠の御すまひ、心苦くこそ侍れ。
 急三浦の人々を尋て安房上総へ越給べしと云文也。
 土肥此状を以て佐殿に角と申ければ、神妙しんべう々々しんべうと大に悦給ふ。
 さらばとく/\とて、夜の凌晨しののめに真鶴へこそ落給へ。
 軍将宣のたまひけるは、敵に攻られて甲をば捨つ、大童にては落人といはれなん、如何がして烏帽子えぼしを著べきと被仰ければ、折節をりふし甲斐国住人ぢゆうにん大太郎と云烏帽子えぼし商人、箱を肩に懸て道にて逢。
 然るべき事也とおぼして、何国の者ぞと問ひ給へば、甲斐国住人ぢゆうにん大太郎と申す烏帽子えぼし商人也と答。
 土肥申けるは、あの男は、真平が家人商人の為に、所領に家造して通ひ侍り、やゝ太郎、人は七八人しちはちにんあり、皆大童なれば、民百姓までも落人とや見らん、其憚あり、烏帽子えぼし折て進せなんやといへば、安き程の事也とて、宿所に請じ入奉て白瓶子に口裹、さま/゛\の肴にてもてなし奉る。
 酒宴半に烏帽子えぼし箱を取出し、中座に候ひて折之て人々に奉賦、不取敢折節をりふしなれば、急あわてて折程に、七頭は右に、一頭は左折なるを、而も佐殿に奉る。
 佐殿あやしとおぼして、七人が烏帽子えぼしを見廻し給へば、皆右に折てよの常なり、我身一人左也ければ、不思議也、源氏の先祖八幡殿は、左烏帽子えぼしを著給たまひしより、当家代々の大将軍左折の烏帽子えぼしなるに、今流人落人の身ながら、是を著るこそ難有けれ。
 昔天竺に摩訶陀国とて大国あり。
 阿闍世王より三代の孫に、頻頭沙羅王、国を治め給たまひけり。
 王にあまた太子御座。
 嫡子をば須子摩と云。
 心操柔和にして形容端厳也しかば、位を此太子に譲らんと覚しき。
 次郎をば阿育と云、貌醜悪にして心根不調に御座おはしましければ、位の事は思ひ寄給はざりけるに、天の帝釈降天給たまひて、十善の宝冠を阿育に著せ給ければ、終に天下の国王たりき。
 されば八頭の烏帽子えぼしの中、左折一つ、其れも頼朝よりともに当けるも不思議也。
 然べき八幡大菩薩だいぼさつの商人太郎に入替り給たまひて、著せ給けるにこそ、末憑しく覚しければ、心の中に再拝して、土肥次郎に当座とらせて著給ければ、七人も面々に烏帽子えぼし著て出立給けり。
 藤九郎盛長を使者にて、家主が内へ悦宣のたまひけるは、頼朝よりとも世に立つならば、此悦には名田百町在家三宇計給べしと、此旨盛長申含畢。
 商人太郎畏承り候ぬと返事申て、妻に私語ささやきけるは、今日此比身一つ安堵し給はずして、わう弱わうじやくの商人に、烏帽子えぼし乞程の人の、荒量にも給つる百町かなとつぶやきければ、妻是を聞て、人は一生さても過ぬ事なれば、上﨟の果報、我等われらが運にて去事もや有べかるらん、さらば哀此殿の世に立給へかしとぞ云ける。
 去ば平家亡て後、甲斐国石和と云所に、百町三家給りて、今の世までも知行せり。

宗遠値小次郎こじらう

 土屋三郎宗遠は甲斐国へぞ越られける。
 足柄の山に関居りたりと聞て、宗遠夜に紛れて通りけるが、見れば峠に仮屋打て、前に篝を焼者共四五十人が程ぞ臥したりける。
 如法夜半の事なれば、関守睡て不驚、よき隙と思ひ、ぬき足して下ける。
 関をば角て過たれ共、行末にも人や有らんといぶせくて、木の下萱の中、さしのぞき/\下る程に、雲透に見れば、者こそ一人出来れ、搦手の廻りけるにやと思て、太刀抜懸けて立煩てためらひたり。
 間二段計を隔てて峠へ上る男も、太刀に手懸て立たりけり。
 互に物をば云はずして良久有ける。
 さて有べき事ならねば、宗遠詞をかく、源氏謀叛を興に依て、関守すゑて是を守る、只今ただいま爰を通り給ふは誰人ぞといへば、名乗はいはで、還て問は誰そと云。
 互に聞知たる声也けり。
 小次郎殿こじらうどのか、義清、土屋殿歟、宗遠と共に答て名乗けり。
 宗遠は子のなかりければ、兄が子を養て小次郎こじらうと云けるが、平家に奉公して都にあり。
 佐殿の謀叛に与して、父も同心の由聞えければ、偸に京を出て下る。
 是も足柄山に関守ありと聞て、夜に紛れて通る程に、時日こそ多きに、只今ただいまここにて行逢たり、契のほども哀也。
 土屋いかに/\小次郎こじらうといへば、佐殿謀叛と披露の間、平家は一旦の主、源氏は重代の君、其上土屋殿も御伴と承る、旁急ぎ下らんと存じ、京をば三騎にて出たりしか共、路にて聞え侍りしは、佐殿も岡崎殿も与一殿も、石橋の軍に討れ給ぬと申し間、よろづあぢきなくて、二騎の者には暇をたび、我身一人国に下り、百姓共に慥の事をも承らんと、夜に紛れて通りつるに、参り会ふ事の嬉さよとて、涙をはら/\と流けり。
 土屋三郎思けるは、云言実に哀也、但当世は親も子もなき作法也、而も実子には非ず、弱々しく語るならば、指殺して平家の覚え、まさらんともや思ふらん、そも不知強々と語らんと思うて、聞あへず下向の条、悦入候。
 但佐殿討れ給たりとは誰人か申けるぞ、あらいま/\し、石橋の軍は、千葉三浦が遅参に依て無勢にて始たりし程に、御方負色に成し間、佐殿は甲斐国へ越給ぬ、岡崎殿御供にあり、御辺ごへんの兄の与一殿は被討たり。
 さては北条佐々木を始て、誰かは死たる者ある。
 甲斐国より御催のあれば、宗遠も参也。
 但し関守が居たれば、夜中に忍て、一人はまかるなり。
 いざ和殿も佐殿の見参に入給へとて、其れより打つれて甲斐国へぞ越て行く。
 宗遠は道にても心ゆるしせず、太刀抜き懸て、近代は親も子もなき代也、誤り給ふな小次郎殿こじらうどの、存する旨あり小次郎殿こじらうどのとて、当国の源氏、逸見、武田、小笠原、河西、板垣、告めぐり、一条殿の侍にてこそ、打解け有の儘には語りけれ。

佐殿漕会三浦

 土肥次郎は、出富の小検校こけんげうと云海人が小船を借て、真鶴岩が崎と云所より、急ぎ船を出さんとしけるに、子息の弥太郎申けるは、万寿冠者参るべき由承る、相待て召具せばやと云。
 此弥太郎と云は、伊藤入道には聟也。
 万寿冠者とは、弥太郎に子なくして、妹が子を養子にしたれば、土肥にも伊藤にも孫也けるを、母方の祖父なれば、伊藤の入道に預置き、娘にも聟にも養子なれば、入道不便にして育みけり。
 弥太郎が、万寿冠者をまたんと云ひけるを、父土肥次郎が聞とがめて大に不審なり。
 此間杉山に隠れ忍て、七騎の外は人是を不知、万寿と云は真平にも孫なれ共、敵仁伊藤が許にあり、争か存知すべき、御伴仕らんと申ける条存外也。
 哀弥太郎は事を万寿冠者に寄せて、一定舅の入道待付て、重代の主君を失ひ奉り、大恩の親を亡さんとたばかるにこそ、奇怪の奴也、其頸打切給へ、岡崎殿と云ひければ、岡崎はいかなる舅なり共、主や父に思替る事有まじ、知べき様こそ有つらめ、但加様の身々として、片時も逗留其詮なし、はや/\急ぎ舟を出せとて、四五町ばかり漕出して浦の方を顧れば、万寿冠者を始として、伊藤入道五十ごじふ余騎よきの勢にて馳来、あれ/\とぞ呼りける。
 後には大場三郎千余騎よき計にて連たり。
 今すこし遅かりせば、あやふかりける人々也。
 漕や急げとて、安房国州の崎を志して落行ける程に、沖中にして俄にはかに風起り浪立て、いづこ共不知くらき闇に、渚なぎさに船をぞ吹付たる。
 人々船にゆられて酔けり。
 佐殿爰ここはいづくやらんと問給へば、土肥見侍らんとて、舷に立弓杖つき見廻せば、相模国さがみのくに早川尻に侍り、而も大場、杉山の帰り足に、三千さんぜん余騎よきみぎはに幕引て七箇所に篝たき、酒盛しける敵の陣に吹付らる、敵は見もしぬらん、如何あるべきと思申、佐殿は杉山にて亡べき者が、大菩薩だいぼさつの御加護によりて遁れぬ、而を今又敵陣に臨めり、終に見捨給ふべきにやと祈念被申けり。
 真平は此辺は家人ならぬ者なし、酒肴尋進せんとて船より飛下、片手矢はげて走廻、我君此浦に著給へり、真平に志あらん者は酒肴進すべしとののしり云ひければ、或は瓶子口裹み、或は桶に入て、我も/\と船に酒肴を運たり。
 船の中暗といへ共、敵の大場が篝の火の光にて、佐殿酒をのみ給へり。
 実に八幡大菩薩はちまんだいぼさつの御計ひと覚たり。
 飢を休めて其後、風やみ波静にて、船を出して安房国州の崎へこそ漕渡り給たまひけれ。
 三浦の輩は軍将を奉尋とて、船を海上に浮べて安房上総あやしき浦々漕廻りけるに、佐殿の船も三浦が船も、互にあやしく思て、沖中にて間近く漕合ける。
 若又敵にもやと思ひければ、彼も此も矢たばね解、弓の弦しめして用心せり。
 佐殿をば船底に隠し、上に柴を積て、岡崎ばかり差あらはれて乗たり。
 三浦船を漕近付て岡崎と見てければ、いかにやいかに、いづら佐殿はと問へば、誰も君を奉尋、三浦にもやと思ひ奉りつるに、さては何国に御座らんといへば、三浦涙を流しつゝ、穴心うや、君の御向後の覚束おぼつかなくてこそ、老たる父をも振捨て、敵に後を見せて尋進するに、甲斐なき事悲さよ、兼て角とだに知たらば、衣笠の城じやうに引籠り、大介と一所にて打死すべかりける者をとて、各袖をぞ絞けり。
 佐殿は船底にて此事を聞給たまひ、糸惜や世になき我をあれ程に思ふらん事の嬉しさよ、心づくしに遅く出でて恨られじと思召おぼしめしければ、船底より這出て、頼朝よりともここにありと仰ければ、大将軍是に御渡有けりや、大介宣のたまひつる事露違ずとて、三浦手を合て悦けり。
 さても岡崎は、石橋の合戦に与一が討れし事を語て泣。
 三浦は小坪衣笠の軍の事、大介が申し事、老たる父を捨置事ども語て泣。
 一人は若きを先立て袖をぬらし、一人は老たるを見捨て袂たもとを絞る、恩愛慈悲の情とりどりなり。
 和田小太郎申けるは、殿原今は泣歎て其詮なし、親も子も死る道は限あり、就なかんづく軍にあはん者は、必死すべしと兼て存る処也、始て歎に及ばず、語ればいよ/\哀を増す、君かくて御座おはしませば、今は真に一入に思ひ入て、平家を亡し本意を遂て、君の御代になし参せ、庄園を給り国を知行せん事を評定し給ふべし、食を願はば器と云下説の喩あり、君もとく/\国々庄々を分け給り候べし、中にも義盛には、日本国につぽんごくの侍の別当を給り候へ、上総守かづさのかみ忠清ただきよが、平家より八箇国の侍の奉行を給たまひて、翫しかしづかれて気色せしが、余に羨しかりしかば兼て申入也、他人の競望あるべからずとぞ申ける。
 佐殿は、世にあらば左右にや及ぶべき、去共早とて笑給けり。
 其より当国すの明神に参り給たまひて、千返の礼拝奉、終夜よもすがら念誦し給たまひて、一首の歌をぞ読給ふ。
  源はおなじ流れぞ石清水せきあげてたべ雲の上まで
と、彼明神と申は、八幡大菩薩はちまんだいぼさつを祝奉たりければ、角思ひつゞけ給たまひけり。
 暁かけて御宝殿より御返事おんへんじあり。
  千尋まで深く憑て石清水たゞせきあげよ雲の上まで
 其外様々の夢想むさうありければ、兵衛佐ひやうゑのすけ本意とげぬと悦給けり。

大場早馬立事

 九月一日、大場三郎景親使者を六波羅へ立たり。
 平家一門馳集て注進の状を披に云、伊豆国いづのくにの流人、兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりとも、称院宣、忽興謀叛、去八月十七日じふしちにち之夜、卒三十さんじふ余騎よき之勢押寄八牧之館、誅戮和泉いづみの判官兼隆、放火焼失畢、此旨定自国衙こくが注進歟、同おなじき二十二日、構城郭じやうくわく於当国石橋山率三百さんびやく余騎よき之凶賊、楯籠于彼城之間、景親相催三千さんぜん余騎よき之軍兵、同おなじき二十三日、自午時夜、責戦之処、頼朝よりとも堪而、二十四日焼天落退彼城、不行方、但或説云、堀穴被埋たりと。
 或説云、懐石入水、巷説多端、慥雖其頸、滅亡之条勿論歟と申たり。
 太政だいじやう入道にふだうより始て、一門の人々大に悦て、景親等に懸賞の沙汰あり。

千葉足利催促事

 兵衛佐ひやうゑのすけは石橋山を出て後、三百さんびやく余騎よきにて上総国府に著給ふ。
 千葉介、上総介等が許へ使者を遣すに云、平家追討事、依院宣同心之旨、先度被相触畢、可参加之由、承伏之間、遂合戦於石橋之城郭じやうくわく畢、遅参之条、頗不其意、縦雖私之宿意、可合力之儀、況一院御定綸言明白也、旁以難黙止歟、所詮以弘経父、以胤経母、頼朝よりとも行天下否、併在両人之計と被仰たり。
 本より領掌の上也。
 千葉介胤経、三千さんぜん余騎よきにて急ぎ杉浦と云所に行向て、やがて兵衛佐ひやうゑのすけを相具し、下総国府に入奉て由々敷翫し奉る。
 胤経申けるは、爰ここに大幕百帖ばかり引散し、白旗六七十流ながれ打立候べし、是を見聞ん輩は、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのに大勢参けりとて、江戸葛西の者共皆参るべしと計ひ申ければ、然べきとて、則胤経に仰て其定に構へたり。
 案にも違はず我も/\と馳参る。
 上総介弘経は此事を聞、遅参に恐て、当国に井の北、井の南、庁の北、庁の南、まう西、まう東より始て国中こくぢゆうの輩、背をば打、随ふをば相具して、一万いちまん余騎よきにて下総国府に来り申入たりければ、佐殿は土肥次郎を以、度々被催促の処、領掌乍申、遅参御不審あり、然而沙汰の次第、最も神妙しんべう也、暫後陣にありて、可催促の由、被仰下、此勢共を相具して一万六千いちまんろくせん余騎よき也。
 弘経屋形に帰て云ひけるは、此佐殿は一定日本につぽんの大将に成り給ふべし。
 当時無勢の人におはしぬれば、此大勢にて参たらば、悦出て、耳に口を差合て、追従言など宣はんずらんと存じたれば、思ひの外に真平を以大気なく、遅参其意を得ず、後陣に在て可召と問答の条、恐し恐し、誰人にもよも荒量には討れ給はじ、必本意遂給たまひなん、末憑もしき人也。
 さるためしあり。

俵藤太将門まさかど中違事

 昔将門まさかどが東八箇国を打塞て凶賊を集め、王城へ攻入るべしと聞ゆ。
 平将軍へいしやうぐん貞盛さだもり勅宣ちよくせんを蒙て下向す。
 下野国住人ぢゆうにん俵藤太秀郷は、名高き兵にて多勢の者也けるが、将門まさかどと同意して、朝家を奉傾、日本国につぽんごくを同心にしらんと思て、行向て角と云、将門まさかど折節をりふし髪を乱てけづりけるが、余りに悦て取も不敢大童にて、而も白衣はくえにて周章あわて出合て、種々の饗応事云ひければ、秀郷目かしこく見咎て、此人の体軽骨也、墓々敷日本につぽんの主とならじとて、初対面に心替しける上に、俵藤太をもてなさんが為に、酒肴椀飯舁居て、是をすゝむ。
 将門まさかどが食ける御料、袴の上に落散けるを、自是を払ひのごひたりけり。
 是は民の振舞にや、云甲斐なしと心の底にうとみつゝ、後には貞盛さだもりに同意して、秀郷が謀を以て、将門まさかどすでに亡けり。
 其れまでこそなからめ、御前までは被召べき者を、遅参不審と宣のたまひ出し給たまひつる心の中、恐し/\、憑べき人なりと、舌を振てぞほめたりける。
 平家重恩の者、もしは縁者境界、さすが東国にも多かりければ、飛脚櫛の歯を継て六波羅へ申上けるは、兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりとも、石橋にして被討之由、雖披露、其条無実也、遁出杉山安房国、相具北条、佐々木、三浦党類、越于上総下総、召従弘経胤経已下之大名小名、既及三万八千さんまんはつせん余騎よき、其外伊豆、駿河、甲斐、信濃、同心之間、其そのせい雲霞、適有背輩、忽たちまちに依誅罰、上下甲乙皆以帰伏、但源平未定之前、勇士猶予之刻、急差下討手、可凶徒歟と申たり。
 依これによつて京中六波羅の騒動斜なのめならず、兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりともは、平治以来本望也ける上に、文覚がすゝめに、依一院院宣を蒙し後は、此営の外は他事なし。
 平家は加様に日比ひごろ源氏の内議支度のあるをも不知、如何様いかさまにも頼朝よりともに勢の付ぬさきに、追討使を下すべしと評定あり。

入道申官符

 九月四日戌時に、太政だいじやう入道にふだう手輿に乗、新院の御所に参て申けるは、源みなもとの為義ためよし、義朝よしとも父子は、法皇の御敵にて候しを、入道が謀にて、彼等二人を始て数の伴類皆手に懸て亡し候き。
 保元平治の日記と申物に見えて侍り。
 彼義朝よしともが三男に右兵衛佐うひやうゑのすけ頼朝よりともと申奴は、近江国伊吹が麓より尋出して、将てまうできて侍しを、入道が継母に池尼と申候しが、頼朝よりともを見て一旦の慈悲を発し、彼冠者あづけ給へ、敵をば生て見よと云たとへありと、低伏申侍しかば、誠にも、源氏の種をさのみ断つべきにも非ず、入道が私の敵にてもなし、只君の仰を重ずる故にこそあれと思ひ存じて、流罪に申宥て伊豆国いづのくにへ下し候ぬ、其時十三と承き。
 かね付たる小男の、生絹の直垂に小袴著て侍しを、入道が前に呼居て、事様を尋問候ひしかば、如何ありけん、事の起りしらずと申候き。
 げにも幼稚なればよもしらじなんど、青道心をなして候へば、今は哀は胸をやくと申たとへに合て侍り、定て聞し召れ候らん。
 彼頼朝よりとも伊豆国いづのくににて、計なき悪事共を此八月に仕ける由承る、されば追討の宣旨を下さるべき由相存と奏す。
 新院の仰には、左様の事申人もなし、始てこそ聞し召せ、但何事かは有べき、法皇にこそは申されめと。
 其時入道重て申様は、主上をさなく御座おはします、君はたゞしき御親にて御座おはします、差越奉りて何とか法皇に申進せ候べき。
 源氏を引思召おぼしめして、平家をにくませ給ふと覚候とくねり申。
 新院すこしわらはせ給たまひて、事新く誰を憑みたるにか、宣下の条やすし、速に大将軍を注し申べし、誰に仰付べきぞと仰けり。
 入道の計ひ申に依て、即官符を下さる。
 其状に云く、
 左弁官下 東海東山道諸国
  可早追討伊豆国いづのくにの流人右兵衛佐うひやうゑのすけ源朝臣頼朝よりとも并与力輩
 右大納言だいなごん藤原実定、宣奉勅、伊豆国いづのくにの流人前さきの右兵衛権佐うひやうゑのごんのすけみなもとの頼朝よりとも、忽相語凶悪徒党、欲掠当国隣国りんごく叛逆之甚、既絶常篇、宣下二右近衛権少将平維盛朝臣、薩摩守同忠度朝臣、参河守同知盛朝臣等討彼頼朝よりとも及与力輩、兼又東海東山道堪武勇者、同可追討、其中有殊功、可不次賞、依宣行之。
  治承四年九月六日              蔵人左中弁藤原ふぢはらの朝臣あそん経房奉とぞ被書下たる。
 入道給之大に悦、同九月は吉日なりとて、頼朝よりとも征伐の官兵等、門出あり。

牟巻 第二十三
新院厳島御幸附入道奉起請

 治承四年九月廿一日、新院又厳島の御幸あり。
 御伴には、入道大相国たいしやうこく、前さきの右大将うだいしやう宗盛、大納言だいなごん邦綱くにつな、藤大納言だいなごん実国、源宰相さいしやうの中将ちゆうじやう通親、頭左中将重衡、宮内少輔棟範、安芸守在経已下八人はちにん也。
 此御幸と申は、当院御位の時、太政だいじやう入道にふだう物狂はしくて、事に於て邪になりけるを、いかゞして宥め直さんと思召おぼしめしける程に、入道にふだう相国しやうこく、此明神の事を強に、忝申ければ、然べき事にこそあるらめ、彼社に参て祈申ばやと思召おぼしめしつゞける処に、去二月の比静なりける夜、入道御前に参て世上の事教訓申ける次に、帝王下居の後は、御幸始とて御物詣ある事に侍り、神社仏寺の間に、いづくへも思召おぼしめし立御座おはしまし候へかしと奏する時、よき次と思召おぼしめして然べく被申たり。
 厳島へと思召おぼしめす由仰ければ、入道不なのめならず悦て出立進て、三月には御参詣ありき。
 御祈誓は法皇の鳥羽殿とばどのに被打籠させ給へる御事にぞ有らんと人人思おもひ申けるに合て、鳥羽殿とばどのより事故なく都へ還御ありき。
 随て入道も被思直と聞えしかば、彼明神の験にやとぞ覚ける。
 去ば其御賽の為なるべし。
 さしも深き御志也。
 明神も争か御納受ごなふじゆなかるべき。
 御願文ごぐわんもん御自あそばして、摂政せつしやう清書せられけり。
 熊野御参詣の事に思召おぼしめしけれ共、仰出す御事もなかりけるに、頼朝よりとも追討の宣下の後、入道又夜に入て参たりけるに、新院の仰には、東国の兵乱の事、頼朝よりともは一人也、討手の使は三人也、別の事あらじ、心安こころやすくこそ思召おぼしめせ、早く其祈可申、先厳島へ被参よかし、さらば是も思たゝんと仰下さる。
 入道余あまりの嬉さに手を合悦泣して、関東へは若者共を差下て候へば、実に何事かは侍べき、鳥風ならばこそ此等を差越ては頼朝よりともに勢付べき、皆々禦留なん憑しく候、勅定のごとく厳島へ御伴仕て、天下安穏の事を祈申べしとて俄にはかに出し立進て御幸あり。
 彼島に著せ給たまひて、御参社以前に、入道と宗盛と父子二人、院の御前に参よりて、自余じよの人々をば被除て、入道被申けるは、東国の乱逆に依て頼朝よりともを可追討之由、御宣下の上は、不審候はねども、源氏に一つ御心あらじと御起請あそばして、入道に給御座おはしまし候へ、心安こころやすく存じいよ/\御宮仕申候べし、此言聞召入きこしめしいれられずば、君をば此島に捨置進て帰上候なんと申ければ、新院少しもさわがせ給はず、良御計有て、今めかし、年来何事をか入道のそれ申事背たる、今明始て二心ある身と思ふらんこそ本意なければ、彼起請いとやすし、いかにもいはんに随ふべしと仰有ければ、前さきの右大将うだいしやう硯紙執進せり。
 入道近参て耳語申ければ、其儘にあそばしてたびぬ。
 入道披之拝て、今こそ憑しく候へとてほくそ笑て、大将に見せらる。
 宗盛此上は左右の事有べからずと申。
 相国取て懐に入て立給けるが、よにも心地よげにて、各御前へ参らせ給へと申ける時、邦綱卿くにつなのきやう参たり。
 あやしと思はれけれ共、人々口を閉て申事もなかりけるに、重衡朝臣いかにぞやと阿翁にさゝやきければ、打うなづきて心得こころえたる体也けれ共、御伴の人々は其心を得ず、国庄を給り給へる歟、いかばかりの悦し給へるぞと、いとおぼつかなく思はれたり。
 其後御社参ありて、神馬神宝進て御啓白あり。
 新院御宸筆ごしんぴつ御願文ごぐわんもん云、〈高倉院たかくらのゐんの御事也〉
 蓋聞法性山静、十四十五之月高晴、権化地深、一陰一陽之風旁扇、方便力用不測量者歟、夫厳島者、名称普聞之場、効験無双之砌みぎり也、遥嶺之廻社壇也、自顕大悲之高峙、巨海之及祠宇也、暗表弘誓之深湛、仰之明徳在頂、現当之望必満帰之、答きやう随心鏡谷之応惟新也、凡卒土之浜靡然向風、伏惟、初以庸昧之身、忝蹈皇王之位、握乾符兮、顧微分鎮迷南面之理、政望四海兮、恥薄徳更無万民之威、仁仍守謙遜於れい郷れいきやう之訓、楽閑放於射山之属、而後偸抽一心之精誠、先詣孤島之幽、遂機感純熟、欽仰弥切者也、是宿善之所致也、豈非深信令一レ然乎、況瑞籬之下、仰冥恩懇念而、流汗宝宮之裏、垂霊詫其告之銘一レ肝、就なかんづく殊指怖畏謹慎之期、専当季夏初秋之候、而間病痾忽侵、弥思神威之不一レ空、萍桂頻転、猶医術施一レ験、雖祈祷、難霧霞、不心府之志、重欲斗籔之行、因茲白蔵已闌之律、玄英漸近之、天殊専斉蕭遂以予参、漠々寒嵐之底、臥旅泊而破夢、凄々微陽之前、望遠路而極眼、遂就枌楡之砌みぎり、敬展清浄之筵、奉写色紙墨字妙法蓮華経一部八巻、開結般若心阿弥陀あみだ等経各一巻、手自奉写金泥提婆品一巻、文々之尽懇精、正施紫摩於瑠璃之上字々之隔妙跡漂波於張池之中、沖襟之至、世垂哀愍、于時蒼松蒼栢之陰、共添善利之種、潮去潮来之響、暗和梵唄之声、法会得処、随喜双催、抑弟子辞北闕之雲、八箇日矣、雖涼燠之多、廻凌西海之浪二箇度焉、誠知機縁之不浅帰依之思此故増進渇仰之志因茲竪固、加之、今度忝至苔庭松府神、而有我願、殊以白業紫宮、一日万機之化、広被竜図鳳展之運、惟久、弟子病患忽散、伝淮南道士之方、寿算無疆論、山中射若之命、抑当社者、混俗塵而済生、利人界、而振徳、或三公九卿之臣、或芻蕘台齢之輩、朝祈之客匪一、暮賽之者且千、但尊貴之帰敬雖多、院宮之往来未之、禅定法皇初貽其儀、弟子べう身べうしん徐運其志、彼崇高山之月前、漢武未和光わくわう之影、蓬莱洞之雲底、天仙空隔垂跡すいしやく之塵、如当社者、曾無此類、仰願大明神だいみやうじん、伏乞一乗経、新照丹祈、忽彰玄応、敬白。
     治承四年九月二十一日        太上天皇てんわう〈御諱〉敬白
とぞ有ける。
 御伴人々参社の神女までも随喜の思を成て、いよ/\明神の効験をぞ貴みける。

朝敵追討例附駅路鈴事

 同廿二日に追討使官符を帯して福原の新都を立。
 大将軍三人の内、権亮少将維盛朝臣は、平将軍へいしやうぐんより九代、正盛より五代、大相国たいしやうこくの嫡孫重盛しげもりの一男なれば、平家嫡々の正統也。
 今凶徒の逆乱を成に依て、大将軍に被撰たり。
 薩摩守忠度は入道の舎弟しやてい也、熊野より生立て心猛者と聞ゆ。
 古郡より可相具と沙汰あり。
 参河守知度は入道の乙子也。
 侍には上総介忠清ただきよを始として、伊藤有官無官むくわん、惣而五万余騎よきとぞ聞えける。
 長井ながゐの斎藤別当真盛は、東国の案内者とて先陣をたぶ。
 抑朝敵追討のために、外土へ向ふ先例を尋に、大将軍先参代して節刀を給るに、宸儀は南殿に出御し、近衛司は階下に陣を引、内弁外弁の公卿参列して中儀の節会を被行。
 大将軍副将軍、各礼儀を正しくして是を給る。
 されども承平天慶之前蹤、年久して難准とて、今度は堀川院ほりかはのゐんの御宇ぎよう嘉承二年十二月に、因幡守平正盛が、前対馬守源みなもとの義親を追討の為に出雲国へ発向せし例とぞ聞えし。
 鈴ばかりを給たまひて、革袋に入て、人の頸に懸たりけるとかや。
 朱雀院の御宇ぎよう承平年中に、武蔵権守平将門まさかどが、下総国相馬郡に居住して八箇国を押領し、自平親王と称して都へ責上、帝位を傾奉らんと云謀叛を思立聞有ければ、花洛の騒不なのめならず
 依これによつて天台山当時の貫首、法性坊大僧都だいそうづ尊意蒙勅命、延暦寺えんりやくじの講堂かうだうにして、承平二年二月に、将門まさかど調伏の為に不動安鎮の法を修す。
 加之諸寺の諸僧に仰て、降伏の祈誓怠らず、又追討使を被下けり。
 今の維盛先祖平貞盛さだもり無官むくわんにして上平太と云けるが、兵の聞え有けるに依て被仰下けり。
 貞盛さだもり宣旨を蒙て、例ある事なれば節刀を給り鈴を給り、大将軍の礼義振舞て、弓場殿の南の小戸より罷出、ゆゝしくぞ見えし。
 大将軍は貞盛さだもり、副将軍は宇治民部卿忠文、刑部大輔藤原忠舒、右京亮藤原国もと、大監物平清基、散位源就国、散位源経基等相従て東国へ発向す。
 貞盛さだもり已下の勇士東路に打向ひはる/゛\と下けり。
 道すがら様々やさしき事も猛事も哀なる事も有ける中に、駿河国富士の麓野、浮島原を前に当て、清見関に宿けり。
 此関の有様ありさま、右を望ば海水広く湛て、眼雲の浪に迷、左を顧れば長山聳連て、耳松風に冷じ。
 身をそばめて行、足を峙て歩む、釣する海人の、通夜浪に消ざる篝火、世渡人の習とて、浮ぬ沈ぬ漕けるを、軍監清原の滋藤と云者、副将軍民部卿忠文に伴て下けるが、此形勢ありさまを見て、
  漁舟火影冷焼波、駅路鈴声夜過
と云唐歌を詠じければ、折から優に聞えつゝ、皆人涙を流けり。
 漁舟とは、すなどりする船なり。
 火の影は、彼舟には篝の火をたけば、諸の魚の集りてとらるゝ也。
 冷焼波とは、水にうつろふ篝の火の、波をやく様に見ゆる也。
 駅路とは旅の宿なり。
 鈴の声とは、大国には馬に鈴を付て仕へば、よもすがら旅の馬山を過けるを、かく云ける也。
 貞盛さだもり朝敵追討の蒙宣旨、凶徒降伏の鈴を給り、此関に宿たる折節をりふし、釣する海人が篝を焼て魚をとる有様ありさま思知られければ、かく詠じけるにこそ。

貞盛さだもり将門まさかど合戦附勧賞事

 下野国住人ぢゆうにん俵藤太秀郷は、将門まさかど追討の使、下べき由聞えければ、平親王にくみせんとて行向たりけるに、大将軍の相なしと見うとみて、憑み憑まんと偽て、本国に帰、貞盛さだもりを待受て相従てぞ下ける。
 承平三年二月十三日、貞盛さだもり已下の官兵将門まさかどが館へ発向す。
 将門まさかどは下総国辛島郡北山と云所に陣を取、其そのせいわづかに四千しせん余騎よき
 同おなじき十四日未時に矢合して散々さんざんに戦。
 官兵凶徒に撃変されて、死する者八十余人よにん、疵を蒙る者数をしらず。
 貞盛さだもり秀郷等引退刻に、二千九百人の官軍落失ぬ。
 将門まさかど勝に乗て責戦時、貞盛さだもり秀郷等精兵二百にひやく余人よにんをそろへて、身命を棄て返合て戦けり。
 爰ここに将門まさかど自甲冑を著、駿馬を疾て先陣に進みて戦処に、王事靡塩、天罰正顕て、馬は風飛歩を忘、人は李老之術を失へり。
 其上法性坊調伏の祈誓にこたへつゝ、神鏑頂に中て将門まさかど終に亡けり。
 同四月二十五日、将門まさかどが首都へ上る。
 大路を渡て左の獄門の木に懸らる。
 哀哉昨日は東夷の親王とかしづかれて威を振、今日は北闕に逆賊と成て恥をさらす事を。
 貪徳背公、宛如威践鉾之虎と云本文あり、最慎べき事也けり。
 貞盛さだもり又希有にして遁上れり。
 譬へば馬前の秣は野原に遺り、爼上の魚の江海に帰が如し。
 帝運の然らしむると云ながら、武芸のよく秀たる事を感じけり。
 将門まさかどが舎弟しやてい将頼、并ならびに常陸介藤原玄茂は、相模国さがみのくににて討れけり。
 武蔵権守興世は上総国にして被誅。
 坂上近高、藤原玄明、常陸国にて切れたり。
 伴ふ類与党多かりけれ共、妻子を捨て入道出家して山林に迷けり。
 将門まさかど追討の勧賞被行けり。
 左大臣実頼〈小野宮殿〉、右大臣師輔〈九条殿〉已下、公卿殿上人てんじやうびと陣の座に列し給へり。
 大将軍貞盛さだもりは上平太なりけるが、正五位に叙して平将軍へいしやうぐんの宣旨を蒙る。
 藤原秀郷は従四位下じゆしゐのげに叙して、武蔵下野両国の押領使を給り、右馬助うまのすけ源経基は従五位下に叙して、太宰の少弐に任けり。
 次副将軍忠文卿の勧賞の事沙汰有けるに、小野宮殿の御義に云、今度の合戦偏へに大将軍の忠にあり、副将軍は功なきが如し、恩賞不輙と申させ給けるに、重て九条殿の仰に、兵を選て賊徒を誅する事、大将軍も副将軍も、共に詔命に依りて敵陣に向ふ。
 大将軍の先陣に勇事は、後陣の副将軍の勢を憑むゆゑ也。
 副将軍の後陣に踉らふことは、大将軍の進退を守、共に以て午角也、争か朝恩なからん。
 但大将軍の賞ほどこそなく共、おほ様おほやうなる勲功候べきをやと度々被奏けるに、小野宮殿さのみ勧賞無念に候、忠による禄なるべしと、固く諌申させ給たまひければ、民部卿終に漏にけり。

忠文祝神附追使門出

 爰ここに忠文大悪心を起して、面目なく内裏を罷出けるが、天も響き地も崩るゝ計の大音声を放云けるは、口惜事也、同勅命を蒙て同朝敵を平ぐ、一人は賞に預り一人は恩に漏る、小野宮殿の御計、生々世々しやうじやうせせ忘、されば家門衰弊し給たまひて、其末葉たらん人は、ながく九条殿の御子孫の奴婢と成給ふべしとて、高くののしり手をはたと打て拳を把りたりければ、左右の八の爪、手の甲に通り、血流れ出ければ紅を絞りたるが如し。
 やがて宿所に帰り飲食を断、思死に失にけり。
 悪霊と成て様々おそろしき事共有ければ、怨霊を宥申べしとて、忠文を神と祝奉、宇治に離宮明神と申は是也。
 誠に其恨の通りけるにや、小野宮殿の御子孫は絶給へるが如し。
 たま/\まします人も、必皆九条殿の奴婢とぞ成給へる。
 九条殿は一言の情に依て、摂政せつしやう関白くわんばく今に絶させ給はず、朝敵を平げたる形勢ありさま、上代はかくこそ有けるに、新都の大裏、討手の大将、礼儀忘れたるが如く、儀式前蹤を守らず、いさ/\維盛の追討使、事行がたし、只物の為歟とぞ内々は傾申ける。
 二十二日に福原の京を立たりけるが、其そのは昆陽野に宿す。
 二十三日に故京に著、二十四五六日は逗留す。
 各鎧甲よろひかぶとより始て、弓箭馬鞍、かゞやくばかり出立たりければ、見人目を驚す。
 維盛は赤地錦直垂に、大頸端袖は紺地の錦にてぞたゝれたる。
 萌黄匂の糸威の鎧に金覆輪を懸たり。
 連銭葦毛れんせんあしげの馬の太逞きに、鋳懸地の黄覆輪の鞍置たり。
 年二十二、美め形勝たり。
 絵にかく共、筆も難及とぞ見えたりける。
 薩摩守忠度の許へ、志深き女房の小袖を一重贈りたりけるに、いひおこせたりけるは、
  東路の草葉を分る袖よりもたゝぬ袂たもとは露ぞこぼるゝ
 忠度の返事には、
  別路を何歎くらん越て行く関をむかしの跡と思へば
と、此返事は先祖の貞盛さだもり、将門まさかど追討の為に大将軍に選れて、東国へ下りし事を思出してよめるにや。
 女房の歌は、大方の余波にてさる事なれ共、忠度の歌は、軍の門出にいま/\しき事哉とぞ申ける。
 各既すでに出立ぬ。
 二十七日にじふしちにちには近江の国野路の宿につく。
 二十八日にじふはちにち同国蒲生野に著。
 廿九日に同国小野宿に著。
 晦日美濃国府に著。
 十月一日同国墨俣につく。
 二日尾張国萱津宿に著、三日同国鳴海に著。
 四日三川国矢矧につく。
 五日同国豊川に著。
 六日遠江国橋本につき、七日同国池田宿につく。
 八日同国懸川の宿に著。
 九日同国波津蔵につき、十日駿河国府につく。
 其より清見関まで攻下たれども、国々の兵随付勢なし。
 適ある者も山野にぞ逃隠ける。
 道すがら人のたくはへ持るもの共、打入打入奪取ければ、世の乱人の歎不なのめならず

源氏隅田河原取陣事

 兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりともは、平家の軍兵東国へ下向の由聞給たまひて、武蔵と下総との境なる隅田川原に陣を取て、国々の兵を被召けり。
 爰ここに武蔵国住人ぢゆうにん、江戸太郎、葛西三郎、一類眷属引率して参たり。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどののたまひけるは、彼輩は衣笠にして御方を討者共也、参上の体尤不審あり、大場畠山に同意して後矢射べき謀にやと宣のたまひければ、様々陣申に依て被宥けり。
 兵衛佐ひやうゑのすけ上総介八郎を召て、今一両日此に逗留して、上野下野の勢を催立て、渡瀬を廻て打上らん事如何あるべきと宣へば、弘経畏て、其事悪く候なん、其故は、小松少将維盛大将軍として、侍には上総守かづさのかみ忠清ただきよ等、数万騎の勢を引率して下向と聞え候。
 斎藤別当真盛、東国の案内者にて一陣と承。
 日数を経るならば、武蔵相模の勇士等、大場畠山が下知に随て平家の方へ参べし。
 されば急ぎ此川を渡して足柄を後にあて、富士川を前に請て陣を取ならば、武蔵相模の者共は必御方へ参候べし。
 此両国の兵共つはものども随参なば、日本国につぽんごくは我御儘と被思召おぼしめさるべし。
 上野下野の輩は、とても追継追継に馳参べしと計申ければ、然べしとて、江戸葛西に仰て浮橋渡すべしと下知せらる。
 江戸葛西は、石橋にして佐殿を奉射し事恐思けるに、此仰を蒙て悦をなして、在家をこぼちて浮橋尋常に渡たり。
 軍兵是より打渡して、武蔵国豊島の上、滝野河松橋と云所に陣を取。
 其そのせい既十万余騎よき、懸りければ八箇国の大名、小名、別当、庄司、検校けんげう、允、介なんど云までも、二十騎にじつき三十騎さんじつき五十騎ごじつき百騎、白旗白じるし付つゝ、此彼より参集。
 佐殿はいとゞ力付給たまひて、先当国六所大明神だいみやうじんに御参詣ありて、神馬を引上矢を奉られたり。

畠山推参附大場降人事

 〔斯る処に〕畠山庄司次郎は、半沢六郎を呼て云けるは、此世の中いかゞ有べき、倩兵衛佐殿ひやうゑのすけどのの繁昌し給ふを見るに直事に非ず、八箇国の大名小名皆帰伏の上は、参るべきにこそあるか、指たる意趣はなけれ共、父の庄司、伯父の別当、平家に当参の間、憖なまじひに小坪坂にて三浦と合戦す、されば参らんも恐あり、参らでもいかゞ有べき、相計と云ければ、成清申けるは、たゞ平に御参候へ、小坪の軍は三浦の殿原存知あるらん、弓矢取身は父子両方に別れ、兄弟左右にあつて合戦する事尋常也、保元の先蹤近例也、且は又平家は当時一旦の恩、佐殿は相伝四代の君也、御参候はんに其恐有べからず、若御遅参あらば一定討手を被差遣候べし、其条ゆゝしき御大事おんだいじ也、急御参ありて、何事も陳じ申させ給ふべしと云ければ、五百ごひやく余騎よきを相具して、白旗白弓袋を指上て参たり。
 生年十七歳、容儀事様実に一方の大将軍と見えたり。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどののたまひけるは、父重能伯父有重、平家に奉公して当時在京也、不知東国の案内者して、今度の討手にもや下るらん、されば一門を引別て、父子敵対せんと思ふべきに非ず、就なかんづく小坪坂にして御方を射き、其上所白旗、全く頼朝よりともが旗に相違なし、兵衛佐ひやうゑのすけだにもさす旗也、重忠不劣と思にや、参上之条旁以不審也と仰ければ、重忠畏て陳じ申けるは、小坪の合戦の事、三浦に於て私の宿意なく、君の御為に不忠候はぬ由、再三問答の処に、不慮の合戦に及候き、三浦の人々に御尋おんたづねあらば其隠候まじ、旗の事是私の結構けつこうにあらず、君の御先祖八幡殿、宣旨を蒙らせ給たまひて武平、家平を追討の時、重忠が、四代祖父秩父の十郎武綱、初参して侍りければ、此白旗を給たまはつて先陣を勤め、武平以下の凶徒を誅し候畢ぬ。
 近は御舎兄悪源太殿、上野国大蔵の館にて、多古の先生殿を攻られける時、父の庄司重能、又此旗を差て即攻落し奉り候ぬ。
 されば源氏の御為には御祝の旗也とて、吉例と名を付て、代々相伝仕る。
 されば君御代を知召べき御軍なれば、先祖代々の吉例を指て参たりと申せば、佐殿は土肥、千葉を召て、此事いかゞ有べきと仰合す。
 御返事おんへんじには、当時畠山を御勘当努々有べからず、就なかんづく陳じ申処一々に其請候、極実法の者に候へば、向後も御憑あらんに、一方の大将軍をば承るべき者にて侍り、其に御勘当あらば、武蔵相模の者共、此は人の上にあらず、畠山だにもかく罪せられ、増て我等われらはとて更に参候まじ、誰々も此等をぞ守り候らんと計申ければ、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのは、所陳申聞召きこしめされぬ、頼朝よりとも日本国につぽんごくを鎮むほどは、汝先陣を勤べし、但汝が旗の、余にとりかへもなく似たるに、是を押とて藍皮一文を賜下し給へり。
 其より畠山が旗の注には、小紋の藍皮を押ける也。
 畠山既すでに参て先陣を給と披露有ければ、武蔵相模の住人ぢゆうにん等我も/\と参けり。
 大場三郎景親は、今は叶はじと思て、三千さんぜん余騎よきにて平家の御迎として上洛しけるが、足柄山を起てあひ沢宿に著、前には甲斐源氏、二万にまん余騎よきにて駿河国に越て東国の勢を待。
 後には兵衛佐殿ひやうゑのすけどの、雲霞の如く責上と聞えければ、中間に被取籠ていかゞせんと色を失ひて仰天しければ、家人郎等憑なくて思々落失ぬ。
 景親心弱成て、鎧の一の草摺切落して二所権現に奉り、足柄より北星山と云所に逃籠て息つき居たり。
 其外石橋の軍に佐殿を射し輩、皆頸を延て参集る。
 重科の者は忽たちまちに切らるべきにて有けれ共、宗徒の大場をすかし出さん為に宣のたまひけるは、罪科雖遁、降人として参る上は咎を行ふに及ばず、但各軍に忠を尽すべし、忠により還て賞あるべしなど御沙汰ごさた在て、馬鞍などたびて宥め具し給たまひければ、命ばかりは生べきにこそとて、各先陣に進みて忠を抽でんと思ひけり。
 斯しかば大場も終に首を延て参けり。
 源氏は加様に大勢招集て、足柄山を打越て、伊豆いづの国府に著て三島大明神だいみやうじんを伏拝み、木瀬川宿、車返、富士の麓野原中宿、多胡宿、富士川のはた、木の下草の中にみち/\たり。
 其そのせい二十万六千にじふまんろくせん余騎よきとぞ注したる。

平氏清見関下事

 平家は東路に日数を経つゝ、路次の兵召具して、五万余騎よきにて駿河国清見が関まで責下れり。
 旅の空の習は、哀を催事多けれ共、此関ことに面白し、実に伝聞しよりも猶興を催す。
 南と西とを見渡せば、天と海と一にて、高低眼を迷はせり。
 東と北とに行向ば、磯と山と境て、嶮難足をつまだてたり。
 岩根に寄る白浪は、時さだめなき花なれや、尾上に渡る青嵐も、折しりがほにいと冷。
 汀みぎはに遊鴎鳥、群居て水に戯れ、叢に住虫の音、とり/゛\心を痛しむ。
 其より沖津、国崎、湯井、蒲原、富士川の西のはた迄責寄たり。
 此河の有様ありさま、水上は信濃より流とかや、此より南へ落たり。
 渚なぎさは大海へ二里ばかり有と云。
 河の広さ、或一町ばかり或は二町ばかり、水濁て浪高し。
 流の早事立板に水を懸に似たり。
 まして雨降水出たらん時は向べきに非ず。
 東西の河原も遠広に、西の耳には平家赤旗を捧て固め、東の河原には源氏白旗を捧たり。
 源氏の方よりは、安田冠者義貞先陣に有けるが、時々使者を立て、其へ参べきか、是へ御渡有べき歟、見参何時ぞや、名対面共して、何方よりも忽たちまちに寄べき様もなし。
 かく空く日数をふる、大なる鬱なりとする間に、屋形共を指上て、閑に幔幕引て居たりなどする程に、東国広ければにや、源氏の勢いや/\に付て、勢もの恐しく見ゆ。
 白旗の風に吹るゝ事は、さゞ浪なんどの様にぞ有ける。
 権亮少将維盛は斎藤別当を召て、抑頼朝よりともが勢の中に、己程の弓勢の者いくら程かある、東国の者なれば案内は知たるらんと問給へば、真盛などをよき者と思召おぼしめし候か、弓は三人張五人張、矢束は弓に似たる事なれば、十四束十五束、あきまをかぞへて矢継早し、一矢にて二三人をも射落されば、鎧は二領にりやう三領をも射貫候、惣じて英矢射者なし、加様の者、大名一人が中に廿人卅人は候らん、無下の荒郷一所が主にも二人三人は侍るらん、馬は牧の内より心に任て撰取り立飼たれば、早走の曲進退の逸物を、一人して五匹十匹ひかせたり、彼馬乗負せて、朝夕鹿狩狐狩して、山林を家と思て馳習たれば、乗とは知れども落事なし、坂東武者の習にて、父が死ばとて子も引ず、子が討ればとて親も退ず、死ぬるが上を乗越乗越、死生不知に戦ふ、真盛なんどを其に並候へば、物の数にも非ず、御方の兵と申は畿内近国の駈武者なれば、親手負ば、其に事付て一門引つれて子は退、主討れば、郎等はよき次とて兄弟相具して落失ぬ、馬と云は博労馬の、兎角つくろひ飼たれば、京出ばかりこそ首をも少持挙侍りしか、はや乗損じて物の用に難叶、東国の荒手の馬に一当あてられなば、更に立あがるべからず、されば馬と云人と云、西国さいこくの者共二十騎にじつき三十騎さんじつきぞ東国の一騎いつきに当り候はんずる。
 其に御方の勢は五万余騎よき、源氏は聞体廿万騎、縦同勢也共、敵対に及ばじ、況四分が一也、大勢に蒐立られなば、彼等は国々の案内者、野山を跼て知らぬ所なし、御方は西国さいこくさまの者也、始て来旅なれば、道ばかりこそ覚え候らめ、されば東国の者共が前をきり後に塞りて、中に取籠戦候はんには、やは一人も遁出べき、ゆゝしき大事に侍り、是に付ても哀とく御下向在て、武蔵相模の勢を靡かして攻下らせ給へと、再三申候し物を、後悔先に立ぬ事なれ共、口惜候者哉、今度の軍、いかにも叶べきとも存ぜず。

真盛京上附平家逃上事

 真盛は大臣殿の御恩山よりも高く、海よりも深く蒙て候、今度いかなる事もあらんには見奉らん事かたし、御暇を給たまひて罷上り、大臣殿見進せ、又こそ帰り参らめとて、一千いつせん余騎よきを引分て京へ上にけり。
 権亮少将維盛は、むねと東国の案内者に憑み給ける真盛は叶じとて上りぬ。
 心弱は思はれけれ共、軍兵に力をそへんとて、よし/\真盛がなき所には軍はせぬかとて留り給へり。
 上総介忠清ただきよを先陣に差向給へ共、ためらひて進み戦ふ事なし。
 維盛は忠清ただきよが計に随て進給はず。
 斯ければ猛思ふ者も少々有けれども、一人かけ出べきならねば、支て待ほどに、南海道西海道の勢は、下るらんなんど申合けるに、月の比も過て闇に成ぬ、互に人のかよふ事なければ、目にのみ見に、御方には付副勢なし。
 源氏は日にそへ時を遂て雲霞の如くに集る。
 さはあれ共、此川を何方よりも渡すべき様なければ、平家の方には宿々より傾城どもを迎て、帯ときひろげて、歌よみ酒盛して居たり。
 源氏の方には、明日廿四日に矢合有べしとて内談あり、終よもすがら篝の火をぞ焼たりける。
 宿々浦々に充満て、沢辺の蛍の飛集たるに似たり。
 平家の方にも如形篝火を焼、夜も漸深ければ、各寝入て有けるに、夜半ばかりに、富士の沼に群居たりける水鳥の、いくら共なく有けるが、源氏の兵共つはものどもの、物具もののぐのざゝめく音、馬の啼声などに驚て立ける羽音のおびたゞしかりけるに驚て、源氏の近付て時を造るぞと心得こころえて、すはや敵の寄たるはと云程こそ有けれ、平家は大将軍を始として、取物も取敢とりあへず、甲冑を忘れ弓箙をおとし、長持皮籠馬鞍共に至まで捨て迷上。
 親は子をも不知、従者は主をも顧ず、只我先我先にとぞ落たりける。
 此日比ひごろ呼集て遊つる遊君ども、或は踏殺或手足踏折られて、跋々泣逃去けり。
 見逃と云事は昔より申伝たり。
 其だにも心憂かるべし。
 是は聞逃也。
 源氏は角とも不知して、二十四日暁にくつばみをそろへて瀬踏して、時を造て寄たれども、平家の陣には人もなし。
 其跡を廻て見に忘たる物ども多し。
 大に恠をなす。
 若京都にて、源氏の方人の悪事を始たるに依て、馳上たるやらんと云合程に、頭を踏わられて病臥る女一人あり。
 こはいかにと問へば、此日比ひごろ是にて遊つるが、過ぬる宵まではさりげもなかりつ、寝入て後夜半計に、此殿原騒ぎ周章あわて振迷て立つる時、馬に踏れてかく侍り、其時は水鳥の羽音のおびたゞしく有つると云。
 源氏の兵申けるは、げにも今夜の鳥の羽音は、常よりも夥おびたたしかりつる也、哀聞ならはで、其に驚て敵の時を造るかとて、京家の者共なれば、寝ほれて逃たるよなと笑けり。
 矢合の討手の使の矢一つだにも不いずして逃上たるいまいましさよ、行末も正にはか/゛\しき事あらじと、京中の上下、安き口にはさゝやきけり。
 物しれる人の云けるは、勇士臥野帰鴈乱連と云本文あり。
 されば水鳥の雲に飛散は、敵沼近くあると心得こころうべし、縦其を聞損じて時の音と思とも、矢合してこそ逃め、音は合するにも及ばずして落ぬる事心憂し、又小児共の読む百詠と云小文に、鴨集て動ずれば成雷と云事あり、去共其文を読たる人も有けんに、不思出ける口惜さよとて瓜弾をぞしける。
 又いかなる者か申出したりけん、鳩は八幡大菩薩はちまんだいぼさつの使者ぞかし、源氏守護の為に、彼水鳥の中には鳩のあまた交て有りけるとかや。
 天には口なし人を以ていはせよと云、此事さもやと覚えたり。

新院自厳島還御附新院恐御起請附落書事

 十月六日、新院厳島より還御あり。
 遥々はるばるの海路を御舟にて、事故なく還上らせ給ぞ御目出し。
 源中将通親卿、御前に参て被申けるは、哀面影に立給ふ西海の浪路かな、和光わくわうの恵とり/゛\にこそ侍れ、或は深山しんざん岩窟に瑞籬をしめて、野獣を導く神明もあり、或は海岸水辺に社壇を並て、淵魚を助る霊応もあり。
 実に厳島の景気奉拝候ひし思出にこそ侍れ。
 去にても彼島にては、なに文をあそばし、大相国たいしやうこくには給り候しにやと申せば、新院軈やがてはら/\と御涙おんなみだを流して、去事有き、彼文かゝずは、朕を捨て上らんと云しかば、源氏に一つ心ならじと、入道が云の儘に、起請を書てたびたりし也。
 ながらへば見るらめずらん、我は入道にせため殺れんずるぞ、いさ/\為義ためよし、義朝よしともが悪事とかやも、みねば不知召、其もやは苟も一天の主に、直に祭文かけとは申行ひけん、是を目ざましと思は、我身の起請にうてて世に有まじきゆゑ也と、泣々なくなくさゝやかせ給けり。
 通親卿も涙ぐみ畏て、其事御歎に及べからず、人の持る物を心の外にすかし取、人をおどして思様の文をかゝせんと仕るをば、乞素圧状と申て政道にも不用、神も仏も捨させ給ふ事にて候ぞ、さやうに申行ふこそ還て其身の咎にて侍れば、空恐しく候、何かは御苦み候べきと、忍やかに急度被慰申けり。
 十一日に、夢野と云所に新しき御所を造て御渡有べき由、入道にふだう相国しやうこく申ければ、法皇御輿に召て御幸あり。
 左京大夫脩範一人ぞ御伴には候ひける。
 名もいまいましき楼の御所を出させ給たまひて、尋常の御所に移り入せ御座おはしまして御心安おんこころやすくも、厳島の御幸の験にやとぞ被思召おぼしめされける。
 彼明神と申は安芸国第一の鎮守ちんじゆ也。
 国務の人はまづ此神拝を専にす。
 入道にふだう相国しやうこくの世に聞え公に仕つりし時は当国守たりき。
 明神の加護にて加様の事を施す。
 されば入道の心をば明神ぞ宥給はんと思召おぼしめし取て、新院は二度まで御幸あり、世の末の物語ものがたり也。
 知ず我御子孫を、末の世の百王迄も朝家の御主として、御父の法皇に世を政奉り給はば、我御命をめせなど、祈申させ給けるにやと、後には思合せけり。
 十一月十一日には、五条ごでうの大納言だいなごん邦綱卿くにつなのきやう、郷内裏造出て主上行幸あり。
 彼大納言だいなごんは大福長者にて、世の人大事にしけり。
 懸ければ程なく造進せられたりけれ共、遷幸の儀式は世の常ならずと申けり。
 十五日東国下向の討手の使、空く帰上て古京に著、軍に向ては、命を失ふとこそ聞に、一人もかけず上られたるこそいみじけれ。
 逃るをば剛者と云事有とて人皆笑あへり。
 太政だいじやう入道殿にふだうどのの門に落書あり、奈良法師の読たりけるとかや。
  富士川のせゞの岩越水よりも早くも落るいせ平氏哉
 平家と書てはひらやとよむ、家のまろび倒れんずるには、助と云ひて柱の代に大なる木を以てさゝへ直事あり。
 平家の大将軍に下給へる権亮少将落ければ、右大将うだいしやう宗盛の騒歎給ふらんと云にそへて、
  ひらやなる宗盛いかにさわぐらん柱とたのむ助を落して
 又源氏推寄たれ共敵もなし。
 富士川のはたを見れば、物具もののぐ多捨たる中に、忠清ただきよと銘書たる鎧唐櫃一合あり。
 武者の具をば既すでに捨ぬ、今は遁世とんせいして墨染の衣をきよとも読たり。
  富士川に鎧は捨てつ墨染の衣たゞきよのちの世のため
と、又上総守かづさのかみといへば、其国の器によそへても読たり。
  忠清ただきよはにげの馬にや乗つらん懸ぬに落るかづさしりがい
 入道は是を見彼を聞くに付ても安からず思はれければ、権亮少将をば鬼界が島へ流し失へ、忠清ただきよをば首を刎よとぞ嗔り給たまひける。

義経軍陣来事

 平家はかく逃上けれ共、源氏は猶浮島原に陣を取て御座おはしましける。
 爰齢二十余、色白く勢小男の、顔魂眼居指過て見えけるに、郎等廿余騎よきを相具して、陣前に出来て名乗けるは、是は故左馬頭殿さまのかみどのの子息、九条曹子常盤が腹に牛若と申侍りしが、後には遮那王とて、京の北山鞍馬寺に有しか共、世中住侘て、奥州あうしうに落下て男になり、九郎冠者義経と申者にて侍るが、佐殿一院の御諚を蒙らせ給たまひて、平家追討の披露あるに依て、一門の我執を存じ、御力をつけ奉らん為に夜を日に継て馳参つて候、申入させ給へと宣のたまひければ、兵衛佐ひやうゑのすけ聞敢涙を流し請じ入給たまひて、いかにや/\去事候らん、頼朝よりとも勅勘を蒙りし身なれば、音信いんしん叶候き。
 平家追討の院宣を下給たまひて後は、他事なく其営の間、急と思ひよらざりつるに、聞敢ず御渡り、嬉しとは事も疎に侍り、昔八幡殿の後三年の合戦の時、弟に兵衛尉義綱は、折節をりふし帝王に事候けるが、兄の向後の覚束おぼつかなさに、御暇を給たまひて罷下べき由奏聞しけれ共、御免なかりければ、陣家に絃袋を懸て逃下て、金沢の館へ参向したりければ、八幡殿殊に悦給たまひて、故頼義らいぎの朝臣あつそんの御座おはしましたるとこそ覚ゆれとて、涙を流し給けり。
 唯今御辺ごへんの御渡、ためし少も違はず、故左馬頭殿さまのかみどのとこそ奉見候へとて、互に袖を絞り給へば、大名も小名も皆鎧の袖をぬらしけり。
 兄弟内に鬩外に禦敵とは此言にや。

頼朝よりとも鎌倉入勧賞附平家方人罪科事

 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのは、其より鎌倉へ帰入て様々事行し給けり。
 先勧賞有べしとて、遠江をば安田三郎に給ふ。
 駿河をば一条次郎に給。
 上総をば介八郎に給ふ。
 下総をば千葉介に給。
 其外奉公の忠により、人望の品に随て、国々庄々を分給けり。
 次に罪科の輩其沙汰あるべしとて、大場三郎景親をば、介八郎預つて誡置たりけるを、縄付引張り御前の大庭へ将参たり。
 舎兄に懐島平権頭、人手に懸んよりとて申給たまひて切てけり。
 其子の太郎をば足利あしかがの又太郎またたらう承て切、俣野五郎は難遁身也とて、忍て京へ逃上にけり。
 海老党に荻野五郎末重は、石橋軍の時源氏の名折に、何に敵に後をば見せ給ぞ、返給返給へと申たりし者也、裸になし引張て将参れり。
 佐殿は、いかに末重、石橋の合戦の時の詞は忘ずやとて、門外にて切られけり。
 舎弟しやてい二人子息一人同切られぬ。
 加様に首を被刎者六十余とぞ聞えし。
 山内滝口三郎同四郎は、廻文の時富士の山とたけくらべ、猫の額の物を鼠の伺定やなんど悪口したりし者也。
 大庭に被召出たり。
 佐殿宣のたまひけるは、汝が父俊綱としつな并に祖父俊通は、共に平治の乱の時、故殿の御伴に候て討死したりし者也。
 其子孫とて残留れり。
 我世を知らば、いかにも糸惜して世にあらせ、祖父親が後世をも弔はせんとこそ深く思ひしに、盛長に逢て種々の悪口を吐、剰景親に同意して頼朝よりともを射し条は、いかに、富士の山と長並べと云しか共、世を取事も有けりとて、土肥次郎に仰て、速に首を刎よと下知し給ふ。
 実平仰に依て引張て出ぬ。
 暫屋形に置て還参て申けるは、滝口三郎兄弟が事、悪口と申合戦と申、忽たちまちに首をはねべけれ共、彼等が親祖父は、御諚の如故殿の御命に替し輩也、愚なる心に思慮なく申たる者にてこそ侍れ、只所帯を召て、命ばかりを生られて彼恩分に報はせ給はば、俊通俊綱としつなが魂魄も悦、故殿の御菩提の御追善ともならせ給なん、追放ち候ばや、命生て侍るとも、謀叛など起べき仁にも候はずと、細々に申ければ、誠左様にも相計ふべしと宣のたまひければ、実平宿所に帰て、事の仔細申含て両人が髻切、出家せさせて追放ちければ、手を合悦て出にけり。
 長尾五郎は佐奈田与一が敵也、召出して、与一が父なれば岡崎四郎に給ふ。
 義実召誡て明日首を刎べきにて有けるが、最後の所作と思入て、終よもすがら法華経ほけきやうを読けり。
 岡崎人を喚で、経の音するは何者なにものが読ぞと問。
 囚の長尾五郎也と云。
 転読功積りたりけるにや、今夜を限と思ひける哀さに、信心を致してよみければ、岡崎肝に銘じて貴く聴聞しける。
 後朝に佐殿に参て申けるは、長尾五郎今日切べきにて候が、終夜よもすがら法華経ほけきやうを奉転読、世に貴く覚候き。
 在俗の身として空によみ覚、あれ程に功を入進せて候ける事、難有覚候、忽たちまちに頸をきらん事冥衆の照覧其恐あり、縦斬たり共与一再び生かへるべからず、いとゞ罪業の基と成て悪趣に沈候なん、然べくは与一が孝養に追放候侍ばやと相存候、其事難叶候はば、他人に仰て罪せらるべく候と申。
 佐殿やゝ案じて、与一が敵なれば汝にたびぬ、又其上は何様にも義実が計なるべし、左様に咎を法華経ほけきやうに免し奉らん事誠に神妙しんべうなり、汝が痛申さん事を、我亦罪すべからずと仰ければ、岡崎悦て、罷帰て長尾五郎を呼居、御辺ごへんは大方に付ても罪科軽からず、義実に於ては与一が敵也、時刻廻らすべからず、可斬なれども、終夜よもすがら法華経ほけきやうを読給つれば、佐殿に参て死罪をば申宥候ぬ、御辺ごへんに組し与一を殺され、御辺ごへん互に然べき善知識にこそ有つらめ、今は出家し給たまひて片山里に閉籠、静に経よみ念仏して、与一が後世を弔てたべとて、即僧を請じ入道せさせて、袈裟衣裁ち著せ、僧の具足ども調たびて免出しけり、岡崎四郎情在とぞ申ける。
 滝口三郎は父祖の忠に酬て命をいき、長尾五郎は転読の功に依て死を免れたり。
 刀杖不加毒不能害、今こそ思知られけれ。
 凡有忠者をば賞し、有罪者をば誅し給ふ。
 八箇国の大名小名眼前に打随て、四角八方に並居つゝ、非番当番して被守護、其そのせい四十万余騎よきとぞ注しける。
 呉王の姑蘇台に在しが如く、始皇しくわうが咸陽宮を治しに似たり。
 靡かぬ草木もなかりけり。
 今は東国には其恐なしとて、十郎蔵人行家、木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなかを始として、一性の源氏、一条、安田、逸見、武田、小笠原等を以て、平家追討の談義様々なり。

若宮八幡宮

 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのは、頼朝よりとも運を東海に開き、且々天下を手に把る事、所々の霊夢折々の瑞相、併八幡大菩薩はちまんだいぼさつの御利生也。
 都へ上る事は不輙、大菩薩だいぼさつを勧賞し奉べしとて、鎌倉の鶴岡と云所を打開きて、若宮を造営して霊神を祝奉る。
 社殿金を鏤て、馬場に砂を綺たり。
 緋の玉垣照光、翠の松風影冷し。
 祭礼四季に懈らず、神女日夜に再拝せり。
 其外堂塔僧坊繁昌し、供仏施僧不断なり。
 入道にふだう相国しやうこく是を聞給たまひては、いとゞ不安ぞ思はれける。

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