摩巻 第三十 目録
真盛被討付朱買臣錦袴並新豊県翁事

 平家の侍、武蔵国住人ぢゆうにん長井ながゐの斎藤別当真盛は、我七十有余いうよに年闌たり、今は後栄期する事なし、終に遁べき身にあらず、何国にても死なん命は同事と思切つて、赤地の錦の鎧直垂よろひひたたれに黒糸威くろいとをどしの冑を著、十八差たる石打の征矢負て、只一人進出て、死生不知にぞ戦ける。
 木曾の手に、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん手塚太郎光盛と云者あり。
 真盛に目を懸て歩せよる。
 真盛も亦手塚に目を懸て進で懸り、手塚近寄て、誰人ぞ只一人残留て軍し給ふは、大将軍が侍か、心にくし名乗れ、角申は信濃国しなののくに諏訪郡住人ぢゆうにん手塚太郎金刺光盛と云者也、能敵ぞ名乗給へや組給へと云懸て、互に駒を早めたり。
 真盛申けるは、戯呼猿者ありと聞、思様あり名乗まじ、汝を嫌には非ず、只首を取て源氏の見参に入よ、能所領の値なるべし、徒に淵瀬に捨べからず、木曾殿きそどのは見知給はんずる也、思ひ切たれば一人留て戦也、敵は嫌まじ、軍の習は勝負をするこそ面白けれ、寄合手塚と云儘に、弓をば捨て無下に近寄合す。
 手塚が郎等、主に組せじとて、馬手に並べて中に隔たり。
 真盛押並てむずと組。
 己は手塚が郎等にや、余すまじと云まゝ、鎧の押付の板をつかまへ、左の手にて手綱かいくり、左右の鐙を強く踏で引落し、馬の腹に引付て提もて行。
 足は地より一尺計挙りたり。
 手塚是を見て、郎等を討せじとて馳並て、敵の鎧の袖に掴み付て、曳音を出して鐙を越、我先にぞ落たりける。
 真盛二人の敵にあひしらはんとせし程に、三人組合て馬より下へ落たりけり。
 真盛手塚が郎等を押へて刀を抜頸を掻。
 手塚其間に、真盛が弓手の草摺引上て、柄も拳も透とさし、軈やがて上に乗得頸を掻、水もたまらず切にけり。
 手塚敵の首を郎等に持せて、木曾の前に持て行申けるは、光盛癖者の頸取て候、名乗れと申せば、存る旨あり名乗まじ、木曾殿きそどのは御覧じ知べしと計にて名乗らず、侍かと見れば錦の直垂を著たり、大将軍かと思へば列く者なし、京家西国さいこくの者かとすれば坂東声也き、若き者かと思へば面の皺七十余に畳めり、老者かとすれば鬢鬚黒して盛と見ゆ、何者なにものの首なるらんと申。
 木曾打案じて、哀武蔵むさしの斎藤別当にや有らん、但其は一年少目に見しかば、白髪の糟尾に生たりしかば、今は殊外に白髪に成ぬらんに、鬢鬚の黒きは何やらん、面の老様はさもやと覚ゆ、実に不審也、樋口は古同僚、見知たるらんとて召れたり。
 髻を取引仰て、一目打見てはら/\と泣、穴無慙や真盛にて候けりと申。
 何に鬢鬚の黒はと問給へば、樋口、されば其事思出られ侍り、真盛日比ひごろ申置候しは、弓矢取者は、老体にて軍の陣に向はんには、髪に墨を塗らんと思ふ也、其故は、合戦ならぬ時だにも、若き人は白髪を見てあなづる心あり、況軍場にして、進まんとすれば古老気なしと悪み、退時は今は分に叶ずと謗、実に若人と先を諍も憚あり、敵も甲斐なき者に思へり、悲き者は老の白髪に侍、されば俊成卿述懐の歌に、
  沢に生る若菜ならねど徒に年をつむにも袖はぬれけり
と読侍るとかや。
 人は聊の物語ものがたりの伝にも、後の形見に言をば残置べき事に侍り。
 云しに違はず墨を塗て候けり。
 年来内外なく申しゝ事の哀さに、樋口次郎兼光、水を取寄せて自是を洗たれば、白髪尉にぞ成にける。
 さてこそ一定真盛とは知にけれ。
 大国の許由は、耳を潁川の水に濯て名を後代に留、我朝の真盛は、髪を戦場の墨に染て、悲を万人に催けり。
 木曾宣のたまひけるは、親父帯刀先生をば悪源太義平が討たりける時、義仲よしなかは二歳に成けるを、畠山に仰て、尋出して必失べしと伝へたりけるに、如何が稚者に刀を立んとて、我は不知由にて、情深く此斎藤別当が許へ遣して養へと云ければ、請取養はんとしけるが、七箇日置て、東国は皆源氏の家人也、我人に憑まれて此児を養立ざらんも人ならず、育おかんもあたりいぶせしと案じなして、木曾へ遣しける志、偏ひとへに真盛が恩にあり、一樹の陰一河の流と云ためしも有なれば、真盛も義仲よしなかが為には七箇日の養父、危敵中を計ひ出しける其志、争忘べきなれば、此首よく孝養せよとて、さめ/゛\と泣ければ、兵共つはものどもも各袖を絞りけり。
 抑真盛石打の征矢を負、錦の鎧直垂よろひひたたれを著事は、今度北国へ下ける時、内大臣ないだいじんに申けるは、真盛東国の討手に下向して、矢一も不いず蒲原より帰上し事、老の恥と存候き。
 今度北陸道に罷下なば、年闌身衰て侍共、真先蒐て討死勿論也。
 真盛所領に付て、近年武蔵に居住なれ共、本は越前国住人ぢゆうにんにて、北国は旧里也。
 先祖利仁将軍三人の男を生、嫡男在越前、斎藤と云。
 次男在加賀、富樫と云。
 三男在越中、井口と云、彼等子孫繁昌して国中こくぢゆう互に相親しむ。
 されば三箇国の宗徒の者共、内戚外戚に付て、親類一門ならざる者なし、真盛討死して候はば、当国他国の者共集て、別当は何をか著たる、如何なる装束をかしたると見沙汰せん事恥かし、故郷へは錦袴を著て帰と云事に侍れば、今度生国の下向に、錦直垂に石打征矢御免を蒙候はん、且は最後の御恩也と所望申ければ、初は免し給はざりけるが、既打立処に、真盛思切たる顔気色、且は哀に思ひ、且は軍を勧んが為に、内大臣ないだいじんの我料とて被秘蔵たりけるを、取出て下し給へり。
 真盛畏給たまひて、千秋万歳の心地してぞ著たりける。
 是を聞ける大名小名、袖を絞ぬはなかりけり。
 昔大国に朱買臣と云人有き。
 家貧にして始て書を読ければ、其才身に余つゝ、漢武帝に召れて侍中と云官に居て、大に栄え富ければ、住馴し会稽の故郷へ下りしに、錦袴を著たりけり。
 見る人文徳の空からざる事を思へり。
 真盛も此事を思出けるにや、最後の所望も哀也。
 免し給ふも情あり。
 彼は文を以て著し、是は武を以て給る、文武の勧賞とり/゛\也。
 昔天宝に兵を召て、雲南万里に馳向。
 彼雲南に湯の如くなる流あり、是を濾水と名く。
 軍兵徒より渉る時、十人が二三人は死ければ、村南村北に哭する音絶ず。
 児は爺嬢に別、夫は妻に別れたり。
 昔も今も蛮に征者千万なれ共、一人も不帰ければ、新豊県に男あり、兵に駈れて雲南に行けるが、彼戦を恐つゝ、歳二十四にて、夜深人定て、自大石を把て己が臂ひぢを打折、弓を張旗を挙に叶はねば、行ことを免れて再故郷に帰けり。
 骨砕筋傷て悲しけれ共、六十年を送りけり。
 雨降風吹陰り寒夜は痛て眠れざれ共、是を悔しと不思、悦処は老らくの八十八まで生事を。
 是は異国の事なれ共、此国の歌人よめるとか。
  一枝ををらではいかで桜花八十余あまりの春にあふべき
 新豊県老翁は八十八、命を惜て臂ひぢを折、斎藤別当真盛は七十三、名を惜て命を捨つ。
 武きも賢きも、人の心とり/゛\也。

平氏侍共亡事

 平家は棟と憑み給へる真盛討れて大に力落、成合を引て篠原宿に著。
 源氏同押寄たり。
 平家不堪して山に入、極楽林、小野寺林、須河林に乱入ければ、源氏続てひら責に攻む。
 福田、熊坂、江沼辺をも責越て、浜路迄こそ追懸たれ。
 平家並松と云所にて返合て、暫し支て戦けり。
 源平互に乱合、両方より射違たる矢は降雨の如也。
 是にして平家三十さんじふ余騎よき討れて並松を引。
 源氏勝に乗て余すな/\と追懸、余に手繁追ければ、平家の大将軍に、参河守知度と云は入道の子也。
 口惜事哉、御方に思切者共がなければこそ直責には攻られて大勢は討るらめとて、返合て散々さんざんに戦給へる程に、筒に矢十二射立られて、討死して失給たまひぬ。
 連く侍には、飛騨の大夫判官たいふはんぐわん景高、是は大臣殿の乳母子めのとごにて若の事あらば一所にて手取組んと契深かりしか共、参河守の討れ給たまひける悲さに、散々さんざんに戦て、是も一所に討れにけり。
 越中権頭範高、我一人と戦けるが、矢員射尽て、敵に頸骨射させて自害して臥にけり。
 越中二郎判官盛綱、州浜判官高能、上総介忠清ただきよ、子息太郎判官忠綱ただつな、尾張守貞安、摂津判官盛澄等も、思々に戦て所々に臥にけり。
 武蔵三郎左衛門さぶらうざゑもん有国は、手勢三百さんびやく余騎よきにて戦けるが、大勢に被取籠て半時ばかり打合程に、有国馬を射させて歩立に成、右には太刀、左には長刀を持て切合ける程に、太刀打折て後は長刀を十文字に持て開き、大勢の中に走入、先馬の足を薙ぐ。
 主が馬よりはね落さるゝ処を、落しも立てず頸を薙、弓手に走、妻手に走、四廻五廻切廻かとすれば、敵三十さんじふ余人よにん切伏て、我身も痛手を負ければ、新中納言殿ちゆうなごんどのの侍に、武蔵三郎左衛門さぶらうざゑもんのじよう有国と名乗て、腹掻切て失にけり。
 巣山兵衛高頼も、手の際戦て討れにけり。
 東国の者には、ましほの四郎と伊藤九郎も、此にして亡ぬ。
 河に流海に入て死ぬるは不知、安宅、篠原、並松の間に、竿結渡して、切懸たる首三千七百六十人とぞ注たる。
 虜には兼康かねやす、斉明計也。
 此斉明は林、富樫と同心に、木曾に腹黒あらじと起請書たりし者が、燧城にて返忠して源氏を背き、忽たちまちに冥罰を蒙るとぞ覚えたる。
 去四月下向には、平家十万余騎よきなりしに、燧、長畝、三条野、並松、塩越、須河山、長並、一松、安宅、松原、宮越、倶梨伽羅、志雄山、竹浜所々の合戦に亡つゝ、七万余騎よきは失にけり。
 可然人々も馬にも乗らず、物具もののぐを捨て、北国の浦伝、仙道の山伝して、今六月の上洛には三万さんまん余騎よきには過ざりけり。
 平家今度は数を尽して被下けるに、角討れぬるこそ無慙なれ。
 尽流漁、多雖魚、明年無魚、焼林狩、多雖獣、明年無獣云本文あり。
 されば後を存じて、壮健ならん兵をば少々都に可残置ける者をと云人も有けり。
 内大臣ないだいじんも棟と憑れたりし弟の参河守も討れぬ。
 高橋判官長綱も討れぬ。
 一所にて如何にもならんと契給たまひし乳母子めのとごの大夫判官たいふはんぐわん景高も討れぬ。
 旁大に力落てぞおぼされける。
 飛騨守景家かげいへが申けるは、相憑つる子息の景高に別ぬ。
 今は出家の暇給たまひて、彼が後世を吊侍ばやと申けるこそ哀なれ。
 有国、兼康かねやす、真盛なんども不帰、此者共こそ、野末山の奥にても、一人当千いちにんたうぜんと憑もしく思召おぼしめしけるに、大底亡にければ、内府も心弱ぞ思はれける。
 凡今度討たる者共、父母兄弟妻子眷属等が泣悲事不なのめならず、家々いへいへには門戸を閉、声々に愁歎せり。
 彼村南村北に哭しける雲南征伐も、角やと被思知おもひしられたり。
 五日北国賊徒の事、院ゐんの御所ごしよにて議定あり。
 左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣ないだいじん実定、皇后宮大夫実房、堀川ほりかはの大納言だいなごん忠親ただちか、梅小路中納言長方、此人々を被召けり。
 兼実忠親ただちか両人は不参給
 右大臣は大蔵卿おほくらのきやう泰経を御使にて、只よく/\御祈祷ごきたうあるべき也、東寺に秘法あり、加様の時に被行べきにやとぞ被申たる。
 左大臣経宗公は、不叶までも関々を固らるべきかと被申たり。
 長方卿は、今已すでに源氏等げんじら義兵歟、逆徒強大、官軍敗績、更於本朝比之跡、承平将門まさかど、康平貞任、不十之一、非同日之論歟、漢家動匈奴、或侵辺郷、或有僣号、窺敵国之勢和親之礼、合道合法歟、早被庁使、尤可和仰歟、不詔使歟、被官軍、武将之恥朝家之きず、軽重如何、所残之儀只在此事と被申ければ、当座の人々、皆此儀に同ぜられけり。
 議奏の趣、誠に工にぞ聞えける。

赤山堂布施論事

 〔同おなじき〕十一日に、源氏追討の御祈おんいのりとて、延暦寺えんりやくじにて薬師経やくしきやうの千僧の御読経被行、御布施には手作の布一端いつたん宛、供米袋一づつ被副たり。
 院より別当左中弁兼光朝臣、仰承て催沙汰あり。
 行事は主典代庁官、御布施の供米を、西坂本、赤山の堂にて是を引けり。
 山の下僧共を以て請取ける間に、取者は一人して袋の四つ五つ、布の七八端も取けり。
 取らざる者、一にもあたらで手を空する者もあり。
 何一にも当ざる者は腹立してののしり行。
 取得たる者は小頭振て悦ぶ。
 取べき者とらずば、取まじきが取得たるをこそ瞋いさかふべきに、さはなくて散々さんざんに悪口し、行事主典代と、法師原ほふしばらと事を出して、上を下に取合、主典代庁官等が烏帽子えぼし打落、衣装剥取なんどして浅間敷あさましき喧嘩に及び、結句は主典代を搦て、本鳥放なる者を大講堂だいかうだうの庭に引居たり。
 大衆是を見て、事穏便ならずとて追下しけり。
 総て平家の行ふと行ふ神事仏事に、失礼のなき事はなし。
 仏神の擁護にかゝはらずと云事あらはれたり。

太神宮行幸願付広嗣謀叛並玄肪げんばう僧正そうじやう

 同日蔵人くらんど右衛門権佐うゑもんごんのすけ定長さだなが仰を承て、祭主神祇大副大中臣親俊を殿上の口に召て、兵革平がば太神宮へ行幸有べき由、申させ給たまひけるぞせめての御事と覚えて哀なる。
 伊勢太神宮と申は、天神第七代、伊弉諾、伊弉冊尊の御子、地神最初御神也。
 高天原より天降御座おはします
 垂仁天皇てんわうの御宇ぎよう廿五年と申し丙辰三月に、伊勢国いせのくに渡会郡五十鈴河上に、下津磐根に大宮柱広敷立て、祝始奉移しより後は、宗べう社稷の天照太神てんせうだいじんに御座おはしませば、崇敬奉らせ給ふ事、吾朝六十余州の三千七百五十さんぜんしちひやくごじふ余社よしやの、大小の神祇冥道にも勝れ坐しか共、代々の帝みかどの行幸はなかりしに、奈良帝の御宇ぎよう、右大臣淡海公不比等の御孫、式部卿しきぶきやう宇合御子、右近衛権少将兼太宰少弐藤原広嗣と云人御座おはしましき。
 天平十二年十月に、肥後国松浦郡にて謀叛を起し、一万人の凶賊を相語て、帝を傾奉らんと云聞え有しかば、花洛の騒不なのめならず、大野東人と申し人を大将軍として、官兵二万にまん余騎よきを被相副て、広嗣誅罰の為に被下遣けり。
 又様々の御祈おんいのり有ける中に、同おなじき十一月に始て太神宮へ行幸あり。
 今度其例と聞えけり。
 彼広嗣の謀叛を発しける故は、聖武皇帝の御宇ぎように、玄肪げんばう僧正そうじやうとて貴き僧座しき。
 戒行全く持て、慈悲普く及ぼし、智行兼備して済度隔なし。
 一天唱道国家珍宝也。
 遣唐使吉備大臣と入唐して、五千ごせん余巻よくわんの一切経を渡し、法相唯識の法門を将来せり。
 皇帝皇后深御帰依を致し給へり。
 常に玉簾の内に召れて、后宮掌を合御座おはします。
 広嗣后の宮に参給たりけるに、玄肪げんばう婚遊し給へり。
 広嗣奏して申さく、玄肪げんばう后宮を犯し奉る、其咎尤重しと。
 帝更に用給はず。
 広嗣又后宮に参たりける時、玄肪げんばう又皇后と、枕を並て臥給へり。
 重て奏して云、玄肪げんばう只今ただいま后宮と席を一にし給へり、叡覧に及ばば重科自露顕せんと申。
 帝忍て幸成て、御簾の隙より叡覧あり。
 光明皇后は十一面観音と現じ、玄肪げんばう僧正そうじやうは千手観音と顕て、共に慈悲の御顔を並て、同く済度の方便を語給へり。
 皇帝弥叡信を発御座て、広嗣は国家を乱すべき臣也、一天の国師たる貴き僧を讒し申条、罪科深しとて、西海の波に被流たりければ、怨を成て謀叛を起す。
 凡夫の眼前には、非梵行婚家と見奉れ共、賢帝の叡覧には、大悲薩たさつたの善巧方便と拝み給ふも穴貴と。
 彼広嗣討れて後、亡霊荒て恐しき事共多く有ける中に、同おなじき十八年六月に、太宰府観音堂造立供養あり。
 玄肪げんばう僧正そうじやう導師たり。
 高座に上て啓白し給たまひけるに、俄にはかに空掻曇雷電して、黒雲高座に巻下し、導師を取て天に騰。
 次年の六月に、彼僧正そうじやうの生しき首を興福寺こうぶくじの南大門に落して、空に咄と笑声しけり。
 此寺は法相大乗の砌みぎり也。
 此宗は玄肪げんばう僧正そうじやうの渡したれば、広嗣の悪霊玄肪げんばうを怨て角しけるこそ怖しけれ。
 此僧正そうじやう入唐の時、唐人其名を難じて云、玄肪げんばうとは還て亡と云音あり、日本につぽんに帰渡て必事に逢べき人也、只唐土に留給へかしと云けれ共、故卿を恋しがりければ帰朝したりけるが、角亡けるこそ不思議なれ。
 広嗣の怨霊荒て、加様に浅間敷あさましき事共ありければ神と奉崇。
 今の松浦の明神と申は是也けり。

加茂斉院八幡臨時祭事

 抑係る兵乱の時は、昔も御願ごぐわんを被立けり。
 嵯峨さがの天皇てんわうの御宇ぎよう大同五年〈 庚寅 〉、平城へいじやうの先帝内侍典の勧めに依て、世を乱給しかば、其祈に、始て帝の第三皇女有智内親王ないしんわうを、賀茂の斉に立奉らせ給たまひき。
 是より斉院は始れり。
 朱雀院御宇ぎよう天慶二年〈 己亥 〉、将門まさかど純友が謀叛の時、其祈に八幡の臨時祭は始れり。
 今度左様の例共尋られける内、大神宮の行幸も御願ごぐわんに立られけり。

平家延暦寺えんりやくじ願書事

 去さるほどに、木曾きそ義仲よしなか所々の合戦に打勝て、六月上旬には、東山北陸二の道を二手に分て責上る。
 東山道の先陣は尾張国墨俣川に著。
 北陸道の先陣は越前国府に著ぬと聞えければ、平家今は防戦に力尽ぬ、仏神の加被にあらずは、争か彼凶賊を鎮べきとて、平家の一族は、公卿も殿上人てんじやうびとも同心に願書を捧げ、山門の衆徒、日吉の神恩を憑むべき由被申たり。
 其状に云、
 敬白
  可延暦寺えんりやくじ帰依准氏寺日吉社尊崇如氏社一向仰天台仏法ぶつぽふ
右当家一族之輩、殊有祈請旨趣、何者いかんとなれば、叡山えいさん者桓武天皇てんわうの御宇ぎよう、伝経大師入唐帰朝之後、弘円頓教法於斯処、伝舎那大戒於其中以来、専為仏法ぶつぽふ繁昌之霊崛、久備鎮護国家之道場、方今伊豆国いづのくにの流人、前さきの右兵衛権佐うひやうゑのごんのすけみなもとの頼朝よりとも、不身過、還嘲朝憲、加之与姦謀叛、致同心之源氏等げんじら、義仲よしなか行家以下、結党有数、隣境遠境抄掠数国、年貢土貢、押領万物、因茲且追累代勲功之跡且任当時弓馬之芸、速追討賊徒、可伏凶党之由、苟銜勅命、頻企征伐、爰魚鱗鶴翼之陣、官軍不利、星旗電戟之威、逆類似勝、若非仏神之加被、争鎮叛逆之凶乱、是以一向帰天台之仏法ぶつぽふ、不退仰日吉之神恩、而已、何況忝憶臣等しんら之嚢祖、可本願余裔、弥可崇重、弥可恭敬、自今已後、山門有慶為一門之慶、社家有鬱為一家之鬱、付善付悪、成喜成憂、各伝子孫、永不失墜
 藤氏者以春日社興福寺こうぶくじ、為氏社氏寺、久帰依法相大乗之宗、平家者以日吉社延暦寺えんりやくじ、如氏社氏寺、新値遇円実頓悟之教、彼者昔遺跡也、為家思栄幸、是者今祈誓也、為君請追罰、仰願山王七社しちしや王子眷属、東西満山護法聖衆、十二大願医王善逝、日光月光十二神将じふにじんじやう、照無二之丹誠、垂唯一之玄応、然則邪謀逆心之賊、速平党於軍門、暴悪残害之徒、必伝首於京都、我等われら之苦請仏神其捨諸、仍当家公卿等、異口同音作礼而請所如件、敬白。
     寿永二年七月 日
        従三位行右近衛権中将平朝臣            資盛
        従三位平朝臣                   通盛
        従三位行右近衛権中将平朝臣            維盛
        正三位行左近衛権中将兼但馬権守平朝臣       重衡
        正三位行右衛門督うゑもんのかみ兼侍従平朝臣           清宗
        参議正三位皇太后宮くわうたいごうぐう権大夫兼修理大夫備前権守平朝臣 経盛
        従二位じゆにゐ行権ごん中納言ぢゆうなごん平朝臣              知盛
        従二位じゆにゐ行中納言平朝臣               教盛
        正二位しやうにゐ行権大納言ごんだいなごん兼陸奥出羽按察使平朝臣 頼盛よりもり
        前内大臣ないだいじん従一位じゆいちゐ平朝臣               宗盛
 又近江国佐々木庄、領家預所得分等、且為朝家安穏、且為入道菩提、併所向千僧供料候也、件庄早為沙汰、可知行候、恐々謹言。
     七月十九日                       平宗盛
 謹上 座主僧正そうじやう御房
とぞ書れたりける。
 是を聞ける人々は、宿老しゆくらうも若輩も皆涙をぞ流しける。
 去共年頃日頃ひごろの振舞、神慮にも不叶、人望にも背けるにや、本より角こそとて、事の体をば憐けれ共、靡く衆徒はなかりけり。
 七月十二日の夜半計に、六波羅の辺大に騒ぐ。
 何と聞分たる事はなし。
 京中も又静ならず、資財雑具東西に運隠し、貴賎上下魂を消し、こは何としつる事ぞとて周章あわてけり。
 帝都は名利の地、鶏鳴て安き思ひなしといへば、治れる代すら猶如此、況乱たる時なれば理也。
 一天四海の騒、東は坂東八箇国、西は鎮西九箇国、北陸南海畿内辺土まで静ならず、三界無安猶如火宅、衆苦充満甚可怖畏、釈尊の金言也、なじかは一毫も違ふべき、深き山の奥の奥、人なき谷の底までも忍入、浮世の庵を結ども、今度生死を離れつゝ、無為の都に還らばやと、心ある人は歎けり。
 明ても聞ば、美濃源氏に佐渡左衛門尉さゑもんのじよう重実と云者あり。
 鎮西八郎為朝が保元の軍破て後、近江国石山寺に隠れ居たりけるを搦出して、公家に進たりければ、右衛門尉に成したりけるを、源氏の名折不審也とて、一門に擯出せられて源氏に背かれぬ。
 平家に諂て当国八島と云所に有けるが、只乗替一騎いつき相具して勢多を廻、夜半計に六波羅へ馳来て、北国の源氏近江国まで責上て、道を切塞ぎ人を通さず、在々所々に火を懸て焼払やきはらふ。
 御用心有べきと申たりけるに依也。

貞能さだよし西国さいこく上洛事

 十八日じふはちにちに、肥後守ひごのかみ貞能さだよし鎮西より上洛、西国さいこくの輩謀叛の聞え在に依て、彼をしづめん為に、去々年下向之処に、菊地城郭じやうくわくを構て楯籠る。
 貞能さだよし九国の軍兵を催て是を責れ共、輙く落難き城にて、官兵度々追落さる、重々評定あり。
 兵糧米を尽さん為に城を守れとて、四方を打囲て夜昼是を守る。
 日数積て兵糧尽ければ、菊地終に降人に向ふ。
 菊地降人なれば原田も降人になる。
 菊地原田参ると云ければ、臼杵、戸槻も皆随にけり。
 此間貞能さだよし九国に兵糧米を宛催す。
 庁官一人、宰府使一人、貞能さだよしが使一人、両三人が従類八十余人よにん、権門勢家の庄園を云ず、神社仏寺料所をも不嫌譴責しければ、人民の歎不なのめならず、其積り十万余石に及べり。
 貞能さだよしは菊地、原田等を召具して、今日未時に入洛、八条を東へ、河原を北へ、六波羅の宿所に著、其そのせい千騎せんぎには過ず。
 前内大臣ないだいじん宗盛、車を七条が末に立て見給へり。
 其中に鎧武者二百にひやく余騎よきありけるに、薩摩前司親頼、薄襖の生絹、魚綾の直垂に赤威の鎧著、白葦毛の馬に乗て、貞能さだよしが屋形の口をぞ打たりける。
 頭刑部卿ぎやうぶきやう憲方卿孫、相模守頼憲が子也。
 勧修寺の嫡々、させる武勇の家に非ず。
 文筆を以て君に奉仕べき人の、こは何事ぞやとて、見人是をあざみけり。
 多の武士よりも、薩摩前司をぞ人は見ける。
 西国さいこくは角平げたれ共、東国北国は不随。
 源氏の大勢、既すでに都へ責上と聞えければ、平家今は禦に力尽たり、今は都に跡をも留め難しとぞ見えたりける。
 大臣は此有様ありさまを聞見給たまひて、一門の人々催集て仰けるは、敵は既攻近付ぞ、御方の軍兵勢尽たり。
 叶ぬまでも院内を引具し進、西国さいこくへ落て一間戸もたすかりなばやと思也と宣へば、新中納言知盛被申けるは、西国さいこくへ落下らば助るべき歟、臣等しんらが嚢祖桓武天皇てんわう、此帝都を立給たまひてより以来廿余代、平将軍へいしやうぐん貞盛さだもりより武勇に携て八代、未一度も名を折ず、先祖の君の執し思召おぼしめしし都也、名将勇士の末葉なり、縦都にては塵灰と成とも如何はせん、思召おぼしめし寄ことに非、是は何と有べきと宣へば、平へい大納言だいなごん教盛、修理しゆりの大夫だいぶ経盛同心にて、子細にや及侍る、運の尽ぬる上は我朝にも限らず、異国のためし是多し、始ある者は終りあり。
 盛にしては又衰、今更申に及ばざれ共、後の代までも名は惜事也、終に辺土にて亡んより、矢種のあらん程は射尽しなんず、叶はざらん時は家々いへいへに火を懸て自害するより外の事あらじと宣へば、一門の卿相けいしやう雲客うんかく、郎等侍に至までも、旁の御義可然候とぞ同じける。
 去共大臣殿は、心得こころえず気にぞ宣のたまひける。

維盛兼言事

 〔去さるほどに〕権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう維盛は北国の軍に被討洩て、適帰上給たりけれ共、有が有共おぼさねば夢に夢見る心地して、北方に宣のたまひけるは、維盛は一門の人々に相具して都を出なんとする也、いかならん野末山の奥までも具し奉べきにこそあれ共、少き者は余多あまたあり、何国に落留べし共なき旅の空に出て、西海の波の上に漂はん事も労しく心憂し、向後も源氏道を塞ぎ、待儲て討捕んとするなれば、穏しからん事有難し、終には敵の為に亡され、骸を淵瀬にこそ沈めんずらめ、されば世になき者と聞なし給ふとも、穴賢御様おんさまなどやつし給ふなよ、如何ならん人にも見え給たまひて、少き者共をも孚、御身をも助け給へ、見奉らん者の、誰か情を懸奉らざらん、思ひ儲ぬ事、指当ては御心元なからんずれば兼て申也とて泣給へば、哀自程に世に物思ふ者侍らず、父大納言だいなごんに奉後しより以来、明晩は心苦き事をのみ
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見聞孤子と成、誰憐誰育、無慙と云父もなく母もなし、今は御方より外奉憑方なし、日比ひごろ小夜の寝覚眤事も、皆偽に成はてぬ、いつより替給へる御心ぞや、心憂や先世の契にや侍けん、人一人こそ哀不便と思召おぼしめすとも、又見ん人はいかゞはあらんずらん、始て人に見えん共思はぬ者をや、被打捨奉て、堪て有べし共覚えずとて、涙も関敢給はねば、三位中将も共に泣給たまひて、人は十四、我は十六と申しゝより見始奉て、互に志浅からず、今年は十年に成とこそ覚候へ、誠に先の世の契にや、此世一の事ならずと思へば、火の中水の底にも同入、限ある別の道也とも、後れ先立じとこそは思しか共、責ての痛しさに角は申也、加様に打口説給事、理なきにはあらね共、後には賢ぞと思合せ給べし、痛くな歎給そ、立離奉らん歎に打副て心苦からんずればとて、袖を顔に当泣給へば、若君姫君の左右に坐しけるも、女房達にようばうたちの御前に並居たりけるも、皆袂たもとを絞けり。
 若君は十、六代御前、姫君は八、夜叉御前とぞ申ける。
 共にわりなく美御貌にぞ御座おはしましける。

平家兵被宇治勢多

 七月十二日には、源氏近江国に責入て人をも通さずと聞えければ、同二十一日、新三位中将資盛大将軍として、肥後守ひごのかみ貞能さだよしを相具して二千にせん余騎よき、宇治路うぢぢより田原路を廻て、近江国へ指下さる。
 今日は宇治に留る。
 同おなじき二十二日に、新中納言知盛、本三位中将重衡大将軍として三千さんぜん余騎よき、勢多より近江国へ発向す。
 今夜は山階に宿す。
 京中に聞えけるは、十郎蔵人行家は、伊勢国いせのくにを廻て大和国やまとのくにへ入、足利判官代はんぐわんだいは、丹波路より京へ入、多田ただの蔵人行綱は、摂津国つのくにを押領して、河尻を打塞と聞ければ、こは如何せん、国々道々塞で、漏れて出べき方なしと歎けり。

木曾山門牒状事

 木曾は北陸道を攻靡し、越前の国府に有けるが、軍の評議あり。
 誠や平家深く山門の大衆を憑む、衆徒又平家に同心之由聞ゆ、縦湖上に船を浮べ、浜路に駒をはやむ共、大衆坂本に下集て防には、輙く攻上り難し、又勢多の長橋引て支へんもゆゝしき大事、此事如何が有べきと云けるに、大夫房進出て申けるは、覚明当初京都に在し時、山法師の心根は能聞及き、平家たとひ所領をよせ財宝を抛ち、山門を語ふ共、三千衆徒一同に平家を引思事よも候はじ、源氏に志思ふ大衆もなどかなかるべき、先牒状を遣て試侍べし、事の体は聞えなんと申。
 可然とて、覚明則書札を書。
 其状に云、
 源みなもとの義仲よしなか謹言
   奉親王宣止平家逆乱
 右平治已来このかた、平家跨張之間、貴賎撃手緇素、戴足、忝進止帝位、恣虜掠諸国、或追捕権門勢家、悉令恥辱、或搦捕月卿げつけい雲客うんかく、無行方、就なかんづく治承三年十一月、移法皇之仙居於鳥羽南宮、遷博陸之配所於夷夏西鎮、如之不咎、無罪失命、積功奪国、抽忠解官之輩、不勝計者歟、然而衆人不言、道路以目之処、去治承四年五月中旬、打囲親王家、欲刹利種之日、百皇治天之御運未尽其時本朝守護之神冥、尚在本宮故、奉仙駕於園城寺をんじやうじ、其時義仲よしなか兄源仲家依芳恩、同以奉扈従こしよう、翌日青鳥飛来、令旨密通、有参加之催、忝奉厳命、欲予参之処、平家聞此事、前さきの右大将うだいしやう籠義仲よしなか之乳人めのと中原兼遠之身、其上怨敵満国中こくぢゆう、郎従無相順、心身迷山野、東西不覚之間、未参洛之時、有御僉議ごせんぎ云、園城寺をんじやうじ体、地形平均不敵、仍欲仙蹕於南都故城、令合戦於宇治橋辺之刻、頼政卿よりまさのきやう父子三人、仲綱なかつな、兼綱以下、卒爾打立、事与心相違之間、東国之郎従、一人而雖相順者、依家名、捨命禦戦之庭被討者多、相遁者少、骸埋竜門原上之土、名施鳳凰城都之宮畢、哀哉令旨数度之約、一時難参会、悲哉同門親眤之契、一旦絶面謁、然者しかれば平家者、公私欲会稽之恥者也、幸被令旨、於東山東海之武士、令雌雄於越後越前国之凶党、平家之軍兵等、刎首終命之者不幾千万、前さきの右兵衛佐うひやうゑのすけみなもとの頼朝よりとも同義仲よしなか等、自親王宣以後、尾張参河遠江伊豆駿河安房上総下総上野下野武蔵相模常陸出羽陸奥甲斐信濃越後越中能登加賀越前等惣二十三箇国、既打従畢、於東山道先陣者、令立尾張国墨俣河辺、北陸道先陣者、已著于越前国府、責討平家悪党計也、抑貴山被心親王善政否、令力平家悪逆あくぎやく否、若令力彼党者、定相禦親王御使歟、我等われら不慮対天台之衆徒、不期企非分之合戦事、至無益哉、忍辱之衣上鎮著甲冑、慈悲之心中猥巧闘戦者、僧侶之行儀不然、速翻平家値遇之僉議せんぎ、被当家安穏之祈祷、是則仰叡山えいさん之仏法ぶつぽふ、優浄行之ひつ蒭ひつすう之思切故也、若猶無承引者、自滅慈覚之門徒もんと、定有衆徒之後悔者歟、如此触申事、全非衆徒之武勇、偏只尊常住之三宝故也、伝聞仏法ぶつぽふ皇法皇法崇仏法ぶつぽふ、依これによつて興福園城をんじやう両寺りやうじ之大衆、奉親王御方之故、為平家悪行、始自園城寺をんじやうじ坊舎、南都七大諸寺堂社僧坊等、併被焼払やきはら云々、其中東大寺とうだいじ者聖武天皇てんわうの御願ごぐわん也、我朝第一之奇特也、金銅盧遮那仏像るしやなぶつぞう、鳥瑟忽帰華王之本土、堂閣空沂蒼海之波涛、八万四千はちまんしせん之相好、秋月隠四重之雲、四十一地之珱珞、夜星漂十悪之風矣、毎此事不覚之涙洗面、随分之歎焦胸、専雖俗武士之心、盍仏法ぶつぽふ摩滅之悲哉。
 縦不仏法ぶつぽふ破滅者、唯貴山計也、但台嶺四明之洞孤静、園城をんじやう三井之流半竭、根本中堂こんぼんちゆうだう之燈独耀七大諸寺之光忽消、三千之僧侶豈不此愁哉、一山之衆徒寧不此事乎、存此道理令旨者、弥恭敬十二願王、共帰依三千浄行、夫八幡大菩薩はちまんだいぼさつ者、三代聖朝権化、賀茂平野明神者、二世皇帝之応跡哉、守其子孫、神慮有何疑、何況叡山えいさんの衆徒、殊護持国家者先蹤也、彼恵亮摧脳、尊意振剣、捨身命聖朝安穏之旨、勝利在人口者哉、或詔書云、朕是右丞相之末葉也、何背慈覚大師之門跡、是則慈慧大僧正だいそうじやう修験所致也、早遂彼先規、上祈請百皇無為之由、被万民豊饒之計者、七社しちしや権現之威光益盛、三塔衆徒之願力弥新歟、爰義仲よしなか不肖之身誤打廻廿余箇国よかこく、涇渭之間、云神社仏寺之御領、云権門勢家之庄園、不乃貢之運上、誠是自然之恐戦也、申而有余、謝而難遁、側聞自諸国七道所済年貢、併号兵粮米、自平家点取之云云、縦雖弁済之深志、全不領主之依怙、仍密歎路頭之難、断平家之兵粮米、努々莫将門まさかど純友之類、神不非者、忝令見心中之精勤耳、宜以此等趣、内令三千之衆徒、外被九重之貴賎者、生前之所望也、一期之懇志也、義仲よしなか恐惶謹言。
  寿永二年七月十日            源みなもとの義仲よしなか
  進上  恵光坊律師御房
とぞ書たりける。
 木曾は此状山門へ上て後、如何様いかさまにも都近責上べしとて、越前の国府を立今城に著。
 敦賀山を右になし、能美山を越、柳瀬に打立て高月河原を打渡し、大橋の村、八幡の里、湖上遥はるかに見渡して、平方、朝妻、筑摩の浦々を過ぬれば、千本の松原を打通、東大道に出にけり。
 先陣は近江国三上山の麓、野州の河原に陣を取。
 軍兵在々所々家々いへいへ宿々に充満たり。
 木曾は返状到来の程、馬の草飼よしとて、蒲生に陣を取て日数を経、兵粮米なかりければ、使者を百済寺へ遣て乞之。
 住侶衆議して五百石の兵米を送る。
 木曾其志を感じて、当寺の御油料とて押立五郷を寄進せり。

覚明語山門

 爰ここに白井法橋幸明と云僧あり。
 三塔第一の悪者、衾の宣旨を蒙て、山門には安堵し難くて、当山千僧供の料所、愛智郡胡桃庄に忍居たりけるが、大夫房覚明、木曾に付て都へ上と聞て、木曾の陣に行向て相尋ければ、覚明白井法橋を請入て見参す。
 木曾是を見て何者なにものぞと問。
 是は山門に白井法橋幸明とて、三塔には名ある大悪僧にて侍り、覚明上洛と聞て、見参の為に見え来る由を申。
 木曾幸明を召て見参して宣のたまひけるは、山門の衆徒、平家の語ひを得て源氏を背く由、其聞えあるに依て、子細を注して案内を通し畢ぬ、未是非の左右なし、衆徒の事深く御房を憑申、速に登山して当家同心の秘計を廻し給へ、大衆の同心子細なくば、此河原に遠火を焼べし、山上又遠火を合せよ、其を以験として、天台山に攀上て同心に平家を攻べしと語ふ。
 幸明思けるは、我身当時衾の宣旨を蒙れり、当今平家の御外戚也、源氏に忠を尽て平家を追落なば、自身の難も遁なんと思ひて、仰承候ぬ、心中粗略を存じ候はず、秘計仕べきとて、急ぎ忍登て、同時の大悪僧に、慈雲坊法橋寛覚、三上阿闍梨あじやり珍慶と云者を相語て大衆を起し、大講堂だいかうだうの庭に三塔会合して僉議せんぎあり。
 木曾が書状此砌みぎりに披露あり。
 衆徒は書状披覧の後、木曾きそ義仲よしなか申状、何体たるべきぞやと云処に、大衆僉議せんぎして云、当山は是桓武天皇てんわうの御願ごぐわん、平家先祖の草創として、帝王三十三代、星霜四百しひやく余歳よさい也、住持仏法ぶつぽふの勤行廃退なく、百王擁護の祈誓いまに新也、就なかんづく平家、誓願を医王山王の照覧に立て、所願しよぐわん於三塔三千の依怙によす、一門合掌して深く冥慮の護念を憑み、諸卿連署して強に与力を衆徒に乞、然者しかれば争平家懇念之志を失て、義仲よしなか卒爾の語に随べきやと云大衆も有けり。
 此儀不然と云衆徒もあり。
 又大衆僉議せんぎして云、我山は此鎮護国家の道場として、百王臣公を長生に祈、四海卒土を泰平と唱、而を平家故太政大臣だいじやうだいじん入道浄海、当代御外戚の威に募て、非巡の栄花に誇り不当の高位を黷す、加之悪逆あくぎやく甚して、或雲客うんかく卿相けいしやうの重臣を配流し、或天子陛下の儲君を誅戮し、或禅定法皇を、鳥羽の故宮に押籠奉て宸襟を動し、或堂塔経巻を、南都園城をんじやうに焼払やきはらひて法命を断絶す、依これによつて四夷乱起て、一天安事なし、入道既すでに悶絶して薨去畢ぬ。
 積悪家門に伝り災害子孫に及べり。
 諸寺諸山平家を背、東国北国源氏に随ふ。
 是を以て討手を諸国に分遣せ共、軍兵勝負の勇をえず。
 是偏ひとへに仏神擁護を加へず、運命既末に及故也。
 源家は近年度々の合戦に討勝て、管領の国の外、七道諸国皆以て帰伏す。
 然者しかれば我山独り、宿運の傾く平家に同心して、運命の開くる源氏を背べきや。
 就なかんづく書札の如くは道理此旨を顕す、今に於ては須く平家安穏の祈を改て、源氏贔屓の思に住せらるべき歟哉と僉議せんぎしたりければ、満山の大衆も、尤々もつとももつともと同じければ、さらば返状有べしとて下遣す。
 又遠火を合せよとて、惣持院の大庭に遠火を焼。
 愛智河原にも遠火を焼たりけり。

山門僉議せんぎ牒状事

 木曾山門の遠火を悦処に衆徒の返状あり。
 覚明木曾殿きそどのの前にひざまづきて是を読。
 其状に云、
 七月十日御書状、同おなじき十六日じふろくにち到来披閲之処、数日鬱念一時解散、夫源家者自古携武弓、奉朝廷威勢王敵、抑平氏背朝章、起兵乱、軽皇威、好謀叛、不伐平家者、争保仏法ぶつぽふ哉、愛源家伏彼類之間、追捕取本寺千僧供物、依損末社之神輿、衆徒等しゆとら深懐訴訟、欲案内之処、青鳥飛来、幸投書札、於今者、永翻平家安穏之祈精、速可源家合力之僉議せんぎ也、是則歎朝威之陵遅、悲仏法ぶつぽふ之破滅故也、夫漢家貞元之暦円宗興隆、本朝延暦えんりやく之天、一乗弘宣之後、桓武天皇てんわう平安城、親崇敬一代五時之仏法ぶつぽふ、伝教でんげう大師だいし天台山、遠奉百皇無為御願ごぐわん以来、守金輪玉体、偏在三千之丹心、翻天変地夭、唯是一山之効験也、因茲代々賢王けんわう、皆仰羅洞之精誠、世々重臣、悉恃台岳之信心、所請一条院御宇ぎよう、偏恃慈覚大師門徒もんと之綸言明白也、九条右丞相、並御堂入道大相国たいしやうこく、発願文曰、雖黄閣之重臣、願白衣はくえ之弟子、子々孫々ししそんぞん、久固帝王皇后之基、代々世々、永伝大師遣弟之道、同施賢王けんわう無為之徳、加之永治二年、鳥羽法皇参叡山えいさん御願文ごぐわんもん曰、昔践九五之尊位、今列三千之禅徒、倩思之感涙難押、静案之、随喜尤深、星霜四百廻、皇徳三十代、天朝久保十善之位、徳化普施四海之民、守国守家之道場也、為公為臣之聖跡也、運上本寺千僧供物、改作末社神輿、末寺庄園、併如旧被安堵者、三千合掌而祈玉体於東海之光、一山揚声而傾平家於南山之色、凶徒傾首来詣、怨敵束手乞降、十乗床之上、鎮扇五日之風、三密壇之前、遥濯十旬之雨、者依衆徒僉議せんぎ、執達如件。
  寿永二年七月日             大衆等だいしゆらと書たりけり。

希巻 第三十一
木曾登山付勢多軍事

 木曾は山門の返状を見て、加賀国住人ぢゆうにん林、富樫が一党已下、北陸道の勇士等五百ごひやく余騎よきを引率し、大夫房覚明を先達にて、近江国湖の浦々より漕渡て、天台山に打登、惣持院を城郭じやうくわくとす。
 悪僧には白井法橋幸明、慈雲坊法橋寛覚、三上阿闍梨あじやり珍慶等を始として、事の行しければ、三塔九院の大衆老若も、甲冑を著し弓箭を帯して木曾に同意す。
 其そのせい谷々に充満たり。
 既都へ責入べきと聞えければ、新三位中将資盛は、宇治より京へ帰入らる。
 勢多の大将軍知盛重衡両人の内、重衡卿しげひらのきやうは山階より引返給けり。
 新中納言知盛卿は五百ごひやく余騎よきにて、今夜は粟津浦に宿給たりけるが、此より京へ帰上らんとする処に、加賀国住人ぢゆうにんに大田倉光等、源氏に志ありて上洛しけるが、越前国より両人打連て、北陸道より海道に出て、五百ごひやく余騎よきにて勢多を廻て上る程に、加州の輩林六郎光明已下、天台山にと聞て、三井寺みゐでらより志賀唐崎を経て、東坂本に著て、林富樫と一手に成て軍せんと思、勢多の長橋打渡、粟津浜を打程に、新中納言五百ごひやく余騎よきにて返合せ宣のたまひけるは、爰ここは平家の公達の陣の前也、敵か御方か、何者なにものぞ、名乗て通れと問はれければ、大田倉光、名乗て中々悪しかりなんとて、馬の鼻を引返し、勢多の橋二三間を引落して、当国の一宮建部社に陣を取。
 中納言宣のたまひけるは、敵なればこそ名乗はせで引退らめ、思ふに北国撫案内の奴原にぞ有らん、追懸て討とれとて追程に、平家は橋を引れて渡すべき様なかりければ、馬をば西の橋爪に繋置、粟津浦のつり船共にこみ乗、東の浜に押渡し、勢多の在家に火を懸て攻ければ、源氏も森より出合つゝ、矢尻をそろへて射合たり。
 二十二日の夜半計の事なれば、暁懸て照す月、まだ山の端を出ね共、猛火地を耀して昼の如し。
 源平互に乱合て、二時計ぞ戦たる。
 新中納言の侍に進藤滝口俊方と云者あり。
 中納言深く憑給たりけるが、一陣に進んで戦ける程に、敵二三騎討取て、我身も敵に討れにけり。
 其外死する者十余人よにん、手負者は数を不知。
 源氏方にも、大田次郎兼定が嫡子に、入江冠者親定と云者を始として七八人しちはちにん討れぬ。
 疵を被る者も多かりけり。
 入替々々戦ふ程に、平家の軍兵打しらまされて引退く。
 知盛卿今は力及ばずとて、通夜都へ入給にけり。
 大田次郎倉光冠者両人は、勢多の軍に打勝て、是も其夜の中に、林、富樫を相尋て、東坂本へ入にけり。
 宇治勢多の討手都に帰上たりければ、平家の一門、今は度を失て為方なし。
 京中の貴賎周章あわてふためきて、肝魂も身にそはざりけり。

鞍馬御幸事

 〔同おなじき〕二十四日未刻に、北面の者一人窃に院ゐんの御所ごしよに参じて、承旨こそ候へと申せば、法皇何事ぞと御尋おんたづねあり。
 奏し申けるは、明日巳午の時に、源氏等げんじら四方より数万騎にて、都へ責入由聞え候間、平家都の内に安堵し難しとて、三種の神器、院内取進せて、明旦卯刻に西国さいこくへ下向とて、内々出立候と申ければ、法皇、神妙しんべうに申せり、此事努々人に披露有べからず、思召おぼしめす旨ありとて、其そのの夜に入て、殿上人てんじやうびとに右馬頭資時計御伴にて、北面の下﨟二三人被召て、忍て鞍馬へ御幸なる。
 人是を不知けり。
 同日の小夜深る程に、大臣殿は忍つゝ建礼門院けんれいもんゐんに参らせ給たまひて、逆徒入洛の事、日比ひごろは去共と思ひ侍りつれ共、今は憑すくなく承候、都にて如何にも成はてんと申方も多候へ共、人々の御為心苦しかるべし、筑紫の方へ趣て試ばやとこそ思立て候へと、申させ給ければ、女院御涙おんなみだをはら/\と流させ御座おはしまして、兎も角かくも能様にこそ計はせ給はめ、さては住なれし花の都を振捨て、始たる旅に浮び立べきにこそ。
 吉野の花を詠め、明石の月を見人、暫しと思ふ旅だにも、故郷は恋しとこそ聞侍るに、帰さしらぬ波の上に浮身をやどし、こがれて物を歎かん事、兼て思ふこそとて、御衣の袖を御顔に宛させ給ぞ痛しき。
 大臣殿は終夜よもすがら御前に候はせ給たまひて、去方行末の御物語おんものがたり申させ給ける程に、比は六月の二十日余あまりの事なれば、深行夜半は程もなく、暁懸て出る月、雲井の空に幽也。
 五更ごかうの鐘の音ごとに、今夜も明ぬとて打ひびく。
 何事に付ても御心細ぞ覚しける。
 橘内左衛門尉きつないざゑもんのじよう季康と云者あり。
 是は平家の侍也けれ共、院にも近く被召仕進せければ、二十五日に院ゐんの御所ごしよ法住寺殿ほふぢゆうじどのに上臥して候けるに、暁程に常の御所の方騒がしく私語ささやきあへり。
 又女房の声にて、忍びやかに泣音などしけり。
 こは何事なるらんと胸打騒奇しく思ければ、忍びつゝ指足して立聞ければ、御所に渡らせ給はぬ、何地へ御幸成けるやらん、誰知進せたるらんと、人は我に問、我は人に尋進すれ共、只泣より外の事なくて、知進せたる人もなし。
 季康浅間敷あさましく思て、不聞敢急六波羅へ参たれば、大臣殿夜部より女院によゐん御所ごしよへ入せ給たりしが、未出させ給はずと申。
 軈やがて女院によゐん御所ごしよに参て角と申入ければ、大臣殿は周章あわて騒給たまひて、よもさあらじ、僻事にぞ有らんとは仰けれ共、やがて法住寺殿ほふぢゆうじどのへ馳参せ給たまひて、如何にと尋申給けれ共、我知進たりと申人なし。
 浄土寺じやうどじ二位殿にゐどのと申女房、其時は丹後殿とて、夜も昼も御身近候はせ給けるより始て、人々一人も働かずまし/\けるが、只涙を流しあきれてぞ御座おはしましける。
 夜も既すでに明ぬ。
 法皇失させ給ぬと披露あり。
 公卿殿上人てんじやうびと、上下の北面馳参る。
 御所中ごしよぢゆうの騒不なのめならず、馬車馳違、塵灰を踏立て京中地を返せり。
 増て平家の人々の家々いへいへには、敵の打入たらんも、限あらば此には過じとぞ見えける。
 懸りければ官兵洛中に充満て、幾千万と云事を不知けり。

平家都落事

 〔去さるほどに〕平家は日比ひごろ法皇をも西国さいこくへ御幸なし進せんと支度し給たりけれ共、角渡らせ給ねば、憑む木本に雨のたまらぬ心地して、去とては行幸計成とも有べしとて、卯時の終りに出御あり。
 御輿を指寄ければ、主上はいまだ幼き御齢なれば、何心もなく召奉る。
 神爾宝剣取具して、建礼門院けんれいもんゐん御同輿に召る。
 内侍所も同く渡入奉る。
 平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやう庭上に立廻て、印鎰、時の簡、玄上、鈴鹿、大床子、河霧御剣以下、九重の御具足、一も取落すべからずと下知せられけれ共、人皆あわてつゝ、我先に/\と出立ければ、取落す物多かりけり。
 昼の御座の御剣も残留たりけるとかや。
 御輿出させ給ければ、内大臣ないだいじん宗盛公父子。
 平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやう父子、蔵人頭くらんどのとう信基計ぞ衣冠にて被供奉けり。
 其外は公卿殿上人てんじやうびと、近衛宮、御縄介の末に至るまで、老たるも若も皆甲冑を著し、弓箭を帯して打立けり。
 七条を西へ朱雀を南へ行幸なる。
 唯夢の様なりし事共也。
 一年都遷とて、俄にはかに淡立敷福原へ行幸なりしは、懸るべき事の験也けりと今こそ思合せければ、八条、西八条にしはつでう、池殿、小松殿こまつどの、泉殿以下の人々の家々いへいへ十六所、皆火を懸て焼亡す。
 余煙数十町に及で日の光だに不見けり。
 或は陛下誕生たんじやうの霊跡、或は竜楼幼稚の青宮、或は博陸補佐居所、或相府丞相旧台、三台槐門、九棘鴛鸞栖、門前繁昌堂上栄花の砌みぎり也き。
 如夢如幻、強呉滅兮有荊棘、姑蘇台之露じゃう々じやうじやうたり、暴秦衰兮無虎狼、咸陽宮之煙片々たりけん、漢家三十六宮、楚項羽がために被滅けんも、争か是には過べきとぞ覚えし。
 無常は春の花、風に随て散ず、有涯は暮の月、雲に伴て隠る、誰か栄花の春の夢の如なるを見て驚ざらん。
 憶べし、命葉の朝の露に似て易零、蜉蝣の風に戯るゝ、懇逝の楽み幾許、螻蛄の露に囂して、合乳の声詣を伝、崑らうの十二楼上、仙の陬か終に空し、雖蝶一万里中洛の城じやう固、多年の経営一時に摩滅しぬ。
 盛者必衰の理、眼の前に遮れり。
 年来日来の振舞は目醒しくこそ思しか共、さすが角落下給ふを見ては、貴賎悉哀の涙をぞ拭ける。
 況や住なれし城を迷出て、いづこ[* 「いとこ」と有るのを他本により訂正]を指共なく旅立給けん人々の心の中、推量られて無慙也。
 当時の摂政せつしやう近衛殿このゑどのと申は、普賢寺内大臣ないだいじん基通公の御事也。
 太政だいじやう入道にふだうの御聟にて平家に親み給ける上に、法皇も西国さいこくへ御幸なるべしと日頃ひごろ聞召きこしめしければ、御伴申させ給べきにて有けるに、前内大臣ないだいじんより行幸既と告被申たりければ、御出有て、御車を七条造道まで遣らせ給たれ共、法皇の御幸はなかりけり。
 如何が有べきと思召おぼしめし煩はせ給けるに、御伴に候ける進藤左衛門尉さゑもんのじよう高範と云侍、御車の前に進出て、供奉し給べき平家の一門、池殿の公達小松殿こまつどの君達皆留給へり、法皇の御幸もならず、去ばいづくへとて御出は候やらん、急還御有べきにこそと申。
 近衛殿このゑどのの仰には、彼一門にむすぼほれて、年頃の恩も忘れ難く、主上行幸もあり、平家のかへり思はん処如何が有べきと御気色おんきしよくあり。
 高範牛飼に向て、縦主上行幸ありとても、御代は法皇の御代、御運尽給たまひて外家の悪徒あくとに引れ、花洛を落させ給はん行幸に供奉せさせ給たらば、末憑もしからん御事歟とつぶやきて、きと目を引合せたれば、牛飼も進ぬ道なれば、牛の鼻を引返し、一ずはえあてたりければ、牛も究竟の牛なれば、造道を上に東寺まで、其より大宮おほみやを上にと、飛に飛でぞ還御なる。
 越中二郎兵衛盛嗣が、殿下も落させ給ふにこそ、口惜御事哉、止め奉らんとて、片手矢はげて追懸奉る。
 御車を延さんとて、高範返合て散々さんざんに防戦。
 大臣殿是を見給たまひて、やあ盛嗣よ、年来の情を忘給たまひて、落る程の人をばいかでも有なん、急ぎ御供申べき一門の人人だにも見え給はず、況摂政せつしやうの御事は、申にや及と制し給ければ、盛嗣其より引返す。
 其間に近衛殿このゑどのは遥はるかに延させ給けるが、御目に御覧じけるは、丱童二人車の左右の轅に取付て、遣る共なく舁共なし、御伴に候けり。
 牛の前には赤衣の官人、春の日と書たる札を、榊の枝に取具して走とぞ御覧じける。
 誠に春日大明神かすがだいみやうじん高範に入替らせ給つゝ、角計ひ申けるにこそと感涙を流させ給つゝ、西林寺と云寺へ入せ給たりけるが、其より忍て知足院へ移らせ給ふ。
 人是を不知して、摂政殿せつしやうどのは吉野の奥とぞ申ける。

維盛惜妻子遺

 権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやうの許へ人参て、源氏既天台山に打登、三千の衆徒同心して都へ攻入候也、其上此夜半より法皇も渡らせ給はずとて、大臣殿には騒がせ給ふ、西国さいこくへ行幸とて、内裏には、武士雲霞の如に集り、御一門皆御伴とて御出立あり、如何に此御所へは御使は候ざりけるやらんと申けり。
 三位中将は懸るべしと兼て知給、日来思儲給たまひたる事なれ共、指当ては穴心うやと計宣のたまひて、行幸は成けれ共、妻子の遺を惜みつゝ、只泣より外の事ぞなき。
 つかの間も離がたき人共を、憑もしき者もなきに誰育み誰憐とて、振捨出なん事の悲さよと宣ふも又理也。
 此北方と申は、故中御門大納言だいなごん成親卿なりちかのきやうの御女おんむすめ也。
 芙蓉の貌も厳く、桃李の粧も細やかに、容顔人に勝れ給たまひたりける上、心の優に情深き事も世に類なかりければ、なべての人に見せん事を、父母労く思て、女御后にもとぞかしづき給ける。
 天下の美人と聞えける上、父新しん大納言だいなごん世に覚えいみじく時めき栄え給ければ、哀と思はぬ人はなし。
 法皇聞召入きこしめしいれさせ御座おはしまして、御色に染る御心ありて、忍て度々御書ありけれ共、女房思入給ふ事の有けるにや、是も由なしとて引かづきて臥給たまひて、
  雲井より吹くる風のはげしくて涙の露の置まさる哉
と口ずさみ給けるも、思ある人とぞ聞えし。
 父大納言だいなごん、法皇の御書の事聞給たまひて周章あわて悦給へり。
 御所へ可進にて内々其用意有けれ共、更に聞入給事なし。
 大納言だいなごんは大に本意なき事に思はれて、親の為に不孝の人にておはしけるを、今まで父子の儀を思けるこそ口惜けれ、今日より後は永く親子の好みをはなれ奉る。
 人参り寄まじと戒めければ通ふ人もなし。
 乳母子めのとごに兵衛佐ひやうゑのすけと云女房一人ぞ免れて候ける。
 是に付ても世の憂き事を思つゞけ給けるにや、いつも引かづき泣より外の事ぞなき。
 さても或あるときもとゆひをひろげて、何とやらん書付て、又如元に引結捨給へり。
 兵衛佐ひやうゑのすけ是を取てひらき見に一首の歌也。
  結てし心の深きもとゆひに契しすゑのほどけもやせん
書すさみ給へり。
 是を見てこそ兵衛佐ひやうゑのすけ始めて思ある人とは知にけれ。
 色に出ぬる御心の内争か知べきと思て、様々諌め申けるは、如何に法皇の御書の候けるには御返事おんへんじは申させ給はざりけるにや、女房の御身には、加様の御幸をこそ神にも祈仏にも誓て、あらまほしき御事にて候へ、さらでは又何事を思召おぼしめし、いかならんとて父御前の御悪を蒙らせ給べき、猶も随ひおはしまさば、などか御赦れもなくて候べき、さらば御幸にもなり、御目出めでたき御事にて候べしなんど、細々と口説申ければ、女房涙を流し給たまひ、物の心を弁る程の者、争か父の仰を背べきなれ共、人しれず思ふ事あり、何程ならぬ夢の世中、尽せぬ思の罪深からんずればとて、又引かづきて臥給へり。
 兵衛佐ひやうゑのすけは、如何なる人の御事を思召おぼしめし入て角は仰候ぞと問奉けれ共、いなせの返事もなかりければ、童をさなくより御身近く付まゐらせて、立去方も侍らで、何事も二心なく深く憑進せてこそ侍に、かほどに御心を置せ給ける事の悲さよ、承たらば憂もつらきも、共の歎にてこそ候はめと終夜よもすがら口説奉ければ、理を折て仰られけるは、有し殿上の淵酔に、小松左衛門佐の云し言の有しを聞入ざりしかば、ひたすら穂に顕て、此世一の事に非ず、可然先世の契も有けるにやとまで、心の中を知せたりしかば、見そめたりしに、後の世までも同心にと云し者を、角と聞ば如何計歎かんずらんと思に、心苦きぞとよと宣へば、兵衛佐ひやうゑのすけ労く御糸惜思つゝ、さる御契の有けるにや、小松殿こまつどのよりも申させ給と聞えしぞかしと思出て、急ぎ小松殿こまつどのへ参て、北御方に、然々の仰事なん申たりければ、糸惜事にこそとて三位中将に尋給へば、さる事有とて急ぎ車を遣て迎取奉給へり。
 彼小松殿こまつどのの北方と申は、新しん大納言だいなごんの妹、姫君には御姨母なれば、三位中将には御いとこ也。
 年比にも成ければ、男女の子息儲給たる御中也。
 男子は十歳六代御前、女子は八つ夜叉御前とぞ申ける。
 共にわりなく厳き御有様おんありさま也。
 時の間も離れ難き人々を憑もしき人もなきに、打捨出なん事こそ悲けれとおぼすに、御涙おんなみだ関敢ず。
 北方も後れじと出立給へば、中将は、兼て申侍しぞかし、具し奉ては御身の為糸惜ければ、只留給へ、維盛西海に下て、水の底にも沈み敵にも討れんを親り御覧ぜん事、いか計かは悲かるべき、露愚の事はなき物を、角な歎給そと宣へば、北方、いかに角は聞ゆるぞ、後の世までもとこそ契しに、今更打捨給ふ事心うさよとて、涙もせきあへず御座おはしましけるを見るに付ても、為方なく思召おぼしめしけれ共、様々に誘給ける程に、ほど経時移ければ、維盛をば二心ある者と大臣殿宣なるに、今迄打出参らねば、いとゞさこそ思給ふらめとて、泣々なくなく打出んとし給へば、北方、父もなく母もなし、甲斐なき女に幼少き者共を打預、只一人都に残し留、いかにせよとて情なく振捨て出給ぞ、野末山の奥までも相具してこそ兎も角かくも見なし給はめ、縦習はぬ旅なり共、此に捨られ奉て、明暮恋し悲しと晴ぬ思にやまさるべき、稚者共の便なく歎かん事、父の御身として、などか顧給はざるべきと宣のたまひて、袖を引へつゝ、人の聞にも不憚音を立てをめき給へば、いと見捨難く思給へ共、さて有べき事ならねば、重て宣のたまひけるは、留置奉るは、誠に情なくこそ思召おぼしめすらめ共、維盛は遠き情をこめ奉て角は相計へる也、後には賢くも計て捨置けりと、思召おぼしめし合する御事も有べし、若又いづくにも落留り、心安こころやすき所あらば、必急ぎ迎とらんと、すかし誘へて出給はんとしける程に、新三位中将資盛、左中将清経、左少将有盛、侍従忠房、兼盛、備中守師盛、五六人の弟達、各門に打入つつ、行幸は遥はるかに延させ給たまひぬらん、いかに今までかくては御座おはしまし候ぞと宣のたまひければ、三位中将は、少き者共の痛慕侍を誘侍程にとて、涙に咽て立給へり。
 北方は冑の袖に取付て、さて打捨て出給ふにやとて叫給ふ。
 若君姫君もろ共に、左右の袂たもとにかなぐり付て、我捨られじとぞ慕ひ給ふ。
 三位中将は余りに無為方思ければ、重藤の弓のはずにて、御簾をざと掻揚て、弟の殿原に、是御覧ぜよや、如何にも軍の先をこそ蒐候はめ、稚者共が遺を、思はじとすれ共思はれて、争か情なく引切べしと、心弱に誘侍る程に、出兼て侍ぞやとて涙を流し給へり。
 冑の左右の草摺には、若君姫君取付給へり。
 鎧の袖には北方と覚しくて取付給へり。
 日来はさしもこそつゝみ忍給しに、悲さには恥をも忘れけるにや、人々の見あはれけるにも不憚悶焦給ふ。
 弟の殿原是を見給て、各涙を流しつゝ、馬の鼻を引返し、門に出てぞ泣給ふ。
 やゝ有て新三位中将、又縁のきはまで打寄せて、御遺おんなごりはいつも尽ぬ御情おんなさけ、誠に打具し奉歟、思召おぼしめし切歟、御心弱も折に依べき事に候、兎も角かくも疾々と聞えければ、三位中将心強く思切、振捨てこそ打出けれ。
 北方稚人々、後れじと慕ひ給へば、中将も心強は出たれ共、跡に心は残けり。
 行も留も推量られて哀也。
 昔悉達太子の、檀特山に入らんとて王宮を出しに、耶須多羅女を悲て出もやらざりけんも、角やと思しられたり。
 彼は報恩の道に入、終に覚を開給、是は闘戦の旅に出づ、後いかならんと無慙也。
 侍共も面々に打出ける其中に、北国にて討れし斎藤別当真盛が子に、斎藤五、斎藤六とて兄弟あり。
 斎藤五は十九、斎藤六は十七にぞ成ける。
 三位中将此二人を招寄て、年来身近召仕つれば、眤さにいづくまでも召具し度思へ共、己等は無官むくわんにて、出仕の伴なんどもせねば、墓々敷人に見しられざれば、幼者共を留置事のおぼつかなきに、二人は是に留て、少き者共の杖柱ともなれと宣へば、兄弟二人、馬の左右の承みづつきに取付て、何れも御宮仕は同御事なれば、仰に随ひ進すべきにて侍ども、公達北御方の御歎承り、忍べしとも覚えず、其上女房の御身幼御事、何の御事かは侍べき、たゞ御向後こそ覚束おぼつかなく思ひ進すれば、落著せ給はん処までは御伴にこそとて、後れ奉らじと叫けり。
 中将宣のたまひけるは、誠に年来の好みはさる事なれ共、多者共の中に、思ふ様有てこそ加様には云に、などか口惜我云事を用ぬぞ、維盛に随はんに露劣まじと恨給へば、遥はるかに見送奉り、猶も走付参度は思たれども、誠に思召おぼしめす様ありてこそ宣らめと思なり、遺は旁た惜けれ共、兄弟泣々なくなく帰にけり。
 三位中将心づよくは出給たれども、跡に心は留て、前へは更にすゝまれず、隙なき涙に掻くれて、行前も又見えざりけり。
 弟達の見合れけるもさすがつゝましく覚て、さりげなくもてなし給へども、抑る袖の下よりも、余て涙ぞこぼれける。
 北方は、是程に情なかるべしとは年比は思はじものをとて、引かづき臥給へば、少き人々もろともに、倒伏もだえ焦給けり。
 日数ふれば、北方二人の公達を拘て、世も怖しく道も狭く覚しける上、かく打捨られ給たまひては、一日片時堪て御座おはしますべしとは覚さゞりけれ共、つれなく消ぬ露の身の、日数もさすが積つゝ、年月をこそ被送けれ。
 歎に死なぬ理も、今こそ被思知けれ。
 越中次郎兵衛盛嗣、大臣殿御前に進出て申けるは、池殿は御留にこそ侍共、一人も見え候はず、口惜侍者哉、上こそ恐れ有ども安からず存候に、侍共に一矢射懸て帰参んと申。
 大臣殿打領許給たまひて、さなくとも有なん、年来の重恩を忘て、いづくにも落著ん所を見置かぬ程の者をば、兎角云に及ばずと制し給けるぞ糸ほしき。
 さても権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやうは如何にと問給へば、盛嗣、小松殿こまつどのの公達一所も見えさせ給はずと申けるに、大臣殿は、池いけの大納言だいなごんの様に、頼朝よりともに心を通すやらんと覚ゆれば、さこそは有らめとて、世に心細げに宣のたまひて、涙のこぼれけるを押拭給ければ、人々も冑の袖をぬらしけり。
 新中納言知盛、此有様ありさまを見給たまひて、皆是日比ひごろ思儲し事也、今更驚べきに非ず、さはあれ共、都を出て、未一日をだにも経ぬに、人の心も替畢ぬ。
 増て行先さこそはと推量らるれば、只都にて如何にも成べかりつる者をとて、大臣殿の方をつらげに見給けるぞ実にと覚て無慙なる。

畠山兄弟賜暇事

 畠山庄司重能、小山田別当有重、兄弟二人は、年来平家に奉公して、都落にも御伴申て、泣々なくなく淀まで下たりけるを、大臣殿御覧じて、近く両人を召て、御供神妙しんべう々々しんべう、但いづくまでも相具すべけれ共、子息家人等けにんら皆東国に有て頼朝よりともに相従へり、身は御供に候て心は鎌倉に通ふ覧、親子の儀それ悪からず、技かん計下たらば何にかはせん、疾々罷帰れ、もし世にありと聞ば思ひ忘れず参べき也と宣へば、重能、有重畏て、身は恩の為に仕はれ、命は儀に依て軽しと云事あり、年来恩を蒙て身を助妻子を養ひ候き、今さら子が悲く妻が恋しければとて争か見捨奉べし、落著御座おはしまさん所までは御供也と申せば、人の親の子を思ふ志、尊も卑も替る事なし、されば子は東国にありて源氏に随ひ、親は西海に落て身を亡さん事、不便也、只とく/\頸を延て、頼朝よりともに随て再妻子を相見るべし、つゆ恨と思ふべからずと宣のたまひけるこそやさしけれ。
 二人の者共廿余年の好なれば、遺は実に惜けれ共、流石さすがに身のすて難さに、泣々なくなく都へ上にけり。
 権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう維盛、資盛、清経已下、兄弟の人々三百さんびやく余騎よきにて、行幸ははや成ぬ。
 急やいそげ打やうてとて、大宮おほみやを下に、東寺、四塚、造路、御吉野、志賀、柳原、淀津、羽束、六田河原を打過て、関戸院辺にてぞ行幸には追付給ける。
 大臣殿は、此人々を見給たまひてぞ少力付て、今まで見えさせ給はざりつれば、おぼつかなく思奉りつるに、角て又見えさせ給へば嬉くこそと宣へば、三位中将は、稚者共の強に慕ひ侍りつるを誘へ侍つれば、今まで行幸には後れ進せ候へと宣へば、何とて具し奉給はぬぞ、留置奉ては、如何にしてか御座合する、御心苦き事にてこそと宣へば、行前とても憑もしくも候はずと計にて、問につらさの勝りつゝ、いとゞ涙を被流けり。
 是を聞ける人々は、実にと思つゝ、我身の上とぞ悲みける。
 池いけの大納言だいなごんの一類は、今や/\と待れけれ共、落留て見え給はず。

経正参仁和寺宮にんわじのみや

 修理しゆりの大夫だいぶ経盛の子に、但馬守経正と申は入道の甥也。
 童形の程は、幼少より仁和寺宮にんわじのみや守覚しゆうかく法親王ほふしんわうに候て、御愛弟にておはしけるが、是も都を落けるに、昔の好み難忘覚えければ、最後の見参に入進せんとて、有教朝重と云侍二人召具して、只三騎にて仁和寺宮にんわじのみやへぞ参給。
 経正は練貫に鶴を縫たる鎧直垂よろひひたたれに、萌黄糸威の鎧をぞ著たりける。
 人して申入けるは、一門の栄花既すでに尽て、今日都を罷出候。
 再花洛に還登らん事有難し、身を西海の底に沈め、骸を山野の塵にまじへん事疑なし。
 何事も皆先世に報う事と思ふ中にも、今一度君を見奉らずして空ならん事、憂世うきよの妄念とも成侍りぬと悲く覚え候へば、乍憚推参と申入る。
 宮大に憚思召おぼしめしけれ共、さしも糸惜不便と思召おぼしめしし者なる上に、誠に都を落下る程なれば、又御覧ぜん事有まじとて御前近く召れけり。
 経正悦で、冑著ながら中門の廊に畏り、跪て申けるは、十一歳の時より此御所に参、不便の者に被思召おぼしめされしかば、慈悲の御衣の下より生立られ進せし上は、剃髪染衣の形にこそ罷成べきに、心ならず在俗不善の身と成、叙爵し侍しか共、出仕の隙にはいつも此御所にこそ伺候申しに、近年源平の諍に打紛れて後は、つと参る事こそなかりつれ共、五月三日に不参事はなかりき。
 而一族運傾て、今日既すでに都を罷出づ、遥はるかの西海に落下り、八重の塩路を漕隔なば、帰らん期を不知、骨を道の側にさらし、名を浪の末に流さん事疑なし。
 哀不便の昔の御好み、生々世々に争忘奉べきなれば、今一度君をも見進せばやと存じて、人々ははや落罷ぬれども、経正は先是まで参上仕に、御前近被召進せぬる事、申に猶も余あり、抑又下預し青山をば、如何ならん世までも御形見にとこそ思侍つれども、争か斯る名物を、空く旅の空に引失ひ、波の底に沈め侍べき、されば返上仕らんとて持参、それ進らせよとて、郎等有教を召て、錦袋に入たる青山と云琵琶を取出して、輪台、青海波、蘇香、万寿楽の五六帖をぞ暫く弾じ給たまひける。
 是を最後と引給へば、聞人涙を流しけり。
 さて琵琶を懐て御前に指置給つゝ、鎧の袖を顔に当て、やゝさめ/゛\と泣給ふ。
 宮は此有様ありさまを御覧じ聞召きこしめして、聊も御返事おんへんじをば仰せず、香染の御衣の袖絞りあへさせ給はず、哀に堪ぬ御有様おんありさま、徐の袂たもとぞ濡増る。

青山琵琶流泉啄木事

 抑此琵琶は、承和二年に掃部頭貞敏が勅宣ちよくせんを蒙、大唐国に渡つゝ、簾承武に謁して秘曲を伝へ習しに、二の琵琶を得たりき。
 玄象、青山是也。
 博士此琵琶を弾じつゝ、曲を貞敏にをしへしに、青山の緑の梢に、天人天降つゝ廻雪の袖をひるがへす。
 博士瑞相に驚て、青山と名をつけき。
 又此琵琶の造様、紫藤の槽に枝の腹、花梨木の頭に同天首、黄楊のはん首に同撥、白心のふくしゆに、虎の皮の撥面落帯なり。
 撥面の絵には、夏山の碧の空に、有明の月出たる様を書たれば、青山共名付たり。
 譬ば撥面に、牧の馬と書たれば、彼の琵琶を牧馬と如云也。
 昔村上天皇てんわうの御宇ぎように、月明々として陰なく、風颯々として最冷、秋夜深更に臨で御寂き折節をりふし、御心を澄しつゝ、此青山を取出御座おはしまして、御自万秋楽の秘曲を弾じ給けるに、撥の音にやめでたりけん、月もさやけき軒端頭に天人天降給たまひて、五六帖の秘曲の時、廻雪の袖を翻し、雲井に登給にけり。
 懸る目出琵琶なれば、其後凡人引事なし。
 仁和寺宮にんわじのみやに伝り、代々此御所の重宝なりけるを、皇后宮亮経正、十七にて初冠して軈やがて五位に成。
 すき額の冠を給たまひて、宇佐宮の御使に立られける時、申預て下つゝ、当社権現の神前にて、磐渉調にて青海波を弾じ給ける。
 御神殿やゝ動つつ、内より二羽の千鳥飛出て、社壇の上にぞ舞遊。
 神明御納受ごなふじゆ有て化現し給と覚えて忝かたじけなし。
 経正楽をば留て、三曲の其一流泉の曲を調べたり。
 宮人、巫女、賤女、賤男に至まで、呂律緩急をば不知ども、感涙袖を絞けり。
 凡人此琵琶を弾ずる事は、経正計ぞ有ける。
 斯る希代の重宝なれば、身を放たず家に伝とこそ思はれけめ共、都を落別るゝ程なれば、縦波の底に消失ぬ共、是を御覧ぜん折々は思召おぼしめし出し御座おはしまして、後の世をも御弔あれかしと思ければ、進報しけるにこそ。
 抑流泉曲とは、都率内院の秘曲也。
 菩提楽とは此楽也。
 弥勒菩薩常に此曲を調て、聖衆の菩提心をすゝめ給ふ故也。
 其声歌に云、
  三界無安 猶如火宅 発菩提心 永証無為
とぞひゞくなる。
 漢武帝の仙を求め給し時、内院の聖衆天降つて、武帝の前にて此曲を調べ給し時、竜王りゆうわう窃に来つて、南庭の泉底に隠居て此を聴聞せしかば、庭上に泉流れて満たりしより、此曲をば流泉と名たり。
 我朝には延喜第四王子会坂の蝉丸の琵琶の上手にて、天人よりつたへられたりしを秘蔵せられて、更に人にさづけたまはず、博雅三位三年の程、夜々よなよな関屋にかよひつゝつたへたりしを、三位も是を秘蔵して、たやす 人にはつたへざりけり。
 啄木と云曲も天人の楽也。
 本名解脱楽と云。
 此曲を聞者は生死解脱の心あり。
 其声歌に云、
  我心無碍むげ法界同 我心虚空其本一 我心遍用無差別 我心本来常住仏
とぞひびくなる。
 震旦の商山に、仙人多くあつまつて偸に此曲を弾じけるに、山神虫に変じつゝ、木を啄む様にもてなしてこれを聞けるより、啄木とは申也。
 此楽を弾ずる時は、天より必妙華ふり、甘露定りて、海老尾に結びけり。
 さても経正は既すでに罷出んとしけるが、今を限の別の道、立もやらず、琵琶を御前に閣きつゝ、角ぞ思つゞけける。
  呉竹のもとの筧はかはらねどなほ住あかぬ宮の内かな
 宮も御涙おんなみだを押へ御座おはしまして、
  呉竹の本の筧は絶はててながるゝ水のすゑをしらばや
 御前に候ける人々、昔の好み争可忘なれば、各遺を惜つゝ、墨染の袖をぞ絞ける。
 大蔵卿おほくらのきやう法印は、余りに悲く思ひつゝ、是や最後の別なるらんと思ひ入て、
  夏山の出入月の姿をばいつか雲井に又も見るべき
 経正の返事、
  夏山の緑の色はかはるとも出入月を思ひわするな
 侍従律師行経は、殊に不浅契たりける人也。
  哀なり老木若木も山ざくらおくれ先立花も残らじ
 経正返事、
  旅衣夜な/\袖をかた敷て思へば遠く我は行なん
と宣のたまひて、御遺おんなごりは旁推量御座おはしますべし。
 今は心づくしのはてまでも、是を最後の思出とて、御前を立給けり。
 年来見なれし人々も、鎧の袖に取付て、衣の袂たもとを絞けり。
 夜を重日を重ぬ共、別はいつも同事、行幸は遥はるかに延させ給ぬらんとて、心づよく振放、甲の緒をしめ馬に打乗出給ふ。
 参る時は世を忍たる体なれ共、帰る時は赤旗赤符付させつゝ、南を指て歩はせけり。
 行幸に追付進せんとて、心づよくは出たれ共、住なれし故郷はさすがに悲く覚えつゝ、鎧の袖に涙落て行前も不見けり。
 梅津里は夏なれど、匂を残して芳しや、桂里の月影も、思出てぞ通られける。
 大井河、岩越瀬々の水の泡、旅の憂身の悲さに、消入心地し給へり。
 飛騨守景家かげいへも、御伴にとて出立けるが、三歳になる孫に遺を惜つゝ、如何がせんとぞ悲ける。
 其孫と云は、北国の軍に討れし飛騨太郎判官景高が子也。
 其妻は夫に後れて深思に沈、此少者をかゝへてのち如何がせんと歎し程に、積思に堪ずして、此世空く成にけり。
 父にも後れ母にも別て、孤なりけるを、祖父飛騨守景家かげいへが、我懐に拘抱て、常は口説言して、哀果報なき身となれる悲さよ、懸る忘がたみを残置、我さへ物思ふ事の無慙さよとて、鳥の雛をあたたむるが如孚ける程に、平家都を落ければ、景家かげいへも出立けり。
 東西もしらぬ稚者を、宿定めなき旅の道に具せん事も叶ふまじ、跡に憑もしき者もなければ、誰に預べし共覚えず、思侘てつく/゛\是を案じ出して、冑の袖に懐きつゝ、母の八十有余いうよに成けるに具し行て、此子預け奉る。
 御為には曾孫也、景家かげいへ西海の浪に沈み候さうらふとも、生し立て御形見共御覧候へとて、打預けつゝ落行けり。
 景家かげいへが母老々として、庭に杖つき走出て泣々なくなく申けるは、我身縦若く盛なりとも、懸る乱の世中に如何にしてか育べき、況や八十に余て今日明日とも知ぬ命也。
 行末遥々はるばるの少き者を、何とせよとて捨預てはおはするぞ、縦情なく、老たる母をこそ振捨て出給ふ共、恩愛の別の悲さに打副て、歎を重給ふ事こそ心うけれ、如何ならん野末山の奥へも具し行給へとて、嬰児の手を引、鎧の袖に取付て、門を遥はるかに出たりけり。
 弓矢とる身の哀さは、人に弱気を見せじとて、かなぐり棄て出けれども、涙は先にすゝみけり。
 落行平家は誰々ぞ。
 公卿には前内大臣ないだいじん宗盛、平へい大納言だいなごん時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理しゆりの大夫だいぶ経盛、右衛門督うゑもんのかみ清宗、本三位中将重衡、権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう維盛、越前三位通盛、新三位中将資盛、殿上人てんじやうびとには内蔵頭くらのかみ信基、但馬守経正、左中将清経、薩摩守忠度、小松新少将有盛、左馬守行盛、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、小松侍従忠房、若狭守経俊、淡路守清房、僧綱そうがうには、二位僧都そうづ全真、法勝寺ほつしようじ執行能円、中納言律師忠快、経誦坊阿闍梨あじやり祐円、侍には受領検非違使けんびゐし、衛府諸司しよし百六十人、無官むくわんの者は数を不知、此二三箇年の間、東国北国度々の合戦に被討漏たる人々也。

頼盛よりもり落留事

 池いけの大納言だいなごん頼盛卿よりもりのきやうも、池殿の亭に火を懸て、鳥羽の南、赤江河原まで落給たりけるが、赤旗赤符ちぎり捨て、此より都へ帰上る。
 八条女院の御所、仁和寺にんわじ常葉殿に参篭し給へり。
 落残る勢僅わづかに百余騎よき也。
 兵衛佐ひやうゑのすけの許より度々被申送けるは、平家追討の院宣を下給る上は私を存ずべからず、御一門の人人恨申べきにて候、但御あたりの事は驚思召おぼしめすべからず、故池尼御前に遁れ難き命を被助進せて、今に甲斐なき世に立廻れり、其御恩争か奉忘べきなれば、如何にも報い申さんとこそ存ずれ共、後れ進ぬれば力及ばず、今は故尼御前の御座と深思進すれば、頼朝よりとも角て世に立廻り候はば、朝恩にも申替て御宮仕申べし、ゆめ/\いつはり飾の所存にあらずと被申たりける上、法皇仰之旨も有けるを憑て留給ふ。
 又同き侍に、弥平兵衛尉宗清と云者あり。
 兵衛佐ひやうゑのすけ平治の逆乱にきらるべかりけるを、此宗清、池尼御前の使として、兎角詞を加て死罪を申宥たりけるに依て、兵衛佐ひやうゑのすけ思忘給はず、国国の兵を差上せ給ける時も、穴賢池殿の殿原に向て弓矢を引事有べからず、又宗清兵衛に手かくなとぞ被誡仰ける。
 平治に頼朝よりとも助りて、寿永に頼朝よりとも遁給ふ。
 周易に、積善之家有余慶、不善之家有余殃と云本文あり。
 誠なる哉此言、人に情を与るは、我幸にぞかへりける。

貞能さだよし小松殿こまつどの付小松大臣如法経事

 源氏多田ただの蔵人行綱、摂津国つのくにを押領して河尻を打塞と聞えし間、肥後守ひごのかみ貞能さだよし馳向たりけれ共、僻事にて帰上る程に、相模が辻子と云所にて[* 「まて」と有るのを他本により訂正]行幸に参合ふ。
 貞能さだよし馬より下、大臣殿已下の人々に向ひ奉て、穴心う、是は何地へとて御座やらん、都にてこそ如何にも成給はめ、又西国さいこくへ落させ給たらば助り給ふべき歟、落人とて此彼にて打殺され射殺され、骸を道の側にさらし、名を後の世にくだし給はん事口惜かるべし、とく/\是より還上らせ給へとて爪弾に及ぶ。
 大臣殿宣のたまひけるは、貞能さだよしよ汝はいまだ不知、思ふも理なれ共、源氏昨日より天台山に登て、谷々坊々に充満たり、又此夜半より、法皇も御所を出させおはしまして渡らせ給はず、男子の身ならば如何がせん、主上いまだ幼き御事也、女院二位殿にゐどのを始進せて女房達にようばうたち旁御座おはします、まのあたり心憂目を見るも悲ければ、一間戸もやと思、又禅門名将の御墓所に参て、今一度奉拝、思ふ事をも口説申、其後塵灰ともならんと思召おぼしめす也と仰ければ、貞能さだよしは、昔より源平世を諍て合戦いまに絶ず、縦敵天台山に有とも、争か住なれし都をばあくがれ出させ給べき、貞能さだよしは余に京の恋しく候へば、帰上て敵あらば討死して、同ば骸を都にさらし侍べし、敵なくば又こそ帰参らめとて、只一人都へ帰上つゝ、法住寺ほふぢゆうじの辺に一宿したりけれ共、人々も引返し給はず、家々いへいへは今朝皆焼払やきはらひ給ぬ、なにに付、いづくに有べし共覚ざりければ、貞能さだよし小松殿こまつどのの御墓に参て、夜深るまでは忍音に念仏申、頓証菩提と回向して後申けるは、君は加様の事を兼て被知召て、熊野権現に御祈誓候て、とく失させ給けるにや、此世中いかに成立候べき、賢人の大臣とこそ君も臣も思奉し事に侍しか、草の陰までも遠き守とならせ給たまひて、御一門今一度都へ返入給へとて、生たる人に物を云様に、涙を流して申けり。
 暁に及て夢を結ぶ。
 大臣衣冠正して、八葉の連座のいと目出めでたきに、左の足を指上て登らん/\とし給けるに、鬼神来て引落し奉る。
 貞能さだよし、あれは如何にと問奉りければ、大臣涙を流し、八葉の連座と云は都率天宮也、我君臣の儀を不乱、親子の礼を篤す、国を思ひ人を恵に全く私を以せず、其上莫大の善根異国に及に依て、都率天に生ぜんとする処に、一門の悪行に答て今為鬼神引落たり。
 鬼神と云は即一族の悪霊也、されば汝、如法経を書写して必我後世を助よと宣ふと見て夢覚ぬ。
 其後墓堀起し、水に流すべきをば賀茂河に入、持すべきをば持せて、甲斐々々しくは云たりけれ共、泣々なくなく福原へこそ下けれ。
 王褒と申者、昔唐土に有けり。
 其母生たりける時、余に雷に恐けり。
 母死て後、雷のきびしく鳴時ごとに、必母の墓に行て、王褒是まで参て侍、雷電の音恐れ思給ふなと、声を挙て泣しかば、雷鳴を止けり。
 其の母夢に来て、悦ぶ色たび/\有けるとかや。
 至孝の志深き時には、古今上下、懸るためしも有けり。
 貞能さだよし後に聞えけるは、西国さいこくの軍破て下野国宇都宮へ下向す。
 彼宇都宮は外戚に付て親しかりければ、尋下て、出家して肥後入道と云て、如法経を書写して、大臣殿の後生を弔奉けり。
 貞能さだよし都へ返り入ぬと聞ける上、越中次郎兵衛盛嗣、上総七郎兵衛景清、二人大将軍として京へ上り、落留給へる平家の一門並侍共、人手に懸んより、一人も漏さず討捕べきと聞えければ、池殿は色を失ひ騒給たまひ、こは如何にすべき、源氏は未打入、平家には引別ぬ、浪にも付ず磯にもつかぬ心地かなとて、只八条殿に参て、若の事候はば助させおはしまし候へ、と申されけるも云甲斐なし。
 女院は斯る乱の世なれば、我いかにと計ふべきにも非、そも如何がせさせ給ふべきとぞ仰ける。
 平家の方の者やしたりけん、池殿の門前に、札に書てぞ立たりける。
  年比の平やを捨て鳩のはにうきみを蔵いけるかひなし
 大納言だいなごん此歌に恥て出仕もし給はず、常に篭居してぞおはしける。
 有為無常の境と云ひながら、命を惜身をかばふ事、定て可後悔をや。
 年来芳志ある一門を捨て、他門に帰伏し給ぬる事、げにもいける甲斐なしとぞ人申しける。

賦巻 第三十二
落行人々歌付忠度自淀帰謁俊成

 落行平家の人々、或式津の浪枕、八重塩路に日を経つゝ、船に竿さす人もあり、或遠を凌近を分つゝ、駒に鞭うつ人もあり。
 前途をいづこと不定、生涯闘戦を日に期して、思々心々にぞ下給ふ。
 権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやうの外は、大臣殿を奉始て可然人々は皆妻子を引具し給たりけれ共、下様の者共は妻子を都に置しかば、おの/\別を悲つゝ、行も留も互に袖を絞けり。
 夜かれ日枯をだにも怨しに、後会其期を知ざりけるこそ悲けれ。
 相伝譜代の好み不浅、年来日比ひごろの重恩も争か忘べきなれば、人なみ/\に涙を押て出たれ共、心は都に通つゝ、行も行れぬ心也。
 淀の大渡にては、南無なむ八幡三所大菩薩だいぼさつ、再都へ返し入給へと各伏拝給へども、神慮誠にしり難し。
 薩摩守忠度、故郷の家々いへいへ煙とのぼるを顧て、
  古郷を焼野の原にかへりみて末も煙の波路をぞゆく
 修理しゆりの大夫だいぶ経盛、
  墓なしや主は雲井に別るれば宿は煙と立のぼるかな
 或旧女泣々なくなく口ずさみ給ける、
  住なれし都の方はよそながら袖に波こす磯の松かぜ
 是を聞ける人々、いよ/\袂たもとを絞りけり。
 中にもやさしき事と聞えしは、薩摩守忠度と申は入道の舎弟しやてい也。
 淀の河尻まで下たりけるが、郎等六騎相具して、忍て都へ帰上る。
 如法夜半の事なるに、五条ごでうの三位俊成卿の宿所に行て門を扣く。
 内には是を聞けれ共、懸る乱の世なる上、いぶせき夜半の事なれば、敲共々々開ざりけり。
 余に強く敲ければ、良久有て青侍を出、戸をひらかせて是を問。
 忠度と申者、見参に申入度事ありて参たりと答ければ、三位大庭に下、世に恐て内へは入ざりけれ共、門をば細目に開て対面あり。
 忠度宣のたまひけるは、懸身として御ため憚あれ共、所詮一門栄花尽て都に不安堵、西海へ落下侍、亡ん事疑なし、世静て後、定て勅撰の沙汰候はんか、縦身は八重の塩路の底に沈とも、藻塩草書置末の言葉、後の世までも朽ぬ形見に伝はり侍れかしと思出て、河尻より忍上て侍、是ぞ年比読集たりし愚詠共にて侍る、身と共に波の下にみくづとなさん事遺恨に侍り、是を砌下に進置候、勅撰之時は必思召おぼしめし出よとて、巻物一巻、泣々なくなく鎧の引合より取出たり。
 三位感涙を流し、是を請取、御詠一巻預置候畢、是永代秀逸の御形見、未来歌仙の為指南歟、此怱劇之中に御音信おとづれに預事、恐悦不少候哉、縦浮生を万里の波に隔とも、御形見をば一戸の窓に納て、勅撰の時は思出侍べしと宣へば、忠度今は身を波の底に沈め、骨を山野に曝とも思事なしとて馬にのり、古詩を、
  前途程遠馳思於雁山之暮雲 後会期無霑纓於鴻臚之暁涙
と打上々々詠じつゝ、南を指てぞ落行ける。
 本文には、後会期遥也と書たるを、
忠度還見るべき旅ならず、今を限の別也と思ければ、後会期無と詠じけるこそ哀なれ。
 三位も遺の惜して、遥はるかに是を見送ても、あはれ世に在しには、此人共にこそ諂追従せしに、替習とて、今は門を隔る事の悲さよと、哀なるにも涙、優なるにも涙、忍の袖をぞ絞られける。
 代静て後千載集を撰れけるに、忠度の此道を嗜、河尻より上たりし志を思出給たまひて、故郷の花と云題に、読人しらずとて一首被入たり。
  さゞ浪や志賀の都は荒にしを昔ながらの山桜かな
とよめる歌也。
 名字をも顕し、あまたも入まほしかりけれ共、朝敵となれる人の態なれば憚給たまひて、只一首ぞ被入ける。
 亡魂いかに嬉く思けん、哀にやさしくぞ聞えし。
 此忠度、内裏の女房に心を移して、年来通ひ給たまひ、情深き中也けるに、彼女房みめ形類なく、心の色世に有難しとほのめきければ、高倉院たかくらのゐんも思召おぼしめし入させ給たまひて、忍て時々御幸あり。
 忠度は年来の知人也、院は日浅き御事也。
 天戸渡織女の、会夜希なる秋の夜の、月の光もさやけくて、虫の音絶々音信おとづれたり。
 をり知がほに道芝の、露置そむる夕暮に、高倉院たかくらのゐん此女房の許へ御幸あり。
 忠度争か知べきなれば、夜深人定て其夜同通はれたり。
 院は先よりの御幸なれば、女房は御前にて御物語おんものがたりあり。
 忠度は後におはしたれば、角とも知給はね共左右なく入給はず、人の出よかし、角と云入んとおぼしけれ共、御幸の折節をりふしなりければ、如何にと咎る者もなし。
 忠度かなたこなたを立廻り、御前近き御縁に良久立居給たまひ、扇をぞ仕給ける。
 蚊の目のきり/\と御前へ聞えけり。
 院も怪く思召おぼしめす御気色おんきしよく也。
 女房は忠度の来れるにこそ、角と告まほしく思はれけれ共、院に憚進ける上は、人して云べき便りもなし。
 忠度の待らん事も痛しく、折節をりふし骨なき事をも知れかしとて、女房何となき口ずさみの様に、野もせと仰られければ、忠度扇をたゝみて窃に帰給にけり。
 後に此女房に逢たりけるに、さても一日はいかにと問給へば、忠度、骨なきぞかしかましと仰候しかば帰てこそ、とぞ答たる。
 女房又宣のたまひけるは、人して申たる事もなし、何をしるしにて角は思召おぼしめしけるぞといへば、野もせと仰候しかば帰りぬと。
 源氏夕顔の巻に、
  かしかまし野狭にすだく虫音よ我だに物はいはでこそ思へ
と云歌の候ぞかしとぞ宣のたまひける。
 思寄給ける女房も、心え給へる忠度も、互に由ありてぞ覚えける。
 懸る優に情深き人にて、河尻よりも帰上り給ける也。
 左馬頭さまのかみ行盛と申は、太政だいじやう入道にふだうの二男に、左衛門佐安芸判官基盛と云し人の子也。
 父は保元の乱の後、宇治河うぢがはにて水神に取れて失にけり。
 孤子にておはしけるが、京極中納言定家卿に奉付、歌道を学給けり。
 都を落給とて、定家の遺を惜つゝ、巻物一つに消息せうそく具して被送たり。
 巻物とは日来読集給たりける歌共也。
 定家卿披き見給ふに、来方行末の事共こまやかに被書て、端書に、
  流れなば名をのみ残せ行水のあはれ墓なき身は消ゆるとも
 定家是を見給たまひて感涙を流し給つゝ、勅撰あらば必いれんと被思けり。
 薩摩守忠度の歌を、父俊成卿の、よみ人不知と千載集に被入たる事を、本意なき事に被思けり。
 忠度は朝家の重臣として、雲客うんかくの座に連れり。
 名を埋む事口惜く被思ければ、如何にも行盛をば名を顕さんとて、朝敵なれば世に恐て、三代を過ざりける。
 後鳥羽、土御門、佐渡院御宇ぎようを経て、後堀河院御時、新勅撰の有しに、今は苦しかるまじとて、左馬頭さまのかみ平行盛と名を顕し、此歌を被入たり。
 亡魂如何に嬉しと思ふらんと哀なり。

刈田丸討恵美大臣

 昔称徳天皇てんわうの御宇ぎように、藤原仲麿と云ふ人おはしき。
 是は贈太政大臣だいじやうだいじん武智丸の子也けり。
 高野女帝の寵臣にて、朝恩深して、政を我儘に執行間、奢心ありて世を世共思はず、只一族親類のみ朝恩に誇りけり。
 権勢日々に重くして、人の畏おそるゝ事、今の平家の如く目出かりき。
 我一人と世を押へ行て、是に勝つ者なかりければ、御門是を御覧じて、仲麿と云名を改て押勝と被付たり。
 大保大師に至れりしかば、すぞろに巧ましく思召おぼしめすとて、恵美大臣とぞ仰ける。
 去共盛なる者の衰る習あれば、河内国弓削と云所に道鏡禅師と云僧あり。
 貴き聞えありて、禁中に被召て如意輪の法を行ひければ、御寵愛甚くして、恵美大臣の権勢も物の数ならず、法師の身にて太政大臣だいじやうだいじんの位を給へり。
 門弟の法師共を以て、上達部などに被成けり。
 後には御位をゆずらんと思召おぼしめして、和気清麿を御使として、宇佐宮へ被申たりけれ共、御免れなし。
 力及ばせ給はで只法皇の尊号を奉、弓削道鏡法皇とは是なりけり。
 大臣大に本意なき事に思て、帝を怨み奉り、天平宝字八年九月十一日、軍を起し国家をあやぶめ奉らんと謀けるが、漏聞えにければ、罪八虐に当るとて、さしもきり者也しかども、官職を被止て、死罪に行れんとせしかば、恵美大臣も兵を集めて、禦戦はんと用意あり。
 帝坂上刈田丸を大将軍として、数万騎の官兵を以被攻ければ、大臣堪ずして一門引具し、都を出て東国へ趣て、凶徒を語ひ朝家を討奉んと支度しけり。
 官軍遮て勢多橋を引、大臣此より引帰、北陸道を下りに、海津の浦、敦賀の中山打越て、越前国に逃下、我身を帝王と名乗、親類一族を大臣公卿と詐て、正税しやうぜい官物くわんもつを打留め、人の心をたぶらかし過ける程に、官兵又責ければ、船に取乗、新羅高麗へと志漕けれ共、王事靡塩ければ、波風荒て船より下戦けるが、同おなじき十八日じふはちにちに大臣終に討れけり。
 刈田丸其頸を以都へ上、一門の公卿五人被首、骨肉親類、同心合力の輩皆亡けるこそ無慙なれ。
 彼を以是を思ふに、平家栄花既尽ぬ、亡ん期時至れりとぞ申ける。
 昔の押勝は北国に越て討れ、今の平家は西海に下りて久しからじと哀也。

円融房御幸事

 〔去さるほどに〕二十四日夜半に、法皇法住寺殿ほふぢゆうじどのを御出有て、賀茂へ入らせ給たりけるが、爰ここは都も無下に近し、猶悪りなんとて、御輿にて鞍馬へ御幸あり。
 御伴には右馬頭資時一人ぞ候ける。
 下北面の衛府に、定康、俊兼、知康、纔わづかに三人也。
 鞍馬寺も上下参詣の砌みぎり也。
 人目しげしとて、是より又横河へ上らせまし/\て、寂場坊に御座ござありけるを、大衆僉議せんぎして、これ猶悪りなんとて東塔南谷円融坊へ渡し入進せけり。
 さてこそ衆徒も武士も力付て、円融坊の御所近候ければ、法皇も御安堵の御心也。
 是を角とも不知して、京都には、院は夜より失させ給ぬ、主上は悪徒あくとに被引て西国さいこくへ行幸、摂政殿せつしやうどのは吉野奥とかや聞ゆ。
 其外女院宮々も世の騒に恐れまし/\て、嵯峨さが、広隆、賀茂、八幡辺に付て逃隠させ給ぬ。
 平家は都を落たれ共、源氏もいまだ入替ず、主もなく人もなき所にて、自残留たる人々も、闇に迷へる心地にて、如何なるべし共不覚。
 天地開闢より以来、懸る事聞及ばずと歎く程に、廿六日にじふろくにちに、法皇は天台山に渡らせ給と披露あり。
 上下我先にとぞ馳参給ふ。
 入道前関白くわんばく松殿、当時摂政せつしやう内大臣ないだいじん基通、左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣ないだいじん実定以下、大中納言だいちゆうなごん、宰相、三位、四位しゐ、五位、公卿殿上人てんじやうびと、上下の北面までも、官に居し職を帯し、先途を期し後栄を望て、人とかずへらるゝは一人も漏給はず参集て、円融坊には、堂上堂下門内門外、隙迫もなくみち/\たり。
 山門の繁昌衆徒の面目とぞ見えける。

義仲よしなか行家京入事

 二十六日にじふろくにちの辰刻に、十郎蔵人行家は伊賀国より宇治路うぢぢへ廻り、木幡、伏見をへて京へ入。
 木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなかは近江国勢多を渡して、同日未刻に京へ入。
 是は天台山に登て惣持院に城郭じやうくわくを構へたりしかば、西坂本より入べきか、又東坂本に下つて、志賀唐崎より大関小関をへて京へ入べきにてあれ共、余勢数千騎すせんぎ、鏡、篠原、野州河原に陣を取たるをも打具せんが為に、又順道也。
 且は祝の京入なればとて、湖上を押渡て野路勢多をへて京へ入。
 其外甲斐、信濃、美濃、尾張の源氏等げんじら、此両人に相従、其そのせい六万騎に及べり。
 行家、義仲よしなか都へ入て後は、武士在々所々を追捕し、衣装を剥取、食物を奪取ければ、洛中狼藉不なのめならず

法皇自天台山還御事

 〔同おなじき〕二十七日にじふしちにち、法皇天台山より還御、錦織冠者義広、白旗さして先陣に候けり。
 公卿殿上人てんじやうびと多く供奉して、蓮華王院の御所へ入せ給ふ。
 此二十余年、絶て久き白旗を今日始て御覧じけり。
 供奉の人々も珍しくぞ見給ける。
 二十八日にじふはちにちに、義仲よしなか行家両人を院の御所へ召されたり。
 検非違使けんびゐしの別当左衛門督実家、頭弁兼光、御前の簀子に候。
 御気色おんきしよくに依て、平家内大臣ないだいじん以下之党類、追討すべきの由被仰下けり。
 両人庭上に跪て是を承る。
 義仲よしなかは赤地錦直垂に塗籠の箭負て、蒔剣をはけり。
 折烏帽子をりえぼしに黒革威の冑を著し、笠符を左右の袖にぞ付たりける。
 甲冑を著たる郎従五人、童一人を相具せり。
 行家は縫物の紺の直垂に同毛鎧、引立烏帽子たてえぼしを著て、郎等三人を相具せり。
 両人相並て東庭の南に当て、御所の方に向て、跪て候けり。
 別当実家座を起て、北の簀子に蹲踞して、砌下に可進之由頻目しけれ共、心をえずして勧まず。
 内裏は、前内大臣ないだいじんの党類を追罰すべきの由召仰ければ、行家は砌みぎりに近進て是を奉る、義仲よしなかは深敬て進ず。
 両人の作法何も取々にゆゆしくぞ見えける。
 法皇は御簾の内より叡覧あり。
 院宣の御返事おんへんじをば、義仲よしなか畏て申けり。
 又前さきの右兵衛佐うひやうゑのすけ頼朝よりとも上洛すべきとて、庁官を御使として関東へ被下けり。
 同日院ゐんの御所ごしよにて議定あり。
 左大臣経宗、内大臣ないだいじん実定、堀河大納言だいなごん忠親ただちか、別当実家、大宮中納言実宗、梅小路中納言長方、右京大夫基家、源宰相さいしやうの中将ちゆうじやう通親、左大弁さだいべん経房、新三位季経、新しん宰相さいしやうの中将ちゆうじやう泰通卿ぞ参られける。
 頭弁兼光朝臣仰を奉て、国主、爾剣鏡、西海に令趣給畢ぬ。
 母后主上還御有べきの由、院宣被進べきか、将又可追討使か、定申べしと右大臣に仰ければ、国母定有帰御志歟、賊臣何無還向之思哉、若申行還御者、可殊賞之由、可遣前内大臣ないだいじん之許歟、失国璽事、王莽わうまう之、趙王奪之、漢家之跡雖一、本朝之例会未聞、被返報左右歟とぞ一同に定め申されける。
 同おなじき二十九日追討の庁下文を被下。
 〔云、〕五畿七道ごきしちだう諸国、可討前内大臣ないだいじん宗盛以下之党類事、件党類忽背皇化、已企叛逆、加之盗取累代之重宝、猥出九重之都城、論之朝章罪科旁重早可討件輩とぞ被載ける。
 昨日までは源氏を追討せよと、諸国七道に被院宣、今日よりは可討平家之由、五畿七道ごきしちだうに被院宣
 世の転変、政の改定、哀なりける事共なり。
 同晦日頭弁兼光朝臣、奉仰可行家義仲よしなか等勲功之賞否、国主未定之間、可除目否之由、人々に勅問有けり。
 梅小路中納言長方卿申されけるは、勲功之賞尤可行か、等差事、頼朝よりとも者為本謀、義仲よしなか者称戦功歟、昔誅諸呂文帝、陳平雖本謀、周勃依戦功、周勃之賞已越陳平、然者しかれば義仲よしなか之賞、可頼朝よりとも歟、但承平に討将門まさかど、秀郷者有興衆平定之忠、貞盛さだもり者積数度合戦之功、公卿論功、秀郷之賞超貞盛さだもり畢、今頼朝よりとも義兵威勢、旁頼朝よりとも之賞可勝、義仲よしなかが除目事、円融院大井河御遊ぎよいうの日、時中卿被参議、其後於陣被除目か、任件例被勧賞、後日可除目か、嘉承摂政せつしやうの事、太上天皇てんわう詔也、准彼例行とぞ被申ける。
 十郎蔵人行家は、法住寺ほふぢゆうじの南殿、萱の御所を捨て宿す。
 木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなかは、大膳大夫信業が六条西洞院にしのとうゐんの家に宿す。

福原管絃講事

 平家は、保元に春の花と栄えしか共、寿永に秋の紅葉と散はてて、八条の蓬戸、六波羅の蓮府、暴風塵を立、煙雲ほのほを払つゝ、福原の旧里に下て、故相国禅門しやうこくぜんもんの墓に詣つゝ、各法施を進り。
 思々の口説言、よその袂たもともしをれけり。
 入道の造置給たまひし花見の春の岡の御所、月見の秋浜の御所、雪見原の萱の御所、船見浜の浦御所、馬場殿二階にかいの桟敷殿、常の住居の御所とかや。
 五条ごでうの大納言だいなごん邦綱卿くにつなのきやうの造進せられし里内裏、其外人々の家々いへいへ、蔀も格子も破落、御簾も簾も絶はてて、いつしか歳の三年に痛荒にけるこそ哀なれ。
 旧苔路を塞て秋の草門を閉、瓦に松生て垣に葛かゝれり。
 台傾て苔むせり、松風計や通らん。
 簾絶ては閨顕也。
 月影のみぞ指入ける。
 さらぬだにもしをれはてぬる旅衣、是を見彼を見給にも、いとゞ涙ぞ袖ぬらす。
 母二位殿にゐどのは内に御座、大臣殿は外に居給たまひて、貞能さだよし景家かげいへ以下の宗徒の侍共を、御前に召て仰けるは、積善之余慶家に尽て、積悪之余殃身に及、故神明にも放れ法皇にも被棄奉て、帝都を迷出て客路にさすらふ上は、何の憑か有べきなれ共、誠や一樹の陰に宿り一河の流を渡も、皆是先世の契とこそきけ、況汝等なんぢらは一旦随付たる門客に非、累祖相伝の家人也、其上十善帝王、三種神器を御身に随へて御座、野末山の奥なりとも、落留らせ給はん所まで送つけ奉、火の中に入水の底に沈とも、今は限の御有様おんありさまをも見はて進すべしと宣のたまひければ、並居たりける三百さんびやく余人よにんの侍共、老も若も、皆涙を流して御返事おんへんじ申けるは、怪の鳥獣だにも、恩を不忘徳を報ずと承る、何況人倫の身として、争年比日比ひごろの重恩を忘れ、今更我君をすて進べき、此廿余年が間、妻子を孚み所従を顧も、一事として君の御恩に非と云事なし、全く二心有べからず、縦天竺震旦なり共、雲の終海の終までも御伴仕り侍るべし、御心安おんこころやすく思召おぼしめされ候べしと、異口同音に申ければ、二位殿にゐどのも大臣殿も、聊憑もしく被思召おぼしめされける。
 二位殿にゐどの又人々に被仰けるは、此福原は故入道大相国たいしやうこくのさしも愛し給し所也、魂魄も定て此にこそ住給ふらめ、今夜ばかりの遺也、西海に出なん後には再び爰を見ん事も有難し、亡魂も如何計かは哀に思召おぼしめすらん、且は最後の別也、且は最後の弔也、入道の為に管絃講行給たまひて、後生を弔給へと被仰ければ、大臣殿尤可然とて、先故禅門の墓所被参、手自花香そなへて念仏申廻向して、涙を流し給ければ、一門の人々も皆袂たもとをぞ絞ける。
 其中に薩摩守忠度、角ぞ思つゞけ給。
  なき人に手向る花の下枝はたをれる袖のしをれける哉
と。
 御所に帰、仏懸奉なんどして管絃講を被始けり。
 右衛門督うゑもんのかみ清宗、讃岐中将時実は蕭の役、薩摩守忠度、越前三位通盛は笛役、左中将清経、淡路守清房は笙の役、和琴は丹後侍従忠房、羯鼓は若狭守経俊、鉦鼓は平へい大納言だいなごん時忠、方磬は平中納言教盛、太鼓は内大臣ないだいじん宗盛、琴二挺琵琶三面、簾中の役、弁局大納言佐殿だいなごんのすけどのは琴、普賢寺殿北政所きたのまんどころ、帥佐殿、内侍局は、琵琶の役、法勝寺ほつしようじ執行能円、中納言律師忠快は伽陀の役、経誦坊阿闍梨あじやり祐円は式役、二位僧都そうづ仙尋は法華経ほけきやうたえ/゛\にこそよまれけれ。
 昔釈尊説法の砌みぎりに、大樹緊那羅が香山より出つゝ、八万四千はちまんしせんの伎楽を作り、浄妙無碍むげの歌を以て、如来によらい大会たいゑを供養せしに、釈梵護世の諸天、天竜夜叉の非人までも、琴音にきゝとれて威儀を忘たりけるに、迦葉尊者の舞給けるに、阿難唱歌し給けんも、角やとぞ覚ける。
 夫蕭笛琴箜篌、悉中道の方便に帰し、琵琶鐃銅はつ併法性の深理に叶へり。
 妙音大士は十方楽普現色身の証是新に、馬鳴菩薩は苦空の曲、皆語得道の世を可知。
 是を以、極楽界会の月前には、聖衆倶会して楽を催し、たう利たうり天宮の雲上には、天人歌舞して袖を翻す。
 加之霊山浄土じやうどの苔庭には、菩薩証得の響をなし、安養世界の玉橋には、如来によらい讃嘆の曲を奏し、常楽我浄の調べ麗くして猶麗く、苦空無我の音妙にして更妙なれば、不生不滅の曲は定て、虚空界の風に通じ、非有非空の響は、必ず法性海の波に和すらんとぞ覚えける。
 されば管絃も読経も円音教に帰し、伎楽も講唱も一実乗に混じて、同時一念の精誠を鑑、三種廻向の信力に依て、志す処の先人聖霊、九品往生を遂しめ給へと也。
 廻向の伽陀も終ければ、吹送笛の声、弾終る琴の音に、簾中も簾外も皆涙を流せば、僧衆も俗衆も共に袖をぞしぼりける。
 二位殿にゐどのは今を限の仏事ぞと、貴き中にも悲く、嬉き中にも哀にて、為方なくぞおぼしける。
 入道の弟修理しゆりの大夫だいぶ経盛は、詩歌管絃に長じ給へる中にも、横笛の秘曲を伝る事、上代にも類少く、当世にも並人なかりけり。
 一年法皇、故堀河院の御為に、法住寺殿ほふぢゆうじどのにて報恩講経供養の時、階下の公卿殿上人てんじやうびと、家をたゝして舞楽を奏し給たまひしに、経盛其時は東宮とうぐうの大夫にて、左のをも笛を仕しに、伶人舞曲を尽に及んで宮中澄渡、群集の諸人各袖を絞けり。
 上皇も故院の御追善なれば、今は都率天上の内院に納り給らんと思召おぼしめし、竜顔より御涙おんなみだを流させ給けり。
 八条左判官忠房は、陵王の秘曲を舞尽す。
 大ひざまづき小膝突、入日を返す合掌の手、終には皇序の袖を翻す。
 其家ならぬ人には、各笛をとゞめしに、此経盛皇序の秘説を吹給しかば、法皇叡感に不堪や思召おぼしめしけん、御前の御簾を上させ御座、御衣を脱て押出させ給けるを、経盛給たまひて階下に帰著給しかば、男女耳目を驚す。
 此道に不携人は面を壁に向へたるもあり。
 懸ける人なれば、心有も心なきも是を惜けり。
 八条中納言入道長方の弟に、左京大夫能方は、経盛の横笛の弟子にて秘曲を伝給けり。
 今二説を残て落給しかば、如何なる博雅三位は会坂の麓に夜を重ね、うちのき府生忠兼は父をいましめ五逆罪を犯すぞと思へば、妻子兄弟を振捨て、同都を落給けるが、福原の眺望の御所にて、甘州には只拍子、倍臚には五節の楽拍子、底を極給しかば、竜笛鳳曲は聖衆の座に連るやとあやまたれ、霓裳羽衣のよそほひを天人影向するかと、見人聞人諸共に、涙を流さぬは無りけり。
 能方はいづくまでもと慕給けるを、経盛あながちに制し被申ければ、名残なごりは様々惜けれ共、福原の一夜の宿より、都へ帰上給けり。
 やさしかりけるためし也。
 角て平家は福原の旧里に一夜を明しき。
 秋の初風立しより、漸夜冷に成にけり。
 旅寝の床の草枕、露も涙も諍て、そゞろに物こそ悲けれ。
 明ぬれば今朝を限と思つゝ、内裏を始て人々の家々いへいへ皆ほのほとぞ焼上。
 余煙日の光を抑へつゝ、雲井の空にぞ消紛。
 形見に残る福原も、焼野の原と成しかば、さこそ哀に覚しけめ。
 昨日は東海の東に轡を並べ、今日は西海の西に纜を解、雲海沈々として蒼天既すでに晩なんとす。
 松風颯々として旅寝の夢も覚ぬべし。
 霞孤島に峙て月海上に浮べり。
 八重の塩路を漕分、浪に引れて行舟は、万天の雲に連を成、憑の雁に似たりけり。
 海士の焼藻の夕煙、尾上の鹿の暁の声、渚々の波音、遠近舟の曳や声、惣て目に見耳に聞事の、一として涙を催し心を傷しめずと云事なし。
 都に捨置し妻子もおぼつかなし、栖馴し故郷も恋しければ、老たるも若も只泣より外の事はなし。
 但馬守経正、行幸に供奉すとて思続給けり。
  御幸する末も都と思へども猶なぐさまぬ浪のうへかな
 さても主上を始進せて、竜頭鷁首の船を海上に浮て出させ給へば、浪路の皇居静ならず、都を落し程こそなけれ共、是も遺は惜かりけり。
 棹のしづくに袖濡ては、古郷軒の忍を思出て、月を浸潮の深愁に沈、霜をおほへる芦の脆命を悲む。
 州崎に騒ぐ千鳥の声暁の恨を添、傍居にかゝる楫の音夜半に心を傷しむ。
 白鷺の遠樹に群居を見ては、東夷の旌を靡すかと肝を消し、夜雁の遼海に啼を聞ては、兵の船を漕かと魂を失ふ。
 青嵐膚を破て翠黛紅顔の粧やう/\衰へ、蒼波眼を穿て外土望郷の涙抑難し。
 さこそは悲かりけめと、推量れて哀也。
 指して行へは知ね共、露の命は松浦船、彼は須磨の関、是は明石浦など申を聞給ふに、藻塩たれつゝ歎けん、昔語の跡までも、思残す隙ぞなき。
 寿永二年八月朔日、京中保々守護事、任義仲よしなか注進之交名、殊令警巡炳誡之由、右衛門権佐うゑもんごんのすけ定長さだなが院宣、仰別当実家卿、出羽判官光長、右衛門尉有綱〈 頼政卿よりまさのきやう孫 〉十郎蔵人行家、高田四郎重家、泉次郎重忠、安田三郎義定、村上太郎信国、葦敷太郎重澄、山本左兵衛尉義恒、甲賀入道成覚、仁科次郎盛家とぞ聞えける。

四宮御位事

 主上は外家の悪徒あくとに引れて、花の都を出て西海の波の上に漂ひ御座らん事を、法皇御心苦く思召おぼしめして、可還上由、平へい大納言だいなごん時忠の許へ院宣を雖下、平家是を奉惜、免進せざりければ、力及ばせ給はずして、さらば新帝を祝奉るべしとて、院の殿上にて公卿くぎやう僉議せんぎあり。
 高倉院たかくらのゐんの御子、先帝の外三所御座、二宮をば儲君にとて、平家西国さいこくへ取下進けり。
 今は三四宮間を可立歟、又故以仁の宮の御子おはします、十七にぞ成せ給ける。
 是は還俗の人にて御座おはしませども、懸る乱世には成人の主、旁可還俗の事、天武之例外に求むべからず。
 又昭宣公、恒貞親王を奉迎られき。
 還俗の人憚あるべからずとぞ沙汰有ける。
 去共法皇は、高倉院たかくらのゐん三四御子之間に思召おぼしめし定ければ、同八月五日彼三四宮を奉迎取
 先三宮の五歳に成せ給を是へと仰有ければ、大に面嫌まし/\てむつがらせ給ければ、疾々とて速に返出しおはします。
 次に四宮を是へと申させ給へば、左右なく歩み寄らせ給。
 御膝の上に渡らせおはしまし、御なつかしげに竜顔を守り上進せ給けり。
 御歳四歳にぞならせ給。
 法皇は御哀気に思召おぼしめし、御髪掻撫させ給御涙おんなみだぐみて、此宮ぞ誠に朕が御孫也ける、すぞろならん者ならば、などてか懸る老法師をば懐く思ふべき、故院の少くおはせし顔立に違ねば、只今ただいまの様に思出らるゝぞや、懸る忘形見を留置れたりけるを、今まで不見ける事よとて、御涙おんなみだを流させ給けり。
 浄土寺じやうどじの二位殿にゐどの、其時は丹後殿の局とぞ申ける。
 御前に候給けるが、袖を絞て被申けるは、兎角の御沙汰ごさたに及ばず、御位は此宮にこそと聞えさせ給ければ、法皇子細にやと仰有て定まらせ給にけり。
 内々御占有けるにも、四宮は御子孫まで日本国につぽんごくの御主たるべしとぞ、神祇官じんぎくわん并陰陽寮など占申けり。
 御母は七条修理しゆりの大夫だいぶ信隆卿の御娘にておはしけるが、建礼門院けんれいもんゐん中宮の御時、忍つゝ内の御方へ被参ければ、皇子さしつゞき御座おはしましけるを、父修理しゆりの大夫だいぶ、平家の鍾愛を憚、又中宮の御気色おんきしよくをも深く恐給けれ共、八条二位殿にゐどの御乳人おんめのとに付などせられけり。
 此宮をば法勝寺ほつしようじ執行能円法印の奉養けるが、平家に付て西国さいこくへ落ける時、余に周章あわて北方をも不具、宮をも京に奉忘たりけるを、法印人を返して、急ぎ宮具し進せて西国さいこくへ下給へと、北方へ宣のたまひたりければ、既すでに下らんとて、西八条にしはつでうなる所まで忍具し進せて出給たりけるを、御乳人おんめのとの妹に紀伊守範光と云者あり。
 心賢く思けるは、主上は西海に落下らせ給ぬ、法皇都に留らせ給たれば、御位をば定て四宮にぞ譲らせ給はんずらん、神祇官じんぎくわんの御占も末憑もしき事也とて、二位殿にゐどのの宿所に参て尋申ければ、西国さいこくより御文有とて、忍て此御所をば出させ給ぬと答ける間、こは浅増あさましき事也と思、おぼつかなき所此彼捜尋進せて、唯今君の御運は開けさせ給べし、物に狂はせ給たまひて角は出立給か、西国さいこくへ落下らせ給たらば、君も御位に立せ給たまひ、御身も世におはせんずるにやとて、大に嗔腹立て取留め進せたりけるに、翌日法皇より御尋おんたづねありて、御車御迎に参て角定らせ給けり。
 そも帝運の可然事と申ながら、範光はゆゝしき奉公の者也とぞ人申ける。
 七条修理しゆりの大夫だいぶ信隆卿は、白鶏を千羽飼ぬれば、必其家に王孫出来御座と云事を聞て、白鶏を千羽と志して飼給ける程に、後には子を生孫を儲て四五千羽も有けり、夥おびたたしなどは云計なし。
 鳥羽、田井、西京田などに行て、稲を損じばくを失ふ。
 懸ければ信隆の鶏とて人もてあつかへり。
 此彼にして打殺けれ共生子は多し。
 七条八条に充満て、尽べき様も不見けり。
 誠に其験にや有けん、四宮位に即せ給ふ。
 義仲よしなかは高倉宮たかくらのみやの御子即位の事、内々泰経卿に申旨有ければ、同おなじき十四日に、俊暁僧正そうじやうを以義仲よしなかに御尋おんたづねあり。
 勅答には、国主の御事、為辺鄙之民是非、但故高倉宮たかくらのみや、為法皇之叡慮、被御命、御至孝之趣、天下其隠なし、争不思召おぼしめされざらん哉、就なかんづく彼親王宣、源氏等げんじら義兵、已成大事畢、而今受禅沙汰之時、此宮の御事、偏ひとへに被棄置、不議中之条、尤不便の御事也、主上已すでに為賊徒取籠給へり。
 彼御弟何んぞ強に可尊崇哉、此等の子細更に非義仲よしなか之所存、以軍士等之申状、言上する計也と申ければ、人々義仲よしなか申状非其謂とぞ申合れける。

維高維仁位論事

 昔文徳天皇てんわうの御子に、維高親王、維仁親王とて、御兄弟ごきやうだい二人御座おはしましけり。
 維仁は第二の王子、維高は第一の王子也。
 互に御位を御意に懸けさせ給へり。
 天皇てんわうも分る御方なく、難棄御事共おんことどもにて、叡慮思し召煩はせ給へれ共、御嫡子なれば維高親王とぞ内々は被思召おぼしめされける。
 第一王子維高親王と申は、御母は従四位下じゆしゐのげ左兵衛佐ひやうゑのすけ名虎が女、従四位じゆしゐの上紀静子と申。
 第二王子維仁親王と申は、御母は太政大臣だいじやうだいじん良房、忠仁公御女おんむすめ藤原明子、後には染殿后と申是也。
 一の宮の御事をば、外祖紀名虎取り立て奉らんとて、帝運の可然にて、第一の王子に出来御座おはしませり、御恙なし。
 されば御位は此公にこそと頻しきりに内奏申しけり。
 二の宮の御事をば、外祖にて忠仁公奉取立とて、一の宮は落胤腹、名虎が御女おんむすめ也。
 次弟は是の執柄家の御女おんむすめ、后立王子也、子細にや及ばせ給べきと、平に被内奏けり。
 此の事誠に難題にて、公卿くぎやう僉議せんぎあり。
 就勝負御位を可進とて、初には八幡に臨時の祭を居て、十番の競馬あり。
 四番は一宮に付、〔六〕番は二宮に付く。
 此上は維仁親王御位につき給ふべかりけるを、天皇てんわう猶御心不飽思し召ければ、後には大内にして、相撲被節会て、重て勝負を有叡覧、可御譲と儀奏有ければ、維高御方には、即外祖左兵衛佐ひやうゑのすけ名虎参けり。
 恩愛の道こそ哀なれ。
 今年三十四、太く高く七尺しちしやく計の男、六十人が力ありと聞ゆ。
 維仁の御方には、能雄少将とて細小の男、行年二十一、なべての力人と聞ゆれども、名虎には可敵対ものに非ず、去れ共果報冥加は二の宮の奉御運とて、不敵に申請てぞ参ける。
 旁々有御祈師、一の宮の御方には、東寺の柿本の真済僧正そうじやう也。
 徳行高く顕て修験誉広く、天皇てんわう御帰依の僧也ければ、名虎是を奉語付けり。
 二の宮の御方には、延暦寺えんりやくじ恵亮和尚くわしやう也。
 行葉年を重ねて薫修日新也。
 忠仁公と深く師檀の契を結給けるに依て被付けり。
 恵亮は西塔宝どう院ほうどうゐんに壇を構て、大威徳の法を修せられけり。
 真済は東寺に壇を立て、降三世の法を行給けり。
 昔金剛こんがう薩たさつた、南天の鉄塔を開て大日如来によらいに奉値、秘密瑜伽ゆがの経法を伝受し給しより以来、仏法ぶつぽふ東漸して、真言上乗日或に弘通せり。
 弘法大師は竜樹菩薩の後身、鷲峯説法の聴衆也。
 昔威光菩薩としては、日宮に居して修羅の軍を禦ぎ、今遍照金剛こんがうとしては、日本につぽんに住して金輪聖王の福を増、大日如来によらいより第八代、恵果和尚くわしやうの瀉瓶嫡弟也。
 慈覚大師は観音大士の垂迹、一乗いちじよう弘通の薩たさつた也。
 清涼山に詣しては、親り生身の文殊を拝し、帰朝の海上にしては、弥陀如来みだによらい波の上に化現して、引声を伝へ給へり。
 善無畏不空より五代、入室の孫弟也。
 而を恵亮は慈覚の弟子、真済は弘法の弟子也。
 東寺は長安城の南の端、山門は洛陽城の艮の峰、共に鎮護国家の道場也、同大権垂迹の法弟也。
 降三世は東方とうばう薬師やくしの教令輪身、四面八臂の形也。
 悪魔を三世に降して永く三毒の根を断、帰敬者は官難を払利生あり。
 大威徳は西方弥陀の教令輪身、六面六臂の姿也。
 威勢を一天に振て必行者の望を成、仰信ずる輩は、天子に上る効験あり。
 共に五大明王みやうわうの随一ずゐいち、又東西守護の忿怒也。
 利益区に施し、威験各新なる上、東寺天台秘密の上乗たり。
 入室瀉瓶牛角の験者なれば、恵亮精誠を尽し、真済肝胆を砕たり。
 懸りければ、此条とみに事行難くやあらんずらんと云者もあり。
 又、明王みやうわうには勝劣なけれ共、行者の至心懇念にこそよらめと云者もあり。
 又恵亮真済、行徳に甲乙あらじ、さらば終には力の強弱にこそよるべけれと云者もあり。
 又天運は凡夫の測べき事に非、只帝徳の可然にこそと、上下の口には其説さま/゛\也。
 既すでに其日時に成ければ、名虎と能雄と出合たり、殆金剛力士の如し。
 堂上階下目を澄て是を見、門外門内足を爪立て是を望、源深しては不流尽、根全しては枝不枯習也。
 以祈誓効験、行徳の浅深を可知事なれば、東寺天台両門の貴僧高僧、恵亮真済帰依の若男若女、各手を把心を迷はせり。
 法に偏執はなけれ共、互に勝負の方人たり。
 能雄、名虎寄合て手合するを見る。
 名虎元来大力なれば、腕の力筋太、股の村肉籠たり。
 枝の成付骨の連様、肩の渡広足の跋扈、外見に可迷惑之処に、能雄がうでくび取て引寄、高く指上て、曳声を出して抛なげたりけるに、上下見物之男女老少、あはや二宮の御方打負、手に入ぬと思程に、一丈余被抛て、乍危つくとしてこそ立たりけれ。
 見人戯呼々々と感嘆せり。
 又寄合互に曳声出して、時移る迄からかうたり。
 名虎は松の立るが如して、跋扈て動ざりけるを、能雄は藤の纏が如くして、身に縷付つゝ、小頸小脇を掻詰て、内搦外搦、大渡懸小渡懸、弓手に廻妻手に廻して逆手に入、様々にこそ揉たりけれ。
 是や此品治北男、丹治是平、佐伯希雄、紀勝岡、近江薑、伊賀枯丸と聞えし貢御白丁も是には争か可勝とぞ見人興を増たりける。
 勝負は未なし、元来力勝り也。
 名虎勝ぬと見えければ、一宮の御方よりは東寺へ使を被立けり。
 忠仁公よりは二宮の御方既危く侍と、使者を山門へ被立事、追継々々に櫛の歯の如し。
 和尚くわしやうこは心苦き事哉、此時不覚を我山に残さん事口惜かるべし。
 二宮に即給はずば、命生ても何かはせんとて、熾盛の念力を抽でつゝ、炉壇に立たる剣を抜、健把て自頭を突破、脳を摧き芥子に入、香の煙に燃具して、帰命頂礼きみやうちやうらい大聖大威徳明王みやうわう、願は能雄に力を付給たまひ、勝事を即時に令得給へと、黒煙を立て汗を流して、揉に揉でぞ祈給ふ。
 生仏本より隔なし、信力本尊に通じ、本尊行者に加しければ、大威徳の乗給へる水牛、炉壇を廻る事三度、声を揚てぞ吠たりける。
 其声大内に響ければ、能雄に力ぞ付にける。
 名虎其声を聞けるより、身の力落て、心惘然として覚えける処を、能雄名虎を脇に引挟、南庭を三廻して、其後曳と云て抛なげたれば、名虎大地に被打付て、血を吐て不起上
 蔵人等走寄、大内より舁出して家に返し遣たりければ、三日有て死にけり。
 恵亮脳を摧しかば、能雄に力は付にけり。
 名虎相撲に負しかば、維仁位に即給ふ。
 清和せいわのみかどと申は彼親王の御事也。
 維高親王は御位叶はざりければ、小野里に引籠給けり。
 小野親王とは是也。
 又は持明院とも申けり。
 山陰中納言、昔の好を思出して時々事問給けり。
 天子の御位は人力の及所に非ず、天照太神てんせうだいじんの御計と申ながら、恵亮の効験三門の面目にて、御嫡子を越て次弟御位に即給へり。
 其よりして山門の訴状には、今の代までも恵亮砕脳、尊意振剣とは書とかや、懸ためしもあり。

阿育王即位事

 昔天竺摩訶陀国に、頻頭沙羅王と云国王御座おはしましけり。
 是は阿闍世王の孫也き。
 彼王にあまたの太子御座。
 其中に太郎を須子摩と云、二郎を阿須迦と云。
 二郎は形貌醜悪にして鮫膚也。
 心操不敵にして狼藉に御座おはしましければ、父の大王大に悪んで、御位までの事思寄給はず。
 太郎は形貌は端厳にして、御心人間の類とも覚えざりければ、大王不なのめならず寵愛し給たまひて御位を譲給はんと覚しけり。
 爰ここに頻頭沙羅王、病の床に臥給たりける折節をりふし、徳刃尸羅国の凶賊王命に随はずと聞えければ、太郎太子須子摩を大将軍として、官兵を相副て彼国へ指遣す。
 大王病及獲麟たまひて、未嫡子須子摩帰上給はず。
 去共年比の任本意、位を譲らんとし給けるに、帝釈空より天降給たまひて、十善の宝冠を次郎阿須迦太子に授著給けり。
 父の頻頭沙羅王、是を見て大悪心を起し、血を吐て失給にけり。
 城護大臣と云一の大臣と、阿須迦太子と同心して位に即給ふ。
 須子摩凶賊を平げ、国より還上給たまひて此事を聞、兵を集て阿須迦王を誅せんとし給けり。
 城護大臣又官兵を集て、大内の門々を固て禦戦はんと構たり。
 須子摩先陣に進て、城護大臣の固めたる門前に押寄たり。
 大臣畏て申て云、臣は是国の輔佐、依王命故に守門計也、君又即位給はば、臣又可其命、必しも臣が非結構けつこう、阿須迦王之固め給へる正門に向て雌雄を決し給ふべし、臣が門を破給はん事、まさに御本意にあらじと申ければ、いふ処尤道理也とて正門に向ひ給ふ。
 城護大臣又敵を亡さんと謀をぞ廻たる。
 木を以て阿須迦王の像を造り、大象にのせ奉て門前に進出て、前後に兵を集め、陣の前に広く深き火の坑を用意して、煙を徐へ立て坑の上に沙を蒔、平々たる庭上にしつらひて、官兵さと引退ば、須子摩勝に乗て馳競はん時、火坑に落し入て焼亡さんと支度したり。
 須子摩争か可知なれば、数万の軍を召具して正門に向ひ、時を造て阿須迦を責む。
 阿須迦象の口を引返し、官兵を相具して門の内へぞ引退く。
 須子摩乗勝て攻入処に、数万の軍と相共に火坑に馳入て、一時が程に焼死にけり。
 無慙と云も疎也。
 阿須迦王終に四海を治給ふ。
 阿育大王と申は彼太子の事とかや。
 されば王位は輙く不人臣之計、天地人の三門に通じ、可神明仏陀之御恵事と覚えたり。
 天竺の阿育は帝釈冠を授給たまひ、我朝の清和せいわは恵亮砕脳給けり。
 彼は天神の助成、是は仏法ぶつぽふの効験也。

義仲よしなか行家受領事

 同六日、平家の一類公卿殿上人てんじやうびと衛府諸司しよし百八十人、被官職、平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやう父子三人は、此中に漏たり。
 十善帝王三種宝物、可返入由、彼人の許へ仰遣されけるに依也。
 八月十日、法皇蓮華王院の御所より南殿へ移らせ給ふ。
 其後三条大納言だいなごん実房、左大弁さだいべん宰相経房参給たまひて被除目けり。
 木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなか、左馬頭さまのかみになりて越後国を給る。
 十郎蔵人行家備後守になる。
 各国を嫌ひ申せば、十六日じふろくにちの除目に、義仲よしなかは伊予を給り、行家は備前守に移る。
 安田三郎義定近江守になる。
 其外源氏十人、軍功賞とて、靭負尉ゆぎへのじよう兵衛尉に成て、使の宣を蒙者も有けり。
 此十余日が先までは、源氏追討の宣旨を被下て、平家こそ加様に勧賞にも預しに、今は平家誅戮の為にとて、源氏誇朝恩けり。
 好生毛羽、悪成瘡、朝承恩、暮賜死と云本文あり。
 誠に定なき世の習とは云ながら、引替たる哀さに、心ある人々は、思連て袂たもとをぞ絞ける。
 院の殿上にて除目行はるゝ事先例なし。
 今度始とぞ聞えし、珍しかりける事也。

平家著太宰府付北野天神飛梅事

 八月十七日じふしちにちに、平家は筑前国御笠郡太宰府に著給へり。
 菊地次郎高直、宍戸諸卿種直、臼杵戸槻松浦党を始として、奉護主上、如形被皇居たり。
 彼大内は山中なりければ、木丸殿とも云つべし。
 人々の家々いへいへは野中田中なりければ、草深して露繁し。
 麻のさ衣うたね共、十市の里とも云つべし。
 稲葉を渡る風の音、一人丸寝の床の上、片敷袖ぞしをれける。
 さてこそ平家の人々は、大臣殿を奉始、安楽寺に詣給たまひ、詞を作歌を読などして手向給ける中に、皇后宮亮経正、角ぞ詠じ給ける。
  住なれしふるの都の恋しさに神も昔をわすれ給はじ
 北野天神は、依時平大臣之讒訴、延喜五年正月廿五日に安楽寺に遷され給ふ。
 住なれし故郷の恋しさに、常は都の空をぞ御覧じける。
 比は二月の事なるに、日影長閑に照しつつ、東風の吹けるに、思召おぼしめし出る御事、多かりける中に、
  こち吹ばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘な
と詠じければ、天神の御所、高辻、東洞院ひがしのとうゐん、紅梅殿の梅の枝割折て、雲井遥はるかに飛行て、安楽寺へぞ参ける。
 桜も御所に在けるが、御歌なかりければ、梅桜とて同く籬の内にそだち、同御所に枝をかはして有つるに、如何なれば梅は御言に懸り、我はよそに思召おぼしめさるらんと奉怨て、一夜が中に枯にけり。
 されば源順が、
  梅はとび桜は枯れぬ菅原やふかくぞたのむ神の誓を
懸る現人神なれ共、帰京を赦れ給はず、終に其にて隠させ給たまひける御歎、我身につまれて経正も思つゞけ給けり。
 誠に神も哀と覚しけん、中にも貴き事ありけり。
 人々詩作り歌よみなどして、社頭の地形、庭上の古木、立寄々々し給けるに、さても昔、紅梅殿より飛参ける梅は、何れなるらんと、口々に云て見廻給けるに、何国より共なく、十二三計の童子化現して、或古木の梅の本にて、
  是や此こち吹風に誘はれてあるじ尋し梅のたちえは
と打詠じて失にけり。
 北野天神の御影向と覚て、各渇仰の頭を傾け給けり。

還俗人即位例事

 同おなじき十八日じふはちにち、左大臣経宗、堀河大納言だいなごん忠親ただちか、民部卿成範、皇后宮権大夫実守、前源げん中納言ぢゆうなごん雅頼、梅小路中納言長方、源宰相さいしやうの中将ちゆうじやう通親、右大弁親宗被参入て、即位并剣鏡璽宣命尊号事等議定あり。
 頭弁兼光朝臣諸道の勘文を下す。
 左大臣に次第に被伝下けり。
 神鏡事、偏ひとへに存如在之儀、還有其恐、暫定其所、可帰御歟、剣璽事、於本朝、更雖例、漢家之跡非一、先有祖、可帰来歟、御剣は可儀式、尤可他剣者歟、即位事八月受禅九月即位、円融院也。
 而天下不静事卒爾也、十月例光仁寛和なり、可二代者、十一二月に可行、而今年即位以前、朔旦嘉承無出御、不吉事也、十月旁可宜歟、任治暦之例、可官庁紫宸殿歟、旧主尊号事、若無尊号者、天可二主、尤可沙汰歟、宣命事、任外記勘状、可嘉承例之由、一同に被定申けり。
 同日平家没官の所領等源氏等げんじらに分給ふ、惣五百ごひやく余箇所也。
 義仲よしなか百四十余箇所、行家九十箇所也。
 行家申けるは、所相従之源氏等げんじら、更非通籍之郎従、只相従戦場計也。
 私に支配之条、彼等不恩賞之由歟、尤可分下と申けるを、義仲よしなかは此事争悉被召功之浅深、義仲よしなか相計可分与とぞ申ける。
 両人の申状何も非謂ぞ聞えける。
 今日行家義仲よしなか等、聴院昇殿、本は候上北面しけり。
 此条驚べきに非と云へ共、官位俸禄己如所存か、奢心は人として皆存ぜる事なれ共、今称勲功日々重畳す、尤頼朝よりとも之所存を可思兼歟とぞ人々被申合ける。
 同廿日法住寺ほふぢゆうじの新御所にて、高倉院たかくらのゐん第四王子有祚。
 春秋四歳、左大臣召大内記光輔、祚祖事太上法皇の詣旨を可載也。
 先帝不慮に脱しの事、又摂政せつしやうの事同可載と仰す。
 次第の事は不先例ども、剣璽なくして践祚事、漢家には雖光武跡、本朝には更無先例、此時にぞ始ける。
 内侍所は如在の礼をぞ被用ける。
 旧主已被尊号、新帝践祚あれ共、西国さいこくには又被三種神器、受宝祚たまひて于今在位、国似二主歟、叙位除目已下事、法皇宣にて被行之上者、強に急ぎ無践祚とも可何苦、但帝位空例、本朝には神武天皇じんむてんわう七十六年丙子崩。
 綏靖天皇てんわう元年庚辰即位、一年空。
 懿徳天皇てんわう二十四年甲子崩。
 孝照天皇てんわう元年丙寅即位、一年空。
 応神天皇てんわう二十一年庚午崩。
 仁徳天皇てんわう元年癸酉即位、二年空、継体天皇てんわう廿五年辛亥崩。
 安閑天皇てんわう元年甲寅即位、二年空。
 而今度の詔に、皇位一日不曠被載事、旁不其心とぞ有職の人々難じ被申ける。
 されば異国は不知、我朝には、神武天皇じんむてんわうは、地神第五代の御譲を稟御座おはしまししより以来、故高倉院たかくらのゐんに至らせ給まで八十代、其間に帝王おはしまさで、或二年或三年など有けれ共、二人の帝の御座事未聞。
 世の末なればや、京田舎に二人の国王出来給へり、不思議也とぞ申ける。
 平家は四宮既すでに御践祚と聞て、哀三四宮をも皆取下奉るべかりし者をと被申合ければ、或人の、さらましかば高倉宮たかくらのみやの御子を、木曾冠者きそのくわんじやが北国より奉具上たるこそ位には即給はんずれ共と云ければ、平へい大納言だいなごん時忠、兵衛佐ひやうゑのすけ尹明などの、如何出家還俗の人は位に即給べきと宣のたまひければ、又或人申されけるは、異国には、則天皇后そくてんくわうごうは唐太宗に奉後、尼となり感業寺に籠給たりけるが、再高宗の后と成、世を治給し程に、高宗崩御ほうぎよの後、位を譲得給たまひて治天下給けり。
 中宗皇帝は入仏家、玄弉三蔵の弟子と成、仏光王と申けれ共、則天皇后そくてんくわうごうの譲えて、崩御ほうぎよの後、還俗して即位給へりき。
 我朝には天武天皇てんわう、大友皇子の難を恐て、春宮とうぐうの位を退まし/\て、大仏殿の南面にして御出家ごしゆつけありしか共、終に大友皇子を討て位につき給たまひき。
 孝謙天皇てんわうは、位をさりて出家し、御名を法基と申しか共、大炊天皇てんわうを奉流、又位につき給へり。
 今度は称徳天皇てんわうとぞ申ける。
 されば出家の人も即位給事なれば、木曾が宮も難かるべきにあらずと申て、咲などしけるとかや。

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