濃巻 第二十六
木曾謀叛事

 信濃国しなののくに安曇郡に、木曾と云山里あり。
 彼所の住人ぢゆうにんに、木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなかと云は、故六条ろくでうの判官はんぐわん為義ためよしが孫、帯刀先生義賢には二男也。
 義仲よしなかここに居住しける事は、父義賢は、武蔵国多胡郡の住人ぢゆうにん、秩父二郎大夫重澄が養子也。
 義賢武蔵国比企郡へ通りけるを、去久寿二年二月に、左馬頭さまのかみ義朝よしともが嫡男悪源太義平、相模国さがみのくに大倉の口にて討てけり。
 義賢は義平には叔父なれば、木曾と悪源太とは従父兄弟也。
 父が討れける時は、木曾は二歳、名をば駒王丸と云。
 悪源太は義賢を討て京上しけるが、畠山庄司重能に云置けるは、駒王をも尋出して必害すべし、生残りては、後悪るべしと。
 重能慥に承ぬとは云たりけれ共、いかゞ二歳の子に刀をば振べき、不便也と思ひて、折節をりふし斎藤別当真盛が、武蔵へ下たりけるを悦て、駒王丸を母にいだかせて、是養給へと云やりたりければ、真盛請取て、七箇日おきて、案じけるは、東国と云は皆源氏の家人也、憖なまじひに養置て、討れたらんも無憑甲斐、討せじとせんも身の煩たるべし、兎も角かくも難叶と思て、木曾は山深き所也、中三権頭は世にある者也、隠し養て、人と成たらば、主とも憑めかしとて、母に懐かせて、信濃国しなののくにへ送遣す。
 斎藤別当情あり。
 母懐に抱へて、泣々なくなく信濃へ逃越て、木曾中三権頭に見参して、懐出して云様は、我女の身也、甲斐甲斐敷養立とも覚えず、深く和殿を憑也、養立て神あらば子にもし、百に一も世にある事もあらば、かこちぐさにもし候へ、悪くば従者にも仕ひ候へと云。
 兼遠哀と思ひける上、此人は正く八幡殿には四代の御孫也、世中の淵は瀬となる喩あり、今こそ孤子にて御座とも、不知世の末には、日本国につぽんごくの武家の主とも成やし給はん、如何様いかさまにも養立て、北陸道の大将軍になし奉て、世にあらんと思ふ心有ければ、憑もしく請取て、木曾の山下と云所に隠し置て、二十余年が間育み養けり。
 然べき事にや、弓矢を取て人に勝れ、心甲に馬に乗て、能、保元平治に源氏悉ことごとく亡ぬと聞えしかば、木曾七八歳のをさな心に不安思て、哀平家を討失て、世を取ばやと思ふ心あり。
 馬を馳弓を射も、是は平家を責べき手習とぞ、あてがひける。
 長大の後、兼遠に云けるは、我は孤也けるを、和殿の育に依て、成人せり、懸るたよりなき身に、思立べき事ならね共、八幡殿の後胤として、一門の宿敵を、徐に見るべきに非ず、平家を誅して、世に立ばやと存ず、いかゞ有べきと問。
 兼遠ほくそ咲て、殿を今まで奉育本意、偏ひとへに其事にあり、憚候事なかれと云ければ、其後は木曾、種々の謀を思ひ廻して、京都へも度々忍上て伺けり。
 片山陰かたやまかげに隠れ居て、人にもはか/゛\しく不見知ければ、常は六波羅辺ろくはらへんにたゝずみ伺けれ共、平家の運不尽ける程は、本意を不遂けるに、高倉宮たかくらのみやの令旨を給りけるより、今は憚るに及ばず、色に顕て謀叛を発し、国中こくぢゆうの兵を駈従へて、既すでに千余騎よきに及べりと聞ゆ。
 木曾と云所は、究竟の城郭じやうくわく也。
 長山遥はるかに連て、禽獣猶希に、大河漲下て、人跡又幽也。
 谷深く梯危くしては、足をそばだて歩み、峰高く巌稠しては、眼を載て行く。
 尾を越え尾に向て心を摧、谷を出で谷に入て思ひを費。
 東は信濃、上野、武蔵、相模に通て奥広く、南は美濃国に境、道一にして口狭し。
 行程三日の深山しんざん也。
 縦数千万騎を以ても責落すべき様なし、況桟梯引落して、楯籠らば、馬も人も通ふべき所に非。
 義仲よしなかここに居住して謀叛を起し、責上て、平家を亡すべしと聞えければ、木曾は信濃にとりても南の端、都も無下に近ければ、こはいかゞせんと上下騒けり。

兼遠起請事

 平家大に驚き、中三権頭を召上て、如何に兼遠は木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなかを扶持し置き、謀叛を起し、朝家を乱らんとは企つなるぞ、速に義仲よしなかを搦進すべし、命を背かば汝が首を刎らるべしと、被下知ければ、兼遠陳じ申て云、此条且被聞召きこしめされ候けん、義仲よしなかが父、帯刀先生義賢は、去久寿の比、相模国さがみのくに大倉の口にて、甥の悪源太義平に被討侍き、義仲よしなか其時は二歳になりけるを、恩愛の道の哀さは、母悪源太に恐て、懐に入ていかゞせんと歎申しかば、一旦哀に覚えて、請取て、今まで孚置て侍れ共、謀叛の事努々虚事也、人の讒言などに候か、但御諚の上は、身の暇を給たまはつて国に下、子息共に心を入て可搦進と申。
 右大将家うだいしやうけ重て仰には、身の暇を給はんと思はば、義仲よしなかを可搦進之由、起請文を書進べし、不然者、子息家人等けにんらに仰て、義仲よしなかを搦進せん時、本国に可返下也と有ければ、兼遠思ひけるは、起請をかゝでは難遁、書ては年来の本意空かるべし、いかゞすべきと案じけるが、縦命は亡とも、義仲よしなかが世を知んこそ大切なれ、其上心より起て書起請ならず、神明よも悪しとおぼしめさじ、加様の事をこそ乞索圧状とて、神も仏も免され候なれと思成て、熊野の午王の裏に、起請文を書進す。
 其状に云。
 謹請再拝再拝
  早依謀叛企、可進木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなか由、起請文事
 右上奉梵天帝釈、四大天王、日月三光、七耀九星、二十八宿、下内海、外海、竜神りゆうじん八部、竪牢地祇、冥官冥衆、日本国中につぽんごくぢゆう、七道諸国、大小諸神、鎮守ちんじゆ王城、諸大明神だいみやうじん、驚申而白、木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなか者、為六孫王之苗裔、継八幡殿後胤弓馬之家也、武芸之器也、依これによつて源家之執心、為宿祖之怨念、相語北陸諸国之凶党、擬平家一族之忠臣之由、有其聞、甚以濫吹也、早仰養父中三権頭兼遠而可進彼義仲よしなか云云、謹蒙厳命畢、任仰下之旨、速可進義仲よしなか、若偽申者、上件之神祇冥衆之罰於、兼遠之八万四千はちまんしせん之毛孔仁蒙天、現世当来、永神明仏陀之利益仁可漏之起請状如件。
     治承五年正月  日               中原兼遠
とぞ書たりける。
 依これによつて平家憑もしく思はれければ、中三権頭を被返下
 兼遠国に下て思ひけるは、起請文は書つ、冥の照覧恐あり、又起請に恐れば日比ひごろの本意無代なるべし、いかゞせんと案じけるが、責も義仲よしなかを世に立んと思ふ心の深かりければ、本望をも遂、起請にも背かぬ様に、当国の住人ぢゆうにんに根井滋野行親と云者を招寄せて云ひけるは、此木曾殿きそどのをば、幼少二歳の時より懐育み奉て、世に立候はん事をのみ深く存侍き、成人の今に、高倉宮たかくらのみやの令旨を給たまひて、平家を亡さんとする処に、兼遠を召上て、乞索圧状の起請文を被召畢ぬ、此事黙止せん条本意に非ず、されば木曾殿きそどのを和殿に奉らん、子息共は定て参侍べし、心を一にして平家を討亡て、世におはせよとてとらせける志こそ恐しけれ。
 行親木曾を請取て、異計を当国隣国りんごくに回し、軍兵を木曾の山下に集けり。
 懸りければ、故帯刀先生義賢の好にて、上野国の勇士、足利の一族已下、皆木曾に相従、平家を亡さんとひしめきけり。
 平家此事を聞て沙汰有りけるは、越後国住人ぢゆうにん城太郎資永は、当家大恩の身として多勢の者也、縦木曾信濃国しなののくにの兵を相語と云共、資永が勢に並べんに、十分之一に及べからず、只今ただいま討て進らせなん、あながちに驚騒べからずとは云けれ共、東国の背だにも浅増あさましきに、北国さへ懸ければ、直事に非ずと申あへり。

尾張国目代もくだい早馬事

 二十四日亥刻に、尾張国目代もくだい、早馬を立たりとて六波羅ひしめく。
 平家の一門馳集て是を聞に、熊野の新宮の十郎蔵人行家、東国の源氏等げんじらを催して、数千騎すせんぎの軍兵を引率して、既すでに当国に打入間、国中こくぢゆうの土民不安堵、是より美濃近江を相従て、都へ可責上由披露あり、急ぎ討手を被下べし、又御用心あるべしとぞ申たる。
 六波羅には此事聞て、こはいかゞせんと、只今ただいま敵の都へ打入たる様に、資財雑物東西に運隠し、鎧腹巻太刀刀馬よ鞍よとひしめきければ、京中の貴賎途を失て為方なし。
 去さるほどに、武士の人の家々に走入て、目に見ゆる物を奪取ければ、易き人更になし。
 廿五日、前さきの右大将うだいしやう宗盛卿むねもりのきやう、近江国の惣官に被補、天平三年の例とぞ聞えし。

平家東国発向附大臣家尊勝陀羅尼事

 二月一日、征東大将軍左兵衛督知盛卿、中宮亮通盛朝臣、左少将清経、薩摩守忠度、侍には、尾張守実康、伊勢守景綱、以上三千さんぜん余騎よきにて東国へ発向す。
 今日東塞、時日こそ多きに、いかゞ有べきと申者も有けれ共、今一日も源氏に勢の付増ぬさきにとて角急ぎ給けり。
 粟田口、山階、関山、関寺、粟津原、勢多長橋打渡、今日は野路にぞ著給ふ。
 二日は野州の河瀬を打渡し、篠原、堤鳴橋、鏡宿にぞ著にける。
 爰ここに両三日逗留して、近江国の源氏等げんじら、山本、柏木、錦織、佐々木の一族打従へて美濃国赤坂に著。
 当国の凶徒等打従て、五千ごせん余騎よきにて尾張国墨俣川に著と聞えけり。
 十郎蔵人行家は、美濃国板倉と云所に楯籠たりけるを、平家推寄て、後の山より火を懸て責ければ、行家爰を被落て、同国中原と云所に陣を取、其そのせい千余騎よきには不過けり。
 同七日大臣已下の家々にて、尊勝陀羅尼不動明王ふどうみやうわうを可書供養之由被仰下、兵乱の御祈おんいのりとぞ聞えし。
 此外諸寺の御読経、諸社の奉弊、大法秘法数を尽て被行けれ共、源氏は唯責に攻上ると聞えて、平家の祈祷其験有とも不見。
 理や万乗の聖主を奉悩、諸寺の仏法ぶつぽふを亡しぬれば、冥の罰、天の責、争か遁べき、兎にも角にも、唯人苦きより外の事なしとぞ申ける。

義基法師首渡事

 同九日、武蔵権頭源氏義基法師が首、同子息石川判官代はんぐわんだい義兼生捕、検非違使けんびゐし実俊判官、七条川原にて武士の手より請取て、東洞院ひがしのとうゐんの大路を渡して、頭をば獄門の左の樗木に懸、虜をば被禁獄
 馬車街衢に充満て、見人幾千万と云事を知ず。
 此義基法師と云は、故陸奥守義家よしいへが孫、五郎兵衛尉義光子、河内国石川郡の住人ぢゆうにん也。
 兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりともに同意の聞え有て、骸を獄門に被掛けり。
 今高倉院たかくらのゐん崩御ほうぎよ、諒闇りやうあんの年に首を被渡事、如何が有べきと沙汰有けれ共、諒闇りやうあんの年賊衆の首を被渡事、去嘉承二年七月十九日、堀川ほりかは天皇てんわう隠れさせ給たまひしに、同三年正月廿九日に、対馬守源みなもとの義親〈義家よしいへ一男〉頸を被渡例とぞ聞えし。

知盛所労上洛事

 同おなじき十二日に、征東将軍左兵衛督知盛卿、所労重て墨俣より上洛す。
 是は近江国小野宿を立、醒井に著給たまひける時、比良高根の残雪、余寒烈き折節をりふしに、伊吹岳の山おろし、身に入かと覚えけるより、心地例ならずとて、道すがら労て、是までは下給たれ共、如何にも難叶して被上ければ、副将軍の左少将清経朝臣も、同被入洛けり。
 其外の人々は猶美濃国に留る。
 討手の使は度々被下けれ共、はかばかしき事もなくて、角のみ帰上ければ、東国にも北国にも、日に随て大勢付増と披露しければ、浅猿あさましき事也とて、右大将うだいしやう宗盛、今度は我下らんと宣のたまひければ、君の御下向あらば、東国も北国も誰かは可違背、ゆゝしく候なんと上下色代して、我も/\と出立ける上、或は武官に備、或弓馬に携らん輩、宗盛の下知に随て、東夷北狄を追討すべきの由、被宣下ければ、面々其用意あり。

宇佐公通脚力附伊予国飛脚事

 同おなじき十三日、宇佐大郡司公通が脚力とて六波羅に著状を披に云、九国住人ぢゆうにん菊地次郎高直、原田大夫種直、緒方三郎惟義、臼杵、部槻、松浦党を始として、併謀叛を発し、東国の頼朝よりともに与力して、西府の下知に不随と申たり。
 平家の人々手を打て、こはいかなるべきぞ、東国の乱をこそ歎て、西国さいこくは手武者なれば、催上て官兵に差遣さんと思ひつるに、承平に将門まさかど天慶に純友、東西に鼻を並て乱逆せしに、少も不違事かなとて騒ぎ迷ひ給へば、肥後守ひごのかみ貞能さだよし、是は僻事にてぞ候らん、加様の時は虚言多き事也、東国北国の輩は、誠に義仲よしなか頼朝よりともに相従ふ事も侍るらん、西海の奴原は平家大御恩者共也、争か君をば背進すべき、貞能さだよし罷下て、誡鎮侍るべしと、憑もしげにぞ申ける。
 同おなじき十六日じふろくにちに、近江美濃両国の凶賊等が首、七条川原にて武士の手より検非違使けんびゐし請取て大路を渡し、東西の獄門に被懸ければ、近国の勇士等、皆平家に随と聞えけり。
 同おなじき十七日じふしちにち、伊予国より飛脚ありて六波羅に著。
 披状云、当国の住人ぢゆうにん河野介通清、去年の冬の比より謀叛を発て道前道後の境、高縄の城じやうに引籠る、備後国住人ぢゆうにん額入道西寂、鞆の浦より数千艘の兵船を調て、高縄城に推寄、通清をば討取て侍しか共、四国猶不静、西寂又伊予、讃岐、阿波、土佐、四箇国を鎮が為に、正二月は猶伊予に逗留す。
 爰ここに通清が子息に四郎通信、高縄城を遁出て安芸国へ渡て、奴田郷より三十艘の兵船を調へ、猟船の体にもてなし、忍て伊予国へ押渡、偸に西寂を伺けるをも不知、今月一日、室高砂の遊君集て船遊する処に、推寄て西寂を虜りて、高縄城に将行て八付にして、父通清が亡魂に祭たり共申。
 又鋸にてなぶり切に頸を切たり共申。
 異説雖口多、死亡決定也、依これによつて当国には、新井武智が一族、皆河野に相従。
 惣じて四国住人ぢゆうにん、悉ことごとく東国に与力して、平家を奉背と申たり。
 又聞えけるは、熊野別当、田部法印堪増已下、那智新宮の衆徒、吉野十津川の輩に至まで、併背花洛東夷に属する由披露あり。
 東国北国のみに非ず、南海西海も騒動せり、仏法ぶつぽふたちまちに亡ぬ、王法なきが如し、四夷蜂の如くに起けり、逆乱の瑞相頻也、我朝只今ただいま失なんとす、こは心憂事かなと、平家一門ならぬ貴賎までも、各歎申けり。
 同おなじき十七日じふしちにち、太政だいじやう入道にふだう、子息前さきの右大将うだいしやう宗盛を以て被奏ける、天下の御事、如本可聞召きこしめさるべき之由、法住寺ほふぢゆうじの御所に申入候けれ共、法皇は政務に口入すればこそ心憂事も辛目をも見聞すれ、よしなしとて聞召入きこしめしいれさせ給はざりければ、底いぶせくぞ思ひ給たまひける。
 同おなじき十九日、東国北国の賊衆、頼朝よりとも義仲よしなか与力同心の凶徒等可征伐之由、宣旨を以て、越後国住人ぢゆうにん余五将軍が末葉、城太郎平資永と、陸奥国住人ぢゆうにん藤原秀衡と、此両人が本へ被下遣けり。

入道得病附平家可亡夢事

 同おなじき二十七日にじふしちにちに、前さきの右大将うだいしやう宗盛、数万騎の勢を引率して、頼朝よりとも以下の凶徒を追討の為に、関東へ下給ふべきにて出立給たまひける程ほどに、太政だいじやう入道にふだう例心地出来給へりとて留り給たまひぬ。
 二十八日にじふはちにちに、入道重病を受給たりとて、六波羅京中物騒し。
 馬車馳違、僧も俗も往還、種々の祈祷を被始、家々の医師薬を勧めけれ共、病付給ける日よりして、湯水をだにも喉へも入給はず、身の中の燃焦ける事は、火に入が如し。
 臥給へる二三間へは人近付よる事なし。
 余にあつく難堪かりければ也。
 叫び給たまひける言とては、只あた/\と計也。
 此声門外まで響ておびたゞし。
 直事とも不覚、貴も賤も、あはしつるぞや、さ見つる事よ/\とぞ申ける。
 今度もし存命あらば、如何に本意なかりなんと云者も、内々は有けるとかや。
 又人の私語ささやきけるは、哀同は今度存命して、東国北国の源氏に被責殺給はんを見ばやなんどと云ける也。
 よく人には悪まれ給たりけるにこそ、され共偕老の眤、骨肉の情なれば、二位殿にゐどのを奉始て、公達兄弟に至るまで、大に歎給たまひけれ共、如何にすべき様もなければ、唯あきれてぞ御座おはしましける。
 牛馬の類金銀の宝、七珍六畜引出し取運び、神社仏寺に抛けれ共、重くは成て少も験なし、誠に難遁定業とぞ見えける。
 養和元年〈改元七月十四日也〉、閏二月二日、熱く難堪おぼしけれ共、二位殿にゐどの枕の本に居寄給たまひて、泣々宣のたまひけるは、御労日々に随て、憑み少なく見え給ふ。
 神に祈仏に申事も不なのめならず、立ぬ願もなけれ共、いかにも可叶とも覚えず。
 今は偏ひとへに万の事を思ひ捨給たまひて、後の世の事を助からんと思召おぼしめせ、又御心に懸る事あらば、被仰置候へと宣へば、入道よに苦気にて大息つき、我平治元年より以来、天下を手に把て万事心の儘也、諍者もなく、憚処もなし、適背輩あれば、時日を不回亡し失しかば、草木も我に靡かずと云事なし、角て既すでに二十三年、就なかんづく官位太政大臣だいじやうだいじんに上りて、十善万乗の帝祖たり、子孫兄弟栄花を開て、同当今の御外戚也、官職福禄何事かは心に不叶事ありし、生ある者は必死する習なれば、入道一人始て驚べき事ならず、但遺恨の事とては、頼朝よりともが首を不見して死る計こそ口惜けれ、冥途の旅も安く過ぬとも覚えず、我いかにも成なば、堂塔をも不造、仏経をも供養せず、唯頼朝よりともが頸を切て、墓の上に掛よ、其のみぞ孝養の報恩ともなり、草の陰にても嬉しとは思はんずる、されば我を我と思はん者共は、子孫も侍も聞伝て、心を一つにして努々懈る事なかれとぞ遺言ゆいごんし給たまひける。
 二位殿にゐどのも公達も、いとゞ罪深く聞給ふ。
 四日、入道弥病に責伏られ給へり。
 燃焦て難堪と宣のたまひければ、百人ひやくにんの夫を立て、追続々々、比叡山ひえいさんの千手院より水を結び下して、石の船に湛て、入道其中に入て冷給けるに、水は涌返りて湯になれ共、更に苦痛は止ざりけり。
 後には板に水を任せて、伏まろびて冷給へ共、猶助かる心地し給はず、療治りやうぢも術道も験を失、仏神の祈誓も空が如し。
 終に七箇日と申に、悶絶僻地して、周章あわて死に失給き。
 馬車馳違貴賎ののしり騒て、京中六波羅塵灰を立たり。
 一天の君の御事也共、隠しもや有べき。
 夥おびたたしなど云も不なのめならず
 入道今年は六十四に成給ふ。
 老死と云べきには非ず、七八十までも生人有ぞかし。
 され共宿運忽たちまちに尽、天の責難遁して、立る願も空く祈る験もなし。
 身に代り命に代らんと契ける数万騎の兵も、冥途無常の責をば難防。
 閻王奪魂の使には戦者もなし。
 父母、兄弟、及妻子、朋友、僮僕、並珍宝死、去無二来、相親唯有黒業、常随逐と説れたり。
 冥々たる旅の道、峨々たる剣の山、妻子眷属振捨、只一人こそ迷らめ。
 金銅十六丈の盧遮那仏るしやなぶつを奉始て、南北二京の大伽藍、顕密大小の諸聖教、焼失し其故に、角亡給たまひけり。
 後の世の苦患も、思ひやられて無慙なり。
 入道明日病つき給はんとての夜、其内の女房の夢に見けるは、立ふぢ打たる八葉の車に、炎夥おびたたしく燃上中に、無と云字只一つ書たる鉄の札あり。
 青鬼と赤鬼と先に立て、彼車を福原の入道の宿所の東の門へ引入たり。
 女房の夢の心地に、あれはいくとこより、何事に来れる者ぞと問へば、鬼答て云、我等われらは閻魔大王の御使に獄卒と云者也。
 聖武皇帝御願ごぐわん、日本につぽん第一の大伽藍、金銅十六丈の盧遮那仏るしやなぶつ焼亡し給へる咎に、太政だいじやう入道にふだう迎取べき火車也と申。
 女房恐し浅増あさましと思ひながら、さてあの鉄の札に、無と云文字書たるは何事ぞと問へば、鬼答て云、入道仏像経巻を焼失て、既五逆罪を犯せり、永く阿鼻大地獄に墜て無間の重苦を受べき、無間の無の験の札也と申と見て覚にけり。
 さめて後も猶夢の心地せり。
 偏身に熱き汗流れてうつゝ心なし、恐しなどは疎也。
 かたへの女房一両人にぞ語ける。
 其後彼女房、心地例ならずとて、日比ひごろ悩て二七日と云ふに死にけり。
 又奈良坂に火懸たりし播磨国福井庄の下司俊方は、南都の軍果て都に上り、三箇日が中に、炎身を責と叫て死にけり。
 入道の病に少も不替けり。
 正月には、高倉院たかくらのゐん隠れさせ給たまひて、一天の愁九重の歎いまだ晴ず。
 悪事は去事なれ共、僅わづかに中一月を阻て入道薨給へり。
 生者必滅の理り、打連き哀也。
 同七日六波羅にて焼上奉る。
 骨をば円実法橋頸に掛て福原へ下て納けり。
 さしも執し思はれし所なれば、亡魂も悦給へかしとて、角計ひけるにこそ。

御所侍酒盛事

 七日入道焼上奉りける夜、六波羅の南にありて舞躍る者あり。
 嬉しや水鳴滝の水と云拍子を出して、二三十人が音して拍子をとり喚叫、はと笑、どと笑などしけり。
 高倉院たかくらのゐん隠させ給たまひて天下諒闇りやうあん也。
 御中陰ごちゆういんも未はれさせ給はぬに、又太政だいじやう入道にふだう失給ぬ。
 而も今夜已すでに六波羅にて火葬の最中に、懸る音のしければ、人倫の態とは覚えず、天狗などの所行にやと思ひける程ほどに、法住寺殿ほふぢゆうじどのの御所侍、東の釣殿に人を集めて酒飲けるが、酔狂て角舞踊りける也。
 主馬入道盛国もりくにが子に、越中前司盛俊行向て、御所預基宗に相尋ければ、御所侍が結構けつこう也と申間、盛俊御所侍二人を搦捕て、前さきの右大将うだいしやうの許へ将て参て、子細を被召問
 答けるは、相知て候者あまた出来て、世中の墓なき事、今に始めぬ事なれ共、天下の重しにて御座おはしましつる入道殿にふだうどのの隠れさせ給ぬる哀さよと、互に歎き訪進せつる間、聊酒を儲て、忍やかにすゝめ侍つる程ほどに、酒の習、後には物狂しき心出来てしか/゛\と申ければ、入道の弔、当座の会釈と覚えたり。
 如是輩中々兎角云に及ばずとて被追放けり。
 縦酔たり共、此折節をりふしには角やは有べき、天狗の所為にこそ不思議也。
 抑人の死する跡には、浅増あさましき賤男賤女までも、程々に随香花燈明を備へ、例時懺法行て、亡魂の菩提を弔ふは尋常の事ぞかし。
 是は仏経供養の作法もなく、供仏施僧の営なし。
 さこそ遺言ゆいごんならんからに、うたてかりし事也。

蓬壺焼失事

 六日八条殿も焼ぬ。
 此所をば八条殿の蓬壺とぞ申ける。
 蓬壺とはよもぎがつぼと書けり。
 入道蓬を愛して、坪の内を一しつらひて蓬を植、朝夕是を見給へ共、猶不飽足ぞおぼしける。
 されば不なのめならず造り瑩れて、殊に執し思ひ給ければ、常は此蓬壺にぞ御座おはしましける。
 人の家焼は習なれ共、折節をりふしこそあれ、如何なる者の付たりけるやらん、放火とぞ聞えける。
 八条の亭には、謀叛輩打入て火を懸たりと云ければ、京中地を返し、上下心を迷す事夥おびたたし。
 実ならばいかゞせん、何者なにものが云出したりけるやらん、虚言にぞ在ける。
 よし天狗もあれ、悪霊も強して、平家の運の尽なんずるにこそと覚えたれ。

馬尾鼠巣例并ならびに福原怪異事

 此入道の世の末に成て、家に様々のさとし有き。
 坪の内に秘蔵して立飼れける馬の尾に鼠の巣を食て、子を生たりけるぞ不思議なる。
 舎人数多付て、朝夕に撫仏ける馬の、一夜の中に巣を食、子を生けるも難有。
 入道にふだう相国しやうこく大に驚給ふに、陰陽頭安部泰親被尋問ければ、占文のさす処、重き慎とばかり申て、其故をば不申けり。
 内々人に語けるは、平家滅亡の瑞相既すでに顕たり、近くは入道の薨去、遠は平家都に安堵すべからず、如何にと云に、子は北の方也、馬は南の方也、鼠上るまじき上に昇る、馬侵るまじき鼠に巣を作らせ、子を生せたり、既すでに下尅上せり、されば子の北の方より夷競上りて、馬の南の方におはする平家の卿上けいしやうを、都の外に追落すべき瑞相とこそ申けれ。
 され共入道の威に恐て只重き御慎おんつつしみと計申たりければ、まづ陰陽師七人まで様々祓せられけり。
 又諸寺諸山にして御祈共始行あり。
 件馬は、相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん大場三郎景親が、東八箇国第一の馬とて進たり。
 黒き馬の太逞が、額月の大さ白かりければ、名をば望月とぞ申ける。
 秘蔵せられたりけれ共、重き慎と云恐しさに、此馬をば泰親にぞ給びける。
 昔天智天皇てんわう元年壬戌四月に、寮の御馬の尾に、鼠巣を造子を生けり。
 御占あり、重き慎と申けり。
 さればにや世の騒も不なのめならず、御門も程なく隠させ給たまひにけり。
 日本記に見えたり。
 異国には前漢の成帝の御宇ぎよう、建始三年九月に、長安城の南に木あり、鼠彼木に登て巣をくひ子を生き。
 さればにや、成帝程なく亡給にけり。
 思寄ざる処に、鼠の巣くひ子生事は、其家の可亡怪異也。
 又入道福原に御座おはしましける時、常の御所と名付たる坪の内を、まだ朝に見出して御座おはしましければ、人の首の、いくらと云数もしらず充満、上になり下に成、ころび合ころびのきしけるを怪と思ひて見給たまひければ、後にはあまたの首が唯一つに固て、坪にはゞかる程の大頸にて、長三尺計なる眼の四五十有て、而も逆なるを以て、入道をはたと睨たり。
 入道も亦面を振ず、二の眼を以て一時がほど、目たゝきもせず、睨給たまひければ、余に守られて、其首次第々々に少成て、霜雪の消失が如く成ぬれば、又一丈計の長に、少首に成て細目にて睨時も有けり。
 去共終には入道に睨失はれけり。
 推するに、保元平治の逆乱に討れし死霊の所為とぞ覚えたる。
 又五葉の松を坪の内に植生立、朝夕愛し給けるが、片時の間に枯れにけるこそ不思議の中の不思議なれ。
 又入道の禿とて、髪を眉まはりより切たる童を、三百人さんびやくにんまで召仕給たまひける中に、天狗交りて常に大木を倒す音しければ、夜六人昼六人の兵士を居て、蟇目の番とて射させらるゝ。
 天狗のある方へ射遣たる時は音もせず、なき方を射たるには、時を造る様にとゞめき叫び笑ひけり。
 恐しと云も疎也。
 常には苔むして、ぬれ/\とある大なる飛礫を以て、若は庭上若は簾中などへ抛入けり。
 懸るさとし共も多して、入道最後の有様ありさまも尋常ならず、うたてくぞ終り給たまひける。
 去共直人におはせざりけるやらん、神祇を敬ひ仏法ぶつぽふを崇給し事も、人には勝れ給へり。

入道非直人附慈心坊得閻魔請

 一年日吉社へ被参けるにも、上達部殿上人てんじやうびと、数多遣連などして、一の人の賀茂春日などへ御参詣あらんも、加程の事はあらじとぞ覚えし。
 社頭にして、千人せんにんの持経者を請じて供養あり。
 社々に神馬を引れ、色々の神宝を奉らる。
 七社しちしや権現納受なふじゆして、緋玉墻色を添、一乗いちじよう読誦どくじゆの音澄て、和光わくわうの影も長閑也。
 ゆゝしく目出かりし事共也。
 又福原の経島築れたりし事、直人のわざとは覚えず。
 彼島をば、阿波民部大輔成良が承て、承安二年〈癸巳〉歳築初たりしを、次年南風忽たちまちに起て白浪頻しきりに扣かば、打破られたりけるを、入道倩此事を案じて、人力及難し、海竜王かいりゆうわうを可宥とて、白馬に白鞍を置、童を一人乗て、人柱をぞ被入ける。
 其上又法施を手向可奉とて、石面に一切経を書写して、其石を以て築たりけり。
 誠に竜神りゆうじん納受なふじゆ有けるにや、其後は恙なし。
 さてこそ此島をば経島とは名付たれ。
 上下往来の船の恐なく、国家の御宝、末代の規模也。
 唐国の帝王まで聞え給つゝ、日本につぽん輪田の平親王と呼て、諸の珍宝を被送。
 帝皇へだにも不参に、難有面目なりき。
 又福原にて、千僧供養あり。
 京中辺土、畿内近国を云ず、聞及挙し申に随て、貴き持経者千人せんにんを請じて、一千部の法華経ほけきやうを転読して、大法会を行給けり。
 僧供の営み施物の煩、忠を尽し美を調へたり。
 其上聴聞集来の人、乞丐非人の族までも、大施行をぞ被引ける。
 信心の至りと申ながら、実の大功徳と覚えたり。
 殆権化の所為と云つべし。
 摂津国清澄寺に、慈心坊とて貴き法華の持経者有き。
 去承安二年十二月廿二日に、閻魔王宮より浄衣装束の雑色を使にて、請書を送らるゝ状に云、
   屈請 十万人持経者内
 摂津国つのくに清澄寺住僧尊恵慈心坊
 右来廿六日にじふろくにち早旦、閻魔羅城大極殿だいこくでん、可来集、依宣旨、屈請如件。
     承安二年〈壬辰〉十二月廿二日、〈丙辰丑時〉閻魔庁と被書たり。
 尊恵閻書披見の後、領状の返事して、偏ひとへに死去の思ひをなし、口に弥陀の名号を唱へ、心に引摂の悲願を念ず。
 既すでに廿六日にじふろくにちに至て、睡眠に被催て住房に臥す。
 前の雑色出来て早参せよとすゝむ。
 時に二人の童子、二人の従僧、十人の下僧、七宝の大車化現して、尊恵自然の法衣身に纏へり。
 即車にのれば、従僧等西北方に向て、空を飛で閻魔羅城に至る。
 外廊眇々として其内広々也。
 其中央に七宝所成の大極殿だいこくでんあり。
 大極殿だいこくでんの四面、中門の廊に、各十人の冥官有て、十万人の持経者を配分して、各一面に著座せしむ。
 講師読師高座に上り、余僧法用して十万人大行道す。
 行道已後、開白説法して十万僧読経す。
 其声冥界に充満て、其益罪垢を洗ぬべし。
 大王玉座に坐し、冥衆階下に列して聴聞あり。
 獄囚は湯鑵を出て、罪人伽鎖をゆるされたり。
 転読既すでに終て十万僧供養をのぶ。
 供養又終て諸僧本国に帰る。
 慈心坊千部の法華を冥衆に勧進の為に、暫残留て閻魔王と問答の次に申しけるは、日本につぽんの将軍、太政入臣入道清盛きよもり、摂津国つのくに和田御崎にして、千僧の持経者を請じて丁寧の読経説法侍りき。
 殆今日の十万僧会じふまんぞうゑの如くなりきと奏したりければ、閻魔王随喜感悦して言く、我彼千僧読経の時は、影向衆として聴聞しき。
 清盛きよもり入道は直人に非ず、慈恵僧正そうじやうの化身也。
 故に我毎日に三度文を誦して礼を作云、
  敬礼慈恵大僧正だいそうじやう 天台仏法ぶつぽふ擁護者 示現最勝将軍身 悪業衆生同利益
 汝此文を以て、彼相国入道に可進とぞ宣のたまひける。
 今案ずるに、慈恵僧正そうじやうは観音の垂跡すいしやく也。
 されば大権の化現方便を廻し、実業の衆生を利益せん為に、造罪招苦の旨を示し、盛者必衰の理を顕し給にやと覚えたり。

祇園女御事

 古人の申けるは、清盛きよもりは忠盛が子には非、白川院【白河院】しらかはのゐんの御子也。
 其故は、彼帝感神院を信じ御座おはしまして、常に御幸ぞ有ける。
 或あるとき祇園の西大門の大路に、小家の女の怪が、水汲桶を戴て、麻の狭衣のつまを挙つゝ、幹に桶を居置て御幸を奉拝。
 帝御目に懸る御事有ければ、還御の後、彼女を宮中に被召て、常に玉体に近づき進せけり。
 祇園社の巽に当て、御所を造て被居たり。
 公卿殿上人てんじやうびと、重き人に奉思て、祇園女御とぞ申ける。
 角て年比を経る程ほどに、小夜深人定て御つれ/゛\に思召おぼしめし出させ給たまひて、祇園の女御へ御幸あり。
 忍の御幸の習にて、供奉の人々も数少し。
 忠盛北面にて御供あり。
 比は五月廿日余あまりの事なれば、大方の空もいぶせきに、五月雨時々かきくらし、暁懸たる月影も、未雲井に不出けり。
 最御心細き折節をりふしに、祇園林の南門、鳥居の芝草の西に当て、光物こそ見えたりけれ。
 或あるときはざとひかり、光ては消、消ては又ざと光、光に付て其姿を叡覧あれば、頭は、銀の針の如くにきらめきたる髪生下生上れり。
 右の手には鎚の様なる物を持、左の手には光物を持て、とばかり有てはざと光、暫く有ては、ばと光、院も御心を迷し、供奉の人々も魂を消て、是は疑もなき鬼にこそ、手に持たる物は聞ゆる打出の小鎚なめり、髪の生様穴恐し/\とて、御車を大路に止て忠盛を召る。
 忠盛御前に参たり。
 あの光物を取て進せよと勅定あり。
 忠盛は、弓矢取身の運の尽とは加様の事にや、よそに見るだに肝魂を消鬼を手取にせん事難叶、身近く寄て取はづしなば、只今ただいま鬼に嚼食ん事疑なし。
 遠矢にまれ射殺さんと思て、矢をはげ弓を引けるが、指はづして案じけるは、縦鬼神にもあれ、勅定限あり、王事無脆、宣旨の下に資くべきに非ず、況よも実の鬼にはあらじ、祇園林の古狐などが、夜更て人を誑にこそ在らめ、無念にいかゞ射殺べき、近づき寄て伺はんと思返して、青狩衣に上くゝり、下に萌黄の腹巻に、細身造の太刀帯て、葦毛の馬にぞ乗たりける。
 駒をはやめて歩より、太刀を脱て額に当て、次第々々に伺寄る処に、足本近く馬の前にぞざと光。
 忠盛馬より飛下、太刀をば捨て得たりやおうとぞ懐たる。
 手捕にとられて、御誤候なと云音を聞ば人也。
 己は何者なにものぞと問へば、是は当社の承仕法師にて侍が、御幸ならせ給の由承候間、社頭に御燈進せんとて参也と答。
 続松を出して見れば実に七十計の法師也。
 雨降ければ、頭には小麦の藁を戴、右の手に小瓶を持て、左の手〔に〕土器にもえぐひを入て持て、もえぐひをけさじと吹時はざと光、光時は小麦の藁が耀合て、銀の針の如くに見えける也。
 事の様一々に顕て、さしも懼恐れつる心に、いつの間にか替けん、今は皆咲つぼの会也けり。
 是を若切も殺射も殺たらば不便の事ならまし。
 弓矢取身は流石さすが思慮ありとて、忠盛御感に預る。
 今蓮華院と申は、彼祇園女御の御所の跡也けり。

忠盛婦人事

 又忠盛、殿上の御番勤けるに、小夜深て高燈台の火の夙暗程ほどに、一人の女房忍て殿上口を通りけり。
 忠盛暫く袖を引へたり。
 女咎めずして一首をよむ。
  おぼつかな誰杣山の人ぞとよこのくれにひく主をしらずや
 忠盛こは如何にと思ひて返事、
  雲間より忠盛きぬる月なればおぼろげにてはいはじとぞ思ふ
と申て、其後女の袖をはづす。
 此女房と申は、兵衛佐ひやうゑのすけの局とて、美形厳く心の情深かりければ、白川院【白河院】しらかはのゐんの類なく被思召おぼしめされける上﨟女房也。
 御前の召によりて参ける折節をりふし、忠盛争か知べきなれば袖を引へたりけり。
 女房御前に参て角と被申たり。
 さては忠盛にこそとて明旦被召たり。
 召に依て御前に参ず。
 勅定に、今夜朕が許へ参る女の袖を引へたりけるなん御尋おんたづねあり。
 忠盛こは浅増あさましと色を失て、面を地に傾けて、禁獄流罪にもやとて、汗水に成て御返事おんへんじに及ばず、畏入て候。
 重ての仰に、女歌を読たりければ、汝歌を以て返事申たりけるとなん、一日なり共竜顔に近づき参らん女を引へん事、其罪浅からず、況此女は朕しめ思召おぼしめして御志深し、御計ひも有べき事なれ共、優に歌を以て返事申たれば、感じ思召おぼしめすとて、即兵衛佐ひやうゑのすけ局を御前に召出され、一樹の陰一河の流と云事もあり、被引ける局も、引ける忠盛も、然べき契にこそとて、女を汝に給ふ、但懐妊して五月に成と被聞召きこしめさる、男子ならば汝が子として弓馬の家を継せよ、女子ならば朕に返進せよとて被下けり。
 忠盛大に畏り、女の袖を引て罷出ぬ。
 歌をば人の読習べき事也けり。
 只当座の罪を遁るゝのみに非ず、剰希代の面目を施す、君の明徳、歌道の情、簾中階下感涙を流しけり。
 是も誠に二世の契にや、愛念類なくして月日を重し程ほどに、其期も満にければ、産平にして男子を生、悦こと不なのめならず
 此子生より夜泣する事不懈。
 忠盛大に歎けり。
 我実子ならば里へも放度思ひけれども、勅定を蒙りし上は疎ならず、如何せんと案じて、熊野山に参て祈申けり。
 証誠殿の御殿の戸を推開き、御託宣ごたくせんとおぼしくて一首の歌あり。
  夜泣すと忠盛たてよみどり子は清くさかふる事もこそあれ
と、悦の道に成て、黒目に付たりければ、夜泣ははや止にけり。
 権現の御利生にや、末憑もしく覚えて生立はごくまんとす。
 此子三歳の時、保安元年の秋、白川院【白河院】しらかはのゐん熊野御参詣あり、忠盛北面にて供奉せり。
 糸鹿山を越給たまひけるに、道の傍に蕷薯絃枝に懸り、零余子玉を連て生下、いと面白く叡覧ありければ、忠盛を召てあの枝折て進せよと仰す。
 忠盛零余子の枝を折進するとて、仰下し給たまひし女房、平産して男子也、をのこごならば汝が子とせよと勅定を蒙りき。
 年を経ぬれば、若思召おぼしめし忘給ふ御事もや、次を以て驚奏せんと思ひて、一句の連歌を仕る。
  這程ほどにいもがぬか子もなりにけり
 是を捧たり。
 白川院【白河院】しらかはのゐん打うなづかせ御座おはしまして、
  忠盛とりてやしなひにせよ
と付させ御座おはしましけり。
 思召おぼしめし忘させ給はぬにこそと悦思ひける処に、還御の後、三歳と申冬、冠給たまひて、熊野権現の御託宣ごたくせんなればとて清盛きよもりと名く。
 忠盛顕ては云はざりけれ共、内々は重くもてなす。
 白川院【白河院】しらかはのゐんも猿事と思召おぼしめしはなたせ給はず、十二の歳左衛門尉さゑもんのじようになされ、十八にて四位しゐの兵衛佐ひやうゑのすけにあがる。
 花族の人などこそ角はと、人々傾申けるを、鳥羽院とばのゐん聞召きこしめして、清盛きよもりも花族は人におとらずもやと仰けり。
 君も被知召たりけるにこそ。
 白川院【白河院】しらかはのゐんの御子と申せば、清盛きよもりは鳥羽院とばのゐんには恐らくは御叔父なるべし。
 忠盛備前守にて、国より都へ上たりけるに、院より御使ありて、摂津国つのくにや難波潟、明石の浦の月はいかにか有と御尋おんたづね有ければ、御返事おんへんじに、
  有明の月も明石の浦風に波計こそよると見えしか
と申たり。
 御感有て金葉集に被入けり。
 懸る人にて、歌をよみ懐妊の女房を給たまひて、皇子を我子としける也。
 さてこそ太政だいじやう入道にふだうも、少し去事と知給たまひければ、弥悪行をばし給たまひけり。
 誠にも然べき事にや、一天四海を掌に握り、君をもなみし奉り、臣をも誡つつ、始終こそなけれ共、都遷迄もし給けめ。

天智懐妊女賜大織冠

 昔天智天皇てんわうの御宇ぎよう、懐妊し給へる女院を、大織冠に給たまひつゝ、此女御の生たらん子、女子ならば朕が子とせん、男子ならば臣が子とすべしと仰けるに、皇子にて御座おはしましければ我子とす、即定恵是也。
 此ためしに不違と申けり。
 或説に云、忠盛若きより、祇園女御に候ける中﨟女房に忍合けり。
 或あるとき彼女房の局に、月出したる扇を忘て出たるを、かたへの女房達にようばうたち、是はいづくより指出たる月影ぞや、出所覚束おぼつかなしと笑けるに、女房おもはゆげにもてなして、
  雲間より忠盛きぬる月なれば朧げにてはいはじとぞ思ふ
と読みたりければ、笑ける女房達にようばうたち興醒てこそ思ひけれ。
 似るを友の風情に、忠盛もすいたりば此女房も優なりと申しけり。
閏二月六日、宗盛卿むねもりのきやう院の御所へ被奏けるは、入道にふだう相国しやうこくすでに薨去し候ぬ。
 御政務ごせいむ御計ひたるべきの由依申、院殿上に兵乱の事議定あり。
 八日院庁の御下文を以て、東海、南海、西海道へ被下遣
 頼朝よりとも追討のためには、本三位中将重衡を大将軍に定仰らる。
 西国さいこくをしづめん為には、肥後守ひごのかみ貞能さだよしを被差下ける上に、院の庁官を被副けり。
 河野四郎通信を追討の為には、召次を以て伊予国へ被下けり。

平家東国発向并ならびに邦綱卿くにつなのきやう薨去同思慮賢事

 同おなじき十五日、頭とうの中将ちゆうじやう重衡、権亮少将維盛、数万騎の軍兵を相催して、東国へ発向す。
 前後の追討使、美濃国に集会して、既すでに二万にまん余騎よきに及べり。
 太政だいじやう入道にふだう失給たまひて今日は十二日、さこそ遺言ゆいごんならんからに、孝養追善の報恩もなく、仏経供養の営を忘て、戦場に赴給ふ事不思議也。
 同廿三日に重衡の舅、五条ごでうの大納言だいなごん邦綱卿くにつなのきやう失給たまひにけり。
 太政だいじやう入道にふだうと契深く志浅からざりし人也。
 彼大納言だいなごんと申は、兼輔中納言より八代の末、式部大輔盛綱が孫前さきの右馬助うまのすけ盛国もりくにが子也。
 二三代は蔵人にだにもならざりけるに、此邦綱くにつな進士の雑色の時、近衛院の御時、去久安四年正月七日、家を興して蔵人になり、次第に昇進して、中宮の宮司までは、法性寺殿の御推挙にて、太政だいじやう入道にふだうに取入、大小事宮仕つゝ、毎日に何者なにものか必一種を進せければ、現世の得意此人に過たる者あるまじとて、子息一人、入道の子にして元服げんぶくせさせ、清邦と名付て侍従に被成けり。
 又三位中将重衡を聟に成てければ、後には中将、内の御乳人おんめのとに成給にしかば、北方をば御乳母おんめのととて、大納言佐だいなごんのすけとぞ申ける。
 邦綱くにつなは蔵人頭くらんどのとう宰相、中納言、春宮とうぐうの大夫、兼官兼職を経て、終に正二位しやうにゐの大納言だいなごんに至り給たまひけり。
 此邦綱卿くにつなのきやうは心広き人にて、貴賎を云ず親疎をわかず、人の大事を訪ひ、歎申事を叶給たまひければ、人望も勝てぞ御座おはしましける。
 何事も一処の御家領の事、被計申ける、目出めでたき事也ける。
 此人の母は、賀茂大明神かものだいみやうじんに志ぞ運奉て、我子の邦綱くにつなに、一日成共蔵人を経させ給はんと祈申けるに、夢に賀茂社の神人、檳榔毛の車を将て来て、我家の車宿に立と見たりけるを、不心思ひて、物知たりける人に語ければ、公卿の北方にこそ成給はんずらめと合せたり。
 母思ひけるは、我身年闌たり、今更夫すべきに非、さては妄想にやとて過しける程ほどに、子息の邦綱くにつな、蔵人は事も疎也、夕郎貫首を経て正二位しやうにゐの大納言だいなごんに至り給へり。
 是偏ひとへに母、賀茂大明神かものだいみやうじんに志運給たまひける故也。
 又入道の角去難く被思けるも、神明の御利生とぞ申ける。
 近衛院御宇ぎよう仁平元年六月七日、四条内裏に焼亡あり、関白くわんばくの亭に行幸なるべきにて、主上南殿に出御在けれ共、折節をりふし近衛司一人も不参、御輿の沙汰仕人もなければ、いかなるべし共思召おぼしめし分ず、あきれて渡らせ御座おはしましけるに、此邦綱くにつな蔵人処の雑色にておはしけるが、急参て、加様の俄の事には腰輿にこそ被召候へと奏して、舁出して進たりければ、主上召れて出御なる。
 角申は何者なにものぞと御尋おんたづね有ければ、蔵人処雑色藤原邦綱くにつなとぞ申ける。
 下﨟なれ共、賢々敷者哉と思召おぼしめして、法性寺殿御参内ごさんだいの次でに、御感の御物語おんものがたりありければ、法性寺殿もことさら不便に召仕て、御領数多給などして、家中たのしくてぞ御座おはしましける。
 同帝御宇ぎよう八月十七日じふしちにち、八幡行幸有て、臨時の御神楽有べかりけるに、人長付生が淀河に落入て、ぬれ鼠の如くにして、片方に隠居て御神楽に参らず。
 理也、只一具持たりつる装束は水に落してぬらしぬ。
 可取替具足はなし、既すでに神事の違乱に及けり。
 此邦綱くにつなは殿下の御伴に候はれけるが、人長の装束を取出して進せたり。
 人長是を著て被行にけり。
 時に取てゆゝしき高名也。
 心賢き人々也ければ、如何なる事もあらん時にはとて、御神事の具足を悉ことごとく調て随身有けりとぞ後には聞えし。
 さればこそ彼人長が装束をも被取出けめ。
 惣じて奉公には忠を存民を撫、憐深く御座れば、殿下も私に召仕ては位を盗む咎ありとて、後白川院【*後白河院】ごしらかはのゐんに被挙申て、中宮亮まで被成たりけるが、法性寺殿隠させ給たまひて後は、入道にふだう相国しやうこくを打憑み、其吹挙にて蔵人頭くらんどのとうにも被成き。
 次第の昇進滞らず、官位福禄相兼給へり。
 治承四年十一月に、福原にて殿上の五節の宴酔の夜、雲客うんかく后宮の御方へ推参ありける公卿、竹斑湘浦と云朗詠を被出たりけり。
 邦綱卿くにつなのきやう聞給たまひて取敢とりあへず、穴浅猿あさまし、是は禁忌とこそ承れ、斯る事を聞とも聞かじとて抜足して被逃けり。
 此朗詠の心は、昔大国に堯王と申賢き帝御座おはしましき。
 二人御娘あり。
 姉をば娥皇と云、妹をば女英と名く。
 金屋に育て玉台に成人給へる、時に賎き盲目の子に舜と云者あり。
 孝養報恩の志深して、父が盲を開しかば、堯王叡感有て、舜を以て二人の姫宮に聟取し給たまひて、即位を譲給へり、舜王と申は是也けり。
 舜王隠れ給たまひて、湘浦と云南に、蒼梧と云野に奉納たりければ、二人の后歎悲み給たまひけるあまり、自湘浦の岸に幸して泣給たまひける血の涙竹に懸りて其色斑に染にけり。
 されば後に生出竹までも皆斑にぞ在ける。
 今の世に斑竹とて斑なる竹は、彼の湘浦の竹ひろまれる也。
 二人の后隠れ給たまひにければ、爰ここにて舜帝を歎き悲み給しかばとて、湘浦の岸にぞ奉納ける。
 されば后の御前にてはすまじき朗詠也ければ、邦綱卿くにつなのきやうも聞咎めて立給たまひけり。
 指る文芸に携事はおはせざりけれども、耳心口賢くして、高名も度々し給、事に於て忠ありければ、君も臣も憑もしき人に思召おぼしめしけるに、太政だいじやう入道にふだうと後生までの契や深く御座おはしましけん、同日に病付、同月に失給ぬるこそ哀なれ。
 抑此大納言だいなごんの、人長が装束を取出して高名し給たりしが如く、思懸ざる事は昔も有けり。

如無僧都そうづ烏帽子えぼし同母放亀附毛宝放亀事

 寛平法皇の御時、昌泰元年十月二十日、大井河紅葉叡覧の為に御幸あり。
 和泉いづみの大納言だいなごん定国卿被供奉〔た〕り。
 嵐山の山下風烈しかりけるに、定国、烏帽子えぼしを河へ吹入られてすべき様なかりければ、袖にて本どりをかゝへておはしける処に、如無僧都そうづと申人、御幸に被召具たりけるが、香炉箱より烏帽子えぼしを取出して奉りたりけるこそ人々目を驚したる高名にては有けれ。
 彼如無僧都そうづと申は、即此邦綱卿くにつなのきやうの先祖に山陰中納言と申人御座おはしましけり。
 太宰大弐にて下給けるが、二歳になる子息をも相具して下給ふ。
 河尻より船に乗て海に浮て漕下り給けるに、乳母めのといかゞはしたりけん、取弛て海中へ落し入る。
 中納言を始て周章あわて騒給たまひけれ共、茫々たる水底、如何にすべき様もなかりけるに、二歳の子遥はるかの沖の波に浮て不流ければ、船を漕寄て是を見るに、大なる亀の甲にぞ乗たりける。
 船中に取上たれば、亀は船に向て涙を流す。
 中納言不思議におぼして亀に向て、汝も云べきにあらね共、此難有志言に余りありと宣のたまひければ、亀は海に入にけり。
 其夜夢に亀来て申けるは、此若公の御母御前、当初御宿願ごしゆくぐわんありて天王寺詣の時、渡辺の橋の辺にて鵜飼亀を取つゝ、既すでに殺さんとせし時、哀を発て御小袖を以て買取給たまひ、己れ畜生なれ共此志を思知、遠き守となれとて河中に放入させ給ひにき。
 其亀と申は即我也。
 生々世々に忘難思ひ奉り、折々に守奉りしか共、生死の習の悲さは、此若公を儲御座おはしまして去年隠させ給たまひしかば、今は此少人を守進せて、夜も昼も御身近侍りつる程ほどに、筑紫へ御下向なれば、其までもと思ひて御船に添て下候つる程ほどに、継母、乳人めのとの女房に心を入て海に沈め奉る間、甲の上に負助奉て、昔の母御前の御恩を報じ奉也と申て、夢は覚にけり。
 彼二歳の少人と云は此如無僧都そうづの事也。
 無きが如くして生たれば、如無僧都そうづとぞ名づけたる。
 浄行持律にして智恵才覚身に余りたりければ、帝も重く敬て御身を放れず、大井河の逍遥迄も被召具たり。
 昔斉国に毛宝と云者在き。
 江の辺を通けり。
 漁父亀を捕て殺さんとす。
 甲の長さ四尺。
 毛宝是を憐で、買取て江に放つ。
 後に石虎将軍と云者と戦けるが、江の耳まで被責付て、毛宝難遁敵にとられて恥を見んよりは、不如江の中に入水にしづんで死なんにはと思ひて即入にけり。
 水の底に是を戴て我を助る者あり。
 向の岸に至て江の中を顧れば、大なる亀也。
 亀水の上に浮て腹を顕にせり。
 是を見れば、毛宝が放せし亀也と云銘文ありて、其後水に入にけり。
 毛宝亀に被助て石虎将軍が難を免れたり。
 漢家本朝境異なれ共、放生の酬とり/゛\也。

行尊琴絃附静信箸事

 又小一条院御孫に、宇治僧正そうじやう行尊は鳥羽法皇の御持僧也。
 鳥羽殿とばどのにして御遊ぎよいうの有けるに、殿上人てんじやうびとの弾ける琴の絃の切れたりければ、僧正そうじやう畳紙の中より、琴の絃を取出し給たりけるも、有がたき事なり。
 又京極源大納言だいなごん雅俊卿、亭にて講行給けるに、導師は妙覚院の静信法印にぞおはしける。
 諸僧座に著して僧供行はんとしけれ共、導師あまりに遅かりければ、待侘て終に僧膳行ける。
 中間に法印来り給ふ。
 遅参を悪て僧中に導師の箸を取隠す。
 法印著座して高坏を見れば箸なし、暫く打案じて、法印懐より箸を取出して、物を拾ひ食けり。
 何の料に持給ける箸ぞと上下悪まぬ者なし。
 誠に優なる用意にはあらねども、遠慮賢くして角用意有けるか、又智慧深して時に臨で化現し給ふか。
 此人々の事はさも有なん。
 邦綱くにつなの人長が装束はためしなき用意なるべし。

法住寺殿ほふぢゆうじどの御幸附新日吉新熊野事

 二十五日には、法皇法住寺殿ほふぢゆうじどのへ御幸なる。
 公卿殿上人てんじやうびと多く供奉し、警蹕など事々敷してうるはしき儀式也。
 治承三年に鳥羽殿とばどのへ御幸の時は軍兵御車を囲、福原の都の時は、名も恐しき楼の御所、思召おぼしめし出て、只今ただいまの御形勢おんありさま定て御珍しくこそと申合へり。
 三年の御旅に御所共少々破壊して候、修理して入進せんと、前さきの右大将うだいしやう申けれ共、只疾々とて御幸成ぬ。
 此御所は去応保元年四月十三日御移徙有て、山水木立かた/゛\思召おぼしめす様也ければ、新日吉、新熊野、近く祝奉らせ給へり。
 此二三年は、なにとなく世の乱に旅だたせ給たまひて、御心も浮立たる様に被思召おぼしめされければ、今一日もとくと急がせ御座おはしましけり。
 いつしか荒にける所々の有様ありさま、御覧じ廻るに哀を不催と云事なし。
 中にも、故建春門院けんしゆんもんゐんの御あたり叡覧有けるに、峰の榊汀みぎはの松、事外に木高く成にけるに付ても、南宮より西月移り給けん昔の跡を思召おぼしめし出すに、唯御哀をのみぞ催て、御涙おんなみだを流させ給たまひける。
 三月一日東大寺とうだいじ興福寺こうぶくじの僧綱そうがう、本宮に復し、両箇の寺領本の如く可知行之由、被宣下けり。

於巻 第二十七
墨俣川合戦附矢矯川軍やはぎがはいくさの

 養和元年三月十日、頼朝よりとも追討の為に東国へ下りし頭とうの中将ちゆうじやう重衡、権亮少将維盛已下七千しちせん余騎よきは、尾張国墨俣の西の川原に陣を取て、東国源氏を禦がんとす。
 新宮の十郎蔵人行家は、千余騎よきの勢にて、東の河原に陣を取て、西国さいこくの平氏を下さじとす、両方を隔て引へたり。
 故下野守義朝よしともの子息、常葉が腹の子に、卿公義円と云僧あり。
 是は九郎義経の一腹の兄也。
 十郎蔵人に力を合よとて、兵衛佐殿ひやうゑのすけどの千余騎よきの勢を被付たりけるが、是も墨俣河原に馳付て、十郎蔵人の陣二町を隔て陣を取、平家は西の河原に七千しちせん余騎よき、源氏は東河原に二千にせん余騎よき、明る十一日の卯刻には源平の矢合と聞ゆ。
 是に行家と義円と互に先を心に懸たり。
 卿公義円は、十郎蔵人に先を被懸ては、兵衛佐ひやうゑのすけに面を合すべきかと思て、人一人も召具する事なし。
 唯一人馬に乗て、陣より上二町計歩せ上て、河を西へ渡す。
 敵の陣の前、岸の下に引へたり。
 行家夜の曙に、時を造て河をさと渡さん時、爰より義円、今日の大将軍と名乗て先陣を懸んと思て、東や白む夜や明ると待居たり。
 平家の方には、源氏世討にもこそよすれとて、夜廻を始て、十騎じつき二十騎にじつき計、手々に続松捧て川の耳を見廻けるに、岸の下に馬を引立て、其傍に人一人立たり。
 夜めぐり是を見咎めて何者なにものと問に、義円少も騒ず、是は御方の者にて候が、馬の足冷候と答。
 御方ならば甲を脱で名乗れと云ければ、馬にひたと乗て陸へ打上り、兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりともの弟に、卿公義円と云者也と名乗て、夜廻の中へ打入て、竪様横様に散々さんざんに戦。
 三騎討捕て二人に手負せて、義円是にて討れにけり。
 十郎蔵人是をば不知、卿公や先に進む覧と思て、使を遣して見せけるに、大将軍見え給はずと云ければ、去ばこそとて十郎蔵人打立けり。
 千騎せんぎの勢を、八百騎をば陣に留め、今二百騎を相具して、河をさと渡し、平家の陣へ懸入たり。
 夜の明方の事なりければ、未世間も暗かりけり。
 平家は、敵多勢にて夜討に寄ると心得こころえて、火を出して見れば僅わづかに二百にひやく余騎よきと見て、少勢にて有けりやと云ひて、七千しちせん余騎よき入替入替戦けり。
 行家も少も引ず、大勢の中に懸入て戦程ほどに、主従二騎に打なされて、河を東へ引退く。
 行家は赤地の錦直垂に、小桜を黄に返したる冑著て、鹿毛なる馬に、黄覆輪の鞍置て乗たりけり。
 大将軍とは見えけれ共、平家は続ても不追けり。
 行家が子息に悪禅師と云者あり。
 尾張源氏泉太郎重光等同心して、七百しちひやく余人よにん筏にのり、夜半計に渡より上を潜に越て、夜討にせんとて向けるを、平氏の軍兵兼て此由さとりにければ、渡らんと志所をば引退て、思様に西の岸の上におびき出して、中に取籠戦ふ。
 宵の程は雨烈く降けるが、夜半計には雨降ざりけれ共、雲の膚天に覆て、闇き事目の前なる物をもつゆ見分べくもなかりけるに、只時の声をしるべにて、両軍乱合て相戦ふ。
 甲の鉢を打太刀の打ちかへる時、火の出る事いなびかりの如くなりければ、自明便と成て、敵を取輩あり。
 多は共討にぞ亡ける。
 弓を引箭を放つ事は、何を敵とも見分ざりければ、太刀をぬき刀を抜て、取組指違てのみぞ死ける。
 源氏の兵三百さんびやく余人よにん討れにければ、残る輩河のはたへ引退く。
 筏に乗らんとしけるを、平氏の軍兵追懸て、筏の上にて戦けり。
 はては筏を切破ければ、空く川に入て命を失者其数を不知。
 蔵人頭くらんどのとう重衡朝臣の手に、二百十三人討捕てけり。
 虜には悪禅師、泉太郎重光、同弟高田四郎重久を始として、八人はちにんとぞ聞えける。
 維盛朝臣の手には七十四人、通盛の手には六十七人、忠度の手には二十一人にじふいちにん、知度の手には八人はちにん、讃岐守維時の手に七人、已上三百九十人、首河のはたに切懸たり。
 即頸の交名を注して京へ奉たりければ、平家の一門寄合て悦事限なし。
 十郎蔵人行家は、墨俣川軍に打負ければ、引退て、墨俣川東、小熊と云所に陣を取。
 平家は七千しちせん余騎よきを五手にわけ、一番飛騨守景家かげいへ、大将軍にて千余騎よき、川をさと渡して小熊の陣に推寄たり。
 一時戦て射白まされて引退く。
 二番に上総守かづさのかみ忠清ただきよ、千騎せんぎをめいて蒐。
 源氏矢衾を造て射ければ不堪して引退。
 三番に越中前司盛俊千余騎よき、轡を並て押寄たり。
 源氏鏃を揃へて射ければ、暫し戦て引退く。
 四番に高橋判官長綱千騎せんぎ、しころを傾て音挙て推寄たり。
 源氏指詰引詰散々さんざんに射ければ、是も叶ずして引退く。
 五番に頭とうの中将ちゆうじやう重衡、権亮少将維盛、二千にせん余騎よきにて入替たり。
 進み退き追つ返つ、一味同心に揉に揉でぞ攻たりける。
 十郎蔵人行家も、命も不惜面も振ず、平家の大将ぞ、漏すな余すなとて、是を最後と戦たり。
 矢叫の音馬馳違ふ音隙有とも不聞、源平旗を差並て、勝負牛角に見えたりけり。
 一陣景家かげいへ、二陣忠清ただきよ、三陣盛俊、四陣長綱、四千しせん余騎よき、重衡維盛二千にせん余騎よきに押合て、七千しちせん余騎よきが一手に成て、入替々々責けるに、行家武く心は思へども、無勢にて防ぎかね、小熊の陣を落されて、尾張国折戸の宿に陣をとる。
 平家は隙なあらせそとて、勝に乗て責下ければ、折戸をも被追落て熱田宮へ引退き、在家を壊垣楯を掻、爰ここにて暫く禦けれ共、熱田をも被追落て、参河国矢作河やはぎがはの東の岸に、城構して陣を取。
 平家続て攻下、川より西に引へたり。
 当国額田郡の兵共つはものどもも馳来て、源氏に力を合支たり。
 十郎蔵人謀を構るに、年老たる雑色三人召寄、次第行纏に蓑笠具し、粮料ぶね負せて京上の夫に作り立て、心を入て平家の陣の前をぞ通したる。
 平家夫男を召留て問けるは、源氏軍に負て東国へ落下る、是何程延ぬらん、其そのせいいか程か有つると云。
 夫男申けるは、箭作川やはぎがはの東の陣の内の勢は争か知侍べき、落下給たまひつる勢は僅わづかに四五百騎しごひやくき、大将軍とこそ見え給たまひつれ、爰より幾程延給はじと。
 平家又問けり。
 さて東国より上る勢は無やと。
 夫男、勢は雲霞の如く上り侍、先陣は菊河、後陣は橋本の宿、見付みつけ国府に著、程近き高志二村は、軍兵野にも山にも、隙あり共不見と云て過にけり。
 平家此事を聞て如何有るべき。
 東国の大勢に被取籠なばゆゝしき大事、一人も難遁とて、取物も取敢とりあへず思々に逃上る。
 大将軍行家は、平家を謀叛して人を方々へ馳遣す。
 落上る平家を一矢も不いざる者は、源氏の敵ぞと披露有ければ、美濃尾張の兵共つはものども、後勘を恐て追懸々々散々さんざんに射る。
 平家も返合返合戦けれ共、落武者の習なれば、只身を助んと計の防矢にて、西を差てぞ落行ける。

太神宮祭文東国討手帰洛附天下餓死事

 十郎蔵人は所々の軍に負けて、参河の国府に息つぎ居て、是より伊勢太神宮へ祭文を進る。
 其状に云、
 再拝々々
  伊勢乃渡会野、五十鈴能川上乃、下津磐根仁、大宮柱於広敷立天、高天原爾千木高知天、祝申定奉留、天照皇太神能、広前仁恐恐申給江登申須。
 右正六位上、源朝臣行家、去治承四年之比、蒙最勝親王勅云、入道大相国たいしやうこく清盛きよもり、自平治元年以降、誇無理之威勢、昇不当之高位、相従一天於一門之雅意、不百官於百王之理政之間、去治承元年、終雖勅定、正二位しやうにゐの権大納言ごんだいなごん藤原成親、同子息成経等、称謀叛之結構けつこう、宛行遠流之重科、其外院中近習上下諸人、或蒙死刑或趣配流、如之智臣前大相国たいしやうこく已下四十余人よにん、停止官職取庄園、或退今上国主之御位、譲謀臣不忠之孫、或うかがひ太上法皇之御座、止治天有道之政、然則早誅罰清盛きよもり入道、且奉法皇之叡慮、而備孝徳之礼、且黙止万人之愁吟、而致撫育之恵思召おぼしめす也云云、而行家、依親王之勅命、催勇士之合力刻、平家議云、一院第二皇子、是為我国万機之器、早可花洛也、仍同五月十四日夜、俄可流土佐国之由、依風聞、為一旦之難、暫令退入園城寺をんじやうじ之処、以左少弁させうべん行隆、恣構漏宣、或制与力於北嶺四明之一山、或滅法命於南都三井之両寺りやうじ、速絶王法仏法ぶつぽふ矣、謹尋天武天皇てんわう之旧議、討王位押取輩、倩訪上宮太子之古跡、亡仏法ぶつぽふ破滅之類、是以国政如元奉一院、而諸寺之仏法ぶつぽふ繁昌、諸社之神事無相違、以正法国土、撫万民天恩也、爰行家、先跡者、昔天国押開給天後、清和せいわ天皇てんわうの王子、貞純親王七代孫、自六孫王下津方、
併励武弓専護朝家、高祖父頼信朝臣者、搦忠常不次之賞、曽祖父頼義らいぎの朝臣あつそん者、康平六年鎮奥州あうしう之逆党、後代為規模、祖父義家よしいへの朝臣あそん者、寛平年中、雖上奏、為国家不忠武士平家衡等、振威於東夷、上名於西洛、親父為義ためよし者、禦還南都大衆之発向、奉北闕聖主之逆鱗、鎮護王法宝位驚、照四海於掌内、懸百司於心中皇威、及夷域仁恩普一天、而自去平治元年、源家被出仕之後、入道偏誇于威勢、黷於高位都城之内、蔑官事洛陽之外、放謀宣、然則行家加先祖於訪江波、天照野太神野、初天日本国につぽんごく能磐戸於押開天、新仁豊葦原野水穂爾濫觴志給那里、彼能天降給宇聖体波、忝那久行家加三十九代野祖宗那里、御垂跡与里以降、鎮護国家野誓厳重仁志天、冥威隙無幾処仁、入道神慮仁毛恐連須、叡情爾毛憚羅須、遥昇高位、是雖朝恩、濫企逆乱、併所愚意也、又行家親父朝臣者、如大相国たいしやうこく私威、非謀叛、依上皇之仰、参白川御所計也、而称謀叛之仇、依朝廷相伝之所従、塞於耳目順、譜代之所領、被知行衣類、独身不屑之行家、彼入道万之一爾毛所及、而入道忽依謀叛、行家為朝敵、東国爾下向志天、頼朝よりともの朝臣あそん登相共爾、且源家能子孫於誘江、且相伝能所従於催志天、上洛於企留所呂也、案能如具意爾任勢天、東海東山能諸国、已爾同心志畢里奴、是朝威能貴幾加致須所呂也、又神明能守里然良令牟留也、風聞能如幾波、太神宮与里神鏑於放知給布、入道其身爾中天亡勢里登、彼〔遠〕見是遠聞爾、上下万人宮中民烟、何人加霊威於畏礼佐羅牟、誰人加源家於仰加佐羅牟哉、抑東海諸国之太神宮御領事、依先例神役、可進御年貢之由、雖下知、或恐平家使者、或有済納、依路次之狼藉、不運送歟、源家者縦雖神領、僅宛催兵粮米計也、然而早可止之、又始自院宮諸家しよけ臣下之領等、国々庄々年貢闕如事、全不あやまらず、或云源氏、或云大名、数多之軍兵参会之間不慮之外難済歟、就なかんづく国郡村閭住人ぢゆうにん百姓等之愁歎、誠以難抑、但行家雖民之志、未退敵之節、而徒送日数、尤所哀歎也、然者しかれば早行家者、帰参王城近隣、奉北闕之玉尊、頼朝よりとも者居留東州之辺境、奉耀西洛之朝威也、神明必垂哀愍、天下忽鎮叛逆矣、縦云平家之兄弟骨肉、於国家之輩者、速絶神恩、又云源家之子孫累葉、於二意之輩者、必加冥罰、羨天照皇太神此状於平計安良計聞召天無為無事爾上洛於遂計令女天、速仁鎮護国家能衛宮於成志給江、天皇てんわう朝廷乃宝位動具古登無具、源家能大小従類恙無志天、夜乃守里日乃守爾護里幸給江登、恐々礼申志給江登申須。
  治承五年五月十九日            正六位上源朝臣行家
とぞ書たりける。
 此祭文に、神馬三匹銀剣一振、上矢二筋相具して、太神宮へ奉進す。
 去三月十一日、源平尾張国墨俣川より始て、度々戦けるが、源氏負色に成て引退々々、参河国矢矯川やはぎがはにて戦ければ、平家も多く討れける上に、東国源氏雲霞と責上る由の謀に聞臆して、同廿五日に、重衡維盛以下の討手の使帰り上る。
 治承三年の秋八月に、小松内府被薨ぬ。
 今年閏二月に、又入道にふだう相国しやうこく失給たまひしかば、平家の運の尽事顕也。
 さればにや年来恩顧の輩の外に、随ひ付者更になし。
 兵衛佐ひやうゑのすけには日に随て勢の付ければ、東国には諍者なし。
 自背者あれば、推寄々々誅戮し給ければ、関より東は草木も靡くとぞ京都には聞えける。
 去さるほどに去年諸国七道の合戦、諸寺諸山の破滅も猿事にて、天神地祇恨を含給たまひけるにや、春夏は炎旱夥おほし、秋冬は大風洪水不なのめならず、懇に東作の勤を致ながら、空西収の営絶にけり。
 三月雨風起、麦苗不秀、多黄死。
 九月霜降秋早寒。
 禾穂未熱、皆青乾と云本文あり。
 加様によからぬ事のみ在しかば、天下大に飢饉して、人民多餓死に及べり。
 僅わづかに生者も、或は地をすて境を出、此彼に行、或は妻子を忘て山野に住、浪人巷に伶いへいし、憂の音耳に満り。
 角て年も暮にき。
 明年はさりとも立直る事もやと思ひし程ほどに、今年は又疫癘さへ打副て、飢ても死ぬ病ても死ぬ、ひたすら思ひ侘て、事宜き様したる人も、形を窄し様を隠して諂行く。
 去かとすれば軈やがて倒臥て死ぬ。
 路頭に死人のおほき事、算を乱せるが如し。
 されば馬車も死人の上を通る。
 臭香京中に充満て、道行人も輙らず。
 懸ければ、余に餓死に責られて、人の家を片はしより壊て市に持出つゝ、薪の料に売けり。
 其中に薄く朱などの付たるも有りけり。
 是は為方なき貧人が、古き仏像卒都婆などを破て、一旦の命を過んとて角売けるにこそ。
 誠に濁世乱漫の折と云ながら、心うかりける事共也。
 仏説に云、我法滅尽、水旱不調五穀不熟、疫気流行、死亡者多と、仏法ぶつぽふ王法亡つゝ、人民百姓うれへけり。
 一天の乱逆、五穀の不熟、金言さらに不違けり。

頼朝よりとも追討庁宣附秀衡系図事

 四月廿八日、又頼朝よりともを可追討由、院庁の御下文を成して、陸奥国住人ぢゆうにん藤原秀衡が許へ被下遣けり。
 其状に云、
 左弁官下  奥州あうしうの住人ぢゆうにん等、
  応早令討流人前さきの右兵衛権佐うひやうゑのごんのすけみなもとの頼朝よりとも
右奉仰、併件頼朝よりとも、去永暦元年坐ざい配流伊豆国いづのくに、須身過、宜朝憲、而猶懐梟悪之心、旁企狼戻之謀、或冤凌国宰之使或侵奪土民之財、東山東海道国々、除伊賀、伊勢、飛騨、出羽、陸奥之外、皆趣其勧誘之詞、忝随彼布略之語、因茲差遣官軍、殊可防禦之処、近江、美濃、両国之反者、即敗続尾張、参河、以東之賊衆、尚固守、抑源氏等げんじら、皆忝可誅戮之由、依風聞、一姓之輩、共発悪心云云、此事尤虚誕也、於頼政よりまさ法師者、依顕然之罪科、忽所刑罰也、其外源氏無指過怠、何故被誅、各守帝猷、抽臣忠、自今以後莫浮讒、兼存此子細、早可皇化者、奉仰下知如件、諸国宜承知、依宣行之、敢不違失之故下。
  治承五年四月二十八日             左大史小槻宿禰奉
とぞ被書たる。
 秀衡と云は、下野国住人ぢゆうにん俵藤太秀郷が末葉、日理権大夫経清が曾孫、権太郎御館清衡が孫也。
 彼秀衡此御下文を給りたれども、兵衛佐ひやうゑのすけには草木も靡て、たやすく難傾かりければ、無由とてさて止ぬ。

信濃横田川原軍事

 越後国住人ぢゆうにんに、城太郎平資職と云者あり、後には資永と改名す。
 是は与五将軍維茂が四代の後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が子也。
 国中こくぢゆうの者共相従へて多勢也ければ、木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなかを追討のために、同庁下文あり。
 同六月二十五日、資永御下文の旨に任せて、越後、出羽、両国の兵を招と披露しければ、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにんなれ共、源氏を背く輩は、越後へ越て資永に付、其そのせい六万余騎よき也。
 同国住人ぢゆうにん、小沢左衛門尉さゑもんのじよう景俊を先として信濃へ越けるが、六万余騎よきを三手みてに分つ。
 筑摩越には、浜小平太、橋田の太郎大将軍にて、一万いちまん余騎よきを差遣す。
 上田越には、津波田庄司大夫宗親大将軍にて、一万いちまん余騎よきを差遣す。
 資永は四万しまん余騎よきを相具して、今日は越後国府に著、明日は当国と信濃との境なる関の山を越さんとす。
 先陣を諍者共、勝湛房が子息に、藤新大夫、奥山権守、其子の横新大夫伴藤、別当家子には、立川承賀将軍三郎、信濃武者には、笠原平五、其甥に平四郎、星名権八等を始として、五百ごひやく余騎よきこそ進けれ。
 信濃国しなののくにへ打越て、筑摩河の耳、横田川原に陣をとる。
 城太郎資永、前後の勢を見渡して奢心出来つゝ、急ぎ寄合せて聞ゆる木曾を目に見ばやとぞののしりける。
 木曾は、落合五郎兼行、塩田八郎高光、望月太郎、同次郎、八島四郎行忠、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、楯六郎親忠、高梨根井大室小室を先として、信濃、上野、両国の勢催集め、二千にせん余騎よきを相具して、白鳥川原に陣をとる。
 楯六郎親忠馬より下り甲を脱弓脇挟み、木曾が前に畏て申けるは、親忠先づ横田川原に打向て、敵の勢を見て参らんと申。
 然るべきとて被免たり。
 親忠乗替ばかり打具して、白鳥川原を打出て塩尻さまへ歩せ行て見渡せば、横田篠野井石川さまに火を懸て焼払やきはらひ、軍場の料に城四郎が結構けつこうと見えたり。
 親忠大法堂の前にして馬より下り、甲を脱で八幡社を伏拝み、南無なむ八幡大菩薩はちまんだいぼさつ、我君先祖崇霊神也、願は木曾殿きそどの、今度の軍に勝事をえせしめ給へ、御悦には、六十六箇国ろくじふろくかこくに六十六箇所ろくじふろくかしよの八幡社領を立て、大宮おほみやに御神楽、若宮に仁王講、蜂児の御前に左右に八人はちにん宛の神楽女、同神楽男退転なく、神事勤て進んとぞ祈念しける。
 乗替を使にて木曾殿きそどのへ申けるは、城太郎所々に火を放て、横田篠野井石川辺を焼払やきはらふ。
 角あらば八幡の御宝殿も如何と危く覚候、急寄給へとぞ申たる。
 木曾取敢とりあへず、通夜大法堂に馳付て、甲を脱ぎ腰を屈て八幡社を伏拝み、様々願を被立けり。
 明ぬれば朝日隈なく差出て、鎧の袖をぞ照ける。
 義仲よしなかはるかに伏拝み、弥勒竜華の朝まで、義仲よしなかが日本国につぽんごくを知行せんずる軍の縁日と成給へ、今日は八幡大菩薩はちまんだいぼさつの、結て給たる吉日也とぞ勇みける。
 養和元年六月十四日の辰の一点也。
 源氏方より進む輩、上野国には、那和太郎、物井五郎、小角六郎、西七郎、信濃国しなののくにには、根井小弥太、其子楯六郎親忠、八島四郎行忠、落合五郎兼行、根津泰平が子息、根津次郎貞行、同三郎信貞、海野弥平四郎行弘、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎石突次郎、平原次郎景能、諏訪上宮には、諏方次郎、千野太郎、下宮には、手塚別当、同太郎、木曾党には、中三権頭兼遠が子息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、与次与三、木曾中太、弥中太、検非違所けんびゐしよ八郎、東十郎進士禅師、金剛禅師を始として、郎等乗替しらず、棟人の兵百騎轡を並て、一騎いつきも先に立ず一騎いつきもさがらず、筑摩河をさと渡して、西の河原に北へ向てぞ懸たりける。
 城太郎が四万しまん余騎よき、入替々々戦けれども、百騎の勢に被懸立て、二三度までこそ引退り。
 百騎の者共は、馬をも人をも休めんとて、河を渡して本陣に帰にけり。
 城太郎安からず思て、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん笠原平五頼直と云ふ者を招て云けるは、僅わづかの勢に大勢が、三箇度さんがどまで被懸散たる事面目なし、当国には御辺ごへんをこそ深く憑み奉れ、河を渡し、敵の陣を蒐散して雪恥給へかし、平家の見参に入奉らんと申ければ、笠原鐙蹈張弓杖突て、越後信濃は境近国なれば伝にも聞給けん、頼直今年五十三、合戦する事二十六度、未不覚の名を取らず。
 但年闌盛過ぬれば、力と心と不相叶、今此仰を蒙る事面目也、今日の先蒐て見参に入んとて、我勢三百さんびやく余騎よきが中に、事に合べき兵八十五騎すぐり出して、太く高く、曲進退の逸物共に撰び乗て、筑摩河をざと渡して名乗けり。
 当国の人々は、或は縁者或は親類、知らぬはよも御座おはしませじ、上野国の殿原は見参するは少けれ共、さすが音にも聞給らん、昔は信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん、今は牢人笠原平五頼直と云者也、信濃上野に我と思はん人々は、押並て組や/\と云懸て、敵の陣をぞ睨たる。
 上野国住人ぢゆうにん高山党三百さんびやく余騎よきにてをめきてかく。
 笠原は八十余騎よきにて三百さんびやく余騎よきをかけ散さんと、中に破入て面を振らず散々さんざんに戦ふ。
 高山は大勢にて小勢を取籠、一人も不漏討留んと、辺に廻て透間もあらせず戦たり。
 蒐てはひき引てはかけ、寄ては返、返しては寄せ、入組入替戦ける有様ありさまは、胡人が虎狩、縛多王が鬼狩とぞ覚えたる。
 又飆の木葉を廻すに似たりけり。
 程なしと見程ほどに、高山党が三百さんびやく余騎よき、九十三騎に討なさる。
 笠原が八十五騎、四十二騎にぞ成にける。
 両方本陣に引退。
 源平互に不感者はなかりけり。
 中にも笠原、城太郎が前に進て、軍の先陣如何が見給ぬると云ければ、資永は兼ての自称、今の振舞、実に一人当千いちにんたうぜんとぞ嘆たりける。
 上野国住人ぢゆうにん西七郎広助は、火威の鎧に白星の甲著て、白葦毛の馬の太逞に、白伏輪の鞍置て乗たりけり。
 同国高山の者共が、笠原平五に多討れたる事を安からず思て、五十騎ごじつきの勢にて河を渡して引へたり。
 敵の陣より十三騎にて進出づ。
 大将軍は赤地の錦の鎧直垂よろひひたたれに、黒糸威くろいとをどしの鎧に、鍬形打たる甲著て、連銭葦毛れんせんあしげの馬に金覆輪の鞍置て乗たりけり。
 主は不知、よき敵と思ければ、西七郎二段計に歩せより、和君は誰そ、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん富部三郎家俊。
 問は誰そ。
 上野国住人ぢゆうにん七郎広助、音にも聞くらん目にも見よ、昔朱雀院御宇ぎよう、承平に将門まさかどを討平て勧賞を蒙りたりし俵藤太秀郷が八代の末葉、高山党に西七郎広助とは我事也、家俊ならば引退け、合ぬ敵と嫌たり。
 富部三郎申けるは、和君は軍のあれかし、氏文読まんと思ひけるか、家俊が祖父下総左衛門大夫正弘は、鳥羽院とばのゐんの北面也、子息左衛門大夫家弘は、保元の乱に讃岐院に被召て仙洞を守護し奉き、但御方の軍破て、父正弘は陸奥国へ被流、子息家弘は奉伐けれども、源平の兵の数に嫌れず、正弘が子に布施三郎惟俊、其子に富部三郎家俊也、合や合ずや組で見よとて、十三騎轡並てをめきて蒐。
 十三騎と五十騎ごじつきと散々さんざんに乱合て戦ければ、富部が十三騎、四騎討れて九騎になる。
 西七郎が五十騎ごじつき、引つ討れつ十五騎になる。
 大将軍は互に組ん組んと寄合けれ共、家の子郎等推隔々々て防ぐ程ほどに、共に隙こそなかりけれ。
 去さるほどに同僚共が敵の頸取て下人に持せ、手に捧たりけるを見て、我も/\分捕せんと、寄合々々戦けり。
 軍に隙はなし、両方の旗差は射殺切殺されぬ、主の行方を不知けり。
 其間に西七郎と富部三郎と寄合せて、引組んでどうど落て、上になり下になり、弓手へころび妻手へころびて、遥はるかに勝負ぞなかりける。
 富部三郎は笠原が八十五騎の勢に具して、軍に疲たりければ、終には西七郎に被討けり。
 爰ここに富部が郎等に、杵淵小源太重光と云者あり。
 此間主に被勘当て召具する事も無れば、城太郎の催促に、主は越後へ越けれ共杵淵は信濃にあり。
 去ば今の十三騎にも不具けるが、主の富部、城四郎の手に成て軍し給ふと聞き、徐にても主の有様ありさま見奉り、又よき敵取て勘当許れんと思て、辺に廻て待見けれども、主の旗の見えざりければ、余りの覚束おぼつかなさに陣を打廻て、知たる者に尋ければ、西七郎と戦ひ給つるが、旗差は討殺されぬ、富部殿も討れ給ぬとこそ聞つれ、冑も馬もしるし有らん、軍場を見給へと云。
 杵淵小源太穴心うやとて馳廻て見ければ、馬は放れて主もなし、頸は取れて敵の鞍の取付にあり。
 杵淵是を見て歩せ寄せ、あれに御座は、上野の西七郎殿と見奉は僻事か、是は富部殿の郎等に、杵淵小源太重光と申者にて候。
 軍以前に大事の御使に罷たりつるが、遅く帰参候て御返事おんへんじを申さぬに、御頸に向奉て最後の御返事おんへんじ申さんとて進ければ、荒手の奴に叶はじと思て、鞭を打てぞ逃行ける。
 まなさし七郎殿、目に懸たる主の敵、遁すまじきぞ七郎殿とて追て行。
 七郎は我身も馬も弱りたり、杵淵は馬も我身も疲れねば、二段計先立て逃けれども、六七段にて馳詰て、引組でどうど落つ。
 重光大力の剛の者也、西七郎を取て押て首を掻。
 杵淵主の首を敵の鞍の取付より切落し、七郎が頸に並居ゑて泣々なくなく云けるは、身にあやまりなしといへ共、人の讒言によりて御勘当聞も直させ給はず、又始て人に仕て今参といはれん事も口惜くて、さてこそ過候つるに、今度軍と承れば、よき敵取て見参に入、御不審をも晴さんとこそ存つるに、遅参仕て先立奉ぬる事心うく覚ゆ。
 さりとも此様を御覧ぜば、いかばかりかは悦給はんと、後悔すれ共今は力なし、乍去敵の首は取りぬ、冥途安く思召おぼしめせ、軍場に披露申べき事あり、やがて御伴と云て馬に乗り、二の首を左の手に差上、右の手に太刀を抜持て高声に、敵も御方も是を見よ、西七郎の手に懸けて、主の富部殿討れ給ぬ、郎等に杵淵小源太重光、主の敵をば角こそとれやとぞののしりたる。
 西七郎が家子郎等轡を返して、三十七騎をめきて蒐。
 重光存ずる処ぞ和殿原とて、只一騎いつきにて敵の中に馳入て、人をば嫌はず直切にこそ切廻れ。
 敵十余騎よき切落し、我身も数多手負ければ、今は不叶と思て、主の共に、剛者自害するを見給へとて、七郎が頸をば抛て、なほ富部三郎が頸を抱、太刀を口に含て、馬より大地に飛落て、貫かれてぞ死にける。
 敵も御方も惜まぬ者こそなかりけれ。
 中にも木曾は、あはれ剛の奴哉、弓矢取身は加様の者をこそ召仕ふべけれと、返々ぞ惜まれける。
 両陣軍にし疲て、暫く互に休み居たり。
 木曾は謀をぞ構たる。
 信濃源氏に井上九郎光基と云者を招て、加様の馳合の軍は勢による事なれば、御方の勢は少なし、如何にも軍兵数尽ぬと覚ゆ、されば敵を謀落さん為に、御辺ごへん赤旗赤符付て、城太郎が陣に向ひ給へ、さあらば敵御方に勢付たりとて、荒手の武者を指向て軍せよとて休み居べし、其間に白旗白符取替て蒐給はん処に、義仲よしなか河を渡して、北南より指挟で蒐立ば、などか追落さゞるべきと云ければ、可然とて井上九郎光基は、星名党を相具して三百さんびやく余騎よき、赤旗俄にはかに作出し、赤符を白符の上に付隠して、木曾が陣を引下て、静々しづしづと筑摩河を打渡して、城太郎が陣に向ふ。
 案の如く城太郎は、御方に勢付たり、余勢は定て後馳にぞ来るらんとて、使を立て云けるは、只今ただいま参人は誰人ぞ、返々神妙しんべう、御方の兵軍に疲たり、河を渡して敵の陣に向給へと云ければ、光基馬の鼻を引返す様にして赤符かなぐり捨て、白旗さと差挙て、又馬の鼻を引向て、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん井上九郎光基と名乗てをめきて蒐る処に、木曾討もらされたる勢一千五百いつせんごひやく余騎よきにて、河をさと渡して音を合て、北より南より、揉に揉てぞ攻たりける。
 城太郎が兵は、軍に疲て有けるに、只今ただいまの勢を憑て、物具もののぐくつろげて休まんとする処に、俄にはかに上下より責ければ、甲冑を捨て逃もあり、親子を知らで落もあり、山に追籠られ水に責入られ、此にては打殺され、彼にては被切殺、落ぬ討れぬせし程ほどに、城太郎資永は、僅わづかに三百さんびやく余騎よきにて、越後の国府に引退てぞ息突居たる。
 当国住人ぢゆうにん等も悉ことごとく木曾に従付ければ、資永国中こくぢゆうに安堵せずして、出羽国に越て金沢と云所に有と聞えければ、木曾は関山を固て、暫く越後の国府にやすらひけり。

周武王誅紂王ちうわう

 昔大国に周武王と云し帝、殷紂王ちうわうを誅せんとせしに、敵の軍は七十万人、御方の兵は四万五千人しまんごせんにん、雲泥水火の敵対也。
 武王勢の少き事を歎ければ、臣下太公望が云、軍は勢によらず、謀を先とすべし、千仭堤に尺水をさぐりて兵を傾、万丈の谷に円石を倒して敵を亡す、皆是謀の賢き也、君歎事なかれとて、周の兵を殷の勢に移して攻戦ける。
 時に殷の軍破ぬとて、周の兵引退ければ、誠にやとて七千万人皆落失て、紂王ちうわう終に亡にけり。
 木曾もはかりごと賢くて城太郎を責落す。
 越前国には、平泉寺長吏斎明、威儀師ゐぎし稲津新介、越中国ゑつちゆうのくにには、野尻、河上、石黒党、加賀国には、林、富樫が一族を始として、寄合々々評定して云、源平諍を発して国郡静ならず、東西に軍始て勇士鋭剣、就なかんづく木曾殿きそどの、平家追討の為に越中国府に座す、平家、木曾殿きそどのを誅戮の為に北国下向と聞ゆ、源氏に力をや合すべき、平家に忠をや尽すべきと様々議しけるに、東国は既すでに兵衛佐殿ひやうゑのすけどのに随ふと聞ゆ、北国又木曾殿きそどのに靡けり、平家の方人等皆国中こくぢゆうに安堵せず、されば定て被召ずらん、召に随はずんば平家に同意とて討手を向らるべし、不如被召て参らんより、同は志ある体にて、急ぎ木曾殿きそどのへ参らんと議しければ、此儀尤可然とて、三箇国の兵皆、我も/\と馳参ず。
 木曾は、各参上の条神妙しんべう神妙しんべう、但召さぬに参事大に不審、平家の方人して義仲よしなかを計らん為にも有らん、誠の志御座おはしませば、義仲よしなかに腹黒あらじと起請文書べしと宣のたまひければ、命に随うて起請状を注し、判形添て奉る。
 木曾今は子細なしとて、御恩の始也、不取敢とりあへずと宣のたまひて、信濃駒しなのこま一匹づつこそ被引たれ。
 懸りしかば、北陸道の国国、悉木曾に相従けり。
 七月十四日に改元有りて、養和元年と云。
 同七月十五日、左衛門権佐光長、奉仰、興福園城をんじやう両寺りやうじの僧侶、依謀叛之罪繋囚之中、非常之断人主之、須厚免之処、件輩浴恩蕩、帰本寺之後、若無悔過之思不変野心者、為世為寺、自在後悔歟、戦国之政可思慮之由、有義奏之人、然而彼寺等、不慮之外、空為灰燼、因茲蒼天不変、明神みやうじん崇歟、若依此儀者不彼寺之僧侶者、非之本意歟、免否之間叡慮未決、可計申、左大将実定卿に被問ければ、謀叛之者減死罪一等、可遠流、而今件輩在繋囚之中遠流之罪、今度会赦、殊驚司天之奏、為降相之歎、厚免之条、叡慮之趣、相叶徳政歟とぞ被申ける。
 八月三日、肥後守ひごのかみ貞能さだよし鎮西へ下向、是は菊地、原田、臼杵、部槻、松浦党等、花洛を背て属東夷由聞えければ、彼等を為鎮也。
 九日官庁にて、大仁王会被行けり。
 是は承平将門まさかど謀叛の時の例とぞ聞えし。
 其時は朝綱の宰相依勅咒願を書て験ありといへり。
 今度は咒願の沙汰なし。
 同廿五日除目被行けり。
 陸奥国住人ぢゆうにん藤原秀衡、征将軍に被補ける上に当国守に任ず。
 越後国住人ぢゆうにん城太郎資永、越後守に任ず。
 秀衡は頼朝よりとも追討のため、資永は義仲よしなか追討のため也と、各聞書の注文に子細を被載たり。
 木曾追討の事、去四月に院庁以御下文、資永に仰付たりければ、四万しまん余騎よきを引率して、信濃国しなののくに横田川原にして軍に負たりける間、猶も勢を被付べき由其沙汰有て、同廿六日にじふろくにち、中宮亮通盛、能登守教経已下北国へ進発す。
 九月九日、通盛教経等の官兵、越後国にして源氏と戦けるが、平家散々さんざんに被打落けり。

資永中風死事

 九月廿日、城太郎資永が弟に城次郎資茂と云者あり。
 改名して永茂と云けるが、早馬を六波羅へ立、平家の一門馳集て永茂が状を披くに云、去八月廿五日除目の聞書、九月二日到来、謹で披覧之処に、舎兄資永当国守に任ず。
 朝恩の忝に依て、明三日義仲よしなか追討の為に、五千ごせん余騎よきの軍士を卒して、重て信州へ進発せんと出立ぬる夜の戌亥の刻に当て、地動き天響て雲上に音在て云、日本につぽん第一の大伽藍、金銅十六丈の大仏焼たる平家の方人する者ありやと叫始て、其声通夜絶ず、是をきく者身毛竪ずと云事なし。
 資永即大中風して病に臥し、うですくみて思ふ状をも書置かず、舌強して思ふ事をも云置かず、明る巳時に悶絶僻地して、周章あわて死に失候畢ぬ。
 仍永茂、兄が余勢引卒して、信濃へ越んと欲して軍兵を催すといへども、資永任国の越後は木曾押領の間、不国務、北陸の諸国、木曾に恐て一人も不相随とぞ申たる。
 此状に驚て、同おなじき二十八日にじふはちにち、重て左馬頭さまのかみ行盛、薩摩守忠度大将軍として、数千騎すせんぎの軍兵を相具して、北国へ発向す。

源氏追討祈事

 兵革の御祈おんいのり一品ならず、様々の御願ごぐわんを立、社々に神領を被寄、神祇官じんぎくわん人諸社の宮司、本宮末社まで祈申べき由院より被召仰
 諸寺の僧綱そうがう神社仏閣まで調伏の秘法被行。
 天台座主てんだいざす、明雲めいうん僧正そうじやうをば、摂政せつしやう近衛殿このゑどの、承て、根本中堂こんぼんちゆうだうにして七仏薬師しちぶつやくしのほふ、園城寺をんじやうじ、円恵ゑんけい法親王ほふしんわうをば、新しん宰相泰通承て、金堂にして北斗尊星王の法、仁和寺にんわじ、守覚しゆうかく法親王ほふしんわうをば、九条大納言だいなごん有遠承て、当寺にして孔雀経法、此外諸僧勅宣ちよくせんに依て、北斗尊星、延命大元、弁才陀天、内法外法、数を尽して被行。
 院ゐんの御所ごしよには、五壇法、房覚前大僧正だいそうじやうは降三世、昌雲前権僧正ごんのそうじやうは軍荼利、覚誉権大僧都ごんのだいそうづは大威徳、公顕前大僧正だいそうじやうは金剛夜叉、澄憲新僧正しんそうじやうは不動明王ふどうみやうわう、各忠勤を抽で殊に丹精を致す。
 縦逆臣乱を成す共、争か仏神の助なからんと、上下憑もしくぞ申ける。

奉弊使定隆死去附覚算寝死事

 去十一日に、神祇官じんぎくわんにして、神饗あり、例弊二十二社に奉る。
 昔朱雀院御宇ぎよう、天慶に純友追討の御祈おんいのりに、太神宮へ甲冑を奉りし例とて、〈彼の甲冑嘉応元年十二月二十一日の炎上えんしやうに焼たり。〉今度頼朝よりとも誅罰の御祈おんいのりに、鉄鎧を太神官へ奉らる。
 さて奉弊使は、当社の祭主中臣親能、同子息神祇少副定隆朝臣勤けり。
 父子都を出て、近江国甲賀の駅屋に著。
 是にして定隆心地不例有けれども、相労りて十五日に伊勢の離宮に参著す。
 申刻計に、天井より長一尺四五寸計の小蛇落て、定隆が左袖の上に懸る。
 やがて懐の中へ匍入。
 怪と思て振捨けれ共不出、立上て帯を解て懐を探見に蛇なし。
 不思議と思けれ共、折節をりふしの酒宴に打紛て日も晩ぬ。
 其夜丑刻に、定隆寝ながら苦気なる息ざしにてうめきければ、父の祭主いかに/\と驚せ共、只息計にて起ざりければ、築垣より外へ舁出せば、定隆即死にけり。
 父の親能触穢に成て、奉弊使、中臣に事闕たりければ、大宮司祐成が沙汰として、散位従五位有信を差て次第に御祭を遂、又臨時の官幣を立て源氏可追討御祈おんいのりあり。
 其宣命に云、竃宅神猶響三十六里、況源みなもとの頼朝よりとも日本国につぽんごく哉と書べかりけるを、朝と云文字を落して不書けり。
 宣命をば外記承て書習也。
 態とはよも書誤らじ。
 頼と云字は助と読ば、竃宅神猶響三十六里、況源頼響日本国につぽんごく哉とぞ読たりける。
 人内々は、一定兵衛佐ひやうゑのすけ世に立て日本国につぽんごくを奉行すべきにこそ、源氏追討の宣命に、源繁昌の口占有とぞ私語ささやきける。
 又日吉社にて、源家調伏のために三七日の五壇の法被行。
 初七日の第五日に当て、降三世の阿闍梨あじやり覚算法印、大行事の彼岸所にて死所に死けり。
 平家の方人する者は、僧俗共に死ければ、仏神御納受ごなふじゆなしと云事顕然也。
 人々舌を振てぞ畏ける。

実源大元法事

 又安祥寺の実源阿闍梨あじやり、朝敵追討の仰承て、大元法行て御巻数を進す。
 御披見ある処に、専平家滅亡の由注進あり、浅猿あさましとも云計なし。
 子細を被召問ければ、実源申て云、朝敵調伏の旨被宣下、名字なき間、倩々当世の体を見に、南都園城をんじやう仏法ぶつぽふの破滅、東山北陸士卒の合戦、一天四海の大疫人民百姓の餓死、君王臣公の御歎、神事仏事の顛倒、併平家悪行の積と見ゆ。
 仍平家調伏の祈誓を致と申たり。
 他家の人々はげにもと思けれ共、平家は是を聞て大に憤り、獄定歟流罪歟と沙汰ありけれども、大小事の急劇に打紛れて止にけり。
 十一月廿五日に中宮院号あり、建礼門院けんれいもんゐんと申。
 幼帝の御時母后の院号、先例なしとぞ申ける。

大嘗会だいじやうゑ延引事

 今年も諒闇りやうあんなりしかば大嘗会だいじやうゑ行。
 大嘗会だいじやうゑと申は天武天皇てんわうの御宇ぎように始れり。
 七月以前に御即位あれば、必其の年の中に被行事なれ共、去年は都遷とて新都にて叶はず、様々 議定有しか共五節計にてさて止ぬ。
 今年は又諒闇りやうあんなれば沙汰に及ばず。
 大嘗会だいじやうゑの延引する事、平城へいじやう天皇てんわうの御宇ぎよう、大同二年十月に御禊ごけい有て、十一月に有べかりしに、坂上田村丸を以夷賊を随へ給ける兵革の事に依て、同三年の十月に又御禊ごけいあて、同おなじき十一月に遂行けり。
 嵯峨さがの天皇てんわうの御宇ぎよう、同四年に平城宮へいじやうきゆうを造られしに依て、次年弘仁元年十一月に被行。
 朱雀院御宇ぎよう、承平元年七月十九日に、宇多院隠れさせ給たまひて、次年行はる。
 三条院さんでうのゐんの御宇ぎよう、寛弘八年十月廿四日に、冷泉院の御事に依て延たりしか共、次年被行けり。
 二箇年延引の例いまだなし。
 去年は新都所狭して行はれず、今年は大極殿だいこくでん、豊楽院こそ未造畢なけれども、後三条院ごさんでうのゐんの例に任て、太政官庁にて有べかりつるに、天下諒闇りやうあんの上は兎角子細に及ばず、二箇年まで延ぬる事、如何なるべきやらんと人皆怪を成す。

皇嘉門院蒙御附覚快入滅事

 十二日三日、皇嘉門院隠れさせ給ぬ、御年六十一。
 是は崇徳院の后にて御座おはしましき。
 御善知識には大原おほはらの別所、来迎院の本願坊湛快ぞ参給ける。
 閑に最後目出くて終らせ給けるぞ貴き。
 昔御遺おんなごりとて、是計こそ残らせ給たりけるに、世の習とて哀なり。
 同六日戌刻に、鳥羽院とばのゐんの七宮前の天台座主てんだいざす覚快法親王ほふしんわう、御年四十四、生者必滅の理、始て驚べきならね共、打つゞき哀なりける事共也。

法住寺殿ほふぢゆうじどの移徙事

 同おなじき十三日には院ゐんの御所ごしよの御移徙あり。
 公卿十人殿上人てんじやうびと四十人、うるはしき儀式にて仕りけり。
 本御座おはしましける法住寺殿ほふぢゆうじどのの御所を壊て南に渡し、千体御堂の傍に被造て、片方に女院なんど居進せてぞ住せ御座おはしましける。

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