佳巻 第十四
木下馬事

 抑三位さんみ入道にふだう頼政よりまさの、係る悪事を宮に申勧め奉る事は馬故なり。
 嫡子伊豆守いづのかみ仲綱なかつなが家人、東国に有けるが、八箇国第一の馬とて伊豆守いづのかみに進たり。
 鹿毛なる馬の太逞が、曲進退にして逸物也。
 所々に星有ければ、星鹿毛と云けり。
 仲綱なかつな是を秘蔵して立飼けり。
 実に難有馬也ければ、武士の宝には能馬に過たる物、なにかは有べきとて、あだにも引出事なければ、木の下と云名を付て、自愛して飼ける程に、或人右大将うだいしやうに申けるは、伊豆守いづのかみ許にこそ、東国より究竟の逸物の馬出来て侍るなれ、被召て御覧候へかしと申。
 大将軈やがて人を遣て、誠や面白馬の出来て侍るなる、少し見度候と云れたり。
 仲綱なかつなこれを聞て、暫しは物もいはず、良久有て、御目に懸るべき馬には侍ざりしかども、けしかる馬の遠国より上て、爪をかきて見苦げに候し間、相労はらんとて田舎へ下して候ふと返事しけり。
 人申けるは、一昨日は湯洗、昨日は庭乗、今朝も坪の内に引出て有つる也と申。
 右大将うだいしやうさては惜にこそとて、重て使を遣す。
 彼御馬は一定是に侍る由承る、さる名馬にて侍るなれば、一見の志計也と謂れけり。
 伊豆守いづのかみは我だにも猶見飽ず、不得心なりと思て、猶もなしと答ければ、大将は負じと一日に二度三度使を遣し、六七度遣日も有けれ共、悪惜て終にやらず、一首かくこそ読たりけれ。
  恋敷はきてもみよかし身に副るかげをばいかゞ放遣べき
 木下鹿毛の馬也。
 我身の影に添けるにや、最やさしく聞えけれ共、一門亡て後にこそ、放つまじき影を放て、角亡にけり、歌に読負たりとぞ申ける。
 三位さんみ入道にふだう仲綱なかつなを呼て、いかに其馬をば遣さぬぞ、あの人の乞かけたらんには、金銀の馬也とても進べし、縦乞給ずとても、世に随習なれば、追従にも進べきにこそ、増て左程に乞給はんをば、惜むべきに非ず、況馬と云ぱのらん為也、家内に隠置ては何の詮か有るべき、とく/\其馬進すべしと宣のたまひければ、仲綱なかつな力及ばず、父の命に随て、木下を、右大将うだいしやうの許へ遣けり。
 聞に合て実に能馬也ければ、舎人あまた付て、内厩に秘蔵して立飼けり。
 日数経て後、伊豆守いづのかみ使者、召置れ候し木下丸返給べき由申たり。
 右大将うだいしやう此馬をば惜て、其代りと覚しくて、南鐐と云馬を賜たりけり。
 極て白馬也ければ、南鐐とは呼けり。
 是も誠に太逞してよき馬也けれども、木下には及付べき馬に非。
 係し程に当家他家の公卿殿上人てんじやうびと、右大将うだいしやうの亭に会合の事あり。
 或人実や仲綱なかつなが秘蔵の木下と申馬の、此御所に参て侍けるは、逸物と聞えけり、見侍ばやと申たり。
 大将さる馬侍りとて、伊豆守いづのかみがさしも惜つる心を悪で、木下と云名をばよばずして、馬主の実名を呼で、其伊豆に轡はげて引出し、庭乗して見参に入よと宣ふ。
 仰に依て引出し、庭乗様々しけり。
 右大将うだいしやうは仲綱なかつなこはくば打はれ、さて仲綱なかつな引入てしたゝかにつなぎ付よと下知し給ふ。
 左程の砌みぎり也ければ、なじかは隠あるべき、程なく伊豆守いづのかみも聞てげり。
 口惜と思て、父三位さんみ入道にふだうの許に行て、仲綱なかつなこそ京都の咲ぐさに成て候へ。
 平家は桓武帝の苗裔とは申せども、時代久く下て十三代、中比は下国の受領をだにも不免けるが、近く家を興せり。
 当家は清和せいわの帝の御末、多田ただの満仲まんぢゆうの後胤として、入道殿にふだうどのまで九代間近御事也。
 但源平両氏朝家前後の将軍なれば、必しも申乙有まじき事なれ共、一旦の果報に依て、当時暫く官途に浅深あるにこそ。
 其に宗盛が詞のにくかりしかば、木下をば惜遂んと存ぜしを、御命に背きがたさに馬をば遣し候ぬ。
 縦宗盛心の底に不思とも、礼義なれば悦申べきに、さはさくて、剰当家他家の酒宴の席にて、仲綱なかつなに轡はげよ、仲綱なかつなこはくば打はれ、仲綱なかつな庭乗せよ、仲綱なかつな引入よ、仲綱なかつなつなぎ付よなどと、宗盛の申けん事、今生の恥辱弓取の遺恨、何事かこれにすぎ侍るべき。
 今は世に立廻りても云甲斐なし、されば宗盛が宿所に行向て、骸を曝か、さらでは髻を切て、山林に隠籠か、此外は他事あらじとて、はら/\と泣けり。
 三位さんみ入道にふだうこれを聞ては、さこそ遺恨に思けめ。
 さてこそ此悪事を、宮にも申勧め奉りけるとは、後には披露有けれ。
 さればあやしくいさめる乗物をば、不用けるにや。
 周朝八匹馬事
 昔周穆王と申帝御座おはしましき。
 或人駿馬八匹を献。
 彼馬一日に行事万里なれば、鳥の飛よりも猶速也。
 穆王独愛して乗之給、四荒八極に至りつゝ、都に還御なかりければ、七廟の祭も怠り、万機の政も絶にけり。
 去間には民愁国荒て、穆王終に亡にけり。
 されば白楽天は、戒奇物とて、奇しき乗物を不用とぞ書れたりける。
 漢文帝の御時、一日に千里を行馬を奉たりけるには、帝の仰に御幸の時には、必千官万乗相従、我独千里の馬に乗て、先立て行くべきに非ずとて、遂に用給事なかりけり。
 依これによつて民富国治れり。
 木下丸もいなゝきいさむにして、天下無双の奇物也けるをや、係不思議も出来にけり。
 昔周帝は、八匹の蹄を愛して、穆王遂に亡けり。
 今の仲綱なかつなは一匹の馬故に、一門悉絶ぬる事こそ哀なれ。

小松大臣情事

 懸る一匹の馬故に、世の乱と成けるに付ても、小松殿こまつどのの事をぞ上下忍申ける。
 小松大臣中宮の御方へ、被申べき事有て被参たりけるが、仁寿殿に候はれて、師典侍殿と申女房と暫し対面有けるに、良ありて師典侍殿の左の袴のすそより、大なる蛇はひ出て、重盛しげもりの右の膝の下へはひ入けり。
 大臣これを見給、我さわいで立ならば、中宮も御騒有べき、師典侍殿も驚給べし、此事旁悪かりなんと推しづめ給たまひて、左の手にて蛇の頭をおさへ、右の手にて尾を押へて、六位参と召ければ、伊豆守いづのかみ其時は、未蔵人所に候けるが、指出たりけるに、是は何と被仰たれば、見候とてつとより、布衣の袖を打覆て、罷出て御倉町の前に出て、人や候参と呼ければ、小舎人参たり。
 これ賜ていづくにも捨よとて、差出したれば、一目見て赤面して逃帰りぬ。
 郎等省に賜たれば、不恐蛇の頭を取て、大路に出て打振て捨たれば、蛇即死けり。
 翌日に小松殿こまつどの自筆にて御文あり。
 昨日の御振舞おんふるまひ還城楽げんじやうらくと奉見候き。
 雖異体候、一匹一振令送進候とぞ有ける。
 黒き馬の七寸しちすんに余て、太逞に白覆輪の鞍置て、厚房の鞦を懸たり。
 太刀は長伏輪也けるを、錦の袋に入られたり。
 優にやさしく見えける。
 仲綱なかつな御返事おんへんじには、御剣御馬謹拝領、御芳志之至、殊畏入候。
 抑去夜誠還城楽げんじやうらくの心地仕候き。
 仲綱なかつな頓首謹言と書たりけり。
 還城楽げんじやうらくとは、蛇を取舞なれば、角問答有けるこそ。
 小松殿こまつどのは加様にそ御座おはしまししに、其弟にて、いかに宗盛はかゝる情なく御座らんと申けり。
 或説云、木下丸とは今の逸物の馬也と云事あり。

三位さんみ入道にふだう入寺事

 高倉宮たかくらのみやは十四日に都を落させ給たまひて、終夜よもすがら三井寺みゐでらに入給たりけれ共、ゆゝしく申し頼政よりまさ法師も不見来、況国々の源氏一人も馳参らざりければ、こはいかに有べき事やらんと思召おぼしめされける程に、廿日源げん三位ざんみ入道にふだう嫡子伊豆守いづのかみ仲綱なかつな、次男源げん大夫判官だいふはんぐわん兼綱〈 甥を養子にす 〉三男判官代はんぐわんだい頼兼木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなかが兄に、六条蔵人仲家、其子に蔵人太郎、六条蔵人とは、帯刀先生義賢子也。
 義賢討れて後孤子也けるを、是をも三位さんみ入道にふだうの養ひたりける也。
 此等の一類郎等に渡辺党を引具して、三位さんみ入道にふだうの近衛河原このゑかはらの家に火係て焼払やきはらひ、三井寺みゐでらへこそ参けれ。
 渡辺党に箕田源氏綱が末葉、昇の滝口子息に、競滝口と云者あり。
 弓矢取ては並敵もなく、心も剛に謀もいみじかりけるが、而も王城第一の美男也。
 宿所は平家の右大将うだいしやうの、六波羅の宿所の裏築地也。
 入道三井寺みゐでらへ落給けるに、傍輩ども此事を競に告知せんと申。
 入道さらで有なん、彼家は平家の近隣也、周章あわてたる使にて、角と云物ならば、妻子所従泣悲て、物運ぞ逃隠などせば、中々悪かりなん、只打棄て音なせそ、競は深く入道を憑たり、又謀賢者なれば、いづくにも落付く所をだにも聞ならば、時を指て来らんずる者也と宣へば、打捨て告ざりけり。
 去さるほどに三位さんみ入道にふだうは、高倉宮たかくらのみやを尋進て、三井寺みゐでらへと披露あり。
 右大将うだいしやう人を遣して、競も供して行けるかと被見。
 使帰て、競は未是に候と申。
 まこととも不覚、存の外也。
 入道の内には競こそ一二の者よ、いかに供をばせぬぞ、僻事にこそとて、楢の太郎友真、讃岐四郎大夫広綱二人を遣て、慥に見て参と宣ふ。
 此等も帰参て、さりげもなくて宿所に候と申。
 さらば召とて召ければ、競は使と共に参たり。
 大将出合宣のたまひけるは、いかに、主の入道は寺へと聞に、汝は伴もせざりけるぞと宣へば、競は角とも告給はねば、争か知侍るべきと申。
 さもあらずとよ、入道の内には汝等なんぢらこそ身に替り、命をも捨べき一二の者と、世に沙汰するに、告げざる事は大に覚束おぼつかなしと宣へば、競其も様こそ侍らめ、但此間は怨申子細候に付て、心を置るゝ事共も侍り、仮令たとへば入道殿にふだうどのこそ告給はずとも、親者多候に、角とも申さぬは、よく主人の勘当の深ければこそ、加様の大事には人一人も大切にこそ侍べきに、さすが競などを打すて給事は、おぼろげの所存にはあらじ、其上は又追て参ずるに及ばず、慕も様によるべき事なれば、当時はさてこそ候へと申。
 大将打うなづきて、年来ほし/\と思て、入道にも度々乞しかども叶はざりつるに、然べき折節をりふし也、よき侍一人儲たりと悦で、向後は宗盛を憑かし、三位さんみ入道にふだうの恩程の事は、などか思宛ざらんと宣へば、競はあらはかなの宣事や、縦たとひ命は失とも、宮仕はすまじき者を、但只今ただいまいなと云べき折に非ず、相従はんと思て申けるは、競させる身にあやまる事候はず、身にも命にも替奉り候はんとこそ存ずれども、入道殿にふだうどの此間心を置給へば、奉恨奉公も不仕、内々は申入ばやと存候つるが、主に中違ていつしかと人の御景迹も恥し、自然の次をと存処に、此仰身の幸也と申。
 大将不なのめならず嬉げにて、見参の始なればとて、随分秘蔵し給たりける小糟毛と云馬に貝鞍置、遠山と云馬引具し、黒糸威くろいとをどしの鎧甲よろひかぶと皆具給たまひてけり。
 競は畏り給たまひて、ほくそ咲て罷帰ぬ。
 大将宣のたまひけるは、能侍儲たり、王城一の美男也、心剛に弓箭取てよし、渡辺党の最中也。
 此裏築地を朝夕に出入を見るにも、目醒しくほしかりつるに、期も有けりと悦給へり。
 競家に帰ても、さすが覚束おぼつかなくて早晩人を遣して、競は有か候と、又人を遣て、競は有か候と隙なくこそ問ひ給けれ。
 競思けるは、是程の大事を思立給ながら、告給はぬ事は真実に遺恨也、大将の角打たへ語ひ給ふもいなみ難し、時の花をかざしの花にせよと云事あり、さてもあらばやと思けるが、又案じけるは、告給はぬも様あるらん、六波羅近き家なれば無骨也、中々にとも被思つらん、忠臣不二君、貞女不二夫と云事あり。
 蘇武は胡敵に足を切れしか共、猶夷には不随、紀信は帝位いつはりて、高祖の命にも替りけり。
 我争か相伝の主を捨奉て、今更平家にうでくびをにぎらん、末代までも名こそ惜けれと思て、大将より給ぬる鎧著て、小糟毛に乗、遠山に乗替の童乗て、郎等三騎家子二騎、都合七騎にて三井寺みゐでらへとて打出けり。
 大将の惣門の前を通るとて、手綱かいくり鐙蹈張立上り、門の内へのぞき入、高声に申けるは、競こそ只今ただいま御前を罷り通り侍れ、昨日の御馬鎧悦存れば、尤も御宮仕申べく侍れ共、年来の主君入道殿にふだうどの恋く思奉候へば、寺へこそ罷越候よと、よばはりて打過けり。
 競は滝口の名残なごりを惜けるにや、白羽の矢をぞ負たりける。
 大将の侍共これを聞て、競こそ小糟毛に乗、遠山に童乗て、しか/゛\と喚て、門前を下馬もせで通侍、奇怪に覚れば、追係て討留なんと申。
 大将はぬけ/\としなされ、尾籠の男にこそ、但止る事はいかゞ有べき、小糟毛は早走也、一町共延なば追付難し、競は弓の上手也、小勢にてあやまちすなよ/\、さる白痴にはゆきあはぬにはしかじ、音なせそとぞ制し給ふ、云甲斐なくぞ聞えし。
 競寺に馳著て、親き者共に、いかに口惜も殿原は、此程の御大事おんだいじ角とも告げ給はで、捨ておはするぞと恨申せば、さればこそ告んと申つるを、入道殿にふだうどのの仰に、競が宿所は大将の向なれば、つげては中々無骨也。
 何所にも落著ぬと聞なば、深く我を憑たる者也、定て時を指て来べき者ぞと仰の有つれば、さてこそと答ければ、競さては嬉くこそ、何事に御隔あらんと心元なく侍りつるに、つげずとも聞ては参べき者ぞと、憑れ進せける競こそ、我身ながらも糸惜けれとて、咲まげてぞ有ける。
 宮の御所には三位さんみ入道にふだう父子三院の大衆、軍の評定して並居たり。
 競進出て申けるは、右大将家うだいしやうけへ被招間、事の体をも伺見んとて行たれば、いかに入道と共に入寺はなきぞ、我に宮仕せよとて、甲冑馬鞍引出物に得たり。
 宿所に帰たれば、隙なくあるか/\と問給ける事、一々に申て、馬も鎧も盗て取たらばや、不当とも云はれめ、賢人も折によるべし、係る時は物具もののぐも乗物も大切也と存て、乗て参つるに、大将の門前にて名乗て通つる事語畢て、さても競を宗盛年来の主を捨て他人の門踏んずる者と思ひけん事のあぶなさよと申たりければ、宮を始進て、僧も俗も咲つぼの会にてぞ有ける。
 伊豆守いづのかみ仲綱なかつなは、木下丸を大将に乞れて、仲綱なかつな打はれと云れたるを、安からず思ひければ、競が引出物に得たる小糟毛を取寄て、髪をかり法師に切て、平宗盛入道と金焼して、京へ向てぞ追放つ。
 未暁大将の六波羅の大庭に放れ馬あり、よく/\見給へば小糟毛也。
 是はいかにと引廻し/\見給へば、平宗盛入道と金焼したり。
 大将は木下が報答せられたりとぞ宣のたまひける。
 昔斉桓公の孤竹国を伐けるに、春往て冬還、深雪道を埋て帰事をえざりけり。
 管仲計ひ申けるは、老馬の智を用べしとて、老たる馬を雪の中に放つゝ、馬に随行ければ、斉国にも還にけり。
 今の宗盛の小糟毛も、六波羅三井寺みゐでら遠けれども、道芝の草を分朝露にしをれつゝ、関山関屋も歩過、本の主の家なれば、大将の亭にぞ帰りける。

南都山門牒状等事

 法輪院には、警固の大衆守護の武士、様々軍の談議評定しける中に、三位さんみ入道にふだう申けるは、合戦の習、勢には依らず、謀をむねとすと申伝たれ共、南都山門へ牒状を遣て、大衆を召るべきかと宣ふ。
 衆徒の僉議せんぎには、近来の作法を見、平家の振舞を案ずるに、仏法ぶつぽふの衰微、王法の牢籠時至れり。
 依これによつて人臣専憂之、僧徒大に歎之。
 雖然、且く浄海入道の威に恐て、在家出家閉口処に、二宮御入寺偏ひとへに是正八幡宮しやうはちまんぐうの衛護、新羅明神の冥助也。
 我わがてらの興隆此時に相当れり。
 速に平相国へいしやうこくが暴悪を炳誡せん事、衆徒の力によるべし。
 誰やの人かを憑べき。
 何の時をか期べき。
 天神も地祇も、必納受なふじゆをたれ、仏力も神力も速に降伏をくはへ御座おはしまさん事、疑有べからず。
 抑北嶺は円宗一味の学地、南都は出家得度の戒場也。
 為仏法ぶつぽふ王法牒送処に、争か与力なからんやと云ければ、尤々もつとももつともと一同して、両寺りやうじへ牒状あり。
 先南都へ牒送の状に云、
 園城寺をんじやうじてふす、興福寺こうぶくじの〈まらうとゐかまと〉
  請殊蒙合力、被当寺仏法ぶつぽふ破滅
 右仏法ぶつぽふ之殊勝、為王法也、王法之長久、則依仏法ぶつぽふ也、而自項年以来、入道前太政大臣だいじやうだいじん平清盛きよもり、恣窃国威、濫乱明政、付内付外、成恨成歎之間、今月十四日夜、一院第二皇子、忽為不慮之難、俄所入寺也、而重号院宣、有之、責衆徒罷、而奉惜之処、彼禅門欲武士於当寺云々、然者しかれば王法仏法ぶつぽふ、一時将破滅、諸衆盍愁歎乎、昔唐会昌天子、以軍兵滅仏法ぶつぽふ之時、清涼山衆徒、合戦禦之、王憲猶如此、何況於謀叛、八虐之輩、誰人可諛順乎、就なかんづく南京者、被流無罪之長者、意念動胸中、非今度者、何日遂会稽願、衆徒内助仏法ぶつぽふ之破滅、外退悪逆あくぎやく之伴類、同心之至本懐可足、衆徒僉議せんぎ如此、仍牒送如件。
  治承四年五月廿日            小寺主法師成賀
                      都維那大法師定算
                      勾当法師忍慶
                      上座法橋大法師忠成
とぞ書たりける。
 興福寺こうぶくじ大衆会合僉議せんぎして、尤同心して、仏法ぶつぽふの助専命王法愁吟を休め奉べしとて、進士蔵人入道信救に仰て、返牒あるべしと議定畢。
 又山門へも牒状を送けり。
 其状に云、
 園城寺をんじやうじてふす 延暦寺えんりやくじの〈まらうとゐかまと〉
 欲殊致合力、被当時仏法ぶつぽふ破滅
右入道浄海、恣失皇法、又滅仏法ぶつぽふ、愁歎無極之間、去十四日夜、一院第二皇子、不慮之外、所入寺也、爰号院宣、雖之責、皇子須固辞、衆徒専奉守護之処、可遣官軍之旨、有其聞、当寺破滅将此時歟、而延暦えんりやく園城をんじやう両寺りやうじ者、門跡雖分慈覚智証之遺訓、所学是同円実頓悟之教文、喩如鳥之翅不一レ闕、又似車之輪相備、於一方闕者、争無其歎哉、特致合力仏法ぶつぽふ破滅者、早忘年来之遺恨、必復住山之往昔、衆徒之僉議せんぎ斯、仍牒送如件。
  治承四年五月廿一日           小寺主法師成賀
                      都維那大法師定算
                      寺主大法師忍慶
                      上座法橋上人位忠成
とぞ書たりける。
 山門の衆徒、不返牒けれ共、先同心参加の由憑しく申たり。
 自興福寺こうぶくじ同心返牒
 其状云、
 興福寺こうぶくじてふす園城寺をんじやうじの 被一レ禦為清盛きよもり入道滅貴寺仏法ぶつぽふ事、来牒一紙
 牒、今月二十日牒状、今日到来、披閲之処、悲喜相交、如何者いかんとなれば、玉泉玉花、雖両箇之宗儀、金章金句同出一代之教文、南京北京、倶以為如来によらい之弟子、貴寺他寺互可調達之魔障、就なかんづく貴寺者、我等われら本師弥勒慈尊常往之精舎也、何況或公家、或姑山、或諸宮、或相門講席之時、令戦智諍儀事、是則天台、法相、三論、花厳等而己、若一宗相闕豈不恨乎、然者しかれば天台学徒、被魔滅者、法相独留如何為哉、凡緇林之詮乙甲者、則是兄弟之諍也、白衣はくえ之蔑仏法ぶつぽふ者、寧非魔軍之企哉、所贔屓最可相救也、抑異或本朝弓馬之道、労力苦身、雖王敵、抽賞以不千金万戸、官位未必及子孫兄弟、其中我朝自古賞武之道、無高位、既異唐家、天平御宇ぎよう、大野東人雖魁首、僅預八座はちざの、弘仁御宇ぎよう、坂上将軍、遠攘奥州あうしう之狡獪、近鎮平城之煙塵、雖九卿、無三公、爰清盛きよもり入道者、平氏之糟糠、武家之塵芥也、祖父正盛仕蔵人五位之家、把諸国受領之鞭、大蔵卿おほくらのきやう為房ためふさ、為賀州刺史之古、補検非違所、修理しゆりの大夫だいぶ顕季、為播磨太守之昔、任馬厩別当職、曁于親父忠盛、被昇殿之時、都鄙老少皆惜蓬壺之瑕瑾、内外英豪各依馬台之験文、忠盛雖青雲之翅、世人猶軽白屋之種、惜名青侍、無其家、然間去平治元年、右金吾信頼のぶより謀叛之時、太上天皇てんわう一戦之功、被不次之賞以降、高昇相国、兼賜兵仗男子、或忝台階、或列羽林女子、或備中宮職、或蒙准后宣、兄弟庶子皆歩棘路、其孫彼甥悉割竹符、加之統領九州、不封家、細官進退百司、皆為奴婢僕従、一毛違心、縦雖皇候之、一言背命不公卿之、是以為一旦之身命、為片時之陵辱、万乗聖主尚成面展之媚、重代之家、君還致膝行之礼、雖代々相伝之家領、上裁恐命巻舌、雖宮々相承之庄園、天子憚威無言、乗勝之余、其驕倍増、去年十一月追捕太上天皇てんわう之棲抄、掠種々之財貨、押流博陸輔佐之身、奪取国々之庄園、叛逆之甚誠絶古今、其時我等われら向賊徒以問其罪也、然而或相量神慮、或依皇憲、抑鬱胸送光陰之間、清盛きよもり入道重発軍兵、打囲一院第二親王宮之処、八幡三所、春日大明神かすがだいみやうじん、窃垂影向、奉ささげ銭弼、送附貴寺、奉新羅権現之間、押開金枢、奉玉体、王法不尽之旨明矣、随又貴寺捨命奉守護之条、含識之類、誰不随喜哉、我等われら遠域其情之処、清盛きよもり入道猶起凶器、欲入貴寺之由側以承及、兼致用意、為合力、二十二日晨旦発大衆、二十三日牒送諸寺、下知末寺、調得軍士之後、欲案内之刻、青鳥飛来、投一芳紙、数日之鬱念一時解散、彼唐家清涼、一山之ひつ蒭ひつすう、尚返武宗之官兵、況和国南北両門之衆徒、盍謀臣之群類、能固梁園左右之陣、宣我等われら進発之告者、勒衆議牒送如件、察状勿疑殆故牒。
   治承四年五月廿三日          権都維那法師善勝
                      都維那大法師有実
                      権寺主大法師俊範
                      権寺主大法師兼清
                      権上座大法師禅慶
                      上座法橋上人位俊慶
と書て、三井寺みゐでらへ送。
 又興福寺こうぶくじより、諸寺に牒送する状云、
 興福寺こうぶくじ大衆牒東大寺とうだいじの 
 欲早駈末寺庄園供奉今明中発向洛陽園城寺をんじやうじ仏法ぶつぽふ破滅
牒、諸宗雖異、皆十二代聖教、諸寺雖区、同安三世之仏像、就なかんづく園城寺をんじやうじ者、弥勒如来によらい常住霊崛也、我等われら阿僧之流、憤慈氏之教、又貴寺八宗教法、相並学之、豈不彼寺之破滅乎、而花洛之間有一臣猜、平治元年以来、押領於四海八ていを、如奴婢、進退於百司六宮、任我意、一毛違心則、雖王侯之、片言乖思、又雖公卿之、是以累代相伝之家、君還成膝行之礼、万乗尊重之国主、殆致面展之矯、遂廻趙高指鹿之謀、滅王室、剰追弗沙飛象跡、失仏家、即今明之間、欲害園城寺をんじやうじ、以未発以前、不相救者、我等われら独全有何益えき乎、然則不日調兵、欲京洛、仏法ぶつぽふ興廃只有此縡、且祈誓仏神、可伏魔軍、且駈催末寺庄園供奉者、冥叶天地之神慮、願保南北之仏法ぶつぽふ而己、仍粗勒由緒、牒送如件、密状勿遅引、故牒。
  治承四年五月二十三日         興福寺こうぶくじ大衆等だいしゆらと、加様に書て十五大寺送遣けり。

山門変改事

 山門南都同心の由聞えければ、宮の軍兵等の衆徒、大に勇悦けり。
 六波羅には大勢馳集て、合戦の評定様々也ける中に、上総介忠清ただきよ計ひ申けるは、山門南都同心せば、合戦ゆゝしき大事也、三井寺みゐでらには、大関小関を伐塞、山には東西の坂に弩はり、海道北陸二の道を催て、防戦程に、南都の大衆、芳野十津川の悪党等を相語て、宇治路うぢぢ淀路より挟で寄ならば、前後に敵を拘へん事、ゆゝしき大事也。
 官兵数を尽し、日数程を経るならば、国々の源氏も馳上て、軍に勝ん事難し。
 されば先貫首に仰て、山門を制し、内々三千衆徒を可詐宥也。
 いかなる者も、財に耽らぬ事やはある。
 殊に山法師は、詐安ものぞと申ければ、可然計ひ申たりとて、先院宣被下、状云、
園城寺をんじやうじ者、元是謀叛之地也。
 誠乎箇事、非寺之訴、非法之鬱、同意八虐之輩、忽失皇法、欲仏法ぶつぽふ、早今日中企登山、勅定之趣、具可衆徒、内祈善神、外降悪党耳、抑深懸叡念於叡山えいさん、蓋誡一寺於一門、其上凶徒等きようとら、忽被兵甲者、定遁隠山上歟、兼得此意、慥可守護者、宣院宣之趣之状如件、仍言上如件。
   治承四年五月廿四日              左少弁させうべん行隆奉

 謹上  天台座主てんだいざす御房とぞ有ける。
 猶重たる院宣云、園城寺をんじやうじ衆徒等しゆとら、尚背勅命、於今者可追討使也、一寺滅亡雖歎思召おぼしめす、万民之煩不黙止歟、誠是魔縁之結構けつこう、盍仰仏界之冥助哉、満山衆徒、異口同音、可祈申、又大威徳供可始行之由、依院宣言上如件。
   五月廿四日                左少弁させうべん行隆奉
と有ければ、座主登山有て、衆徒を宥制し給たまひける上に、事を往来に寄て、近江米一万石、美濃絹三千匹を上て、谷々坊々に積て引之けり。
 取者は一人して五匹十匹をも取けり。
 空手て不取衆徒も有けれ共、一山大に悦で、忽たちまちに三井の発向を変改す。
 米とり絹取たる大衆等だいしゆら、大講堂だいかうだうに会合して僉議せんぎあり。
 倩園城寺をんじやうじの牒状を見に、延暦えんりやく園城をんじやうの両寺りやうじは、鳥の左右の翅の如く、車の二の輪に似りといへり。
 此条奇怪の申状也。
 山門は本山也、園城をんじやうは末寺也、本末混合の牒状、豈同心すべきや。
 此時若合力あらば、向後定て同輩せんか、不然と申たりければ、衆徒一同して不与力、一門賄賂に耽て、忽たちまちに変改と聞えければ、三井の衆徒角ぞつゞけける。
  山法師織のべ衣うすくして恥をばえこそ隠さゞりけれ
 絹にあたらざりける山法師読たりけるとかや。
  織のべを一切もえぬ我われらさへ薄恥をかくことぞ悲しき
 与せんと申て変改有ければ、三位さんみ入道にふだう角ぞ送遣しける。
  薪こる賤がねりその短きかいふ言のはの末のあはねば
 山門の衆徒底恥しくこそ思けめ。
 高倉宮たかくらのみやの御謀叛ごむほんによりて、山門園城をんじやう騒動すと聞えければ、主上俄にはかに入道の宿所西八条にしはつでうに行幸あり。
 新院日比ひごろ是に御座おはしましけり。
 日次かた/゛\悪かりけれ共、かゝる急々の折節をりふしなれば、是非の沙汰にも及ばず、又御輿の前後に、軍兵数千騎すせんぎ打囲たり。
 事の外に騒しくぞ見えける。
 堀川院ほりかはのゐんの御宇ぎよう、承保元年十二月には、八幡、賀茂両社の行幸の日、園城寺をんじやうじの悪徒等あくとら、参洛すと聞えしかば、前下野守義家よしいへ弓箭を帯し、軍兵三千さんぜん余騎よきにて御輿の後、右衛門の陣に候ひしをこそ、希代の勝事也とて、人驚耳目
 近来の御幸行幸には、ともすれば軍兵前後に仕るぞ浅猿あさましき。

三井寺みゐでら僉議せんぎ附浄見原きよみはらの天皇てんわうの

 〔去さるほどに〕三位さんみ入道にふだう申けるは、山門は変改、南都は未参、小勢にて合戦ゆゝしき大事也。
 平家を夜討にせんは、よかりなん。
 さらば老僧児共、童部わらんべ法師原ほふしばら一二千人いちにせんにん、如意峯に指遣て、続松手々に用意して、足軽二三百人にさんびやくにん、法勝寺ほつしようじの北さまより、三条河原祇園の辺まで、するりと遣て、在家に火を放ちなば、六波羅の早雄の武者共、軍兵に招れて馳来ば、引退引退あひしらひ、矢少々射させて岩坂桜本に引籠て戦はん。
 其隙に指違て、能者四五百人しごひやくにん六波羅へ打入つて、風上に火を係て、太政だいじやう入道にふだう右大将うだいしやうを焼出して、などかは討ざるべきと宣へば、大衆夜討の義尤然べし、軍は不勝とて、三院の大衆、貝鐘鳴し、金堂の前に会合して、已に夜討の手分する処に、一如坊阿闍梨あじやり真海と云者あり。
 太政だいじやう入道にふだうの祈の師也。
 同宿済々と引具して、僉議せんぎして云、抑仏法ぶつぽふ王法は助君守法、文官武官は、治国鎮乱、其中に源平両氏の将軍は、朝家前後の守護として、国土を治奉君主、互に牛角たりき。
 然倩近来を見に、源家は運衰て、諸国に零落し、平家は威盛にして、一天を管領せり。
 依これによつて五畿七道ごきしちだう、不其命、百官万庶相従其威
 衆流の海に入が如く、万木の似風。
 一寺の衆徒の力を以て、一族多勢の兵を傾事たやすからじ。
 但蟷螂たうらう車を還と云こと侍ば、其にはよるまじき上、親王の御入寺は、寺門の繁昌衆徒の面目也、当此時、誰か等閑を存じ、勇心なからん。
 然者しかれば卒爾の夜討を止て、能々謀を横縦に廻し、勢を東西に催して軍せんは可宣か、角申せばとて、全く平家の方人には非、いかにも寺門の安堵衆徒の高名こそ末代までも存ずる事なれと、言と心と引替て、夜を明さんと、閑々しづしづ長々とぞ僉議せんぎしたる。
 此に乗円坊阿闍梨あじやり慶秀は、下腹巻に衣装束、長絹袈裟にて頭を裹、打刀前垂指、進出て云けるは、軍に勝こと勢には依らず、証拠外になし。
 我わがてらの本願主、浄見原きよみはらの宮と申は、事新けれども天智天皇てんわうの御弟、大海人王子是也。
 天皇てんわう我御子達みこたちには譲位給はで、浄見原きよみはらの宮に譲給へりしかば、天智崩御ほうぎよの後、皇子大友位に洩給たまひぬる事を恨て、謀叛をおこし、浄見原きよみはらの宮を襲ひ給しかば、宮都を出て吉野山に入給ふ。
 天神憐を垂給けるにや、天女あま降り、天の羽衣にて廻雪の袖をかなでしかば、後憑しくぞ思召おぼしめしけるに、猶芳野山を責べき聞えありければ、彼山を出給、伊賀国へ越、伊勢と近江の境なる、鈴鹿山に入り給。
 深山しんざんかげ幽にして人跡絶、更闌夜暗して、月不照ければ、東西に迷給、為方を失へり。
 前後左右を見廻給へば、山中に幽に火の光あり、彼にたどり至て御覧ずれば、奇き柴庵に、夫婦とおぼしくて老翁老嫗あり。
 御宿を借り給へば、不惜奉請入
 宮問云、在所多之、何心在てか此深山しんざんに栖と。
 翁答曰、此地は霊地にして、凡境に非ず、此に栖者王に肩を並る地形あり、故に爰を栖とし侍と。
 浄見原きよみはらの宮、奇異の思を成給ふ。
 王に肩を並るとは、朕が事を示にやと、憑しく思召おぼしめし、重て汝に子ありやと、御尋おんたづねありければ、我に一人の女子あり、后相を具せる故に、凡人に隠して、此山の上に御所を造て、居置侍ると。
 宮の仰に云、我は是浄見原きよみはらの宮也、天智の譲をえたれ共、大友の王子に襲れて、爰ここに迷来れり、汝が女朕が后に可祝とて、即其夜中に、彼御所に入給。
 又宮翁に仰て云、大友おほともの王子わうじに、見目、聞耳、かぐ鼻とて、三人の不思議の者を召仕ふ。
 一旦此に隠忍たりとも、遂には顕なん、いかゞすべきと語給へば、翁畏て申、君の御先祖と申は、天照太神てんせうだいじん也。
 程近伊勢国いせのくに渡会郡、五十鈴の河上に崇られ給たまひて、御子孫を守護し奉らんと御誓あり。
 御参あり祈念あらば、御恙あらじと申ければ、即老翁を召具して、御参詣あり。
 折節をりふし降雨車軸を下して、鈴鹿川に洪水漲下りて、渡り難かりけるに、二頭鹿参て、両人を背に乗、河を奉渡、其より彼河を鈴鹿川と改名せり。
 敵兵攻来ると聞えしかば、翁太神宮の御後に、大なる岩屋あり、君を奉入、銀の盤の上に金の鉢に水を入て、御足を指入させ奉て、敵来侍ん時は、御足にて水をかは/\と鳴させ給へと申て忍隠ぬ。
 敵程なく責来たれども、岩屋の口にて失行方、あきれ立たり。
 宮御足にて水を、かは/\と鳴し給ふ。
 大友おほともの王子わうじ、見目に仰て、いづくにかおはすると宣へば、三千界の内には見え給はずと、次に聞鼻承て、三千界の内に其香なしと、次に聞耳承て、暫く聞て、此君は此界には御座おはしませず、其故は此世界の構様は、風輪の上に水輪あり、上に金輪あり、上に地輪あり、而を浄見原きよみはらの宮、只今ただいま金輪の上の水輪を渡給ふ、足音かは/\と鳴侍るとて、是より皆々都へ帰上ぬ。
 其後翁来て岩屋の戸を開て奉出。
 君太神宮の御宝前にて御神楽あり。
 神明顕現じ給たまひて御託宣ごたくせんあり、君は国津神を集、東夷を催して禦敵給へ。
 大友は都西の戎を以て、責来るべし。
 近江と美濃との境に、城構して相待給へ。
 我擁護を加て勝事をえしめ、必可即位と、宮悦思召おぼしめして、近江国の山伝して、百済寺山を通て、美濃国に入り給たまひ、是彼忍隠給けり、大友おほともの王子わうじ聞給たまひて勢を催て、美濃国へ向けり。
 何の所にか有けん、宮を奉見付みつけて追懸たり。
 危かりける時、野中に大なる榎木一本あり。
 二に破て中開たり。
 宮其中に入給へば、木又いえ合ぬ。
 敵打廻見けれども、見え給はざりければ、陣に帰ぬ。
 其後榎木又破れて中より出給ぬ。
 大童に成て御身を窄し、其辺に廻て、宮仕せんと宣へば、関の辺に一人の長者あり。
 招入て仕試るに、万に賢かりければ、只人共不覚して、かしづき仕けるに、夜々よなよな夢に日月を仕と見る。
 不審によりて、抑誰人ぞ、若大友おほともの王子わうじに忍給ふなる、浄見原きよみはらの宮にて御座か、左にはあらずと仰あらば、王子の軍兵に見せ奉んと申せば、宮名乗て憑まんとおぼして、丸は浄見原きよみはらの宮也、深く汝を憑と宣へば、長者畏て聟に取奉て、隠し置奉る。
 年月を経て、王子二三人出き給へり。
 其後長者東夷を催て、白鳳元年壬午始て不破関を置て、美濃国にて軍構し給へり。
 王子此由聞給たまひて、西戎を集て向給ふ。
 両軍山中宿にて合戦す。
 山中の東なる河を阻て戦けり。
 両陣互に白刃を合せければ、其川黒き血に流けり。
 さてこそ彼川をば、黒血川とは名付たれ、宮の勢は東国より走集て如雲霞
 王子の軍は敗て、終に亡にけり。
 宮都に上給たまひ、即位給にけり。
 天武天皇てんわうとは是也。
 浄見原きよみはらの天皇てんわう共申。
 天皇てんわう崩御ほうぎよの後、関の長者の恩を思召おぼしめしけるにや、神と被祝給へり。
 関明神と申は是也。
 関所の殿原と云は、彼長者の女に儲給へる末葉也。
 去ば天皇てんわう大和国やまとのくに宇多郡を通給けるには上下十七騎、遂には軍に勝て位に即給へり。
 昔を以て今を思ふに、不無勢
 十七騎猶軍に勝、況三院の衆徒をや、況源氏の与力をや。
 就なかんづく窮鳥入懐、人倫憐と云事あり。
 況宮の御入寺をや。
 異計を廻さんとて、徒に時日を隔ならば、敵に上手を討れて、後悔無益也。
 自余は不知慶秀が弟子共は、急ぎ先陣仕て、慥に太政だいじやう入道にふだうの首を取て、親王の御代に成進せよとて、ひしめきけり。
 実にゆゝしくぞ見えける。
 円満院ゑんまんゐんの大輔進出て、唯一口に、衆徒の僉議せんぎ端多し、五月の短夜明なんとす、急寄られよと云ければ、尤々もつとももつともとて如意峯より、師法印乗智が弟子共に、義法禅永等五十ごじふ余人よにん、乗円坊の慶秀が同宿等に、加賀刑部光乗一来を始として、六十余人よにん、律浄坊の日胤が同宿に、伊賀越前上総坊を始めとし五十ごじふ余人よにん、其外児共童部わらんべ、大津の在家駈具して、千余人よにん、手々に続松支度して向けり。
 六波羅の討手には、伊豆守いづのかみ仲綱なかつなを大将軍として、侍には渡辺党満馬允、子息省の播磨次郎、其子授薩摩兵衛、刈源太、与馬允、競滝口、唱丁七清、濯等也。
 僧には法輪院荒土佐、円満院ゑんまんゐんの大輔たいふ、平等院びやうどういん因幡竪者、荒大夫松井肥後、角六郎坊、島阿闍梨あじやり北院の金光院六天狗に、大輔、式部、能登、加賀、佐渡、肥後等也。
 常喜院には、鬼土佐、筒井法師に、卿阿闍梨あじやり悪少納言、我耶筑前、南勝院に、肥後房、日尾定雲四郎坊、後中院に但馬坊、大矢修定、此等は皆弓矢を取ても打物以ても一人当千いちにんたうぜんの兵也。
 堂衆には、筒井浄妙、明秀、小蔵には、尊月、尊永、慈慶、楽住、金拳、賢永等こそ伴けれ。
 僧俗勢都合七百しちひやく余騎よき、皆長刀を持たりけり。
 如意峯の手は、物具もののぐを帯して、嶮山を上ける上に、五月二十日余あまりの事なれば、雲井の月もおぼろにて、木の下も、又暗ければ、進もやらざりけり。
 六波羅の手は、宮御入寺の後は、用心の為に、大関小関堀塞、逆木垣楯構たりければ、彼等を取払、堀に橋渡などする程に、五月の短夜推移、関路の鶏鳴あへり。
 伊豆守いづのかみは夜討こそよかりつれ、鶏鳴頻也、夜既明なんとす、今は叶はじとて引へたり。
 円満院ゑんまんゐんの大輔たいふは、褐の直垂に、黒皮威くろかはをどしの大荒目の鎧の、一枚まぜなる草摺長にさゞめかし、白星の甲に、大の長刀杖につきて申けるは、昔漢朝に孟嘗君まうしやうくんと云人あり。
 本は斉の国の人也けり。
 狐白の裘と云て、千の狐の脇の皮を取集て、しつらひ作たる秘蔵の物を持たりけり。
 秦昭王に心ならず乞取れて不安思けり。
 彼孟嘗君まうしやうくんは、様々の能者を、三千人さんぜんにん従仕ひけり。
 其中にりうていと云者は、勝たる犬の学の上手にて、而も盗人也けるを以て、犬の学して蔵を破、白狐裘を盗出して逃けるに、昭王兵を遣して、孟嘗君まうしやうくんを討んとす。
 孟嘗君まうしやうくん三千人さんぜんにんの客を引卒して、函谷関にぞ係ける。
 彼関は鶏不鳴さきには戸を開かぬ習なれば、夜深して通り難し。
 敵は既襲来る、遁るべき様もなかりけるに、三千人さんぜんにんの客の中に、馮くわんと云者あり、鶏の音をまねぶ上手也ければ、関の戸近き木に昇て、鶏の真音をぞ啼たりける。
 関路の鶏聞伝て、一羽も不残鳴ければ、いまだ夜半の事なれども、関守戸をぞ開てげる。
 孟嘗君まうしやうくん希有にして遁にけり。
 其よりしてぞ馮くわんをば、鶏鳴とも申ける。
 されば是も敵の謀にや有らん、只寄給へと云けれども、今はいかにも叶はじとて、山階よりこそ引返せ。
 懸しかば如意が手をも呼返し、其夜も空く明ぞ行。
 此事真海阿闍梨あじやりが長僉議ながせんぎの故也とて、一如坊へ押寄て、切坊に及ければ、禦戦けれども、同宿あまた討れて、真海希有にしてまぬかれ出、はふ/\六波羅へ行向、此由角と訴申けれども、六波羅には兼て大勢用意ありければ、更に騒事なし。
 いざ/゛\、真海も寺法師也、敵の計ごとにもや有らん、打解がたしとて無興なりければ、真海兎に角に、面目なくて還にけり。

世巻 第十五
高倉宮たかくらのみや出寺事

 高倉宮たかくらのみやは、暫く此にも御渡あらばやと、思召おぼしめしけれ共、山門の大衆は変改、国々の源氏は未参、寺ばかりにては叶はじとて、廿五日に園城寺をんじやうじを出させ給たまひて、南都を憑て落させ給けるが、先金堂に御入堂ありて、蝉折と云御秘蔵の御笛を以て、万秋楽の秘曲をあそばして御廻向あり。
 南無なむ大慈大悲当来導師弥勒慈尊、戒善の余薫拙くして、今生こそ空くとも、竜笛の結縁を以て、後生助給へとて、泣々なくなく仏前に差置せ給けるこそ哀なれ。
 警固の大衆も、御伴の兵も、皆袖をぞ絞りける。

万秋楽曲事

 抑万秋楽と云曲は、本は都卒天上の楽也。
 是即弥勒の内院の秘密灌頂くわんぢやうの陀羅尼なり。
 釈迦如来しやかによらいたう利たうりの雲上にして、弥勒に袈裟を付属し給たまひし時、彼天の万秋楽と云木下にて、天衆菩薩此楽を奏して、如来によらいを供養し奉しかば、万秋楽と名たり。
 昔朱雀院御子に日蔵上人とて貴人にて、金峯山に行澄して御座おはしましけるを、蔵王権現の御方便にて、秘密瑜伽ゆがの独古を把て六道ろくだうを見廻給けるに、都卒の内院に参給へり。
 折節をりふし弥勒慈尊は、大厦高堂に黙然として座し給たりけるに、菩薩聖衆秘密陀羅尼を妓楽に移し、此曲を奏して慈尊を奉供養
 日蔵上人絃の道に長じ給たりければ、唱歌を以て伝へつゝ、我朝の管絃に被移たり。
 此に都卒天の楽と云。
 序三帖、破六帖合て九品に是をあつ。
 舞の終に必膝をついて居事は、弥勒を敬由也。
 手に合掌の曲あり、見仏聞法の楽とも云。
 迦毘相経第六に説て云、此万秋楽伝受人天、決定住生都卒天上〈文〉、誠大陀羅尼の功徳也、不輙妙曲也。
 或説云、日蔵上人大唐より此曲を伝と云云。

蝉折笛事

 蝉折と云御笛は、鳥羽院とばのゐんの御時、唐土の国王より御堂造営の為にとて、檜木の材木を所望ありけるに、砂金千両に檜木の材木を被進送たりければ、唐土の国王其御志を感じて、種々の重宝を被報進ける中に、漢竹一両節間被制たり。
 竹の節生たり。
 蝉につゆたがはざりければ、希代の宝物と思召おぼしめして、三井寺みゐでらの法輪院覚祐僧正そうじやうに仰て、護摩の壇上に立て、七箇日加持して後、彫たりける御笛也ければ、おぼろげの御遊ぎよいうには取りも出されざりけり。
 鳥羽殿とばどのにて御賀の舞のありけるに、閑院の一門に、高松中納言実平、此御笛を給たまひて吹けるが、すき声のしけるをあたゝめんとて、普通様に思ひつゝ、膝の下に推かいて、又取上吹んとしてけるに、笛咎めや思けん、取はづして落して蝉を打折けり。
 其よりして此笛を、蝉折とぞ名ける。
 高倉宮たかくらのみや管絃に長じまし/\ける上、ことに御笛の上手にて渡らせ給たまひければ、御孫子とて、鳥羽院とばのゐん此宮には御譲ありける也。
 宮も故院の御形見と被思召おぼしめされければ、聊も御身を放たせ給はざりけれ共、深く竜華の値遇と思召おぼしめしければ、彼天の楽を奏して、此寺の本尊に進給たまひけるこそ哀なれ。

宇治合戦附頼政よりまさ最後事

 宮は御馬に召て、既すでに寺を出させ給けり。
 児共大衆行歩叶はぬ老僧までも、此程の御なごりを奉惜て、墨染袖を絞りけり。
 中にも乗円坊阿闍梨あじやり慶秀は、七十有余いうよの老僧也。
 腰二重にて鳩杖に係り、御前に進て奏けるは、慶秀齢己に八旬に及て行歩に力なし、御志はいかにもと存ずれ共、御伴に不叶、弟子にて侍る、刑部房俊秀は、相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん、山内須藤刑部丞俊通と申し者が子息に侍、彼俊通は、去し平治の合戦に義朝よしともが伴して、六条川原の軍に討死して、孤子にて侍しを、慶秀跡懐より生し立てて、心の中も身の力もよく/\知て候、不敵の僧にて心際悪からぬ者にて侍り、慶秀御伴仕と思召おぼしめして、御前近く召仕はせ給べしとて、涙を流し墨染の袖を絞ければ、宮も聞し召し御覧じて、仮そめのなじみに、加程に思覧事よと思召おぼしめしければ、御涙おんなみだぞ進みける。
 宮は御浄衣にて御馬に召、三位さんみ入道にふだうの一類、并ならびに寺法師、都合三百さんびやく余騎よき御伴に候けり。
 新羅社の御前にては御心計に再拝して、大関通に御出なる。
 東を望めば湖水茫々として波清く、西を顧ば嶺松鬱々として風冷じ。
 関寺関山打つゞき、住人ぢゆうにん来人会坂や、一叢杉木下より、筧の妙美井絶々也。
 くゞ井坂、神無の森、醍醐路に懸て、木幡の里を伝つゝ、宇治へぞ入せ給ける。
 宇治と寺との間、行程纔わづかに三里計也、六箇度まで御落馬あり。
 御馬に合期せさせ給はぬ故にや、又此程打解御寝ならぬ故にや、是も然べき御運の際とは申ながら、加程の御大事おんだいじの中に、睡落させ給ける御事云かひなし。
 加様に度々御落馬在ければ、暫く休め進せんとて、宇治の平等院びやうどういんに入進て御寝あり。
 其間に宇治橋三間引て、衆徒も武士も宮をぞ奉守護
 平家は宮南都へ入せ給由聞て、追討使を被差遣に、左兵衛督知盛卿、蔵人頭くらんどのとう重衡朝臣、中宮亮通盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、左馬頭さまのかみ行盛朝臣、淡路守清房朝臣、侍には上総忠清ただきよ、上総大夫判官たいふはんぐわん忠綱ただつな、摂津判官盛澄、高橋判官長綱、河内判官季国、飛騨守景家かげいへ、飛騨判官景高、都合二万にまん余騎よき、宇治路うぢぢより南都を差て追て懸。
 平等院びやうどういんに敵ありと見ければ、平家の兵共つはものども雲霞の如くに馳集て、河の東の端に引へて、時を造る事三箇度さんがど、夥しとも不なのめならず
 宮の兵共つはものどもも時の音を合て、橋爪に打立て禦矢射けり。
 其中に寺法師に、大矢の秀定、渡辺清、究竟の手だり也けるが、矢面に進んで、差詰/\射けるにぞ、楯も鎧も不叶して多の者も討れける。
 平家の先陣も、始は橋を隔て射合けるが、後には橋上に進上て散々さんざんに射。
 其中に信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん、吉田安藤馬允、笠原平五、常葉江三郎を始として、二百余騎よき進出て戦けるに、常葉江三郎内甲射させて引退く。
 宮の兵は橋の西爪にて、差詰々々射ければ、面を向がたし。
 平家の軍兵は、東の爪に轡を並て如雲霞
 橋は狭し人は多、我劣らじ/\と上が上に籠入けり。
 未暁の事なるに、上川霧立て暗さは闇し、橋をさへ引たりければ、先陣に進者、橋を引たるぞ/\と、口々によばはりけれ共、指もどゞめく中なれば、唯我先にと馳こみける程に、先陣二百余騎よきをば川の中へぞ推落す。
 夜もほの/゛\と明ければ、寺法師は筒井の浄妙明春と云者あり、自門他門に被免たる悪僧也、橋の手にぞ向ける。
 明春今日は事を好てぞ装束したる、しかまの褐の冑直垂に、紺の頭巾に黒糸威くろいとをどしの大荒目の冑の一枚交なるを、草摺長にゆり下し、三枚甲の緒を強くしめて、黒ぬりの太刀の、三尺五寸あるに、練つば入て熊皮の尻鞘をさす。
 同毛色のつらぬきをぞ帯たりける。
 黒塗の箙に、塗篦に黒つ羽を以てはぎたる矢を、廿四差たるを、頭だかに負なしつつ、七もちりなるまゆみのしめ塗にぬりたるに、塗づる懸て真中を取、烏黒の馬の七寸しちすんにはづみたる黒鞍置て、熊皮泥障指てぞ乗たりける。
 同宿廿人、同毛色に真黒にぞ出立たる。
 三尺五寸の長刀童に持せて具足せり。
 明春云けるは、殿原暫軍止め給へ、其故は敵の楯に我箭を射立て、我楯に敵の箭をのみ射立られて、勝負有べきとも不見、橋の上の軍は、明春命を捨てぞ事行べき、続かんと思人は連やと云儘に、馬より飛下てつらぬき抜捨、橋桁の上に挙りて申けるは、者その者にあらざれば、音にはよも聞給はじ、園城寺をんじやうじには隠れなし、筒井浄妙明春とて一人当千いちにんたうぜんの兵なり、手なみ見給へとて、散々さんざんに射ければ、敵十二騎射殺して十一人じふいちにんに手負て、一は残して箙にあり。
 箭種尽ければ、弓をばかしこに投捨ぬ。
 彼はいかにと見処に、箙も解て打すて、童に持せたる長刀取、左の脇にかい挟みて、射向の袖をゆり合せ、しころを傾、橋桁の上を走渡る。
 橋桁は僅わづかに七八寸の広さ也。
 川深して底見えざれば、普通の者は渡べきにあらざれ共、走渡りける有様ありさま、浄妙が心には、一条二条の大路とこそ振舞けれ。
 廿人の堂衆等も続ざりける。
 其中に十七になる一来法師計こそ少しも劣らず連けれ。
 明春元より好所也ければ、今日を限と四方四角振舞て飛廻りければ、面を向る者なかりけり、電光の如にひらめきけり。
 立に敵九騎討捕て、十人と申けるに、甲の鉢にしたゝかに打当て、長刀こらへずして折ければ、河へからと投入て、太刀抜て戦けり。
 太刀にて七騎討捕て、六騎に手負て休居たり。
 平家の方より、悪き法師の振舞哉、さのみ一人に多者討れたるこそ安からねとて、しころを傾けて、ながえを指出たる兵あり。
 明春是を見て、面白し、東門五色の熟瓜ぞやとて、甲の鉢を打破て、喉笛まで打さかんと打たりけるに、太刀もこらへずして、目貫穴のもとより折にけり。
 太刀は折たれ共、甲も頭も打破れて、真逆に川中へぞ落にける。
 憑処は腰刀計也、腰刀を抜持てはねて係りて戦けり。
 死狂とぞ見えたりける。
 見之浄妙討すな者共とて、後中院但馬、金剛院六天狗、鬼土佐、佐渡、備中、備後、能登、加賀、小蔵尊月、尊養、慈行、楽住、金拳玄永等命を不惜戦たり。
 橋桁はせばし、そばより通にも非ず、明春に並たりける一来、今は暫く休給へ浄妙房、一来進て合戦せんと云ければ、尤然べしとて、行桁の上に、ちと平みたる処を、無礼に候とて、一来法師兎ばねにぞ越たりける。
 敵も御方も是を見て、はねたり/\あつはねたり、越たり越たりよつ越たりと、美ぬ者こそなかりけれ。
 此一来法師は、普通の人より長ひきく、勢ちひさし、肝神の太き事、万人に勝れたり。
 さればこそ甲冑をよろひ、弓矢兵仗を帯しながら、身の惜事をも顧みず、あれ程狭き行桁を走渡、大の法師をかけずはね越たりけめ、太刀のかげ天にも在地にもあり、雷などのひらめくが如し。
 切落し切伏らるゝ者、其数を不知、上下万人目を澄てぞ侍りける。
 明春、一来師、弟子二人に討るゝもの、八十三人也。
 誠に一人当千いちにんたうぜんの兵也、あたら者共討すな、荒手の軍兵入替よや/\と、源げん三位ざんみ入道にふだう下知しければ、渡辺党に、省、連、至、覚、授、与、競、唱、列、配、早、清、進、なんどを始として、各一文字声々名乗て、三十さんじふ余騎よき馬より飛下飛下、橋桁渡て戦けり。
 明春は此等を後陣に従へて弥力付て、忠清ただきよが三百さんびやく余騎よきの勢に向て、死生不知にぞ戦ける。
 三百さんびやく余騎よきと見しかども、明春一来が手に懸り、渡辺党に討れて、百騎計に成て引退く。
 平家の大将是を見て、橋の手こそしらみて見れ、返合よ/\と下知しければ、我も/\と橋の上にぞ走重。
 橋は二間引れたり、後より御方に推れて、心ならず七十余騎よき川へ落て流けり。
 三位さんみ入道にふだう之て、世を宇治川うぢがはの橋下さへ、落入ぬれば難堪、況冥途の三途川こそ思やらるれとて、
  思やれくらき暗路のみつせ川瀬々の白浪払あへじを
 筒井浄妙俄にはかに弥陀願力の舟に心を係て、
  宇治川うぢがはにしづむを見れば弥陀仏誓の舟ぞいとゞ恋しき
明春心は猛く思へども、手負ければ引退て、平等院びやうどういんの門外、芝の上にて物具もののぐぬぎ置、冑甲に立所の矢六十三、大事の手は五所也、閑所に立寄て、彼是炙治し、頭はからげ弓打切杖につき、平足駄著て独言して云けるは、法師等が外は軍心に入たる者はみえず、いかにも始終墓々しからじとて、阿弥陀仏あみだぶつ〔と〕申て奈良の方へぞ落行ける。
 円満院ゑんまんゐんの大輔たいふ慶秀、矢切但馬明禅と云ふ者あり。
 是又、武勇の道人にゆるされたる兵也。
 慶秀は白帷の脇かきたるに、黄大口著て、萌黄の腹巻に袖付たり。
 明禅は脇かきたりける褐の帷に、白大口に、洗革の腹巻に、射向の袖をぞ付たりける。
 各長刀脇に挟て、しころを傾て、又行桁を渡けるを、平家の軍兵矢衾を作て射ければ、射すくめられて渡えざりけるに、長刀を振上て、水車を廻ければ、雨の降如くに射けれども、長刀にたゝかれて、箭四方にちる、春の野に蜻蜒の飛散が如くなり。
 敵も御方も皆興に入て、ほめぬ者こそなかりけれ。
 中にも後中院の但馬房を矢切と申けるは、左の脇に長刀を挟、右の手には三尺二寸にすんの太刀抜持て、敵の射箭を切落す。
 下る矢をば踊越え、上矢をばついくゞり、向矢をば伐落す。
 懸ければ、身に立矢こそなかりけれ。
 其間に敵八人はちにん討捕て引退。
 さてこそ矢切の但馬とも申けれ。
 橋を引てければ、敵数千騎すせんぎありといへ共渡えず、明春等に被禦て、合戦時をぞ移しける。
 矢切但馬、浄妙、一来、此等三人橋桁を渡ける。
 敵共残り少く被切落ければ、後には渡る兵なし。
 平等院びやうどういんの前西岸の上、橋の爪に打立たる宮の御方の軍兵共、我も/\と扇を揚て、渡せや渡せやと召てののしりけるは、其程臆病なる軍将やはある、太政だいじやう入道にふだう心おとりせり、懸不覚の者共を合戦の庭に差遣す条、非一門恥辱やと云て、舞かなづる者もあり、踊はぬる者もあり、されども進兵なかりけり。
 寺法師、法輪院荒土佐鏡しゆんをば、雷房とぞ申ける。
 雷は卅六町を響かす音あり、此土佐も三十六町の外にある者を呼驚す大音声なれば、さだかにはよも聞えじとて、岸の上の松木に上て、一期の大音声今日を限とぞ呼ける。
 一切衆生法界円満輪皆是身命為第一宝とて、生ある者は皆命を惜習なれ共、致奉公忠勤輩、更に以て身命を惜事あるべからず、況合戦の庭に敵を目に懸けながら、轡を押へて馬に鞭打さる条、致大臆病処也、平家の軍将心おとりせり、源家の一門ならましかば、今は此河を渡なまし、栄花を一天に開く、臆病を宇治川うぢがはの橋の畔に現す、禁物好物自在にして、四百四病はなけれ共、一人当千いちにんたうぜんの兵に会ぬれば、臆病計は身に余りけり。
 良平家の公達聞給へ、此には源げん三位ざんみ入道殿にふだうどのの矢筈を取て待給ぞ、源平両門の中に選れて、ぬえ射給たりし大将軍ぞや、臆する処尤道理也、爰ここに一来法師太刀を振ば、二万にまん余騎よきこそ引へたれ、尾籠也見苦見苦、思切て渡や/\とぞ呼ける。
 左兵衛督知盛聞之、不安事かな、加様に笑れぬるこそ後代の恥と覚ゆれ、橋桁を渡せばこそ無勢にて多兵をば射落さるれ、大勢を川に打ひたして渡とぞ宣のたまひける。
 平家方より伊勢いせのくにの住人ぢゆうにん古市の白児党とて、さゞめきて押寄たり。
 宮御方より渡辺者共、省、授、与、列、競、唱、清、濯と名乗合て、散々さんざんに射。
 白児党に先陣に進戦ける内に、三人共に赤威の鎧に、赤注付たりける武者、馬を射させて川中へはね入られて、浮ぬ沈ぬ流て宇治の網代による。
 秋の紅葉の竜田川の浪に浮に異ならず。
 網代に懸て、弓筈を岩のはざまにゆり立て、希有にしてこそあがりけれ。
 源氏これを見て、
  白児党皆火威の鎧きて宇治の網代に懸りけるかな
と、平家の侍に、上総守かづさのかみ忠清ただきよ、此有様ありさまを見て申けるは、橋は引たれば難渡、河は水早して底不見、人種は尽とも渡すべしとも不覚、追手の勢少々を此に置て敵にあひしらひ、搦手を淀路河内路へ廻て、敵の前を塞て戦はんと云ければ、下野国住人ぢゆうにん、足利あしかがの又太郎またたらう忠綱ただつな進出でて、淀路河内路も我等われらが大事、全く余の武者の向べきに非ず、橋を引れ河を阻たればとて、目にかけたる敵を見捨て、時刻をへるならば、芳野法師奈良法師参集てゆゝしき大事、此川は近江湖水の末なれば、旱事更にあるべからず、武蔵と上野との境に、利根川とねがはと云大河あり、其にはよも過じ物を、昔秩父と足利と、中悪て、度々合戦しけるに、寄時には瀬を蹈舟に乗て渡りけれども、軍に負て落けるには、舟にも乗らず淵瀬を嫌事なし、され共馬も殺さず人も死なず、又足利より秩父へ寄けるに、上野の新田入道を語て、搦手に憑、大手は古野杉の渡をしけり。
 搦手は長井ながゐの渡と定たりける程に、秩父に舟を破れて、新田入道河の端に引へたり。
 入道申けるは、人に憑れて搦手に向ひながら、船なしとて暫も此にやすらふならば、大手軍に負なんず、去ば永く弓矢の道に別べし、縦骸を底のみくづと成とも、名を此川に流せやとて、長井ながゐの渡を越けり。
 同は我等われらも水溺れては死とも、争か敵を余所に見るべき、況や此河は浪早しといへ共、底深からず、岩高しといへ共、渡瀬多し、河を渡し岸を落す事は、鐙の蹈様手綱のあやつりにあり、馬の足をかぞへて浪間を分よ者共とて進みければ、然べきとて伴者ども、一門には小野寺の禅師太郎、戸屋子七郎太郎、佐貫四郎大夫弘綱、応護、高屋、ふかず、山上、那波太郎、郎等には金子の舟次郎、大岡の安五郎、戸根四郎、田中藤太、小衾二郎、鎮西八切宇の六郎、産小野次郎を始として、三百さんびやく余騎よきを伴ける。
 足利あしかがの又太郎またたらう、真先係て下知しけり。
 此川は流荒して底深し、大事の川ぞ過すな、肩を並て手を取り組、さがらん者をば弓筈に取付せよ、強馬をば上手に立よ、弱馬をば下手に並よ、馬の足のとづかん程は、手綱をすくうて歩ませよ、馬の足はづまば、手綱をくれておよがせよ、前輪には多くかゝれ、水越ば馬の草頭に乗さがれ、水には多く力を入よ、馬には軽く身をかくべし、手綱に実をあらせよ、去ばとて引かづくな、敵に目をかけよ、余りに仰のき内甲射さすな、余りにうつぶきててへん射すな、鎧の袖を真額にあてよ、水の上にて身繕すな、我馬弱とて、人の馬にかゝりて、二人ながら推流るな、我等われら渡すと見るならば、敵は矢衾つくりて射ずらん、敵は射とも各返し矢いんとて、河の中にて弓引て推流されて笑はるな、弓の本はず童すがりに打かけよ、あまたが心を一になし、曳声出して渡すべし、金に渡て過すな、水に従て流渡に渡べしとて、橋より上へ三段計打あげて、三百さんびやく余騎よきさと打入、曳々とをめき叫て渡たり。
 橋の下へ一段さがらず、三百さんびやく余騎よき一騎いつきも流さず皆具して向の岸へざと上る。
 見之て千騎せんぎ二千騎にせんぎ、打入打入渡たり。
 二万にまん余騎よき、馬と人とに防がれて、漏る水こそ見えざりけれ。
 自ら前後の勢に連かずして、十騎じつき廿騎にじつき渡しける者は、一人もたまらず押流さる。
 大勢河を渡しければ、宮の兵共つはものども暫平等院びやうどういんに引退。
 足利あしかがの又太郎またたらうは、西の岸に打上て、鐙蹈ばり弓杖突、物具もののぐの水はしらかし、鎧突す。
 鎧は緋威ひをどしに金物を打、未己の時とぞ見えし。
 白星の甲居頸に著なし、大中黒の廿四差たる矢、頭高に負、滋籐の弓の真中取、紅のほろ懸て、連銭葦毛れんせんあしげの馬の太逞に、金覆輪の鞍置てぞ乗つたりける。
 平等院びやうどういんの惣門の前まへに打寄て、皆紅の扇ひらき仕ひ、鐙蹈張弓杖つきて申けるは、只今ただいま宇治川うぢがはの先陣渡せるは、昔朱雀院御宇ぎよう、承平に将門まさかどを討、勧賞に預し下野国住人ぢゆうにん俵藤太秀郷が五代の苗裔、足利あしかがの太郎たらう俊綱としつなが子に、又太郎またたらう忠綱ただつな、生年十七歳、童名王法師、小事は不知、大事の軍は三箇度さんがど、未不覚仕、係無官むくわん無位むゐの遠国の夷の身として、忝かたじけなくも宮に向進て、弓を引矢を放侍ん事、天の恐候へ共、是も私の宿意に非ず、平家の下知にて侍れば、果報冥加は太政だいじやう入道殿にふだうどのの御身に侍べしと。
 名を得たらん兵、忠綱ただつな打捕やと云て懸ければ、大夫判官たいふはんぐわん兼綱申けるは、秀郷朝臣は含綸旨朝敵を誅しき、彼朝臣が後胤として、今宗盛卿むねもりのきやうが郎徒と名乗、何の面目有てか先賢を顕して其恥をしめす、甚拙なしとぞ咲ける。
 忠綱ただつな取敢とりあへず申けるは、秀郷朝臣が将門まさかどを誅せし時も、征夷の大将軍は参議右衛門督うゑもんのかみ藤原の忠文朝臣也き。
 宗盛卿むねもりのきやう今征夷将軍也、依勅定将軍、是兵の法也。
 汝は摂津守つのかみ頼光らいくわう朝臣非遺孫や、将軍次将の作法を不存歟、尤不便也と云係て、兼綱に組んとて懸ければ、飛騨兵衛尉景康、上総次郎友綱を始として、三百さんびやく余騎よき轡を並て兼綱にかゝる。
 大夫判官たいふはんぐわん郎等小源太嗣、内藤太守助、小藤太重助、源次加を始として五十ごじふ余騎よき、折塞て戦けり。
 或は組で落もあり、或は互に被射落もあり、何れ隙有共不見、此にて源平両氏の名を得たる郎等被多討けり。
 源げん三位ざんみ入道にふだうは、薄墨染の長絹直垂に、品革威の鎧を著、今日を限とや思けん、態甲は不著けり。
 紫革威とは、藍皮に文にしたをぞ付たりける。
 嫡子伊豆守いづのかみ仲綱なかつなは、赤地の錦直垂に、黒糸威くろいとをどしの鎧著たり、是も甲は不著けり。
 矢束を長く引んと也。
 同舎弟しやていげん大夫判官だいふはんぐわん兼綱は、萌黄の生絹直垂に、緋威ひをどしの鎧著て、白星の甲に、芦毛の馬にぞ乗たりける。
 父子兄弟矢先を揃て散々さんざんに射。
 其間に宮は南を指て延させ給へば、三位さんみ入道にふだうも続て落行けり。
 上総太郎判官忠綱ただつな、七百しちひやく余騎よきを引率して、勝に乗てぞ追懸ける。
 源げん大夫判官だいふはんぐわん兼綱は、父の入道を延さんと、只一人引返引返散々さんざんに戦ける程に、痛手を負、今は叶はじと思て、鞭を揚て落行けり。
 太郎判官忠綱ただつな申けるは、兼綱と見は僻事か、逃ばいづくまで延べきぞ、弓矢取身は我も人も、死の後の名こそ惜けれ、うたてくも後を見する物哉、返せや/\とて責懸たり。
 兼綱は宮の御伴に参也とて馳けれども、無下に間近く追係たれば、思切、馬の鼻を引返て宮を延し進せんと、七百しちひやく余騎よきが中に蒐入つゝ、蛛手十文字に狂ければ、寄て組者はなかりけり。
 唯中を開てぞ通しける。
 上総太郎判官、弓を引儲て、箭所のしづまるを待処に、忠綱ただつなに組んと志て馳て懸けるを、能引放つ箭に、源げん大夫判官だいふはんぐわんが内甲を射たりければ、箭尻はうなじへつと通り、血は眼にぞ流入。
 判官今は世間掻暗て、弓を引太刀を抜事不叶けるを、太郎判官が童に、二郎丸とて大力有けり。
 兼綱が頸をとらんとて打て懸けるを、播磨二郎省と云者、主の首を取れじと立塞て戦けるが、兼綱いかにも難遁見えければ、省主の首を掻落し、泣々なくなく暫しは持たりけれ共、三位さんみ入道にふだうも伊豆守いづのかみも、皆自害し給たまひぬと聞ける後は、石を本どりに結付て、河の中へ投入つゝ、我も御伴申さんとて、
  君故に身をば省とせしかども名は宇治川うぢがはに流しぬる哉
と思つゞけて、腹かい切て、同く河にぞ入にける。
 三位さんみ入道にふだうは右の膝を射させたりけれ共、宮の御伴に落行けるが、子息の判官が討るゝを見て申けるは、兼綱こそ入道を延さんとて討死仕ぬれば、若き子が討るるを見て、老たる入道がいつまで命を生とて、いづくまでか落行べし、禦矢を仕べし、急南都へ入せ給たまひて、深く衆徒を御憑有べし、今こそ今生の最後に侍れ、さらば暇給べしとて引返ければ、宮も御遺惜く思召おぼしめし、御涙おんなみだに咽ばせ給ふ。
 入道は養由やういうをも欺ける程の弓の上手也ければ、年闌たれども引とり/\、散々さんざんに射ければあだ矢は一もなし。
 平家の大勢射しらまされて、度々河耳へ引退。
 右の膝も痛手也、矢種も既すでに尽ければ、郎等の肩に懸、平等院びやうどういんの釣殿におり居て、唱法師源八副を招いて宣のたまひけるは、身仕六代之賢君、齢及八旬之衰老、官位己越列祖武略不等倫、為道為家有慶無恨、偏為天下今挙義兵、雖命於此時、留名於後世、是勇士所庶、武将非幸哉、各防矢射て、閑に自害を進めよと申ければ、源蔵人仲家、足利判官代はんぐわんだい義清、源次加を始として三十さんじふ余人よにん、皆甲を脱、矢先を調て射ければ、飛騨守景家かげいへ、上総介忠清ただきよ、飛騨判官景高を始として、三百さんびやく余騎よき前を諍て懸けり。
 伊勢いせのくにの住人ぢゆうにん、堀六郎貞保、同七郎貞俊、緋威ひをどしの冑に白き幌係て、楼門のきはまで攻寄たりけるを、唱法師勝たる弓の上手也ければ、一の矢に貞保が内甲をいて落してけり。
 貞俊是を見て太刀を抜、唱を討とらんと懸けるを、二の矢に貞俊頸骨を被射て、馬の弓手に落にけり。
 伊賀国住人ぢゆうにん森小兵太利宗と名乗て懸けるが、源次加につるばしりの板を筋違様に射ぬかれて、馬の前に落にけり。
 此外或はあきまを被射落者もあり、或は馬の腹をいさせてはね落さるゝ者もあり、敵をいとるたびには、声を調て嘲り咲けり。
 敵もおくしぬべくぞ聞えける。
 三位さんみ入道にふだう此有様ありさまを見て申ける、軍敗をけやけくたゝかふ事は敵による事なり、此奴原は近国の者共にこそ有ぬれ、さのみ罪な作そ、今は弓を収て各自害をすべしとて、我身も鎧脱捨、下総国住人ぢゆうにん下河部藤三清恒と云郎等を招き宣のたまひけるは、敵の中にて討死をもすべかりつれ共、老衰たる首をとられて、是ぞ三位さんみ入道にふだうが頸とて、敵の中にて取渡されん事、心憂思つれば、心閑にと存て是へ来れり、我首敵にうたすな、人手にかくな、急ぎ伐ていづくにも隠し棄よと宣ふ。
 清恒目もくれ心も迷ければ是を辞申。
 因幡国住人ぢゆうにん弥太郎盛兼に被仰けれ共、同是を辞す。
 渡辺の丁七唱を召て、今は限と覚る也、敵に知せで急頸を討と宣へば、唱も年来の主君を伐奉らん事の哀しさに、御自害ごじがい候へかし、御頸をば給候はんとて、太刀を差やりたりければ、入道池の水にて手口をすゝぎ西に向て念仏三百返計申て、最後の言ぞ哀なる。
  埋木は花咲事もなかりしに身のなるはてぞ哀なりける
と云も果ぬに、太刀の先を腹に取当て倒懸り、貫てぞ死にける。
 此時歌など読べしとは覚ねども、若より心に懸好みければ、最後にも思出けるにこそ、哀にやさしき事也。
 入道の首をば下河部藤三郎取て、平等院びやうどういんの後戸の板敷の壁をつき破て隠し入る。
 同子息伊豆守いづのかみ仲綱なかつなも散々さんざんに戦ひて後、入道の跡を尋て、平等院びやうどういんの御堂に立入て、物具もののぐ脱捨腹掻切て死にけり。
 弥太郎盛兼其頸を掻落して、入道の首と一所に隠し置、人不之。
 後日に竹格子の下より、血の流出たりけるを恠て、御堂を開て見ければ、頸もなき死人あり、誰と云事を不知、後にこそ伊豆守いづのかみとも披露しけれ。
 其よりしてこそ、其名をば自害の間とも申也。
 弥太郎盛兼走廻て、入道殿にふだうどのも伊豆守殿いづのかみどのも御自害ごじがい也と申したりければ、さてはかうにこそとて、入道の養子にしたりける木曾が兄に六条蔵人仲家、其子の蔵人太郎父子二人、太刀を抜き、腹と腹とにさし違てぞ死にける。
 宮の兵共つはものどもかように宗徒の者討死しければ、恥を思輩は同死ぬ。
 渡辺党の宗徒の者三十さんじふ余有けるも、入道父子亡にければ、此彼に馳合馳合討死するもあり、蒙疵自害するも有りければ、遁は少く死は多し。
 其中に競が事をば、右大将うだいしやう安被思ければ、兵共つはものどもに相構て虜て進せよ、鋸にて頸きらんと下知し給ければ、官兵其意を得て、競と名乗ば弓を引かず、太刀をぬかず、辺に廻て伺ける間に、滝口は先に心得こころえて射廻り切廻りければ、人は討れ手負けれ共、競は身に恙なし。
 侍ども今は只討とれ、人一人生どらんとて多兵を失べきに非ずとて、中に取籠散々さんざんに戦ければ、競も終に打死して失にけり。
 伊豆守いづのかみ仲綱なかつなの郎等に、公藤四郎、同五郎兄弟は、御室戸より伊勢路いせぢに向て落にけり。
 円満院ゑんまんゐんの大輔たいふは、赤威の鎧に、そり返りたる長刀持て、平等院びやうどういんの門外に進出て、高倉宮たかくらのみや未これに御座ござあり、参て見参に入者共とて、持て開て走出ければ、馬の足薙れじとて、百騎計馬より下、太刀を抜てぞ懸ける。
 大輔は長刀打振て、しころを傾て向ふ。
 敵に刎て懸ければ、左右へさと引退き、中を開て通しけり。
 大輔は河を下に落て、行足はやくして飛が如し。
 馬も人も追付かざりければ、唯遠矢にのみぞ射ける。
 大輔は川の耳に物具もののぐぬぎ捨て、しづ/\と川を渡り、向の岸におよぎ付、いかに殿原渡し給へ/\と申て、我わがてらへこそ帰にけれ。

宮中流矢

 宮は平等院びやうどういんを落させ給つゝ、男山八幡大菩薩はちまんだいぼさつを伏拝御座おはしまして、新野の池も過させ給たまひて、井出の渡と云所まで延させ給たまひけり。
 御寝もならず喉も乾せまし/\て、水進度思召おぼしめしければ、小河の流たりけるを汲て進けり。
 此所をばいづこと云ぞ、又此河をば何と云ぞと御尋おんたづねあり。
 此辺をば、山城国井出の渡と申、河をば水なしと申候と答申ければ、打頷許せ給たまひて、思召おぼしめしつゞけけるは、
  山城の井出の渡に時雨して水なし川に浪や立らん
と御口ずさみ有りて、光明山へかゝらせ給に、軍兵後より追係進せけるが、何者なにものが射たりける矢やらん、鳥居の前にて流矢来つて、宮の御かた腹に立たりければ、即御馬より真逆に落させ給ふ。
 やがて消入せ給たまひて御目も御覧じあけず。
 園城寺をんじやうじ法師に、讃岐阿闍梨あじやり覚尊と云者、長絹の衣に違袖して、下に腹巻著て、御伴に候けるが、馬より飛で下り奉拘。
 御伴の人々は未追付進せず、黒丸と申舎人計ぞ候ひける。
 覚尊と二人して、相構へて御馬に掻のせ進せんとする処に、飛騨判官景高奉之、鞭を揚てあれ/\と云ければ、郎等落合て、宮の御頸をば取てげり、悲と云も疎也。
 寺法師律浄坊の日印の弟子に伊賀坊、乗円坊の慶秀が弟子に刑部房、残り留て、命も惜まず戦けり。
 白刃を拭に隙なし。
 爰ここにして飛騨判官が郎等多打れにけり。
 律浄坊日印も、打死して失にけり。
 心は猛く思へども、小勢は力及ばずして、伊賀房、刑部房、奈良の方へ落にける。
 彼律浄坊と申は、兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりともの流人に〔し〕て伊豆に御座おはしませし時、忍で諸寺諸山の僧徒に祈を付給たまひけるに、寺には此律浄坊を以て師匠に憑給へり。
 日印八幡宮に参篭する事、千日、無言大般若を読けるに、七百日に当る夜、御宝殿より金の鎧を給と示現を蒙りたりければ、悦をなし、夜を以日に継伊豆国いづのくにへ馳下、此由兵衛佐殿ひやうゑのすけどのに語申。
 聞給たまひて、いか様にも末憑もしき事にこそと夢合し給たまひて、世に候はば思知べしと宣たりけるが、平家滅亡の後に、兵衛佐殿ひやうゑのすけどの三井寺みゐでらへ尋給けるに、治承の比高倉宮たかくらのみやの御伴申て、光明山の鳥居の辺にて打死也と申たりければ、不便の事にこそ、且は祈の師也、又夢の勧賞も宛給はんと思しに、死ける事の無慙さよ、但其人なければとて、兼て存ぜし事争か空かるべきとて、伊賀国山田郷を三井寺みゐでらへ寄られて、律浄坊が孝養報恩無退転とぞ聞ゆる。

季札剣事

 昔異国に季札と云し兵あり。
 呉王の使として、魯国へ行けるに、徐君と云ふ知人の有けるに、一夜の宿を借たりけり。
 家主徐君、季札が帯たる剣に目を係て、口には乞事なかりけれ共、是もがなと思へる気色見えたりけり。
 季札心に思様、吾呉王の使として、他国へ行、ほしがる貌たて如何せん、先与ん事難叶、魯国より帰らん時は、必与んと思て去にけり。
 季札不久して呉国へ帰けるに、又徐君が家に行て角と云ければ、世を早して今はなしと答。
 季札泣悲て、墓はいづくぞと問ば、家僕相具して行。
 塚に松うゑたり。
 是徐君の墓と云ければ、心にゆるしたりし剣なり、死たりとて争か其心を違へんと思て、剣を解、松の枝に懸て、徐君が霊を祭て去、其ためしにぞ似たりける。
 彼は剣を解て松に懸て旧友を祭、是は庄を寄て奉仏師匠を弔ふ、心の中の約束を違ざるこそ哀なれ。

南都騒動始事

 南都の大衆三万さんまん余人よにん御迎に参けるが、先陣は既すでに木津川に著、後陣は猶興福寺こうぶくじの南大門にと聞えければ、御憑しく思召おぼしめしけるに、今五十ごじふ余町よちやう御座おはしましつかで、討れさせ給たまひにけり。
 法皇第二御子なれば、帝位に即て天下の政ましまさん事も難かるべきにあらず、其までこそ御座ざらめ、目の渡り懸御事にあはせ給事、先世の御宿業にこそとは思へども、哀也ける事ども也。
 左大夫宗信は、御身を離れず御伴に候て、三井寺みゐでら宇治までも参たり。
 宮の落させ給ければ、三位さんみ入道にふだうの油鹿毛と云馬に乗て、後進せじと打けれ共、馬弱くて進みえず、敵は後より責懸る。
 無為方馬を捨て、新野池の水の中にはひ入て、草に顔を隠して蛙などの様に泣居たり。
 宮は今は奈良坂にも、かゝらせ給ぬらんと思ける処に、軍兵のけ甲に成て雲霞の如くに帰ける。
 中に、浄衣著たる死人の首もなきが、あふだに舁れて、通を見れば、腰に笛をさせり。
 穴心うや、宮の御むくろにこそ、早討たれさせ給にけりと思て、走出ていだきつき進せんとまで覚けれ共、さすが武士共恐ろしければ其も不叶。
 御笛と云は御秘蔵の小枝也。
 此御笛をば、我死たらん時は必棺に入よと仰けるとぞ、佐大夫後に語たりける。
 大夫は夜に入て、池の中よりはひ出て、はふ/\京へ上にけり。
 甲斐なき命ばかり生て、五十までは官もなかりけるが、正治元年に改名して近江守になり、邦輔とぞ云ける。
 宮の御頸、并ならびに討所の頸共五十ごじふ余捧て、平家の軍兵都へ帰入。
 後は不知ゆゝしくぞ見えし。
 高倉宮たかくらのみや宇治を過て、南都へ越させ給由聞えければ、蔵人頭くらんどのとう重衡、左少将維盛朝臣、五百ごひやく余騎よきの軍兵を卒して、宇治に馳向ける程に、此人々に先立て、忠清ただきよ、景家等かげいへら勝負を決してければ、上は源げん三位ざんみ入道にふだう已下の首を取て入洛しけり。
 未刻に維盛朝臣は重服也ければ、つるばみの袍に衣冠にて東門より参入、重衡朝臣は、冑を著て西門より参上す、両人の装束不同也。
 とりどりにぞ人称美しける。
 合戦の次第御尋おんたづねあり、両人の申詞事多といへ共、頼政よりまさ党類、於平等院びやうどういん追討の趣は一同也。
 晩頭に及で、景家かげいへは頼政よりまさ入道、仲家、嗣、守、助、重等が首を捧げて、八条高倉前さきの右大将うだいしやうの亭に帰参す。
 忠清ただきよ又兼綱、義清、唱法師、配が首をさゝげて、同参しけり。
 左衛門尉さゑもんのじよう重清、又加が首を捕て参入しけり。
 各事柄ことがらいづれもゆゆしくぞ見えける。
 上総守かづさのかみ忠清ただきよ、相国禅門しやうこくぜんもんに申けるは、今度合戦の高名、足利あしかがの太郎たらう忠綱ただつなが宇治川うぢがはの先陣の故也。
 向後の為に、速に勧賞候べしと、細々申ければ、入道大に感じて忠綱ただつなをめし、宇治川うぢがはの先陣返々神妙しんべう、勧賞乞に依べしと宣ふ。
 忠綱ただつな畏て、靭負尉ゆぎへのじよう、検非違使けんびゐし、受領をも申べく候へ共、父足利あしかがの太郎たらう俊綱としつなが、上野十六郡の大介と、新田庄を屋敷所に申候しが、其事空く候き。
 御恩には、同は父が本意をもとげ、身の面目にもそなへん為に、彼両条をゆるし給り候はんと申。
 入道当座に被下知たり。
 忠綱ただつな大に悦〔の〕眉を開て宿所に帰る。
 足利が一門此事を聞て、十六人連署して訴訟す。
 宇治河うぢがはを渡す事、忠綱ただつな一人が高名に非ず、一門不与ば忠綱ただつな争か渡すべき。
 されば勧賞は十六人に配分候べし、忠綱ただつなが大介を不召返ば、向後の御大事おんだいじには忠綱ただつな一人を召れ候べしと、一事に三度まで申たりければ、入道力及給はで、巳時に給たりける御教書を、未刻に被召返けり。
 午時許ぞ有ければ、京童部きやうわらんべが、足利あしかがの又太郎またたらうが上野の大介は、午介とぞ笑ける。
 高倉宮たかくらのみやには常に人の参寄事もなかりければ、見知進たる者もなし。
 先年御悩ごなうの時、御療治ごりやうぢに参たりしかばとて、典薬頭てんやくのかみ定成朝臣を召けり。
 定成大に痛申ければ、さては如何すべきとて、或女房を尋出して、見進すべき由申されけり。
 彼御頸を只一目打見進て、後は兎も角かくも被仰旨はなかりけり。
 只袖を顔に当て臥倒てぞ泣給ふ。
 去こそ一定の御頸とも知にけれ。
 彼女房も御身近く召れ、御子あまた御座おはしませば、不疎思召おぼしめされし御遺の惜さに、替れる御姿也共、今一度見進ばやと、尽せぬ志に引れては参たれ共、見進て後は、中々由なかりける事にやとぞ歎給ける。
 此宮は先年御顔に悪き瘡の出きて、御大事おんだいじに及べかりけるを、典薬頭てんやくのかみ定成参て、目出療治りやうぢし進たりける。
 其御療のあと御座おはしましければ、まがふべくぞなかりける。
 廿五日に摂政殿せつしやうどのより、南都の騒動を為静、有官別当忠成を差遣さる。
 衆徒成憤散々さんざんに陵礫し、衣装を剥取て追出す。
 其上勧学院の雑色二人が本どりを切てげり。
 此事狼藉也、子細あらば訴訟に及べしとて、重て左衛門権佐親雅を御使として下遣す処に、大衆蜂起して、木津川の辺に来向、御使を打はらんなんど云ければ、親雅色を失て逃上けり。
 衆徒狼藉真に法に過たり、直事に非とぞ聞えし。
 同おなじき廿七日にじふしちにちゐんの御所ごしよにて、高倉宮たかくらのみやの御事議定あり。
 左大臣経宗、右大臣兼実、師そつの大納言だいなごん隆季、三条大納言だいなごん実房、中御門大納言だいなごん宗家、堀川ほりかはの中納言忠親ただちか、前源げん中納言ぢゆうなごん雅頼〈聴本座〉皇太后宮くわうたいごうぐう大夫朝方、右兵衛督うひやうゑのかみ家通、右宰相さいしやうの中将ちゆうじやう実守、新しん宰相さいしやうの中将ちゆうじやう通親、堀河宰相頼定卿なんどぞ被参ける。
 蔵人左少弁くらんどのさせうべん行隆仰を奉て、南の簀子に跪て、右大臣に仰て曰、源朝臣以光もちみつ、背勅命園城寺をんじやうじをのがれ、南都に赴く、而彼衆徒同意して、謀国家、仍被遣官兵之間、南都に向処に、官兵と宇治にして合戦す。
 興福寺こうぶくじの衆徒、又同意〈云々〉、依これによつて摂政せつしやう度々被制止之処に、氏院の有官の別当を打擲し、雑色が本どりを切て、長者の命に不随之由成群議、両寺りやうじの罪科何様に可行哉、可定申とぞ仰ける。
 猶子細を尽して後、張本を召れて可罪科之趣、大略一同也。
 此に新しん宰相さいしやうの中将ちゆうじやうは、背勅命国家、早被官兵、可追討定申けるを、師そつの大納言だいなごん之、色を変じて泣れけり。
 思処ありけるにや、議奏の趣一揆せざりければ、行隆為奏聞とて、其座を立て退けり。
 三十日調伏法承て行ける僧共勧賞蒙、権少僧都ごんのせうそうづ良弘大僧都だいそうづに伝し、法眼実海小僧都せうそうづにあがり、勝遍阿闍梨あじやり律師に成されけり。
 又右大将うだいしやう宗盛子息侍従清宗は、三位して三位侍従と云、今年十二に成給ふ。
 二階賞預給ける間、叔父の蔵人頭くらんどのとうにて御座おはしまする重衡より始て、多の人を超給けり。
 宗盛卿むねもりのきやうは此年の程までは、兵衛佐ひやうゑのすけにてこそ御座おはしまししに、是は上達部に至り給へり。
 世をとる人の子と云ながら、一はやくぞ覚えし。
 一人の嫡子などこそ加様の昇進はし給へと、時の人傾申けり。
 聞書には、父前さきの右大将うだいしやうの源みなもとの以光もちみつ、并ならびに頼政よりまさ法師已下、追討の賞とぞ有ける。
 源みなもとの以光もちみつとは、高倉宮たかくらのみやの御事也。
 法皇の王子にて御座おはしまさずと云成して、源の姓を奉り、凡人にさへ奉成事、浅間しとも云計なし。

相形事

 抑相者洽浩五天之雲洪、携九州之風、五行結気成膚成形、四相禀運保寿保神、依これによつて月氏映光、教主釈尊屡応其言、日或伝景太子上宮、剰顕其証、一行襌師者、漢家三密之大祖、円輪満月床傍、審一百廿之篇章、延昌僧正そうじやう者、我朝一宗之先賢、界如三千之窓内、省七十余家よか之施設内外共厲此術、凡聖同弘斯業、なじかは違べき。
 されば昔登乗と申相人ありき。
 帥内大臣ないだいじん伊周をば、流罪相御座と相たりけるが、彼伊周公の類なく通給ける女房の許へ、寛平法皇の忍で御幸成けるを、驚し進せんとて、蟇目を似て射奉りたりければ、被流罪給へり。
 又太政大臣だいじやうだいじん頼道〈宇治殿〉、太政大臣だいじやうだいじん教道〈大二条殿〉二所ながら、御命八十、共に三代の関白くわんばくと相し奉たりけるも、少も不違けり。
 又聖徳太子しやうとくたいしは、御叔父崇峻天皇てんわうを横死に合給べき御相御座と仰けるに、馬子の大臣に被殺給けり。
 又太政大臣だいじやうだいじん兼家〈東三条殿とうさんでうどの〉四男に、粟田関白くわんばく道兼の、不例の事おはしけるに、小野宮の太政大臣だいじやうだいじん実頼、御訪に御座たりければ、御簾越に見参し給たまひて、久世を治給べき由被仰けるに、風の御簾を吹揚たりける間より奉見給たまひて、只今ただいま失給べき人と被仰たりけるも不違けり。
 又御堂馬頭顕信を、民部卿斉信の聟にとり給へと人申ければ、此人近く出家の相あり、為我為人いかゞはと被申たりけるが、終に十九の御年出家ありて、比叡山ひえいさんに篭らせ給にけり。
 又六条右大臣は、白川院【*白河院】しらかはのゐんを見進て、御命は長く渡らせ給べきが、頓死御相御座と申たりけるも違はざりけり。
 さも然べき人々は、必相人としもなけれ共、皆かく眼かしこくぞ御座おはしましける、況や此少納言惟長も、目出めでたき相人にて、露見損ずる事なし。
 されば異名に、相少納言さうせうなごんとこそいはれけるに、高倉宮たかくらのみやをば何と見進たりけるやらん、位に即給べしと申たりけるが、今角ならせ給ぬるこそ然べき事と申ながら、相少納言さうせうなごん誤にけりと申けり。

宮御子達みこたち

 高倉宮たかくらのみやには、腹々に御子あまたまし/\けり。
 宮討れさせ給ぬと披露ありければ、世を恐まし/\て、散々ちりぢりに忍隠させ給、墨染の袖にやつれさせ給けり。
 其中に伊予守盛章の娘の、八条院に候はれける三位殿さんみどのと申けるを、忍つゝ通はせ給けるに、若宮姫宮御座おはしましけり。
 彼三位局をば、女院殊に隔なき御事に思召おぼしめされければ、此宮達をも御衣の下より生立進せ給たまひて、御いとほしき御事にぞ思召おぼしめしける。
 宮御謀叛ごむほん起して失させ給ぬと聞召しより、御子達みこたちも御心迷して、つや/\貢御も進らず、唯御涙おんなみだに咽ばせ給けり。
 御母の三位殿さんみどのも、何なる御事にか聞成奉らんと、肝心も御座おはしまさず、あきれて御座おはしましける程に、池いけの中納言ちゆうなごん頼盛よりもりは、女院の御方に疎からぬ人也けるを、御使にて前さきの右大将うだいしやう宗盛、女院へ被申けるは、高倉宮たかくらのみやの若君の御座おはしまし候なる、渡奉べしと有ければ、女院も三位殿さんみどのも、兼て思召おぼしめし儲たる御事なれ共、今更いかに被仰べきとも思召おぼしめし分ず、只あきれてぞおはしける。
 日比ひごろは朝夕仕る中納言なれども、かく参て申ければ、あらぬ人の様に恐しくぞ思召おぼしめされける。
 いかなる御大事おんだいじに及とも、出奉べしとも思召おぼしめされねば、宮をば御寝所の内に隠し置進せて、係る世の騒の聞えし暁より、比御所には御座おはしまさず、御乳人などの心をさなく奉具失にけるにこそ、何処とも行末しろしめさずと仰られけれども、入道憤深事なれば、大将もなほざりならず被申けり。
 中納言も情をかけ奉り難て、兵共つはものども多く門々にすゑ置て、はしたなき事様也ければ、御所中ごしよぢゆうの上下色を失ひつゝ、いとゞ騒ぎあへり。
 世が世にてもあらばや、法皇へも申させ給べき。
 去年の冬より被打籠まし/\て、御心憂御挙動なれば、如何にすべしとも思召おぼしめさゞりけり。
 若公も少き御心に、事の様難遁や思召おぼしめされけん、是程の御大事おんだいじに及ばん上は、只出させ給へ、我ゆゑ御所中ごしよぢゆうの御煩おんわづらひ痛しと申させ給ければ、女院を始進て、御母の三位の局、女房達にようばうたち老も若も、音を調て泣悲けり。
 心なかるべき女童部をんなわらんべまでも、皆袖をぞ絞りける。
 若宮今年は八にならせ給けり。
 おとなしくも被仰けるこそ哀なれ。
 中納言もさすが岩木ならねば、打しめりて候はれけるに、大将の御許より、如何に/\と使頻しきりに申ければ、頼盛よりもりも打そへ被申けり。
 女院は少しさもやと聞食きこしめす御事有て、同じ御年程なる少者を尋させ給けれ共、大方なかりければ、力及ばせ給はで、若宮を奉渡けり。
 宮をば女院の御前へ請出進せて、御母三位殿さんみどの御気荘進せ、御髪掻靡御ひたたれ奉らせなどして、出立進せ給たまひても唯夢の様に思召おぼしめす
 如何にならせ給はんずるやらんと御心元なければ、尽ぬ御涙おんなみだ計を流させ給ける。
 中納言も、由なき御使也と、いとかなしくぞ被思けるに、若宮既出させ給へり。
 見進すればらふたく厳く御座おはしましけり。
 少き御心にも思召おぼしめし入たる御有様おんありさま悲く思給へば、いとゞ狩衣の袖を絞つゝ、御車の尻に参て六波羅へ奉渡、宮出させ給にければ、女院も三位殿さんみどのも、同枕に臥沈て、湯水をだにも御喉へ入させ給はず。
 これに付ても女院は、由なかりける人を、此七八年手ならし奉りて物を思と、責ての事には悔しくぞ被思召おぼしめされける。
 七八などはさすが何事も思召おぼしめし分べき事ならね共、我ゆゑ大事の出来事をかたはら痛く思召おぼしめして、出させ給ぬる御事の悲さよとて、御涙おんなみだせき敢させ給はず。
 宮六波羅に入せ給たりければ、大将出合見進て、哀なる御事に奉思涙を拭ひ給ければ、宮も御涙おんなみだをぞ流させ給ける。
 池いけの中納言ちゆうなごん頼盛よりもり申されけるは、女院御ふところの中より生立進させ給たりとて、不なのめならず御歎御痛く、心苦思進せ候、ことなる御事なき様に、御計もあれかしと宣へば、大将又此趣を入道に口説被申ければ、仁和寺にんわじの守覚しゆうかく法親王ほふしんわうへ奉渡て、御出家ごしゆつけあり、御名を道尊とぞ申ける。
 彼法親王ほふしんわうは、則後白河院ごしらかはのゐんの御子なれば、此若宮は御甥也、御年十八にして隠させ給にけり。
 又殷富門女院の御所に、治部卿局と申女房の腹に、若君姫君まし/\けり。
 若宮御出家ごしゆつけの後には、安院宮僧正そうじやうとぞ申ける。
 東寺の一長者也、姫君は野依宮と申けり。
 南都にも宮の御渡あり。
 盛興寺の宮をば、書写の宮とぞ申ける。
 又御子一人おはしけるをば、高倉宮たかくらのみやの御乳人讃岐前司重秀が、北国へ具し下し進たりけるを、木曾もてなし奉て、越中国ゑつちゆうのくに宮崎と云処に、御所を造てすゑ進せ、御元服ごげんぶくありければ、木曾が宮とも申、又還俗の宮とも申けり。
 嵯峨さがの今屋殿と申けるは、此宮の御事也。

陀巻 第十六
帝位非人力

 抑昔延喜帝の第十六の御子兼明親王と、村上帝の第八だいはちの御子具平親王とは叔父甥にて、前中書王、後中書王と申奉る。
 賢王けんわう聖主の御子、才智才学目出く御座おはしましき。
 されば前中書王は、後兄の第四の御子、無実に依て城の外に移され給たまひたりけるが、宮も藁屋もとながめ給たまひけるを、理りに思食おぼしめして、王位も詮なしとて、只一筋に仏道をのみ求給たまひて、小椋山の麓に庵を結給たまひ、詩を造り琵琶を弾、御心をなぐさめ給しに、或あるとき晴たる空に雲上り、良暫く有りて雲のたゝずまひ物恐しき中より、青き鬼来て、庇に畏り居たりけり。
 親王御心をしづめ、能々御覧ありけるに、彼鬼恐れたる気色にて、申す言も無りければ、親王何人の何事にかと問給へば、鬼答て申様、吾は是宋朝の作文の博士、好色の遊客也、名を長文成元真と申き、色に耽ては詩を作り、女を恋ては歌を成せり。
 彼好念の積りつゝ、かく青鬼と成侍、而に病の床に臥、最後に及し時、九月尽の露菊を見て、一句の詩を造れり。
  是花中偏愛一レこれははなのなかにひとへにきくをあいするにあらず 此花開後更無
 此花ひらけつきてとこそ作たりしを、当世の人開て後と読侍り、我が所存には非ず、君作文詩歌に長じ御座おはしませば、本意を申入んとて参上する所也とて、雲井遥はるかに去にけり。
 村上の帝、上玄石上の琵琶の秘曲を、廉承武に伝へ給しには、猶まさりてぞ覚ゆる。
 加様に目出めでたき御事に御座おはしまししかども、帝位につかせ給ふ御運は、可然御宿報なれば、さてこそやませ給たまひしか、謀叛をば起させ給はず。
 後三条院ごさんでうのゐんの第三王子輔仁すけひとの親王しんわうは、白河院しらかはのゐんには御弟也。
 目出めでたき人にて御座を、春宮とうぐう御位の後には、必此御子を太子に可立と後三条院ごさんでうのゐん返々白河院しらかはのゐんに御遺言ごゆゐごんありければ、院も慥に御言請あり。
 親王の宮も必御譲を受させ給ふべき由思食おぼしめしけるに、東宮とうぐう実仁、永保元年八月十五日に、御年十一にて御元服ごげんぶくありしが、応徳二年二月八日、十五にて隠れさせ給しかば、後三条院ごさんでうのゐんの任御遺言ごゆゐごん、三宮輔仁すけひと太子に立せ給べかりしを、無其御沙汰ごさた
 承保元年十二月十六日じふろくにちに、白川院【*白河院】しらかはのゐんの一宮敦文親王御誕生ごたんじやう、今上后腹の、一御子にて御座おはしまししかば、太子に立せ給べかりしか共、承暦元年八月六日、御とし四歳にて失給けり。
 同三年七月七日、堀川院ほりかはのゐん御誕生ごたんじやうあり。
 同年十一月三日、親王の宣旨を下されにければ左に右に三宮被引違給へり。
 堀川院ほりかはのゐんも八歳まで太子にも立せ給はず、親王にて、応徳三年十一月二十六日にじふろくにちに、受御譲させ給たまひて、軈其その春宮とうぐうに立せ給。
 寛治三年正月五日、御年十一にて御元服ごげんぶく有けり。
 三宮は御位こそ不叶共、太子にもと思召おぼしめしけるに、寛治元年六月二日、三宮陽明門院にて御元服ごげんぶく有しに、太子の御沙汰ごさたにも及ばざりしかば、輔仁すけひとの親王しんわう御位空して、仁和寺にんわじの花園と云所に住せ給けり。
 白川【白河】しらかはの法皇ほふわうより、何にいつとなく、さ程に引籠らせ給にか、時々は御出仕なんども候べしとて、国庄あまた被進ける御返事おんへんじに、
  はなあり獣山中友、無愁無歎世上情
と申させ給たり。
 すべて詩歌管絃に長じ御座おはしまししかば、世にもなく官もなき人々は、院内の御事よりも、中々珍しく奉思て、参通人多かりければ、時人三宮の百大夫とぞ申ける。
 御位相違有しか共、世の乱はなかりし者を、三宮の御子花園左大臣有仁を、白川院【*白河院】しらかはのゐんの御前にて元服げんぶくせさせ進せ、源氏の姓を奉らせ給たまひて、無位むゐより一度に三位して、やがて中将になし奉けり。
 是は三宮輔仁すけひとの親王しんわうの御怨を休奉り、又後三条院ごさんでうのゐんの御遺言ごゆゐごんをも恐させ給けるにこそ。
 一世の源氏無位むゐより三位し給事は、嵯峨さがの天皇てんわうの御子陽成院大納言だいなごん定卿の外無其例

満仲まんぢゆう西宮殿にしのみやどの

 冷泉院御位の時、覚御心もなく、御物狂はしくのみ御座おはしましければ、ながらへて天下を知召さん事もいかゞと思食おぼしめしけるに、御弟の染殿式部卿宮しきぶきやうのみやは、西宮にしのみやの左大臣の御聟にておはしけるを、能人にて渡らせ給と申ければ、中務丞橘敏延、僧連茂、多田ただの満仲まんぢゆう、千晴など寄合て、式部卿宮しきぶきやうのみやを取奉て東国へ赴、軍兵を起即位進せんと、右近の馬場にて夜々よなよな談議しける程に、満仲まんぢゆう心替して此由を奏聞しけるに依て、西宮殿にしのみやどのは被流罪給にけり。
 敏延は播磨国を賜らん、連茂は一度に僧正そうじやうにならんとて、係る事を思立けり。
 満仲まんぢゆう返り忠しける事は、西宮殿にしのみやどのにて敏延と満仲まんぢゆうと、相撲を取りけるに、満仲まんぢゆう力劣にて、格子に被抛付顔を打欠たり。
 満仲まんぢゆう安思て腰刀を抜て敏延を突んとしける。
 敏延高欄のほうだてを引放て、近付ばしや頭を打破らんとて、立袴て有ければ、満仲まんぢゆう力さて止ぬ。
 時の人あゝ源氏の名折たりと云ければ、敏延を失はんとて返忠したりといへり。
 西の宮殿みやどのは聊も不知召けるを、敏延失ん為に、讒訴の次に式部卿宮しきぶきやうのみやの御舅なればとて讒申けるを、一条左大臣師尹、殊に申沙汰して、西宮にしのみやの左大臣を流して、其所に成替給たりけるが、幾程もなく声の失る病をし、一月余り悩て失給にけり。
 僧連茂をば検非違使けんびゐし召捕て、拷器に寄て謀叛の意趣を責問けり。
 余あまりの難堪さに、連茂音を上て、南無なむ帰命頂礼きみやうちやうらい、金剛こんがう瑜伽ゆが秘密教主、胎金両部、諸会聖衆、伝燈阿闍梨あじやり耶、竜猛竜智助給へ/\と唱へければ、上乗密宗の力にて、拷器も笞杖も折砕てこそ失にけれ。

仁寛流罪事

 白川院【白河院】しらかはのゐんの御子、全子内親王ないしんわうをば、二条皇太后宮くわうたいごうぐうとぞ申しける。
 鳥羽院とばのゐんは康和五年正月十六日じふろくにちに御誕生ごたんじやう、同八月十七日じふしちにちに東宮とうぐうに立せ給たまひて、嘉承二年七月十九日、御年五歳にて位に即せ給ければ、御母代とて内裏に渡らせ給けるに、其御方に、永久元年十月の比、落書あり。
 折節をりふし怪童の有けるを、搦て問ければ、醍醐の勝覚僧都そうづの童、千手丸也。
 人の語に依て、侵君進せんとて、常に内裏にたゝずむなりとぞ申ける。
 法皇大に驚思食おぼしめし、検非違使けんびゐし盛重もりしげに仰て千手丸を被推問
 醍醐寺の仁寛阿闍梨あじやりが語也と申す。
 彼仁寛は三宮の御持僧也。
 御位の恩宿願を遂させ給はんが為に、或青童の貌、或内侍の形にて、日夜に奉便宜き。
 不叶して今かく成侍ぬとぞ落たりける。
 やがて仰盛重もりしげ仁寛を召捕て、公卿くぎやう僉議せんぎあり。
 罪斬刑に当るといへ共、死罪一等を減じて、遠流に定、仁寛をば伊豆国いづのくに、千手丸をば佐渡国へぞ被流ける。
 さしも重科の者なれ共、かく被寛ける事、皇化と覚て止事なし。
 其上縁者の沙汰ありけるを、大蔵卿おほくらのきやう為房ためふさ参議にて僉議せんぎの座におはしけるが、加程の悪逆あくぎやく必しも父母兄弟の結構けつこうにあらじ、然者しかれば罪科歟と被申たりければ、当座の諸卿皆為房卿ためふさのきやうの議に同ずとて、縁者の沙汰はなかりけり。
 為君に忠あり、為人に仁あり、為房卿ためふさのきやう子孫繁昌し給ふも、理也とぞ人申ける。
 昔も浅増あさましき様ありけれ共、及子孫事はなかりき。
 高倉宮たかくらのみや討れさせ給ぬれば、今は何条事かは有べきなれども、小宮々も角成せ給けるこそ糸惜けれ。
 六条殿と申す女房の御腹に、法皇の御子おはしけり。
 故建春門院けんしゆんもんゐんの御子にし進て、七歳にて、安元あんげん元年七月五日天台座主てんだいざす快修僧正そうじやうの御房へ入進て、釈子に定まし/\けれ共、未御出家ごしゆつけはなかりけり。
 高倉宮たかくらのみやも角成給ぬ。
 其御子達みこたちも捜取れさせ給と聞えければ、穴恐とて日次の御沙汰ごさたにも不及、周章あわて騒て剃落し進けり。
 今年は十二歳にぞ成せ給。
 係る乱の世也ければ、無御受戒、只沙弥にてぞ御座おはしましける。

円満院ゑんまんゐんの大輔たいふ登山事

 円満院ゑんまんゐんの大輔は、宇治の軍を脱出て、本寺に帰て息つぎ居たりけるが、三位さんみ入道にふだう父子眷属を始て、衆徒も多く討れ、又宮も中流矢うせ御座おはしまし、其宮々も一々に被尋出給ぬと聞て、つく/゛\物を案ずれば、山僧さんそうの心替より角成ぬと不安思へり。
 如何となれば、伝教師資の流を汲み、円頓実教の法を学しながら、勅使といひ戒壇と云、御灌頂ごくわんぢやうと云、赤袈裟と云、事に於て山僧等さんそうらが為に被妨て無安心処に、今又同心の由承伏して忽たちまちに変改、御運の尽ると云ひながら、口惜事也。
 本より異儀を存ぜば、急南都へ奉遷、などか遂本意ざるべき。
 今寺門の失面目事、生々世々しやうじやうせせの怨敵也、速に登山して、堂舎仏閣悉ことごとく磨滅の煙となさばやと大悪心を発、燧付茸硫黄など用意して、燧袋にしつらひ入、形を修行者法師に造成して、山門へこそ忍登れ。
 先根本中堂こんぼんちゆうだうに参て、内外東西見廻つゝ、此にや火をさすべき、彼にや炬火を投べきと思廻し、暫く正面に虚念誦して居たりけるが、不断の燈明光を並べ、三部の長講音澄めり。
 最貴覚て案じけるは、抑此伽藍がらんと申は、我等われらが祖師伝教でんげう大師だいし建立こんりふの寺院、生身の医王常住の精舎也、智証大師の御作、七仏薬師しちぶつやくしの霊像も此堂に安置せり、忠仁公の梵釈四天、准三公の十二神将じふにじんじやうも御座、縦末学雖意趣、争か祖師の本尊を奉失べきなれば、此伽藍がらんは叶はじと思返して、中堂ちゆうだうを出て大講堂だいかうだうに臨で伺見ば、大厦の棟梁天に挟、四面の采椽雲に懸たり。
 何に火を差べし共覚ざる上、本尊を拝すれば、胎蔵の大毘廬遮那坐し給へば、左右に弥勒観音の脇士立給へり。
 紫金膚を研て、白豪光円也。
 仏法ぶつぽふ擁護の四天あり。
 大聖文殊の聖僧あり。
 嗚呼ああ此伽藍がらんを忽たちまちに灰となさん事の悲さよと思ければ、又此を出て惣持院に入るに、塔もあり堂もあり。
 堂は是秘密真言の霊場、胎金両部熾盛光等の大曼陀羅まんだらを安置せり。
 塔は又多宝全身の霊廟れいべう、胎蔵の五仏座を並べ、法華の千部を奉納せり。
 遠くは大唐の青竜寺に准へ、近くは本朝鎮国の道場を開けり。
 人こそ悪からめ、争か国家守護の霊室を失べきと思て、此を出でて彼に渡、彼を去て此に来見廻ば、法華常行は両堂軒を並べ、戒壇四王は両院甍を交たり。
 文殊楼、延命院、五仏院、実相院、或は大師大徳の御作、一人三公の建立こんりふ、或は三密瑜伽ゆがの道場、一乗いちじよう読誦どくじゆの精舎也。
 功能何もとりどりに、御願ごぐわん誠に品々也。
 杉吹渡る風の音、実相の理をや調ぶらん、草葉に置る露の色、無げ価の玉をぞ研たる。
 谷に並る松坊は、稽古修学の窓なれや、尾を隔たる草庵は、円頓観解の砌みぎり也。
 大輔は是を見彼を拝つゝ、穴貴の所やと信心忽たちまちに発て、帰敬の思萌ければ、大講堂だいかうだうの軒の下に立帰、我にはよく天魔の付にけるなり、何ぞ一旦の以我執、十乗の峰を亡、永劫の苦因を殖て、無間の底に入らん、縦興隆の心こそなからめ、豈及破滅企と、心に心を恥しめて、懺悔の涙を流けり。
 既本寺に帰けるが、余執又起て、是迄思立ぬる事を、空く人にも知られざらんは無念也、三塔に披露せんと思て、大講堂だいかうだうの柱に続松を結付て、札を制してぞ立たりける。
 其詞に曰、日比ひごろ山門園城をんじやうの我執を存し、当時牒送変改の遺恨に依て、三塔を焼払やきはらはんが為に数日登山の処に、倩案らく、一乗いちじよう一味の法門は、三塔三井の所学也、山門寺門の伽藍がらんは、祖師大師の建立こんりふ也、何ぞ磨滅の煙を立て、空く荒廃の塵を遺んと、仍無益偏執を閣て、速に有心に放火を止ぬ、円満院ゑんまんゐんの大輔たいふ源海と書て、大講堂だいかうだうの大鐘鳴して下にけり。
 満山の大衆鐘に驚、谷々坊々騒動して講堂かうだうの庭に会合し、大輔が所為を見て、志の之ところ所存誠に不敵也、邪を翻て正に帰る情ありとぞ感じける。

三位さんみ入道にふだう歌等附昇殿事

 源げん三位ざんみ入道にふだうは、ゆゝしく計ひ申たりけれ共、遠国の者までは不云、近国の源氏だにも急ぎ打上る者一人もなし、山門の大衆は心替しつ、不其先途、風吹ば木不安と、世の煩人の歎、為身為家、無由事申勧まゐらせて亡ぬる者かなと、貴賤口々に申けり。
 彼入道と申は、清和せいわの帝の第六皇子貞純親王の二代の苗裔、多田ただの新発意しんぼち満仲まんぢゆうが子、摂津守つのかみ頼光らいくわうが三代の後胤、参河守頼綱が孫、兵庫頭ひやうごのかみ仲正が子也、保元の合戦の時、御方にて一方の先陣を賜り、凶徒きようとを退たりけれども、指る勲功の賞にも不預、怨を含ながら、大内の守護して年久く成、地下にのみして殿上をゆりされざりければ、
  人しれぬ大内山の山もりは木がくれてのみ月を見るかな
と読て進たりければ、不便なりとて、四位しゐして昇殿を免る。
 始て殿上を通りけるに、ある女房の、
  つき/゛\しくもあゆぶものかな
と云たりければ、頼政よりまさとりあへず、
  いつしかに雲の上をば蹈なれて
と申たりければ、優に甲斐々々しと感じけり。
 又四位しゐの殿上人てんじやうびとにて、久く世に仕へ奉けるに、述懐仕て、
  上るべきたよりなければ木の本に椎を拾ひて世を渡るかな
と申たりけるに依て、七十五にて三位を被免て後、先途既すでに遂ぬとて、出家して源げん三位ざんみ入道にふだうともいはれけり。
 大方此頼政よりまさは、歌に於ては手広者にぞ被思召おぼしめされける。
 鳥羽院とばのゐんの御時に、宇治河うぢがは、藤鞭、桐火桶、頼政よりまさと、四題を下させ給。
 一首に隠して進よと勅定ありけるに、
  宇治川うぢがはのせゞの淵々落たぎりひをけさいかに寄まさるらん
と申たりければ、時の人、我々は一題をだにも、一首に隠はゆゝしき大事なるに、あまたの題を程なく仕たる事、実に難有と感じ申けり。
 君もいみじく仕りたりと、叡感有けり。

菖蒲前あやめのまへの

 殊に名をあげ施面目ける事は、鳥羽院とばのゐんの御中に、菖蒲前あやめのまへとて世に勝たる美人あり。
 心の色深して、形人に越たりければ、君の御糸惜も類なかりけり。
 雲客うんかく卿相けいしやう、始は艶書は遣し情を係事隙なかりけれ共、心に任せぬ我身なれば、一筆の返事、何方へもせで過しける程に、或あるとき頼政よりまさ菖蒲あやめを一目見て後は、いつも其時の心地して忘るる事なかりければ常に文を遣しけれども、一筆一詞の返事もせず。
 頼政よりまさこりずまゝに、又遣し/\なんどする程に、年も三年に成にけり。
 何にして漏たりけん、此由を聞食きこしめしに依て、君菖蒲あやめを御前に召、実や頼政よりまさが申言の積なると綸言ありければ、菖蒲あやめ顔打あかめて御返事おんへんじ詳ならず、頼政よりまさを召て御尋おんたづねあらばやとて、御使有て召れけり。
 比は五月の五日の片夕暮許也。
 頼政よりまさは木賊色の狩衣に、声華に引繕て参上、縫殿の正見の板に畏て候ず。
 院は良遥許して御出ありけるが、じつはふの者には物仰にくければとて、殊に咲を含ませ御座おはします
 何事を被仰出ずるやらんと思ふ処に、誠か頼政よりまさ菖蒲あやめを忍申なるはと御諚あり。
 頼政よりまさは大に失色恐畏て候けり。
 院は憚思ふにこそ、勅諚の御返事おんへんじは遅かるらめ、但菖蒲あやめをば誰彼時の盧目歟、又立舞袖の追風を、徐ながらこそ慕ふらめ、何かは近付き其験をも弁べき。
 一目見たりし頼政よりまさが、眼精を見ばやとぞ思食おぼしめしける。
 菖蒲あやめが歳長色貌少も替ぬ女二人に、菖蒲あやめを具して、三人同じ装束同重になり、見すまさせて被出たり。
 三人頼政よりまさが前に列居たり。
 梁の鸞の並べるが如く、窓の梅の綻たるに似たり。
 頼政よりまさよ其中に忍申す菖蒲あやめ侍る也、朕占思召おぼしめす女也、有御免ぞ、相具して罷出よと有綸言ければ、頼政よりまさいとゞ失色、額を大地に付て実に畏入たり。
 思けるは、十善の君はかりなく被思食おぼしめさるる女を、凡人争か申よりべかりける。
 其上縦雲の上に時々なると云とも、愚なる眼精及なんや、増てよそながらほの見たりし貌也、何を験何ぞなるらん共不覚、蒙綸言賜も尾籠也、見紛つゝよその袂たもとを引きたらんもをかしかるべし、当座の恥のみに非、累代の名を下し果ん事、心憂かるべきにこそと、歎入たる景色顕也ければ、重て勅諚に、菖蒲あやめは実に侍るなり、疾給たまひて出よとぞ被仰下ける。
 御諚終らざりける前に、掻繕ひて頼政よりまさかく仕る。
  五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引ぞわづらふ
と申たりけるにこそ、御感の余に竜眼より御涙おんなみだを流させ給ながら、御座を立たせ給たまひて、女の手を御手に取て、引立おはしまし、是こそ菖蒲あやめよ、疾く汝に給也とて、頼政よりまさに授させ給けり。
 是を賜て相具して、仙洞を罷出ければ、上下男女歌の道を嗜ん者、尤かくこそ徳をば顕すべけれと、各感涙を流けり。
 実に頼政よりまさと菖蒲あやめとが志、水魚の如にして無二の心中也けり。
 三年の程心ながく思し情の積にやと、やさしかりし事共也ければ、京童部きやうわらんべ申けるは、二人の志わりなかりけるこそ理なれ、媒が痛見苦もなければとぞ咲ひける。
 伊豆守いづのかみ仲綱なかつなは、即彼菖蒲あやめが腹の子也。

三位さんみ入道にふだう芸等事

 又打物に取て名を揚る事ありき。
 悪右衛門督あくうゑもんのかみ信頼のぶよりが天下に秀たりし時、殿上の刻み階に、夫男一人立たり。
 信頼のぶより彼は何に狼藉也と申ければ、掻消様に失ぬ。
 某に一の剣あり。
 信頼のぶよりくせ事也と思て、宝物の御剣にも候らん、焼鐔の剣ならば、山をも岩をも可破崩とて、此剣を抜御坪の石を切るに、剣七重八重にゆがむ。
 曲なき者也とて、温明殿うんめいでんの縁に棄置れぬ。
 折節をりふし頼政よりまさ参会たり。
 信頼のぶより之、いかに剣は見知給へるかと申。
 頼政よりまさ弓矢取身にて侍る、如形知たる候と云。
 其時少輔内侍と云ふ以女房、大床に棄置所の剣を被召寄けるに、曲たる剣忽たちまちに直て、鞘に納る。
 不思議也とて頼政よりまさにみせらる。
 頼政よりまさ打見て仰て、まめやかの御剣也、朝家の御守たるべし、其故は太神宮に五の剣あり、当時内裏に御座おはします、宝剣は第二の剣、是は第三の剣也、但頼政よりまさいかゞして神剣を知侍るべきなれ共、作人に依て剣体を知、其上今夜の夜半におよびて、天の告示給事あり、国を守らん為に皇居に一の剣を奉る、即宝剣是也、亡国の時は、此剣又宝剣たるべし、為用意権剣と見て候。
 折節をりふし今日御剣出現之条、併国の御守と覚ゆと申。
 其時信頼卿のぶよりのきやうふしぎ也と思ひ、さらば剣の徳を施給へと云。
 頼政よりまさ霊剣自由の恐ありといへ共、仰にて侍ば、何事をか仕べきと申。
 御前の坪の石をと聞ゆ。
 畏てとて頼政よりまさ彼石を切かけず散々さんざんに切破て、見参に入奉る。
 禁中さゝめき上下驚目。
 信頼のぶより始は欺て云たりけれ共、今は恐くぞ思ける。
 さて剣の咒返を満て、鞘にさして温明殿うんめいでんに移し置る。
 加様に勘申けれども、不肖に被思召おぼしめされければ、頼政よりまさが言を不信。
 元暦二年三月廿四日に、宝剣浪の底に沈ませ給たまひて後、彼剣宝剣と成し時こそ頼政よりまさ実に非直者と被思召おぼしめされけれ。
 世下つて後も頼政よりまさ程の者なかりけり。
 諸道を不疎、立る能ごとに不威と云事なし。
 花鳥風月弓箭兵仗、都てこのみと好む事、名を揚げ人に勝れたり。
 就なかんづく弓矢に験を顕はしき。
 後白河院ごしらかはのゐん第一御子をば二条院とぞ申ける。
 去久寿二年九月廿三日、御歳十三にて、春宮とうぐうに立せ御座おはしまし、保元三年八月十一日、御年十六にて御即位ありけるが、平治二年の夏の始より御不予ごふよの御事まし/\けり。
 五月上旬の比は、御悩ごなう殊外に取頻らせ給たまひて、夜深人定る程には、俄にはかに必おびえたまぎらせ給けり。
 異説云、仁安元年の春の比、可春宮とうぐう御即位由有其沙汰、此東宮とうぐうと申は高倉院たかくらのゐんの御事也。
 五条ごでう高倉に栖せ給ければ、高倉宮たかくらのみやとぞ申ける、同年四月中旬より、宮御悩ごなうありと云云。
 一院不なのめならず歎思食なげきおぼしめして、諸寺諸山にして、御祈おんいのりを始め、医師に仰て、御薬を勧め参せけれ共、更に其験ましまさず見えければ、東三条とうさんでうの森より、黒雲一叢立来、南殿の上に引覆、ぬえと云鳥の音を鳴時に、必振ひたまぎらせ給たまひけり。
 天下の大なる歎也ければ、日夜に諸卿参内ありて、各僉議せんぎあり。
 有験の験者にて可祈歟、以博士送歟なんど取々に被申けるに、徳大寺とくだいじの左大臣公能の被申けるは、目に不見物ならば可祈祭、是は目の当也、弓の上手を以て射さすべき歟。
 其故は去寛治年中に、堀川院ほりかはのゐん御悩ごなうの事御座おはしましき、療治りやうぢも祈祷も叶はざりけるに、公卿くぎやう僉議せんぎありて、此御悩ごなう直事、以武士大内を可警固とて、八幡太郎はちまんたらう義家よしいへに仰す、義家よしいへ勅て、甲冑を著し弓箭を帯して、南庭に立跨殿上を睨で高声に、清和せいわの帝には四代の孫、多田ただの新発意しんぼち満仲まんぢゆうが三代の後胤、伊予守頼義らいぎ入道が嫡男、前陸奥守源みなもとの義家よしいへ、大内を守護し奉、いかなる悪霊鬼神なり共、争望をなすべき、罷退けと名乗懸て、弓の絃を三度鳴したりければ、殿人も階下も身毛竪て覚けるに、御悩ごなうたちまちに癒させ給けり。
 去ば是は怪鳥か変化か、目に顕たる者也、以武士射さすべき也とぞ被勘申ける。
 大臣公卿此義最可然とて、弓の上手を勝られけり。
 源平の中に何なるべきぞと義定有けるに、石廉将軍が末葉に、大和国やまとのくにの住人ぢゆうにん石川次郎秀廉を召されけり。
 秀廉庭上に参て蒙綸言云、天下に媚物あり、殊なる朝敵也、深夜に及で明見仕れと被仰下
 秀廉畏て勅諚謹承候畢。
 此身旧宅に住して、名字既すでに故人に通、蒙勅命事、生前の面目に侍、但弓箭年旧て、其手未練也、先祖を尋送らるといへ共、末代尤難叶。
 勅命を承て、不朝敵ば、弓矢の名絶なん事、当時一身の歎のみに非、先祖の将軍が威を失はん事、大なる恥也。
 然ば蒙御免侍ばやと嘆申ければ、関白殿くわんばくどの汝が痛申処、実に不便也。
 但綸言と号して、鬼神を鎮め夷賊を平る例是多し。
 当今の御代に至て、仏法ぶつぽふ王法互に相対せり、などか以朝威仕、自由の辞状尤罪科也。
 天下の勝事に身を惜は、在王土其詮、速に配所へとぞ被仰下ける。
 石河次郎秀廉、失面目罷出ぬ。
 其後誰をかと有僉議せんぎ
 関白殿くわんばくどのの仰に、頼光らいくわうが末葉、頼政よりまさ器量の仁に当れりとて、源兵庫頭ひやうごのかみを召れけり。
 頼政よりまさは例の歌道の御会にやとて、木賊色の狩衣になり、見澄して参たり。
 深夜に臨で媚物あり、玉体を奉侵、及其期明見仕と仰ければ、頼政よりまさ畏承候ぬとて、御前を罷立て、近衛川原このゑかはらの宿所に帰る。
 本の装束脱替て、朝敵を鎮る形にぞ出立ける。
 生衣の捻重に黄なる大口、葉早黄色の直垂をぞ著たりける。
 彼直垂には、左の肩には八幡大菩薩はちまんだいぼさつと縫、右の肩には山鳩をぞ縫たりける。
 産衣と云鎧を著て、男山三度奉伏拝、其後鎧をば脱置て、直垂小袴計也。
 郎等に丁七唱、遠江国住人ぢゆうにん早太と云者二人を相具したり。
 唱は小桜を黄にかへしたる腹巻を著せ、十六指たる大中黒の矢の、おもてに水破兵破といふ鏑矢二つ差、雷上動といふ弓を持せたり。
 水破といふ矢は、黒鷲の羽を以てはぎ、兵破といふ矢をば、山鳥の羽にてはぎたりけり。
 早太には骨食といふ太刀を、ふところにささせたり。
 水破兵破雷上動と云弓箭は、是大国の養由やういうが所持也。
 彼の養由やういうとは、楚国の者、秦王の時の人也。
 大聖文殊の化身也。
 或あるとき文殊養由やういうに有対面いはく、汝は我化身也、吾汝に一徳ををしへんとて、文殊双眼の精を取て二の鏑に作れり。
 五台山の麓に、両頭の蛇一つあり。
 信敬慙愧の衣の糸を、八尺五寸の絃により係て、一張の弓をなし、多羅葉をとりあつめて、直垂と云物に作りきる。
 今の葉早黄色と云ふは是也。
 柳葉を的として、射術を教給故に、天下無双の弓の上手にて、養由やういう弓をとれば雁列を乱り、飛鳥たちまちに地に落つるいきほひありき。
 而養由やういう七百歳を経て、天下を見案ずるに、雲州に我弓矢をつたふべき仁なし、娘の桝花女と云ふ女に、是を伝置て、其身むなしく去りにき。
 桝花女命尽なんとする時に、弓の弟子を尋ぬるに、本朝にあり。
 今の摂津守つのかみ頼光らいくわう是也。
 或あるとき頼光らいくわう昼寝したりけるに、天より影の如なる者下て、我が養由やういうより所伝の弓箭を帯せり、汝にさづけんとて巨細を語りて去りぬ。
 夢醒て傍を見れば、件の弓矢直垂あり。
 頼光らいくわう是を傅得て弓の徳を施すに、更に我が養由やういうが芸に劣らず、頼光らいくわうより頼国〈美濃守〉頼綱〈参河守蔵人〉仲政〈兵庫頭ひやうごのかみ下総守〉頼政よりまさ〈三位〉まで、子孫相傅して五代也、先祖の重宝也。
 身に取て一朝の大事不之とて、加様に用意して参る。
 目にも見えぬ媚物を、而も五月の暗夜に射よとの勅命、弓取の運の極と覚たり。
 天の下に住乍蒙朝恩、器量の仁と被撰、非辞申とて、主従三人出けるが、頼政よりまさ早太、我所存汝得たりやと問ければ、先立存知仕て侍、今度殿下より蒙仰給たまひ、媚物を殿上にて一矢に射損じたらば、二の矢に可射、殿下、去ば軈やがて似骨食、我御頸を給たまひて出よとこそ被思召おぼしめされ候らめ、振舞侍べしと申ければ、汝が言は是大菩薩だいぼさつの御託宣ごたくせんとこそ覚ゆれ。
 憑むぞよとて宿所を出て、陣頭に参じ、河竹呉竹の北南にて、明見仕る景気、誠に優にして頬魂ひ武勇の大将と見たり。
 頼政よりまさ宣旨を蒙て、媚物射んずる見よとて、公卿殿上人てんじやうびと参集、堂上堂下内外男女、市をなせり。
 今や/\と通夜是を待、子の刻も過ぬ、丑の刻の半に及で、如例東三条とうさんでうの森より、黒雲一叢立渡、御殿の上に引覆としければ、主上はほと/\と振ひ出させ給たまひけり。
 頼政よりまさは黒雲とは見たれ共、天は実に暗し、いづくを射るべしと矢所さだかならず、心中に帰命頂礼きみやうちやうらい八幡大菩薩はちまんだいぼさつ、国家鎮守ちんじゆの明神、祖族帰敬の冥応に御座おはします〔と〕、頼政よりまさ頭を傾けて年久、今蒙勅命怪異を鎮めんとす、射はづしなば、速に命を捨べし、氏人々々たるべくは、深守となり御座おはしませと、男山三度伏拝み心を静めて能見れば、黒雲大に聳て、御殿の上にうづまきたり。
 頼政よりまさ水破と云ふ矢を取て番て、雲の真中を志て、能引て兵と放つ、ひいと鳴て、かゝる処に、黒雲頻しきりに騒いで、御殿の上を立、ぬえの声してひゝなきて立所を見負て、二の矢に兵破と云鏑を取て番ひ、兵と射る。
 ひいふつと手答して覚ゆるに、御殿の上をころ/\ところびて、庭上に動と落。
 其時に兵庫頭ひやうごのかみみなもとの頼政よりまさ変化の者仕たりや/\と叫ければ、唱つと寄て得たりや/\とて懐たり。
 貴賤上下女房男房、上を下に返し、堂上も堂下も紙燭を出し炬火をとぼして見之。
 早太寄て縄を付、庭上に引すゑたり。
 有叡覧に癖物也。
 頭は猿背は虎尾は狐足は狸、音はぬえ也。
 実に希代の癖物也。
 苟禽獣も加様の徳を以て奉君事の有ける事よ、不思議也とぞ仰ける。
 見聞の男女は口々に、頼政よりまさあ射たり/\とぞ嘆たりける。
 彼変化の者をば、清水寺の岡に被埋にけり。
 主上の御悩ごなうたちまちに宜成らせ給にければ、鳥羽院とばのゐんより有御伝ける、師子王と申御剣に御衣一重脱そへて、関白くわんばく太政大臣だいじやうだいじん基実公もとざねこうを御使にて頼政よりまさに被下けり。
 頼政よりまさは階の三階に右の膝を突、左の袂たもとを擁て、畏て是を拝領す。
 五月廿日余あまりの事なるに、折知がほに敦公ほととぎすの一声二声ふたこゑ、雲井に名乗て通けるを、関白殿くわんばくどの聞召きこしめして、
  敦公ほととぎす名をば雲井にあぐるかな
と、仰せければ、
  弓はり月のいるにまかせて
と、頼政よりまさ申たり。
 五月やみ雲井に名をもあぐるかなたそがれ時も過ぬと思ふに と、異本也。
 実に弓矢を取ても並なし、歌の道にも類有じと覚たり。
 大国の養由やういうは、雲上の雁を落し、我朝の頼政よりまさは深夜のぬえを射る、弓矢の全事取々にぞ覚たる。
 加様に上下万人に被嘆、七十に余三位して、今年七十七、何なる楽に栄ありとても、今幾程か有べき。
 子息仲綱なかつな受領して、伊豆国いづのくに知行し、丹波には五箇庄給たまひて、家中も楽く人目も羨れてこそ有つるに、無由事勧申て子孫までも亡ぬるこそ不便なれ。
 馬ゆゑとは申ながら、非直事、偏ひとへに怨霊の致す処也とぞ歎ける。

三井僧綱そうがう召附三井寺みゐでら焼失事

 三井寺みゐでらにも、南都にも、猶尻引あて、悪徒あくとの張本召るべき由其沙汰あり。
 昔より山門の大衆こそ、横紙をやり、非分の訴を致に、今度は不宣旨平家、南都園城をんじやうには或は宮を入進、或は御迎に参つゝ、狼藉斜なのめならざりければ、太政だいじやう入道にふだう大に安からぬ事に思ひ宣のたまひけり。
 殊に南都にも深く鬱て、殿下の御使を散々さんざんに陵礫せり、是又たゞ事にあらずと覚たり。
 廿一日園城寺をんじやうじ円恵ゑんけい法親王ほふしんわう〈後白河院ごしらかはのゐんの御子〉天王寺の別当被止。
 其上彼寺の僧綱そうがう、公請を被停止、以使庁使、張本を被召けり。
 被院宣云、園城寺をんじやうじ悪僧等、違背朝家、忽企謀叛、依これによつて門徒もんと僧綱そうがう已下、皆悉停止公請、解却見任并ならびに綱徳兼亦末寺庄園及彼寺僧等私領、仰諸国之宰史、早可収公、但於限寺用者、為国司之沙汰彼寺、所司任其用途、莫退転恒例仏事、無品円恵ゑんけい法親王ほふしんわう、宜止所帯天王寺検校職けんげうしきとぞ有ける。
 僧綱そうがうには、一乗院僧正そうじやう房覚をば、飛騨判官景高承て召之。
 常陸法印実慶をば、上総判官忠綱ただつな承、中納言法印行乗をば、博士判官章貞承る。
 真如院法印能慶をば、和泉いづみの判官仲頼承。
 亮法印真円をば、源げん大夫判官だいふはんぐわん季貞承。
 美濃僧正そうじやう覚智をば、摂津判官盛澄承。
 蔵人法橋勝慶をば、祇園博士大夫判官たいふはんぐわん基康承。
 宰相僧正そうじやう公顕をば、出羽判官光長承、僧正そうじやう覚讃をば、斎藤判官友実承、明王院僧都そうづ乗智をば、新志明基承、右大臣法眼実印をば、仁府生経広承、中納言法眼勘忠、大蔵卿おほくらのきやう法印行暁両人をば紀府生兼康かねやす承、各水火の責にぞ及ける。
 二会講師には、円全、性猷、澄兼、公胤〈已上四人〉被止公請、学生十八人じふはちにん、被罪名
 高倉宮たかくらのみや三井寺みゐでらに籠らせ給に依て、衆徒も多く被誅、宮も亡びさせ給たまひぬ。
 僧綱そうがうさへ公請を止られければ、哀入道の失滅よかし、耳にも聞じ目にも見じなど、園城をんじやうも南都も大衆蜂起騒動すと聞えければ、東国の乱逆を前に抱て、園城寺をんじやうじを攻べしと聞ゆ。
 頼朝よりともの謀叛には、尤南都北嶺に仰て、天下安穏の祈をこそ可仰付、入道の憤深ければ、其事既すでに治定すと有披露
 三院の大衆会合僉議せんぎして、大関小関堀塞で、垣楯をかき逆茂木引て、構城郭じやうくわくたり。
 十一月十二日、頭とうの中将ちゆうじやう重衡大将軍として、一千いつせん余騎よきの軍兵を率して、三井寺みゐでらへ発向す。
 大衆も思儲たる事なれば、大関小関二手に造て防戦けれ共、大勢に打落されて、大衆法師原ほふしばらに至るまで、死ぬる者八百はつぴやく余人よにん、重衡勝に乗て、寺中に乱入、坊舎に火を係たれば、南中北の三院、金堂、講堂かうだう、神社、仏閣、一宇も不残焼にけり。
 本覚院、鶏足院、常喜院、真如院、桂園院、尊星王堂、普賢堂、青竜院、大宝院、新熊野、同拝殿護法善神の社壇、教待けうだい和尚くわしやうの本坊、同御身像七宇の鐘楼、二階にかい大門八間四面の大講堂だいかうだう、三重一基宝塔、阿弥陀堂、唐院宝蔵山王宝殿、四足一宇四面廻廊、五輪院、十二間大坊、三院各別灌頂院くわんぢやうゐん、惣〔じて〕坊舎塔廟六百三十七宇ろつぴやくさんじふしちう、大津の在家二千八百五十三宇にせんはつぴやくごじふさんう、速にたい煙たいえんとなるこそ悲けれ。
 仏像二千にせん余体、経巻幾千万ぞ数を不知。
 文徳天皇てんわうの御宇ぎよう仁寿三年に、智証大師自入唐して、渡し給へる唐本の一切経、七千しちせん余巻よくわんも焼にけり。
 顕密須臾に亡て、大小の書籍も失にけり。
 三密瑜伽ゆがの道場もなければ、振鈴しんれい声を断て、一夏安居の仏前もなければ、供花の薫も絶にけり。
 宿老しゆくらう碩徳の明師は怠行学、受法相承の弟子は、経巻に別れぬ。
 或は漫々たる浮海、船と共にこがるゝ大衆もあり、或は峨々たる峯に上て、嵐と同咽僧侶もあり、仏宝僧宝忽たちまちに亡つゝ、在家出家歎悲けり。
 抑三井寺みゐでら者是、近江国志賀郡、擬大領大友夜須良麿が私の寺たりしを、天武天皇てんわうの御願ごぐわんに奉寄附、本仏も彼時の御本尊、生身の弥勒と申しを、教待けうだい和尚くわしやう百六十年行ひ給たまひて、其後智証大師の草創也。
 係目出三井の法水も忽たちまちに亡ぬるこそ悲けれ。
 天智天武持統三代の帝の御産湯の水をくみたりける故に三井寺みゐでらと名たり。
 大師此所を伝法灌頂くわんぢやうの霊地として、井花の水を汲事、慈尊の朝、三会の暁を待ゆゑに、三井寺みゐでらとも申とかや。
 角止事なき聖跡に、兵俗乱入つゝ、塵灰となす事、有心人皆歎けり。
 況寺門老少の心の中、推量りても哀なり。

遷都附将軍塚しやうぐんづか附司天台事

 治承四年五月廿九日には、都遷あるべき由有其沙汰
 来月三日福原へ行幸と被定仰下けり。
 日頃ひごろも猿荒増事ありと私語ささやきけれ共、指もはやと思ける程に、既すでに被仰下ければ、京中貴賤迷是非ひ、周章あわて騒つゝ、更にうつゝとは覚えず。
 兼ては六月三日と有披露しに、俄にはかに二日に被引上ける間、供奉の人々上下周章あわて騒て、取物も不取敢とりあへず、東関の雲の夕、西海の波の暁、仮寝の床の草枕、一夜の名残なごりも惜ければ、跡に心は留りて、思を残す事ぞかし。
 久此京に住馴て、始て旅だたん事倦ければ、外人には世に恐ていはざりけれ共、親き族は寄合て、額を合て泣悲、何なるべし共覚ねば、各袖をぞ絞ける。
 二日既行幸あり、入道の年来執通給たまひける所なるに依て也。
 中宮、一院、新院、摂政殿せつしやうどのを奉始、公卿殿上人てんじやうびと供奉、三日と有披露だにも、忙かりしに、今一日引上られける間、御伴の上下いとゞ周章あわて騒、取物も不取敢とりあへず、帝王の稚御座には、后こそ同輿には召に、是は御乳母おんめのとの平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやうの北方、師の内侍と申ぞ被参ける。
 先例なき事也と、人欺申けり。
 係儘には法皇道すがら御心細、御涙おんなみだせきあへさせ給はず、ゆゝしく木影の繁き森を御覧じて、此は何所ぞと御尋おんたづねあり。
 近く候ける人、広田大明神だいみやうじんの社也と奏ければ、こは猿事にこそと思召おぼしめして、今度無別御事、都へ有還御、政務如元ならば、御所近奉祝と有御祈念けるこそ哀なれ。
 御心中計の御事なれば人は此事をば不知けり。
 三月池いけの大納言だいなごん頼盛よりもりの家を皇居と定て、主上渡らせ給ふ。
 同四日頼盛よりもり家の賞を蒙て、正二位しやうにゐし給へり。
 九条左大臣兼実の御子、右大将うだいしやう良通越られ給へり。
 法皇をば福原に三間なる板屋を造て、四面に波多板し廻して、南に向て口一つ開たるにぞ居進ける。
 筑紫武士、石戸の諸卿種直が子に、佐原の大夫種益奉守護けり。
 一日に二度如形供御を進せけり。
 懸ければ此御所をば、童部わらんべは楼御所とぞ申ける守護の武士厳かりければ、輙人も不参、鳥羽殿とばどのを出させ給しかば、くつろぐやらんと思召おぼしめしけるに、高倉宮たかくらのみやの御謀叛ごむほんの事出来て、又角のみ渡らせ給へば、こは如何しつるぞや、心憂とぞ思召おぼしめしける。
 今は世の事もしろしめし度もなし、花山法皇の御座おはしましけん様に、山々寺々をも修行して、任御心御座おはしまさばやとぞ被思召おぼしめされける。
 鳥羽殿とばどのにてはさすが広かりしかば、慰む御事も有し物を、由なく出にける者哉と思食おぼしめしけるも、責の御事と哀なり。
 抑神武天皇じんむてんわうは天神七代を過、地神五代御末、葺不合尊の御譲を受させ給つゝ、人代百王の始の帝にまし/\しが、辛酉歳日向国宮崎郡にて、皇王の宝祚を継給へり。
 五十九年と申し、己未年十月に東征して、豊葦原中津国に留り御座、近来大和国やまとのくにと云は是也。
 高市郡、畝傍山を点じて、帝都を立、橿原の地を伐払て、宮室を作り給き。
 即橿原の宮といへり。
 自爾以降、代々の帝王、都を移さるゝ事、三十度に余り、四十度に及べり。
 神武天皇じんむてんわうより景行天皇けいかうてんわうまで十二代は、大和国やまとのくに所々に宮造して遷御座おはしましき。
 景行天皇けいかうてんわうの御宇ぎように、大和国やまとのくに纏向日代宮より、近江国志賀郡に被遷、穴穂宮を造り給。
 仲哀天皇てんわう二年の九月に、穴穂宮より長門国に移されて、豊浦宮に御座おはします。
 神功皇后じんぐうくわうごうの御宇ぎように、大和国やまとのくに十市郡に被移て、稚桜宮に御座おはします
 仁徳天皇てんわう元年に、同国軽島豊明宮より、摂津国つのくに難波に移されて、高津宮に住給。
 履中天皇てんわう二年に、大和国やまとのくに十市郡へ帰御座おはします
 反正天皇てんわう元年に河内国へうつされて、柴垣の宮に御座おはします。
 允恭天皇てんわう四十二年に、又大和国やまとのくにへ帰て遠明日香宮に御座おはします
 安康天皇てんわう三年、同国泊瀬朝倉宮に御座おはします
 其後六代は同国所々に住給ふ。
 継体天皇てんわう五年に、山城国、筒城に移されて十二年、其後乙訓住給ふ。
 宣化天皇てんわう元年に猶大和国やまとのくにへ帰て、檜隈廬入野宮に御座おはします
 欽明天皇てんわうより皇極天皇てんわうまで七代は、大和国やまとのくに郡々に宮居して、他国へは不還給
 孝徳天皇てんわう大化元年に、摂津国つのくに長柄にうつされて、豊崎宮に御座おはします
 斉明天皇てんわう二年に又大和国やまとのくにへ帰つて、飛鳥岡本の宮に御座おはします
 天智天皇てんわう六年、近江国に被移て、志賀郡大津宮に住給ふ。
 天武天皇てんわう元年に、大和国やまとのくにに帰て、岡本宮に御座、是を飛鳥の浄見原きよみはらの宮と申。
 持統天皇てんわうより光仁天皇てんわうまで、九代は猶大和国やまとのくに奈良の都に住給ふ。
 桓武天皇てんわうの御宇ぎよう、延暦えんりやく三年十月に、山城国に遷されて、長岡宮に十年御座おはしましけるが、此京狭とて、同おなじき十二年正月に、大納言だいなごん藤原小黒丸、参議左大弁さだいべん紀古作美、大僧都だいそうづ賢けいらを遣して、当国の中、葛野郡宇太村を見せらる。
 三人共に奏して申、此地は左青竜、右百虎、前朱雀、後玄武、一も闕ず、四神ししん相応の霊地也と、依これによつて愛宕郡に御座、賀茂大明神かものだいみやうじんに被告申、同おなじき十三年に、長岡京より此平安城へ遷給たまひて以来、都を他所へ不遷、帝王三十二代、星霜四百しひやく余歳よさい也。
 昔より多の都ありけれ共、此京程に地景目出く、王業久かるべき所なしとて被遷たり。
 末代までも此京を他所へ遷されぬ事や在るべきとて、大臣公卿、賢者才人、諸道の博士等を被召集て、有僉議せんぎ
 長久なるべき様とて、土にて八尺の人形を造、鉄の甲冑を著せ弓矢を持せて、帝自土の向人形祝申させ給けるは、必此京の守護神となり給へ、若未来に此都を他所へ移す事あらば、竪く王城を守其人を罰せよと被宣命て後、東山の峯に深一丈余あまりの穴を堀て、西向に立て被埋けり。
 将軍塚しやうぐんづかとて今にあり。
 去ば天下に事出来、兵革興んとては、兼て告知しむる習あり。
 嵯峨さがの天皇てんわうの御宇ぎよう、大同五年に他国へ遷されんとし給しかば、公卿くぎやう僉議せんぎ有て、奉諌し上、貴賤騒歎しかば、さてこそ止給けれ。
 一天の君万乗の主、猶御心に任給はず、凡人の身として輙も思企給けるこそ浅猿あさましけれ。
 柏原天皇てんわうと申は、平家の先祖に御座おはします
 先祖〔の〕帝のさしも執し思召おぼしめし〔給〕ける都を、他国へ移給しもおぼつかなし。
 此京をば平安城とて、文字には平ら安き城と書り。
 旁以難捨。
 就なかんづく主上上皇共に平家の外孫にて御座、君も争か捨させ給べき。
 是は国々の夷共責上て、平家都に跡をとゞめず、山野に交べき瑞相にやとぞ私語ささやきける。
 将軍塚しやうぐんづかの守護神、争か可怒、只今ただいま世は失なんず、心憂事也。
 平家専もてはやすべき都をや。
 入道天下を手に把り、心の儘に振舞給ける余り、当帝を奉下、我孫を位に付進、法皇の第二の王子高倉宮たかくらのみやを奉誅御首おんくびを切、太政大臣だいじやうだいじんの官を止て奉関白殿くわんばくどの、我聟近衛殿このゑどのを奉摂政せつしやう、惣て卿相けいしやう雲客うんかく、北面の下﨟に至まで、或は流し或は死し、自由の悪行数を尽して、今又及遷都けるこそ不思議なれ。
 守護の仏神豈禀非礼給はんや、四海の黎民其歎幾許ぞ。
 犯人者有乱亡之患、犯神者有疾夭之禍と云本文あり、恐々といへり。
 就なかんづく福原と云は平安城の西也、今年大将軍在酉、方角既に塞れり、いかゞ有べきと申人ありければ、陰陽博士安倍季弘に仰て、勘文を被召ける。
 勘状に云、
 本条云、大将軍王相不遠近、同可避諸事、然而至于遷都者、先例不之歟、桓武天皇てんわう、延暦えんりやく十三年十月廿一日に、自長岡京、遷都於葛野京、今年大将軍為北之分、当王相方、然者しかれば延暦えんりやく之佳例之、雖大将軍之方、何可其憚哉とぞ申たる。
 聞之人々舌を振て申けるは、延暦えんりやくの遷都に御方違ありき。
 但永此城を捨られんには、強に方角の禁忌の不沙汰
 勘文を召るゝならば、何様にも可御方違者ぞ。
 季弘が勘状矯飾の申状歟。
 倩案事情、昔唐に司天台とて高二十丈の台を造、天文博士を置れたり。
 太史天変を見て、吉凶を奏する官也。
 漢元帝、成帝、父子二代之間、政無道ぶだうにして天変頻也。
 北辰光少く、五星煌々として、赤事如火、芒を耀し、角を動して、三台を射る上、台半ば滅て、中台折たり。
 是必世乱国亡べき天変也。
 司天の大史是を見るといへ共、無道ぶだうの君に恐て、毎明光殿、只慶雲寿星とて、御悦来、御寿永かるべき天変とのみ奏せしかば、政を正事なくして、終に国乱帝亡給にけり。
 去ば季弘も入道の無道ぶだうの政に恐つゝ、方角の禁忌をも不申けるにやとぞ、人唇を返ける。
 新都行幸の供奉に参ける人の、旧都の柱に書つけたりけるは、
  百年をよかへり迄に過こしに愛宕の里は荒や果なん
行幸既すでにならせ給ければ、諸卿已下衛府諸司しよし供奉せり。
 何者なにものの態なりけるにや、東寺の門の道ばたに、札を立たり。
  咲出づる花の都をふり捨て風ふく原の末ぞあやふき
 行幸の御門出に、いま/\しくぞ見えし。

礼巻 第十七
福原京事

 治承四年六月九日福原の新都の事始あり。
 上卿は後徳大寺ごとくだいじの左大将実定、宰相には土御門の右中将通親、奉行には頭右中弁うちゆうべん経房、蔵人左少弁くらんどのさせうべん行隆也。
 河内守光行、丈尺を取て輪田の松原西の野に、宮城の地を定めけるに、一条より五条ごでうまで有て、五条ごでう已下は其所なし、如何が有べきと評定ありけるに、通親勘て、三条大路をひろげて十二の通門を立。
 大国にも角こそしけれ、吾朝に五条ごでうまで有ば、何の不足か有べきと被申けれ共、不事行して行事の人々還にけり。
 去ば昆陽野にて可在歟、印南野にて可有歟と、公卿くぎやう僉議せんぎ有けれ共、未定也。
 先里内裏可造進とて、五条ごでうの大納言だいなごん邦綱卿くにつなのきやう、周防国を給たまひて、六月二十三日に事始して、八月十日棟上と被定申けり。
 彼大納言だいなごんは大福長者にて御座おはしましければ、造出さん事左右に及ねども、そも争か民の煩、人の歎なかるべき。
 殊に指当りたる大賞会を閣て、かかる乱に遷幸遷都、内裏造営、山海の財力の尽ぬるのみに非ず、人民の侘際いくそばくぞ。
 楚起気花之室而黎民散、秦興阿房之殿而天下乱といへり。
 いさ/\危とぞ申ける。
 堯王天下を治め給けるには、茅茨不剪、採椽不けづらず、舟車不かざらず、衣服無文といへり。
 昔唐驪山と云ふ所あり。
 山の上に宮室あり。
 朱楼の構紫殿のあやつり、様々最珍しくして、遅々たる春の日は、玉甃暖にして、温水溢て、嫋々たる秋の風には、山の蝉啼て宮樹紅なり。
 かゝる目出めでたき砌みぎりにて、代々の聖主、折々の臨幸も不絶けり。
 憲宗皇帝位に即御座おはしまして、五年まで終に行幸なし。
 去儘には垣にはつたしげり、瓦に松生にけり。
 一人行幸あれば、六宮相従ひ百官供奉する習なれば、人の煩たやすからず、君一日の臨幸の費をかぞふるに、民千万の家の財にも過たりとて、終に御幸も無りけり。
 是皆国の費を思召おぼしめし、民の歎を休めんとの御恵なり、入道いかなれば世を治思を忘れ、人を助る心なかるらんとぞ申ける。
 新都は繁昌して人屋軒を並けれ共、旧城は只荒にあれ行て、適残れる家々も、門前草深して、庭上露しげし。
 空き跡のみ多ければ、稚兎の栖と成替り、紫蘭の野辺とぞまがひける。
 太政だいじやう入道にふだうは善事にも悪事にも思立ぬれば、前後をも顧ず、人の諌をも用給ふ事なし。
 時々は物くるはしき心地もありけるにや、懸る遷都までも思立給たまひけり。

祇王祇女仏前事

 世に白拍子と云者あり。
 漢家には虞氏、楊貴妃、王昭君など云しは、是皆白拍子也。
 吾朝には鳥羽院とばのゐんの御宇ぎように、島の千歳、若の前とて、二人の遊女舞始けり。
 始には直垂に、立烏帽子たてえぼし、腰の刀を指て舞ければ、男舞と申けり。
 後には事がら荒しとて、烏帽子えぼし腰刀を止て、水干に袴ばかりを著て舞。
 其比京中第一の白拍子あり、姉をば祇王、妹をば祇女と云。
 天下無双の舞姫と披露しければ、入道彼等を召す。
 劣ぬ弟子ども二三人同車どうしやして、祇王祇女参れり。
 五人の女侍所に并居たり。
 入道先景気を見れば、紅顔色鮮にして、白粉媚を造れり。
 容貌品こまやかにして蘭麝の匂なつかし。
 舞歌へと宣のたまひければ、
  蓬莱山には千歳経る、万歳千秋重れり、松の枝には鶴巣食、巌の上には亀遊
と、同音に歌ひ澄したりければ、入道興に入給へり。
 頻鳥の音和かに、仙女の袖妙なりければ、見れども聞ども飽べしと不覚とて、姉の祇王を殿中に召置て最愛せり。
 妹の祇女も、姉の光によりて、洛中に耀り。
 寵愛の余、親はいかなる者ぞと問れければ、童も母も元は遊者にて閉と申けるが、年闌齢傾て、六条堀川ほりかはなる所に、しづかなる有様ありさまにて侍ると申。
 さては糸惜き事やとて、筑後守ちくごのかみ家貞いへさだに仰て、衣裳絹布の類を送遣はすのみに非ず、毎月に時料雑事を運入。
 かゝりければ、家中大に栄て、従類眷属来集る。
 色立る者の争か加程の幸有べきとて、かたへの遊人申けるは、実や祇と云文字をばかみとよむ也。
 神は人に翫、うやまはるゝ上、神には人恐る事なれば、吾われらもあへものにせんとて、祇一、祇二、祇三、祇福、祇徳など名を付けるこそ笑しけれ。
 角て家富人恐れたり。
 三人の心の中、置処なく、目出めでたき事に思程に、天下無双の能者出来れり。
 仏御前と云者の歌を聞舞を見る者、目を迷し耳を峙つ。
 祇王祇女には、雲泥を論じて勝りとぞ云ける。
 或あるとき太政だいじやう入道にふだうの亭へ推参して、家貞いへさだして申入る。
 折節をりふし一門群集して、酒宴の場也。
 入道宣のたまひけるは、左様の遊者なんど云者は、可召事也、罷出よと宣へば、仰の上は罷出侍るべけれ共、世人の、仏こそ此御所より追出され参せて、恥に及ぶと申侍らん事の道狭く覚侍、又憂身の事はさのみあれ、などや御情おんなさけをば忘させ給ふべきと申たれ共、いや/\祇王此中にあり、舞も歌も争かまさるべき。
 縦仏ともいへ神ともいへ、名にはめづまじ、急出よと宣ふ。
 此上は仏罷出けり。
 祇王入道に申けるは、我身も経候し道也、いかに本意なく侍らん、童殿中に有事をば仏も知りて侍、上にはさもと思召おぼしめしつらめども、祇王が妬心にて、申留たるにこそと思侍らんも恥し。
 道を立る者折を伺ひて推参尋常の事也、君に召おかれ進せざりし時は、童も推参をのみこそし候しか、何となく御目にかゝりて見参に入たりしうれしさ、空く罷出しはづかしさ、只今ただいまの仏御前が心の中、被推量て、糸惜く侍り、何か苦かるべき、見参して舞一番御覧じ侍れかしと、わりなく口説申ければ、左も右も祇王が計とて、安部資成を以て、遥はるかに帰りたる仏を被召返て宣のたまひけるは、罷出よと云つるを、祇王が吾経し道也、召返せと様々云つれば仏に見参するぞ、折節をりふし吾前に杯あり、何にても一申せと聞ければ、
  君を始て見時は、千代も経ぬべし姫小松、御前の池なる亀が岡に、鶴こそ群居て遊なれ
と、折返折返三度歌ひたりければ、入道祝すまされて興に入給へり。
 あゝ思には似ず、目出仕たり。
 祇王にも劣らず、歌の音のよさよ、いしゝ/\と嘆られたり。
 さらば舞一番と宣へば、仏は水干に白き袴著て、髪結あげ調子取負せて、
  徳是北辰 椿葉影再改 樽猶南面 松花色十返
と朗詠しけり。
 広廂に筵しかせて、器量の侍に鼓うたせて、仏祝の白拍子かずへて舞澄したり。
 其事がらは髪ながくして色白く、形こまやかにして媚多し。
 楊貴妃が花の眼、李夫人が蓮の睫、夏野の萩の風に靡く有様ありさま、翠の山に月の出るよそほひなり。
 りん袖りんしうとはなのそで翻りて、彩雲の翠嶺を廻が如し。
 絢袂じゆんべいとぬひもののたもとひらめきて、碧浪の蒼浜にたゝめるに似たり。
 入道は始より横目もせず、打頷許々々よだれとろ/\垂して見入給へり。
 天性入道は善事にも悪事にも前後をば顧ず、逸早き人にて、心の中に舞の終を遅々とぞ待給ける。
 責ての歌に、
  よしさらば心の儘につらかれよさなきは人の忘がたきに
 謡て舞ければ、戯呼入道が上をこそ舞れぬれとて、手を揚て是へ/\とぞ請じ給ふ。
 仏は是を聞ぬ由にて猶責けるを、入道座を立手を取て引居たり。
 遠ては中々思はぬ心もありつるに、近く置て見給へば、情を柳髪の色に染れば、春の思乱やすく、心を蘭質の手に移せば、秋の露屡脆し。
 緑の黛花の形、絵に書とも筆も及がたかりければ、入道自横懐に抱て、帳台の内へ入給ふ。
 仏と名をば付たれど、三明さんみやう六通悟らねば、忙れ迷たる様也けり。
 さても申けるは、是はうつゝならぬ御事かな、祇王御前の御言の伝にこそ御目にもかゝる事にて候へ、いかゞさる事侍べき、忘ぬ御事ならば、後にこそ召に随進めと、深痛て候けれ共、賞新棄旧世のさが人癖なれば、入道更にゆるし給はず、左も右も吾云にこそ随はめ、祇王に憚るにこそとて、源げん大夫判官だいふはんぐわんを使にて、日来ひごろはさこそ申侍りしかども、移れば替る習なれば、今は力不及、御内を出べしとぞ宣のたまひける。
 祇王は夢うつゝ弁煩たり。
 泣々なくなく申けるは、去ば人の為には能ても有なん、悪ても有べし。
 抑只今ただいま罷出侍ば、片辺の遊者共が、門前市を成て、さ見つる事よと申さんも心憂侍るべし、晩を待侍らばやと申。
 入道去けしからぬ人にて、いや/\疾罷出よ、吾出家入道の身也、今より後は一筋に、仏を崇憑むべし、仏を崇る程にては、片時も祇王無詮、急々と使頻しきりに立ければ、入道の常に見給たまひける障子に思つゞけて、
  萌出るも枯も同じ野べの草いづれか秋にあはで有るべき
と、書捨てこそ出にけれ。
 其後は夜かれ日かれもし給はず、仏が寵愛はしかまに染る褐の色、竜田山の紅葉よりも猶色深くぞ成給ふ。
 さても日来ひごろ経て仏申けるは、祇王が吾ゆゑ御内を出され進せて、いかに怨と思候らん、此御所に参て御目にかゝり進する事も、かのことの葉の末に依候けるに、情は怨に引替て、さこそ本意なく思らめ、時々被召て心をも慰め、歎をもやすめさせ給へと申しければ、左もありとて彼宿所へ使を遣して、急参れといはせければ、祇王心憂事に思ひて、返事も不申。
 使角と申せば、入道大に嗔て、祇王不思議也、いかに我使をやりたらんに、いなせの返事せざるべき、此内を出たるを限とや、色を立る女、一日なり共入道に目をかけられたるは、難有面目にこそあれ、千年万年の契とや思べき。
 仏が此にあればとて、返事を申さぬか、急参れ、仰に不随ば、可相計とて、あらゝかに使を遣はしたり。
 祇王は情こそかはらめ、加程にや宣ふべきと思ければ、理に過て泣居たり。
 母の閉泣々なくなく教訓しけるは、西八条殿にしはつでうどのは世にも腹悪人にて、思立給事は横紙をやぶらるゝぞかし、一天四海上﨟も下﨟も誰か其命を背、況や加様の身々として、一夜の契とてもおろかなるべきか。
 年来有難世を過しつるまかなひも、偏ひとへに入道殿にふだうどのの御恩也。
 されば日来ひごろの情を思にも参るべし。
 後の難も恐しければ参るべし。
 さらでは老たる親に憂目見せ給ふな。
 入道殿にふだうどのの御心としては、女なればとてよも所をば置給はじ、早出立給へとて、使には急参るべしと母ぞ返事は申ける。
 祇王はよにも心うく辱しき事なれば、淵瀬に身をも入ばやと思けれ共、母の事を思ひてこそ、今まで消もうせなであれ、再入道殿にふだうどのへ参べしとは思はざりけれ共、誠にも我ゆゑ母の肝心を迷はさんも不孝なりとて、妹の祇女と同車どうしやして、六波羅へ参りたり。
 入道は仏をそばに居て、人々と酒宴して御座おはしましけり。
 祇王祇女をば一長押落たる広廂にすゑられたり。
 仏は打うつぶきて目も見上ず。
 祇王は寵愛こそきはまらめ、居所をさへさげらるゝ心うさに、打しめりてぞ候ける。
 入道宣のたまひけるは、如何に遅は参たるぞ、仏をすゑ置たればとて、怨思か、宿世の道は今に始ざる事ぞ、努々思べからず、折節をりふし仏が前に杯あり、一申て強よと宣ふ。
 祇王承りて、
  仏も昔は凡夫なり、我等われらも終には仏なり、三身仏性具しながら、隔つる心のうたてさよ
と折返折返三返までこそ歌ひたれ。
 是には入道めでずもや有けん、満座哀を催して、袂たもとを絞る者もあり。
 入道打うなづき給たまひて、景気の今様をば、いしくも歌うたる者哉、此歌は雑芸集と云文に書れたるはさはなし。
 三四の句はよけれ共、一二の句を引替て、仏も昔は凡夫也、我等われらも終には仏とうたふは、二人が阻られたる所を云にや、猶も聞あかず、今一度と宣ふ。
 何度も仰にはとて、
  君があけこし手枕の、絶て久く成にけり、何しに隙なくむつれけん、ながらへもせぬもの故に
と、是を二返ぞ歌ひたる。
 入道又打頷許、此歌は侍従大納言だいなごん、師中納言の娘に相具して、契あさからざりしに、何程もなくして別つゝ、歎の余に作り出してうたひし今様也。
 それには我等われらがあけこし手枕のとこそ有に、一の句を引替て、君があけこし手枕と歌ふ事は、入道が所を思なぞらへてうたふにや、それをば祇王は如何にとして知たりけるぞ、加様の事は時に取て上手ならでは叶ふまじ、あはれ祇王は今様は上手かな、上代にも聞及ばず、末代にも有難とぞほめ給ふ。
 さて此後は不召とも常に参て、舞舞歌うたうて仏慰よ、よし/\罪深く仏な怨そと宣ふ。
 祇王祇女宿所に帰て、母に云けるは、角て浮世にあればこそかゝる憂目をも見候へ、墓なき此世と知ながら、何を憑てすまふらん、蜻蛉の有か無かの身を持て、朝露のおけば消えける命也、女は心やなかるべき、姿を替んと思也とて、僧を請じ翠の髪を剃落し、墨の衣に袖替て、廿一と申に実の道にぞ入にける。
 妹の祇女も是を見て、十九と申しし年、同尼にぞ成にける。
 母の閉は、此を見彼を見廻して、涙を流、若人だにも思ひ切、角成給ふ、老て何をか期すべきとて、共に尼に成つゝ、西山嵯峨さがの奥、往生院と云所に、柴の庵を結つゝ、草葉の露の身を宿〔と〕して、三人菩提を欣つゝ、九品の行業不退也。
 日西山に没時は、遥はるかに十万億刹の土を思、風嶺松を吹折は、近く常楽我浄の観を凝す。
 六時の礼讃声澄て、朝暮の念仏いと貴し。
 都には祇王祇女は世を恨、尼に成て行方不知と披露あり。
 仏是を聞、心憂や、さしも盛の人々の、花の袂たもとを脱替て、墨染の袖にやつれけん事の悲さよ、吾故角成ぬれば、思ひ歎は吾身にこそは積るらめ、移れば替世の習、吾身とても憑なし、縦偕老の幸なりとても、あだに墓なき世の中は、兎ても角ても有ぬべし。
 哀此人々の住居たらん所を聞出て、同道にも入ばやとぞ思ける。
 月日の重なる儘に、さすが都近き程なれば、嵯峨さがの往生院にとぞ聞ける。
 仏は入道の宿所をば忍て紛出て、自髪をはさみ落て、衣うちかづき、遥々はるばると路柴の露かき分て、嵯峨さがの奥へぞ尋入る。
 夜深人定て、柴の編戸を扣けり。
 内より人立出て、誰人ぞ、いぶせき夜のそら、あやしの草の戸に、尋来べき人なし、恐ろしや天狗ばけ物などにやと云ければ、我身は太政だいじやう入道殿にふだうどのに候ひし遊者の仏と申女也。
 我故御身々を捨て、憂名を流しはて、角住居給へりと聞つれば、誰故ならんと被歎て、人しれず同道にと思取、是迄参たりと云。
 門を開て庵室に入、纏頭たる衣を脱たれば、遠山の黛は、かきながら乱ねども、翠の黒髪は鋏刀落して尼なりけり。
 祇王祇女泣々なくなく申けるは、浮世を厭ひ実の道に入ても、猶迷の心の悲さは、思歎は絶ずして、仏だになかりせば、かゝる憂目は見ざらましと、つらき我身を顧ず、只人の御事のみうらめしかりつるに、角思立給ける有難さよ、是も然べき善知識にこそ、今は妄念晴ぬとて、四人頭をさしつどへ、通夜こそ泣明しき。
 さても一所に籠居て、他事なく勤行ひけり。
 入道是をも知らず、仏を失たりとて、是は如何せんとぞ被歎ける。
 洛中辺土旁へ人を遣しつゝ、仏をぞ尋給ふ。
 仏も尼に成て、往生院にと聞給ければ、糸惜かりし仏なれば、尼とても何かは苦きと宣のたまひけれ共、其事無沙汰にてやみにけり。
 此尼上達四人、往生の志深して、行業功重りければ、遅速こそ有けれ共、本意に任せ終り不乱念仏して、西に聳雲に乗、池に開る蓮にぞ生ける。
 後白川【後白河】ごしらかはの法皇此由聞召、哀に貴事なりとて、六条長講堂の過去帳に被入て、比丘尼祇王二十一、祇女十九、閉四十七、仏十七と、今の世までも読上、訪ひ御座おはします事こそ憑しけれ。
 大安寺の過去帳にも入と云々。
 加様に何事にも掲焉人にて、思立給ぬれば、人の制止にも不拘、後悪からんずる事をも顧ず、適被諌申し小松殿こまつどのは失給ぬ。
 心に任て振舞給たまひければ、遷都も思立給けるにこそ。

新都有様ありさま

 〔去さるほどに〕治承四年六月二日、都を福原へうつされて、既すでに八月にも成にけり。
 平安の故郷は日に随て荒行、公卿殿上人てんじやうびと上下の北面に至るまで、人々の家々、或筏に組、或は舟に積て漕下る。
 所々に家居しけれ共、福原の新都も未ならず、有とある人は皆浮雲の思をなせり。
 本より此所に住ける者は、田畠を失ひ、屋舎を壊て愁、今移居たる人は、土木の煩旅宿を悲て歎く。
 路の辺を見れば、車に乗べきは馬に乗、衣冠を著すべきは直垂を著たり。
 都の振舞忽たちまちに廃れて、ひたすら武士に不異、旧都には皇太后宮くわうたいごうぐうの大宮おほみや、八条中納言長方卿ばかりぞ残留給へる。
 長方卿は世を恨る事御座おはしまして、供奉し給はず、只一人留給たりければ、京童部きやうわらんべは留守の中納言とぞ申ける。
 其外は浅増あさましき下﨟の力もなき計ぞ在ける。
 去儘に目出かりし都なれ共、小路には堀々切て逆木を引、車などの通べき様もなし。
 適過る人も、小車に乗道をへてぞありきける。
 夏闌秋にも成ぬ、月日過行とも、世は猶しづかならず。
 理也、上荒下困勢不久、宗社之危如綴旒〔と〕云文あり。
 宗社とは、先祖宗廟の祭也。
 綴旒とは、旗の足と云事也。
 宗廟の祭あやふければ、国の治らざる事、旗の足の風に吹るゝが如に、安堵せずと云にや、平家の振舞いかゞ有べかるらんと覚束おぼつかなし。

隋堤柳事

 昔隋煬帝、片河の岸に柳を植事、一千三百里、河水に竜舟を浮べ、船の中に伎女を乗て、永く万機の政を忘て、偏ひとへに佚遊を恣にし給へり。
 紫髯の郎将は錦の纜をまふり、青蛾の御女おんむすめは紅楼にあそびけり。
 海内の財力尽、百姓大に泣悲、万国忽たちまちに乱て、諸侯権を諍ければ、大唐の李淵軍を起して、煬天子を亡しゝかば、隋の代永絶にけり。
 去ば上政を忘れば、下必苦む、上下道調らざれば、国の勢久しからじ。
 故に宗社之危事如綴旒とは云なるべし。
 福原の遷都の事、天下の煩海内の歎也。
 当家他家の公卿殿上人てんじやうびとより、上下の北面に至まて、人並々には下りたれども、一人も安堵の思はなし、常は心騒てぞ有りける。

人々見名所々々月

 八月十日余に成て、新帝の供奉の人々つれ/゛\を慰煩、名所の月を見んとて、思々に行別る。
 或は住江、住吉すみよし、難波潟、葦屋の里にうそぶき行人もあり。
 或源氏大将の跡を追、須磨より明石に浦伝ふ人もあり。
 和歌、吹上、玉津島、月落かゝる淡路島、松風はげしき高砂の、波間をわたる人もあり、浦路を通ふ人もあり。

実定上洛事

 其中に後徳大寺ごとくだいじの左大将実定は、旧都の月を恋わびて、入道に暇乞、都へ上給けり。
 元より心数奇給へる人にて、浮世の旅の思出に、名所名所を問見てぞ上られける。
 千代に替らぬ翠は、雀の松原、みかげの松、雲井にさらす布引は、我朝第二の滝とかや。
 業平中将の彼滝に、星か河辺の蛍かと、浦路遥詠けん、何所なるらん覚束おぼつかな、求塚と云へるは、恋故命を失ひし、二人の夫の墓とかや。
 いなの湊のあけぼのに、霧立こむる毘陽の松、必春にはあらねども、山本かすむ水無瀬川、男山にすむ月は、石清水にや宿るらん。
 秋の山の紅葉の色、稲葉を渡る風の音、御身にしみてぞ覚しける。
 さても都に入給、彼方此方を見給へば、空き跡のみ多して、たま/\残る門の内、行通人も無れば、浅茅が原、蓬が杣と荒果て、鳥の臥戸と成にけり。
 八月半ばの事なれば、まだ宵ながらいづる月、主なき宿に独住、折知がほに鳴雁の、音さへつらくぞ聞召。
 大将はいとゞ哀に堪ずして、大宮おほみやの御所に参、待宵の小侍従と云女房を尋給ふ。
 元より浅からざる中也、侍従出合請入奉て、良久御物語おんものがたり申けり。
 さても宮の御方へ角と被申よと仰ければ、侍従参て御気色を伺進せけり。
 宮斜ず御悦ありて、こなたへと仰けり。
 大将南庭をまはりて、彼方此方を見給ふに付ても、昔は二代の后に立給たまひ、百しきの大宮人にかしづかれて、明し晩し給しに、今は幽なる御所の御有様おんありさま、軒に垣衣繁り、庭に千草生かはす、事問人もなき宿に、荻吹風もさわがしく、昔を恋る涙とや、露ぞ袂たもとをぬらしける。
 時しあればと覚しくて、虫の怨もたえ/゛\に、草の戸指も枯にけり。
 大将哀に心の澄ければ、庭上に立ながら古詩を詠じ給ふ。
  霜草さうさう枯虫思苦、 風枝未定鳥栖難
と宣て、其より御前に参給けり。
 八月十八日じふはちにちの事也。
 宮は居待の月を待侘て、御簾半巻上て、御琵琶をあそばして渡らせ給けるが、山立出る月かげを、猶や遅とおぼしけん、御琵琶を閣せ給つゝ、御心を澄させ給けり。
 源氏の宇治巻に、優婆塞宮の御女おんむすめ、秋の名残なごりをしたひかね、明日を待出でて、琵琶を調べて、通夜心をすまさせ給しに、雲かくれたる月影の、やがて程なく出けるを、猶堪ずや覚しけん、撥にてまねかせ給けん、其夜の月の面影も、今こそ被思知けれ。
 大将参て大床に候はれけり。
 大宮おほみやは琵琶を引さして、撥にて其へと仰けり。
 其御有様おんありさまあたりを払て見え給。
 互に昔今の御物語おんものがたりあり。
 大将は福原の都の住うき事語申て被泣ければ、宮は平京の荒行事仰出して、共に御涙おんなみだに咽ばせ給けり。
 角て夜もいたく深ければ、后宮は御琵琶を掻寄させ給たまひて、秋風楽をひかせ給ふ。
 侍従は琴を弾けり。
 大将は腰より笛を取出、平調に音取つゝ、遥かに是を吹給。
 其後故郷の荒行悲さを、今様に造りて歌給ふ。
  古き都を来て見れば、浅茅が原とぞ成にける、月の光はくまなくて、秋風のみぞ身には入
と、三返歌ひ給ければ、宮を始進せて、御所中ごしよぢゆうに候給ける女房達にようばうたち、折から哀に覚て、皆袖をぞ絞ける。

待宵侍従附優蔵人事

 抑待宵小侍従といふは、元は阿波の局とて、高倉院たかくらのゐんの御位の時、御宮仕ひして候ひけり。
 世にも貧き女房にて、夏冬の衣更も便を失ふ貧人なり。
 さすが内の御宮仕なれば、余幽なる事の悲さに、広隆寺の薬師やくしに参りて七箇日参篭して、祈申けれども、指たる験なし。
 先の世の報をば知らず、今の吾身を恨つゝ、世を捨て尼にもならばやと思て、仏の御名残おんなごりを惜み、今一夜通夜しつゝ、一首の歌をぞ読たりける。
  南無薬師なむやくし憐給へ世中に有わづらふも病ならずや
と詠じつゝ、打まどろみたりけるに、御帳の中より、白き衣を賜ふと夢に見て、末憑しく思つゝ、又内へ参て世にほのめきける程に、八幡の別当幸清法印に被思て、引替はなやかにありければ、君の御気色おんきしよくも人に勝たりけるに、高倉帝御悩ごなうまし/\けるが、慰御事の無りける徒然に、阿波の歌だに読たらば、貢御は進せなんと御あやにくあり。
 時もかはさず、
  君が代に二万にまの里人数そひて今も備る貢物かな
と読たりけり。
 二万にまの里人とは、昔皇極天皇てんわうの御宇ぎよう、新羅の西戎、吾国を叛て、日本打取んと云聞えあり。
 天皇てんわう女帝の御身として、自新羅へ向給けるに、備中の国下津井郡に付、兵を被召けるに、一郷より二万騎の軍兵参たり。
 其よりして彼郷をば、二万郷と名付たり。
 されば彼二万にまの郷の人数に准て、君の御命の久かるべき事を読たりければ、目出く申たりとて、何しか貢物も進、御悩ごなうもなほらせ給たりければ、勧賞に侍従に被成たり。
 君の御糸惜も人に越、情深く、形厳かりければ、卿上けいしやう雲客うんかく心を通さぬは無りけり。
 其中に徳大寺とくだいじの実定は、殊に類なき事におぼされて、折々の御志世に有難ぞ聞ける。
 是も広隆寺の薬師やくし如来によらいの御利生と深憑をかけけるが、仏恵君の御糸惜、然べき事と云ながら、二首の歌にぞ報ける。
 或説に曰く、八幡の検校竹中法印光清の女也。
 母は建春門院けんしゆんもんゐんの小大進の局が腹に儲けたりと云云。
 大将は良久、宮の御前に候て、こし方行末の御物語おんものがたりし給たまひて、夜ふくる儘に侍従が局に立入給たまひて、住憂新都の旅の空にあくがれて、心ならずかれ/゛\に成草の便を悲給へば、侍従は、又故郷に残留たれ共、言問人も絶果ぬ。
 友なき宿に独居て、明しくらす悲さは、上陽宮の徒然、角やと互に語つゝ、共に涙を流しけり。
 希に会夜の嬉しさに、秋の夜なれど長からず、寝ぬに明ぬと云置し、夏にもかはらぬ心地して、まだ眤言もつきなくに、明ぬと告る鳥の音、恨兼てやおはしけん。
 待宵の侍従と申ける事は、此徳大寺とくだいじの左大将忍て通給けり。
 衣々に成暁、又来ん夜をぞ契給ける。
 侍従は大将のこんとたのめし兼言を、其夜ははる/゛\待居たり。
 さらぬだに深行空の独寝は、まどろむ事もなき物を、たのめし人を待わびて、深行鐘の音を聞、いとど心の尽ければ、
  待宵の深行くかねの声聞ばあかぬ別の鳥は物かは
と読たりければ、誠に堪ずもよみたりとて、待宵とは被呼けり。
 大将は通夜御物語おんものがたりありて、あかぬ別の衣々を引分帰給ける。
 明方の空、何となく物哀なりけるに、侍従も共に起居つゝ、殊更今朝の御名残おんなごり、慕かねたる気色にて、遥はるかに見送り奉り、泣しをれて見えければ、大将も帰る朝の習とて、振捨難き名残なごりの面影身にそふ心地して、為方なくぞおぼされける。
 御伴なりける蔵人を召て、侍従が今朝の名残なごり何よりも忘難く覚るに、立帰て何とも云て参と宣のたまひければ、蔵人優々敷大事かなと思へ共、時を移すべきならねば、軈走帰て見ければ、侍従なほ元の所に立やすらひて、又寝の床にも入ざりけり。
 蔵人取敢ぬ事なれば、何と云べしとも覚ざりけるに、明行空の鳥の音も、折から身に入て聞えければ、其前に跪袖掻合て、
  物かはと君が云けん鳥のねのけさしもいかに恋しかるらん
と仰せなりとて還りければ、侍従は、
  またばこそ更行く鐘もつらからめ別を告ぐる鳥のねぞうき
と、蔵人帰参て角と申入ければ、大将いみじく感じて、さればこそ汝をば遣はしぬれと宣て、所領などあまた給たりけり。
 此蔵人は内裏の六位など経て、事に触て歌よみ優なりければ、時の人異名に、やさ蔵人と云けるを、此歌世に披露の後は、物かはの蔵人とぞよばれける。

げん中納言ぢゆうなごん侍夢事

 平家は都遷とて、福原へ下り給たれども、皇化の善政を打とゞめ奉り、神明の擁護にも背けるにや、月日は過行けども、世間は弥しづまらず、胸に手を置たる様に、心さわぎしてぞありける。
 一門の人々は、二位殿にゐどのを始奉、さとしも打続、夢見も様々悪かりけり。
 依これによつて神社仏寺に祈頻也。
 源げん中納言ぢゆうなごん雅頼卿の侍夢に見ける事は、いづことは慥に其所をば知らず、大内の神祇官じんぎくわんかと覚しき所に、衣冠たゞしき人のゆゝしく気高きがあまた並居たりける。
 座上の人の赤衣の官人を召て仰けるは、下野守源みなもとの義朝よしともに被預置御剣、いささか朝家に背く心ありしかば、召返して清盛きよもり法師に被預給たれ共、朝廷を忽緒し、天命を悩乱す、滅亡の期既至れり、子孫相続事難、彼御剣を召返なり、汝行て剣を取て、故義朝よしともが子息前さきの右兵衛権佐うひやうゑのごんのすけ頼朝よりともに預置べしと有ければ、官人仰に随て、赤衣に矢負て、滋籐弓脇に挟み、御前を罷立けるが、無程錦の袋に裹たる太刀を持参て、座上へ進上する処に、中座の程に有ける上﨟の、頼朝よりとも一期の後は、吾子孫にたび候へと被申けるに、紅の袴著たる女房の、世にも厳くおはしけるが、縁の際三尺ばかり虚空に立て被申けるは、清盛きよもり入道深く吾を憑て、毎日不退の大般若経を転読し侍に、御剣暫入道に預置せ給へと申。
 座上の次二番目に居給たる上﨟、ゆゝしくしかり音にて、入道いかに汝を憑とても、朝威を背に依て、議定既すでに畢、謀臣の方人所望希恠也、そ頸突と仰ければ、赤衣の官人つと寄て、彼女房を情もなく門外に突出す。
 穴おそろしと思ながら、夢の中にそばなる人に問て云、座上の人は誰人ぞ。
 あれこれ天津国の御主伊勢天照太神てんせうだいじんよ。
 さて吾子孫にたべと仰らるゝは誰ぞ。
 天津児屋根尊春日大明神かすがだいみやうじんよ。
 大二番目のそ頸突と仰られつるは誰。
 鬼門の峯の守護神、日吉山王よ。
 赤衣官人は誰。
 西坂本の赤山大明神だいみやうじんよ。
 紅袴の女房は誰そ。
 安芸国の厳島の明神よと答と見て覚ぬ。
 遍身へんしん汗水に流れて、さめたれ共、猶夢の心地也。
 恐ろしなどは云ばかりなし。
 明旦に急主の源げん中納言ぢゆうなごん雅頼の許に行て、此事を語申ければ、中納言我外に又人にや語たると問給へば、汗水に成て驚て侍つれば、妻にて候女が、何事ぞ、物におそはれたるかと申つる間、其計には語て候。
 中納言、さるにては此事一定披露すべし、さらば汝事に合なん、妻子相具して且く忍べと宣のたまひければ、資財取納て深隠忍にけり。
 隠々とせしか共、ばつと世間に披露有。
 入道此事聞大に□り、大方入道が事といへば、上も下も目に立口を調へて、加様の事云沙汰する条こそ奇怪なれとて、蔵人左少弁くらんどのさせうべん行隆に仰て、其男搦進よ、雅頼卿に相尋よと嗔給へり。
 行隆行向て件の男を相尋ぬるに、逐電して人なし。
 家内追捕して主の雅頼に相尋ければ、其事努々承及ず、彼夢見て侍らん奴に付て、御尋おんたづね有べきとぞ被申ける。
 朝敵誅罰の大将軍には、節刀と云御剣を給習也。
 太政だいじやう入道にふだう日比ひごろは四夷を退けし大将軍なりしか共、今は勅宣ちよくせんを背に依て、神明節刀を被召返けり。
 高野の宰相入道成頼此夢の事聞給たまひて、座上の人を天照太神てんせうだいじんと申けるは左も有けれ、紅袴著たる女房を、厳島大明神だいみやうじんと申も左も有べし。
 彼明神は沙竭羅竜王りゆうわうの娘を勧請して崇奉、春日大明神かすがだいみやうじんとて我子孫に預給へと被仰けるは不審也。
 そも又末の代に源平共に絶果て、一の人の御中に、将軍の宣旨を蒙つて天下を治給べきにもや有らんと宣のたまひけるが、げにも源氏三代将軍の後、知足院の入道殿にふだうどのの御子に、太政大臣だいじやうだいじん忠通公、三代の孫、道家公をば光明峯寺殿と申、其末の御子に、寅の歳寅の日寅の時に生給たまひたりければ、三寅御前と申、歳九にて関東へ下て世を治め給けり。
 入道将軍とは是事也。
 雅頼卿の侍の夢も、成頼入道の物語ものがたりも違はざりけり。
 成頼は花洛を捨て、深山しんざんに籠し後は、偏ひとへに往生極楽の営の外は、世の事に汚べきには無れども、元より心潔人にて、善政を聞ては悦、悪事を聞ては歎給ければ、世の成行んずる有様ありさまを、兼て宣のたまひけるにこそ。
 或本云、厳島大明神だいみやうじんは、門客人を御使にて、白浄衣を著て参り給たまひて、御剣暫入道に預給へと被申と、云云。

大場早馬事

 治承四年九月二日、相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん、大場三郎景親、東国より早馬をたつ。
 福原新都に著きて上下ひしめきけり。
 何事ぞと聞ば、伊豆国いづのくにの流人、前さきの右兵衛権佐うひやうゑのごんのすけみなもとの頼朝よりとも、一院の院宣、高倉宮たかくらのみやの令旨在と称して、同国目代もくだい平家の侍和泉いづみの判官平兼隆が、八牧の館に押寄て、兼隆並家人等けにんら夜討にして、館に火を懸て焼払やきはらふ。
 同廿日北条四郎時政が一類を引率して相模の土肥へ打越えて、土肥、土屋、岡崎を招、三百さんびやく余騎よきの兵を相具して、石橋と云所に引籠。
 景親武蔵相模に平家に志ある輩を催集めて、三千さんぜん余騎よきにて同廿三日に石橋城に押寄、源氏禦戦といへ共、大勢に打落されて、兵衛佐ひやうゑのすけ杉山に逃籠て、不行方、同廿四日相模国さがみのくに由井小坪にて、平家の御方に、武蔵国住人ぢゆうにん、畠山庄司重能が子息、次郎重忠五百ごひやく余騎よきにて、兵衛佐ひやうゑのすけの方人、相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん、三浦大介義明が子共、三百さんびやく余騎よき、責戦といへども、重忠三浦に戦負て、武蔵国へ引退。
 同廿六日に、武蔵国住人ぢゆうにん、江戸太郎重長、河越小太郎重頼を大将として、党には金子、村山、山口、篠党、児玉、横山野与党、綴喜等〔を〕始として二千にせん余騎よき、相模の三浦城を責。
 三浦の一族絹笠の城じやうに籠て、一日一夜戦て、矢種尽て船に乗、安房国へ渡畢。
 又国々の兵共つはものども、内々は源氏に心を通すと承る、御用心あるべしとぞ申たる。
 平家の一門此事を聞、こはいかにと騒あへり。
 若者どもは興ある事に思て、あはれ討手に向られよかしなど云けるぞ哀なる。
 畠山庄司重能、小山田別当有重兄弟二人は、折節をりふし平家奉公して候けるが、申けるは、北条四郎時政は親く成て侍ば、実に尻前にも立候らん。
 其外は国々の兵共つはものども、誰か流人の方人して、朝敵とならんと思侍べき。
 只今ただいま聞召直させ給べしとぞ申ける。
 実にもと云人もあり、又いさ/\大事に及ぬと云人もあり、是彼に寄合寄合、恐し/\と私語ささやきけり。
 太政だいじやう入道にふだう安からず被思て宣のたまひけるは、東国の奴原と云は、六条ろくでうの判官はんぐわん入道為義ためよしが一門、頼朝よりともに不相離侍共と云も、皆彼が随へ仕し家人也き。
 昔の好争か可忘。
 其に頼朝よりともを東国へ流し遣しけるは、はや八箇国の家人に、頼朝よりともを守護して入道が一門を亡せと云にありけり。
 喩ば盗に鑰を預、千里の野に虎を放ちたるが如し。
 いかゞすべき、入道大に失錯してけりとて、座にもたまらず躍上踊上し給けれ共、後悔今は叶はず、良案じて宣のたまひける。
 但頼朝よりともは入道が恩をば争か忘るべき。
 縦故池の尼公いかに宥給ふとても、入道ゆるさゞらんには、頸をば継べきや、其に重恩を顧ず、浄海が子孫に向ひ弓を引矢を放ん事、仏神よも御免あらじ、仏神免し給はずば、天の責忽たちまちに蒙るべし。
 奇しの鳥獣までも、恩をば報とこそ聞。
 其に還て入道が一門を亡さんとの企、不思議也。
 我子孫七代までは、争か怨心を挟べきと、しかり音にてくりかへしくりかへしぞ宣のたまひける。

謀叛不素懐

 入道の気色に入んとて、時の才人ども申けるは、仰少も違べからず。
 朝憲を嘲王命を背く者、昔より今に至まで、素懐を遂る者なし。
 日本盤余彦尊御宇ぎよう、四年己未歳の春、紀伊国名草郡、高野林に土蜘蛛ありき。
 身短の手足長くして力人に勝たり。
 皇化に随はざりければ、官軍を差遣して、是を責けれ共、誅する事能はず。
 住吉すみよし大明神だいみやうじん、葛の網を結て、遂に覆殺し給へり。
 其より以来野心を挟みて、朝家を背し者是多し。
 孝徳天皇てんわうの御宇ぎようには、蘇我入鹿、山田石川、右大臣豊成、天智天皇てんわうのいまだ皇子にて御座おはしましし時討ち給ふ。
 左大臣長屋王は、聖武天皇てんわうに被討給ふ。
 恵美大臣押勝は高野の天皇てんわうに被討、伊与親王は平城帝に被討、平城天皇てんわうは嵯峨さがの帝に軍に負て、御子真如親王、春宮とうぐうの位を下て、天竺へ渡とて、道にて失給にけり。
 承平には武蔵権守将門まさかど平貞盛さだもりに被討、康和には対馬守義親、平忠盛に被討、陸奥国住人ぢゆうにん安大夫安部頼良子息、厨河次郎大夫貞任、同舎弟しやてい富海三郎宗任は伊与入道源みなもとの頼義らいぎに被討、同国北山の住人ぢゆうにん将軍三郎清原武衡は、八幡太郎はちまんたらうみなもとの義家よしいへに被討。
 伊予掾藤原純友は、海路往反を求し、周防伊予両国の軍に被討。
 是のみならず、大山王子、大石山丸、守屋大臣、大友真鳥、太宰少弐広嗣、井上皇后、氷上川継、早良太子、藤原仲成、橘逸勢、文屋宮田、悪左府あくさふ、悪右衛門督あくうゑもんのかみに至まで、総じて二十余人よにん也。
 是皆恩を忘徳を報ぜず、朝威を背き野心を挟し輩也。
 去ども一人として素懐を遂ず、悉ことごとく首を獄門に懸られ骸を山野にさらす。
 東夷、南蛮、西戎、北狄、新羅、百済、高麗、契丹に至まで、我朝を背者なし。
 今の世にこそ王威も無下に軽く御座おはしませ共、流石さすが日月地に落給ふ事はなし。
 上代には宣旨と云ければ、枯たる草木も忽たちまちに花さき実の成けり。
 又天に翔鳥、雲に響雷も、王命をばそむかず。

栖軽取雷事

 第廿二代の帝雄略天皇てんわうの御宇ぎように、小子部栖軽と云重臣あり。
 泊瀬朝倉宮に参内して、大安殿に参たり。
 天皇てんわうと后と婚家し給へる時也。
 折節をりふし電雷空に鳴。
 帝恥思召おぼしめして、栖軽を帰されん為に、汝鳴雷を請じ奉れと仰す。
 臣勅を承て大内を罷出て、馬に乗て阿部の山田の道より豊浦寺に至まで、天に仰て叫て云、天鳴の雷神、天皇てんわうの詔勅也、落降り給へと、然も猶響て去。
 栖軽又馬を馳て云、縦雖雷神、既すでに鳴我朝之虚空、争か可帝王之詔請哉と云時に、竜王りゆうわう響還て、豊浦寺と飯岡の間に落たり。
 栖軽即神人を召て、竜神りゆうじんを挙げ載て大内に参じて是を奏する時、雷鱗をいからかし、目を見はりて内裏を守る、光明くわうみやう宮中を照す。
 帝是を叡覧有て、恐て種々の弊帛を奉て、速に落たる処に返送奉。
 雷岡とて今にあり。

蔵人取鷺事

 延喜帝の御宇ぎよう、神泉苑に行幸あり。
 池の汀みぎはに鷺の居たりけるを叡覧有て、蔵人を召てあの鷺取て参せよと仰ければ、蔵人取らんとて近付寄ければ、鷺羽つくろひして既すでに立んとしけるを、宣旨ぞ鷺まかりたつなと申ければ、飛去事なくして被取て、御前へ参けり。
 叡覧ありて仰けるは、勅に随飛去ずして参る条神妙しんべう也とて、御宸筆ごしんぴつにて鷺羽の上に、汝鳥類の王たるべしと遊ばして、札を付て放たれければ、宣旨蒙たる鳥也とて、人手をかくる事なし。
 其鳥備中国に飛至て死にけり。
 鷺森とて今にあり。
 彼は婚嫁を恥て、雷神を留め、是は王威を知召さん為に鷺を召れけり。
 左程の事こそ有ずとも、末代とても、天孫豈逆党に犯れんや。
 されば頼朝よりとも争か本意を遂べき、帝徳私なし、神明御計あるべし、強にさわぎ思召おぼしめすべからずと申ければ、入道少色なほりて、さぞかしさぞかしとて、聊か心安こころやすくぞ御座おはしましける。

始皇しくわう燕丹并ならびに咸陽宮事

 恩を忘て仇を存る者、我朝にも不限、必ず亡べり。
 唐国に燕太子丹と云人、秦始皇しくわうを傾んとて、軍を起したりけるが、燕丹は軍に負、始皇帝しくわうていに捕はれて深く誡おかれ、六箇年を経にけり。
 燕丹は我身の事はいかゞせん、故郷に老たる親のありけるを、今一度いかゞして見奉らんとぞ悲みける。
 丹始皇しくわうに歎申けるは、今は本国に免遣はし給へ、六箇年を過て禁獄例なし、又本国に老たる父母あり、いかばかりかは歎き悲み給らん、今一度見え奉らばやと云ければ、始皇しくわう欺て、烏の頭の白く成んを見て、免すべしと宣のたまひけり。
 燕丹心憂ぞ思ける。
 さては恋き父母を見ずして、是にして空く亡ん事こそ悲しけれと、夜は天に仰ぎて祈明し、昼は地に伏て歎晩す、実祈誓の験の有けるにや、頭白き烏飛来つて、始皇帝しくわうていに見えたり。
 燕丹斜ず悦て、山烏頭白し、吾本国へ帰らんと云、始皇しくわうかさねて曰、馬に角生たらん時、帰すべしとて猶免ず。
 燕丹今は日来ひごろの憑も尽はてて、為方なく思けれ共、猶理をぞ思ける。
 妙音菩薩は、霊山浄土じやうどに詣して不孝の輩を誡、孔子老子は、震旦辺州に顕れて、孝道の章を立、上梵釈四王より、下堅牢地祇に至るまで、孝養の者を憐給ふ也。
 願天地の神明、今一度故郷に帰て、再び父母を見せしめ給へとて、明ても暮ても涙に咽て祈けり。
 王祥が母、生しき魚を願しかば、氷上に魚を得、孟宗が親紫笋を求しかば、雲の中に笋を抜けり。
 孝は百行の源、孝は一代の勤也ければ、祈の甲斐ありて、角馬庭上にいなゝきけり。
 始皇しくわう是を見給たまひて、燕丹は天道の加護深き者也けり。
 白烏角馬の瑞恐ありとて、免して本国へ返遣けれ共、遺恨猶のこりて、燕国へ帰道に、せんか河と云河に、楚橋と云橋を渡せり。
 先に人を遣して、彼橋板を亭に操て、燕丹を河中に落入んとぞ支度したりける。
 燕丹をば夜ぞ此橋を渡しける。
 兼て不知ける事なれば、燕丹即ちふかき河に落ちにけり。
 既すでに沈むかと思ふほどに、亀多く集つて、甲をならべて助け渡す、〈 一説に、二竜来て橋のすのこの如く載て渡すと云云 〉。
 天道の御計と云ながら、不思議なりける事也。
 彼亀と云は、人の殺さんとしけるを、丹が父買て放ちたりける水畜也、父が放生の恩を忘ず、子の燕丹に報けり。
 太子本国に返ぬ。
 父母親類来悦て白烏角馬の瑞を聞、母悦頭の白烏に報んと思へ共、行方を知ざりければ、責ての事にや、黒烏を集て養ければ、白烏自ら出来たりけり。
 燕丹はのがれ難き罪科をのがれ、本国に被還て、再父母を見ければ、深始皇しくわうの恩を報ぜんとこそ思べきに、其情を忘て、秦国を亡さんと巧む心切にして、荊軻大臣召て被仰含ければ、大臣申て云、太子の被免給へる事全く始皇しくわうの恩に非ず、孝養報恩の御志深ければ、天神地祇の御助也。
 天地の守護を案ずるに、君は末たのもしき御事也。
 謀を廻して早く始皇帝しくわうていを亡し給へと云ければ、然べきとて是非を忘、重恩を背て異計をぞ廻しける。
 燕丹本国に被返たる悦とて、燕国差図、国々の券契相具して、始皇しくわうに寄附の解文を注して、差図の箱に入て、一尺八寸の仙必の剣と云者を隠入たり。
 又金を以そう嶺そうれいの形を鋳移して、是を持しめたり。
 荊軻大臣使節にて、秦国に向。
 田光先生と云者あり。
 古き兵にて謀賢き者と聞えければ、燕丹彼を請じて相語ふ。
 先生申けるは、武勇の名に依て、命を蒙むること、実に道の秀たる身を悦といへ共、年老齢傾きて、今は旗を靡かし戈を突に力なし。
 喩ば麒麟と云馬は、千里を一馳に飛ども、老衰ぬれば駑馬にも猶劣るが如。
 我若く盛なりし時は、誠に陣を破て敵を落す事世に並なかりしか共、老衰習こそ憑む甲斐なき事なれと申せば、燕丹さらば穴賢、本意を不遂さきに、披露すなと宣へば、先生是程の大事人に被憑て、争か口外すべき、我世にながらへて、若人の口より披露あらば、先生口脆して、漏らしたりと疑れん事、老後の恥なるべし、又老衰也と対捍を申せば、命を惜むに似たり、不如太子の御前にて命を捨んにはとて、生年七十一にして、庭上の李の木に頭を当て打砕てぞ失にける。
 又樊於期と云者あり。
 元は秦国の者也けるが、老たる父母を始皇帝しくわうていに被亡たり。
 其故は、我国に老人をば置べからず、年老力衰へては、国の用に立べからず、徒に国の財を費す事無益也とて、老人を失ひける内に、樊於期が父母をも殺したりければ、口惜く思て始皇しくわうを亡さんとの志ありければ、其色外に顕れて、親類兄弟悉ことごとく失はれける間に、一人漏出て燕国に逃籠たりけるが、猶も謀叛の思深かりけれ共、可相従兵もなし。
 徒に歎を積て、明し暗しける程に、始皇しくわうも宿意深き敵也とて、四海に宣旨を下して、樊於期が首取て進たらん者には、五百斤の金を可与とぞ披露しける。
 斯ければ荊軻大臣、樊於期に語らひより、汝が頸は五百斤の金に報したる頸也。
 汝が頸を我に借与給へ。
 始皇帝しくわうていに進て、則始皇しくわうを亡さんと云、樊於期大に悦で、肱を挑躍上て申けるは、我父母兄弟悉ことごとく被亡て、昼夜に是を歎事、骨髄に通て難忍、始皇しくわうを亡さんに於ては、我首塵芥よりも猶軽し、始皇しくわう又吾首を得に於ては、謀討ん事いと安かるべしとて、自ら頭を掻下して大臣に与へてけり。
 又越呂と云者あり。
 管絃を愛して笛を好み吹けるが、上手にてぞ在ける。
 是も心武き兵也。
 同語ひ具して、秦国へ越けるに、昆明池と云池の辺に、一夜宿したりけるが、心を澄して通夜笛を吹て、旅のつれ/゛\を慰みけるに、調子の平調にのみなりければ、こは不思議の事かな、さのみ調子の平調になるあやしさよ、宮商角徴羽の五音を以て、木火土金水の五行に宛るに、平調は金の声也、始皇しくわうは又金性也、時節秋の最中也、秋は又金也、吾身木性也、金尅木とて、木は金に被損事なれば、今度始皇しくわうを亡さん事難叶、いざ還らんと云けるに、荊軻大臣宣ふ様、始皇帝しくわうていの朝敵、樊於期が首あり、是を後日までたばひ置に由なし、今度亡さでは、何をか期すべきとて、越呂が言を不用ければ、越呂が云、相従て行たり共、不亡して還て亡されん事は詮なし、行じといへば、命を惜むに似たり、後に思合せよとて、昆明池に身を投て失にけり。
 荊軻秦舞陽是を聞見れども、進心は甚しうして、退思はなし。
 秦舞陽に樊於期が借処の首を持せて、荊軻は秦国へ行けり。
 此秦舞陽も秦国の者也けり。
 生年十三にして父の敵を討て、燕国に逃たりければ、皇帝常にねめけれ共、燕国に仕て右大臣までに成たりけり。
 始皇しくわうを亡さん事を悦て、同相伴ひけり。
 年経ぬれば、始皇しくわうも争か秦舞陽をば見知給ふべきなれば同意す。
 宿意深き敵の首を進せんに、なじかは始皇しくわうも打とけ給はざらん、打とけ近付者ならば、などか滅さゞらんとて、既すでに秦国へぞ行向ける。
 燕太子命を始皇しくわうに助て、其悦に樊於期が頸を伺ひ取て、秦国に参と聞えければ、貴賤上下巷々に来集つて是を見。
 官兵馳参て四方の陣を固たり。
 抑咸陽宮と申は、秦始皇しくわうの大内也。
 城の廻一万八千三百八十四里いちまんぱつせんさんびやくはちじふより、北には広さ三百里、めぐり九千里の鉄の築地を高つきたれば、雁の来り帰る事も叶ざりければ、築地の中に雁門とて穴を開たり。
 彼咸陽宮の中に、阿房殿を被建てぞ住給ける。
 始皇しくわうは雷に怖給ければ、雷より上に栖んとて、阿房の殿をば被造たり。
 東西へ九町、南北へ五町、高さ三十六丈也。
 大床の下には、五丈の幢を立並べたり。
 庭には金の砂瑠璃の砂、各十万石を蒔、真珠の沙百石を彩しけり。
 金を以て日を造、銀を以て月をかたどれり、始皇しくわうかゝる目出内裏を造てぞ住給ける。
 燕国の使荊軻大臣先に進参、秦舞陽は樊於期が首を鋒に貫いて、つゞきて参。
 咸陽宮の阿房殿の玉の階を昇りけるが、秦舞陽違勅の心進つゝ、悪事や色に顕けん、膝振て、昇り煩へり。
 内裏警固の兵等、是を見とがめて、暫押へて不審を問。
 いかゞ答んと思煩へる処に、荊軻大臣立還、翫其磧礫玉淵者、未驪竜之所一レ蟠也、習其弊邑上邦者、未英雄之所一レ躔也と云事あり。
 心に壌を翫び、玉になれざる者は、竜神りゆうじんの蟠り臥たる海の底をば知ざるが如に、賎き草の庵に住て、花都を不見者は、万乗の主の宿れる処をば不知也。
 理や秦舞陽、垣葺の小屋に住なれて、始て都に昇りつゝ、影を浮る銀の壁、眼かゞやく金の鐺蹈も、習ぬ玉の階、心迷のするかに、足の振も道理也とぞ陣じたる。
 官兵誠に謂ありとて是を許す。
 二人の臣下遥はるかに阿房殿に進上て、樊於期が首を進覧と奏す、臣下仰を承て、上覧の由申ければ、荊軻重て奏して云、燕国辺土と申せ共、我等われら彼国の臣下たり、就なかんづく宣旨を四海に下して、五百斤の金に報ずる、朝敵の首をば、軽伝に不進、直に進覧せん、何の恐れか有べきと申たりければ、誠に日来ひごろへたる朝敵也、申処其謂有とて、始皇しくわう自出給たまひ、玉体荊軻に近付けり。
 樊於期が首を燕の太子に借奉て、始皇しくわうを亡し宿意を遂んと計けるも、少も違はざりけり。
 始皇しくわう件の頭を見給たまひて、大に感じ給けり。
 荊軻燕国の差図、并券契入たる箱を開て叡覧に達せんとする処に、箱の中に秋の霜冬の氷の如くなる剣あり。
 始皇しくわう大に驚給たまひて、座を立んとし給けるに、荊軻大臣左の手にて御衣の袖をひかへ、右の手にて剣を執、始皇しくわうの胸に差当て云、燕太子六箇年まで禁置れて、適本国に帰といへ共、是皇帝の情に非ず、併がら天道の御助也、其鬱を散ぜんが為に臣等しんら参ぜりとて、既すでに剣を振んとしけるに、始皇しくわう涙を流して宣のたまひけるは、吾諸侯を随へ、四夷を靡して、武王が中の大武王也。
 然而天命限ありて、今遁難き身也。
 但此世に思置好み残れり。
 九重の中に千人せんにんの后あり、其中に最愛第一の皇后あり、玉拝殿の楊仁后と云、琴をいみじく弾、今一度彼琴の曲を聞ばやと宣へども、荊軻是を免し奉らず、始皇しくわう重て仰けるは、一寸の頸剣の下にあり、天命極て遁がたし、汝既すでに御衣の袖をひかへたり、我更に遁べき方を知ず、最後の所望也、何ぞ憐をかけざらんと宣へば、荊軻思けるは、吾小国の臣下として、玉体に近付奉、直に始皇帝しくわうていの宣旨を蒙る、角取籠奉上は、誠に何事かは有べき、且は最後の情也と心弱ぞ相待ける。
 始皇しくわう大に悦て、南殿に七尺しちせきの屏風を立后を請じ奉。
 楊仁后御幸して七尺しちしやくの屏風を中に隔て、琴をぞ弾給ける。
 琴の曲には桓武楽とて、武き者を和ぐる曲也けり。
 此曲を弾給ふ時は、空を飛鳥も落、地を走る獣も留る程に、爪音やさしき上手にて御座おはしましける上に、今を限の別ぞと心を澄して弾給へば、さこそは哀に面白かりけめ。
 但荊軻が性は火性也、始皇帝しくわうていは金性也、火尅金の理にて、火に金が被尅て、いかにも危く見え給ふ。
 され共后は水性也、調子を盤渉調に立。
 此調子は五大の中の水大なれば、水にかたどれり、金生水とて、金は水に生ずる者なれば、后と調子と二の水に、始皇しくわうの金が被助て、荊軻暫ゆらへたり、水尅火とて、火は水に被尅る事なれば、荊軻が火后の水消ける上に、武きを和ぐる曲を弾給へば、荊軻秦舞陽、猛心ありけれ共、管絃の道には外くして、琴の曲をも不聞知、只面白しとのみ聞居たり。
 后終に一曲をぞ奏し給ふ。
 七尺しちしやくの屏風は躍ば越ぬべし、一重の羅穀は引ば截つべしと、くりかえし/\引給けるに、荊軻后に被相尅て、琴の音に聞とれて、惘然と成て眠けり。
 始皇しくわうは琴の音を聞知給たりければ、女人だにも、折に随へば、猛心も有ぞかし、我武王が中の大武王、居ながら諸侯を従へたり。
 小国の小臣にあひて、忽たちまちに亡びん事こそ安からねと、強盛の心を起し給けるに、敵の眠るを折を得て、七尺しちしやくの屏風を後様にぞ越給ふ。
 荊軻がはと立て、仙必の剣を以て追ざまに投懸奉。
 皇帝剣に恐て、銅の柱の陰に立隠給へり。
 彼柱は口五尺なりけるを、剣柱の半切入たり。
 番の医師夏附旦と云者、不取敢とりあへず、鉄を消薬の袋を剣の上に打懸たりければ、柱なから計は切たれ共、用力失て、始皇しくわうは疵も負給はず。
 始皇しくわう立帰て、自剣を抜出て、荊軻秦舞陽を八割にこそしたりけれ。
 恩も忘て還て怨害の心を発しかば、天道免給はずして、白虹日を貫て不通ける天変あり。
 通たらば始皇しくわうの命も危かるべかりけるに、貫ながら通らざりければ、天変災に非ずといへり。
 荊軻始皇しくわうを不討得して被殺けるに、燕丹遥はるかに白虹の変を見て、不祥也とぞ歎ける。
 始皇しくわうすなわち李信と云兵に仰て、数千の軍を副て、燕の太子丹を責けるに、太子衍水と云所にて、空く討れにけり。
〈後漢書に見えたり。〉
 始皇帝しくわうてい常に宣のたまひけるは、燕国は秦国の未申に在、秦国は燕国丑寅に当れり、牛に羊を合するに、羊争か牛に勝べき。
 猿に虎を並べんに、虎豈猿に負んや。
 されば燕丹争か我を亡すべきと宣のたまひけるが、燕太子終に始皇帝しくわうていに被討ぬるこそ不便なれ。
 荊軻大臣秦国に向けるに、高漸離かうぜんりと云人有て、易水の辺に行合たり。
 年比浅からず申眤ぶる友達也。
 暫留て互に名残なごりを惜けり。
 荊軻が云けるは、敵に向ふ身なれば生て帰ん事難し。
 是や最後の見参なると語ければ、高漸離かうぜんりは再会の不定なる事を哀みて、筑を打てぞ慰ける。
 漸離ぜんりは天下無双の筑の上手也。
 筑とは琴の様なる楽器也。
 漸離ぜんり撥にて是を打しかば、聞人心を澄し目を驚す上手にて、荊軻が名残なごりを慕ければ、拍子に合て荊軻歌をぞうたひける。
 其詞に、
  かぜ蕭々兮しようしようとして易水寒、 壮士一去不復還
とぞ云ける。
 荊軻亡ぬと聞えしかば、昔の友達也と云事を憚て、高漸離かうぜんりは貌を窶し、姓名を替て世に住居けれ共、昔より習伝たる態なれば、筑を打つて遊ける。
 上手の披露有ければ、始皇しくわう是を召て、筑を打せて、常に聞給けるに、或人云けるは、是は高漸離かうぜんりとて荊軻が旧友也と申たれば、始皇しくわう驚て、能のいみじさに命をば助て、眼に毒薬を入て、目を潰して筑を打せけり。
 漸離ぜんり安からず思て、始皇しくわうの御座る所を撥にて打せたりければ、膝瓦にぞ打当たる。
 始皇しくわう大に嗔つゝ、則漸離ぜんりを殺てけり。
 角はし給たりけれ共、始皇しくわうはうたれ給へる撥の跡瘡と成て、遂に其にて失給にけり。
 燕丹昔の恩を忘て、還て始皇しくわうを傾んと計しかば、己が身空く亡ぬ。
 然ば頼朝よりともも平家に命を被助し者に非や、縦報謝の心こそなからめ、争か平家を背奉べき、いかに謀叛を起とも、仏天豈赦し給べしや、其上指当て、誰かは流人に同意すべき、無勢にしては又素懐遂がたし、強に驚思召おぼしめすべからずなんど色代申ければ、入道も左こそ存ずれとぞ宣のたまひける。

匂践夫差事

 又内々私語ささやきけるは、恩を忘無勢なるにはよらず、只天運のしからしむるに依べき事也。
 其謂は、昔唐に越王匂践、呉王夫差とて、二人の国王御座おはしましけり。
 互に中悪して共に傾けんとて、会稽山と云山の麓にして、度々戦ける程に、呉王は元より勢多、威すぐれたりければ、越国の軍敗れて匂践生捕れぬ。
 今は力なくして、降を請て歎ければ、呉王憐をたれて匂践が命を助く。
 臣下諌て云、敵を宥て必後に悔あり、忽たちまちに越王の命を断んにはしかじと申けれ共、匂賤は木を樵水を汲まではなけれ共、二心なく仕ければ、臣下の諌をも聞ざりけり。
 呉王病しける時、医師を請て是を見す。
 医師云、尿を人に呑せて、其味を以て、命の存亡を知んと申せども、宮中の男女共に、呉王の尿を呑んと云者なし。
 匂践、進出て云、吾君の為に命を被助て、其恩尤深し、尿を呑で報奉らんと申て、即是を呑。
 味たがはざりければ、呉王の病愈にけり。
 呉王後に越王の志を悦て、本国に返し遣す、匂践角仕へける事は、再旧里に帰て、呉王を亡して本意を遂んとの計也。
 匂践赦されて、本国に帰ける路に、蛙の水より出て躍ければ、馬より下て是を敬ふ。
 奢れる者を賞ずる心なるべし。
 其後数万の軍を起して、終に呉王夫差を亡しけり。
 さてこそ会稽の恥をば雪けれ。
 其よりしてぞ、恥みるをば会稽とも申ける。

光武天武即位事

 後漢光武皇帝は、漢王莽に被責て、曲陽に落しには、僅わづかに二十八騎なりしか共、後に世を取て天下を治給けり。
 我朝には天武天皇てんわう、大友皇子におそはれて、吉野の奥に落させ給けるには纔わづかに十七騎、是も位に即給。
 去ば運の然らしむるに有るべき事也と云ければ、平家の一門は、いかゞはすべき。
 天下の煩人民の歎、ほのめきけり、毒虫の種子をば、忽たちまちに失べきにて有けるをと、上下怖あへりけり。

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