爾巻 第四
鹿谷酒宴静憲止御幸

 新しん大納言だいなごん成親卿なりちかのきやうは、日比内々相語輩偸に催集て、鹿谷に衆会し、一日酒宴して軍の評定あり。
 法皇も忍て御幸有べかりけるが、故少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいの子息、静憲法印を召て、此事を被仰含けり。
 法印は、努々不思食おぼしめし御事也、伏羲神農の聖人たる、猶瓊樹根を別にし、軒轅虞舜の明王たる、又玉体種を分つ、夏殷周晋春の花、芬馥気種々に含、梁陳隋唐の秋の月、清光区に朗也。夫天下を治事如此。
 況や君は忝も地神五代の御苗裔を受させ御座して、人皇億歳の宝祚を踏給へり。
 逆臣背き奉らば、忽に天罰を蒙て、兵略を廻らかさずと云共、自滅亡せん事疑あらじ、
 日月為一物其明、明王為一人其法と云事侍り、成親卿なりちかのきやう一人が勤によつて、万人悩乱の災を致さん事、豈あに天地の心に叶はんや、全政道有徳の基に非ず、こは浅増き御企也と、大に諌申ければ、法皇の御幸は無りけり。
 鹿谷には軍の評定の為に、人々多集て一日酒盛しけり。
 多田蔵人が前に杯の有けるに、新しん大納言だいなごん青侍を招て私語給へり。青侍まかり立て、程なく長櫃一合、縁の上に舁居たり。
 尋常なる臼布五十端取出して、蔵人が前に積置せて大納言日けるは、日比談義申侍つる事、大将軍には一向に奉憑、其弓袋の料に進ずる也、今一度候ばやとぞ強たりける。
 蔵人居直り畏て、三度呑て、布に手打係て押除たれば、郎等よつて取之。
 其後押まはし/\、得たり指たりする程に、既晩に及ぶ。
 庭には用意に持たりける傘をあまた張立たり。
 山下の風に笠共吹れて倒ければ、引立々々置たる馬共驚て、散々さんざんに駻踊、食合踏合しければ、舎人雑色馬をしづめんと、庭上々を下へ返て狼藉也。
 酒宴の人々も少々座を立けるに、瓶子を直垂の袖に懸て頸をぞ打折てける。
 大納言見之、戯呼事の始に平氏倒侍りぬと被申たり。
 面々咲壺会也。
 康頼突立て、大方近代あまりに平氏多して持酔たるに既に倒亡ぬ、倒たる平氏頸をば取に不如とて、是を差上て一時舞たり。
 さて取たる首をば可懸也とて、大路を渡すと云て、広縁を三度廻し、獄門の樗木に係と名て、大床の柱に烏帽子えぼし懸につらぬきて結付けたり。
 土の穴を堀て云事だに漏と云、まして左程の座席にて加様にや有べきと後おそろし。
 石に口すゝぎ流に枕すと云事有と思者は、偸に座を起つ人もありけるとかや。
 北面は白川院御宇より被始置、衛府共あまた在けり。
 為俊守重童部より、千寿丸今犬丸とて切者にて侍けり。
 鳥羽院御時は、季範季頼父子共に、近奉召仕伝奏する折も有けり。
 去ども皆身の程を計てこそ振舞けるに、此御時の北面の下臈腹共げらふどもは、事の外に過分にて、公卿殿上人をも物共せず、無礼義
 理や下北面より上北面に移り、上北面より殿上をゆるさるゝ者も有ければ、驕れる心も有ける也。
 其内故少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいのもとに、師光成景と云者あり。
 成景は京の者小舎人童太郎丸と云けり。
 師光は阿波国の者、種根田舎人也けり。
 童部より常に召具しけるが、院ゐんの御所ごしよにて信西御前に候けるに、天台の不思議共御尋有けるに、折節廃亡して演得ざりければ、如何して御前を立べきと、身体苦く思煩たる心地色に、顕て在ければ、童是を遥見危て、沓脱、近居寄て高かに、御内より御召有て、御使三箇度参り如何と云たり。
 信西得たる折節とて罷出ぬ。
 如何にと尋ぬれば、童答て云、御座を起ばやと思召おぼしめす御気色の見させ給へば、自が虚誕也と申。
 信西打頷許て、神妙々々と感ず。
 喩へば紅山に入て道を失へりしに、牛童に教へられて都に入、所望を遂と、銀心大臣が書る筆も、今被思合と感じて、烏帽子えぼしをたび、恪勧者なんどに仕けるが、両人勒負尉になさる。
 事にふれて賢々しかりければ、院の御目にも懸進せて被召仕けり。
 師光は左衛門尉、成景は右衛門尉とぞ申ける。
 信西平治の乱に討れし時、二人共に出家して、左衛門入道は西光、右衛門入道は西景とぞ申ける。
 二人ながら御蔵の預にて、猶被召仕けり。
 其西光が子息に、近藤左衛門尉師高もろたかきり者也ければ、検非違使けんびゐし五位丞まで成て、安元元年十一月廿九日に、追儺の除目に加賀守になる。
 国務を取行間、様々の非法非礼張行之余、神社仏寺の御領、権門勢家の庄園を倒し、散々さんざんの事共にてぞ有ける。
 縦召公が跡を伝と云とも、穏便の政を行べきに、心の儘に振舞し程に、

涌泉寺やうせんじ喧嘩事

 目代もくだい師経もろつね在国の間、白山中宮の末寺に、涌泉寺やうせんじと云寺あり。
 国司の庁より程近き所也。
 彼山寺の湯屋にて、目代もくだいが舎人、馬の湯洗しけり。
 僧徒等制止して、当山創草より以来、いまだ此所にて牛馬の湯洗無先例と云けれども、国は国司の御進止なり、誰人か可御目代おんもくだいとて、在俗不当の輩、散々さんざんの悪口に及んで更に承引せざりければ、狼藉也とて涌泉寺やうせんじの衆徒蜂起して、目代もくだいが馬の尾を切、足打折、舎人がそくびを突、寺内の外へ追出す。
 此由角と馳告ければ、目代もくだい師経もろつね大に憤て、在庁国人等を駈催して、数百人の勢を引率して、彼寺に押寄て不日に坊舎を焼払。
 懸ければ北の四箇寺に、隆明寺、涌泉寺やうせんじ、長寛寺、善興寺、南四箇寺に昌隆寺、護国寺、松谷寺、連花寺、八院の衆徒等会合して、使者を中宮へ立たりけり。
 別宮佐羅中宮、三社の衆徒、急下て一になる。
 岩本、金剣、下白山三宮、奈谷寺、栄谷寺、宇谷寺三寺四社の大衆も馳集りて同意しけり。
 時刻を廻すべからず、目代もくだい師経もろつねを誅罰すべしとて、七月一日数百人の大衆喚て庁へぞ押寄ける。
 師経もろつねは涌泉寺やうせんじ焼失の後、僻事しつと思つゝ、忍て京へ逃上たりければ、庁には人こそなかりけれ。
 八院三社の衆徒の張本に、智積、覚明、法台、金台、学円、仏光寺の宗人の大衆三十余人、三寺四社の衆徒等相具して、其勢二千余騎、国分寺に衆会して、評定あり。
 目代もくだい逃上ぬる上には、国にして左右すべきに非ず、本山に訴へて、師高もろたか師経もろつねを可断罪也とて、子細を録して寺宮六人を差上て、山門に訴詔そしようしけり。
 大衆此事を聞、本社白山の事ならば左も有なん、彼社の末寺也、許容に及ずとて其沙汰なし。
 寺官等力なくして、十一月の比国に下る。
 衆徒会合して云、理訴を極ずして下向の条謂なし。
 山門にてこそ、火にも水にも成べけれとて、重て又追上す。
 寺官山上に越年して、谷々坊々に訴れども不事行、此由かくと申下たりければ、又八院三社の大衆、三寺四社の衆徒、不日に衆会して僉議せんぎして云、謹で白山妙理権現の垂跡すいしやくを尋奉れば、日本根子高瑞浄足姫御宇、
養老年中に鎮護国家の大徳神、融禅師行出し給て、星霜既に五百歳に及で、効験于今新なり。
 日本無双の霊峯として、朝家唯一の神明也。
 而を目代もくだい師経もろつね程の者に、末寺一院を被焼亡て、非黙止、此条もし無沙汰ならば、向後の嘲不断絶

白山神輿登山事

 糾断遅々の上は、神輿を本山延暦寺に奉振上、訴申さんに、大衆定贔負せられば、訴訟そしよう争か不達、若目代もくだい師経もろつねに被狂て、理訴非に被処者、我寺々に跡をとゞむべからずと議定して、各白山権現の御前にして、一味の起請を書灰に焼て、神水に浮て呑之、身の毛竪てぞ覚ける。
 さらば何をか期すべき、奉出とて、白山七所の其中に、佐羅の早松の御輿を奉飾、本地は不動明王ふどうみやうわう、悪魔降伏忿怒形、賞罰厳重の大明神だいみやうじん也。
 安元三年正月三十日辛未日、吉日也とて、御門出あり。
 同二月五日丙子を吉日として、早松の社より願成寺へつかせ給ふ。
 御共の大衆一千余人、皆甲冑を帯して是を晴とぞ出立たる。
 六日は仏が原、金剣宮へ奉入。
 此明神と申は、嵯峨天皇御宇、弘仁十四年に、此所に奉祝て三百五十余年也。
 本地は倶梨伽羅不動明王ふどうみやうわう也、魔王と威勢を諍て、邪見の剣を呑給ふ。
 当社に両三日の逗留あり。
 衆徒も神人も念珠を揉、手を叩て、帰命頂礼きみやうちやうらい、早松金剣両所権現、本地垂跡すいしやく力合せ、思を一にして、速に師高もろたか、師経もろつねを召捕給へと、口々に咒咀しけるこそ恐しけれ。
 同九日留守所より牒状あり。
 使には橘次大夫則次、田次大夫忠俊也。
 彼状云、留守所牒、白山中宮衆徒之衙まらうとい

 欲早被止衆徒之参洛

 牒衆徒載神輿、企参洛、擬訴訟そしよう之条、非不審、依之差遣在庁忠俊、尋申子細之処、就石井法橋之訴詔そしよう、令参洛之由返答之趣、理豈可然、争依小事大神哉、若為国司之御沙汰、可裁許者、速賜解状、可申上也、仍察状以牒。
   安元三年二月九日          散位財朝臣
                     散位大江朝臣
                     散位源朝臣各在判
とぞ書たりける。
 衆徒の返牒状云、
 白山中宮大衆政所返牒   留守所衙

来牒一紙被載送、神輿御上洛事

 牒、今月九日牒状同日到来、依状案事情、人成恨神起嗔、神明与衆徒鬱憤和合、而既点定吉日、早進発旅宿、人力不成敗、冥慮輙不測矣、仍返牒之状如件。
   安元三年二月九日              中宮大衆等と
書すてて、同十日金剣宮を出し奉てあはづへ著せ給ふ。
 十一日には須河社、十二日には越前国細呂宜山の麓、福龍寺森の御堂へ入せ給ふ。
 今日神人宮仕此彼より参集て、御伴の人数九千余人、在々所々に充満たり。
 是に留主所るすしよより神輿を留め奉らんために、在庁の中に糾の二郎大夫為俊、安二郎大夫
忠俊二人、所従眷属五十余人相具して追ける程に、野代山にて馳附たりけるが、坂中にて馬を倒て、足を折、目くれ腰直などしければ、これ直事ならずとて、八丈二尺御幣衣に進て、跋行留主所るすしよへ帰にけり。
 見之大衆も神人も、冥慮憑く思ければ、各勇て進上、十三日には木田河の耳、十四日には小林の宮、十五日にはかへるの堂、十六日には水津の浦、十七日には敦賀の津、北の端、金が崎の観音堂へ奉入。
 路次の煩衆徒の憤、山上洛中不斜。
 当時の貫首明雲僧正と申すは、久我太政だいじやう大臣だいじん雅実の御嫡子、六条源大納言顕通の御子也。
 白山の神輿登山の事、可禦留之由、院宣を被下之間、貫首の御沙汰として、門跡の大衆二十人に被下知之間、衆徒、院宣並寺牒を帯して、本寺の専当千仁金力等を先として、同十九日敦賀津に下て、寺牒を披露し、奉神輿
 其状云、
延暦寺政所下、           加賀馬場先達神人等

 可早止上洛儀御裁下

 右近日住僧神官等、捧神輿上道之旨、在其聞、甚以不然、相当仙洞熊野参詣之折節、訴訟そしよう奏聞無便、就なかんづく件訴、貫首度々雖沙汰、其後成敗自然遅引、重可御沙汰也、而此間無左右上洛者、雖狼戻勘発、更無訴訟そしよう裁判歟、忽任自由者、定及後悔歟、云先達云、神人閑廻随分之思案、可向後之安堵承知、止参洛之状以下。
   安元三年二月日            小寺主法師琳海
                      都維那大法師
                      寺主大法師
                      上座大法師
                      修理別当法眼和尚位
とぞ書たりける。
 中宮の衆徒僉議せんぎして云、且は本山の大衆、上下三百余人下向あり、且は制止の寺牒到来せり、先捧返牒、且く可裁許とて注状云、
請謹延暦寺御寺牒まらうといやまと

載下白山神輿上洛

 右当山権現者、掛忝天神元初之、国常立尊之、為実祚、垂迹于我朝、為仏法、濫觴于此砌也、依之代々聖主、帰妙理大菩薩之効験、世々臣公仰神融小禅師之徳行、爰為目代もくだい師経もろつね、焼払涌泉一寺、没倒寺社料所之間、以去年十月之比、欲推参裁許之処、被宣命並御下文云、冥侍聖断上載於鬱訴、相賂者可上子細云々、仍以同十一月、雖差専使訴詔、于今無御裁報、而空送年月畢、倩案事情、白山妙理権現者、雖敷地、併山門三千之聖供也、雖兎田、又当没倒、非神物、故只有名更無実、是以恒例之神事仏事、此時既断絶、以往之八講、三十講、今正及闕退、随而近来無参詣、再拝之輩、不帰敬奉幣之頴、大悲
和光わくわう之素意難測、三所垂迹之玄応失憲歟、云寺僧氏人、歎冥威之陵怠、非権迹之衰微、而奉神輿、所推参也、痛哉神明閉扉、不星宿之光、哀哉往侶迷道、永忘後栄之思、五尺之洪鐘、徒侍響於松栢之風、六時之行法、空任声於紫蘭之嵐矣、但慮神明之冥覧、定不徳、人倫之迷情争可霊応れいおう、早示現将来之吉凶、託宣当時之眉目給江登社僧、一心合掌、神女三業、低頭而致祈誓之処、人恨融于神、神嗔通于人、依夢想之告託宣之聞、憑神託示現、暫不本寺之厳制、既奉末社之神輿畢、雖然任御寺牒之趣、奉待裁報之左右所、抑留神明之上洛也、仍返牒言上如件、
   安元三年二月廿日            中宮衆徒等請文
とぞ書上たる。
 此上は山門の衆徒登山しぬ、其後神明の旅宿、訴詔そしようの遅怠、心元なしとて、中宮の大衆の中に、智積、覚明、仏光等の骨張の輩六人、同二十八日に坂本につき、同二十九日に登山して、西塔院谷、千光院の助公貞寛がもとを宿房として、子細を訴申間、貞寛満山三塔に披露しければ、大衆度々蜂起して衆議する処に、三月九日被院宣云。

加賀国温河焼失事

 右非白山々門之末寺之由、在庁雖申、大衆強訴申由、依申給、目代もくだい師経もろつね罪科
 抑依大衆之語末寺、致無道濫訴、恣動神輿、欲参洛、悪僧張本二人、南陽房明恵聖道房坐蓮 慥令召進、可問子細者也、依御気色上啓如件。
   三月九日                右京大夫泰経
 謹上、山座主僧正御房とぞ有ける。
 寺官依貫首の御下知、一山三院に披露しけれ共、是を用ず、則其夜大講堂の庭に三塔会合して僉議せんぎして云、上之為上依下之崇敬、下之為下守上之威応、千里駒非毎不一レ行、揚宝雀母不飛云事あり。
 然者しかれば末寺の訴詔そしよう疎、末寺の僧侶不苟、末寺として既に本山を憑、本山争末寺を棄ん。
 就なかんづく神輿旅宿に御座、空本社に還御あらば、白山面目を失、神慮尤難測、早本末力を一にして、神輿を迎え奉り、仏神威を垂給はば、豈無裁許哉と云ければ、尤々もつとももつともと同じけり。
 仏光以下の輩悦て、十一日に山を立て、十二日に敦賀津に著。
 僉議せんぎの趣披露しければ、白山の衆徒等勇悦で、十三日に神輿を奉出、荒智の中山立越て、海津の浦に著給ふ。
 是より御舟に召て海上に浮給へり。
 或は浜路を歩大衆もあり、或は波路を分る神人もあり。
 比叡辻の神主が夢に見たりけるは、戸津比叡辻の浦に、いみじく飾尋常なる船七艘有、日中なるに篝を燃す。
 舟ごとに狩衣に玉襷あげたる者の、北へ向て舟を漕。
 いかなる人の御物詣ぞと問ば、白山権現の神輿の御上洛之間、御迎にとて山王の出させ給御舟也と申。
 角云者の姿をみれば、身は人、面は猿にてぞ有ける。
 打驚たれば汗身にあまれり。
 不思議やと思立出て、四方を見渡せば、此山より黒雲一叢引渡、雷電ひゞきて氷の雨ふり、能美の山の峰つゞき、塩津、海津、伊吹の山、比良の裾野、和爾、片田、比叡山、唐崎、志賀、三井寺に至いたるまで、皆白平に雪ぞ降。
 十四日の子時には、客人の宮の拝殿へ奉入。
 客人の神明は、金の扉を押開、早松の明神は、錦の帳を巻揚て、御訴詔ごそしようの有様ありさま御物語おんものがたりもや有らんと身の毛竪てぞ覚ける。
 三千の衆徒踵を継、礼拝袖をぞ列ける。
 係ければ、山門大衆奏状を捧て、国司師高もろたかを被流罪
 目代もくだい師経もろつねを可禁獄之由度々奏聞に及けれ共、更に御裁許なかりけり、太政だいじやう大臣だいじん已下さも可然公卿殿上人、哀とく御裁許有べき物を、山門の訴詔そしようは昔より也に異也、大蔵卿為房、太宰師李仲卿は、朝家の重臣也しか共、大衆の訴詔そしように依、被流罪き。
 況師高もろたか、師経等もろつねらが事は、物の数にや有べき。
 子細に及ぬ事也と、内々は私語申けれ共、言に顕て奏聞の人なし。
 理や大臣重禄不諌、小臣畏罪不言、下の情不上、此患之大也と云事あり。
 去ば各口をぞ閉たりける。
 後朱雀院御宇、長暦年中に、宇治関白くわんばく頼通公の吹挙に依、三井の明尊僧正、天台座主に被補之時、山門の衆徒関白殿くわんばくどのに訴申刻、衆徒と軍兵と忽に動乱及けり。
 此事の張本と号して、頼寿、良円両僧都そうづ罪名を被勘ける程に、主上御悩の事あり。
 様々御祈有けるに、山王託宣して云、吾は是悪霊に非、死霊に非、根本こんぼん叡山の主也、内一乗の教法を味て寿とし、外に三千の僧侶を養て子とする神也。
 去し春、山僧等不慮の殃にあへり、此事訴申さん為に、玉体に奉近付也とありければ、即頼寿良円が罪名を被宥つゝ、様々の御をこたり申させ給けり。
 白川院は賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕心に随ぬ者と、常は仰の有けるとぞ申伝たる。
 鳥羽院御時、平泉寺を以、園城寺へ被付由、其聞え有しに、山門の衆徒騒動して、奏状を捧て訴申、非拠之乱訴也けれ共、院宣には帰依不浅、遂に以非為理所裁許也とぞ被仰下ける。
 堀川院御宇、寛治四年に大蔵卿為房を哀みさゝへさせ給けるに、江中納言匡房被申けるは、三千の衆徒、七社の神輿を陣頭に奉振訴申さん時、君はいかゞ可御計と奏申ければ、実に難黙止事也とぞ仰ける。
 同帝御宇、嘉保二年に伊予入道源頼義が子に、美濃守義綱朝臣、当国の新立の庄を倒しける故に、事出来て山門の久往者円応被殺害けり。
 此事訴申さん為に、同十月廿四日、山門衆徒社司寺官等を以捧解状、卅余人下洛之由風聞あり。
 武士を川原へ被差向て禦けれ共、押破て陣頭へ参。
 中宮大夫師忠が申状に依、時の関白くわんばく師道後二条殿、中務丞頼治と云侍を召て、只法に任て可禦也と仰含られければ、頼治承て興有事に思散々さんざんに禦。
 疵を蒙る神民六人、死する者二人、禰宜友実が背に矢立ける上は、社司も寺官も四方に逃失にけり。
 神慮誠難測ぞ覚ける。
 猶子細を為奏聞とて、一山僧綱等そうがうら下洛しけれ共、武士を西坂本へ差遣被禦しかば、空く帰登。
 同廿五日に大衆大講堂の庭に会合僉議せんぎして云、我山は是日本無双の霊地、国家守護の道場也、而子細奏聞の使をば被追返、寺官社司は被射殺ぬ、此上は当山に跡を止て何にかせん、中堂ちゆうだう講堂已下諸堂、大宮二宮以下の諸社灰燼と成て、各有縁の方へ赴べしとて、三千の枢を閉修学の窓を塞離山しけるが、最後の名残なごりを惜み、三山の参詣を遂、伽藍の御前に跪きては、叡慮の恨しき事を申、横川の御べうに参ては、離山袖をぞ絞ける。
 角て三千の衆徒東坂本に下七社の宝前にして、真読の大般若あり。
 社々にて申上有ける内、八王子はちわうじの御前にて、仲胤法印いまだ供奉にて御座けるが、啓白の導師として高座に上り説法して、教化の詞に云、菜種の竹馬の昔より、生立たる友実と知ながら、蒸物に合て腰絡し給殿に鏑矢一放給へ、大八王子権現だいはちわうじごんげんとぞ申ける。
 其上禰宜友実を八王子はちわうじの拝殿に舁入て、社官神女等手を拍声を挙て、関白殿くわんばくどのを呪咀しけるこそ、聞も身の毛竪けれ。
 山王慥聞食入させ給けるにや八王子はちわうじの御神殿より、鏑箭鳴出て、王城を指て鳴行とぞ、諸人の耳に聞えける。
 係りければ大衆は神明も力を合給にこそとて、離山を止て七社の神輿を荘奉て、根本中堂こんぼんちゆうだう振上奉り、関白殿くわんばくどのを咒咀しけるこそ恐ろしけれ。
 神輿の御動座是ぞ始也ける。
 権ごん中納言ぢゆうなごん匡房は、和漢の才幹世にゆるされ、廉直の政理に私なき人也。
 此事大に歎申給へり。
 師忠悪様執申さずは、関白くわんばく御憤おんいきどほりあらんや、関白くわんばく頼治に下知し給はずば、神明御恥に及給ふべしや、讒臣ざんしん国といへり。
 為世為人に哀亡国の基かなとぞ宣ける。
 去程に関白殿くわんばくどの御夢御覧じけるこそ恐ろしけれ。
 比叡大岳頽割て、御身に係ると覚え、打驚給て浅増と思召おぼしめす処に、又うつゝに東坂本の方より鏑矢の鳴り来つて、御殿の上に慥に立とぞ被聞召ける。
 即青侍を以て、被見ければ、寝殿の狐戸に、しでの付たる青榊一本、立たりけるこそ不思議なれ。
 関白殿くわんばくどのは夢も現も山王の御祟、恐ろしく被思召おぼしめされける程に、御髪際に悪瘡出来させ給へりと披露あり。
 牛馬巷に馳違、輿車門前に多し。

殿下御母立願事

 父の大殿、御母儀おぼぎ、北政所きたのまんどころの御歎不斜、かた/゛\御祈始らる。
 一ちやく手半しゆはんの薬師やくし 如来によらいの像、延命菩薩像各一体、又等身薬師やくし一体、造立供養あり。
 日吉社にして、千僧供養あり。
 又同社壇にて、十箇日の千座千僧の仁王講被行、又一切経並金泥の法華経書写供養あり。
 澄禅法印を以て被啓白
 又根本中堂こんぼんちゆうだうにして、薬師経やくしきやう転読あり。
 其外諸寺諸社にして、貴僧高僧に仰て様々御祈有ける上に、くわう りう りよく しの類、金銀幣帛の賁り、神社仏寺に被送進けれ共、御心地いよ/\重くならせ給ければ、又丈六の薬師やくし七く、阿弥陀如来あみだによらい一体造立あり。
 除病延命の御祈は、御志を尽し御座けれ共、更に御験なし。
 父京極の大殿、憑なき御有様おんありさまを御覧じて、二紙の願書をあそばして、日吉社にて可啓白之由仰て、天台座主へ被送進
 其願書に云、日吉社にて臨時の祭を居、百番の御子の渡物、百番の一物、百番の流鏑馬、百番の競馬、百番の相撲、廊の御神楽、三千人の衆徒に、毎年の冬衣食の二事十箇年連いて可送と也。
 され共いよ/\重らせ給ければ、御母儀おぼぎ北政所きたのまんどころ忍て御参社有て、七箇日御参篭あり、三の御願ごぐわんを立給へり。
 是をば人知ざりけり。
 出羽の羽黒より上たる身吉と云童御子の篭たりけるが、十禅師じふぜんじの御前にて、俄に狂出て舞乙でけるが、暫有て死入けり。
 何者ぞ門外へ舁出せと云けるに、事の様を見よとて、大庭に舁居て守之。
 やゝ在て走出で舞乙、人奇特の思を成処に、汗押拭申けるは、衆生等慥にきけ、我には十禅師権現じふぜんじごんげん乗居させ給へり。
 我御前には摂禄の御母儀おぼぎ、大殿の北政所きたのまんどころ、七箇日御参篭有て、心中に三の御願ごぐわんあり、摂禄山王の御とがめとて、親に先立て世を早し給はんとす。
 今度の命を助させ給候はば、一には八王子はちわうじの御前より二宮楼門まで、渡廊造連て可進。
 大衆参社之時、雨露之難を除かんため也。
 二には五人の姫君に御前にて、芝田楽躍せて、可見と也。
 此事こそ哀に思食おぼしめせ、女御后にもといつきかしつき、玉簾錦茵に労奉て、あたにも出入給はぬ姫君達を、一人の子の悲さは、角思召おぼしめすこそ糸惜けれ。
 三には自都の住居を捨て、御輿の下殿に候ふ。
 宮篭に相交て、唐崎より白砂を千日運て進せんと也。
 太政だいじやう大臣だいじん家の北政所きたのまんどころとして、此態已に命を捨給程の御事也。
 此三の御願ごぐわんは、七社権現の外に人不之、真に争知べき。
 親子の眤恩愛の情こそ神慮も悲思食とて、左右の袖を顔に当て、はら/\とこそ泣たりけれ。
 暫有て、母の子を思ふ志、助ばやと思召おぼしめせども、世に安かりし訴詔そしようを大事に成、所司社司射殺され、山上山下叫声、我身の上の歎也。
 禰宜友実が頼治に被射たりし疵は、我身に立たる也、血出して見せんとて、肩を脱たりければ、背の中に疵あり。
 疵の中より血の出事夥し。
 此上はいかに祈申させ給共、助奉らんとはえ申さじとて、如元舞乙づ。
 参詣の道俗男女御子宮司、身の毛竪てぞ覚ける。
 北政所きたのまんどころも忍て御身をやつし、宮篭の中に御坐けるが、つく/゛\聞食之悶絶して、地に倒もだえこがれ給けり。
 何習はせ給たる御事にあらね共、責の御子の悲さに、徒跣にて御足の欠損ずるをも顧させ給はず、御参有けるに、角聞召けん御心中、被推量哀也。
 心地観経に、悲母恩深如大海と説給へるも、今こそ被思知けれ。
 北政所きたのまんどころは泣々又御心中に、一の願を立させ給けり。
 良久有て彼童神子申けるは、既に上らせ給はんとしつるに、北政所きたのまんどころ重て御心の底に、一の願を発給へり。
 長命までこそ叶はず共、半年一年也共、今度の命を助給へ、八王子はちわうじの御前にて毎日法花講行て、法楽に備へんと也。
 此間様々の御願ごぐわん有といへ共、一乗の法味は飽思召おぼしめす事なし、聞ども/\弥めづら也。
 何の願よりも目出ければ、三年の命を奉る、其後は我を恨と思召おぼしめすな、必死決定とて権現上せ給にけり。
 北政所きたのまんどころ御所に帰入せ給て、此御物語おんものがたり有ければ、上下万人身の毛立てぞ覚ける。
 御託宣聊もたがはせ給はず、御腫物いへさせ給て、御心地本復せさせ給ければ、紀伊国田中庄は、殿下渡庄也けれ共、八王子はちわうじに御寄附あり。
 依之問答講とて今に退転なし。
 其後中二年有て、承徳二年六月廿一日に、関白殿くわんばくどの本の御髪際に又悪瘡出きさせ給へり。
 兼て御託宣有しかば、今は一筋に後世の御営有けるが、同廿八日に、大殿に先立給て薨じ給ふ、御年三十八、未盛の御事也。
 京極の前大相国師実公の長男、御母は右大臣師房御娘也。
 才幹抜粋にして、容貌端正に御座し上、時の関白くわんばくに御座しかば、百官袂を絞り、万庶悲を含り。
 まして父の大殿、北政所きたのまんどころの御心中、たゞ推量べし。
 此御病は御髪際に出て、悪瘡にて大に腫させ給へり。
 御看病に伺候したる輩、立烏帽子たてえぼしを著て前後に侍けるが、互に見ぬ程に大に高腫させ給たれば、入棺可葬送御有様おんありさまにも非。
 父の大殿是を守御覧じて、御涙に咽ばせ給ながら、御行水召れて、春日大明神かすがだいみやうじんを伏拝せ給て、子息師通山王の御咎とて世を早し候ぬ。
 いかに春日明神かすがみやうじんは、思食おぼしめし捨させ給けるやらん。
 但定業限あらん命、今は力及侍らず、かゝる浅間敷有様ありさまにて、恥隠べき様なし、此後の氏人々々たるべきならば、此姿を本の形に成給へ、最後の孝養仕んと、泣々なくなく口説給けるこそ哀なれ。
 御納受有けるにや、忽に御腫のしへさせ給て、入棺事畢にけり。
 関白殿くわんばくどののさこそ御心も猛、理つよくゆゝしき人にて御座しか共、事の急に成けるには、御命を惜給けり、誠に惜べき御齢也。
 未四十にだにも成せ給はず、何事も先世の事と申ながら、親に先立せ給ふ御怨も哀也し御事也。
 されば昔も今も山門の訴詔そしようは恐しき事也、大衆憤をなし、山王の衆徒を育御坐事難黙止と申伝たり。
 中宮大夫師忠、奸邪の詞を出さずは、かゝる大事にや及べき。
 江中納言匡房卿の大に被歎申けるも、思知るゝとぞ申あへりける。
 関白殿くわんばくどの薨去の後、八王子はちわうじと三宮との神殿の間、磐石あり。
 彼石の下に、雨の降夜は、常に人の愁吟する声聞えけり。
 参詣の貴賎あやしみ思けり。
 余多人の夢に見けるは、束帯したる気高上臈の仰には、我はこれ前関白くわんばく従一位じゆいちゐ内大臣ないだいじん師通也。
 八王子権現はちわうじごんげん我魂を此岩の下に籠置せ給へり。
 さらぬだに悲、雨の降夜は石をとりて責押に依て、其苦み難堪也とて、石の中に御座とぞ示給たりける。
 星霜やう/\経程に、今は愁吟の音絶にけり。
 人の夢に、我久磐石の下に被籠置たりつれ共、長日の法華講経の功力に依、相助り、都卒天宮に生たりと告られけり。
 さてこそ磐石の重き苦の御音もなかりけれ。
 悪様に申勧まいらせたりける中宮大夫師忠も、幾程なくして失にけり。
 禰宜友実を射たりける中務丞頼治自害して、一類も皆亡けり。
 神明罰愚人とは此事にや、申すも中々疎也。
 今年改元有て治承元年といふ。

山門御輿振事

 治承元年四月十三日辰刻に、山門大衆日吉七社の神輿を奉荘、根本中堂こんぼんちゆうだうへ振上奉、先八王子はちわうじ、客人権現、 十禅師じふぜんじ、三社の神輿下洛有。
 白山、早松の神輿、同振下奉、大岳水呑不動堂、西坂本、下松、伐堤、梅忠、法城寺に成ければ、祗園三社、北野京極寺末社なれば、賀茂川原待受て、力合て振たりけり。
 東北院の辺より神人宮仕多来副て、手を扣音調て、をめき叫、貴賎上下走集て之拝し奉る。
 法施の声々響天、財施の散米地を埋たり。
 一条を西へぞ入せ給ける。
 まだ朝の事なれば、神宝日に輝て、日月地に落給へるかと覚たり。
 源平の軍兵依勅命四方の陣を警固す。
 神輿堀川猪熊を過させ給て、北の陣より達智門を志てぞふり寄たてまつる。
 源兵庫頭頼政は、赤地錦直垂に、品皮威の鎧著て、五枚甲に滋藤の弓、廿四指たる大中黒の箭負て、宿赭白毛馬に白伏輪の鞍置て乗、三十余騎にて固たり。
 神輿既に門前近入せ給ければ、頼政急下馬す。
 甲を脱弓を平め、左右の臂ひぢを地に突。
 頭を傾け奉拝。
 大将軍角しける上は、家子も郎等も各下馬して拝けり。
 大衆見之子細有らんとして、暫神輿をゆらへたり。
 頼政は丁七唱と云者を招で、子細を含て大衆の中へ使者に立。
 唱は小桜を黄に返たる鎧に、甲を脇に挟み弓を平め、神輿近参寄、敬屈して云、是は渡部党、箕田源氏綱が末葉に、丁七唱と申者にて侍。
 大衆の御中へ可申とて、源兵庫頭殿の御使に参て侍。
 加賀守師高もろたか狼藉の事に依、聖断遅々之間、山王神輿陣頭に入せ給べき由、其聞有て公家殊に騒驚き思召おぼしめし、門々を可守護之旨、勅定を蒙て、源平の官兵四方の陣を固る内、達智門を警固仕、昔は源平勝劣なかりき。
 今は源氏においては無力如し。
 頼政纔に其末に残て、たま/\綸言を蒙、勅命背き難ければ此門を固むる計也。
 然共年来医王山に首を傾奉て、子孫の神恩を奉仰、今更神輿に向奉て、弓を引可矢ならねば、門を開て下馬仕引退て神輿を可入、其上纔の小勢也、衆徒を禦奉るに及ず、此上は大衆の御計たるべし。
 但三千の衆徒神輿を先立奉り、頼政わう弱の勢にて固て候門を、推破奉入ては、衆徒御高名候まじ、京童部が弱目の水とか笑申さん事をば、争か可御憚
 東面の北脇陽明門をば、小松こまつの内大臣ないだいじん重盛公しげもりこう、三万余騎にて固らる。
 其より入せ御座べくや候らん。
 さらば神威の程も顕れ、御訴詔ごそしようも成就し、衆徒後代の御高名にても候はんずれ。
 角申を押て入せ給はば、頼政今日より弓箭を捨て、命をば君に奉、骸を山王の御前にて曝べしと申せと候とて、太刀のつか砕よと握らへて立たり。
 大衆聞之、若衆徒は何条是非にや及べき、唯押破て陣頭へ奉入と云けるを、物に心得たる大衆老僧は、さればこそ子細有らんと思つるにとて、奉神輿暫僉議せんぎしけり。

豪雲僉議せんぎの

 其中に西塔の法師に、摂津竪者豪雲と云者あり、悪僧にして学匠也。
 詩歌に達して口利也けるが、大音挙て僉議せんぎしけるは、大内の四方門々端多し、強に北陣より非入。
 就なかんづく彼頼政は、六孫王より以来、弓箭の芸に携て、代々不覚の名をとらず、是は其家なれば、いかゞせん、和漢の才人風月の達者、かた/゛\優の仁にて有なる者を、

頼雅歌事

 実や一とせ近衛院御位の時、当座の御会に、深山見花と云ふ題給りて、
  深山木の其梢共みえざりし桜は花にあらはれにけり
と秀歌仕たりけるやさ男、さる情深き名仁ぞや。
 首を山王に傾て、年久掌を衆徒に合て降を乞、嗷々無情門々端多し、頼政が申状に随はるべき歟哉とののしりければ、大衆尤々もつとももつともと同じて三社の神輿を舁返し、東面の北の端、陽明門をぞ破ける。
 此門をば重盛しげもりの軍兵ぞ固たりける。
 警固の武士は神輿入たてまつらじと支たり。
 大衆神人は陣頭を押破らんとしける程に、以外に狼藉出来て、官兵矢を放。
 其矢十禅師じふぜんじの御輿に立。
 神人一人宮仕一人射殺さる。
 蒙疵者も多かりけり。
 神輿に矢立神民殺害の上は、衆徒音を揚てをめき叫事夥し。
 見聞の貴賎も身毛立ばかり也。
 大衆は神輿を陣頭に奉振捨、なくなく本山に帰のぼりぬ。
 抑豪雲と云は、二品中務親王具平七代の孫、民部大輔憲政が子也けり。
 訴詔そしようの事有て、後白川法皇の御所に参す。
 折節法皇南殿に出御有て、御座いかなる僧ぞと御尋あり。
 山僧摂津竪者豪雲と申者にて侍と奏したり。
 法皇被仰下けるは、実や和僧は山門僉議者せんぎしやと聞召、己が山門の講堂の庭にて僉議せんぎするならん様に只今申せ、訴詔そしようあらば直に可裁許と、豪雲蒙勅定、頭を地に傾畏て奏しけるは、山門の僉議せんぎと申事は、異なる様に侍、歌詠ずる音にもあらず、経論を説音にも非、又指向言談する体をもはなれたり、先王の舞を舞なるには、面摸の下にて鼻をにかむる事に侍る也。
 三塔の僉議せんぎと申事は、大講堂の庭に三千人の衆徒会合して、破たる袈裟にて頭を裹、入堂杖とて三尺許なる杖を面々に突、道芝の露打払、小石一づつ持、其石に尻懸居並るに、弟子にも同宿にも、聞しられぬ様にもてなし、鼻を押へ声を替て、満山の大衆立廻られよやと申て、訴詔そしようの趣を僉議せんぎ仕に、可然をば尤々もつとももつともと同ず、不然をば此条無謂と申、仮令勅定なればとて、ひた頭直面にては争か僉議せんぎ仕べきと申上れば、法皇先与に入せ給、早々罷帰て山門にて僉議せんぎするらん様に出立て、急参て僉議せんぎ仕れと被仰下
 豪雲宿坊に帰て、同宿共には袈裟にて裹頭、童部には直垂の袖にて頭裹せて、三十余人引具して、御前の雨打の石に尻係て並居たり。
 豪雲己が鼻を押へて、大衆立廻られよやと云て、我訴訟そしようの趣を、事の始より終まで一時が程こそ申たれ。
 同宿共兼て存知の事なれば、尤々もつとももつともと訴詔そしよう其謂あり、道理顕然也、早可奏聞、聖代明時之政化、争か無御裁許哉と申たりければ、法皇御興有て、則被仰付たりけるとかや。
 係者也ければ、さしもの乱の折節に、僉議せんぎして頼政難を遁たり。
 蔵人左少弁させうべん兼光仰を承て、先例を大外記師尚に被尋ける上、院の殿上にて、公卿僉議くぎやうせんぎあり。
 保安の例とて、神輿を祗園社へ可渡之由、諸卿各被申ければ、未刻に及で、彼社の別当権大僧都ごんのだいそうづ澄憲を召て、神輿を可迎入由仰含けり。
 澄憲畏つて奏申、我山は是日本無双之霊地、鎮護国家之道場也、我神は又和光垂跡わくわうすいしやく之根元、効験掲焉之明神也、日吉の神威、異于他、山門の効験勝于世、恵亮脳を摧て、清和位に即給、尊意剣を振て、将門終に亡にき、神は又あくまで一乗の法味をなめて、感応風雲よりも速に、独百神の化導に秀、賞罰日月よりも明なり。
 住吉明神託宣云、天慶年中に凶賊を誅する陣には、我大将軍にして、山王副将軍たり。
 康平年中の官軍には、山王大将軍として、我副将軍たりきと、依之代々の聖主、一山験徳を憑、世々の臣公七社の冥鑒を仰。
 神の神たるは、人の礼に依て也。
 人の人たるは神の加護に任たり。
 而を今度朝儀遅々の間、神輿入洛に及、尤恐思召おぼしめすべき事也、伝聞延喜帝の御宇に、飢饉疫癘起て、天下に餓死する者多し。
 帝民の亡るを歎思食おぼしめして、我山に仰付て可祈止之由勅定あり、三塔会合して、僉議せんぎ区也。
 雨を祈雨を降し、日を祈て日を輝す事、非先例
 而に普天の飢饉四海の疫癘、いかゞ有べきと云大衆あり。
 或云辞申せば勅命を背に似たり、領掌すれば先蹤なしといへ共、皇王を守護し、夷狄を降伏し、天災を除地夭を転ずる事、我山万山に勝たり。
 況閻浮提人病之良薬、若人有病得聞是経、病即消滅不老不死と説り。
 一乗法花を転読して、七社権現に祈誓せば、何どか勝利なからんやと云大衆あり。
 或云、七難を滅して七福を生じ、不祥を退、夭蘖を払はんが為に、仏護国の法を説給へり。
 然者しかれば仁王経を転読講尺此時に当れりと云ければ、此義最然べしとて、三千衆徒一七箇日、山上三塔の諸堂にして、一万部の仁王般若を転読して、供養を山王の宝前にて遂けり、飢饉に責られ疫癘に浸れて、親に後る子、恩徳の高き涙を流し、子を先立る親、哀愍あいみんの深き袖を絞る。
 兄弟夫婦互に別亡ければ、京中も田舎も、皆触穢にて社参の者なし。
 折節四月上旬にて、導師説法の終に、卯月は神の月なれども、再拝と云人もなく、八日は薬師やくしの日なれども、南無と唱る声もせず、緋の玉垣地に倒、青葉の榊も不差けりとしたりければ、三千の衆徒一同に墨染の袖をぞ絞ける。
 神明御納受有ければ、則夜に帝の御夢想に、比叡山より天童二人下て、左手に瑠璃の壺を持、右の手に榊の枝を持て、榊を壺の水に指入て、京中辺土の病者に灑ければ、家々より青鬼赤鬼いくらと云数を知ず出て、さると叡覧あり。
 打驚御座て、朕が歎衆徒の祈、仏神に感応して、無為の代に成ぬるにこそと御感有て、説法の草案を被召、御衣の袖をぞ絞らせ給ける。
 いつしか民の煙もにぎはひ、烟絶せぬ御代に改たりければ、古歌を思食おぼしめし出て、
  高きやに上てみれば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり
と、かゝる目出き我山也。
 係目出き垂跡すいしやく也。
 下洛実不輙、衆徒の憤冥慮に通する時、神輿必入洛あり、急可裁許哉。

山王垂跡すいしやくの

 凡山王権現と申は、磯城島金□宮、即位元年、大和国城上郡大三輪神と天降給しが、大津宮即位元年に、俗形老翁の体にて、大比叡大明神だいみやうじんと顕給へり。
 大乗院の座主慶命、山王の本地を被祈申けるに、御託宣に云、此にして無量歳仏果を期し、是にして無量歳群生を利すと仰ければ、座主提婆品の我見釈迦如来しやかによらい於無量劫、難行苦行積功累徳、求菩薩道未曾止息、観三千大千世界、乃至無有如芥子許非是菩提捨身命処と云文に思合て、大宮権現ははや釈尊の示現也けり。
 されば我滅度後於末法中、現大明神だいみやうじん広度衆生とも仰られ、汝勿帝泣於閻浮提、或復還生現大明神だいみやうじんとも慰給けるは、日本叡岳の麓に、日吉の大明神だいみやうじんと垂跡すいしやくし給べき事を説給けるにこそと、感涙をぞ流されける。
 地主権現と申は、豹留尊仏の時、天竺の南海に、一切衆生、悉有仏性と唱る波立て、東北方へ引けるに、彼波に乗て留らん所に落付んと思食おぼしめしけるに、遥はるかに百千万里の波路を凌て、小比叡の杉下に留らせ給けり、其後天照大神てんせうだいじん天の岩戸を開、天御鋒を以て海中を捜せ給しに、鋒に当人あり。
 誰人ぞと尋給ければ、我は是日本国の地主也とぞ答給ける、昔天地開闢の初の、国常立の尊の天降給へる也。
 此神日吉に顕給けるには、三津川の水五色の浪を流しけり。
 されば我朝は、大比叡小比叡とて大宮二宮の御国也。
 迹を叡山の麓に垂て、威を一朝の間に振、円宗守護之霊神、王城鎮護之霊社也。
 依之代々の帰敬是深、世々の崇信不浅、四海之甲乙掌を合、諸国之男女歩を運べり。
 係目出き神輿を塵灰に蹴立て、白昼に雑人共に交奉り入奉らん事、其恐侍るべしと奏申たりければ、上一人より奉始、当参の卿相けいしやう雲客うんかく、随喜の涙を流して、偈仰の袖を絞けり。
 仍及晩陰祇園社へ奉入、神輿に立所の矢をば、神人を以て抜せられけり。
 山門の大衆訴詔そしようを致す時、聖断遅々の間、神輿を下し奉事、度々に及べり。
 鳥羽院御宇嘉承三年三月三十日、尊勝寺灌頂くわんぢやうの事に依、二社八王子はちわうじ客人神輿、下松まで下給へり。
 可二レ裁許之由、即時に被仰下ければ、其夜御帰座、四月一日彼寺灌頂くわんぢやう天台両門之旨、被仰下畢。
 崇徳院御宇、保安四年七月十八日、忠盛朝臣、神人殺害事に依、三聖並、三宮奉神輿
 官軍川原に馳向禦間、神人等神輿を奉捨分散す。
 大衆数百人感神院に引篭て官軍と合戦に及。
 同御宇保延四年四月廿九日、賀茂社領住人、日吉馬上対捍の事に依、八王子はちわうじ、客人、十禅師じふぜんじ三社の神輿を仙洞へ、鳥羽院奉振。
 即時に裁許有ければ、大衆帰山の次で、鴨禰宜住宅を破却しけり。
 近衛院御宇、久安三年六月廿八日、清盛朝臣郎従依神人殺害事、三社の御輿を陣頭に奉振。
 同日に忠盛可配流之由、被仰下畢。
 二条院御宇、永暦元年十一月十二日、菅貞衡朝臣息男資成、依有智山僧坊焼失事、三社の御輿を仙洞へ後白川院 奉振当日貞衡解官資成流罪、安楽寺住僧六人禁獄之由、右大弁雅頼を以て、大衆の中被仰下
 大衆不日の勅裁を悦予して、倶舎頌を誦して帰山畢、やさしかりける事也。
 高倉院御宇、嘉応元年十二月廿二日、尾張国目代もくだい政友、依平野の神人陵礫の事、三社の神輿を奉大内、裁報遅々の間、御輿を南殿に向奉振居
 同廿四日成親卿なりちかのきやう解官配流、備中国政友、禁獄之由被宣下畢。
 神輿下洛の御事、代々及六箇度、毎度に武士を召て被禦けれ共、御輿に矢を進る事はなかりき。
 今度の御輿に矢の立事、乱国基歟、浅間しと云も疎也。
 人恨神怒れば災害必成といへり、天下の大事に及なんと、心ある者は上下皆歎恐けり。
 四月十四日に、大衆なを可下洛之由聞えければ、夜中に主上腰与に召て、院ゐんの御所ごしよ法住寺殿ほふぢゆうじどのへ行幸、内大臣ないだいじん重盛しげもり以下の人々、直衣に矢負て供奉せらる。
 軍兵御輿の前後に打囲て雲霞の如く也。
 中宮は御車にて行啓、禁中何と無く周章騒、男女東西に走迷へり。
 関白くわんばく以下大臣公卿殿上の侍臣皆馳参りけり。
 聖断遅々の間、衆徒多矢にあたり、神人殺害に及上は、神輿の残四社を奉振下、七社の神殿、三塔の仏閣一宇も不残焼払、山野に交るべし、悲哉西光一人が姦邪に依て、忽に園融十乗の教法を亡さん事をと、三千の衆徒僉議せんぎすと聞えければ、当山の上綱を召て、可御成敗之旨依仰下、十五日勅定を披露の為に、僧綱等そうがうら登山しけるを、衆徒嗔を成て、水飲に下向て追臨す。
 僧綱そうがう色を失て逃下。

師高もろたか流罪宣事

 廿日加賀守師高もろたか解官、尾張国流罪由被宣下
 上卿は権ごん中納言ぢゆうなごん忠親卿ただちかのきやう也。
 此宣旨を以、急登山して、山門騒動を可鎮之由仰けれ共、衆徒の蜂起に恐、登山せんと云人なし。
 平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやう、其時は中納言にて御座けるが、本より心猛勇る人にて、乱の中の面目とや被思けん、侍十人花を折て装束し、雑色共人に至いたるまで当色きせて出立給へり。
 山上には、時忠登山あらば、速にもとゞりを切、湖水にはめよなんど僉議せんぎすと聞り。
 時忠卿ときただのきやう既に有登山
 実に衆徒の嗔れる気色面を向べき様に非、只今可事体也ければ、供に有つる侍も雑色も、大床の下御堂の陰に忍居たり。
 時忠卿ときただのきやうは少も騒給はず、大講堂の庭に進出て、懐中より矢立墨筆取出して、所司を招硯に水入、畳紙に一筆書てぞ給たりける。
 所司状を捧て大衆の前ことに披露す。
 其詞に云、衆徒致濫悪者、魔縁之所行、明王加制止者、善逝之加護也とぞ書たりける。
 大衆各見之、理なれば不引張、還優に書れたる一筆かなと、称美賛嘆に及落涙する衆徒も多かりけり。
 其後師高もろたか解官配流の宣旨を取出て披露あり。
 今月十三日叡山衆徒、舁日吉社、感神院等之神輿、不勅制入陣中
 爰警固之輩、相禦凶党之間、其矢誤中神輿事、雖図、何不其科、宣検非違使けんびゐし、召平利家、同家兼、藤原通久、同成直、同光景、田使俊行等、給獄所者也。
 従五位上加賀守藤原朝臣師高もろたか解官流罪尾張国、目代もくだい師経もろつね流罪備後国、奉神輿官兵七人、禁獄事者、今日宣下訖。
 以此旨、可露山上之由所候也、恐々謹言。
   四月二十日                権ごん中納言ぢゆうなごん藤原光能
執当法眼御房へとぞ有ける。
 追書に云、禁獄官兵等之交名、山上定令不審候歟、仍内々委相尋尻付交名一通、所相副候也、平利家字平次、是は薩摩入道家季孫、中務丞家資子、同家兼字平五、故筑後入道家貞孫、平田太郎家継子、藤原通久字加藤太、同成直字十郎、是は右馬允成高子、同光景字新次郎、是は前左衛門尉忠清子、成田兵衛尉為成、田使俊行、難波吾郎と注したり。
 衆徒取廻々々見之事柄よかりければ、逃隠たりつる侍も雑色も、此彼より出たりけり。
 時忠卿ときただのきやう則下洛して、参内事の次第一々に被奏聞けり、ゆゝしくぞ聞えける。
 後に大衆口々に申けるは、哀能はいみじき者かな、此時忠が五言四句の筆のすさみを以て、三千一山の憤を平げつゝ、難逃虎口を遁て、見るべき身の恥を逃ぬるこそ有難けれと感じけり。
 昔大国に魏文帝と云御門御座けり。
 其弟に陳思王と云ふ人あり。
 同母の兄弟にて、蘭菊の契深かるべかりけるに、何事の隔有けるやらん、兄の文帝、陳思王を悪で殺さんと思つゝ、弟を前に呼居て云けるは、汝七歩が間に詩を造、不然者しかれば速に汝を可殺と聞えければ、陳思死を逃んが為に、文帝の前を立ちて七歩しける間に、煮豆燃豆□豆在釜中泣、本是同根生、相煎何太急と云たりけれ。
 文帝感之弟を許し、厚断金兄弟の昵を成けり。
 是を七歩の才といへり。
 陳思王は七歩の詩を造て一生の命を助け、時忠卿ときただのきやうは両句の筆に依、三千の恥を遁たり。
 誠に時の災をまぬかるゝ事、芸能に過たるはなかりけり。

京中焼失事

 四月廿八日亥刻に、樋口、富小路より焼亡あり。
 是は神輿を奉禦とて狼藉に及武士七人、禁獄之内、十禅師じふぜんじの御輿に、矢を射立進らせける。
 成田兵衛為成と云者は、小松殿こまつどのの乳人子也。
 ことに重科の者也。
 衆徒の手に給て、唐崎に八付にせん罧にせんなど訴申ければ、小松殿こまつどのよりとかく山門を被宥て、禁獄をも乞免し、伊賀国へ流せとて所領へ下遺けるが、今日の晩程に、遺惜まんとて、同僚共が樋口富小路なる所に寄合て酒盛しけり。
 酒は飲ば酔習なれ共、各物狂しき心地出来て、成田が前に杯の有ける時、或者が申けるは、兵衛殿田舎へ御下向に、御肴に進べき物なし、便宜能是こそ候へとて、もとゞり切て抛出たり。
 又或者が、穴面白や、あれに劣べきかとて、耳を切て抛出す。
 又或仁思中には、大事の財惜からず、大事の財には命に過ぎたる者有まじ、是を希にして、腹掻切て臥ぬ。
 成田兵衛が、穴ゆゝしの肴共や、帰上て又酒飲事も難有、為成も肴出さんとて、自害して臥。
 家主の男思けるは、此者共かゝらんには、我身残たり共、六波羅へ被召出安穏なるまじとて、家に火さして炎の中に飛入て焼にけり。
 折節巽の風はげしく吹て、乾を指て燃ひろごる。
 融大臣塩釜や川原院より焼そめて、名所卅余箇所公卿家十七箇所焼にけり。
 染殿と申すは忠仁公の家也。
 正親町京極 小一条殿と申は、貞仁公の家とかや。
 近衛東洞院 染殿の南には、淸和院、小二条、款冬殿と申は、二条東洞院也 三条宮の御子、左の小蔵宮とぞ申ける。
 照宣公の堀河殿、大炊御門、冷泉院、中御門の高陽院、寛平法皇の亭子院、永頼三位の山井殿、鷹司殿、大炊殿、押小路町の鴨井殿、六条院、小松殿こまつどの、公任大納言の四条殿、良相公の西三条、高明御子の西宮、三条朱雀に、朱雀院、神泉苑、勧学院、奨学院、穀倉院、東三条近衛院、滋野井本院、小野宮、冬嗣大臣の閑院殿、北野天神紅梅殿、梅苑、桃苑、高松殿、中務の宮の千種殿、枇杷殿、一院京極殿、天の橋立に至いたるまで、一字も残らず焼にけり。
 まして其外家々は数を知ず、はては大内に吹付たりければ、朱雀門、応天門、会昌門、陽明、待賢、郁芳門、清涼、紫宸、大極殿、豊楽院、天透垣、竜の小路、殿上の小庭、延喜の荒海、見参の立板、動の橋、諸司八省までも、皆焼亡ぬ。
 浅增と云も疎也。
 盲ト事
 大炊御門堀川に、盲の占する入道あり。
 占云言時日を違ず、人皆さすのみこと思へり。
 焼亡とののしりければ、此の盲目何く候ぞと問。
 火本は樋口富小路とこそ聞と云。
 盲しばし打案じて、戯呼一定此火は是様へ可来焼亡也、ゆゝしき大焼亡かな、在地の人々も、家々壊儲物共したゝめ置べきぞと云。
 聞者皆をかしう思て、樋口は遥の下、富の小路は東の端、さしもやは有べき、いかにと意得てかくは云ぞと問ければ、占は推条口占とて、火口といへば、燃広がらん、富小路といへば、鳶は天狗の乗物也、少路は歩道也、天狗は愛宕山に住ば、天狗のしわざにて、巽の樋口より乾の愛宕を指て、筋違さまに焼ぬと覚ゆとて、妻子引具し資財取運て逃にけり。
 人嗚呼がましく思けれ共、焼て後にぞ思合ける。

大極殿焼失事

 樋口富少路よりすぢかへに乾を差て、車の輪程也ける炎、内裡の方へぞ飛行ける。
 これ直事非、比叡山より猿共が、松に火を付持下つゝ、京中を焼払ふとぞ、人の夢には見たりける。
 神輿に矢立、神人宮司、被射殺たりければ、山王嗔を成給、角亡し給けるにこそ。
 人恨神嗔、必災害成といへり。
 誠哉此事、大極殿〔は〕清和帝の御時、貞観十八年四月九日焼たりけるを、同十九年正月三日、陽成院の御即位は豊楽院にてぞ有ける。
 元慶元年四月九日事始有て、同三年十月八日ぞ被造出たりける。
 後冷泉院御宇、天喜五年二月廿一日に又焼にけり。
 治暦四年八月二日事始有て、同年十月十日棟上有けれ共不造出、後冷泉院は隠れさせ給にけり。
 後三条院の御時、延久四年十月五日、被造出行幸有て宴会被行、文人詩を奉、伶人楽をぞ奏しける。
 今は世末に成、国の力衰て、又造出さるゝ事難もやあらんと、皆人嘆合給けり。
 嵯峨帝の御時、空海僧都そうづ勅を奉て、大極殿の額を被書たり。
 小野道風見之大極殿には非、火極殿とぞ見えたる、火極とは火極と読り、未来いかゞ有べかるらん、筆勢過たりとぞ笑ける。
 去ばにや、今かく亡ぬるこそ浅増けれ。

保巻 第五
座主流罪事

 安元あんげん三年五月五日、明雲めいうん僧正そうじやう公請之上、蔵人を遣て、被返御本尊
 其上使庁の使を以て、今度奉下神輿、大衆の張本を被召けり。
 加賀国には座主の御房領あり。
 師高もろたか国務之刻、是を停廃の間、其宿意に依て、門徒の大衆を語らひ訴訟そしようを致。
 既すでに朝家の及御大事之由、西光さいくわう法師ほふし父子讒奏之間、法皇大に逆鱗有て、殊に重科を行べき由被思召おぼしめされけり。
 同六日検非違使けんびゐし師房、使庁の下部二十余人よにんを相具して、白河高畠の座主の御坊内に乱入て、狼藉古今に絶たり。
 軈当日に印鎰を御経蔵へ奉渡。
 山門京都耳目を驚せり。
 衆徒谷々坊々に寄合々々私語けり。
 十一日七条の七宮覚快 天台座主てんだいざすに成せ給。
 是は鳥羽院とばのゐんの第七の皇子、故青蓮院大僧正だいそうじやう行玄の御弟子なり。
 同日に明法へ被尋下、宣旨状云、延暦寺前座主僧正そうじやう明雲めいうん条々所犯事 一故大僧正だいそうじやう快秀、為当山座主間、相語悪僧等、令払山門事。
 一去嘉応元年、就美濃国比良野庄民等、結構訴訟そしよう、発当山之悪徒、令入宮城狼藉事。
 一近日大衆蜂起事、次第超過、彼嘉応狼藉、先一旦意趣、催三塔凶徒、外構制止之詞、内成騒動企、蔑爾朝章、欲仏法、或以凶徒、乱入陣中、数箇所放火、或対警固之輩合戦、或帯兵具、可洛之由、令執奏、誠是朝家之怨敵、偏叡山えいさん之魔滅者歟、仰下明法博士、就彼条々所一レ犯、可申明雲めいうん当罪名

   安元あんげん三年五月十一日        蔵人頭右近衛中将藤原朝臣光能奉とぞ有ける。
 十二日に前座主所職を被止之上、大衆の張本を出すべき由、検非違使けんびゐし二人を被差遣、水火の責に及けり。
 此事に依て衆徒憤申て、猶参洛すべしと聞ければ、内裏並に法住寺殿ほふぢゆうじどのに軍兵を被召置、大臣以下殿上の侍臣皆馳集りければ、京中の上下騒あへり。

山門奏状事

 同十五日に前座主明雲めいうん僧正そうじやう死罪一等、可遠流之由法家勘申之旨風聞有ければ、衆徒捧奏状云、
延暦寺三千大衆法師等誠惶誠恐謹言。
 請特蒙天恩、早被止前座主明雲めいうん配流並私領没官子細事右座主、是挑法燈之職、和尚又伝戒光之仁也、若処重科、被配流者、豈非天台円宗、忽滅菩薩大戒、永矢哉、因茲我山開闢之後、貫首草創以来、百王理乱、雖是異、一山安危、雖時、只有帰敬之礼、都無流罪之例、就なかんづく明雲めいうん是顕密之棟梁、智行之賢徳也、一山九院之陵遅、此時復旧跡、四教三密之紹隆其儀不恥、上代、今忽赴遠方、永別我山、衆徒悲歎何事如之、何況前座主、於天朝者、是一乗経之師範也、須千歳之供給於仙院者、又菩薩戒之和尚也、盍三時之礼敬、今没官所知、更被重科、寧非大逆罪哉、謹尋異域訪旧例、未一朝国師無一レ故、蒙逆害矣、抑配流科怠何事乎、如閭巷説者、或人讒言度々、山門訴訟そしよう、或追却快秀僧正そうじやう、或訴申成親卿なりちかのきやう、又当時師高もろたか之事等、偏是明雲めいうん之結構者也、因此讒達忽蒙勅勘、云々、若如風聞者、何用浮言、須決彼此真偽也、至件等事者、大衆鬱憤致訴訟そしよう之刻、於前座主者、毎度禁制之、蓋山門動揺、為貫主痛故也、対決処無其隠歟、設有不慮越度、何及重科耶、衆徒等、謹驚天聴末寺愚僧之処、被其張本、為歎之間、終失本山之高僧之条、不慮愁無物取一レ喩、夫不聖勅、勿怨望、是常例也、今雖天裁、還蒙厳罰、未意矣、抑我君太上法皇、偏仰医王山王之冥徳、久帰台岳三宝、専愍山修山学之襌侶、忝抽興隆之叡慮、而今仁恩忽変、誅戮俄来、数百歳之仏日云、迷心神之所行、三千人さんぜんにん之胸火熾燃、不愚身之所一レ措、若明雲めいうん配流者、衆徒誰留跡、鎮護国家道場、眼前欲魔滅、早宥明雲めいうん配流、被止私領没官者、十二願王新護持玉体、三千衆徒弥奉宝算矣、誠惶誠恐謹言。
   安元あんげん三年五月日
とぞ書たりける。
 但此奏状、誰人を以つてか伝奏すべきと僉議せんぎありけるに、禅門平相国は、既すでに一朝之固、万人之眼也。
 天下の乱山上の愁、争か其成敗なかるべき。
 就なかんづく前座主は是れ大相国たいしやうこくの為に菩薩戒の和尚也。
 此事に於ては尤可諫鼓
 若此憤を散ぜずして、大戒の和尚を令還俗、なほ被流罪者、則吾山の仏法破滅時至るなるべし、一字を習伝、一戒を受持たらん者は、師資の門葉也、誰人か背之、相国禅門受戒の弟子たり、仙洞を宥申されんに、なびき給はずば、三千の学侶、誰か身命を惜べきとて、各大講堂の前にして、満山の仏神伽藍の護法を驚奉て、泣々なくなく起請して云、衆徒の鬱憤不散して、固被流罪者、大衆皆従彼同蒙配流之罪、満山学侶一人も不留。
 我山存亡只在此成敗、宣此趣執申とて、同十七日に、所司等を以、福原の禅門大相国たいしやうこくへぞ送遣ける。
 二十日前座主の罪科の事、可僉議せんぎとて、太政だいじやう大臣だいじん以下の公卿十三人参内あり。
 陣の座に著て其定有けれ共、冥には七社権現の照覧も難測、顕には三千衆徒の鬱憤も恐しくやおぼしけん、諸卿各口を閉て申す旨もなかりけり。
 其中に八条中納言長方卿、其時は左大弁宰相にて御座けるが被申けるは、法華の勘文に任て、死罪一等を減じて、雖遠流、前座主僧正そうじやうは、顕密兼学、浄行持律の上、公家には一乗園宗御師範也。
 法皇には円頓受戒の和尚たり、御経の師、御戒の師にや、被重科事、冥の照覧難測、還俗遠流を可宥かと、無憚被申ければ、当座の公卿、各長方卿の被定申之義に同ずと被申けれ共、法皇の御憤おんいきどほり深かりければ、終に流罪に定りけり。
 太政だいじやう入道にふだうも此事角と承ければ、申止進らせんとて被参たれ共、御風の気とて御前へも召れず、御憤おんいきどほりの深きよと心得て出給にけり。
 二十一日に前座主明雲めいうん僧正そうじやうをば、大納言大夫藤原松枝と名を改て、伊豆国へ流罪と定る。
 係りければ、山門なほ騒動して、又神輿を振奉べしと聞えければ、御輿を下奉らんとて、西坂本の坂口、此彼松木を切持て行て、逆木にこそ引たりけれ。
 最をかしく見えし。
 いかなる者の読たるやらん、門の柱に御改名を添て、
  松枝は皆さかもぎに切はてて山にはざすにする者もなし
寺法師の所行とぞ申ける。
 座主の流罪の事、人々諌申けれ共、西光さいくわう法師ほふしが無実の讒奏に依て、かく被行けり。
 今夜都を出奉らんとて、宣旨きびしかりければ、追立の検非違使けんびゐし、白河高畠の御坊に参て責申しけり。
 座主は白河の御所を出給たまひて、粟田口の辺、一切経の別所へ出させ給けり。
 大衆聞之、西光さいくわう法師ほふし父子が名を書て、根本中堂こんぼんちゆうだうに御座す。
 金毘羅大将の御足の下に蹈奉て、十二神将、七千夜叉、東西満山護法聖衆、山王七社、両所三聖、時刻を廻さず召捕り給へと呪咀しけるこそ懼しけれ。
 又大講堂の庭に、三塔会合して僉議せんぎしけり。
 伝教、慈覚、智証大師の御事は不申、義真和尚より以来五十五代、いまだ天台座主てんだいざす流罪の例を聞かず、末代と云とも、争か吾山に疵をば可付、心憂事也、天下を闇に成べしなんど喚叫ぶと聞えけり。
 同二十三日に、座主一切経の別所を出て配所へ赴給ふ。
 慈覚大師の自造り給へる如意輪の御像ばかりを、泣々なくなく御頸に被懸ける。
 朝夕に見馴給へる御弟子一人も不付、門徒の大衆も不参、御覧じも知ぬ武士に伴て出給ける御有様おんありさま、よその袂も絞けり。
 被召たる馬は浅猿き野馬に、けしかる鞍具足也。
 彼粟田口、両葉山、四宮河原を打過て、影も涼しき会坂の、関の清水を過越て、粟津の浦にぞ出給。
 漫々たる海上に、山田、矢橋の渡舟、漕わかれける形勢も、渺々たる浦路の、志賀坂本に立煙、空に消ゆく景気まで、我身の上とぞ思召おぼしめす
 無動寺の御本坊、根本中堂こんぼんちゆうだうの杉の本、遥はるかに顧給たまひて、御名残おんなごりこそ惜かりけめ。
 汀に遊鴎鳥、群居て思やなかるらん、唐崎の一松、友なき事をや歎らん。
 此れを見彼れを見給たまひても、唯香染の御衣をぞ被絞ける。
 角て暫く粟津の国分寺の毘沙門洞に立入給へり。

澄憲賜血脈

 故少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいの子息に、安居院の法印澄憲、いまだ権大僧都ごんのだいそうづにて御座けるが、座主の遺を慕ひつゝ、国分寺まで奉送。
 座主は君に捨られ奉て、配所の道に出ぬるを、是までの芳志こそ憂身の旅の思出なれ、かゝる勅勘の者なれば、再び花洛に帰上らんまで、命ながらふべし共覚えず、弘通を遐代に及し、利益を有縁に施給へ、諸仏己心の所証也、天台秘密の法門也とて、一心三観の相承血脈を授らる。
 抑此法不輙、如来によらい四十余年懐に在て説給はず、此法難聞ければ、衆生無量億劫耳の外にして未聞、適釈尊出世の昔一乗弘宣の時、本迹二門に権智実智の一心三観を被演。
 灰沙の二乗は無生の悟を開、塵数の菩薩は増進の益に預き。
 竜女が速成を現じ、達多が授記を蒙し此法力也。
 天台大師は、大蘇山法花三昧の道場にして、行道誦経せし時に、霊山の一会現じつゝ、多宝塔中の釈迦より此法を伝給き。
 伝教大師は渡唐の時、台州臨海県の竜興寺極楽浄土院にして、道邃和尚に奉値、此法を伝受し給しより以来、相承聊爾ならず、血脈法機を守る、就なかんづく国は粟散辺土也、時は濁世末代也、誠に非輙、今日の情けに堪へずして、澄憲付属を得たりけり。
 僧都そうづは血脈を給ひて、法衣の袖に裹みつゝ、泣々なくなく御前を立ちたまふ。
 去る程ほどに満山の大衆残留もなく、東坂本に下つゝ、十禅師じふぜんじ御前にて、各涙を流し僉議せんぎしけるは、当山五十五代、いまだ天台座主てんだいざす流罪の例を聞ず、此時始て顕密の主を失ひ、修学の窓を閉事、唯当時の失面目のみに非、末代までも口惜かるべし、然者しかれば三千の衆徒等、違勅の咎を顧ず、貫首に代奉て粟津へ向、座主を可取留、但追立の官人両送使等有なれば、取得奉らん事難有からんか、此事冥慮に相叶、我山可我山者、山王権現力を合せ給へ、衆徒の愁歎神明哀と思召おぼしめさば、只今験を見せ給へと、肝胆を砕て祈申ける程ほどに、十禅師じふぜんじの宮の造合より、白髪たる老女一人現じて、心身を苦ましめ、五体に汗を流て、我に十禅師権現じふぜんじごんげん乗居させ給へり、誠に衆徒の歎難黙止、我此所に跡を垂事、円宗の仏法を守、三千の学侶を為育也。
 而今様なき例を我山に留、三千の貫首を被流罪事、我一人が歎なれば、冥慮誠に難休、速に可迎、深力を合べし、あな心うやとて左右の袖を顔に当、さめ/゛\とぞ泣ける。
 大衆恠之、誠に十禅師権現じふぜんじごんげんの御託宣ならば、我等験を奉らん、本の主々に返給とて、各念珠を大庭へ抛たりけり。
 物付是を取集て、左の手にくり懸て、立廻々々若干の念珠少も違へず、本の主々へ賦渡す。
 不思議なりし事共也。
 山王権現の霊験の新なる忝さに、衆徒涙を流つゝ、さらば迎へ奉れやとて、袈裟衣をば甲冑に脱替て、或は渺々たる志賀唐崎の浦路に、歩引唱衆徒もあり、或は漫々たる山田矢橋の湖上に、舟に竿さす大衆もあり。
 角て国分寺の毘沙門堂へ参りければ、稠げなりつる追立の官人も見えず、両送使も失にけり。
 座主は此有様ありさまを御覧じて、大に恐給被仰けるは、勅勘の者は月日の光にだにも不当とこそ申せ、況や不時刻、可追下之由、被宣下上は、暫もやすらふべきに非、衆徒はとく/\帰上給へとて、端近出給宣のたまひけるは、三台槐門の家を出て、四明幽渓の窓に入しより以来、広円宗の教法を学して、只我山の興隆をのみ思ひ、奉国家事も不疎、衆徒を育志も深りき。
 然而身に誤なうして、無実の讒奏により、遠流の重科を蒙る事、両所三聖定めて知見照覧し給らん、倩事の情を案ずるに、大唐には慈恩大師達磨和尚、配所の草に名を埋み、我朝には役優婆塞遠流の露に袖を絞給へりき。
 我身一人に非ず、是皆先世の宿業にこそと思へば、代をも人をも神をも仏をも奉恨心なし、是まで訪来り給へる衆徒の芳志こそ難申尽とて、香染の袖をぞ絞らせ給ける。
 奉之衆徒、争か袖を絞ざるべき、皆鎧の袖をぞぬらしける。
 軈て御輿を舁寄て被召候へと勧申けれ共、昔こそ三千人さんぜんにんの貫首たりしか、今は係身に成て、再我山に還登事だに難有、いかゞ無止事修学者、智慧深大徳達に被舁捧上べき。
 わらんづなんど云物をはきて、同じ様に歩連てこそと宣へば、西塔法師に戒浄坊相模阿闇梨あじやり祐慶は、三塔無双の悪僧也。
 此僧は本園城寺の衆徒にて、よき学匠也けり。
 倶舎、成実の性相より、法相、天台の深義を極め、顕密両宗に亘つて三院三井の法燈也けるが、大慢偏執の者にて我執強僧也。
 我寺山徒の為にあざむかるゝ事、生々世々の遺恨に思けるが、妄念晴れ難く覚て、よしよし此寺にあればこそ此の思もあれ、不如山門に移住せんにはと変改して、住馴し三井の流を打捨て、西塔院へぞ渡にける。
 本より心立たる者なれば、三枚甲を居頸に著なし、黒皮威くろかはをどしの大荒目の冑に、三尺の大長刀の茅の葉の如なる杖に突て、衆徒の中に進入て申けるは、倩事の心を案ずるに、当山建立以後数百歳の星霜を送、貫首代々相続て、忝顕密の教法を弘通し給へり。
 四明の法燈一天之戒珠に御座す、而も姦臣の讒訴に依て実否糾されず、重科に被行給はん事、末代と云ながら心憂次第に非や。
 且は朝家の師範、且は山門の官長に御座、誰人か歎訪ひ奉らざらん、今度流罪に沈給はんに於ては、衆徒何の面目有りてか当山に可跡、いづくまでも御供をこそ被申めとて、衆徒の中を指越々々座主の御前に参て、大長刀杖に突て、座主をはたと奉睨申けるは、加様に御心弱渡らせ給へばこそ、係る憂目をも御覧じ、山門に様なき疵をも付させ給へ、急御登山あらましかば、衆徒これ程の骨をばよも折侍らじ、其に貫首は三千衆徒に代て、流罪の宣旨を蒙らせ給ふ上は、衆徒貫首に代り奉て、命を失はん事、全くうれへに非ず、唯とく/\御輿に召されよやとて、御手をむずと取奉、引立御輿に奉舁乗
 座主は戦々乗給けり。
 祐慶やがて先輿を仕る、東塔南谷、妙光坊の大和阿闍梨あじやり仙性と云ふ者、後陣を舁、国分の毘沙門堂より、鳥の飛が如風の吹様に、粟津原打出の浜、大津三井寺志賀の里、先陣後陣劣らずこそ見えけれ共、仙性が後陣には、時々大衆代りけり。
 祐慶が先陣は初より物具脱事もなく、高紐に甲を懸、輿を轅に長刀の柄折よ摧よと把具し、坂本早尾舁越して、さしも嶮しき東坂、一度も代らず、講堂の庭に舁付たり。
 爰に行歩に不叶老僧、若は花族の修学者、此事いかゞ有べき、日来は一山の貫首たりといへ共、今は流罪の宣旨を蒙給へり。
 横に取のぼせ奉事、違勅の咎難遁かと、様々僉議せんぎあり。
 実と云衆徒も多かりけり。
 去ども祐慶は少もへらず、鎧の胸板きらめかし、扇披遣て申けるは、我山は是日本無双之霊地、鎮護国家之道場也。
 一乗之教風扇四海七社之威光耀卒土、仏法王法午角にして、山上山下安泰なり。
 当山超万山之威験、此宗勝諸宗之教法、依之聖代明時合掌於一実之円宗、皇門后宮傾頭於一山之効験
 然ば大衆の意趣も人にまさり、賎き法師原までも世以て軽しめず、何況や前座主明雲めいうん僧正そうじやうは、智慧高貴にして一山の為和尚
 徳行無双にして三千の貫長たり。
 当代に無罪被遠流給はん事、是山上洛中の歎のみに非ず、併興福園城の嘲也。
 悲哉止観上乗之窓前に、廃蛍雪之勤、怨哉瑜伽ゆが三密之壇上に、絶護摩之煙
 就なかんづく大唐震旦、天台山長安城之艮也。
 於我朝日本、延暦寺平安城之鬼門也。
 伝教大師の御記文には、此山滅亡せば、国家も必ず滅亡せんといへり。
 而に末寺末社の訴訟そしように依て、衆徒子細を奏するは先例也。
 聖断遅々する時神輿の下洛ある事は是冥慮也。
 大衆争か可合力哉、異見の僉議せんぎに付て例を此時に残されば、生々世々可口惜事なれば、所詮祐慶今度三塔の張本に召れて、被禁獄流罪、たとひ雖首、今生の面目、冥途の思出なるべし、全く怨に非ず、衆徒争か我山の疵を可思と高声にののしり、双眼より涙をはら/\と流しければ、満山の大衆を聞、皆袖絞りつゝ尤々もつとももつともと同じければ、軈座主を奉舁東塔南谷妙光坊へ奉入。
 其よりしてぞ祐慶をば、いかめ房とは申しける。

一行流罪事

 時の横災は、権化の人も、猶遁れ給はざりけるにや、大唐の一行阿闍梨あじやりは、無実の讒訴に依つて火羅国へ流され給たまひけり。
 たとへば一行は玄宗皇帝の御加持の僧にて御座しが、而も天下第一の相人に御座ける。
 皇帝と楊貴妃と、連理の御情深くして、万機の政務も廃給程也けり。
 一行帝后二人の御中を相するに、后には御臍の下に黒子あり、野辺にして死し給相也。
 帝には御うしろに紫の黒子あり、思に死する御相也と申けり。
 皇帝此の事を聞し召て、大方の相は正しく見る共、争か膚をば知るべき、通道のあればこそ臍の下の黒子をば知らめとて、可流罪之由被仰下ける程ほどに、公卿くぎやう僉議せんぎ有つて、一行は朝家の国師、仏法の先達也、就なかんづく相に於ては天下第一也、音を聞て五体を知り、面を見て心中を相するに敢て違ふ事なし、いかゞ可流罪と申ければ、且くさし置給たりけるに、一行の弟子に賢鑁阿闍梨あじやりと云者あり、仏教博学にして智徳高く長ぜり。
 忽に師資の儀を忘て、独天下に秀でん事を思ければ、偸に一行の亡失ん事を思ける折節、流罪の沙汰の有ければ、次をえて后の御事種々に讒申ければ、帝逆鱗有りて火羅国へぞ被流ける。
 彼の国へ行には、三の道あるとかや、一には林池道とて古き都也ければ、御幸の外にはおぼろげにては人通はず。
 一には幽池道とて、雑人の通路也。
 一には闇穴道とて、罪ある者を流す道也。
 されば一行も此道よりぞ遣しける。
 件の道は、七日七夜が間空を見ずして行なれば、闇穴道とぞ名けたる。
 七十里の大河あり、碧潭深流れて、白浪高揚也、冥々として独行、閑々として人もなし。
 前途の末も知ざれば、さこそは悲く覚しけめ。
 天道無実の咎を哀て、九曜形を現つゝ闇穴道をぞ照されける。
 一行右の指を食切て、其の血を以て右の袖に写し留め給たまひけり。
 九曜曼陀羅は其よりして弘まれり。
 彼一行阿闍梨あじやりと申は、本は天台の一行三昧の禅師也けるが、後に真言に移て悪行高顕て国家の重宝たり、慈悲普覆て、人臣の所帰也。
 被讒申けるこそ懼しけれ。
 一行無実之由、皇帝披聞召、則被召返、賢鑁造逆也、不善之咎難遁とて、被流罪ける程ほどに、竪牢地神の罰蒙て、大地忽に裂て、乍生大地獄にぞ落にける。
 在家を出て仏家に入、師恩を受て法恩を聞、たとひ報謝の心こそなからめ、争か阿党を成べき。
 在世の調達滅後の賢鑁とりどりにこそ無慙なれ。
 さても一行の相し申さるゝ如く、楊貴妃は案禄山が為にすかし出されて、馬嵬の野辺に露と伴て消給ふ。
 皇帝は后の遺を悲て方士を以て蓬莱宮を尋らる、玉の簪し金鋏刀を被返送、いとゞ歎に臥給たまひ、思死にぞ失給ふ。
 去ば顕密兼学、浄行持律の天台の座主讒し申す西光も、いかゞと覚ておぼつかなし。

山門落書事

 山門大衆等流罪の座主を奉取留之由法皇聞食て、不安思召おぼしめしける上に、西光さいくわう法師ほふし内々申けるは、山法師の昔より猥き沙汰仕る事は、今に始ぬ事なれ共、今度の狼藉は先代未聞の事に侍り、下として猥きを、上として緩に御沙汰あらば、世は世にても侍るまじ、能々可御誡とぞ奏しける。
 只今我身の亡をも不知、山王権現の神慮にも不憚、加様に申ていとゞ宸襟を悩し奉る。
 讒臣ざんしん国、妬婦破家とも云、叢蘭欲茂秋風破之、王者欲明讒臣ざんしん之ともいへり、誠哉此事、抑今度大衆之狼藉仍可山門之由、被武家けれ共、進ざりければ、新しん大納言だいなごん成親卿なりちかのきやう已下近習の輩武士を集て、大衆を可傾之由其沙汰あり、物にも覚えぬ若者共、北面の下臈等げらふらは、興ある事に思て勇みけり。
 少も物の心弁たる人々は、こはいかゞせん、只今天下の大事出来なんとぞ歎ける。
 内々又大衆をも誘、仰の有けるは、院宣の下も忝し、王土にはさまれて、さのみ詔命を対捍せんも恐有とて、思返靡き奉る衆徒もあり。
 大衆二心出来ぬと聞食ければ、座主は責の御事有し時、兎も角かくも成たりせば、今は思切なまし、中々衆徒に被取登又いかに成べき身やらんと、御心細く思召おぼしめしけるに、大講堂の庭に会合僉議せんぎしけるは、前座主を中途にして奉取留事、依朝威公家殊に御憤おんいきどほり深由、其の聞えあり、此事いかゞ有るべき、今は唯可逆鱗歟と云ける。
 砌に、落書あり、其状に云、
 告申大衆御中入道大相国たいしやうこく
夫前座主明雲めいうん僧正そうじやう者、挑法燈於三院之学ようにかかげ、灑戒水於四海之受者顕密之大将、大戒之和尚也、三観之隙必専金輪之九転、六時之次先祈玉体之長生、誠是仏法之命也、王法之守也、爰興隆思深而悛九院之朽梁、護国志厚而却六蛮之凶徒、依之法侶励修学之労、悪党隠弓箭之具、制修羅之巧、而飾護国之道場、豈非山門之奇異哉、亦停兵俗之器、而残法僧之道具、寧非朝家之祈願哉、為天朝国家治者也、明人也、而有一類謗家所悪成瘡瘠矣、其不是非、不真偽、預重科流罪之条、是非君有一レ偏、亦非臣無一レ忠、讒奏之酷、偽言之巧故也、讒口、煖於黄金、毀言銷白骨此謂歟、夫末寺末社之訴者、非于当代、皆是往代例也、或断根本こんぼん之仏事、或闕恒規之祭礼之時、受末所之愁訴、而及本山之悲歎、列大師門徒之族習、皆成教綱之者、何可三聖之威光消、誰不一山之仏法滅乎、然者しかれば衆徒三千之蜂起、豈被座主一人之結構哉、何況於先座主者、大畏勅制、而頻雖大衆蜂起、依残愁訴以烏合者也、抑考山門之故実、懐理訴裁許之時、衆徒等戴三社之宝輿、而、参九重之金闕、曩時之例中古之法也、厥皇化者、専天下之太平、貫首者慕山上之安穏、臣家可奏者可案、豈勧騒動於衆徒、招朝勘於一身乎、凡大衆不貫首之進止、欲訴訟之本意、先皇之代在之、明哲之時非之、驚先座主之罪名、雖衆徒之愁訴、近臣依怨家之語、而全不上聞、弁官随姦人之謀、更不奏聞、然間不理非、忽蒙使庁之責、不実否、俄定配流之国、以好言而全人、以悪口人者也、政忘先例、讒達巧故也、亦君非叡山えいさん之仏法、怨人之不食所疵乎、誠魔界競我山、而法滅之期、得此時歟、波旬怯洛城、而無実之咎達叡庁歟、爰衆徒等、悲仏法之命根断、歎大戒之血脈失之処、如風聞者、師高もろたか往向二村之辺、可夭害先座主、云々、弥失前後正亡思慮、且芳先賢之明徳、且為最後之面拝、欲申子細、尚配流路頭之計也、夫根朽枝葉必枯矣、一宗長者衰、三千倶可衰、非貫首之流罪、只痛師資相承之断、非一人嘉名、偏惜顕密両教之廃、況先座主、鎮祠候於鳳城、而竪護持於龍顔、縦雖重罪之甚、何不於積労、縦雖過去之業、何不礼儀於戒師、若夫有証拠者、尤可正文也、非勅定、陣子細計也、以此旨執啓、夫国土理乱任臣忠否、若不邪正之道者、寧天子之守在海外乎。
   安元あんげん三年五月  日  とぞ書たりける。
 此落書に依て、山門の大衆の座主を奉取留事は、公家御沙汰に不及けり。
 是偏医王山王の御利生也とぞ、人貴み申ける。

行綱中言事

 新しん大納言だいなごん成親卿なりちかのきやうは、山門の騒動に依て、私の宿意をば暫被押けり。
 其内議支度は様々也けれ共、儀勢計にて其事可叶共見えざりければ、さしも契深く憑れたりける多田蔵人行綱は、弓袋の料の白布を、直垂小袴に裁縫せて、家子郎等に著つゝ、目打しばだたきてつく/゛\案じつゝ、此事無益也と思ふ二心付にけり。
 倩平家の繁昌を見に、当時輒く難傾、大納言の語ひ給軍兵は、僅わづかにこそあれ、可用之輩希也、無由事に与して、若聞えぬる者ならば、被誅事疑なし、無甲斐身にも命こそ大切なれ、他人の口より洩ぬ先にとて、五月廿日西八条へ推参して見ば、馬車数も知ず集たり、蔵人何事やらんと思て尋問ければ、案内者とおぼしくて答けるは、是は入道殿にふだうどの福原御下向の御留守に、君達会合して貝覆の御勝負也と云ければ、同廿七日に蔵人鞭を上て福原へ下向す。
 入道の宿所に行向て、可申入事侍りて行綱下向と申ければ、常にも不参者也、何事ぞ其聞とて、主馬しゆめの判官はんぐわん盛国もりくにを被出たり。
 人伝に非申事、直に見参に可申入と云たりければ、入道宣のたまひけるは、行綱は源氏の最中也、隙もあらば平家を亡して、世を知らんと思心も有らんなれば、非打解とて、子息重衡を相具し、銀にて蛭巻したる小長刀、盛国もりくにに持せて中門の廊に出合れたり。
 行綱申ければ、院中の人々兵具を調へ軍兵を集らるゝ事は、知召れ候やらんと申す。
 入道、其事にや、西光さいくわう法師ほふしが依讒奏、山門の大衆を可責と聞ゆ。
 さまでの御企有べし共覚ずと、いと事もなげに宣ふ。
 行綱居寄て私語けるは、其義には侍らずとよ、御一門の事に候、仮令ば新しん大納言殿だいなごんどの、使を以て可申事あり、可立寄と承し間、如御諚山門の事と存候て、中御門の宿所へ罷向之処に、行綱見え来らば鹿の谷へ可参とぞ仰也と申間、則打越て見廻し侍れば、馬車其数立並たり、分入みれば酒宴の座席也、人々目に懸て其へ其へと申に付て著座す、やがて酒をすゝむ、当座には新しん大納言だいなごん父子、近江中将入道殿にふだうどの、法勝寺執行法印、平判官康頼、西光さいくわう法師ほふしぞ候き、行綱酒三度たべて後、大納言宣しは、平家は悪行法に過て、動すれば奉朝家之間、可追討之由、被院宣たり。
 但源平両氏は、昔より朝家前後之将軍として、逆臣を誅戮して所異賞也、されば今度の合戦には御辺を憑、可其意と被仰間、こは浅間敷あさましき事かな、いかゞ返答申べきと存ぜしかども、左程の座席にて而も院宣と仰られんに、争か叶じとは可申なれば、左も右も勅定にこそと申侍し程ほどに、折節一村雨して、山下風の風烈く吹侍しに、庭に張立置たる傘共のふかるゝに、馬共驚駻躍、蹈合食合なんどするを見て、末座の人共の立騒、直垂の袖に瓶子を係て引倒し、其頸を打折て侍しを、座席静つて後、大納言殿だいなごんどの、あゝ事の始に平氏倒たりと宣しかば、満座咲壺の会にて侍き、是こそ浅間敷あさましき事云たりと存ぜしに、申も口恐しく侍れども、西光さいくわう法師ほふし倒れたる瓶子の頸をば取て、大路を可渡と申を、康頼つと立て、当職の検非違使けんびゐしに侍とて、烏帽子えぼし懸を以て、瓶子の頸を貫捧て、一時舞て広縁を三度持廻して、獄門の木に懸と申て、縁の柱に結付て侍し事、身の毛竪て浅間敷あさましくこそ侍しか、何の弓矢取と云事なく、当時一旦の君の御糸惜みに誇て、西光が我一人と事行して申振舞し事、下刻上之至也と不思議に存じ、侍き、法皇の御幸も成べきにて候けるを、静憲法印の、様々こは浅間敷あさましき御事也、天下の大事只今出来なん、いかに人勧申とても、国土の主として争でか一天の煩を引出し御座べきなんど、諌申けるに依て、御幸は止らせ給ぬとぞ私語申候し、やがて鹿谷究竟の城郭也とて、其にて兵具を可調と承き、加様の事人伝に被聞召なば、誤なき行綱までも、御勘当後恐しく候へば、内々告知せ進する也とて、人の能言云たりしをば、我申たるになし、我悪口吐たりしをば、人の云たるになし、殆有し事よりも過ては云たりけれ共、五十端の白布をば一端も語らざりけり。
 入道大に驚騒手を打、君の御為に命を捨る事度々也、いかに人申とも、争入道をば子々孫々ししそんぞんまでも捨させ給べきとて、座を起ち障子をはたと立て入給ぬ。
 行綱はある事なき事散々さんざんに中言して出でけるが、入道の気色を見つるより心騒がし、慥の証人にや立られんずらんと恐しく覚えければ、取袴して足早にこそ還にけれ。

成親已下被召捕

 同廿九日、入道上洛して西八条の宿所に著きて、肥後守ひごのかみ、飛騨守を召て、貞能さだよし、景家、慥に承れ、謀叛之輩多し。
 与力同心の上下の北面等、一人も漏さず可搦進之由、行綱が口状に付て下知し給。
 又一門の人々侍共に可相触とて、使を方々へ遣ければ、右大将宗盛、三位中将知盛、左馬頭さまのかみ重衡已下の一門の人々甲冑を著し、弓箭を帯して馳せ集る。
 其外軍兵聞伝て馳参ければ、其夜の中に、四五千騎こそ集つたれ。
 又貞能さだよし景家は、二百騎、三百騎の勢にて、此彼に押寄押寄搦捕、京中の騒ぎ不なのめならず
 六月一日未明、太政だいじやう入道にふだう、検非違使けんびゐし安部資成と云者を召して、院ゐんの御所ごしよに参て、信業をして申さん様は、近く被召仕之輩、恣に朝恩に誇、剰謀叛を巧世を乱べきよし承間、尋沙汰仕るべきと申せとて進す。
 資成法住寺殿ほふぢゆうじどのに参、大膳大夫信業を尋ね出し此由を申す。
 信業色を失て御前に参て奏聞しけれども、分明の御返事なし。
 只此事こそ御意得なけれ、こは何事ぞと計仰ければ、資成帰参じて此様を申す。
 入道去社よも御返事あらじ、行綱は実を云けり、法皇も知召たるにこそとて、此輩を召誡けり。
 其内に西光さいくわう法師ほふしを召取て、大庭に引居たり。
 相国は素絹の衣を著、尻切はき、長念珠後手に取て、聖柄の刀さし、中門の縁に立ちて、西光さいくわう法師ほふしを一時睨で嗔声にて、無云甲斐下臈げらふの過分に成上、朝恩に誇る余、無誤天台座主てんだいざす流罪、剰入道を亡さんと申行ける条はいかに、あら希怪や希怪や、凶也凶也、すははや山王之冥罰は蒙ぬるはと宣のたまひけり。
 西光は天性死生不知の不当仁にて、入道をはたと睨返して、西光全く謀叛の企を不存、此恥にあふ事運の窮にあり。
 但耳に留事あり、侍程の者が、靫負尉にもなり、受領検非違使けんびゐしに至らん事、何か過分なるべき、始たる事に非ず、去てかく宣和入道は、いかに王孫とこそ名乗給へども、昔の事は見ねば知ず、御辺の父忠盛は、正しく殿上の交を嫌れし人ぞかし、其嫡子におはせしかば、十四五までは叙爵をだにも不賜、しかも継母には値たり、難過かりければこそ、中御門藤とう中納言ぢゆうなごん家成卿の播磨守にておはせし時、受領の鞭を取り、朝夕にかきの直垂に縄絃の足駄はきて通給しかば、京童部は高平太と云ひて咲しぞかし、其を恥しとや思給けん、扇にて顔を隠し骨の中より鼻を出して、閑道を通給しかば、又童部が先を切て、高平太殿が扇にて鼻を挟みたるぞやとて、後には鼻平太々々々とこそいはれ給しか、去ども故刑部卿殿ぎやうぶきやうどの近江国水海船木の奥にて、海賊廿人を被搦進たりし勲功の賞に依つて、保延の比かとよ、御辺十八歟九歟にて、四位の兵衛佐に成給たまひたりしをこそ人々としと申しが、其が今太政だいじやう大臣だいじんに成たるをこそ下臈げらふの過分とは申すべき。
 此条は争か諍給ふべきと、高声に門外まで聞えよと云たりければ、入道余に腹を立て、為方なかりければ、縁の上にて三踊四躍々給ふ。
 猶腹を居兼て、大庭に飛下り、西光が頬を蹴たり蹈たりし給けれ共、西光は口は少も減ず、去て其は左は無りし事か、彼は有し事ぞかし、哀足手だにも安穏ならば、報答申してんと云ければ、入道如何様にも謀叛の次第委く相尋て後、しや口割て誡よと宣のたまひければ、松浦太郎高俊、拷木に懸て打せため、事の興を尋けり。
 始は大に不知と云けれ共、悪口は吐ぬ、不落とても非宥、人が云ひたればこそ入道殿にふだうどのも是程は知給たるらめ、去ばいはんと思つゝ、休よ語らんと云ければ、拷木より下して、硯紙取寄て聞之、西光有の儘にぞ云ける。
 執事別当新しん大納言だいなごん殿どの、院宣とて催れしかば、院中に被召使身として不叶と申すべきにあらねば、平家一門打失て、西光も世にあらんと思て与して侍き。
 院宣の趣き誰か可背とて、始より終まで白状四五枚に記して、判形せさせて後、高俊、西光さいくわう法師ほふしが頭を蹈て口を割、重て誡置てげり。
 新しん大納言だいなごんの許へは、大切に可申合事侍、時の程立より給へとて使者を遣れたり。
 大納言は我身の上とは露知給はず、例の山の大衆の事を、院へ被申ずるにこそ、此事はゆゝしく御憤おんいきどほり深き御事也、可叶とは覚ねども、何様にも参りてこそ申さめとて急ぎ被出けり。
 安元あんげん二年七月に、建春門女院隠させ給たまひて、其御一周を果ざれば、諒闇りやうあんの直衣ことに内浄たわやかにして、諸大夫一人、侍二三人花やかに装束せさせて、入道の宿所、西八条へおはしけり。
 近く成儘に其辺を見給へば、軍兵四五町に充満たり。
 穴恐し、こは何事ぞやと、むね打騒給へり。
 門の前近く遣寄、車より下て門の内へ入給ければ、内にも兵所もなく並居たり。
 只今事の出来たる体也。
 中門の外に恐しげなる者二人立向て、大納言の左右の手を取、天にも揚ず、地にもつけず、引持てゆき、もとゞりを取て打臥ける儘に、是は可誡やらんと申ければ、入道は大床に立れたりけるが、さすが[* 「すさが」と有るのを他本により訂正]昨日迄も面を向へ肩を並し卿相けいしやう也、眼前に縄付事は、かはゆくや被思けん、去ず共有なんといはれければ、中門の廊へ入られて、縄をば不付けり。
 只一間なる所に、大なる木を以て、蜘蛛手を結、其中にぞ奉押篭ける、糸惜なんどは云計なし。
 蕭樊囚執、韓彭そ醢、晁錯受戮、周魏見辜、其余佐命立功之士、賈誼亜夫之徒、皆信命世之才、抱将相之具、而受小人之讒、並受禍敗之辱と云事あり、蕭何、樊会、韓信、彭越と云ひしは、皆漢の高祖の功臣たりしか共、かくのみこそ有けれ、異国にも不限、我朝にも保元平治の比より打続き浅間敷あさましき事のみ有しに、又此大納言の係る目に合給ふ事、いかゞはせんとぞ悲み合給ける。
 大納言の共に有りける、諸大夫も侍も被起隔、雑色牛飼までも忙騒、身々の恐さに牛車を捨て、散々さんざんに逃失ぬ。
 大納言はかばかりなく熱く難堪比、一間なる所に被禁籠、汗も涙も諍つゝ、肝心も消はてて、こはいかにしつる事ぞや、日比のあらまし事の聞えけるにこそ、何者の漏しぬるやらん、北面の者の中にぞ有らんとぞ被思ける。
 小松の内府は見え給はぬやらん、去とも思捨給ふ事はあらじ者をと被思けれ共、誰して云べき便も無れば、唯悲の涙にのみぞ咽給ける。
 小松殿こまつどのへは人参て、謀叛の者とて人々被召禁侍、大納言殿だいなごんどのも被召籠おはしつるが、此晩に可失なんど聞え候と申ければ、内大臣ないだいじんは良久有て、子息の中将車の尻に乗せて、衛府四五人、随身二三人被食具たり。
 各布衣にて、物具したる者は一人も不具給、最のどやかにて西八条へ被入けり。
 入道を奉始、一門の人々思はず思ひ給へり。
 弟の殿原何に係る大事の出来て侍にと口々に宣へば、内府は只今何条事か有べき、物騒き者かなと被静ければ、兵杖を帯給へる人々も、そゞろきてぞ見えける。
 入道は帽子甲に、萌黄の腹巻の袖付たるを著て、小長刀計にて立給たりけるが、大臣の挙動を遥はるかに見て、急ぎ内に入、素絹の衣に脱替て、さらぬ体にて御座けり。
 内府は、さても大納言はいかに成給ぬるやらん、唯今の程ほどには失ふまでの事はよもあらじとて見廻り給ふに、一間の障子を大なる木を打違て、蜘蛛手を結たる所あり。
 爰にこそと哀に悲くおぼして、立寄急ぎ音なひ給へば、大納言蜘蛛手の間より、幽に大臣を見付給、地獄にて罪人の地蔵菩薩を奉見らんも、是には争か可過と嬉さ不なのめならず、泣々なくなくのたまひけるは、成親身に誤ありと不存、今かゝる憂目に逢て侍り、さて御渡あれば、去ともと憑思奉とて、はら/\と涙を流し給ふも無慙也。
 大臣の返事には、人の讒言にぞ侍らん、御命計はいかにも申請ばやとこそ存ずれ共、入道腹悪き人にておはすれば、そもいかゞ侍らんずらんと憑気なく宣へば、いとゞ心細くおぼして、成親平治の乱に切らるべかりしを、御恩にて命を生られ奉りて、正二位の大納言に至り、歳四十に余りぬ、生々世々に難報謝、同は今度の命を助給へ、出家入道して高野粉河にも籠り、一筋に後世の勤仕らんと宣へば、重盛しげもりかくて侍れば、去共と思召おぼしめさるべし、御命にも替奉らんとこそ存ずれとて被起ければ、又奉見事もやと、遥はるかに見送給たまひては、かひなき袖をぞ絞給ふ。
 少将も被召捕ぬるやらん、少者共の跡に残留るもいかゞ成ぬらんとおぼつかなし。
 身の悲さ、跡のいぶせさ思つゞけ給へば、熱さに難堪うへ胸塞て、晩を待ずして可消入こそおぼしけれ。
 内大臣ないだいじんの訪れつる程は、聊慰みて取延る心地也けるが、立帰給たまひて後は今少心細く、悲被思ける。
 理と覚て哀也。

小松殿こまつどの教訓事

 小松内府、入道の許に参じ申給けるは、大納言を被失事は、能々可御思案事也、六条修理大府顕季卿、白川院に召仕てより以来家久く成りて、位正二位、官大納言まで経上、君の御糸惜も不浅仁を、忽に被首事、いかゞ侍るべき、唯都の外へ出されん事足ぬべし。
 角は聞食ども、若僻事ならば弥不便の事に侍べし。
 北野天神は、時平大臣の依讒奏、西海の浪に流され、西の宮の大臣は、多田新発が依姦訴、山陽の霧に埋る、各無実なれ共被流罪給けり。
 皆是延喜の聖主安和の御門の御僻事とこそ申伝侍れ、上古猶如此、況末代をや。
 賢王猶御誤あり、況凡夫をや。
 委御尋もあり、能々御案も侍べし、物騒き事は必後悔あり、既かく被召置ぬる上は、急不失とも、何の苦か有べき。
 罪之重をば軽し、功之浅をば重くせよと云本文あり。
 何様にも今夜卒爾の死罪不然と被申けれ共、入道いかにも心不行気に宣のたまひければ、申請旨御承引なくば、侍一人に仰付て、先重盛しげもりが可首、かかる乱たる世にながらへて、命生ても何の詮かは有べき。
 又重盛しげもり彼大納言の妹に相具し、維盛又聟也、傍親く成て候へば、角申とや思召おぼしめさるらん、一切其儀は侍ず、為世為家の事を思て歎申計也。
 我朝には嵯峨帝の御宇、左衛門尉仲成を被誅後、死罪を被止より以来廿五代に及しを、少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいが執権の時に相当て、絶て久き例を背き、保元の乱の時、多の源氏平氏の頸を切、宇治の左府の墓を掘、死骸を実検じつけんせし其酬にや、中二年こそ有しが、平治に事出来て、田原の奥に被埋たりし、信西が被堀起、頸を渡獄門の木に被懸き。
 是はさせる朝敵にあらね共、併保元の罪の報と覚て、恐しくこそ侍しか。
 是又させる朝敵に非ず、旁以可恐、御身は御栄花残所なければ、思食おぼしめし置事なくとも、子々孫々ししそんぞんまでも繁昌こそあらまほしく侍れ。
 積善之家必有余慶、不善之家必有余殃とこそ承れ、去ば文王は太公望に命じて、四知己を恐れ、唐太祖は張蘊古を切つて後、五奏を被用、又行善則休徴報之、行悪則咎徴随之とも申す、父祖の善悪は必及子孫ともいへりなど、様々に被誘申ければ、入道余に口解立られて、実とや思給けん、今夜切事は止給にけり。
 内大臣ないだいじんは中門に出給、さも可然侍共を召集被仰含けるは、入道殿にふだうどのの仰なればとて、大納言を不失事、腹の立給ふ儘に物劇事あらば、後に必悔み給べし、不制止ひが事して重盛しげもり恨な、経遠つねとほ兼康かねやすが大納言に情なく当たりける事、返々も希恠也。
 重盛しげもりが還聞所をば、争か可憚、哀景家忠清なんどならば、いかに仰を承りたりとも角はよもあらじ、かた田舎の者は懸るぞとよ、と仰られければ、大納言引張たりける備前国住人難波なんばの次郎じらう経遠つねとほ、備中国住人、妹尾せのをの太郎たらう兼康かねやす、恐入りてぞ候ひける。
 其外の侍共は、舌を振てぞ、威合ける。
 大納言の供に有ける者、中御門高倉の宿所に走帰、上には西八条殿に召籠られさせ給ぬ。
 今夕可失とて、晩を待つとこそ承つれとて、有つる事共泣々なくなく細々と申ければ、北方より始て、男女上下声を揚てぞ叫びける。
 是は何故ぞやおぼつかなし、夢かや夢かともだえ焦給けれ共、眠の中の歎ならねば猶うつゝ也、さこそ悲かりけめと被推量無慙也、何に角ては御座しますぞや、少将殿をも君達をも、一々に召とり進せんとこそ承りつれ、去ば叶はぬまでも、暫く立忍ばせ給へかしと申ければ、か程の事に成て隠れ忍びたらば、いかばかりの事ぞ、雉のかくれとかやの風情か、大納言殿だいなごんどのの左様に成給ふ程ほどにては、此身々ばかり安穏也共、甲斐あるまじ。
 只同じ草葉の露と消ん事こそ本意なれ。
 今朝を限の別ぞと思はざりける悲さよとて、北方臥倒て泣給ふ。
 げにもと覚て哀なり。
 兵既すでに来なんと人申ければ、遉角て憂目を見る事も、恥がましければ、一間戸も立忍ばんとて、尻頭どもなき小き人共、車に取のせ奉り、いづくを指て行ともなく遣出して、大宮を上りに、北山雲林院の辺まではおはしにけり。
 其辺なる僧坊に下居奉て、送の者共も身々の難捨おそろしさに、皆散々ちりぢりに帰りぬ。
 今は無云甲斐小き人々ばかり留居て、又事問ふ人も無くて御座けん、北方の御心中推測べし。
 日影の暮行を見給に付ても、大納言の露の命今日を限と聞つれば、はや空き事にもやと思やり給たまひては、絶入絶入し給ふも、いと悲し。
 取敢ぬ事也ければ、女房侍共もかちはだしにて恥をもしらず迷出ければ、見苦き物共を不取認、門をだに押立る人もなし。
 只我先にと周章あわて出けるも理也。
 馬屋には馬共鼻を並て立たりけれども、草飼舎人もなし。
 夜明れば馬車門に立并賓客座に列居て、遊戯れ舞踊、世は世とも思はれず、近き渡りの人々、物をだにも高もいはず、門前を過る者もおぢ恐れてこそ昨日迄も有つるに、夜のまに替る形勢、天上之五衰は人間にも有けりと哀也。
 此北方と申は、山城守敏賢の女也、建春門院けんしゆんもんゐんの御乳母師人とて、御身近人、取り立て進られたりけるを、法皇浅からず思召おぼしめして、十四歳より十六迄御糸惜みふかゝりしを、二条院御位の時御覧じて、忍々に御書を被遣、常には唯是へ参と云仰繁かりければ、師人も女院の思召おぼしめす所も憚覚れば、旁々内へ参られんは、然べしなどゆるされければ、法皇の御所をばまぎれ出て、十六の歳内裏へ参給たまひて、互の御志深かりしが、中二年有て十九の歳、二条の先帝崩御の後は、雲井の月の昔語を忘かね、大炊御門高倉の雨織戸の内に、掻き籠て、渡らせ給しを、大納言の宿所、中御門の移徙の夜、師人に語寄押て取られ給しより、鸞鳳の鏡に影を并、鴛鴦の衾に枕を寄てこそ御座ましけるに、大納言被召捕給しより、楽み尽て悲み来り、北山雲林院の菩提講おこなふ処に、忍びておはしけり。
 此大納言は余に誇て、戯れ事にも無由言すごす事も有けり。
 後白川院の近習者に、坊門中納言親信と云人、御座けり、右京大夫信輔朝臣の子也。
 彼信輔武蔵守たりし時、当国に下りて儲たりけるが、元服して叙爵し給たりければ、異名に坂東大夫と申けるが、兵衛佐に成たりけるにも、猶坂東兵衛など申けるを、新しん大納言だいなごん、法皇の御前にて、戯て、やゝいかに親信、坂東には何事共かあると被申たりけるに、兵衛佐取敢ず、縄目の色革こそ多候へと答たりければ、大納言顔のけしき少替て、又物も宣ざりけり。
 此大納言は平治の乱逆の時、信頼卿に同心とて、六波羅へ被召しに、島摺の直垂著て、高手小手に縛られて、恥をさらしたりける事を思出て、縄目にそへて申たりけるにこそ。
 御前に人々あまた候はれける中に、按察使大納言資賢の後に常に宣のたまひけるは、兵衛佐はゆゝしく返答したりしものかな、成親卿なりちかのきやうは事の外に苦りたりし事様也とぞ被申ける。
 されば人は聊の戯言にも、人の疵をば云まじき事也けり。

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