古巻 第三十三
太神宮勅使付緒方三郎責平家

 寿永二年九月二日、平家追討の御祈おんいのりの為に、院より公卿の勅使を伊勢太神宮へ立らる。
 参議修範卿と聞き。
 太上天皇てんわうの、太神宮へ公卿の勅使を被立事者、朱雀、白川、鳥羽三代の践跡ありといへ共、是皆出家以前の事也き。
 太上法皇の勅使の例、今度始とぞ承。
 平家は筑紫に皇居如形被造たりければ、大臣殿より始て人々安堵し給たりけるに、豊後の国は刑部卿ぎやうぶきやう三位頼輔の知行にて、其子頼経、国司代にて在国の間、三位追て云下給けるは、平家悪行年積て宿運忽たちまちに尽ぬ。
 仏神にも放れ君にも捨れぬ。
 故に花洛を出て西海に漂ふ。
 夫に九国の輩請取依翫、国には正税しやうぜい官物くわんもつ抑留し、庄には年貢所当を不弁、其条已奉朝家逆悪咎あり、返々不思議所行也。
 自余は不知、於当国は穴賢不入、平家、これ非私之計、一院御定也。
 但不当国、九国人民可院宣者、一味同心に可討平家、若忠あらん者は勧賞は追て可聖断由、子息頼経の許へ云下給たりければ、頼経以此趣、当国住人ぢゆうにん緒方三郎惟義を召て被下知たり。
 惟義蒙仰、即当国は云に及ばず、九国二島の弓矢取輩に相触。
 懸ければ臼杵、戸槻、松浦党以下、背平家惟義下知、原田四郎大夫種直、菊地次郎高直が一類計ぞ猶平家に付給ける。
 抑彼惟義と云は大蛇の末なりければ、身健に心も剛にして、九国をも打随へ、西国さいこくの大将軍せんと思程のおほけなき者なりけるに、一院の御定とて、国司より懸る蒙仰ける上は、身の面目と思て出立けり。
 大蛇の末と云事は、昔日向国塩田と云所に、大大夫と云徳人あり。
 一人の娘あり。
 其名を花御本と云、みめこつがら尋常也。
 国中こくぢゆうに同程なる者聟にならんと云をば誇徳不用、我より上様なる人は云事なし。
 秘蔵しけりと覚て、後園に屋を造て此娘を住しめける程に、男と云者をば尊き卑も通さず、歳去歳来れ共、無慰方、春過夏闌ても友なき宿を守る。
 秋の夜長し、夜長して終夜よもすがらを明し兼たる暁に、尾上の鹿の妻呼音痛敷、壁にすだく蟋蟀、何歎くらんと最心細き折節をりふしに、いづくより来る共覚ず、立烏帽子たてえぼしに水色の狩衣著たる男の二十四五なるが、田舎の者とも覚ず、たをやかなる貌にて、花御本が傍に指寄て様々物語ものがたりして、慰語ひけれ共女靡事なし。
 男夜々通つゝ細々と恨口説ければ、花御本、流石さすが岩木ならねば終には靡けり。
 其後は雨降風冷けれ共、夜かれもせず通けり。
 父母につゝみて深く是を隠しけれ共、月比日比ひごろ夜々よなよなの事なれば、付仕ける女童是を見咎めて、父母に角とぞ語ける。
 急娘を呼、委是を問けれ共、恥しき道なれば、顔打赤めて兎角紛らかしけり。
 母さま/゛\におどしすかして問ければ、親の命も難背して有の儘にぞ語ける。
 母此事を聞、水色の狩衣に立烏帽子たてえぼしはおぼつかなし、太宰府の近くは京家の人とも思べきに、此辺には有べき事に非、よし/\縦上﨟なりとも、契は人に不依、たとひ下﨟なり共、娘が見する面道也。
 況狩衣に立烏帽子たてえぼし、定て只人にはあらじ、今は聟とも用べし、如何して彼人の行末を知べきと様々計けるに、母が云、其人夕に来て暁還なるに、注しをさして其行末を尋べしとて、苧玉巻と針とを与て、懇に娘に教て後園の家に帰す。
 其夜又彼男来れり。
 暁方に帰りけるに、教への如く、女針を小手巻の端に貫て、男の狩衣の頸かみに指てけり。
 夜明て後に角と告たれば、親の塩田大夫、子息家人四五十人引具して、糸の注しを尋行。
 誠に賤が苧玉巻、百尋千尋に引はへて、尾越谷越行程に、日向と豊後との境なる嫗岳と云山に、大なる穴の中へぞ引入たる。
 彼穴の口にて立聞ければ、大に痛吟音あり、是を聞人身の毛竪て怖し。
 父が教へに依、娘穴の口にて糸を引へて云けるは、抑此穴の底には如何なる者の侍ぞ、又何事を痛て吟ぞと問ば、穴の中に答けるは、我は汝花御本が許へ夜々よなよな通つる者なり、可然契も縁も尽果、此暁おとがひの下に針を立られたり、大事の疵にて痛み吟、我本身は大蛇なり、有し形ならば出て見もし奉見度こそあれ共、日比ひごろの変化既すでに尽ぬ、本の貌は畏恐給ふべきなれば、這出ても不見、よに遺も惜恋しくこそ覚ゆれ、是まで尋来り給へる事こそ難忘と云ければ、女の云、縦いかなる貌にて座ますとも、日比ひごろの情争か忘べきなれば、只出給へ、最後の有様ありさまをも見、又見えもし奉らん、つゆ畏しと思はずと云ければ、大蛇は穴の中より這出たり。
 長は不知臥長は五尺計也。
 眼は銅の鈴を張るが如く、口は紅を含るに似たり。
 頭に角を戴耳を低たり。
 頭は髪生などして獅子の頭に異ならず。
 され共形ちには不似、おめ/\として涙を浮て、頭ばかりを指出したり。
 女衣を脱て、蛇の頭に打懸ておとがひの下のはりをぬく。
 大蛇悦で申けるは、汝が腹の内に一人の男子宿せり、已すでに五月に成、もし十月にして顕れたらば、日本国につぽんごくの大将とも成べかりつれ共、五月にして顕れぬ、九国には並者あるまじ、弓矢を取て人に勝、計賢くして心剛なるべし、斯る怖しき者の種なればとて、穴賢捨給ふな、我子孫の末までも可守護、必可繁昌
 是を最後の言ばにて、大蛇穴に引入て死にけり。
 彼大蛇と云は即嫗岳明神の垂跡すいしやく也。
 塩田大夫々妻眷属おぢ恐て帰にけり。
 日数積つて月満ぬ。
 花御本男子を生。
 随成長、容顔もゆゝしく心様も猛かりけり。
 母方の祖父が片名を取て是を大太童と呼。
 はだしにて野山を走行ければ、足にはあかゞり常に分ければ、異名には皸童とも云けり。
 此童は烏帽子えぼし著て、皸大弥太と云。
 大弥太が子に大弥次、其子に大六、其子に大七、其子に尾形三郎惟義なれば、大太より五代の孫なり。
 心も猛く畏しき者にてぞ在ける。
 此惟義には兄弟三人有けるが、次郎は死にぬ。
 太郎名生三郎、尾形と云二人が中に、此三郎は蛇の子の末を継べき験にやありけん、後に身に蛇の尾の形と鱗の有ければ、尾形三郎と云。
 さる者の末にて、被仰含院宣の間に、奥に入て数万騎の兵を引率し、太宰府へ発向す。
 九国輩多相従ひけり。
 平家は此一両月安堵の思有て、今は如何して都へ可帰入などはかり事を廻し、寄合寄合評定しける処に、緒方三郎が嫡子に小太郎維久、次男に野尻次郎惟村とて兄弟あり。
 次郎惟村を使者として平家の方へ申けるは、年来御恩をも蒙て、深相伝の君と憑進て候。
 其上十善帝王にて渡らせ給へば、二心なく奉公仕れ共、平家都を出て西海に落下御座、朝敵と成て人民を悩す、速に九国の中を可出之由、一院の院宣とて、国司より被仰下の間、王土に身を入て難詔命候、疾々九国境を出させ給ふべきにて候と申たり。
 平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやうは、ひほくくりの直垂に糸蘭の袴著て野尻次郎に宣のたまひけるは、やをれ維村よ、我君は天孫四十九世の正統、人王八十一代の御門、太上法皇の御孫、高倉院たかくらのゐんの后の腹、第一皇子にて渡らせ給へば、伊勢太神宮入替らせ給たまひて、御裳濯河流忝上に、神代より伝たる神璽、宝剣、内侍所も帯して御座、正八幡宮しやうはちまんぐうも定て守奉らん、九国の人民争輙く可傾、又当家は是平将軍へいしやうぐん貞盛さだもりが、相馬さうまの小次郎こじらう将門まさかどを追討して東八箇国を平げしより以来、故入道大将大臣の、右衛門督うゑもんのかみ信頼のぶよりを誅戮して奉朝家しに至るまで、代々国家の固也。
 而に頼朝よりとも、義仲よしなか等、東国北国の凶徒を相語ひて、我打勝たらば国をとらせん庄を知せんと云にすかされて、打籠の嗚呼の者共が、誠顔に与力同心して、向官兵軍するを見学て、九国輩奉君条返々不思議也奇恠也、就なかんづく鎮西の者共は内種に被召仕、殊非重恩乎、夫に其好を忘、忽たちまちに鼻豊後めが随下知、当家を傾けんとの企甚以不然、後漢光武皇帝は被王莽わうまう、漁陽に落給たまひたりしか共帝位につき、我朝の天武天皇てんわうは大友おほともの王子わうじに襲れて、吉野奥に入給たまひたりしか共治天下給き、況三種の神器を御身に随給へり、我君終に都へ帰入らせ給はぬ事よも渡らせ給はじ、されば能々相計ひて御力を付進すべし、後悔争か兼て可顧哉と宣ふ。
 野尻次郎立帰て此由具に云ければ、父惟義、今は今、昔は昔、速に平家を可追出、院宣国宣を被下之上は、子細にや及べきなれ共、流石さすが日来の好を奉思こそ先使をば進せたるに、左様に宣ふならば、不時刻追出とて、惟義は三万さんまん余騎よきの大勢を率して、博多津より押寄て、時をどと造りたりければ、平家の方には肥後守ひごのかみ貞能さだよしを大将軍にて、菊地、原田が一党を被指向て防戦けれ共、大勢攻懸りければ、取物も取敢とりあへず太宰府をこそ落給たまへ、

平家太宰府落並平氏宇佐宮歌付清経入海事

 〔去さるほどに〕主上は駕与丁なければ、玉の御輿をも不奉、御伴の公卿殿上人てんじやうびとは、奴袴の傍を取、女房北方は、裳唐衣を泥に引、いつ習たるにはあらね共、畏しさの余に悲き事も覚えず、かちはだしにて我先に/\と、箱崎の津に逃給けるぞ無慙なる。
 折節をりふし降雨は車軸を下、吹風は砂を上。
 落る涙雨に諍て何とも不見分、鳥に不有ば天をも難翔、竜に不有雲へも難上。
 新羅百済へも渡らばやとは被思けれ共、波風荒うして夫も心に任せねば、各袂たもとを絞けり。
 箱崎津も難始終叶ければ、是より又兵藤次秀遠に具せられて、筑前国山鹿の城じやうへぞ入らせ給ふ。
 菊地次郎高直をば、大津山の関あけて進せよとて先立て通したりけれ共、此事終にはか/゛\しからじと思て、高直心替してけり。
 原田大夫種直も、山鹿城へ入らせ給たまひにければ、秀遠が下知に相従はん事、子孫に伝て心憂しと思、則それも心替してけり。
 山鹿城にも未御安堵なかりける処に、惟義十万余騎よきにて押寄ると聞えければ、又取物も取敢とりあへず山鹿城をも落させ給たまひて、たかせ舟に乗移、豊前国柳と云所へ渡入らせ給たまひけり。
 沢辺の虫は声弱り、礒打浪に袖を濡す。
 柳と云所に著せ給たまひたりけるに、楊梅桃李を引植て、九重の都に少似たりければ、薩摩守忠度のかく、
  都なる九重のうち恋しくば柳の御所を立よりて見よ
 主上女院を始進て、内府以下の人々、豊前国宇佐の宮へ有参詣
 社頭は皇居となり、廊は月卿げつけい雲客うんかくの居所となる。
 五位六位の官人等大鳥居に候ひ、庭上には九国の輩、弓箭甲冑を帯して並居たり。
 ふりにし緋玉垣、歳経にけりと苔むして、いつも緑の柳葉に、木綿四手懸て隙ぞなき。
 御祈誓の趣は、主上旧都還幸也。
 都は既すでに山河遥隔て雲の徐に成ぬ。
 何事に付ても、心尽しの旅の空、身を浮船の住居して、こがれて物をぞ覚しける。
 昔在原業平が、隅田河原の辺にて、都鳥に事問涙を流しけんも、又角やと覚て哀也。
 七箇日の御参篭とて、大臣殿財施法施を手向、奉り、神宝神馬、角て七箇日を送給へども、是非夢想むさうなんどもなかりければ、第七日の夜半計に思ひつゞけ給けり。
  思かね心つくしに祈れどもうさには物もいはれざりけり
 神殿大に鳴動して、良久してゆゝしき御声にて、
  世中のうさには神もなき物を心つくしになにいのるらん
 大臣殿是を聞召きこしめして、都を出し上、栄花身に極り運命憑なしとは思しか共、主上角て渡らせ給ふ上、三種の神器随御身御座おはしませば、さり共今一度旧都の還御なからんやと思召おぼしめしけるに、此御託宣ごたくせん聞召きこしめしては、御心細く思ひ給たまひ、涙ぐみ給たまひてかく、
  さりともと思ふ心も虫の音もよわりはてぬる秋の暮かな
 是を聞る人々、誠にと覚て皆袖をぞ絞りける。
 小松殿こまつどのの三男に左中将清経は、都を落給たまひける時、女房をも西国さいこく相具と宣のたまひければ、年来深き契を結、二心なく憑憑まれたる御中にて、女房はさもと出立給たまひけるを、父母大に嗔りつゝ免給はざりければ力不及、悲みの中を別て独都を落給けるが、道より鬢の髪を切て形見に返遣はして、常は音信おとづれ申さん、便の時は又承る事も候へよなど云送ながら、三年が程有か無か言伝もなかりければ、女房恨給たまひて、何国までも相具せんと云しかば、我もさこそ思ひしに、今は心替のあればこそ三年を経共云事はなかるらめ、さては形見も由なしとて返し下給たまひけるが、左中将の柳浦に御座おはしましける所へ著たり。
 一首の歌を副られたり。
  見るからに心つくしのかみなればうさにぞ返本の社に
 左中将是を見給たまひては、そこさ悲く覚しけめ。
 柳御所には、さてもと思召おぼしめして七箇日渡らせ給たまひける程に、又惟義寄るなど聞えければ、此を出給ふに、海士の小舟に取乗、風に任浪に随て漂し程に、左中将清経は、船の屋形の上に上りつゝ、東西南北見渡して、哀はかなき世の中よ、いつまで有べき所とて角憂目を見るらん、都をば源氏に落されぬ、鎮西をば惟義に被追出ぬ、何国へ行ば遁べき身にあらず、囲中の鹿の如く、網に懸れる魚の様に、心苦く物思こそ悲けれとて、月陰なく晴たる夜、閑に念仏申つゝ、波の底にこそ沈みけれ。
 是ぞ平家の憂事の始なる。

平氏九月十三夜歌読事

 九月十三夜に成ぬ。
 今夜は名を得たる月也。
 秋も末に成行ば、稲葉を照す雷の、有か無かも定なく、荻の上風身にしみて、萩の下露袖濡す。
 海士の篷屋に立煙、雲井に昇面影、葦間を分て漕船の、波路遥はるかに幽也。
 十市の里に搗砧、旅寝の夢を覚しけり。
 よわり行虫音、吹しをる風の音、何事に付ても藻にすむ虫の風情して、我から音をぞなかれける。
 更行秋の哀さは、何国もと云ながら、旅の空こそ悲けれ。
 冷行月にあくがれて、各心を澄しつゝ、歌をよみ連歌せられけるにも、都の恋しさあながち也。
 会紙を勧めけるに、寄月恋と云題にて、薩摩守忠度、
  月を見しこぞのこよひの友のみや都に我を思ひ出らん
 修理しゆりの大夫だいぶ経盛
  恋しとよ去年のこよひの終夜よもすがら月みる友の思ひでられて
 平へい大納言だいなごん時忠
  君すめば爰も雲井の月なれどなほ恋しきは都なりけり
 左馬頭さまのかみ行盛
  名にしおふ秋の半も過ぬべしいつより露の霜に替らん
 大臣殿
  打解けて寝られざりけり楫枕今宵の月の行へ清まで
 各加様に思つゞけ給たまひても、互に御目を見合て、直垂の袖をぞ絞られける。

平氏著屋島

 長門は新中納言の国、目代もくだいは紀民部大輔光季也けり。
 当国の檜物舟とて、まさの木積たる船百三十さんじふ余艘よさう点定して奉。
 此に乗移りて四国の地へ著給ふ。
 爰ここはよき城郭じやうくわく也と申ければ、讃岐の屋島に下居給、城構して御座おはしましけり。
 哀哉昔は九重の内にして、金谷の春の花を翫給しに、今は屋島の礒にして、寿永の秋の月を詠給ことを、奇の賎のふしどを皇居と定むべきならねば、蜑の篷屋に日を晩し、船をぞ御所と定め給ふ。
 荻の葉向の夕嵐、独丸寝の床の上、片敷袖は塩にぬれ、明し暮させ給けり。
 波枕楫枕、想像れて哀也。
 礒辺のつゝじは、紅の露よりをるかと疑れ、五月の篷のしづくは、古里の軒の玉水かと奇給。
 藻塩に浸す旅衣、深き思に沈けり。
 蘆の葉に置露の身の、脆命も消ぬべし。
 州崎に騒ぐ千鳥の声、暁恨を添るかな。
 傍井にかゝる梶の音、夜半に心を摧けり。
 斯る住居は上下いつかは習ふべきならねば、男も女も只涙にのみ咽びて、乾ぬ袖をぞ絞ける。
菊地大夫胤益、阿波国より材木とらせ、屋島浦に漕渡して、如形内裏を立て奉主上
 其外大臣公卿の家々いへいへも少少被造けり。
 阿波民部成能一千いつせん余騎よきにて馳参。
 夜昼君を奉守護
 其上使者を四国に分散して相触けるは、一人西海に臨幸あり、三種の神器上下官人不玉体、今は此こそ都なれ、各急参賀して勅命を承べし。
 若忠あらん輩は豈賞なからんやと披露すれば、四国の兵皆成能が下知に靡きければ、物憑しげに振舞翫び奉る。
 大臣殿、神妙しんべう也、何事も成能が計とて、阿波守に被成て御気色おんきしよくゆゝしく見えけり。
 肥後守ひごのかみ貞能さだよしは、九国を従へんとて下たりけれ共、被追出て面目なし。
 菊地次郎高直任肥前守、原田四郎種直筑前守に成たりけれ共、惟義に被追出国務にも不及ける上、心替したりければ、平家心弱思はれけるに、成能加様に甲斐甲斐しく申行ひけるに依て、暫安堵せられけり。

時光辞神器御使

 法皇は、三種の神器都を出させ給たまひて、外都に御座おはしまして月日の重る事を不なのめならず御歎きあり。
 追討使を下さんとすれば異国宝とも成、又海底にもや沈給はんずらんと兼て歎思召おぼしめし、世末に成と云ながら、まのあたり斯る不思議の有こそ御心憂けれ。
 御禊ごけい大嘗会だいじやうゑも已すでに近付、如何して都へ返入奉らんと種々の御祈おんいのりあり。
 又公卿くぎやう僉議せんぎして、先御使を被下て時忠卿ときただのきやうに可仰含と各計申けり。
 誰か可御使と評定有けるに、修理しゆりの大夫だいぶ時光と云人は、平へい大納言だいなごんの北方、先帝の御乳人おんめのと帥佐の妹にて座しければ、時忠には子舅なり。
 されば此人を被下て平へい大納言だいなごんに可歎仰也と、諸卿被申けるに依て、時光を御前に被召て、三種の神器外土の境に御座おはしまして徒に月日を経給事、御歎不浅、我朝の御大事おんだいじ、専此事にあり、汝は時忠に相親みたれば、西海に罷下て都へ可返入之由、彼卿に仰含よと勅定あり。
 時光畏て院宣の御返事おんへんじ申て云、誠に朝家の御大事おんだいじ、何事か過之侍べき、勅定の上は子細を申に及、但今度西海へ下向仕なば、再帰上りて君を見進ん事かたし、其故は、時忠都を落下し時、西国さいこくへ可相伴由懇に語申侍しを、時光、御幸ならせ給はば子細にや及べき、さらずば不思寄と心中に存ぜしに、君の御幸も候はざりしかば留候ぬ、其後も度々怨口説て、可罷下の由申上せ候しか共、縦万人の肩を越て三公の位に至とても、争君を離進て外土の旅にさすらふべき、不思寄事哉と存て、返答にも不及罷過候。
 抑時光下向仕て、三種の神器事故なく帰上らせ給ふべくば、縦身は徒に成とも、勅定に随て、風雲に鞭を打、夜を日に継て可馳下こそ候に、神器の返入せ給はん事も有難く、時光安穏に上洛せん事も又難しと被申たりければ、申処も誠に不便也とて下されず。

頼朝よりとも征夷将軍宣付康定関東下向事

 〔去さるほどに〕兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりとも上洛不輙とて、鎌倉に居ながら征夷大将軍の宣旨を被下。
 其状に云、
 左弁官下、〈五畿内 東海 東山 北陸 山陰せんいん 山陽 南海 西海 已上 諸国〉
  早頼朝よりともの朝臣あそん征夷大将軍
   使〈左史生中原康定 右史生中原景家かげいへ
 右左大臣藤原ふぢはらの朝臣あそん兼実宣奉勅、従四位下じゆしゐのげ行、前さきの右兵衛権佐うひやうゑのごんのすけみなもとの頼朝よりともの朝臣あそん、可征夷大将軍者、宜承知宣行之。
  寿永二年八月日              左大史小槻宿禰奉
 左大弁さだいべん藤原ふぢはらの朝臣あそん 在判とぞ被書下ける。
 左史生康定、此院宣を賜て九月四日関東に下著。
 兵衛佐ひやうゑのすけに奉院宣、対面して勅定之趣を申含。
 頼朝よりともの返事承て、同廿五日に康定上洛す。
 院ゐんの御所ごしよ法住寺殿ほふぢゆうじどのに参ず。
 御坪に被召居て、鎌倉の形勢ありさま兵衛佐ひやうゑのすけの問答を委く被聞召きこしめさる
 公卿殿上人てんじやうびと参集り、簾中御簾をついはり、庭上鳴を止て是を聞。
 康定畏て、兵衛佐ひやうゑのすけ申しは、頼朝よりとも勅勘を蒙といへ共、既すでに朝敵を退け、武勇の名誉依先祖忝征夷将軍の宣旨を下賜る、都に不罷上、私宅に乍居宣旨を奉請取事、天命有其恐、若宮社にて可請取と被申之間、康定八幡若宮に参向す。
 彼若宮は、鶴岡と申所に八幡大菩薩はちまんだいぼさつを奉移祝、地形如石清水也。
 四面の廻廊あり、造道十余町よちやうを見下て内外に鳥居を立たり、南は海上漫々と見渡して眺望ことに勝たり。
 さて宣旨をば誰してか可請取と評定あり。
 三浦介義澄と被定。
 彼義澄は東八箇国第一弓取に、三浦平太郎高継が末葉なる上、父三浦大介義明が、君の御為に兵衛佐ひやうゑのすけ謀叛を発初ける時、衣笠城にて敵を禦命を捨たるに依て、父が黄泉の闇を照さんが為と承き。
 義澄宣旨請取奉らんとて八幡宮へ参向す、郎等十人家子二人を相具す、郎等十人をば大名一人づつ承て出立たり。
 家子二人が内、一人は比企藤四郎能定、一人は和田三郎宗真、家子郎等都合十二人、彼も此も共に直申にて、今日を晴と上下心も及ばず出立たり。
 義澄は赤威鎧に甲をば不著、右の膝を突、左の膝を立て、累葛箱に奉入処の宣旨、袋を請取奉らんと、左右の手さゝぐる時、康定兼て三浦介とは承て侍ども、抑御使は誰人にて御座るぞと尋候しかば、三浦介とは不名乗して、三浦荒次郎義澄と名乗儘に、宣旨奉請取、良久有て、覧箱の蓋に沙金十両入て返。
 拝殿に紫縁の畳二畳敷て康定を居、高盃に肴二種して酒を勧む。
 斉院次官親義、陪膳仕て肴に馬を引、大宮侍の一﨟、工藤左衛門尉さゑもんのじよう祐経一人して是を引、其そのは兵衛佐ひやうゑのすけの館へは向はず、五間の萱屋を理て、椀飯ゆたかに、厚絹二両、小袖十重、長櫃に入て傍に置。
 其外宿所へ十三疋の馬を送る。
 其中に二疋は鞍を置、十一疋じふいつぴきは裸馬也。
 彼馬共は、八箇国の大名に選宛られたりと内々承しに合て、実に有難逸物共也き。
 又上品の絹百疋、白布百端、紺藍摺各百端積めり。
 明る日兵衛佐ひやうゑのすけより康定を請ず。
 請に随て行向。
 兵衛佐ひやうゑのすけの館を見候しかば、外侍内侍共に十六間、外侍には諸国の大名膝を組て並居たり。
 内侍には一姓の源氏共並居て、末座に古老郎等共らうどうどもを居たり。
 少引却て、紫縁の畳を敷康定を居、良久して兵衛佐ひやうゑのすけの命に随つて罷向。
 簾を揚て、寝殿に高麗縁のたゝみ一帖敷て、兵衛佐ひやうゑのすけ座たり。
 軒に紫縁の畳一帖敷て康定を居、兵衛佐ひやうゑのすけは布衣に南袴を著せり、指出たるを見候しかば少く御座おはしませし時には似給はず、顔大にして長ひきく、容貌花美にして景体優美也。
 言語分明にして、子細を一時宣たり。
 平家は頼朝よりともが威に恐て京都に不安堵、西海へ落下ぬる其跡には、何なる尼公也共などか打入ざるべき、其に義仲よしなか行家等が、己が高名顔に預恩賞剰両人共に国を簡申ける条、返々奇恠也。
 但義仲よしなか僻事仕らば、仰行家討べし、行家僻事仕らば、仰義仲よしなか討、当時も頼朝よりともが書状、表書には木曾冠者きそのくわんじや十郎蔵人と書たるにも、返事はしてこそ侍れ、折節をりふし聞書到来、能々不心得こころえ気に申て、又秀衡を陸奥守になされ、資職を越後守になされ、忠義を常陸守になさるゝ間、頼朝よりともが命に不随本意なき事に侍り、早彼輩を可誅由、院宣を被下とこそ被申侍しかば、其後色代仕て、康定こと更に名簿をして可進なれども、今度は宣旨の御使として、私ならず候へば追て申べし、舎弟しやていにて、侍史大夫重良も同心に申しかば、定左様にぞ侍らんずらんと色代仕しかば、当時頼朝よりともが身として、争か名簿をば給るべき、さなしとても、怒々疎の儀あるべからずと、ゆゝしげにこそ被返答候しが、軈やがて可罷上由相存知候しに、今日計は可逗留と被留候し間、其そのは宿所へ罷帰、軈やがて追様は、荷懸駄三十疋送賜て候き。
 翌日又兵衛佐ひやうゑのすけの館へ向て、酒を勧て金鐔太刀に、目九指たる征矢一腰取副て引、其上京上の雑事とて、鎌倉より宿々に五石々々、糠藁に至まで、鏡の宿まで送積で侍つる間、さのみは如何せんと存て、人にたび宿にとらせ施行に引なんどして、上洛仕て候と奏し申。
 聞人ごとに、兵衛佐ひやうゑのすけの作法如見にぞ被思ける。
 法皇委く被聞召きこしめされ、今度儲たる物、よし/\康定が徳にせよとぞ仰ける。
 院宣請文には、去八月七日院宣、今月二日到来、被仰下之旨、跪以所請如件、抑就院宣之旨趣、倩思姦臣之滅亡、是偏明神之冥罰也、更に非頼朝よりとも之功力、勧賞之間の事、只叡念之趣可足とぞ載たりける。
 礼紙には、神社仏寺近年以来、仏餉燈油如寺社領等、如本可付本所歟、王侯卿相けいしやう以下領、平氏輩多く押領と云云、早く被聖日之恩詔、可愁霧之鬱念歟、平家之党類等、縦雖科怠、若悔過帰徳、忽不斬刑とぞ申ける。

光隆卿向木曾許付木曾院参ゐんざん頑事

 同おなじき十五日、備前守行家申けるは、経盛卿并成良等、以軍船五百艘海上、国々の船を討取。
 其威勢甚強して、舎弟しやていの男為賊徒軍敗られて、備前国を被打取畢、急罷向て可討伐と申けれ共、義仲よしなか免ければ、院より可下遣の由義仲よしなかに仰ければ、勅答には、行家は雖勇士冥加、毎度被軍、今度の追討使尤可儀かと申ければ、義仲よしなか罷向の由、被仰下けり。
 木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなかは、貌形は清気にて美男なりけれ共、堅固の田舎人にて、浅猿あさましく頑何をかしかりけり。
 信濃国しなののくに木曾と云ふ山里に、二歳よりして二十余年が間隠居たりければ、人に馴る事はなし。
 始て都の人に馴そめんに、なじかは誠によかるべき、かたくななるこそ理なれ。
 猫間中納言光隆卿宣ふべき事あて木曾が許へおはして、先雑色して角と云入られたり。
 木曾が郎等に根井と云者、聞継て主に語ければ、木曾不意得とて、なまり音にて、何猫のきた、猫とは何ぞ、鼠とる猫歟、旅なればとらすべき鼠もなし、猫は何の料に義仲よしなかが許へは来るべき、但し人を猫と云事もや有と云ければ、根井もげに不心得こころえと思て、立帰て雑色に問様は、抑猫殿とは鼠取猫か、人を猫殿と申かと、御料に不意得と嗔給也といへば、雑色あな頑やをしへんと思て、七条坊城壬生辺をば、北猫間、南猫間と申。
 是は北猫間に御座おはします程に、在所に付て猫間殿と申也。
 譬へば信濃国しなののくに木曾と云所におはすれば木曾殿きそどのと申様に、是も猫間に御座おはしませば猫間殿と申也と細々に教ければ、根井意得て此様を申。
 木曾も其時意得て奉見参しけり。
 暫く物語ものがたりし給たまひて、木曾根井を招て、や給へなんてまれ饗申せと云。
 中納言浅猿あさましと思ひて、只今ただいまのたまふことあるべからざりけれ共、いかが食時におはしたるに物めさでは有べき、食べき折に不食は、粮なき者と成也、とく急げ/\と云。
 何も生しき物をば無塩と云ぞと心得こころえて、無塩の平茸もありつな、帰給はぬさきに早めよ/\と云ければ、中納言は懸由なき所へ来て恥がましや、今更帰らんも流石さすが也と思て、宣べき事もはか/゛\しく不仰、興醒て竪唾を呑て御座おはしましけるに、いつしか田舎合子の、大に尻高く底深に生塗なるが所々剥たるに、毛立したる飯の、黒く籾交なりけるを堆盛上て、御菜三種に平茸の汁一つ、折敷に居て根井持来て中納言の前にさし居たり。
 大方とかく云計なし。
 木曾が前にも同く備たり。
 木曾は箸とり食けれ共、中納言は青興醒てめさず。
 木曾是を見て、如何に猫殿は不饗ぞ、合子を簡給歟、あれは義仲よしなかが随分の精進合子、あだにも人にたばず、無塩の平茸は京都にはきと無物也、猫殿只掻給へ/\と勧めたり。
 いとゞ穢く思ひ給けれ共、物も覚えぬ田舎人、不食してあしき事もぞ在と被思ければ、めす体に翫て中底に突散し給へり。
 木曾は散飯の外には何も残さず食畢。
 戯呼猫殿は少食にておはしけり、去にても適座したるに、今少掻給へかし/\と申。
 其後根井、猫間殿の下を取て中納言の雑色に給。
 雑色因幡志腹を立て、我君昔より懸る浅猿あさましき物進ずとて、厩の角へ合子ながら抛捨たり。
 木曾が舎人是を見て、穴浅増あさましや、京の者は、などや上﨟も下﨟も物は覚えぬ、あれは殿の大事の合子精進をやとて取てけり。
 是のみならず、をかしき事共多かりける中に、木曾我官を成たり、さのみ非引籠出仕せんとて、直垂を脱置て、狩衣に立烏帽子たてえぼし著て初て車に乗、院ゐんの御所ごしよへ参る。
 不乗習車、不著知装束なれば、立烏帽子たてえぼしのさきより指貫のすそまで、頑事云計なし。
 牛飼は平家内大臣ないだいじんの童を取て仕ければ、高名の遣手也、主の敵ぞかしと目ざましく心憂思ける。
 木曾車にゆがみ乗たる有様ありさま、をかしなどは云計なし。
 左右の物見を開、前後の簾を揚たり。
 牛小童が角はせぬ事にて候と云ければ、やをれ牛童よ、たまたま車に乗たる時、人をも見たり人にも見ゆるぞかし、如何が無念に、車の内なればとて引籠て有べき、且は是程窄所に詰居事も忌々しなど云てをかしかりけり。
 馬に打乗冑著たるには少も似ず、ゆゆしく危げにぞ見えける。
 牛童車を門外に遣出て、後て一ずわえあてたれば、飼立たる強牛の逸物也、何の滞か有べきなれば、如飛走る。
 木曾車の内に却様にまろぶ。
 牛を留ん為に、やをら童々と叫ければ、留よと云とは心得こころえたりけれ共、いとゞ鞭を当つ、牛はまりあかて躍る。
 起あがらん/\とすれ共なじかは起らるべき、不著習装束也、起る暇はなし。
 蝶の羽をひろげたるが如くに、左右の袖をひろげ足を捧て、やをれ/\とをめきけれ共、不虚聞して六七町こそあがかせたれ。
 郎等共らうどうどもが馳付て、如何に暫し留よと仰の有るに角は仕るぞと云ければ、牛童陳じ申けるは、やれ小てい/\と候へば、初て御車に召て面白と思召おぼしめして、車を遣々と仰あると心得こころえて仕て侍り、其上此牛は鼻つよく候と申て、車を留て後、木曾起居たりけれ共、六七町はあがかせぬ。
 きならはぬ狩衣の頸にて喉をばつよく詰たり。
 遍身へんしんに汗たり、赤面してぬけ/\とあり。
 牛飼今は中直せんと思て、それに候御手形に取付せ給へと教ければ、いづくを手形とも不知げに見えける時に、其に候方立の穴に取付せ給へと云時、初て取付て、あはれ支度や、是は和牛小ていが支度か、又主の殿の構かとぞ問たりける。
 院ゐんの御所ごしよにて車懸はづしておりんとしけるが、後より下けるを、雑色、車には後より乗て前よりおるゝ事にて候と申せば、いかが車ならんからに、忌々敷すとおりおはすべき、京の人は物におぼえずと覚るとて、終に後より下てけり。
 院ゐんの御所ごしよへ指入ければ、折節をりふし候相たりける公卿殿上人てんじやうびと、女房女童部をんなわらんべに至迄、すはや木曾が参なるは、死生不知の怖し者にて有なるぞとて、局々に逃入忍隠て戸を細目に開、御簾の間よりのぞきけり。
 木曾庭上をねり廻、彼方此方を立渡て、穴面白の大戸やせとや、中戸にも絵書たり、下内にも唐紙押たりとぞ嘆たりける。
 殿上階下、男女畏しさにえ咲はで、忍音に咲壺に入てぞ咲ける。
 大方振舞とふるまふ事、云と云事は、京中上下の物咲なり。

源平水島軍事

 〔去さるほどに、〕平家は讃岐国屋島に在ながら、山陽道を打靡して都へ責上るべしと聞えければ、木曾左馬頭さまのかみ義仲よしなか是を聞て、信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん矢田判官代はんぐわんだい義清、宇野平四郎行広を差遣す。
 山陽道の者共多く源氏に相従けり。
 平家は三百さんびやく余艘よさうの兵船を調て、屋島の磯に漕出たり。
 源氏は備中国水島が途に陣を取て、千余艘よさうの兵船を構たり。
 源平互に海を隔て支たり。
 寿永二年閏十月一日、水島にて源氏と平家と合戦を企つ。
 源氏等げんじら計けるは、此島の南の地より、島の北の際まで三町さんちやうには過べからず、島の東の海上より寄て、島の北に船を陸まで組合て、軍兵隙を諍て攻寄ば、先陣に進まん者敵の為に打とらると云共、幾ならじ。
 後より次第に続て、島の上へ責入て城に火を懸ば、敵は舟へのみこそ競のらんずらめ、打物に堪たらん輩続て乗移て打とれ、島を責落しなば、船の寄る所なくしては争か海上に日を重ぬべき、浪に引れ風に随つて漂はんを、浦々渚々に追詰々々討とらんと定てけり。
 平氏は又船をば島の西南に付て、城の東北の木戸口きどぐちを開て、名を得たらん人々進出て敵を指招かば、舟を並て責寄べし、偽て引退ば島の上へ襲来らん歟、其時舟を島東北へ指廻して、三方より矢前やさき揃て可射取、敵不堪して引退かば、舟を指並べて乗移、分捕せんとぞ謀りける。
 源氏の追手の大将軍は宇野弥平四郎行広、搦手の大将軍は足利矢田判官代はんぐわんだい義清也。
 五千ごせん余人よにんの兵共つはものども、百余艘よさうの兵船、纜解て押出し、夜の曙に漕寄て時の声を発す。
 平家待儲たる事なれば、声を合て戦ふ。
 両方の軍兵一万いちまん余人よにんなれば、時の声海上に響渡て、よせたる波の音も声を合する歟とぞ覚ける。
 平家は本三位中将重衡、越前三位通盛卿を大将軍として七千しちせん余人よにん、二百艘の兵船に乗て、島の西南より東北へ二手に指廻す。
 源氏の兵船、兼てはかりたる事なれば、南の地より島の北まで指並て、当国の住人ぢゆうにんを前に立て二千にせん余人よにん、甲を傾け冑の袖を振合て、一面に立並て責寄。
 平家は見是て、城の東北の木戸口きどぐちを開く。
 能登守教経は、紺の白き糸にて群千鳥を縫たる直垂に、紅威の鎧に、長覆輪太刀をはけり。
 越中次郎兵衛盛嗣は、滋目結の直垂に耳坐滋の冑を著たり。
 上総五郎兵衛忠清ただきよは、縫摺の直垂に赤威肩白の鎧を著たり。
 飛騨三郎兵衛景家かげいへは、褐直垂に大衿耳袖を赤地の錦をたち入たるに、黒糸威くろいとをどしの鎧を著せり。
 鎧の毛直垂の色、いづれも取々にはなやかに見えたり。
 此外村田兵衛盛房、源八馬允、米田を始として、名を得たる勇士三十さんじふ余人よにん打出て、敵を招けば、矢田判官代はんぐわんだい義清、仁科次郎盛宗、高梨六郎高直、海野平四郎幸広を始として三百さんびやく余人よにん、木戸口きどぐちへ攻寄て戦。
 平氏偽て引退、源氏勝に乗て攻蒐。
 爰ここに島の両方の船、南の沖西の島さきより指寄て、敵の舟を打鎰にて掻寄せ、組合て乗移る。
 精兵をそろへて、城中じやうちゆう并に両方の船より散々さんざんに射、源氏の船不堪引退。
 西風烈く吹て、船共ゆられて打合ければ、東国北国の輩、舟軍は習はぬ事なれば、船に不立得して船底へのみ重り入。
 平家の輩は、舟軍自在を得たりければ、乱入て散々さんざんに切。
 面を向る者はすくなし。
 舟耳に近付者をば取て海に入、底にある者をば冑の袖をふまへて頸を掻、城の中よりは勝鼓を打てののしり懸る程に、天俄にはかに曇て日の光も見えず、闇の夜の如くに成たれば、源氏の軍兵共日蝕とは不知、いとゞ東西を失て舟を退て、いづち共なく風に随つて遁行。
 平氏の兵共つはものどもは兼て知にければ、いよ/\時を造り重て攻戦。
 矢田判官代はんぐわんだい義清は、船にゆられて立得ざりければ、船耳に尻を懸て、甲を脱捨太刀を抜て戦ふ。
 越中次郎兵衛盛嗣は是を見て、甲を傾て打て懸を、義清立上て甲の鉢をうつ。
 強く被打て甲を脱て落にけり。
 盛嗣目くれて、太刀の打所は覚ざりけれ共打違へたりけるに、義清が右の顔をすぢかへに、押付の板に切付たりければ、うつぶしに伏けるを引仰のけて頸を掻てけり。
 海野四郎幸広は、村田兵衛盛房と船耳にて取組て海へ入けるを、飛騨三郎兵衛景家かげいへは勇士の者也ければ、盛房が総角を取て引返して懐合たりけるを、両人ながら船へ抛入てけり。
 幸広刀を抜て、盛房が起あがらんとするを踏へて、冑の草摺を引上てさす。
 景家かげいへ是を見て、幸広が甲を引仰て首を掻てけり。
 能登守教経、精兵の手きゝなりければ一として空矢なし。
 高梨次郎高信を始として十三人被射取けり。
 源氏の軍敗にければ、討残されたる者共、はしふねに乗移て、飛下々々落行きけるを、平家は舟の中に兼て鞍置馬を用意して、船共の纜切放、渚なぎさに漕寄、舟腹を乗傾て馬共おろし、ひたとのり、能登守一陣に進で攻蒐ければ、討るゝ者は多く助かる者は少なし。
 或備前国へ落もあり、或は都へ上もあり。
 海へ入て死する者は其数を不知。
 船にて被討捕源氏には、矢田、高梨、海野を始として、千二百人せんにひやくにんが頸切懸たり。

木曾備中下向斉明被討並兼康かねやす倉光

 懸ければ当国住人ぢゆうにん等、皆平氏に帰伏してけり。
 都へ落上たりける者共、木曾に角と云ければ、義仲よしなか安とて、夜を日に継て備中国へ馳下。
 去六月北陸道の合戦に虜たりし平泉寺長吏斉明をば、六条河原にて頸を切る。
 妹尾せのをの太郎たらう兼康かねやすは、木を樵草を刈までこそなけれ共、二心なく木曾に被仕けり。
 是はいかにもして再故郷に帰、今一度旧主を奉見、平家の御方に成て合戦を遂んとの謀なり。
 咲中偸銃刺人刀といへり。
 木曾は是をも不知して、斉明と同時に切べかりけれ共、西国さいこくの道しるべとて宥具し給けり。
 蘇子卿如胡国李少卿似漢朝、遠著異国、昔人の所悲といへり。
 如何有べかるらん、おぼつかなしと覚たり。
 寿永二年閏十月四日、木曾都を出て、播磨路に懸て今宿に著。
 今宿より妹尾を先達にて備中国へ下る。
 当国の船坂山にて、兼康かねやす木曾に云けるは、暇を給たまひて先立て罷下、相親む者共に、御馬草をも用意せさせ候ばや、懸乱の世なれば、俄の事は難治にも侍べしと申間、さも有べしとて許し遣はす。
 木曾は爰ここに三箇日の逗留と云。
 兼康かねやすすかし仰たりと思て、子息小太郎兼通、郎等宗俊を相具して下けるが、加賀国住人ぢゆうにん倉光三郎兼光を招て云けるは、やゝ倉光殿、兼康かねやす、御辺ごへんに奉虜、難遁命を生、剰西国さいこくの尋承を給、故郷に帰て再妻子を相見ん事も、御恩とのみ奉思、もし人手に懸たらば、争か命も生故郷へも帰べき、さても兼康かねやす虜給たる勧賞に、備中の妹尾は吉所にて侍り、勲功の賞に申賜て下給へかし、同は打つれ奉んと云。
 倉光三郎誠にと思て木曾に所望しければ、則下文賜。
 倉光悦で妹尾に打具して下る。
 兼康かねやす道すがら思けるは、妹尾まで行ぬるものならば、新司とて庄内一はな心にてもてなし、思著者有て勢付なば如何にも難叶と思て、備前国和気の渡より東に、藤野寺と云古き御堂に下居て、兼康かねやす申けるは、やや倉光殿、妹尾は今は程近し、やがて打具し奉べけれ共、世間のそうそうに所も合期せん事難し、兼康かねやす先立て所の様をも見廻、又親しき者共にも相触て、かゝる人こそ下向し給へとて、御饗をも用意せさせんと云ければ、倉光は何様にもよき様に相計給へとて爰ここに留る。
 兼康かねやすはすかして負て、先立て草壁と云所に馳付て、使を方々へ遣して、親者四五人招寄て夜討せんとぞ出立ける。
 倉光争か角と知べきなれば、今や今やと待所に、夜半計に、兼康かねやすは十余騎よきの勢にて、藤野寺に押寄て、倉光三郎を夜討にしてこそ帰にける。
 此倉光と云は、随分健に立て、度々の軍にも不覚せず、北国合戦に妹尾をも虜たりし者が、兼康かねやすにすかされて討れぬるこそ無慙なれ。
 人の申けるは、何事も運の尽るは力なき事なれ共、倉光は北国の住人ぢゆうにんながら、案内者立て此彼あなぐり行、昔より馬の鼻もむかぬ、白山権現の御領、末寺末社の庄園を没倒し、神事仏事の供米を押領し、剰又平泉寺の長吏斉明威儀師ゐぎしが被宥しをも、種々に讒訴して六条河原にて刎首などしたりしかば、神の咎人の怨の報にこそ、角おめ/\とは討れたるらめとぞ申ける。
 妹尾せのをの太郎たらう兼康かねやすは、倉光を夜討にして後に人を四方に走らかし、兼康かねやすこそ北国の軍に被虜たりつるが、平家の御行末の恋さに、兎角操て再故郷にまぬかれ帰たれ、木曾は既すでに船坂山に著給へり。
 平家へ参らんと思はん者の、我に志あらん人は、兼康かねやすに付て木曾を一矢射よやと触たりけり。
 妹尾にも不限、其辺近者共、墓々しきは兼て屋島へ参ぬ。
 馬鞍も持ず、具足もたらはぬ輩が是を聞て、柿の袴に責紐結、布の小袖に東折したり。
 剥たる弓矢に精たる太刀刀持などして、馬に乗者は少く、多は歩跣にて、此彼より二人三人と走集たり。
 其そのせい三百人さんびやくにん計在けれども、そも物に叶べきは僅わづかに十二十人には過ざりけり。
 此勢を相具して、兼康かねやすは西河裳佐の渡を打渡り、福輪寺阡を堀切て、管植逆母木引などして、馬も人も通難く構たり。
 彼阡と云は遠さ二十余町よちやう、北は峨々たる山、人跡絶たるが如し。
 南は渺々たる沼田、遥はるかに南海に連なりたり。
 西には岩井と云所あり。
 是をば打過て当国の一宮をも過、佐々迫に懸。
 此佐々迫と云所は、東西は高き山、谷に一の細道あり。
 左右の山の上に弩多く張り立たり。
 後には津高郷とて、谷口は沼也ければ、究竟の城じやう也。
 敵何万騎向たり共輙く攻落し難所也。
 此には兵共つはものどもを指置て、我身は唐河の宿、板蔵城に引籠て、今や/\と木曾を待。

兼康かねやす板蔵城戦事

 〔去さるほどに〕倉光三郎の下人夜討に討漏れたりけるが、舟坂山に走帰て木曾に角と告ければ、木曾驚騒て、夜討の勢は何程か有つると問。
 闇は闇し夜目にて一定の数は不知、二三十人にもやと見え侍き。
 妹尾が所為と覚ゆる事は、我身は先立て馬の草藁用意して、使を進せん程は、暫く此に相待給へとて、古御堂におろし奉置、夜に入まで使もなし、待ども/\人も見えず、結句はかくなり給ぬ、この定ならば、一定君をも伺進せんと覚候、其上妹尾は国人也、勢も付増ゆゝしき大事也、急ぎ兼康かねやすを討せ給べくや候覧と申。
 兼康かねやすが所為勿論也、去ば急とて、木曾三百さんびやく余騎よきにて今宿を立、夜を日に継で馳下給ける程に、其暁に三石に著。
 明日藤野寺に著。
 倉光爰ここにして討れにけりと哀に思ひ、爰をも打過、和気の渡を打渡し、可真郷へ打入て福輪寺阡を見れば、堀掘切て逆母木引、たやすく爰を難通、如何して閑道を知らんとて、其辺を打廻て里人を尋けるに、可真郷の住人ぢゆうにんに、惣官頼隆と云者を尋出して云けるは、妹尾せのをの太郎たらう兼康かねやすを、西国さいこくの為尋承、死罪を宥て古里に返遣す処に、還て義仲よしなかに存腹黒、彼を責んとするに、きと道を得ず、通り道ありなんやと宣へば、候なんとて即頼隆山しるべして先陣に進み、北路に懸り鳥岳と云所を廻て、佐々の井より時を咄と造懸て、佐々が迫を責たりけり。
 妹尾は兼て、木曾は今宿に三日の逗留なれば、縦此事漏聞て寄とも、福輪寺畔きと寄がたし、されば只今ただいまの事にてはよもあらじと打延て思けるに、時を造懸て寄たれば、駈武者共は一矢射るに及ず、皆散々ちりぢりに落行けり。
 自先立者は助りけれども、返合する者のたすかるはなし。
 深田に追入追入切殺し射殺す。
 佐々迫を攻落して、唐皮宿、板蔵城に押寄て時を造る。
 妹尾思儲たる事なれば、矢たばね解て散々さんざんに射る。
 木曾は妹尾逃すな兼康かねやすあますな、攻よ/\と下知しければ、郎等共らうどうども入替入替射合たり。
 妹尾矢種尽ければ、主従三人山に籠る。
 それより相構て屋島へ参らんと赴ける程に、子息小太郎兼通は、肥太たる男にて、歩に不合期ければ、足を痛て山中に留る。
 兼康かねやすは思切、小太郎を捨て落行けれ共、恩愛の道の悲さは、行ども/\不歩。
 小太郎又父の兼康かねやすを呼ければ、兼康かねやす帰て如何にと問。
 させる要事は侍らず、爰を最後と存ずれば、今一度見奉んとてと答、涙を流しければ、兼康かねやすも袖を絞けり。
 一年新しん大納言だいなごん成親、丹波たんばの少将せうしやう成経なりつねに情なくあたり奉りたりしに、親子の中の悲しさは、今こそ思ひ知れけれ。
 敵近く攻寄ければ、兼康かねやす又思切深く山へ落入けるが、眼に霧雨て進まれず。
 郎等宗俊を呼て、兼康かねやすは数千人すせんにんの敵に向て戦にも、四方晴て見ゆれ共、小太郎を捨て落行ば、涙にくれて道見えず、兼ては相構て屋島に参て、今一度君をも見奉り、木曾に仕し事をも申ばやと思つれ共、今は恩愛の中の悲ければ、小太郎と一所にて討死せんと思は如何有べきと云。
 宗俊尤さこそ侍べけれ、弓矢の家に生ぬれば、人ごとに無跡までも名を惜む習也、明日は人の申さん様は、兼康殿かねやすどのこそいつまで命をいきんとて、山中に子を捨落行きぬれといはれん事も口惜き御事なるべし、主を見奉らんと覚ずも子の末の代を思召おぼしめす故也、小太郎殿亡給なんには、何事も何かはし給べき、只返合て、三人同心に一軍して、死出の山をも離ず御伴仕らんと云ければ、兼康かねやす然べしとて道より帰、足病居たる小太郎が許にゆき、前には柴垣を掻、後には大木を木楯にして敵を待処に、木曾左馬頭さまのかみ、三百さんびやく余騎よきにて跡見に付て尋けるに、兼康かねやすここに在とて、幾程助るべき事ならねど、小太郎を後に立て、我身は矢面に指顕て、指詰々々散々さんざんに射る。
 十三騎に手負せて馬九匹射殺し、矢種も又尽ければ、今は角とて腹を掻切て失にけり。
 小太郎兼通も引取ひきとり々々ひきとり射けるが、父が自害を見て、同枕に腹切て臥にけり。
 郎等宗俊も手の定り戦て、柴垣に上て、剛者の死ぬる見よやとて、太刀の切錚口に含み、逆に落貫かりてぞ死にける。
 木曾は妹尾父子が頸を切、備中国鷺森に懸て引退く。
 万寿庄に陣を取、後陣の勢を待儲て、是より平家を為追討屋島の発向をぞ議定しける。

行家謀叛木曾上洛事

 〔斯りける処に〕木曾西国さいこく下向之時、乳母子めのとごの樋口次郎兼光をば、京の守護に候へとて留置たりけるが、十一月二日早馬を立て、十郎蔵人殿こそ鼬のなき間の貂誇りとかやの様に、院のきり人して院宣を給り、木曾殿きそどのを誅奉べき、其聞候へと申下したりければ、木曾大に驚て平家を打捨て、夜を日に継で馳上る。

行家与平氏室山合戦事

 十郎蔵人是を聞て、千騎せんぎの勢にて指違て、丹波路より播磨国へ下る。
 平家は折節をりふし播磨の室に著給たりけるが、此事を聞て、門脇かどわきの新中納言父子、本三位中将重衡、一万いちまん余騎よきにて室山坂に陣を取て、十郎蔵人を相待けり。
 討手を五に分たり。
 一陣飛騨三郎左衛門さぶらうざゑもんのじよう景経五百ごひやく余騎よき、二陣越中次郎兵衛盛嗣、五百ごひやく余騎よき、三陣上総五郎兵衛忠清ただきよ五百ごひやく余騎よき、四陣伊賀平内左衛門尉へいないざゑもんのじよう家長五百ごひやく余騎よき、五陣門脇かどわきの中納言ちゆうなごん八千はつせん余騎よきにて引へたり。
 十郎蔵人是をば不知、室山を打程に、飛騨三郎左衛門さぶらうざゑもんのじよう進出て、散々さんざんに暫戦て、景経の弓手の小黒の中へ引退く。
 源氏爰を蒐通て二陣に付。
 越中次郎兵衛道を切て防けれ共、戦兼て盛嗣妻手の林へ引籠る。
 源氏此を打破て三陣に付。
 上総五郎兵衛出塞つて戦けれ共、忠清ただきよ負色に成て北の麓へ被追下
 源氏爰を破て四陣に付。
 伊賀平内左衛門尉へいないざゑもんのじよう待受て戦けるが、家長も不叶して南の谷へ追落さる。
 源氏四陣を破て五陣に付。
 門脇かどわきの中納言ちゆうなごん八千はつせん余騎よきにて引へ給へり。
 大勢支塞て戦ける中に、中納言の侍に、紀七、紀八、紀九郎とて、兄弟三人ありけるが、劣らぬ剛者精兵の手きゝ也けるが、死生不知に進出て、矢尻を揃て指詰引取散々さんざんに射ければ、面を向べき様なくして、十郎蔵人取て返して落ければ、五陣大勢時を造懸て責付たり。
 是を聞て四陣三陣二陣一陣、道を塞ぎ時を合て待処に、源氏四陣を破らんとす。
 是も矢尻をそろへて射ければ、十郎蔵人は敵にはかられにけりと心得こころえて、其時は射にも及ばず切にも不能、しころを傾け冑の袖を真甲にあてて、弓を脇に挟み、太刀を肩に懸て、通れ者共よ若党とて、四陣を走せ抜て見たりければ、千騎せんぎの勢三百騎は討れて七百騎になる。
 此勢にて三陣につく。
 是も散々さんざんに戦けれ共、思切て打破て通にけり。
 三百騎討れて四百騎しひやくきになる、此勢にて二陣につく。
 是も打破て出て見れば百騎成。
 此勢にて一陣に付て、今を限と死生不知に戦て、係散して出たれば、僅わづかに七八十騎じつきには過ざりけり。
 能登守教経、伊賀平内左衛門へいないざゑもん家長、田太左衛門生職、駿河兵衛光成、飛騨三郎左衛門さぶらうざゑもんのじよう景経を始として五百ごひやく余騎よき、南山の麓より、馬鼻を並て北へ向て蒐、陣の内より豊後右衛門頼弘、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠清ただきよ、矢野右馬允家村、同七郎兵衛高村を始として三百さんびやく余騎よき、東へ向て源氏を中に挟て蒐。
 源氏平家両陣乱合て、或弓手に懸並べて討捕もあり。
 或妻手に相合て討落もあり。
 四方に馳乱れて懸合懸組、馬足音矢叫の声、山を響し地を響す。
 源氏も平氏も何隙あり共見えざりけり。
 爰ここに美作みまさかのくにの住人ぢゆうにん恵比入道守信、播磨国住人ぢゆうにん佐用党利季兼知を始として七百しちひやく余騎よき、西の山の鼻より時を造つて懸ければ、源氏三方より被押囲て、軍忽たちまちに破て東を指て落行けり。
 平家勝に乗て敵を懸背て、おもの射にぞ射取ける。
 備前守行家は、赤地錦の直垂に黒糸威くろいとをどしの鎧を著て、さび鴾毛の馬に乗、山田次郎重弘、三遠雁の直垂に紫威の鎧著て、黒馬にぞ乗たりける。
 三十さんじふ余騎よきを相具して、東の原を北へ向て引退く。
 景経、忠清ただきよ、盛嗣、家村等鞭を打轡を並て追攻めければ、伊賀国の住人ぢゆうにんつげの十郎有重、美濃国住人ぢゆうにんをりとの六郎重行を始として十一騎じふいつき、おり禦て戦ふ。
 有重は盛嗣に馳合て押ならべて組ければ、盛嗣立上りて、左の手にて有重が甲を引落し、髻を取て鞍の前輪に引付て頸を掻、太刀の切錚に貫て、馬を引へて歩ませ行。
 誠にゆゝしくぞ見えける。
 重行は景家かげいへに組れて首とられにけり。
 此間に行家重弘は遁得て、和泉国へぞ越にける。
 つげの十郎有重、をりとの六郎重行を始として、百八十人頸切懸たり。
 懸ければ、備前、播磨両国の勇士等、皆平家に随付にけり。

木曾洛中狼藉事

 〔去さるほどに〕源氏世を取たりとても、其ゆかりなからん者は指せる何の悦か有べきなれ共、人の心のうたてさは、平家の方の弱きと聞ば悦、源氏の軍の勝と云をば興に入て悦合けり。
 さはあれ共、平家西国さいこくへ落下給たまひて後は、世の騒に引れて、資雑財具東西に運隠し、京白川にても吟ければ、引失者も多、深き井の中に入、穴を掘りて埋などせしかば、打破朽損じて失しばかり也。
 流石さすが残物も有しぞかし。
 木曾五万余騎よきを引卒して上洛して、武士京中に充満て家々いへいへに乱入、門には白旗を打立て家主を追出し、財宝を追捕す。
 只今ただいま食はんとて箸を立るをも奪取ければ、口を空して命生べき様なし。
 道を通る者をも衣装を剥れ、手に持肩に荷へる物をも抑へ取ければ、やす心なし。
 浅猿あさましなどは云計なし。
 可然大臣公卿の御所などこそさすが憚て狼藉をばせざりけれ。
 平家の代には、六波羅の一家と云しかば、只恐れをなすばかりにて有しに、加様に目を見合せて食物を箸奪取事やは有し、心憂事也と老たるも若も歎けり。
 加賀国住人ぢゆうにん井上次郎師方が申行に依て、木曾懸る悪事をするとぞ聞えし。
 只人民の煩のみに非、賀茂、八幡、稲荷、祇園より始て、神社仏閣、権門勢家の御領をも嫌はず、青田を刈取て秣に飼、堂塔卒都婆などを破取て薪としけり。
 狼藉不なのめならず、殆人倫の所為とも不覚、遥替劣したる源氏也とぞ沙汰しける。
 何者なにものが所為にてか有けん、院ゐんの御所ごしよ法住寺殿ほふぢゆうじどのの四足の門に、札に書て立たりけり。
  あかさいてしろたなごひに取替て頭にしまく小入道哉
 さしも乱れの世の中に、よくあとなき者も有けりとぞ申ける。

榎巻 第三十四
木曾可追討由付木曾怠状挙山門

 〔去さるほどに〕法皇は、世上の狼藉人民の侘せい歎思召おぼしめして、壱岐判官知康を以て、木曾が許へ被仰下けるは、武士洛中に充満て資財を追捕の間、人民歎々て不安堵由其聞あり、速に狼藉を可鎮なりと。
 知康木曾が許に行向て、院宣の趣申含けり。
 木曾御返事おんへんじをば申さず、さしもの院宣の御使に、小袴に懸直垂、烏帽子えぼしに手綱うたせて、鬢もかゝずして申けることは、や殿、和主を鼓判官と京中の童部わらんべまでも申は、人に被打給たるか、又はられ給けるかと問ければ、判官苦笑てぞ帰ける。
 此知康は究竟のしてていの上手にて、鼓判官と異名に呼けるを、木曾聞きて角申けるとかや。
 遠国の夷といへ共情をしり礼儀をば弁るぞかし。
 木曾は竪固の田舎人の山賎にて、院宣をも事ともせず、散々さんざんに振舞れけば、平家には事の外に替劣して思召おぼしめしける。
 後には山々寺々に乱入て、堂舎を壊仏像を破焼ければ、兎角云に及ばず、神社にも憚らず権門にも恐れず、狼藉いとゞ不留ければ、義仲よしなかを追討して都の狼藉を可鎮由、知康申行けり。
 然べき御気色おんきしよくなりければ、人にも不仰合して、ひしひしと事定りぬ。
 法皇は天台座主てんだいざす明雲めいうん僧正そうじやう、寺の長吏八条宮を、法住寺ほふぢゆうじの御所に招請じ御坐おはしまして、延暦えんりやく園城の悪僧等を可召進由仰けり。
 公卿殿上人てんじやうびとも御催あり。
 又諸寺諸山の執行別当に仰て、兵を被召ければ、日比ひごろ木曾に深く契たりける源氏共にも、思々に参籠る。
 山門の大衆法皇の勅定とて、座主僧正そうじやうより被催促ければ、山上坂本の騒動不なのめならず木曾は北国所々の合戦に打勝て都へ上らんとせし時、越前国府より牒状をあげ衆徒を語てこそ、天台山に上り平家を責落たりしかば、いつまで憑まんと思ひけるに、惣じては洛中貴賎の歎、別而は山門庄園の煩なる間に、大衆院宣に随奉て木曾を可討と聞えければ、義仲よしなか怠状を以て山門に上り、其状に云、
 山上貴所義仲よしなか謹解、
 叡山えいさんの大衆、忝振上神輿於山上、猥構城郭じやうくわく於東西、更不修学之窓、偏専兵杖之営、尋其根源者、義仲よしなか梟悪心、可捕山上坂本之由、有風聞云云、此条極僻事也、且満山三宝護法聖衆、可知見、自企参洛之日、宜医王山王之加護、顕憑三塔三千之与力、今何始可忽緒哉、雖帰依之志、全無違背之思者也、但於京中、搦捕山僧之由有其聞云云、此条深恐怖、号山僧狼藉之輩在之、仍為真偽、粗尋承間、自然狼藉出来歟、更不儀、惣如山上風聞者、義仲よしなか軍兵、可登山云云、如洛中浮説者、衆徒企蜂起、可下洛、是偏天魔之所為歟、不自他信用、且以此旨、可露山上之状如件。
  十一月十三日                   伊予守源みなもとの義仲よしなか
進上 天台座主てんだいざす御房とぞ書たりける。
 山門の衆徒これにも不鎮、いよ/\蜂起の由聞えけり。

法住寺ほふぢゆうじ城郭じやうくわく合戦事

 若殿上人てんじやうびと諸大夫北面の者共などは、興ある事に思て、はや軍の出来ぞかしと申あへり。
 少しも物に心得こころえたる人々は、こは浅増あさましき事哉とて歎給へり。
 院ゐんの御所ごしよ法住寺殿ほふぢゆうじどのを城郭じやうくわくに構て、官兵参集る。
 山門園城をんじやうの大衆、上下北面の輩の外は、物の用に立べき兵ありとも覚ず。
 堀川ほりかは商人に、向飛礫の印地、冠者原、乞食法師、加様の者共を被召たれば、合戦の様も争か可習、風吹ば転倒れぬべき者共也。
 危ぞ見えける。
 御方の笠注には、青松葉を甲の鉢にさし、冑の袖に付などして、ゆゝしく軽骨也。
 壱岐判官知康は御方の大将軍にて、赤地の錦の鎧直垂よろひひたたれに、脇楯ばかりに、廿四指たる征矢負、門外に床子に尻懸て軍の事行し、万の仏像並に大師の御影を集て、御所の四方の築地の腹に繙懸たり。
 征矢一筋抜出して、さらり/\と爪遣て、哀只今ただいま此矢にて、白痴が頸の骨を射貫ばやとぞ勇ける。
 凡事に於て嗚呼がましき事云ばかりなし。
 天子の賢御眼を以て、加様の者被召仕、天下の大事に及事よと申人も多し。
 昔周武王、殷紂を誅せんとせしに、冬の天なりければ、雲かくし雪降事丈に余れり。
 武王危く見えけるに、五の車二の馬に乗る人、門外に来て皇を助て云、誅紂努怠事なかれと云て去ぬ。
 武王怪て人をして是を見るに、深雪の中に車馬の跡是なし。
 図知海神天の使として来れるなるべしと云て、終に紂を誅する事を得たり。
 漢高祖は、韓信が軍に囲れて危ありけるに、天俄にはかに霧を降して闇を成す。
 高祖希有にして逃事を得たり。
 皆是人の為に恵を成し、天の加護を蒙るゆゑ也。
 木曾人倫の為に煩を致し、仏神に於て憚を恐ざりければ、其咎難遁して、法皇の御憤おんいきどほりもいよ/\深く、知康が讒奏も日に随て軽からず。
木曾は蒙勅勘由聞て申けるは、平家非巡の官に昇、君をもなみし奉り臣をも流し失ふ、天下騒動して人民安事なし。
 而を義仲よしなか上洛して後、逆臣を攻落て君の御世になし奉る、是希代の奉公にあらずや。
 それに何の過怠ありてか可誅、但東西道塞て京都へ物上らねば、餓疲て死ぬべし、命を生て君を守護し奉らん為に、兵粮米の料に、徳人共が持余たる米共を少々とらんに、何の苦〔事〕か有べき、武士と云は、殊に馬を労て敵をも責城をも落す、馬弱しては高名なし。
 されば其飲み物の料に、青田青麦を刈らんに僻事ならず。
 院宮々原の御所へも参らず、公卿殿上人てんじやうびとの家にも入ず、兵粮米とては支度し給はず、五万余騎よきの勢にてはあり、兵共つはものどもが我命を全して君の御大事おんだいじにあひ進せんとて、片辺に付、少々入取せんも悪からず、上下異といへ共、物くはでははたらかれず、馬牛強といへ共、はみ物なければ道ゆかず、されば御制止も折に依べし、院強に不咎給、たゞし推するに、是は鼓めが讒奏と覚ゆ、其鼓に於ては、押寄て打破て捨べき物をとてはかみをして、急げ殿原々々と下知しつゝ、鎧小具足取出してひしめきければ、今井樋口諌申けるは、十善の君に向奉りて弓を引矢を放給はん事、神明豈ゆるし給はんや、只幾度も誤なき由を申させ給たまひて、頸を延て参給へ、縦知康に御宿意あらば、本意を遂給はん事いと易き事也、私の意趣を以て院ゐんの御所ごしよを責られん事、よく/\御計ひ有べしと教訓しけれ共、木曾は張魂の男にて、云たちぬる事をひるがへらぬ者也。
 我年来多の軍をして、信濃国しなののくにおへあひの軍より始て、横田河原、礪波山、安宅、篠原、西国さいこくには、備前国福輪寺畷に至まで、一度も敵に後を見せず、十善帝王にて御座ども、甲をぬぎ弓をはづして、おめ/\と降人には参まじ、左右なく参て鼓めに頸打きられなば、悔とも益有まじ、義仲よしなかに於ては是ぞ最後の軍なる、よし/\殿原、直人を敵にせんよりは、国王を敵に取進せたらんこそ弓矢取身の面目よとて更不用けり。
 知康は軍の行事承て、甲をば著ず鎧計を著て、四天王の貌を絵に書て冑におし、左の手には突鉾、右の手に金剛鈴を振て、法住寺殿ほふぢゆうじどのの四面の築垣の上を、東西南北渡行て、時々はうれしや水とはやし舞などしければ、見人、知康には別の風情なし、よく天狗の付たるにこそと申けり。
 木曾が軍の吉例には、陣を七手に分ちつゝ、末は一手二手にも行合けり。
 一手は今井いまゐの四郎しらう兼平かねひら三百さんびやく余騎よきにて、御所の東瓦坂の方へ搦手にまはる。
 一手は信濃国しなののくにの住人ぢゆうにんたての六郎ろくらう親忠ちかただを大将軍にて、八条が末の西表の門へ向ふ。
 一手は西河原に陣取、一手は木曾きそ義仲よしなか、四百しひやく余騎よきにて七条が末北門の内、大和大路、西門へぞ追手にとて向ける。
 折節をりふし勢もなかりければ、都合千余騎よきには過ざりけり。
 十一月十九日辰時に矢合と聞ければ、大将軍知康騒ののしりける程に、西北両門より押寄てどと時を造る。
 今井いまゐの四郎しらう兼平かねひら、東の門より攻寄て、同時を合たり。
 城中じやうちゆうにも形のごとくの時を合す。
 軍兵門前近く責寄て見れば、諸の仏像を築地の腹に掛並たり。
 乞食法師が勧進所かとぞ笑ける。
 知康築地の上にて、如何に己等は夷の身として、忝かたじけなくも十善の君に向ひ進せて弓ひかんとは仕るぞ、宣旨をだにも読かくれば、王事靡塩して、枯たる草木猶華さきみなる、末代と云とも皇法豈むなしからんや、されば汝等なんぢらが放たん矢は、還て己が身に立べし、是より放たん矢は、征矢とがり矢をぬいて射とも、己等が鎧をとほさん事、紙を貫よりもあだなるべし、穴無慙や阿弥陀仏あみだぶつ々々々々あみだぶつと云ければ、木曾大に笑て、さないはせそ、あの奴射殺せ。
 其奴にがすなとて散々さんざんに射ければ、知康は築地の上より引入ぬ。
 木曾時刻な廻しそ、火責にせよと下知しければ、軈御所の北の在家に火を懸たり。
 冬の空の習にて、北風烈く吹ければ、猛火御所にぞ懸ける。
 参籠たりける公卿殿上人てんじやうびと、僧俗の官兵共、肝魂も身にそはず、足萎手振ければ、うですくみて弓も引れず、指はたらかで太刀もぬかれず、たま/\長刀をとる者は、逆に突て足を貫て倒死。
 爰に転び彼に臥て、被踏殺蹴殺さる。
 西には大手責懸る、北には猛火燃来る、東には搦手待請たり。
 哀なる哉黒白二の鼠、木の根を嚼がごとく也。
 遁て行べき方ぞなき。
 去とては南面の門を開て我先に/\と迷出、八条が末へ西面の門をば、山法師の固たりけれ共、楯たての六郎ろくらう親忠ちかただに被破ければ、蜘の子を散すが如く落失ぬ。
 金剛鈴の知康も、人より先に落けるが、余に周章あわてて金剛鈴を捨思もなくして、手に持ながらからり/\と鳴けるを、兵共つはものどもが、あの鈴持たる男こそ事起しよ、逃すな射よ切れと云ければ、敵の方へ後様に抛遣て、いづちへか落けん不見けり。
 七条が末をば、摂津国つのくに源氏多田ただの蔵人、豊島冠者大田太郎等固たりけれ共、大将軍の知康落にければ、是も兎角免出て七条を西へ落行けり。
 兼て其辺の在地人に触ける事は、落武者の通らんを一人も漏さず討殺せ、是は院宣ぞと云たりければ、七条の大路の北南の家々いへいへの上に楯突櫓掻て、落武者をば、木曾が方の者ぞと心得こころえて散々さんざんに射、弓矢なき者は襲の石木を以て打ければ、如何に是は御方の兵ぞ、あやまちすなと云けれ共、ひた打に打ければ多く打殺れけり。
 摂津国つのくに源氏等げんじら、郎等あまた射殺され打殺されて、我身は家の檐に立寄て物具もののぐ脱捨て、這々落てぞ罷ける。

明雲めいうん八条宮人々被討付信西相明雲めいうん

 天台座主てんだいざす明雲めいうん大僧正だいそうじやうは、馬にめさんとし給たまひけるを、楯たての六郎ろくらう親忠ちかただ、能引て放矢に、御腰の骨を射させて真逆に落給たまひ、立もあがり給はざりけるを、親忠が郎等落重なつて御頸を取。
 寺の長吏八条宮も、根井小弥太が放矢に、左の御耳の根を、横首木に射させて倒給ふ。
 是をも落重なつて御首おんくびを取。
 哀と云も疎也。
 御室も此有様ありさまを御覧じて、如何すべきと仰有けるに、只御出候へと勧申ければ、御車に召て出させ給ふ。
 木曾是を見て、能引竪めて既すでに射奉らんとしけるを、今井いまゐの四郎しらう兼平かねひら、何とて知進たりけるやらん、あれは御室の召れたる御車也、あやまりし給ふなといへば、木曾弓を緩て、御室とは如何なる人ぞと問。
 兼平かねひら、僧の中の王にて、貴き人にてわたらせ給ふと答。
 木曾さては仏や、仏は何の料に軍の城じやうには籠給たまひけるぞとは云ながら、穴貴々々と申て、楯たての六郎ろくらうを付て戦場を送出し奉。
 あぶなかりける御事也。
 法皇は御所に火懸ければ、御輿に召て南面の門より御出有り。
 武士責懸て御輿に矢を進せければ、御力者おんりきしや共は流石さすが命の惜ければ這々逃失ぬ。
 公卿殿上人てんじやうびとも被立阻て散々さんざんに成けるを、此彼に打伏られて、赤裸に剥取られ、御伴に可参様もなし。
 豊後少将宗長と云人、木蘭地の直垂、小袴にくゝりあげて、只一人御伴に候けり。
 少し強力の人にて御輿に離進せず。
 武士なほ弓を引矢を放ければ、宗長高声に、是は法皇の御渡なり、誤仕なとののしりければ、楯たての六郎ろくらう親忠ちかただが弟に、八島四郎行綱と云者、馬より飛下て御車に移載進らせて、五条内裏ごでうだいりへ渡し入進らせけり。
 軈守護し奉る。
 宗長計ぞ御伴には候ける。
 御幸の有様ありさま推量るべし。
 主上の御沙汰ごさたし進らする人もなし。
 御所は猛火と燃上る。
 庭上は兵乱入たり、如何すべき様もなかりけるに、七条侍従信清、紀伊守範光、只二人付進せて、汀みぎはにぞ有ける御船に乗せ奉り、池の中へさし出す。
 懸りければ、御舟へ矢の参る事降雨の如し。
 信清声を高して、是は内の渡らせ給なり、如何に角狼藉をば仕るぞと宣のたまひければ、木曾は国王を内と申進する事をば不知ける間、内とは己等が妻を云ぞと心得こころえて、内とは妻が事にや、女とても所をや置べき、只皆射殺せと下知しければ、いとど矢をぞ進せける。
 信清心得こころえて船底に主上を懐進せて、高声に、御船には国王の渡らせ給ふぞやと叫びけるにこそ武士も鎮たりけれ。
 去共猶船の中にかゝへ進せて、夜に入て坊城殿へ渡入進せつゝ、其より閑院殿へ行幸なる。
 儀式作法は中々不申ぞありける。
 河内守光助、弟に源蔵人仲兼は南門を禦けるを、錦織冠者義広が落とて、主上も法皇も、皆此御所を出させ給たまひて他所へ御幸成ぬ。
 今は何をか守護し給ふべきと云。
 さては誠にも誰をか守進すべきとて、河内守は東の山に引籠、山階へ出て醍醐路に懸て落にけり。
 源蔵人は法住寺ほふぢゆうじに出て、南を指て落行けり。
 爰ここに仲兼が郎等に、河内国住人ぢゆうにん、草香党に加賀房と云法師武者有。
 黒糸威くろいとをどしの鎧に葦毛の馬に乗たりけり。
 主の馬に押並て申けるは、此馬余に沛艾にして乗たまるべしとも覚ず、御馬に召替させ給たまひなんやと歎云ければ、さもせよとて蔵人の乗りたりける栗毛の馬の下尾白かりけるに乗替て、主従八騎にて落程に、敵三十さんじふ余騎よきにて瓦坂に十文字に行合て、あますまじとて散々さんざんに射。
 仲兼は加賀坊が乗替たる荒馬の口強に乗、鞭を打て、主従三騎は敵の中を蒐破て通にけり。
 可然事と云ながら、加賀坊は敵に禦留られて、同僚共に五騎ごきの者共討れにけり。
 我馬にだに乗たりせば、今度の命は生なまし。
 仲兼は馬を早めて打程に、木幡にて、時の摂政せつしやう近衛殿このゑどのの御車に追付進せたり。
 摂政殿せつしやうどのは、あれは仲兼歟、御伴に人のなきに、御身近く候へと仰あり。
 宇治殿へ送入れ進せて河内国へ下けり。
 仲兼が家子に信濃次郎頼直と云者は、大勢に被押阻て打具せざりければ、蔵人が跡目を尋て、南を指て行程に、栗毛の馬の下尾白きが、所々に血付などして道の側にいなゝき居たり。
 頼直是を見て、加賀坊に乗替たるをば争か知べきなれば、穴心憂、蔵人殿は早討れ給たまひにけり、一所にて如何にもならばやとこそ思しにとて、舎人男を相尋て、いかに此馬は何れの勢の中より走出たるぞ、主の敵なれば、同は其そのせいに蒐合て、命を捨んと云ふ。
 舎人も乗替たるをば不知、馬の出所をば見たりければ、しか/゛\の勢と教ふ。
 頼直唯一人、三十さんじふ余騎よきの勢に返合て、是は源蔵人仲兼の家の子に、信濃次郎頼直と云者也、主を討せて命を可惜にあらずと云て、散々さんざんに戦けるが、敵四騎討捕て、我身も敵に討れにけり。
 播磨中将雅賢は、指る武勇の家にあらず、天性不用の人にて、面白事に被思ければ、兵杖を帯して参籠給へり。
 滋目結の直垂に、黒糸威くろいとをどしの腹巻をぞ被著たりける。
 殿上の四面の下侍を出て、西の妻戸を押破て被出けるを、楯たての六郎ろくらう、頸骨を志て能引竪て兵と放つ。
 折烏帽子をりえぼしの上を射貫、其矢妻戸に篦中射籠たり。
 其時いと騒ず□て、我は播磨中将と云者ぞ、あやまりすなと宣へば、楯たての六郎ろくらう馬より飛下て、生捕にして宿所に誡置。
 越前守信行は、布衣にくくりおろして座しけるが、共に具したりける侍も雑色も落失て一人もなし。
 二方よりは武士責来御所、御所は猛火燃覆へり。
 大方すべき様もなかりければ、大垣の有けるを、こえん/\とせられけるを、主は誰にてか有けん、後より前へ射とほして、空様に倒て焼給たまひけるこそ無慙なれ。
 主水正近業は、清大外記頼業真人が子也。
 薄青の狩衣にくゝり上、葦毛の馬に乗て、七条河原を西へ馳けるを、今井いまゐの四郎しらう馳並て、妻手の脇を射たりければ、馬より逆に落にけり。
 狩衣の下に腹巻をぞ著たりける。
 こは思懸ざる挙動哉、明経道の博士也、兵具を帯する事然べからず、飾兵者不祥之器といへり、老子経をば見ざりけるやらんと、人々傾き申けり。
 刑部卿ぎやうぶきやう三位頼輔は、迷出て七条河原を逃給たまひけるを、何者なにものにてか有けん、歩立なる男の太刀を抜て、あますまじとて追懸ければ、逃ば中々悪かりなんと思て、戯呼誰人にて御座ぞ、誤し給ふな、是は刑部卿ぎやうぶきやう三位頼輔と申者にて侍ぞ、弓矢を取て武士に手向する者にあらず、只君の御伴に参るばかりと也と、閑々しづしづと云たりければ、太刀をば鞘に納て表下剥取て、命ばかりは助り給ぬ。
 烏帽子えぼしさへ落失にければ、すべき方なくして、左手を以て前を拘へ、右手を以て本鳥をとらへ、裸にて野中の卒都婆の様にて立給へり。
 さしも浅増あさましき最中に、人々皆腸を断。
 十一月十九日、如法朝の事なれば、さこそ河風さむかりけめ。
 此三位の兄公に、越前法橋章救と云人あり。
 彼法橋の中間法師、軍は如何成ぬらんとて立出て見廻ける程に、河原中に裸にて立たる者あり。
 何者なにものぞと思、立寄て見たれば三位にてぞ御座おはしましける。
 穴浅増あさましとは思ひながらもすべき様なければ、我著たりける薄黒染の衣の、脛高なるを脱て打懸たり。
 三位是を空に著て頬冠し給たりければ、衣短うして腰まはりを過ず。
 墨の衣の中より、顔ばかり指出して脛あらは也。
 中々直裸なりつるよりをかしかりければ、上下万人とよみ也。
 中間法師に相具して、兄公の法橋の宿所、六条油小路へ御座おはしましけり。
 従者の法師も小袖一に白衣はくえなり。
 主の三位も衣計にほうかぶりして空也。
 人目を立て指をさして笑ければ、中間法師もよしなき御伴哉、早急ぎ行給へかしと思けるに、三位はいそがれず、閑々しづしづと歩て此小路はいとこと云ぞ、あの大道は何と云ぞ、此平門は誰か許ぞ、あの棟門は何者なにものが家ぞなど問給ければ、中間法師、余りに寒く侍り、人目も見苦きに、急ぎ御宿所へ入せ給へと申せば、三位は寒しとはなにぞ、何事か見苦き、加様の乱たる世に作法あるまじ、よき次に京中修行せんと宣て、少し巧に造りたる家門、若は前栽造などしたる所へは立入給たまひて、枯たる薄衰たる菊を詠たり。
 家の造様讃毀り給へば、余に不有有様ありさま也。
 乱たる折節をりふしなれば、家ごとに、何者なにものぞ無骨、罷出よと嗔ければ、三位はいや/\事かけじ、是は刑部卿ぎやうぶきやう三位頼輔と云者の、世には隠なし、知らねば咎も道理なれ共、よし/\苦からじとぞ宣のたまひけるにこそ中間法師はいとゞ悲く思けれ。
 実に此人一人に不限、をかしく浅猿あさましき事多かりけり。
 寒き比なり、衣一も著たる者をば剥取、裸になしたれば、男も女も見苦く、心憂事のみ有。
 名をも惜み、恥をも知たる者は皆討れぬ。
 さなきは加様にのみ有て遁出けり。
 京検非違使けんびゐしに源判官光長、今は伯耆守に成たりけり。
 其子の判官光恒、父子散々さんざんに戦て討れにけり。
 近江前司為清も討れぬ。
 其外甲斐なき命いきたる人々は、公卿も殿上人てんじやうびとも、都の外に逃隠れて、世のしづまるをぞ相待ける。
 法住寺殿ほふぢゆうじどのはさしも執し思召おぼしめし、被造琢たりけれ共、一時が程に焼亡す。
 人々の家々いへいへも、門を並軒を碾たりけれ共、一宇も残らず焼にけり。
 廿日卯時に木曾六条河原に出て、昨日十九日に所切頸共、竹結渡して懸並べつゝ、千余騎よきの兵馬の鼻を東へ立、悦の時とて三箇度さんがど作り叫けり。
 洛中白河響き渡りければ、又如何なる事の出来ぬるぞやとて京中の貴賎騒あへり。
 懸並べたる頸三百四十、是を見て泣叫者多かりけり。
 定て父母妻子などにてこそありけめ。
 越前守信行朝臣、近江前司為清、主水正近業などの首も其中にあり。
 寺の長吏八条宮の三綱に、大進法橋行清と云者、宮も討れさせ給ぬと聞て、濃墨染の衣につぼみ笠著て六条河原へ行、頸共見廻けるに、天台座主てんだいざす明雲めいうん僧正そうじやうの御首おんくび、八条宮の御頸、一所にぞ掛たりける。
 行清法橋目くれ心迷して衣の袖を顔にあて、忍の涙に咽びけり。
 さこそ悲かりけめと被推量て哀也。
 御頸にとりも付ばやと思ふ程也けれども、流石さすが人目も怖しく、泣々なくなく宿所に帰ぬ。
 夜深人定て後、又六条河原に行て、二の御首おんくびを盗取て東山に行、年比知たる墓の僧に誂て焼せつゝ、高野山に登り奥院に納承り、五輪ごりん卒都婆を彫立て、我身も高野山に登り、奥院に閉籠、二人の御得脱をぞ祈ける。
 亡魂如何に嬉しとおぼしけん。
 此二僧と申し奉るは、一寺一山の和尚くわしやうとして、真言天台の奥□を極め、仏法ぶつぽふ王法の導師として、天長地久の御願ごぐわんを祈御座おはしましき。
 悲哉邪見の毒箭忍辱の衣を破事を、哀哉放逸の利剣慈悲の粧を侵事を。
 遠く天竺を考るに、竜樹菩薩は弘経大士也。
 引正太子に被失、伽留陀夷は証果の尊者也。
 舎衛商人に被殺、神通第一目連、竹杖外道に被亡、満足十号の釈尊、提婆達多に打れ給けり。
 近く我朝を聞ば、修敏僧都そうづは秘密上乗の行者なりしか共、弘法大師に調伏せられ、守屋大臣は朝家三公の重臣たりしか共、太子聖霊に誅罰せられ給き。
 此等皆宿罪怨憎の報とは云ながら、二宗の法燈忽たちまちに消両寺りやうじの智水速に乾きぬるこそ悲けれと、上下涙を流しけり。
 後白川院【*後白河院】ごしらかはのゐん御登山の時、少納言せうなごん入道にふだう信西しんせい御伴に候けり。
 前唐院の重宝、衆徒存知なかりけれ共、信西才覚吐などしたりけり。
 其次に明雲めいうん僧正そうじやう、我にいかなる相か有と御尋おんたづねあり。
 信西、三千の貫首一天の明匠に御座おはします上は、子細不申と答ふ。
 重たる仰に、我に兵杖の相ありやと尋給ければ、世俗の家を出て慈悲の室に入御座ぬ、災夭何の恐か有べきなれ共、兵杖の相ありやとの御詞怪く侍し、是即兵死の御相ならんと申たりけるが、はたして角成給たまひけるこそ哀なれ。
 或陰陽師の申けるは、一山の貫長顕密の法燈に御座おはします上は、僧家の棟梁いみじけれ共、御名こそあやまり付せ給ひたりけれ。
 日月の文字を並て下に雲を覆へり。
 月日は明に照べきを雲にさへらるゝ難あり。
 かゝればこの災にもあひ給ふにや。
 或人の云けるは、延暦寺えんりやくじ止観院〈中堂ちゆうだうと云〉の傍に、前唐院の宝蔵に天台の一箱とて、白布にて裹たる方一尺計の櫃あり。
 其中に黄紙に書たる文一巻あり。
 其文に座主の次第を注したり。
 一生不犯の座主拝堂の日、宣旨を申て彼箱を開て其注文を見るに、我名字の所まで是を見て、奥をば見ずして、本の如く端へ巻返て被納置習と承る。
 先座主も、仁安二年二月十五日に当職に被補給ふ。
 生年五十三とかや。
 明雲めいうんと云御名字を披き見給たまひて、衣の袖に涙を裹て出堂と承。
 根本こんぼん大師兼て注し置給へる名字なり。
 凡夫の是非すべき事にあらず、只宿罪こそ悲しけれ。
 されば一代の釈迦は頭痛背痛を遁給はず、五百の釈子は瑠璃王の害を不免りけり。

法皇御歎並木曾縦逸付四十九人止官職

 故少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいの末の子に、宰相憲修と云人は、此世の有様ありさま合戦の次第心憂覚ける上、木曾、法皇をも五条ごでうの内裏に押籠進らせ、兵稠く守り進らすと聞給ければ、如何して今一度君をも可見と思ける余に、俗をばよも入じ、出家したらば免さんずらんとて、俄にはかに髻をきり入道し、墨染の袈裟衣著て、五条内裏ごでうだいりへ参て、門守の者に歎仰られければ、僧なれば苦からじとて入奉る。
 御前に参たりければ、あれは如何と御尋おんたづねあり。
 しかじかと答申す。
 まめやかの志哉と感じ思召おぼしめして、嬉にも御涙おんなみだ、つらきにも御涙おんなみだ、御身をはなれて不尽けり。
 宰相入道も涙に咽給へり。
 良有て法皇、今度の軍に、僧俗多く亡ぬと聞召つれば、誰々もおぼつかなく思召おぼしめしつるに、汝別の事なかりける嬉さよ、さても又討れける輩、慥に誰々なるらんとて御涙おんなみだを流させ給ふ。
 宰相入道も袖を絞て、明雲めいうん僧正そうじやう、八条宮、信行、為清、近業等も討れけり、能盛、親盛、痛手負て万死一生と承、討れ給ふ人々の首は、六条河原に竿を渡し、懸並たりとこそ承候へと奏しければ、法皇穴無慙の事共哉、まのあたり斯憂目を見べしとは不思召おぼしめさ、中にも明雲めいうん僧正そうじやうは、非業の死にすべき者には非ず、朕如何にも成べかりけるに、はや替にけりとて、又竜顔より御涙おんなみだを流し御座おはしましけるこそ悲けれ。
 木曾は法住寺殿ほふぢゆうじどのの軍に打勝て、万事思さまなれば、今井樋口已下の兵共召集て、やゝ殿原、今は義仲よしなか何に成とも我心也、国王にならんとも院にならん共心なるべし、公卿殿上人てんじやうびとにならんと思はん人々は所望すべし、乞によりてすべしなどと云けるこそ浅猿あさましけれ。
 先我身のならん様を思煩うたり。
 国王にならんとすれば少き童也、若く成事叶まじ、院にならんとすれば老法師也、今更入道すべきにも非ず、摂政せつしやうこそ年の程も事の様も成ぬべき者よ、今は摂政殿せつしやうどのといへ殿原と云、今井いまゐの四郎しらうよに悪く思て、摂政殿せつしやうどのと申進するは、大織冠の御末、藤原氏の人こそする事にて候へ、二条殿、九条殿、近衛殿このゑどのなど申は彼藤原氏の御子孫也、殿は源氏の最中に御座、たやすくも左様の事宣て、春日大明神かすがだいみやうじんの罰蒙給ふなと云。
 さては何にか成べきと暫く案じて、よき事あり、院の御厩の別当に成て、思さまに馬取のらんも所得也とて、押て別当に成てけり。
 廿一日に摂政せつしやうを奉止、基通の御事也。
 近衛殿このゑどのと申。
 其代に松殿基房御子に、権大納言ごんだいなごん師家の十三に成給たまひけるを内大臣ないだいじんに奉成、軈摂政せつしやうの詔書を被下けり。
 折節をりふし大臣の闕なかりければ、後徳大寺ごとくだいじの左大将実定の内大臣ないだいじんにて座しけるを、暫く借て成給ふ。
 時人、昔こそかるの大臣は有しに、今もかるの大臣おはしけりとぞ笑ける。
 加様の事は大宮大相国たいしやうこく伊通こそ宣のたまひしに、其人おはせね共又申人も有けり。
 木曾近衛殿このゑどのを奉止て師家をなし奉ける事は、松殿最愛の御女おんむすめ、みめ形いと厳く御座おはしましけるを、女御后にもと御労有けるに、美人の由伝聞て、木曾推て御聟に成たりける故に、御兄公とて角計ひなし進せけるとぞ聞えし。
 浅増あさましき事共也。
 廿八日に三条中納言朝方卿以下、文官武官諸国の受領、都合四十九人官職を止む。
 其内に公卿五人とぞ聞えし。
 僧には権少僧都ごんのせうそうづ範玄、法勝寺ほつしようじ執行安能も所帯を被没官き。
 平家は四十二人を解官したりしに、木曾は四十九人の官職を止む。
 平家の悪行には越過せりとぞつぶやきける。

公朝時成関東下向付知康芸能事

 東国北国の乱逆によつて、東八箇国の正税しやうぜい官物くわんもつ、此三箇年進送なし。
 平家都を落ぬと聞給たまひて、鎌倉より千人せんにんの兵士をさして済進せられけるに、舎弟しやていに蒲御曹司範頼、九郎御曹司義経上洛と聞ゆ。
 京よりは北面に候ける橘内判官公朝、藤左衛門尉さゑもんのじよう時成二人、木曾が狼藉法住寺ほふぢゆうじの合戦、御所の回禄申さん為に、夜を日に継で下向す。
 範頼義経兄弟共に、熱田大郡司の許に御座おはしますと聞えて、橘内判官推参して此由を申。
 九郎御曹司宣のたまひけるは、年貢運上の為に、鎌倉殿かまくらどのの使節として範頼義経上洛の処に、木曾が狼藉御所の焼失、浮説に依て承侍り、又関東より大勢攻上と聞て、木曾今井いまゐの四郎しらう兼平かねひらに仰て、鈴鹿、不破二の関を固と聞る間、兵衛佐ひやうゑのすけに申合ずして、木曾が郎等と軍すべきに非、仍閭巷の説に付て、飛脚を鎌倉へ立候ぬ、其返事に随はん為に暫し爰ここに逗留す、されば別の使有べからず、御辺ごへん馳下て巨細を可申と宣のたまひければ、橘内判官熱田より鎌倉へ下向す。
 俄の事成ける上、法住寺ほふぢゆうじの軍に下人共も逃失てなかりければ、子息に橘内所公茂とて、十五歳に成ける小冠者を具足して関東に下著す。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどの見参して、木曾が狼藉法住寺殿ほふぢゆうじどの焼失、委是を申。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどの大に驚申されけるは、木曾奇怪ならば、蒙勅定誅すべし、知康が申状に依て合戦の御結構ごけつこう、勿体なく覚、知康不執申ば御所の焼失あるべからず、斯る輩を仙洞に被召仕者、向後も僻事出来べし、壱岐判官が所行、返々不思議に候、木曾きそ義仲よしなかは重代の武者、当家の弓取也、北面の輩流石さすが敵対歟、依一旦我執仙洞回禄之条、驚承処也。
 所詮義仲よしなかに於ては追討時刻を不廻と。
 壱岐判官は是をば角とも不知して、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのに、法住寺ほふぢゆうじの合戦の事申ん為に鎌倉へ下向。
 佐殿は是を聞給たまひて、侍共に、知康が云いれん事不執次と誡仰られければ、知康近習の侍と覚しき者、ことにうでくび把て、やゝ申候はん/\と彼此に云けれ共、誰も聞入る者なし。
 日数も積ければ、侍推参して候けり。
 兵衛佐ひやうゑのすけは簾中より見出して坐しけるが、子息左衛門督頼家の、未少く十万殿と申ける時招寄給たまひて、あの知康は九重第一の手鼓と、一二との上手ときく。
 是にて鼓と一二と有べしといへとて、手鼓に、砂金十二両取副て奉り給たれば、十万殿是を持て、簾中より出て知康にたびて、一二と鼓と有べしと勧給ければ、知康畏て賜て、先鼓を取て、始には居ながら打けるが、後には跪き、直垂を肩脱て様々打て、結句は座を起て、十六間の侍を打廻て、柱の本ごとに無尽の手を踊し躍したり。
 宛転たり。
 腰を廻し肩を廻して打たりければ、女房男房心を澄し、落涙する者も多かりけり。
 其後又十二両の金を取て云、砂金は我朝の重宝也、輙争か玉に取べきと申て懐中する儘に、庭上に走下て、同程なる石を四とり持て、目より下にて、片手を以数百千の一二を突、左右の手にて数百万をつき、様々乱舞しておう/\音を挙て、よく一時突たりければ、其座に有ける大名小名、興に入てゑつぼの会也けり。
 兵衛佐ひやうゑのすけも見給たまひて、誠鼓とひふとは名を得たる者と云に合て、其験ありけりとて感じ入給へり。
 鼓判官と呼れけるも理也。
 などひふ判官とはいはざりけるやらん、とまで宣のたまひけり。
 其後始て被見参たり。
 知康は可然事に思て合戦の次第を語申けれ共、佐殿兼て聞給たりければ、此段には其気色不然して、是非の返事なければ、知康見参はし奉たれ共、竿を呑すくみてぞ在ける。
 され共人は能の有べき事也。
 知康をば、さしも憤深思はれて勘当の身也けるに、鼓と一二と二の能に依て、兵衛佐ひやうゑのすけ見参し給けるぞやさしく有難き。
 知康はさても有べきならねば、上洛せんとて稲村まで出たりけるが、能々案じて、都へ上たりとても、今は君に召仕へ奉らん事有難とて道より引返し、忍て鎌倉に居たりけるとかや。

範頼義経上洛付頼朝よりとも山門牒状

 〔去さるほどに〕兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりともは、木曾が狼藉奇怪也、早可追討とて、蒲御曹司範頼、九郎御曹司義経両人を大将軍として、数万騎の軍兵を被差副、範頼、義経上洛と披露す。
 兵衛佐ひやうゑのすけ、牒状を山門に送られて、木曾を可追討之由、旨趣を被載たり。
 其状に云、
 牒 延暦寺えんりやくじの
 欲且告七社しちしやの明神、且祈三塔仏法ぶつぽふ討謀叛賊徒義仲よしなか并与力輩
 牒、遠尋往昔、近思今来、天地開闢以降、世途之間、依仏神之鎮護、天子治政、依天子之敬、仏神増光、云仏神、云天子、互奉守之故也、于茲云源氏、云平氏、以 両家之奉公者、為海内之夷敵、為国土之姦士也、而当家親父之時、依不慮之勧誘、蒙叛逆之勅罪、其刻頼朝よりとも幼稚、預于配流、然而平氏独歩洛陽之棲、恣究爵官之位、家之繁昌身之富貴ふつき、誇両箇之朝恩、執一天之権威、忽蔑如法皇、剰奉親王、因茲頼朝よりとも君為世、為討凶徒きようと、仰年来之郎従、起東国之武士、去治承以後、忝蒙勅命、欲勲功之間、先以山道北陸之余勢、令雲霞群集之逆党之処、平氏早退散、落向西海浪、爰義仲よしなか等、称朝敵追討、而先申賜勧賞、次押領所帯、無程逐平氏之跡、専逆意之企、去十一月十九日、奉一院、焼払仙洞、追討重臣、剥奪衣裳、就なかんづく当山座主、并ならびに御弟子宮、令其烈云々、叛逆之甚、古今無比類者也、仍催上東国之兵、可討彼逆徒也、獲其首疑、且祈誓仏神之冥助、且為衆徒之与力、殊欲引率矣、仍牒送如件。
 以牒。
 寿永二年十二月二十一日              前さきの右兵衛権佐うひやうゑのごんのすけ源朝臣
とぞ被書たりける。
 三塔会合僉議せんぎして、兵衛佐ひやうゑのすけに与す。

木曾擬平家並維盛歎事

 平家は室山、水島二箇度の合戦に打勝て、木曾追討の為に西国さいこくより責上ると聞えけり。
 左馬頭さまのかみ義仲よしなかは、東西に詰立られて如何せんと案じけるが、兵衛佐ひやうゑのすけに始終中よかるまじ、今は平家と一に成て、兵衛佐ひやうゑのすけをせめんと思子細を、讃岐の屋島へ申たりければ、大臣殿は大に悦給たまひけり。
 祈祈りの甲斐有て、帝運のかさねてひらけ、再び故郷に御幸あらん事目出ければ、申処本意に思召おぼしめし、御迎に可参と宣のたまひけるを、新中納言の被計申けるは、都に帰上らん事は実に嬉しけれ共、木曾が為に花洛を被攻落、今又義仲よしなかと一にならん事不然、頼朝よりともが存じ思はん処恥かしかるべし、弓矢取身は後の代までも名こそ惜けれ、十善の君角て御渡あれば、冑を脱弓を平めて降人に参り、帝王を守護し奉るべしと仰あるべしとこそ存ずれと宣のたまひければ、最此儀然べしとて、其定に返事せられけり。
 木曾是を聞て、降人とは何事ぞ、武士の身と生て、手を合膝をかゞめて敵に向はん事、身の恥家の疵なり、昔より源平力を並て士卒勢を諍、今更平家に降を不乞、頼朝よりとも返りきかん事も後代の人の口も、面目なしとて不降けり。
 木曾都へ打入て後は、在々所々を追捕して、貴賎上下安堵せず、神領寺領を押領して、国衙こくが庄園牢籠せり。
 はては法住寺ほふぢゆうじの御所を焼亡して、法皇を押籠奉り、高僧侍臣を討害し、公卿殿上人てんじやうびとを誡置、四十九人の官職を止めなんと、平家伝聞て、寄合々々口々に被申けるは、君も臣も山門も南都も、此一門を背て源氏の世になしたれども、人の歎はいやまし/\なりと嬉事におぼして、興に入てぞ笑勇給へる。
 権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう維盛は、月日の過行儘には、明も晩も故郷のみ恋く思ければ、仮初なる人をも語ひ給はず、与三兵衛重景、石童丸など御傍近く臥て、さても此人々は如何なる形勢ありさまにて、いかにしてか御座らん、誰かは哀れ糸惜共云らん、我身の置き所だにあらじに、少き者共をさへ引具て、いか計の事思ふらん、振捨て出し心づよさも去事にて、急迎へとらじとすかし置し事も程経れば、如何に恨めしく思ふらんなんど宣のたまひつゞけて、御涙おんなみだせきあへず流し給けるぞ糸惜き。
 北方は此有様ありさま伝聞給たまひて、只いかならん人をも語ひ給たまひ、旅の心をも慰め給へかし、さりとても愚なるべきかは、心苦くこそとて、常は引かづき臥給ふ。
 尽せぬ物とては是も御涙おんなみだばかりなり。

木曾内裏守護付光武誅王莽わうまう

 木曾は五条内裏ごでうだいりに候て、稠く法皇を守護し奉る間、上下恐を成て参寄人なし。
 合戦の時の虜の人人も誡置たりければ、只今ただいまいかなる目にかあはんと肝魂を消す。
 此木曾押て松殿の御聟に成たりければ、松殿いみじとは思召おぼしめさゞりけれ共、法皇の御事御痛敷思召おぼしめし、内々義仲よしなかを被召て、角は有まじき事ぞ、人臣として朝家を我意にし、悪事を以て政道をあざむき奉る事、昔より今に至るまでなき事也。
 適野心を挟輩、忽たちまちに亡ずと云事なし、但平家の故清盛きよもり入道は、深く仏法ぶつぽふを敬ひ神明に帰し、希代の大善根共余多あまた修したりしかばこそ一天四海を掌に把て二十余年までも持ちたりしか、大果報の者也き。
 上古にも類少く、末代にもためし難有し、其猶法皇を悩し奉公家を蔑にせしかば、天の責を蒙て速に亡にき、子孫に至まで都に跡を留ず、西海の浪に漂ふ、滅亡今明にあり、畏ても恐べし。
 国王と申は未存知なしや、忝かたじけなくも天神七代地神五代の御末を継御座おはしまして、百王今に盛也、天照太神てんせうだいじん、正八幡宮しやうはちまんぐう以下、六十余州の大小神祇、日夜に是を守護し奉り、諸寺諸山の顕密の僧侶、朝夕に専祈念し奉。
 貞任宗任が、遥奥州あうしうにして朝威を背し、法性房の祈誓に依終に降伏せられ、北野天神の火雷火神と顕御座おはしまして恨をなし給しも、全く金体には近付給はざりき、皆是神明の擁護仏法ぶつぽふの効験也、されば君を背奉り、叡慮を動し奉る悪行をのみ振舞ては、終によかるべし共覚えず、急宥め進すべき也など、片山里の荒武士の、耳近に聞知様に書口説、こま/゛\と被仰たりければ、木曾も流石さすが木石ならねば理と思て、誡置たる人々をもゆるし、騒しき事をも止てけり。
 十二月十日、法皇は五条内裏ごでうだいりより、大善大夫業忠が六条西洞院にしのとうゐんの家に御幸なる。
 軈其そのより、歳末の御懺法被始行けり。
 松殿の御教訓の末にやと覚たり。
 十三日に木曾除目行て、思様に官共成けり。
 我身は左馬頭さまのかみ兼伊予守なりし上に、院の御厩別当に成て、丹波国五箇の庄知行し、畿内近国の庄園、院宮々原の御領、神田仏田をいはず、思ふさまに管領して、憚なく振舞けり。
 昔王莽わうまうと云し者、臣下の身として漢平帝を討、位を奪十八年を持けり。
 四海を我儘に行て、人の歎を知ざりければ、人民多く憂へけり。
 高祖九代の孫、字文叔と云人王莽わうまうを亡して終に位に昇にけり。
 後漢の光武皇帝とは此事也。
 木曾冠者きそのくわんじや、位を取までこそなけれ共、平家都を落て後、天下を我意にする事彼王莽わうまうに異ならず、只今ただいま亡なんと危ぶみながら、今年も既すでに暮にけり。
 東は近江、西は摂津国つのくに、東西の乱逆道塞て、公の御調も奉らず、年貢所当も上らざりければ、京中の貴賎上下、小魚の泡にいきつくが如く、旱上られて、今日歟明日歟の命也とぞ歎悲ける。

京屋島朝拝無之付義仲よしなか将軍宣事

 寿永三年四月十六日じふろくにち、改元とあつて云元暦
 元暦元年正月一日、院は去年の十二月十日、五条内裏ごでうだいりより、六条西の洞院とうゐんの業忠が家に御座おはしまし有けれ共、彼家板葺の門、三間の寝殿、階隠なかりければ、礼儀行はれ難して、拝礼も被止けり、又朝拝もなし。
 節会計ぞ被行ける。
 院の拝礼なければ、殿下の拝礼も不行。
 平家は讃岐国屋島の礒に春を迎て、年の始成けれ共、元日元三の儀式事宜からず、主上御座おはしましけれ共四方拝もなし、朝拝もなし小朝拝もなし、節会も不行、氷の様も参らず、はらかも不奏。
 世は乱たりしかども、都にては角はなかりし物をと哀也。
 青陽の春も来しかば、花の朝月の夜、詩歌管絃、鞠小弓、扇合、絵合、さま/゛\の後遊覧召出て、男女さしつどひては只泣より外の事ぞなき。
 同六日義仲よしなか正五位下に叙す、官位既すでに頼朝よりともにすゝむ。
 是凶害の源、招乱のはしにやと後おそろし。
 同九日平氏和親の由を申請、依これによつて仙洞より所存を可由之由、義仲よしなかが許へ被仰遣けり。
 此事義仲よしなか許容せざりけるにや。
 十日木曾、平氏為追討西国さいこくへ下らんとて門出すと聞えし程に、東国より蒲御曹司、九郎御曹司両人を大将軍として、数万騎の軍兵を差上すと兼ては聞しか共、さしもやと思けるに、範頼義経等既すでに美濃国に著、著到勢汰して、不破関にて二手に分て、宇治、勢多より可攻入と聞えければ、義仲よしなか西国さいこくの止発向
 又平家、四国西国さいこくの軍兵を卒して、福原まで責上て、既すでに都へ打入らんとする由聞えければ、木曾安堵の思ぞなかりける。
 同おなじき十一日左馬頭さまのかみ義仲よしなか、可征夷大将軍之由被宣下
 是は木曾ひたすら荒夷にて、礼儀を乱り法度を失て、心の儘に振舞ければ、必洛中にして僻事出来なん。
 されば東国の武士替入らんまでの御計也けり。
 是をば木曾争か知べきなれば、只今ただいま亡んずる義仲よしなかが、大に畏り喜びけるこそ哀なれ。
 同おなじき十七日じふしちにち備前守行家、河内国に住して在叛心之由聞えければ、木曾彼を追討の為に樋口兼光を差遣す。
 其そのせい五百ごひやく余騎よき也。
 同おなじき十九日に、石川城に寄て合戦す。
 蔵人判官家光、為兼光討捕にけり。
 行家軍敗て逃落て、高野にぞ籠ける。
 虜三十人、切て懸る頸七十人とぞ聞えし。

東国兵馬汰並佐々木賜生ずきを付象王太子事

 折節をりふし関東にはと披露しけるは、院は去年十一月一日西国さいこくへ御門出と聞えけり。
 是は木曾きそ義仲よしなか、都にて狼藉不なのめならず、人民牢籠して貴賎安事なし。
 平家は官位高く、太政大臣だいじやうだいじん左右の大将にあがり、兼官兼職して卿上けいしやう雲客うんかくに列りき。
 只奢れるばかりにこそ有しか共、流石さすが君臣上下の誼を箴し、礼節仁義の法を篤くせりき、無下に替劣したる源氏なりけり、旧臣ゆかしとて思召おぼしめし立とぞ聞ける。
 兵衛佐ひやうゑのすけ大に驚給へり。
 木曾と平家と一になり、九国四国、南海西海与力同心せば、天下を静めん事たやすかるべからず、先義仲よしなかを追討して逆鱗をやすめ奉り、其後平家を亡すべしとて、六万余騎よきを差上す。
 鎌倉殿かまくらどのの侍所にて評定あり。
 合戦の習、敵に向城を落すは案の内なり、大河を前にあて兵を落さん事、ゆゆしき大事也、都に近き近江国には勢多の橋、其流の末に、山城国には宇治橋、二の難所あり、定て橋は引ぬらん、河は底深して流荒し、なべての馬の渡すべき川に非ず、其上河中に乱杭逆〔茂〕木打、水の底に大綱張流かけぬらん、よき馬共を支度して、宇治勢多を渡して高名あるべしとぞ被議ける。
 懸りければ、大名小名、党も高家も面々に其用意あり。
 上総国住人ぢゆうにん、介八郎広経は礒と云馬を引せて参たり。
 下総国住人ぢゆうにん千葉介経胤は、薄桜と云馬を引く。
 武蔵国住人ぢゆうにん平山武者所季重は、目糟馬とて引く。
 同国渋谷庄司重国は、子師丸とて引たり。
 畠山庄司次郎重忠は、秩父鹿毛、大黒人、妻高山葦毛とて引たり。
 相模国さがみのくにの住人ぢゆうにん三浦和田小太郎義盛は、鴨の上毛、白浪とて引たり。
 伊豆国いづのくにの住人ぢゆうにん北条四郎時政は、荒礒とて引たり。
 熊谷二郎直実は、権太栗毛とて引たり。
 大将軍九郎御曹司は、薄墨、青海波とて被引たり。
 同蒲御曹司は、一霞、月輪とて被引たり。
 是等は皆曲進退の逸物、六鈴沛艾の駿馬、強き事は獅子象の如く、早き事は吹風の如し。
 されば越後越中の境なる姫早川と利根川とねがはと、駿河国には、富士川と天中、大井川なんど云ふ大河を渡せし馬共也。
 まして宇治、勢多を思ふに物の数にやとぞ各勇申ける。
 此中に佐々木、梶原、馬に事をぞ闕たりける。
 折節をりふし秘蔵御馬三匹也、生ずき、磨墨、若白毛とぞ申ける。
 陸奥国三戸立の馬、秀衡が子に元能冠者が進たる也。
 太逞が、尾髪あくまで足たり。
 此馬鼻強して人を釣ければ、異名には町君と被付たり。
 生ずきとは黒栗毛の馬、高さ八寸、太く逞が尾の前ちと白かりけり。
 当時五歳、猶もいでくべき馬也。
 是も陸奥国七戸立の馬、鹿笛を金焼にあてたれば少も紛べくもなし。
 馬をも人をも食ければ生いけずきと名たり。
 梶原源太景季、佐殿の御前に参て、君も御存知ある御事に候へ共、弓矢取身の敵に向ふ習は、能馬に過たる事なし、健馬に乗ぬれば、大河をも渡し巌石をも落し、蒐も引もたやすかるべし、力は樊くわい、張良が如くつよく、心は将門まさかど、純友が如くに猛けれ共、乗たる馬弱ければ自然の犬死をもし、永き恥をも見事に侍り、されば生いけずきを下し預て、今度宇治河うぢがはの先陣つとめて木曾殿きそどのを傾奉り候ばやと、傍若無人に憚所なく申たり。
 佐殿良案じ給けるは、我土肥の杉山に七人隠居たりしに、梶原に被助て今世に出る事も、難忘思なり、賜ばやと思召おぼしめしけるが、又案じて、蒲冠者も人してこそ所望申つれ、景季が推参の所望頗狼藉也、又是程の大事に、馬に事闕たりと申を、たばでも如何有べきと、左右を案じて宣のたまひけるは、景季慥承れ、此馬をば大名小名八箇国の者共、内外につけて所望ありき、就なかんづく大将軍に差遣す蒲冠者が、ひらに罷預んと云き、然しかれども而源平の合戦未落居、木曾追討の為に東国の軍兵大旨上洛す、知ぬ、平家と木曾と一に成て大なる騒と成なば、頼朝よりともも打上らん時は馬なくてもいかゞはせん、其時の料にと思て誰々にも不給き、是は生けずきにも相劣らずとて磨墨をたびにけり。
 景季は生ずきをこそ給らね共、磨墨誠に逸物也ければ、咲を含み畏て罷出。
 黒漆の鞍を置、舎人余多あまた付て、気色してこそ引せたれ。
 明日の辰の始に、近江国住人ぢゆうにん佐々木四郎高綱、佐殿の館に早参して、所存ある体と覚たり。
 兵衛佐ひやうゑのすけのたまひけるは、如何御辺ごへんは此間は近江に在国と聞ば、志あらば、軍兵上洛に付て京へぞ上給はんずらんと相存るに、いつ下向ぞと問給。
 高綱申けるは、其事に侍り、去年十月の頃より江州がうしう佐々木庄に居住の処に、かゝる騒動と承れば、誠に近きに付て京へこそ打上るべきに、軍の習、命を君に奉て戦場に罷出る事なれば、再帰参すべしと存べきに非、今一度見参にも入御暇をも申さん為、又いづくの討手に向へ共、慥の仰をも蒙らん料に、正月五日の卯刻に、佐々木の館を打出て、三箇日の程に、鎌倉に下著し侍り、且は下向せずして、自由の京上も其恐ありと存、旁の所存によりて罷下れり、志は加様にはこび奉りたれ共、一匹持侍りつる馬は馳損じぬ、親き者と云知音と申人々、面々に打立間、誰に馬一匹をも尋乞べしとも覚ねば、如何仕侍るべきと心労して、大名小名既すでに上りぬれ共、今までは角て候也と申。
 兵衛佐殿ひやうゑのすけどのは、聞敢ず、下向今に始ざる志神妙しんべう々々しんべう、抑木曾朝威を軽くし奉るに依て、追討の為に軍兵を指上す、宇治勢多の橋定めて引て侍らん、宇治川うぢがはの先陣被渡なんやと有ければ、高綱申けるは、近江生立の者にて候へば、間近き宇治川うぢがは、深さ浅さ淵瀬までも委存知仕て候、彼手に向候はば、宇治川うぢがはの先陣は高綱と申す。
 佐殿は、去治承四年八月下旬の比、石橋の合戦に大場三郎に被追落、遁難かりしに、殿原兄弟返合て、禦矢射て頼朝よりともが命を被助き、其時は日本につぽん半分とこそ思しかども、世未落居指たる事なし、相構て今度宇治河うぢがはの先陣勤て高名し給へ、必可相計也、頼朝よりともが随分秘蔵の生ずき、御辺ごへんに奉預と直に蒙仰。
 高綱は今生の大御恩、希代の面目家門勝事、何事か可之と思ければ、畏入て馬を給たまはつていでんとする処に、佐殿宣のたまひけるは、此馬所望の人あまた有つる中に、舎弟しやてい蒲冠者も申き、殊梶原源太直参して真平に申つれ共、若の事あらば乗て出んずればとてたばざりき、其旨を被存よと仰ければ、高綱聊もそゞろかず、座席になほりて畏り、宇治川うぢがはの先陣勿論に候、高綱若軍以前に死ぬと聞召さば、先陣は早人に被渡けりと可思召おぼしめさるべし、軍場にて存命と聞召ば、宇治河うぢがはの先陣高綱渡しけりと思召おぼしめされよ、もし他人に先を蒐られて本意を遂ずば、敵は嫌まじ、河端にても河中にても、引組で落勝負を決すべしと申定て出にけり。
 由井の浜に打出て聞ければ、大勢は大底昨日夜部に鎌倉を出たりと云。
 さては駿河国浮島原の辺にては追付なんと思ひて、十七騎にて打て殿原々々とて、稲村、腰越、片瀬川、砥上原、八松原馳過て、相模河を打渡、大磯、小磯、逆和宿、湯本、足柄越過て、引懸々々打程に、其そのは二日路を一日路に著、河宿に著にけり。
 尋れば案に違はず、大勢駿河国浮島原に引たりと云。
 正月十日余あまりの事なれば、富士のすそのの雪汁に、富士の河水増りつゝ、東西の岸を浸したれば、輙く渡すべき様なし。
 九郎御曹司、兵共つはものどもに此川の水増りたり、如何すべきと宣へば、口々に申様は、宇治勢多を渡さん故実の為にも、先此河をこそ渡て可見なれ、されば馬筏を組で渡し候はばやと申。
 蒲御曹司宣のたまひけるは、軍の談議をば土肥次郎に申合べしとこそ佐殿は仰有りしかば、彼をめせとて被召たり。
 如何に土肥殿、此河の水出たるをば何とかすべき、宇治勢多ならしに、馬筏を組で渡て心見ばやと申者多し、被相計よと仰ければ、実平畏て申けるは、敵をだに目に懸たらば、馬筏にても急渡すべし、此河は渚なぎさ近して、水の早き事征矢をつくよりも猶早し、一引も被引落なば馬も人も不助、佐殿も、木曾定て宇治勢多の橋は引たるらん、其川を可渡とこそ御評定は有しか、富士川の深き流に、馬をも人をも失ては何詮かは在べき、敵に逢てこそ命をば捨め、徒に水に流て身を失べきにあらず、此は雪汁の水なれば、急とへる事不有、明日水に心得こころえたらん者を以て、瀬踏せさせて閑かに渡すべきなりと申せば、此義可然とて、大勢雲霞の如くに其辺に下居たり。
 梶原源太は、磨墨に増る馬もや有らんと思ひて、大名の中を廻て馬共を見に、九郎御曹司の青海波七寸しちすん、蒲御曹司の月輪七寸しちすん二分、和田小太郎の白波七寸しちすん五分、畠山の秩父鹿毛七寸しちすん八分、此等を始として大名、小名五十匹、三十匹、五匹一匹引せたり。
 され共磨墨に倍る馬なし。
 源太大きに悦、一重あがりたる所に居て、引廻々々愛し居たり。
 余あまりの嬉しさに、人が嘆よかし引出物せんと思処に、村山党の大将に金子十郎家忠、折節をりふし爰を通りけり。
 招寄て、如何に金子殿、此馬何法の馬にて候ぞ、御覧ぜよと云。
 金子は元より勇狂じたる男也、打見て誑れ笑。
 これは佐殿の磨墨にや、御辺ごへんの親父梶原殿、御内には一人にて御座、されば御辺ごへん此御馬賜り給にけり、此程の馬をば能とも悪きとも中々詞を加る事沙汰の外に侍り、只時のきら、徐の人目こそ浦山敷うらやましく候へと嘆たりければ、源太大に悦て、小桜を黄に返したる鎧に、太刀一振取副て引く。
 源太は舎人三人付て、靡よはたけよ飼労れとて、他事なく是を愛しけり。
 佐々木四郎高綱は、生ずきに黄覆輪の鞍置、白き轡、二引両の手綱結て、舎人六人付て浮島原を西へ向てぞ引せたる。
 原中の宿を過、平々たる春野なれば生ずき不なのめならず勇み、身振して三声みこゑ四声啼たり。
 鐘をつくが如く也ければ、遥二里を隔たる田子の浦へぞ響たる。
 畠山是を聞て、こはいかに、生ずきが鳴音のするは、誰人の給たまひて将来るやらんと云。
 半沢六郎申けるは、是程の大勢の中に、数千匹逸物共多く侍、何の馬にてか侍らん、大様の御事と覚候、其上生ずきは、蒲梶原殿などの被申けれ共御免なしと承る、さては誰人か給べきといへば、人々げにもと思ひて、あざ咲てぞ有ける。
 畠山重忠は、一度も聞損ずまじ、人にたびたばずは不知、一定生ずきが音也、只今ただいま思合よと云もはてねば、生ずきは東の方より、舎人六人ひきもためず、白泡かませて出来たり。
 さてこそ畠山をば、神に通じたるやらんとも申けれ。
 源太は磨墨ほめ愛して居たる処を、舎人共生ずき引てぞ通ける。
 ゆゝしく見えつる磨墨も、勝る生ずきに逢たれば、無下にうててぞ見えたりける。
 源太是を見て、蒲御曹司の賜歟、九郎御曹司の給歟、よき次とて院へ進せらるゝかと思て、郎等を以て、其御馬は何方へ参り、如何なる人の馬ぞと問す。
 舎人是は佐々木殿の御馬と申す。
 佐々木殿とは誰ぞ、三郎殿か四郎殿かと問。
 四郎殿の御馬と答。
 源太此事をきゝ、口惜事にこそ、景季再三所望申つるに御免なき馬を、高綱にたびける事の遺恨さよ、佐々木にたぶ程ならば、先の所望に付て景季に給べし、景季に給はぬ程ならば、後の所望也、高綱に給べからず、大将軍たる人の、源平の大事を前に拘へて、悪も偏頗し給へり、是程の御気色おんきしよくにてはいかでも有なん、千世を栄べき世中に非ず、思へば電光朝露の如く也、いつ死なんも同事、日比ひごろ佐々木に宿意なし、時に取て日の敵也、高綱さる剛者なれば、無左右よもせられじ、互に引組で落重り、腰の刀にて指違、恥ある侍二人失、鎌倉殿かまくらどのに大損とらせ奉らん、高綱景季二人は、一人当千いちにんたうぜんの兵をやと思て相待処に、佐々木争か角とは知べきなれば、十七騎にてさしくつろげて歩せ来たる。
 源太は最後と思ひつゝ磨墨に乗、太刀も持ず、刀ばかりぞ指たりける。
 遥はるかに佐々木に目を懸て真横に歩せ塞高綱
 是を見て、郎等共らうどうどもに申けるは、爰ここに引へたるは梶原源太と覚えたり、あの景気を見に、馬の立様人を待様、直事とは覚えず、生ずきゆゑに、一定高綱に組まんと思意趣あるらん、鎌倉殿かまくらどのの意せよとは此事にこそ、組で落るものならば、指違てぞ死なんずらん、但梶原佐々木、公の馬を論じて命をすてん事、人目実事面目なし、陳じてみんに不叶して、梶原我に組ならば、心あれとさゝやきて、打通んとする処に、源太打並て云けるは、如何に佐々木殿、遥はるかに不見参、あの御馬は上より給たまひてかと云懸て押並ぶ。
 高綱にこと打咲て申様、実に久不見参、去年十月の比より近江に侍りつるが、近きに付て京へ打べかりつれ共、暇申さでは其恐有り、又何方へ向へとの仰を蒙らんと存て、三日に鎌倉へ馳下らんと打程に、只一匹持たりつる馬は疲損じぬ、さては乗替なし、如何すべきと思煩、御厩の馬一匹申預らばやと存て、内内伺きけば、磨墨は御辺ごへんの賜はらせ給けり、生ずきは御辺ごへんも蒲殿も再三御所望有けれ共、御許なしと承る、さて高綱などが給らん事難叶、中々申さんも尾籠也と存て心労せし程に、由井浜の勢汰にもはづれぬ、さて又馬なしとて留べき事にも非ず、如何せんと案ずる程に、抑是は君の御大事おんだいじ也、後の御勘当は左右もあれ、盗て乗んと思て、御厩小平に心を入盗出して、夜にまぎれ酒匂の宿まで遣して、此暁引せたり、只今ただいまにや御使走て、不思議也と云御気色おんきしよくにや預らんと閑心なし、若御勘当もあらん時は、可然様に見参に入給へとぞ陳じたる。
 源太誠と心得こころえて、げに/\佐々木殿、輙も盗出し給へり、此定ならば景季も盗べかりけり、正直にては能馬はまうくまじかりけりと狂言して、打連てこそ上りけれ。
 譬へば中天竺に象王太子と云し人、百の象を飼給けるが、異国の軍の起けるに、彼をせめんとて、九十九匹を官兵に分ち給、今一匹をば秘蔵して置れたりけるを、八封と云召人の有けるが、此有様ありさまを見て、我身はとても可切者也、されば太子の秘蔵の象に乗、敵の陣に入り戦はんに、死たらば後世の物語ものがたり、敵を亡したらば君の為に忠臣たるべし、後日に陳申さんと思て、窃に盗出し、朝敵を亡して還て勧賞を蒙る事ありといへり。
 高綱が陣答は、彼ためしにこそ似たりけれ。

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