裳巻 第四十五 目録
内大臣ないだいじん関東下向附池田宿游君事

 去七日は、九郎判官、前さきの内大臣ないだいじん以下の虜共相具して、都を立て、六条堀川ほりかはの宿所を打出けるに、大臣武士を召て、此に在し少者は母もなし、我も下りなば憑もしき者もなくて、いか計かは歎侘侍らん、残し留るこそ心苦く侍れ、相構て不便にし給へと宣も敢ず、御涙おんなみだを被流けるぞ哀なる。
 夜部六条川原にて失たるをば知給はず、角宣のたまひけり。
 猛き夷なれ共、恩愛の道は哀也と、皆袖をぞ絞りける。
 角て内大臣ないだいじん父子、美濃守則清以下、都を出給たまひて会坂関にかゝり、都の方を顧給たまひて、いつしか大内山も隔ぬと、流す涙を袖に裹、東路や今日ぞ始て踏見給たまひて、昔蝉丸と云し世捨人、山科や音羽里に居をしめ、此関の辺に藁屋の床を結びて、常に琵琶を弾つゝ、和歌を詠じて思をのぶ。
  これや此ゆくも帰るも別れてはしるもしらぬも逢坂の関
  世中はとても角ても有ぬべし宮も藁やもはてしなければ

 流泉啄木の二曲を伝んとて、博雅三位三年まで、夜々よなよな通し所也と思出給にけり。
 蝉丸は延喜第四宮なれば、此関のあたりをば、四宮河原と名けたり。
 東三条院とうさんでうのゐん石山寺に詣給たまひて、還御に関の清水を過させ給ふとて、
  あまた度ゆきあふ坂の関水をけふを限のかげぞ恋しき
と詠じさせ給たまひしも、我身の上とぞ思召おぼしめす
 関山関寺打過て、大津の打出浦に出ぬれば、粟津原とぞ聞給ふ。
 天智天皇てんわう六年に、大和国やまとのくに明香岡本の宮より、近江国志賀郡に被遷て、大津宮を被造ける所にやと思召おぼしめしつゞけつゝ、湖水遥はるかに見渡せば、跡定めなき蜑小舟、世に憂我身にたぐひつゝ、勢多長橋轟々と打渡、野路野原を分行て、野州の河原に出にけり。
 三上嵩を見給へば、緑冷山陰やまかげの、麓の森に神住、三上明神と名付たり。
 此神と申は、第四十四代御門、元正天皇てんわうの御宇ぎよう、養老年中に天降、日本につぽん第二の忌火にて、此所にぞ住給ふ。
 能宣と云れし者こそ社に詣つゝ
  ちはやぶる三上の山の榊葉は昌ぞまさる末の代までも
と詠じける、思出して羨しくこそおぼしけめ。
 篠原堤、鳴橋、駒を早めて打程に、今日は鏡に著給。
 昔七翁の老を厭ひて、
  鏡山いざ立寄てみてゆかん年経ぬる身は老やしぬると
 詠じけるをも思出して武佐寺を打過ぎて、老曽杜をば心計に拝しつゝ、小野細道露払ひ、醒井宿を見給へば、木陰涼しき岩根より、流るゝ清水冷や。
 何事に付ても心細くぞ被思ける。
 美濃国関山に懸れば、細谷川水音すごく、松吹風に時雨つゝ、日影も見えぬ木の下路に、関の萱屋の板庇、年経にけりと覚えたり。
 杭瀬川をも打渡、萱津の宿をも過ぬれば、尾張国熱田社に著給。
 此明神と申は、景行天皇けいかうてんわうの御宇ぎように、此砌みぎりに跡を留、和光わくわうの恵を垂れ給ふ。
 一条院御時、大江雅衡と云博士、長保末の比当国守にて、大般若を書写して此社にて供養をとぐ。
 其願文に云、
 我願既満、任限亦満たり。
 故郷に帰登、其期不幾。
 と書たりけん事こそ浦山敷うらやましくは覚しけれ。
 鳴海潟、塩路遥眺れば、磯打波に袖を濡し、友なし千鳥音信おとづれり。
 二村山を過ぬれば、参川国八橋を渡給ふ。
 昔業平が劇草の歌読たりけるに、皆人袖の上に涙を流しける所と覚しけるも、御涙おんなみだ関敢給はず。
 矢矯宿やはぎのしゆくをも打過、宮路山をも越ぬれば、赤坂宿と聞えけり。
 参河川入道大江定基が、此宿の遊君力寿と云に後れて、真の道に入事も、あらまほしくや思召おぼしめしけん。
 高師山をも過ぬれば、遠江橋本宿に著給。
 眺望殊に勝たり。
 南は巨海漫々として蜑船波に浮。
 北は湖水茫々として人屋岸に列れり。
 磯打浪繁ければ、群居る鳥も声いそがはし。
 松吹風高ければ、旅客睡覚易し。
 浜名の橋のあさぼらけ、駒に任て打渡り、池田宿の長庚に、今夜は是に宿を取。
 侍従と云遊君あり、情深き女にて、終夜よもすがら旅をぞ奉慰。
 内大臣ないだいじんは憂身の旅の空なれば、目にも懸給はね共、女は前なる畳に副臥て明しけり。
 侍従暇申て帰るとて、
  東路のはにふのこやのいぶせさに故郷いかに恋しかるらん
 内大臣ないだいじん優しく思召おぼしめして、
  故郷も恋しくもなし旅の空都もつひの栖ならねば
 侍従と云遊君は、此宿の長者湯谷が女也。
 内に入て今夜の御有様おんありさま、歌の返事まで細やかに語ければ、母湯谷哀に思て、紅梅檀紙を引重て、文を書て奉右衛門督うゑもんのかみ
 取次奉父たれば、是を披見給ふに一首あり。
  もろ共に思召おぼしめしてしぼるらし東路にたつころもばかりぞ
 大臣是にや慰み給けん返事あり。
  東路に思ひ立ぬるたび衣涙に袖はかわくまぞなき
 右衛門督うゑもんのかみ聞給たまひて、
  三年へし心尽の旅寝にも東路ばかり袖はぬらさじ
 明ぬれば天竜河を渡り給に、水増ぬれば船を覆すと聞給にも、西海の波上被思出けり。
 彼巫峡の流れ、我命の危き事も思列て、小夜中山に懸ぬ。
 南は野山谷より峯に移る路、雲を分て入心地して、尾上の嵐も最冷じ。
 菊川宿打過て、大井河を渡つゝ、宇津山にも成ぬ。
 昔業平が都鳥に言伝けん、何所なるらん、彼鳥もあらば言伝しまほしく思召おぼしめし、清見関に懸りては、昔朱雀院の御時、将門まさかど追討の為にとて、平将軍へいしやうぐん貞盛さだもりが奥州あうしうへ下りしに、民部卿忠文が、漁舟火影寒焼波、駅路鈴声夜過山と云へりし唐歌を詠じける昔の跡ぞ床敷。
 田子浦を過行ば、富士高峯を見給に、時わかぬ雪なれど、皆白平しろたへに見渡、浮島原に著ぬ。
 北は富士たかね也、東西は長沼あり、山の緑陰を浸して、雲水も一也。
 葦分小舟竿刺て、水鳥心を迷せり。
 南は海上漫々として蒼海渺々たり。
 孤島に眼遮て、遠帆幽に列れり。
 原には藻塩の煙片々として、浦吹風に消上る。
 昔は海上に浮て、蓬莱の三島の如なりければ、浮島とも名付たり。
 駿河国、千本松原打過て、伊豆国いづのくに三島社に著給ふ。
 此宮は伊予三島を奉祝、天下旱魃して禾穂青ながら枯けるに、伊予守実綱が命により、能因入道が、
  天くだるあら人神ひとがみの神ならば雨下り給へ天くだる神
と読たりけるに、炎旱の天より俄にはかに雨下つゝ、枯たる稲葉忽たちまちに緑に成し現人神あらひとがみ
 木綿だすき懸て、末憑もしく成給へと祈念して、箱根山をも歎越、湯本の宿に著給。
 谷川漲落て、岩瀬の波に咽けり。
 源氏物語げんじものがたりに、涙催す滝の音哉といへるも思出し給けり。
 判官は事に触て情ある人にて、道すがら奉労慰ければ、大臣殿宣のたまひけるは、相構て父子が命を申請給へ、出家して心閑に後世を助らんと被申ければ、御命計は去共とこそ思ひ給し。
 さらば奥の方へぞ遷奉らんずらん、義経が勲功の賞には、両所の御命を可申請と憑し気に申ければ、内大臣ないだいじん囚千島也とも、甲斐なき命だにあらば、嬉き事にこそとて、いとゞ涙を流し給たまひけり。
 日数経れば、大磯、小磯、唐河原、相模河、腰越、稲村、打過て、既すでに鎌倉に著給。
 屠所の羊の歩々の悲み、小水の魚の泡の命、角やと覚て哀也。

女院御徒然附大臣頼朝よりとも問答事

 建礼門院けんれいもんゐんは、吉田辺に歎明し泣暮させ給たまひけるに、内大臣ないだいじん父子判官に相具して、鎌倉へ下向の道にて可失と申者ありければ、今更なる様に思召おぼしめされて、御心迷して、げにもさこそはと思召おぼしめし、哀人々の失し所にて兎も角かくも成たらば、憂事をば見聞事あらじと被思召おぼしめされけり。
 世の聞えを恐て言問者もなし。
 判官は情有し人にて、女院の御事不なのめならず心苦き事に思進せて、様々の御衣を調へ、女房達にようばうたちの装束までも被進けり。
 是を御覧ずるにも只夢とのみ思召おぼしめしける。
 壇浦にて夷共が取たりける物の中にも、御具足と覚しきをば、尋出して進せけり。
 其中に、先帝の御手馴させ給ける御具足共あり。
 御手習の反古の御手箱の底にあり。
 御覧じ出て御顔に押当、忍あへ給はず、さめ/゛\と泣給けるぞ悲き。
 恩愛の道は何も疎ならね共、内裏に御座おはしまして、時々雲井の徐に奉見御事ならば、加程はなからまし、此三年が程一御船の中に、朝夕奉手馴給ければ、無類思召おぼしめし、御年の程よりも長しく、御形御心ばへ勝てまし/\し者をと語出しては、御袖を被絞けり。
 同おなじき十七日じふしちにち、九郎判官義経、平氏の虜共相具して関東に下著したりければ、源二位対面有けれども、最言すくなにて打解たる無気色
 義経も思の外に事違ひて、合戦の事不申出及けり。
 前さきの内大臣ないだいじんは、庭隔たる屋に座を儲たりければ、被著たりけるに、源二位は簾中に座して、比企藤四郎能貞を使として被申けるは、於平家人々、不私意趣、其故は専依禅閣之恩言、被頼朝よりとも之死罪、争忘違恩たちまちに有反心哉、然而可追討之由、今被宣旨之間、難叡慮之故、只随勅定之計也。
 是源平両氏の、互に昔より今存ぜる事也。
 不図に奉見参こそ本意に侍れと宣のたまひければ、能貞大臣殿の前に進たりけるに、居直り深敬節せられけり。
 右衛門督うゑもんのかみは不居直、国々の武士多並居たり。
 右衛門うゑもんの督かみぞ返事しける、当家代々、為朝家之守護、度々鎮賊陣之狼藉、依勲功之労、昇太政大臣だいじやうだいじん、賜洪恩之賞左右大将、雖身誤あやまり、蒙朝敵咎、是非私恥、世皆所知也、芳恩には、急被首よと。
 聞之武士、彼に返答の体神妙しんべう々々しんべうとて、落涙する者多かりけり。
 父内大臣ないだいじんをば宥毀者口々也。
 毀者は、敬節し給たらば命の助り給べきかは、西海に沈給はずして、東国に恥をさらすこそ理也けれと嘲けり。
 宥申人は、人心無定主、人身無定法、尊之則為将、卑之又為虜、抗之則翔青雲之上、抑之又沈深淵之底、用為虎、不用為鼠、是又深理也。
 必しも大臣殿に限に非、猛虎在深山しんざん百獣震恐、及其在檻穽之中、揺尾而求食云本文あり。
 心は、いかに猛虎も深山しんざんに在時は、百獣恐わなゝきて、あたりに近付事なけれ共、檻穽とて、をりの中被籠ぬれば、人に向て尾をふりて食を求。
 されば如何に猛軍将なれども、加様に成りぬれば替心にて有ものをとぞ申ける。
 大臣の刎首事不容易とて、俎上に大なる魚を置、利刀を相具して内大臣ないだいじん父子前に被置たり。
 自害し給へとの謀也。
 大臣は思寄給はずもや有けん、そも不知、右衛門督うゑもんのかみは、さもと思はれけれ共、壇浦にて水底に沈みはてぬは、父の向後のおぼつかなき故也。
 今更非先立とおぼしければ、自害なし。
 待ども/\自害し給ざりければ、内大臣ないだいじんをば讃岐権守と改名して、九郎判官に被返預けり。

虜人々流罪附伊勢勅使改元有否事

 同廿一日、平家の虜の輩国々へ可流遣之由、被官府けり。
 上卿源げん中納言ぢゆうなごん通親也。
 前平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやうは能登国、追立使は信盛、此時忠卿ときただのきやうは、筆執平氏なり。
 後に謀叛など起すべき非人とて、流罪に定られ給けり。
 子息前左中将時実は周防国、追立使は公朝也。
 内蔵頭くらのかみ信基は備後国、使は章貞也。
 兵部少輔尹明出雲国、使同章貞也。
 熊野別当法眼行明常陸国、使は職景也。
 二位僧都そうづ全真は安芸国、使は経広也。
 法勝寺ほつしようじの執行能円は備中国、使は同経広也。
 中納言律師良弘阿波国、使は久世也。
 中納言律師忠快は飛騨国、使は同久世也。
 六月十六日じふろくにちに、伊勢公卿勅使可発遣否、又可改元否事、人々に被尋下けるに、左大弁さだいべん兼光卿云、
 天照太神てんせうだいじん、手持宝鏡、奉天忍穂耳尊時、詔天児屋根命、同侍殿内、善為防護者歟、然則云鏡璽来格之報賽、云宝剣可帰之請祈、思其元始已在彼社、尤公卿勅使可発遣とぞ被申ける。
 内大臣ないだいじん実定は、我君践祚之後、改寿永元暦以来、逆徒伏誅、都鄙平定、何強に急有改元哉、彼東漢建武之明時、本朝天慶之佳例、尤可准帰歟とぞ被申たりける。
 彼両条、人々申状異趣同旨なり。
 前さきの内大臣ないだいじん父子、並三位中将さんみのちゆうじやう重衡、去九日義経に相具て被上洛けり。
 鎌倉にて可首とこそ思あはれけるに、又都へ被帰上ければ、いとゞ心を迷給けり。
 国々宿宿しゆくじゆくも過ぬ。
 尾張国野間内海と云所あり。
 こゝは故義朝よしともが首を切たりける所也。
 此にて斬て彼霊に祭らんずるにやと思ひあひ給ける程に、其をも過にければ、大臣殿今は去共と憑し気に宣のたまひけるこそ思ひあまり給へるにやと悲くは覚ゆる。
 右衛門督うゑもんのかみはよく心得こころえ給へり。
 平氏の正統也、頼朝よりともに見せて後、京にて刎頸渡さんずるにこそと思召おぼしめしけれ共、余に父の歎給ければ角とは不宣、只道すがら内大臣ないだいじんにも念仏をすゝめ、我身も唱給けり。
 日数ふれば、同廿日は近江国篠原宿に著ぬ。
 廿二日にじふににちに勢多にて、大臣殿も右衛門督うゑもんのかみも、格別の処に奉置ければ、今日を限と思給たまひて、右衛門督うゑもんのかみは何れの所にぞ、一所にてこそ如何にも成果んと思つる、生ながら別ぬるこそ悲けれとて、涙を流し給ぞ哀なる。
 内大臣ないだいじん判官に被仰けるは、出家は免なければ力及ばず、僧を請じて受戒、最後の知識に用ばやと宣へば、其辺相尋て、金性房湛豪と云僧奉請、僧知識僧参て最後の事勧申けるに、内大臣ないだいじん涙せき敢給はず、向僧宣のたまひけるは、右衛門督うゑもんのかみはいかに成ぬるやらん、被首共、一筵に手を取組てこそ死なんと思つるに、さもなき事の悲さよ、副将には明日関東へ下らんとせし夜別ぬ、其もいかゞ成ぬらんおぼつかなし、右衛門督うゑもんのかみには今日別れぬ、此十七年間、一日も無立離事
 西海の水底に沈べかりし身の、角憂名を流すと云も、右衛門督うゑもんのかみが故也とて泣給へば、知識僧申けるは、今に於は其事不思召おぼしめす、最後の御有様おんありさまを見奉らんも見え給はんも、互の御心中悲かるべし。
 倩事の心を思ふに、君は為外戚之臣、至丞相之位、為征夷之将統天下之政、上輔導於一人、下照臨於万民、世之奉仰如日月、人之奉恐如雷霆、令勢於衆人之上、被命於匹夫之手、楽尽悲来之謂、物盛必衰之理、更非当時之災殃、皆是前世之業報任たり。
 是以色界の天衆猶遇退没之愁、得道羅漢不必滅之理、秦始皇しくわう侈を極ども驪山墓に埋、漢武帝惜命ども杜陵苔朽、普賢観経云、我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法と、我心自空なれば、罪福全主なし、静に心を観ずるに、定れる心なし。
 諸法の相を達するに、一法として法の中にあるを不見、さけば善悪共に空なり。
 世出同無と観ずる、仏の知見に相叶事なれば、何物も始終不有と思召おぼしめすべき也。
 法華経ほけきやうには、三界無安猶如火宅、衆苦充満、甚可怖畏とて、栄花名聞も火宅の楽み、重職官位も炎中の勇也。
 それがために還て招苦、これが為に必ず懐憂。
 妻子眷属は恩愛苦海の波を起し、我執怨僧は邪見放逸の剣を鋭。
 順縁逆縁共に生死の妄染なれば、自身他身皆火宅の炎に咽ぶ。
 一切有為の法は、悉如夢如幻、水月鏡像の喩にさとりぬべし。
 未得真覚、恒処夢中、故仏説為、生死長夜と説給へり。
 誠に真覚のひらけずは、無明の長夜あけ難く、妄想の憂悲み晴事なかるべし。
 而を弥陀如来みだによらいは大悲願を発して、一念十念共に導んと誓給へり。
 此願億々万劫にも聞がたく、世々生々にも値がたし。
 たとひ天上勝妙の楽に誇とも、仏法ぶつぽふにあはざれば悲む也。
 譬ひ卑賤孤独の報を得とも、三宝に帰依するを幸とす。
 君先世の怨僧に答て、今生の誅害にあひ給へり。
 一筋に余念を止て、一心に念仏申て、衆苦永く隔り、十楽身に荘、浄土じやうどへ生んと思召おぼしめすべき也と奉教訓、先授三帰五戒ごかい、後に奉念仏
 内大臣ないだいじん然知識成と思召おぼしめし、西に向合掌、余言を止て念仏三百返計ぞ唱へ給。
 橘内右馬允公長、剣引側て後へ廻ければ、大臣殿念仏を止て、右衛門督うゑもんのかみも既すでにかと宣のたまひける。
 詞の未終けるに、首は前に落にけるこそ悲けれ。
 彼公長は平家重代の家人也。
 新中納言の許に、朝夕伺候の者也けり。
 身を顧世を渡らんと思ふこそ悲けれとて、涙をぞ流しける。
 其後上人右衛門督うゑもんのかみの許に行向ひて奉戒、様々教訓し念仏すゝめければ、大臣殿の最後如何御座おはしましつると問給。
 上人、何事も思召おぼしめし切、目出こそ御渡候つれと申せば、さては嬉く候とて、念仏高く唱つゝ、今は疾々と被仰ければ、今度は堀弥太郎切てけり。
 さしも罪深く難離し給ければ、身をば公長が沙汰にて、一つ穴にぞ埋てける。

内大臣ないだいじん京上被斬附重衡向南都切並大地震事

 同廿二日にじふににち、九郎判官義経、大蔵卿おほくらのきやう泰経卿許へ申送けるは、前さきの内大臣ないだいじん父子、近江辺にして可其首、洛中へ持参して、可検非違使けんびゐし歟、将亦勢多辺にして可棄歟、両箇趣兼て言上、事由可勅定之由、頼朝卿よりとものきやう之也。
 又重衡卿しげひらのきやうは、可東大寺とうだいじ之由、同令之間、相具して可入洛と申たりければ、泰経彼状を有奏聞
 内大臣ないだいじんの許に被遣て可計申由被仰ければ、後徳大寺ごとくだいじの実定被申けるは、彼両人被斬罪上は、被首事可議定歟、凡渡頸事は、於京師人為実也、而先日乍生已すでに被洛中、今度義経相具して上洛、行斬罪之相、依何不審、重又可大路哉と有けれ共、翌日二十三日に、検非違使けんびゐし、知康、範貞、信盛、公朝、明基、経弘等、六条河原にして彼両人首を請取、大路を渡して懸獄門左樗木けり。
 京中白川辺土近国輩、競集て見之、法皇は三条東洞院ひがしのとうゐんに御車を立て有御覧
 謹考故実、三位已上の首、懸獄門事無先例、称徳天皇てんわうの御宇ぎように、大師藤原恵美朝臣押勝謀叛時、軍士石村々主、近江国にして斬押勝首于京師之由雖国史、渡其頸獄門之由、無所見
 近平治に、右衛門督うゑもんのかみ信頼のぶより、さしも罪深して被首たりしか共、獄門には不懸、如此例、依時儀始行事なれども、両度被大路之条刑法甚とぞ人傾申ける。
 哀哉西国さいこくより入ては、生て七条を東へ被渡、東国より帰ては、死て洞院とうゐんを北へ渡され、死の恥生の辱、とり/゛\にこそ無慙なれ。
 本三位中将ほんざんみのちゆうじやう重衡卿しげひらのきやうは、前さきの内大臣ないだいじん父子と相共に、九郎判官に相具して上けるが、内大臣ないだいじん父子は勢多にて切れぬ。
 重衡をば南都大衆へ出して切首、可奈良坂とて、故源げん三位ざんみ入道にふだう頼政よりまさが息、蔵人大夫頼兼相具して、山階や神無森より醍醐路に懸て、南を指てぞ通ける。
 住馴し故郷、今一度みまほしく思召おぼしめしけれ共、雲井のよそに想像、涙ぐみ給も哀也。
 小野里、醍醐寺を過て、中将泣々なくなくのたまひけるは、日比ひごろ各情をかけ憐つる事、嬉し共云難尽、同は最後の恩を蒙べき事あり、年来相具したりし者、こゝ近き日野と云所に在と聞、鎌倉に在し時も、風の便には文をも遣して、返事をも聞ばやと思ひしか共、免しなければ不叶、南都の衆徒に被渡なば、再び可還来身に非、されば彼人を今一度、見もし見えもせばやと思はいかゞ有べき、我に一人の子なければ、此世に思置事なし、此事の心に懸て、よみぢも安く行べし共不覚と宣のたまひければ、武士共も、遉岩木ならねば涙を流つゝ、何かは苦しかるべきとて免しければ、手を合悦給たまひて、日野大夫三位の許へ尋入て案内せられけり。
 彼大夫三位北方と申は、大納言典侍だいなごんのすけの姉也。
 大納言典侍だいなごんのすけとは、故五条ごでうの大納言だいなごん邦綱卿くにつなのきやうの御娘、先帝の御乳母おんめのと也。
 平家都を落し時、同西国さいこくに下給たりけるが、壇浦軍敗れて後、再都へ帰上たれ共、家々いへいへは都落の時焼ぬ、可立入所もなければ、女院に付進せて、暫吉田に座しけれ共、さても可叶様なければ、姉の三位局を憑て、彼宿所の片方に忍てぞおはしける。
 三位中将さんみのちゆうじやうの使は石童丸と云舎人也。
 童内に入て、重衡こそ東国にて如何にも成べしと思しに、南都亡したる者也とて、衆徒の手に渡され侍りし、兎角武士に暇を乞て立寄侍り、今一度奉見ばやと云入たりければ、北方物をだにも打纏給はず、迷出て見給ければ、藍摺の直垂、小袴著たる男の、疲れ黒みたるが、縁により居たりけるぞそなりける。
 如何にや夢か現か、これへ入給へかしと宣のたまひける声を聞給に、目も眩心も消て、袖を顔に覆て泣給ければ、大納言典侍だいなごんのすけも只涙に咽て、宣出る言なし。
 三位中将さんみのちゆうじやう半縁に寄懸り、御簾打纏て、北方に目を見合て、互にいとゞ涙を流し、うつぶし給へり。
 北方起直りて、是へ入給へとて重衡の手を取り、御簾の内へ奉引入、先物進めたりけれ共、胸塞喉塞て聊も不叶けれ共、責ての志を見えんとて、水計をぞ勧め入給ける。
 したるけに見え給へば、著替是給へとて、袷の小袖に白帷取具して奉れば、練貫小袖の垢付たるに脱替給ふ。
 北方取之、胸に当顔に当てぞ泣給ける。
 三位中将さんみのちゆうじやうも、いつまで著べき小袖ならね共、最後の著替と思召おぼしめしけるに、いとゞ袖をぞ絞りける。
 涙の隙に、
  脱替る衣も今は何かせん今日をかぎりのかたみと思へば
 北方も泣々なくなく
  憑みおく契はくちぬ物といへば後の世までも忘るべきかは
 三位中将さんみのちゆうじやうのたまひけるは、去年の春如何にも成べかりし身の、一門の人こそ多き中に、責ての罪の報に、重衡一人虜れて、京鎌倉に曝れて、終には奈良の大衆中に出され切べしとて罷なり。
 斯る有様ありさまなれば、中々由なしと思つるが、命存へて二度非見、年来の情、尽ぬ思に任て角と申つる也、奉嬉見ぬる者哉、命のあらん事も只ただ今日に限れり。
 今一度見奉らんと思より外は、此世に思置事なし。
 程遠き所ならば如何がはせん、爰ここにしもおはして、最後に見みえぬる事、前世の契と云ながら、心中可推量給、子のなかりしをこそ本意なき事に思申しに、賢くぞ子の無りける。
 在ばいかばかりか心苦からん、今は此世に執心留る事なければ、冥途安く罷なんと思こそいと嬉けれ。
 人に勝て罪深くこそ侍らんずらめ、哀不便と思し母の二位、深く憑し一門兄弟悉に亡ぬる上は、残留て後の世を弔ふべき者も侍らず、人は若くおはすれば、便にも付給はんずらん、さもして世をも渡給べし、非其恨、日本につぽん第一の大伽藍を亡したりしかに、阿鼻の炎兼て想像こそ苦しけれ、いかならん有様ありさまにて御座おはします共、忘給はで弔給へ、多き人の中に、斯身に相馴給ふも、可然先の世の深き契にこそ侍らめなれば、後の世とても忘給べきかは。
 出家をもして、髪をも奉剃見せばやと思へ共、其も免しなしとて涙を流し給へば、北方、日比ひごろの思歎は事の数ならず、可堪忍心地もし給はず。
 軍は常の事なれば、必しも去年二月六日を限とも不思しか共、別れ奉しかば、越前三位上の様に、水の底にも沈むべかりしに、先帝の御事の、御心苦思奉し上に、正しく世におはせず共不聞しかば、今一度見奉事もやと思て、強面昔の貌にてすぐし侍つるに、今日を限にて御座おはしますらんこそ悲けれ。
 今までも延給つれば、若やと思ひつる憑も有つる者をとて、又うつぶし臥給。
 昔今の事宣通ふに付ても、悲さのみ深く成行ば、日を重ね夜を重ぬ共尽べきに非ず。
 程ふれば武士共の待思はん事も心なければ、奉嬉つとて泣々なくなく立給へば、北方、如何にや、さるにてもしばしとて袖を引へ、今日計は留給へ、武士もなどか一日の暇を得させざらん、年を経ても待得べき事に非、又もと思見参も、今日を限の別なればと宣へば、中将、一日の暇を乞たり共、明日の別も同事、心の中たゞ推量給へ、去共遁べきにあらず、契あらば来世にても可見とて出給へば、北方は人の見るにも不憚、縁の際まで出給たまひ、臥まろびて喚叫給。
 中将は馬に乗たりけれ共、進もやり給はず、涙にくれて行前も見ず、其身は南都へ向へども、心は日野にぞ留りける。
 大納言典侍だいなごんのすけは、走付てもおはしぬるべく覚え給けれども、それもさすがなれば、引纏てぞ臥給ふ。
 永別の道、さこそは悲く思ふらめと、武士も袂たもとを絞りけり。
 中将は石金丸と云舎人を具し給へる。
 是は八条院より、最後の有様ありさまを見よとて鎌倉まで付られたりけるが、南都迄も付たりける也。
 大納言典侍だいなごんのすけは、木工允友時と云者を召て、三位中将さんみのちゆうじやうは、小津河奈良坂の辺にてぞ切れんずらん、首は定て大衆の手に渡らんずらん、身は曠野に棄べし、跡を隠すべき者なし、汝行て身を舁返せ、孝養せん、さしもに後生弔と云つる者をとて、地蔵冠者と云ふ中間と、十力法師と云力者りきしやを、友時に相具して進けり。
 三人の者共泣々なくなく走ければ、木幡、岡野屋行過て、宇治辺にて奉追付けり。
 平等院びやうどうゐんをば心ばかりに伏拝、屠所の羊の歩近付ば、新野池をも打過て、光明山の鳥居の前にも著給ふ。
 治承の合戦に、高倉宮たかくらのみや流矢に中て亡給し所也と見給にも、今は身の上とぞ思召おぼしめしける。
 丈六堂の辺を過給には、源げん三位ざんみ入道にふだうが一門、為当家亡されし所也、亡魂いかゞ思らん、今は昔に替行、憂世うきよの習こそ悲けれと、思残す事なし。
 大納言典侍だいなごんのすけは引纏ひて臥給たまひたりけるが、暮る程に起上り、法戒寺より上人を請じて様を替給にけり。
 中将和州小津に著給へば、土肥次郎使者を南都へ立て云、三位中将さんみのちゆうじやう重衡をば、関東にして雖首、南都両寺りやうじを亡す依咎、可遣衆徒之手由、源二位家の下知に任て寺辺に発向す。
 可具足入寺内歟、於境外請取歟と申たりければ、東大興福両寺りやうじの大衆、宿老しゆくらう若輩貝鐘鳴して、大仏殿の大庭に有会合僉議せんぎ
 若大衆の僉議せんぎ云、天竺震旦の法滅は暫閣、我大日本国だいにつぽんごくは神国也、其神慮は為護仏法ぶつぽふ、而欽明天皇てんわうの御宇ぎよう、仏法ぶつぽふ初て渡百済国、守屋大臣、為国神仏教、然而救世の垂跡すいしやく上宮太子、従守屋以来、君主専帰正法、臣公同崇三宝、爰故浄海入道悪逆あくぎやく之所催、以重衡軍将園城をんじやう三井之法水、消南京二寺之恵燈、悲哉最初成道一十六丈の聖容、必滅之煙聳蒼天之空、痛哉法相三論八不唯識の金言、垂没之露消春日之野、啻匪仏陀之教法、専廃失浄侶之弘通、過守屋之違逆、超調達之謗法五刑之類比之猶軽五逆伴党、不外、衆徒多別亡。
 君臣大に愁嘆す、常住諸尊仏陀含恨、護法之善神成怒、故一門悉沈西海、重衡独為生虜、修因感果究竟、彼卿寺辺廻来、然者しかれば早衆徒の手に請取、両寺りやうじの大垣三度廻し、其後七箇日間に堀頭歟、鋸歟、嬲切に可殺とぞ申ける。
 若大衆は、尤可然と同じけるを、老僧の僉議せんぎに云、重衡卿しげひらのきやう重犯事、衆徒の僉議せんぎに同ず、因果道理実必然也。
 但彼卿治承に南都を亡し時、以衆徒力打も留搦も取たらば、刑罪可僉議せんぎ之旨
 而今年月を送て勇士に取れ、武家の手より請取て罪を行事、全非大衆高名
 就なかんづく修学利生之窓中にして、行邪見不善科、背菩薩大悲、僧徒の威儀いあらじ、誠に自業自得の所催、彼卿死罪難遁歟。
 然者しかれば寺院の内に不入して、いづくにても武士が切たらん頭をば請取て、伽藍の敵なれば、可奈良坂なりとぞ僉議せんぎしける。
 此条可然とて、別の使を相副て、重衡卿しげひらのきやう間事被申送、源二位家仰奉畢。
 但衆徒の手に請取て行刑罪事其憚あり、般若野より南へ不入して可相計
 首をば衆徒中に給たまひて可一見と返事しけり。
 南都の返事聞て後、土肥次郎は、其そのも早暮ければ、河より南の在家の中に、大道よりは東南に向て、一間四面に造たる旧堂あり。
 是へぞ入奉りける。
 ゆかけをせばやと宣のたまひければ、近所より新き桶杓を尋出し、水を上て奉る。
 御堂の傍にて行水し、髪洗たぶさを取、最後御装束と覚えて、武士共兼て用意し持せたりければ、小袖、帷、直衣、褌、扇、笏、沓に至まで取出して奉。
 日比ひごろ著給たまひたる物をば、武士給たまひてのきにけり。
 武士の申儘に御装束をめし、新き沓には子細ある者をとて、紙を畳て敷さしはきて、縁を歩て、正面よりは東西向にして座しける。
 此間東の旅に下り上り、風に窄れ日に黒みて、あらぬ貌にして衰給たれ共、遉に余あまりの人には替てぞ見え給ける。
 暫有ければ、御食賂出して進せたり。
 是や此下﨟の云なる死粮とは、只今ただいま死する者の、魚鳥不有とて取除さす。
 散飯多かに取て仏前に備て、其後はまゐらず、又酒を奉進。
 只今ただいま頸切れんずる者の、極熱に酒は悪かる者をとて、三度請るまねをして、舌の先ばかりに宛て是も進ず。
 其後手洗嗽て宣のたまひけるは、抑汝等なんぢらは、頼朝よりともが政をば善とや思悪しとや思、所謂いはゆる善と思へばこそ平家をば角は虐らめ。
 昔は如此人を虐、今は又人の為に虐げらる、因果の理世をも恨べからず、但敵を敵へ渡事は、昔よりして未聞、頼朝よりともも弥勒の代をばよも持じ、今日は人の上と思共、明日は必身の上と思ふべし、重衡を罪深き者と云なれ共、全く罪深からず、心より発て南都を亡たらば、西海の波の底にも沈、東路の頭に骸をも曝すべけれ共、法相三論の学地の辺、華厳法華修行の砌みぎり、仏法ぶつぽふ流布の境、奈良都に廻来て、切れて其後首を東大興福の両寺りやうじに被渡事、大乗値遇の過去の縁浅からずと思へば、可罪深共不覚と宣へば、実平申けるは、二位家の計ばかりにてはよも候はじ、法皇の御計にてこそ候らめ。
 就其鎌倉にて善便宜は候し者を、など御自害ごじがいは候はざりけるやらんと申せば、中将は打咲ひ給たまひて、人のむねには、三身の如来によらいとて仏御座、怖悲しと思て、身より血をあえさん事は仏を害するに似たり、されば自害をばせざりき、只今ただいまも首を刎んとせば、流石さすが妄念も起りぬべし、何となき振にもてなし、我に不知首を打と宣へば、武士共目を合て畏る。
 其後中将突立て、正面の東の妻を立廻、後戸の方を見給へば、歳六十余あまりの僧、左手には花を持、右手には念珠に打鳴し、取具して参たり。
 哀僧かな、一人と思召おぼしめしつるに神妙しんべうにも参給へり、はや入給へとて、中将は本の道より帰りて、正面の東の間、本の座に西向におはしければ、彼僧は西の妻を廻て、正面の西の間、東向にぞ候ける。
 実平は縁にあり、家子郎等は坪中大庭に並居たり。
 中将僧に向て宣のたまひけるは、善知識の人かなと思つるに、折しも神妙しんべうにも候、抑重衡世に在し程は、出仕にまぎれ世務にほだされて、けう慢けうまんの心のみ起て後世のたくはへ微塵ばかりもなし、況世乱軍起つて後、此三四年間は、禦彼助我との営の外は又他事なし、就なかんづく南都炎上えんしやうの事、王命と云武命と云、君に仕世に随習、力及ばす罷向ひ侍りぬ、其に思はずに火出来て、風烈くして伽藍の及滅亡、其を重衡が所為と皆人の申し事の、今思合すれば実に侍けり、さればにや人もこそ多けれ、一門の中に我一人虜れて、京鎌倉に恥を曝し、此迄骸をさらさん事只今ただいまに極れり、されば斯る罪人の如何なる善を修しいかなる仏を奉憑てか、一劫助る事候べき、示給へと泣々なくなく掻詢かきくどきて宣へば、僧急と土肥に目を見合すれば、実平とも/゛\随仰被参候へと申。
 上人念珠おしすり金打鳴して、阿弥陀経一巻懺法一巻読て後、法華経ほけきやう一部と志、早らかに転読す。
 八の巻に及で、実平今は夜も明方に成候ぬ、とくと申せば、八の巻をば巻置奉戒、若浄土じやうどに生んと思召おぼしめさば、西方極楽を歓ひ御座おはしませ、極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽と説れたり、弥陀名号を、口に唱へ心に念じ給べし、若悪道に赴御座おはしますべくば、地蔵の悲願仰給へ、抜苦与楽慈悲深く、大悲抜苦の誓約あり、依これによつてたう利たうり雲上にしては、正しく釈尊殷懃の付属をうけ、奈落炎中にしては、必衆生難忍の受苦を助給、彼と云此と云、深く憑み奉らば争か利勝なからんと、細々に讃嘆し奉教化ければ、中将も実平も、眼に余る涙の色、家子も郎等も、絞兼たる袂たもと也。
 土肥申けるは、加様に候べしとだにも兼て知進せたりせば、御布施なども用意仕るべく候ける者を、是は日比ひごろ君の召て候者なればとて、取納たりける御装束裹より取出し、仏前にぞ備へたる。
 其後又弥陀経一巻、懺法早らかに一巻読けるが、六根段に懸けるに、暁の野寺の鐘の声、五更ごかうの空にぞ響ける。
 中将涙を流し突立て、東の妻を後戸の方へおはす。
 兵二人影の様にて不御身。
 後戸の縁を彼方此方へ行道し御座おはしましけるに、紫の雲一筋出来りたり。
 折しも郭公の啼て、西をさして行けるを聞給たまひて、かく、
  思事かたりあはせん郭公げに嬉しくも西へ行かな
とすさみ給ける御音計ぞ幽に聞えける。
 坪の中大庭に並居たりける武士も、はら/\と立にけり。
 上人は、こゝは何と成給ぬるやらんと思て、立給たる跡を見れば、涙を拭給へる畳紙もぬれながら未あり。
 庭を見れば、沓の鼻をかゝへてかぶり居たる犬あり。
 立廻後戸を見れば、頸もなき死人うつぶしに臥たり。
 犬二三匹そばにて諍之居たり。
 穴無慙や、此中将既すでに切れ給たまひけるにこそと思、前後なりける犬共を追除て、松葉柴葉を折かざし、経よみ念仏申て奉弔。
 大道方には馬の足音稠かりければ、上人急立出て見れば、歳五十計なる男の、貲布直垂に長刀杖に突たる男、北へ向て行けるを袖を引へ、是に御座おはしましつる上﨟は、何と成給ぬるやらんと問申ければ、御首おんくびをば南都へ奉渡ぬとて、高念仏申て北をさして過行けり。
 其後友時泣々なくなく来りて、中将の空き身を輿に舁のせて日野へ帰、地蔵冠者、十力法師、共に涙にくれて行先も見えず。
<已上は南都より出たり。
 次の説は、世に流布の本也。
 異説に云、中将日野を出て小津に著給へば、頼兼使者を南都へ立、衆徒僉議せんぎ上。
 さては此にて可切とて、小津川のはたに奉下居、布革の上に奉居。
 重衡今を限と思召おぼしめしければ、木工馬允友時を召て、此辺に仏御座なんやと宣のたまひければ、友時泣々なくなく其辺の在家を馳廻けれ共、世間に恐けるにや不出ければ、古堂より阿弥陀あみだの三尊さんぞんを尋出、河原の砂に東に向て、三位中将さんみのちゆうじやうの前に奉掘立、重衡は浄衣の袖の左右のくゝりを解、仏の御手に奉結付
 五色の糸を引へ給へる心地にて、法然房の教訓し給たまひし言を信じ、如来によらい大悲の誓願を深く憑て宣のたまひけるは、提婆達多は三逆罪人也。
 無間の炎の底にして、成仏じやうぶつの記別に預る。
 下品下生は五逆の業人也。
 苦痛の床上にして、往生の素懐を遂たり。
 皆是弥陀平等の大悲に答、法華一実の効験に寄る。
 重衡逆縁重く萌と云ども、致深懺悔仏法ぶつぽふ不思議の力、忽たちまちに罪を滅して浄土じやうどに導給へ、況弥陀如来みだによらいに、一念十念も来迎せんと云願御座、極楽世界に上品下品に往生すと云文あり、重衡彼下品器に当れり、本願に無誤、大悲に実有らば、最後の十念を以て、浄刹の下品に迎取給へと詢つゝ、西に向合掌、念仏百返ばかり高声に唱へ給ければ、頸は前にぞ落にける。
 友時首を地に付て喚叫。
 見る人も皆涙を流す。
 良久有て友時は、三位中将さんみのちゆうじやうの空き身を輿にのせて日野へ帰、地蔵冠者も十力法師も、涙にくれて行先も見えざりけり。>
 既すでに車寄に奉舁入
 北方は兼て思儲たりつる事なれ共、今更なる様に覚て、物をだにもはき給はず、車寄に走出て、頸もなき人に取付て、無為方泣給。
 今一度見る事もなくてさてやみなんと、日比ひごろ思けるは物の数ならず、中々一谷いちのたににて何にも成給たらば、今は思忘るゝ事も有なましとおぼすぞ責ての事と哀なる。
 今朝は声花なる貌にて見給たまひつるに、今夕は紅を染て首もなければ、さこそは悲かりけめと、被推量無慙也。
 無常は世の習、相別るゝは人の癖なれ共、懸べしとは兼て不知、生て思ふも悲きに、同道にと泣きこがれ給へ共其甲斐なし。
 偖もあられぬ事なれば、上の山にて薪に積籠焼あげ奉り、灰を埋て墓を築卒都婆を立て、骨をば拾ひて高野山へ送給ふ。
<一説には、重衡をば奈良坂にて首斬といへり。>
 重衡卿しげひらのきやうの首をば、頼兼大衆の中へ渡したりければ、衆徒請取之、東大寺とうだいじ興福寺こうぶくじの大垣三度廻らし、法華寺の鳥居の前に、竿に貫高捧て是をさらす。
 治承の合戦の時爰ここに打立、南都を亡したればとて也。
 其後般若野の道のはたに大卒都婆を立て、張付にして是をさらす。
 見る人、大仏を焼給はずば今懸る恥にあひ給べしやとて謗る者もあり、涙を流す人も多かりけり。
 七箇日の間奈良坂に有けるを、北方大納言典侍だいなごんのすけ、内々俊乗坊上人に付て、さしも罪深人なれば、後の世を弔はばやと思侍。
 衆徒をも宥仰られて、首を返賜ひて孝養せんと被乞請ければ、上人哀に思召おぼしめして、様々に大衆を誘申されて日野へ送進す。
 北方大に悦て、即高野山に送りて塔婆を立て、追善を営給けり。
 彼俊乗上人と申は、左馬大夫季重が孫、右衛門大夫季能が息男、黒谷の法然房の弟子也。
 慈悲深してものを憐。
 上醍醐に蟄居して、専憂世うきよを厭ひける程に、東大寺とうだいじ造営の大勧進に被補、一寺に重き人也ければ、大納言典侍だいなごんのすけも、此上人に付て乞れければ、衆徒も難背して免遣しける也。
 倩事の心を案ずるに、因果の道理は如影随形、為善生天、為悪入淵といへり。
 重衡卿しげひらのきやう滅亡、月支東漸之仏教、焼失日或南北之霊場、故に冥衆不其人、神祇成其身、生は奮恥於東国、死は曝骸於南城、まして奈落の薪底、想像こそ無慙なれ。
 前さきの内大臣ないだいじん父子、本三位中将ほんざんみのちゆうじやう重衡被斬、平家無残亡、山陽、山陰せんいん、四国、九国、静也ければ、国は国司に随、庄は領家の儘也ければ、都鄙の上下安堵せり。
 同七月九日午刻大地震なり。
 良久振て夥おびたたしなど云も愚也。
 同おなじき十二日に又地震あり。
 九日にはなほ超過せり。
 赤県中、白川の側、六勝寺、九重塔より始て、破傾き倒崩、大内中堂ちゆうだうの廻廊、園城寺をんじやうじの廻廊、法勝寺ほつしようじ阿弥陀堂も顛倒しけり。
 神社仏閣も如此なりければ、増て人屋の全きは一宇もなし。
 根本中堂こんぼんちゆうだうの常燈も、三燈は消にけり。
 大師手自石火を敲出して、炬し給へる一燈は不消けり。
 法滅の期には非ずして、臨時の災と覚えたり。
 同おなじき十四日に弥益々々震けり。
 堂舎の崩るゝ音雷の鳴が如し。
 塵灰の揚る事は煙を立たるに似たり。
 天闇光失、地裂山崩れければ、老少男女肝を消し、禽獣鳥類度を迷す。
 こは如何に成ぬる世中ぞやとて喚叫、被圧殺者もあり、被打損人も多し。
 近国も遠国も如此なりければ、山崩て河を埋、海傾浸浜、石巌破谷にころび、樹木倒て道を塞げり。
 洪水漲来ば岡に登ても助り、猛火燃近付ば河を阻ても生なん、只悲かりけるは大地震也。
 鳥にあらざれば空をも不翔、竜にあらざれば雲にも難入、心憂しとぞ叫ける。
 主上鳳輦に召て、池の汀みぎはに御座ござあり。
 法皇は新熊野に有御参籠、御花進給けるが、人屋の倒けるに、人多く被打殺、触穢出来にければ、御参籠の日数不満けれ共、六条殿へ有還御
 天文博士参集て、占文不軽と騒申。
 今夜は南庭に仮屋を立て御座ござあり。
 諸宮諸院卿上けいしやう雲客うんかくの亭共も倒れ傾ける上、隙なく震ければ、車に召船に乗てぞ御座おはしましける。
 有公卿くぎやう僉議せんぎ、可祈祷之由、諸寺諸山に仰す。
 今夜の亥子丑寅時は、大地可打返と占申たりと云て、家中に居たる者は上下一人もなし。
 蔀遣戸を放ちて大庭に敷、竹の中、木の本にぞ居ける。
 天の鳴地の動度には、すはや只今ただいまこそ地を打返せと云て、女は夫に取付、少者は親祖父に懐付、貴賎上下高に阿弥陀仏あみだぶつを申ければ、所々の声々夥おびたたし。
 八十九十の者共、未懸事は不覚とぞ申ける。
 余に少者年闌たる老人は、目眩心地損ずなど云て、被振殺者多し。
 謹で釈尊出世の時分を考るに、正像各一千年、末法一万年の其後こそ世は滅すべしなどいへば、後冷泉院の永承年中に末法に入て、僅わづかに百三十さんじふ余年也。
 遉今日明日とは不思つる者をとて、長きが泣をめきければ、若き者も音を立て叫。
 叫喚大叫喚の罪人も、角やと覚て夥おびたたし。
 文徳天皇てんわう斉衡三年三月、朱雀院天慶元年四月に、大地震ありと注せり。
 天慶には主上御殿を避給たまひて、常寧殿の前に五丈の幄を立て渡らせ給けり。
 四月十五日より八月に至迄、打列震ければ、上下家中に不安堵と伝たれ共、其は見ぬ事なればいかゞはせん、今度の地震は上古末代類あらじと貴賎騒歎けり。
 平家の死霊にて世の可滅由申合り。
 昔も今も怨霊は怖き事也。
 蚤の息天に上と云事も有ぞかし。
 況万乗の聖主、玉体を西海の波底に沈、三公の忠臣、屍骸を北闕の獄門に懸たり。
 其外卿上けいしやう雲客うんかく、衛府諸司しよし、有官無官むくわん、軍兵士卒、男女老少、生霊死霊、怖し/\。
 就なかんづく異国の例はそも不知、本朝には昔より為卿相けいしやう人、生ても死ても、大路を渡曝頸於獄門事なし。
 世中いかゞ成立んと申けり。

源氏等げんじら受領附義経任伊予守

 同八月十四日に、被除目
 源氏六人受領す。
 平氏追討賞とぞ聞えし。
 志田三郎先生義憲、任伊豆守いづのかみ
 大内冠者維義越中守、上総太郎義兼上総介、加々美次郎遠光信濃守、遠江守義宗が男、兵衛尉義助越後守、九郎大夫判官たいふはうぐわん伊予守に任じけり。
 鎌倉源二位挙申に依也。
 大夫判官たいふはうぐわんは伊予守を賜はる上、院御厩の別当に成て、京の守護に候へとて、侍十人付られたり。
 判官思ひけるは、義経度々合戦に命を捨て、既すでに世の乱を鎮父の敵を亡す、私の宿意と云ながら国家の固也、これ莫大軍功に非や、而に関より東は云に及ず、京より西をばたばんずらんと思ひつるに、僅わづかに伊予一国没官の地、二十箇所知行せよとの源二位の所存、無本意と思けれ共、但重て思計ふ様ありなんと過ける程に、僅付たりける十人の侍も、兼て心を合たりければ、親の所労子の病悩など云て、皆東国へ逃下にけり。
 判官いとゞ不意得思ける程に、源二位判官を討んとて、関東に様々の計ありと、はと京都に披露ありぬ。
 何事のあらんずるやらんと、貴賎此彼にさゝめき合へり。
 建礼門院けんれいもんゐんは西国さいこくより上り、吉田にも仮に立入せ給と思召おぼしめしけれ共、五月も立六月も半過ぬ。
 今日迄もながらへさせ給べしと不思召おぼしめさざりけれ共、御命は限あれば、明ぬ暮ぬとしけるに、大臣殿父子の首、被大路獄門、本三位中将ほんざんみのちゆうじやうは奈良坂にて被切て、卒都婆に付てさらさる。
 彼人々の今は限に成給へる有様ありさま、人参てこま/゛\と申ければ、女院は御むねせきて、御涙おんなみだせきあへさせ給はず、しばしつや/\物をだにも不仰けり。
 良在て、此人々帰上と聞召しかば、甲斐なき命計は助りぬるにやと思召おぼしめしけるこそ愚に思ひ侍れ、露の命消やらで、斯憂事を聞こそ責ての罪の報なれ、都近かりけるばかり心憂かりける事はあらじ、折に触時に随て、驚耳心を迷はすも、さすが生る身は口惜き事も多かりけり。
 露の命風を待らん程も、深山しんざんの奥の奥に思入ばやと思召おぼしめしけれ共、去べき便なくて過させ給けるに、さらぬだに住荒したる朽坊の、度々の地震に築地崩門も倒れぬ、いとゞ住せ給ふべき御有様おんありさまにも見えさせ給はず、憑もしき人一人も侍らず、地打返すべしなど聞召は、可惜御命にはなけれ共、只尋常の御事にて、消入ばやとぞ思召おぼしめされける。
 緑衣の監使宮門を守るもなく、伴の御奴朝浄するもなし。
 心の儘に荒たる籬は、滋き野辺よりも猶露繁く、折知がほにいつしか虫の声々怨むも、我身の上とぞ思召おぼしめす
 秋も既すでに半に欲す、夜もやう/\長くなる儘に、いとゞ御寝覚がちなれば、明し兼させ給けるぞ哀なる。
<八月十七日じふしちにちに改元有りて文治と云。>

勢巻 第四十六
南都御幸大仏開眼附時忠流罪忠快免事

 文治元年八月二十七日にじふしちにち、法皇南都へ有御幸
 公卿には花山院大納言だいなごん兼雅、堤中納言朝方、中山中納言頼実、衣笠中納言定能、吉田中納言経房、民部卿成範、藤宰相親信、平宰相へいざいしやう親宗、大蔵卿おほくらのきやう泰経、殿上人てんじやうびとには雅方朝臣以下、皆著浄衣供奉けり。
 伊予守義経、同著浄衣候す。
 御後随兵六十騎ろくじつきを相具せり。
 同おなじき二十八日にじふはちにち、大仏開眼あり。
 亥刻に法皇有臨幸けり。
 左大臣経宗、権大納言ごんだいなごん宗家卿以下被参入けり。
 開眼師は僧正そうじやう定遍、呪願は僧正そうじやう信円、導師は大僧都だいそうづ覚憲也。
 同晦日弁暁権少僧都ごんのせうそうづに被仰けり。
 開眼師定遍僧正そうじやう賞譲とぞ聞えし。
 同九月二十三日、前平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやうは、追立使信盛承て、能登国鈴御崎へ遣す。
 子息讃岐中将時実は、公朝が沙汰として周防国へ下す。
 平家僧俗の虜共、去五月に、配所を国々に被定ける内なり。
 父子後を合せ、西北境を隔つゝ、波路に流、雪中に赴けるこそ哀なれ。
 時忠卿ときただのきやう建礼門院けんれいもんゐんへ被申けるは、今は有甲斐無身に侍れ共、近く候て御鍾事をも承度侍るに、責ての罪重くして、今日都を罷出て、越路の旅に趣侍り、身の有様ありさま心中、只推量せ給べし、又いかなる御有様おんありさまにてか御座おはしまさんずらんと奉思置こそ行空も覚え侍らね、参りて今一度奉見度侍れども、心に任ぬ身不力など、細かに被申たり。
 女院聞召きこしめして、此人ばかりこそ昔の遺とて御座おはしましつるに、さては遠国へ赴き給らんこそ悲けれ、逢見る事はなく共、都の中にありと聞召ば、憑敷こそ思召おぼしめしつるに、死ても別生ても別なん事こそと、いとゞ掻くらす御心地おんここち成ければ、坐に御涙おんなみだぞすゝみける。
 彼時忠と申は、出羽前司知信が孫、兵部権大輔たいふ時信息男也。
 故建春門院けんしゆんもんゐんの御しうとにて御座おはしまししかば、高倉上皇には御外戚也。
 唐楊貴妃、玄宗皇帝に幸し時、しうと楊国忠が栄しが如し。
 八条二位殿にゐどのも妹にて御座おはしまししかば、太政だいじやう入道にふだうには兄公也、建礼門院けんれいもんゐんには伯父也。
 世覚時のきら目出かりき。
 されば兼官兼職心に任、富貴ふつき栄花思の如。
 位正二位しやうにゐ、官大納言だいなごんに至り、子息時実時家中少将に成にき。
 太政だいじやう入道にふだう万事申合つゝ、天下を我儘に執行ければ、時の人平関白へいくわんばくとぞ申ける。
 検非違使けんびゐし別当にも三箇度さんがどまで成りけり、無先例事也。
 今暫も平家世にあらば、大臣は疑なからまし。
 此人心猛理つよに御座おはしましければ、庁務の時も様々の事張行て、強盗二十八人にじふはちにんが右の手を切給けり。
 昔悪別当恒成と云ける人こそ強盗の頸をば切りたりとも伝たれ。
 西国さいこくに御座時も、院より召次を被下。
 帝王并三種神器、都へ奉返入と仰遣たりしに、院使花方が頬に浪方と云火印を指、是は汝をするには非ずと申けり。
 法皇を申けるにや。
 故女院御ゆかりなれば、平家の一門悉官職を止られしか共、此卿父子をば不停止、帰上給へば可宥なれ共、懸る悪事を思召おぼしめし忘させ給はず、伊予守と親く成て其好深ければ、流罪をも申宥んと思けれ共、法皇の御気色おんきしよくも悪、源二位も免しなければ力及ず。
 軍の先をば不蒐ども、謀を惟幄の中に廻らし、兵を敵陣の前に勇る事、偏ひとへに此人の結構けつこうなれば理なり。
 年闌齢傾きて妻子にも別れ、見送る人もなくて遠境に被遷けん心の中こそ無慙なれ。
 遥はるかに西海の波の底を免て、遂に北国の雪中に埋れけるこそ宿習とは云ながら哀には覚ゆれ。
 北方帥佐殿そつのすけどのは、何事も思入たる人にて、心づよく翫給へ共、遉遺の惜ければ、忍音にて泣給へば、其腹に今年十四になる息男あり。
 尾張侍従時宗と云。
 不なのめならず糸惜がり給けり。
 是を見置給たまひて、還様知ず遠国赴事よと泣歎給へば、侍従も同道にと宣へ共、免しなければ其甲斐なし。
 既すでに都を出給、関山関寺打過て、志賀の故郷唐崎や、浦路に駒をぞ進めける。
 日吉社を顧ては、南無なむ帰命頂礼きみやうちやうらい七社しちしやの権現、願再故郷に返入給へと心計に祈念して、菜岡社を過ぎ給へば、比良の高峯に風寒て、湖水に波繁かりけり。
 蜑の釣舟波の上に漕つれて、網に懸れる魚難遁を見給にも、我身の上と哀也。
 浦人にこゝをば何所と云ぞと問給ふ。
 是こそ名にしおふ比良のすそ野の、竪田浦と申ければ、時忠卿ときただのきやう涙ぐみて、
  帰りこん事も竪田に引網のめにあまりたる我涙かな
と最哀にぞ聞えける。
 其より湖水漫々と見渡して、浦々宿々しゆくじゆく打過つゝ、敦賀の中山遥々はるばると、木間を分、岩根を伝て下けり。
 いつしか打時雨つゝ、嵐烈しては膚を徹し、木葉狼藉しては道を埋、荒乳山、木辺峠を越行ば、越の初雪踏分て、燧山、柚尾坂、越前国分、金津宿、蓮池、細呂宜山を越過て、加賀国須川社を拝しつゝ、篠原、安宅打過ぎて、日数ふれば能登国鈴の御崎に著き給。
 立渡見給へば、岩間に生たる浜松の、岸打波に顕れて、其根あらはに有けるを見給たまひて、浮名を流す旅の空、打解寝入給はねば、我身の思になぞらへて、
  白波の打驚す岩の上にねいらで松の幾世へぬらん
 いとあはれにぞ聞えし。
 門脇かどわきの中納言ちゆうなごん教盛卿のりもりのきやうの子息、中納言律師忠快も、配所を飛騨国に定められて、検非違使けんびゐし久世が許に被預置たりけるに、自鎌倉源二位家関東へ下給ふべしとて、袖かさたる四方輿に、力者りきしや十二人、并道の用心にとて、兵士あまた被上たり。
 こは何事ぞ、流人に定められたる者の、迎の体こそ難意得けれと、上下おもはずに思へり。
 律師も最不思議に思て、余あまりの事なれば、若人違にやと宣へ共、二位家の消息せうそくに、急可下向、可見参子細侍と判形し給へる分明の状成りければ、関東へ下給けり。
 近江国鏡宿より始て、宿々しゆくじゆくの設共丁寧也。
 既すでに鎌倉に下著して、角と申入たりければ、二位殿にゐどの急見参して宣のたまひけるは、先御下向悦存し侍、抑御本尊に、地蔵菩薩ぢざうぼさつや安置し給へると被問けり。
 律師さる事候と答。
 其本尊片手や折給へると宣へば、御手の折させ給へるとは不覚、奉久納、遥はるかに不拝、則これに持て奉れりとて、錦の御舎利袋より、紫檀を以造て、金銀を以かざりたる厨子を取出して、御戸を開て拝せ奉給へば、仏の荘厳心も言も及ばず。
 瑪瑙の地盤に、紺瑠璃を以て伽羅陀山をたたみ、水晶の花実に、琥珀の蓮華を葺けり。
 其上二三寸の地蔵菩薩ぢざうぼさつを安置せり。
 右に黄金の錫杖を突、左に如意宝珠を持給へるが、うでくび折懸りてぞ御座おはしましける。
 二位殿にゐどの之、はら/\と涙を流し、五体を地に抛入礼し給ふ。
 因幡守弘基を召て、厳重殊勝の御仏、拝給へと被仰ければ、弘基同拝をなす処に、二位殿にゐどの物語ものがたりに宣はく、去比有霊夢、錫杖つきたる貴僧の容貌うつくしきが、我枕上に立給たまひて、平家門脇かどわきの中納言ちゆうなごんの子息、律師忠快と申をば、此僧に免し給へかし、年来深く我を相憑める僧に侍り、不便に覚ゆと被仰しを、夢の心地に、此御房は地蔵よなど意得たりしかば、承候ぬと申聞給たまひ、返々本意也とて御飾つくろはせ給ふが、左の御手の折れ給へるをよに痛気にせさせ給と奉見間に、あの御手はいかにと問申せば、西海の船にて、忠快を助け乗せんとせし時に、左の手をあやまりてと仰すと示現を蒙る、末代なれ共加様に威験の御座おはしましける御信心の程こそ目出貴けれと宣へば、弘基も感涙を流して、難有御事にこそと申けり。
 律師宣のたまひけるは、都を出て三年、宿定らぬ旅なれば、心閑に奉相好隙も候はず、されば御手の折給へるも争か存知候べき、御尋おんたづねにつきて候はずば、何としてか左様に御渡り候べきと、よに不審に候つるに、御夢に思合する事候。
 先帝太宰府に御座おはしましし時、尾形三郎維義が三万さんまん余騎よきにて責来しに、奉主上、周章あわて騒船に乗候しに、悪様に乗て、已水に入ぬべく侍しを、下僧の一人来て助乗せて後に、忠快は船にあり、下僧は陸に立て、右手を以て左の腕を拘たりしを、あれは如何にと問ば、悪様に参て手を損じて候へども、事闕候はじと申しを、汝は誰人の共ぞと尋しかども、船は急漕出。
 人は多く阻し程に、返事を聞事もなかりき。
 今の御夢相を承るに、はや是ぞ地蔵の御助にてと、語りも終ず衣の袖を絞りけり。
 二位殿にゐどのもいとゞ帰依の涙を流し給ふ。
 二位家の北方も、簾中にして聞之拝給、信心骨髄に徹し、衣小袖を取出して、殊更供養有ければ、女房達にようばうたちも取渡々々奉拝。
 小袖、染物、鏡、手箱等しな/゛\奉。
 二位殿にゐどのも、砂金百両、巻絹百端、馬三匹を被引ける也。
 十二間の内侍外侍に候ける大名も小名も、馬鞍、鷲羽、鷹羽、衣、染物、取寄々々供養しければ、誠に一の法事とぞ見えたりける。
 則仏師を被召御手をつぎ奉る。
 鎌倉中の貴賎男女競来りて、礼拝供養する事市をなせるが如し。
 偖二位殿にゐどののたまひけるは、都へ帰上給べきか、鎌倉に被坐よかし、縦何所に御座おはしまし候とも、頼朝よりともが生たらん程は、如何にも不粗略と聞えければ、律師は、懸浮者に成ぬれば、いづくにも侍べけれ共、花洛の東山なる所に、一人の老母候が自が外は憑む方なく候へば、罷上度存候。
 其上静ならん処に隠居して、練行の功をも積度侍り、此事本望に候へばとて、鎌倉を出給けり。
 本知行の領、一所も違ず有ける上に、地蔵菩薩ぢざうぼさつ供養の布施物の外、種々しゆじゆの引出物たびけり。
 只非流罪、依信力恩徳、大徳付てぞ上給。
 既すでに上洛有けるに、二位殿にゐどのより角書送り給けり。
  みちのくの里は遥はるかに遠くとも書尽してぞつぼの石ぶみ
 地蔵菩薩ぢざうぼさつの大悲代苦の悲願憑敷哉忠快は、西海の波上にしては沈べき命を済れ、東路の旅の空にしては、難遁身を被助たり。

女院入寂光院

 同おなじき二十八日にじふはちにち、建礼門院けんれいもんゐん、大原おほはらの奥に寂光院と云ふ所へ入せ給けり。
 都近しては心憂事のみ聞召ば、片山陰かたやまかげの柴庵なりとも、御心閑にと日比ひごろ思召おぼしめしけるに、ある女房のゆかりにて角と申ければ、嬉き事にこそとて思立せ給けり。
 冷泉大納言だいなごん隆房たかふさの北方は御妹にておはしければ、御輿などは被進けり。
 大方も西海より御上の後は、様々に被訪申けり。
 此人の憐にて、角有べしとは兼ても不思者をとて、難有さも嬉さも、人わるきまでにおぼし知られけるに付ても、御涙おんなみだをぞ流させ給ける。
 いと人も不通谷道を、遥々はるばると分入せ給へば、山陰やまかげなればにや日も既すでに暮なんとす。
 道芝深く茂りつゝ、分入御袖も露滋して、思召おぼしめし残す事一もなし。
 西山の麓北谷奥に寂光院と云堂あり。
 其傍に怪げなる庵室有、年へにけりと覚て痛荒たり。
 彼へぞ移せ給ける。
 古にける石の色、落来水の音、緑蘿窓を閉紅葉道を埋り。
 絵に書共筆も及難ければ、由ある体にぞ御覧じける。
 いつしか空掻陰り打うちしぐれつゝ、木葉乱飛鹿の音軒に聞ゆ。
 嵐に伝ふ鐘の音、風に消行香煙、板間を漏る月光、窓に怨虫の声、何も無常の理を示、偏ひとへに有為の有様ありさまを顕せり。
 かゝらざらましかば、唯朝露の快楽に被覊、暮日の終焉を不知ましと思召おぼしめしつゞけて、仏前に詣給たまひて、出離生死頓証菩提と、突額奉拝給けるにも、先帝御面影、夢にも非現にもあらで御身に添ければ、御心迷ひて消入せ給ぬ。
 女房達にようばうたち拘奉り泣悲み給けるに、やゝ程経て後ぞ御心地おんここちも出来にける。

頼朝よりとも義経中違事

 伊予守義経、源二位頼朝よりともを背由、此彼にさゝやき合り。
 兄弟なる上に父子の契にて、殊に其好み深し。
 依これによつて去年正月に、木曾きそ義仲よしなかを追討せしより、重命捨身、度々平家を攻落して、今年終に亡果ぬ。
 一天鎮て四海澄ぬ。
 勲功無類、可恩賞深処に、如何なる子細にて懸るらんと上下怪をなす。
 此事は、去年八月に蒙使宣、同九月に五位大夫に成けるを、源二位に申合事なし、何事も頼朝よりともが計にこそ依べきに、仰なればとて不申合条自由也。
 又壇浦の軍敗て後、女院の御船に参会条狼藉也、又平へい大納言だいなごんの娘に相親む事無謂、旁不心宣て、打解まじき者也と被思けるに、梶原平三景時が、渡辺の船汰の時、逆櫓の口論を深遺恨と思ければ、折々をりをりに讒す。
 平家は皆亡ぬ、天下は君の御進退なるべし、但九郎大夫判官殿たいふはうぐわんどのばかりや世に立んと思召おぼしめし候らん、御心剛に謀勝給へり、被一谷いちのたに事鬼神の所為と覚えき、川尻の大風に船出給し事人の所行と覚えず、敵には向ふとは知て一足も不退、誠に大将軍哉と怖しき人にまします、尤の心え有べし、一定御敵とも成給ぬと存と申ければ、頼朝よりともも後いぶせく思なりとて、追討の心を挟給へり。
 三浦、佐々木、千葉、畠山等多く参集たりける中に、鎌倉殿かまくらどの仰けるは、九郎が心金は怖き者也、西国さいこく討手の大将軍に誰をか可立と思しかば、両三人を呼心根見んとて、提絃を焼て、手水かけて進せよと云しかば、始は蒲冠者参て手を焼、あと云て退ぬ。
 二番に小野冠者来て、是も手あつしとて除ぬ。
 三番に九郎冠者、白直垂に袖露結肩に懸て、彼焼たる提絃を取て、顔も損せず声も出さず、始より終まで、手水を懸通したる者也。
 あはれ是を今度の大将と思て、都へ上せ西国さいこくへ指下たれば、木曾と云平家と云、三年三月の戦に、九郎冠者先をのみ蒐けれ共、終にうす手一つも負ず、平家を誅罰して、天下を鎮たるは神妙しんべうなれ共、頼朝よりともにかさみて見ゆ。
 頼朝よりとも〔が〕父下野殿は平家討給ぬ、依当腹、十三歳の時六条川原にて可切と有しを、池尼御前の垂伏依申死罪を被宥、始は伊勢国いせのくに御座島にうつされ、是は都近とて、其より東路の末、伊豆国いづのくに北条蛭小島に移されて、廿一年さて過ぬ、軍功をいたして花洛へ責上たれ共、未昇殿をだにも免されざりき、何弟の身として、仙洞の御気色おんきしよくよければとて、頼朝よりともに不申合、推て五位尉になる事奇怪也、又立ふぢ打たる車に乗、禁中花色の振舞、以外に過分也、頼朝よりともにかさみて見ゆ、我を我と思はん人々、九郎冠者を打てたべと宣のたまひけれ共、閉口是非の返事申人なし。
 鎌倉殿かまくらどの良相待給へ共、無音の間腹立して、いや/\此中には誰々と云とも、梶原計ぞ侍らん、景時都に上て打て進せよと仰す。
 梶原心中に思けん、人の上に被仰事かなと存じたれば、身の上に懸れり、今度は景時遁ばやと思て御前に参、袂たもと掻合て、仰の旨なれば、東は駒の爪の通、西は艫棹の至らんまでも可攻に侍れ共、判官殿はうぐわんどのの討手に景時上洛、然べし共不覚、梶原罷上らば、今明の上洛不其意、義経に中悪き者也、追討使を所望して上にこそと被推量なば、還て逆打に討れぬと覚候、人を不損して敵を亡こそよき謀にて候へば、只思懸なからん人に被仰付たばかりて安々と討給へと申して、辞退申して出ぬ。
 秩父、河越、三浦、鎌倉、高家も党も、不悪者こそ無けれ。
 鎌倉殿かまくらどの良案じて、土佐房昌俊を召て事の心を被仰含、九郎を討て進よ、大名などを指上ば、さる者にて心得こころえぬと覚ゆ、和僧は本奈良法師なれば、七大寺詣と可事寄と仰す。
 仰承て即御前を立ぬ。
 此昌俊と云は、本大和国やまとのくにの住人ぢゆうにんなるうへ奈良法師也。
 当国に針庄とて西金堂の御油料所あり。
 不慮の沙汰出来て、当庄代官小河四郎遠忠と云者が、西金堂衆に敵して、興福寺こうぶくじの上綱に侍従律師快尊を相語て、年貢所当を打止間、堂衆又昌俊を語ひて大勢を引率し、針庄に推寄て遠忠を夜討にす。
 快尊又大衆を語ひて、土佐房を追籠て、春日神木をかざり洛中へ奉振入、昌俊を可禁獄之由、為奏聞
 大衆発向之処に、昌俊数多凶徒等きようとらを卒して、衆徒会合を追払、春日神木を奉伐捨
 大衆憤深して、就天奏昌俊を召けれども、敢て不勅、依これによつて衆徒之訴訟雖鬱深、両方の理非未聞召開、急企参洛道理者、可聖断之由。
 被宥仰下ければ、昌俊即上洛す。
 可召誡之旨仰別当兼忠
 昌俊を召捕て、大番衆土肥次郎実平に被預けり。
 月日を送りける程に、心様甲斐甲斐敷者なりければ、実平に親くなりぬ。
 随又公家にも御無沙汰なりけれ共、南都は敵人強ければ、還住せん事難治にて、実平に相具して関東に下、兵衛佐殿ひやうゑのすけどのに奉公す。
 心際不覚なしとて、身を不放召仕給けり。
 兵衛佐ひやうゑのすけ治承の謀反の時、昌俊二文字に結び雁の旗を賜たりけるとかや、去ば本南都の者なり。
 七大寺詣と号して指上す。

土佐房上洛事

 同おなじき二十九日に、土佐房鎌倉を立て、十月十一日に京著、佐女牛町に宿を取。
 義経が宿所中四町を隔たり。
 昌俊上洛と聞ども源二位の状なし、昌俊不見来、伊予守子細を存ぜり。
 同おなじき十月十七日じふしちにちに、伊予守義経、大蔵卿おほくらのきやう泰経を以申入けるは、命糸綸千里之路、交矢石万死之命、討平氏父恥、偏ひとへに義経功也、我君争不抽賞哉、頼朝よりとも又可殊恩之処に、悉奪取所領之上、忽たちまちに欲誅殺之間、進退失歩、前後迷度。
 枉下賜官府、暫欲身命、若無勅許者、早可自害と申ける。
 詞中に奥旨ありければ、法皇殊驚思召おぼしめして人々に被仰合けり。
 義経上洛の後、北国の凶徒きようとを誅して洛中安堵し、西海の逆賊を亡して天下静謐せり、随所望頼朝よりともが憤憚あり、背彼命義経可恨、いかゞ有べきと。
 左大臣経宗被申けるは、為其難、云平将義仲よしなか、皆任申謂、被成下畢、限今度惜無益歟、後日に頼朝よりともに被謝仰、何胎腹心哉と被計申ければ、従二位じゆにゐ源朝臣頼朝卿よりとものきやうを可追討之由、被官府ける上、九国四国之勇士、可義経行家下知、兼又不国衙こくが庄園、可調庸之由、被下庁下文けり。
 同日に伊予守土佐房を召す。
 随召昌俊参。
 いかに何事に上洛ぞ、など又音信おとづれは無ぞと問。
 昌俊畏て、且被知召たる様に、本奈良の者にて候が、宿願事侍れ共、近年源平の合戦に打紛て不其願、彼を果さん為に、七大寺詣の志候て罷上て候、明日罷立候間、取乱候へば、奈良より罷上て、心静にと相存ずるに候と申。
 伊予守嘲咲て、和僧が上洛全非七大寺詣、義経夜討料也、大名などを上せば、九郎用心して天下煩にも成なん、又逃隠事も有べし、和僧奈良法師也、事を七大寺詣と披露して義経討との謀ぞや、和僧、源平糸を乱せるが如く、士卒似蜂起、然共義経上洛後、両年間に亡凶徒きようと海内、夜討にせんと思寄条頑也、即雖召誡、和僧が勝に乗ざる前に、義経手を出ならば、兼て臆病也と後の世までも及口遊事似恥、且又舎兄源二位の使也、争可芳心、随召参上神妙しんべうと云。
 土佐房陳申て云、全其義侍らず、為不審起請文を書進せんと云。
 伊予守は、起請を書たればとて不実、其上事和僧が心任よといへば、昌俊其辺より、熊野牛王尋出して、其裏に上天下界神祇奉勧請、起請文書灰に焼て呑、宿所に帰て思けるは、起請は書たれ共、今夜不計ば悪かりなんと思て、夜討支度しけり。
 伊予守は、其比磯禅師が娘、禅と云白拍子を思けり。
 女に語て云、此晩程よりいと心騒頻也。
 一定昼の起請法師が夜討に寄んと思ふなりといへば、禅、大路は塵灰立て、何となく人足いそがし、不打解給と申。
 太政だいじやう入道にふだうの禿童を二人召仕ければ、土佐房が宿所見て帰れとて、彼を遣侍共々々不見。
 亥時終程に半物を召て、日比ひごろの寝夫を尋る由にて遣之。
 十七日じふしちにちの夜半の事なれば、月は隈なく照たり。
 女程なく帰て大息突申けるは、御使禿童と覚しきは、二人ながら土佐房が宿所の小門に死臥たり、暁大仏詣とて、大庭に大幕引、其中に鞍置馬四五十匹ばかり引立たり、鎧物具もののぐ身に取付て手綱を把、鞍に手打懸て、只今ただいま乗んずる様に候と云ぞ遅き、土佐房昌俊并児玉党等六十余騎よき、十七日じふしちにち子刻に、伊予守義経の六条堀川ほりかはの宿所に押寄て、時の声を発す。
 館内には不処事なれば、義経を始として纔わづか七騎ぞ有ける。
 伊予守時声を聞、さればこそ起請法師が所為也、但其僧は尤からず、何事か有べきとてちとも不騒。
 禅、者をばあなどるまじき事也とて、冑を取て打懸、灸治し乱て労の折節をりふし成けれ共、鎧小具足取付て、縁の際に立出て、門を開と下知す。
 舎人馬を待儲たり。
 義経馬に乗て蒐出。
 今日近来、日本国につぽんごくに誰かは義経を思懸べき、況昌俊法師をや、あますな者共とて、竪横散々さんざんに蒐ければ、木葉を嵐の吹様に、さと左右へぞ散たりける。
 伊予守、引退て指詰々々射ければあだ矢なし、寄手も矢前やさきを汰へて射けり。
 源八兵衛尉広綱は、内甲を鉢付の板に射付られて、馬より落て死にけり。
 熊井太郎は、膝節いさせて死生不定也。
 義経敵の中に懸入て、あますな射取れと下知しける上、郎等共らうどうども此彼より馳集ければ、昌俊が軍敗て、河原を指て逃走る。
 行家此事を聞馳来ければ、夜討の党類弥四方に敗散。
 昌俊は川原を上に落けるを、其僧あますな若党とて、義経は暁天に院ゐんの御所ごしよへ馳参ず。
 甲の上に矢多く折懸たり。
 胡籙やなぐひに矢纔わづかに三筋ぞ残たりける。
 猛将の条は人の所知、世の所免なれ共、其気色実にゆゝしかりければ、人称美しあへり。
 昌俊は大原路おほはらぢにかゝり、竜華厳を志、北山を指て落けるが、軍兵二手三手みてにさし廻し、先を切て延やらず、昌俊大原おほはらより薬王坂を越、鞍馬山に逃籠。
 伊予守児童の時、当時居住の好ありて、大衆法師原ほふしばら、山踏して尋ける程に、鞍馬奥僧正そうじやうが谷と云所にて搦捕、伊予守に奉。
 大庭に引居て、いかに和僧は、腹黒なしと起請書ながら、加様の結構けつこうをば巧けるぞ、冥覧在頂、神罰不踵、奇怪々々と云ければ、土佐房今は助るべき身に非と思て及悪口
 夜討は二位家の結構けつこう、起請は昌俊が私の所作也、必しも非冥罰、只自然の運の尽にこそ、互に其期あるべきと云。
 伊予守腹を立て、しや頬打とて、つらを打せたりければ、昌俊不面不顔、只飽まで打給へ/\、昌俊が顔我つらにあらず、是は源二位家の御頬也、此代には又鎌倉殿かまくらどの、伊予守殿の顔を打給はんずれば、思合給はんずらんと申す。
 伊予守から/\と打笑つて、和僧が志誠に神妙しんべう也、主を憑むと云は角こそ有べけれ、召人なれ共、土肥が親く成けるは宣く理なりと感じて、命惜くば助ん、二位殿にゐどのへ参れと云ければ、昌俊取替もなき命を奉て、鎌倉を立し日より、生て可帰と不存、夜討し損じ虜れぬる上は、非申請、芳恩には急頭をめせと申。
 伊予守以下侍共感じ申けり。
 さらば切れとて、六条川原に引出して、京者の中務丞友国と云者切てけり。
 伊予守二位家よりあまた人を付たりける内、安達新三郎清経と云雑色あり、下﨟なれ共能者也。
 旗指にせよとて付られたりけれ共、実には、九郎冠者謀叛をも発頼朝よりともを背ば、急告よとの検見けんみの使也ければ、土佐房が被討を見て、清経其暁鎌倉へ逃下て、二位殿にゐどのに角と申ければ、あゝ九郎は頼朝よりともが敵にはよく成にけり。
 今は憚るべからずとて、弟に三河守範頼を大将軍にて、六万騎の兵を相副て、可上洛之由被申ければ、範頼既すでに出立て、小具足計にて、熊王丸に甲持せて二位殿にゐどのに見参し給ふ。
 和殿とても非打解、九郎が様に二の舞もやと存ずれば、上洛事暫可相計と宣ふ。
 三河守小具足解置、努々不其義、可起請仕とて、不背之由、梵天帝釈下奉て、百日に百枚之起請文を書上たれ共不用して、範頼暫被宥けり。
 為義経誅戮、北条四郎時政、土肥次郎実平、可上洛之由有評定

高直被斬並義経申庁下文附義経惜女遣

 同おなじき十一月一日肥後国住人ぢゆうにん原田大夫高直被切けり。
 是は此三箇年の間平家に付て、度々合戦に勲功ありしかども、平家滅亡之後は安堵し難うして、命ばかりもやと思て、頸を延て降人に下たりけれども、源家敵対の罪科難遁とて、かく被行けり。
 同おなじき二日伊予守義経、法皇の御所六条殿に参ず。
 何となく見人上下恐を成してひそまる気色なりけるに、思よりも閑にして、忍やかに大蔵卿おほくらのきやう泰経朝臣に案内したりければ、出合有対面けるに、義経畏て申様、源二位頼朝よりともが度々の奉公をば忘れて、無由悪思事更に不其意、無其誤由聞や直すと思候へども、弥にこそ承侍也、今は思切て京都にて如何にも可成候に、君の御為にも人為にも煩あるべし、西国さいこくの方へ可罷下由思立侍り、可然は豊後国住人ぢゆうにん惟妙、惟義等が許へ、始終見放さず可合力由、院庁御下文申給候なんや、宸襟を奉休、度々の軍功争可思召おぼしめし、最後所望唯此事に侍と掻詢かきくどき申ければ、泰経奏聞す。
 法皇聞召、御進退の間思召おぼしめし煩て、即以泰経殿下に申る。
 左大臣に被仰、又蔵人左少弁くらんどのさせうべん定長さだながを御使にて右大臣に仰す。
 各計申されけるは、洛中にて合戦に及ば、朝家の御大事おんだいじも出来すべし、軍士を外土へ被出事穏事にこそと被奏申ければ、任申請庁御下文を被成にけり。
 義経畏つて賜之出ぬ。
 同日の夕べ夜に入て、義経最後の別を惜つゝ、女の許へ行けり。
 前平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやうの娘也。
 月比は志深通けれ共、源二位に中悪くなる由披露の後は、此女房にも不打解、平家を亡時忠を虜りたりしに、文箱を乞はん料に、不意情を籠しばかりなり。
 女成とも義経をばよき敵とこそ思らめなればとて、かれ/゛\に成たりけるが、都を落なん後は、再云通はさん事も有まじ、行て事の様をも見聞んと思て、忍て彼宿所の垣根にたゝずみ聞ければ、かたへの女房に物語ものがたりすとて、伊予守は源二位に中悪く成て、都を出べしと聞ゆ、世をつゝみて云事も無やらん、一夜の契疎ならず、遉積ぬる月日なれば難忍侍る、などや音信おとづれざるらん、うらめしくも人の心強面かりけりとて、
  つらからば我もろ共にさもあらでなど浮人の恋しかるらん
と打詠じてさめ/゛\と泣けり。
 伊予守聞之、心替りはなかりけりと哀に思ければ、今夜は爰ここに留て、以来向後の物語ものがたり、互に袖を絞ける。
 女房云けるは、母には死て別ぬ、父には生て別ぬ、無便身也、誰哀を懸べし共不思侍、可然先世契にこそ近付侍らめ、如何なる有様ありさまに御座とも相具し給へと歎給たまひけり。
 伊予守は、実にさるべきにこそ侍れ共、義経源二位に中違ぬる上は、日本国につぽんごく誰か敵にあらざるべき、今は身一の置所おきどころなければ、何方へも可落忍、如何ならん末代までもとこそ思侍しに、心に任ぬ身の憂さよ、奉留置後、いかならんと兼て思こそ心苦しけれとて、衣々になる暁の空、出るも留るも、さこそ遺は惜かりけめ。

義経行家出都並義経始終有様ありさま

 同三日卯時に、義経院ゐんの御所ごしよ六条殿に参て大庭に跪き、事の由を奏す。
 赤地錦の直垂に、萌黄の糸威の鎧を著たり。
 よろづを慎て、都鄙の逆党を平て一天の安全をなす、義経有勲功邪返、爰ここに頼朝よりとも軍兵を指上て追討の企を起す、速に時政、実平を待得て雖雌雄、都煩人歎たるべし、依これによつて只今ただいま洛中を罷出処也、今一度可竜顔由雖相存、其体異形也、非其恐、命存へん程は、当時と云向後と云、更不勅定と申たりければ、聞之人々、或憐或惜けり。
 即罷出けれ共、少も人の煩をなさず。
 備前守行家、同打具して都を出。
 彼此が軍兵、見人数へければ三百騎さんびやくきぞ有ける。
 凡義経京中守護間、有威不猛、有忠無私、深不叡慮、遍相叶人望ければ、貴賎上下惜み合りけるに、懸事出来たれば、男女大小歎けり。
 今度の奏聞次第の所行、荘士の法を不乱ければ、生ては被嘆死ては被忍けり。
 八幡の伏拝の所にて、義経馬より下おり、かぶとをぬぎ、弓脇に挟て跪き申けるは、忝八幡大菩薩はちまんだいぼさつは源氏氏神とならせ給ふ、本意を申せば、高祖父頼義らいぎ夢告、怪傀儡腹に男子をなす、則八幡の宮に奉て、八幡太郎はちまんたらうと世に申伝たり、一天の固として鎮四海、而を近年平家の逆乱さかりになりし間、源氏跡を失事二十一年也。
 今又平家の宿運尽て源家世を取、中に木曾冠者きそのくわんじや義仲よしなか、朝威を軽しめ過分の故に、義経手を下して義仲よしなかを誅す、是義経が奉公の始なり。
 加之四国九州に赴て、若干の平氏を誅戮し畢。
 此に雖誤無一レ犯、舎兄頼朝よりともが讒訴について、今義経行家都を罷出。
 譬ば岸の額に離根草、江頭に不繋舟の如し。
 一門一味にして世をとりし平家も、運尽る日は一人もなし。
 賢しといへ共、頼朝よりとも心狭くして、一人世を知んと思事、神慮実に難測、大菩薩だいぼさつはいかゞ守らせ給らん、今は今生の望候はず、本地弥陀にておはすなれば、後生をば助給へとて、指を折て南無なむ阿弥陀仏あみだぶつと百返計申て、立様に口ずさみけるは、
  思より友をうしなふ源の家にはあるじ有べくもなし
と云、合掌伏拝て立程に、伊予守義経備前守行家、源二位に中悪くて、時政実平討手の使として上洛の間、両人西国さいこくへ落下と披露有ければ、関東の聞えを恐れ、源二位に志ある在京の武士、馳重馳重是を射けれ共、散々さんざんに蹴破て西を指て落行。
 摂津国つのくに源氏多田ただの蔵人行綱、大田太郎、豊島冠者等千余騎よきの勢を引具し、当国中小溝と云所にて陣を取、矢筈を揃て射けれども事共せず、追散して通にけり。
 大物が浜より船に乗て九国に下、尾形三郎惟義を憑て支へて見ん、其猶不叶ば、鬼界、高麗、新羅、百済までも落行んと思けれ共、折節をりふし十一月の事なる上、平家の怨霊や強けん、度々船を出けれども、波風荒うして、大物が浦、住吉すみよしの浜などに被打上て、今は不於出一レ船、敵の兵は追続々々に馳来。
 可遁様なかりければ、三百さんびやく余騎よきの者共も、思々に落にけり。
 義経、行家其行方を不知。
 都より相具したりける女房達にようばうたちも、此彼に被捨て、浜砂に袴を踏漉、松木の本に袖を片敷て泣臥たりけるを、其あたりの人憐みて、都の方へ送けり。
 白拍子二人、礒の禅師ばかりぞ義経に付て見ざりける。
 何者なにものか読たりけん、義経が宿所六条堀川ほりかはの門柱にかく、
  義経はさてもとみつる世中にいづくへつれて行家をさは
 同おなじき十二日、太宰権師経房卿奉仰て、美作みまさかの国司に仰けるは、源みなもとの義経同行家、巧反逆西海、去六日に於大物浜、忽逢逆風漂没之由、雖風聞、亡命之条非独疑、早く仰勢武勇之輩、尋捜山林河沢之間、不日に可進其身とぞ院宣を被下ける。
 昨日は依義経競望、可討頼朝卿よりとものきやう之由被宣旨、今日は恐頼朝よりとも威勢、可進義経、之由被院宣、朝に成て夕に敗、誰人か信綸言、何輩か帰勅命
 さればにや、成頼卿は好文章其性廉なり、親範卿は伝文書公事、各遁世為雲侶大原おほはらの幽澗
 隆季卿は雖素ざんの家、頗為文臣、早く以没す。
 長方卿は大才無双、文章相兼たり、殆不上古名臣、寄事於素意、剃落鬢髪
 悲哉君子道消て小人諍進ことを。
 最哀。
 彼義経と云は、母は九条院雑司常葉ぞかし。
 故下野守左馬頭さまのかみ義朝よしともに相具して、三人の男子をなす。
 義朝よしとも平治の兵乱に、云に甲斐なく成し後、大弐清盛きよもりの許より使を立て常葉を尋ければ、さ思つる事也、中々に逃隠ても悪かりなんとて、十歳に未満子共三人掻持て、泣々なくなく清盛きよもりに逢たりけり。
 容貌事様より始て、振舞心立に付て思増様なりければ、情ある女なりとて、清盛きよもり通ける程に、女一人儲たり。
 廊の御方とて、花山院内大臣ないだいじんの北方にて御座おはしましける。
 姉公こじうとの体に候はれけるは是也。
 清盛きよもり心に情ありて、彼継子三人を憐、中々に披露あるまじ、我子といはんとて、各法師になれとて、教訓しければ、常葉悦て、太郎をも法師になして、後には鎌倉の悪禅師といはれき。
 次郎をも僧に成て公暁と云き。
 三郎は義経ぞかし。
 稚より鞍馬寺に師仕せさせて、遮那王殿とぞ云ける。
 学文などせんと云事なし。
 只武勇を好て、弓箭、太刀、刀、飛越、力態などして谷峯を走、児共若輩招集て、碁双六隙なかりければ、師匠も持あつかひて過ける程に、十六に成ける時の正月に、師の僧の云けるやう、今は僧に成て父の後生をも弔給へかし、男にならんと思志なんどおはするか、さらば此世中に非御座、世になからんに取ては、男の義有べくもなしなんど、懇に語ける時、此児打笑て答様、僧は聖教を読学し、書籍を伝習たるぞさる様にてよけれ、加様の文盲の身にては、法師に成たり共非人にてこそあらめとて、いと心入なかりける気色を見て、此僧の申ける様は、人の果報は凡夫不知事也、如何にも覚さん儘に、はふ方へはひ給へとて、笑て止にけり。
 さて七八日、此児物思ふ様にて有ければ、彼師怪と思て慰けりとする程に、少くより持習たりし弓矢をとり、夜の間に児失にけり。
 東西尋けれ共、児みえず、母の常葉も同尋けり。
 其年の二月に、此師の弟子なりける僧の、尾張より上たりけるが、諸の物語ものがたり申ける次にや、実に不思議の事侍ふ、此に御座おはしませし遮那王殿こそ男になりて、金商人に具して奥の方へ下給しか、僻目ひがめかとて能々見しかば、いまだ金も落ずしておはしき、角みる事は夜の間なりき、去にても忍やかに物申さんと思て、忍に如何にやと申て候しかば、少し物はゆげに覚して、其事に侍、師御房の僧になすべき由懇に候し旨其謂候き、去共人間に生る間は難有と申ぞかし、如何にして父の恥をすゝがんと、年比鞍馬寺の毘沙門に祈申き、身の果報を天道に任進せて、東の方へ罷也、坂東に名ある者、一人として父祖父の家人ならぬはなしと承れば、去共様有なんと思て罷也、事の次でのあらん時、此由師の御房に語給へ、文なんどにては落散事もあり、必人伝ならでと語て、はら/\と涙を流し候しぞと語ければ、彼師も袖を絞つゝ、さらばさこそ宣ふべけれ、如何して其迄もかゝぐり付れけんとて、忍て母の許に行此由を云ければ、常葉手をあかひて、いや/\努々此事又人に語給ふな、空怖しとて止みにけり。
 其比伊勢いせのくにの住人ぢゆうにん江三郎義盛とて心猛者ありき。
 あたゝけ山にして、伯母聟に与権守と云けるを打殺したりし咎に被禁獄、赦免の後東国に落行て、上野国荒蒔郷に住ける時、旅人一人来て遊。
 義盛、我も本は旅人なりき、慰んと思て、何となくむつまじくて日比ひごろ遊けるに、いかにも直人共見えざりければ、不寂労りけり。
 又此旅人も、義盛をよき者と見てけり。
 互に馴遊て年月をふる程に、義盛が申様、我をば義盛と知給へるにや、殿をば誰共不知、今更可問、よも義盛が敵にては御座おはしませじと云ければ、旅人答様、人は家をば憑ず心をぞ憑む、見馴進せて久く成ぬ、是は父母もなし親類もなし、天より天降たる者成とて、上下なくて過しける程に、鎌倉にて、流人源兵衛佐ひやうゑのすけの謀叛を起してののしる由、まめやかに聞えける時、旅人義盛に云様、下人一人やとはかし給へ、四五日が程に帰すべし、年比の本意に侍りと有ければ、義盛是非の言なし、藤太冠者と云ける奴を召て、此殿に己をば奉る也、いかにも随仰へと云てけり。
 偖彼下人と此旅人と、懇に私語ささやき物語ものがたりして、通夜消息せうそくを書て、明る朝に出し立、旅の殿の教の儘に、藤太冠者は鎌倉に行付て、兵衛佐ひやうゑのすけの御座おはしましける館を徐に見て、輙く人の行至るべき様もなかりければ、身の毛竪て門にたゝずむ。
 暫しこそあれ、いつとなくたゝずむ程に、人々怪て、あれは何者なにものぞやと尋ありける時、懐より文を取出たり。
 暫ある程に返事を持て出て、いづら九郎御曹司の御使と呼けれ共、藤太冠者不意得して居たり。
 文を取次たる人出来て、あれこそはそよとて、藤太冠者を呼て返事をつらせつ。
 詞には疾々御渡り候へと申せとぞ云ける。
 藤太冠者胸はしりつつ、急帰て旅の殿に返事わたして、後に此有様ありさまを義盛に語に、志不浅つる上にむつまじくて、九郎御曹司と申てかしづき、主従の礼をなす。
 さて取物も不取敢様に出立て、義経鎌倉へ上る。
 義盛一の郎等たり、理なり。
 夜に入て鎌倉に著、明朝以義盛角と申入らる。
 兵衛佐ひやうゑのすけの返答に、只今ただいま急に侍り、夕方心閑に可申とあり。
 其程は義経義盛忍て宿にあり。
 戌の半計の時、兵衛佐ひやうゑのすけ使を義経の許へ立て被呼寄
 見参して鳥の鳴程に被出ぬ。
 又朝に指出られたりしより、いつしか又上もなき家の子也。
 義経木曾殿きそどの并に平家追討の為討手、京上の時は、伊勢三郎義盛とて先陣を打、西国さいこく屋島壇浦までも不相離、義経都を落ける時、義盛君の落著給へらば急ぎ可馳参と様々契申て、思様ありとて暇を乞て、故郷伊勢国いせのくにに下、其時の守護人、首藤四郎を伺討つ。
 国中こくぢゆうの武士追かゝりければ、義盛鈴鹿山に逃籠て戦けるが、敵は大勢也、矢種射尽して自害して失にけり。
 武蔵国住人ぢゆうにん河越太郎并一男小太郎被誅けり。
 是は故秩父権頭が次男の子ぞかし。
 然程に、義経都を落て金峰に登て、金王法橋が坊にて、具したりし白拍子二人舞せて、世を世ともせず二三日遊戯て、あゝさてのみ非有とて、白拍子を此より京へ返送とて、金王法橋に誂付て、年来の妻の局、河越太郎が女計を相具して下にけり。
 義経が舅子舅なるに依て角亡にけり。
 陸奥国権館、秀衡入道が許に尋付たりければ、造作して居侍つて過る程に、秀衡老死しぬ。
 其男安衡を憑て有けるが、鎌倉に心を通して義経を誅す。
 其時妻女申けるは、一人の子なれば思置事なし、残居て憂目を見んも心うし、我を先立て死出山を共に越給へと云ければ、義経南無なむ阿弥陀仏あみだぶつと唱へて、女房を左脇に挟かとすれば頸を掻落して、右に持たる刀にて、我腹掻割て打臥にけり。
 昔将門まさかどが合戦の時、御方したりし俵藤太秀郷が末葉に、陸奥出羽両国の地頭にて権大夫常清、其一男に権太郎御館清衡、其男に御館元衡、其男に御館秀衡、其男に安衡是也。
 背父遺言ゆいごん安衡義経を討たりけれ共、無其詮、源二位頼朝よりとも奥入して、安衡をば被誅けり。
 源二位或望或欝申事ありて、時政実平を指進せて、可近臣輩由聞えければ、人皆恐怖しけり。

時政実平上洛附吉田経房卿御廉直事

 同おなじき二十八日にじふはちにち、両使数百騎すひやくきの兵を率して入洛す。
 義経行家は都を落ぬ。
 時政実平上洛したれ共、合戦なければ洛中静也。
 時政源二位の依下知、諸国に守護を置、庄園に地頭を可成由、吉田藤とう中納言ぢゆうなごん経房卿を以奏し申す。
 又二十六箇国を相分て、庄領国領をいはず、段別兵粮米を充、義経行家追討のためとぞ聞えし。
 無量義経云、王敵を亡す者には賞するに半国を賜はると見えたれ共、我朝いまだ無先例、頼朝よりとも申状頗過分也と、君も臣も思召おぼしめしければ、御返事おんへんじ御猶予ければ、時政奏すらく、吾朝日本国につぽんごくに、昔よりして謀叛人多く日記に留れ共、平相国へいしやうこくに過たる犯人を不見。
 天竺には、提婆達多、仏の御身より血をば出したりけれ共、国を悩す事はなし。
 唐会昌天子僧尼を亡しけれ共、臣公は穏しかりき。
 平家太政だいじやう入道にふだうは、南都園城をんじやう仏法僧ぶつぽふそうを滅し、仙洞梁園を蔑ろにし、三公侍臣を流し失、昔も類を不聞、向後も実に難有、朝庭これを歎、仏家専悲、是を平ぐるは源氏の高名也、是を鎮るは関東の忠勤也、国を守人をめぐまんが為に被奏申処也、などか御免なからんと申上たりければ、道理はさも有けれども、当時の威応に恐て任申請旨、諸国の守護人、段別の兵粮米、平家知行の跡に地頭識を被許けり。
 吉田中納言経房卿をば、其比は勧解由小路中納言と云き。
 廉直の姓世に顕れし、忠貞の誉無隠ければ、源二位今度院奏しけるは、大小事、向後以経房卿奏聞之由被申たり。
 平家時も大事をば此卿に被申合き。
 故太政だいじやう入道にふだうの法皇を鳥羽殿とばどのに籠奉りし後、院伝奏おかれし時は、八条中納言長方と此大納言だいなごんと二人をぞ別当には被成ける。
 今度源氏の世に成りても、角憑まれるこそ難有けれ。
 三公以下、参議、非参議、前官当職等四十三人中に被択けるぞ優々敷。
 平家にむすぼほれたりし人々も、今は源氏に追従して、源二位の許へ状を遣し、使を下して種々しゆじゆにこそ眤けれ共、此卿は露諂事なし、只有に任たる心也。
 されば後白川院【*後白河院】ごしらかはのゐん建久二年の冬比より御不予ごふよの事ありて、同三年正月の末よりは、憑少き御事と思召おぼしめして、種々しゆじゆの御事共おんことども仰置給しに、御後の事奉行すべき由、彼経房卿承き。
 執事にて花山院左府さふ、近臣にて左大弁さだいべん宰相候る。
 此人々被申沙汰、可何不足なれども、思召おぼしめし入加様に被仰含事の忝かたじけなさよとて、感涙を流し給けるとぞ聞えし。
 よく実ある人にて、君も角思召おぼしめしけるにこそ。
 此卿は、権右中弁ごんのうちゆうべん光房朝臣息男、十二歳時父光房に後れ、孤子にておはしけれ共、次第の昇進不滞三事顕要を兼帯し、夕郎貫首を経、参議右大弁、中納言、太宰師をへて、終に正二位しやうにゐの大納言だいなごんに至けり。
 人をば越けれども人には越られず、君も重く思召おぼしめし、臣も憚思ふべき、人の善悪は針を袋に入たるが如しといへり。
 誠に隠れなかりければ、源二位までも被憑給けり。

害平家小児附闕官恩賞人々事

 同年十二月十七日じふしちにち侍従忠房、前左兵衛尉実元が預たりけるを、野路辺にて斬首。
 又小児五人内、二人は前さきの内大臣ないだいじんの息、一人は通盛卿男、二人は維盛卿子也。
 同彼所にして誅殺す。
 何もとり/゛\に貌有様ありさまよし有て見えければ、武士共剣刀の宛所も不覚ければ、とみに不斬して程へけるに、此少き人共、或殺さるべしと知て泣悲むもあり、又思分ずして母をよばひ、乳母めのとを慕て泣悶るもあり。
 彼を見此を見るに、無慙にもかはゆくも覚えければ、兵ども涙をぞ流ける。
 同日、任源二位申状、大蔵卿おほくらのきやう泰経、右馬権頭経仲、越後守隆経、侍従能成、少内記信康被解官けり。
 上卿左大臣経宗、職事頭弁光雅朝臣也けり。
 大蔵卿おほくらのきやう父子三人被解官ける事は、義経以彼卿、毎時奏聞しける故とぞ聞えし。
 能成は義経が同じ母弟、信康は義経が執筆也。
 又左馬権頭業忠、兵庫頭ひやうごのかみ範綱、大夫尉知康、同尉信盛、左衛門尉さゑもんのじよう時定、同尉信定等、為其刑、関東より召下とぞ聞えし。
 同晦日解官並流人被宣旨けり。
 参議親宗、右大弁光雅、刑部卿ぎやうぶきやう頼経、左馬権頭業忠、大夫史隆職、兵庫頭ひやうごのかみ範綱、左衛門尉さゑもんのじよう知康、同尉信盛、同尉信貞、同尉時盛被解官けり。
 光雅朝臣隆職は、官府を成下しける故とぞ聞えし。
 泰経卿は伊豆、頼経朝臣は安房へ配流の由被宣下けり。
 威君潜臣こと不平将
 時政既天下の権を執ければ、諸公卿士列左右門下
 去二十七日にじふしちにち議奏人々とて、関東より交名を注進す。
 右大臣兼実、右大臣実定、三条大納言だいなごん実房、中御門大納言だいなごん宗家、堀川ほりかはの大納言だいなごん忠親ただちか、権ごん中納言ぢゆうなごん実家、源げん中納言ぢゆうなごん通親、藤とう中納言ぢゆうなごん経房、藤宰相雅長、左大弁さだいべん宰相兼光也。
 今度源二位注進の状に、入人は其威を振ひ、不入人は失そのいきほひを、世の重じ人の帰する事平将に万倍せり。
 是人之非成、天之所与也。
 右大臣可内覧宣旨之由同被申たりければ、法皇も頼朝卿よりとものきやう申入之旨、於今者世事偏可計行と被仰ければ、右府頻しきりに被謙譲申けり。

巻①③ ④⑤ ⑥⑧ ⑨⑩ ⑪⑬ ⑭⑰ ⑱⑳ ㉑㉓ ㉔㉕ ㉖㉗ ㉘㉙ ㉚㉜ ㉝㉞ ㉟㊲ ㊳㊴ ㊵㊶ ㊷㊹ ㊺㊻ ㊼㊽ 書架