理巻 第九
堂衆軍事

 山門の騒動を静られんがために、三井の御幸を被停止たりけれ共、学匠がくしやうと堂衆と中悪して、山上又不静、山門に事出来ぬれば、世も必ず乱といへり。
 理や鬼門の方の災害なり、是不祥の瑞相なるべし、又何なる事の有るべきにやと恐ろし。
 此事は今年の春の比、義竟四郎叡俊と云者、越中国へ下向して、釈迦堂衆に来乗房義慶と云者が、所の立置、神人を、押取て知行しける間に、義慶憤を成て、敦賀中山に下合て、義竟四郎を打散し、物具もののぐ剥取などして恥に及。
 叡俊山に逃入て、希有にして命を生、夜にまぎれ匍登山して衆徒に訴ければ、大衆大に憤て、三塔不静、来乗又堂衆等を相語ければ、同心して義慶を助けんとする間、山上坂本騒ぎ合り。
 八月六日学匠がくしやう義竟四郎を大将として、堂聚が坊舎十三宇を截払、若干の資財雑物を追捕して、即学匠等がくしやうら西塔東谷大納言の岡に楯籠て、城郭じやうくわくを構ふ。
 堂衆弥我執を起して、同八日数百人すひやくにんの勢を率して登山して、西塔北谷東陽房に向城を構て勝負を決せんとす。
 露吹結ぶ秋風は、鎧の袖を翻し、雲井に響雷電は、甲の星を耀す。
 堂衆八人はちにんしころを傾て、大納言の岡へ打上り、城戸口近く攻付たり。
 城内より義竟四郎先陣に進で六人打て出、互に進退一時戦けり。
 堂衆八人はちにん請太刀に成て引けるを、〔義〕竟打嗔て長追す。
 堂衆難遁して返合て乱会て、散々さんざんに戦ける程ほどに、義竟四郎長刀の柄を打折て、腰刀を抜て刎て係るかと見程ほどに、頸打落されて失にけり。
 大将軍の義竟被討ければ、学匠がくしやう即引退く。
 十日堂衆等、東陽房より坂本に下り、近江国三箇庄へ下向して、国中こくぢゆうの悪党を相語、学匠がくしやうを亡さんと結構けつこうす。
 所語者と云は、古盗人古強盗、山賊海賊共也。
 年比日比蓄へもつ処の、米穀絹布の類を施し与へければ、当国にも不限、他国よりも聞伝て、縁を尋便に付て、雲霞の如く集と聞えし程ほどに、九月二十日堂衆数千の勢を相具して、坂本に越、早尾坂に城郭じやうくわくを構て楯籠る。
 学匠がくしやう兼て用意有ければ、不日に押寄たりけれ共、散々さんざんに打散されて、云甲斐なし。
 去共去共と又寄又寄しけれ共、毎度に不叶ければ、今は学匠がくしやう力尽て及奏聞
 堂衆等師主の命を背て、悪行を致す間、誡を加る処に、諸国の凶賊等を相語て、衆徒を亡さんとす、衆徒対治をなすといへど、学侶多く討れて、仏法僧法忽に滅とす。
 官兵を以て可追討と申ければ、院宣を被下太政だいじやう入道にふだうに仰す。
 入道勅定を蒙て、紀伊国住人、湯浅権守宗重を大将として、畿内近国の武士、三千余騎よきを相副て、東坂本へ差遣す。
 十月四日学匠がくしやう官軍と相共に、早尾坂の城じやうへよす。
 此山は後は峯高くして下がたく、前は谷嶮して上難き上に、道には大木を切て逆木に引、岡には大石を並て石弓をはる、面を向べき処に非ず。
 去共武家の軍兵三千余騎よき、衆徒の軍兵二千余騎よき、今度は去共と見えけるに、衆徒は官兵を進、官兵は衆徒を先立んと思程ほどに、心々にてはか/゛\しく攻寄戦輩なし。
 堂衆等は執心深く思ひて面を振ざりける上、所語の悪党ども、賄賂属託に耽て死生不知戦ければ、適進戦輩、射伏られ切伏られける中にも、多は石弓に打れてぞ亡ける。
 官兵も学匠がくしやうも散々さんざんに打落されて、手負は数を知らず、死者二千余人よにんとぞ聞えし。
 今度被討ける官兵の中に、武蔵国住人、甘糟太郎某、三条川原を東へ向て打けるが、倩案じ思様、我戦場に向ひなば、生て帰らん事有がたし、敵の為に害せられば、悪趣におちん事疑なし、法然上人の折節をりふし大谷に御座おはしましければ、出離悪道一句聴聞せんと思出て、彼庵室に推参して、馬より下、小具足付ながら縁のきはに立て、是は武蔵国住人甘糟太郎某と申者にて侍が、堂衆追討の為に、官軍に催されて、戦場に罷向侍、後生菩提の事御言承ばやとて参たる由申入たりければ、上人出合給へり。
 甘糟は我軍の庭に出で〔て〕、修羅闘諍の剣に当りなば、悪趣の苦患其恐不少、されば進んとすれば生死遁がたし、退んとすれば不覚の名憚あり、敵に向ひなば命を生て不帰、これ弓矢の家を思故、子孫の末を存ずる故也。
 縦係身にて侍とも、生死を離べき一句を奉ばやと申。
 上人哀に思召おぼしめして、御物語おんものがたりをしづ/\と始給へり。
 源空は本美作みまさかのくにの者也。
 父母子なくして、観音に祈申て、我を儲たりき。
 我九歳の時、父は明石の源内と云者が為に、夜討にせられて孤子と成しを、親者が山へ登たりしかば、少き心に父が後世をも弔、我身も生死を離れんと思て、法相、三論、花厳、天台、真言、仏心、乃至小乗律蔵に至まで渡見に、末代罪悪の衆生の為には、唯念仏の一行を得たりと語給へば、到信心、西に向合掌して十念を受。
 上人十念を唱て後、縦合戦闘乱の中なり共、弓箭身を亡す時也とも、十念成就じやうじゆせば往生不疑と教訓し給へば、甘糟悦で坂本に越にけり。
 翌日上人大谷庵室に縁行道し給けるが、折節をりふし候ける摩訶部の敬仏、かくはりの浄門弥陀仏を呼出して、あれ見給へ、紫雲西山に聳て、比叡山ひえいさんに係れり、是は一定昨日来りたりし甘糟が、敵に討れて、念仏申て往生する瑞相と覚たり、浄阿弥陀仏御房は力強足早し、急坂本に越て、甘糟死にたらば、骸をも隠し首をも取て来給へと被仰ければ、かくはりの浄阿坂本に走越て、八王子はちわうじ山のすそ早尾坂の辺を見廻に、死人の多き事算を散せるが如し。
 木の本草の末皆紅に変けり、無慙と云も疎也。
 此彼見程ほどに、一人の童死人を抱て泣居たる処あり。
 近付寄て是を問へば、我は武蔵国甘糟殿の下人也、敵に打合給しが、長刀にて両膝を切おとされ、西に向ひ合掌して、念仏三百返ばかり申て死給。
 旅の空なれば何にすべしとも不覚して、かくて侍也とて泣けり。
 浄阿弥は泣々なくなく頸を掻落し、童が直垂に裹せて檜笠の下に引かくし、童相具して、大谷の庵室に来れり。
 上人見之給へば、昨日鮮に肝々しげなりし有様ありさまに、今日は魂もなき生首、憂世うきよの習と云ひながら、夢の心地し給へば、墨染の袖をぞ絞られける。
 さて念仏申て終ぬる事細々と語申ければ、上人神妙しんべう神妙しんべうとて、やがて上の山にて首を焼、骨をば拾て童にたび、七日念仏申されて武蔵国へぞ被下ける。
 平野先生頼方と云者あり。
 官兵にさゝれて堂衆を攻けるが、強弓つよゆみの手だれなり。
 打物取ても足早、唯電なんどの如し。
 我一人と戦ければ、堂衆多くは是が為に討れたり。
 敵も安からず思ければ、いかにもして頼方を討ばやと目に係たり。
 頼方は子息小冠者相具して、散々さんざんに戦ける程ほどに、敵多打て懸り、あますなとて手繁く戦ければ、引退処にいかがしたりけん、我身は遁て子息の小冠を被虜ぬ。
 頼方心細悲く思て、今は命生ても何にかせんと思ければ、命も不惜振舞けり。
 堂衆は此小冠が頸を切べきにて有けるを、父の頼方を招んが為に、子息を城戸口に出して、我命を助んと思はば城の中に入とよばはらせければ、頼方子が頸を続ん為に、甲を脱矢をはづして城の内へぞ入にける。
 大国の陵母は子を思て剣に伏し、我朝の頼方は、子を悲て城に入、恩愛親子の情こそ、とりどりには覚えけれ。
 同五日学匠等がくしやうら一人も残らず離山して、此彼に息つぎ居たり。
 義竟四郎神人の一庄を押取て知行すとも、何計の所得か有べきに、敦賀の中山にて恥を見、剰取かへもなき命を失、山門の滅亡、朝家の御大事に及ぬるこそ浅猿あさましけれ。
 人は能々思慮有べき者也。
 貪欲は必身を食といへり。
 此事可慎。
 十一月五日、学匠等がくしやうら又上座寛賢并ならびに斉明を大将軍として、堂衆が城郭じやうくわくへ推寄て攻戦けり。
 夜に入て学匠がくしやう又被打落て四方に散失ぬ。
 討るゝ者百余人よにん、今はいかにも力なくして、学匠等がくしやうら散々さんざんにこそ成にけれ。
 其後は山門弥荒果て、西塔院の禅衆の外、止住の僧侶無りけり。
 末代の作法にや、悪者は強善人は弱なりて、行ひ人は強して、智者の謀も不及して、有縁の方に行別て、人なき山に成にけり。
 中堂衆など云者も失ぬ、当山草創より以来如事なし。
 只仏法の滅亡のみに非、祭礼も又廃にけり。
 社頭は死骸にけがされて、神供備る人もなく、在家は親子に別れば、幣帛捧る者もなし。
 緋の玉垣みだれつつ、引立たる標縄も絶々なり。

山門堂塔事

 抑当山は是伝教でんげう大師だいし草創の砌みぎり、桓武天皇てんわうの御願ごぐわん也。
 天長地久の長講は、止観院に置れたり。
 本尊と申は、大師自斧を取、薬師やくしの像を造つゝ、未来の衆生を利益し給へと誂申給しに、半作の仏像のうなづき給たまひしも、憑しくこそ覚れ。
 梵釈四天の像は、又忠仁公の造立也。
 十二神将じふにじんじやうの像は寛仁の入道大相国たいしやうこくの所造也。
 日光月光の二菩薩は宇治の関白くわんばくの所造なり。
 効験何もとり/゛\に、利生実に厳重也。
 法花三昧堂は、又伝教でんげう大師だいしの草創也。
 一乗いちじよう転読の髑髏は、此砌みぎりにぞ住ける。
 半行半座の三昧、此道場に修すとかや。
 常行三昧院は慈覚大師の建立こんりふ、法道和尚の引声此道場に遷さる。
 戒壇院と申も、同大師の建立こんりふ、円頓無作の大乗戒、此霊場に行る。
 惣持院と申は、文徳天皇てんわうの御願ごぐわん、真言上乗の秘法は、此伽藍に修せらる。
 如来によらい遺身の御舎利、多宝塔に納、鎮護国家の道場、名称実に憑しや。
 深草天皇てんわうの定心院、朱雀天皇てんわうの延命院、花山法皇の静慮院、承雲和尚の五仏院、後冷泉院の実相院、弘宗王の大講堂、文徳天皇てんわうの四王院、皆是国家鎮守の道場也。
 西塔院の釈迦堂は延秀菩薩の造立也。
 寂光大師施主として、護命僧正そうじやう導師たり。
 弘法大師は咒願し、別当慈覚両大師、梵音を誦じ、安恵恵亮の和尚達、錫杖をぞ勤ける。
 本尊と申は、伝教でんげう大師だいしの御作也。
 中堂ちゆうだうの薬師やくしと印相更違ず、医王善逝かと思しに、天人香呂の岡に天降給たまひて、閼伽の御盞を備つゝ、敬礼天人大覚尊の、四句の文を誦しけり。
 九旬安居の供花も、此伽藍より始れり。
 横川の中堂ちゆうだうと申は、慈覚大師帰朝の時、悪風に放たれて、羅刹国に至しに、観音海上に現じ給たまひ、不動毘沙門艫舳に現じ給へり。
 赤山明神は蓑笠を著給たまひ、弓箭を手に杷て、大師を守護し奉る。
 彼の三体を移て、本尊とし給たまひ、赤山明神を西坂本に崇けり。
 如法堂と申も、慈覚大師の御建立ごこんりふ、六根懺悔の行義は、此道場より始れり。
 三十番神の守護こそ貴くは覚ゆれ。
 相応和尚の不動尊、南山の洞に坐し給たまひ、大楽大師の大威徳、西塔院に御座、或は秘密瑜伽ゆがの精舎もあり、或は法華読誦どくじゆの道場もあり、念仏三昧の砌みぎりあり、円頓教の窓あり、目出かりし峯なれども、谷々の講演も皆断絶し、堂々の行法も、悉ことごとく退転す。
 修学の枢を閉塞、座禅の床に塵積る。
 三百余歳の法燈は挑る人もなく、六時不断の香の烟、絶やしぬらんおぼつかな。
 堂舎高顕て三重の構を青漢の中に挟み、棟梁遥はるかに秀でて、四面の垂木を白霧の間に瑩しかども、今は供仏を峯の嵐に任せ、金容を空瀝に潤。
 夜月燈を挑て、軒の隙より漏、暁の露玉を垂て、蓮座の粧を添。
 夫末代の俗に至ては、三国の仏法も次第に衰微せるとかや。
 遠く天竺に仏跡を訪へば、貞観三年の秋仏法興隆の為に、玄弉三蔵、流沙葱嶺を凌て、仏生国へ渡り、春秋寒暑一十七年経廻けるに、耳目見聞三百六十箇国。
 彼国の中に大乗の弘れる、十五箇国には過ざりけり。
 仏の教説し給たまひける、祇園精舎も、竹林精舎も孤狼の棲となり、鷲峯山も、孤独園も、只柱礎のみ残れり。
 白鷲池には水絶て、草のみ深く茂り、退凡下乗の卒都婆も霧に朽て傾ぬ。
 六年苦行の壇特山、成等正覚の金剛座、大林精舎、鹿野園、凡て悉達誕生の、伽毘羅城より始て、如来によらい入滅の沙羅林中に至るまで、一化早く極て、八音響絶にしかば、衆生利益の聖跡も荒にけるこそ悲けれ。
 震旦の仏法も同く滅にき。
 天台山、五台山、双林寺、玉泉寺も、近頃は住侶なき様になり果て、大小乗の法文は箱の底にぞ朽にける。
 我朝の仏法も又同。
 南都には七大寺も荒果て、八宗九宗跡絶ぬ。
 瑜伽ゆが唯識の両宗の外は残る法文もなし。
 東大興福両寺の外は、残堂舎もなし。
 北京には愛宕、高雄の山も、昔は堂塔軒を碾、行学功を積けれ共、一夜の中に荒しかば、今は天狗の栖と成にけり。
 去ば止事なき天台の仏法計こそ有つるに、治承の今に至て滅果ぬるにやと、心あるきはの人不悲と云事なし。
 離山しける僧の坊の柱に、書付たりけるは、
  祈りこし我たつ杣の引かへて人なき嶺となりや果なん
と、伝教でんげう大師だいし当山草創の昔、阿耨多羅あのくたら三藐三菩提さんみやくさんぼだいの仏達、我立杣に冥加あらせ給へと、祈申させ給ける事を、思出て読たりけるにや、最哀に情深くぞ聞えし。
 大衆離山して、今は人なき峯に成はてて、鎮護国家の道場には、青嵐独咽、住持仏法の窓前には、白雪はくせつ空に積る由聞召ければ、慈鎮和尚の未慈円阿闍梨あじやりにて御座おはしましける時、いと悲く思食おぼしめしつゞけさせ給ければ、白雪はくせつの朝、尊円阿闍梨あじやりの許へ送らせ給けり。
  いとゞしく昔の跡は絶なんと今朝降雪ぞ悲しかりける
 御返事おんへんじに、
  君が名ぞ猶あらはれん降雪に昔の跡は絶えはてぬとも
 抑堂衆と申は、本学匠がくしやう召仕ける、童部の法師に成たるや、若は中間法師などにて有けるが、金剛寿院の座主覚尋僧正そうじやう御治山の時より、三塔に結番して、夏衆と号して、仏に花奉し輩也。
 近来行人とて、山門の威に募、切物奇物責はたり、出挙借上入ちらして、徳付公名付なんどして、以外に過分に成、大衆をも事共せず、師主の命を背、加様に度々の合戦に打勝て、いとゞ我慢の鋒をぞ研ける。
 古人々の申けるは、山門に事出来ぬれば、必世の乱あり、一年天下の騒も山門より乱初たりと聞ゆ。
 今年又何事の有るべきやらん、鬼門の方の災夭也。
 帝都尤可鎮とぞ歎申ける。

善光寺炎上えんしやうの

 今年三月廿四日、信濃国善光寺炎上えんしやうあり、是又浅猿あさましき事也。
 彼如来によらいと申は、昔天竺の毘舎離国に、五種の悪病発て、人民多亡き。
 毘舎離城の、月蓋長者と云者あり。
 最愛の女子、如是と云者、病の床に臥て、憑なく見えければ、恩愛の慈悲に催れ、釈尊説法の砌みぎりに参て歎申けるは、如来によらいは大悲を法界に覆て、衆生を一子と孚給へり。
 而を毘舎離城の人民多滅亡、最愛の女子亡せんとす、願は慈悲を垂て、悪病を済給へと。
 釈尊勅して云、我力を以て、彼鬼病を助がたし。
 是より西方十万億土を過て仏御座、其名を阿弥陀仏と云。
 至心に祈誓し奉らば自其病を助るべしと教給ふ。
 長者蒙仏勅、家に帰て遥はるかに西に向ひ、香花を備へ、十念を唱祈申しかば、弥陀如来みだによらい、観音、勢至、西方の虚空より飛来、一光三尊さんぞんの御体一ちやく手半の御長にて、長者の門閾に現じ給たりけるを、閻浮檀金を以て奉鋳移、閻浮提第一の仏像也。
 如来によらい滅度の後、天竺に留給ふ事五百歳ごひやくさい、仏法東漸の理にて、百済国に渡御座おはしまして、一千年の其後、欽明天皇てんわうの御宇ぎように、浪に浮本朝に来給たまひたりしを、推古天皇てんわうの御宇ぎように、信濃国水内郡住人、本田善光と云者、遥はるかに負下奉て、我家を堂とし、我名を寺号に付つゝ安置し奉りてより、以降、日本最初の仏像、本師如来によらいと仰て、貴賤頭を低、道俗掌を合つゝ、既すでに六百歳に及べり。
 炎上えんしやうの例雖度々、王法亡んとては、必仏法先に亡といへり。
 去ばにや加様にさしも止事なき霊寺霊場の多亡失給は、王法の末に臨、天下の穏しかるまじき瑞相にやとぞ、尊も卑も歎ける。

中宮御懐妊事

 建礼門院も、其時は中宮にて御座おはしまししか、春の暮より御悩とて、貢御もつや/\進らず、打解御寝も成らずと聞えしかば、人々怪をなす、何なる御事やらん、御物気などにやと疑申時の后宮にて御座かば、天の下の歎なる上、平家の一門は殊に騒合へり。
 太政だいじやう入道にふだう二位殿共に、理に過て肝心を迷し給程ほどに、ただならぬ御事なりとて、引替悦あへり。
 主上今年十八、いまだ皇子もおはしまさず、若皇子にて渡せ給はゞ、如何に目出からんとて、平家の人々は、只今皇子御誕生などのある様に、あらまし事共申て悦給へり。
 平家の角栄給へば、一定皇子にてぞ御座んと、徐人も色代申けり。

宰相申預丹波たんばの少将せうしやう

 中宮五月にて御帯賜御座おはしまして、六月二十八日にじふはちにち吉日とて御著帯あり。
 御懐姙事定らせ給ければ、御産平安王子御誕生の御祈おんいのり、内外に付て頻也。
 平宰相へいざいしやう折節をりふしを得て、小松殿こまつどのに被参申けるは、中宮御産の御祈おんいのりに、定て様々の攘災行れずらん、成経が事今度申宥れなんや、何事にも勝たる御祈おんいのりたるべし、さらば御産も平に、皇子も御誕生疑あらじと泣口説給。
 大臣は、誰も子は悲き物なれば、誠にさぞ覚すらん、心の及ん程は申見べしとて、入道殿にふだうどのに被申けるは、成経が事を宰相の痛く歎申るゝこそ不便に侍れ、御産の御祈おんいのりに非常の大赦行はれて、丹波たんばの少将せうしやう其中に入らるべくや候らん、宰相の申さるゝ如く無双の御祈おんいのりたるべし、人の思歎を休、物の所望を叶させ給なば、皇子御誕生有りて、家門の栄花もいよ/\開ぬと相存ず、誠に人の親として子のうれへ歎を見聞ん程ほどに、身にしみ肝を焦す事、何かは是にまさるべき。
 為善者には天報ずるに福を以し、為非者には天報るに殃を以すと承る。
 縦異性他人なり共、かゝる折に当ては、広大の慈悲を可施、況や御一門の端に結て、か程ほどに歎申さんに、争か御憐なかるべき。
 然べきの様に御計あらば、上なき御祈おんいのりと成て必御悦びも報なんと、様々に宥被申たれば、入道今度は事の外に和て、去は俊寛康頼は如何と宣のたまひけり。
 其も同罪とて同配所なれば、倶に御免あらぬと申れけり。
 何も詳なる事はなけれ共、日来には似ず思の外になだらかに返事し給へば、大臣うれしとおぼして被出けり。
 宰相待受ていかゞと問給ふ。
 今度はもて離たる事はなし、相計るゝ旨もありなんと宣へば、宰相手を合て悦の涙を流し給けるぞ糸惜き。
 教盛御一家の片端に侍れば、高山とも深海とも奉憑上は、是程の事などかは御免を蒙らでも有べき。
 女子にて侍れば、親に向声振立て、それ/\と申までこそなけれ共、教盛を見度にうらめしげに思て、常は涙ぐみて見え侍れば、思はじと思へ共、恩愛の道には力なく、無慙に覚えてかく歎申、相構て助る様に、御口入御座と宣のたまひければ、大臣は上下品替といへ共、子を思道は等閑ならねば、誠にさこそ思召おぼしめすらめ、猶もよく/\申侍るべしとて立給たまひぬ。
 中宮は月日の重る儘に、いとゞ御身を苦ぞ思召おぼしめしける。
 係折をえて御物気煩しくぞ御座など申ければ、御験者隙なく召れて護身頻なり。
 少し面痩させ給たまひて、御目だゆげに見えさせ給ける御有様おんありさまは、漢李夫人の照陽殿の病の床に臥たりけんも、角やとぞ人申ける。
 新しん大納言だいなごん父子、并ならびに俊寛康頼等が霊共とて、御物付に移て様々に申事共有けり。
 生霊死霊軽からず、おどろ/\しくぞ聞えける。
 係ければ丹波たんばの少将せうしやう召返由定にけり。
 宰相聞給たまひては、心の中の嬉さ、たゞ可推量
 北方は猶も誠とも思給はざりけるにや、臥沈給けるぞ糸惜き。
 七月上旬に丹波たんばの少将せうしやう召返とて、六波羅より使あり、入道の侍に、丹左衛門尉基安と云者也。
 宰相の許よりも、私の使を相添られたり。
 漫々たる万里の波、浦々島々漕過つゝ、心は強に急げども、満来塩に沂吹立浪も荒して、海上に日数を経、八月下旬に薩摩の地に着く。
 九月上旬にぞ硫黄島には渡ける。
 さても此人々、日比露の命の消ざれば、さすが憂身の有程は、朝な夕なの渡居を、さばくる者もなければ、何習たるにはあらね共、手自営けるぞ無慙なる。
 少将山に入て爪木を拾、朝には康頼沢に出て根芹をつみ、俊寛谷に下て水を結、夕には少将浦に行て藻をかきけり。
 僧俗の品もなく、上下の礼も乱つゝ、賄けるぞ糸惜。
 角て春過夏闌ても、思を故郷に馳、年を送り月を迎ても悲を旧里に残す。
 月日の数も積ければ、島の者共のいふ言も、各聞知給けり。
 彼等も此人々の言をも自聞知奉る物語ものがたりの次に島の者共が申けるは、此御棲より五十余町を去て一の離山あり、峯高して谷深し、其名を鸞岳と云。
 彼岳には夷三郎殿と申神を奉祝、岩殿と名付たり、此島に猛火俄にはかに燃出て、殊に熱たへ難時は、様々の供物を捧て祈祭れば、火静風のどかに吹て、自安堵すとぞ語りける。
 少将これを聞て、係る猛火の山、鬼の住所にも、神と云事の侍にこそと宣ば、康頼答けるは、申にや及侍る、炎魔王界と申は、地の下五百由旬にあり、鬼類の栖として、猛火の中に侍、其にだにも十王とも申、十神共名付て、十体の神床を並て住給へり。
 況や此島は扶桑神国の内の島なれば、夷三郎殿もなどか住給はざらん。
 抑性照三十三度、熊野参詣の宿願有りて、十八度までは参て、今十五度を残せり。
 当来得道の為に、岩殿の御前にて果さばやと存、露の命もながらへば、都還をも祈らんと思なり。
 大神も小神も屈請の砌みぎりに影向し、権者も実者も渇仰の前に顕現じ給ふ事なれば、権現も定て御納受ごなふじゆ有べし、同心あらば然べし、各いかゞ思食おぼしめすと云ければ、少将成経はやがて入道を先達として可詣とぞ悦給ける。
 俊寛の云けるは、日本は神国也、天開け地竪り、国興り人定て後、光を高間原に和げ、跡をあらかねの地に垂給ふ、大小の神祇三千七百さんぜんしちひやく余所也、多は九成正覚の如来によらい大悲闡提菩薩也、又吉備大臣神明の数を注たりけるには、上には一万三千、下は粟三石が員といへり。
 其名帳の中に、硫黄島の岩殿と云神よもあらじ、就なかんづく後生菩提の為ならば、乃至十念若不生者不取正覚と誓給へり、弥陀念仏をも唱べし。
 都還の祈ならば、現世安穏後生善処とも説、病即消滅不老不死とも演給へり。
 遠流の罪に行れて、日積歎に悲も、是又病に非や、されば法華経ほけきやうもよみ給べし、凡神明には権実の二御座。
 権者の神と申は、法性真如の都より出て、分段同居の塵に交り、愚痴の衆生に縁を結給。
 実者の神と申は、悪霊死霊等の顕出て、衆生に崇をなす者也。
 彼を礼し敬は、永劫悪趣に沈故に、或文に云、一瞻一礼諸神祇、正受蛇身五百度、現世福報更不来、後生必堕三悪道と見えたり。
 されば漢朝に霊験無双の社あり、人崇之牛羊の肉を以て祭けり、其神体を尋れば、古釜にて有りけるとかや。
 一人の禅師来て、釜を扣て云、神何の処より来れるぞ、霊何の処にか有と云て、さながら打砕て捨けり。
 禅師角して帰時、青衣の俗人現て、冠を傾け僧を礼云、我こゝにして多苦患を受き、而に禅師今無生の法をとき給ふ、吾聴聞して忽に業苦を離れて、天に生ずる事を得たり、其恩報じ難しと云て、忽然として失にけり。
 されば我等われらが身には、今生の事更に不思、偏に後世の苦をまぬかるゝ方便をこそ、あらまほしく侍れ。
 神明と申は、権者の神も、仏菩薩の化現として、仮に下給へる垂跡すいしやく也、直に本地の風光を尋て、出離の道に入給べし。
 其に念仏を憑て、往生を期し給はば、行往坐臥念々歩々、口に名号を唱へ、心に極楽を念て、臨終の来迎を待給べし。
 聖道の修行ならば、凡聖元より二なし。
 自身の外に仏を不求、邪正自一如也、自土の外に浄土じやうどなし。
 三界一心と知ぬれば、地獄天宮外になし。
 心仏衆生一体と悟ぬれば、始覚本覚身を離れず、自性の本仏、もとより己身に備と観ずれば、無窮の聖応、響の声に応ずるが如し。
 生死断絶の観門、出過語言の要路也。
 達磨西来の、直指見性成仏じやうぶつの秘術、皆自身の宝蔵を開にあり、神明外になし、只我等われらが一念也、垂跡すいしやく也に非、専自己の本宮にありなんと、たふ/\と云散す処に、此島の習なれば、暴風俄にはかに吹て地震忽に起、山岳傾崩て、石巌海に入、其時古詞を詠じけり。
  岸崩殺魚其岸未苦、 風起供花其風豈成仏。
  崩れつる岸も我身もなき物ぞ有と思ふは夢に夢みる

 詠じて、只仏法を修行して、今度生死を出給べし、但我立杣の地主権現、日吉詣ならば、伴なん、熊野の神は中悪とて不与けり。
 康頼申けるは、教訓の趣は、誠に貴く侍り、尤甘心し奉る。
 但仏教の中に、神の御事希也と申せども、以離るべきに非。
 其故は、末世の我等われらが為には、後の世を欣はん事も必神明に奉祈べしと見えたり。
 釈尊入滅の後二千余年、天竺を去事数万里也、僅わづかに聖教渡るといへ共、正像既過ぬれば、行する人も難く其験も希也。
 是以て諸仏菩薩の慈悲の余に、我等われら悪世無仏の境に生て、浮期無らん事を哀て、新道と垂跡すいしやくして、悪魔を随仏教を守、賞罰を顕し信心を起し給ふ、是則利生方便の懇なるより始れり、是を和尚同塵どうぢんの利益と名たり。
 我国の有様ありさまを見に、神明の御助なくば、争人民を安し、国土も穏からん。
 小国辺土の境なれば、国の力も弱く、末世独悪の此比なれば、人の心も愚也、隠ては天魔の為になやまされ、顕ては、大国の王にあなづらる、縦仏法渡給とも、魔障強は独世の今ひろまり難し、天竺は南州の最中にて、仏出世し給し国なれども、像法の末より、諸天の擁護漸衰へて、仏法亡給しが如。
 然を我国は、伊弉諾、伊弉冊尊より、百王の今に至まで、始終神国として、加護他に異也、剰神功皇后じんぐうくわうごうの古へは、新羅、高麗、支那、百済なんど申て、勢いきほひ大なる国をも随て、五独乱漫の今までも、大乗広まり給へり。
 若国に逆臣あれば、月日を不廻亡之、若天魔仏法を妨れば、鬼王と成て対治し給。
 依これによつて仏法も王法も不衰、土民も国土も穏也。
 公の御為には高き大神と顕れ、民の為には賤き小神と示す、智者の前には本地を明にし、邪見の家には垂迹を現す、後世を不知輩も、猶祈て歩を運ぶ、因果に暗き人も又罰を恐て奉仰、神明顕給はずは、何に依てか露計も、仏法に縁を結奉らん、化度利生の構は彼榊幣より始かたくる、きねが鼓の音までも、開示悟入の善巧は、哀に忝かたじけなき御事也。
 故に為度衆生故、示現大明神だいみやうじんとも説、和光わくわう同塵どうぢんは結縁の始とも釈せり。
 現世の望をこそ仮の方便とかろしめ給ども、生死を祈らん為には、争済度の本懐を顕し給はざらん。
 民なくは君ひとり公たらんや、神なくは法独法たらんや。
 是を以て薬師やくしの十二神将じふにじんじやう、千手の廿八部衆、般若の十六善神、法花の十羅刹女、皆是神法を守り、法神に持たれたり。

康頼熊野詣附祝言事

 誘給へ少将殿とて、精進潔斎して、熊野詣と准て岩殿へこそ参けれ。
 俊寛は詞計は云散たりけれども、法華を読己身を観ずる事もなく、日吉詣もせざりけり。
 唯歎臥たる計にて、聊も所作はなかりけり。
 少将と入道とは、岩殿に参拝して、熊野権現と思なぞらへて、証誠殿と申は本地は弥陀如来みだによらい、悲願至て深ければ、十悪五逆も捨給はず、垂迹権現は利生方便の霊神也、遠近尊卑にも恵を施し給へば、両人御前に跪き、南無日本第一、大霊験三所権現、和光わくわうの利益本誓に違ず、我等われらが至心の誠を照覧し給たまひて、清盛きよもり入道の悪心を和げ、必都へ還し入給へと、祈誓しけるぞ哀なる。
 結願の日に成りけるに、康頼入道、社壇の御前にて、歌をうたひて、法楽に備けり。
  白露は月の光にて、黄土うるほす化あり、権現舟に棹さして、向の岸によする波
と、未謡も果ざるに、三所権現となぞらへ祝ひ奉る、何も常葉の榊の葉に、冷風吹来動揺する事良久。
 入道是を拝しつゝ、感涙を押へて、一首の歌をぞ読ける。
  神風や祈る心の清ければ思ひの雲を吹やはらはん
 少将も泣々なくなく十五度の願満ぬとて、
  流よる硫黄が島のもしほ草いつか熊野に廻出べき
 さて少将立あがりて入道を七度まで拝給ふ。
 性照驚、是は何事にかと申ければ、入道殿にふだうどののすゝめに依て、先達に奉憑、十五度の参詣已畢候ぬ、神明の御影向も厳重に御座おはしませば、再都へ帰らん事疑なし、さらば併御恩なるべし、生々世々争か忘れ奉べきとて、声も不惜泣れけり。
 性照も己と我を拝み神として、効験を現し給へば、絞る計の袖也けり。
 其後康頼入道は小竹を切てくしとし、浦のはまゆふを御幣に挟み、蒐草と云草を四手に垂、清き砂を散供として、名句祭文を読上て、一時祝を申けり。
 謹請再拝再拝、維当歳次、治承二年戊戌、月の並十二月、日数三百五十四箇日、八月廿八日、神已来、吉日良辰撰、掛忝日本第一大霊験熊野三所権現、并ならびに飛滝大薩埵だいさつた、交量うつの弘前、信心大施主、羽林藤原成経、沙弥性照、致清浄之誠、抽懇念之志、謹以敬白、夫証誠大菩薩だいぼさつ者、済度苦海之教主、三身円満之覚王也、両所権現者、又或南方補堕落能化之主、入重玄門之大士、或東方浄瑠璃医王之尊、衆病悉除之如来によらい也、若一王子者、娑婆世界之本主ほんしゆ、施無畏者之大士、現頂上之仏面、満衆生之所願給へり。
 云彼云此、同出法性真如之都、従和尚同塵どうぢん之道以来、神通自在而、誘難化之衆生、善巧方便而、成無辺之利益、依これによつて上一人、至下万民、朝結浄水肩、洗煩悩之垢、夕向深山、運歩近常楽之地、峨々峯高、准是於信徳之高、分雲登、嶮々谷深、准是於弘誓之深、凌露下、爰不利益之地者、誰運歩於嶮難之道、不権現之徳者、何尽志於遼遠之境、然則証誠大権現、飛滝大薩埵さつた、慈悲御眼並、牡鹿之御耳振立、知見無二之丹精、納受専一之懇志、現止成経性照遠流之苦、早返付旧城之故郷、当改人間有為妄執之迷、速令新成之妙理而已、抑又十二所権現者、随類応現之願、本迹済度之誓、為有縁之衆生無怙之群情、捨七宝荘厳之栖、卜居於三山十二之籬、和八万四千はちまんしせん之光、同形於六道三有之塵、故現定業能転衆病悉除之誓約有憑、当来迎引接必得往生之本願無疑、是以貴賤列礼拝之袖、男女運帰敬之歩、漫々深海、洗罪障之垢、重々高峯、仰懺悔之風、調戒律乗急之心、重柔和忍辱之衣、捧覚道之花、動神殿之床、澄信心之水、湛利生之池、神明垂納受なふじゆ、我等われら所願乎、仰願十二所権現、伏乞三所垂跡すいしやく、早並利生之翅、凌左遷海中之波、速施和光わくわう之恵、照帰洛故郷之窓、弟子不愁歎、神明知見証明、敬白再拝再拝と読上て、互に浄衣の袖をぞ絞ける。
 さらぬだに尾上の風は烈きに、暮行秋の山下風、痛身にしむ心地して、叢に鳴虫の音も、古里人を恋るかと、最物哀也けるに、峯吹嵐に誘れて、木葉乱て落散けり。
 其中に最怪き葉二飛来て、一は成経の前、一は性照が前にあり。
 康頼入道の前に落たる葉には、帰雁と云二文字を、虫食にせり。
 少将前の葉には、二と云ふ文字を虫食へり。
 二の木葉を取合て読連れば、帰雁二と有。
 二人取かはし/\、読ては、打うなづき/\して、奇や何なれば、帰雁二と有やらん、三人同流されて、誰一人漏べきやらんおぼつかな、但信心参詣の志、権現争か御納受ごなふじゆなからんなれば、神明の御計にて、我等われら二人は被召返て、執行など残し置るべきやらん、又何れもるべきぞやと、共に安心なし。
 係程ほどに又楢葉の広かりける、何くよりとも知ず飛来て、康頼入道の膝の上にぞ留りたる。
 取てみれば歌なり。
  ちはや振神に祈のしげければなどか都に帰らざるべき
 是を見給けるにこそ、二の帰雁と有けるは、成経性照二人とは思定て嬉けれ。
 二人互に目を見合て、責の事には、これを若夢にやあらんと語けるこそ哀なれ。
 今日を限の参詣也とて、少将も康頼も、御名残おんなごりを奉惜て、去夜は是に留て、通夜法施を奉手向
 暁方に康頼歌をうたひ、其終りに足柄を歌て、礼奠にそなへ奉る。
 さてちと、まどろみたりける夢の中に、海上を見渡せば、沖の方より白帆係たる小船一艘浪に引れて渚による。
 中の紅の袴著たる女房三人舟より上りて、鼓を脇に挟みつゝ、拍子を打て、足柄に歌を合歌たり。
  諸の仏の願よりも、千手の誓は頼もしや、枯たる木草も忽に、花咲実なるとこそ聞
と、三人声を一にして二返までこそ歌ひけれ。
 渚白女房達、舟にのらんとて汀みぎはの方に下けり。
 少将も康頼も名残なごり惜覚つゝ、遥はるかに是を見送れば、女房立帰つゝ、人々の都帰も近ければ名残なごりを慕て来れりとて、掻消様に水の中へぞ入にける。
 夢覚て後是を思へば、三所権現の御影向歟、西御前と申は、千手の垂跡すいしやくに御座おはしませば、ちはや振玉の簾を巻揚て、足柄の歌を感ぜさせ給けるにこそ、さらずは又廿八部衆の内に、竜神りゆうじんの守護して海中より来給へる歟、夢も現も憑しくて、二人は終に帰上にけり。
 俊寛此事を後悔して、独歎悲めども、甲斐ぞなき。
 さても二人の人々は、新く用べき浄衣もこり払もなければ、都より著ならしたる古き衣を濯て、新しがほに翫しつゝ、藁履はゞきもなかりければ、ひたすら跣にてさゝれけり。
 人も通はぬ海の耳、鳥だに音せぬ山のそはを、泣々なくなく打列御座おはしましけん、心の内こそ糸惜けれ。
 手にたらひ身にこたへたる態とては、入江の塩にかくこり、沢辺の水にすゝぐ口、立ても居ても朝夕は、南無懺悔、至心懺悔、六根罪障と、宿罪を悔、寝ても覚ても心に心を誡て、三帰五戒ごかいを守つゝ、半日に不足道なれども、同所を往還々々、日数を経こそ哀なれ。
 峨々たる山をさす時は、高峯岩角蹈迷、塩風寒浪間の水何度足を濡らん、霞籠たるそばの道、柴折を注に過られけり。
 浦路浜路に赴てさびしき処をさす時は、和歌、吹上、玉津島、千里の浜と思なし、山陰やまかげ木影に懸つゝ、嶮所を過には、鹿瀬、蕪坂、重点、高原、滝尻と志し、石巌四面に高して、青苔上に厚くむし、万木枝を交つゝ、旧草道を閉塞ぐ。
 谷河渡る時もあり、高峯を伝折もあり。
 岩田川によそへては、煩悩の垢を洗、発心門に准ては、菩提の岸にや至るらん。
 近津井、湯河、音無の滝、飛滝権現に至まで、和光わくわうの誓を憑つゝ、いはのはざま苔の筵、杉の村立、常葉の松、神の恵の青榊、八千代を契る浜椿、心にかゝり目に及、さもと覚る処をば、窪津王子より、八十余所に御座王子々々と拝つゝ、榊幣挟れたる心の内こそ哀れなれ。
 奉幣御神楽なんどこそ、力無れば不叶と、王子々々の御前にて、馴子舞計をばつかまつらる。
 康頼は洛中無双の舞也けり。
 魍魎鬼神もとらけ、善神護法もめで給計なりければ、昔今の事思ひ出で、
  さまも心も替かな、落る涙は滝の水、妙法蓮華の池と成、弘誓舟に竿指て、沈む我等われらをのせたまへ
と、舞澄して泣ければ、少将も諸共に、涙をぞ流しける。
 日数漸重て、参詣己に満ければ、殊に今日は神御名残おんなごりも惜、何もあらまほしくぞ思はれける。
 一心を凝し、抽丹誠、彼岩殿の前に、常木三本折立て、三所権現の御影向と礼拝重尊し奉る。
 其御前にて性照申けるは、三十三度の参詣已に結願しぬ、今日は暇給たまひて黒目に下向し侍べければ、身の能施て、法楽に奉らん、我身の能には、今様こそ、第一と思侍れとて、神祇巻に二の内、
  仏の方便也ければ、神祇の威光たのもしや、扣ば必響あり、仰ば定て花ぞさく
と、三返是を歌ひつゝ、先は証誠殿に手向奉り、二度三度は結早玉に奉るとて、心を澄して歌ければ、権現も岩殿もさこそ哀におぼしけめ、神明遠に非、只志の内にあり、熊野の山は、一千五百の遠峯、硫黄島は西海はるかの浪の末、信心浄くすみければ、和光わくわうの月も移けり。
 帰雁二とあれば赦免一定なるべし。
 秋此島に遷れて、春都へ帰べきにこそと、憑しく覚る、中にも三人の女房の、都還の名残なごりこそ思合て嬉けれ。
 陸奥国に有りける者、毎年参詣の願を発て、年久く参たりけるが、山川遠く隔て、日数を経国に下り著て、穴苦し、ゆゝしき大事也けりとて、休み臥たりけるに、権現夢の中に御託宣ごたくせんあり。
  道遠し程も遥はるかにへだたれり、思ひおこせよ我も忘れじ
と、深志権現争か御納受ごなふじゆなからんと覚えたり。
彼寛平法皇の御修業、花山院の那智籠、捨身の行とは申しながら、労しかりし御事也。
 況我等われらが身として、歎くにたらぬ物なれ共ども、理忘るゝ涙なれば、袖のしがらみ解けやらず、係るうき島の習にも、自慰便もやとて、少将は蜑の女に契を結び給たまひて、御子一人出来給たまひけり。
 後はいかゞ成りにけん、そも不知。
 夫婦の中の契は、うかりし宿世と云ながら、最哀なりし事共也。
 二人の人々は、岩殿の御前を立ち、悦の道に成、切目の王子の水なぎの葉を、稲荷の社の杉の枝に賜、重て黒目につくと思て、険山路を下りつゝ、遥はるかの浦路に出にけり。
 折節をりふし日陰のどかにして、海上遠く晴渡り、五体に汗流て、信心肝に銘ければ、権現金剛童子の御影向ある心地せり。
 遥はるかに塩せの方を見渡ば、漫々たる浪の上に、怪物ぞゆられける。
 少将見之、やゝ入道殿にふだうどの、一年我等われらが漕来侍りし、舟路の浪間に、ゆられ来るは何やらんと問れければ、あれは澪の浮州の浪にたゞよひ侍るにこそと申。
 次第に近付をめかれもせず見給へば、舟也けり。
 端島の者共が、硫黄取に越るかと思程ほどに、近く漕よせ、舟の中に云音をきけば、さしも恋き都の人の声なり。
 穴無慙、何なる者の罪せられて、又此島にはなたるらん、思歎は身にも限らざりけりと思ながら、疾おりよかし、都の事をも尋聞んと思けるに、実に近付ば、今更やつれたる有様ありさまを見えん事の恥しさに、二人は磯を立退、木陰に忍て見給けり。
 舟こぎよせ急ぎおり、人々の忍方へぞ進ける。
 僧都そうづは余りにくたびれて、只夜も昼も悲の涙に沈み、神仏にも祈らず、熊野詣にも伴はず、岩のはざま苔の上に倒れ臥して居たりけるが、都の人の声を聞起あがれり。
 草木の葉を結集て著たりければ、おどろを戴ける蓑虫に似たり。
 頭は白髪長く生のびて、銀の針を研立たる様也。
 見もうたてく恐し。
 二人の居たりける処へ進来れり。
 六波羅の使近付寄て、是は丹左衛門尉基安と申者に侍、六波羅殿ろくはらどのより赦免の御教書候、丹波少将殿たんばのせうしやうどのに進上せんと云。
 人々余あまりの嬉さに、只夢の心地ぞせられける。
 成経是に侍りとて出合れたり。
 基安立文二通取出て進る。
 一通は平宰相へいざいしやうの私の消息せうそく也。
 少将ばかり見之。
 一通は太政だいじやう入道にふだうの免状也。
 判官入道披之読に云、
中宮御産御祈祷ごきたう、被非常大赦之内、薩摩方硫黄島流人丹波たんばの少将せうしやう成経なりつね、并ならびに平判官康頼法師可帰洛之由、御気色おんきしよく候也、仍執達如
 七月三日とはありけれども、俊寛僧都そうづといふ四の文字こそなかりけれ。
 執行は御教書とりあげて、ひろげつ巻つ、巻つ披つ、千度百度しけれども、かゝねばなじかは有るべきなれば、やがて伏倒、絶入けるこそ無慙なれ。
 良有起あがりては、血の涙をぞ流しける。
 血の涙と申は、涙くだりて声なき血と云といへり。
 言は出さざりけれ共、落る涙は泉の如し。
 理や争かなからざらん。
 三人同罪にて、同島へ流されたるに、死なば一所に死に、還らば同く帰べきに、二人は召かへされて僧都そうづ一人留るべしとは思やはよりける、誠に悲くぞ思けん、遥はるかに久有て宣のたまひけるは、年比日比は、三人互に相伴、昔今の物語ものがたりをもして慰つるすら、猶忍かねたりき。
 今人々に打捨られ奉なば、一日片時いかにして堪過すべき。
 但三人同罪とて、同島に遷されたる者が、二人は免されて俊寛一人留めらるゝ、誠共覚えず、さらでは又別の咎もなき物をや、是は一定執筆の誤と覚たり。
 若又平家の思召おぼしめし忘給へるかや、執申者の無りけるかや、余も苦しからじ、唯各相具して登給へ、若御免されもなき物を具足し上たりとて御とがめあらば、又も此島へ被流返よかし、其は怨にもあらじ、今一度古郷に帰上、恋き物共をも見ならば、積る妄念をも晴ぞかしと口説けり。
 少将も判官入道も被申けるは、さこそ思給らめなれども、御教書に漏たる人を具足せんも恐あり、同罪とて同所に被流ぬれば、咎の軽重あらじかし、中宮の御産に取紛れて、執筆の誤にてもあるらん、又平家の思忘たる事にも有らん、今は我等われら道広き身と成ぬ、僧都そうづの赦免に漏て歎悲み給し事不便也、被召返たらば、目出めでたき、御祈祷ごきたうたるべき由、内外に付て申さば、などか御計なからん、其までの命をこそ神にも仏にも祈り申されめ、更に不疎略なんど様々に誘慰けり。
 僧都そうづは、日来の歎は思へば物の数ならず、古郷の恋しき事も、此島の悲き事も、三人語て泣つ笑つすればこそ、慰便とも成りつれ、其猶忍かねては憂音をのみこそ泣つるに、打捨て上給なん跡のつれづれ、兼て思にいかゞせん、さて三年の契絶はてて、独留て帰上り給はんずるにや、穴名残なごり惜や/\とて、二人が袂たもとをひかへつゝ、声も惜ずをめきけり。
 理や旅行一匹の雨に、一樹の下に休み、往還上下の人、一河の流を渡れども、過別るれば名残なごり惜く、風月詩歌の一旦の友、管絃遊宴の片時の語ひ、立去折は忍難くこそ覚ゆれ、況やうき島の有様ありさまとは云ながら、さすが三年の名残なごりなれば、今を限の別也、いかに悲く思らんと、打量りては無慙なれども、縦恋路の迷人も、我身に増るものやあると云けんためしなれば、執行をば打捨て、少将も判官入道も急ぎけるこそ悲けれ。
 判官入道は本尊持経を形見に留む。
 少将は夜の衾を残し置、風よく侍とて水手等とく/\と進ければ、僧都そうづに暇乞船にのり、纜を解て漕出けり。
 責の事に、僧都そうづは、漕行舟の舷に取付て、一町余出たれども、満塩口に入ければ、さすがに命や惜かりけん、渚に帰て倒れ臥、足ずりをしてをめきけり。
 稚子の母に慕て泣かなしむが如也。
 彼喚叫音の、遥々はるばると波間を分て聞えければ、誠にさこそ思らめと、少将も康頼も、涙にくれて、漕行空も、見えざりけり。
 僧都そうづは千尋の底に沈まばやとは思けれ共、此人々の都に帰上て、不便の様をも申て、などか御免も無るべきと、宥云ける憑なきことのはを憑て、それまでの命ぞ惜かりける。
 漕行船の癖なれば、浪に隠れて跡形はなけれ共、責の別の悲さに、遥々はるばる沖を見送て、跡なき舟を慕けり。
 昔大伴の狭手彦が遣唐使にさゝれて、肥前国松浦方より舟にのり、漕出たりけるに、夫の別を慕つゝ、松浦さよ姫が、領巾麾の嶺に上りて、唐舟を招つゝ、悶焦けんも、又角やと覚て哀也。
 日も既暮けれ共、僧都そうづはあやしの伏戸へも帰ず、天に仰ぎ地に臥、首を扣き胸を打、喚叫ければ、五体より血の汗流て、身は紅にぞ成にける。
 只磯にひれふし、浪にうたれ露にしをれて、虫と共に泣明しけり。
 昔天竺に、早利即利と云し者、継母に悪れて、海岸山に捨られつゝ、遥はるかの島に二人居て、泣悲けん有様ありさまも、角やとぞ覚ゆる。
 彼は兄弟二人也、猶慰事も有けん、是は俊覚一人也、さこそは悲く思けめ。
 さても庵に帰りたれ共、友なき宿を守て、事問者も無れば、昨日までは三人同く歎きしに、今日は一人留りて、いとゞ思の深なれば、角ぞ思つゞけける。
  見せばやな我を思はん友もがな磯のとまやの柴の庵を
 少将は九月中旬に島を出て、心は強に急けれども、海路の習也ければ、波風荒くして日数を過、同廿日余にぞ九国の地へは著給ふ。
 肥前国鹿瀬庄は、私には味木庄とも云ひけり。
 件の所は舅平宰相へいざいしやうの知行也。
 爰ここに暫く逗留して、日来のつかれをもいたはり給へり。
 湯沐髪すゝぎなどせられければ、冬も深く成て、年も既すでに暮、治承も三年に成りにけり。

奴巻 第十
中宮御産事

 治承二年十一月十二日寅時より、中宮御産の気御座とののしりけり。
 去月廿七日より、時々其御気御座おはしましけれ共、取立たる御事はなかりつるに、今は隙なく取頻らせ給へども、御産ならず。
 二位殿にゐどの心苦く思給たまひて、一条堀川ほりかは戻橋にて、橋より東の爪に車を立させ給たまひて、橋占をぞ問給ふ。
 十四五計の禿なる童部わらんべの十二人、西より東へ向て走けるが、手を扣同音に、榻は何榻国王榻、八重の塩路の波の寄榻と、四五返うたひて橋を渡、東を差て飛が如して失にけり。
 二位殿にゐどの帰給たまひて、せうと平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやうに角と被仰ければ、波のよせ榻こそ心に候はねども、国王榻と侍れば、王子にて御座おはしまし候べし。
 目出めでたき御占にこそ候へとぞ合たる。
 八歳にて壇浦の海に沈み給たまひてこそ、八重の塩路の波の寄榻も思ひしられ給たまひけれ。
 一条戻橋と云は、昔安部晴明が天文の淵源を極て、十二神将じふにじんじやうを仕にけるが、其妻職神の貌に畏ければ、彼十二神を橋の下に咒し置て、用事の時は召仕けり。
 是にて吉凶の橋占を尋問ば、必ず職神人の口に移りて善悪を示すと申す。
 されば十二人の童部わらんべとは、十二神将じふにじんじやうの化現なるべし。
 御産未成とて、平家の一門は不申、関白くわんばく以下公卿殿上人てんじやうびと馳参給けり。
 法皇も西面の北の門より御幸あり。
 御験者には、房覚昌雲、両僧正そうじやう、俊堯法印、豪禅、実全両僧都そうづなり。
 其上法皇も内々は御祈おんいのり有けり。
 内大臣ないだいじんは例の吉事にも悪事にも強に騒給事御座ざりければ、少し日闌て公達引具し参給へり。
 最のどろかにぞ見え給ける。
 権亮少将維盛、左中将清経、越前侍従資盛など、遣列給へり。
 御馬十二匹に四手付て被引立たり。
 神馬の料と見えたり。
 砂金千両、南鐐百、御剣七振、広蓋に入て、御衣二十領、相具せられたり。
 誠にきら/\しくぞ見えける。
 大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、重科の者、五十三人被寛宥、其例とて、今度七十三人宥されけり。
 内裏より御使隙なし。
 右中将通親、左中将泰通、右少将隆房、通資等の朝臣、右兵衛佐うひやうゑのすけ経仲、蔵人所々衆、滝口等、各二三返づつ馳違馳違参けり。
 承暦三年に皇子御誕生ごたんじやうの時には、殿上人てんじやうびと寮の御馬に召けり。
 今度は車にてぞ被参ける。
 八幡、平野、日吉社へ可行啓之由、御願ごぐわんあり。
 全玄法印是を啓白す。
 凡神社に被御願ごぐわん事は、石清水、賀茂社より始て、新西宮にしのみや、東光寺に至るまで四十一箇所、仏寺には、東大寺とうだいじ、興福寺こうぶくじより、常光院、円明院まで、七十四箇処の御誦経あり。
 御神馬を引るゝ事、大神宮、石清水より、厳島までに八社と聞ゆ。
 小松こまつの内大臣ないだいじん御馬を進せらる。
 父子の儀なれば、可然、寛弘に上東門院御産の時、御堂関白みだうくわんばくの御馬を進られし、其例に相叶へり。
 五条ごでうの大納言だいなごん邦綱卿くにつなのきやうの馬二匹進られたりし、志の至りとは云ながら、徳の余りか、不然とぞ人々傾申ける。
 又仁和寺にんわじ守覚しゆうかく法親王ほふしんわう、孔雀経の御修法、天台座主てんだいざす寛快法親王ほふしんわう、七仏薬師しちぶつやくしの法、寺長吏円恵ゑんけい法親王ほふしんわう、金剛童子法、此外諸寺諸山の、名徳知法の仁に仰て、大法秘法数を尽されけり。
 五大虚空蔵、六観音、一字金輪、五壇法、六字訶梨帝、八字文殊普賢延命大熾盛光等に至るまで残所なし。
 仏師法印召れて、等身の七仏薬師しちぶつやくし、并ならびに五大尊の像造立せらる。
 御誦経物には御剣御衣、諸寺諸社へ被進。
 御使は宮の侍の中に有官の輩勤之。
 平文の狩衣に帯剣したる者共の、御剣御衣を始として、色々の御誦経物を捧て、東の対より南庭を渡て、中門を持つれたる有様ありさまは、ゆゝしき見物にてぞ有ける。
 二位殿にゐどのと入道殿にふだうどのとは、つや/\物も覚ずげにて、人の物申しけれ共、あきれ給たまひて、只兎も角かくも能様にとのみ宣。
 さり共鎧打著て馬にのり、敵の陣に押寄て、軍のおきてし給はんには、角はよも臆し給はじとぞ、上下思申ける。
 新しん大納言だいなごん成親卿なりちかのきやう、法性寺執行俊寛、西光さいくわう法師ほふしが霊共、御物付に移て、様々に申事ども有て、御産も不成と申ければ、入道二位殿にゐどの共に弥魂を消、心を砕給へり。
 係ければ、様々御願ごぐわんを立られけれ共、其験なくして、遥はるかに時刻押移ければ、御験者面々に増伽の句共あげて、我わが寺々の三宝年来所持の本尊責伏奉ければ、振鈴しんれいの声大内に満、護摩の煙虚空にあがる。
 いかなる悪霊邪神も、争か障碍を成べきとぞ見えし。
 諸僧の心中推量られて貴かりけるに、猶其効見えざりけり。
 法皇御几帳近く居寄らせ御座おはしまして、千手経をぞあそばしける。
 余あまりの忝かたじけなさに、身毛竪涙を流す人も有けり。
 躍り狂ふ御よりましの縛共も、少し打しめりたり。
 勅定には、何なる御物気也とも、老法師かくて侍らんには争か可近付、我聞阿遮一睨の窓の前には、鬼神手を束て降を乞、多齢三啜の床上には、魔軍頭を振て恐を成と、況観音無畏の利益をや、千手神咒の効験をや。
 而今顕るゝ処の怨霊と云は、成親俊寛西光等也、皆朕が依朝恩官位俸禄に預し輩に非や。
 縦報謝の心こそ存ぜざらめ、豈障碍を成に及ばんや。
 其事不然、速に罷退き侍れと被仰、女人臨難生産時邪魔遮障苦難忍至心称誦大悲咒鬼神退散安楽生と貴くあそばして、御念珠さらさらと押揉せ御座おはしましければ、御産安々と成せ給にけり。
 頭とうの中将ちゆうじやう重衡朝臣、其時は中宮亮にて御座おはしましけるが、簾中より出給たまひて、御産平安皇子御誕生ごたんじやうと高らかに申されたりければ、入道殿にふだうどの二位殿にゐどのは、余あまりの嬉さに声を上てぞ泣れける。
 忌々しくぞ聞えし。
 関白殿くわんばくどの以下、太政大臣だいじやうだいじん已下堂上堂下の人々、一同にあと宣合れける声のどよみにて有ければ、門外まで聞えてけしからずぞ覚えし。
 小松大臣は蒔絵の細太刀鴎尻に佩給、金銭九十九文御枕の上に置て、天を以て父とし地を以て母とすと奉祈けり。
 即御臍の緒を奉切て囲碁手に銭被出たり。
 弁靱負佐是をうつ、是又例ある事にや。
 故建春門院けんしゆんもんゐんの御妹、あの御方懐あげ奉る。
 平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやうの、北方師典侍殿、御乳付に参給へり。
 此女房は中山中納言顕房卿の女なり。
 法皇は新熊野へ御参詣有べきにて、兼て御車を門外に立させ給たまひ、急ぎ御出有けり。
 即新熊野にて移花進せさせ給けり。
 入道殿にふだうどのより御文有とて捧之、披て叡覧あり、沙金千両、富士の綿千両の送文なり。
 御布施と覚たり。
 最便なくぞ有ける。
 法皇は彼送文を後さまへ投捨て、鳴呼験者しても、身一はすぐべかりけりと仰有けり。
 何者なにものか立たりけん、新熊野にて法皇の御庵室の前に、札に書て、御験者の請用振は何日にて侍べきぞ、化行せしとぞ立たりける。
 最をかしかりけり。
 代々の女御后の御産有しかども、太政法皇の御験者昔より未無其例、末代にも有難。
 当代の后宮に御座おはしませば、父子の御心も浅からざりける上、太政だいじやう入道にふだうを重思召おぼしめしける故也。
 故建春門院けんしゆんもんゐんの女院渡せ御座おはしまさんには、角はよもあらじと人々申合れけり。
 御軽々敷御事をば免し進せられざりけるにや、陰陽頭助以下多参会して思々に占申けり。
 亥子の時と申者もあり、丑寅と占者もあり、又姫宮と勘申者も有けるに、陰陽頭安部泰親ばかりぞ御産唯今の時、皇子にて渡せ給ふべしと申ける。
 其詞の未終けるに、皇子御誕生ごたんじやう、指神子と申も理也。
 御悦申に被参ける人々には、
 当時関白くわんばく松殿基房 太政大臣だいじやうだいじん師長 大炊御門左大臣経宗 九条右大臣兼実 小松こまつの内大臣ないだいじん重盛しげもり 徳大寺とくだいじの左大将実定 同弟左宰相さいしやうの中将ちゆうじやう実家 源大納言だいなごん定房 三条大納言だいなごん実房 五条ごでうの大納言だいなごん邦綱くにつな 藤大納言だいなごん実国 中御門中納言宗家 按察使資賢 花山院中納言兼雅 左衛門督時忠 藤とう中納言ぢゆうなごん資長 別当春宮とうぐうの大夫忠親ただちか 左兵衛督成範 右兵衛督うひやうゑのかみ頼盛よりもり 源げん中納言ぢゆうなごん雅頼 権ごん中納言ぢゆうなごん実綱 皇太后宮くわうたいごうぐうの大夫朝方 門脇かどわきの平宰相へいざいしやう教盛 六角宰相家通 左宰相さいしやうの中将ちゆうじやう実宗 堀河宰相頼定 新しん宰相さいしやうの中将ちゆうじやう定範 左京大夫脩範 太宰大弐親信 左三位中将知盛 新三位中将実清 左大弁さだいべん俊綱としつな 右大弁長方
已上三十三人也。
 右大弁の外は直衣にて参給へり。
 不参の人々は、花山院前太政大臣だいじやうだいじん忠雅、前大納言だいなごん実長、両人は近年出仕なかりければ、唯布衣を著して太政だいじやう入道にふだうの宿所へ向はる。
 大宮大納言だいなごん隆季の第一の娘は、法性寺殿御子左三位中将兼房の室にて御座おはしましけるが、去七日難産せられたりければ、隆季出仕し給はず、三位中将も出仕なし、不吉と存ぜられけるにや。
 又前さきの右大将うだいしやう宗盛は、去七月に室家逝去に依て無出仕
 彼所労の時、大納言だいなごんならびに大将両官をば辞申されたりけり。
 前治部卿光隆、近衛殿このゑどの御子息ごしそく右二位中将基通、宮内卿永範、七条修理しゆりの大夫だいぶ信隆、所労、藤三位基家、大宮権大納言ごんだいなごん経盛所労、新三位隆輔、松殿御子息ごしそく、三位中将隆忠不参とぞ聞えし。
 御修法結願して勧賞被行。
 仁和寺にんわじの宮には、東寺を可修造
 法印覚成を以て権大僧都ごんのだいそうづに被任。
 後七日の御修法、大元の法灌頂くわんぢやう、可興行と、座主宮には、以法眼円良、被法印
 此両事、蔵人頭くらんどのとう皇太后宮くわうたいごうぐう権大夫光明朝臣奉て、被仰下けり。
 座主宮は、二品并ならびに牛車を申させ給けれ共無御免
 仁和寺にんわじ宮聞召きこしめして、御憤おんいきどほり深勧賞蒙しと申させ給けるとかや。
 右大将うだいしやう宗盛卿むねもりのきやうの北方御帯進せ給たりしかば、御乳人と成給ふべかりしか共、七月に失給にければ、左衛門督時忠卿ときただのきやうの北方、御乳人に成給にけり。
 本は建春門院けんしゆんもんゐんに候はれけるが、皇子受禅の後、内侍典侍に成給たまひて、師典侍殿とぞ申ける。
 抑此御産の時、様々の事共有けり。
 目出かりし事は、太上法皇の御加持、浅猿あさましかりし事は太政だいじやう入道にふだうのあきれ様、忌々しかりし事は、入道と二位殿にゐどのと泣給へる事、優也し事は、小松大臣の有様ありさま、本意なかりし事は、右大将うだいしやうの篭居、あやしかりし事は、甑を北の御壺に落て、取上て、又南へ落直たりし事、皇子御誕生ごたんじやうには、南へこそ落すに、聞誤たりけるにや、希代の勝事とぞ私語ささやきける。
 をかしかりし事は、陰陽頭安部時晴が、千度の御祓勤て大繖持て参けるが、左の履を蹈ぬかれて、其をとらん/\とする程ほどに、冠をさへ突落されたりけれ共、余あまりの怱々に周章あわてつゝ其をも知らず、花やかに装束したる者が、もとゞりはなちて、さばかりの御前へ、圧口に気色して出たりける事、さしもの御大事おんだいじの中に、堂上堂下女方男方、腸を断けり。
 不堪者は閑処に逃入人もあり。
 建礼門院内へ参せ給たまひて后に立せ給にければ、あはれ皇子御誕生ごたんじやうあれかし、位に即進せて、外祖父とて、弥世を手に杷らんと思心御座おはしましければ、二位殿にゐどの日吉社に立願を百日祈申されけれ共、其験なかりければ、入道は浄海が祈申さんに、などか不賜とて、本より奉憑事なれば、厳島へ月詣を始て、詣給けるに、いつしか二箇月に御懐妊の気御座おはしまして、皇子御誕生ごたんじやうあり、掲焉也し効験也。

頼豪らいがう出王子

 白川院【白河院】しらかはのゐん御位の時、后腹皇子渡せ給はざりければ、主上御心元なく思召おぼしめし、貴僧と聞召ければ、三井寺みゐでらの実相房の頼豪らいがう阿闍梨あじやりを召れて、汝皇子祈出してんや、効験あらば勧賞は乞に依べしと被仰含
 頼豪らいがう畏て申す、年来深望侍、勅定無相違は、皇子の御誕生ごたんじやう勿論の御事也と奏す。
 主上大に悦思召おぼしめして、勧賞乞に依べしと、重て勅約あり。
 頼豪らいがう悦で本寺に帰、年来所持の本尊の御前にして、肝胆を砕て祈申ける程ほどに、中宮たゞならぬ御事と承て、弥皇子御誕生ごたんじやうと、黒煙を立て祈申。
 月満御座おはしまして、承保元年十二月十六日じふろくにち、最安らかに皇子御誕生ごたんじやうあり。
 主上斜なのめならず御感有て、頼豪らいがうを召て、効験神妙しんべう神妙しんべう、勧賞何事をか可申請と御気色おんきしよくあり。
 頼豪らいがうは園城寺をんじやうじに戒壇を立、寺門年来の遂本意とぞ奏しける。
 其時主上、こは思食おぼしめしよらぬ御事也、只一度に僧都そうづ僧正そうじやうにも成、寺領坊領をも申さんずるにやとこそおぼし召れつれ、戒壇の事は、努々御存知なかりきと、勅定有ければ、頼豪らいがう重て凡卑の愚僧、名聞の高位も所望なく、此事を申うけん為に、微力を励、肝胆を砕て祈出進せり。
 綸言をば汗に喩、出て再帰事なし、勧賞は乞に依べきよし、勅約今更改べからず候也。
 寺門の宿訴と云、頼豪らいがうが本意と云、所望たゞ此事に有と奏申。
 主上の仰には、凡皇子誕生たんじやう有て、祚を令継事も、海内無為の御志也。
 今汝が所望を達せば、山門憤を成て、世上静ならじ。
 両門の合戦出来せば、天台の仏法ぶつぽふたちまちに亡ぬべし、何ぞ戒壇の一事を以て、三院の牢籠を顧ざらん。
 其上三井の戒壇においては、上代既達せず、後代争か成せんと仰下されければ、頼豪らいがうは、百千万却の古より、欣求ごんぐ浄土じやうどの望を達せずとて、二千にせん余年の今、厭離穢土の思を可断、争前仏の教化に依預、即可漏は、後仏の引導に、現在未来の、一切衆生出離生死の期を失ふべし。
 此条専背聖教、其理豈叶仏意哉。
 就なかんづく我門徒もんとの為体、乍耀能依之戒光於胸中、不所依之戒壇砌下、悲哉毎登壇受戒之期、必臨異門他宗之境、恨哉乍大乗円頓之器、受小乗偏漸之戒、愁吟之至切也。
 門人而誰不傷嗟、悠々たる生死之長夜に、挑戒光而照闇冥、茫々たる苦海之嶮浪に、乗木刃而至彼岸
 只為三界濁穢苦域所住、欲九品浄土じやうど常楽の安養也。
 此条若存矯飾者、吾国は神国也、神明神道宣非、吾法は仏法ぶつぽふ也、仏界仏陀須罰、現世には即不三七日、速に災難災殃を招、当来には必可万却千却永沈八寒はちかん八熱はちねつ、是仏法ぶつぽふ興隆の為なり、是衆生利益の故也など、種々に申し上けれ共、遂に御許なかりければ、頼豪らいがう大悪心を起し、眼の色替、今は思死とて、双眼より涙をはら/\とこぼし、御前を立様に、頼豪らいがう思死に死失なば、皇子は我進たる物なれば、即可取返とて、三井寺みゐでらへ罷帰る。
 即飲食を止めて、道場に入、行死に死て、皇子を取死し奉らんとぞ聞えける。
 此事主上聞召きこしめして、宸襟不安、朝政も御倦までの御歎也ければ、江中納言匡房卿の、其時は美作みまさかのかみにて御座おはしましけるを召て、皇子誕生たんじやうの勧賞、頼豪らいがう三井寺みゐでらに戒壇建立こんりふの所望有つるを、御免なしとて、悪心を起し、我身干死にして、皇子をも可取返由聞召、汝は、師壇の契深し、罷向て誘宥よと仰ければ、匡房卿装束を改ず、束帯を正して、内裏よりやがて三井寺みゐでらへ馳行て、彼坊に罷向て見ば、蔀遣戸も立下、纔わづかに持仏堂計に人ありがほ也。
 明障子も護摩の煙に薫て、何となく貴く身毛竪てぞ覚えける。
 美作みまさかのかみ持仏堂の大床にたゝずみて、匡房参侍る由申けれ共、暫は音もせず。
 頼豪らいがう良久有て、荒らかに障子をあけて出給へり。
 目はくぼくぼと落入、白髪は永々と生延て、銀の針を琢立たる如し。
 手足の爪も切らず、身の垢も積りて、顔の正体もなし。
 天狗とかやも角やと覚て、物おそろし。
 頼豪らいがう申けるは、やゝ御辺ごへんは、宣旨の御使にこれへは入給へるな、奉出合事は不思寄存つれ共、年来師壇の契不浅、最後の見参と存て、只今ただいま見也。
 有難志と思給べし。
 さて天子は不虚言、綸言如汗、出再不帰とこそ承、皇子祈出して進よ、勧賞は可乞と、度度蒙勅定し間、過去今生の所修の功徳を回向して、肝胆を砕て精誠を尽祈生進ぬ。
 其に戒壇建立こんりふを不免条、生々世々しやうじやうせせの遺恨、単に此事にあり。
 所詮皇子に於ては奉取返侍べし。
 今生の見参これ最後也とて、持仏堂に帰入て、障子を丁と立て、其後は音もせず、匡房卿不力、帰参してしか/゛\と奏聞す。
 主上ゆゝしく歎思召おぼしめしければ、当時の関白くわんばく太政大臣だいじやうだいじん師実卿、御痛敷思ひ進て、暫く頼豪らいがうが怨を被宥程、戒壇を可許歟と被申ければ、叡慮も思食おぼしめし煩せ給けるに、御夢想ごむさうあり。
 賢聖の障子のあなたに、赤衣の装束したる老翁あり。
 左の脇に弓を挟て、大なる鏑矢をさらり/\と爪よると聞召ければ、驚思召おぼしめして誰人ぞと御尋おんたづね有けるに、我は是比叡山ひえいさんの西の麓に侍る老翁也。
 世には赤山とぞ申侍る。
 三井寺みゐでらに戒壇を可立由、執奏の臣あり。
 蒙御免て年来もてる鏑矢を放んと存て、矢を爪よる也と答と思召おぼしめして、御夢覚させ給たりけれ共、猶爪よる声は聞えさせ給ければ、無御免けり。

赤山大明神だいみやうじん

 赤山大明神だいみやうじんと申は、慈覚大師渡唐時、清涼山の引声の念仏を伝給しに、此念仏を為守護とて、大師に成芳契たまひ、忽異朝の雲を出て、正に叡山えいさんの月に住給ふ。
 されば大師帰朝の時、悪風に逢て其舟あやふかりければ、本山の三宝を念給けるに、不動毘沙門は艫舳に現給へり。
 此明神は又赤衣に白羽の矢負つゝ、舟の上に現じ給つゝ、大師を被守護けり。
 山王は東の麓を守給へ、我は西の麓に侍らん、閑なる所を好む也とぞ被仰ける。
 赤山とは、震旦の山の名也、彼の山に住神なれば、赤山明神みやうじんと申にや、本地地蔵菩薩ぢざうぼさつなり、太山府君とぞ申す。
 頼豪らいがうは戒壇勅許なければ、終に持仏堂にして干死に失にけり。
 さしもはやと思召おぼしめしけるに、王子常にわづらはせ給ければ、頼豪らいがうが怨霊を宥んとて、近江国、野州、栗太、両郡に、六十町の田代を実相坊領に寄附せらる。
 智証の門徒もんと一乗寺いちじようじ、三室戸など云ふ貴僧に仰て、御祈おんいのり隙なかりけれ共、遂に承暦元年八月六日御歳四歳にて隠れさせ給にけり。
 敦文親王とは此皇子の御事也。
 皇子隠れ給ぬれば、主上の御歎不なのめならず

良真祈出王子

 さて可黙止にあらざれば、西京座主大僧正だいそうじやう良真、其時は円融坊の大僧都だいそうづにて、山門には無止事貴人にて御座おはしましけるを被召、山門の叡信不浅、衆徒の憤兼て依思召おぼしめすに而、寺門の戒壇を免されぬ故、頼豪らいがう怨、奉皇子、早山門に継体の君を祈出し奉なんやと被仰下けり。
 僧都そうづ申けるは、九条右丞相慈恵僧正そうじやうに依契申こそ、冷泉院の御誕生ごたんじやうは有しか。
 代の末に臨と云とも、山門効験凌遅すべからず、なじかは御願ごぐわん成就じやうじゆし御座ざるべきとて、本山に還上て、山王三聖王子眷属、満山三宝護法聖衆に被祈申しかば、中宮賢子、承暦二年の冬の比より、たゞならぬ御事也けるが、同三年七月九日、皇子御誕生ごたんじやうあり。
 応徳三年十一月二十六日にじふろくにちに御年八歳にて東宮とうぐう立の御事有て、同おなじき十二月十九日御即位、寛治三年正月五日御年十一歳にて御元服ごげんぶく、御在位二十二年と申、嘉承二年七月十九日に、御年二十九にて隠れさせ給ぬ、堀河院と申は是也。
 御母は京極の大殿の御女おんむすめと申、誠には六条右大臣源顕房の御女おんむすめとかや。
 山門の霊験も掲焉也し事也。

頼豪らいがう鼠事

 頼豪らいがうはからき骨を砕て、皇子をば祈出し進せたれども、戒壇は御免なし、大悪心を起して、旱死しけるぞ無慙なる。
 去さるほどに山門又皇子を奉祈出、御位に即せ給たりければ、頼豪らいがうが死霊もいとゞ成怨霊、山門と云ふ処があればこそ、我わがてらに戒壇をば免されね、されば山門の仏法ぶつぽふを亡さんと思て、大鼠と成、谷々坊々充満て、聖教をぞかぶり食ける。
 是は頼豪らいがうが怨霊也とて、上下是彼にて打殺踏殺けれ共、弥鼠多出来て、夥なんどは云計なし。
 此事只事に非ず、可怨霊とて、鼠の宝倉を造て神と奉祝、さてこそ鼠も鎮けれ。
 円宗の教を学して、可成仏じやうぶつ頼豪らいがうが、由なき戒壇だてゆゑに、鼠となるこそをかしけれ。

守屋成啄木鳥

 昔聖徳太子しやうとくたいしの御時、守屋は仏法ぶつぽふを背、太子は興之給。
 互に軍を起しかども、守屋遂被討けり。
 太子仏法ぶつぽふ最初の天王寺を建立こんりふし給たりけるに、守屋が怨霊彼伽藍がらんを滅さんが為に、数千万羽の啄木鳥と成て、堂舎をつゝき亡さんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給けり。
 されば今の世までも、天王寺には啄木鳥の来る事なしといへり。
 昔も今も怨霊はおそろしき事也。
 頼豪らいがう鼠とならば、猫と成て降伏する人もなかりけるやらん、神と祝も覚束おぼつかなし。

三井寺みゐでら戒壇不許事

 抑伝教智証は、師弟の契、延暦えんりやく園城をんじやうは一味の仏法ぶつぽふ也。
 両寺りやうじ戒壇何の妨か有るべきなれ共、冥慮より起に依て、三井の訴訟雖度々、代々聖主更に無勅許
 御朱雀院御宇ぎよう、長暦三年に、園城寺をんじやうじの衆徒等しゆとら、頻しきりに訴申ければ、主上もかた/゛\思召おぼしめし煩せ給たまひて、御宸筆ごしんぴつの祭文を遊して、当時の貫首教円座主に登山を進め、七箇日有御祈誓云、敬白、叡山えいさん三宝根本中堂こんぼんちゆうだう護法山王四所八王子はちわうじ、昔延暦えんりやく聖代、始祖大師、建立我山以来、年記遥矣、霊験炳然、智証門徒もんと月白、別建戒壇於三井之道場、請得度於一門之師跡、便是郡国之重事、法宇之要害也、窃見旧典、前聖猶難思、新義末代豈易乎、仍以座主大僧都だいそうづ法眼和尚くわしやう位教円、自今日七箇日、令白満山三宝護法山王、戒壇分而可国家之危者、悟其指帰、戒壇立而可王者之懼者、施其示現、詫自身他人、不一七祈祷之日限、必彰遠近掲焉之証験、敬白、〈 取要 〉書之。
  長暦三年八月日                    皇帝   諱卜
 教円座主祈誓七箇日の間、太上天皇てんわう御霊夢三箇度さんがど御覧有りけるに依て、御免なかりけり。
 後冷泉院御宇ぎよう、天喜元年冬、又三井の衆徒、戒壇建立こんりふを可免由、雖奏状、御免なし。
 白川院【白河院】しらかはのゐんの御宇ぎよう、承保元年に、皇子御誕生ごたんじやうの勧賞、頼豪らいがう加様に奏申けれ共、赤山の御詫宣に恐て無御免
 冥の照覧実に子細あるらんと覚たり。
 同おなじき十五日、法皇中宮の御産所、六波羅の池殿へ御幸なる。
 十二月二日は、宗盛卿むねもりのきやう、大納言だいなごんならびに大将辞状を返し給はる。
 去十月両官を辞申されたりしか共、君も御憚有て臣下にも授給はず、臣も成恐望申事なし。
 三条大納言だいなごん実房、花山院中納言兼雅などは、哀とは思食おぼしめしけれ共、色にも詞にも出し給はず、宗盛両官に成返給たりければ、人々さればこそとぞ思はれける。
 十二月八日、皇子親王の宣旨を被下、十五日皇太子に立せ給ふ。

丹波たんばの少将せうしやう上洛事

 治承三年正月十日比とをかごろに、丹波たんばの少将せうしやうは、鹿瀬庄を出て上洛、都に待つらん人も心元なかるらんとて、急給けれども、余寒猶烈くて海上も痛荒ければ、浦伝、島伝して日数を経つゝ、二月十日比に、備前児島と云処に漕著給ふ。
 其辺の者に、故大納言だいなごん入道殿にふだうどのの御座おはしましけん所は何所ぞと尋給へば、始は是に御渡候しが、是は猶悪とて、当国の中ひだの、如意尻と申所に、難波太郎俊定と申者が、古屋に移らせ給たまひて侍しを、早昔語に成せ給にきと申す。
 少将は始御座おはしましける父の御跡と聞て、児島の宿所を見給へば、柴の庵の奇に、草の編戸を引立たり。
 浅猿気なる山辺なれば、細谷川の水、岩間をくゞる音幽に、尾上を吹嵐の梢を伝ふも身にしみて、いかばかり悲く御座おはしましけんと、袖もしぼりあへ給はず、其より又如意尻へ尋入て見給へば、是又うたてげなる賤が屋なり。
 係処にしばしも御座おはしましけんよと、後までも労しくぞ思はれける。
 内に入て見巡給ければ、古障子に手習し給へる跡あり。
 父の書給へるよと涙浮て目も見え給はざりければ、少将袖を顔にあてて立除、やゝ判官入道殿にふだうどの、何と書給へるぞ、其御覧ぜよと宣のたまひければ、入道指寄て見れば、前海水じようじようとして
  月浮真如之光、後巌松禁々風奏常楽之響、聖衆来迎之義有便、九品往生之望可足と、又荊鞭けいべん蒲朽蛍空去、諫鼓苔深鳥不
とも書れたり。
 又常に居給たりける、後の障子と思しきに、六月二十七日に、源左衛門尉げんざゑもんのじよう信俊下向共書れたり。
 其昔都にて殊に不便に思召おぼしめして、御身近く召仕はるゝ者が下向したりけるを、余に嬉く思召おぼしめして其その並を書き付られたりけるにこそ、故入道の御手跡と奉見、寄て御覧ぜよと、判官入道勧め申ければ、少将寄て涙の隙より是を見に、実に父の在生の筆の跡也ければ、其子としてこれを見給けん、御心の中、さこそ悲く思けめ、水茎の跡は千世も有なんとは是やらんと思給たまひけるにもいとゞ涙のこぼれける。
 御墓は何所やらんと問給へば、有木別所と云山寺也と申。
 是やこの備中と備前との境なる、吉備の中山打過ぎて、細谷川を分登給へば、秋の空にはあらねども、草葉に袖もぬれしをれ、落る涙に諍けり。
 彼別所にて何所の程ぞと尋れば、あれに侍一村松の程と申ければ、少将は萌出若草を分入て見給へども、其験もなければ、卒都婆一本も見えず、実に誰かは立べきなれば、只一村の松本に、八重の葎引塞、苔深く繁て、土の少高かりける所をぞ其験とも思はれける。
 少将は其前に居給たまひて、目にあまる涙をのみぞ流給ふ。
 康頼入道も、諸共に、墨染の袖を絞けり。
 少将良有て宣のたまひけるは、備中国へ可流と聞えしかば、可相見とは思はざりしか共、御渡の国近しと承、よにも嬉しく侍りしに引替、鬼界島へ流されて後、幾程もなくて空く成せ給たまひぬと、夙承りしかば、世にも悲く覚て、生てかひなきとまで思つゞけ侍き。
 彼島の有様ありさま一日片時堪て有べしとも覚ざりき。
 されども遠き守とやならせ給たりけん、露の命三年の秋を送迎て、都に還上、二度妻子を見ん事うれしく存ずれども、ながらへて御質を見進らせたらばこそ、不消命の験にても候はめ。
 是までは急がれつる道の、今より後は行空も覚え難しと、生たる人に物を云様に、墓の前にて通夜細々と口説宣のたまひけれ共、春風にそよぐ松の響、岩間に落る水音ばかりにて、答る声もせざりけり。
 年去年来ども難忘ものは撫育の昔の恩、如夢如幻、易漏者恋慕の今の涙也。
 悲かな形を苔の底に埋て再其貌を見ず、怨哉名を松の下に残ども、終に其音を聞ざる事を。
 成経が参たると聞召さんには、何なる処に御座とも、などかは一言の御返事おんへんじなかるべき。
 冥途の境異に、生死の道の隔る習こそ心うけれとて、泣々なくなく旧苔を打払つゝ墓を築、釘貫し廻て、道すがら造られたりけり。
 卒都婆墓の中に立給。
 又参らん事も有難とて、墓の前に蓬葺の道場しつらひて、僧を請じて少将と判官入道と相共に、七日七夜なぬかななよの不断念仏申、卒都婆経一部書き、過去聖霊成等正覚とぞ祈給ふ。
 草葉の陰にても亡魂いかに嬉と思すらん哀也。
 名残なごりはさこそ惜かりけれども、さても有べきならねば、泣々なくなく其を出けるに、判官入道哀に思入て、成親を有木の別所に送りたりけるにそへて、釘貫の柱に、
  朽果ぬ其名計は有木にて身は墓なくも成親の卿
 角て備前国をも漕出給ければ、都近くなるに付ても、様々哀ぞ多かりける。
 治承三年二月二十二日、宗盛卿むねもりのきやう、大納言だいなごんならびに大将を上表あり、今年三十三さんじふさんに成給ければ、重厄の慎とぞ聞えし。
 同三月十六日じふろくにちの暮は、丹波たんばの少将せうしやう鳥羽の州浜殿に著給へり。
 軈も六波羅の宿所へ落つかばやと被思けれ共、此三年の間疲たる身の有様ありさまを、人々に見えん事も、さすが愧くや覚しけん、迎に下たりける者に、是までこそたどり著て侍れ。
 ふくる程ほどに牛車給り候へと宰相の許へ被申けり。
 宰相は又少将も今は上給らんに、今まで遅は何と御座おはしまするやらん、無心元とて、中間雑色数多あまた、江口、神崎かんざき、室、兵庫ひやうご辺まで下遣たりけれども、遊君遊女に戯つゝ疎略にや侍たりけん、違て少将は登給へり。
 使六波羅の宿所に来て角と云ければ、奉宰相、貴きも賤きも悦相り。
 北方も乳母めのとの六条も、御文見給たまひて、穴珍穴珍、昼はいかなるぞや、必しも更て入せ給べきかや、人は御心のつよきぞやとて泣給けり。
 少将の父故大納言だいなごん入道殿にふだうどのは、京中にも限ず、所々に山庄多持給へり。
 其中に鳥羽の田中殿の山庄をば、殊に執思給たまひて、私に州浜殿とぞ申ける。
 少将は日をも暮さんため、父の遺跡もなつかしくて見巡給ければ、屋敷は昔に替らねども、蔀格子もなかりけり。
 築地崩て覆朽、門傾て、扉倒、庭には千種生茂、人跡絶て道塞、蘿門乱て地に交り、唐垣破て絡石はへり。
 檐には垣衣苅萱生かはし、月漏とて葺ねども、板間まばらに成にけり。
 少将〔の〕あの屋この屋に伝つゝ、大納言だいなごんはこゝにこそ御座おはしまししか、彼にこそ立給しかなど、思つゞけ給たまひても、哀のみこそ増けれ。
 何事に付ても皆昔に替たれども、比は三月の中の六日の事なれば、秋山の梢の花、所々に散残、楊梅桃李の匂も、折知顔に色衰、百囀の鶯も、時しあれば声已に老たり。
 少将悲のあまりに、木の本に立より、古き詞を詠じ給たまひけり。
  桃李不言春幾暮、煙霞無跡昔誰栖、
と又思ひつゞけ給ふ。
  人はいさ心もしらず故郷は花ぞむかしの香ににほひける
 いつしか田舎には引替て、入相の野寺の鐘の音、今日も暮ぬと打響く。
 彼遺愛寺の辺の草庵に似たりけり。
 王昭君が胡国の夷に囚れて後、其跡角や有けんと、思ひやられて哀也。
 姑射山仙洞の池の汀みぎはを望ば、春風波に諍て、紫鴛白鴎逍遥せり。
 興ぜし人の恋さに、いとゞ涙ぞこぼれける。
 南楼の木本には、嵐のみ音信おとづれて、夢を覚す友となり、木間を漏る月影の、涙の袖に宿れるも、名残なごりを慕かと覚ゆるに、夜差更て宰相の本より迎に人来たり。
 少将と判官入道と同車どうしやして遣出す。
 造路四塚東寺の門をも打過けり。
 うれしさの心中、只推量べし。
 二人は道すがら、硫黄島の心うかりし事共語り連ても、俊寛僧都そうづをぞ悲みける。
 只一人島の巣守と成果てて、思に堪ずはかなくや成ぬらん、又猶も生て有ならば、いかばかり〔か〕歎き悲むらん、糸惜や三人有しにだにも、僧都そうづは殊に思入たりしに、増て友なき身と成ては、さこそ有らめと、互に袖を絞けり。
 さても三人同罪とて被流、一人は留二人帰上事、是偏ひとへに熊野権現の御利生にこそと、貴にも又涙也。
 判官入道は三年の名残なごりを惜つゝ云けるは、昔召仕し者、東山双林寺の辺にありき、相尋べし。
 今は係る身に成ぬる上は、世を諂に及ばず、他事を忘て後世の営をはげむべきに侍り。
 若真如堂雲居寺詣など思召おぼしめし立事あらば、御尋おんたづねも有べし。
 又性照も道広成なば、六波羅の貴殿へも参ずべし。
 三年の依御恩、消やすき命のながらへて、再都に帰上ぬる事、生々世々しやうじやうせせに難忘こそ奉思とて、或は悦或は契て、墨染の袖を顔にあてて、六波羅にて車より下り、暇申て分れにけり。
 少将は宿所に落著給たりければ、宰相を奉始、皆悦の涙に咽て、急度もの云人もなかりけり、理には過たり。
 少将は昔住馴給し方へ御座おはしまして、見廻給たまひて、内に入給へり。
 懸連たりしせい廉も、さながら有、立並たりし屏風も障子も動らかず、只昔に替たる物とては、乳母めのとの六条が、三年のもの思に、黒かりし髪の皆白妙に成たると、少人のおとなしく生立給へると計也。
 北方も疲衰給へり。
 是も三年のもの思と覚たり。
 昔足柄明神の異国へ渡り給しに、さり難妻の御神を留置て、恋悲給んずらんと覚しけれ共、振捨て三年をへて後に還給たりけるに、殊に白くうつくしく肥ふとり給たりければ、明神の仰には、滝の水も冷恋せば疲もしぬべし。
 我を恋悲み給はざりけるにこそとて、終に別れ給にけり。
 是は疲衰給たまひたりければ、誠に恋しと思給けりとて、いとゞ情ぞ増ける。
 少将被流給し時、四になり給ける若者は、髪生のびて結程なり。
 見忘給はざりけるにや、父の御膝近くなつかしげにて寄給へり。
 又北方の御傍に、三ばかりなる稚人の御座おはしましけるを、あれはたそと問給ければ、北方是こそはと計にて、又物も宣はず泣給けるにこそ、流されし時、近産すべきにと心苦く見置しが、生にけるよとは心え給たりける。
 是を見彼を見に付ても、尽せぬ物は只涙也。
 少将は急御所に参て、君をも見進せばやと被思けれ共、そも召もなかりければ、憚進て不参。
 法皇も御覧ぜまほしく思食おぼしめしけれ共、人の口を御憚有て、急召事もなし。
 同おなじき十八日じふはちにちに入道より宰相の許へ使者あり。
 少将相具して来給へと也。
 又いかなる事の有べきにやとて、各歎思はれけり。
 さて黙止べきにあらねば、宰相と少将と同車どうしやして、西八条にしはつでうへ参られたり。
 入道中門の廊に出合給たまひて、鬼界島の事あら/\問給へば、少将は細々とぞ答へける。
 戯呼哀なる所にこそ、実にさこそ思給たまひけめ、早々出仕し給たまひて、田舎忘あるべしと宣のたまひければ、さてこそ御所に参て君をも見進せけれ。
 其後本位に復し、夕郎の貫首を経て、父の跡を遂、大納言だいなごんにも至りけれ。

康頼入道著双林寺

 判官入道は、東山双林寺に、昔の山庄の有けるに、落著て見けれ共、留主るすに置たりし下人もなし、庭には千草生かはし、軒にはしのぶも茂たり。
 荒たる宿の習にて、事問人もなく、板間の苔むして、月の光も漏ざりければ、いとゞ心のすみつゝ思ひつゞけけり。
  故郷の軒の板間に苔むして思ひしよりももらぬ月哉
と。
 我世に有し時は、宿所もあまた有き。
 山庄も所々に有しか共、鬼界へ越し後は、其行末を不知、僅わづかに残る栖とては、此屋ばかりと哀也。
 さても入道は紫野に有ける、七十有余いうよの母の許へ、急ぎ角と申たかりけれ共、身にそへる下人もなし、昨日は夜ふけて都へ入りぬ。
 程は遠、明を遅しと待けるが、同おなじき十七日じふしちにちに、人を語ひて、母がもとへぞ遣ける。
 下侍し時角と申度侍しかども、老衰て後歎おぼさんを、まのあたり見聞奉らんも、中々痛しく思給しかば、心づよく告申事もなくて罷下侍しに、かひなき命の不消して、再都に帰上、見見え奉ん事こそ嬉く侍れ、急参らん程先人を進する也とぞ云遣たりける。
 入道の又母は、七十に余て、悲き子を流れて、係る憂目を見事よと歎けるが、可召返と聞ければ、流されし時は、由なき命の長生哉と思しに、今は我子を再見ん事の嬉さよ、去年の冬島をば出たりと聞に、何に見えぬやらん、海路遥はるかに日を経たり、風の烈き折節をりふしなれば、波の底にも沈たるやらんとぞ歎けるが、其思や積けん、はかなく聞えて、今日は五日に成にけり。
 使帰て角と申ければ、入道は墨染の袖を顔にあてて、
  薩摩方沖の小島に我ありと親には告げよ八重の塩風
とは、誰がために云ける言葉ぞとて、絶入絶入咽けり。
 其後は双林寺の庵室に閉籠、なからん跡の形見とて、涙の隙々に宝物集を造て、世にこそ披露したりけれ。

有王渡硫黄島

 法勝寺ほつしようじ執行俊寛は、此人々に捨られつゝ、島の栖守と成はてて、事問人もなかりけるに、僧都そうづの当初世に有し時、幼少より召仕ける童の、三人粟田口辺に有けるが、兄は法師に成て、法勝寺ほつしようじの一の預也。
 二郎は亀王、三郎は有王とて、二人は大童子也。
 彼亀王は僧都そうづの被流て、淀に御座処へ尋行て、最後の御供是こそ限なれば、何所までも参侍るべしと、泣々なくなく申けるを、僧都そうづは誠に主従の好み、昔も今も不浅と云ながら、多の者共有つれ共、世中に恐て問来者もなし、其恨にあらず、あまたの中に尋来て、角申こそ返々も志の程うれしけれ。
 但我に限らず、少将も判官も人一人も不随とこそ聞け、御免あらば幾人も具したうこそあれ、され共其義なければ不力、誠や薩摩国硫黄島とかやへ可流ときけば、命ながらふべしとも覚ず、路の程ほどにてはかなくもやならんずらん、我身の事は今はさて置、都の残留女房少者共の心苦きに、彼人々に付て朝夕の事をも見継べし、我に随はんに露劣るまじ、とく帰上れなど泣々なくなく宣通はす処に、宣旨御使又六波羅の使、何事申童ぞと怪み尋ける恐しさに、亀王名残なごりは惜けれども、泣々なくなく都へ帰上けり。
 其弟に有王と云けるは、僧都そうづに別て後、仕はんと云人在けれ共、宮仕もせず、大原おほはら、閑原、嵯峨さが、法輪貴所々に迷行て、峯の花をつみ、谷の水を結て、山々寺々手向奉、我主に今一度合せ給へと、夜昼心をいたして祈けるこそ不便なれ。
 角て三年を経て、少将と判官入道と、都へ還上ぬと披露有ければ、有王我主の事何に成給ぬるやらんと覚束おぼつかなく思て、此人々の迎に行たりける人に合て尋聞ば、上りしまでは御座おはしましき。
 二人に捨られて、歎悲み給し事、二人舟に乗給しに、舷に取付て、遥はるかに出給たりし事、陸に帰上て、浜の沙に倒ふし給事、委く語答ければ、有王涙を流て、さては未此世に御座るにこそ、誰育誰憐奉らんと悲くて、有王は只一人都をあくがれ出、未知薩摩方、硫黄島へ、遥々はるばるとこそ思立て、先奈良に行、僧都そうづの姫の御座おはしましけるに、角と申て御文を賜りけり。
 姫宣のたまひけるは、我身果報なき者と生て、父には生て別れぬ、母と妹には死して後れぬ、多の人の中に角思立ける志の嬉さよ、余りに父の恋く思侍れば、男子の身ならば走連ても、行まほしく侍れ共、女とて叶はぬ事の悲さよ、御文慥に進せて、相構て疾して御上あれと申べしとて、やがて倒れ臥、声も不惜泣ければ、童も倶に袖を絞る。
 唐船の纜は、四月五日に解習にて、有王は夏衣たつを遅しと待兼て、卯月の末に便船を得、海人が浮木に倒つゝ、波の上に浮時は、波風心に任せねば、心細事多かりけり。
 歩を陸地にはこびて、山川を凌ぐ折は、身疲足泥、絶入事も度々也。
 去共主を志にて行程ほどに、日数も漸積ければ、鬼界島にも渡にけり。
 此島の挙動、都にて伝聞しよりも、まのあたり見は堪て有べき様なし。
 峯には燃上ほむら行客の魂を消、谷には鳴下る雷、旅人の夢を破る。
 山路に日暮ぬれども、樵歌牧笛の音もなく、海上に夜を明せば、松風白浪心をいたましむ。
 童何事に付ても、慰思なければ、いかにすべし共不覚けれ共、主の行末の悲さに、谷に下て尋れば、岩もる水に袖しをれ、峯に上て求ば、松吹く嵐ぞ身にしみける。
 兎にも角にも叶はねば、只涙を流して立たりけり。
 去さるほどに島の住人と覚しくて、木の皮をはねかづらとして額に巻、赤裸にてむつきをかき、身には毛太く長く生て、長は六七尺しちしやく計なる者ぞ遇たりける。
 有王嬉て云けるは、此島に法勝寺ほつしようじの執行僧都そうづの御房御座おはしまし候なるは、何所にて候やらんと問ければ、打見たる計にて物も云はざりけり。
 法勝寺ほつしようじ共執行共、争か可知なれば、不答も理也。
 自言事も有けれ共、つや/\不聞知ければ、いとゞ力なく覚けり。
 責ては死給たりとも、其骸骨は御座らん、彼をなりとも尋得て、形見ともするならば、いか計限なく、志のかひも有べきに、御行へをだにも知ずして、空く都へ帰上らん事の悲さよと思て、猶深く山辺に尋入たれども、我主に似たる人もなし。
 立帰遥々はるばる浦路に迷出たれば、磯の方より働来者あり。
 只一所に動立様也。
 其形を見に、童かとすれば年老て、其貌に非、法師かと思へば又髪は空様に生あがりて、白髪多し、銀の針を立たるが如し。
 万の塵や藻くづの付たれ共不打払、頸細して腹大脹、色黒して足手細し、人にして人に似ず、左右の手には、小き生魚を二三づつ把り、腰のまはりには荒和布の取纏付けて、さけびきて、凡力もなげ也。
 童思けるは、哀我主の角成給たるにもや在らん、いかにといへば、若干の法勝寺ほつしようじ領を知行し給ながら、修理造営をばし給はず、恣に三宝の信施を受、あくまで伽藍がらんの寺用を貪給し罪の報に、生ながら餓鬼道に落給たるやらん、餓鬼城の果報こそ、頸は細く腹は大に、色黒して首蓬の如く有とは聞など、様々に思に、いとゞ悲て、近付き能々みれば、手も足もさすが人には違ず、都にも老衰たる者あり、片輪なる人もあり、去ば此島にも係者も有にこそと思て問ければ、やゝ一年此島へ三人流され給たりし人の二人は免て上給ぬ、今僧の一人御座なる、いづくにぞと云ければ、僧都そうづは貌こそ衰たりけれども、目と心とは昔に替ず、童をば慥我召仕し、有王とぞ被思ける。
 童は主の余に衰損じたれば、僧都そうづとは知ざりけれ共、さすが又何とやらん覚てつく/゛\と守立たり。
 僧都そうづは顔の色をとかく変じて様々にぞ思ける。
 我こそ俊寛よと名乗んとすれば、果報こそ拙て、かゝる身とならんからに、心さへ替けるよと思はん事も愧し、恥を見んよりは死をせよとこそ云に、さこそあらんからに、僧形として生魚を手に把たる心うさよ、只知ざる様にて過さばやと、千度百度案じけるが、又思けるは、此島にては、疎く不知者也とも、都がかりの人に遇たらんはうれしく珍らしかるべし、況年比の主を悲て遥々はるばると尋来たらん者を、其志を失、空く返し上せん事、最不便也、我も又問聞たき事も多しと、思返して、手に把たる魚をば後へ廻し、去げなき様に抛て、あれは有王か、何にして是までは尋来れるぞや、我こそ俊寛よ、穴珍や/\、己一人を見たれば、捨別し妻子も住なれし古郷も、皆見つる心地のするぞや、いかに/\とて、手すり足すり喚叫けり。
 其時こそ有王も、慥の主とは思けれ。
 係様も有けるにや、昔軽大臣の遣唐使に渡されて、形を他州にやつされ、燈台鬼となされつゝ、帰事を不得けり。
 子息弼宰相、其向後の覚束おぼつかなさに、大唐国に渡て尋れ共/\、目の前に有ながら、明す者こそなかりけれ。
 父は子を見知つゝ、角と云まほしけれ共、物いはぬ薬をのませ、唖になされたりければ、そも叶はず、額に燈械を打れつゝ、宰相に向て、只泣より外の事なし。
 宰相はやつれたる父なれば、面を並て不知けり。
 燈台鬼涙を流つゝ、指端を食切て、其血を以て宰相が前に角ぞ書連ける。
  我是日本花京客、汝則同姓一宅人、為父為子前世契、隔山隔海恋情苦、経年流涙宿蓬蒿、逐日馳思親蘭菊、形破他州燭鬼、争帰旧里斯身
と書きあらはしたりけるにこそ、宰相は我父の軽大臣共知けれ。
 執行も三年の思に衰痩、あらぬ形に成たれば、知ざりけるも理也。
 我こそ俊寛よと名乗けるより、有王は流す涙せきあへず、僧都そうづの前に倒伏、良久物も云ず、さても老たる母をみすて、親者にも知れずして、都を出て、遥はるかの海路を漕下、危浪間を分凌ぎ参しには、縦疲損じ給たり共、斜なのめなる御事にこそと存ぜしに、三年を過し程はさすが幾ならぬ日数にこそ侍るに、見忘るゝ程ほどに窄させ給ける口惜さよ、日比ひごろ都にて思やり進けるは、事の数にても侍らざりけり、まのあたり見進する御有様おんありさま、うつゝ共覚候はず、されば何なる罪の報にて、角渡らせ給覧とて、僧都そうづの顔をつく/゛\と守つゝ、雨々とぞ泣臥たる。
 童良在て起あがりければ、僧都そうづも又起なほりて、泣々なくなくのたまひけるは、此島は遥なる海中、遠き雲の徐なれば、おぼろげにても人の通事なし。
 己が兄の亀王が、淀まで訪下たりしをこそ、有難く嬉き事と思ひしに、有王が是まで思立見来事、実に現とも覚ねば、もし夢にてや有らん、やをれ有王、さらば中々如何に悲しからん、そも恋しき者を見つれば、嬉などは云も疎也、さても少将と判官入道との有し程は、憂事悲事云連ては泣つ、思出有し昔物語ものがたりをしては笑つ、互に慰しに、被打捨し後は、一日片時堪て有べし共覚ざりしに、甲斐なき命のながらへて、互に相見つる事の嬉さよ、加程の有様ありさまなれば、何事を思べきにあらね共、都の残留し者共の、忘るゝ間なく恋く聞まほしけれども、心に任せぬ旅なれば其も叶ず、是ほどの志の有けるに、などや此三年までは問ざりけるぞ、少将の迎の時は、何に文一は伝ざりけるぞと宣。
 童申けるは、事も愚におぼしめしけるか、君西八条殿にしはつでうどのへ被召籠させ給し後は、御あたりの人をば、上下を云ず搦捕て、獄舎に入られ家財を壊取しかば、成恐近習の人々も、思々に落失ぬ。
 北方も鞍馬の奥、大悲山に忍ばせ給しが、明ても暮ても御歎浅からず、見えさせ給し程ほどに、其積にや日比ひごろ悩せ給しが、去年の冬遂に隠れ御座ぬと申も果ぬに、僧都そうづは穴哀や、さては女房は早はかなく成給けるにこそ、慰む便もなく知れる人もなき、我だにも、係る島の有様ありさまに、三年の今までも在るぞかし。
 さすが人は少き者共もあまた有き、我を見とも、思成てこそ有べきに、若や姫をば誰孚めとて隠れ給たまひけるぞや、其に就ても、難面かりける我命かなとて、又臥倒給けるに、有王泣々なくなく重て申けるは、若君は父の渡らせ給なる所は何所やらん、尋参れと仰候しかども、故北方の、穴賢そなたの方と知すな、少き心に走出て、行へも知ず失る事もこそと承しかば、知せ進する人も候はざりし程ほどに、人の煩ひ合て侍し、疱瘡と申御労に、去五月に又失させ給にきと云ければ、僧都そうづ又臥倒て、やをれ有王、今は係る憂事をば、な語りそとよ、三人が中に法師一人捨置れぬれば、都に還上り、再妻子を相見る事はよもあらじなれども、さても有らんと思やれば、慰事も有にや、いつを限に惜べき身ならねども、此を聞彼を聞に、絶入ぬべき心地なり、よし/\今はな語そと云けるこそ、責ての事と哀れなれ。

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