目巻 第四十
法輪寺附中将相見滝口並高野山事

 抑法輪寺は道昌僧都そうづの建立こんりふ、勝験無双の霊地也。
 彼小僧都せうそうづ法眼和尚くわしやう位道昌は、讃岐国香川郡の人、弘法大師の御弟子也。
 俗姓は秦氏、秦始皇しくわう六代孫、融通王の苗裔也。
 淳和帝御宇ぎよう、天長五年に就弘法大師、登灌頂くわんぢやうの、真言の大法を伝受せり。
 三十歳。
 其後虚空蔵求聞持法を修せんとて、勝地を尋求けるに、大師教て云、於葛井寺今法輪寺、可之、彼山霊瑞至多、勝験相応の地也と。
 仍同六年に此寺に参籠して、一百いつぴやく箇日求聞持の法を修し給ふ。
 五月の頃、皓月隠西山、明星出東天時、奉明星、汲閼伽水之処、光炎頓耀て、宛如電光、恠で是を見明星天子来影、虚空蔵菩薩現袖、非あらずゑにあらず非造、如縫如鋳、雖数日、其体不滅、尊相厳然として異香芬馥せり。
 是則生身御体として、奇特の霊像也、誰不帰敬之誠、爰道昌造虚空蔵形像、其木像の御身に件の影像を奉納、於神護寺、弘法大師是を奉供養、彼像の前にして不断の行法を修しけるに、利生誠に新也。
 貞観十六年に、引山腹幽谷、建仏閣置件霊像、改葛井寺法輪寺
 鎮守ちんじゆは本地虚空蔵、号法童法護大菩薩だいぼさつ
 阿弥陀堂と申は当山最初の旧寺の跡也。
 天平年中にこれを建立こんりふして葛井寺と云けり。
 天慶年中に空也上人参籠之時、貴賤上下を勧進して、旧寺を修行して常行堂とするとかや。
 詠月遊興之輩は、明神忽たちまちに与巨益、往詣参籠之人は、本尊必満願望給ふ。
 月照窓之夜は、煩悩之雲正に晴、嵐吹松之時は、妄想之夢必覚。
 斯る目出めでたき寺なれば、滝口も閉籠て行澄して居たりけり。
 妹背の情に引れつゝ、尋行ける横笛も、菩薩の善巧方便にて、善知識とぞ覚えける。
 異説云、比は二月半の事なれば、梅津里の春風は、徐まで匂ふ垣根哉、桂里の月影は、朧に照す折なれや、亀山かめやまや、すそより出る大井川、殊更心細して、久方のそこ共知ず尋行。
 此坊彼坊尋れど、上人が行末は不知けりと。
 又異説には、横笛は法輪より帰て髪をおろし、双林寺に有けるに、入道の〔許〕より、
  しらま弓そるを恨と思ふなよ真の道にいれる我身ぞ
と云たりければ、女返事に、
  白真弓そるを恨と思しにまことの道に入るぞ嬉しき
 其後横笛尼、天野に行て入道が袈裟衣すゝぐ共いへり。
 異説まち/\也。
 いづれも哀にこそ。
 滝口入道は法輪寺を出て高野に籠、五六年にぞ成ける。
 然べき人々は滝口入道と云けるを、一家の者共は、高野の上人とぞ云ける。
 時頼入道は幼少より小松殿こまつどのに候けるが、出仕の時は、絵書花付たる狩衣に立烏帽子たてえぼし、私の行には、直垂に折烏帽子をりえぼし、衣文を立て鬚を撫、さしも花やかなりし有様ありさまに、今は黒き衣に同色の袈裟に、窄れにけりと哀也。
 三十にたらぬ若入道の、いつしか老僧姿に成果て、剃たる髪はさかり過て生延、麻の衣の香の煙にしみかをり、思入たる道心者、羨しくぞ見給ける。
 入道は三位中将さんみのちゆうじやうを見奉て、夢か現かとあきれ迷たるさまなり。
 泣涙に咽て物もえ申さず。
 三位中将さんみのちゆうじやうも袖を絞りて宣ふ事もなし。
 入道良久ありて申けるは、屋島に御渡りと承侍しかば、世中の今は昔に替り行有様ありさま、御一門の人々思召おぼしめさるらん、御心中も推量り候へば、罷下て憂世うきよの有様ありさまをも承、又歎申入ばやと折節をりふし毎に思ひ出し侍りつれ共、憖なまじひに出家入道して、加様に引籠りて、身は松の煙にふすぼり、形は藤の衣に窄て、御前に参可御目有様ありさまにもあらねば、中々にと身に憚て罷過侍りき、如何にして是までは伝御座おはしましけるやらん、更にうつゝ共覚え候はず、故殿常の仰には、賢人は不栄花、卜居於草庵仰し物を、只今ただいま思合られ候ぞやと申て、墨染の袖を顔にあてて泣けり。
 中将宣のたまひけるは、都にて何にも成べかりしに、人なみ/\に西国さいこくへ落下りたりつれ共、肝心も身にそはず、留置し者共も、理に過て恋しくおぼつかなければ、何事に付ても、世の中あぢきなければ、思ほれて年月を経る程に、是をば角とも知給はで、大臣殿も、池いけの大納言だいなごんの様に二心ある者とおぼして打解け給はねば、いとゞ心も止まらで、あくがれ出て是まで来れり、いかにもして故郷に伝ひ、替ぬ貌を今一度見えばやと思つれ共、本三位中将ほんざんみのちゆうじやうの生ながら捕れて、父の骸に血をあやす事もうたてければ、是にて髪を下して、水の底にも入なんと思ふなり、但熊野へ詣んとの志ありと宣も敢ず泣給へば、上人誠に夢幻の世の中は、兎ても角ても有なん、長き世の闇こそ苦しかるべけれ、目出も思召おぼしめし立ける御事也と申。
 夜明にければ、三位中将さんみのちゆうじやうは入道を先達として、先本寺より始て院々堂々巡礼あり。
 彼高野山は、帝城を去て二百里、郷里を離て無人声、晴嵐梢を鳴して夕日の影も閑也。
 金剛八葉峯の上、秘密瑜伽ゆがの道場也。
 一度参詣の輩は、永三途の苦を離る、十三大会たいゑの聖衆には、肩を並て阻なし、三十七尊の聖容は、心の中にぞ坐し給ふ。
 八の尾八の谷に、修生本覚の心蓮華を像り或上或下る、行願証義菩提心を顕せり。
 金堂と申は嵯峨さがの天皇てんわうの御願ごぐわん也。
 或釈尊涅槃の像を写せる道場もあり、在世の昔を慕ふかと哀也。
 弥陀来迎の粧を画霊場もあり、終焉の夕を待かと覚えたり。
 若は説法衆生の庭、坐禅入定の窓もあり。
 若は秘密修行の室、念仏三昧の砌みぎりもあり。
 顕教密教掻交、聖道浄土じやうど各也。
 峨々として高き山、渺々として遠き峯、霖霧の底に花綻、尾上の霜に鐘響、嵐に紛ふ鈴の音、雲井に上香の煙、取々にこそ貴けれ。
 夫より檜原杉原百八十町分過て、奥院に参給。
 大師の御廟ごべうを拝給へば、瓦に松生て、垣に蘿はへり。
 庭に苔深うして、軒にしのぶ茂たり。
 是や此仁明天皇てんわうの御宇ぎよう、承和二年三月二十一日の寅の一点に、入定し給へる石室なるらんと、過にし方を数へければ、三百さんびやく余歳よさいも越にけり。

観賢拝弘法大師之影像付弘法入唐事

 延喜の聖主、有御夢想ごむさうとて、檜皮色の御装束を被進奉、勅使に般若寺の観賢僧正そうじやうに仰たりければ、御弟子に石山の内供奉俊祐と相共に、奥院に詣つゝ、御帳を押開て宣命を奉伝、御装束を進せ替んとし給しに、雲霧忽たちまちに立隔る心地して、大師の御体を不拝。
 観賢涙を流しつゝ、我一生の間未禁戒犯、有何罪かは見え給はざるとて、五体を地に投て発露啼泣し給へば、速に雲晴て日の出るが如くに、大師の御体顕御座おはしましけり。
 観賢又随喜の涙に香染の衣の袖を絞りつゝ、御肩の廻まで黒黒と生延させ給たまひける御髪を奉剃、御装束を進替させ給つゝ、内供奉に、此御有様おんありさまをば奉拝哉と問給ければ、俊祐霞に籠たる心地して、不見と答ければ、僧正そうじやう自内供奉が手を取て、大師の御膝に引宛て、是こそ御膝よと宣へば、俊祐三度まで撫進せけり。
 其御移香失せずして、石山の聖教に移り、何の箱とかやに残留て、今の世までも有とかや。
 目出貴き事共也。
 其後僧正そうじやう、御廟ごべうの御戸を立て帰給はんとし給ふに、大師帝への御返事おんへんじに、
  我昔遇薩たさつた 親悉伝印明 発無誓願 陪辺地異域 昼夜愍万民 住普賢悲願 肉身証三昧 待慈氏下生
とぞ仰ける。
 其後後朱雀院御宇ぎよう、長暦三年〈己卯〉三月の比、当山に貴僧在て、観賢僧正そうじやうの例を尋て、奉御形らんと云願を発して宣旨を申、御廟ごべうの御前にて致祈誓御帳を開たりけるに、御体隠なく拝れさせ給、御鬚の生延させ給たりければ、彼僧正そうじやうの如く奉之けるに、御膚を見んとて、以剃刀御頭を小切たりければ、血のさとあえさせ給たりけるに、目くれて雲霧に向る心地して、則急出にけり。
 其時内より帳を打付られて、其後は開かれずとぞ承る。
 昔は宣旨と申ぬれば、仏神もこれを背給はざりけり。
 末世になればにや、当世は云甲斐なき人民に至まで、勅命を軽ずるこそ悲けれ。
 彼迦葉尊者の鶏足洞に入、弘法大師の高野の石室に籠給しより以来、五十六億七千万歳の春秋を隔てて、慈尊三会の暁を待給ふこそ遥かなれ。
 三位中将さんみのちゆうじやうは御廟ごべうの前に良久念誦して、又もと思ふ参詣も心に任ぬ我身也、遠うして又遥也、維盛進んでは釈迦の出世にあはず、退きては慈氏の下生難期、恨らくは其中間に留つて、空く三途に帰らん事を。
 今暮雲のこころ難繋、既すでに朝露の命消なんとす、願の妄執を廟松の風に払て、永く煩悩を法水の波に洗ふ、三界の火宅を出て、無苦の宝刹に生んとぞ被拝ける。
 さても維盛が身は、雪山の鳥の今日不死と啼らん様に、今日歟明日歟と思者をと宣て、左右の袖を顔にあて、雨々と泣給へば、阿浄も重景も、共に袂たもとを絞りけり。
 其後時頼入道が庵室に帰、持仏堂にさし入て拝廻し給へば、本尊かた/゛\に奉安置、閼伽をしな/゛\奉備有様ありさま、浄名居士の方丈に、三万二千の床を立て、三世十方の諸仏を崇奉たりけんも、角やと覚えて最貴し。
 行儀の作法を見給ふにも、昔は世俗奉公の袖を掻をさめしに、至極甚深の床の上には、心地の玉を瑩くらんと覚えたり。
 後夜晨朝の鐘の声には、生死の睡を覚すらんと聞えけり。
 尾上の嵐はげしくて、檐のしのぶに露乱、雲井の月さやけくて、苔むす庭も静なり。
 晋七賢の籠けん竹林寺の庵の中、漢の四皓の住ひけん商山洞の窓の前、かくやと思知れたり。
 遁れぬべくば角てこそあらまほしくおぼしけれ。
 其夜は来方向末の物語ものがたりして、互に泣より外の事なし。
 夜も已すでに明にければ、三位中将さんみのちゆうじやう、時頼入道に仰けるは、故郷に留置し少き者共の、さしもわりなかりしをも、其母が強ちに慕ふをも、今一度見もしみえばやとこそ思て、屋島をば忍出しか共、そも今は叶はず、さらば出家して熊野へ参らばやと思也と語り給へば、入道涙ぐみて、此世は夢幻の所、憂事も悲事も、始て驚思召おぼしめすべきに非、都に留め置せ給、公達北方の御事、尤思召おぼしめし切せ給べし、分段輪廻の境に生たる者、誰か死滅の恨をまぬかれたる、妄想如幻の家に会輩、終に別離の悲みあり、彼沙羅林の春の空を尋れば、万徳の花萎て、一化の緑永く尽ぬ、歓喜園の秋の風を聞けば、五衰の露消て、巨億の楽み早く空、況下界泡沫の質に於てをや、不定短命の州に於てをや、依これによつて老たるも去、若も去つて、大小の前後定なし、貴も逝賎も逝て、上下の昇沈難知、三界二十五有の栖、何者なにもの歟此苦を脱れん、五虫千八百はつぴやくの類、争か其愁を離るべき、可厭は憂世うきよ也、可悲は此身也、君御一門の余執に引れて、西海の旅に趣給へる上は、敵の為に捕れ御座歟、水底に沈み給べきか、大師入定の霊地也、両部結戒の道場也、此峯にして忽たちまちに俗服脱、法衣を著し御座おはしまさん事、即身に安養の浄刹に詣し給へりと思召おぼしめし作べし、如何にと申に、日本につぽん一州仏法ぶつぽふ流布の所、広く大師先徳弘法利生の人多し、就なかんづく此寺は是、真言上乗弘通の砌みぎり、秘密教興隆の境也、高祖大師は大権化現也、讃岐国多度郡人、俗姓は佐伯氏、母の夢に、天竺より聖人来て、我懐に入と見て姙て生子也、生産の後、四天大王蓋を取て随従し給へり、石淵勤操僧正そうじやうに師とし事へて、初には虚空蔵求聞持の法を学し、終に二十の歳出家して沙弥の十戒じつかいを受、名を教海と云、其後改て如空と称す、具足戒の時、又改て空海と号す、延暦えんりやく二十三年〈甲申〉五月に、遣唐使正三位藤原ふぢはらの朝臣あそん賀能が舟に乗て入唐して、青竜寺恵果和尚くわしやうに謁する日、和尚くわしやう笑を含みて云、我兼て汝が来る事を知れり、相待こと日久し、今始て相見大に好、大に好、汝はこれ非凡従第三地の菩薩也、内に大乗の心を具し、外に小国の僧を示す、為密教之器、悉可授与とて、五部灌頂くわんぢやう誓水を灑、三密持念印明を授て、両部の曼荼羅、金剛乗教二百にひやく余巻よくわん、三蔵付法の道具等与畢て云、我此土の縁尽たり、不久住、汝速に本国に帰て天下に流布せよと、空海和尚くわしやう行年卅四、平城へいじやう天皇てんわうの御宇ぎよう、大同二年〈丁亥〉八月に、帰朝の船を泛る日、発願祈誓して曰、所学の教法秘密撰所感応の地あらば、此三鈷到点せよとて、日本につぽんに向て抛上給に、遥はるかに雲中に飛入て、東を差て去にけり。
 和尚くわしやう行年三十三さんじふさん、嵯峨さがの天皇てんわう弘仁七年〈丙申〉高野山登給ふ。
 道にあやしき老人あり、和尚くわしやうに語て云、我は是丹生明神、此山の山神也、恒に厭業垢、久得道を願、今方に菩薩到来し給へり、妾が幸也と云て、山中心に登て、御宿所を示して芟掃所、海上にして抛処の三鈷、光を放て爰ここに在、秘法興隆の地と云事明也。
 依これによつて和尚くわしやう慈尊三会の暁に至迄、密蔵の燈を挑んために、一十六丈の多宝と塔婆を建立こんりふして、過去七仏の所持の宝剣を安置し給へり事奇特也、法の効験也、女人影を隔てて、五障の雲永くをさまり、僧俗心を研て、三明さんみやうの月高晴たり、誠に穢土にして浄土じやうどを兼、凡夫にして仏陀に融す、難有聖跡也、賢くぞ女房公達を留置給ける、引具給たりせば、争か此霊場へも御参有べき、御心強かりける御事は、然べき御得脱の期の至御座、永離三悪の峯に登、生仏不二の覚を開き給べきにこそと細々とぞ申しければ、

維盛出家事

 三位中将さんみのちゆうじやう涙を流し打頷許給たまひて、誠に都を出し日より敵の為に亡されて、骸を山野の道の辺りに曝て、名を西海の波の底に沈むべしとこそ思しに、懸べしとは懸ても思寄ざりき、是も善業の催す処と云ながら、如何にも故郷の少者共の事のみ思出つれ共、其事思棄て参詣せし程に、粉河にて法然上人に対面して、念仏往生の法門ほふもんを聴聞し、大乗無作の大戒を授られ、剰へ上乗瑜伽ゆがの霊峯に登、大師草創の仏閣を拝、堂堂巡礼して、六道ろくだう輪廻の業を滅すらんと存上、加様に目出く貴き事共承はれば、昔は家門主従の礼儀たりしか共、今は菩提の大善知識とこそ思召おぼしめし、さらば急出家をと宣ふを見奉に、潮風に黒み、尽せぬ御襟に痩衰へ給たまひて、其人共見えず成給たれ共、猶人には勝て粉ふべくもなし。
 らふたくうつくしくぞ御座おはしましける。
 如何なる讐敵成共哀と思ぬべし。
 御戒の師には、東禅院に理覚坊の心蓮上人と申僧を請じ奉、時頼入道出家の御具足取調へたりけるに、三位中将さんみのちゆうじやうは、与三兵衛、石童丸二人を近く召て宣のたまひけるは、我身こそ懸る道狭き者と成て様を替るとも、己等はいかなる形勢ありさまをすとも、なじかはながらへざるべき、如何にもならん様を見終なば、都へ上身々をも助、少者共の便ともなるべしと宣へば、二人共にはら/\と泣て、暫は物も不申、良有て与三兵衛申けるは、重景が父与三左衛門尉さゑもんのじよう景康は、平治の合戦の時、故殿の御伴に候けるが、二条堀川ほりかはにて、左馬頭さまのかみ義朝よしともが郎等、鎌田兵衛正清に組で、悪源太義平に被討けり、其時は重景二歳にて候けり、母には七歳にて後れぬ、竪固の孤子に成果て、哀糸惜と申親者もなかりけるを、景康は我命に代し者也、其子なれば殊に不便の者也とて、御前より生立御座おはしまして、九と申しゝ年、君の御元服ごげんぶくの次でに、忝かたじけなくも軈本鳥を取上られ進て、盛の字をば御代に奉付とて君つかせ給ぬ、重の字をば松王に給とて、重景とは付させ給けり、童名を松王と呼れけるも、二歳の時母が懐て参たりければ、此家をば小松といへば付る也とて、松王とは被召けり、君の御元服ごげんぶくの年より、取分て御方に仕て、今年は十七年に罷成、表裏ともなく被召具しかば、遊戯進せ、一日片時立離進せず、小松殿こまつどの隠れさせ給し時は、此世の事つゆ思召おぼしめし棄させ給たまひて、一言をも仰置せ給はざりしか共、御いとほしみあれかしの御志にて、さしも多き侍の中に、重景よく/\少将に奉公して御心に違ふなと計こそ最後の御詞にて候しか、されば君、神にも仏にもならせ給たまひなん後は、いかなる楽栄侍るとも、世に有べしとこそ存じ候はね、東方朔西王母が一万歳の命、皆昔語に名を伝へ、欲色二界の快楽の天、限あれば衰没の悲みありと承る、生死の友には会て別やすく、輪廻の門には別てあひ難し、同は菩提の種を植て、一つ蓮に座を並候べしとて、腰の刀を脱出し本鳥を切、三位中将さんみのちゆうじやうよりさきに、時頼入道に剃せてけり。
 法名戒実と云。
 石童丸も八歳よりつき奉り、跡懐より生立て、今年は十一年にぞ成ける。
 志深く御糸惜くし給ければ、重景にもおとらず思奉けり。
 多の人の中に、屋島より打解、是まで召具せられ奉て、真の道に非捨と申て、本結際より推切て、同入道に剃せけり。
 法名戒円と云。
 此等が先立て剃を御覧じ給にも、御涙おんなみだ関敢給はず。
 時頼入道は、本尊の御前に香を焼、花を供し儲たり。
 三位中将さんみのちゆうじやうは本鳥を左右に結分て、四恩師僧を拝し給ふ。
 心蓮上人髪剃を取、泣々なくなく御後に立寄つゝ、流転三界中、恩愛不能断、奇恩入無為、真実報恩者と、三反唱へて剃給けるにも、北方に今一度かはらぬ貌を見せて角もならば、思事なからましとおぼすぞ、愛執煩悩、罪深しと云ながら、誠にと覚えて糸惜き。
 奉御髪剃落ければ、御衣を召替て、心蓮上人、大哉解脱服、無相福田衣被服、如戒行広度諸衆生と唱て、奉御袈裟、法名戒法房とぞ申ける。
 或説云、父小松内府出家して浄蓮と申ければ、我身をば心蓮といはんと仰けりと云云、可之。
 三位中将さんみのちゆうじやうも与三兵衛も、同年にて二十七、石童丸は十八也、三人共に盛をだにも過給はぬ人々の、かく剃給たまひつゝ居並たるを見渡て、心蓮上人も時頼入道も、墨染の袖を絞けり。
 中将入道、舎人武里を召て宣のたまひけるは、我兎も角かくも成なば都へは向ふべからず、後の形見に今一度、日比ひごろ恋かりつる事をも云、又様を替身の成果を書やらばとは思へ共、はや世になき者と聞ならば、思歎に堪ず、髪を落し貌を窄さんも不便也、それは責てもいかゞはせん、淵河に身をも沈めて、少き者共が便なく、父には生て別ぬ、母には死て後れぬと、小賢く歎悲まんも糸惜かるべし、終には隠れ有まじけれ共、何鹿知せじと思也、急迎とらんと誘へ置し事も空く成ぬ、いかばかりかはつらく思ふらん、都に留りて歎思ふらんよりも、旅の空にあくがれて為方なく悲き心をば知ず、恨ん事もいと痛しとて、御涙おんなみだ関敢ず。
 只是より屋島に行て、新三位中将しんざんみのちゆうじやう、左中将達に有の儘に申せ、侍共いかにおぼつかなく思らん、誠に角とも知せねば、誰々もさこそ恨給らめ、抑唐皮と云鎧、小烏と云太刀は、当家代々の重宝として、我まで嫡嫡に相伝はれり、肥後守ひごのかみ貞能さだよしが許に預置けり、其をば取て三位中将さんみのちゆうじやうに奉れ、もし不思議にて世も立なほらば、後には必六代に譲り給へと可申とて、雨々とぞ泣給ふ。

唐皮小烏抜丸事

 彼唐皮と云は非凡夫之製、仏の作り給へる鎧也。
 桓武天皇てんわうの御伯父に慶円とて、真言の奥義を極め給へる貴き上人御座おはしましき。
 綸言を給たまひて、紫宸殿の御前に壇を拵へ、胎蔵界の不動の前に智印を結び、意を安平に准へて、彼法を加持せらる。
 七日と云未刻に、紫雲起りてうづまき下り、其中よりあらゝかに壇上に落る物あり。
 雲消壇晴て是を見れば一両の鎧あり。
 櫨の匂に白き黄なる両蝶をすそ金物に打て、糸威には非して皮威也。
 裏を返て見るに、実のあひ/\に虎毛あり、図知ぬ虎の皮にて威たりと。
 故に其名をば唐皮とぞ申ける。
 帝御尋おんたづね有ければ、慶円申させ給けるは、是はこれ本朝の固め也、是不動降伏の冑也。
 彼明王みやうわうは、外に降魔の相を現ずといへ共、内に慈悲哀愍を具足せり。
 火焔を身に現ずれば、女我の相を顕す。
 女我の相とは、大日胎蔵の身を現ずる也。
 大日胎蔵の身と云は、大歳の腹体を垣断也。
 彼垣冑にしかず。
 されば不動に七両の鎧あり、兵頭、兵体、兵足、兵腹、兵背、兵指、兵面也。
 皆是五天、五国、五花、相承相対せり。
 人五体を囲はん料也。
 然者しかれば州中の守不甲冑、此鎧は七両が中の兵面と云鎧也。
 本朝の守には何物か是に増るべき。
 人甲冑を著せし時は、専国家壁と思て、我物の想をなさじ、国を囲はん時は、偏ひとへに州頭の壁とのみ思はざれ、皇の御衣と思ふべき也と被奏聞けり。
 されば此鎧は、真言秘教の中より不動明王ふどうみやうわうの化現し給へる処也。
 国家の守として、六代までは大内の御宝也けり。
 其後武道に遣して将軍にもたすべき由、日記に留給たりけるを、高望王の御孫、平将軍へいしやうぐん貞盛さだもりに被下預より以来、維盛迄は嫡々九代に伝はれり。
 今の唐皮と云は是なり。
 又小烏と云太刀は、彼唐皮出来て後、七日と申未刻に、主上南殿に御座おはしまして東天を御拝有ける折節をりふしに、八尺霊烏飛来て大床に侍、主上以御笏招召けり。
 烏依勅命躍上、御座の御縁に觜を懸て奏し申さく、我は是、太神宮より剣の使者に参れりとて、羽刷して罷立けるが、其懐より一の太刀を御前に落し留けり。
 主上御自此剣を被召て、八尺の大霊烏の中より出たる物なればとて、小烏とぞ名付させ給たまひける。
 唐皮と共に宝物に執し思召おぼしめす
 されば太刀も冑も同仏神の御製作なり。
 本朝守護の兵具也。
 仍代々は内裏に伝りけるを、貞盛さだもりが世に下預て、此家に伝て希代の重宝なり。
 又平家に抜丸と云剣あり。
 池いけの大納言だいなごん頼盛卿よりもりのきやうにあり。
 中古伊勢国いせのくに鈴鹿山辺りに、賎貧男あり、身の乏事を歎て、常に精進潔斎して太神宮に詣て、世にあらん事を祈申、年比日比ひごろおこたる事なかりければ、神明其志を憐んで、汝深山しんざんに遊猟して獣を得て妻子を養へと示現し給ければ、御託宣ごたくせんを憑、鈴鹿の山を家として、夜昼猟して獣をとる。
 得たる時は妻子を養ひ、得ざる時は口を空くす。
 是を以一期活命の便と成べし共覚えざりければ、我年来参詣の功に依て霊夢を感ず、任神慮、深山しんざんに遊猟すれ共、身を助るはかりごと成べし共覚えず、太神宮如何にと御計有やらんと、愚にも冥慮を奉恨思ける折節をりふし、三子塚と云所にて奇太刀を求得たり、此太刀儲て後は、聊も目に懸る禽獣鳥類遁事なし、然べき宝なりけり。
 我聞漢朝の高祖は、三尺の剣を以て座ながら諸国の王を従へたり。
 日本につぽんの愚猟一振の剣を求て帯ながら山中の獣を得たり。
 是天照太神てんせうだいじんの冥恩也と思ければ、昼夜に身を放ず。
 或夜鹿を待て大なる木の下に宿す。
 太刀を大木に寄せ立て其夜を明す。
 朝に此木を見れば、古木の如くして、枝葉皆枯たり。
 猟師不思議にぞ思ける。
 月比日比ひごろも此木の下を栖とせしか共、さてこそ有しに、夜部までは翠の梢盛にこそ有しに、今夜此太刀を寄懸たる故にや、一夜が内に枯ぬるこそ奇しけれ、是定て神剣ならんとて、木枯とぞ名付たる。
 其比刑部卿ぎやうぶきやう忠盛、伊勢守にて御座おはしましけるが夙聞て件の猟師を召、此太刀を見給ふに、異国はそも不知、我朝には難有剣也とて、よに欲思はれければ、栗真庄の年貢三千石に替て取れけり。
 さてこそ猟師家富身ゆたかにして、弥太神宮の御利生共思知けり。
 忠盛都に帰上、六波羅の池殿の山庄にて、昼寝して前後も知ず座しけるが、此木枯の太刀を枕に立て置たり。
 大蛇池より出て口を張、游近付忠盛を呑んとす。
 木枯鞘よりさと抜て、かばと転び倒るゝ音に驚て、忠盛起直て見給に、剣は抜て鐔を蛇に向たり。
 蛇は剣に恐て水底に沈にけり。
 太刀かばと倒るゝは主を驚さんがため、鞘より抜るは主を守て、大蛇を切んが為也けり。
 其よりして木枯の名を改て抜丸とぞ呼れける。
 平治の合戦に、頼盛よりもり三川守にて、熊手に懸られて討るべかりけるにも、此太刀にて鎖金を打切て遁給けり、懸る目出めでたき剣なれば、嫡々に伝はるべかりけるを、頼盛よりもり当腹にて相伝ありければ、清盛きよもり頼盛よりもり兄弟なれ共、暫は中悪く御座おはしましけりと聞えきなんど、細かに物語ものがたりし給たまひて、唐皮小烏は、重代の重宝家門の守也、世立直らば必六代に伝へ給へと、よく/\仰含けり。

維盛入道熊野詣附熊野大峰事

 此より熊野参詣の志ありとて、修行者の様に出立給ければ、如何にも成給はん様を見奉らんとて、時頼入道も御伴申て参けり。
 紀国三藤と云所へ出給たまひ、藤代王子に参り、暫らく法施を奉り給ふ。
 所願しよぐわん成就じやうじゆと祈誓して、峠に上給へば、眺望殊に勝れたり。
 霞籠たる春の空、日数は雲井を隔れど、妻子の事を思出て、故郷の方を見渡して、涙のこりをぞかき給ふ。
 和歌浦、玉津島の明神を伏拝給ふにも、昔遠明日香天皇てんわうの后、衣通姫と申しが、帝を恋奉り、行幸のなれるを知ずして、
  我せこがくべき宵なりさゝがにのくもの振舞兼て知しも
と詠じ給たまひたりけるを、帝立聞給たまひて、叡感の御情おんなさけいとゞ深くぞおぼしける。
 彼を思ひ出るにも、古郷の人の悲さに、絞りかねたる袂たもと也。
 衣通姫此所を目出くおぼしければ垂跡給へり。
 吹上の浜、与田浦、日前国懸の古木の森、沖の釣舟磯打浪、哀は何れも取々也。
 蕪坂を打下、鹿瀬の山を越過て、高家王子を伏拝、日数漸く経程に、千里の浜も近付けり。
 岩代の王子を通給ふ。
 其辺にて狩装束したる者、七八騎ばかり会たりけり。
 敵の来り搦捕んずるにやと、肝心を迷して、各腰の刀に手を懸て自害せんとしける程に、はらはらと馬より下、深く平みて通にけり。
 見知たる者にこそ、誰ならんと浅増あさましくいぶせく思ひ給ければ、いとゞ足ばやにぞ指給ふ。
 当国住人ぢゆうにんに湯浅権頭入道宗重が子息、湯浅兵衛尉宗光と云者也。
 郎等共らうどうどもも奇げに思て、此道者は誰人にて御座おはしまし候ぞと問ければ、宗光、あれこそ平家の故小松大臣の御子に、権亮三位中将殿ごんのすけさんみのちゆうじやうどのよ、一門の人々に落連て西国さいこくにとこそ奉聞しに、如何にして屋島より是まで伝給けるやらん、小松殿こまつどのの御時は、常に奉公申て御恩をも蒙、此殿をも見馴奉りたれば、近く参て見参にもと思ひつれ共、道狭き御身と成て、憚思召おぼしめす御気色おんきしよくあらはなりつればさて過ぬ、穴痛しの御有様おんありさまや、替る代の習と云ながら、心憂かりける事哉とて、馬を留てはら/\と泣ければ、郎等共らうどうどもも皆袖をぞ絞ける。
 三位中将さんみのちゆうじやう入道にふだうは、日数経れば岩田川に著給たまひて、一の瀬のこりをかき給。
 我都に留置し妻子の事、露思忘るゝ隙なければ、さこそ罪深かるらめども、一度此河を渡る者、無始の罪業悉滅すなれば、今は愛執煩悩の垢もすゝぎぬらんと、憑もしげに仰られて、
  岩田川誓の船にさをさして沈む我身も浮ぬる哉
と詠じ給たまひても、父小松大臣の御熊野詣の悦の道に、兄弟此河水あみ戯て上たりしに、権現に祈申事あり、浄衣脱替べからず、御感応ありとて、是より重て奉幣有し事思出給たまひても、脆きは落涙也。
 其そのは滝尻に著給、王子の御前に通夜し給、後世をぞ被祈申ける。
 彼王子と申は、本地は不空絹羂索、為衆生利益とて、垂跡此砌みぎり、当来慈尊の暁を待給ふこそ貴けれ。
 明ぬれば峻しき岩間を攀登、下品下生の鳥居の銘、御覧ずるこそ嬉しけれ。
  十方仏土中以西方望 九品蓮台間 雖下品
 注し置たる諷誦の文、憑もしくこそおぼしけれ。
 高原の峯吹嵐に身を任せ、三超の巌を越には、たう利たうりの雲も遠からず、発心門に著給。
 上品上生の鳥居額拝給たまひては、流転生死の家を出て、即悟無生の室に入とぞ思召おぼしめす
 夫より本宮に著給たまひては、寂静坊阿闍梨あじやりが庵室に入給ふ。
 此坊は故小松内府の師なれば也。
 阿闍梨あじやり中将入道を奉見、夢の心地して哀にもなつかしくも覚えければ、御前に参て、七旬の余算を持て、奉再御顔事嬉しさよ、故大臣の御参詣、只今ただいまの様に覚えてこそとて、老の袂たもとを絞りけり。
 三位中将さんみのちゆうじやうも、今更昔に立かへる御心地おんここちして、父の大臣の御事、げに昨日今日の様に思出られ給ふにも、尽せぬ御襟に打副て、阿闍梨あじやりが袖を絞るを見給ふにぞ、今一際の悲みも増ける。
 さても中将入道殿にふだうどのは、参社せんとて坊を出給つゝ、此御山を見給に、大悲利物の霞は、熊野山に聳、和光わくわう同塵どうぢんの垂跡は、音無川に住給ふ。
 常楽我浄の春風に、妄想の氷解、仏性真如の月影に、生死の闇も晴ぬらんと、信心肝に銘じつゝ、証誠殿の御前に、再拝念誦し給けり。
 常住の禅徒客僧の山伏、参集りて懺法をぞ読ける。
 一心敬礼の声澄ば、三世の諸仏随喜を垂、第二第三の礼毎に、無始の罪障滅らんと、最貴く思召おぼしめしければ、賢くぞ思立ける。
 父の大臣の、命を召て後世を助給へと被申ける事思出て、懸るべき事を兼てさとり給けると覚えて哀也。
 此権現と申は仏生国の大王、善財太子と相共に、女の心を悪みて遥飛来つゝ、此砌みぎりにぞ住給。
 斗薮の行者を孚、修験の人を憐。
 大峯と申は、金剛胎蔵、両部曼荼羅の霊地也。
 此山に入人は、此社壇より出立、役優婆塞は、三十三度の修行者、竜樹菩薩に値奉て、五智三密の法水を伝へ、伊駒嵩に昇つて、二人の鬼を搦て末代行者の使者とせり。
 弘法智証の両大師、行者の跡を尋て大峯にぞ入給ふ。
 山王院大師、熊野権現の在所を尋て参詣し給ふに、雲霞峯を隔て、荊棘道を埋て東西を失、滝尻に留、七日祈誓し給へば、八尺の霊烏飛来て、木の枝を食折て其路を示せば、跡を趁て上つゝ社壇に詣給き。
 八尺の長頭巾この表示とぞ聞ゆる。
 花山法皇の那智籠、寛平法皇の御参詣、後白川院【*後白河院】ごしらかはのゐんの卒都婆の銘、忝かたじけなくぞ覚ゆる。
 善宰相は、浄蔵貴所の祈祷により閻魔宮よりかへされ、通仁親王は、行尊僧正そうじやうの加持により冥途の旅より蘇息せり。
 皆是大峯修行の効験、権現掲焉の利生也。
 凡彼山の為体、三重の滝に望ば、百丈の浪六根の垢を洗ひ、千草の岳に上れば、四季の花一時に開て盛也。
 ふきうの峯には寒嵐衣を徹し、古家の宿には時雨袖を濡す。
 彼馳児宿竜のむなしき、大禅師小禅師屏風のそば道、釈迦岳、負釣行者帰、何れも得通の人に非ば争か爰を通ん。
 然而権現金剛童子の加護にて、無恙こそ貴けれ。
 或は高山に登て薪を採、或深谷に下て水を汲。
 大王の阿私仙に従て、千歳の給仕に相似たり。
 太子の檀特山に入て、六年の苦行に不異。
 一見の新客は初僧祇の功徳を得、三度の古衆は三祇却の万行を満たり。
 誠哉一陀羅尼の行者は智者の頭を歩といへり。
 是皆垂跡すいしやく権現の善巧方便の利益也。
 証誠殿と申は本地は阿弥陀如来あみだによらい、誓願を饒王の往昔に発て、大悲を釈迦の在世に弘め、正覚を十小劫に成して、済度を極十歳に留。
 一念十念をも不嫌、五逆十悪猶助給へり。
 一座無為の実体は、遥はるかの西にましませど、随縁化物の権迹は、此砌みぎりにぞ住給ふ。
 前に大河流たり、水功徳池の波を添、後に長山連なれり、風宝林樹の枝に通らし。
 本地の悲願を仰ぎて、本願誤給はず、必西方浄土じやうどに引導給へと申給ける。
 中にも古里に留置し妻子安穏にと祈給けるこそ、憂世うきよを遁実の道に入りても、妄執は猶尽ざりけりと悲けれ。
 明ぬれば寂静坊に暇を乞ふとて、和光わくわう同塵どうぢんは区にましませ共、利益衆生は一なり。
 両度参詣の契を以て、一仏浄土じやうどに必とて、本宮を出給たまひ、備崎より舟に乗、時々に苔路をさし、新宮に詣給ふ。
 一夜通夜し給たまひて、祈誓は本宮に同事、翌日は明日香神蔵に、暫念誦し給たまひて、那智へぞ参給ける。
 佐野の浜路に著給へば、北は緑の松原影滋く、南は海上遥はるかに際もなし。
 日数の移るに付ても、あた命の促るほど、屠所の羊の足早く、心細くぞおぼしける。
 那智御山は穴貴と飛竜権現御座、本地は千手観音化現也。
 三重百尺の滝水、修禅の峯より流出て、衆生の塵垢を洗き。
 千手如意の本誓は、弘誓の船に棹して、沈淪の生類を渡給ふも憑しや。
 法華読誦どくじゆの音声は、霞の底に幽也。
 如来によらいの説法し給し、霊山浄土じやうどに相似たり。
 観音薩たさつたの霊像は、岩の上にぞ座し給ふ大悲の生を利益する、補陀落山とも謂つべし。
 去し寛和の比、花山法皇の行給にける所とて、時頼入道奉教ければ、滝本へ下給たまひて其旧跡を拝すれば、今は御庵室も霧に朽て其跡なし。
 庭上に若草繁して墻根に蔦まとへり。
 昔の遺を忍べとや、千代の形見に引植させ給ける老木の桜計こそ、折知がほに咲にけれ。
 加様の事共御覧じけるに、彼は明哲聖主の君、猶浮世をば厭ひ給けり。
 我は愚昧凡人の臣、何にか執を留べきと思召おぼしめしけるにこそ、無始の罪障露消ぬ共おぼしけめ。
 偖も社頭に念誦し給たりけるに、社参の客僧の中に、五十有余いうよとおぼしき山伏の雨々と泣有。
 かたへの僧、けしからず、何事にかく泣給ぞと問ければ、此僧答て曰、余に哀なる事有て、そゞろに角泣るゝ也、各知給はずや、只今ただいま御前に参給へる道者をば誰とか見給ふ、あれこそ平家の嫡々、故小松大臣の一男、権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう維盛よ、一門に落具して屋島にと聞しが、如何にして是までは伝ひ給たるやらん、出家し給たるにこそ、御髪の剃様近き程と見えたり、最哀なる事哉、右の方に少指出て居たるは、軈父小松の大臣の侍に、三条斎藤左衛門大夫望頼が子、斎藤滝口時頼よ、あれも建礼門院けんれいもんゐんの雑司に、横笛と云女に心を移て通しを、父が勘当を得て、わりなく思し妻に別、親にもしられずして、十八と申しに偸に出家して、高野に登て行澄して有と聞しが、先達して参りたるにこそ、善知識の料と覚たり、左の方に少指退きて居たるは、平治の時悪源太に討れし与三左衛門尉さゑもんのじよう景康が子、与三兵衛重景よ、其後なる小入道は、此殿の召仕し石童丸と見えたり、皆出家してけるや、斯る世中に是まで参り給へるは、後世の事を祈念して、水の底にも入なんと思召おぼしめすやらん、父の大臣も此御前に参給たまひて後世の事を祈給、下向して程なく失給たまひにしかば、其事思出給ふと覚ゆるぞ哀なる、安元あんげん二年の春の比、法皇法住寺殿ほふぢゆうじどのにて五十の御賀の有しに、時のきらに付て、青海波の曲を舞給しに、前には月卿げつけい玉冠を研て十二人、後には雲客うんかく花の袂たもとを連ねて十五人、其中に父大臣は内大臣ないだいじんの左大将、叔父宗盛は中納言右大将うだいしやう、知盛は三位中将さんみのちゆうじやう、重衡は蔵人頭くらんどのとうの中宮亮已下、一門の月卿げつけい雲客うんかく、今日を晴ときらめきて、皆花やかなる貌にて、舞台の垣代に立給たりし時は、さしもうつくしくおはせしが、中にも此時は、四位しゐの少将にて舞給たりしかば、嵐に類花の色、匂を招く舞の袖、天を照し地も耀程に見えしかば、簾中簾外皆さゞめき立て、桜梅の少将とこそ申しゝか。
 哀にうつくしく見え給ふ人かな、今三四年が程に、大臣の大将は疑あらじものをと、諸人に謂給しぞかし。
 去共竜樹菩薩の釈に曰、世間如車輪、時変似輪転文、げに只今ただいまの有様ありさまに引替て御座るを見れば、朝の紅顔夕の白骨、理也と思合て泣るゝなりと語ければ、皆人々柿の衣の袖をぞ絞りける。

中将入道入水事

 中将入道にふだう、三の山の参詣事ゆゑなく被遂ければ、浜宮の王子の御前より、一葉いちえふの舟に棹さして、万里の波にぞ浮給ふ。
 遥はるかの沖に小島あり、金島とぞ申ける。
 彼島に上りて松の木を削つゝ、自名籍を書給たまひけり。
 平家嫡々正統小松内大臣重盛公しげもりこう之子息、権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう維盛入道、讃岐屋島戦場を出て、三所権現之順礼を遂、那智の浦にて入水し畢。
 元暦元年三月二十八日にじふはちにち、生年二十七と書給たまひ、奥に一首を被遺けり。
  生ては終にしぬてふ事のみぞ定なき世に定ありける
 其後又島より船に移乗、遥はるかの沖に漕出給ぬ。
 思切たる道なれど、今を限の浪の上、さこそ心細かりけめ。
 三月の末の事なれば、春も既すでに暮ぬ。
 海上遥霞籠、浦路の山も幽也。
 沖の釣舟の波の底に浮沈を見給ふにも、我身の上とぞ被思ける。
 帰雁の雲井の余所に一声二声ふたこゑ音信おとづるるを聞給たまひても、故郷へ言伝せまほしくおぼしけり。
 西に向ひ掌を合、念仏高く唱へつゝ、心を澄し給へり。
 既水に入給かと見えけるが、念仏をとゞめて宣のたまひけるは、噫呼今を限とは争か都に知るべきなれば、風の便の言伝は、折節をりふし毎にあひまたんずらん、終に隠れあるまじければ、世になき者と聞て、いか計か歎悲まんずらん、思連らるぞや、縦水の底に沈む共、などや今は限の文一なからんと、恨ん事も糸惜かるべし、されば後の世の形見にもなれかしと思へば、最後の文をかゝばやと思也とて、軈やがて書給へり。
 さて都を出て西国さいこくに落留たらば、迎奉らんとこそ思申しに、敵に攻られて此にも彼にも安堵せねば、そも不叶、とても遁るまじき身也、年月を重て積る思も晴がたければ、忍つゝ山伝して、今一度見もしみえ奉て、如何にもならんは力なしと思立て、屋島をばあくがれ出たれ共、浦々島々に敵充満たりと聞ば、平かに上付て、人々を見奉らん事もかたし、甲斐なき者共に虜れて、重衡卿しげひらのきやうのやうに恥をさらさん事も、身の為人の為、日比ひごろの思に打そへて、由なく思侍つれば、道より思返て、高野に登髪を落し、戒を持つて、貴き所々拝廻、熊野に参後世を祈、那智の海にて空く成侍りぬ、角と聞給たまひての御歎、兼て思置奉こそ痛しけれ。
 御身と云少者と申、後いかならんと思残す事侍らず、心の中只推量給べし、舟中より申せば、筆の立所もさだかならず、朽せぬ契ならば、後世には必とて、奥に、
  故郷にいかに松風恨らん沈む我身の行へしらずば
とあそばして、武里にたびて後宣のたまひけるは、やゝ入道殿にふだうどの、哀人の身に妻子は持まじき者也けり、此世にて物を思のみに非、後世菩提までの妨と成事の心憂さよ、親人にも知らせで、屋島を出しも若や都へ忍著て、今一度相見事もやと思立たりしか共、其事叶べくもなし、本三位中将ほんざんみのちゆうじやうの虜れて、京都鎌倉恥をさらすだにも心憂に、我さへとられ搦られて、父の頭に血をあやさん事もうたてければ、思切て髪を剃し上は、今更妄念有べし共覚えざりしに、本宮証誠殿の御前にて、終夜よもすがら後世の事を祈申しに、少き者共の事思出て、我身こそ角成ぬ共、故郷の妻子平安に守給へと申されき。
 又未来の昇沈は、最後の一念によると聞ば、一心に念仏申て、九品の蓮台に生んと、今を最後の正念と思へば、又思出ぞや、誠や思事を心中に残すは妄念とて、罪深しと聞ば懺悔する也と語給へば、時頼入道涙を押拭て、尊き卑も、恩愛の道は繋けるくさりの如くとて、力及ざる事に侍り、されば迷を捨て悟をとる、釈迦如来しやかによらい菩提の道に入らんとて、十九にして城を出給たまひしに、耶しゆ陀羅女やしゆだらによに遺を惜て出兼給けり、仏猶如斯、況凡夫をや、尤悲むべし、争か不痛、中にも夫妻は一夜の契を結ぶ、既すでに五百生の宿縁と申せば、此世一の御事にあらず、角思召おぼしめす尤理なれ共、生者必滅会者定離は憂世うきよの習なれば、縦遅速こそ有とも、後れ先立御別、終になくてや侍べき、いつも同事と可思召おぼしめさるべし、但第六天の魔王と云外道は、欲界人天を我奴婢と領じて、此中の衆生の仏道を行し、生死を離るゝ事を惜み憤りて、様々の方便を廻し、是を妨内、或子と成て菩提の大道を塞、或妻と成て愛執の牢獄を不出、去共三世の諸仏者、一切衆生を悉に我御子の様に思召おぼしめして、浄土じやうど不退の地に勧入んとし給ふに、妻子と云者生死を繋紐なるが故に、仏の重く誡給ふは即是也、御心よわく不思召おぼしめさず、伊予入道頼義らいぎは、東国の俘囚貞任宗任を亡さんとて、十五年の間、人の首を切事、一万五千人いちまんごせんにん、山野の獣、江河の鱗に至まで、其命を断事幾千万と云数を知ず。
 去共一念菩提心を発しに依、往生する事を得たり。
 御先祖平将軍へいしやうぐんは、相馬さうまの小次郎こじらう将門まさかどを討て、東八箇国を鎮給しより以来、相続朝家の御守にて、嫡々九代に成給へば、君こそ今は日本国につぽんごくの大将軍にて御座おはしますべけれ共、故小松大臣世を早うせさせ給たまひしかば、御身に積る御罪業あるべし共覚えず、況出家の功徳は莫大なれば、先世の罪障悉に亡給らん。
 謹で諸経の説を案ずるに、百千歳が間百羅漢を供養するも、一日出家の功徳には及ず、縦人ありて七宝の塔を立ん事、高さ三十三天さんじふさんてんに至とも、一日出家の功徳には猶及難しといへり。
 又一子出家すれば、七世の父母皆得脱す共明せり、七世猶如此、況我身に於をや。
 さしも罪深き伊予入道、心強きが故に往生を遂、させる罪業おはしまさゞらんに、などか極楽へ参給はざるべき。
 中にも弥陀如来みだによらいは、十悪五逆をも嫌ず、一念十念をも導給はんと云悲願御座、彼願力を憑まん人疑やは有べき。
 二十五の菩薩を引具し給たまひて、伎楽歌詠し、只今ただいま極楽の東門を出来給べし。
 観音捧蓮台、勢至合掌迎給はんずれば、今こそ蒼海の底に沈と思召おぼしめすとも、則紫雲の上にこそ昇り給はんずれ。
 成仏じやうぶつ得脱して、神通身に備給たまひなば、娑婆の故郷に還て恋しき人をも御覧じ、悲き人をも導給はん事、いと安かるべしと申ければ、中将入道然べき善知識にこそと嬉敷て、忽たちまちに妄念を翻て正念に住し、又念仏高く唱給、光明くわうみやう遍照十方世界、念仏衆生、摂取せつしゆ不捨と誦し給たまひつゝ、海にぞ入給にける。
 与三兵衛入道、石童丸も、同連て入にけり。
 舎人武里是を見て、余あまりの悲さに海へいらんとしけるを、如何にうたてく御遺言ごゆいごんをば違るぞ、下﨟こそ口惜けれとて、時頼入道いだき留たりければ、船の中に伏まろび、喚叫事不なのめならず
 悉達太子の十九にて檀特山に入給たまひし時、車匿舎人が被棄て悶焦けんも、是には過じとぞ見えし。
 時頼入道も流石さすが哀に悲くて、墨染の袖絞り敢ず、若浮もぞ上り給ふとて暫見けれ共、三人ながら深沈みて見えざりけり。
 日も既すでに暮ければ、名残なごりは惜く思へ共、空き舟を漕もどす。
 梶の雫落る涙、何れもわきて見えざりけり。
 礒近く成儘に、渚なぎさの方を見れば、海士共多く集て沖の方へ指をさし、何とやらん云ければ、奇しく覚えて船を指寄て問。
 老人申けるは、沖の方に例ならず音楽の声しつれば、各奇く聞侍つる程に、又先々もなき紫色の雲一村、彼の程に出来て侍つるが、程なく見えず成ぬ。
 既すでに八十に罷成ぬれ共、未あれ様の雲も見侍ずと語けり。
 さては此人々の往生の瑞相顕れぬ、如来によらいの来迎に預て、紫金の台に乗給にけりと思ければ、別離の涙、随喜の袂たもととり/゛\どり也。
 或説に云、三山の被参詣にければ、高野へ下向ありけるが、さてしも遁はつべき身ならねばとて、都へ上り院ゐんの御所ごしよへ参て、身謀首にも侍らねば、罪深かるべきにも非ず、命をば助らるべき由をぞ申入ける。
 事の体不便に被思召おぼしめされて、関東へ被仰遣けり。
 頼朝よりとも御返事おんへんじに、彼卿を下し給たまひて、体に随て可申入と申たりければ、可罷下由法皇より被仰下ける。
 後は飲食を断たりけるが、廿一日と云けるに、関東へも下著せず、相模国さがみのくに湯下宿にて入滅ともいへり。
 禅中記に見えたり。
 或説には、那智の客僧等是を憐て、滝奥の山中に庵室を造りて隠し置たり。
 其所今は広き畑と成て、彼人の子孫繁昌しておはす。
 毎年に香を一荷那智へ備ふる外は別の公事なし。
 故に爰を香はだと云と、入海は偽事と云云。
 時頼入道は高野へ上にけり。
 武里は讃岐屋島に下にけり。
 御弟の新三位中将しんざんみのちゆうじやうに奉逢、三位中将さんみのちゆうじやう入道殿にふだうどののたまひける事共、有の儘に語申せば、穴心憂や、如何なる事成共、などや資盛には知せ給はざりける、さあらば御伴申て同水底にも入なまし物を、我憑奉る程は思給はざりけるうらめしさよ、一所にて如何にもならんとこそ申しゝかとて、涙を関敢ず流しけるこそ無慙なれ。
 三位中将さんみのちゆうじやうをば、池いけの大納言だいなごんの如くに、頼朝よりともに心通はして京へ上にけりと、大臣殿も心得こころえたまひて、資盛にも打解給はざりつるに、さては身を投給ける事の悲しさよ、云置給事はなしやと問給へば、武里泣々なくなく申けるは、京へは穴賢上るべからず、屋島へ参て有つる事共委申せ、一所にて如何にもならんとこそ思侍りしか共、都に留置し少き者共の余におぼつかなくて、有そらもなかりしかば、若や伝ひ上て今一度見ると思て、あくがれ出たりしか共、叶ふべき様なければ角罷成ぬ、備中守も討ぬ、維盛もかく成ぬれば、如何にも便なく思召おぼしめすらんと心苦しくこそ侍れ、又唐皮小烏までの事、細々と申たりけるを聞給たまひて、今は資盛とても非叶と、宣も敢ず御涙おんなみだを流し給ふ。
 故三位中将さんみのちゆうじやうにゆゝしく似たれば、武里も見奉りては、共に袖をぞ絞りける。

弥巻 第四十一
頼朝よりとも正四位下しやうしゐのげ附崇徳院遷宮事

 元暦元年三月二十八日にじふはちにちの除目に、兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりとも正四位下しやうしゐのげに叙す。
 尻付には追討義仲よしなか賞とぞ有ける。
 元従五位下なれば、已五階の賞に預る。
 勲功の越階、其例あるに依なり。
 同四月十五日子時に、崇徳院遷宮あり。
 春日が末北河原の東也。
 此所は大炊殿の跡、先年の戦場也。
 去し正月の比より、民部卿成範卿、式部権少輔範季、両人奉行として被造営けるが、成範卿は故少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいが子息也。
 信西保元の軍の時、御方にて専事行はれ、新院を傾け奉たる者の息男也。
 造営の奉行神慮はゞかり有とて、成範を改られて、権大納言ごんだいなごん兼雅卿奉行せられけり。
 法皇御宸筆ごしんぴつの告文有、参議式部大輔たいふ俊綱卿としつなのきやうぞ草しける。
 権大納言ごんだいなごん兼雅卿、紀伊守範光、勅使をつとむ。
 御べうの御正体には御鏡を被用けり。
 彼御鏡は、先日御遺物を兵衛佐ひやうゑのすけの局に御尋おんたづねありけるに、取出て奉たりける八角の大鏡也。
 元より金銅普賢の像を鋳付奉たりける。
 今度平文の箱に被納たり。
 又故宇治左大臣のべう同東の方にあり。
 権大納言ごんだいなごん拝殿に著して、再拝畢て告文を披かれて、又再拝ありて、俗別当神祇大副卜部兼友朝臣に下給ふ。
 兼友祝申て前庭にして焼之けり。
 玄長を以別当とす。
 〈故教長卿子〉慶縁を以て権別当とす。
 〈故西行法師子〉遷宮の有様ありさま、事に於て厳重也き。

忠頼被討付頼盛よりもり関東下向事

 同廿六日にじふろくにちに、甲斐の一条次郎忠頼被誅けり。
 酒礼を儲て謀て、宮藤次資経、被官滝口朝次等是を抱たりけり。
 忠頼為方なくて亡にけり。
 郎等あまた太刀を抜て縁の上に走昇り、打て懸りけるを搦捕んとしける程に、疵を蒙者多かりけり。
 忽二三人は伏誅せられ、其外は皆虜られぬ。
 忠頼が父、武田太郎信義を追討すべき由、頼朝よりともの下知に依、安田三郎義貞は甲斐国へ発向す。
 義貞が為には信義は兄也、忠頼は甥ながら聟なりけり。
 世に随習とて、兄誅罰に下りけるこそ無慙なれ。
 同五月十五日、前大納言だいなごん頼盛卿よりもりのきやう上洛し給へり。
 関東にて被賞翫給ける事、心も詞も及がたし。
 此人鎌倉へ下り給たまひける事は、平家都を落給しに、共に打具して下給ふ程に、兵衛佐ひやうゑのすけ兼ての状を憑て、道より返給へり。
 彼状には難遁命を寛して生られ奉りし事、偏ひとへに池尼御前の芳恩に侍り、其御志生生に忘難、頼朝よりとも世に経廻せば、御方に奉公仕て、彼御恩に可報、此条けう飾けうはうの作言に非、且は二所八幡の御知見を仰ぐと、度々被申上たりければ、深其状を憑て落残給たれ共、頼朝よりともこそ角は思共、木曾冠者きそのくわんじや十郎蔵人、我に情を置べきに非、如何成行んずらん、波にも著ず、磯にも著ぬ風情して、肝心を砕て過給ける程に、行家は木曾に恐て都の外に落ぬ、義仲よしなかは九郎冠者に討れければ、聊安堵し給へるに、兵衛佐ひやうゑのすけより重て状を上せ給へり。
 企上洛参申之処、其状当時難治に侍り、急御下向あらば畏存ずべし、且故尼御前を見奉と思侍べし、宗清左衛門尉さゑもんのじよう、同可召具と被申たりけるに依て下向給たまひけり。
 弥平左衛門尉やへいざゑもんのじよう宗清と云は、本は平家の一門なりけり。
 当時侍振舞にて、池殿には相伝専一の者也。
 頼朝よりともの命に任て可召具由被仰けるに、宗清辞申けり。
 大納言だいなごん如何にと問給へば、君は角て御渡あれ共、御一門の公達西海に漂て、安き御心なし、思遣奉に心憂く覚えて、安堵の心侍らず、今度の御伴をば暇給たまひて、追て可下向仕と申也。
 大納言だいなごん苦々しく恥思給たまひて、一門を引別て落留る事、我身ながらもいみじとは存ね共、妻子もあれば世も難捨て、甲斐なき命も惜ければ憖なまじひに留りき、此上は留るべきに非ず、下らんと思也、大小事汝にこそ被仰合しか、落留し事不受思はば、其時などや所存を申さざりけるぞと宣へば、宗清、人の身に命に過て惜き物やは候べき、身あれば又世は捨られぬ事なれば、御とまりを悪しとには非ず、兵衛佐ひやうゑのすけも命を被生進せてこそ懸幸にも合給へ、平治之時預置時、情ある体にて相当りし事、又故尼御前仰にて、近江国篠原宿まで送奉し事、忘ぬと承れば、御伴申て下たらば、定て所領引出物なんど給はんずらん、其に付ても西海に御座おはします公達侍共の待聞ん事恥しく侍れば、今度は暫罷留るべし、君は落留御座上は、御下向なからんも中々様がましかるべし、兵衛佐ひやうゑのすけ尋申されば、折節をりふし労る事ありと申度こそ侍れとて下らざりければ、聞人げにもと感じ申けり。
 大納言だいなごん鎌倉に下著し給たりければ、兵衛佐ひやうゑのすけ急見参し給けるに、先宗清左衛門尉さゑもんのじようは御伴歟と被尋申労事有て下向なしと宣のたまひければ、世にも本意なげにて、頼朝よりとも召人にて宗清がもとに預置れたりしに、事にふれて情深あたり申しかば、難忘恋しくも覚えて、必可召具由兼て申上せて侍れば、御伴には定めて下り候らんと相存知て候へば、返々遺恨に候き。
 平家都を落ぬ、今更頼朝よりともに面を合ん事よ、など云意趣も残侍にやとまで宣て、誠に本意なしと思へる気色也。
 宗清が料とて、所領の宛文まで成儲、馬鞍絹染物等、様々の引出物用意あり。
 其上大名三十人に仰て、一人別の結構けつこうには、鞍置馬裸馬各一匹、長櫃一合、其中には宿物一領、小袖十領、直垂五具、絹十匹入べし、此外不分と被下知ければ、三十人面々めんめんに我おとらじと、馬は六鈴沛艾を撰び、鞍は金銀を鏤たりけれ共、下らざりければ、是も面々めんめんに本意なき事にぞ思ひ申ける。
 大納言殿だいなごんどのをば、暫鎌倉にも御座おはしまし候へかしと宣のたまひけれ共、京都にもおぼつかなく思ふらんとて、急被上洛ければ、大納言殿だいなごんどのに可成返之由被申内奏ける上、本の知行庄園は一所も無相違、其外所領八箇所下文等書副て奉。
 鞍置馬二十匹、裸馬廿匹、長持二十合、中には衣染物砂金鷲羽など被入たり。
 其値十万余貫に及べりと云。
 兵衛佐ひやうゑのすけ加様にもてなし給ければ、大名小名我も/\と引出物を奉。
 宗清が料の用意も皆此殿にぞ奉りける。
 去ば上り給けるには、馬も三百匹に余けり。
 命を生給へるだにも難有、剰徳付所知得給へりと披露有ければ、人の口様々也。
 或は家の疵を顧ず、一門を引分て、永く名望を失て、今に存命を全する事不然と謗る者もあり。
 又池尼公、頼朝よりともを宥生ずば、頼盛よりもり争か虎口を遁て鳳城に還らん、積善の家には必有余慶と云、誠なるかなと、羨嘆る者もあり。
 其口何れも理也。

義経関東下向附親能搦義広並除目事

 同六月一日、源九郎義経、不身之暇、潜に関東へ下向す。
 梶原平三景時が為に讒言せられて、無誤事を謝んとぞ聞えし。
 其間に土肥次郎実平、西国さいこくより飛脚を立つ。
 九国の輩大略平家に同意之間、官兵不利之由言上したりけれ共、義経平家追討の事を抛て下向したりければ、人皆傾け申けり。
 同三日前斎院次官親能、〈前明経博士広季子頼朝よりとも之臣専一者也〉双林寺にして前美濃守義広を搦捕間、両方疵を蒙者多し、木曾きそ義仲よしなかに同意して、去正月合戦之後、跡を晦してなかりけるに、今在所をあなぐられて、遂に被搦捕けり。
 此義広と云は、故六条ろくでうの判官はんぐわん為義ためよしが末子也。
 武を以ては夷賊を平げ、文を以は政務を糺すとこそ云に、親能は明経博士也。
 義広は源家の勇士也。
 今重代武勇の身と生れて、儒家の為に虜れけるこそ口惜けれと、人皆脣をかへして爪を弾く、実と覚えたり。
 同六日、前大納言だいなごん頼盛卿よりもりのきやう大納言だいなごんに還任す。
 蒲冠者範頼参川守に任じ、源広綱駿河守に任じ、源みなもとの義延武蔵守に任じけり。
 此等は内々頼朝よりともの朝臣あそん吹挙申けるとぞ聞えし。

三日平氏付維盛旧室歎夫別並平氏歎事

 同八日、去晦日、平氏備前国に責来る。
 甲斐源氏に板垣患者兼信、〈信義次男〉美濃国を出て、備後国に行向て合戦しけり。
 平氏の船十六艘を討取間、両方命を失ふ者其数を不知、依これによつて兼信、美作みまさかの国司に任ずべき由言上しけり。
 伊賀国山田郡住人ぢゆうにん、平田四郎貞継法師と云者あり。
 是は平家の侍肥後守ひごのかみ貞能さだよしが弟也。
 平家西国さいこくに落下て、安堵し給はずと聞えければ、日比ひごろの重恩を忘れず、多年の好みを思て、当家に志ある輩、伊賀伊勢両国の勇士催し、平田城に衆会して謀叛を起し、近江国を打従へて、都へ責入べしと聞えければ、佐々木源三秀義驚騒ぎけり。
 我身は老体なれば、東国西国さいこくの軍には、子息共を指遣不下向、近き程に敵の籠たるを聞ながら、非黙止とて、国中こくぢゆうの兵を催集て、伊賀国へ発向ければ、甲賀上下郡の輩、馳集て相従けり。
 秀義は法勝寺ほつしようじ領大原おほはらの庄に入、平家は伊賀壬生野平田にあり、行程三里には不過けり。
 源平互に、勝に乗べきか、敵の寄るを待べき歟と評定しけり。
 平家の方に伊賀国住人ぢゆうにん壬生野新源次能盛と云ふ者の計ひ申けるは、当国は分限せばし、大勢乱入なば国の煩人歎也、近江国へ打出て、鈴鹿山を後に当て軍せんに、敵弱らば蒐てんず、敵健ならば山に引籠、などか一戦せざるべきと云ければ、然べしとて、源次能盛、貞継法師、三百さんびやく余騎よきの兵を引率して、柘殖郷、与野、道芝打分て、近江国甲賀郡、上野村、ふし窪ふしくぼ、篠鼻田、堵野に陣を取て、北に向て引へたり。
 佐々木は、大原おほはらの庄油日明神の列、下野に南へむけて陣を取。
 源平小河を隔て扣へたり。
 両陣七八段には過ざりけり。
 互に名対面して、散々さんざんに射殺ぬる者もあり、手負者も多し。
 平家は思切たりければ、命も惜ず戦ふ。
 源氏の軍緩なりければ、源三秀義一陣に進んで、平氏は宿運既すでに尽て西海に落給たまひぬ、残党争源家を傾くべき、蒐よ若党、組や者共と下知しける処に、壬生野の新源次能盛、十三束三伏を、よ引竪めて放つ矢に、透間を射させて馬より落。
 秀義が郎等、敵をもらさじと目に懸て、暫竪めて放つ矢に、能盛馬より下へ射落さる。
 敵に頸を取れじと、乗替の童馬より飛下、主の頸を掻落して、壬生野の館に馳帰る。
 源氏郎等共らうどうどもも、今日の大将軍源三秀義を誅して、五百ごひやく余騎よき轡を並て、河をさと渡して、揉に揉てぞ蒐たりける。
 西国さいこくの住人ぢゆうにん等散々さんざんに蒐立られて、自先立者は遁けれ共、後陣は多討れにけり。
 今は返合するに及ずとて鈴鹿山に引籠。
 夫よりちり/゛\にこそ成にけれ。
 平家重代之家人也、相伝恩顧の好難忘して、思立ける志は哀なれ共、大気なしとぞ覚えたる。
 三日平氏と笑けるは此事也。
 同おなじき十七日じふしちにち平氏軍兵等舟に乗り、摂津国つのくに福原の故郷に襲来る由、梶原平三景時、備前国より飛脚を以て申上たりければ、都のさわぎ不なのめならず
 権亮三位中将ごんのすけさんみのちゆうじやう入道にふだうの北方は、自の言伝も絶果、風の便の音信おとづれをも聞給はで程ふれば、覚束おぼつかなくぞ思召おぼしめしける。
 月に一度などは必文をも待見給へ共、春を過夏も闌ぬ。
 いかにと成給ぬるやらんと思召おぼしめしけるに、三位中将さんみのちゆうじやうは屋島には御座おはしまさずと云人ありと聞給たまひて、浅猿あさましさの余りに、人を屋島へ奉たりけれ共、それも急返り上らず、早秋にも成にければ、いとゞ為方なくぞおぼされける。
 七月七日御使返り上たり。
 如何に御返事おんへんじはと尋給へば、御使涙を流して、去し三月十五日に屋島を出させ給たまひて、高野へ参給たりけるが、時頼入道の庵室にて御髪おろし、其より熊野へ伝給つゝ、三山拝せ給たまひて後、那智の沖にて御身を抛させ給ければ、重景も石童丸も出家し侍りけるが、後世迄の御伴とて同水に入ぬと、熊野迄御伴申たりける舎人武里、たしかに語り申侍りしが、是を最後の御文言伝申侍るとて進せたれば、北方取上披き給ふにも及ず、さればこそ怪かりつる者をとばかり宣のたまひて倒れ臥、喚叫給事理にも過給へり。
 若君姫君も声々に悶焦れ給へり。
 消も入給ぬと見えければ、若君の乳母めのとの女房泣々なくなく慰め申けるは、今更驚思召おぼしめすべきに非ず、是皆兼て思召おぼしめし儲し御事也、本三位中将殿ほんざんみのちゆうじやうどのの様に、生ながら取れて御恥をさらし、又弓矢のさきにかゝり御命を失ひ給はば、同御別と申ながら、いかばかりかは悲侍べきに、高野にて御髪おろし御戒持て、熊野へ参御座おはしまして、故小松殿こまつどのの御様おんさまに、後世の事を厭しく申させ給つつ、臨終正念にて沈入せ給たまひけり。
 願てもあらまほしき御事なれば、御心安おんこころやすくこそ思召おぼしめすべけれ、痛敷御歎候まじ、今は如何なる山の中岩の迫にても、少き人々を生立、御形見にも御覧ぜんとこそ思召おぼしめさめ、無人の御為に、心を尽し身を苦しめさせ給たまひても何の詮かは侍べき、泣歎き御座おはします共、返来り給ふべきに非ず、都を落て道狭き御身となり御座おはしましし上は、賢くも御計ひ候けりとこそ思召おぼしめし候はめなど申ければ、女房涙の隙より、御文を披見給ふに、
  古郷にいかに松風恨むらん沈む我身の行へしらずば
と読給たまひては、其文を顔にあて胸に当て、忍兼給へる有様ありさまなり。
 様をも窄し身をも投給べきまでに見給ぞ無慙なる。
 三位中将さんみのちゆうじやう高野に上り出家し、那智の澳に沈ぬと聞えければ、兵衛佐ひやうゑのすけのたまひけるは、あゝ賢かりし人の子にて、賢計し給けり、但隔なく打向来りせば、命をも宥申てまし、小松内府の事疎ならず、池尼御前の御使として、頼朝よりともを流罪に申宥られしは、偏ひとへに彼人の芳恩たりき、争か其恩を忘べきなれば、其子息達疎に思はず、殊入道出家し給けん上は子細にや及べき、高野に籠て心静に後世をば祈給はで、糸惜糸惜とぞ宣のたまひける。
 平家は屋島に返り給たまひて後、又東国より討手二十万にじふまん余騎よき、既すでに都に著て西国さいこくへ責下共聞ゆ。
 九国の輩尾形三郎を始として、臼杵、戸槻、松浦党等、二千にせん余艘よさうにて四国へ渡るべし共聞。
 此を聞彼を聞にも、心を迷し肝を砕く。
 一門の人々は一谷いちのたににて多く討れ給ぬ、憑給へる侍共も又残少く討れにき、今は力尽果て、只阿波民部大夫成良が、四国の輩を語たるばかりを深憑給へるぞ危き。
 そも東西より責るにはおだしからん事有まじと、兼ておぼすぞ悲き。
 女院二位殿にゐどのを始奉て、女房達にようばうたちさしつどひつゝ、涙にのみぞ咽給ふ。
 七月二十五日には、平家去年の朝までは都に在し者を、泡立しく去年の今日、花の栖を迷出て、草の枕に仮寝して、明ぬれば磯打波に袖をぬらし、晩ては藻塩の煙に肝を焦す、つながぬ月日と云ながら、角て程なく廻来にけりと思召おぼしめすにも、最都の恋さに、各袂たもとを絞けり。

新帝御即位付義経蒙使宣並伊勢滝野軍事

 同おなじき二十八日にじふはちにちには、新帝太政官庁にて御即位あり。
 大極殿だいこくでんいまだ造れねば、是にして被行。
 治暦四年七月に、後三条院ごさんでうのゐんの御即位の例とぞ聞えし。
 神武天皇じんむてんわうより以来八十二代、神璽宝剣なくして御即位例、今度始とぞ申す。
 八月六日、九郎義経左衛門尉さゑもんのじように成て、即使の宣を蒙て、九郎判官と申けり。
 是は一谷いちのたに合戦勧賞とぞ聞し。
 同おなじき十一日九郎判官義経は、和泉守平信兼が、伊勢国いせのくに滝野と云所に城郭じやうくわくを構て、西海の平家に同意すと聞て、軍兵を指遣して是を責。
 信兼に相従郎等百余人よにん城内に籠て、皆甲冑を脱棄て大肩脱に成、楯の面に進出て散々さんざんに射ければ、義経が郎等多被討捕けり。
 矢種尽にければ城に火を放ち、信兼已下自害して、炎の中に焼死けり。
 誠に由々敷ぞ見えし。
 負よく苡よくい之讒、遂に亡けるこそ無慙なれ。
 〔又九月十八日じふはちにちに、九郎判官義経叙従五位下、検非違使けんびゐし元。〕

屋島八月十五夜附範頼西海道下向事

 同おなじき十五日、屋島には秋も既すでに半に成にけりと哀也。
 何しか稲葉の露も置増つゝ、荻吹風も身に入に、蜑人の燃藻の夕煙、尾上の鹿の暁の声、哀も催す便也。
 さらぬだに秋の空は物憂に、宿定らぬ旅なれば、何事に付ても心を傷しめずと云事なし。
 此春より後は、越前三位の北方の様に、波の底に身を沈むるまでこそなけれ共、女房達にようばうたちの明ても暮ても臥沈み泣給も糸惜。
 顧故郷於万里之雲外、忍旧儀於九重月前、今夜は名を得たる月なれば、人々隈なき空を詠けるに、左馬頭さまのかみ行盛かくぞ読給たまひける。
  君すめばこれも雲井の月なれど猶恋しきは都なりけり
と、是を聞ける人々、皆涙を流しけり。
 九月二日、参川守範頼、平氏追討の為に西海道に下向す。
 相従輩には、足利蔵人義兼、武田兵衛有義、板垣冠者兼信、斉院次官親義、佐々木三郎盛綱、北条四郎時政、土肥次郎実平父子、千葉介経胤、其孫境平次経秀、三浦介義澄、子息平六能村、土屋三郎宗遠、渋谷庄司重国、長野三郎重清、稲毛三郎重成、弟に榛谷四郎重朝、葛西三郎重清、宇都宮四郎武者所茂家、子息太郎朝重、小山小四郎朝政、同七郎朝光、中沼五郎宗正、比企藤内朝宗、同藤四郎能員、大多和次郎義成、安西三郎秋益、同小次郎こじらう秋景、公藤一郎祐経、同三郎秋茂、宇佐美三郎祐能、天野藤内遠景、大野太郎実秀、小栗十郎重成、伊佐小次郎こじらう友政、浅沼四郎弘綱、安田三郎能貞、大河戸太郎弘行、同三郎弘政、中条藤次家長、一法房昌寛、土佐房昌春、小野寺禅師太郎通綱等を始として、其そのせい十万余騎よき、軍船千余艘よさうにて室泊に著。
 去共十二月廿日比ころ迄は、室高砂に逗留して、遊君に遊宴して、国は正税しやうぜい官物くわんもつを費し、所には人民百姓は煩はしけれ、上下是を不甘心、大名も小名も、急四国に渡て敵を責られよかしと思けれ共、大将軍の下知による事なれば力及ず。

盛綱渡藤戸児島合戦附海佐介渡海事

 同おなじき十八日じふはちにちに、九郎判官義経叙従五位下、検非違使けんびゐし元。
 平家讃岐屋島に乍有、山陽道を打靡し、左馬頭さまのかみ行盛を大将軍として、飛騨守景家かげいへ以下侍を相具して、二千にせん余艘よさうにて備前国児島著。
 参川守範頼も、室泊に有けるが、舟より上、同国西河尻、藤戸渡に押寄て陣取。
 源平海を隔て引へたり、海上四五町には過ざりけり。
 同廿五日に、平家海を隔て、扇をあげて源氏招。
 源氏是見、海を渡せと云こそ、船なくして叶べきならねば、是も以扇招合ふ。
 源平遥はるかに見渡て、其そのも徒に晩にけり。
 爰ここに佐々木三郎盛綱、夜入て案じけるは、渡べき便のあればこそ平家も招らめ、遠さは遠し淵瀬はしらず、如何はせんと思けるが、其辺を走廻て浦人を一人語ひ寄て、白鞘巻を取せて、や殿向の島へ渡す瀬は無か、教給へ、悦は猶も申さんと云へば、浦人答て云、瀬は二候、月頭には東が瀬になり候、是をば大根渡と申、月尻には西が瀬に成候、是をば藤戸の渡と申、当時は西こそ瀬にて候へ、東西の瀬の間は二町計、其瀬の広さは二段は侍らん、其内一所は深候と云ければ、佐々木重て、浅さ深さをば争知べきと問へば、浦人、浅き所は浪の音高く侍ると申す。
 さらば和殿を深く憑也、盛綱を具して瀬踏 して見せ給へと懇に語ひければ、彼男裸になり先に立て、佐々木を具して渡りけり。
 膝に立所もあり、腰に立所もあり、脇に立所もあり。
 深所と覚ゆるは鬢鬚をぬらす。
 誠に中二段計ぞ深かりける。
 向の島へは浅く候也と申て、夫より返る。
 佐々木陸に上て申けるは、や殿暗さは闇し、海の中にてはあり、明日先陣を懸ばやと思ふに、如何して只今ただいまのとほりをば知べき、然べくは和殿人にあやめられぬ程に、澪注を立て得させよとて、又直垂を一具たびたりければ、浦人斯る幸にあはずと悦て、小竹を切集て、水の面よりちと引入て、立て帰て角と申。
 佐々木悦で明るを遅しと待。
 平家是をば争か可知なれば、二十六日にじふろくにちの辰刻に、平家の陣より又扇を挙てぞ招たる。
 佐々木三郎盛綱は、黄生衣の直垂に、緋威ひをどしの冑、白星甲、連銭葦毛れんせんあしげの馬に、金覆輪の鞍置てぞ乗たりける。
 家子に和比八郎、小林三郎、郎等に黒田源太を始として、十五騎轡をならべて海へ颯と打入てぞ渡ける。
 参川守、馬にて海を渡す事やはある、佐々木制せよと宣のたまひければ、土肥、梶原、千葉、畠山承、継てあやまりし給な、返せ返せと声々に制しけれ共、兼て瀬踏して澪注を立たれば、耳にも聞入ず渡けり。
 頭の烏頭、草脇、胸帯尽に立所もあり、深所をば手綱をくれ游せて、浅くなれば物具もののぐの水はしらかし、弓取直し向の岸へさと上る。
 鐙踏張弓杖にすがりて名乗けるは、今日海を渡し、敵陣にすゝむ大将軍をば誰とか見る、宇多天皇てんわうの王子、一品式部卿しきぶきやう敦実親王より九代の孫、近江国住人ぢゆうにん佐々木源三秀義が三男に、三郎盛綱也、平家の方に我と思はん者は、大将も侍も落合て、組や/\と喚て蒐入、散々さんざんに蒐。
 源氏の兵是を見て、海は浅かりけり。
 佐々木討すな渡せ者共とて、土肥、梶原、千葉、畠山、我先々々と打入打入、五千ごせん余騎よき向の岸へさと上る。
 平家は扇を以て度々に招けれ共、流石さすが海なれば争か渡すべきと、思ひ延て有けるに、角押寄せ時を造ければ、互に時を合せ、喚叫て戦けり。
 遠きをば弓にて射、近をば熊手にかけて取、或は射殺され切殺され、源平互に乱合て、隙をあらせず息を継ず、討もあり被討もあり、取もあり被取も有ければ、少時と思時の間に、両方八百はつぴやく余騎よきこそ亡にけれ。
 佐々木三郎の家子に、上総国住人ぢゆうにん和比八郎と、平家の侍に讃岐国住人ぢゆうにん加部源次と組合ひて馬より落、上になり下に成、弓手にころび妻手に転び、からかひけるが、源次は遥はるかに力勝にて、和比八郎を取つて押へて頸をかく。
 源平目をすましてぞ見たりける。
 八郎が従兄弟に小林三郎重隆と云者、加部源次に落合て引組で、是も上に成下に成転びけるが、海の中へぞころび入にける。
 郎等に黒田源次続きたりけれども、共に海へ入りたりければ、水の底へつゞくに及ばず、汀みぎはに立て、今やあがる/\と待けれ共、此者共はなほ水底にて、上になり下に成転びければ、波の荒き所へ弓のほこを指入れて、彼此を捜りければ、敵の源次弓の筈に取付たり。
 引上見れば敵也。
 主の小林も、源次が腰にいだき付て上りければ、敵の源次をば頸を切、主をば取上助てけり。
 平家是を見て、今は叶はじとや思ひけん、舟にとり乗漕退、矢鋒をそろへて、指詰指詰散々さんざんに射。
 源次は勝に乗、汀みぎはをまはりて是も散々さんざんに射ければ、平家は児島の城じやうを落て、讃岐屋島へ漕返れば、源氏は馬を游がせて、藤戸の陣へ帰にけり。
 佐々木四郎高綱が、宇治川うぢがはの先陣を渡したりをこそ高名と云ひたりしに、同三郎盛綱が、馬にて海を渡す事、漢家本朝ためし無きとぞ源平共に感じける。
 誠にゆゝしくぞ見えたりき。
 或説に云く、平家立籠備前国児島、之時、盛綱遥はるかに海上を渡し、先陣を蒐て群敵を責落畢。
 依これによつて右大将家うだいしやうけ御自筆之御下文云、自古渡河雖先例、未遥渡海之例と、即賜彼島之上、賜伊予讃岐両国畢。
 昔備前国に、海佐介と云けるこそ兵の聞え有ければ、西戎を鎮められんが為に、官兵を指副られたりけるに、官軍は船に乗けれ共、佐介は馬に乗ながら、先陣に進て海上を渡る。
 程なく賊徒を責随へて、又馬に乗ながら海の面を歩せて本国に帰りけるが、備前の内海にて、海鹿と云魚に馬を誤たれたりけれ共、馬少もひるまずして、佐介を陸地に著て、後に馬は死けり。
 其所に堂を立て孝養しけり、馬塚とて今に有。
 時の人云、馬は竜也、佐介直人に非ずとぞ申ける。
 佐介は波上を歩せて西戎を従へ、盛綱は水底を渡して平家を落す。

義経拝賀御禊ごけい供奉附実平自西海飛脚事

 十月十一日、義経拝賀を申。
 拝賀とは、使の宣を蒙て、従五位下に叙しける御悦申也。
 其夜内の昇殿をゆるさる。
 火長前を追べしや否やの事、内々大蔵卿おほくらのきやう泰経卿に尋申ければ、希代の例なれば、身には不存とて、梅小路中納言長方卿に被向ければ、殿上の六位の検非違使けんびゐし前を追へり。
 五位尉として相並て雲上に在、前を不追頗る光花無歟と被申ければ、前を追へり。
 総て其作法佐にたがふ事なかりけり。
 院ゐんの御所ごしよにては御前へ被召けり。
 伴には布衣の郎等三人を召具す。
 左衛門尉さゑもんのじよう時成、右兵衛尉義門、左馬允有経也。
 此外武士三百さんびやく余人よにん路次にまはれり。
 用心の為にやと覚えたり。
 同おなじき二十五日に大嘗会だいじやうゑの御禊ごけいあり、源九郎大夫判官たいふはうぐわん義経本陣に供奉す。
 色白して長短し、容貌優美にして進退優なり。
 木曾などが有様ありさまには似ず、事外に京馴て見えしか共、平家の中にえりくづと云し人にだにも及ねば、心ある者は皆昔を忍て袖を絞る。
 豊御衣今年ぞせさせ給たまひける。
 節下は後徳大寺ごとくだいじ内大臣ないだいじん実定公勤給ける。
 敷政門を入て著陣せられける形勢ありさま、最ゆゑ/\しくぞ見え給ける。
 去々年先帝の御禊ごけいには、節下は前さきの内大臣ないだいじん宗盛勤給き。
 作法進退優美に見え給しに、今は公庭にて再見奉べきに非ずと申出て、涙流す者多かりけり。
 平家一族の人々、公事の庭には取々にはなやかにのみ見え給しに、今日は一人も見え給はず、移行世の有様ありさま、幾程を経ざれ共、替果にけりと哀なり。
 土肥次郎実平が許より飛脚を立て、九郎判官へ申送けるは、前平中納言知盛卿、既すでに文字関に攻入、安芸周防已下皆平氏に従ふ、其そのせい甚多し。
 兵船は百余艘よさうを以毎度に襲来。
 船中には大楯を組て其身を顕さず、陸地より馳向時は、矢間を開て馬の腹を射、乗人馬より落時は、歩兵の輩数百人すひやくにん、舟より下降て打取間、度々の合戦に官平皆敗畢。
 親類の者共も多く被討捕畢。
 実平老体の上重病を受、当時の如くは敵対に叶はず、急軍兵を可相副と申上せたり。
 平家は児島の軍に打負て、屋島の館へ漕戻。
 屋島には、大臣殿を大将軍として、城郭じやうくわくを構て待懸たり。
 新中納言知盛は、長門国彦島と云所に城を構たり。
 是をば引島とも名付たり。
 源氏此事を聞て、備前、備中、備後、安芸、周防を馳越て、長門国にぞ著にける。
 当国の国府には三御所あり、浜御所、黒戸御所、上箭御所と云。
 参川守は此御所御所を見んとて、今夜は爰ここに引へたり。
 蒼海漫々として、磯越す波旅の眠を驚し、夜の月明々として、水に移影鎧の袖を照しけり。
 同征馬の旅なれ共、殊に興ありてぞ覚えける。
 明なば引島の城じやうを責べしと議定有けるに、文字、赤間の案内知らでは叶はじとても豊後地へ渡、尾形三郎を先として責べしとて、先使を維能が許へ遣しけり。
 維能五百ごひやく余艘よさうの兵船をそろへて参川守を迎奉ければ、範頼是に乗て豊後の地へ渡にけり。
 去さるほどに十月の末にも成しかば、屋島には浦吹風も烈く、磯越浪も高ければ、船の行通も希なり。
 空掻陰打時雨つゝ、日数経儘には、都のみ思出て恋しかりければ、新中納言知盛、
  住馴し都の方はよそながら袖に波こす磯の松風
と口ずさみ給たまひて、脆はたゞ涙なり。
 三河守範頼追討使として、既すでに発向すと聞えければ、いとゞ心を迷しあへり。

大嘗会だいじやうゑ付頼朝よりとも条々奏聞事

 十一月十八日じふはちにちには、大嘗会だいじやうゑ遂行けり。
 大極殿だいこくでん焼失しにければ、去々年には紫宸殿にして被行たりけるが、先帝西国さいこくへ落下らせ給たれば、今度不吉例去れんが為に、治暦嘉例に任て、太政官の庁にして被行けり。
 去治承四年より以来、諸国七道の人民百姓、或平家為に被追補、或源氏為に被却略ければ、家烟捨て山林に交、妻子に別れて道路吟て、春東作企忘、秋西収営を棄てければ、国衙こくがも庄園も、正税しやうぜい官物くわんもつの所済なければ、如何にしてか加様の大礼たいれいも被行べきなれ共、さて又黙止べき事にあらざれば、如形被遂行けり。
 平家は西海波漂ひて、死生いまだ定らず、東国北国は鎮たれ共、花落上下西国さいこくの人民、是非に迷て不安堵
 依これによつて兵衛佐ひやうゑのすけより条々奏聞あり。
 其状云、
  源みなもとの頼朝よりとも謹奏聞条々事
 一朝務以下除目等事
 右守先規、殊可徳政、但諸国受領等、尤可御沙汰ごさた候歟、東国北国両道之国々、追討謀叛輩之間、土民不安堵、於于今者、牢人如元可住旧里候、 然者しかれば来秋之時被仰含、国司被吏務者可宜候。
 一平家追討事
 右畿内近国、号源氏平氏、携弓箭之輩、并住人ぢゆうにん等、早任義経之下知引率之由、 可仰下候、海路雖幾、殊急可追討之旨、可付義経候也、於勲功之賞者、逐可計申上候。
 一諸社事
 我朝者神国也、往古之神領不相違候、其外今度又始於諸社神明、可新 加所領候歟、就なかんづく去比鹿島大明神だいみやうじん御上洛之由、風聞出来之後、賊徒追討神戮不空者、 敵兼又諸社若有破壊顛倒之事者、随破損之分限、可付受領之功候、其後可 載許候。
 一恒例神事
 守式目、無懈怠勤行之由、可沙汰候。
 一仏寺事
 諸山御領、如旧例勤行、不退転、如近年者、僧家皆存武勇、忘仏法ぶつぽふ之間、竪閉修学之枢、併失行徳之誉、尤可禁制候、兼又於濫行不信之僧者、不 公請、至僧家之武具者、自今以後、為頼朝よりとも之沙汰法奪取、可賜朝敵追討之官兵等之由、所思給候也。
 以前条々言上如件。
  元暦元年十一月日             従四位下じゆしゐのげみなもとの頼朝よりとも
とぞ被申たる。
 大膳大夫成忠卿此旨を被奏聞
 法皇叡覧有て、頼朝よりともは賢人成けるにやとぞ仰せける。

義経院参ゐんざん西国さいこく発向附三社諸寺祈祷事

 元暦二年正月十日、九郎大夫判官たいふはうぐわん義経は、平家追討の為西国さいこくへ発向す。
 先院ゐんの御所ごしよに参り、大蔵卿おほくらのきやう康経朝臣を以奏聞しけるは、平家は栄花身に極、宿報忽たちまちに尽て神明にも放たれ奉、君にも捨られ進て西国さいこくに漂ひ、此三箇年が間、多の国々を塞、正税しやうぜい官物くわんもつを押領し、人民百姓を悩乱す、是西戎の賊徒にあらずや、今度罷下なば、人をば不知、義経に於ては、彼輩を悉不討捕者、王城へは不帰上、鬼界高麗新羅百済までも、命を限に可責之由を申、ゆゝしくぞ聞えし。
 院ゐんの御所ごしよを出て西国さいこくへ下けるにも、国々の兵共つはものどもに向て、後足をも踏、命をも惜と思はん人々は、是より返下給へ、打つれては中々源氏の名折也、義経は鎌倉殿かまくらどのの御代官なる上、忝勅宣ちよくせんを奉たれば、角は申也とぞ宣のたまひける。
 同おなじき十三日九郎大夫判官たいふはうぐわん、淀を立て渡部へ向。
 相従輩には、佐渡守義定、大内太郎維義、田代冠者信綱、畠山庄司次郎重忠、佐々木四郎高綱、平山武者季重、三浦十郎能連、和田小太郎義盛、同三郎宗実、同四郎能胤、多々良五郎能春、梶原平三景時、子息源太景季、同平次景高、同三郎景能、比良佐古太郎為重、伊勢三郎義盛、庄太郎家永、同五郎弘方、椎名六郎胤平、横山太郎時兼、片岡八郎為春、鎌田藤次光政、武蔵房むさしばう弁慶べんけい等を始として、其そのせい十万余騎よき也。
 同おなじき十四日伊勢、石清水、賀茂三社へ奉幣使を被立、平家追討の御祈おんいのり之上、三種神器無事故返入給之由、被宣命けり。
 上卿は堀川ほりかはの大納言だいなごん忠親卿ただちかのきやう也。
 又今日より神祇官じんぎくわん人并諸社司等、本宮本社にして追討の事可祈申之由、院より被仰下けり。
 又延暦えんりやく、園城寺をんじやうじ、東寺、仁和寺にんわじにして、七仏薬師しちぶつやくし五壇法、大元延命熾盛光等の秘法数を尽し、調伏の法も被行けり。

平家人々歎附梶原逆櫓事

 屋島には、隙行駒の足早く、留らぬ月日明晩て、春は賤が軒端に匂ふ梅、庭の桜も散ぬれば、夏にもなりぬ。
 垣根つゞきの卯花、五月の空の郭公、啼かとすれば程もなく、秋の色に移て、稲葉に結ぶ露深く、野辺の虫の音よわりつゝ、冷じき比も過暮て、冬の景気ぞ冷き。
 麓の里に時雨して、尾上は雪も積けり。
 角て春を送春を迎て既すでに三年にもなりぬ。
 東国の兵の責来と聞えければ、越前三位の北方の様に、身を投るまでこそ無れ共、有空も覚えねば、女房達にようばうたちはさしつどひつゝ、唯泣より外の事ぞなき。
 内大臣ないだいじんのたまひけるは、都を出て既すでに三年になりぬ。
 浦伝島伝して、明し晩すは事の数ならず、入道の世を譲りて福原へ下給たりし其跡に、高倉宮たかくらのみやとり逃し奉たりし程心憂かりし事はなしと被仰ければ、新中納言は、都を出し日より、少も後足を可引とは思はず、東国北国の奴原も、随分に重恩をこそ蒙たりしか共、今は恩を忘契を変じて、悉に頼朝よりともに随付ぬ、西国さいこくとても憑しからず、さこそはあらんずらんと思ひしかば、唯都にて弓矢太刀刀の続かん程は禦戦て、討死射死をもして、名を後の世に留、家々いへいへに火をも懸て、塵灰とも成んと思しを、身一人の事ならねばとて、人なみ/\に都をあくがれ出て、終に遁まじき者故に、斯憂目を見るこそ口惜けれとて、大臣殿の方を拙気に見給たまひて、涙ぐみ給たまひけるぞ哀なる。
 同おなじき十五日に、源氏は西国さいこくへ発向す。
 日比ひごろ渡部、神崎かんざき両所にて舟ぞろへしけるが、今日既すでに纜を解て、三河守範頼は神崎かんざきを出て、山陽道より長門国へ赴き、大夫判官たいふはうぐわん義経は、南海道より四国へ渡るべしとて、大物が浜にあり。
 平家は又屋島を以て城郭じやうくわくとし、彦島を以軍の陣とす。
 前中納言知盛卿、九国の兵を卒して門字関を固たり。
 大夫判官たいふはうぐわんは大物浦にて、大淀の江内忠俊を以て船揃して、軍の談議ありけるに、梶原平三景時申けるは、船に逆櫓と申物を立候て、軍の自在を得様にし候ばやと申けり。
 判官、逆櫓とは何と云事ぞと問給へば、梶原は、逆櫓とは船舳に艫へ向て櫓を立候。
 其故は、陸地の軍は、進退逸物の馬に乗て、心に任て懸るべき処をば蒐、可引折は引も安き事にて侍り。
 船軍は押早めつる後、押戻すはゆゝしき大事にて侍べし、敵つよらば舳の方の櫓を以て押戻し、敵よわらば元の如艫の櫓を以て押渡し侍らばやと申たりければ、判官、軍と云は、大将軍が後にて蒐よ責よと云ふだにも、引退は軍兵の習なり、況兼て逃支度したらんに、軍に勝なんやと宣へば、梶原、大将軍の謀の能と申は、身を全うして敵を亡す、前後をかへりみず、向ふ敵ばかりを打取んとて、鐘を知ぬをば、猪武者とてあぶなき事にて候、君はなほ若気にて、加様には仰せらるゝにこそと申。
 判官少色損じて、不知とよ、猪鹿は知ず、義経は只敵に打勝たるぞ心地はよき、軍と云は、家を出し日より敵に組て死なんとこそ存ずる事なれ、身を全せん、命を死なじと思はんには、本より軍場に出ぬには不如、敵に組で死するは武者の本也、命を惜みて逃は人ならず、去ば和殿が大将軍承たらん時は、逃儲して百挺千挺の逆櫓をも立給へ、義経が舟にはいま/\しければ、逆櫓と云事聞とも聞じと宣へば、あたり近兵共つはものども是を聞て、一度に咄と笑ふ。
 梶原、よしなき事申出してけりと赤面せり。
 判官は、抑景時が義経を向う様に猪に喩る条こそ希怪なれ、若党ども景時取て引落せと宣へば、伊勢三郎義盛、片岡八郎、武蔵房むさしばう弁慶べんけい等、判官の前に進み出で、既すでに取て引張るべき気色なり。
 景時是を見て、軍談議に兵共つはものどもが所存をのぶるは常の習、能義には同じ悪きをば棄、如何にも身を全して、平家を亡すべき謀を申景時に、恥を与んと宣へば、返殿は鎌倉殿かまくらどのの御為には不忠の人や、但年比は主は一人、今日又主の出きける不思議さよとて、矢さしくはせて判宮に向。
 子息景季、景高、景茂等つゞきて進む。
 判官腹を立て喬刀を取て向処を、三浦別当能澄判官を懐止。
 畠山庄司次郎重忠梶原を抱て動さず。
 土肥次郎実平は源太を抱く。
 多々良五郎能春は平次を懐く。
 各申けるは、此条互に穏便ならず、友諍其詮なし、平家の漏聞んも嗚呼がましし、又鎌倉殿かまくらどのの被聞召きこしめさるるも其憚在べし、当座の興言くるしみ有べからずと申ければ、判官誠にと思てしづまれば、梶原も勝に乗に及ず、此意趣を結てぞ判官終に梶原には弥讒せられける。
 判官は、都を出時も申しし様に、少も命惜しと思はん人々は是より返上給へ、敵に組で死なんと思はん人々は義経付と宣へば、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、渋谷庄司重国、子息右馬允重助、土肥次郎実平、子息弥太郎遠平、佐々木四郎高綱、金子十郎家忠、伊勢三郎義盛、渡部源五馬允眤、鎌田藤次光政、奥州あうしうの佐藤三郎兵衛継信、其弟に四郎兵衛忠信、片岡八郎為春、武蔵房むさしばう弁慶べんけい等は判官に付、梶原は逆櫓の事に恨を含、判官につき軍せん事面目なしと思ひければ、引分れて参川守範頼につき、長門国へ向ふ。

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