蝶のゆくへ 北村透谷
舞うてゆくへを問ひたまふ、
心のほどぞうれしけれ、
秋の野面をそこはかと、
尋ねて迷ふ蝶が身を。
行くもかへるも同じ関、
越え来し方に越えて行く。
花の野山に舞ひし身は、
花なき野辺も元の宿。
前もなけれは後もまた、
「運命かみ」の外には「我われ」もなし。
ひらひらひらと舞ひ行くは、
夢とまことの中間なかまなり。
眠れる蝶 北村透谷
けさ立ちそめし秋風に、
「自然」のいろはかはりけり。
高梢たかえに蝉の声細く、
茂草しげみに虫の歌悲し。
林には、
鵯ひよのこゑさへうらがれて、
野面には、
千草の花もうれひあり。
あはれ、あはれ、蝶一羽、
破れし花に眠れるよ。
早やも来ぬ、早やも来ぬ秋、
万物ものみな秋となりにけり。
蟻はおどろきて穴索あなもとめ、
蛇はうなづきて洞に入る。
田つくりは、
あしたの星に稲を刈り、
山樵やまがつは
月に嘯きて冬に備ふ。
蝶よ、いましのみ、蝶よ、
破れし花に眠るはいかに。
破れし花も宿仮れば、
運命かみのそなへし床とこなるを。
春のはじめに迷ひ出で、
秋の今日まで酔ひ酔ひて、
あしたには、
千よろづの花の露に厭き、
ゆうべには、
夢なき夢の数を経ぬ。
只だ此まゝに「寂」として
花もろともに滅きえばやな。
夕ゆふべ不忍しのばずの池ゆく
涙おちざらむや
蓮折れて月うすき
長酡亭ちやうだてい酒寒し
似ず住の江のあづまや
夢とこしへ甘きに
とこしへと言ふか
わづかひと秋
花もろかりし
人もろかりし
おばしまに倚りて
君伏目がちに
嗚呼何とかいひし
蓮に書ける歌
思より思をたどり
島崎藤村「落梅集」(明治三四)
思より思をたどり
樹下こしたより樹下こしたをつたひ
独りして遅く歩めば
月今夜こよひ幽かに照らす
おぼつかな春のかすみに
うち煙けぶる夜の静けさ
仄白き空の鏡は
俤の心地こそすれ
物皆はさやかならねど
鬼の住む暗にもあらず
おのづから光は落ちて
吾顔に触ふるぞうれしき
其光こゝに映りて
日は見えず八重やへの雲路に
其影はこゝに宿りて
君見えず遠の山川
思おもひやるおぼろおぼろの
天の戸は雲かあらぬか
草も木も眠れるなかに
仰ぎ視て涕なみだを流す
吾胸の底のこゝには
島崎藤村「落梅集」(明治三四)
吾胸の底のこゝには
言ひがたき秘密ひめごと住めり
身をあげて活いける牲にへとは
君ならで誰かしらまし
もしやわれ鳥にありせば
君の住む窓に飛びかひ
羽を振りて昼は終日ひねもす
深き音に鳴かましものを
もしやわれ梭をさにありせば
君が手の白きにひかれ
春の日の長き思を
その糸に織らましものを
もしやわれ草にありせば
野辺に萌もえ君に踏まれて
かつ靡きかつは微笑ほゝゑみ
その足に触れましものを
わがなげき衾に溢れ
わがうれひ枕を浸す
朝鳥に目さめぬるより
はや床は濡れてたゞよふ
口脣くちびるに言葉ありとも
このこゝろ何か写さむ
たゞ熱き胸より胸の
琴にこそ伝ふべきなれ
胡蝶の墓
河井酔茗「無絃弓」(明治三四)
胡蝶よさむること勿れ
われらがつきし奥城おくつきに
春は花咲くあしたまで
再び覚むることなかれ
萩は実みになる秋のはて
秋海棠しうかいだうのはなは折れて
冷たき露もふかゝるに
うべ弱き羽はの萎しをれけむ
広き芭蕉の葉の面もすら
細く裂いたる西かぜに
翼いためず地に落ちて
眠れる蝶の小さきかな
わがたなぞこに打載うちのせて
いき温かに吹きぬれど
さめぬ姿をくづさずに
葬はうむりて置くあきの日や
寒きに覚むること勿れ
美くしき者は脆もろかるに
触れそ冷たきかぜの音
土をかづきて静かなれ
花をわけたる移り香かは
とはに彼女の抱けるを
くらき林に吹きさわぐ
あらしは何を埋うづむらん
墨縄すみなはたゞす番匠こだくみが
掌たなそこの上につくられて
朝あした、狭霧の晴れゆけば
宝珠を天そらに捧げ持ち
岸に聳ゆる五層塔
蔵めし経も蠹むしばみて
供養忘れし末の世の
雲をさへぎる勾欄に
清き鉋かんなの痕あと見れば
塵に気韻にほひも残るかな
秋は露盤に露うけて
扉は神秘に閉されぬ
四天の神に守られて
金輪際こんりんざいに根を埋め
夜は北斗をうかゞへり
家に住まざる山鳩の
巣くふに処、得たればか
虚空こくう、杳はるかに翔れども
画棟ぐわとうの朱あけの古びたる
浮図ふとを慕ふて帰るらむ
落暉いりひは西に傾いて
五重の屋根の歴然あざやかに
重なりうつる草の上
月は廂ひさしに浮び出でゝ
九輪の影は水に在り
雲の崖より吹落ちて
風、湖を拭ひ去る
波の面おもてに刻まれし
芸術アートの花に咲きちらふ
時の力の遠きかな
暦こよみの嵐に破れたり
生命いのちの岸を下したに見て
天そらに呼吸いきする塔あらゝぎの
高き姿を水に見よ
あらゆる山が歓よろこんでゐる
あらゆる山が語つてゐる
あらゆる山が足ぶみして舞ふ、躍る
あちらむく山と
こちらむく山と
合つたり
離れたり
出て来る山と
かくれる山と
低くなり
高くなり
家族のやうに親しい山と
他人のやうに疎うとい山と
遠くなり
近くなり
あらゆる山が
山の日に歓喜し
山の愛に点頭うなづき
今や
山のかがやきは
空一ぱいひろがつてゐる
牡蠣の殻
蒲原有明「草わかば」(明治三五)
牡蠣の殻なる牡蠣の身の、
かくも涯なき海にして、
生いきのいのちの味気なき
そのおもひこそ悲しけれ。
身はこれ盲目めしひ、厳いはかげに
ただ術すべもなくねむれども、
ねざむるままに大海の
潮の満干みちひをおぼゆめり。
いかに朝明あさあけ、朝じほの
色青みきて溢るるも、
黙もだし痛める牡蠣の身の
あまりにせまき牡蠣の殻。
よしや清すがしき夕づつの
光は浪の穂に照りて、
遠野が鳩の面影に
似たりといふも何ならむ。
痛ましきかな、わだつみの
ふかきしらべに聞き恍れて、
夜よもまた昼もわきがたく、
愁うれひにとざす殻の宿。
さもあらばあれ、暴風あらし吹き、
海の怒の猛き日に、
殻も砕けと牡蠣の身の
請ひ祷のまぬやは、おもひわびつつ。
朝なり
蒲原有明「春鳥集」(明治三八)
朝なり、やがて濁川にごりがは
ぬるくにほひて、夜の胞えを
ながすに似たり。しら壁に――
いちばの河岸かしの並なみ蔵ぐらの――
朝なり、湿める川の靄。
川の面もすでに融とけて、しろく、
たゆたにゆらぐ壁のかげ、
あかりぬ、暗きみなぞこも。――
大川がよひさす潮の
ちからさかおすにごりみづ。
流るゝよ、あゝ、瓜うりの皮、
核子さなご、塵わら。――さかみづき
いきふきむすか、靄はまた
をりをりふかき香かをとざし、
消えては青く朽ちゆけり。
こは泥ひぢばめる橋ばしら
水ぎはほそり、こはふたり、――
花か、草びら、――歌女うたひめの
あせしすがたや、きしきしと
わたれば歎く橋の板。
いまはのいぶきいとせめて、
饐すえてなよめく泥がはの
靄はあしたのおくつきに
冷えつゝゆきぬ。――鴎鳥かもめどり
あげしほ趁おひて、はや食あさる
濁にごれど水はくちばみの
あやにうごめき、緑練みどりねり、
瑠璃の端はひかり、碧あをよどみ、
かくてくれなゐ、――はしためは
たてり、揚場あげばに――女めの帯や。
青ものぐるま、いくつ、――はた、
かせぎの人ら、――ものごひの
空手むなで、――荷足にたりのたぶたぶや、
艫ともに竿さをおし、舵かぢとりて、
舳へに歌を曳く船ふなをとこ。
朝なり、影は色めきて、
かくて日もさせにごり川、――
朝なり、すでにかゞやきぬ、
市ばの河岸かしの並みぐらの
白壁しらかべ――これやわが胸か。
道みちなき低き林のながきかげに
君さまよひの歌こそなほ響かめ、――
歌ふは胸の火高く燃ゆるがため、
迷ふは世の途みち倦うみて行くによるか。
星影夜天やてんの宿しゆくにかがやけども
時劫じごふの激浪おほなみ刻む柱見えず、
ましてや靡しなへ起き伏す霊の野のべ
沁み入るさびしさいかで人伝へむ。
君今いのちのかよひ路ぢ馳はせゆくとき、
夕影たちまち動き涙涸れて、
短かき生せいの泉は尽き去るとも、
はたして何をか誇り知りきとなす。
聖なるめぐみにたよるそれならずば
胸の火歌声ともにあだならまし。
智慧の
心弱くも人を恋ふおもひの空の
雲、疾風はやち、襲はぬさきに遁のがれよと。
噫あゝ遁れよと、嫋たをやげる君がほとりを、
緑牧みどりまき、草野の原のうねりより
なほ柔かき黒髪の綰わがねの波を、――
こを如何に君は聞き判わきたまふらむ。
眼をし閉とづれば打続く沙いさごのはてを
黄昏に頸垂うなだれてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獣かととがめたまはめ、
その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色ひといろの物憂き姿、――
よしさらば、香にほひの渦輪、彩あやの嵐に。
咽むせび嘆かふわが胸の曇り物憂ものうき
紗しやの帳とばりしなめきかゝげ、かゞやかに、
或日あるひは映る君が面おも、媚こびの野にさく
阿芙蓉あふようの萎ぬえ嬌なまめけるその匂ひ。
魂たまをも蕩たらす私語さゝめきに誘はれつゝも、
われはまた君を擁いだきて泣くなめり、
痛ましきわがたゞむきはとらはれぬ。
また
衣きぬずれの音おとのさやさやすゞろかに
たゞ伝ふのみ、わが心この時裂けつ。
まじれる君が微笑ほゝゑみはわが身の痍きずを
もとめ来て
さいかし 「独絃哀歌」(明治三六)
落葉林おちばばやしの冬の日に
さいかし一樹ひとき、
(さなりさいかし、)
その実は梢いと高く風にかわけり。
落葉林のかなたなる
里の少女は
(さなりさをとめ、)
まなざし清きその姿なよびたりけり。
落葉林のこなたには
風に吹かれて、
(さなりこがらし、)
吹かれて空にさいかしの莢さやこそさわげ。
さいかしの実の殻は墜ち、
風にうらみぬ、――
(さなりわびしや、)
『命は独りおちゆきて拾ふすべなし。』
さいかしの実は枝に鳴り、
音もをかしく
(さなりきけかし、)
墜ちたる殻の友の身をともらひ嘆く、――
『嗚呼世に尽きぬ命なく、
朽ちせぬ身なし。』――
(さなりこの世や、)
人に知られでさいかしの実は鳴りにけり。
風おのづから弾きならす
小琴ならねど、
(さなりひそかに、)
枝に縋すがれる殻の実のおもひかなしや。
この日みだれて
(さなりすべなく、)
音ねには泣けども調なき愁ひをいかに。
かくて世にまた新あらたなる
光あれども、
(さなり光や、)
われは歎きぬさいかしの古き愁ひを。
霊の日の蝕 「有明集」(明治四一)
時ぞともなく暗うなる生いのちの扃とぼそ、――
こはいかに、四方あたりのさまもけすさまじ、
こはまた如何に我胸の罪の泉を
何ものか頸うなじさしのべひた吸ひぬ。
善しと匂へる花弁はなびらは徒あだに凋しぼみて、
悪あしき果みは熟つえて墜ちたりおのづから
わが
唇のいや堪たうまじき渇きかな。
聞け、物の音、―飛び
むらむらと大沼おほぬの底を沸きのぼる
毒の水泡みなわの水の面もに弾はじく響か、
あるはまた疫えやみのさやぎ、野の犬の
淫たはれの宮に叫ぶにか、噫、仰ぎ見よ、
微かすかなる心の星や、霊たまの日の蝕しよく。
魂の夜 「春鳥集」(明治三八)
午後四時まへ――黄なる
冬の日、影うすく
垂れたり、銀行の
戸は今とざしごろ、
あふれし人すでに
去り、この近代ちかつよの
栄さかえの宮は今、
さだめや、戸ざしころ――
いつかは生せいの戸も。
かくてぞいやはてに
あき人びと、負債おひめある
身の、足たづたづと
出いでゆくそびらより、
黄金こがねの音走おとはしり
伝へぬ、こは虚し、
きらめく富のうた、
悩みの岸嘲あざみ
輝く波のこゑ。
見よ、籍冊ぼさつの金子きんじ――
星なり、運命の
巻々音まきまきおともなし。
一ぢやう、おひめある
ともがら(われもまた)
償ふたよりなさ、
囚獄ひとやの暗やみふかき
死の墟つか、――いかならむ、
嗚呼、その魂たまの夜。
日のおちぼ 「春鳥集」(明治三八)
日の落穂、月のしたたり
残りたる、誰か味ひ、
こぼれたる、誰かひろひし、
かくて世は過ぎてもゆくか。
あなあはれ、日の階段きざはしを、
月の宮――にほひの奥を、
かくて将はた踏めりといふか、
たはやすく誰か答へむ。
過ぎ去りて、われ人知らぬ
束の間や、そのひまびまは、
光をば闇に刻みて、
音もなく滅きえてはゆけど、
やしなひのこれやその露、
美稲うましねのたねにこそあれ、――
そを棄てて運命さだめの啓示さとし、
星領しらす鑰かぎを得むとか。
えしれざる刹那のゆくへ
いづこぞと誰か定めむ、
犠牲にへの身を淵にしづめて
いかばかりたづねわぶとも、
夜ふかし黒暗くらやみとざし、
ひとつ火の影にも遇はじ。
痛きかな、これをおもへば
古夢の痍きずこそ消えね、
永劫とことはよ、脊に負ふつばさ、
彩羽あやはもてしばしは掩へ、
新しきいのちのほとり、
あふれちる雫むすばむ。
夏の歌 「有明集」(明治四一)
薄ぐもる夏の日なかは
愛欲の念おもひにうるみ
底もゆるをみなの眼ざし、
むかひゐてこころぞ悩む。
何事の起るともなく、
何ものかひそめるけはひ、
執しふふかきちからは、やをら、
重き世をまろがし移す。
窓の外とにつづく草土手、
きりぎりす気まぐれに鳴き、
それも今、はたと声絶え、
薄ぐもる日は蒸し淀む。
ややありて茅かやが根を疾とく
青あを蜥蜴とかげ走りすがへば、
ほろほろに乾ける土は
ひとしきり崖をすべりぬ。
なまぐさきにほひは、池の
上ぬるむ面おもよりわたり、
山梔くちなしの花は墜ちたり、――
朽ちてゆく「時」のなきがら。
何事の起るともなく、
何ものかひそめるけはひ、
眼まのあたり融とけてこそゆけ
夏の雲、――空は汗ばむ。
癡夢 「有明集」(明治四一)
陰湿の「歎なげき」の窓をしも、かく
うち塞ぎ真白にひたと塗り籠め、
そが上に垂れぬる氈かもの紋織あやおり、――
朱碧あけみどりまじらひ匂ふ眩ゆさ。
これを見る見惚みほけに心惑ひて、
誰を、噫あゝ、請しやうずる一室ひとまなるらむ、
われとわが願を、望を、さては
客人まらうどを思ひも出でず、この宵よひ。
唯たゞ念ず、しづかにはた円まどやかに
白蝋びやくらふを黄金こがねの台に点ともして、
その焔いく重の輪をしめぐらし
燃えすわる夜よすがら、われは寝いねじと。
徒然つれ/″\の慰なぐさに愛の一曲ひとふし
奏かなでむとためらふ思ひのひまを、
忍び寄る影あり、誰たそや、――畏怖おそれに
わが脈の漏刻くだちゆくなり。
長き夜よを盲めしひの「歎」かすかに
今もなほ花文けもんの氈かもをゆすりて、
呼息いきづかひ喘あへげば盛りし燭しよくの
火影ほかげさへ、益やくなや、しめり靡なびきぬ。
癡しれにたる夢なり、こころづくしの
この一室ひとま、あだなる「悔くい」の蝙蝠かはほり
気け疎うとげにはためく羽音をりをり
音なふや、噫などおびゆる魂ぞ。
破甕の賦
薄田泣菫「ゆく春」(明治三四)
火の気け絶えたる厨くりやに、
古き甕は砕けたり。
人の告ぐる肌寒はださむを、
甕の身にも感ずるや。
古き甕は砕けたり、
また顔円まろき童女どうによの
白き腕かひなに巻かれて、
行かんや、森の泉に。
裂けて散れる菱形ひしがたに
窓より落つる光の
静かに這はふを眺めて、
独り思ひに耽ふけりぬ。
渇かわく日誰か汝を、
花の園そのに交かふべしや。
唇くちびる燃もゆる折々、
掬くみしは吾が生命いのちなり。
清きものゝ脆もろかるは、
詩歌の人に聞いたり。
善きも遂に同じきか、
古き甕は砕けたり。
あゝ土よりいでし人、
清き道を踏みし人、
そらの上を慕ふ人、
運命甕に似ざるや。
古き甕は砕けたり、
壊片を足にふまへて、
心憂ひにえ堪へず、
暮るゝ日も忘れ去んぬ。
公孫樹下にたちて
薄田泣菫「二十五絃」(明治三八)
一
あゝ日ひは彼方かなた、伊太利いたりあの
七なゝつの丘をかの古跡ふるあとや、
円まろき柱はしらに照てりはえて、
石床いしゆかしろき回廊わたどのの
きざはし狭せばに居ゐぐらせる、
青地あをぢ襤褸つゞれの乞食かたゐらが、
月を経へて来こむ降誕祭くりすます、
市いちの施物せもつを夢ゆめみつゝ、
ほくそ笑ゑみする顔かほや射いむ。
あゝ日ひは彼方かなた、北海きたうみの
波なみの穂ほがしら爪つまじろに、
ぬすみに猟あさる蜑あまが子この、
氷雨ひさめもよひの日ひこそ来くれ、
幸さちは足たりぬ、と直ひたむきに、
南みなみへかへる舟ふなよそひ、
破やれの帆脚ほあしや照てらすらむ。
こゝには久米くめの皿山さらやまの
嶺いたゞきごしにさす影を、
肩かたにまとへる銀杏いてふの樹き、
向脛むかはぎふとく高たからかに、
青あをきみ空そらにそゝりたる、
見みれば鎧よろへる神かみの子この
陣ぢんに立たてるに似にたりけり。
こゝ美作みまさかの高原たかはらや、
国くにのさかひの那義山なぎせんの
谿たににこもれる初嵐はつあらし、
ひと日ひ高たかみの朝戸あさと出でに、
遠とほく銀杏いてふのかげを見みて、
あな誇ほこりかの物ものめきや、
わが手力たぢからは知しらじかと、
軍いくさもよひの角笛くだぶえを、
木木きぎに空門からとに吹ふきどよめ、
家いへの子こあまた集つどへ来きて、
黒尾峠くろをたうげの懸路かけぢより、
風下かざした小野をののならび田たに、
穂波ほなみなびきてさやぐまで、
勢いきほひあらく攻せめよれば、
あなや大樹おほきのやなぐひの
黄金こがねの矢束やづか鳴なりだかに、
諸肩もろがたつよく揺ゆらぎつゝ、
賤いやしきものゝ逆さからひに、
滅ほろびはつべき吾わが世よかと、
あざけり笑ふどよもしや、
矢種やだね皆みながらかたむけて、
射継早いつぎばやなるおろし矢に
射いすくめられし北風きたかぜは、
またも新手あらてをさきがけに、
雄誥をたけびたかく手突矢てつきやの
鏃やじりひかめく囲かこみうち。頃ころは小春こはるの真昼まひるすぎ、
因幡いなばざかひを立たちいでゝ、
晴はれ渡わたりたる大空おほぞらを、
南みなみの吉備きびへはしる雲くも、
白しろき額ひたひをうつぶしに、
下したなる邦くにひの
なじかはさのみ忙せはしなと、
心こゝろうれひに堪たへずして、
顧かへり急いそ
黄泉よみの洞ほらなる恋人こひびとに、
生命いのちの水みづを掬むすばむと、
七なゝつの関せきの路守みちもりに、
冠かむりと衣きぬを奪うばはれて、
『あらと』の邦くににおりゆきし、
生身なまみ素肌すはだの神かみの如ごと、
あゝ争あらそひの七八日なゝやうか、
銀杏いてふは征矢そやを射いつくして、
雄々をゝしや空手むなで真裸まはだかに、
ほまれの創きずの諸肩もろかたを、
さむき入日いりひにいろどりて、
み冬ふゆの領りやうにまたがりぬ。
三
あゝ名なと恋こひと歓楽たのしみと、
夢ゆめのもろきにまがふ世よに、
いかに雄々をゝしき実在じつざいの
眩はゆきばかりの証明あかしぞや。 夏なつとことはに絶たゆるなく、
青きを枝にかへすとも、
冬ふゆとことはに尽つくるなく、
つねにその葉はを震ふるひ去さり、
さては八千歳やちとせ、霊木りやうぼくの、
背そびらの創きずは癒いえずして、
戦たゝかひとはに新あたらしく、
はた勇いさましく繰くりかへる。
銀杏いてふよ、汝常磐樹なんぢときはぎの
神かみのめぐみの緑葉みどりばを、
霜しもに誇ほこるにくらべては、
いかに自然しぜんの健児けんじぞや。
われら願ねがはく狗児いぬころの
乳ちのしたゝりに媚こぶる如ごと、
心こゝろよわくも平和やはらぎの
小ちひさき名なをば呼よばざらむ。
絶たゆる隙ひまなきたゝかひに、
馴なれし心こゝろの驕おごりこそ、
ながき吾世わがよのながらへの
栄はえぞ、価値あたひぞ、幸福さいはひぞ。
公孫樹いてふよ、汝なれのかげに来きて、
何なにかも知らぬ睦魂むつだまの
よろこび胸むねに溢あふるゝに、
許ゆるせよ、幹みきをかき抱いだき、
長ながき千代ちよにも更かへがたの
刹那せちなの酔ゑひにあくがれむ。
望郷の歌 薄田泣菫「白羊宮」(明治三九)
わが
在木ありきの枝えだに色鳥いろどりの咏ながめ声ごゑする日ひながさを、
物詣ものまうでする都女みやこめの歩あゆみものうき彼岸会ひがんゑや、
桂かつらをとめは河かはしもに梁誇やなぼこりする鮎あゆ汲くみて、
小網さでの雫しづくに清酒きよみきの香かをか嗅かぐらむ春日はるひなか、
櫂かいの音とゆるに漕こぎかへる山桜会やまざくらゑの若人わかうどが、
瑞木みづきのかげの恋語こひがたり、壬生みぶ狂言きやうげんの歌舞伎子かぶきこが
技わざの手振てぶりの戯ざればみに、笑ゑみ広ひろごりて興きやうじ合あふ
かなたへ、君きみといざかへらまし。
わが故郷ふるさとは、楠樹くすのきの若葉わかば仄ほのかに香かににほひ、
葉はびろ柏がしはは手てだゆげに、風かぜに揺ゆらゆる初夏はつなつを、
葉洩はもりの日ひかげ散斑ばらふなる糺ただすの杜もりの下路したみちに、
葵あふひかづらの冠かむりして、近衛使このゑづかひの神かみまつり、
塗ぬりの轅ながえの牛車うしぐるま、ゆるかにすべる御生みあれの日ひ、
また水無月みなづきの祇園会ぎをんゑや、日ひぞ照てり白しらむ山鉾やまぼこの
車くるまきしめく広小路ひろこうぢ、祭まつり物見ものみの人ひとごみに、
比枝ひえの法師ほうしも、花売はなうりも、打うち交まじりつつ頽なだれゆく
かなたへ、君きみといざかへらまし。
わが故郷ふるさとは、赤楊はんのきの黄葉きばひるがへる田中路たなかみち、
稲搗いなきをとめが静歌しづうたに黄あめなる牛うしはかへりゆき、
日ひは今終いまつひの目移めうつしを九輪くりんの塔たふに見みはるけて、
静しづかに瞑ねむる夕ゆふまぐれ、稍やや散ちり透すきし落葉樹おちばぎは、
さながら老おいし葬式女はふりめの、懶たゆげに被衣かづき引延ひきはへて、
物歎ものなげかしきたたずまひ、樹間こまに仄ほのめく夕月ゆふづきの
夢見ゆめみごこちの流盻ながしめや、鐘かねの響ひびきの青あをびれに、
札所ふだしよめぐりの旅人たびびとは、すずろ家族うからや忍しのぶらむ
かなたへ、君きみといざかへらまし。
わが故郷ふるさとは、朝凍あさじみの真葛まくづが原はらに楓かへでの葉は、
そそ走ばしりゆく霜月しもつきや、専修せんじゆ念仏ねぶちの行者ぎやうじやらが
都入みやこいりする御講おかう凪なぎ、日ひは午ひるさがり、夕越ゆふごえの
路みちにまよひし旅心地たびごゝち、物ものわびしらの涙眼いやめして、
下京しもぎやうあたり時雨しぐれする、うら寂さびしげの日短ひみじかを、
道みちの者ものなる若人わかうどは、ものの香朽かくちし経蔵きやうざうに、
塵居ちりゐの御影みかげ、古渡こわたりの御経みきやうの文字もじや愛めでしれて、
夕ゆふくれなゐの明あからみに、黄金こがねの岸きしも慕したふらむ
かなたへ、君きみといざかへらまし。
遅日ちじつ巷ちまたの
塵ちりに行ゆき、
力ある句に
くるしみぬ。
詩は大海わたづみの
真珠狩、
深く沈めと
人に聞く。
石を包みて
玉といふ、
情なさけある子の
え堪へんや。
あゝ田に飛んで
餌ゑにあける、
二羽の雀は
一銭いつせんか。
さは価ねなふみそ、
詩に痩せて、
髪ほつれたる
人の子を。
薄情人あはつけびとに
物問ふは、
柱ぢなき細緒ほそをを
掻くが如ごと。
よし答ふるも、
力なく、
消ゆるに似たる
響のみ。
こゝに風流ふりうの
秀才すさいあれ、
われ膝折りて
学ばんに。
こゝに有情うじやうの
少女せうじよあれ、
われ手をとりて
詢はからんに。
世に秀才なく、
少女なく、
われ唯ひとり
物狂ものぐるひ。
雨垂あまだれ拍子びやうし、
句を切りて、
無才むさえを知るよ、
今こゝに。
斧に倒れし白檀びやくだんの
高き香か森に散る如く、
薄衣うすぎぬとけば遠き世の
ふかき韻にほひぞ身に逼せまる。
向へば花の羽衣の
袖のかをりを鼻に嗅ぎ、
叩けば玉の白金しろがねの
冠冕かむりを弾く響あり。
こは古鏡ふるかゞみ、往いにし世に、
額ぬか白かりし上臈じやうらふの
恋得で髪を裁たちし時、
投げてしものと、君も見よ。
横さにかゝる薄雲うすぐもの
曇れる影も故ゆゑづきて、
頼もしい哉かな、祭壇かみどこの
聖きよき姿をうち湛たゝふ。
千載せんざい、銹さびの鈍にばみきて、
冷えたる面おもにさはりみよ。
花くだけちる短夜みじかよを、
瞳子ひとみ凝こらしゝ少女子をとめごが
玉の額ひたひをながれたる
熱き血汐ちしほの湧きかへり、
春の潮うしほと見る迄に、
昔の夢の騒ぐらし。
乱心地みだりごゝちの堪へざるに、
泡咲く酒の雫だに、
渇ける舌にふくませよ。
袖に抱いだいて人知れず、
深野ふけぬの末に踏み入りて、
妻覓めまぎと見るか。物狂、
背そびら叩いて面おも撫でゝ、
有心者うしんじや得ぬと歌はんに。
宿る人霊すだまのひゞらかば、
怨うらみある世の夢がたり、
名に恋しれど嫉ねたみある
女神、女子をんなに幸さち貸さず、
人の情なさけの薄かるに、
細き命をつなぎわび、
泣いて逝ゆきたる上臈の
秘めし思おもひを悼いたまんか。
あゝ幾度いくたびか、若き身の、
狂気くるひをこそは望みしか、
今ぞ興きょうあり、怨みある、
其世そのよの紀念かたみ、古鏡、
これ吾襟に蔵をさめ得ば、
よし京童きやうどうは嘲あざけるも、
世の煩わづらひを打ち捨てゝ、
智覚なき身と化しもせん。
なう古鏡このあした、
汝なれを抱いて嘆く身の
述懐おもひは夢か。蜃気楼かひやぐら、
それにも似たる幻まぼろしか、
孰いづれ覚むべきものならば、
儘まゝよ、短かき昼の間まを、
飽かぬ睦むつびにあこがれて、
悲しき闇やみを忘れまし。
忘れぬまみ 「白羊宮」(明治三九)
一
夏野の媛ひめの手にとらす
しろがね籠がたみ、ももくさの
香かには染しむとも、追懐おもひでは
人のまみには似ざらまし。
二
伏目ふしめにたたすあえかさに、
ひと日は、白き難波なには薔薇ばら、
夕日がくれに息づきし
津の国の野を思ひいで。
三
ひと日は、うるむ月の夜に、
水漬みづく磯根の葦の葉を、
卯波うなみたゆたにくちづけし
深日ふけひの浦をおもひいでぬ。
雪消ゆきげの岡のせせらぎや、
流れ流れてゆくすゑは、
蓴菜ぬなはつのぐむ大沢へ。
思ひ乱るる人の子は、
紫野むらさきぬゆき、萌野もえぬゆき、
紅梅咲ける君が戸へ。
一
忘れがたみよ、津の国の
遠里とほざと小野の白すみれ、
人待ちなれし木のもとに、
摘みしむかしの香かににほふ。
二
日は水の如往きしかど、
今はたひとり、そのかみの
心知りなるささやきに、
物思はする花をぐさ。
三
ふと聞きなれししろがねの
声こわざし柔やはきしのび音に、
別れのゆふべ、さしぐみし
あえかのまみも見浮べぬ。
時はふたりをさきしかば、
また償つぐのひにかへりきて、
かなしき創きづに、おもひでの
うまし涙を湧かしめぬ。