在りし日の歌 中原中也
   亡き児文也の霊に捧ぐ

  含羞(はぢらひ)
   ――在りし日の歌――

 なにゆゑに こゝろかくは羞ぢらふ
 秋 風白き日の山かげなりき
 椎の枯葉の落窪に
 幹々は いやにおとなび彳ちゐたり
 
 枝々の 拱みあはすあたりかなしげの
 空は死児等の亡霊にみち まばたきぬ
 をりしもかなた野のうへは
  あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき
 
 椎の枯葉の落窪に
 幹々は いやにおとなび彳ちゐたり
 その日 その幹の隙 睦みし瞳
 姉らしき色 きみはありにし
 
 その日 その幹の隙ひま 睦みし瞳
 姉らしき色 きみはありにし
 あゝ! 過ぎし日の 仄ほの燃えあざやぐをりをりは
 わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞ぢらふ……
 
  むなしさ

 臘祭らふさいの夜の 巷ちまたに堕ちて
 心臓はも 条網に絡から
 脂あぶらぎる 胸乳むなちも露あら
 よすがなき われは戯女たはれめ
 
 せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕はらめり
 遐とほき空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風
 
 白薔薇しろばらの 造化の花瓣くわべん
 凍てつきて 心もあらず
 明けき日の 乙女の集つど
 それらみな ふるのわが友
 
 偏菱形へんりようけい=聚接面しゆうせつめんそも
 胡弓の音 つづきてきこゆ
 
  夜更の雨
   ――ヹルレーヌの面影――

 雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
 だらだら だらだら しつこい 程だ。
 と、見るヹル氏の あの図体づうたいが、
 倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。
 
 倉庫の 間にや 護謨合羽かつぱの 反射ひかりだ。
  それから 泥炭の しみたれた 巫戯ふざけだ。
 さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
  抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
 いやはや のぞみにや 相違も あるまい?
 
 自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
  あかるい 外燈なぞは なほの ことだ。
 酒場の 軒燈あかりの 腐つた 眼玉よ、
  遐とほくの 方では 舎密せいみも 鳴つてる。
 
  早春の風

  けふ一日ひとひまた金の風
 大きい風には銀の鈴
 けふ一日また金の風
 
  女王の冠さながらに
 卓たくの前には腰を掛け
 かびろき窓にむかひます
 
  外吹く風は金の風
 大きい風には銀の鈴
 けふ一日また金の風
 
  枯草の音のかなしくて
 煙は空に身をすさび
 日影たのしく身を嫋なよ
 
  鳶色とびいろの土かをるれば
 物干竿は空に往き
 登る坂道なごめども
 
  青き女をみなの顎あぎとかと
 岡に梢のとげとげし
 今日一日また金の風……
 
  月

 今宵月は蘘荷めうがを食ひ過ぎてゐる
 済製場さいせいばの屋根にブラ下つた琵琶びはは鳴るとしも想へぬ
 石炭の匂ひがしたつて怖おぢけるには及ばぬ
 灌木がその個性を砥いでゐる
 姉妹は眠つた、母親は紅殻色べんがらいろの格子を締めた!
 
 さてベランダの上にだが
 見れば銅貨が落ちてゐる、いやメダルなのかア
 これは今日昼落とした文子さんのだ
 明日はこれを届けてやらう
 ポケットに入れたが気にかゝる、月は蘘荷を食ひ過ぎてゐる
 灌木がその個性を砥いでゐる
 姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を締めた!
 
  青い瞳

  一 夏の朝
 
 かなしい心に夜が明けた、
  うれしい心に夜が明けた、
 いいや、これはどうしたといふのだ?
  さてもかなしい夜の明けだ!
 
 青い瞳は動かなかつた、
  世界はまだみな眠つてゐた、
 さうして『その時』は過ぎつつあつた、
  あゝ、遐とほい遐いい話。
 
 青い瞳は動かなかつた、
  ――いまは動いてゐるかもしれない……
 青い瞳は動かなかつた、
  いたいたしくて美しかつた!
 
 私はいまは此処ここにゐる、黄色い灯影に。
  あれからどうなつたのかしらない……
 あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!
  碧あをい、噴き出す蒸気のやうに。
 
  二 冬の朝
 
 それからそれがどうなつたのか……
 それは僕には分らなかつた
 とにかく朝霧罩めた飛行場から
 機影はもう永遠に消え去つてゐた。
 あとには残酷な砂礫されきだの、雑草だの
 頬を裂るやうな寒さが残つた。
 ――こんな残酷な空寞くうばくたる朝にも猶なほ
 人は人に笑顔を以て対さねばならないとは
 なんとも情ないことに思はれるのだつたが
 それなのに其処そこでもまた
 笑ひを沢山湛たたへた者ほど
 優越を感じてゐるのであつた。
 陽は霧に光り、草葉の霜は解け、
 遠くの民家に鶏とりは鳴いたが、
 霧も光も霜も鶏も
 みんな人々の心には沁まず、
 人々は家に帰つて食卓についた。
  (飛行機に残つたのは僕、
  バットの空箱からを蹴つてみる)
 
  三歳の記憶

 縁側に陽があたつてて、
 樹脂きやにが五彩に眠る時、
 柿の木いつぽんある中庭にはは、
 土は枇杷びはいろ 蝿はへが唸く。
 
 稚厠おかはの上に 抱へられてた、
 すると尻から 蛔虫むしが下がつた。
 その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので
 動くので、私は吃驚びつくりしちまつた。
 
 あゝあ、ほんとに怖かつた
 なんだか不思議に怖かつた、
 それでわたしはひとしきり
 ひと泣き泣いて やつたんだ。
 
 あゝ、怖かつた怖かつた
 ――部屋の中は ひつそりしてゐて、
 隣家となりは空に 舞ひ去つてゐた!
 隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
 
  六月の雨

 またひとしきり 午前の雨が
 菖蒲しやうぶのいろの みどりいろ
 眼まなこうるめる 面長き女ひと
 たちあらはれて 消えてゆく
 
 たちあらはれて 消えゆけば
 うれひに沈み しとしとと
 畠はたけの上に 落ちてゐる
 はてしもしれず 落ちてゐる
 
    お太鼓たいこ叩いて 笛吹いて
    あどけない子が 日曜日
    畳の上で 遊びます
 
    お太鼓叩いて 笛吹いて
    遊んでゐれば 雨が降る
    櫺子れんじの外に 雨が降る
 
  雨の日

 通りに雨は降りしきり、
 家々の腰板古い。
 もろもろの愚弄の眼まなこは淑しとやかとなり、
 わたくしは、花瓣くわべんの夢をみながら目を覚ます。
 
  *
 
 鳶色とびいろの古刀の鞘さやよ、
 舌あまりの幼な友達、
 おまへの額は四角張つてた。
 わたしはおまへを思ひ出す。
 
  *
 
 鑢やすりの音よ、だみ声よ、
 老い疲れたる胃袋よ、
 雨の中にはとほく聞け、
 やさしいやさしい唇を。
 
  *
 
 煉瓦の色の憔心せうしん
 見え匿かくれする雨の空。
 賢さかしい少女の黒髪と、
 慈父の首かうべと懐かしい……
 
  春

 春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
 その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲あがる。
 瓦屋根今朝不平がない、
 長い校舎から合唱は空にあがる。
 
 あゝ、しづかだしづかだ。
 めぐり来た、これが今年の私の春だ。
 むかし私の胸摶つた希望は今日を、
 厳いかめしい紺青こあをとなつて空から私に降りかゝる。
 
 そして私は呆気ほうけてしまふ、バカになつてしまふ
 ――薮かげの、小川か銀か小波さざなみか?
 薮かげの小川か銀か小波か?
 
 大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに
 一つの鈴をころばしてゐる、
 一つの鈴を、ころばして見てゐる。
 
  春の日の歌

 流ながれよ、淡あはき 嬌羞けうしうよ、
 ながれて ゆくか 空の国?
 心も とほく 散らかりて、
 ヱヂプト煙草 たちまよふ。
 
 流よ、冷たき 憂ひ秘め、
 ながれて ゆくか 麓までも?
 まだみぬ 顔の 不可思議の
 咽喉のんどの みえる あたりまで……
 
 午睡の 夢の ふくよかに、
 野原の 空の 空のうへ?
 うわあ うわあと 涕くなるか
 
 黄色い 納屋や、白の倉、
 水車の みえる 彼方かなたまで、
 ながれ ながれて ゆくなるか?
 
  夏の夜

 あゝ 疲れた胸の裡うち
 桜色の 女が通る
 女が通る。
 
 夏の夜の水田すいでんの滓おり
 怨恨は気が遐とほくなる
 ――盆地を繞めぐる山は巡るか?
 
 裸足らそくはやさしく 砂は底だ、
 開いた瞳は おいてきぼりだ、
 霧の夜空は 高くて黒い。
 
 霧の夜空は高くて黒い、
 親の慈愛はどうしやうもない、
 ――疲れた胸の裡を 花瓣くわべんが通る。
 
 疲れた胸の裡を 花瓣が通る
 ときどき銅鑼ごんぐが著物に触れて。
 靄もやはきれいだけれども、暑い!
 
  幼獣の歌

 黒い夜草深い野にあつて、
 一匹の獣けものが火消壺ひけしつぼの中で
 燧石ひうちいしを打つて、星を作つた。
 冬を混ぜる 風が鳴つて。
 
 獣はもはや、なんにも見なかつた。
 カスタニェットと月光のほか
 目覚ますことなき星を抱いて、
 壺の中には冒涜を迎へて。
 
 雨後らしく思ひ出は一塊いつくわいとなつて
 風と肩を組み、波を打つた。
 あゝ なまめかしい物語――
 奴隷も王女と美しかれよ。
 
   卵殻もどきの貴公子の微笑と
   遅鈍な子供の白血球とは、
   それな獣を怖がらす。
 
 黒い夜草深い野の中で、
 一匹の獣の心は燻くすぶる。
 黒い夜草深い野の中で――
 太古むかしは、独語も美しかつた!……
 
  この小児

 コボルト空に往交ゆきかへば、
 野に
 蒼白の
 この小児。
 
 黒雲空にすぢ引けば、
 この小児
 搾しぼる涙は
 銀の液……
 
   地球が二つに割れゝばいい、
   そして片方は洋行すればいい、
   すれば私はもう片方に腰掛けて
   青空をばかり――
 
 花崗の巌いはほ
 浜の空
 み寺の屋根や
 海の果て……
 
  冬の日の記憶

 昼、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、
 夜になつて、急に死んだ。
 
 次の朝は霜が降つた。
 その子の兄が電報打ちに行つた。
 
 夜になつても、母親は泣いた。
 父親は、遠洋航海してゐた。
 
 雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。
 北風は往還を白くしてゐた。
 
 つるべの音が偶々たまたました時、
 父親からの、返電が来た。
 
 毎日々々霜が降つた。
 遠洋航海からはまだ帰れまい。
 
 その後母親がどうしてゐるか……
 電報打つた兄は、今日学校で叱られた。
 
  秋の日

  磧かはらづたひの 竝樹なみきの 蔭に
 秋は 美し 女の 瞼まぶた
 泣きも いでなん 空の 潤うる
 昔の 馬の 蹄ひづめの 音よ
 
 長の 年月 疲れの ために
 国道 いゆけば 秋は 身に沁む
 なんでも ないてば なんでも ないに
 木履ぼくりの 音さへ 身に沁みる
 
 陽は今 磧の 半分に 射し
 流れを 無形むぎやうの 筏いかだは とほる
 野原は 向ふで 伏せつて ゐるが 
 
 連れだつ 友の お道化どけた 調子も
 不思議に 空気に 溶け 込んで
 秋は 案じる くちびる 結んで
 
  冷たい夜

 冬の夜に
 私の心が悲しんでゐる
 悲しんでゐる、わけもなく……
 心は錆びて、紫色をしてゐる。
 
 丈夫な扉の向ふに、
 古い日は放心してゐる。
 丘の上では
 棉の実が罅裂はじける。
 
 此処ここでは薪が燻くすぶつてゐる、
 その煙は、自分自らを
 知つてでもゐるやうにのぼる。
 
 誘はれるでもなく
 覓もとめるでもなく、
 私の心が燻る……
 
  冬の明け方

 残んの雪が瓦に少なく固く
 枯木の小枝が鹿のやうに睡ねむい、
 冬の朝の六時
 私の頭も睡い。
 
 烏が啼いて通る――
 庭の地面も鹿のやうに睡い。
 ――林が逃げた農家が逃げた、
 空は悲しい衰弱。
   私の心は悲しい……
 
 やがて薄日が射し
 青空が開く。
 上の上の空でジュピター神の砲ひづつが鳴る。
 ――四方よもの山が沈み、
 
 農家の庭が欠伸あくびをし、
 道は空へと挨拶する。
   私の心は悲しい……
 
  老いたる者をして
   ――「空しき秋」第十二

 老いたる者をして静謐せいひつの裡うちにあらしめよ
 そは彼等こころゆくまで悔いんためなり
 
 吾は悔いんことを欲す
 こころゆくまで悔ゆるは洵まことに魂を休むればなり
 
 あゝ はてしもなく涕かんことこそ望ましけれ
 父も母も兄弟はらからも友も、はた見知らざる人々をも忘れて
 
 東明しののめの空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
  はたなびく小旗の如く涕かんかな
 
 或あるはまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
 海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……
 
  反歌
 
 あゝ 吾等怯懦けふだのために長き間、いとも長き間
 徒あだなることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……
 
   〔空しき秋二十数篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、諸井
   三郎の作曲によりて残りしものなり。〕
 
  湖上

 ポッカリ月が出ましたら、
 舟を浮べて出掛けませう。
 波はヒタヒタ打つでせう、
 風も少しはあるでせう。
 
 沖に出たらば暗いでせう、
 櫂かいから滴垂したたる水の音は
 昵懇ちかしいものに聞こえませう、
 ――あなたの言葉の杜切とぎれ間を。
 
 月は聴き耳立てるでせう、
 すこしは降りても来るでせう、
 われら接唇くちづけする時に
 月は頭上にあるでせう。
 
 あなたはなほも、語るでせう、
 よしないことや拗言すねごとや、
 洩らさず私は聴くでせう、
 ――けれど漕ぐ手はやめないで。
 
 ポッカリ月が出ましたら、
 舟を浮べて出掛けませう、
 波はヒタヒタ打つでせう、
 風も少しはあるでせう。
 
  冬の夜

 みなさん今夜は静かです
 薬鑵やくわんの音がしてゐます
 僕は女を想つてる
 僕には女がないのです
 
 それで苦労もないのです
 えもいはれない弾力の
 空気のやうな空想に
 女を描いてみてゐるのです
 
 えもいはれない弾力の
 澄み亙わたつたる夜の沈黙しじま
 薬鑵の音を聞きながら
 女を夢みてゐるのです
 
 かくて夜は更け夜は深まつて
 犬のみ覚めたる冬の夜は
 影と煙草と僕と犬
 えもいはれないカクテールです
 
  二
 
 空気よりよいものはないのです
 それも寒い夜の室内の空気よりもよいものはないのです
 煙よりよいものはないのです
 煙より 愉快なものもないのです
 やがてはそれがお分りなのです
 同感なさる時が 来るのです
 
 空気よりよいものはないのです
 寒い夜の痩せた年増女としまの手のやうな
 その手の弾力のやうな やはらかい またかたい
 かたいやうな その手の弾力のやうな
 煙のやうな その女の情熱のやうな
 炎えるやうな 消えるやうな
 
 冬の夜の室内の 空気よりよいものはないのです
 
  秋の消息

 麻は朝、人の肌はだへに追い縋すが
 雀らの、声も硬うはなりました
 煙突の、煙は風に乱れ散り
 
 火山灰掘れば氷のある如く
 けざやけき顥気かうきの底に青空は
 冷たく沈み、しみじみと
 
 教会堂の石段に
 日向ぼつこをしてあれば
 陽光ひかりに廻めぐる花々や
 物蔭に、すずろすだける虫の音
 
 秋の日は、からだに暖か
 手や足に、ひえびえとして
 此の日頃、広告気球は新宿の
 空に揚りて漂へり
 
  骨

 ホラホラ、これが僕の骨だ、
 生きてゐた時の苦労にみちた
 あのけがらはしい肉を破つて、
 しらじらと雨に洗はれ、
 ヌックと出た、骨の尖さき
 
 それは光沢もない、
 ただいたづらにしらじらと、
 雨を吸収する、
 風に吹かれる、
 幾分空を反映する。
 
 生きてゐた時に、
 これが食堂の雑踏の中に、
 坐つてゐたこともある、
 みつばのおしたしを食つたこともある、
 と思へばなんとも可笑をかしい。
 
 ホラホラ、これが僕の骨――
 見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
 霊魂はあとに残つて、
 また骨の処にやつて来て、
 見てゐるのかしら?
 
 故郷ふるさとの小川のへりに、
 半ばは枯れた草に立つて、
 見てゐるのは、――僕?
 恰度ちやうど立札ほどの高さに、
 骨はしらじらととんがつてゐる。
 
  秋日狂乱

 僕にはもはや何もないのだ
 僕は空手空拳だ
 おまけにそれを嘆きもしない
 僕はいよいよの無一物だ
 
 それにしても今日は好いお天気で
 さつきから沢山の飛行機が飛んでゐる
 ――欧羅巴ヨーロッパは戦争を起すのか起さないのか
 誰がそんなこと分るものか
 
 今日はほんとに好いお天気で
 空の青も涙にうるんでゐる
 ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて
 子供等は先刻せんこく昇天した
 
 もはや地上には日向ぼつこをしてゐる
 月給取の妻君とデーデー屋さん以外にゐない
 デーデー屋さんの叩く鼓の音が
 明るい廃墟を唯独りで讃美し廻つてゐる
 
 あゝ、誰か来て僕を助けて呉れ
 ヂオゲネスの頃には小鳥くらゐ啼いたらうが
 けふびは雀も啼いてはをらぬ
 地上に落ちた物影でさへ、はや余りに淡あはい!
 
 ――さるにても田舎のお嬢さんは何処どこに去つたか
 その紫の押花おしばなはもうにじまないのか
 草の上には陽は照らぬのか
 昇天の幻想だにもはやないのか?
 
 僕は何を云つてゐるのか
 如何いかなる錯乱に掠かすめられてゐるのか
 蝶々はどつちへとんでいつたか
 今は春でなくて、秋であつたか
 
 ではあゝ、濃いシロップでも飲まう
 冷たくして、太いストローで飲まう
 とろとろと、脇見もしないで飲まう
 何にも、何にも、求めまい!……
 
  朝鮮女

 朝鮮女をんなの服の紐
 秋の風にや縒れたらん
 街道を往くをりをりは
 子供の手をば無理に引き
 額顰しかめし汝が面おも
 肌赤銅の乾物ひものにて
 なにを思へるその顔ぞ
 ――まことやわれもうらぶれし
 こころに呆ほうけ見ゐたりけむ
 われを打見ていぶかりて
 子供うながし去りゆけり……
 軽く立ちたる埃ほこりかも
 何をかわれに思へとや
 軽く立ちたる埃かも
 何をかわれに思へとや……
 ・・・・・・・・・・・
 
  夏の夜に覚めてみた夢

 眠らうとして目をば閉ぢると
 真ッ暗なグランドの上に
 その日昼みた野球のナインの
 ユニホームばかりほのかに白く――
 
 ナインは各々守備位置にあり
 狡ずるさうなピッチャは相も変らず
 お調子者のセカンドは
 相も変らぬお調子ぶりの
 
 扨さて、待つてゐるヒットは出なく
 やれやれと思つてゐると
 ナインも打者も悉ことごとく消え
 人ッ子一人ゐはしないグランドは
 
 忽たちまち暑い真昼ひるのグランド
 グランド繞めぐるポプラ竝木なみき
 蒼々として葉をひるがへし
 ひときはつづく蝉しぐれ
 やれやれと思つてゐるうち……眠
 
  春と赤ン坊

 菜の花畑で眠つてゐるのは……
 菜の花畑で吹かれてゐるのは……
 赤ン坊ではないでせうか?
 
 いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
 ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
 菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど
 
 走つてゆくのは、自転車々々々
 向ふの道を、走つてゆくのは
 薄桃色の、風を切つて……
 
 薄桃色の、風を切つて
 走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲しろくも
 ――赤ン坊を畑に置いて
 
  雲雀

 ひねもす空で鳴りますは
 あゝ 電線だ、電線だ
 
 ひねもす空で啼きますは
 あゝ 雲の子だ、雲雀奴ひばりめ
 
 碧あーをい 碧あーをい空の中
 ぐるぐるぐると 潜もぐりこみ
 ピーチクチクと啼きますは
 あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ
 
 歩いてゆくのは菜の花畑
 地平の方へ、地平の方へ
 歩いてゆくのはあの山この山
 あーをい あーをい空の下
 
 眠つてゐるのは、菜の花畑に
 菜の花畑に、眠つてゐるのは
 菜の花畑で風に吹かれて
 眠つてゐるのは赤ン坊だ?
 
  初夏の夜

 また今年こんねんも夏が来て、
 夜は、蒸気で出来た白熊が、
 沼をわたつてやつてくる。
 ――色々のことがあつたんです。
 色々のことをして来たものです。
 嬉しいことも、あつたのですが、
 回想されては、すべてがかなしい
 鉄製の、軋音あつおんさながら
 なべては夕暮迫るけはひに
 幼年も、老年も、青年も壮年も、
 共々に余りに可憐な声をばあげて、
 薄暮の中で舞ふ蛾の下で
 はかなくも可憐な顎あごをしてゐるのです。
 されば今夜こんや六月の良夜あたらよなりとはいへ、
 遠いい物音が、心地よく風に送られて来るとはいへ、
 なにがなし悲しい思ひであるのは、
 消えたばかしの鉄橋の響音、
 大河おおかはの、その鉄橋の上方に、空はぼんやりと石盤色であるのです。
 
  北の海

 海にゐるのは、
 あれは人魚ではないのです。
 海にゐるのは、
 あれは、浪ばかり。
 
 曇つた北海の空の下、
 浪はところどころ歯をむいて、
 空を呪のろつてゐるのです。
 いつはてるとも知れない呪。
 
 海にゐるのは、
 あれは人魚ではないのです。
 海にゐるのは、
 あれは、浪ばかり。
 
  頑是ない歌

 思へば遠く来たもんだ
 十二の冬のあの夕べ
 港の空に鳴り響いた
 汽笛の湯気ゆげは今いづこ
 
 雲の間に月はゐて
 それな汽笛を耳にすると
 竦然しようぜんとして身をすくめ
 月はその時空にゐた
 
 それから何年経つたことか
 汽笛の湯気を茫然と
 眼で追ひかなしくなつてゐた
 あの頃の俺はいまいづこ
 
 今では女房子供持ち
 思へば遠く来たもんだ
 此の先まだまだ何時までか
 生きてゆくのであらうけど
 
 生きてゆくのであらうけど
 遠く経て来た日や夜よる
 あんまりこんなにこひしゆては
 なんだか自信が持てないよ
 
 さりとて生きてゆく限り
 結局我ン張る僕の性質さが
 と思へばなんだか我ながら
 いたはしいよなものですよ
 
 考へてみればそれはまあ
 結局我ン張るのだとして
 昔恋しい時もあり そして
 どうにかやつてはゆくのでせう
 
 考へてみれば簡単だ
 畢竟ひつきやう意志の問題だ
 なんとかやるより仕方もない
 やりさへすればよいのだと
 
 思ふけれどもそれもそれ
 十二の冬のあの夕べ
 港の空に鳴り響いた
 汽笛の湯気や今いづこ
 
  閑寂

 なんにも訪おとなふことのない、
 私の心は閑寂だ。
   それは日曜日の渡り廊下、
   ――みんなは野原へ行つちやつた。
 
 板は冷たい光沢つやをもち、
 小鳥は庭に啼いてゐる。
   締めの足りない水道の、
   蛇口の滴しづくは、つと光り!
 
 土は薔薇色ばらいろ、空には雲雀ひばり
 空はきれいな四月です。
   なんにも訪おとなふことのない、
   私の心は閑寂だ。
 
  お道化うた

 月の光のそのことを、
 盲目少女めくらむすめに教へたは、
 ベートーヹンか、シューバート?
 俺の記憶の錯覚が、
 今夜とちれてゐるけれど、
 ベトちやんだとは思ふけど、
 シュバちやんではなかつたらうか?
 
 霧の降つたる秋の夜に、
 庭・石段に腰掛けて、
 月の光を浴びながら、
 二人、黙つてゐたけれど、
 やがてピアノの部屋に入り、
 泣かんばかりに弾き出した、
 あれは、シュバちやんではなかつたらうか?
 
 かすむ街の灯とほに見て、
 ウヰンの市まちの郊外に、
 星も降るよなその夜さ一と夜、
 虫、草叢くさむらにすだく頃、
 教師の息子の十三番目、
 頸の短いあの男、
 盲目少女めくらむすめの手をとるやうに、
 ピアノの上に勢ひ込んだ、
 汗の出さうなその額、
 安物くさいその眼鏡、
 丸い背中もいぢらしく
 吐き出すやうに弾いたのは、
 あれは、シュバちやんではなかつたらうか?
 
 シュバちやんかベトちやんか、
 そんなこと、いざ知らね、
 今宵星降る東京の夜よる
 ビールのコップを傾けて、
 月の光を見てあれば、
 
 ベトちやんもシュバちやんも、はやとほに死に、
 はやとほに死んだことさへ、
 誰知らうことわりもない……
 
  思ひ出

 お天気の日の、海の沖は
 なんと、あんなに綺麗なんだ!
 お天気の日の、海の沖は
 まるで、金や、銀ではないか
 
 金や銀の沖の波に、
 ひかれひかれて、岬みさきの端に
 やつて来たれど金や銀は
 なほもとほのき、沖で光つた。
 
 岬の端には煉瓦工場が、
 工場の庭には煉瓦干されて、
 煉瓦干されて赫々あかあかしてゐた
 しかも工場は、音とてなかつた
 
 煉瓦工場に、腰をば据ゑて、
 私は暫く煙草を吹かした。
 煙草吹かしてぼんやりしてると、
 沖の方では波が鳴つてた。
 
 沖の方では波が鳴らうと、
 私はかまはずぼんやりしてゐた。
 ぼんやりしてると頭も胸も
 ポカポカポカポカ暖かだつた
 
 ポカポカポカポカ暖かだつたよ
 岬の工場は春の陽をうけ、
 煉瓦工場は音とてもなく
 裏の木立で鳥が啼いてた
 
 鳥が啼いても煉瓦工場は、
 ビクともしないでジッとしてゐた
 鳥が啼いても煉瓦工場の、
 窓の硝子は陽をうけてゐた
 
 窓の硝子は陽をうけてても
 ちつとも暖かさうではなかつた
 春のはじめのお天気の日の
 岬の端の煉瓦工場よ!
 
    *     *
       *     *
 
 煉瓦工場は、その後廃すたれて、
 煉瓦工場は、死んでしまつた
 煉瓦工場の、窓も硝子ガラスも、
 今は毀こはれてゐようといふもの
 
 煉瓦工場は、廃れて枯れて、
 木立の前に、今もぼんやり
 木立に鳥は、今も啼くけど
 煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ
 
 沖の波は、今も鳴るけど
 庭の土には、陽が照るけれど
 煉瓦工場に、人夫は来ない
 煉瓦工場に、僕も行かない
 
 嘗かつて煙を、吐いてた煙突も、
 今はぶきみに、たゞ立つてゐる
 雨の降る日は、殊にもぶきみ
 晴れた日だとて、相当ぶきみ
 
 相当ぶきみな、煙突でさへ
 今ぢやどうさへ、手出しも出来ず
 この尨大ぼうだいな、古強者ふるつはもの
 時々恨む、その眼は怖い
 
 その眼は怖くて、今日も僕は
 浜へ出て来て、石に腰掛け
 ぼんやり俯うつむき、案じてゐれば
 僕の胸さへ、波を打つのだ
 
  残暑

 畳の上に、寝ころばう、
 蝿はへはブンブン 唸つてる
 畳ももはや 黄色くなつたと
 今朝がた 誰かが云つてゐたつけ
 
 それやこれやと とりとめもなく
 僕の頭に 記憶は浮かび
 浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち
 いつしか 僕は眠つてゐたのだ
 
 覚めたのは 夕方ちかく
 まだかなかなは 啼いてたけれど
 樹々の梢は 陽を受けてたけど、
 僕は庭木に 打水やつた
 
   打水が、樹々の下枝しづえの葉の尖さき
   光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた
 
  除夜の鐘

 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
 千万年も、古びた夜よるの空気を顫ふるはし、
 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
 
 それは寺院の森の霧きらつた空……
 そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。
 それは寺院の森の霧つた空……
 
 その時子供は父母の膝下ひざもとで蕎麦そばを食うべ、
 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出、
 その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。
 
 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
 その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、
 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
 
 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
 千万年も、古びた夜よるの空気を顫ふるはし、
 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
 
  雪の賦

 雪が降るとこのわたくしには、人生が、
 かなしくもうつくしいものに――
 憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
 
 その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、
 大高源吾おほたかげんごの頃にも降つた……
 
 幾多あまた々々の孤児の手は、
 そのためにかじかんで、
 都会の夕べはそのために十分悲しくあつたのだ。
 
 ロシアの田舎の別荘の、
 矢来の彼方かなたに見る雪は、
 うんざりする程ほど永遠で、
 
 雪の降る日は高貴の夫人も、
 ちつとは愚痴でもあらうと思はれ……
 
 雪が降るとこのわたくしには、人生が
 かなしくもうつくしいものに――
 憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
 
  わが半生

 私は随分苦労して来た。
 それがどうした苦労であつたか、
 語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
 またその苦労が果して価値の
 あつたものかなかつたものか、
 そんなことなぞ考へてもみぬ。
 
 とにかく私は苦労して来た。
 苦労して来たことであつた!
 そして、今、此処ここ、机の前の、
 自分を見出すばつかりだ。
 じつと手を出し眺めるほどの
 ことしか私は出来ないのだ。
 
  外そとでは今宵こよい、木の葉がそよぐ。
  はるかな気持の、春の宵だ。
  そして私は、静かに死ぬる、
  坐つたまんまで、死んでゆくのだ。
 
  独身者

 石鹸箱せつけんばこには秋風が吹き
 郊外と、市街を限る路の上には
 大原女おほはらめが一人歩いてゐた
 
 ――彼は独身者どくしんものであつた
 彼は極度の近眼であつた
 彼はよそゆきを普段に着てゐた
 判屋奉公したこともあつた
 
 今しも彼が湯屋から出て来る
 薄日の射してる午後の三時
 石鹸箱には風が吹き
 郊外と、市街を限る路の上には
 大原女が一人歩いてゐた
 
  春宵感懐

 雨が、あがつて、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
 みなさん、今夜は、春の宵よひ
 なまあつたかい、風が吹く。
 
 なんだか、深い、溜息が、
 なんだかはるかな、幻想が、
 湧くけど、それは、掴つかめない。
 誰にも、それは、語れない。
 
 誰にも、それは、語れない
 ことだけれども、それこそが、
 いのちだらうぢやないですか、
 けれども、それは、示かせない……
 
 かくて、人間、ひとりびとり、
 こころで感じて、顔見合せれば
 につこり笑ふといふほどの
 ことして、一生、過ぎるんですねえ
 
 雨が、あがつて、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
 みなさん、今夜は、春の宵。
 なまあつたかい、風が吹く。
 
  曇天

  ある朝 僕は 空の 中に、
 黒い 旗が はためくを 見た。
 はたはた それは はためいて ゐたが、
 音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
 
 手繰り 下ろさうと 僕は したが、 
 綱も なければ それも 叶かなはず、
 旗は はたはた はためく ばかり、
 空の 奥処をくがに 舞ひ入る 如く。
 
 かかる 朝あしたを 少年の 日も、
 屡々しばしば 見たりと 僕は 憶おもふ。
 かの時は そを 野原の 上に、
 今はた 都会の 甍いらかの 上に。
 
 かの時 この時 時は 隔つれ、
 此処ここと 彼処かしこと 所は 異れ、
 はたはた はたはた み空に ひとり、
 いまも 渝かはらぬ かの 黒旗よ。
 
  蜻蛉に寄す

 あんまり晴れてる 秋の空
 赤い蜻蛉とんぼが 飛んでゐる
 淡あはい夕陽を 浴びながら
 僕は野原に 立つてゐる
 
 遠くに工場の 煙突が
 夕陽にかすんで みえてゐる
 大きな溜息 一つついて
 僕は蹲しやがんで 石を拾ふ
 
 その石くれの 冷たさが
 漸く手中しゆちゆうで ぬくもると
 僕は放ほかして 今度は草を
 夕陽を浴びてる 草を抜く
 
 抜かれた草は 土の上で
 ほのかほのかに 萎えてゆく
 遠くに工場の 煙突は 
 夕陽に霞かすんで みえてゐる
 


  永訣の秋
 
  ゆきてかへらぬ
   ――京都――

  僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒そそぎ、風は花々揺ゆすつてゐた。
 
 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々あかあかと、風車を付けた乳母車うばぐるま
 いつも街上に停とまつてゐた。
 
 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者みよりなく、風信機かざみの上の空の色、
 時々見るのが仕事であつた。
 
 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、
 常住食すに適してゐた。
 
 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。
 おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。
 
 さてわが親しき所有品もちものは、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、
 布団ふとんときたらば影だになく、歯刷子はぶらしくらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、
 中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。
 
 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会ひに行かうと思はなかつた。
 夢みるだけで沢山だつた。
 
 名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、
 希望は胸に高鳴つてゐた。
 
      *       *
          *
 
 林の中には、世にも不思議な公園があつて、不気味な程にもにこやかな、女や子供、
 男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
 
 さてその空には銀色に、蜘蛛くもの巣が光り輝いてゐた。
 


  一つのメルヘン

 秋の夜は、はるかの彼方かなたに、
 小石ばかりの、河原があつて、
 それに陽は、さらさらと
 さらさらと射してゐるのでありました。
 
 陽といつても、まるで硅石けいせきか何かのやうで、
 非常な個体の粉末のやうで、
 さればこそ、さらさらと
 かすかな音を立ててもゐるのでした。
 
 さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
 淡い、それでゐてくつきりとした
 影を落としてゐるのでした。
 
 やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
 今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
 さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
 
  幻影

 私の頭の中には、いつの頃からか、
 薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
 それは、紗しやの服なんかを着込んで、
 そして、月光を浴びてゐるのでした。
 
 ともすると、弱々しげな手付をして、
 しきりと 手真似をするのでしたが、
 その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
 あわれげな 思ひをさせるばつかりでした。
 
 手真似につれては、唇くちも動かしてゐるのでしたが、
 古い影絵でも見てゐるやう――
 音はちつともしないのですし、
 何を云つてるのかは 分りませんでした。
 
 しろじろと身に月光を浴び、
 あやしくもあかるい霧の中で、
 かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
 眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。
 
  あばずれ女の亭主が歌つた

 おまへはおれを愛してる、一度とて
 おれを憎んだためしはない。
 おれもおまへを愛してる。前世から
 さだまつていることのやう。
 
 そして二人の魂は、不識しらずに温和に愛し合ふ
 もう長年の習慣だ。
 
 それなのにまた二人には、
 ひどく浮気な心があつて、
 
 いちばん自然な愛の気持を、
 時にうるさく思ふのだ。
 
 佳い香水のかをりより、
 病院の、あはい匂ひに慕ひよる。
 
 そこでいちばん親しい二人が、
 時にいちばん憎みあふ。
 
 そしてあとでは得態えたいの知れない
 悔の気持に浸るのだ。
 
 あゝ、二人には浮気があつて、
 それが真実ほんとを見えなくしちまふ。
 
 佳い香水のかをりより、
 病院の、あはい匂ひに慕ひよる。
 
  言葉なき歌

 あれはとほいい処にあるのだけれど
 おれは此処ここで待つてゐなくてはならない
 此処は空気もかすかで蒼あを
 葱ねぎの根のやうに仄ほのかに淡あは
 
 決して急いではならない
 此処で十分待つてゐなければならない
 処女むすめの眼のやうに遥かを見遣みやつてはならない
 たしかに此処で待つてゐればよい
 
 それにしてもあれはとほいい彼方かなたで夕陽にけぶつてゐた
 号笛フイトルの音のやうに太くて繊弱だつた
 けれどもその方へ駆け出してはならない
 たしかに此処で待つてゐなければならない
 
 さうすればそのうち喘あへぎも平静に復し
 たしかにあすこまでゆけるに違ひない
 しかしあれは煙突の煙のやうに
 とほくとほく いつまでも茜あかねの空にたなびいてゐた
 
  月夜の浜辺

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちてゐた。
 
 それを拾つて、役立てようと
 僕は思つたわけでもないが
 なぜだかそれを捨てるに忍びず
 僕はそれを、袂たもとに入れた。
 
 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちてゐた。
 
 それを拾つて、役立てようと
 僕は思つたわけでもないが
  月に向つてそれは抛はふれず
  浪に向つてそれは抛れず
 僕はそれを、袂に入れた。
 
 月夜の晩に、拾つたボタンは
 指先に沁み、心に沁みた。
 
 月夜の晩に、拾つたボタンは
 どうしてそれが、捨てられようか?
 
  また来ん春……

 また来ん春と人は云ふ
 しかし私は辛いのだ
 春が来たつて何になろ
 あの子が返つて来るぢやない
 
 おもへば今年の五月には
 おまへを抱いて動物園
 象を見せても猫にやあといひ
 鳥を見せても猫にやあだつた
 
 最後に見せた鹿だけは
 角によつぽど惹かれてか
 何とも云はず 眺めてた
 
 ほんにおまへもあの時は
 此の世の光のたゞ中に
 立つて眺めてゐたつけが……
 
  月の光 その一

 月の光が照つてゐた
 月の光が照つてゐた
 
  お庭の隅の草叢くさむら
  隠れてゐるのは死んだ児だ
 
 月の光が照つてゐた
 月の光が照つてゐた
 
  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる
 
 ギタアを持つては来てゐるが
 おつぽり出してあるばかり
 
  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

 
  月の光 その二

 おゝチルシスとアマントが
 庭に出て来て遊んでる
 
 ほんに今夜は春の宵よひ
 なまあつたかい靄もやもある
 
 月の光に照らされて
 庭のベンチの上にゐる
 
 ギタアがそばにはあるけれど
 いつかう弾き出しさうもない
 
 芝生のむかふは森でして
 とても黒々してゐます
 
 おゝチルシスとアマントが
 こそこそ話してゐる間
 
 森の中では死んだ子が
 蛍のやうに蹲しやがんでる
 
  村の時計

 村の大きな時計は、
 ひねもす動いてゐた
 
 その字板のペンキは
 もう艶つやが消えてゐた
 
 近寄つてみると、
 小さなひびが沢山にあるのだつた
 
 それで夕陽が当つてさへが、
 おとなしい色をしてゐた
 
 時を打つ前には、
 ぜいぜいと鳴つた
 
 字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
 僕にも誰にも分らなかつた
 
  或る男の肖像

  一
 
 洋行帰りのその洒落者しやれものは、
 齢としをとつても髪に緑の油をつけてた。
 
 夜毎喫茶店にあらはれて、
 其処そこの主人と話してゐる様さまはあはれげであつた。
 
 死んだと聞いてはいつそうあはれであつた。
 
  二
 
    ――幻滅は鋼はがねのいろ。
 髪毛の艶つやと、ラムプの金との夕まぐれ
 庭に向つて、開け放たれた戸口から、
 彼は戸外に出て行つた。
 
 剃りたての、頚条うなじも手頸てくび
 どこもかしこもそはそはと、
 寒かつた。
 
 開け放たれた戸口から
 悔恨は、風と一緒に容赦なく
 吹込んでゐた。
 
 読書も、しむみりした恋も、
 あたたかいお茶も黄昏たそがれの空とともに
 風とともにもう其処にはなかつた。
 
  三
 
 彼女は
 壁の中へ這入はひつてしまつた。
 それで彼は独り、
 部屋で卓子テーブルを拭いてゐた。
 
  冬の長門峡

 長門峡に、水は流れてありにけり。
 寒い寒い日なりき。
 
 われは料亭にありぬ。
 酒酌みてありぬ。
 
 われのほか別に、
 客とてもなかりけり。
 
 水は、恰あたかも魂あるものの如く、
 流れ流れてありにけり。
 
 やがても密柑みかんの如き夕陽、
 欄干らんかんにこぼれたり。
 
 ああ! ――そのやうな時もありき、
 寒い寒い 日なりき。
 
  米子

 二十八歳のその処女むすめは、
 肺病やみで、腓は細かつた。
 ポプラのやうに、人も通らぬ
 歩道に沿つて、立つてゐた。
 
 処女むすめの名前は、米子と云つた。
 夏には、顔が、汚れてみえたが、
 冬だの秋には、きれいであつた。
 ――かぼそい声をしてをつた。
 
 二十八歳のその処女むすめは、
 お嫁に行けば、その病気は
 癒なほるかに思はれた。と、さう思ひながら
 私はたびたび処女むすめをみた……
 
 しかし一度も、さうと口には出さなかつた。
 別に、云ひ出しにくいからといふのでもない
 云つて却かへつて、落胆させてはと思つたからでもない、
 なぜかしら、云はずじまひであつたのだ。
 
 二十八歳のその処女むすめは、
 歩道に沿つて立つてゐた、
 雨あがりの午後、ポプラのやうに。
 ――かぼそい声をもう一度、聞いてみたいと思ふのだ……
 
  正午
 
  丸ビル風景

 あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
 ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
 月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
 あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
 大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
 空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
 ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
 なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
 あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
 ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
 大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
 空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな
 
  春日狂想

  一
 
 愛するものが死んだ時には、
 自殺しなけあなりません。
 
 愛するものが死んだ時には、
 それより他に、方法がない。
 
 けれどもそれでも、業ごふ(?)が深くて、
 なほもながらふことともなつたら、
 
 奉仕の気持に、なることなんです。
 奉仕の気持に、なることなんです。
 
 愛するものは、死んだのですから、
 たしかにそれは、死んだのですから、
 
 もはやどうにも、ならぬのですから、
 そのもののために、そのもののために、
 
 奉仕の気持に、ならなけあならない。
 奉仕の気持に、ならなけあならない。
 
  二
 
 奉仕の気持になりはなつたが、
 さて格別の、ことも出来ない。
 
 そこで以前せんより、本なら熟読。
 そこで以前より、人には丁寧。
 
 テムポ正しき散歩をなして
 麦稈真田ばくかんさなだを敬虔けいけんに編み――
 
 まるでこれでは、玩具おもちやの兵隊、
 まるでこれでは、毎日、日曜。
 
 神社の日向を、ゆるゆる歩み、
 知人に遇へば、につこり致し、
 
 飴売爺々あめうりぢぢいと、仲よしになり、
 鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、
 
 まぶしくなつたら、日蔭に這入はひり、
 そこで地面や草木を見直す。
 
 苔はまことに、ひんやりいたし、
 いはうやうなき、今日の麗日。
 
 参詣人等もぞろぞろ歩き、
 わたしは、なんにも腹が立たない。
 
   ⦅まことに人生、一瞬の夢、
   ゴム風船の、美しさかな。⦆
 
 空に昇つて、光つて、消えて――
 やあ、今日は、御機嫌いかが。
 
 久しぶりだね、その後どうです。
 そこらの何処どこかで、お茶でも飲みましよ。
 
 勇んで茶店に這入はひりはすれど、
 ところで話は、とかくないもの。
 
 煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
 名状しがたい覚悟をなして、――
 
 戸外そとはまことに賑やかなこと!
 ――ではまたそのうち、奥さんによろしく、
 
 外国あつちに行つたら、たよりを下さい。
 あんまりお酒は、飲まんがいいよ。
 
 馬車も通れば、電車も通る。
 まことに人生、花嫁御寮。
 
 まぶしく、美しく、はた俯うつむいて、
 話をさせたら、でもうんざりか?
 
 それでも心をポーッとさせる、
 まことに、人生、花嫁御寮。
 
  三
 
 ではみなさん、
 喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
 テムポ正しく、握手をしませう。
 
 つまり、我等に欠けてるものは、
 実直なんぞと、心得まして。
 
 ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
 テムポ正しく、握手をしませう。
 
  蛙声

 天は地を蓋おほひ、
 そして、地には偶々たまたま池がある。
 その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
 ――あれは、何を鳴いてるのであらう?
 
 その声は、空より来り、
 空へと去るのであらう?
 天は地を蓋おほひ、
 そして蛙声は水面に走る。
 
 よし此の地方くにが湿潤に過ぎるとしても、
 疲れたる我等が心のためには、
 柱は猶なほ、余りに乾いたものと感おもはれ、
 
 頭は重く、肩は凝るのだ。
 さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
 その声は水面に走つて暗雲に迫る。


  後記

 茲ここに収めたのは、『山羊の歌』以後に発表したものの過半数である。
 作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。
 序ついでだから云ふが、『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。
 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も既すでに二十三年を経た。もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、十五年間の詩生活である。
 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠すくなくない。
 今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。
 私は何にも、だから語らうとは思はない。
 たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確実に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも云つておきたい。
 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。
 別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。
 扨さて、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
 さらば東京! おゝわが青春!

 〔一九三七・九・二三〕

含羞 むなしさ 夜更の雨 早春の風  青い瞳 三歳の記憶 六月の雨 雨の日  春の日の歌 夏の夜 幼獣の歌 この小児 冬の日の記憶 
秋の日 冷たい夜 冬の明け方 老いたる者をして 湖上 冬の夜 秋の消息  秋日狂乱 朝鮮女 夏の夜に覚めてみた夢 春と赤ン坊 雲雀 
初夏の夜 北の海 頑是ない歌 閑寂 お道化うた 思ひ出 残暑 除夜の鐘 雪の賦 わが半生 独身者 春宵感懐 曇天 蜻蛉に寄す 
永訣の秋 ゆきてかへらぬ 一つのメルヘン 幻影 あばずれ女の亭主が歌つた 言葉なき歌 月夜の浜辺 また来ん春 月の光 村の時計 
或る男の肖像 冬の長門峡 米子 丸ビル風景 春日狂想 蛙声 後記 戻る