東京景物詩及其他 北原白秋

わかき日の饗宴を忍びてこの怪しき紺と青との詩集を“PAN”とわが「屋上庭園」の友にささぐ

   東京夜曲
   公園の薄暮

ほの青き銀色ぎんいろの空気くうきに、
そことなく噴水ふきあげの水はしたたり、
薄明うすあかりややしばしさまかえぬほど、
ふくらなる羽毛頸巻ボアのいろなやましく女ゆきかふ。

つつましき枯草かれくさの湿しめるにほひよ……
円形まろがたに、あるは楕円だゑんに、
かぎられし園そのの配置はいちの黄にほめき、靄に三つ四つ
色淡うすき紫の弧燈アアクとうしたしげに光うるほふ。

春はなほ見えねども、園そののこころに
いと甘き沈丁ぢんてうの苦にがき莟つぼみ
すがごと沁みきたり、瓦斯ガスの薄黄うすぎ
身を投げし霊たましひのゆめのごと水のほとりに。

暮れかぬる電車でんしやのきしり……
しをれたる調和てうわにぞ修道女しゆうだうめの一人ひとり消えさり、
裁判さばきはてし控訴院こうそゐんに留守居るすゐらの点ともす燈あかり
つかれたる硝子がらすより弊私的里ヒステリイの瞳ひとみを放はなつ。

いづこにかすずろげる春の暗示あんしよ……
陰影ものかげのそこここに、やや強く光劃かぎりて
いきふかき弧燈アアクとうかれくさの園そのに歎なげけば、
おもなる病児びやうじかすかに照らされて迷まよひわづらふ。

おぼろげのつつましき匂にほひのそらに、
なほ妙たへにしだれつつ噴水ふきあげの吐息といきしたたり、
あたらしき月光つきかげの沈丁ぢんてうに沁みも冷ゆれば
官能くわんのうの薄うすらあかり銀笛ぎんてきの夜とぞなりぬる。
 四十二年二月
 
  鶯の歌

なやましき鶯のうたのしらべよ……
ゆく春の水の上、靄の廂合ひあはひ
しをれたる官能くわんのうの、あるは、青みに、
をこめて霊たましひの音をのみぞ啼く。

鶯はなほも啼く……瓦斯ガスの神経しんけい
さんのごと饐えて顫ふるふ薄き硝子がらすに、
うしなひし恋の通夜つや、さりや、少女をとめ
青ざめて熟視みつめつつ闌くる瞳ひとみに。

憂欝症ヒステリイの霊たましひの病めるしらべよ……
コルタアの香の屋根に、船のあかりに、
朽ちはてしおはぐろの毒の面おもて
愁ひつつ、にほひつつ、そこはかとなく。

ヸオロンの三さんの絃いとなするこころか、
ていほろと梭の音おとたつるゆめにか、
寝ねもあへぬ鶯のうたのそそりの
かつ遠とほみ、かつ近み、静しづこころなし。

夜もすがら夜もすがら歌ふ鶯……
月白き芝居裏、河岸かしの病院、
なべて夜の疲つかれゆくゆめとあはせて、
ウヰスラアーの靄の中音うちねに鳴き鳴きてそこはかとなし。
 四十二年一月
 
  夜の官能

湿潤しめりふかき藍色あゐいろの夜の暗くらさ……
のごとき星あかりさだかにはそれとわかねど
く淡うすき溝渠ほりわりの陰影かげに、
青白き胞衣会社えなぐわいしやほのかににほひ、
窻多く、而しかもみな閉とざしたる真四角ましかくの煙艸工場たばここうば
煙突の黒くろみより灰はひばめる煤すすと湯気ゆげなびきちらぼふ。

橋のもと、暗くらき沈黙しじま
舟はゆく……
なごやかにうち青む砥石といしの面おも
いと重き剃刀かみそりの音おともなく辷すべるごとくに、
舟はゆく……ゆけど声なく
ありとしも見えわかぬ棹取さをとりの杞憂おそれ深げに、
ただ黄なる燈火ともしびぞのぼりゆく……孤児みなしごの頼たよりなき眼か。

つつましき尿ねうの香の滲み入るほとり、
くされたる酒類さけるゐの澱おどみ濁にごりて
そこここの下水げすゐよりなやみしみたり、
白粉おしろいと湯垢ゆあかとのほめく闇にも
青き芽の春の草かすかににほふ。

湿潤しめりふかき藍色あゐいろの夜の暗くらさ……
かへりみすれば
いと黒く、はた、遠き橋のいくつの
そのひとつ青うきしろひ、
神経しんけいの衰弱つかれにぞ絶間たえまなく電車過ぎゆき、
正面まともなる新橋しんばしの天鵝絨びろうどの空そらの深みに
さまざまの電気燈でんきの装飾かざり
そを脱けて紫の弧燈アアクとうにほやかにひとつ湿しめれる。
あはれ、あはれ、爛壊らんゑのまへの官能くわんのうのイルユミネエシヨン。

しかはあれども、
湿潤しめりふかき藍色あゐいろの夜の暗くらさ……
溝渠ほりわりの闇やみの中うち病院びやうゐんの舟は消えゆき、
青白き胞衣会社えなぐわいしやにほふあたりに、
ととのはぬ鶯ぞしみらにも鳴きいでにける。
 四十二年三月
 
  片恋

あかしやの金きんと赤とがちるぞえな。
かはたれの秋の光にちるぞえな。
片恋かたこひの薄着うすぎのねるのわがうれひ
「曳舟ひきふね」の水のほとりをゆくころを。
やはらかな君が吐息といきのちるぞえな。
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
 四十二年十月
 
  露台

やはらかに浴ゆあみする女子のにほひのごとく、
暮れてゆく、ほの白き露台バルコンのなつかしきかな。
黄昏たそがれのとりあつめたる薄明うすあかり
そのもろもろのせはしなきどよみのなかに、
は絶えず来きたる夜のよき香料をふりそそぐ。
また古き日のかなしみをふりそそぐ。

がもとに両手もろてをあてて眼病の少女はゆめみ、
欝金香うこんかうくゆれるかげに忘られし人もささやく、
げに白き椅子の感触さはりはふたつなき夢のさかひに、
官能の甘き頸うなじを捲きしむる悲愁かなしみの腕かひなに似たり。

いつしかに、暮るとしもなき窻あかり、
七月の夜よるの銀座となりぬれば
静こころなく呼吸いきしつつ、柳のかげの
銀緑の瓦斯ガスの点ともりに汝なれもまた優になまめく、
四輪車の馬の臭気にほひのただよひに黄なる夕月
もの甘き花はな桅子くちなしの薫くゆりしてふりもそそげば、
病める児のこころもとなきハモニカも物語レヂエンドのなかに起りぬ。
 四十二年七月
 
      S組合の白痴
 
  雑艸園

悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷ひやき愁と、――
たましひの雑艸園の白日はくじつはかぎりなく傷いたましきかな。
たとふればマラリヤの病室にふりそそがれし
香水と消毒剤と、……窻の外なる蜜蜂の巣と、……
そのなかに絶えず恐るる弊私的里ヒステリイの看護婦の眼と、
霖雨後りんうごの黄なる光を浴びて蒸す四時過ぎの歎なげきに似たり。

見よ、かかる日の真昼にして
気遣きづかはしげに点ともりたる瓦斯の火の病める瞳よ。

かくてまた蹈み入りがたき雑艸の最もとも淫たはれしあるものは
肥満ふとりたる、頸輪くびわをはづす主婦めあるじの腋臭わきがの如く蒸し暑く、
悲しき茎のひと花のぺんぺん草に縋りしは、
薬瓶くすりびんもちて休息やすめる雑種児あいのこの公園の眼をおもはしむ。
また、緩ゆるやかに夢見るごときあるものは、
午後二時ごろの Cafeカツフエ に Verlaineウエルレエヌ のあるごとく、
ことににくきは日光が等閑なほざりになすりつけたる
思ひもかけぬ、物かげの新しき土つちの色調。
またある草は白猫の柔毛にこげの感じ忘れがたく、
いとふくよかに温臭ぬるくさき残香のこりがの中に吐息しつ。
石鹸シヤボンの泡に似て小さく、簇むらがり青むある花は
ひと日浴ゆあみし肺病の女の肌を忍ぶごとく、
洋妾らしやめんめける雁来紅けいとう
吸ひさしの巻煙草めきちらぼひてしみらに薫ゆる
朝顔の萎しぼみてちりし日かげをば見て見ぬごとし。

見よ、かかる日の真昼にして
気遣はしげに瞬またたける瓦斯の火の病める瞳よ。
あるものは葱の畑より忍び来し下男のごとく、
またあるものは轢かれむとして助かりし公証人の女房が
甘蔗のなかに青ざめて佇むごとき匂しつ。
ことに正しきあるものはかかる真昼を
え白らみたる鳥屋とやの外に交接つがへる鶏とりをうち目守まもる。

ああ、かかるもろもろの匂のなかにありて
薬草の香はひとしほに傷いたましきかな、
あはれ、そは三十路女みそぢをんなの面おももちのなにとなく淋しきごとく、
活動写真の小屋にありて悲しき銀笛の音の消ゆるに似たり。

見よ、かかる日の真昼にして
気遣はしげに黄ばみゆく瓦斯の火の病める瞳よ。

あはれ、また
知らぬ間に懶ものうきやからはびこりぬ。
ここにこそ恐怖おそれはひそめ。かくてただ盲人まうじんの親は寝そべり、
剃刀かみそり持てる白痴児はくちじは匍匐はらばひながら、
こぼれたる牛乳の上を、毛氈を、近づき来る思あり。
またその傍そばに、なにとも知れぬ匂して、
せんすべもなく降くだりゆく、さあれ楽しくおもしろき
やぶれかかりし風船の籠に身を置く心あり。
あるは、また、かげの湿地しめぢに精液のにほひを放つ草もあり。

見よ、かかる日の真昼にして
気遣しげに青ざめし瓦斯の火の病める瞳よ。

悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷ひやき愁と、
たましひの雑艸園の白日はくじつの声もなきかがやかしさを、
時をおき、揺り轟かし、黒烟くろけぶりたたきつけつつ、
汽車飛び過ぎぬ、かくてまたなにごともなし……。
 四十二年十月
 
  瞰望

わが瞰望は
ありとあらゆる悲愁かなしみの外に立ちて、
東京の午後四時過ぎの日光と色と音とを怖れたり。

七月の白き真昼、
空気の汚穢けがれうち見るからにあさましく、
いと低き瓦の屋根の一円は卑怯に鈍にぶく黄ばみたれ、
あかあかと屋上園に花置くは雑貨の店か、
(新嘉坡の土の香は莫大小メリヤスの香とうち咽ぶ。)
また、青ざめし羽目板はめいたの安料理屋の窻の内、
ただ力なく、女は頸うなじかたむけて髪梳くしけづる。
(私生児の泣く声は野菜とハムにかき消さる。)
洗濯屋せんたくやの下女はその時に物干の段をのぼり了り、
男のにほひ忍びつつ、いろいろのシヤツをひろげたり。

九段下より神田へ出づる大路おほぢには
しきりに急いそぐ電車をば四十女の酔人よひどれの来て止とどめたり。
はすかひに光りしは童貞の帽子の角つのか。

かかる間も収をさまり難き困憊こんぱいはとりとめもなくうち歎なげく。
その湿めらへる声の中
覇王樹サボテンの蔭に蹲うづくみて日向ぼこせる洋館の病児の如く泣くもあり。
煙艸工場の煙突掃除のくろんぼが通行人を罵る如き声もあり。
白昼を按摩の小笛、
午睡のあとの倦怠けだるさに雪駄ものうく
白粉おしろひやけの素顔して湯にゆくさまの芸妓あり。
交番に巡査の電話、
広告ひろめの道化どうけうち青みつつ火事場へ急いそぐごときあり。
また間の抜けて淫みだらなる支那学生のさへづりは
氷室の看板かんばんかけるペンキのはこび眺むるごとく、
印刷の音の中、色赤き草花凋しなえ、
ほどちかき外科病院の裏手の路次の門弾かどびき
げにいかがはしき病の臭気こもりたり。

(いま妄想の疲れより、ふと起りたる
薬種屋内の人殺、
下手人は色白き去勢者の母。)

何かは知らず、
人かげ絶えてただ白き裏神保町の眼路遠く、
肺病の皮膚青白き洋館の前を疲れつつ、
「刹那」の如く横ぎりし電車の胴の白色はくしよくは一瞬にして隠れたり。
いたづらに玩弄品おもちやの如き劇場の壁薄あかく、
ところどころの窻の色、曇れる、あるはやや黄なる、
弊私的里性ヒステリイせいの薄青き、あるは閉せる、
見るからに温室の如き写真屋に昼の瓦斯つき、
(亡き人おもふ哀愁はそこより来る。)
獣医の家は家畜の毛もていろどられ、
歯科病院の帷カーテンは入歯のごとき色したり、
その真中ただなかにただひとつ、研ぎすましたる悲愁かなしみか、
ひやき理髪りはつの二階より、
剃刀かみそりの如く閃々と銀の光は瞬またたけり。

あらゆるものの疲れたる七月の午後、
わが瞰望の凡ての色と音と光を圧すごとく、
凡ての上にうち湿しめる「東京の青白き墳墓はか
ニコライ堂の内秘ないひより、薄闇うすぐらき円頂閣ドオムを越えて
大釣鐘は騒がしく霊たましひの内と外とに鳴り響く。
鳴り響く、鳴り響く、……
 四十二年十月
 
  心とその周囲

   Ⅰ 窓のそと

   1

わが窻まどのそと、
なる実のおよんどんのちまめは小ちひさなる光の簇むらがりをつくり、
葉かげの水面みのもは銀色ぎんいろの静寂しづけさを織る。
白くして悩める眼鏡橋めがねばしのうへを
鉄輪かなわを走らしつつ外科医院げくわゐゐんの児は過ぎゆき、
気の狂ひたる助祭じよさいは言葉なく歩み来る。

鐘を撞け、鐘を撞け、
恐ろしき銀色ぎんいろの鐘を……

この時、近郊きんかうを殺戮さつりくしたる白人はくじんの一揆いつき
更にこの静かにして小ちひさなる心の領内りやうないを犯さんとし、
すでにその鎗尖やりさきのかがやきはかなたの丘の上に閃ひらめけり。

正午過ぎ……一分……二分……三分……
日は光り、そよとの風もなし。

   2

ある日、わが窻の硝子がらすのしたに、
くつがへされたる蜜蜂の大きなる巣はげしく臭にほひ、
その周囲めぐりに数かずかぎりなき蜂の群むれおとたてて光りかがやき、
粗末そまつなる木の函はこへすべり入り、匍ひめぐる。
かがやかしき歓喜くわんきと悲哀ひあひ
すべてこの銀色ぎんいろの光のなかに
ふとくしてむくつけき黒人こくじんの手ぞ
はたらける……甘き甘きあるものを掻きいださんとするがごとく。

その前に負傷ふしやうしたる敵兵てきへい三人みたり、――
あるものは白き布ぬのにて右の腕かひなを吊つるしたり――
日に焼けたる絶望ぜつまうの顔をよせて
そこはかとなきかかる日の郷愁ノスタルヂヤアに悩むがごとく
めづらかにうち眺めたる……足もとの黄色きいろなる花
湿りたる土の香のさみしさに晷かげりつつうち凋しをる。

鐘は鳴る……銀色ぎんいろの教会けうくわいの鐘……

硝子窻がらすまどのなかには
薄色うすいろの青き眼がねをかけたる女、
かりそめのなやみにほつれたる髪かきあげて、
薬罎くすりびん載せたる円卓ゑんたくのはしに肱ひぢつきながら
金字きんじ見ゆるダンヌンチオの稗史はいしを閉とざし、
静かなる杏仁水きやうにんすゐのにほひにしみじみときき惚れてあり。

ああ午後三時の郷愁ノルタルヂヤア……

   Ⅱ S組合の白痴

夕まぐれ、石油問屋せきゆどひやのS組合エスくみあひの入口に、
つめたき硝子戸がらすどのそと、
うち潤しめる石油色せきゆいろの陰影いんえいの中うち、薄うすら光ひかる銀ぎんの引手ひきてのそばに
薄白痴うすばかのわかきニキタは紫の絹ハンケチを頸くびにむすび、
今日けふもまたのんべりだらりと立たちん坊ぼうの河岸の
便所に凭もたるるごとく、
のろまな
その鈍にぶき容態なりふりのいづこにか猾ずるき眼を働はたらかせにやにやと笑ひつつあり。

日は向むかう河岸がしの家畜病院かちくびやうゐんの頽すたれたる露台バルコンを染め、
入口の硝子戸の前に薬くすりらるる色黄なる狂犬きやうけんを染め、
となれる健胃固腸丸けんゐこちやうぐわんの広告に苦にがき光を残しつつ沈みゆく。

S組合の薄白痴うすばか
石油ににじむ赤き髪に雑種児あひのこの矜ほこりを思ひ、
けふの夜食やしよくも焼やきパンにジヤムと牛乳ミルクを購はんとぞ思ふ。
かかる間も白銅のこひしさに
とほりすがる肥満女ふとつちよの葱ねぎもてる腕かひなに倚りてうち挑いどむ。
薄暮くれがたの河岸かしのあかしや、二本ふたもとの海岸かしのあかしや、
その葉のゆめの金糸雀かなりやのごとくに散るころを、
またしてもくちずさむ、下品げひんなる港街みなとまちの小唄こうた
青き青き溝渠ほりわりの光は暮れてゆく……

わかきニキタはぼんやりと薄笑うすゑみしつつ、……
十月の枯草かれくさの黄なるかがやき、そがかげのあひびきの
うはつきし声のかすれを思ひいで、
また外光ぐわいくわうの紫むらさきに河岸かしの燕つばめの飛び翔かけりながら隙見すきみする
ひとみ青きフランス酒場さかばの淫たはれ女が湯浴ゆあみのさまを思ひやり、
あるはまた火事ありし日の夕日のあたる草土堤くさどて
だらしなく擁かかへ出されて薫かをりたる薄黄うすきの、赤の乳緑にふりよくの、青の、沃土えうどの、
催笑剤わらひぐすりや泣薬なきぐすり、痲痺剤しびれぐすりや惚薬ほれぐすり、そのいろいろの音楽おんがくの罎。
さて組合の禿頭はげあたまのトムソンが赤つちやけたる鹿爪しかつめらしき古外套ふるぐわいたうををかしがり、
恐ろしかりし夏の日のこと、どくだみの臭くさき花のなかに
「キ…ン…タ…マ…が…い…た…い」と
白粉おしろいあつき皺しはづらに力ちからなく啜すすり泣きつつ、
つひに斃れし旅芸人たびげいにんのかつぽれが臨終りんじゆうの道化姿どうけすがたぞ目に浮ぶ。

今瓦斯ガスきし入口の撻ドア押しあけて
石油の臭にほひ新らしく人は去る、流行はやりの背広せびろの身がるさよ。
いつしかに日は暮れて河岸かしのかなたはキネオラマのごとく燈あかりき、
吊橋つりばしの見ゆるあたり黄なる月嚠喨りうりやうと音も高く出でんとすれど、
あはれなほS組合の薄白痴うすばかのらちもなき想おもひはつづく……

   Ⅲ 泣きごゑ

わが寝ねたる心のとなりに泣くものあり――
を一夜ひとよ、乳をさがす赤子のごとく
光れる釣鐘草つりがねさうのなかに頬をうづめたる病児びやうじのごとく、
あるものは「京終きやうはて」の停車場ていしやばのサンドウヰツチの呼びごゑのごと、
にかがやける枯草の野を幌ほろなき馬車に乗りて、
密通みつつうしたる女をんなのただ一人ひとりをつとの家いへに帰かへるがごとく、
げにげにあるものは大蒜にんにくの畑はたけに狂人きやうじんの笑へるごとく、
「三十三間堂」のお柳りうにもまして泣くこゑは、
ネル着けてランプを点ともす横顔よこがほのやはらかき涙にまじり
理髪器バリカンの銀色ぎんいろぞやるせなき囚人しうじんの頭かしらに動うごく。
そのなかに肥満ふとりたる古寡婦ふるごけの豚ぬすまれし驚駭おどろきと、
窓外まどそとの日光を見て四十男の神官しんくわん
死のまへに啜泣すすりなきせるつやもなく怖おそろしきこゑ。

ああ夜を一夜ひとよ
わが寝たる心のとなりに泣くもののうれひよ。

   Ⅳ 銀色の背景

わが悲哀かなしみの背景バツクは銀色ぎんいろなり。
そは五月ごぐわつの葱畑ねぎばたけのごとく、
夏の夜の「若竹わかたけ」の銀襖ぎんぶすまのごとく青白き瓦斯がすに光る。

そのまへに、――
弊私的里ヒステリイの甚しきは
私通しつうしたる洎芙藍色さふらんいろの女の
声もなき白痴はくちの児をば抱きながら入日を見るがごとくに歩あゆみ、
かの苦にがく青くかなしき愁夜曲ノクチユルノ……
ある夜のわれは恐ろしくして美しき竹本小土佐の
「合邦がつぽう」の玉手御前たまてごぜんの悲歎なげきをば弾語ひきがたりする風情ふぜいに坐すわり、
暗き暗き欝悶うつもん
鈍銀にぶぎんの引かれゆく幕の前に、指組ゆびくめる「仁木につき」のごとく
くま青き眼の光烟けぶりとともにスツポンの深き恐怖おそれよりせりあがる。……

何時いつも何時いつもわが悲哀かなしみの背景バツクには銀色ぎんいろの密境みつきやうぞ住む。
そのなかに鳴きしきる虫の音よ、
にほひ高き空気くうきの迅はやき顫動せんどう
太棹ふとざをと、鋭するどき拍子木ひやうしぎ
ああああわが凡すべての官能くわんのうは盲めしひんとして静かに光る。

   Ⅴ 神経の凝視

日は暮るる、日は暮るる、力ちからなき欝金うこんの光……

ゆき馴れし一本ひともとの楡にれのもと、半なかばこはれし長椅子ベンチに、
恐ろしき病室びやうしつを抜けいでたるわがこころの
神経しんけいの疑うたがひふかき凝視ぎようし……

足もとの、そこここの小さき花は
長く長く抱擁はうえうしたるあとの黄色きいろなる興奮こうふんに似て
光り……なげき……吐息といきし……
沈黙ちんもくしたる風は
生前せいぜんの日の遺言状ゆゐごんじやうの秘密ひみつのごとくに刺草いらくさの間あひだに沈み、
うつくしき絶望ぜつまうのごとたまさかに蜥蜴とかげぎゆく。

近郊きんかうの鐘は鳴る……修道院しゆだうゐん晩餐ばんさんの鐘……

神経の澄みわたる凝視ぎようしはつづく――
その青くして何物なにものにも吸ひ取らるるがごとき瞳ひとみ
身をすりよする異母妹いぼまいの性せいの恐怖おそれより逃のがれんとし、
したしき友人の顔に陋いやしき探偵たんていの笑わらひを恐れ、
色黄なる醜みにくき悪縁あくゑんの女をんなを殺ころさんとし、
さらにわが生せいを力ちからあらしめんがために砒素ひそを医局いきよくの棚より盗み、
つひにまた響ひびきも立てぬ霊たましひの深緑しんりよくの瞳ひとみにうち吸はれ、
わが心の深淵しんゑんに突き落されし処女ヴアジンの銀ぎんの咽むせびをきく。

この時とき、病院の青白き裏口うらぐちの戸に佇める看護婦は
携へし鳥籠とりかごの青き小鳥の鳴くこゑをさびしみながら、
かく吹ける乗合馬車の遠き遠き黄のかがやきをなつかしむ。

日は暮るる、日は暮るる、力ちからなき欝金の光……
 四十三年二月
 
  物理学校裏

Borum. Bromun. Calcium.
Chromium. Manganum. Kalium. Phosphor.
Barium. Iodium. Hydrogenium.
Sulphur. Chlorum. Strontium. ……
(寂しい声がきこえる、そして不可思議な……)

日が暮れた、淡うすい銀と紫――
蒸し暑い六月の空に
暮れのこる棕梠の花の悩ましさ。
黄色い、新しい花穂ふさの聚団あつまり
暗い裂けた葉の陰影かげから噎せる如やうに光る。
さうして深い吐息といきと腋臭わきがとを放つ
歯痛しつうの色の黄きな、沃土ホルムの黄きな、粉つぽい亢奮の黄きな

C2H2O2N2+NaOH=CH4+Na2CO3……
蒼白い白熱瓦斯の情調ムウドが曇硝子を透して流れる。
角窓のそのひとつの内部インテリオル
光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。
肺病院の如やうな東京物理学校の淡うすい青灰色せいくわいしよくの壁に
いつしかあるかなきかの月光がしたるる。

Tin …… tin …… tin. n. n. n …… tin.n ……
 tire …… tire …… tin. n. n. n. …… syn ……
t …… t …… t …… t …… tone …… tsn. n. …… syn. n. n. n. n ……
静かな悩ましい晩、
何処かにお稽古けいこの琴の音がきこえて、
崖下の小さい平家ひらやの亜鉛屋根に
コルタアが青く光り、
やはらかい草いきれの底に Lamp の黄色い赤みが点る。
その上の、見よ、すこしばかりの空地あきちには
湿しめつた胡瓜と茄子の鄙びた新らしい臭にほひ
あわただしい市街生活の哀愁あいしゆうに縺れる……

汽笛が鳴る……四谷を出た汽車の Cadenceカダンス が近づく……

暮れ悩む官能の棕梠
そのわかわかしい花穂ふさの臭にほひが暗みながら噎むせぶ、
歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。

寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な……
そこここの明あかるい角窻のなかから。
Sin ……, Cosin ……. Tan ……, Cotan ……. Sec ……, Cosec ……. etc ……
Ion. Dynamo. Roentgen. Boyle. Newton.
Lens. Siphon. Spectrum. Tesla の火花
摂氏、華氏、光、Bunsen. Potential. or, Archimedes. etc, etc……
棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、
無意味な琴の音の稚をさなびた Sentiment は
何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。
汽笛が鳴る……濠端ほりばたの淡うすい銀と紫との空に
停車とまつた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。
静かな三分間。

悩ましい棕梠の花の官能に、今、
蒸し暑い魔睡がもつれ、
暗い裂けた葉の縁ふちから銀の憂欝メランコリイがしたたる。
その陰影かげの捕捉とらへがたき Passion の色、
歯痛の色の黄きな、沃土ホルムの黄きな、粉つぽい亢奮の黄きな

Neon. Flourum. Magnesium.
Natrium. Silicium. Oxygenium.
Nitrogenium. Cadimium or, Stibium
           etc., etc.……
 四十三年三月
 
  骨なし児と黒猫

そは恐おそろしきXなり。淫みだらにして不倫ふりんなる母ははのごとく、
が神経しんけいと知覚ちかくとは痛いたましきほど慄わななけども、力ちからなき骨ほねなし児よ。
終日ひもすがら、わづらはしき病室びやうしつの白葡萄酒はくぶどうしゆの如ごとき空気くうきに呼吸こきふし、
たましひのうつらぬ瞳ひとみは唯ただくるはしき硝子戸がらすどの外そとをうち凝視みつむ。

そが背後うしろの棚たなの上うへ、やや青あをみたる陰影いんえいの中うち
ニツケルの産科さんくわの器械きかいのごとき嘴はしして光ひかり、
うすく曇くもれる硝子がらすのなかにとりあつめたる薬剤やくざいの罎びん
その青あをく赤あかくおぼめける劇薬げきやくのエチケツテ……鋭するどく、苦にがし。

ああ骨ほねなし児よ。この薄暮くれがたの反射はんしやに、
柔軟やはらかにして悩なやましき汝が衾ふすまは銀ぎんの潤沢しめりに光ひかれど、
ひややかなる鉄てつの寝台ねだいの上うへ、据ゑられし木造きづくりの函はこは、
が身を入れたる小ちひさき牢獄ひとやは山葵色わさびいろの曇くもりにうち歎なげく。

大人おとなびたる顔かほの白しろき白しろき白粉おしろいの恐おそろしさよ。
なよなよと凭もたせたる身体からだのしまりなさ。
たましひの青あをさ、いたましさ、
生温なまぬるき風かぜのごと骨ほねもなき手は動うごく――その空そらに鏽銀しやうぎんの鐘かねはかかれり。

ああ、ああ、今いましがたまでぞ、この硝子戸がらすどの外そとには
五時ごろの日の光ひかりわかわかしき血のごとくふりそそぎ、
えざる窓下まどしたのあたりより、
抑圧おさえあへぬ抱擁はうえうの笑わらひ声ごゑきこえしか――葱畑ねぎばたけすでに青あをし。

鏽銀しやうぎんの鐘かねよりは一条ひとすぢの絹きぬ薄青うすあをく下さがりて光ひかる。
その端はしをはづかに取りたる手は、その瞳ひとみは、
ああ、すべて力ちからなし。――さらにさらに痛いたましきはかかる青あをき薄暮くれがたの激はげしき官能くわんのうの刺戟しげき

け、遂つひに、彼かれは泣く。……
あらず、そは馴染なじみたる黒猫くろねこなりき。ふくらなる身を跳おどらせて、
銀色ぎんしよくの衾ふすまの裾すそにのぼりつつ背を高たかめたる。
ばみたる青葱色あをねぎいろの眼の光ひかりきたる夜の恐怖おそれにそそぐ。

かくてただ声こゑもなし。青あをく光ひかる硝子戸がらすどに真白ましろなる顔かほふりむけて、
哀楽あいらくの表情へうじやうもなく親したしげに畜類ちくるゐの眼と並ならびつつ何なにをか凝視みつむ。
ああ、暗くらき暗くらき葱畑ねぎばたけの地平ちへいに黄なる月つきいでんとして、
鏽銀しやうぎんの鐘かねは鳴る……幽かすかに、……幽かすかに……やるせなき霊たましひの求めもあへぬ郷愁ノスタルヂヤア
 四十三年二月
 
  雪ふる夜のこころもち

今夜こんやも雪が降つてゐる。……

Blue devils よ。
酔ひ狂つた俺おれの神経が――
Sara …… sara ……とふる雪の幽かな瞬またたきを聴きわけるほど――
ひつそりと怖気をぢけづく、ほんの一時いちじの気紛きまぐれにつけ込んで、
おまへはやつて来る……顫ふるひながら例れいの房のついた尖帽せんぼうをかぶつて、
掻きむしつた亜麻色あさいろの髪の、泣き出しさうな青い面つらつきで、
ふらふらと浮いた腰の、三尺さんじやくほどの脚棍たけうまに乗つて、
ひよつくりこつくり西洋操人形あやつりにんぎやうのやうにやつてくる。

硝子の閉しまつた青い街まちを、
濡れに濡れた舗石しきいしのうへを、
ピアノが鳴る……金色きんいろの顫音せんおん
うるむだ夜の空気に緑を帯びて消えてゆく。

雪がふる。……
湿しめつた劇薬げきやくの結晶けつしやう
アンチピリンの(頓服剤ねつさましの)、粉末ふんまつのやうに――
それがまた青白い瓦斯ガスに映うつつて
弊私的里ヒステリーの発作ほつさが過ぎた、そのあとの沈んだ気分きぶんの氛囲気ふんゐき
ちついた悲哀かなしみの断片だんぺんがしみじみと降りしきる。

そのとき、
酒場さかばの薄い硝子から
むちやくちやになつた神経が、馬鹿にしろといふ調子で、
それでも沈まりかへつて、
恐怖おそれと可笑をかしさの眼を瞠みはつたまま、
ふる雪を、
Blue devils の歩行あるきを眺めてゐる。
ひよつくりこつくり顫ふるへてゆく……
ピアノに合せた足どりの、ふらふらと両手りようてを振つて、あかしやの禿げた並木をくぐりぬけ、
三角形なりの街燈がいたうの鉄の支柱ちゆうによろけかかつて腰をつき、
そそくさと、そそくさと、内隠かくしから山葵色わさびいろの罎びんを取り出し、
こくこくと仰向あふむいて、苦にがさうな口のあたりに持てゆく。

雪がふる……白く……薄青く……

それが罎びんを収しまつて
ひよいと此方こちらを見る。
涙の一杯たまつた眼に
はりのない痲痺まひしきつた笑わらひを洩らしながら、
克明こくめいな霊たましひのかたわれが
ひよつくりこつくり道化だうけた身振に消えてゆく。

ああ、静かな夜よる
何処どこかに幽かに杏仁水きやうにんすゐのにほひがして
疲れた官能が痺れてくる……

濡れたあかしやが銀ぎんの恐怖おそれに光つて、
一ならび青い硝子に反射する――そのほかは
声もせぬ通の長い舗石しきいしのうへを
しびれて了しまつたピアノの顫音せんおんが、
ふる雪の断片が、
活動写真のまたたきのやうに
音もなく瓦斯の光に顫へてゐる。

雪がふる。
Sara …… sara …… sara …… sara …… sara ……
薄ら青い、冷つめたい千万の断片が
落ついた悲哀かなしみの光が、
弊私的里ヒステリーの発作ほつさが過ぎた、そのあとの沈んだ気分きぶんの氛囲気ふんゐきに、
しんみりとしたリズムをつくつて
しづかに降りつもる。
Sara …… sara …… sara …… sara …… sara ……
 四十三年六月
 
  解雪

わが憂愁は溶けつつあり、
黄色きいろく赤くみどりに、
屋根の雪は溶けつつあり、
光りつつ、つぶやきつつ、滴りつつ……

日はすでにまぶしく、
菓子屋の煙突よりは烟けむりのぼり、
病犬は跛ちんば曳きつつ舗石しきいしをゆく、
そのなかに溶けつつあるものの小歌リイド

やはらかによわく、ほそく、
そは裁縫機械ミシンのごとく幽かに、
いそがしく、
さまざまの光を放ちつつ滴したたる。

喪心さうしんのたのしさを聴け。
薄暗き地下室セラの厨女くりやめよ、
湯沸サモワルの湯気の呼吸いき
玉葱のほとりにしづごころなし。

丸の内の三号、
その高き煉瓦より、筧より、また廂より、
かくれたる物の芽に沁みたる無数の宝玉の溶解ようかい
温かに劇薬のながれ湿しとる音楽……

わが憂愁は溶けつつあり、
黄色く、赤く、みどりに、
屋根の雪は溶けつつあり、
光りつつ、つぶやきつつ、滴したたりつつ……
 四十三年六月
 

      青い髯
 
  青い髯

五月ごぐわつが来た。
硝子と乳房との接触せつしよく……桐の花とカステラ……
春と夏との二声楽ヂユエツト、冷めたい冬……

とりあつめた空気の淡うすい感覚に、
硝子戸のしみじみとした汗ばみに、
さうして、私の剃りたての青い面かほの皮膚ひふに、
黄緑くわうりよくの Passion を燃えたたせ、顫はす
日光の痛いたさ、
その眩ぶしい音楽は負傷兵ふしやうへいの鳴らす釣鐘のやうに、
恢復期くわいふくきの精神病患者がかぎりなき悲哀ひあいの Irony に耽けるやうに、
心も身体からだも疲つからした
その翌日あくるひの私の弱い瞼まぶたのうへに、
キラキラとチラチラと苦にがい顫音せんおんを光らす、
強く絶えず、やるせなく……

午前十一時半、
公園の草わかばの傷いたみに病犬びやうけんの黄きいろい奴やつが駈けまわり、
禿げた樹木じゆもくの梢がそろつて新芽しんめを吹く、
螺旋状らせんじやうの臭にほひのわななきと、底力そこぢからのはづみと、
Whiskey の色に泡あわだつ呼吸いきづかひと……
さうして、わかい男の剃りたての面かほの皮膚の下から
青い髯が萠える……

五月が来た。
どこかしらひえびえとした微風びふう
ひらめく噴水ふんすゐの尖端さきからしづれて、
ニホヒイリスや和蘭陀薄荷おらんだはつかのしめりを戦そよがせ、
ぢつと、私が凝視みつむる、
小酒杯リキユグラスの透明な無色むしよくの火酒ウオツカを顫はし、
黄緑くわうりよくの外光ぐわいくわうを浴びた青年の面かほのうへを、
なめらかに砥石といしのやうな青みを、
Poe の頬のやうな手ざはりを、
すいすいと剃刀かみそりのやうに触れる、

私は無言むごんで冷つめたい小酒杯リキユグラスをとりあげ、
しみじみと赤い唇くちびるにあてる……

五月が来た、五月が来た。
くすが萠え、ハリギリが萠え、朴ほうが萠え、篠懸すずかけの並木が萠える。
そうして、私の
新しいホワイトシヤツの下から青い汗あせがにじむ、
植物性の異臭いしゆうと、熱ねつと、くるしみと、……
芽でも吹きさうな身体からだのだらけさ、
(何でもいいから抱きしめたい。)
萠える、萠える、萠える、萠える、
青い髯が
ウオツカの沁み込む熱あつい頬の皮膚ひふから萠える。……

くわつとふりそそぐ日光、
つめたい風、
春と夏との二声楽ヂユエツト、……緑みどりと金きん……
 四十三年五月
 
  五月

新しい烏竜茶ウーロンちやと日光、
渋味もつた紅あかさ、
湧きたつ吐息といき……

さうして見よ、
牛乳にまみれた喫茶店きつさてんの猫を、
その猫が悩ましい白い毛をすりつける
女の膝の弾力だんりよく

なつが来た、
しづかな五月ぐわつの昼ひる、湯沸サモワルからのぼる湯気ゆげが、
紅茶こうちやのしめりが、
さわやかな夏帽子なつばうしの麦稈むぎわらに沁み込み、
うつむく横顔よこがほの薄うすい白粉おしろいを汗あせばませ、
さうしてわかい男をとこの強つよい体臭にほひをいらだたす。

「苦くるしい刹那せつな」のごとく、黄ばみかけて
いたいほど光ひかる白しろい前掛まへかけの女をんなよ。
「烏竜茶ウーロンちやをもう一杯ぱい。」
 四十三年五月
 
  銀座花壇

あかい花はな、小ちひさい花はな、石竹せきちくと釣鐘艸つりがねさう
かなしくよるべなき無智むち……

瓦斯ガスの点いた
勧工場くわんこうばのはいりくち、
明るい硝子棚、紗しやの日被ひよけ
夏は朝から悩ましいのに
花が咲いた……あはれな石竹と釣鐘草つりがねさう

わかい葉柳はやなぎの並木路アベニユ、撒水みづまきした煉瓦道れんぐわみち
そのなかの小ちひさな人口花壇じんこうくわだん
(疲つかれた瞳ひとみの避難所ひなんしよ
その方はう二尺しやくのかなしい区劃しきりに、
なつがきて花はなが咲いた、小ちひさい細ほそい石竹せきちくと釣鐘艸つりがねさう

えず絶えず電車でんしやが通とほる……
おしろい汗あせを吹く草くさの葉に、
裁縫器ミシンの幽かすかな音おとに、
よせかけた自転車じてんしやの銀ぎんのハンドルの反射はんしや
は光ひかり、
かるい埃ほこりが薄うすい車輪しやりんをめぐる……
赤い花、小さい花、石竹と釣鐘草。

さうして女がゆく、
すずしい白しろのスカアト
その手に持つた赤皮あかがはの瀟洒せうしやな洋書ほん
いつかしら汗あせばんだこころに
異国趣味エキゾチツクな五月ぐわつが逝く……
あたらしい銀座ぎんざの夏なつ
かなしくよるべなき人工じんこうの花はな、――石竹せきちくと釣鐘艸つりがねくさ
 四十三年五月
 
  六月

白い静かな食卓布テエブルクロース
その上のフラスコ、
フラスコの水に
ちらつく花、釣鐘草つりがねさう

光沢つやのある粋いきな小鉢の
釣鐘草つりがねさう
汗ばんだ釣鐘草、
紫の、かゆい、やさしい釣鐘草、

さうして噎むせびあがる
苦い珈琲カウヒイよ、
あつい夏のこころに
私は匙を廻す。

高窻の日被マルキイズ
その白い斜面の光から
六月が来た。
その下の都会の鳥瞰景てうかんけい

幽かな響がきこゆる、
やはらかい乳房の男の胸を抑をさへつけるやうな……
苦い珈琲よ、
かきまわしながら
静かに私のこころは泣く……
 四十三年六月
 
  新聞紙

一九一〇、六月ぐわつ、はじめの月曜げつえう
めたい朝あさの七時
つつましい馭者台ぎよしやだいのうへに、
ただひとり爽さわやかに折りかへす新聞紙しんぶんし
みどりの薄うすい反射はんしや……

かすかな鉄分てつぶんをふくんだ空気くうき
まだ青味あをみを帯びた棕梠しゆろの花はな
かよわい薄黄色うすぎいろに光ひかり、
ちらほらと夏帽子なつぼうしの目につく
なつかしいだらだら坂さかの下した
H分署ぶんしよの前まへの通とほり……せはしい電車でんしやの鐸ベル……

撒水夫みづまきの喞筒ポムプを動うごかすさびしさ、
濠端ほりばたの火の消えた瓦斯燈がすとう
白マントルが顫ふるへ、
その硝子ガラスの一点てんに日光につくわうの金きんが光ひかつてる。

わかい馭者ぎよしや
まどのないカキ色いろの囚人馬車しうじんばしや
梧桐あをぎりのかげにひき入れたまま、
しづかに読み耽ふける……

こころもち疲つかれた馬うまの呼吸こきふ……
みじかく刈つた栗毛くりげの光沢つやから沁み出
にほひの奇異ふしぎな汗あせばみ、その上うへにさしかくる
新聞紙しんぶんしの新あたらしい触感しよくかん
わか葉の薄うすい緑みどりの反射はんしや
あたらしい客きやくを待つ間あひだ
やすらかな五分時ふんじが過ぎゆく……
 四十三年六月
 
  畜生

やはらかにかなしきは畜生の
こころなれ。

赤き日はアカシヤのわか葉にけぶり、
蕀肉にんにくの黄なる花ちらちらと噎むせぶとき
怖々おづおづと投げいだし、眠りたる霊たましひ
人間の五官にもわきがたきいと深きかなしみ……
そのゆめはこころもち汗ばみて
きずつきし銀毛ぎんまうの耳に
いたき花粉は沁み、
やるせなき肉体の憂欝いううつ
柔かにかろく魘うなさるれど、
が母を犯したる
たましひの不倫をば知るよしもなし。

五時過ぎて暮ちかき夏の日は
血に染みし呼鈴よびりんの声のごとくふりそそぎ、
なよやかなる風は蜜蜂の褐色かちいろに、
蜜蜂のつぶやきは
かろく花粉を落す。

が微かすかなる寝息は
腐れたる玉葱のにほひにも沁み、
こころよく荒すさみゆく性せいの秘密にや笑ふらん。
ひよりし毛虫の奇異きいなる緑にも
は覚めず……
ひとみぎり園丁の鍬の刃はかなたに光り、
掘りかへさるる土の香の湿潤しめり吹き来る。

あはれ、かかる日に病みて伏す
やはらかにかなしき畜生ちくしやう
とらへがたき微温びをんの、やるせなきそのこころ……
 四十三年六月
 
  隣人

隣人りんじんは露西亜の地主ぢぬしのごとく、
素朴な黒の上衣うはぎに赤木綿のバンドを占め、
長靴を穿き、
禿げた頭あたまのきさくから他よその畑を見回みまはる。

隣人はよく蚕豆そらまめのなかに立ち、
雨に濡れた黄花蕀肉きのはなにんにくを眺める。
“*Ogamadashi, Mauske”自慢らしい手つきで
くはえたパイプの雁首がんくびをぽんとはたく。

隣人は見え坊だ、そりばつてん、
どうかすると吝嗇漢しみつたれだ、
世界苦せかいくの気欝ふさぎから、
馬鈴薯じやがいもを食べすぎた食傷もたれから。

隣人は女房を恐れる、長崎うまれの
肥満女ふとつちよの息の臭い、馬鹿力のある、
それでよく小娘のやうにかぢりつく、
牛肉ビイフと昼寝の好きな飲酒家のんだくれ

隣人は日に一度黒い蒸汽をながめる、
その悲しい面かほに洎芙藍さふらんのやうな
黄いろい日が光り、涙がながれる。
さうして悄然しほしほと御燈明みあかしをあげにゆく。

隣人の宣教師、混血児あひのこのベンさん
気まぐれな禿頭、
青い眼鏡をかけては街まちを歩行あるき、
日曜の日には御説教。

“Changhang-deki no Mariya Sanna
Ne wa yasuka-batten,
utsukushikaken,
Minasan yo ogan de wokinasare.”
   * お精がでます、茂助。
 四十三年六月
 
  雨の気まぐれ

雨はふる。……雨はふる……
やるせない春機発動期しゆんきはつどうきの憂欝病いううつびやう……神経の哀かなしい衰弱……
黄色い胃病患者の腐つた気分にふりそそぐ雨。
私通した小娘こむすめの青い悪阻つわりの秘密と恐怖とにふりそそぐ雨。
泥酔漢のんだくれのおくびと、殺人ひとごろしの温るい計画たくらみとにふりそそぐ雨。

しとしとと、しとしとと、
絶間なく雨はふる、ふりそそぐ、にじむ、曳く、消ゆる、滴したたる。
わが暗い霊たましひの霖雨季りんうきの長いひと月、
日がな終日ひねもす、昼も夜も、一昨日をととひも、昨日きのふも、今日けふ
乱次だらしない雨はふる、ふりそそぐ、にじむ、曳く、消ゆる、滴したたる。
つぱい麦酒ビールのやうな気の抜けた雨。
いそぎんちやくの液しるのむづかゆい雨。
かびくさいインキいろの青い雨。
雨……雨……雨……
雨はふる……雨はふる……
酸敗えかかつた橡とちの葉の繊維せんゐに蛞蝓なめくじの銀線ぎんせんを曳き、
くさい栗の花の白金プラチナを腐らし、
鉄粉てつぷんのやうに光る芝生の土に沁み込み、
青い古池の面おもてに怪あやしい笑わらひを辷らせ、
せうことなしに雨はふる、ふりそそぐ、何時までも何時までも小止をやみなく……

陰気な黴くさい雨、長い雨……日ぐらしの雨……
ともすると疲つかれきつた悲愁かなしみの裏うらから
ほのかな日光の金きんを投げかくる雨。
雨のふる廃園はいゑんの木立の暗くらい緑みどり色の空間スペース
その洞ほらのやうな葉かげの恐怖にふりそそぐ雨。……
折から、ひよいと、花やかに
より身軽みかろなひるがへり、躍り出したる怪のものが
突拍子とつぺしもないひと躍り、……

  Kappore! Kappore!
  Amacha de Kappore!
  Shiwocha de Kappore!
  Yoito na! Yoi! Yoi!

緋のだんだらの尖帽せんばうに戯姿おどけすがたの道化師だうけし
恐ろしきほど真白まつしろく白粉おしろいつけた呆とぼけがほ。

  Oki …… no …… o …… o,
  Kura …… ai …… no …… ni …… i, i,
  Shira …… a …… Ho …… ga …… miyuru,
  Are … wa … Ki …… no … Ku … u, u … ni,
  Ha! Yoito kono korewa no sa!
  A! a! a! a! a!
  Mika …… n …… Bu …… u, u …… ne ……!

目も動かさず、白々しらじらと悪わるく澄ましたくはせ者、
はしやぎくるめく廉やすものの
蓄音機から絞しぼりだす囃はやし――黄色きいろな甲高かんだか
三味しやみの笑わらひに挑いどまれて、
おどけつくした身のひねり、
突拍子とつぺしもないひと躍り……

  Ichi kake, Ni kake, San kake te,
  Shi kake te, Go kake te, Hasyo kake te,
  Kawai Okata wo ……

ふいと消えたる変化へんげもの、
白粉おしろいの濃い、手の白い、素足すあしの白い、
くちびるの赤あかい沈黙ちんもく……

雨はふる……雨はふる……
陰気な黴くさい雨……長い雨……日ぐらしの雨……
気まぐれな不摂生ふせつせいのあとの痛いたましい寂寥さびしみ
幻影イリユージヨンの消え失せた雰囲気ふんゐきの暗くらい緑に、
むづ痒ゆいやうな、気の抜けた、さみしい、弱い、せうことなしの
雨はふる……雨はふる……本能と神経の黄昏時たそがれどき

しとしとと、しとしとと、
絶え間なく雨はふる、ふりそそぐ、葉から葉へ、しとと滴したたる。
深緑しんりよくの闇くらい夜よる――ふる雨の黒いかがやき、
すたれたる橡とちの葉に古池に霊たましひの底の秘密へ、
日がな終日ひねもす、昼間ひるまから、今日けふの朝から、昨日きのふから、遠い日の日の夕ゆふべから、
ふりつづく長い長い憂欝いううつの単音律モノトニー
その青い雨……黴くさい雨……投げやりの雨……
辛気くさい静かな雨、かなしいやはらかな……生温なまぬるい計画たくらみの雨。
雨……雨……雨……
 四十三年六月
 
  葱の畑

さびしい霊たましひが鳴いて居る。
そこここの湿しめつた黒くろい土つちのなかで
ひるの虫むし
かすかな、銀ぎんの調子てうしで鳴いてゐる。

つかれた日光につくわう
五時半ごじはんごろの重おもい空気くうきと、
湯屋ゆやの曇硝子くもりがらすとに、
黄色きいろく濡れて反射はんしやし、
あたらしい臭にほひのなかに弱よわつてゆく。

さびしい霊たましひが鳴いてゐる。

なみのいい樺かばと白の犬が
つるんだまま葱ねぎのなかにかくれてる。
まぶしさうに首だけ覗のぞいて
よどんだ瞳ひとみ
何物なにものをか恐おそれてゐる。――
いきがしづかに茎くきの尖頭さきを顫ふるはす。

何処どこかで百舌もずが鳴きしきる。
つかれた、それでも放縦ほしいまま
三十さんじふぎた病身びやうしんの女をんならしい、
湯屋ゆやの硝子戸がらすどを出ると直
石鹸しやぼんのにほひする身体からだをかがめて
嬰児あかんぼに小便しつこをさしてる。

さびしい霊たましひが鳴いてゐる。……

ははの眼と嬰児あかんぼの眼
一様いちやうに白しろい犬いぬの耳みみに注そそがれる。
可愛かあいいちんぽこから小便しつこが出る。
その尿ねうと、濡れた西洋手拭タヲルと、束髪そくはつと、
無意味むいみな眼つきと、白つぽい葱ねぎの青あをみに、
しみじみと黄色きいろな光ひかりがうつる。

しだいに反射はんしやがうすれて
外光ぐわいくわうが青あをみを帯びた。
煙突えんとつから薄うすい煙けぶりがたなびき
畑々はたけ/\の葱ねぎの尖頭さきには
銀色ぎんいろの露つゆが光ひかつてくる。
そしてなほ、湿しめつた黒くろい土つちのなかでは
さびしい虫むしが、
かすかな昼ひるの調子てうしで鳴いてゐる。

寂しい寂しい寂しい畑。
 四十三年一月
 
  八月のあひびき

八月の傾斜面スロウプに、
美くしき金きんの光はすすり泣けり。
こほろぎもすすりなけり。
雑草の緑みどりもともにすすり泣けり。

わがこころの傾斜面スロウプに、
滑りつつ君のうれひはすすり泣けり。
よろこびもすすり泣けり。
悪縁あくゑんのふかき恐怖おそれもすすり泣けり。

八月の傾斜面スロウプに、
美くしき金きんの光はすすり泣けり。
 四十三年八月
 
  秋

日曜の朝、「秋」は銀かな具の細巻の
絹薄き黒の蝙蝠傘かうもりさしてゆく、
紺の背広に夏帽子、
黒の蝙蝠傘かうもりさしてゆく、

瀟洒にわかき姿かな。「秋」はカフスも新らしく
カラも真白につつましくひとりさみしく歩み来ぬ。
波うちぎはを東京の若紳士めく靴のさき。

午前十時の日の光海のおもてに広重ひろしげ
藍を燻いぶして、虫のごと白金プラチナのごと閃めけり。
かろく冷つめたき微風そよかぜも鹹しほをふくみて薄青し、
「秋」は流行はやりの細巻の
黒の蝙蝠傘さしてゆく。

日曜の朝、「秋」は匂ひも新らしく
新聞紙折り、さはやかに衣嚢かくしに入れて歩みゆく、
寄せてくづるる波がしら、濡れてつぶやく銀砂の、
靴の爪さき、足のさき、パツチパツチと虫も鳴く。

「秋」は流行はやりの細巻の
黒の蝙蝠傘さしてゆく。
 四十四年十月
 
      槍持
 
  おかる勘平

おかるは泣いてゐる。
長い薄明うすあかりのなかでびろうど葵の顫へてゐるやうに、
やはらかなふらんねるの手ざはりのやうに、
きんぽうげ色の草生くさぶから昼の光が消えかかるやうに、
ふわふわと飛んでゆくたんぽぽの穂のやうに。

泣いても泣いても涙は尽きぬ、
勘平さんが死んだ、勘平さんが死んだ、
わかい奇麗な勘平さんが腹切つた……

おかるはうらわかい男のにほひを忍んで泣く、
麹室かうじむろに玉葱の咽せるやうな強い刺戟しげきだつたと思ふ。
やはらかな肌はだざはりが五月ごぐわつごろの外光ぐわいくわうのやうだつた、
紅茶のやうに熱ほてつた男の息いき
抱擁だきしめられた時とき、昼間ひるまの塩田えんでんが青く光り、
白い芹の花の神経が、鋭くなつて真蒼に凋れた、
別れた日には男の白い手に烟硝えんせうのしめりが沁み込んでゐた、
駕にのる前まで私はしみじみと新しい野菜を切つてゐた……

その勘平は死んだ。

おかるは温室おんしつのなかの孤児みなしごのやうに、
いろんな官能くわんのうの記憶にそそのかされて、
楽しい自身の愉楽ゆらくに耽つてゐる。

(人形芝居にんぎやうしばゐの硝子越しに、あかい柑子の実が秋の夕日にかがやき、黄色く霞んだ市街しがいの底から河蒸気の笛がきこゆる。)
おかるは泣いてゐる。
美くしい身振みぶりの、身も世もないといふやうな、
せまつた三味しやみに連れられて、
チヨボの佐和利さはりに乗つて、
泣いて泣いて溺おぼれ死にでもするやうに
おかるは泣いてゐる。

(色と匂にほひと音楽と。
勘平なんかどうでもいい。)
 四十二年十月
 
  雪の日

淡青うすあをい雪は
めたい硝子戸のそとに。……

紫の御召おめしをひきかけた
浜勇は
東の桟敷に。

薄い襟あしの白粉おしろいも見よきほどに
こころもち斜なゝめに坐つて。
うつむき加減かげんにした横顔の
淡青い雪の反射。

静かに曳かれてゆく幕そとの、
立三味線、
仁木の青い目ばりの凄さ。

暮れかかる東京のそらには
ほんのりと瓦斯が点
淡青い雪がふる。

半玉は冷めたい指をそろへて、
引込ひきこみの面つらあかりをながめ、
なにかしらさみしさうに。

淡青い雪は
めたい硝子戸のそとに。

幽かな音、幽かな色、幽かなささやき……
 四十三年七月
 
  種蒔き

パツチパツチと鳴く虫の
昼のさびしさ、つつましさ、……
葱の畑のそこここに銀の懐中時計とけいを閉める音。

けふも彼岸ひがんのあかるさに、
誰に見しよとか、権兵衛は
青い手拭、頬かぶり、
桝を小腋こわきに、ひえびえと畝うねのしめりを踏んでゆく。
うねの光に蒔く種は
かなしみの種、性せいの種、黒稗くろひえの種。

パツチパツチと鳴く虫の
昼のさびしさ、しをらしさ、……
強い日射ひざしのそこここに若いこころの咽むせぶ音。

ほんに一日いちにち齷齪あくせく
歎き足らひで、権兵衛が
青いパツチに縄なはの帯、
及び腰してひとすぢに土の臭にほひを嗅いでゆく
午後ごごの光に蒔く種は
かなしみの種、性せいの種、黒稗くろひえの種。

パツチパツチと鳴く虫の
昼のさびしさ、なつかしさ。……
黒い鴉からすの嘴くちばしに種のつぶれてなげく音。

若い身そらの内密事ないしよごと
ひとり苦に病む権兵衛が、
歩みののろさ、手の痛いたさ、
腰の痛いたみにしみじみと明あかき其夜を泣いてゆく。
ぎんの秘密ひみつに蒔く種は
かなしみの種、性せいの種、黒稗くろひえの種。

パツチパツチと鳴く虫の
昼のさびしさやるせなさ。……
常に啄まれて生れ得ぬ種の、嬰児あかごの、なげく音。

妻も子もない醜男ぶをとこ
何時いつも吝嗇つましい権兵衛が
ひんの盗みか、一擁ひとかゝ
葱を伏せつつ、怖々こは/″\と畝うねの凸たかみを凝視みつめゆく、
伏せたこころに蒔く種は
かなしみの種、性せいの種、黒稗くろひえの種。

パツチパツチと鳴く虫の
昼のさびしさおそろしさ。……
黒い眼玉が背後うしろからぢつと睨んで歩む音。

よくのつかれか、冷汗ひやあせか、
金が唸うなれば権兵衛の
野暮やぼな胸さへしみじみと、
きんの入日の凌雲閣じふにかいいたみながらに蒔いてゆく。
けふの恐怖おそれに蒔く種は
かなしみの種、性せいの種、黒稗くろひえの種。

パツチパツチと鳴く虫の
昼のさびしさ、情なさけなさ。……
黒い鴉からすにつぶされて種の凡すべての滅ゆる音。
 四十三年十月
 
  忠弥

雪はちらちらふりしきる。

城の御濠おほりの深みどり、
雪を吸ひ込む舌うちの
しんしんと沁むたそがれに、
鴨の気弱きよわがかきみだす
水の表面うはべのささにごり
知るや知らずや、それとなく
小石投げつけ、――
ひつそりと底のふかさをききすます
わかき忠弥か、わがおもひ。

君が秘密の日くれどき、
ひとり心につきつめて
そつとさぐりを投げつくる
深き恐怖おそれか、わが涙――
千万無量の瞬間たまゆら
雪はちらちらふりしきる。
 四十五年十一月
 
  歌うたひ

悲しいけれどもわしや男、
いやでもお酒をさがしませう、
赤いセエリイもないならば
飲んだふりして就寝やすみませう。
みすぎ世すぎの歌うたひ。
 四十三年十一月
 
  槍持

槍は鏽びても名は鏽びぬ、
殿とのにつきそふ槍持の槍の穂尖ほさきの悲しさよ。

槍は槍持、供揃ともぞろへ
さつと振れ、振れ、白鳥毛。

けふも馬上の寛濶くわんくわつに、
殿は伊達者だてしやの美い男、
三国一の備後様、
しんととろりと見とれる殿御とのご
槍は槍持、銀ぎんなんぽ。
ともの奴やつこさへこのやうに、あれわいさの、これわいさの、取りはづす、
やあれ、やれ、危あぶなしやの、槍のさき。

槍は鏽びても名は鏽びぬ、
殿のお微行しのび、近習きんじゆまで
身なりくづした華美はでづくし、
槍は九尺の銀なんぽ、
けふも酒、酒、明日あすもまた、
通ふしだらの浮気うはきづら、
わたる日本橋ちらちらと雪はふるふる、日は暮れる、
やあれ、やれ冷つめたしやの、槍のさき。

槍は槍持、供ぞろへ、
さつと振れ、振れ、白鳥毛。

雪はふれども、ちらほらと
河岸かしの問屋の灯が見ゆる、
さてもなつかし飛ぶ鴎かもめ
壁のしたには広重ひろしげの紺のぼかしの裾模様、
殿の御容量ごきりやうに、ほれぼれと
わたる日本橋、槍のさき、
槍は担かつげど、空うはのそら、渋面しふめんつくれど供奴ともやつこ
ぴんとはねたる附髭つけひげに、雪はふるふる、日は暮れる。
やあれ、やれ、やるせなの、槍のさき。

槍は槍持、供ぞろへ、
さつと振れ、振れ、白鳥毛。

槍は鏽びても名は鏽びぬ。
殿につきそふ槍持の槍の穂さきの悲しさよ。
いつも馬上の寛濶に、
殿は伊達者のよい男、
さぞや世間せけんの取沙汰に
浮かれ騒ぐも女なら。
そこらあたりの道すぢの紺の暖簾のれんも気がかりな。
槍は九尺の銀なんぽ、
槍を持つ身のしみじみと、涙流すもつとめ故、
さりとは、さりとは、供奴ともやつこ
雪はふるふる、日は暮れる。
やあれ、やれ、しよんがいなの、槍のさき。
 四十五年三月
 
  CHONKINA.

“Chonkina! chonkina!
Chon-chon kina-kina!
Chon ga nanoso de,
Cho-chon ga yoi! ……”

「赤あかい夕日ゆふひ
活動写真くわつどうしやしんたいなキラキラが、あのやうに、あれ、御覧ごらんな。
お向むかふの三層楼さんがいの高たかい部屋へやの障子しやうじに、何時いつまでも何時いつまでも照りつける辛気しんきくささ、
まきや、長襦袢ながじゆばんの、
如何どうしたんだらうねえ、まあ、
両肌りやうはだなんか脱いだりさ、
欄干てすりに腰こしかけたり、跨またいだり、
自堕落じだらくな、あれさ、落おつこつたらどうするの、
まぐれも大概たいがいになさいなね、
あれ、あの手も真赤まつかな狐拳きつねけん!」

“Chon-aiko! chon-aiko! ……”

「華魁おいらん、ちよいと、御覧ごらんなさいな、
しさし振ぶりで裏門うらもんが開いたと思おもつたら、
大変たいへんですわねえ、あれ、あんなに水みづが、
随分ずゐぶんしどい音おとだこと、
どてをもう越したんですとさ。
竜泉寺りゆうせんじ、山谷さんや、今戸いまどのわたし、
そりやもう大変たいへんな騒さわぎよ、
おやおや、まあ、素つ裸ぱだかで、
揚屋町あげやまちの通とほりを伝馬てんまかついで奔はしるなんて
ぎんちやん、威勢ゐせいがいいことねえ。」

“Chon-aiko! chon-aiko! ……”

「華魁おいらん、何なにをそんなに見てお出でなの、
くよくよとさ、
黄色きいろいふたつの高張たかはり
あかい日が、あのやうに射しかけて、
ぴちやぴちやと濁水にごりみづが凄すごいわねえ、
あら、ちよいと、そんな処とこ
おちんこなんか捲くるもんぢやありませんつたら、
小児こどもは罪つみが無ないことねえ、ほほほ。まあ。」

“Chonkina! chonkina!
Chon-chon, kina-kina,
Chon ga nanoso de,
Cho-chon ga yoi,
Aiko de yoi,……
Chon-aiko! chon-aiko ……”

吉原よしはらの中店ちうみせ
お職しよく「小主水こもんど」とて、愁うれひ顔かほの寥さみしい、
どうしたことやら、
白粉おしろいもまだつけぬ青あをいいろの、
なつかしい眼つきの女をんな
つかれたやうに、藍色あゐいろの薄うすいネルを着ながして
新造しんぞうと二人ふたり
――ひとりは立膝――
華魁おいらんは灯のつかぬ五時ごじごろの
薄暗うすぐらい角店かどみせの二重にぢゆうに腰こしかけて、
なにとやら澄まぬ顔かほ
ひだりの人ひとさし指ゆびの薄うすい繃帯ほうたい
きんいろの背後うしろの附立ついたてが、
支那彫しなぼりの唐獅子からししの、
つめたい光ひかりを投げかくる。
そのさだまらぬ陰影かげのかげの
そのなかの幽かすかなためいき……

“Chonkina! Chonkina! ……”

格子戸越かうしどごしに、赤あかい日
たかい屋並やなみの不思議ふしぎな廂ひさしにてりかへし、
洪水こうすゐの音おとがきこえる。
欄干てすりでは何時いつまでも何時いつまでも
まぐれな狐拳きつねけん

“Chon-aiko! chon-aiko,
Chon-chon aiko-aiko,
Chon ga nanoso de
Cho-chon ga yoi ……”

“Chonkina! chonkina! ……”
 四十三年七月
 
  鬼百合

夏の日の東京に
歌沢うたざはのこころいき……

しみじみと身にしみて
きく年増としま
すらりとした立姿たちすがた
中形の薄青さ、
それしやの粋いきなこころに。

日がそそぐ……銀色ぎんいろのきりぎりす
浮気男うはきをとこを殺した
昼寝ひるねの夢の凄さ、
たてひきの憎にくさ、
かなしさ、つらさ、くるしさ、
日がそそぐ……わかいお七の半鐘か、死ぬるきりぎりすか。
ぎんの光の細かな強いすすりなき。

大河おほかはをまへに、
くちに啣くはえた帯留の金きん――
手をうしろにまはして、
あつさうなものごしの、
なにかしら寂さみしさうに、
きりきりと締め直す黒い繻子しゆすの一筋ひとすぢ

けだるげな三味線が
あれ、またもあのやうに、……
青みもつ目のふちの疲つかれから
なにを見るとなし熟視みつむる
黒い瞳の深さ、
いも甘いも噛みわけた
中年ちゆうねんの激しい衝動シヨツク……その底のさみしさ、つらさ、かなしさ。

黒い繻子の手ざはりが
きゆつ、きゆつと……

暑い、苦しい、くるしい日、
渋い鬼百合の赤さ、
あざやかな臭にほひの強さ、
湿しめつた褐色かちいろの花粉くわふん
こまかにちる……背後うしろの床の間の大輪たいりん

さはる帯の繻子、やはらかな粉こな
こころもきゆつきゆつと……

夏の日のさる河岸に
歌沢のこころいき。

ええまあ、
奈何どうすりや宜いつてんだらうねえ。
 四十三年七月
 
  道化もの

ふうらりふらりと出て来るは
ルナアパークの道化だうけもの、
ふくは白茶しらちやのだぶだぶと戯おどけ澄ました身のまわり、
あつち向いちやふうらふら、
こつち向いちやふうらふら、
緋房のついた尖とんがり帽子がしをらしや。

鉛粉おしろい真白まつしろけで丸まるふたつ
頬紅ほべにさいたるおどけづら、
まるい眼ばりもくるくると今日けふも呆とぼけた宙がへり。
かなしやメエリイゴラウンド、
さみしや手品の皿まわし、
春の入日の沈丁花ちんちやうげがどこやらに。

ひとが笑へばにやにやと、
猫のなきまね、烏啼き、
たまにやべそかき赤い舌、嘘か、色眼いろめか、涙顔。
鳴いそな鳴いそ春の鳥、
鳴いそな鳴いそ春の鳥、
紙の桜もちらちらとちりかかる。

薄むらさきの円弧燈アークとう
瓦斯と雪洞ぼんぼり、鶴のむれ、
石油のヱンヂンことことと水は山から逆さかおとし、
台湾館の支那の児
足の小さな支那の児、
しよんぼり立つたうしろから馬鹿囃子ばかばやし

ぬうらりしやらりと日が暮れて
またも夜となる、道化もの、
あかい三角帽をちよいと投げてひよいと受けたら禿頭はげあたま
あつち向いちやくうるくる、
こつち向いちやくうるくる、
御愛嬌ごあいきやうか、またしてもとんぼがへり。
 四十四年三月
 
  あそびめ

たはれをのかずのまにまに
じだらくにみをもちくづし、
おしろいのあをきひたひに
ねそべりてひるもさけのみ、
さめざめとときになみだし、
ゆふかけてさやぎいづとも、
かなしみはいよよおろかに、ながねがひいよよつめたし。
あはれよのしろきねどこの
まくらべのベコニヤのはな。
 四十五年五月
 
  南京さん

リイさん、鄭さん、支那服さん、
あなたの眼鏡はなぜ光る、
涙がにじんで日に光る。
鳥屋の硝子も日に光る。
目白、カナリヤ、四十雀、
鶉に文鳥に黒鶫くろつぐみ
鳥もいろいろあるなかに
おかめ鸚哥いんこはおどけもの
れて頓狂に啼きさけぶ。
さてもいとしや、しをらしや、
けふも入日があかあかと
わかい南京ナンキンさんは涙顔。
 四十四年十月
 
  蝮捕り

旅のすがたの蝮まむし捕り。
紺の脚絆に紺の足袋、
紺の小手あて、盲縞めくらじま
羽織、腹掛しやんとして草鞋つつかけ忍びあし。

わかい男の忍びあし、
まがひパナマに日が射せば、
にがみばしつた横顔のことにつやつや蒼白く、
ほそく割いたる青竹に蝮挟みてなつかしく、
渚のほとり、草土手の曼珠沙華さくしたみちを、
九月午後ひるすぎ、忍びあし。

静かにゆるき潮鳴しほなりは、
夏と秋との伴奏ともあはせ
五十三次、広重ひろしげの海の匂もまだ熱く、
眉にかがやく忍びあし、……
蝮の腹もいと青く。

けふのこの日の蝮捕り、――
渡りあるきの生業なりはひの昨日きのふの疲つかれ、
明日の首尾しゆび
案じわづらふ足もとに飛んで跳ねたはきりぎりす。
疲れた三味が鳴るわいな。

意気な年増の手ずさみか、
取り残された避暑客の後あとの一人の爪弾か、
離縁られた人か、死ぬ人か、
思ひなしかは知らねども、
昨日あがつた心中の男女をとこをんなの忍び泣き、……
あれ三味が鳴る、昼日なか、
知らぬ都のふしまはし。

わかい吐息の忍びあし、
そつと留とゞめて、聞惚れて、なにをおもふや、うつとりと、
蝮の腹の青縞の博多帯めくつややかさ、
きゆつきゆと白き指つけて、拭きつ、さすりつ、薄笑みつ、
九月、午後ひるすぎ、日の光――
こころの縞もいと青く。

蝮よ、蝮よ、やはらかな、熱あつい冷つめたい手触てさはりの、
そなたも三味にきき惚れて身をうねらすや、やるせなく、……
平首ひらくび、竹に挟まれて、されどゆかしく、あどけなく、
無心に瞠みはる眼のいろは空と海との水あさぎ。
蝮よ小さい尾のさきの、匂の肌をつまぐれば、
毒ある汗はいきいきと、神経のごと細こまやかに、
朱の斑なまめく褐くりと黄の波斯ペルシヤ模様の美くしさ、
それか、怪しき淫たはれ女
ねやの麝香じやかうの息づかひ。

九月午後ひるすぎ、日の光――
あれ三味が鳴る、きりぎりす、
飛んで死んだがましかいな。
 四十四年九月
 
      雪と花火
 
  夜ふる雪

蛇目じやのめの傘かさにふる雪ゆき
むらさきうすくふりしきる。

そらを仰あふげば松まつの葉
しのびがへしにふりしきる。

さけに酔うたる足あしもとの
うすい光ひかりにふりしきる。

拍子木ひやうしぎをうつはね幕まく
とほいこころにふりしきる。

おもひなしかは知らねども
えぬあなたもふりしきる。

河岸かしの夜ふけにふる雪ゆき
蛇目じやのめの傘かさにふりしきる。

みづの面おもてにその陰影かげ
むらさき薄うすくふりしきる。

さけに酔うたる足もとの
よわい涙なみだにふりしきる。

こゑもせぬ夜のくらやみを
ひとり通とほればふりしきる。

思ひなしかはしらねども
こころ細かにふりしきる。

蛇目じやのめの傘にふる雪は
むらさき薄くふりしきる。

  柳の佐和利

ほの青あをい雪ゆきのふる夜に、
電車でんしやみちを、
つて、酔つて、酔つぱらつてさ、ひよろひよろと、
ふらふらと、凭もたれかかれば、硝子戸がらすどに。
Yoi! …… Yoi! …… Yoitona! ……

ほの青あをい雪ゆきはふり、
みせのなかではしんみりと柳やなぎの佐和利さわり
つて、酔つて、酔つぱらつてさ、ふらふらと、
ひよろひよろと首くびをふれば太棹ふとざをが……
Yoi! …… Yoi! …… Yoitona! ……

ほの青あをい雪ゆきの夜
蓄音機ちくおんきとは知つたれど、きけばこの身が泣かるる。
つて酔つて酔つぱらつてさ、ひよろひよろと、
ふらふらと投げてかかれば、その咽喉のどが……
Yoi! …… Yooi! …… Yoitona! ……

ほの青あをい雪ゆきのふる
ひとひとり通とほらぬこの雪ゆきに、まあ何なんとした、
つて酔つて酔つぱらつてさ、ふらふらと、
ひよろひよろと、しやくりあぐれば誰やらが、
Yoi! …… Yoi! …… Yoitona! ……
 四十四年一月
 
  春の鳥

鳴きそな鳴きそ春の鳥、
昇菊の紺と銀との肩ぎぬに。
鳴きそな鳴きそ春の鳥、
歌沢うたざはの夏のあはれとなりぬべき
大川の金きんと青とのたそがれに。
鳴きそな鳴きそ春の鳥。
 四十三年四月
 
  かるい背広を

かるい背広を身につけて、
今宵こよひまたゆく都川、
恋か、ねたみか、吊橋の
瓦斯の薄黄うすぎが気にかかる。
 四十三年七月
 
  薄あかり

ぎんの時計のつめたさは
薄らあかりのⅦしちの字に、
君がこころのつめたさは
河岸かしの月夜の薄あかり。

薄いなさけにひかされて、けふもほのかに来は来たが、
心あがりのした男、何のわたしに縁があろ。

空の光のさみしさは
薄らあかりのねこやなぎ、
歩むこころのさみしさは
雪と瓦斯との薄あかり。

思ひ切らうか、切るまいか、そつと帰ろか、何とせう。
いつそあの日のくちつけを後のちのゆかりに別れよか。

水のにほひのゆかしさは
薄らあかりの鴨の羽、
三味のねじめのゆかしさは
遠い杵屋の薄あかり。

かるい背広を身につけてじつと凝視みつむる薄あかり。
薄い涙につまされて、けふもほのかに来は来たが。

銀の時計のつめたさは
薄らあかりのⅦの字に、
君がこころのつめたさは
青い月夜の薄あかり。

恋か、りんきか、知らねども、ほんに未練な薄あかり。
思ひ切らうか、たづねよか、ええ何とせう、しよんがいな。
 四十三年三月
 
  金と青との

金と青との愁夜曲ノクチユルヌ
春と夏との二声楽ドウエツト
わかい東京に江戸の唄、
陰影かげと光のわがこころ。
 四十三年五月
 
  雨あがり

やはらかい銀の毬花ぼやぼやの、ねこやなぎのにほふやうな、
その湿しめつた水路すゐろに単艇ボートはゆき、
書割かきわりのやうな杵屋きねや
うらの木橋に、
紺の蛇目傘じやのめをつぼめた、
つつましい素足のさきの爪革つまかはのつや、
薄青いセルをきた筵若の
それしやらしいたたずみ……

ほんに、ほんに、
黄いろい柳の花粉のついた指で、
ちよいと今晩こんばんは、
なにを弾かうつていふの。
 四十三年七月
 
  水盤

そなたの移した水盤すゐばんに、
薄い硝子の水の
かすかな光、
新内のながしも通るのに、
ほんとに睡ちやつたの。

そなたの冷めたい手は
わたしの胸に、
薄いセルは
かすかな涙に、
ほんとに睡ちやつたの。

そなたの寝息は
桐の花のやうに、
やるせないこころをそそのかし、
とらへかぬる微かすかな光。
ほんとに睡ちやつたの。

そなたのけふ入れた緋鮒ひぶなか、
それとも陶器やきものの金魚かしら、
なにかしら寂さみしい力ちから
薄い硝子に触さはるやうな……
ほんとに睡ちやつたの。

そなたの知つてる男は
みんな薄情ものだ。
さうしてそなたが眠むつてから
何時でもこんな風にささやく、
ほんとに睡ちやつたの。
 四十三年七月
 
  心中

あはれなる心中のうはさより
わが霊たまは泣き濡れてかへりゆく、
花つけしアカシヤの並木のかげを、
なよやかなる七月のおとづれのごとく。

やすらかに平準らされしこころは
あるものの抑圧おさへのかげにありて、
つねにかかる微顫ふるへをこそのぞみたれ。
いみじく幽かなるその Liedリイド よ。

きやすき花粉くわふんのしめりのごとく、
そはまた眶まぶたの汗のごとくに顫ふるへやすし。
護謨輪ごむわのゆけばためらひ、
吊橋の淡黄うすきなる瓦斯がすのもとを泣きゆく。

新道しんみちを抜けては
檞の芽のむせびをあはれみ、
御神燈のかげをば
それしやの浴衣ゆかたともすれちがふ。

とある河岸かしのおでんやには
寄席よせのビラのかなしく、
薄汗うすあせの光る紙に
水菓子の色透くがいとほし。

あはれなる心中のうはさより
わが霊たまは泣き濡れてかへりゆく、
微風そよかぜの吹くままに過ぎゆく
なよやかなる七月のおとづれのごとく。
 四十三年七月
 
  花火

花火があがる、
ぎんと緑の孔雀玉くじやくだま……パツとしだれてちりかかる。
紺青の夜の薄あかり、
ほんにゆかしい歌麿の舟のけしきにちりかかる。

花火が消ゆる。
薄紫の孔雀玉……紅あかくとろけてちりかかる。
Toron …… tonton …… Toron …… tonton ……
色とにほひがちりかかる。
両国橋の水と空とにちりかかる。

花火があがる。
薄い光と汐風に、
義理と情なさけの孔雀玉くじやくだま……涙しとしとちりかかる。
涙しとしと爪弾つまびきの歌のこころにちりかかる。
団扇片手のうしろつきつんと澄ませど、あのやうに
舟のへさきにちりかかる。

花火があがる、
ぎんと緑みどりの孔雀玉……パツとかなしくちりかかる。
紺青こんじやうの夜に、大河に、
夏の帽子にちりかかる。
アイスクリームひえびえとふくむ手つきにちりかかる。
わかいこころの孔雀玉くじやくだま
ええなんとせう、消えかかる。
 四十四年六月
 
  放埒

放埒はうらつのかなしみは
ひらき尽くせしかはたれの花の
いろの、にほひの、ちらんとし、ちりも了らぬあはひとか。

かかる日の薄明はくめいに、
しどけなき恐怖おそれより蛍ちらつき、
女の皮膚ひふにシヤンペンの香にほひからめば、
そは支那の留学生もなげくべき
尺八の古き調子てうしのこころなり。

うら若き芸妓げいしやには二上りのやるせなく、
中年ちゆうねんの心には三さんの糸下げて弾くこそ、
げて弾くこそわりなけれ。

かくて、日のありなし雲の雨となり、
そそぐ夜にこそ。
おしろい花ばなのさくほとり、しんねこの幽かすかなる
を泣くべけれ。

放埒はうらつのかなしみは
ひらき尽くせしかはたれの花の
いろの、にほひの、ちらんとし、ちりも了らぬあはひとか。
 四十三年八月
 
  紫陽花

かはたれに紫陽花あぢさゐの見ゆるこそさみしけれ。
うらわかき盲人まうじんのいろ飽あくまで白く、
そのほとりに頬を寄するは――
かろくかさねし手のひらの弾はぢく爪さき、それとなく
隆達りゆうたつぶしの唱歌など思ひ出づるはいとかなし。

誰かつくりし恋のみち、いかなる人も踏み迷ふ……
よしやわれにも情なさけあれ。寮の日くれの、あ、もの憂や、
なんとせうぞの。蜩かなかなの金きんの線条はりがねふるはす声も、
えんさへあらばまたの夕日ゆふひにチレチレ
またの夕日に時雨しぐるる。

おはぐろどぶのかなしみは
岐阜堤燈ぎふぢやうちんのかげうつる茶屋のうしろのながし湯の
石鹸しやぼんのにほひ、黴かびの花、青いとんぼの眼の光。

よひやみの、よひやみの、
いづこにか、赤い花火があがるよの、
おとはすれども、そのゆめは
見えぬこころにくづるる……

ほのかにも紫陽花あぢさゐのはな咲けば、
あらたにかけし撒水うちみづ
のうつりゆくしたたり、
さて、消えやらぬ間の片恋。
 四十三年八月
 
  カナリヤ

たつた一言ひとこときかしてくれ。
カナリヤよ、
たんぽぽいろのカナリヤよ、
ちろちろと飛びまはる、ほんに浮気なカナリヤよ。
おしやべりのカナリヤよ。
たつた一言ひとこときかしてくれ、
丁度ちやうど、弾きすてた歌沢の、
三の絃いとの消ゆるやうに、
「わたしはあなたを思つてる。」と。

  彼岸花

憎い男の心臓を
針で突かうとした女、
それは何時いつかのたはむれ。

昼寝のあとに、
ハツとして、
けふも驚くわが疲れ。

憎い男の心臓を
針で突かうとした女、――
もしや棄てたら、キツとまた。

どうせ、湿地しめぢ
彼岸花、
蛇がからめば
身は細そる。

赤い、湿地しめぢ
彼岸花、
午後の三時の鐘が鳴る。
 四十四年十一月
 
  もしやさうでは

もしやさうではあるまいかと
思うても見たが、
なんの、そなたがさうであろ、
このやうなやくざにと、――
胸のそこから血の出るやうな
知らぬ偽いつはりいうて見た。

雪のふる日に
赤い酒をも棄てて見た。
知らぬふりして、
ちんからと
鳴らしたその手でさかづきを。
 四十四年十一月
 
  片足

花が黄色で、芽がしよぼしよぼで、
見るも汚きたない梅の木に
小鳥とまつて鳴くことに、――
あれ、あの雪の麦畑むぎばたの、つもつた雪のその中に、
白い女の片足が指のさきだけ見えて居る。

はつと思つて佇めば、
小鳥逃げつつ鳴くことに、――
何時いつか憎いと思うたくせに、
卑怯未練な、安心さしやれ、
あれは誰かの情婦いろでもなけりや、
女乞食の児でもない。
一軒となりの杢右衛門もくよむどんの
唖の娘が投げすてた白い人形の片足ぢや。
 四十四年十二月
 
  あらせいとう

人知れず袖に涙のかかるとき、
かかるとき、
ついぞ見馴れぬよその子が
あらせいとうのたねを取る。
丁度誰かの為るやうに
ひとり泣いてはたねを取る。
あかあかと空に夕日の消ゆるとき、
植物園に消ゆるとき。
 四十三年十月
 
 あかい夕日に

あかい夕日につまされて、
酔うて珈琲店カツフヱを出は出たが、
どうせわたしはなまけもの
明日あすの墓場をなんで知ろ。
 四十三年十月
 
      銀座の雨
 
  銀座の雨

雨……雨……雨……
雨は銀座に新らしく
しみじみとふる、さくさくと、
かたい林檎の香のごとく、
舗石しきいしの上、雪の上。

黒の山高帽やまたか、猟虎ラツコの毛皮、
わかい紳士は濡れてゆく。
蝙蝠傘かうもりの小さい老婦も濡れてゆく。
……黒の喪服と羽帽子はねばうし
いた娘の蛇目傘じやのめがさ
しみじみとふる、さくさくと、
雨は林檎の香のごとく。

はだか柳に銀緑ぎんりよく
冬の瓦斯点くしほらしさ、
棚の硝子にふかぶかと白い毛物の春支度。
肺病の子が肩掛の
弱いためいき。
波斯ペルシヤの絨氈じゆたん
洋書ほんの金字きんじは時雨しぐれの霊たまし
Henriアンリイ De Regnierレニエ が曇り玉たま
息ふきかけてひえびえと
雨は接吻きつすのしのびあし、
さても緑の、宝石の、時計、磁石のわびごころ、
わかいロテイのものおもひ。
絶えず顫へていそしめる
お菊夫人の縫針ぬいばりの、人形ミシンのさざめごと。
雪の青さに片肌ぬぎの
たぼもつやめく髪の型かた、つんとすねたり、かもじ屋に
紺は匂ひて新らしく。
白いピエロの涙顔。
熊とおもちやの長靴は
児供ごころにあこがるる
サンタクロスの贈り物。
そとはしとしと淡雪うすゆき
沁みて悲しむ雨の糸。

雨は林檎の香のごとく
しみじみとふる、さくさくと、
ドアを透かしてふる雨は
Verlaineヴエルレエイヌ の涙雨、
赤いコツプに線すぢを引く、
ひとり顫へてふりかくる
からい胡椒に線すぢを引く、
されば声出す針の尖さき、蓄音器屋にチカチカと
廻るかなしさ、ふる雨に
酒屋の左和利、三勝もそつと立ちぎく忍び泣き。
それもそうかえ淡雪うすゆき
光るさみしさ、うす青さ、
白いシヨウルを巻きつけて
鳥も鳥屋に涙する。
椅子も椅子屋にしよんぼりと
白く寂しく涙する。
猫もしよんぼり涙する。
人こそ知らね、アカシヤの
性の木の芽も涙する。

雨……雨……雨……
雨は林檎の香のごとく
冬の銀座に、わがむねに、
しみじみとふる、さくさくと。
 四十四年十二月
 
  雪

雪でも降りさうな空あひだね、今夜も
ほら、もう降つて来たやうだ、その薄い色硝子を透かして御覧。
なつかしい円弧燈アークとうに真白なあの羽虫のたかるやうに
こまかなセンジユアルな悲しみが、向ふの空にも、
橋にも柳にも、
水面にも、
書割のやうな遠見の、黄色い市街の燈にも、
多分冷たくちらついてゐる筈だ。それとも積つたかしら。
幽かな囁き……幽かなミシンの針の
薄い紫の生絹きぎぬを縫ふて刻むやうな、
色沢いろつやのある寂しいリズムの閃めきが、
そなたの耳にはきこえないのか……湯から上つて、
もう一度透かして御覧、乳房が硝子に慄へるまで。

曇つたのぼせさうな湯殿に、
白い湯気のなかに、
蛍が飛ぶ……燐のにほひの蛍が、
ほうつほうつと……あれ銀杏がへしの
つんと張つた鬢のうらから
肩から、タオルからすべつて消える。
ほうつほうつと。

さうではない、さうではない、
すらりとした両ふたつのほそい腕から、
手の指の綺麗な爪さきの線まで、
何かしら石鹸シヤボンが光つて見えるのだ、さうして
魔気のふかい女の素はだかの感覚から
忘れた夏の記憶が漏電する。
ほうつほうつと蛍が光る。
不思議な晩だ、まだ鋏を取つたまま
何時までも足の爪を剪つてゐるのか、お前は
洎芙藍湯サフランゆの温かな匂から、
香料のやはらかななげきから、
おしろいから、
夏の日のあめも美しく
女は踊る、なつかしいドガの Dancer

雪がふる……降つてはつもる……
しめやかな悲しみのリズムの
しんみりと夜ふけの心にふりしきる……
ほうつほうつと、蛍が飛ぶ……
あれごらんな、綺麗だこと、
青、黄、緑、……さうしてうすいむらさき、
雪がふる……降つてはつもる……
そつとしておきき、何処かでしめやかな三味線が、
あれ、もう消えて了つた、鳴いたのは水鳥かしら、
硝子を透してごらん、小さな赤い燈が
ゆつくらと滑つてゆく、河上の方に
紀州の蜜柑でも積んで来たのかしら……
何だか船から喚んでるやうな……
ひつそりとしたではないか、
もう一度、その薄い硝子からのぞいて御覧、
恐らく紺いろになつた空の下から、
遠見の屋根が書割のやうに
白く青く光つて
疲れた千鳥が静な水面に鳴いてる筈だ。
サラリとその硝子を開けて御覧……
スツカリ雪はやんで
星が出た、まあ何て綺麗だらうねえ、
あれ御覧、真白だ、真白だ。
まるでクリスマスの精霊のやうに、
ほんとに真白だねい。
 四十四年十一月
 
  冬の夜の物語

女はやはらかにうちうなづき、
男の物語のかたはしをだに聴き逃のがさじとするに似たり。
外面そともにはふる雪のなにごともなく、
水仙のパツチリとして匂へるに薄荷酒はつかさけ青く揺ゆらげり。
男は世にもまめやかに、心やさしくて、
かなしき女の身の上になにくれとなき温情を寄するに似たり。
すべて、みな、ひとときのいつはりとは知れど、
かたみになつかしくよりそひて、
ふる雪の幽かなるけはひにも涙ぐむ。

女はやはらかにうちうなづき、
湯沸サモワルのおもひを傾けて熱あつき熱あつき珈琲を掻きたつれば、
男はまた手をのべてそを受けんとす。
あたたかき暖炉はしばし息をひそめ、
ふる雪のつかれはほのかにも雨をさそひぬ。

遠き遠き漏電と夜の月光。
 四十四年一月
 
  キヤベツ畑の雨

ひえびえと雨が、さ霧ぎりにふりつづく、
キヤベツのうへに、葉のうへに、
雨はふる、冬のはじめの乳緑の
キヤベツの列れつに葉の列に。

あまつさへ、柵の網目の鉄条はりがね
白い鳥奴とりめが鳴いてゐる。
雨はふる、くぐりぬけてはいきいきと、
色と匂を嗅ぎまはる。

ささやかな水のながれは北へゆく。
キヤベツのそばを、葉のしたを、
雨はふる。路もひとすぢ、川下かはしも
まちも新らし、石の橋。

キヤベツ畑のあちこちに
かがみ、はたらき、ひとかかえ
野菜かついではしるひと、
雨はふる。けふもあをあを夏帽子。

小父をぢさんが来る、真蒼まつさをに、脚あしも顫へて、
お早うがんす。山楂子さんざしの芽もこわごわと
泥にまみるる。立ちばなし。
雨はふる。しつかと握る水薬の黄色の罎の鮮やかさ。

「阿魔あまつ子がね昨夜ゆんべさ、
いいらぶつ吃驚たまげた真似まね仕出しでかし申してのお前まへさま。」
雨はふる。光ひかつては消ゆる、剃刀かみそり
咽喉のどを突いた女の頬。

「だけんどどうかかうか生きるだらうつて、
医者どんも云やんしたから。」まづは安心と軍鶏屋しやもやの小父をぢさん
胸をさすればキヤベツまで
ほつと息する葉の光。

鳥が鳴いてる……冬もはじめて真実しんじつ
雨のキヤベツによみがへる。
濡れにぞ濡れて、真実に
色も匂もよみがへる。

新らしい、しかし、冷つめたい朝の雨、
キヤベツ畑の葉の光。
雨はふる。生きて滴したゝる乳緑の
キヤベツの涙、葉のにほひ。
 四十四年一月
 
  蕨

春と夏とのさかひめに
生絹きぎぬめかしてふる雨は
それは「四月」のしのびあし、
過ぎて消えゆく日のうれひ。

蕨の青さ、つつましさ、
花か、巻葉か、知らねども、
その芽の黄きなさ、新らしさ……
庭の井戸から水揚げて、
しみじみと撰る手のさばき、
見るもさみしや、ふる雨に。

ひとりは庭のかたすみに、
印半纏着てかがみ、
ひとりはほそき角柱かくばしら
しんぞ寥さみしう手をあてて、
朝のつかれの身をもたす
古い宿場の青楼かしざしき

しとしとしととふる雨に
柱時計の羅馬字も
ふたも冷つめたし、しらじらと
針のⅣを差すその面おもて

ひとりはさらに水あげて、
さつと蕨の芽にそそぎ、
ひとりはじつと眼をふせて、
楊枝やうじつかへり弊私的里ヒステリー
朝のつかれの身だしなみ。

空と海との燻いぶし銀ぎん
けふの曇りにふる雨は
それは涙のしのびあし、
青い台場の草の芽に
みて「四月」も消えゆくや、
帆かけた船も、白鷺も
ましてさみしやふる雨に。

もののあはれにふる雨は、
さもこそあれや、早蕨さわらび
その芽に茎に渦巻きて
はやも「五月」は沁むものを
なにかさみしきそのおもひ。

春と夏とのさかひめに
生絹きぎぬめかしてふる雨は
それは「四月」のしのびあし、
過ぎて消えゆく日のうれひ。
 四十四年四月
 
  涙

蒼ざめはてたわがこころ、
こころの陰かげのひとすぢの
神経の絃いとそのうへに、
薄明ツワイライトのその絃いとに、

薄明ツワイライトのその絃いとに、
ちらと光りて薄青く、
踊るものあり、豆のごと……
雨は涙とふりしきる。

見れば小さな緑玉エメラルド
ひとのすがたのびいどろの、
頬にも胸にもふりしきる、
涙……かなしいその眼つき。

声もえたてぬ奇あやしさは
夜半よはに「秘密」の抜けいでて、
所作しよさになげくや、ただひとり、
パントマイムの涙雨。

月の出しほの片あかり、
薄き足もつびいどろの、
肩に光れどさめざめと、
歎き恐れて、夜も寝ねず。

きんのピアノの鳴るままに、
濡れにぞ濡るれすべもなく、
神経の上、絃いとのうへ、
雨は涙とふりしきる。
 四十四年十月
 
  新生

新らしい真黄色まつきいろな光が、
湿しめつた灰色の空――雲――腐れかかつた
暗い土蔵の二階の窻に、
出窻の白いフリジアに、髄の髄まで
くわつと照る、照りかへす。真黄な光。

真黄色だ真黄色だ、電線でんせんから
忍びがへしから、庭木から、倉の鉢まきから、
雨滴あまだれが、憂欝が、真黄に光る。
黒猫がゆく、
屋根の廂ひさしの日光のイルミネエシヨン。

ぽたぽたと塗りつける雨、
神経に塗りつける雨、
霊魂の底の底まで沁みこむ雨
雨あがりの日光の
欝悶の火花。

真黄まつきだ……真黄まつきな音楽が
狂犬のやうに空をゆく、と同時に
俺は思はず飛びあがつた、驚異と歓喜に
野蛮人のやうに声をあげて
匍ひまはつた……真黄色な灰色の室を。

女には児がある。俺には俺の
苦しい矜がある、芸術がある、而して欲があり熱愛がある。
古い土蔵の密室には
塗りつぶした裸像がある、妄想と罪悪と
すべてすべて真黄色だ。――
心臓をつかんで投げ出したい。

雨が霽れた。
新らしい再生の火花が、
重い灰色から変つた。
女は無事に帰つた。
ぽたぽたと雨だれが俺の涙が、
真黄色に真黄色に、
髄の髄から渦まく、狂犬のやうに
燃えかがやく。

午後五時半。
夜に入る前一時間。
何処どつかで投げつけるやうな
あかんぼの声がする。
 四十四年十月
 四十四年の春から秋にかけて自分の間借りして居た旅館の一室は古い土蔵の二階であるが、元は待合の密室で壁一面に春画を描いてあつたそうな、それを塗りつぶしてはあつたが少しづつくづれかかつてゐた。もう土蔵全体が古びて雨の日や地震の時の危ふさはこの上もなかつた。
 
  黄色い春

黄色きいろ、黄色、意気で、高尚かうとで、しとやかな
棕梠の花いろ、卵いろ、
たんぽぽのいろ、
または児猫の眼の黄いろ……
みんな寂しい手ざはりの、岸の柳の芽の黄いろ、
夕日黄いろく、粉こなが黄いろくふる中に、
小鳥が一羽鳴いゐる。
人が三人泣いてゐる。
けふもけふとて紅べにつけてとんぼがへりをする男、
三味線弾きのちび男、
俄盲目にわかめくらのものもらひ。

まちの四辻、古い煉瓦に日があたり、
窓の日覆ひよけに日があたり、
こな屋の前の腰掛に疲れ心の日があたる、
ちいちいほろりと鳥が鳴く。
空に黄色い雲が浮く、
黄いろ、黄いろ、いつかゆめ見た風も吹く。

道化男がいふことに
「もしもし淑女レデイ、とんぼがへりを致しませう、
美くしいオフエリヤ様、
サロメ様、
フランチエスカのお姫様。」
白い眼をしたちび男、
「一寸、先生、心意気でもうたひやせう」
俄盲目にわかめくらも後うしろから
「旦那様や奥様、あはれな片輪で御座います、
どうぞ一文。」
春はうれしと鳥も鳴く。

夫人おくさん
美くしい、かはいい、しとやかな
よその夫人おくさん
御覧なさい、あれ、あの柳にも、サンシユユにも
黄色い木の芽の粉が煙り、
ふんわりと沁む地のにほひ。
ちいちいほろりと鳥も鳴く、
空に黄色い雲も浮く。

夫人おくさん
美くしい、かはいい、しとやかな
よその夫人おくさん
それではね、そつとここらでわかれませう、
いくら行つてもねえ。

黄色、黄色、意気で高尚かうとで、しとやかな、
茴香うゐきやうのいろ、卵いろ、
「思ひ出」のいろ、
好きな児猫の眼の黄いろ、
浮雲のいろ、
ほんにゆかしい三味線の、
ゆめの、夕日の、音の黄色。
 四十五年三月
 
  汽車はゆくゆく

汽車はゆくゆく、二人ふたりを載せて、
空のはてまでひとすぢに。
今日は四月の日曜どんたくの、あひびき日和びより、日向雨ひなたあめ
塵にまみれた桜さへ、電線はりがねにさへ、路次にさへ、
微風そよかぜが吹く日があたる。
まちの瓦を瞰下みをろせばたんぽぽが咲く、鳩が飛ぶ、
煙があがる、くわんしやんと暗い工場の槌が鳴る
なかにをかしな小屋がけの
によつきりとした野呂間顔のろまがほ
青い布きれかけ、すつぽりと、よその屋根からにゆつと出て
両手りやうてつん出す弥次郎兵衛姿すがた
あれわいさの、どつこいしよの、堀抜工事の木遣きやりの車、
手をふる、手をふる、首をふる――
わしとそなたは何処どこまでも。

汽車はゆくゆく、二人を乗せて
都はづれをひとすぢに。
鳥が鳴くのか、一寸と出た亀井戸駅の駅長も
芝居がかりに戸口からなにか恍然うつとりもの案じ、
棚に載つけたシネラリヤ、
紫の花、鉢の花、色は日向ひなたに陰影かげを増す。
悪戯者いたづらものの児守さへ、けふは下から真面目顔まじめがほ
ふたつ並べたその鼻の孔あなに、眇眼すがめに、まだ歯も生えぬ
ただ揉みくちやの泣面なきつらのべそかき小僧が口の中うち
蒸気噴きつけ、驀進まつしぐら、パテー会社の映画フイルムの中の
汽車はゆくゆく、――空飛ぶ鳥の
わしとそなたは何処どこまでも。

汽車はゆくゆく、二人を乗せて、
広い野原をひとすぢに。
ひとりそはそは、くるりくるくる、水車みづぐるま
廻る畑はたけのどぶどろに、
葱のあたまがとんぼがへりて泳ぎゆく、
ちびの菜種の真黄まつきいろ
堀に曳きずる肥舟こえぶねの重い小腹にすられゆく。
さても笑止や、垣根のそとで
障子張るひと、椿の花が上に真赤に輝けば
張られた障子もくわつと照る、
烏勘左衛門、烏啼かせてくわつと吹く
よかよか飴屋のちやるめらも
みんなよしよし、粉嚢こなぶくろやつこらさと担かついで、
禿げた粉屋こなやも飛んでゆく。
蒸気噴き噴き、斜はすかひ
汽車はゆくゆく……椿が光る。
わしとそなたは何処どこまでも。

汽車はゆくゆく二人を乗せて
空のはてまでひとすぢに。
硝子窓から微風そよかぜ入れて、
煙草吹かして、夕日を入れて、
知らぬ顔して、さしむかひ、――
下ぢや、ちよいと出す足のさき
ついと外そらせばきゆつと蹈む、――
雲のためいき、白帆のといき
河が見えます、市川が。
汽車はゆくゆく、――空飛ぶ鳥の
わしとそなたは何処までも。
 四十五年四月
 
  梨の畑

あまり花の白さに
ちよつと接吻きすをして見たらば、
梨の木の下に人がゐて、
こちら見ては笑うた。
梨の木の毛虫を
竹ぎれでつつき落し、
つつき落し、
のんびり持つた*喇叭で
受けて廻つては笑うた、
しよざいなやの、
梨の木の畑の
毛虫採のその子。
   * 紙製の喇叭見たやうなもの
 四十五年四月
 
  河岸の雨

雨がふる、緑いろに、銀いろに、さうして薔薇ばらいろに、薄黄に、
絹糸のやうな雨がふる、
うつくしい晩ではないか、濡れに濡れた薄あかりの中に、
雨がふる、鉄橋に、町の燈火あかりに、水面に、河岸かしの柳に。

雨がふる、啜泣きのやうに澄みきつた四月の雨が
二人のこころにふりしきる。
お泣きでない、泣いたつておつつかない、
白い日傘パラソルでもおさし、綺麗に雨がふる、寂しい雨が。

雨がふる、憎くらしい憎くらしい、冷つめたい雨が、
水面に空にふりそそぐ、まるで汝おまへの神経のやうに。
薄情なら薄情におし、薄い空気草履の爪先に、
雨がふる、いつそ殺してしまひたいほど憎くらしい汝おまへの髪の毛に。

雨がふる、誰も知らぬ二人の美くしい秘密に
隙間すきまもなく悲しい雨がふりしきる。
一寸おきき、何処かで千鳥が鳴く、歇私的里ヒステリーの霊たましひ
濡れに濡れた薄あかりの新内。

雨がふる、しみじみとふる雨にうち連れて、雨が、
二人のこころが啜泣く、三味線のやうに、
死にたいつていふの、ほんとにさうならひとりでお死に、
およしな、そんな気まぐれな、嘘うそつぱちは。私わたしはいやだ。

雨がふる、緑いろに、銀いろに、さうして薔薇ばら色に、薄黄に、
冷たい理性の小雨がふりしきる。
お泣きでない、泣いたつておつつかない、
どうせ薄情な私たちだ、絹糸のやうな雨がふる。
 四十五年五月
 
  そなた待つ間

チヨンキナ、チヨンキナ、
チヨンキナ踊を、
けふの踊をひとをどり。

そなた待つとて、いそいそと、岡を上のぼれば日が廻まはる、
雲も草木もうつとりと、
それかあらぬか、わがこころ円まるい真赤まつかな日が廻まはる。

チヨンキナ、チヨンキナ、
チヨンキナ踊を、
岡の草木がひとをどり。

そなた待つとて、ピンのさき池に落せばくるくると、
生きて駈けゆく水すまし、
それかあらぬか、投げ棄てたマニラ煙草の粉の光。

チヨンキナ、チヨンキナ、
チヨンキナ踊を、
池の面おもてがひとをどり。

そなた待つとて、夏帽子投げて坐れば野が光る
ほけた鶯すみればな、
それかあらぬかたんぽぽか、羽蟻飛ぶ飛ぶ、野が光る。

チヨンキナ、チヨンキナ、
チヨンキナ踊を、
にれの羽蟻がひとをどり。

そなた待つとて、そはそはと風も吹く吹く、気も廻る。
空に真赤な日も廻る。
それかあらぬか、足音か、胸もそはそは気も廻る。

チヨンキナ、チヨンキナ、
チヨンキナ踊を、
白い日傘がひとをどり。
   * チヨンキナの繰返しはやはりチヨンキナの囃子にて歌ふ。
 四十五年五月
 
  薄荷酒

「思ひ出」の頁ペエジ
さかづきひとつうつして、
ちらちらと、こまごまと、
薄荷酒を注げば、
緑はゆれて、かげのかげ、仄かなわが詩に啜り泣く、
そなたのこころ、薄荷ざけ。

思ふ子の額ひたひ
さかづきそつと透かして、
ほれぼれと、ちらちらと、
薄荷酒をのめば、
緑は沁みて、ゆめのゆめ、黒いその眸に啜り泣く、
わたしのこころ、薄荷ざけ。
 四十五年四月
 
  白い月
    わがかなしきソフイーに。

白い月が出た、ソフイー。
出て御覧、ソフイー。
勿忘草わすれなぐさのやうな
あれあの青い空に、ソフイー。

まあ、何んて冷ひやつこい
かぜだらうねえ、
出て御覧、ソフイー。
綺麗だよ、ソフイー。

いま、やつと雨がはれた――
緑いろの広い野原に、
露がきらきらたまつて、
日が薄うつすりと光つてゆく、ソフイー。

さうして電話線の上にね、ソフイー。
びしよ濡れになつた白い小鳥が
まるで三味線のこまのやうに留つて、
つくねんと眺めてゐる、ソフイー。

どうしてあんなに泣いたの、ソフイー。
こまかな雨までが、まだ、
新内のやうにきこえる、ソフイー。
――あの涼しい楡の新芽を御覧。

空いろのあをいそらに、
白い月が出た、ソフイー。
生きのこつた心中の
ちやうど、片われででもあるやうに。
 四十五年四月
 
  芥子の葉

芥子は芥子ゆゑ香もさびし。
ひとが泣かうと、泣くまいと
なんのその葉が知るものぞ。

ひとはひとゆゑ身のほそる、
芥子がちらふとちるまいと、
なんのこの身が知るものぞ。

わたしはわたし、
芥子は芥子、
なんのゆかりもないものを。
 四十五年五月
 
     余言

 本集名づけて東京景物詩と呼べども、その実は「邪宗門」以後に於けるわが種々雑多の異風の綜合詩集にして、輯むるに殆ど何等の統一なし。ただ何れもわがひと頃の都会趣味をその怪しき主調とせるは興趣相同じ。作品の多数は四十三年「PAN」の盛時に成れるものの如く、且つ又邪宗門系の象徴詩より一転して俗謡の新体を創めたるも概ねその前後なり。なお最近大正の所作はこれに加へず。此集もと昨春或はその前年末にも公にすべかりしも、人生災禍多く些か上梓の時機遅れたるを憾みとす。
 東京、東京、その名の何すればしかく哀しく美くしきや。われら今高華なる都会の喧騒より逃れて漸く田園の風光に就く、やさしき粗野と原始的単純はわが前にあり、新生来らんとす。顧みて今復東京のために更に哀別の涙をそそぐ。
  大正二年 初夏
相州三崎にて 著者識

 東京景物詩及其他 東京夜曲 公園の薄暮 鶯の歌 夜の官能 片恋 露台 雑艸園 瞰望 心とその周囲 Ⅰ窓のそと ⅡS組合の白痴 Ⅲ泣きごゑ 
Ⅳ銀色の背景 Ⅴ神経の凝視 物理学校裏 骨なし児と黒猫 雪ふる夜のこころもち 解雪 青い髯 五月 銀座花壇 六月 新聞紙 畜生 隣人 
雨の気まぐれ 葱の畑 八月のあひびき  槍持.おかる勘平 雪の日 種蒔き 忠弥 歌うたひ 槍持 CHONKINA 鬼百合 道化もの あそびめ 
南京さん 蝮捕り 雪と花火.夜ふる雪 柳の佐和利 春の鳥 かるい背広を 薄あかり 金と青との 雨あがり 水盤 心中 花火 放埒 紫陽花 
カナリヤ 彼岸花 もしやさうでは 片足 あらせいとう あかい夕日に 銀座の雨  冬の夜の物語 キヤベツ畑の雨   新生 黄色い春 
汽車はゆくゆく 梨の畑 河岸の雨 そなた待つ間 薄荷酒 白い月 芥子の葉 余言 戻る