梢の巣にて 山村暮鳥
 わが肉の肉なる妻、ふじ子にこの詩集を贈る

  ふるさと

 枯木が四五本たつてゐるそのあひだから
 おゝ静かなうつくしい湖がみえる
 湖をとりまいてゐる山山や木木はひるなかでも黒い
 まるでこしらへたもののやうにみえる
 あまりにさびしい
 ほそぼそと山腹の道はきえさうで
 人つ子独りあるいてはゐない
 けれどそこにも 一けんの寒さうな小舎があり
 屋根のけむだしから
 糸のやうなひとすぢのけむりが
 あをぞらたかくたちのぼつてゐる
 なんといふ記憶だらう
 これがあの大きな山のふところで
 あかんぼの瞳のやうにすんでゐる湖だ
 冬も深く
 氷切りがはじまると
 自分達の父もよくそこへでかけた
 そして熊のやうにひとびとにまじつて働いた
 父はいまでも鉄のやうに強い
 おとうとよ
 峠の茶店のばあさんはどうしてゐる
 谷間でないてゐる閑古鳥を
 わが子か孫かでもあるやうに可愛がつて
 自慢してゐたばあさん
 あのばあさん
 まだ生きてゐるか

  自分は光をにぎつてゐる

 自分は光をにぎつてゐる
 いまもいまとてにぎつてゐる
 而しかもをりをりは考へる
 此の掌てのひらをあけてみたら
 からつぽではあるまいか
 からつぽであつたらどうしよう
 けれど自分はにぎつてゐる
 いよいよしつかり握るのだ
 あんな烈しい暴風あらしの中で
 掴んだひかりだ
 はなすものか
 どんなことがあつても
 おゝ石になれ、拳
 此の生きのくるしみ
 くるしければくるしいほど
 自分は光をにぎりしめる

  鉄瓶は蚯蚓のやうにうたつてゐる

 うすぐらいでんとうがひとつ
 せまいけれどがらんとしたへやだ
 ぼんやりとめざめてゐるわたしに
 なんといふしづかさ
 
 そとではかぜがあばれてゐる
 いたづらなこどものやうに
 あめをつよくふきかけたり
 とをがたがたとたゝいたり
 けれどわたしのへやのしづかさは
 まるでふかいうみそこのやうだ
 きふすもちやわんも
 ごろごろそこらにころがつたなりで
 みんなぐつすりねむつてゐる
 
 ぐつたりとつかれて
 あほむけにひつくりかへつたわたしのそばで
 ほそぼそと
 ひばちのうへのてつびんが
 なにやらうたをうたひはじめた
 
 ゆびをくむにはくんだけれど
 さてどんなことをいのつたものか
 
 かぜはいよいよはげしく
 おそろしいけだものでもほえるやうだ
 とはいへわたしのへやばかりは
 ひつそりと
 てつびんがみゝずのやうにうたつてゐる
 
 どうぞこのまゝねかしてください
 またあたらしいたいやうのでるまで

  春

 はるがきた
 はるがきた
 
 いまひるちかく
 いとのやうなでんせんにとまつてつばめがには
 めづらしさうにあたりを
 きよろきよろみまはしながら
 なにかぺちやくちやさへづつてゐる
 いちはのつばめは
 あをぞらをきり
 むぎのはたけをひくゝかすめて
 もうみえなくなつた
 あゝいゝ
 いきいきとしたねぎやそらまめ
 なたねのはな
 ぞつくりとほのでかかつたむぎぐさ
 みんなこゝではうつくしく
 なんでもこゝでは
 しみじみとしんじつをこめ
 みよいちめんにもえたつばかりだ
 
 はるがきた
 はるがきた
 
 けふのやうなよいてんきでは
 のびのびとすべてが
 かうふくでそしてかなしい……
 
 かはむかふのをかをみると
 としよつたのうふがつかれたらしくはたらいてゐる
 なにかたねでもまかうとするのか
 なんといふおもさうなくわだ
 しつとりとしたあまじめりのはたけのつちは
 ほりかへされてくろぐろと
 むくむくともりあがり
 こえふとり
 ちいさなちいさなまるでごみのやうなはむし
 むすうのそれらまでがせはしくうごき
 とろりとしたこのあぶらのやうなひかりのなかでいきてゐる
 あちらのまちのしづかさはどうだ
 やねとやねとのかさなり
 そのうへのどんよりしたそら
 たいやうはどこにあるのか
 すべてがいううつで
 ねむさうで
 よろよろといまにもとろけさうにみえる
 
 どこかであかんぼがないてゐる
 うまれたばかりのやうで
 とほいとほいぢべたのなかからでもくるやうなこゑだ
 それがあをあをとしたはたけをこえ
 まつかぜやなみのおとにまじつてきこえる
 さびしいほどしづかなひだ
 さかんなかげらふだ
 おおこのからだのふかいひゞよ
 そのかすかないたみ
 そしてそのひゞからのびだすあたらしいのぞみのめよ

  春

 なぎさで網を引いてゐる
 みろ、のんきさうにひいてゐるではないか
 をとこたちがひいてゐる
 をんなたちもひいてゐる
 こどもらもそれにまじつて
 みんなでひいてゐる
 ぼんやりとねむさうだな
 網はみえない
 おい、網を引いてゐるのかい
 海を
 つなで
 ながいつなで
 ひきよせてゐるやうにみえるな
 ゆめのなかで、おい
 蒼空のやうな海を
 ひきよせてゐるやうにみえるな

  ひるめしどき

 麦の穂のかげにかくれた
 遠方の市街で
 工場の汽笛がだるさうに鳴りだしたので
 しよひかごを肩にひつ掛け
 ちんとてばなをかみ
 そしてあるきだしたおばあさん
 おぢいさんもそれをみて
 大きな鍬をひつかついだ
 おぢいさんは鉄のやうにまだがつしりしてゐるが
 おばあさんの腰はもう曲りはじめた
 ふたりはあるきながら
 畠の青々とした野菜ものや
 さはさはと波立つ麦などをゆびさして
 なにかしやべつてゐるやうだ
 どこにゐたのか
 それを遠くでみつけたこどもがこちらをむいて駆けだした
 畦道でぱつたりころんで
 みえなくなつたが
 すぐもつくりとはねおきて
 まへよりはやく
 まるで隼の
 翼でももつてゐるやうにはしつた
 おゝそして自分も
 自分をまつてゐる食卓へ
 いま昼飯にいそいでゐるのだ

  じやがいも

 夏の日はかんかん照り
 ひでり畑では
 百姓をんなにほられて
 じやがいもがごろごろところげだす
 かたはらの立木の幹に
 しばりつけられて
 こどもはぎあぎあ泣いてゐる
 百姓をんなのせはしさよ
 その鍬さきにごろごろところげだす
 ひでり畑のじやがいも
 真実をこめたじやがいも

  此の道のつきたところで

 寂しいほそみち
 畑中のみち
 すべての道に畑中のさびしさ
 いのちのやうな 一本道
 そよかぜに
 波立ちゆれる麦畑の
 此の道をゆけ
 此の道のつきたところで考へろ
 やがて都会の空をきり
 まつくろなかぜといつしよに
 つばめのやうにとびかけるにしても
 此の道をしばらくしのべ

  詩人・山村暮鳥氏

 自分はいまびやうきで
 その上ひどいびんぼうで
 やみつかれ
 やせをとろへて
 毎日豚のやうにごろごろと
 豚小屋のやうな狭い汚いところで
 妻や子どもらといつしよに
 ねたりおきたり
 のんだり
 食つたり
 そしてやうやく生きながらへてゐるのだ
 ほんとに豚だ
 みよ、かうして家族は
 みんな寝床にもぐりこんでゐる
 一日のことにつかれてぐつすりと
 大きな口をあけ
 だらりと長い涎をながして
 なんにもしらずに寝てゐる妻
 その胸のあたりに
 これもうまれたばかりの豚の仔のあかんぼは
 乳房をさがして
 ひいひと泣く
 それから風つぴきの鼻汁を
 頬つぺた 一めんになすりつけ
 ふんぞりかへり
 お尻をぐるりとまるだしの
 もひとりの女の子
 おゝ、かあいい
 よるはくさつたくだものゝやうだが
 さすがにこのしづかさ
 自分はいま
 戸棚から子どもの蜜柑を 一つ盗みだしてきて
 あかんぼのおしめを炬燵で干しながら
 むさぼるやうにそれを頬張り
 皮だけのこして
 口髭の汁をぬぐつた
 ふかいよるだ
 出埃及記もやうやく終はつた
 さあこれから世界のひとびとのために祈りをさゝげて
 ながながと自分も痩せほそつた骨を伸ばさう

  海辺にて

 美と健康との
 偉大な海よ
 自分はこの人間の厳粛さにおいて祈る
 まことに海は生きてゐる
 山をなす浪々のうねり
 紫紺色なる海面うなづら
 鴎かもめどり
 一羽 二羽三羽五羽十羽 二十羽
 けむりはくふね
 帆をあげたふね
 自分は砂丘にねころがつてゐるのだ
 海豚いるかのやうにねころがつてゐるのだ
 まつぱだかで
 そして海に酔つてゐる
 海に酔つぱらつてゐるんだ

  山上にて

 自分は山上の湖がすきだ
 自分はそのみなぞこの青空がすきだ
 その青空には白銀しろがねの月がでてゐる
 ひるひなか
 その月をめぐつて
 魚が 二三尾およいでゐる
 ちやうど自分達のやうだ
 おゝ人間のさびしさは深い

  星

 わたしは天そらをながめてゐた
 なつのよるの
 海のやうな天を
 
 陰影かげの濃い
 日中のひどいあつさはどこへやら
 よるの涼しさにひたつてゐると
 まるで青い魚のやうだ
 かきねのそとでは
 ひよろりと高い蜀黍もろこしが四五本
 水のやうなそよかぜに
 広葉をばさばささせてゐる
 さかりのついてる豚が小舎からぬけでて
 ぶうぶううろつきまはつてゐる
 きまぐれな蟋蟀きりぎりすが 一ぴき鳴いてゐる
 もう秋が
 すぐそこまできてゐた
 
 こどもをねかしつけてゐた妻が
 こどもがねついたので
 足音を盗むやうにそこへでてきた
 すつかり晴れましたね
 わたしはだまつてゐた
 なんて綺麗なんでせうね
 いつみてもお星様は
 わたしはそれでもだまつてゐた
 わたしはそれをうるさいとさへおもつた
 すつきりと澄透つた心を
 掻きみだされたくなかつた
 わたしは天をながめてゐた
 
 妻は心配さうに低く
 わたしの顔をのぞきこんで言つた
 どうかなすつて
 その声はしめつてゐた
 すこしふるへてゐるやうだつた
 けれどしんみりと美しかつた
 わたしははつとした
 そして跳返されたやうに口を切つた
 まあ見な
 永遠の寂しさだ
 ただそれだけ
 それぎりわたしはなんにもいはず
 妻もまたなんにもいはず
 あたりはしいんと
 天では星がきらきらしてゐた
 ふたりはそれをながめてゐた
 
 星はもう
 どれもこれも
 みな幸福さうであつた
 みな幸福にみたされてきらきらしてゐた
 おほきいほし
 ちひさなほし
 一つぽろりとひかつてゐるほし
 たくさん塊つてゐるほし
 わたしはうれしくつてうれしくつて
 なみだが頬つぺたを流れた
 妻をみると
 妻も瞼をぬらしてゐた
 わたしはたうとうたまらなくなつて
 びつくりしてゐる妻をぎゆつと抱きすくめた
 だきすくめられて
 妻は深い溜息をもらした
 わたしはそれをはつきりと聴きとつた
 
 わたしは言つた
 これ、こんなに手が冷くなつた
 妻はそれにこたへるでもなく
 だがさゝやくやうに
 もうよほど遅いのでせう
 廚くりやの中のこどもがごろりと寝がへりを打つたやうだ
 星が 一つすうつと尾を曳いてとんだ
 こんどは妻が言つた
 ほんとにねるにはをしいやうですね
 ほそぼそと沁みこむやうな
 純きよらかなその声
 わたしはほろりとして消えてしまひたいやうな気持で
 而しかもきつぱりと
 首でも括くくるならこんなばんだ
 けれど生きるといふことは
 それ以上どんなにすばらしいことだか
 
 星は 一つ 一つ
 千万無数
 まるで黄金きんの穀粒でもふりまいたやうだ
 ばらばらとこぼれおちさうだ
 それが空 一めん
 そしてきらきらとひかつてゐた
 わたしたちはねるのもすつかりわすれてしまつて
 冴えざえした目で
 しみじみ天をながめてゐた
 よるのふけるにしたがつて
 星はいよいよ
 強くきらきら光りだした
 もう草も木もひつそりした
 さつきの豚もきりぎりすもどこへかゐなくなつて
 めざめてゐるのは星ばかりだ
 それをわたしたちはながめてゐた
 手をのばしたら指尖にでも吸ひつきさうにみえる空、そして星
 
 おきたやうだよ
 さうですね
 わたしたちはこどもの泣き声におどろかされて
 またべつべつの 二人になつた
 もうねようか
 えゝ
 妻はいそいで廚くりやにはいつた
 そして中から
 おさきへといつた
 それをきくとなんとなく、たゞなんとなく
 どうしてもたちあがらないではゐられなかつた
 わたしはたちあがつた
 雨戸をぴしぴししめながらも
 わたしは天をながめてゐた
 それから寝床に這ひこんで
 ごろりと横になるにはなつたが
 わたしはまだ天をながめてゐた
 もうねたかい
 返辞がない

 わたしはめをとぢた
 天の星はひときはきらきらとひかりはじめた

  聖母子涅槃像

 ごろりと家畜のやうにころがつて
 むねもあらはに
 つきだされた乳房
 それにすひついてゐるあかんぼ
 あついあつい昼日中
 静穏しづかなしづかな畳の上
 そしてここにも
 蚤がをり
 蠅がをり
 けれどいゝこゑの虫がをり
 窓ぎはにゆれてゐるのは
 矮せびくの規那鉄葡萄酒の
 空瓶にさされてさいてる石竹せきちくの花である
 からりとあけはなたれた座敷
 蒼空のやうなさはやかさ
 ぐつたりと寝ころんでゐる母とその子のまうへをはしり
 つゝとはしり
 つゝと座敷をつきぬけてゆく
 一匹の麦藁とんぼ
 あついあついといつてゐるまに
 もういつか秋ぐちである

  船にて

 暗礁のある
 こゝは岬のほとりだ
 うみは深い厳粛にひえびえと
 たちあがる荒い波波
 その波波
 黒黒と渦まく力
 大きな帆布のやうに自分はのぞみを孕んでゐる
 そして船は自分達をみんなのつけてはしつてゐる
 みよ、かるがると 一枚の木の葉のやうにはしつてゐる
 此の船はどこへゆくのか
 そんなことをしつてゐるものはひとりもない

  万物節

 大地はいふ
 「わしは拒まない
 わしには
 拒むといふことができないのだ
 どんなものでも
 わしはうける
 どんなきたないものでも
 わしは拒まない
 拒まないばかりか
 そのすべてに
 あたらしいいのちと
 わかわかしさと
 自由と力と
 美しさとをあたへてやるのだ」
 
 穀物はいふ
 「わたしらは穀倉のすみつこで
 みんな干涸らびて
 みんなふるへてゐました
 ある日、農夫がきて
 わたしらを重さうにかつぎだしました
 そして袋から
 わたしらをつかみだして
 眩しい日光にさらしました
 雲雀でもなきさうな日でした
 農夫は駈けだすやうに
 はたけにでて
 雨上りのしつとりと湿つた土に
 わたしらを播きつけました
 やがてわたしらは
 小さな芽をだしました
 それから葉つぱをだしました
 葉つぱがでると
 はながさき
 はながさくと
 実がなり
 一粒が百粒千粒になつたので、
 こんなに大きな穂首を垂れてゐるのです」

  大地の子

 大地の声にはどつしりとした重みがある
 どつしりとおごそかである
 それにはまた
 深い深いやさしさがこもつてゐる
 その声がわたしに言ふ
 「おまへは何をつぶやいてゐるのだ
 何をぶつぶつつぶやいて
 この俺わしを恥しめるのだ
 おまへは俺の子ではないか
 俺はすべてをおまへに与へた
 美しいこの世界において
 生も自由もわかわかしさも
 すべておまへはあたへられて
 すべてをおまへはうしなつてしまつた
 それらをみな
 いやはての 一滴ものこさず
 まつたく瓶の油のやうに
 そしてむなしくしてしまつたからといつて
 それでおまへはつぶやくのか
 あきらめるがいい
 いまはもう死にまたれてゐるお前だ
 お前にはそれがわかるか
 だが死がなんだ
 おそれることはない
 おまへは俺の子どもだ
 おまへはほんとに馬鹿な
 馬鹿だからかあいゝ奴だ
 おまへは生みの母をおぼえてゐるか
 その母のふところをおもひだすやうなことはないか
 もうなかないでいゝ
 泣かないでいゝ
 俺は怒つてゐやしない
 俺はおまへの大きな母だ
 おまへたちのながすなみだで
 俺はいつも濡れてゐる
 いつでもいゝ
 かへつておいで
 おまへは俺とともにあるので幸福なんだ
 あゝ生きの悩みにつかれはてゝ
 まるで枯木のやうに痩せさらぼひたおまへに
 此処にとこしへの休息がある
 けれどおまへは
 おまへは俺の勇敢な子どもだ
 刀がをれて矢がつきて
 野晒ざらしになつてもその眼をとぢなかつたつはもののやうに
 おまへもそこで戦つておいで
 それでこそ俺の子どもだ」

  蟻をみて

(赤銅のやうな秋の日のことは
 すべて真実をこめ
 すべてゆめで
 そしてわたしをひきつける)
 
 けふもけふとて
 わたしはいつものやうに
 海のみえる
 その丘つゞづきの
 松林の中をあるいてゐた
 まあなんといふ
 たくさんの蟻だらう
 わたしの足はぴたりととまつた
 地膚もみえないほど
 密集した蟻のかたまり
 まつくろなそのかたまり
 それが
 わたしのまへをよこぎつて
 動いてゆくのだ
 それがどこへゆくのか
 わたしはそれについてあるきだした
 
 そこからすこしゆくと
 一本の木かげに
 孔があつた
 孔は砂崩れの崖の上にあつた
 
 蟻の群衆はぞろぞろと
 せはしさうにその孔に這いつた
 はいつたかとみると
 こんどはその 一ぴき 一ぴきが
 白い幼虫をくはへては
 おお千万無数の蟻
 それがぞろぞろとはひだしてきた
 その口にくはへた幼虫こそ
 わたしらがこどもの頃
 穀物の俵だとおもつてゐたそれだ
 
 一ぴきが 一つづつ
 その俵をくちにくはへて
 いそいでまたも
 いましがたきたほうへとひきかへした
 ぞろぞろと
 みよそのすばらしい行列を
 
 それをみつけて
 それらよりずつと大きい 一ぴきが
 そのすがたを
 消したとみるよりはやかつた
 大きな蟻の群衆の
 あわただしくそこにあらはれたのは
 そしてあらあらしく
 小さな蟻に飛びかかつたのは
 小さな蟻はにげだした
 逃げながらも
 よくふせいだ
 よくたゝかつた
 たちまち
 あたりは 一めん
 みるも惨らしい戦場となつた
 
 わたしはみた
 縦横とかけまはつて
 大きな蟻があらゆる狂暴をはたらくのを
 けれどもう
 小さな蟻の大部分は
 その幼虫をしつかりくはへて
 すでに遠く
 逃げのびてゐた
 
 わたしはみた
 たくさんの噛殺された小さな蟻を
 それらの死骸がひきずられて
 大きな蟻にもちさられるのを
 
 逃げおくれた小さな蟻はことごとく
 そこにたほれた
 稀には敵の目にもとまらないで
 つつがなく
 味方のあとを追ふ
 幸運のものもあつたが
 大方はみるかげもなくそこにたふれた
 
 あるものは
 幼虫をうばひとられて
 怒り狂ひ
 敵に噛みつき
 うちたふされ
 あるものは
 にげまどひ
 小さな木のてつぺんまで
 追ひつめられて
 つき落とされた
 
 山のやうなところを這ひのぼり
 谷のやうなところをこえて
 まつくろな 一塊の
 蟻の群集は
 とほくとほく
 戦場より 二三十間もへだたつた
 松の古木のその根もとの
 新らしい巣へとむかつた
 
 それは勇しい群集であつた
 そのながながしい行列
 その行列は歩調を乱してゐなかつた
 一ばんあとから
 いそいでつゞいた
 二三びき
 その 二三びきはひどく負傷でもしてゐるのか
 それも跛びつこをひいてゐた
 それでもくちの幼虫は離さなかつた
 もうそれぎりかとみると
 また 一ぴき
 それは 二本とも脚がなかつた
 ごろごろところがり
 ころがりながら迫つてゐた
 いちはやく
 新らしい巣へぶじについたものは
 後からの仲間を気づかつて
 でてきた
 そりて遭ふものごとに
 髭をふつては挨拶し
 たがひによろこびをかはすやうに見えた
 疲れたものに手伝つたり
 路ばたで
 たほれてゐるものをみつけては
 それらをはこんだり
 
 そして 一ぴき残らず
 すつかりその巣へはいつてしまふと
 ときどき
 敵は来ないかと
 一ぴき 二ひきがそつと
 孔の口まで
 でてみるばかり
 もうその心懸りもないので
 ひつそり静穏しづかなつた
 
 ふたたび戦場へ来てみると
 そこにはまだ
 獰猛な蟻めがうろうろと
 小さな蟻をさがしあるいてゐた
 孔孔のいり口近く
 なかをのぞいてはみるが
 その中にはいつてゆくほどの強者はない
 孔には
 まだ生きのこつて
 小さな蟻がゐるのだ
 残塁を死守してゐるのだ
 
 けれどそれも
 ほんのしばらく
 大きな蟻がゆうゆうと
 引き上げてかへると
 こゝもまたうつくしい霧のやうな松風の中で
 蒼空もねむつてゐる
 爽かな松林であつた
 
 (赤銅のやうな秋の日のことは
 すべて真実をこめ
 すべてゆめで
 そしてわたしをひきつける)
 
 わたしは
 砲煙弾雨ほうえんだんうの間を
 くゞりむぐつてきたものだが
 なんにも知らなかつた
 わたしは
 けふはじめて
 蟻のはげしい戦闘たゝかいをみて
 手に汗をにぎつた

  鴉にかたる

 からりと晴れた朝だ
 からりと大きく
 そしてたかく
 これから酷しい冬にはいる
 十月ごろの朝の蒼空ほど
 きつぱりと気持のいゝものはない
 槍の穂尖でもつきつけられたやうだ
 おう、おはやう
 君達はいつもはやいね
 鴉からす
 僕はいまおきたばかりだ
 まだ顔も洗はないんだ
 昨夜はどうだつたい
 あのすばらしい暴風雨は
 あの猛烈さは
 まつたく何ともいへないね
 君の巣はなんともなかつたかい
 僕はこども達がねてゐるので
 それをめざますまいと気が気ではなかつた
 まるで戦争だね
 雨戸 一重をさかひにして
 僕はうちから
 あらしはそとから
 あらしが吼えくるつて大波のやうにのしかゝるのを
 野獣のやうな力で僕が
 ぐつとさゝえる
 押しかへす
 またのしかかると
 また押しのける
 それこそ自分ながら勇敢だつたよ
 僕はもう
 僕の力をうたがはない
 だが暴風雨のあのすばらしさは
 何がなんでもほめたたへずにはゐられない

  あらしを讃へる
      ──山田耕作氏におくる──
 
 あらしだ
 あらしだ
 たいへんなあらしだ
 どこから逃げてきたもんだかさ
 蝙蝠傘が 一つ
 さゝげ畑で踊つてゐるげな
 あらしだ
 あらしだ
 
 あらしだ
 あらしだ
 たいへんなあらしだ
 蝙蝠傘のをどりはおもしろかんべえ
 それはさうでんすとも
 だが見てるはうでも 一生懸命ですぞい
 あらしだ
 あらしだ
 
 あらしだ
 あらしだ
 たいへんなあらしだ
 まるで気狂きちがひでんす
 ぐるぐるぐるぐる
 めんどまはりのやうな真似をしたかと思ふと
 あらしだ
 あらしだ
 
 あらしだ
 あらしだ
 たいへんなあらしだ
 ぴつたりとまつてなし
 何かちよいと首をひねつて考へてゐたつけが
 ぴゆうと高く
 それこそほんとに馬にでも蹴飛ばされたやうに飛び上がつてなし
 それつきりみえましねえ
 あらしだ
 あらしだ
 
 あらしだ
 あらしだ
 たいへんなあらしだ
 ぐつすりねてゐたあかんぼまで
 びつくりしたほどなんでんす
 ぎあぎあ泣きだしたのも無理はあんめえ
 あらしだ
 あらしだ
 
 あらしだ
 あらしだ
 たいへんなあらしだ
 あれつきりみえなかつた蝙蝠傘の奴め
 どこをどううろついてゐたもんだやら見てくらつせえ
 ぼろぼろになつて
 あらしだ
 あらしだ
 
 あらしだ
 あらしだ
 たいへんなあらしだ
 いまみれば宙にぶらりと
 まあ、かあいさうに
 首括くくりをしてぶらさがつてゐやすだ
 あらしだ
 あらしだ

  一本の木がある

 一本の木がある
 曲がりくねつた木だ
 くるしみ
 くるしみ
 くるしみぬいてきた木は
 いまはどんな暴風あらしにも怖れず
 日光をほかほかとあびて
 そして静穏しづかに立つてゐる
 
 こゝは寂しいはらつぱ
 もえたちさうな枯草
 冬だ
 ずつとはなれたところに 二三人のひとかげが見える
 みんな老媼としよりらしい
 みんな銘々におもさうな枯木の枝をせおつてゐる
 おくのおくの
 大きなふかい雑木林の中から
 そこへでてきたらしい
 
 ほんとに静かだ
 鳥も鳴いてゐない
 日光をほかほかとあびて
 わたしのまへには葉つぱ 一つ葉つけてゐない
 ただ 一本の
 頑丈な木がたつてゐるばかりだ
 それだけである
 
 そして木は語つてゐる
 わたしに
 言葉にもない
 書物にもない
 或る 一つのことを
 たつた 一つの真実をこめたはなしを
 しみじみと無言で……
 ほんとにほんとに何んといふ静かさだらう

  木

 一本すんなりと立つた木がある
 あちらに四五本
 こちらに七八本と
 塊りあつてゐる木立がある
 さうかとおもふとびつしり密集してゐるところもある
 ひよろひよろと痩せて寂しくたつてゐるのや
 曲りくねつたのや
 むつまじく肩を組んでゐるのや
 いきいきと輝いてゐるのや
 幸福さうに見えるのや
 くるしみくるしんできたやうなのはみな老木だ
 どんなことでも知りつくしてゐるやうにみえる老木は
 いかにも静かだ
 おちつきがでてきたのだ
 木がこの天地の間にあつて
 どつしりとおちついてくるやうになると
 そこに尊厳が自おのづから加つてくるやうだ
 そしてその深い深いところでは
 大きななつかしさを見せるやうになる
 さうした木をみると
 だれでも
 いのちといふことを
 そして生きてゐることを沁々おもふだらう
 老木のぐるりには
 稚わかい木がある
 ひらひらと可愛い葉つぱをうごかしてゐるのは
 あかんぼの木だ
 その上にそれをかばつて伸ばしてゐる手のやうな梢
 
 雨がふると
 びつしよりぬれ
 日が照るとひかりを浴び
 どんな木でも
 木といふ木はみな
 何といふこともなくたゞ生長してゐる
 山上高くたつてゐるもの
 谷間を暗くこめてゐるもの
 丘の上のもの
 水のほとりのもの
 それがために世界はこんなにうつくしいのだ
 ときとすると
 茫々とした大きな野原のなかなどで
 章魚たこが足でものばしたやうに枝をのばして
 葉つぱ 一つ葉つけない
 冬枯の
 あれ錆びた木をみることがある
 それにはきつと鳥がとまつてゐる
 鴉がぽろりと 一羽
 啼きもしないでとまつてゐる
 さうでなければ
 雀がこぼれるほどむらがつて
 まるで戦争でもしてゐるやうに
 がやがや喋舌しやべつて騒いでゐることもある
 それに夕日がかつと射したりして
 いゝ風景けしき
 
 どんな木でも
 木といふ木はみないゝ
 それは木ばかりではないけれど
 ことさらに木はいゝ
 何といふこともなくたゞ生長してゐるところが
 たまらなくいゝ
 そして木は
 大きな木ほど立派である
 
 いま自分のすんでゐるところに近く森林があるので
 自分はしばしばそこへ行く
 そして大きな木木をみる
 腹が立つとそこへゆく
 かなしいとそこへゆく
 うれしいとそこへゆく
 つかれるとそこへゆく
 気が腐つてくるとそこへゆく
 ゐてもたつてもゐられなくなると
 あわてゝそこへゆく
 そして大きな木木をみる
 大きな木木だ
 その幹はどれもこれもまるで胴体のやうに太い
 それが群像のやうに立つてゐるのだ
 ふりあふぐと
 梢や葉つぱのあひだから
 小さな蒼空をぽつぽつとみせてゐる
 そんな大きな木ばかり
 日光が射さないので
 その木木のしたかげはしつとりといつでも湿つて
 そこにはいぢけた草や苔などが
 いぢらしいほど小さい花を飾つてゐる
 またそこにはさまざまの小鳥がゐて啼いてゐる
 まるで大きな古いむかしながらの
 伽藍の中にでもはいつたやうに
 そこはしづかだ
 しいんとしてゐる
 それでゐてその木木の間にゐると
 大きな重いどつしりとした力で
 ぐつとおさへつけられるやうだ
 身動きもならないやうに
 そしてそこでは咳払ひ 一つするのもゆるされない
 自分はふるへるほど冷くなつては
 そこからでてくるのだ
 けれどそこからでてきて
 ぱつと日光に触れるともうどんなときでも
 自分は穏かな海のやうになつてゐる
 とつぷりと満たされた自分だ
 諸々さまざまの木であるが
 ほとんど落葉樹はない
 樫がある
 椎がある
 黒松がある
 樅や槙がある
 山毛欅がある
 それらが天にそゝり立つてゐるのだ
 それがたがひに空間を
 それぞれすき勝手な姿勢をとつて
 大きな蛇のやうにうねりくねつてゐるのだ
 そのうつくしさは
 たゞのうつくしさではない
 静かなその胴体のやうな幹だけみてゐてもぞくぞくするが
 木木はなんといつても大暴風の日だ
 それはもの凄く
 それは勇壮である
 天地も裂けよととゞろきわたる雷をともなひ
 刃のやうな稲妻をはなち
 おそろしい雲に乗り
 その雲を鞭打ち
 銀の鏃やじりの雨をそゝいできたあらし
 千万無数のあれくるふ猛獣
 角をふりたて牙を鳴らして
 ひしめき蹴散らしのしかゝるあらし
 あらしのはゞたき
 それをまともに睨にらんだ木木
 びくともせず
 大地にふかく足を踏んばり
 大手をひろげて立つたその木木
 髪毛をばふりみだし
 くみつき
 つきのけ
 おしもどし
 はねかへし
 咆哮ほえたけ
 木木をみろ
 木木は千古のつはものである
 而しかも梢の小鳥の巣 一つおとしはしない
 
 いま木木は静かである
 森林は海底うみそこでゞもあるやうに静かである
 紗うすもものやうなそよかぜに木木は浸され
 ふかいふかいちんもくに浸され
 そのちんもくのふところの
 大きなおほきな力もすべてひたされて静かである
 はつきりとさはやかである
 天心てんしんでないてゐる蝉もきこえる
 しんしんと雨のやうだ
 このこゑごゑからふつてくる細い霧でしつとりと
 木木はきよらかに濡れてゐる
 こんな日もある
 めづらしいことだが
 けふの自分は自分からもう木になつてゐるのだ

  朝

 菜つ葉をみよ
 あさつゆに
 びつしよりと濡れてゐる
 寂しい菜つ葉を
 
 冬近い
 はたけの菜つ葉
 ひんやりとふりそそぐ
 日の光りだ
 
 わたしたちの生は短い
 ほんとに短い
 そして苦悩にみちみちたものだが
 それはまた
 何といふ美しさだらう
 
 太古のことがおもはれる
 あゝ寂しい菜つ葉
 それを神様もわたしたちのやうに
 よろこんで食べてゐたのか
 
 やがて、雪が
 ちらちら飛ぶ頃になると
 お伽噺とぎばなしがいきいきと
 わかゞへつてくるにきまつてゐる
 
 現実世界の神秘的な
 一体、真実といふものは何だ
 より大きな創造のために
 憂身をやつすわたしたち
 
 それまでだ
 さあ、あさつゆを
 はねかすのもよからう
 踊つておくれ
 風がふいたら
 ひらひらとしなよく
 きらきらと
 
 きらきらと
 寂しい菜つ葉よ
 だがそこにつるんでゐる蜻蛉とんぼ
 それで
 びつくりさせないやうに

  農夫

 なんとなく空は険悪で
 そしてくらく
 ぽつぽつ雨さへおちはじめた
 もう 一日も終りであつた
 自分はおもひだす
 氷山のやうなあの山山を
 鋼鉄はがねのやうな冬のあの日を
 そこではげしく
 たつたひとり
 たつたひとり
 大きな熊手鍬まんのうをふりあげふりあげて
 せつせと働らいてゐた
 あの獣のやうな農夫を
 疾駆してゐる汽車の窓から
 自分はちらとそれをみかけた
 みぶるひがさつとはしつた
 そのときから自分のこぶしは石となり
 自分の頭上にはだれにもみえない角が生えた
 そのころの自分のくるしみ
 そのどんぞこから
 それでも自分は帽子を脱つた
 農夫はなんにもしらないのだ
 けれど自分をしみじみと考へさせた
 わきめもふらず
 天も仰がず
 荒れはてた田圃の中で
 刈株の土をおこしてゐた
 たつたひとりの
 あの農夫
 ひとりであつたあの厳粛さ
 ぽつぽつ雨さへおちてゐる記憶の上につゝ立つた
 自分は強い農夫をみる
 自分は強いそして獣のやうな人間を
 いまもかく

  かほ

 よるもひるもたえず
 みえないあらがねの鑿のみをつかんで
 こつこつと専念に 一つの顔を彫刻してゐるわたしだ
 うつくしくあれ
 うつくしくあれと
 けれどほりだされる顔をみれば
 日 一日とみにくゝなる
 額にふとく
 蟀谷こめかみまで
 よこにひかれた悪魔の爪
 ことさらに深い 一すぢ
 そのしたには
 おそろしいおとしあなのやうに落窪んだ眼と眼
 げつそりとやせこけ
 懸崖がけのやうにそげた頬つぺた
 くらいかげ
 ひらいたら火でも吐くか
 きむづかしく
 憂鬱にひきむすんだ無言の唇
 蛆虫でも這ひだしさうな鼻の孔
 あゝどうしてかうもみにくゝなるのか
 ひとのしらない嘆息が洩れる
 一生 一つのこんな彫刻をするわたしだ
 だがいまさらそれがなんとならう
 またどうしてこれがすてられよう
 これこそ自分の顔である
 此の顔の
 此の落窪んだ
 此のおとしあなのやうな眼のおくにあつても
 なほ真実は汚れず
 その 二つの星はいまもいきいきと輝いてゐる
 こつこつと専念に
 みえないくるしみの鑿をつかんで
 一生 一つのこんな彫刻をするわたしだ<

  地を嗣ぐもの

 みちばたであそんでゐた
 ひとりのこども
 どろを捏ねてゐた
 そのこども
 そのどろで
 山をこしらへ
 そこに木を植ゑ
 家をたて
 馬をつくり
 そのつぎに人間をふたりこしらへ
 その人間に言葉をかけて
 ちちよ
 ははよ
 これでもうおしまひだから
 一ばん強く
 そして大きく
 こんどは自分を創ります
 おゝあのこども

  おくりもの

 どんなところへでも
 人間の愛のあるところには来るやうに
 まづ子どもたちに
 それからわたしたちにも
 まつすぐにクリスマスはきた
 小さな羽子板と
 かあいゝはねが 二つ
 クリスマスがわたしたちに
 それを子どもたちめいめいの枕もとにおかせた
 わたしたちはめざめたときの
 子どもたちの顔をおもひうかべた
 そして世界きつての幸福者しあわせものであつた
 しんじつ
 そのときのわたしたちは
 このめでサンタクロオスをみた

  ある時

 藪の中で
 桔槹はねつるべ
 かたりかたりと
 ゆられてゐた
 鴉よ
 鴉よ
 なんで
 わたしが頬つぺたを
 ぬらしてゐたか
 しつてるか
 大風の日だつた

  ある時

 あんまり風がひどいので
 障子の孔からのぞいてゐた
 大通りでは
 びつこをひいた痩馬が
 山のやうな重い荷馬車を引いてゐた
 そこへひよつこり
 妻と子どもがにこにこと
 吹き捲くられてかへつてきた
  ある時

 ひさしぶりで
 雨がやみ
 あさひがさして
 木木の枝では
 ぴかぴか露がひかつてゐると
 ちひさい頃
 わたしは学校の本でよんだ
 からりとはれた
 此の碧空
 あちらでもこちらでも
 あれ、あれ
 日向にでて
 何処でも虱しらみを潰してゐる

  ある時

 わたしはうやうやしく
 いつものやうに感謝をさゝげて
 すうぷの椀をとりあげました
 みると
 その中におちて
 蠅が 一ぴき死んでゐるではありませんか
 おゝ神様
 じやうだんではありません

  ある時

 鳶が大きな輪をかいてみせた
 
 なんのことだか
 輪をかいてみせた
 おもひあまつて空を見てゐたら
 鳶が大きな輪をかいてみせた

  ある時

 ぎゆう、ばりばり
 おやいゝ音だな
 裏の畑で黄蜀黍とうもろこしをもぎとる音だ
 火のつくやうな髪をしたとなりのおかみさんが
 こしまき 一つで
 なにか
 ぶつぶついひながら、ぎゆう

  ある時

 ないてゐるのは
 きりぎりす
 火のやうなきりぎりす
 草の葉つぱのふかいところで
 きりきり錐きりをもみながら
 この炎天に
 恋もするだろ
 きりぎりす

  ある時

 一ぴきの
 麦藁とんぼをおつかけてきて
 ちらとみつけたたうもろこし
 とんぼつり
 とんぼつり
 おまへのかほは耳つ朶まで
 そめたやうにあかいな
 たうもろこしにほれたんだろ

  ある時

 そらが
 屋根の上で
 まあ、こんなにたかくなつた
 そしてみがきでもかけられたやうになつた
 じいつとみてゐると
 そのそらに
 畑や市街がうつつてゐるやうだ
 草の葉のそよいでゐるのもみえるやうだ
 自分の顔もどこかにうつゝてゐやしないか
 おうい、雲よ
 自分はもうなんにもいらない

  ある時

 おまへはびんぼうだな
 さうだ
 おまへは金持になりたくないか
 なりたくない
 おまへはつまらない人間だな
 さうだ
 どうだ、王様にしてやらうか
 まあお断りしよう
 なんといつても
 わたしの尻尾がつかめないので
 悪魔はかへつてしまひました

  ある時

 じめじめと
 雨がふるふる
 
 雨がふる
 蜘蛛がかるわざしてござる
 あめがふるので
 つれづれなので
 ひとりかるわざしてござる
 宙でかるわざしてござる
 秘術つくしてしてござる
 あれ
 つつつつと針金わたり
 つるり
 ぶらりと
 ぶらさがり
 あれ、あれ
 おもしろい首括り

  ある時

 こんなに海が荒れてゐるので
 どうして魚がとれるもんか
 魚なんど釣るどころか
 ぶじだつたのがめつけもんだ
 それでも海はかへりがけに
 晩にはこれで 一ぱい飲めと
 鰈かれい 一枚くれてよこした

  ある時

 友はいま遠い北海道からかへつたばかり
 ながながと旅のつかれにねころんだ畳の上で
 まだ新らしい印象をかたりはじめた
 うまれてはじめて乗つた大きな汽船のこと
 それで蒼々した海峡を
 名高い波に揺られながら横断したこと
 異国的な港々の繁華なこと
 薄倖詩人の草深い墓にまうでたこと
 トラピスト修道院の屋根がはるかに光つてゐたこと
 古戦場で珍らしい閑古鳥をきいたこと
 さまざまなことを友は語つた
 それから時にと前置をしてしめやかにその言葉を切り
 友は 一すぢの糸のやうな記憶をたどりはじめた
 それはもう黄昏近い頃であつた
 と或る田舎の小さな駅で
 身なりだけでもそれとしられる貧しい女が
 一人の乳呑児を背にくゝりつけ
 もひとりの子の手をひいて友の列車にあわただしく駆けこんだ
 車中はぎつしり 一ぱいだつた
 その女はよほどつかれてゐるらしく
 自分の席をやつとみつけて背中のこどもを膝におろした
 そしてほつといきをついた
 友のそばに無理矢理に割込ませられた大きなほうの子ども
 それは女の子であつた
 汚い着物とみにくい顔面かほ
 段々と列車の動揺するにつれ
 その動揺にほだされてくる心の弛みにがつくりと
 みんなのやうにいつかその子も首を垂れてしまつた
 はじめの間は何やかとその子のことがぞくぞくするほど気になつたが
 次第に身体からだをまつたく投げ出し
 その小さな首を友の胸のあたりに凭もたたせかけてなんの不安もなく
 すやすやと鼾いびきさへはじめたその無邪気さ
 友にはそれが可愛ゆくなつてきた
 可愛ゆくて可愛ゆくて何ともたまらなくなつてきた
 しみじみと
 汽車は用捨なくはしり走つた
 そしてぱつたり停つた
 そこは彼等の下車駅であつた
 母にめざまされたその女の子は黒い瞳をぱつちりと開いた
 友はそれをみた
 それに人間のまことの美をみた
 みたと言ふより寧むしろ解したといふべきだ
 子どもは立ちあがり
 ちらとふりむいてにつこりと而も寂しく
 「おぢさん、さよなら」と後にも前にもたつたひとことこれだけ言つた
 友はだまつて挨拶した
 かなしさがぐつと咽喉までこみ上げたので言葉の道がなくなつたのだと
 こんな話を目にでもみえるやうにしながら
 もうその眼瞼をぬらしてゐるのだ
 ああ、たまらない
 ああ、こんなのが消えてうせゆく人間の言葉であるのか

  ある時

 都会の雑音がきこえる
 都会の雑音はまるで海のやうだ
 そこにわたしたちの小さな巣もある
 その巣でしきりにわたしをよんでゐるだらう
 とうちやん
 とうちやん
 雑音にまじるその声
 鴉や雀をみんなねぐらにかへらせて
 そして日はとつぷりくれた
 とつぷりと日が暮れたのでこどもらはさみしく
 どんなにわたしをまつてゐることか
 わたしもいそぐ
 わたしはすひよせられる
 赤い灯
 海のやうな雑音のかなたで遠く
 ぽつちりとついたその灯よ

  断章 一

 どんなにくるしくつても生きねばならない
 よしこの大地を舐めずつてなりと
 生きるものは生きる
 否、くるしめばくるしむほど
 より強くかつりつぱに生きる
 くるしむものは生きる
 くるしむものばかりが生きる

  断章 二

 友よ
 断間なくふりかかるくるしみの中でも
 重い大きなくるしみが
 きずつけられた野獣のやうに
 おゝ、生きた力をよびおこすのだ
 くるしみは大きくあれ
 そこからでてくるものこそ立派な仕事だ

  断章 三

 おゝ、内なるもの
 脈打つ意志よ
 汝
 永遠の生よ

  断章 四

 おまへは世の中へでてもつと世間をみて来なければならない
 世の中でおまへのしなければならない仕事は沢山ある
 小鳥を森へかへすのだ

  断章 五

 愛にもえて
 おそろしい獣になるとき
 光りかゞやく
 そして神となる人間

  断章 六

 人間が悪魔なんだ
 人間が神になるんだ
 ──自分のやうに人間はそれを造つた

  断章 七

 いのちのあるもの!
 その厳粛なうつくしさみにくさ

  断章 八

 おゝ神様
 此の目をあけてください
 そしたらあなたが見えるでせう
 みえるやうにあけてください

  断章 九

 神が人間をつくつたか
 人間が神をつくつたか
 それはどうでもいい
 神は人間にとつてなくてならぬものだ
 それだからあるんだ

  断章 一〇

 蠅
 蠅
 さみしいときの善い友だち

  断章 一一

 世界はまつたく
 われわれのために
 つくられたものではなかつた
 おゝ、豚よ

  断章 一二

 自分のそれで釘付けられる
 その十宇架を愛せよ

  断章 一三

 虱しらみ
 虱よ
 わたしにはお前達が愛せない
 どうしたらいゝのか
 それがかなしい
 愛とはなんだ
 生とはなんだ
 それはそれとして
 お前達にも父母があり
 妻や子があり
 そしてくるしみがありたのしみがあり
 人間とおなじやうな生活をしてゐるのだと思ふと
 自分のやうにお前達がみられてならない
 その上、お前達はお前達として
 立派に生きてゆく力をもつてゐるのだ
 あゝそれでいゝ
 いゝのではないか
 いたづらに愛されようとはするな
 それでいゝのだ
 うめよ
 ふえよ
 地にみちみてよと
 創世の朝、お前達も神様の祝福をうけたのではなかつたか
 蒼白く痩せたしらみよ

  断章 一四

 怒つた顔のうつくしさ!
 かれは蛇を帯にしめてゐる

  断章 一五

 泣け、なけ
 大声をはりあげてなけ
 それだけか
 もつと泣け
 なきぬけ
 ふるだけふれば
 からりとはれるそらのやうに
 自分はそこににこにこする顔を見る

  断章 一六

 風がふくので
 そよそよと揺れる草です
 路傍の草はさみしい
 それをみるわたしもさみしい

  断章 一七

 草木をわたる秋風と
 わたりどりの翼の陰影かげ
 わたしの溜息
 そしてもろこしばたけでは
 もろこしが穂首を低く垂れてゐる
 その穂首からは
 黄金色の大粒な日光の
 なみだのやうなしづくが
 ぽたりぽたりと地に落ちてゐる
 ほたりぽたりと……

  断章 一八

 竹やぶの椿は火のやうに真赤だ
 神よ
 自分はなんと祈らう
 この烈風の中で
 この烈風の中で

  断章 一九

 おゝ人間
 汝、小さいぞ
 神に妬まれるやうな仕事は!

  断章 二〇

 畔道でぱつたりあつたよぼよぼのとしよりの
 これは涎のやうなたちばなしの
 そのわかれの言葉だ
 「一日も余計に生きつさせえよ」

  断章 二一

 一本の樹のそばをとほりすぎただけで
 それをみることによつて
 自分は自分を幸福にすることを知つてゐる
      *
 人と話をしただけで
 自分はその人を愛してゐるといふおもひによつて
 どうして幸福を感じないでゐられようか
      *
 実際、すつかり途方にくれてしまつた人でさへ
 あゝ綺麗だなと思ふやうな
 美しいものが 一歩毎にいくらでもあります
 あかんぼを御覧なさい
 朝焼けの空をごらんなさい
 伸びゆく 一本の草をごらんなさい
 あなたがたをみつめ
 あなたがたを愛するその目をごらんなさい
          ドストヱーフスキイの言葉

  断章 二二

 わしは愛されるのはくるしい
 わしは愛される資格がないからだ
 わしは何かしら
 此の天地の間にふさがるやうな大きな愛を感じてゐる
 それでもうわしの胸は 一ぱいだ
 わしを愛するかはりに人を愛してくれ
 わしは此の胸の中のものを吐きださう吐きださうと
 苦しみ喘いでゐるのだ
 このうへわしを愛してくれるな
 ひとびとよ
 しかしわしは愛する
 愛さないではゐられないのだ
          ドストヱーフスキイの言葉

  断章 二三

 打て!
 それは自分を強くするばかりだ
 
 
   真実に生きようとするもの

 妻よ
 お前はジァン・フランソワ・ミレーを知つてゐるだらう
 それを本で読んだことがあつたらう
 あの画描きのミレーのことだ
 自分達はよく彼のことをはなした
 彼がいかにまづしくあつたかをはなしあつては胸を一ぱいにし
 自分達の境遇をなぐさめ
 凡そ地上に芽ぶいたものは
 そして一きは高く蒼天をめがけるものは草木ですら
 みんなかうだと
 彼によつて自分達の仕事はいまもはげまされるのだが
 それでも二人はいくたび熱いなみだをふいたことか
 ほんとに彼のびんぼうは酷かつた
 彼等のことをおもへば
 自分達のびんぼうやくるしみなどはなんでもないと言はねばならない
 
 こゝは雪もみぞれもふらない国だ
 どこへいつても
 大きな蜜柑がいろづいてぶらぶら枝をたわめてゐる
 こんなところへきて
 この南方のあたゝかい海のほとりで
 避寒してゐる自分達
 避寒してゐるなどときいたら
 なんにもしらないひとびとはなんといふだらう
 なんとでもいはしておけ
 なんとでもおもはしておけ
 とはいへ
 このさんたんたるせいくわつはどうだ
 あの喀血にひきつゞくこのまづしさとくるしみ
 このさんたんたるせいくわつを見ろ
 雨がふればどこに棲まはう
 風がふけばどこに寝よう
 あゝかうして広い野原をさまよふ小鳥のやうな自分達
 自分はいゝ
 自分だけならいゝ
 またどんなことでもそれが妻や子どものためならばしのばう
 よろこんでしのばう
 けれど世にでたばかりのあかんぼの上にまで襲ひかゝるこのあらし
 これはどうだ
 
 いかにもよい日和ひよりの中では
 そしてなにふそくなくくらせるときには
 どんな立派なことでも言へる
 どんな立派なことでも言へ
 それでよかつた
 だがいま自分は野獣にかへる
 これぐらいのくるしみがなんだ
 自分はいゝ
 自分を打て
 自分の上にのしかかれ
 愛するものよ
 おまへたちをおもへば自分は人間をわすれる
 そして荒野の獣になる
 
 あゝ、自分は感謝する
 この人間としてのくるしみによつて
 このくるしみこそ
 神の大きな愛だといまは知るから
 きたれ
 それでも巣はみつかつた
 やつと身をいれるにたりるだけの四畳半と三畳との小さな巣
 梢にゆれてゐるやうな巣だ
 あのうれしさをおぼえてゐるか
 ひさしぶりでのんびりと
 つかれた機虫ばつたのやうに足を伸ばした冷いうすいあの垢染みたかしぶとんの上を
 うすぐらい豆粒のやうな五燭電燈の光のしたでとぢた眼睫を
 それでもぐつすりとよくねたあの夜を
 だがまた朝となり
 めざめればめのまへには雲のやうに湧きあがつて
 自分達をまつてゐるくるしみ
 大鷲のやうに爪を研ぎ
 つかみかゝり
 またかぶりつき
 たうとう自分達は最後の銅銭一つすらのこさず掻きさらはれて既に十日余
 いまははや一枚の葉書も買へず
 手紙は書いても出すことができず
 ひげはのび
 からだはあかじみた
 妻よお前の薬もかへない
 玲子よお父さんがおまへにはお伽噺でもしてきかせよう
 やりたいけれどやることのできない
 これはお菓子のかはりだ
 いつしか空つぽになつてゐる瓶と甕
 味噌も油もまつたくつきてゐるけれど
 而しかもまだ米櫃こめびつのそこには穀粒がちらばつてゐる
 その穀粒をみると
 おのづからあはさる此の手だ
 それでいのちはつながつてゐるのだ
 糸のやうにもほそぼそと
 それもなかつたら
 自分達はもうとうにむつまじく枕を一列にならべて
 この生きのくるしみから
 やすらかにゆるされてゐたんだ
 おゝ妻よ
 それから死んだおぢいさんよ
 なにもかもこれなんです
 恨んではくださいますな
 
 すべては自分の意志からくる
 自分はそれをしつてゐる
 けれどこればかりのことでへし折れるやうな意志ではない
 びんぼうがなんだ
 びんぼうがなんだ
 金銭のためにこの首がぺこペことさがるとおもふか
 はづかしいのはびんぼうではない
 そのくるしみに屈することだ
 強い大きな意志をもたないことだ
 強い大きな意志をもて
 妻よ
 それはそれとして自分はおまへのまへに跪ひざまず
 おまへは女であるけれど
 まるで戦場のつはもののやうだ
 このせいくわつの戦場で
 病める夫をみにひきうけ
 わがみのことなどはおもふひまもなく
 そのうへ
 子どもらを育てはぐくむその忙しさ
 妻として母としてのたえまなきこゝろづかひ
 自分はおまへが髪結ひをよんだのをみたことがない
 いつも自分自身の手でかきあげる
 結婚当時はそれでもやゝていねいに
 顔や襟首にまでもすこしは気を配つてゐたやうであつたが
 此頃は髪もかんたんなぐるぐる巻き
 ぐるぐるまきは自分も好きだ
 それだとておまへはすきやこのみでするのではない
 それはよくわかつてゐる
 畳みかさなる苦労から
 あのふさふさした燕色の黒髪も
 こんな黄蜀黍とうもろこしの房となる
 そしていまはそれがかへつてよく似合ふやうな女になつたお前
 それから手足のそのひゞやあかぎれ
 なりにもふりにもかまはず
 否、かまつてゐるまももたないお前
 そしてまだ齢若なお前
 それらが自分をものかげにつれていつてはよく泣かせる
 自分はえらんだ道だからいゝ
 自分は自分の道のうへに屍骸を横へるのだからいゝ
 でもおまへたちまで犠牲にするかと
 それが自分をくるしめる
 妻よ
 子ども達よ
 自分はびんぼうだからとてもおもふやうなことはできない
 おまへたちにぜいたくはさせられない
 それはこんな人間を父にもち夫にもつたものゝふしあはせで
 また実にお前達一生のわざはひといふものだ
 けれどおもへ
 金銭づくではどうともならない
 一切のうへに立つもの
 一切を征服するもの
 一切の美の美
 それをこのびんぼうやくるしみはあたへてくれる
 みかけだふしではない
 正しいほんとの人間にしてくれる
 立派にかゞやく人間であれ
 内から立派に
 おゝ谷間をながれる雪水のやうなこのびんぼうのきよらかさは
 切られるやうなこのくるしみの鋭さは
 
 あれあれ御覧
 あの遠天に小さくみえて鴉が二羽
 けふのこのときならぬ強風に
 この風をつきぬけ
 この風をつきぬけ
 この大空を横切つて飛ばうとしてゐる
 そしてこの強風とたゝかつてゐる
 その下は荒狂ふ大海原だ
 どこへゆかうとする鴉らか
 遥にめざすかなたには巣でもあるのか
 かあいゝ雛でもまつてゐるのか
 人間はみな二十日鼠のやうにみすぼらしくも
 終日家にとぢこもり
 気をくさらし
 火に獅噛みつき
 而しかもなほ縮み上つてゐるであらうに
 妻よ
 なんといふ雄々しい鴉だらう
 あゝ荘厳である
 相愛し
 相励ましてとべ
 この強風をつきぬけろ
 餓ゑかつあらそひののしりさわいでまつてゐるやうな怖しい波間に
 いまにも叩き落されさうにみえ
 それでゐてなかなか強い翼の鴉ら
 人間もおよばぬほどの勇敢な鴉ら
 ひらひらと木の葉のやうに
 さうかとみればひきはなたれた弓矢のやうに
 自分は恥ぢる
 恥ぢながらも自分は讃へる
 おゝ自分達夫婦のやうな鴉ら
 わが妻よ
 しかしもはや暴風雨は自分達のうへを通過する
 ミレーは彼等をたづねてきたその友になんと言つたか
 よくきてくれた
 君がきてくれなかつたら自分達はどうしたゞらう
 自分達はもう三日間も食べない
 だが子どもらのパンはさつきまでやつとまにあつた
 それから妻君にむかつて
 その友のもつてきたものをてわたしながら
 おい、これで薪木を一束買つてきてくれないか
 寒くつてたまらない
 みればミレーは汚い木箱に腰をかけ
 真蒼な顔をふせ
 ぶるぶるふるへてゐたといふではないか
 妻よおまへも聴いたらう
 これがミレーの言葉だ
 これが真実に生きようとする人間の言葉だ
 この言葉は力強くも
 自分を生かす
 人間を生かす
 
 何もかもしのんでおくれ
 しばらくしのんでおくれ
 いまは冬だが
 自分に新しい芽のふくまでだ
 翼の強くなるまでだ
 そして飛び且つ駆出せるやうになるまで
 跳ねかへれ、力よ
 躍りあがれ、力よ
 こんな自分は自分でない
 こんな自分はいまにほんものゝ自分が生れ
 一こゑ雄獅子のやうに咆えるとき
 尻尾をまいてこそこそ逃げだす野良犬のやうな自分だ
 いまにみろ
 いまこそ自分は自分を信ずる
 妻よ子どもたちよ
 よろこべ
 このまづしさを
 このくるしみを
 すべてはこのさんたんたるどん底から来る

   荘厳なる苦悩者の頌栄
      天日燦として焼くがごとし、
      いでて働かざる可からず
             ――ヨシノ・ヨシヤ――

 神様
 神様
 けふといふけふこそはおもひきつて
 すつかりぶちまけます
 どうぞおいやでもありませうが
 一通りおきゝください
 神様
 われわれ人間の前駆として
 われわれの大遠祖おおおやとして
 あゝ此の世のあけぼのにさびしくも
 あのアダムとイヴとがうまれでてから
 どれほどになりませう
 もうそれは
 ちらりとも日光の射さない
 深い深いそしてはてしない濃霧の中で
 一の古いかびくさい伝説として
 その真実性をすらうしなつてしまひました
 その真実性をすらうしなつてしまつた事実
 いまではどんなとしよりでも笑つて話しておりますが
 わたしはそれが悲しいのです
 神様
 ようくおきゝください
 アダムもイヴも
 あなたの御保護をうけて
 あなたの楽園では
 どんなにたのしかつたことでせう
 天空そらをとぶもの
 地を這ふもの
 ありとあらゆる生き物と
 ありとあらゆる美しさをあつめたあなたの楽園では
 どんなにたのしかつたでせう
 のぞみもなく
 ねがひもなく
 雪もふらず
 餓うれば【むしり】取る手をまつてゐる果実があり
 熱くなく
 寒くないから
 きものもいらず
 うまれたまゝの真ツ裸
 そして睡くなればやはらかい草の床です
 彼等はかなしいことも
 くるしいことも
 腹の立つことも
 それこそ何一つ知りませんでしたらう
 死ぬなどといふことは勿論
 生きてゐることすら
 それでゐて何の不足もなかつたでせう
 さうでせうか
 何の不足もなかつたでせうか
 すべてのものは
 彼等に美しかつたでせう
 彼等にたのしかつたでせう
 彼等に快かつたでせう
 彼等をそしてよろこばせたでせう
 だが神様
 あゝ神様
 彼等には一の欠けたものがありました
 それは自由でした
 神様
 あなたは彼等を創造つくりなされた
 あなたは彼等を祝福なされた
 そしてその彼等に
 世界このよの総てのものをあたへなされた
 それだのに
 あなたは唯一つ
 自由をだけは禁じなされた
 なるほど彼等があの蛇となつてあらはれた
 悪魔の言葉をきくまでは
 そんなことも知らなかつたでせう
 彼等はいかにも自由のやうに見えました
 然しまことの自由は制限をゆるしません
 彼等はその制限をやぶりました
 如何にもやぶりました
 それがいけないと仰言おつしやるのですか
 それはあんまりです
 あなたは「どんな果実をたべてもいゝ
 けれど楽園のまん中にある木のだけはいけない」と
 さうですか
 それです
 それです
 それが悲しい動機です
 それが神様
 何を暗示してゐるかよくあなたは御承知の筈です
 あなたは全智全能の方です
 それが楽園にはかうした木もあるとそれとなく
 ひそかに告げてゐるのです
 そればかりではありません
 あなたは彼等の一切すべてを知つてをられる筈です
 その過去はいふまでもなく
 現在もまたその未来も
 それだのにあなたは彼等の為るがまゝにまかせなされた
 一方で禁じておいて
 他方ではゆるされてゐる
 なんといふ矛盾でせう
 悪はそこから生れたのです
 あなたは全智全能の方です
 それだのにこれはまたなんとしたことでせう
 あゝたまらない
 さればとてあなたにくらべては物の数でもない
 弱い小さい人間です
 たゞ泣き寝入るほかないのです
 それはともあれ
 彼等は遂にその制限をやぶりました
 そしてはじめて自由でなかつたことに気づきました
 けれども遅い
 あなたはすぐそれと知るが速いか
 かつて一ど見せたこともない
 怖しいお顔をして
 お眼をぎろりと光らせて
 彼等を睨みつけられたでせう
 彼等はそれをみると
 ふるへあがつてしまひました
 そしてあゝ悪かつたとおもひました
 その時からです
 人間の
 人間の此のたましひの奥深くに
 暗い影のどこからともなくさすやうになつたのは
 暗い影です
 罪です
 罪です
 罪の巣です
 神様
 そしてたうとう彼等はたよりなくも楽園から追出されたのです
 あゝそのみじめさ
 そのむごたらしさ
 その眼のまへにひろがる大地は
 まるで沙漠ではありませんか
 生えてゐるものは荊棘けいきよくと薊あざみばかり
 ごろごろした塊ばかり
 彼等はたゞ呆然としばしは口もきけなかつたでせう
 あなたはアダムに言はれました
 「大地は汝のために呪はれる
 汝は一生のあひだ労苦してその大地から食物を獲るのだ
 汝はその大地の草を食ふのだ
 汝は面に汗してそれを食ふのだ
 そしてまたその大地にかへるのだ
 なんとなれば
 汝はその大地の塵からうまれたのだから」
 それからイヴにも言はれました
 「汝はくるしんで子を産むだらう
 われ大に汝の懐姙はらみのくるしみを増す」と
 これがあなたのお言葉です
 これがどんな響で彼等の耳に達したでせう
 おゝ神様
 彼等は荒野につゝ立つてあひかへりみたとき
 たがひに奔ほんと抱きあつたでせう
 そしてたゞ泣くより外はなかつたでせう
 神様
 あなたが大地の塵からつくられた人間でさへ
 親はその子を愛してをります
 その子のためには
 われとわが生命も惜まないのです
 人間の親がくるしみなげいてその世を儚なく生きるのも
 全くその子のためにです
 全くその子を愛するからです
 それだのにあなたは
 あなたはそれで何の後悔もありませんでしたか
 厄介者を追払つてそれでいゝ気持だとお思ひでしたか
 それにひきかへて彼等は
 いつまでさうして抱きあつてめそめそしてもゐられません
 覿面てきめんお腹が空いてくるのでした
 それをなんとかしなければなりません
 といつたところで食べ物はなんにもありません
 どうしてもこの荒野沙漠を耕して
 そこで草の葉つぱにおかれる露のやうなその生命を
 そこでつながなければなりません
 だがそれにしたところで
 ながいながいその海草のやうにのびた髪の毛がなんになりませう
 それからこれも伸びのびた手足の指のその爪
 そして木の葉のきもの
 武装といつても
 器具といっても
 これほかなんにもないのです
 けれど神様
 あゝわれわれの大遠祖達の
 彼等はしづかにその手で涙を拭ひました
 すると不思議ではありませんか
 にはかにその身内に
 ある噴水のやうなものが感ぜられました
 たしかにさうです
 それが力です
 いまゝでは夢にも知らなかつたものです
 力です
 彼等はもうびくびくしてはをりません
 さあどんなものでもくるなら来いと
 彼等は気強くなりました
 彼等は正気強くはなりましたが
 何をいふにも
 何としても
 たへられないのは空腹です
 彼等はたうとう手当り次第にそこらの草を噛みました
 その草の葉つぱの露を舐めました
 そのくるしさは楽園のたのしさがたのしさであつただけ
 それだげ酷いくるしみでした
 彼等は楽園のことをおもひだすとたまらなくなりました
 いつさんに走り帰つて
 そしてあなたに罪をわびて
 ふたゝびそこであなたの御保護のもとでくらしたいと思ひました
 けれどさう思つてふりかへつてみると
 どうでせう
 あなたの怖しい焔の剣がいつもぐるぐると旋転まわつてゐるではありませんか
 こんなことが幾度も幾度もくりかへされました
 この度毎におもひなほしおもひなほし
 だんだんその焔の剣もみむかないやうになりました
 さうすると力がその上にその上に加はつてきて
 そのくるしみとなげきの中に
 小さな望みをまきつけました
 それはほんとに種子一粒のやうな望みでした
 そんなに小さくはあつたが
 それは実に彼等のくるしみとなげきの凝固かたまつたものでした
 それに喜びの光が照り
 それに悲しみの雨がかゝり
 それはいよいよかたく
 研ぎ磨かれる宝石のやうにいよいよひかりかゞやいてきました
 彼等はそれがために
 どれほどその生命をそぎ削つたことでせう
 而しかもそれがなんでせう
 望みのためです
 望みは彼等自身のものです
 彼等自身のよろこびです
 彼等自身の幸福です
 彼等自身の光です
 彼等はほつと息を吐きました
 ですが神様
 それもほんの束の間でした
 みるとあなたの創りなされたものゝ中には
 人間にとつてはそれこそ由々しい敵がたくさんゐました
 あるものはおそろしい牙をもつてゐました
 あるものは大きな角をもつてゐました
 あるものは見えない刺はりをもつてゐました
 あるものは毒をもつてゐました
 あるものは底のないやうな怖しさをもつてゐました
 あるものは木でもなんでも引裂いてみせました
 あるものは手足の感覚をうばひました
 あるものは眩暈めくるめかせました
 あるものは死の予感さへあたへました
 まあ何と言ふことでせう
 彼等はまるで生きながら地獄に陥おとされたやうでした
 大概のものが人間の味方ではありませんでした
 そこで彼等は考へました
 (それは一種の閃きのやうなものでした
 彼等にとつては初めてのことです
 かんがへるなどといふことは)
 これはなんでも抗はないがいゝ
 いや抗はないのみでなく
 一そすゝんで愛してやる方がいゝと
 実際また愛してやるにいゝほど
 それらの中にはうつくしいものがありました
 柔順なものもありました
 然しその大部分はこつちの思慮なんかてんで何とも感ぜず
 どしどし突進してくるのです
 いゝ匂ひをかぎつけた蒼蠅のやうに群集してくるのです
 それが追へば逃げるやうなものではありません
 逃げれば猛つて追駆けてくるし
 追はれゝば追はれたで
 怒り狂つてむかつてくるではありませんか
 あゝ人間最初のそして大なる苦悩者
 彼等はさうしてそれらを
 樹の上にさけ
 土窟つちあなの奥にさけ
 また水の中にさけました
 而しかもいたるところに於て彼等は敵にであひました
 ときには衝突もしました
 攻撃もしました
 そして打倒し傷け殺してやつとその身をまもりました
 そして幸に生きながらへたのです
 くるしめばくるしむほど
 力が加はり
 知恵がまし
 ますます彼等は強くなるばかりでした
 やがて耕した大地はよい穀物をみのらせました
 立木をそのまゝの柱にして
 大きな樹の下かげに
 彼等は家らしいものを造りました
 いつしか姙胎みごもつてゐたイヴは
 そこでカインを産みおとしました
 その時アダムはおどろいて言ひました
 「あゝ自分等は神様によつてここに一人の人間を得た」と
 どんなに喜んだことでせうか
 それは彼等にとつては
 闇夜に一つぽつちりとともる灯をみつけたやうなものでした
 すこしも神様をうらんでなどはをりません
 すこしでもあなたに対して不平がましいことは言つてはをりません
 見上げたものです
 あなたのその残忍にもひとしい聖旨みこゝろにくらべて
 何といふいぢらしいほどの敬虔けいけんでせう
 だがそれはまた
 何といふおほきな海のやうな心でせう
 あるひは不平も怨恨うらみも全然なかつたのでもなかつたでせうが
 子どものうまれたよろこびで
 それらはみんな流れるやうに消え去つてしまつたのかも知れません
 たゞ呟言つぶやき一つ泄らしてゐないのは事実です
 神様
 彼等はさうしたくるしみの中で
 よせてはかへし
 よせてはかへし
 彼等の上にのしかゝるそのくるしみの間にあつて
 どうぞおきゝください
 あゝ呟言一つ泄らしませんでした
 
 神様
 神様
 どうぞよくお聴きください
 彼等の望みはカインをかれらの手にいだかせて
 さらに何をか求めてゐました
 つゞいてアベルが大きな太陽をみにでてきました
 アベルは羊を牧ひました
 カインは土を耕しました
 二人ともその父母のやうにあなたの前に柔順でした
 けれどあなたは公平を欠いでゐました
 あなたはカインの供物をしりぞけて
 アベルのそれだけうけられた
 それはどういふ訳です
 なんでそんな依怙えこひいきの事をなさつたのです
 カインの腹立つたのは当然です
 あなたが腹を立たせたのです
 そしてカインをして
 大逆非道の血をながさせたのです
 あなたがアベルを殺したもおんなじです
 あゝ大地は血塗られました
 あゝ殺すなかれとをしふるあなたが
 かうして人間に罪の歴史をかゝせるのです
 かうして人間を汚すのです
 かうして人間をその生けるかぎりくるしめるのです
 愛するがゆゑに鞭打つのだとは
 それは人間のうつくしいそしてけなげな言葉です
 それはあなたのお言葉ではありません
 あなたはちやうど人間のこどもらがその玩具おもちやとあそぶやうに
 われわれ人間に対してゐられるやうです
 可愛がつてゐるでせう
 だがこはれるまでその手から離しはしません
 必然きつといつかは壊はします
 而しかも責任なんか感じはしません
 こはれたら棄てるまでゞす
 涙なんか流しはしません
 よし流したところで
 それはおもちやを愛してゞはなく
 それによつて自分自身が傷つけられたからです
 あそぶ対手あいてがないからです
 自身に腹を立てゝ
 神様
 彼等はつひに老ひ衰へて死にました
 アダムもイヴも死にました
 アベルを殺したカインも死んでしまひました
 そのあとからぞろぞろ生れたものも
 みんなくるしんでくるしんで
 くるしみぬいて死にました
 誰だつてみんな死んでしまふのです
 あなたはさう人間をつくられたのです
 人間がなんでせう
 人間がなんでせう
 よろこびもかなしみも
 栄誉も努力も富も権威もそれがなんでせう
 たゞ死です
 酬いられるものはそれだけです
 神様
 まつたくあなたにはかなひません
 まつたくあなたのさづけた運命どほりです
 まつたく人間は惨めなものです
 まつたくあなたの勝利です
 だが神様
 それで総てゞはありません
 おきゝください
 われわれはくるしみくるしんできたあひだに
 いつとしもなく強くなりました
 運命をすら嘲あざけるほどになりました
 くるしめられるのをかへつて喜ぶやうになりました
 くるしむといふことによつて
 一きわその体からだにおいても霊魂たましひにおいても強く
 純くそして美しくなることをまなびました
 死ぬためにうまれるやうな人間も
 いまはその死すら怖れてはゐません
 それは多勢の中にはよくよく意気地のない人間もあります
 如何にもかれらは死を怖れます
 怖れてゐるやうです
 然し彼等といへども死の不可避であることは知つてゐます
 だからと自暴自棄に陥入りません
 ある諦認ていにんをもつてゐるから
 事実その死に面接しても決してあわてふためくやうなことはありません
 寧むしろある快感にすら自己をあたへて
 静に眠つてゆくのです
 神様
 あなたは人間に運命のその最終最悪のものとして
 死をあたへられました
 そしてそれがあなたの決定的な勝利です
 さうです
 はたしてさうでせうか
 神様
 それはあの鰻うなぎがつるりと指と指とのあひだを滑りぬけるやうに
 御覧ください
 人間は精神的にひよつこりとその死のうしろに現れて
 赤い舌をぺろりとだして笑ふので
 それほど人間は怜悧さかしくなりました
 われわれの大遠祖が知恵の木の実をたべたからかも知れません
 それほど怜悧しくなつてゐることをどうしませう
 そればかりは如何なあなたでも
 あなたの全智全能をもつてしても
 どうしようもありますまい
 それもこれもくるしみくるしんだその経験の賜物です
 あゝ此処でのみです
 人間が人間らしくそれ自らの意志で生きてゐられるのは
 ぶつ倒されるとも曲げない意志
 曲げられるとも折れない意志
 殺されるとも死なゝい意志
 大地の塵でありながらその大地をも踏みつける意志
 さては創造者であるあなたですら
 その意志にかゝつては火に触れたやうに手を焼くでせう
 詩人はきつぱりと言ひました
 息絶ゆるとも否と言へ
 それでこそ人間だと
 けれど神様
 人間がこの意志をかちうるまでに
 ながした涙
 ながした汗
 ながした血
 それはまことに普通なみ大抵のものではありませんでした
 みんなあなた故です
 知恵の木の実のことは言はないでください
 食べてならないやうなものを
 なぜあなたは彼等の眼の前におかれたのです
 それもみれば食べたいやうに美しくして
 それではまるでおとしあなでもこしらへておくやうなものです
 それもわが子としての人間に対して
 いやいや神様
 こんなことはすべて泣き言のやうに聴こえて耳ざはりです
 さて神様
 すべて優秀な人間は運命にもてあそばれません
 また死にも呑噬のみこまれません
 刃金はがねのやうな意志として
 あなたですら尊敬しなければゐられないやうな光を射つのです
 世にはあなたを信じ
 あなたに頼るたくさんの人人があります
 あなたを信じ
 あなたに頼り
 あなたを崇む
 あなたをあふいでをりながら
 それでゐてそれこそろくでなしの人人が少くはありません
 大抵さうした人間は意気地なしです
 さうかとみると
 あなたのことなどは何にも知らず
 また知つてゐても信ずるでもなし頼るでもなし
 而しかも立派な人間があります
 あなたは信じられたよられて
 その人人に乞食のぼろのやうにぶらさがられるのがお好きですか
 それとも冷淡のやうには見えても独立自尊
 そして喋舌しやべらず跳ねず
 堂々とそれこそ静粛しづかにおもおもしく
 その自らなる天真唯一の道をゆくものがお好きですか
 優秀な人間はいたづらに信頼しません
 よつてたかつて騒ぐのは蛆虫です
 「われに来れ
 われ汝らを休息やすません」とおつしやつて御覧なさいまし
 蛆虫はよろこんで群りますが
 人間の中の人間はそれにお答へします
 「ありがたうございます
 これぐらゐのことは何でもありません
 私などよりもつともつとあなたの必要な人人がをります
 私にはどうぞお構ひなく」と
 その人はたいそう疲れてゐるやうです
 然し健気にもさう言ひます
 そればかりではありません
 神様
 そのひとはそのときかへつて何かあなたがこまつてゐるとすれば
 それを自分で代らうとさへ言ひ出すかも知れません
 そのひとは神様にすら手伝はうとします
 蛆虫のやうなあなたの信頼者には不可能なことです
 彼等は唯、主よ主よとよばはつて
 それで貴い日を暮らすのです
 それで救はれるとおもつてゐるのです
 てんでもう自分のことばかり
 それも牡丹餅で頬つぺたを打たれるやうな幸福ばかり
 それを祈りもとめてゐるのです
 その周囲になげき悲しんでゐるひとびとの声が聞えないやうです
 またその惨めなすがたも賭えないやうです
 いや、きこえないではありません
 
 みえないのでもありません
 よくきこえてゐるのです
 よくみえてゐるのです
 そしてよく知つてゐるのです
 ですがもう癰瘋病ちゆうぶやみのやうにあなたに凝固まつた彼等は
 あなたを信頼して
 それに満足して
 それにすつかり惑溺して
 もうまつたくその麻痺的悦楽に
 その指一本それがために動かすのすらものういのです
 それがあなたの忠実な信者です
 彼等はあなたに酔つてゐるのです
 あなたのためには親も子も夫婦もなんにもありません
 あなたのためには自分も他人も
 真理も美も理性もなんにもありません
 まるで狂人きちがひです
 さうしたひとびとをつかまへて
 「たゞ信ぜよ
 信ずるものは救はれる」と
 あゝそもそもの誤錯あやまりはそこにあるのです
 あなたがそんなことを
 あなたのお教へとして伝へさせなさるからいけません
 一切教へてはいけません
 何もをしへないでください
 人間はどんなことでも自然にそれをさとります
 そして終にはあなたに手伝ふまでになるのでせう
 いや手伝ふのではありません
 一しよに仕事をするのです
 そのひとです
 人間の仕事と神様の仕事とになんの差別もおかないのは
 それが優秀な人間です
 神様
 だがそのひとは決してあなたに盲従しません
 あなたをすら批判します
 あなたをすら試練します
 あなたが完全円満でないなら
 その欠点を指摘します
 あなたを自分の神様とするためにはほくろ一つほどのことも
 そのまゝには見逃しません
 而しかもそのひとは自分が大地の塵であることを知つてゐます
 そのひとの謙譲には底がありません
 そのひとは人間の知識を天空そらの星の一つともおもつてはゐません
 それでゐて
 そのひとは自分を棄てません
 これを優秀な人間といひます
 間違つてゐませうか
 そのひととは私の事です
 
 神様
 私はあなたを認識します
 私はあなたを体験します
 けれど私はあなたにたよりはしません
 多くのものはあなたを認識しません
 また体験もしません
 唯、頼るのです
 唯、頼るばかりです
 たよつてそしてその応顕を求めるのです
 もとめてそして得られないと
 失望してつぶやくのです
 つぶやきながらも尚も求めるのです
 然しそれでも得られないと
 そこであなたをうらんで憎んで棄てるのです
 無神論者といふのがあります
 卑しい利我的な慾望の孵へつたものです
 みかけはいかにも寂静で
 淡然としてゐるやうだがそれは欺いてゐます
 とにかくたよるからいけないのでせう
 たよつて何になりませう
 人間のそのときどきに変る天気模様のやうな願望のために
 厳然たる宇宙の法則がまげられますか
 一体、宇宙は人間のためにあるのでせうか
 それとも人間がかへつて宇宙のためにあるのでせうか
 また願望は法則のためですか
 法則が願望のためなんですか
 私は宇宙の法則といひました
 それはあなたの聖旨みこゝろといつてもおなじことです
 また万人は万様のこゝろをもつてゐます
 したがつて万様の生活をします
 その願望も万様です
 傘商からかさやには雨の日がよく
 染物屋には天気がいゝのです
 如何にも万人一様の願望はあります
 けれどそれはあなたにたよるものゝ願望ではありません
 あなたにたよるひとはあなたを体認してゐるやうで
 実はさうでありません
 真にあなたを体認してゐるひとは決してあなたにたよりません
 真にあなたを体認してゐるひとは万人共通のこゝろを持つてをります
 私はあなたにたよりません
 あなたは人間のたよるべきものではありますまい
 神様
 私はくりかへして言ひます
 私はあなたにたよりません
 私はあなたを体認します
 此の体認がすなはち私の信仰です
 此の信仰は懐疑的です
 此の信仰が深くなればなるほど懐疑がそれだけ大きくなります
 懐疑は勇敢です
 懐疑は真実です
 懐疑は火花をちらします
 懐疑は悲痛です
 懐疑はより大きな信仰をもたうとするものゝとほらねばならぬ道です
 私はあなたを体認します
 あなたに対する私の体認はむしろ反抗的です
 あなたは私の敵です
 敵といふ言葉が穏かでないとすれば対象と言ひませう
 あなたは私の対象です
 あなたは人間の対象です
 あなたなしに私は一日たりとも生きてはをられません
 あなたはわれわれの理想です
 願くば無限に大きな理想であれ
 神様
 われわれはあなたを理想として見ます
 どういふものでせう
 一つの癖です
 ところが実際のあなたは
 われわれ人間ですらが顔面かほをそむけるやうなことを平気でなさるのです
 われわれ人間ですらと言つたのは
 開闢かいびやく以来くるしめくるしめられてきた間に
 いつとなく
 その手にしつかりと掴んだ悪です
 われわれは悪い人間です
 いかにも悪い人間です
 あなたの罪の子です
 けれどそしてほそくはあるが良心とやらいふ一とすぢのうつくしい煙を
 猶おのおのゝその燻香の壷から立てゝゐます
 われわれは恥を知つてゐる
 あなたにはそれがありません
 あなたの御業はすべて神聖でそして慈悲深いやうに誰もおもひます
 さうでせうか
 それはあなたの御相おすがたも時代によつていろいろと
 それこそ猫の眼玉のやうに変転して
 いつもおんなじではありませんでしたが
 それにしてもなかなかわれわれの理想とすることのできない
 そんなことをなさることがたびたびありました
 楽園追放のことはいひました
 創世第一の人殺しのこともいひました
 それからさまざまのことがありました
 そのなかでもあなたが悪魔もしないやうなことをなされたのは
 バベルの塔のことです
 その場合のあなたはまるで賽の河原の鬼です
 それが生めよ殖えよ地にみちみてよと
 祝福なされてゐるあなたの人間に対する御業です
 それからノアの大洪水です
 凡およそ世にざんにんといつてもぼうぎやくといっても
 これほどのことがありませうか
 言葉以上のことです
 感情以上のことです
 人間あつて以来の
 それこそ人間にとつては言語に絶した大凶禍でした
 二どとないことです
 それともあなたは気まぐれですから
 そのお腹なかの虫のゐかげんで
 どんなことをやりだしなさるかも知れません
 だが神様
 人間はもうくりかへしくりかへし酷い目にばかりあつてゐるので
 善い経験をしてをります
 それで強くなつてをります
 あなたのくだす天の災害にあつても
 もうぴよこぴよこと頭をば地べたにすりつけぬほどになりました
 それはさて
 ひとびとのこゝろがあなたを慕ふよりは
 各々飲み食ひめとりとつぎなどしてたのしむやうになつたといふ理由で
 あなたは腹を立て
 あなたのすきなノアの一家族をのぞいての外はことごとく
 彼等を水に溺らしてしまひなされた
 大逆殺です
 人間界に於てならその一人を殺しても
 それは不倶戴天の罪悪なのです
 相助けるに術すべもなく
 相呼びかはし
 相擁き
 一すぢの髪の毛ほどのものにすら
 すがりすがつて生き存らへようとした彼等の
 その悲鳴をあなたは
 小気味よくおきゝなされてか
 あなたは神様です
 なんでもできます
 なんでもしようとおもへばできるだけそれだけ
 あなたの御眼からみるならば人間が一ぴきの蟻をみるそれほどでもなからうものを
 まことに憐憫あはれみの無いなされかたです
 われわれは馬鹿な子ほど可愛いといひます
 もつともです
 馬鹿なもんだから
 馬鹿でないものより一層愛されなければならないのです
 それがあなたになると
 なんでもかんでも運命的です
 あなたに嫌はれたが最後です
 あなたはいかにも正しいやうです
 正義の神様のやうです
 正義のためには愛もなさけもないやうです
 あゝ正義
 善を善とし悪を悪とする秋霜烈日しゆうそうれつじつのやうな威厳
 ひきぬかれた刃のやうな精神
 それはいゝ
 けれどあなたの正義はあてにならない
 あなたは神様です
 だからあなたにあてる尺度はない
 あなたは自ら尺度とならねばならない
 だがあなたの気まぐれを尺度としたら此の世界は闇です
 これでもどうかかうかやつてゐるといふのも
 全くわれわれ自らの生活にあてはめて
 その最も善美とするところを
 われわれ自らの意志でつくりあげたその道徳によつてゞす
 あなたによつてゞはありません
 あなたは道徳圏外の存在者です
 われわれの中には道徳はあなたからきたといふものもありますが
 それは空想です
 その兄の家督権を巧妙な詐欺によつて横取りした
 あのヤコブを愛し保護して
 あの大家族の家長としたほどのあなたではありませんか
 何が摂理です
 摂理とはあなたの気まぐれのことですか
 まつたくあなたの御心は解らない
 
 あゝ此の世のあけぼのにさびしくも
 あのアダムとイヴがうまれでてから
 どれほどになりませう
 神様
 千年万年もあなたにはたゞの一瞬のことでせうが
 われわれ人間の一生としては勿論
 それはとても信じられないほどの距離をもつた長時間です
 その間において人間にはさまざまのことがありました
 人間は絶えずくるしめられくるしめられてきました
 みんなあなたの御掌おんての中にあつてのことです
 そしてかなり悪くなりました
 人間は悪くなりました
 けれど強くなりました
 強くなりました
 あなたに憎まれ
 あなたのくだした運命にもてあそばれて
 くるしんでゐるものを見れば
 それがあなたであらうが何であらうが
 自分自身もまつたくわすれて
 用捨なく
 逡巡なく
 ふるひたちます
 切歯はがみします
 髪毛をもつて天を衝きます
 その天をにらみつけます
 その天をずり落さうと腕を鳴らして大地を踏みます
 神様
 あなたはわれわれの大遠祖を楽園から追ひだしなされた
 さてこんどはわれわれ人間はこのにんげんの世界から
 あなたを追放する時です
 あなたはそれほど深い怨恨をわれわれの胸に醸しました
 もうわれわれは騙されません
 われわれ人間がこんな怖しい企図をもつたといふのも
 みんなあなたの御業ゆゑです
 こんなに人間は悪くなりました
 いまではこれが天性です
 あなたの御業の影響から自おのづからうまれでたものです
 こればつかりで生きて行かれる
 人間にとつてこれは貴い崇高けだかい力です
 神様
 人間は自主です
 もうあなたの奴隷ではありません
 此の貴い崇高い力のうへに立つた人間
 御覧ください
 この人間のかゞやかしさを
 光りかゞやく人間を
 まるで神様です
 あなたのやうです
 さうです
 人間はだれもかれもあなたにかはつてみな神様であるべきです
 各自は各自の神様であるべきです
 あなたは人間最初の男女を塵からつくりなさる時
 それをあなたの御像おすがたに似せられたといふことですが
 似せられたものがいまはほんものになる時です
 われわれは自主です
 もはや一たび自覚したものです
 どうしてまたその檻舎こやほどの意味しかもたない
 あなたの楽園にさもしくも豚のやうにかへられませうか
 もうかまはないでいたゞきます
 指一つ触れてもくださいませんやうに
 これが人間のおねがひです
 われわれ人間はもうあなたにかへるべきではありません
 それをよく知りました
 あなたは人間のたよるべきものではありません
 まだその迷宮の闇にゐて
 真実なひかりの世界へ望みの糸をみつけないものもありますが
 時はもう近づきました
 やがてそのひとびとも知るでせう
 何物もたよつてはならない
 何物もたよれない
 何物にもたよられてもならぬと
 すべて自然であれ
 たよることでない
 たよられることでない
 たよらうがたよるまいが真理はやはり真理であります
 理想としてのあなたもさうでなければなりますまい
 だがわたしにはあなたのお心はわからない
 神様
 あなたは一体どんなお心です
 気まぐれかとおもへば正しいこともあり
 正しいかとおもへばとんでもないことをしでかしなさる
 ほんとにわかりません
 愛されてゐるのか
 憎まれてゐるのか
 めぐまれてゐるのか
 鞭打たれてゐるのか
 さらに人間はあなたの真の子なのか
 それとも全然塵の塊りなのか
 まつたくわからない
 わかつたつてどうならう
 事実は事実です
 現在いまは現在です
 過去は一点一画のあやまりもなくその通りですし
 未来もちやんとなるやうにしきやなりはしません
 実に公明です
 秋の天空のやうにはつきりとしてゐます
 だがあなたのお心ばかりはどうしてもわからない
 それもさうだが
 神様
 あなたは全体何者ですか
 おどろかないでいたゞきます
 早晩こんな質問は当然あなたにむかつて発せらるべきでした
 何とお答へになりますか
 それとも永遠の沈黙で有耶無耶うやむやのうちに葬り去つてしまはうとなさりますか
 その手にはかゝりません
 そんなことでおとなしく引込んでゐるやうな人間ではなくなりました
 何とか言つてください
 耳がありませんか
 眼がありませんか
 口がありませんか
 あなたは何です
 形体かたちのあるものですか
 それとも観念ですか
 実在ですか
 空想の所産ですか
 あなたは何です
 何かであるはずです
 力ですか
 生命ですか
 有ですか
 無ですが
 なんでもいゝ
 なんでもいゝ
 それが何だつてわれわれ人間はかまひません
 どうにもならないからです
 あなたの有無が何です
 あなたが有らうが無からうが人間は人間です
 その人間はくるしんできました
 そして悪くなりました
 けれど強くなりました
 その上、あの原人アダムとイヴとが
 一鍬一鍬とあら荒野あらのの土をたがやしたやうに
 そしてそこに此の世界のはじめを拓いたやうに
 われわれもまたすこしづつでも
 すべてのものを
 人間のこのびめうな感覚と神経とで
 自分自分のこゝろに
 自分自分のものとして見出さなければなりません
 さいはひにも彼等が知恵の木の実をたべてゐてくれた
 から
 自分達にそれができます
 いかにも此の宇宙天体の麗さなどよりみれば
 その偉大に幻惑されて
 そこにはたしかにあなたがあり
 あなたこそまことにその創造者のやうに思はれます
 けれど神様
 さうおもふのはわれわれです
 われわれにはまたそれが否定もできるのです
 われわれの知恵において
 あゝ此の知恵
 それをこんなに大きくしたのは人問です
 それをこんなに荘厳にしたのも人間です
 われわれの力でゝはありませんか
 われわれではありませんか
 いまこそ人間は一切の上にあります
 あなたでもわれわれあつてのものではないのか
 あゝ知恵の木の実ばかりでなしに
 またとないそのよい機会を
 ほんとに、手ついでに
 その生命の木の実もたべてしまへばどうでしたらう
 私はそれをしみじみ思ひます
 然しもうそれは漠々たる太古のことです
 あんまりあてにならないことです
 なにがなんだか
 一切がわかりません
 たゞ瞭然りようぜんたるものはわれわれです
 人間です
 人間各自の存在です
 それだけです
 あなたは理想です
 無限大なる理想であれ
 神様
 もうすこしおきゝください
 私にもすこし喋舌しやべらしてください
 悪魔にひとこと御礼が言ひたいのです
 ごめんなさい
 さて悪魔よ
 あの時お前さんがわれわれ人類の前駆者である彼等に
 あのお美味いしい知恵の木の実ををしへて
 そして食べさせてくれたばかりに
 彼等をはじめその後裔としての人類すべては
 それはそれは泣かない日とてはなかつたのです
 だがまたそのお蔭で
 われわれ人間はいまこのとほりな怜悧さかしいものとなりました
 ありとあらゆる物の上に立つてゐるのもそのためです
 神様にすら運命にすら
 だらしなく跪かなくなつたのもそのためです
 一にはそのながいながい苦しい経験にもよりますが
 その動機はと言へば
 お前さんの手引からです
 われわれはお前さんに何と感謝したらいゝでせう
 ところがこれも神様の嫉妬からのことだが
 お前さんとわれわれの間は
 一尾の魚を二つに截切つたやうにされてしまつた
 そればかりか
 お互はおなじく酷い目にあつてをりながら
 相互になぐさめ合はうとはせず
 かへつて眼を双方でむいて睨めあつてゐるのだ
 いつまでこんなことをしてゐてよいものか
 どうして理解出来ないのか
 どうして和睦出来ないのか
 人人はもう悪魔ときけば震へあがつておそれてゐる
 それでゐて降服はしない
 降服しないのはいゝ
 降服しなくてもいゝから
 和解しろ
 ところがそれもできないんだ
 神様の御機嫌を損じたらそれこそことだとおもつてゐるのでだ
 何といふ意気地のないことだらう
 神様もまた神様なんだ
 「敵をも愛せよ」などとをしへておきながら
 随分、厳しいんだ
 それこそ敵とみたらなかなか人間が蚤や虱をみるのとは違ふんだ
 おそろしい神様なんだ
 一刻の容赦もないんだ
 一寸の躊躇ちゆうちよもないんだ
 徹頭徹尾なんだ
 絶対的なんだ
 もう本質としてゆるさないんだ
 お前さんもよく知つてるだらう
 ずいぶんつらからう
 「汝はアダムとイヴとを誘惑まどは
 かの知恵の木の実をくらはせたるによりて
 諸もろもろの家畜と野のすべての獣よりもまさりて呪はる
 汝は腹這ひて一生のあひだ地の塵をくらふべし」
 神様がはら立ちまぎれにさう言つてからの
 お前さん達は実に惨めなものになつた
 わたしはそれを気の毒におもふ
 そればかりではないんだ
 神様は御自分の疳癪玉かんしやくだまをとこしへにお前さん達と人間とのあひだにおいて
 絶えず爆発させようといふんだ
 そして御自分はそれを高みでの見物さ
 「われ汝と婦女の間
 および汝の苗裔すゑと婦女の苗裔とのあひだに怨恨うらみを置かん
 かれは汝の頭をくだき
 汝はかれの踵をくだかん」だと
 いゝ顔面つらの皮だ
 なるほど最初はわれわれの大遠祖達もお前さんをよくは思はなかつたらう
 お前さんさへ誘惑してくれなかつたらと
 つらいめにあふにつけ
 かなしいことにあふにつけ
 さう思つたにちがひない
 けれどだんだんいろいろと事と物との真相がわかつてくると
 お前さん達はもう人間の敵ではなくなつたのさ
 却つておんなじやうに酷い運命のあらしにあつてゐる友達なんだ
 それがわかつたんだ
 それがわかると人間の生活もさらりと一変しましたよ
 お前さん達をはじめ
 あらゆる生物に対して人間は
 人間同志の間にしかもつてゐなかつた愛情を
 汎ひろくそして普あまねくもつやうになつたんです
 神様はそれが気に喰はないんだ
 でもまさか愛してはならないとも言へないので
 知らん顔をしてゐるんだ
 見ないふりをしてゐるんだ
 何故なら万物を人間がその対象とするやうになると
 唯一存在と自認してゐる神様は
 神様としてのその面目をうしなつてしまふからだ
 で内心頗すこぶる怒つてゐるんだ
 「自分以外の何物をも拝んではならない
 自分の創造物を拝んではならない
 また汝等のつくつたものを拝んでもならない
 自分は天地の神である」
 あの馬鹿正直なモオゼに
 あの頑愚がんぐなひとびとの指導者モオゼに
 その頑愚なひとびとにむかつて
 鉄面皮にもさういはせたが
 それも線香花火のやうなものであつた
 まあ見な
 これが神様のお言葉だ
 何といふ自己推挙だらう
 何といふことだ
 いまどきのあのづうづうしい商人などの自家広告もこれまでだ
 かうなると
 へん、何んとでも言ふがいゝや
 どんなにでも威張るがいゝや
 拝みたけりや催促されないたつて拝みますが
 拝みたくなけりゃ
 この口をふんざかれるつたつて拝みやしねえよ
 とでもつい言ひたくなるんだ
 またさうした自由を実際にわれわれはもつてゐるんだから
 お前さん達も時々退屈まぎれの悪戯いたづらから
 われわれの生活がそれで
 ちよいと蚯蚓みみずばれになるぐらゐのことはするが
 それはほんの悪戯だ
 名からして悪魔なんだから
 それつばかりのことは敢て咎めるまでもないのさ
 神様の遣り口からみると
 ほんとに可愛いぐらゐのもんだ
 人々は一切の不幸災禍をみんなお前さん達にしてゐるが
 あれは全然まちがつてゐる
 一切の運命は神様のお手のものだ
 死ですらさうだ
 決してお前さん達のすることぢやない
 何でもかでもみな神様のすることだ
 それを善いことは自分のものとして
 悪いことはみんなお前さん達になすりつける神様
 すべてがそれです
 またそれを真正直にその通り信じきつてゐる馬鹿ものもあるんだ
 だがもう夜は明けなければなりません
 人間はみんなめざめなければなりません
 その時が来たんです
 誰でも自分で自分をやしなつてゐるのです
 自分で自分をまもつてゐるのです
 自分で自分をなぐさめてゐるのです
 自分で自分を鞭打つてゐるのです
 自分で自分を導いてゐるのです
 自分々々です
 それ外無いのです
 それはちやうど燕などが海上でもわたるやうなものです
 ひとのことなどは言つてゐられないのです
 然しそれでいゝのです
 そればつかりでおたがひは強く仲善く生きられるのです
 さうです
 そのやうにしてまづ自己が確立してゐなければ
 どうしてひとの上にだつてその手がやさしく伸べられませう
 人間はそれを知りました
 人間はそれを知りました
 まあ何といふすばらしいことでせう
 人間にとつては
 第二の天地開闢です
 第二ではありません
 これが真の曙あけぼのです
 人間の霊魂の曙なのです
 如何にもあのときアダムとイヴとは生命の木の実をたべませんでした
 だがそれがなんでせう
 人間は自分の足でこの大地を踏まへてゐるのです
 自分の手でさまざまの戦争の器と生業なりはひの器とをつくり
 自分の眼で見
 自分の耳できゝ
 自分の鼻で嗅ぎ
 自身の舌で味ひ
 自分の口でいひ
 自分の頭脳にふかくこもつたその知恵でどんなことでも考へます
 かぎりなきいのちすらいまは知つてをります
 運命などはもう人間にとつてなんでもありません
 われわれはそれをすつかり逆にすら考へることが出来ます
 もう人間は自由です
 人間は永遠の意味をしりました
 そしてその永遠を瞬間に生きてをります
 
 神様
 あなたの創られた愚かな人間どもの中には
 あなたを愛の神様だなどとあがめて
 それでいゝ気になつてゐるあんぽんたんがをります
 それがかなり沢山をります
 あなたは愛の神様ですか
 いまもむかしもあなたは決して愛の神様ではありません
 あなたは苦痛の神様です
 あなたは怖しい神様です
 あなたは暴逆な神様です
 あなたは無情な神様です
 あなたは貪欲な神様です
 あなたは身勝手な神様です
 あなたはきまぐれな神様です
 あなたは真実のない神様です
 あなたは自惚な神様です
 あなたは酒好きです
 あなたは喧嘩好きです
 あなたはをんな好きです
 あなたは人間の涙をこのみ血をこのむ神様です
 人間と人間とのあらそひ
 人間と人間以外の生物とのあらそひ
 人間と自然とのあらそい
 すべての争の種子を播くのはあなたです
 あなたが不吉の火元なんです
 かの大洪水で全人類をこの地上からすつかり滅亡ぼしつくされた時
 お気に入りのノアとその家族だけは残されました
 そしてたいへんなあの長雨の雨上がりに
 大空にうつくしい虹などをみせてよろこばれ
 ノアにむかって
 その子孫をかぎりなく祝福すると言はれてゐながら
 あなたの本性うまれつきはまるで空をゆく雲です
 そんな契約などをまじめくさつて守つてゐるやうなあなたではありません
 嘘吐きのあなたは
 けろりとした顔をして
 すぐ人間虐いぢめにとりかゝりました
 あなたの人間虐め
 あなたの弱い者虐め
 それはもういまはじまつてのことではありません
 めづらしいことではありません
 まがなすきがそれです
 ひまさへあるとそれです
 日々のことです
 夜の目もそれです
 とても一々ならべたてられたものではありません
 人間あつて以来ずつと糸のやうに引きつゞいてきたことです
 いまといふいまゝでそれがためにどんなに人間は泣いたでせう
 あゝおもへばよくもよくもこんなに憎まれて来たものです
 こんなに憎まれ苦しめられながら
 生きてきたのが不思議です
 生きてゐるのが不思議です
 いや、それでこそ人間なのです
 たくさんくるしめてください
 それが人間に堪へられるか
 根競べです
 力をゆるめないでください
 可哀そうだなどとはゆめにもおもつてはくださいますな
 愛されたくないのです
 愛されると弱くなります
 強いところが人間の価値です
 そればかりです
 意地です
 此の意地があるのでばかり生き存へてきたのです
 あゝ此の人間
 神様
 おきゝでせうか
 どうぞよくおきゝなすつてください
 あなたは混沌から此の世界をばつくりなされた
 あなたは光をつくりなされた
 あなたはその光と闇とをわかちなされた
 あなたは朝と夕とをさだめなされた
 あなたは夜と昼とをさだめなされた
 あなたは穹蒼をつくりなされた
 そしてその穹蒼と大地とをわかちなされた
 その穹蒼を天とよび
 地に水のあつまれるところを海とよび
 地には青草と
 実瓜たねを生ずる草と
 おのづから核をもつところの樹々と
 それらのものをつくりなされた
 あなたはまた
 夜と昼とにしたがつて
 季節をさだめ
 日をさだめ
 時をさだめ
 かゞやく二つの光をつくり
 その大なる光をして昼を司どらせなされた
 それが太陽です
 その小さな光をして夜をまもらせなされた
 それは月です
 あなたはまた水には魚ら
 天には鳥と羽ある虫虫
 地には獣とすべての這ふもの
 それら諸もろもろのものをつくりなされた
 いやはてにあなたは大地の塵より人間を
 この人間をつくりなされた
 それを男となし
 女となし
 男にはすべてのものに名をつけさせ
 女をばすべてのものゝ母となされた
 そしてすべてのものをその人間に与へなされた
 その人間即ちわれわれの大遠祖に
 すべてのものをあたへなされたといふ
 すべてのものをあたへなされたといふが
 何一つあたへなされはしませんでした
 それこそ何一つ
 けれどいま人間は一切の所有者です
 此の一切はみんな長い長いその年月のあひだの
 くるしいくるしい努力からかち得たものです
 われわれ自らのものです
 いまからおもへば
 あなたのわれわれ人間のためにつくられた此の世界は
 それはそれは人間にとつては
 不都合極まるものでした
 われわれ人間の生活を脅かすものがみちみちてゐました
 いまも頭を列べてをります
 大方征服しはしましたが
 まだまだたくさん残つてをります
 而しかもいつかはみんな降参させてしまふでせう
 それを考へるとたのしみです
 いふにいはれぬよろこびです
 とにかく世界は
 此の世界のはじめは
 荊棘けいきよくと薊あざみと石ころばかりのそこはひどい荒野でした
 それをこんなにしたのです
 それは人間です
 人間が此の世界を拓いてこれほどにしたのです
 かくもよくしたのです
 かくも美しく見られるやうにしたのです
 
 もうやめます
 いくら言つても際限のないことですから
 神様
 どんなにかおきゝぐるしかつたでせう
 すみません
 だがかうして何もかも言つてしまふと
 この胸がせいせいします
 これはいゝことです
 かうして何のかくしだてもなくすべてを披瀝ひれきすることは大切なことです
 うるはしいことです
 お互いの理解の上に
 これほどいゝことはありません
 たゞわれわれにものたらないのは
 あなたのお心のわからないことです
 あなたは永遠の秘密ですか
 さうです
 さうです
 そんなことは何だつていゝのです
 こちらのこゝろさへわかつてゐてくだすつたらそれでいゝのです
 神様
 世はさまざまで
 世の中にはあなたを知らないものも沢山あります
 あなたを知らないのです
 知らないからたよらないのです
 それでも生きてゐます
 あなたを拝んだり
 あなたに大願をかけたりするためには
 一銭半銭のはしたがねをあなたの賽銭箱にうやうやしく投げ込む人々より
 またあなたをお宮の中に祭りこんだり
 眼ざはりにならない神棚の高いところへ押上げたりして
 あなたを鼠の族と同棲させ
 あなたを埃だらけにしてゐながら
 それでも自分は信心深いと自惚れてゐる人々より
 彼等はあなたを知らなくとも
 彼等はあなたをたよらなくとも
 彼等がいかに淳朴ですか
 彼等がいかに善良ですか
 あなたを知らないだけそれだけ彼等は天真爛漫です
 たまたま彼等のあるものが
 ちよつとまちがつたことでもすれば
 すぐ大袈裟にもあなたを知らないからといふ者はあるのです
 あなたを知らないからでせうか
 或はさうかも知れません
 そんならあなたを知つてゐないといふ理由で
 彼等を責めないでください
 人々の中にはあなたを知つてゐるといひまた知つてゐながら
 悪いことをする者があります
 あなたを知らない彼等などより
 それはそれは大へんな罪を犯すものがあります
 それにくらべれば
 彼等はあなたを知らないのです
 知つてゐて大罪を犯すのより
 いくら恕す可きであるか解りません
 寧ろ不憫とすらおもはねばならないものが多いのです
 如何にも彼等はあなたを知らないから
 悪いことをします
 けれど善いこともします
 あなたを知り
 あなたをたよつてゐるものは
 なるほど悪いことも少いでせう
 絶対にではありません
 たゞ比較的にといふほどのことです
 悪いことが少いのです
 さうです
 そして善いこともしないのです
 あなたは神様です
 あなたの信者をもすこし何とかしてやることはできませんか
 神様
 もうやめませう
 私はいろんなことを言ひました
 涜神とくしん此の上もないやうなことまで口走りました
 すべての私の正直からです
 真面目からです
 涜神 悪くおとりになつては困ります
 あるひとびとはいひます
 みんな嘘だといひます
 私のいふ事
 あなたの事
 みんな嘘だといひます
 嘘でせうか
 さらに天地開闢のこと
 アダムとイヴのこ
 その子等のこと
 大洪水のこと
 バベルの塔のこと
 その他のこと
 みんな一つとして真のことではないといひます
 さうでせうか
 私もさうおもひます
 みんな嘘であればいゝと思ひます
 みんな嘘であれ
 だがこれだけはどうしても疑ふことが出来ない
 それは人間の悪いことです
 それは人間の善いことです
 それからその善い悪いの上にたつて
 その善い悪いを自らで審判さばいてゐることです
 そして人間の弱いことです
 そして人間のみすぼらしいことです
 けれどそれとゝもに
 人間の強いことです
 運命のつきだすその槍の穂尖をほゝゑんでうけうるほど
 それほど強くなつたことです
 あゝ神様
 われわれの大遠祖達があの楽園を追はれてから
 もうどれほどでせう
 そのながいながい
 とても信じられないほど長い年月のあひだに於て
 そのくるしいくるしい日日の経験から
 これは獲得したものです
 人間の性です
 そればつかりで生きてゐられる人間の唯一のものです
 あゝ神様
 創世以来の神様
 ふるい神様
 幻滅の神様
 嘘のやうな神様
 人間はめざめました
 あなたはもう消えてなくならなければなりません
 けれど神様
 真のあなたである神様
 理想としての神様
 それをわたしはわれわれ人間にみつけました
 眼ざめた人間がそれです
 あなたに咀はれた此の大地を
 ともかくも楽園とした人間です
 その人間です
 おゝ新しい神様

   著者として――

 こゝにあつめたこれらの詩はすべて人間畜生の自然な赤裸裸なものである。それ以外のなんでもない。これらの詩にいくらかでも価値があるなら、それでよし、また無いとてもそれまでだ。
  自分が詩人としての道をたどりはじめたのは、ふりかへつて見るともうずゐぶん遠い彼方の日のことだ。そのをりをりの自分が想ひだされる。耽美的で熱狂的で、あるなにものかにつよくつよくひきつけられてゐた自分、それがなにものだか解らない。自分はそれに惑溺してゐた。それは美のそして中心のない世界であつた。それから自分はいつしか宗教的の侏儒しゆじゆであり、中古の錬金士などのあやしい神秘に憑かれてゐた。その深刻さにおいてはすなはち象徴そのものであつたやうな自分。厳粛もそこまでゆくと遊びである。それにおそれおのゝいた自分。そして一切をかなぐりすてゝ、霊魂たましひを自然にむけた。人間も自然もみんなそこでは新しかつた。かうして陶酔とものまにあとの轡くつわを離れて、自分はさびしくはあつたが一本の木のやうにゆたかなる日光をあびた。それも一瞬間、運命はすぐかけよつて自分をむごたらしくも現実苦痛の谷底に蹴落したのだ
  その谷底でかゝれたのがこれらの詩章である。これらの一字一句はすべて文字通りに血みどろの中からでてきた。自分は血を吐きながら、而も詩をかくことをやめなかつた。それがこれらの詩章である。
  人間畜生の赤裸々なる! こゝまでくるには実に一朝一夕のことではなかつた。
  真実であれ。真実であることを何よりもまづ求めろ。
  暮鳥、汝のかく詩は拙つたない、だがそれでい。
  けつして技巧をもてあそんではくれるな。油壷からひきだしたやうなものをかいてはならない。
  ジヨツトオの画、ミケランゼロの彫刻、あの拙さを汝はぐわんねんしてゐるのではないか。おゝ、何といふ偉大な拙さ!
  暮鳥はそれをめがけてゐる。
  あゝミケランゼロ! 人間が達しえたその最高絶頂に立つてゐる彼の製作、みよその頭に角のはへてゐるモオゼのまへではナポレオンも豆粒のやうだ。
  此の偉大はどこからきたか。自分等はそのかげにかのドナテロを見遁してはならない。真実そのものゝやうなドナテロ
           ――茨城県磯浜にて――

 TOP ふるさと 自分は光をにぎつてゐる 鉄瓶は蚯蚓のやうにうたつてゐる   ひるめしどき じやがいも 此の道のつきたところで 
詩人・山村暮鳥氏 海辺にて 山上にて  聖母子涅槃像 船にて 万物節 大地の子 蟻をみて 鴉にかたる あらしを讃へる 一本の木がある  
 農夫 かほ 地を嗣ぐもの おくりもの ある時              断章1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 
12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 真実に生きようとするもの 荘厳なる苦悩者の頌栄 著者として 戻る