第二邪宗門 北原白秋

  円燈

  飢渇


あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。

わが熱き炎の都、
都なる煉瓦の沙漠、
沙漠なる硫黄の海の広小路、そのただなかに、
ゑにたるトリイトン神の立像たちすがた
水涸れ果てし噴水ふきあげの大水盤の繞めぐりには、
白琺瑯はくはうらうの石の級きだただ照り渇き痺しびれたる。

そのかげに、紅あかき襯衣しやつぬぎ
悲しめる道化芝居の触木ふれぎうち、
自棄やけに弾くギタルラ弾者ひきと、癪持しやくもちと、
たはれの舞の眩暈めくるめき
さては火酒ブランデイかぶりつつ強ひて転ころがる酔漢ゑひどれと、
笑ひひしめく盲めくららは西瓜をぞ切る。

あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。

既に見よ、瞬間たまゆらのさき、
ほのかなる愁うれひの文あやにしみじみと
竜馬りうめの羽うらにほひ透き、揺れて縺つれし
水盤の水ひとたまり。
あるはまた、螺を吹く神の息づかひ
焔に頻吹しぶきひえびえと沁みにし歌も
今ははや空からびぬ、聴くは饑ゑ疲れ
鉛になやむ地の管くだの苦しき叫喚さけび

あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。

虚空こくうには銅色あかねいろの日の髑髏どくろまろびかがやき、
雲はまた血のごと沈黙しじに鎔とろけゆき影だに留めず。
ただ病める東南風シロツコのみぞ重たげに、また、たゆたげに、
腐れたる翼つばさの毒を羽ばたたく。
七月末の長旱ながひでり、今しも真昼、
煉獄の苦熱の呵責かしやくそのままに
火輪車くわりんしやはしり、石油泣き、瓦斯の香わめき、
真黒げに煙突震ふ狂ほしさ、その騒かしさ。

たれぞ、また、けたたましくも、
あけの息引き切るるごと、
狂気なす自動車駆るは。

あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。

狂気者きちがひよ、人轢き殺せ。
癪持しやくもちよ、血を吐き尽せ。
掻き鳴らせ、絃いと切るるまで。
打ち鳴らせ、木の折るるまで。
飛びめぐれ、息の根絶えよ。
酔へよ、また娑婆しやばにな覚めそ。
めしひらよ、その赤き腸はらわたを吸へ。
あはれ、あはれ、
この旱ひでりつづかむかぎり、
が飢渇きかつ癒えむすべなし。

あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。

  わかき喇叭


苦しげに喇叭らつぱ吹く息いき
苦しげに喇叭らつぱ吹く息いき
汝はゆきていづくにかへる。

心臓のあかきくるめき
そを洩れて吹きいづるなる。
なやましき霊たまのひとすぢ
いと冷やき水の音色ねいろに。

どくふかき邪欲じやよくの谷に
淫楽いんらくの蝮くちばみまとふ、
はたや身は痺しびれとろけて
ちがたきほだしに悩なやむ。

狂念きやうねんのめくらむ野辺のべ
いどみ搏つ硫黄いわうの炎ほむら
また苦にがき檻をりのおびえに
くれなゐの破滅はめつをさそふ。

さまだるる恋慕れんぼのあへぎ
蒸しよどみ、かくてなやめど
われは吹く、息もほつほつ
うらわかき霊たまの喇叭らつぱを。

かげ暗くらき恐怖おそれの垂葉たりは
そのなかに赤き実熟るる。
わが夢ゆめはあなその空に
れつつも燃ゆる悲愁かなしみ

濡れつつも燃ゆるかなしみ
そが犠牲にえに吹きいづるなる。
かぎりなき生命いのちの苦痛くつう
かぎりある胸むねの力ちからに。

あはれ、なほ、喇叭らつぱ吹く息いき
あはれ、なほ、喇叭らつぱ吹く息いき
はゆきていづくにかへる。

 青き葉の銀杏のはやし


青き葉の銀杏いてふの林、
ほそらなる若樹わかきの林。

はた、青き白日ひるの日かげに、
葉も顫ふるふ銀杏いてふの林。

そのもとを北へかすめる、
ひややけき路みちのひとすぢ、

かすかにも胡弓こきゆうまさぐり、
ゆめのごと、われはたどりぬ。

青き葉の銀杏いてふの林
行き行けど路みちは尽きなく。

ほそらなる若樹わかきのはやし、
頬白ほほじろの鳴く音もきかず。

すすりなく愁うれひの胡弓こきゆう
葉の顫ふるひ、青き日かげ。

さはひとり、われとさすらひ、
われと弾き、聴きもほれつつ、

日もすがら涙さしぐむ、
青き葉のかげをゆく身は。

それとなきもののかぜにも、
よわごころ耳しかたむけ。

たちとまり、ながめ、みかへり、
あはれさの絃いとをちからに。

ひそやかに、また、しづやかに、
にほやかに尋めもなやめば。

うすらなる青の絹衣すずしも、
いつしかに露にしなえぬ。

さあれ、なほ弾きゆく胡弓こきゆう
はてもなき路みちのゆく手に。

いつまでかかくて泣きつつ、
いつまでかかくもあるべき。

あはれ、あはれ、銀杏いてふの林、
青き青き若樹わかきの林。

  森の奥


森の奥ほのかにくらし。

夏のすゑ、長月はじめ、
あはれ、日も薄らうすらに、

薄黄うすぎなる歎なげき沁みゆく
浮羅爛勤はうのきの広葉の青み、

あるはまた大木おほきの胡桃くるみ
憂愁わづらひのかげのふかみに、

えのこる熱き日ざしは
黄に透かし暮れて薫れる。

そのなかに妙たへにしづかに
物おもふ白馬はくばのあかり。

それやはた、夏の日の神
夕ぐれに騎りやわすれし。

くれなゐの手綱の色も、
白がねの鐙も、鞍も、

いとほのに夢の照妙てるたへ
ただ白し、ほのかに白し。

そをめぐり秋の笙しやうの音
しめやかにひそかに愁ふ。

響かふは角つぬの音色ねいろか、
病める果か、饐えゆく歌か。

かくてまた暗き葉越に
鳩の笛沁みはわたれど。

薄黄うすぎなる光の透かし、
ひとすぢの昨きそのほめきに、

ほの白う暮れてたたずむ
物おもふ色のしづけさ。

森はいまほのかにくらし。

  円燈


薄暮くれがたの谿間たにまの恐怖おそれ
今宵こよひまたかなたに点とも
くれなゐの円まろき燈ともしび

そを知るや、知らずや、なほも
なやましきにほひの奥おく
うづくまり黙つぐむひとむれ。

真白ましろなるゆめの水牛すゐぎう
しかはあれど、なべて盲めしひし
けものらの重おもき起伏おきふし

めしひしは瞳のみかは、
ものにぶく、闇やみにくぐもる
もろもろのこころごころも。

かくてあな幾夜いくよか経にし。
ものいはず、かうべもあげず、
さあれども物ものつごとし。

ふかみゆく恐怖おそれの沈黙しじま
そのなかに今宵こよひも消ゆる
くれなゐの円まろき燈ともしび
四十一年六月

  尋めゆくあゆみ


いと高くいと深くいと静しづにいと蕭しめやげる
の森のかげ、暗くらく冷ひやゝなる列つらねのもとを、
           われはあゆむ。

いと高くいと暗くいと密みつにいとほのかなる
ほそらなる赤楊はんのきの列つらね、そのもとの底の底を
           われはあゆむ。

いと高くいと深く沈みたる憂愁うれひのもとを、
真素肌ますはだのましろなる、衣きぬつけぬ常若とこわかの矜ほこりもて
           われはあゆむ。

赤楊はんのきのとある梢ありとしも見へぬ空のけはひ、
あはれその枝に色紅き小鳥の如ごとも星の見ゆる。
           あはれひとつ

いと高くいと深くいと静しずにいと蕭しめやげる
の森のかげ、暗く冷ひややなる列つらねのもとを、
           われはあゆむ。

さあれ今言ものいはぬ獣けもの忍びやかに蹤きぞ来ぬる。
昨日きのふより去年こぞより生れしより、否あらず、前世さきのよより
           蹤きか来ぬる。

かかる夜のとある梢哀あはれその空に星の見えつ。
紅き星紅き星ほのかにもわれは知れり、
           かかるゆめも。

いと高くいと深くいと冷ひやにいと蕭しめやげる
の森のかげ、ふとし、あな、路みちは落つる。
           あらぬ谷間。

あはれ哀あはれあらぬ谷にいと暗くらく霊たまや落つる。
真素肌ますはだの悲哀かなしみよ血の香する荊棘いばらのなかを
           いかにわけむ。

足音あのとのす、言ものいはぬ獣けものしのびかにひき帰かへすらし。
あはれまたひとつ星、見もあへぬ闇のかなたに
           はたや消ゆる。

たちまちにものの呻吟うめき、やはらなる足に触れつつ
そこここの血の荊棘いばらあなやその暗くらき底より
           赤子啼きいづ。
四十一年六月

  我子の声


われはきく、生うまれざる、はかりしれざる
の声こゑを、泣き訴うたふ赤あかきさけびを。
いづこにかわれはきく、見えわかぬかかる恐怖おそれに。

かの野辺のべよ、信号柱シグナルは断頭くびきりの台だいとかがやき、
わか葉る入日いりひを浴びてあかあかと遙はるに笑わらひき。
汽車きしやにしてさてはきく、轢かれゆく子らの啼声なきごゑ

はた旅たびの夕まぐれ、栄えのこる雲くもの湿しめりに、
前世さきのよの亡き妻つまが墓はかの辺の赤埴あかはにおもひ、
かくてまた我われはきく追懐おもひでの色とにほひに、
もれたる、はかりしれざる子の夢ゆめを、胎たいの叫さけびを。

かへりきてわれはきく、ひたぶるに君抱くとき、
手力たぢからのほこりも尽きて弱心よわこゝろなやむひととき、
たちまちに心こゝろつらぬく
赤き子の高たかき叫さけびを。
四十一年六月

  声なき国


こゑもなき薄暮くれがたの国、
追憶おもひでのこなたなるほの暗くらき闇やみ
あはれ、さは冷ひややけき世の沈黙しじま、恐怖おそれの木かげ、
何処いづこより見ゆるともなく出いでて来し思おもひの女をみな
きよらなる真素肌ますはだの身の独ひとりほのかに暮るる。

こゑもなき国の白楊はくやう
つらながう両側もろがはに顫ふるへわななき、
いろあをき蝋らふの火のほの暗くらみおびゆるごとく、
ひろきより狭せばみ暮れゆく其果そのはての遠とほき切目きれめに、
ほのかなる噴水ふきあげの香ぞひとり密ひそかに泣ける。

こゑもなき国のさかひに
すすり泣くそのゆめよ、水のひとすぢ
かすかにも色いろうつり消えも入る吐息といきする時、
哀れ、さは光ひかりにほはぬ色いろもなく声こゑもなき野に、
ただ寒さむう涙垂れ熟視みつめぬる女をみなの思おもひ

こゑもなき国のかなたは
あかあかと色いろわかき追憶おもひでの空。
歓楽くわんらくの楽がくの音よ、悩なやみ添ふ甘き悲哀ひあいよ、
たけり狂くるふ恋慕れんぼの夢ゆめの此方こなたには聞きこえこそ来ね、
くもはただ昨きそのごと紅くれなゐの色にただるる。

こゑもなき女をみなの思、
熟視みつめつつ、ややにまた暮れもいためど、
ただ密ひそに頼たのみてし噴水ふきあげのにほひとだえて、
存命ながらへし悩なやみの夢の曲節めろぢあも見るによしなみ、
真素肌ますはだの身は悲し冷ひややけき石いしになりゆく。

こゑもなき薄暮くれがたの国。
かくていま、追憶おもひでの空そらはあかあか、
血のごとも雲くもは顫ふるへ楽がくの音の慄わななくなかに、
ひらめくは聖体盒せいたいごうの香の曇くもり、骨も斑まばらに
白白しらじらと浮うかびちり、あはれ早や沈み暈くるめく。

  幽潭


あはれ、こはもの静しづかなる幽潭いうたん
ふかみの心こゝろ――おもむろに瀞とろみて濁る
波もなき胎たいのにほひの水の面おも
をりをり鈍にぶき蛇のむれ首もたぐれど
いささかの音おとだに立てず、なべてみな
おもたき脳なうの、幽鬱いううつの色して曇る。

さるほどに日も暮がたとなりぬれば、
あたりの樟くすの薄うすら闇やみしのびにつのる
灰色の妖女えうぢよの冷ひややきうすわらひ。
さあれど、ゆるにしづしづと髪曳きうかぶ
そこの主ぬしおもてはかたく縛しばられて、
ただほの白しろき身をなかば、水よりいづる。

ややありて、息吹いぶきのゆめもやはらかに、
めしひし空をうちあふぎ、管くだかたぶけて
吹きいづる石鹸しやぼんの玉たまの泡あわのいろ
ひとつびとつに円まろらかに紅あかみてのぼる、
これやかの若わかくいみじき血のにほひ。
かくしてものの静しづやかにひとときあまり。

ふと、ひらく汀の瞳ひとみくろぐろと、
冷やにならびうかがへる妖女えうぢよのつらね
肋骨ろつこつの相摩あいするごとき笑わらひして
灰色はひいろの髪かみおともなくさばくと見れば、
そこここに首もたげゆく蛇のむれ、
ああまたもとの幽鬱いううつに主ぬし消えしづむ。

かくてまた、鈍にぶく曇れる水の面おも
濁れる胎たいのもの孕はらむ音おとともなしに、
静寂じやうじやくの深ふかみに呻うめく夜の色。
ほど経て声も消えゆけば、ああ見よ、いまし
幽潭いうたんの鈍にぶめる空にあかあかと
のぼれる玉か、数しれぬ幾千万いくせんまんの新星にひほしの華はな
四十一年六月

  急瀬


『暗い。』『暗い。』
聴け、夜に叫ぶ髑髏されかうべ、急瀬はやせの小石、
熟視みつむるは死よりも暗き鴆毒ちんどく
発作ほつさに頻吹しぶく水の面おも
聴け、わなわなとかたかたと千万ちよろづ歎く。
時は冬、熊野の川の川上の如法の真闇、
かひの底。

『暗い。』『暗い。』
聴け、はや叫ぶ髑髏されかうべ、急瀬はやせの小石。
さてはまた、聴け、歯を洗ふ血の流
真黒まくろに滴したる音ささと
はた、きしきしと泡たぎち噎むせびぬ、まさに
丑満の黒金雲くろがねぐもの棺衣たれぎぬは七岳ななたけめぐり、
風顫ふ。

『暗い。』『暗い。』
聴け、また叫ぶ髑髏されかうべ、急瀬はやせの小石、
熟視みつむれど喚わめけど、水は蝮くちばみ
腹なし、縞もひた黒に
磨りては走る夜の恐怖おそれ、この夜もさらに
琅玕らうかんの断崖きりぎしづたひ投網とあみうつ漁いさりの翁おぢ
火も見えず。

『暗い。』『暗い。』
聴け、ひた叫ぶ髑髏されかうべ、急瀬はやせの小石、
今はかの末期まつごの苦患くげんひたひたと
わななきほそる一刹那、
しやちより疾はやく、棹あげて闇より闇へ、
火もつけず、声せず、一人ひとり丈長たけながの髪吹き乱し
ふねきたる。

『暗い。』『暗い。』
聴け、今叫ぶ髑髏されかうべ、急瀬はやせの小石、
一斉ひとときに驚破すはと慄くひたおもて
かとこそ噛めば竜骨は
血の香滴る鋸を鑢やすりの刃もて
磨る如く、白歯をきしと一文字に、傷きながら
逃れさる。

『暗い。』『暗い。』
聴け、なほ叫ぶ髑髏されかうべ、急瀬はやせの小石、
瞬間たまゆらの膏油と熱き肉ししの香
狂へる慾は護謨の火の
ちぎるるがごとひたわめく、呪詛のろひと飢うゑ
くいと死と真黒に噎むせぶ血の底に歯を噛みながら
熟視みつめたる。

『暗い。』『暗い。』
聴け、なほ叫ぶ髑髏されかうべ、急瀬はやせの小石、
熟視みつむれど天蝎てんかつ宮の光だに
影せぬ冥府みやうふ、わなわなと
わめけどさらに蝮くちばみは腹磨り奔り、
絶えずまた泡だち落つる血はささとその戦慄わななき
むせぶのみ。

『暗い。』『暗い。』
聴け、夜に叫ぶ髑髏されかうべ、急瀬はやせの小石、
熟視みつむるは死よりも暗き鴆毒の
発作ほつさに頻吹しぶく水の面おも
なほ、きしきしとかたかたと嘆けど、哀あはれ、
億劫おくごふの窮きはまりあらぬ闇に堕ち闇に饑ゑゆく
人の群。

  二つの世界


色あかき世界のなかに
うららにも小鳥さへづり、
色白き世界のなかに
ものにぶき駱駝らくだは坐すはる。

ものにぶき駱駝らくだの見るは
白き砂、白き思の星、
えもわかぬ髑髏どくろのなげき、
ピラミドのたそがれの色

うららなる小鳥のうたは
また遠く、ひと世へだてて
なうの内、もだえの熱ねつに、
謔言うはごとのかずかずうたふ。

かなたには隊商カラバンの鈴、
こなたにはあかきさへづり。
今日けふもまた境し立てる
スフインクスひとりしづかに。

スフインクス、恐怖おそれの沈黙しじま
そが胸の象形文字しやうけいもじ
なぞも、あな、半なかばしろく、
はた赤く、聴耳ききみみます。

あはれ、いま、白き世界の
ゆふまぐれ。しかはあれども
色あかき世界の真昼まひる
スフインクス、こころは惑まどふ。
四十一年八月

  暮れなやむ心のあそび


晩夏おそなつの暮れなやむ日のわがこころ
球突びりああどをばもてあそぶ、脳のくもりに
うしろより煙草のくゆり病ましげに、
なにともわかぬ思きて覗のぞく心地す。

玉ふたつわれの好このめる色したる、
また玉ふたつうち曇る白の円まろみす。
きうとりていづれか突かむ。うち見れば
萌黄の羅紗の台だいの面おもほのに顫へる。

その嘆なげき、おぼろげながらわれぞ知る。
いつのゆふべとわかねども負傷ておひし胸の
そのにほひ、棒きうとりながらわれぞ知る。
かくてもやまぬわがあそび、色入りまじる。

そを見つつ後うしろにけぶすかの思
なにしか笑わらふ。さあれども暮るるこころは
色あかき玉もてあそびうちなやむ。
重き煙草にまどはしく眩暈めくらみながら。

いづこにかものなやましきはなしごゑ
あるはきこゑて、ものあかくあかる心地す。
わが脳のなかにか、室むろのうつつにか、
火点ともるごときそのけはひ、遊戯あそび夜に入る。
四十一年八月

  鑲工


しづやかに泣きつつあれば、
わがこころ鑲工もざいくなしぬものとなく、――
正方形せいはうけいの鑲工もざいくのその壁かべをしも見まもれば
そはものにぶき顔の面おも
おものなかばを、やはらかき茎のうねりや、
あかあかと蔽おほひ燃ゆめる罌粟けしのゆめ

そのかげに、
そのかげに、
めしひたる白き眼ふたつ。
あはれその
白き眼ふたつ、
なにか見る、
ゆふぐれのもののしじまに。

  天幕の中


色にぶき毛織けおりの天幕てんと
そがなかにわがおもひひとりしあなる、
あはれ、盲ひたる白き目に花とりあてて、
そが紅あかき色見むものと燥あせりつつ、さは燥あせりつつ、
色にぶき毛織けおりの天幕てんと
いつまでかわれの思おもひのひとりしあなる。
四十一年八月

  髑髏は熟視みつ


髑髏どくろは熟視みつむ、きゆらそおの血の酒甕さかがめの間あひだより、
髑髏どくろは熟視みつむ、命いのちなくただうち凹くぼむ眼まなこして、
髑髏どくろは熟視みつむ、忘わすれたる思ひいでんとするが如ごと
髑髏どくろは熟視みつむ、寝そべりて石鹸玉しやぼんだま吹く女が面かほを。
四十一年六月

 樟の合奏

 樟の合奏


初夏しよかの空そら
灰白色くわいはくしよくの雲のもと。
水沼みぬまのほとり。

ひと叢むらの樟くすのわか葉の黄金こがねいろ
こずゑも高く、
れ濡るる雨後うごの夕ゆふべのひとあかり、
入日いりひに燃えて
しめやかに、華はなやかに、
調しらべあはする
かなしみの、
よろこびの、
くるしみの
も狂くるほしき生せいの曲きよく……夢ゆめの合奏がつさう……

そのかげに、
あかき煉瓦れんぐわ
変圧所へんあつじよ、心こゝろめしひし
高圧かうあつの電気でんきの叫喚わめきおともなく、
ななめに走はしる銅線はりがね
かきむしりゆく火の苦悩なやみ
はたやオゾンの香のしめり、渦巻うづまき縺もつれ、
ひるも、夜も、
なく、時ときなく、
ひたぶるに暈くるめき、醸かもす死の恐怖おそれ
つらね立てたる柱はしらには、
『触るる者ものかく死すべし。』と
髑髏どくろあり、ひたと黙つぐめる。

また、見よ暗くらくとろとろと、
くもり濁にごれる鈍色にびいろの水沼みぬまの面おもを。
める壁かべ
くすの調楽てうがく
うつせども映うつすともなきものの色。
ただに声こえなく、
いのちなく、
にぶく、重おもたく、
なみたたず、
よどみもせなく、
なべてこれこの世ならざる日の沈黙しじま
にぶく、ぼやけし
忘却ばうきやくの護謨ごむの面おもてを圧すごとく、
に圧すごとく、
たまにのみ、太ふとき最低音ベースぞ呻うめくめる。

しかあれ、初夏しよかの夕ゆふあかり、
灰白色くわいはくしよくの雲くもの裏うらゆ金覆輪きんぷくりんに噴きいづる
光の楽がくのさと赤あかく、
りかへし、湿潤しめりに燃ゆるひとときよ、
あはれ斉ひとしく、はた高たかく、
しめやかに、華はなやかに、
調しらべいでぬる管絃楽オオケストラの生せいの曲きよく――
かなしみに、
よろこびに、
くるしみに
くるひかなづる、
くるひかなづる、
くるひかなづる
くるひかなづる
くすの合奏がつさう……死のオゾン………

さてしもあはれ、夜とならば
夜とならば如何いかにかすらむ。

いま、夕焼ゆうやけの変圧所へんあつじよ
あざけるごとく、
はたや、かの虐殺ぎやくさつの血を浴びしごと、
あかあかと笑わらひくるめく……
四十四年五月

  晩夏


くわと照らす夕陽ゆふひの光、
噴水ふきあげの霧のしぶきよ。

湿しめらひぬ、蒸しぬ、ひかりぬ、
さは、苑そのの若木のたわみ、
花の叢むら、草葉のかをり、――
さまざまの薫るおもひに。

こぼれちる水のにほひよ。
日のひかり、雲のうつろひ、
えしぶく麝香の真珠またま、――
絶えず、わが夢かしたたる。

ふくらかに霧にうもれて
燃えたわむ色のうれひよ、
うつろひぬ、蒸しぬ、しめりぬ、――
ゆふぐれの胸のなごみを。

くわと照らす晩夏の光、
尽きせざる夢のしぶきよ。

  蜩


胸に、はた、
夕日の幹みきに、
つと来り、蜩かなかななげく。

かなかなかなかな……かなかなかなかな……

黄金こがねなす細き旋律
せはしげに、また、かなしげに。

かなかなかなかな……かなかなかなかな……。

かくて、また鳴きつつ熟視みつむ、
えあかる思より、
梢より、
実のひとつ落ちむとするを。

かなかなかなかな……かなかなかなかな……
四十一年六月

  夏の夜の舟


むしける。

りんりんすりりん……りんりんすりりん……

あはれわが小舟をぶねぞくだる。
きずつけるわかうどの舟ふね

りんりんすりりん……りんりんすりりん……

はてもなう向むかひてかすむ
白壁しらかべのほのかなる列つら
そのかげを小舟はくだる、
し挑いどむ靄のふるへに。

りんりんすりりん……りんりんすりりん……

いまし、また水路すゐろのはてに、
落ちかかる
弦月げんげつあかく、
そこここのくらみの奥おく
おびれて倦めるものごゑ。

りんりん……すりりん……

それの夏なつ
かかる夜の港みなとにききし

二上にあがりの音じめはすれど、
あはれそをいづことわかむ。
あたりやや暗くらみふけつつ、
血のごとく
ふるふ月つきしろ
しづみゆくその香のなごり。
あなしばし、虫啼きしきる。

りんりんすりりん……りんりんすりりん……
りんりんすりりん……りんりんすりりん……
りんりんすりりん……りんりんすりりん……

いつしかと真闇まやみのにほひ、
ふかみゆく恐怖おそれにつれて
はたと虫むしいきをひそめぬ。
しあつし、また息いきぐるし。

    ………………………………………………

舟はなほ重おもたくくだる。
ふと窓に蝋らふの火あかり、
病人やまうどの顔ぞいでたる。
内部うちらには時計の響ひびき

ぎいすちよつ……………………

おもき咳せきふたたびみたび、
真黒まくろなる帷とばりは落ちぬ。
あはれ闇夜やみよ

ぎいすちよつ…………………
 …ぎいすちよつ……………………

かくてなほ小舟をぶねはくだる。
いづくにかはてなむ旅たびぞ、
そも知らね、水みづのひとすぢ、
白壁しらかべのはてしなき夜を。

ぎいすちよつ……がちやがちや……ぎいすちよつ……

たちまちに閉とざしの扉とびら
かげ暗くらき大黒金おほくろがねの壁かべのもと、小舟をぶねはなづむ。
あなあはれ、
ものなべて見わかぬ闇やみよ、
うちにはた悩なやみか伏せる
幾百いくひやくの沈黙もだの大牛おほうし
最終いやはてか、恐怖おそれの淀よどか、
舟は、あな、音なく留まる。

りんりん……………………すりりん……

あらず、また、おのづからなる
抵抗あらがひのすべなき力
その水に舟押しながる。

ぎいすちよつ………ぎいすちよつ………
がちやがちやがちや……ぎいすちよつ……
がちやがちやがちや……がちやがちやがちや……
がちやがちやがちやがちや…
 …がちやがちやがちやがちや……
はてもなう小舟をぶねはくだる。

  大曲『悶絶』


色赤きものごゑあまた
なうをいで、とどろと奔はしる。――
逃れゆくわれの足音あのとか、
もの鈍き毛織けおりの黝ねずみ
蹈みにじり、蹈みにじり…………

ら、りら、ら、りら、
ほのかに雲雀ひばり

あはれいま砥石といしのひびき、
鈍刀なまくらのすべるひらめき。

そのなかを赤きものごゑ
血を滴たらし、とどろと奔はしる。

もの鈍き毛織けおりの夢を
蹈みにじり、踏みにじり…………

ら、りら、ら、りら、
かすかに雲雀。

はたと、あな、足音あのと絶え入り、
ただひびく緩るく鈍刀なまくら

しづかなる皐月さつきの真昼、
白雲はゆるかにのぼり、
なよら風ゆらにゆらるる。

ら、りら、ら、りら、
さへづる雲雀。

いづこにかいづこにか揺曳ゆらびける絃いとの苦悩なやみの………
『……ああはれ、よしなや、われらがゆめぢ、
       かなしきその日の接吻くちつけにも………』

るやかにねぶたき砥石といし

『……かなしきその日の接吻くちつけにも、
       さまたげ難がたかる「我」のほこり、
  ひたぶる抱きて涙すれど恐怖おそれと苦悩なやみの………』
さあれなほものうき砥石といし

『……ああはれ、よしなや、肉にくのおびえの――
    汝が火のまなざし、
    わが血のいどみ、
    殺さむ死なむと朱あけに顫ふるふ………』

ら、りら、ら、りら、
ほのかに雲雀。

『………殺さむ死なむと朱あけに顫ふるふ………、』

聴くとなき黒ヴィオロンの火のきざし
見る見る野辺のべに渦巻きて悶絶もんぜつすれば、
くわとあがる血しほの烟けむり
そのなかをわれのものごゑ
また見えてとどろと奔はしる。

忍びかにひややかに清きよらなる水のさらめき――

さらめきに角笛つのぶえあかり、
かなしみの音の吐息といきほのかにおこる。

はたと、また、足音あのと絶え入り、
野はなべて黄昏たそがれの色。

ほのかなるにほひのそらに、
やや赤く地平は光り、
そこここの水面みのもより
水牛すゐぎういづる。

水牛すゐぎうのしづけさや、
しづかなる角つのの音に物をしおもふ。

しかあれ、鈍刀なまくら
すべる音おと、――砥石といしのひびき――

ら、りら、ら、りら、
ほのかに雲雀。

しづかにも坐すはる水牛すゐぎう
戦慄わななきの、かなしみの唸うなりあげつつ、
おもむろにおもむろにあかる不思議ふしぎ
いと赤き西天さいてんながめ、
恐ろしき、あるものの迫せまりにふるふ。

いづこにか洩れきたるヴィオロンのゆめ………

『……そぞろ、あはれ、そぞろ、あはれ
   恋の帆船ほぶねの――
   空色そらいろの帆もちぎれ、波にぬれて――
   今日けふまた二人ふたり
   今日また二人、
   かなしき島根をさしてかへる………』

また鈍き砥石といしのひびき

   かなしき光に艫のためいき、
   かなしき海ゆくわかき夢ゆめ
   みそらにほのめく星の光、
   ああいますべなく、われら帰る。……』

ふと起る、この面彼面かのもに嘲笑あざわらふ人の諸もろこゑ。

『……苦くるしき挑いどみにせきもあへぬ
   恋慕れんぼの吐息といきに顫ふるふこころ、
   嗚呼ああこのなやみをいかにかせむ。
   さあれど、すべなく帰る二人ふたり。……』

高みゆく砥石といしの響――鈍刀なまくらの増えゆくすべり――

『……朱あけなる接吻くちつけ、痛いたき怨言かごと
   ああまた再度ふたたび抱き泣けど………』

また近く暗くらき嘲笑あざけり
『……ああかなし、
   かなしき光、
   われらの光、
   内心ないしんのかなしき瞳………』

たと跳をどり逃ぐる水牛すゐぎう
あな、赤あかき血浴びしごとも啼き狂ひ絶望ぜつまうの唸うなりに奔はしる。

大空は見る見る月の面おもとなり、
たちまち赤き半円の盲めしひし如ごとも広ひろごれば、
一時いちじに響く野の砥石、数かずかぎりなき刃のにほひ――

はた、赤き此面このも彼面かのもの嘲笑あざわらひ……あまる空なく
おほらかに広み尽くせる、大月たいげつの恐怖おそれの面おもて
ただれたる眩暈くるめき三度みたび、くわつとして悶絶もんぜつすれば
見るが間に血烟ちけむりあがり、
のがれゆく我われのものごゑ
また見えてとどろと奔る。

水牛すゐぎうの声………千万せんまんの砥石の響………
にがき嘲罵あざけり………はたや、なほ奔はしる足音あしおと………

ら、りら、ら、りら、
ほのかに雲雀。

はたといま聾ろうしぬる。
色…………音…………光…………
四十一年八月

  大太皷の印象


おどりいづ、赤き獣けだもの
    どんどん………
とみかう見、円まろらに笑ひ、はた跳おどる。
    どんどん………
あなやいま街まちの角かどより人曲まがる。
    どんどん………
また来きたる。
    どんどん………
赤き獣けものはふと消えて幼子をさなごとなり、
    どんどん………
電車線路を匍ひめぐる。人また見ゆる。
    どんどん………
あな、うち転まろぶ人のむれ、音おともころころ。
    どんどん………
幼子をさなごのうへに重なる。また転まろぶ。
    どんどん………
逃げんと呻うめく間ひまもなく、ひびきものうく、
    どんどん………
鈍き電車は唸うなり来る。はた、轢き過ぐる。
    どんどん………
時に真白ましろの雲の団街たままちよりのぼり、
    どんどん………
かき消ゆる人のあとより
    どんどん………
また跳おどる赤き獣けだもの
    どんどん………
とみかう見、盲めしひて笑ひ、はた、傲おごる。
    どんどん………
四十一年八月

  眼ふたげば


ふたげば鳥は囀さへづる。
めしひたる色赤き世界のなかに、
疲れたる鳥は囀さへづる。

めしひたる色赤き世界のなかに、
また見るは肋あばらのにほひ
光なく、力なく、さあれほのめく。

肋骨あばらぼねきかつ訴うたふ。
『わが骨ほねはわが骨ほねは色いろあかき心こころの楯よ。
かくてはや終つひの墓碑おくつき。』

とりは囀さへづる。

『婆羅門ばらもんの婆羅門ばらもんの塩を嘗めつる
とがゆゑに昼ひるも夜もかくは啼くめる。』
いづこにか、さはきりぎりす。

めしひたる色赤き世界のなかに、
力なきうめきのやから
さはぎ立ち、鳥はさへづる。
はた消えてふと見ゆる顔。

その顔はあてに痩せたるかの少女をとめ
少女をとめのなげく。
『あはれ、君、われはもや倦みも死なまし。』

鳥は囀さへづる。

少女をとめの顔はややありて白き手となり、
疲れたる、葡萄酒を注ぐ顫ふるへして
『紅あかき酒、そはわが血潮、
ほどほどに吸ひて去ねかし。』

とりは囀さへづる。

はと眼ひらけば、わがまへに赤あかくちりかふ
光線くわうせんの光ひかりの団たまのめくるめき。

とりは囀さへづる。

また眼とづれば、泣きいづる骨ほねの揺曳ゆらびき
人の顔かほ。はた、きりぎりす。

   鳥とりは囀さへづる。

  かうほね


きけ、あけぼのの香炉に、
連弾つれひく夜半よはのそらだき
薄らひ、ほのにあかれば、
清掻すががき、やがてもはらに
ひとつの香かうのいろのみ
ゆりぬ、――あはれ、水の面
後朝きぬぎぬ、――誰をかかへすと、
さは水無月みなづきのつくゑに
かうの火炷くや、かうほね。

    青き酒

  十呂盤


大いなる――
聞け、大いなる黒金くろがねの巨人きよじんの指は
絶えずわが紅玉こうぎよくの数かぞへの珠たま
弄ぶ。

何時いつよりか、知らず、
左の掌たなぞこの脈搏つ上に
水晶の星彫きざむ白壇の桁けた
横たへつ。

見るは、ただ、
蛇腹じやばらに似たる掌たなぞこの暗き彫刻ほりもの
はじく指、また昼ひると夜とも分かたぬ
そらの色。

わが珠たま
あがれば、ひとつ、劫がふの世に惑星うまれ、
下る時、億年おくねんの栄華えいぐわは滅ぶ
加減則かげんそく

斯くて、わが
はこび正しき紅玉の妙音楽は
極みある命数めいすうの大歓楽に
鳴りひびく。

光明の
大千世界ひとときに叫喚つくる
恐怖おそれの日、はた、知らず、われと音に酔ふ
星の桁。

聞くは、ただ、
宏大無辺天空の寂寞じやくまく遠く
筆走り、たまたまに『差引』記しる
夢の音。

さては、また、
わかき巨人が黒金くろがねの高胸たかむねへだて
われは聞く、おほどかに鼓つづみうつなる
しんの臓ざう

  はばたき


聞けとある大海原おほうなばらのただなかは
終日ひねもすおもきあかがねの霧たちこめて
ゆたゆたに濤なみこそうねれ、日輪は
凄まじ、黒き血の塊くれと焦げて暈くるめく。

みるかぎり赤道下の炎熱に
鉛のごとき鹹水しほみづは炎ほのほと燃えて、
海蛇うみへびの鎌首高く、たまたまに
きらめき、さてはづぶづぶと青く沈みぬ。

物なべて気懶けだるし重し、わだのはら
とろけたゆたふ鬱憂のうねりに疲れ
夜のごとも深まる吐息。しかすがに、
大寂静だいじやくじやうの空高く濃霧のうむをわけて
東より霊智の光しらしらと
見え、かつ、消えぬ、大鳥おほとりの強きはばたき。

  青き酒


青き酒、――
など、汝は否いなむ。これやわが深みの炎ほのほ
また永久とはの秘密の徴しるし、われと聴く
激しき恋の凱歌かちうたに沈みにし色。

ただ刹那、
千年ちとせに一度いちど現るるかの星こそは、
われとわが醸みにし酒の火の飛沫しぶき、――
濃き幻のしたたりに天そらさへ燬けむ。

こを飲まば
刹那の刹那、歎く血の歓楽よろこびにこそ、――
痛ましき封蝋色ふうらふいろの汝が胸も、

焦げつつ聴かめ、
この夜半よはに音おとなく響く管絃楽オケストラ
虚無より曳ける青き火の丈長髪たけながかみを。

  空罎


葡萄酒罎の上包うはづつみ、霊たまなるころも、
何の魔か、飽くなき慾の痙攣ふるへもて
かく引き裂ちぎり、むざむざと歩み棄てけむ。――
火の片きれぞ素足にわれと泣かしむる。

いづくに行かば得らるべき命の糧かてぞ。
踏むはただ鉛の路の火の飛沫しぶき
死の色つづく高壁たかかべのつらねのそこを
蟻のごと匍ひもとほらむ末のすゑ。――

たちまち薫る酒の歌、蒸すかと見れば
あから頬の想おもひの族ぞうらとりどりに、
はや、酔ひしれて狂たはれきぬ、あな、わが血にぞ。

かくて、見よ、わが幻まぼろしに転まろぶもの
吸い尽くされし空からの罎びん、――空からなる命、
最終いやはての辻の恐怖おそれに、ふと青む。

  炎上


焦げに焦がるる我心わがこころ、そことしもなく聞ゆるは
執着しふちやくの日の喚叫さけびごゑ、黒ずむ悪の火の羽ぶき、
油日照あぶらひでりの四辻よつつじは凄惨として音もなく、
雲なき空に電流の渦まき消ゆる断末魔。

もそろもそろに滞とどこほる鉛の電車、一片ひとひら
命の紙と蝋づけの薄葉鉄ぶりきの人を吊るしつつ、
黒き煉瓦の息づみにひたぶる咽むせぶ輪のほめき。
事こそ起れ、いづこにか、早鐘すらむ物の色。

驚破、炎上えんじやうの火の光、見れどもわかぬ日ざかりに
みるみる長く十字劃きゐすくむ帯の縧色さなだいろ
あなと、昏くらめば、後しりへより、戞戞戞かつかつかつと跑だくふませ、

すきこそあれや、たとばかり、鞭ひらめかし、驀然まつしぐら
黒き甲かぶとと朱の色の蒸汽喞筒ぽむぷの馬ぐるま、
をどりぞ過ぐれ、湯は釜に飛沫しぶきくわつくわと沸たぎりたる

  紅火


よるなり。二人、臨終りんじうの寝椅子ねいすに青み、むかひゐて
毒酒どくしゆを杯はいに。紅くれなゐの燭しよくこそ点ともせ。まのあたり、
無言むごんに凝視みつめ赫耀かくえうの波動はどうを聴けば、夢心地ゆめごこち
浄華じやうげのわかさ、身も霊たまも紅あかく縺もつるる赤熱しやくねつよ。

は葡萄染えびぞめの深帳ふかとばり、花毛氈はなもうせんや、銀ぎんの籠かご
また、羅のころも、緑髪みどりがみ、わかき瞳に炎上えんじやう
匂香にほひがあつく、『時とき』の呼吸いき、瞬またたき燻くゆる『追懐おもひでよ。
『恋こひ』は華厳けごんの寂寞じやくまくに蒸し照る空気うち煽あふる。

ときぬ唇くちは『楽欲げうよく』の渇かわきに焦こがれ、心しんの臓ざう
あへげば、紅火こうくわ『煩悩ぼんなう』の血彩ちいろくんずる眩暈くるめきよ。
しゆの蝋涙ろふるいは毒杯どくはいの紫むらさきみだし照り雫しづく。

今こそ蝋ろふは琺瑯はうろうに炎ほのほのころもひき纏まとひ、
おとなく溶くる白熱びやくねつに爛ただれ艶えんだつ弱よわごころ、
無言むごんに泣けば『新生しんせい』の黄金光わうごんくわうぞ燃えあがる。

  暮愁


暮れぬらし。何時いつしか壁も灰色はひいろに一室ひとまはけぶり、
盤上ばんじやうの牡丹花ぼたんくわひとつ血のいろに浮び爛ただれて、
散るとなく、心の熱も静寂じやうじやくの薫くゆりに沈み、
しよくの上両手もろてを垂れて瞑目めつぶれば闇はにほひぬ。

窓の外は物ものりし街まち、風湿める香かうのぬくみに、
寺寺の梵音うるむ夕間暮、卯月つごもり、
行人かうじんの古めく傘に、薄灯うすひ照り、大路おほぢ赤らみ、
柑子かうじだつ雲の濡いろ、そのひまに星や瞬く。

わが室むろは夢の方丈、匂やかに名香みやうかうなびき、
遠世とほよなる暮色ぼしよくの寂さびに哀婉の微韻ゆらぎを湛へ、
髣髴と女人ぢよにんの姿光さし続く幾むれ、
白鳥はくてうの歌ふが如く過ぎゆきぬ、すべる羅の裾。

そのなかに君は在おはせり。緑髪みどりがみ肩に波うち、
容顔の清すがしさ、胸に薔薇色ばらいろの薄ぎぬはふり、
情界の熱き波瀾に黒瞳くろひとみにほひかがやき、
領巾ひれふるや、夢の足なみ軽らかに現うつゝなきさま。

ああ、それも束つかの間なりき。花祭ありし夕ゆふべか、
群衆ぐんじゆうのなだれ長閑かに時花歌はやりうたまちを流れて
辻辻に山車だし練る日なり、行きずりに相見しばかり、
高華なる君が風雅みやびも恋ふとなく思ひわすれき。

今行くは追憶おもひでの影――黄金なす幻追ひて、
衰残の心の大路おほぢ暮れゆけば顧みもせぬ
人生の若き旅びと、――くづをれて匂ゆかしみ
我愁ふ、追慕の涙綿綿と青む夜までも。

   乱れ織

  無花果の園


なにか泣く、野より、をとめよ、
無花果いちじゆくの汝が園遠く
われは来ぬ。いざ眼をあげよ。

今日けふもまた葉かげ、実がくれ、
甘き香の風に日あびて
語らまし。いざ手を交せ。

さは泣くや、夜にか、をとめよ。
が園は焼けぬと。草も、
無花果いちじゆくの樹も実も無しと。

おお、なべて園はいたまし。
葉も幹も、ああ、実も香もか、
草の床とこ――恋の巣までも。

さあれ、よし。白巾しらぎぬやはに
うるはしき汝が頬の涙
まづぬぐへ。すみれのにほひ。

曾て汝は春のほこりに、
なに誓ひ、いづれ惜みし
この恋と、その古園ふるぞのと。

ああ、園は野火のびに焼かれて
今は無し。――美うまし追憶おもひで
ただ胸の香にこそにほへ。

さば尋めむ、恋こひの歓楽よろこび
今日けふよりは、野山のやまに、谷たにに、
百合ゆり、さうび、花はなの日の栄はえ

ああ、かくて、終つひの愛欲あいよく
と燃えて身を焼く夜にも、
は泣くや、いかにをとめよ。

  燕


燕は翔かける、水無月みなづき
雲の旗手はたての濡髪に。――
暗き港はあかあかと
れぬ、滴したたる帆の雫。

燕は翔る、居留地の
柑子色かうじいろなす窓玻璃まどがらす
ななめに高く。――ほつほつと
霧に湿しめらふ火のにほひ。

燕は翔かける、葉煙草と
ヴィオロン薫ゆる和蘭おらんだ
酒楼のまへを。――笛あまた
暮れつつ呻によぶ海の色。

燕は翔かける、花柘榴はなざくろ――
濡るる埠止場はとばの火あかりに。
かくてこそ聴け、艶女やしよめ等が
みだらにわかきさざめごと。

  珊瑚切


ひるさがり、
なぎさに緩ゆるき波の音。
少女をとめはやがてあてやかに
『何ぞ。』と答いらへぬ、伏眼ふしめして、
紅き珊瑚の枝あまた
えらみつ、切りつ、かろらかに
鋸の歯のきしろへば、
ほそき腕かひなと頬のうへに
薔薇ばらいろの靄さとけぶる。

ややありて、
なぎさに緩ゆるき波の音。
男は燃ゆる頬を寄せて
『君をおもふ。』と忍びかに、
さては手速てばやにうしろより
珊瑚細工の車の柄
かろく廻せば、ためらへる
しろの上衣うはぎと髪の毛に
薔薇ばらいろの靄さとけぶる。

のびやかに
なぎさに緩き波の音。
少女をとめは、さいへ、あからみて
『吾も。』とばかり、海の日を
玻璃に透かしつ、やうやうに
かたちととのふ恋の珠たま
磨きつ、吹きつ、をりをりに
くるままはせば、美しく
薔薇いろの靄さとけぶる。

  乱れ織
 ――天草雅歌――
わが織るは、
火の無花果いちじゆくを綴りたる
花哆囉昵はなとろめんの猩猩緋しやうじやうひ
     とん、とん、はたり。

さればこそ
絶えず梭をさ燃え、乱れうつ
火の無花果いちじゆくの百済琴くだらごと
     とん、とん、はたり。

聞き恍れて、
何時いつか、我が入る、猩猩緋しやうじやうひ
花哆囉昵はなとろめんのまぼろしに。
     とん、とん、はたり。

乱れ織、
落つる木の実のすががきに
ふとこそうかべ、銀の楯。
     とん、とん、はたり。

飜へす
貝多羅葉ばいたらえふの馬じるし
花哆囉昵はなとろめんのまぼろしに。
     とん、とん、はたり。

また光る
白き兜かぶとの八幡座まちまんざ
火の無花果いちじゆくの百済琴くだらごと
     とん、とん、はたり。

乱れ織、
つと空ゆくは槍の列つら
花哆囉昵はなとろめんのまぼろしに。
     とん、とん、はたり。

さては見つ、
火の無花果いちじゆくのすががきに
君が鎧の猩猩緋しやうじやうひ
     とん、とん、はたり。

われは、また
花哆囉昵はなとろめんのまぼろしに
白き領巾ひれふる。百済琴くだらごと
     とん、とん、はたり。

そのときに、
馬は嘶く、しらしらと、
火の哆とろめんの無花果いちじゆくに。
     とん、とん、はたり。

あはれ、いま
花哆囉昵はなとろめんのすががきに
再び擁いだく、君と我。
     とん、とん、はたり。

そらも見ず、
かつぐは滴したる蜜の音、
君が鎧の猩猩緋しやうじやうひ
     とん、とん、はたり。

こは夢か、
刹那か、尽きぬ幻まぼろしか、
花哆囉昵はなとろめんの梭をさの音。
     とん、とん、はたり。

  高機
 ――天草雅歌――
高機たかはた
梭なげぬ。
 きり、はたり。

その胸に
梭なげぬ。
 きり、はたり。

その高機に、
その胸に
 きり、はたり。

  顛末
 ――天草雅歌――
『花ありき、われらが薔薇さうび
摘まれにき、われらが薔薇さうび
かくて、また、何時いつとしもなく
凋みにき、われらが薔薇さうび。』
あはれ、炉に凭ればかならず、
顛末もとすゑはかかりきといふ
わが媼をうな、その日の薔薇さうび
『何ゆゑ。』と問へば、かくこそ、
火にいぶる紅き韈したうづ
つと退きて噎せ入りながら、
『子らよ、そは、ああ、その薔薇さうび
あまりにも紅あかかりしゆゑ。』

  ためいき


今しがた、夜会やくわいははてぬ。
花瓦斯はながすのほそきなげきに
絹帷きぬとばりあかき天鵝絨びろうど
り藉ける花束はなたばのくづ、
おぼろげに室むろは青あをみて、
うらわかき騎士きしが拍車はくしや
の乱みだれ、舞まひの足あしぶみ、
のほてり、かろきさざめき、
かみあぶら、あはれ、楽声がくじやう
あたたかに交まじりみだれて
ゆめのごと燻くゆりただよふ。

そのなかに、水みづのつめたさ
ちらぼひぬ、これや、一夜ひとや
つれもなく青あをみしなへし
女子をみなごがわかきためいき。

  時鐘


身にか沁む。――『わが世がたりも
はや尽きぬ。興きようもなき事こと
わかうどよ、紅あかき炉の火に
美しき足袋をな焼きそ。
かの宵の恋にもまして
うそ寒き夜にもあるかな。』
老媼をうなかくつぶやきながら
力なう柴折りくべぬ。
そともには雪やふるらむ。
燃ゆる眼にわかきは見あげ、
言葉なく、またうつぶきぬ。
ひとしきり、沈黙しじまやぶれて、
すすけたる江戸絵の壁に
禁軍の紅帽こうばうあかり、
はちはちと火の粉びちり、しづまりぬ。
九時にかあらむ。
ああ今、目白僧園の鐘鳴りやみぬ。

  若し


の椅子に我ありとせよ、
また火あり熾さかれりと見よ。
棚の上の小さき自鳴鐘めざまし
鳩いでて三つと鳴かぬ間、
わが唇くちは汝がくちに、
うなじまき、ただ火のもだえ、
また韈たびの焦ぐるも知らね、
さいへ、夏、我やはた、
火の気なき炉に椅子もなし、
人妻よ、安かれ、汝なれも。

  たはれ女


『やよ、しばし、
そのうつくしきわかうどよ、
君はいづこへ。』『君は、など。』
『美男うましを、あはれ、いつの日か
君に見えけむ。』『しかはあれ、
われはえ知らず。』『さな去にそ、
その御瞳みひとみのうつくしさ、
いかで忘れむ。』『さあれ、など、』
『まづ、おきたまへ、原のぬし?』
『いな、』『さは知りぬ、蜂須賀の
君か。』『いな、いな。』『ほ、ほ、さても、
御歳みとしは。』『十九。』『はしけやし、
法科のかたか。』『いな。』『いなと、
さらばいとよし。さて、君は
いづこへ。』『麻布、君は、また。』
ほほ、わすられぬ情人こひびと
招ぎに。』とばかり、かたへなる
自働電話の火のとびら
たわやに開けて、つと入りぬ。

  驢馬の列
 ――かかる詩の評家に――
驢馬の列つらねぞ街まちをゆく。
見よ、のろのろの練足ねりあしに、
鼻も眼もなきひとやから
載せて、うなだれ、呻によびたる。

驢馬の列つらねぞ街まちを行く。
鳴くは通草あけびの変化へんげらか、
また、耳もなきひとやから
口のみあかくただれたる。

驢馬の列つらねぞ街まちをゆく。
あはれ、終日ひねもす、手さぐりに
生灰色なまはひいろの怪のやから、
のへらのへらと鞭ふれる。

驢馬の列つらねぞ街まちをゆく。
もとより、人の身ならねば、
色もにほひも歌ごゑも
ぐすべはなし、罵れる。

驢馬の列つらねぞ街まちをゆく。
ただ戸に咲ける罌粟けしひとつ
知らえぬ汝等なれら、いかで、さは
深き館やかたの内心ないしんを。

驢馬の列つらねぞ街まちをゆく。
すでに罵る汝が敵あだ
白馬はくばに抱く火の被衣かつぎ
千里せんりかなたのくちつけに。

   落雷

  落雷


静まりてなほもしばらく
霧のぼる高原たかはらつづき
ただれたる「時」ははるかに、
恐ろしき苦悩をはこぶ。
驟雨にはかあめまたひといくさ、
走りゆく雲のひまより
かろやかに青ぞら笑ひ、
日の光強く眩しく
野はさらに酷熱のいろ。
なまくさきオゾンのにほひ
しづくする穂麦のしらみ、
今裂けし欅けやきの大木おほぎ
るがごと疼うづくいたでに
やに黒くしたたるみぎり、
油蝉ぢぢと鳴き立つ。
根がたには蝮まむしさながら
髪あかき乞食こつじきひとり
仰向けに面桶めんつうつかみ、
見よ、死せり。雷火らいくわにゆがむ
土いろの冷ひやき片頬に
血の雫――濡れて仄めく
一輪の紅きなでしこ。

  長月の一夜(初稿)


長月の鎮守の祭まつり
夜もふけて天そらは険しく
雨もよひ、月さしながら
稲妻す、濃雲をりをり
鉛いろ赤く爛れて
野に高き軌道を照らす。

このあたり、だらだらの坂
赤楊はん高き小学校の
柵尽きて、下は黍畑
こほろぎぞ闇に鳴くなる。
いづこぞや、女声して
重たげに雨戸繰る音。

大師道、辻の濃霧こぎりは、
馬やどのくらめきあかりに
幻燈のぼかしの青み
蒸しあつく、ここに破やれ馬車
七つ八つ泥にまみれて、
ひつそりと黒う影しぬ。

泥濘ぬかるみは物の汗ばみ
なまぬるく、重き空気に
新らしき木犀もくせいまじり
馬槽うまぶねの臭気くさみふけつつ、
ものうげのさやぎはたはた
夏の夜の悩なやみを刻む。

足音す、生血のにじみ
しとしとと、まへを人かげ
おちうどか、はたや乞食か、
背に重き佩嚢どうらんになひ、
青き火の消えゆくごとく
呻きつつ闇にまぎれぬ。

嗚呼今か畏怖おそれの極み、
轡虫がちやがちやは調子はづれに
めきつつ、はたと息絶え、
落ちかかる黄金こがねの弦ゆづる
心臓の喘あへぎさながら
また黒き柩ひつぎにしづむ。

終列車とどろくけはひ。
凄まじき大雨のまへを
赤煉瓦高きかなたは
一面に血潮ながれて
野は紅あかく人死ぬけしき、
稲妻す、――嗚呼夜は一時。

  蹠


海ちかき真闇まやみの狭間はざま
の火の粉まひふるなかに
酒の罎びんとりて透かしぬ、
はしりゆく褐色くりいろの顔、
汽車ぞいま擦れちがひぬる。
かたむけぬ、うましよろこび、
いな、胸にしらべただるる
煉獄の火のひとしづく。
時に、誰ぞ、こん、こん、か、かん、
槌つらね、蹠あなうらうつは。
糸崎と子らがよぶこゑ。

  そぞろありき


風寒き師走月しはすづき、それの港を
われひとり、夕暮のそぞろありきす。
薄闇のほのかなる光のなかに
老舗しにせ立つひと町は寡婦やもめのごとく
われゆゑに面変おもがはり、かくや病みけむ。
人あまた、はかなげにそともながめて
石のごと店店みせみせに青みすわりき。
たまたまに、灯あかりさす格子かうしはあれど
ひつぎうつ槌つちの音おとただにせはしく、
煉瓦つむ空地あきちには、あはれ誰が子ぞ、
心中しんぢうの数へぶし拙つたなげながら
もうるむ連弾つれびきのかなしきしらべ、
いつになく旅人の足をとどめて、
は青く柳立つ闇にともりき。

港には浪の音も鈍にぶにひびらぎ、
灰だめる氷雨雲ひさめぐも空にみだれて
すそあかる黄あめいろの遠をちに、海鳥うみどり
けぶりき檣ほばしらの闇に一列ひとつら
しゆの色の大き旗鳴きもめぐりぬ。
船はまた鐘鳴らし、かくて失せにき。
そのゆふべ君のかげ消えしかなたに、
さてしもや、みえそめぬ海のかなたに
けふも見よ、木星の青ききらめき。

  暗愁


なにごとぞ、夕まぐれ、人はさわさわ、
新開しんかいのはづれなる坂のあき地に
うづくまる。そこ、ここに煉瓦れんぐわ、石灰いしばひ
高草たかくさの黄にまじり、風ぞ冷えたる。

灰色はひいろのまろき石子いしこらはまろがし
据ゑ、やをら爪つま立ちぬ、爺おぢが肩より
のぞき見す。――様様さまざまのくらき呼声よびごゑ
世のほかの町の闇ひさぐ気遠けどほさ。

古井ふるゐあり、桁けたはみなくづれゆがみて
桔槹はねつるべギロチンの骨ほねとそびやぎ、
血はながる。赤ばみし蛇のぬけがら
さかしまに下したはこれ暗き死の洞ほら

人はみなめづらかに首くびつきいだし
おづおづと環ぞ退しざる。あはれ男子をのこ
三人みたりまで影薄う青み入りぬれ、
そよとだに腰綱こしづなの端はしもひびかず。

時や疾し、ひよろひよろの青洋服あをやうふく
わと前へ面おもがはり、のめり泳ぎつ。
と見ぬ、いま、むくむくと臭き瓦斯の香
町や蔽おほふ、みるがまに黄ばむ天色そらいろ

驚破すはと、見よ、街道へまろびなだれて
西日する町の屋根、高き耶蘇寺でら
ふりあふぎ人はみな面おもてえぬれ。
風さらにひややかに草をわたりぬ。

ぞともる、支那床どこの玻璃に人見え、
あかあかと末広すゑひろに光ひかりこほれば、
古煉瓦ふるれんぐわうづだかき原のくまぐま、
ほそぼそとこほろぎの鳴く音洩れぬる。

  地獄極楽


『御覧ごらうぢやい、まづ。』と濁だみごゑ
屋根低き山家の土間は
魚燈油のくすぶり赤く、
人いきれ、重き夜霧に
朦朦と地獄の光景けしき
げんじいづ。―あはれ鞭指し、
案内者あないじやは茶いろの頭巾
殊勝げに念仏ぞすなる。

木戸にまた高く札うち、
蓮葉はすはなる金切かなきりごゑと
老いたるが絶えず客よぶ、――
と見る、ただ赤丹あかにげたる
閻魔王、青き牛頭ごづ馬頭めづ
講釈のなかばいちどに
がくがくと下顎したあご鳴らす。――
『評判の地獄極楽。』
胸わるき油煙のにほひ
女子らが汗に蒸されて、
焦熱のこころあかあか
火の車、または釜うで、
餓鬼道の叫喚わめきさながら
人人が苦悩を醸す。
さはれ、なほ爺おぢは真面目まじめ
諳誦す、業ごふの輪廻りんねを。

盂蘭盆の寺町通、
猿芝居幕のあひまか
喇叭節みだらに囃はやす。――
うち湿しめる沈ぢんの青みを
稚子ちごあそぶ賽さいの河原は、
長長と因果こそ説け、
『なまいだぶ。』こゑもあはれに、
かたのごと、涙を流す。

ひと巡めぐり、はやも極楽、
絵灯籠紅あかき出口は
華やげ楼閣そびえ、
頻伽鳥びんがてふ鳴けり。この時、
酒の香す、懐ふところがくり
徳利嘗め、けろり鐸すずふる、
太鼻の油汗見よ。
『先様せんさまはこれでお代り。』

  熊野の烏


夜は深し、熊野の烏
旅籠はたごの戸かたと過ぐ、
一瞬時いつしゆんじ、――燈火ともしびさを
閨を蔽おほふかぐろの翼つばさ
あほり搏つ羽うらを透かし
消えぬ。今、森しんとして
冷えまさる恐怖おそれの闇に
身は急に潰つひゆる心地ここち
「変らじ。」と女をみなの声す。
ひと呻うめく、熊野の烏。
丑満うしみつの誓請文きしやうもん
今か成る。宮のかなたは
忍びかに雨ふりいでぬ。
『誓ひぬ。』と男の声す。
刹那、また、しくしくと
痙攣つりかがむ手脚のうづき、
生贄いけにへの苦痛くつうか、あなや、
護符ちぎる呪咀のろひのひびき。

はたと落つる、熊野の烏。
と思へば、こは如何いかに、
身は烏、嘴くちばし黒く
黒金の重錘おもりの下に
はねひらみ、打つ伏す凄さ。
はた、固く、痺しびれたる
血まみれの頭脳づなうの上ゆ、
暗憺と竦すくまりながら
たまはわが骸むくろをながむ、

  我


時は冬、霜月しもつき下旬げじゆん
の一時いちじ、真闇まやみの海路うなぢ
玄海か、朝鮮沖か、
知らず。ただ波涛はたうの響
鞺鞳だうたふと窓うつ暗くらさ。
門司もじいでて既に幾時いくとき
いとど蒸す夜来やらいの空は、
雨交まじり雹さへ乱れ、
なだ遠く雷らいするけはひ。
不安ふあんいま、黒き旗はたして
死の海を船ゆく恐怖おそれ
深沈しんちんの極きはみ真黒まくろ
点鍾てんしようの悲音ひおんたまたま、
天候てんこうの険悪いよよ、
闇憺あんたんとわが夜はくだつ。

一室いつしつに見知る顔なし。
何ごとぞ、宵よひのほどより、
紅毛こうもうの羅面絃弾者ラベイカひき
白眼しろめむき絶えず笑へり。
陰翳いんえいは彼が肋あばら
明暗めいあんす一張一弛いつちやういつし
カンテラの青み吸ひつつ、
縞蛇しまへびの喘あへぐが如し。
深夜しんやなり。疫病顔えきびやうがほに、
衆人しゆうじんは疲れ黄ばみて
ぜにひとつ投ぐる者なし。
乱撃らんげきよ、早鐘はやがね急に、
甲板は靴音高く、
『驚破すは。』『風ぞ』『誰そ巻け』『倒せ。』
『綱つな投げよ。』一時に水夫かこ
狼狽らうばいの銅羅声どらごゑみだし、
『飛沫しぶき』『それ辷るな』『立て。』と
口口に、巻き、投げ、昇り、
立ち騒ぐ刹那か、颯さつ
暴風の襲来迅く、
帆の半、帆ばしら、帆桁、
折れ、唸り、はためき、倒れ、
動揺す、奈落へ、天へ、
激瀾おほなみの鳴号凄く

ぐわう轟と頭上に下に、
刻刻の不穏等ひとしく
一室は歯の根もあはず、
惨たりな、垂死すゐしの境さかひ

紅毛は笑ひつつあり。
ふと見れば何らの贄にへぞ、
わが膝は眩まばゆきばかり
乱髪らんぱつの女人に温み、
華奢ながら清き容顔
ゆめみるか、青うゑまひぬ。
恋びとか、あはれ、抱けば
軽軟けいなんの吐息すずろに
ほほ触れぬ、薔薇さうびのにほひ。
嗚呼暫時しばし流離の胸も
脈絡の炎ほのほに爛れ、
痛楚なる人が呻吟うめきも、
念仏も悲鳴も知らず、
情界の熱き愉楽に、
わが霊れいは喘あへぎ焦がれぬ。

何ごとぞ、一時に音し、
毱のごと五体は飛べり。
瞬く間、危急の汽笛
一斉せいの叫喚けうくわん――うつつ、
べうならず、後甲板こうかんぱん
懸命の格闘黒く、
『咄とつ、放せ』短艇ボウトに魔あり、
櫂あげて逃路を塞ぐ。
目前の障碍さまたげ――知らず
紅毛か、水夫かこか、女か、
他人なり――死ねやとばかり、
発止はつし、余は短銃ピストル高く
一発す、続いて二発、
三発す。あはや横波
驀地まつしぐら頭上を天へ、
ぢくなかば傾く刹那、
しやしやしやしやと水晶簾ぞ
落下すれ、苦鳴もろとも
闇中の渦巻分時、
微塵なり。――水天裂けて
髣髴と白光走る。

眼ひらけば、小春のごとも
麗らかに空晴れわたり、
身辺は雑木ざわきまばらに、
名も知らぬ紅花叢むら咲き
涼風すずかぜの朝吹く汀みぎは
砂雲雀すなひばり優にあがれり。
ああ、神よ、他人は知らじ、
我はわが生命いのちの真珠
全きを今もながめて、
満腔の歓喜よろこび高く
大音に感謝しまつる。

  吐血


罌粟畑けしばたけ日は紅紅あかあかと、
水無月の夕雲爛あかれ、
鳥鳴かず。顔火のごとく
花いづるわかうど一人ひとり
黒漆のわかき瞳に
楽欲げうよくの苦痛を湛へ、
大跨に一歩ふりむく。
極熱の恋慕の郊野
蒼然と光衰へ、
草も木も瀕死の黄ばみ、
夜のさまに凄惨たりや。
う、とばかり、刹那膝つき、
絶望に肺はやぶれて
吐息しぬ――くれなゐの花。

   柑子咲く国

  南国


ああ、君帰かへれ、故郷の野は花咲きて
わかき日に五月さつき柑子かうじの黄金こがねえ、
そらの青みを風ゆるう、雲ものどかに
薄べにのもとほりゆかし。――帰かへれ君、
森の古家ふるやの蔦かづら花も真紅しんくに、
ひるがへれ、君はいづこに、――北のかた
ひつぎまうけの媼おうなさび、白髪しらがまじりの
寒念仏かんねぶつ、賢さかし比丘びくらが国や追ふ。
ああ鬱憂うついうの山毛欅ぶなの天そら、日さへ黒ずみ、
朽尼くちあまが涙眼いやめかなしむ日の鉦かねに、
はたけの林檎紅べにえて蛆うじこそたかれ。
帰れ、君、――筑紫平の豊麗ほうれい
しろがね鐙あぶみ、わか駒ごまの騎士も南みなみへ、
旅役者、歌の巡礼、麗姫ひめ、奴やつこ
絵だくみ、うつら練り続つづけ。なかに一人いちにん
街道かいだうや藤の茶店ちやみせの紅あかき灯に
暮れて花揺る馬ぐるま、鈴の静しづけさ、
とせぶり、君も帰らふ夕ならば
靄の赤みに、夢ごころ、提灯ともしふらまし。
朝ならば君は人妻、野に岡に、
白き眼つどへ、ものわびし、われは汀みぎは
花菖蒲はなあやめ、風も紫ゆかりの身がくれに
御名や呼ばまし、逢見初あひみそめ忍びしわかさ
薄月に水の夢してほそぼそと、
ああさは通かよへ、翌あけの日も、山吹がくれ
雨ならば金糸きんしの小蓑みの、日には跑だく
一の鳥居を野へ三歩、駒は木槿むくげに、
露凍つゆしみの忍び戸、それもほとほとと
牡丹花ぼたんくわちらぬほど前へ、そよろ小躍をど
薔薇いばらみち、蹈めば濡羽ぬれはのつばくらめ、
飛ぶよ外の面の花麦はなむぎに。
あれ、駒鳥のさへづりよ。
まがき根近し、忍び足、細ら口笛くちぶえ
琴やみぬ、衣きぬのそよめき、さて庭へ、
(それと隠れぬ。)そら音かと、(空は澄みたれ、
また鳴らす。)ほほゑみ頬ほほに、浮うけあゆみ
あふち、柏かしはの薄ら花ほのにちる日
君ならばそぞろ袂もかざすらむ。
はや午ひるさがり、片岡かたをかの畑はたに子ら来て、
早熟はやなりの和蘭覆盆子おらんだいちごべにや摘む
歌もうらうら。――風車かざぐるまめぐる草家くさや
鯉のぼり吹きこそあがれ、ここかしこ、
里の女をんなは山梔くちなしの黄にもまみれて
もちや蒸す、あやめ祭のいとなみに
ちまきまく夜のをかしさか、頬にも浮うかべて
わかうどは水に夕ゆふべの真菰刈まこもがり
いづれ鄙びの恋もこそ。
君よ。われらは花ぞのへ、
夕栄ゆふばえあつき紅罌粟べにげしの香にか隠かくれて
筒井つつゐづつ振分髪ふりわけがみの恋慕びと
きみわれ燃ゆる眼もひたと、頬ほほずりふるへ
そのかみの幼をさな追憶おもひで――君知るや
フランチエスカの恋語こひがたり――胸もわななけ、
人妻ひとづまか、罪か、血は火の美しさ、
激しさ、熱あつさ、身肉しんにくの爛ただれひたぶる
かき抱いだき犇ひしと接吻くちつけ死ぬまでも
忘れむ、家も、世も、人も、
ああ、南国の日の夕。

  恋びと


ああ七月しちぐわつ
山の火ふけぬ。――花柑子はなかうじ咲く野も近み、
月白ろむ葡萄畑ぶだうばたけの夜の靄に、
土蜂すかるの羽音はおと、香の甘さ、青葉の吐息といき
情慾の誘惑いざなひ深く燃え爛ただれ、
仰げば空の七ななつ星ほしあかく煌きらめき、
南国の風さへ光る蒸し暑さ。
はや温泉の沈黙しじま――烏樟くろもじの繁み仄透ほのすき灯も薄れ、
歓語さざめき絶えぬ。――湯気ゆげ白う、
丁字湯ちやうじゆ薫る女をんなの香、湿しめりただよひ
わが髪へ、吹けば艶えんだつ草生くさぶなか。
露みな火なり。白百合は喘あへぎうなだれ、
花びらの熱ねつこそ高め。頬に胸に
ああ息づまる驕楽けうらくの飛沫しぶきふつふつ
抱擁だきしめに人死ぬにほひ、血も肉にく
わななきふるふ。

ああ七月しちぐわつ
ふと、われ、ききぬ――忍び足熱あつきさやぎを
水枝みづえ照る汀みぎはの繁木しげきそのなかに。
さは近づくは黄金髪こがねがみ、青きひとみか、
また知らぬ、亜麻あまいろ髪か、赤ら頬か、
ああ、そのかみの恋人か、謎の少女をとめか。
遠つ世の匂香にほひがあまき幻想まぼろし
耳はほてりぬ。うつうつと眼さへ血ばみて、
極熱ごくねつの恋慕れんぼ胸うつくるほしさ。
風いま燃えぬ。ゆめ、うつつ、足音あのとつづきぬ。
身肉しんにくのわづらひ、苦にがき乳の熱ねつ
汗ばみ眠れば心の臟ざう、牡丹花ぼたんくわの騒ぎ
またたくく間、あな頬は爛ただれ、百合のなか、
七尺しちしやくはしる髪の音、ひたと接吻くちつけ、
くれなゐの息、火の海の、ああ擾乱じようらんや、
水脈みをき狂ふ爛光らんくわうに、五体ごたいとろけて
身は浮きぬ。牡丹花ぼたんくわひとつ、血の波なみを焦がれつ、沈しづむ。

  霊場詣


行けかし、さらば南国の番ばんの御寺みてらへ。
春なれば街まちの少女をとめが華はなやぎに、
君も交りて美しう、恋の祈誓きせい
初旅はつたびや笈摺おひずるすがた鈴すずふりて、
大野おほののみなみ、菜の花の黄金こがねうみ
筑紫みち列つらもあえかのいろどりに
御詠歌ごえいか流し麗うらうらと練りも続つづく日、
なよかぜに絵日傘あぐる若菜摘、
法師ほふし、馬上の騎士たちも照りつ乱れつ
菅笠に蝶も縺もつるる暖かさ。
はじめ御山みやまの清水寺きよみづじ
風雅みやびる代の絵すがたか、杉の深みの
薄ざくら花も散りかふ古ふるみちを、
六部ろくぶ、道心だうしん、わか尼あまのうれひしづしづ
かねうつや、袖も湿うるほふゆきずりに
霊場詣れいぢやうまうで、杖かろく、番の歌うたごゑ
はなやかに、巡礼衆が浮うけあゆみ、
かいは葉洩れの日のわかさ、風も霞かすみて、
春の雲白ういざよふ静けさに
鶯鳴けば、ちらちらと対つゐの袂たもと
笈摺おひずるへ、薄ら花ちるうららかさ。
かくて霊地れいちの荘厳に古ふるき杉立つ
大木たいぼくの霧の石階いしきだほの青み、
白日ひるの灯ともる奥深おくふかさ、遠みかしこみ
絵馬堂へ、――桜またちる菅笠や、
音羽おとはの滝に紅くれなゐの唇くちも嗽そそがむ
街少女まちをとめ、思もわかき瞳して
御堂みだうのまへの静寂に鈴ふりならび
ぬかづくや、金きんの香炉かうろの薄けぶり、
羅蓋らがい蓮華れんげの闇やみうてほのかにそらへ
星の如ごと仏龕みづしに光る燈明みあかし
不断ふだんの燻くゆり、内陣ないぢんの尊たふとさ深さ、
先達せんだつに連れて献ささぐる歌ごゑも
後世ごせ安楽あんらくの願かけて巡めぐる比丘びくらが
罪ならず、恋の風流ふうりうの遍歴へんれきに、
心も空も美しうあこがれいでし
君なればそぞろ涙も薫かをるらむ。――
あるは月夜の黄金こがねみち、菜の花ぞらの
星あかり朧ろ煌きらめく野の靄に、
びんの香吹かれ仄白ほのじろう急ぐ楽しさ、
は街に、――しだれ柳やなぎの樾路なみきぢ
紅提灯べにちやうちんの軒のきつづき、桃も鄙ひなめく
雛祭、店のあかみに伏眼ふしめして
奉謝ほうしやを乞はむ巡礼じゆんれいの清すずしさ、わかさ、
夕霧に若人わかうど忍ぶそぞろきも
なまめかぬほど、頬にゑみて鈴すずもほそぼそ
「普陀落ふだらくや」練れば戸ごとの老御達ねびごたち
春のひと夜の結縁けちえんに招せうぜむ杖と
白髪しらがふり、転まろび、袖そでとる殊勝しゆしやうさや。――
行けかし、さらば南国の番の御寺へ
春なれば街の習慣ならはし美しむ
恋の祈誓きせいの初旅や、母にわかれて
少女らと、朝な夕なの花巡り、
やがて遍路の悲愁かなしみに雲も騒立さわだ
花ちらふ卯月とならば故さとへ、
ああ妻なよび髪ねびて、我わがひ待てる
新室にひむろに帰りこよかし、いざさらば、
弥生やよひはじめの燕つばくらめ、袖そですり光る
うらら日を、君も行くかよ、杖あげて、
南無なむや大悲だいひの観世音くわんぜおん、守らせたまへ、
朝風あさかぜに、ああ巡礼の鹿島立かしまだち。

  花ちる日


日も卯月うづき、ひとりし行かば――水沼みぬまべの緑のしとね、
身はゆるに寝なまし。風の散花ちりばなに、水生みづふの草に、
さざら波、ゆめの皺みの口吻くちづけに香にほふ夕ゆふべ
つねのごと花輪はなわ編みつつ君おもひ水にむかへば、
遠霞む山の、古城ふるしろいちの壁、森の戸までも、
白寂しらさびの静けさ深さ、いと青に天そらも真澄ますみぬ。
ああ、君よ、ゆめみる人ひとの夕ながめ――汀みぎはしらみて、
木原こばらみち、薄ら花踏む里乙女、六部、商人あきうど
ふみづかひ――それも恋路の浮うけあゆみ、誰へか――目守まもれば
雲照らふ落日いりひの紅あけに水の絵の彩あやも乱れて
も病まむ、ややに古代ふるよのうれひして影ちり昏み
はや暮れぬ。市いちは点燈夫ひともしせはしげに走すらし。さあれ
葦かびの闇やみには鳰のほのなよび。小野の鈴の音、
夕づつのほのめき、ゆめの頬白のみやびやすらに、
風ぬるみ、髪にはさくら、くさに地の歔欷すすりふけつつ、
ほのに灯は君が館やかたに、妻琴の調べ澄む夜ぞ、
花やかに朧ろに耳はそのかみの日をしも薫ゆれ。
ああ平和なごみ、我はも恋のさみし児か、神に斎いつきの
環も成りぬ。靄の青みに静ごころ君思ふ暫時しばし
涙もろ、あたりの花に頬をうづめ泣かましものか。

ああ、二人ふたり。――君よ暮春ぼしゆんの市の栄はえ、花に幕うち、
くれなゐの花氈くわせん敷く間の遊楽や、大路おほぢかがよひ
潮する人数にんず、風雅みやびの衣彩きぬあやに乱れどよむ日。
しや、また花の館やかたに恋ごもれ、君が驕楽けうらく
琅玕のおばしま、銀の両扉もろとびら、らでんの室屋むろや
早や飽きぬ、火炎の正眼まさめ、肉の笑ゑみ、蜜の接吻くちづけ
絵も香も髪も律呂しらべも宝玉はうぎよくも晴衣はれぎも酒も
あくどしや、今こそ憎め。(楽欲げうよくは君がまにまに)
ああ君よ、賤しづの児なれば我はもや自然の巣へと
花ちる日、市をはなれて、鄙ひなごころ、またと帰らじ。

  郊外


悄悄しほしほと我はあゆみき。
はたけには馬鈴薯ばれいしよ白う花咲きて、
雲雀の歌も夕暮の空にいざよひ、
南ふく風静やかに、神輿こしの列遠く青みき。
かかる日のかかる野末を。

嗚呼暮色微茫のあはひ、
せうすずろ、かなたは町の夜祭よまつり
水天宮の舟ふな囃子。――夕ごゑながら
からびし黄ぐさの薫かをり、そのかみも仄めき蒸しぬ、
温かき日なかの喘息あへぎ

父上は怒りたまひき、
『歌舞伎見は千年のち。』と。子はまたも
暗涙せぐるかなしさに大ぞらながめ、
欷歔ききよしつつ九年母くねんぼむきぬ。酸ゆかりき。あはれそれより
われ世をば厭ひそめにき。――

  鉦


人みな往にぬ、うすらひぬ。
森の御寺の夕づく日、
ほの照り黄ばむさみしらに
やがて鉦かねうつ一人いちにん
その夜ぞこひし、野も暮れよ、
あはれ初秋、日もゆふべ、
落穂ふみつつ身はまよふ。


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