邪宗門 北原白秋
邪宗門秘曲
われは思ふ、
はた、
あるはまた、血に染む
かの
あるは聞く、化粧けはひの料しろは毒草どくさうの花よりしぼり、
腐くされたる石の油あぶらに画ゑがくてふ麻利耶まりやの像ざうよ、
はた羅甸らてん、波爾杜瓦爾ほるとがるらの横よこつづり青なる仮名かなは
美うつくしき、さいへ悲しき歓楽くわんらくの音ねにかも満つる。
いざさらばわれらに賜たまへ、幻惑げんわくの伴天連ばてれん尊者そんじや、
百年もゝとせを刹那せつなに縮ちゞめ、血の磔はりき脊せにし死すとも
惜をしからじ、願ふは極秘ごくひ、かの奇くしき紅くれなゐの夢、
善主麿ぜんすまろ、今日けふを祈いのりに身みも霊たまも薫くゆりこがるる。
室内庭園
晩春おそはるの室むろの内うち、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴水ふきあげの水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤あかくほのめき、
尽つきせざる噴水ふきあげよ………
黄きなる実みの熟うるる草、奇異きゐの香木かうぼく、
その空にはるかなる硝子がらすの青み、
外光ぐわいくわうのそのなごり、鳴ける鶯うぐひす、
わかき日の薄暮くれがたのそのしらべ静しづこころなし。
いま、黒くろき天鵝絨びろうどの
にほひ、ゆめ、その感触さはり………噴水ふきあげに縺もつれたゆたひ、
うち湿しめる革かはの函はこ、饐すゆる褐色かちいろ
その空に暮れもかかる空気くうきの吐息といき……
わかき日のその夢の香かの腐蝕ふしよく静しづこころなし。
三層さんかいの隅すみか、さは
腐くされたる黄金わうごんの縁ふちの中うち、自鳴鐘とけいの刻きざみ……
ものなべて悩なやましさ、盲しひし少女をとめの
あたたかに匂にほひふかき感覚かんかくのゆめ、
わかき日のその靄に音ねは響ひゞく、静しづこころなし。
晩春おそはるの室むろの内うち、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴水ふきあげの水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤くほのめき、
甘く、またちらぼひぬ、ヘリオトロオブ。
わかき日は暮くるれども夢はなほ静しづこころなし。
陰影の瞳
夕ゆふべとなればかの思おもひ曇硝子くもりがらすをぬけいでて、
廃すたれし園そののなほ甘あまきときめきの香かに顫ふるへつつ、
はや饐すえ萎なゆる芙蓉花ふようくわの腐くされの紅あかきものかげと、
縺もつれてやまぬ秦皮とねりこの陰影いんえいにこそひそみしか。
如何いかに呼よべども静しづまらぬ瞳ひとみに絶たえず涙して、
帰かへるともせず、密ひそやかに、はた、果はてしなく見入みいりぬる。
そこともわかぬ森かげの鬱憂メランコリアの薄闇うすやみに、
ほのかにのこる噴水ふきあげの青きひとすぢ……
赤き僧正
邪宗じやしゆうの僧ぞ彷徨さまよへる……瞳据すゑつつ、
黄昏たそがれの薬草園やくさうゑんの外光ぐわいくわうに浮きいでながら、
赤々あか/\と毒のほめきの恐怖おそれして、顫ふるひ戦をのゝく
陰影いんえいのそこはかとなきおぼろめき
まへに、うしろに……さはあれど、月の光の
水みの面もなる葦あしのわか芽めに顫ふるふ時。
あるは、靄ふる遠方をちかたの窓の硝子がらすに
ほの青きソロのピアノの咽むせぶ時。
瞳据すゑつつ身動みじろかず、長き僧服そうふく
爛壊らんゑする暗紅色あんこうしよくのにほひしてただ暮れなやむ。
さて在るは、曩さきに吸すひたる
Hachischハシツシユ の毒のめぐりを待てるにか、
あるは劇はげしき歓楽くわんらくの後の魔睡ますゐや忍ぶらむ。
手に持つは黒き梟ふくろう
爛々らん/\と眼めは光る……
WHISKY.
夕暮ゆふぐれのものあかき空そら、
その空そらに百舌もず啼なきしきる。
Whiskyウイスキイ の罎びんの列れつ
冷ひややかに拭ふく少女をとめ、
見よ、あかき夕暮ゆふぐれの空そら、
その空そらに百舌もず啼なきしきる。
天鵝絨のにほひ
やはらかに腐れつつゆく暗やみの室むろ。
その片隅かたすみの薄うすあかり、背そびらにうけて
天鵝絨びろうどの赤あかきふくらみうちかつぎ、
にほふともなく在あるとなく、蹲うづくみ居れば。
暮れてゆく夏の思と、日向葵ひぐるまの
凋しをれの甘き香かもぞする。……ああ見まもれど
おもむろに悩なやみまじろふ色の陰影かげ
それともわかね……熱病ねつびやうの闇のをののき……
Hachischハシツシユ か、酢すか、茴香酒アブサンか、くるほしく
溺おぼれしあとの日の疲労つかれ……縺もつれちらぼふ
Wagnerワグネル の恋慕れんぼの楽がくの音ねのゆらぎ
耳かたぶけてうち透すかし、在ありは在あれども。
それらみな素足すあしのもとのくらがりに
爛壊らんゑの光放はなつとき、そのかなしみの
腐くされたる曲きよくの緑みどりを如何いかにせむ。
君を思ふとのたまひしゆめの言葉ことばも。
わかき日の赤あかきなやみに織りいでし
にほひ、いろ、ゆめ、おぼろかに嗅かぐとなけれど、
ものやはに暮れもかぬれば、わがこころ
天鵝絨びろうど深くひきかつぎ、今日けふも涙す。
濃霧
濃霧のうむはそそぐ……腐くされたる大理だいりの石の
生なまくさく吐息といきするかと蒸し暑く、
はた、冷ひややかに官能くわんのうの疲つかれし光――
月はなほ夜よの氛囲気ふんゐきの朧おぼろなる恐怖おそれに懸かゝる。
濃霧のうむはそそぐ……そこここに虫の神経しんけい
鋭とく、甘く、圧おしつぶさるる嗟嘆なげきして
飛びもあへなく耽溺たんできのくるひにぞ入る。
薄ら闇、盲唖まうあの院ゐんの角硝子かくがらす暗くかがやく。
濃霧のうむはそそぐ……さながらに戦をのゝく窓は
亜刺比亜アラビヤの魔法まはふの館たちの薄笑うすわらひ。
麻痺薬しびれぐすりの酸すゆき香かに日ねもす噎むせて
聾ろうしたる、はた、盲めしひたる円頂閣まるやねか、壁の中風ちゆうふう。
濃霧のうむはそそぐ……甘く、また、重く、くるしく、
いづくにか凋しをれし花の息づまり、
苑そののあたりの泥濘ぬかるみに落ちし燕や、
月の色半死はんしの生しやうに悩なやむごとただかき曇る。
濃霧のうむはそそぐ……いつしかに虫も盲しひつつ
聾ろうしたる光のそこにうち痺しびれ、
唖おうしとぞなる。そのときにひとつの硝子がらす
幽魂いうこんの如ごとくに青くおぼろめき、ピアノ鳴りいづ。
濃霧のうむはそそぐ……数かずの、見よ、人かげうごき、
闌ふくる夜よの恐怖おそれか、痛いたきわななきに
ただかいさぐる手のさばき――霊たまの弾奏だんそう、
盲目めしひ弾き、唖おうしと聾者ろうじや円つぶら眼めに重かさなり覗のぞく。
濃霧のうむはそそぐ……声もなき声の密語みつごや。
官能くわんのうの疲つかれにまじるすすりなき
霊たまの震慄おびえの音ねも甘く聾ろうしゆきつつ、
ちかき野に喉のど絞しめらるる淫たはれ女めのゆるき痙攣けいれん。
濃霧のうむはそそぐ……香かの腐蝕ふしよく、肉にくの衰頽すゐたい、――
呼吸いき深く囉𠹭仿謨コロロホルムや吸ひ入るる
朧ろうたる暑き夜よの魔睡ますゐ……重く、いみじく、
音おともなき盲唖まうあの院ゐんの氛囲気ふんゐきに月はしたたる。
赤き花の魔睡
日ひは真昼まひる、ものあたたかに光素エエテルの
波動はどうは甘あまく、また、緩ゆるく、戸とに照りかへす、
その濁にごる硝子がらすのなかに音おともなく、
囉𠹭仿謨謨コロロホルムの香かぞ滴したたる……毒どくの譃言うはごと……
遠とほくきく、電車でんしやのきしり……
………棄すてられし水薬すゐやくのゆめ……
やはらかき猫ねこの柔毛にこげと、蹠あなうらの
ふくらのしろみ悩なやましく過すぎゆく時ときよ。
窓まどの下もと、生せいの痛苦つうくに只たゞ赤あかく戦そよぎえたてぬ草くさの花
亜鉛とたんの管くだの
湿しめりたる筧かけひのすそに……いまし魔睡ますゐす……
麦の香
嬰児あかご泣く……麦の香かの湿しめるあなたに、
続つゞけ泣く……やはらかに、なやましげにも、
香かに噎むせび、香かに噎むせび、あはれまた、嬰児あかご泣きたつ……
夏の雨さと降ふり過すぎて
新あらたにもかをり蒸むす野の畑はたいくつ湿しめるあなたに、
赤き衣きぬ一ひときは若わかく、にほやかにけぶる揺籃ゆりごや、
磨硝子すりがらす、あるは窓枠まどわく、濡ぬれ濡ぬれて夕日ゆふひさしそふ。
曇日
曇日くもりびの空気くうきのなかに、
狂くるひいづる樟くすの芽めの鬱憂メランコリアよ……
そのもとに桐きりは咲く。
Whiskyウイスキイ の香かのごときしぶき、かなしみ……
そこここにいぎたなき駱駝らくだの寝息ねいき、
見よ、鈍にぶき綿羊めんやうの色のよごれに
饐すえて病やむ藁わらのくさみ、
その湿しめる泥濘ぬかるみに花はこぼれて
紫むらさきの薄うすき色鋭するどになげく……
はた、空そらのわか葉ばの威圧ゐあつ。
いづこにか、またもきけかし。
餌ゑに饑うゑしベリガンのけうとき叫さけび、
山猫やまねこのものさやぎ、なげく鶯うぐひす、
腐くされゆく沼ぬまの水蒸むすがごとくに。
そのなかに桐は散ちる…… Whiskyウイスキイ の強きかなしみ……
もの甘あまき風のまた生なまあたたかさ、
猥みだらなる獣けものらの囲内かこひのあゆみ、
のろのろと枝えに下さがるなまけもの、あるは、貧まづしく
眼めを据すゑて毛虫けむし啄つむ嗟歎なげかひのほろほろ鳥てうよ。
そのもとに花はちる……桐のむらさき……
かくしてや日は暮くれむ、ああひと日。
病院びやうゐんを逃のがれ来こし患者くわんじやの恐怖おそれ、
赤子あかごらの眼めのなやみ、笑わらふ黒奴くろんぼ
酔ゑひ痴しれし遊蕩児たはれをの縦覧みまはりのとりとめもなく。
その空そらに桐きりはちる……新あたらしきしぶき、かなしみ……
はたや、また、園そのの外そとゆく
軍楽ぐんがくの黒くろき不安ふあんの壊なだれ落ち、夜よに入る時ときよ、
やるせなく騒さやぎいでぬる鳥獣とりけもの。
また、その中なかに、
狂くるひいづる北極熊ほつきよくぐまの氷なす戦慄をののきの声こゑ。
その闇やみに花はちる…… Whiskyウイスキイ の香かの頻吹しぶき……桐の紫むらさき……
秋の瞳
晩秋おそあきの濡ぬれにたる鉄柵てすりのうへに、
黄きなる葉の河やなぎほつれてなげく
やはらかに葬送はうむりのうれひかなでて、
過ぎゆきし Tromboneトロムボオン いづちいにけむ。
はやも見よ、暮れはてし吊橋つりばしのすそ、
瓦斯がす点ともる……いぎたなき馬の吐息といきや、
騒さわぎやみし曲馬師チヤリネしの楽屋がくやなる幕の青みを
ほのかにも掲かゝげつつ、水みの面も見る女をんなの瞳ひとみ。
空に真赤な
空そらに真赤まつかな雲くものいろ。
玻璃はりに真赤まつかな酒さけの色いろ。
なんでこの身みが悲かなしかろ。
空そらに真赤まつかな雲くものいろ。
秋のをはり
腐くされたる林檎りんごのいろに
なほ青あをきにほひちらぼひ、
水薬すゐやくの汚しみし卓つくゑに
瓦斯がす焜炉こんろほのかに燃もゆる。
病人やまうどは肌はだををさめて
愁うれはしくさしぐむごとし。
何なぞ湿しめる、医局いきよくのゆふべ、
見みよ、ほめく劇薬げきやくもあり。
色いろ冴さえぬ室むろにはあれど、
声こゑたててほのかに燃もゆる
瓦斯がす焜炉こんろ………空そらと、こころと、
硝子戸がらすどに鈍にばむさびしさ。
しかはあれど、寒さむきほのほに
黄きの入日いりひさしそふみぎり、
朽くちはてし秋あきのヸオロン
ほそぼそとうめきたてぬる。
十月の顔
顔なほ赤あかし……うち曇り黄きばめる夕ゆふべ、
『十月じふぐわつ』は熱ねつを病やみしか、疲つかれしか、
濁にごれる河岸かしの磨硝子すりがらす脊せに凭りかかり、
霧の中うち、入日いりひのあとの河かはの面もをただうち眺ながむ。
そことなき櫂かいのうれひの音ねの刻きざみ……
涙のしづく……頬にもまたゆるきなげきや……
ややありて麪包パンの破片かけらを手にも取り、
さは冷ひややかに噛かみしめて、来きたるべき日の
味あぢもなき悲しきゆめをおもふとき……
なほもまた廉やすき石油せきゆの香かに噎むせび、
腐くされちらぼふ骸炭コオクスに足も汚よごれて、
小蒸汽こじやうきの灰はひばみ過すぎし船腹ふなばらに
一ひときは赤あかく輝かがやきしかの窻枠まどわくを忍ぶとき……
月光つきかげははやもさめざめ……涙さめざめ……
十月じふぐわつの暮れし片頬かたほを
ほのかにもうつしいだしぬ。
接吻の時
薄暮くれがたか、
日のあさあけか、
昼か、はた、
ゆめの夜半よはにか。
そはえもわかね、燃もえわたる若き命いのちの眩暈めくるめき、
赤き震慄おびえの接吻くちつけにひたと身み顫ふるふ一刹那いつせつな。
あな、見よ、青き大月たいげつは西よりのぼり、
あなや、また瘧ぎやく病やむ終はての顫ふるひして
東へ落つる日の光、
大おほぞらに星はなげかひ、
青く盲めしひし水面みのもにほ薬香くすりがにほふ。
あはれ、また、わが立つ野辺のべの草は皆色も干乾ひからび、
折り伏せる人の骸かばねの夜よのうめき、
人霊色ひとだまいろの
木きの列れつは、あなや、わが挽歌ひきうたうたふ。
かくて、はや落穂おちぼひろひの農人のうにんが寒き瞳よ。
歓楽よろこびの穂のひとつだに残のこさじと、
はた、刈り入るる鎌の刃はの痛いたき光よ。
野のすゑに獣けものらわらひ、
血に饐すえて汽車きしや鳴き過すぐる。
あなあはれ、あなあはれ、
二人ふたりがほかの霊たましひのありとあらゆるその呪咀のろひ。
朝明あさあけか、
死しの薄暮くれがたか、
昼か、なほ生あれもせぬ日か、
はた、いづれともあらばあれ。
われら知る赤き唇くちびる。
濁江の空
腐くされたる林檎りんごの如き日のにほひ
円まろらに、さあれ、光なく甘あまげに沈む
晩春おそはるの濁にごり重おもたき靄の内うち、
ふと、カキ色いろの軽気球けいききうくだるけはひす。
遠方をちかたの曇くもれる都市としの屋根やねの色
たゆげに仰あふぐ人はいま鈍にぶくもきかむ、
濁江にごりえのねぶたき、あるは、やや赤あかき
にほひの空のいづこにか洩もるる鉄てつの音ね。
なやましき、さは江えの泥どろの沈澱おどみより
あかるともなき灰紅くわいこうの帆のふくらみに
伝つたへくる潜水夫もぐりのひとが作業さげふにか、
饐すえたる吐息といきそこはかと水面みのもに黄きばむ。
河岸かしになほ物見ものみる子らはうづくまり、
はや倦うましげに人形にんぎやうをそが手に泣かす。
日暮ひくれどき、入日いりひに濁る靄もやの内うち、
また、ふくらかに軽気球けいききうくだるけはひす。
魔国のたそがれ
うち曇くもる暗紅色あんこうしよくの大おほき日の
魔法まはふの国に病やましげの笑ゑみして入れば、
もの甘あまき驢馬ろばの鳴く音ねにもよほされ、
このもかのもに悩なやましき吐息といきぞおこる。
そのかみの激はげしき夢や忍しのぶらむ。
鬱黄うこんの百合ゆりは血ちににじむ眸ひとみをつぶり、
人間にんげんの声こゑして挑いどみ、飛びかはし
鸚鵡あうむの鳥はかなしげに翅つばさふるはす。
草も木もかの誘惑いざなひに化なされつる
旅のわかうど、暮れ行けば心ひまなく
えもわかぬ毒どくの怨言かごとになやまされ、
われと悲しき歓楽くわんらくに怕おそれて顫ふるふ。
日は沈み、たそがれどきの空そらの色
青き魔薬まやくの薫かをりして古ふりつつゆけば、
ほのかにも誘さそはれ来きたる隊商カラバンの
鈴すず鳴る……あはれ、今日けふもまた恐怖おそれの予報しらせ。
はとばかり黙つぐみ戦をののくものの息いき。
色天鵝絨いろびろうどを擦するごとき裳裾もすそのほかは
声もなく甘く重おもたき靄もやの闇やみ、
はやも王女わうぢよの領しらすべき夜よとこそなりぬ。
蜜の室
薄暮くれがたの潤うるみにごれる室むろの内うち、
甘くも腐くさる百合ゆりの蜜みつ、はた、靄もやぼかし
色赤きいんくの罎びんのかたちして
ひそかに点ともる豆らんぷ息いきづみ曇る。
『豊国とよくに』のぼやけし似顔にがほ生なまぬるく、
曇硝子くもりがらすの窻のそと外光ぐわいくわうなやむ。
ものの本ほん、あるはちらぼふ日のなげき、
暮れもなやめる霊たましひの金字きんじのにほひ。
接吻くちつけの長ながき甘さに倦あきぬらむ。
そと手をほどき靄の内うちさぐる心地こゝちに、
色盲しきまうの瞳ひとみの女をんなうらまどひ、
病やめるペリガンいま遠き湿地しめぢになげく。
かかるとき、おぼめき摩なする Violonヸオロン の
なやみの絃いとの手触てさはりのにほひの重おもさ。
鈍にぶき毛けの絨氈じゆうたんに甘き蜜みつの闇やみ
澱おどみ饐すえつつ……血のごともらんぷは消ゆる。
酒と煙草に
酒さけと煙草たばこにうつとりと、
倦うめるこころを見まもれば、
それとしもなき霊たまのいろ
曇くもりながらに泣きいづる。
なにか嘆なげかむ、うきうきと、
三味しやみに燥はしやぐわがこころ。
なにか嘆なげかむ、さいへ、また
霊たまはしくしく泣きいづる。
鈴の音
日は赤し、窓まどの上へに恐怖おそれの烏からす
ひた黙つぐみ暮れかかる砂漠さばくを熟視みつむ。
今日けふもまたもの鈍にぶき駱駝らくだをつらね、
一群ひとむれのわがやから消きえさりゆきぬ。
もの甘き鈴の音おと、ああそを聴きけよ。
からら、からら、ら、ら、ら……
暮くれのこるピラミドの暗紅色あんこうしよくよ。
そが空のうち濁にごる重き空気くうきよ。
いづこにか月の色ほのめくごとし。
からら、からら、ら、ら、ら……
かの群むれよ、靄もやふかく、いまかひろぐる
色鈍にぶき、幽鬱いううつの毛織けおりの天幕てんと。
駱駝らくだらのためいきもそこはかとなく。
からら、からら、ら、ら、ら……
もの青く暮れてみな蒸しも見わかね。
饐すえ温ぬるむ空そらのをち、薄うすらあかりに、
ほのかにも此方こなた見るスフィンクスの瞳。
からら、からら、ら、ら、ら……
あはれ、その静しづかなるスフィンクスの瞳。
ああ暗示あんじ……えもわかぬ夢の象徴シムボル。
またくいま埃及えじぷとの夜よとやなるらむ。
からら、からら、ら、ら、ら……
烏いまはたはたと遠く飛び去り、
窓まどにただ色あかき燈火ともしび点ともる。
夢の奥
ほのかにもやはらかきにほひの園生そのふ。
あはれ、そのゆめの奥おく。日ひと夜よのあはひ。
薄うすあかる空の色ひそかに顫ふるひ
暮れもゆくそのしばし、声なく立てる
真白ましろなる大理石なめいしの男をとこの像すがた、
微妙いみじくもまた貴あてに瞑目めつぶりながら
清きよらなる面おもの色かすかにゆめむ。
ものなべてさは妙たへに女をみなの眼めざし
あはれそが夢ふかき空色そらいろしつつ、
にほやかになやましの思おもひはうるむ。
そがなかに埋うもれたる素馨そけいのなげき、
蒸むし甘き沈丁ぢんてうのあるは刺させども
なにほどの香かの痛いたみ身にしおぼえむ。
わかうどは声もなし、清きよく、かなしく。
薄暮たそがれにせきもあへぬ女をんなの吐息といき
あはれその愁うれひ如なし、しぶく噴水ふきあげ
そことなう節ふしゆるうゆらゆるなべに、
いつしかとほのめきぬ月の光も。
その空に、その苑そのに、ほのの青みに
静かなる欷歔すすりなき泣きもいでつつ、
いづくにか、さまだるる愛慕あいぼのなげき。
やはらかきほの熱ほてる女の足音あのと
あはれそのほめき如なし、燃もえも生あれゆく
ゆめにほふ心音しんのんのうつつなきかな。
大理石なめいしの身の白しろみ、面おももほのかに、
ひらきゆくその眼めざし、なかば閉ぢつつ、
ゆめのごと空仰あふぎ、いまぞ見惚みほるる。
色わかき夜よるの星、うるむ紅くれなゐ。
窓
かかる窓ありとも知らず、昨日きのふまで過すぎし河岸かはきし。
今日けふは見よ、
色赤き花に日の照り、かなしくも依依児ええてる匂ふ。
あはれまた病やめる Pianoピアノ も……
昨日と今日と
わかうどのせはしさよ。
さは昨日きのふ世をも厭ひて重格魯密母ぢゆうクロヲム求とめも泣きしか、
今朝けさははや林檎吸ひつつ霧深き河岸路かしぢを辿る。
歌楽し、鳴らす木履きぐつに……
わかき日
『かくまでも、かくまでも、
わかうどは悲しかるにや。』
『さなり、女をみな、
わかき日には、
ましてまた才さいある身には。』
朱の伴奏
凡て情緒也。静かなる精舎の庭にほのめきいでて紅の戦慄に盲ひたるヸオロンの響はわが内心の旋律にして、赤き絶叫のなかにほのかに啼けるこほろぎの音はこれ亦わが情緒の一絃によりて密かに奏でらるる愁也。なげかひ也。その他おほむね之に倣ふ。
謀坂
ひと日、わが精舎しやうじやの庭にはに、
晩秋おそあきの静かなる落日いりひのなかに、
あはれ、また、薄黄うすぎなる噴水ふきあげの吐息といきのなかに、
いとほのにヸオロンの、その絃いとの、
その夢の、哀愁かなしみの、いとほのにうれひ泣なく。
蝋らふの火と懺悔ざんげのくゆり
ほのぼのと、廊らういづる白き衣ころもは
夕暮ゆふぐれに言ものもなき修道女しうだうめの長き一列ひとつら。
さあれ、いま、ヸオロンの、くるしみの、
刺さすがごと火の酒の、その絃いとのいたみ泣く。
またあれば落日いりひの色いろに、
夢燃もゆる、噴水ふきあげの吐息といきのなかに、
さらになほ歌もなき白鳥しらとりの愁うれひのもとに、
いと強き硝薬せうやくの、黒き火の、
地の底の導火みちび燬やき、ヸオロンぞ狂ひ泣く。
跳をどり来くる車輌しやりやうの響ひびき、
毒どくの弾丸たま、血ちの烟けむり、閃ひらめく刃やいば、
あはれ、驚破すは、火とならむ、噴水ふきあげも、精舎しやうじやも、空も。
紅くれなゐの、戦慄わななきの、その極はての
瞬間たまゆらの叫喚さけび燬やき、ヸオロンぞ盲めしひたる。
こほろぎ
微ほのにいまこほろぎ啼なける。
日か落つる――眼めをみひらけば
朱しゆの畏怖おそれくわと照てりひびく。
内心ないしんの苦にがきおびえか、
めくるめく痛いたき日の色
眼めつぶれど、はた、照りひびく。
そのなかにこほろぎ啼ける。
とどろめく銃音つゝおとしばし、
痍きずつける悪あくのうごめき
そこここに、あるは疲つかれて
轢しきなやむ砲車はうしやのあへぎ、
逃げまどふ赤きもろごゑ。
そのなかにこほろぎ啼ける。
盲めしひ、ゆく恋のまぼろし――
その底に疼うずきくるしむ
肉ししむらの鋭するどき絶叫さけび、
はた、暗くらき曲きよくの死しの楽がく
霊たましひぞ弾きも連つれぬる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
あなや、また呻吟うめきは洩もるる。
鉛なまりめく首のあたりゆ
幽界いうかいの呪咀のろひか洩るる。
寝ねがへれば血に染み顫ふるふ
わが敵かたき面おもぞ死にたる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
はた、裂さくる赤き火の弾丸たま
たと笑ふ、と見る、我われ燬やき
我ならぬ獣けもののつらね
真黒まくろなる楽がくして奔はしる。
執念しふねんの闇曳き奔はしる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
日や暮るる。我はや死ぬる。
野をあげて末期まつごのあらび――
暗くらき血の海に溺おぼるる
赤き悲苦ひく、赤きくるめき、
ああ、今し、くわとこそ狂へ。
微ほのになほこほろぎ啼なける。
序楽
ひと日、わが想おもひの室むろの日もゆふべ、
光、もののね、色、にほひ――声なき沈黙しじま
徐おもむろにとりあつめたる室むろの内うち、いとおもむろに、
薄暮くれがたのタンホイゼルの譜ふのしるし
ながめて人はゆめのごとほのかにならぶ。
壁はみな鈍にぶき愁うれひゆなりいでし
象ざうの香かの色まろらかに想おもひ鎖さしぬれ、
その隅に瞳の色の窓ひとつ、玻璃はりの遠見とほみに
冷ひえはてしこの世のほかの夢の空
かはたれどきの薄明うすあかりほのかにうつる。
あはれ、見よ、そのかみの苦悩なやみむなしく
壁はいたみ、円柱まろはしら熔とろけくづれて
朽くちはてし熔岩ラヴアに埋うもるるポンペイを、わが幻まぼろしを。
ひとびとはいましゆるかに絃いとの弓、
はた、もろもろの調楽てうがくの器うつはをぞ執る。
暗みゆく室内むろぬちよ、暗みゆきつつ
想おもひの沈黙しじま重たげに音おとなく沈み、
そことなき月かげのほの淡あはくさし入るなべに、
はじめまづヸオロンのひとすすりなき、
鈍色にびいろ長き衣ころもみな瞳をつぶる。
燃えそむるヴヱスヸアス、空のあなたに
色新あたらしき紅くれなゐの火ぞ噴ふきのぼる。
廃すたれたる夢の古墟ふるつか、さとあかる我わが室むろの内、
ひとときに渦巻うづまきかへす序じよのしらべ
管絃楽部オオケストラのうめきより夜よには入りぬる。
納曾利
入日のしばし、空はいま雲の震慄おびえのあかあかと
鋭するどにわかく、はた、苦にがく狂ひただるる楽がくの色。
また、高窻の鬱金香うこんかう。かげに斃たふるる白牛しろうしの
眉間みけんのいたみ、憤怒いきどほり。血に笑ゑむ人がさけびごゑ。
鈍にぶき思おもひの灰色はひいろの壁の家内やぬちに、
吹ふき鳴らす古き舞楽ぶがくの笙せうの節ふし、
納曾利なそりのなげき……
納曾利なそりのなげき、ひとしなみ
おほらににほふ雅楽寮うたれうの古きいみじき日の愁うれひ、
納曾利なそりの舞まひの
人のゆめ、鈍にぶくものうき足どりの裾ゆるらかに、
おもむろの振ふりのみやびの舞まひあそび、
納曾利なそりのなげき……
くりかへし、さはくりかへし、
ゆめのごと後しりへに連つるる笙せうの節ふし、
笛ふえのねとりもすずろかに、広ひろき家内やぬちに、
おなじことおなじ嫋なよびにくりかへし、
舞まへる思おもひの
倦うめる思おもひのにほやかさ、
ゆるき鞨皷かつこの
音ねもにぶく、
古ふるき納曾利なそりの舞まひをさめ……
ほのかに青あをく、なほ苦にがく顫ふるひくづるる雲くもの色いろ。
また、浮うきのこる鬱金香うこんかう。暮くれて果はてたる白牛しろうしの
声こえなき骸むくろ。人ひとだかり、血ちを見みて黙もだす冷笑ひやわらひ。
ほのかにひとつ
罌粟けしひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
やはらかき麦生むぎふのなかに、
軟風なよかぜのゆらゆるそのに。
薄うすき日の暮るとしもなく、
月つきしろの顫ふるふゆめぢを、
縺もつれ入るピアノの吐息といき
ゆふぐれになぞも泣かるる。
さあれ、またほのに生あれゆく
色あかきなやみのほめき。
やはらかき麦生むぎふの靄に、
軟風なよかぜのゆらゆる胸に、
罌粟けしひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
耽溺
あな悲かなし、紅あかき帆ほきたる。
聴きけよ、今いま、紅あかき帆ほきたる。
白日はくじつの光の水脈みをに、
わが恋の器楽きがくの海に。
あはれ、聴け、光は噎むせび、
海顫ひ、清すが掻がき焦こがれ
眩暈めくるめく悲愁かなしみの極はて、
苦悶もだえそふ歓楽よろこびのせて
キユラソオの紅あかき帆ほひびく。
弾ひけよ、弾ひけ、毒どくのヸオロン
吹けよ、また媚薬びやくの嵐。
あはれ歌、あはれ幻まぼろし、
その海に紅あかき帆ほ光る。
海の歌きこゆ、このとき、
『噫あゝ、かなし、炎ほのほよ、慾よくよ、
接吻くちつけよ。』
聴けよ、また苦にがき愛着あいぢやく、
肉しゝむらのおびえと恐怖おそれ、
『死ねよ、死ね』、紅あかき帆ほ響ひゞく、
『恋よ、汝なよ。』
弾ひけよ、弾ひけ、毒のヸオロン
吹けよ、また媚薬びやくの嵐。
一瞬ひとときよ、――光よ、水脈みをよ、
楽がくの音ねよ――酒のキユラソオ、
接吻くちつけの非命ひめいの快楽けらく、
毒水どくすゐの火のわななきよ。
狂くるへ、狂くるへ、破滅ほろびの渚なぎさ、
聴くははや楽がくの大極たいきよく、
狂乱きやうらんの日の光吸すふ
紅あかき帆の終つひのはためき。
死なむ、死なむ、二人ふたりは死なむ。
紅あかき帆ほきゆる。
紅あかき帆ほきゆる。
といき
大空おほそらに落日いりひただよひ、
旅しつつ燃えゆく黄雲きぐも。
そのしたの伽藍がらんの甍いらか
半なかば黄きになかばほのかに、
薄闇うすやみに蝋らふの火にほひ、
円柱まろはしらまたく暮れたる。
ほのめくは鳩の白羽しらはか、
敷石しきいしの闇にはひとり
盲めしひの子ひたと膝つけ、
ほのかにも尺八しやくはち吹ふける、
あはれ、その追分おひわけのふし。
黒船
黒煙くろけぶりほのにひとすぢ。――
あはれ、日は血を吐く悶もだえあかあかと
濡れつつ淀よどむ悪あくの雲そのとどろきに
燃え狂ふ恋慕れんぼの楽がくの断末魔だんまつま。
遠目とほめに濁る蒼海わだつみの色こそあかれ、
黒潮くろしほの水脈みをのはたての水けぶり、
はた、とどろ撃うつ毒の砲弾たま、清すずしき喇叭らつぱ、
薄暮くれがたの朱あけのおびえの戦たゝかひに
疲れくるめく衰おとろへぞああ音ねを搾しぼる。
黒煙くろけぶりまたもふたすぢ。――
序じよのしらべ絶たえつ続きつ、いつしかに
黒くろき悩なやみの旋律せんりつぞ渦うづ巻まき起る。
逃にげ来くるは密猟船みつれうせんの旗じるし、
痍きずつき噎むせぶ血と汚穢けがれ、はた憤怒いきどほり
おしなべて黄ばみ騒立さわだつ楽がくの色。
空には苦にがき嘲笑あざけりに雲かき乱れ、
重おもりゆく煩悶もだえのあらびはやもまた
黒き恐怖おそれのはたためき海より煙る。
黒煙三すぢ、五すぢ。――
幻法げんぱふのこれや苦くるしき脅迫おびやかし
いと淫みだらかに蒸し挑いどむ疾風はやちのもとに、
現れて真黒まくろに歎なげく楽がくの船、
生なまあをじろき鱶ふかの腹ただほのぼのと、
暮れがての赤きくるしみ、うめきごゑ、
血の甲板かふはんのうへにまた爛たゞれて叫ぶ
楽慾げうよくの破片はへんの砲弾たまぞ慄わなゝける。
ああその空にはたためく黒き帆のかげ。
黒煙終に七すぢ。――
吹きかはす銀ぎんの喇叭もたえだえに、
渦巻き猛たける楽がくの極はて、蒼海わだつみけぶり、
悪あくの雲とどろとどろの乱擾らんぜうに
急忙あわたゞしくも呪のろはしき夜よのたたずまひ。
濡れ焙いぶる水無月ぞらの日の名残なごり
はた掻き濁し、暗澹あんたんと、あはれ黒船くろふね、
真黒なる管絃楽オオケストラの帆の響ひゞき
死しと悔恨くわいこんの闇擾みだし壊くづれくづるる。
地平
あな哀あはれ、今日けふもまた銅あかがねの雲をぞ生める。
あな哀あはれ、明日あすも亦鈍にぶき血の毒どくをや吐かむ。
見るからにただ熱あつし、心は重し。
察はかるだにいや苦くるし、愁うれひはおもし。
かの青き国くにのあこがれ、
つねに見る地平ちへいのはてに、
大空おほぞらの真昼まひるの色と、
連つれて弾ひく緑みどりひとつら。
その緑みどり琴柱ことぢにはして、
弾きなづむ鳩の羽の夢、
幌ほろの星ほし、剣つるぎのなげき、
清掻すががきはほのかに薫くゆる。
さては、日の白き恐怖おそれに
静かなる太鼓たいこのとろぎ、
昼ひる領しらす神か拊うたせる、
ころころとまたゆるやかに。
また絶えず、吐息といきのつらね
かなたより笛してうかび、
こなたより絃いとして消ゆる、――
ほのかなる夢のおきふし。
しかはあれ、ものなべて圧おす
南国なんごくの熱病雲ねつやみぐもぞ
猥みだらなる毒どくの譃言うはごと
とどろかに歌かき濁にごす。
おもふ、いま水に華はなさき、
野のに赤き駒こまは斃たふれむ。
うらうへに病やましき現象きざし
今日けふもまたどよみわづらふ。
あな哀あはれ、昨きその日も銅あかがねのなやみかかりき。
あな哀あはれ、明日あすもまた鈍にぶき血の濁にごりかからむ。
聴くからにただ熱あつし、心は重し。
思ふだにいやくるし、愁は重し。
ふえのね
ほのかに見ゆる青き頬ほ、
あな、あな、玻璃はりのおびゆる。
かなたにひびく笛のね、……
青き頬ほほのに消えゆく。
室むろにもつのるふえのね、……
ふたつのにほひ盲しひゆく。
きこえずなりぬふえのね、……
内うちと外そととのなげかひ。
またしも見ゆる青き頬ほ。
あな、また玻璃はりのおびゆる。
下枝のゆらぎ
日はさしぬ、白楊はくやうの梢こずゑに赤く、
さはあれど、暮れ惑まどふ下枝しづえのゆらぎ……
水みづの面ものやはらかきにほひの嘆なげき
波もなき病やましさに、瀞とろみうつれる
晩春おそはるの窻閉とざす片側街かたかはまちよ、
暮れなやむ靄の内皷うちつづみをうてる。
いづこにか、もの甘き蜂の巣すのこゑ。
幼子をさなごのむれはまた吹笛フルウト鳴らし、
白楊はくやうの岸きしにそひ曇り黄きばめる
教会けうくわいの硝子窻がらすまどながめてくだる。
日はのこる両側もろがはの梢こずゑにあかく、
さはあれど、暮れ惑まどふ下枝しづえのゆらぎ……
またあれば、公園こうゑんの長椅子ベンチにもたれ、
かなたには恋慕れんぼびと苦悩なやみに抱く。
そのかげをのどやかに嬰児あかご匍はひいで
鵞がの鳥とりを捕とらむとて岸きしゆ落ちぬる。
水面みのもなるひと騒擾さやぎ、さあれ、このとき、
驀然ましぐらに急ぎくる一列ひとつらの郵便馬車いうびんばしやよ、
薄闇うすやみににほひゆく赤き曇くもりの
快こころよさ、人はただ街まちをばながむ。
灯あかり点ともる、さあれなほ梢こずゑはにほひ、
全またくいま暮れはてし下枝しづえのゆらぎ……
雨の日ぐらし
ち、ち、ち、ち、と、もののせはしく
刻きざむ音おと……
河岸かしのそば、
黴かびの香かのしめりも暗し、
かくてあな暮れてもゆくか、
駅逓えきていの局きよくの長壁ながかべ
灰色はひいろに、暗きうれひに、
おとつひも、昨日きのふも、今日けふも。
さあれ、なほ薫くゆりのこれる
一列ひとつらの紅あかき花はな罌粟けし
かたかげの草に濡れつつ、
うちしめり浮きもいでぬる。
雨はまたくらく、あかるく、
やはらかきゆめの曲節めろでい……
ち、ち、ち、ち、と絶えずせはしく
刻きざむ音……
角窻の玻璃はりのくらみを
死しの報知しらせひまなく打電うてる。
さてあればそこはかとなく
出でもゆく
薄ぐらき思おもひのやから
その歩行あるき夜よにか入るらむ。
しばらくは
事もなし。
かかる日の雨の日ぐらし。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻きざむ音おと……
さもあれや、
雨はまたゆるにしとしと
暮れもゆくゆめの曲節めろでい……
いづこにか鈴すゞの音ねしつつ、
近く、
はた、速のく軋きしり、
待ちあぐむ郵便馬車いうびんばしやの
旗の色いろ見えも来なくに、
うち曇る馬の遠嘶とほなき。
さあれ、ふと
夕日さしそふ。
瞬間たまゆらの夕日さしそふ。
あなあはれ、
あなあはれ、
泣き入りぬ罌粟けしのひとつら、
最終いやはてに燃もえてもちりぬ。
日の光かすかに消ゆる。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻きざむ音おと……
雨の曲節めろでい……
ものなべて、
ものなべて、
さは入らむ、暗き愁に。
あはれ、また、出でゆきし思のやから
帰り来なくに。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻きざむ音おと……
雨の曲節めろでい……
灰色はひいろの局きよくは夜よに入る。
狂人の音楽
空気くうきは甘し……また赤し……黄きに……はた、緑みどり……
晩夏おそなつの午後五時半の日光につくわうは晷かげりを見せて、
蒸し暑く噴水ふきゐに濡ぬれて照りかへす。
瘋癲院ふうてんゐんの陰鬱いんうつに硝子がらすは光り、
草場くさばには青き飛沫しぶきの茴香酒アブサント冷ひえたちわたる。
いま狂人きやうじんのひと群むれは空うち仰ふぎ――
饗宴きやうえんの楽器がくきとりどりかき抱いだき、自棄やけに、しみらに、
傷きずつける獣けもののごとき雲の面おも
ひたに怖れて色盲しきまうの幻覚まぼろしを見る。
空気くうきは重し……また赤し……共に……はた緑みどり……
* * * *
* * * *
オボイ鳴る……また、トロムボオン……
狂くるほしきヸオラの唸うなり……
一人ひとりの酸すゆき音ねは飛びて怜羊かもしかとなり、
ひとつは赤き顔ゑがき、笑わらひわななく
音ねの恐怖おそれ……はた、ほのしろき髑髏舞どくろまひ……
弾ひけ弾ひけ……鳴らせ……また舞踏をどれ……
セロの、喇叭らつぱの蛇へびの香かよ、
はた、爛たゞれ泣くヸオロンの空には赤子飛びみだれ、
妄想狂まうさうきやうのめぐりにはバツソの盲目めしひ
小さなる骸色しかばねいろの呪咀のろひして逃のがれふためく。
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏をどれ……
クラリネッ卜の槍尖やりさきよ、
曲節メロヂアのひらめき緩ゆるく、また急はやく、
アルト歌者うたひのなげかひを暈くらましながら、
一列ひとつらね、血しほしたたる神経しんけいの
壁の煉瓦れんぐわのもとを行ゆく……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏をどれ……、
かなしみの蛇へび、緑みどりの眼め
槍やりに貫ぬかれてまた歎なげく……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏をどれ……
はた、吹笛フルウトの香かのしぶき、
青じろき花どくだみの鋭するどさに、
濁りて光る山椒魚さんしようを、沼ぬまの調しらべに音ねは瀞とろむ。
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏をどれ……
傷きずつきめぐる観覧車くわんらんしや、
はたや、太皷たいこの悶絶もんぜつに列つらなり走はしる槍尖やりさきよ、
窻の硝子がらすに火は叫さけび、
月琴げつきんの雨ふりそそぐ……
弾ひけ弾ひけ……鳴らせ……また舞踏をどれ……
赤き神経しんけい……盲めしひし血……
聾ろうせる脳の鑢やすりの音ね……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏をどれ……
* * * *
* * * *
空気くうきは酸すゆし……いま青し……黄きに……なほ赤く……
はやも見よ、日の入りがたの雲の色
狂気きやうきの楽がくの音ねにつれて波だちわたり、
悪獣の蹠あなうらのごと血を滴たらす。
そがもとに噴水ふきゐのむせび
濡れ濡れて薄闇うすやみに入る……
空気くうきは重し……なほ赤し……黄きに……また緑みどり……
いつしかに蒸汽じようきの鈍にぶき船腹ふなばらの
ごとくに光りかぎろひし瘋癲院ふうてんゐんも暮れゆけば、
ただ冷ひえしぶく茴香酒アブサント、鋭するどき玻璃はりのすすりなき。
草場くさばの赤き一群ひとむれよ、眼めををののかし、
躍をどり泣き弾ひきただらかす歓楽くわんらくの
はてしもあらぬ色盲しきまうのまぼろしのゆめ……
午後の七時の印象いんしやうはかくて夜よに入る。
空気は苦にがし……はや暗くらし……黄きに……なほ青く……
風のあと
夕日ゆふひはなやかに、
こほろぎ啼なく。
あはれ、ひと日、木の葉ちらし吹き荒すさみたる風も落ちて、
夕日ゆふひはなやかに、
こほろぎ啼く。
月の出
ほのかにほのかに音色ねいろぞ揺ゆる。
かすかにひそかににほひぞ鳴る。
しみらに列なみ立たつわかき白楊ぽぴゆら、
その葉のくらみにこころ顫ふるふ。
ほのかにほのかに吐息といきぞ揺る。
かすかにひそかに雫しづくぞ鳴る。
あふげばほのめくゆめの白楊ぽぴゆら、
愁うれひの水みの面もを櫂かいはすべる。
吐息といきのをののき、君が眼めざし
やはらに縺もつれてたゆたふとき、
光のひとすぢ――顫ふるふ白楊ぽぴゆら
文月ふづきの香炉かうろに濡れてけぶる。
さてしもゆるけくにほふ夢路ゆめぢ、
したたりしたたる櫂かいのしづく、
薄らに沁しみゆく月のでしほ
ほのかにわれらが小舟をふねぞゆく。
ほのめく接吻くちつけ、からむ頸うなじ、
いづれか恋慕れんぼの吐息といきならぬ。
夢見てよりそふわれら、白楊ぽぴゆら、
水上みなかみ透すかしてこころ顫ふるふ。
外光と印象
近世仏国絵画の鑑賞者をわかき旅人にたとへばや。もとより Watteau の羅曼底、Corot の叙情詩は唯微かにそのおぼろげなる記憶に残れるのみ。やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める Cafe´の、皆「刹那」の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。そは Velazquez の灰色より俄に現れいでたる午后の日なりき。あはれ日はやうやう暮れてぞゆく。金緑に紅薔薇を覆輪にしたりけむ Monet の波の面も青みゆき、青みゆき、ほのかになつかしくはた悲しき Cafin の夕は来る。燈の薄黄は Whistler の好みの色とぞ。月出づ。Pissarro のあをき衢を Verlaine の白月の賦など口荒みつつ過ぎゆくは誰が家の子ぞや。
冷めがたの印象
あわただし、旗ひるがへし、
朱しゆの色の駅逓えきてい馬車ぐるま跳をどりゆく。
曇日くもりびの色なき街まちは
清水しみづさす石油せきゆの噎むせび、
轢しかれ泣く停車場ていしやばの鈴すゞ、溝みぞの毒どく、
昼の三味しやみ、鑢やすり磨する歌、
茴香酒アブサンの青み泡だつ火の叫さけび、
絶えず眩くるめく白楊やまならし、遂に疲れて
マンドリン奏かなでわづらふ風の群むれ、
あなあはれ、そのかげに乞食かたゐゆきかふ。
くわと来り、燃もえゆく旗は
死に堕おつる、夏の光のうしろかげ。
灰色の亜鉛とたんの屋根に、
青銅せいどうの擬宝珠ぎぼしゆの錆さびに、
また寒き万象ものみなの愁うれひのうへに、
爛たゞれ弾ひく猩紅熱しやうこうねつの火の調しらべ、
狂気きやうきの色と冷さめがたの疲労つかれに、今は
ひた嘆なげく、悔くいと、悩なやみと、戦慄をのゝきと。
あかあかとひらめく旗は
猥みだらなるその最終いやはての夏の曲きよく。
あなあはれ、あなあはれ、
あなあはれ、光消えさる。
赤子
赤子啼く、
急はやき瀬せの中うち。
壁重き女囚ぢよしうの牢獄ひとや、
鉄てつの門もん、
淫慾いんよくの蛇の紋章もんしやう
くわとおびえ、
水に、落日いりひに
照りかへし、
黄ばむひととき。
赤子あかご啼なく、
急はやき瀬せの中うち。
暮春
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
なやまし、河岸かしの日のゆふべ、
日の光。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
眼科がんくわの窓まどの磨硝子すりがらす、しどろもどろの
白楊はくやうの温ぬるき吐息といきにくわとばかり、
ものあたたかに、くるほしく、やはく、まぶしく、
蒸し淀よどむ夕日ゆふひの光。
黄きのほめき。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
なやまし、またも
いづこにか、
なやまし、あはれ、
音ねも妙たへに
紅あかき嘴はしある小鳥らのゆるきさへづり。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
はた、大河おほかはの饐すえ濁にごる、河岸かしのまぢかを
ぎちぎちと病やましげにとろろぎめぐる
灰色はいいろ黄きばむ小蒸汽こじようきの温ぬるく、まぶしく、
またゆるくとろぎ噴ふく湯気ゆげ
いま懈たゆく、
また絶えず。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
いま病院びやうゐんの裏庭うらにはに、煉瓦のもとに、
白楊はくやうのしどろもどろの香かのかげに、
窓の硝子がらすに、
まじまじと日向ひなた求もとむる病人やまうどは目めも悩なやましく
見ぞ夢む、暮春ぼしゆんの空と、もののねと、
水と、にほひと。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
なやまし、ただにやはらかに、くらく、まぶしく、
また懈たゆく。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
噴水の印象
噴水ふきあげのゆるきしたたり。――
霧しぶく苑そのの奥、夕日ゆふひの光、
水盤すゐばんの黄きなるさざめき、
なべて、いま
ものあまき嗟嘆なげかひの色。
噴水ふきあげの病やめるしたたり。――
いづこにか病児びやうじ啼なき、ゆめはしたたる。
そこここに接吻くちつけの音おと。
空は、はた、
暮れかかる夏のわななき。
噴水ふきあげの甘きしたたり。――
そがもとに痍きずつける女神ぢよじんの瞳。
はた、赤き眩暈くるめきの中うち、
冷ひやみ入る
銀ぎんの節ふし、雲のとどろき。
噴水ふきあげの暮るるしたたり。――
くわとぞ蒸むす日のおびえ、晩夏ばんかのさけび、
濡れ黄ばむ憂鬱症ヒステリイのゆめ
青む、あな
しとしとと夢はしたたる。
顔の印象 六篇
A 精舎
うち沈む広額ひろびたひ、夜よのごとも凹くぼめる眼まなこ――
いや深く、いや重く、泣きしづむ霊たましの精舎しやうじや。
それか、実げに声もなき秦皮とねりこの森のひまより
熟視みつむるは暗くらき池、谷そこの水のをののき。
いづこにか薄日うすひさし、きしりこきり斑鳩いかるがなげく
寂寥さみしらや、空の色なほ紅あけににほひのこれど、
静かなる、はた孤独ひとり、山間やまあひの霧にうもれて
悔くいと夜よのなげかひを懇ねもごろに通夜つやし見まもる。
かかる間まも、底ふかく青あをの魚盲めしひあぎとひ、
口そそぐ夢の豹へう水の面もに血音ちのとたてつつ、
みな冷ひやき石の世よと化なりぞゆく、あな恐怖おそれより。
かくてなほ声もなき秦皮とねりこよ、秘ひそに火ともり、
精舎しやうじやまた水晶と凝こごる時とき愁うれひやぶれて
響きいづ、響きいづ、最終いやはての霊たまの梵鐘ぼんしよう。
B 狂へる街
赭あからめる暗くらき鼻、なめらかに禿はげたる額ひたひ、
痙攣ひきつれる唇くちの端はし、光なくなやめる眼まなこ
なにか見る、夕栄ゆふばえのひとみぎり噎むせぶ落日いりひに、
熱病ねつびやうの響ひびきする煉瓦家れんぐわやか、狂へる街まちか。
見るがまに焼酎せうちうの泡あわしぶきひたぶる歎なげく
そが街まちよ、立てつづく尖屋根とがりやね血ばみ疲つかれて
雲赤くもだゆる日、悩なやましく馬車ばしや駆かるやから
霊たましひのありかをぞうち惑まどひ窓まどふりあふぐ。
その窓まどに盲めしひたる爺をぢひとり鈍にぶき刃は研とげる。
はた、唖おふし朱しゆに笑ひ痺しびれつつ女をみなを説とける。
次つぎなるは聾ろうしぬる清き尼あま三味線しやみせん弾ひける。
しかはあれ、照り狂ふ街まちはまた酒と歌とに
しどろなる舞まひの列れつあかあかと淫たはれくるめき、
馬車ばしやのあと見もやらず、意味いみもなく歌ひ倒たふるる。
C 醋の甕
蒼あをざめし汝なが面おもて饐すえよどむ瞳ひとみのにごり、
薄暮くれがたに熟視みつめつつ撓たわみちる髪の香かきけば――
醋すの甕かめのふたならび人もなき室むろに沈みて、
ほの暗くらき玻璃はりの窓ひややかに愁うれひわななく。
外面とのもなる嗟嘆なげかひよ、波もなきいんくの河に
旗青き独木舟うつろぶねそこはかと巡めぐり漕ぎたみ、
見えわかぬ悩なやみより錨いかり曳ひき鎖くさり巻かれて、
伽羅きやらまじり消え失うする黒蒸汽くろじようき笛ふえぞ呻うめける。
吊橋つりばしの灰白はひじろよ、疲つかれたる煉瓦れんぐわの壁かべよ、
たまたまに整ととのはぬ夜よのピアノ淫みだれさやげど、
ひとびとは声もなし、河の面おもをただに熟視みつむる。
はた、甕かめのふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、
内と外そとかぎりなき懸隔へだたりに帷とばり堕おつれば、
あな悲し、あな暗くらし、醋すの沈黙しじま長くひびかふ。
D 沈丁花
なまめけるわが女をみな、汝なは弾ひきぬ夏の日の曲きよく、
悩なやましき眼めの色に、髪際かうぎはの紛こなおしろひに、
緘つぐみたる色あかき唇くちびるに、あるはいやしく
肉ししむらの香かに倦うめる猥みだらなる頬ほのほほゑみに。
響ひびかふは呪のろはしき執しふと欲よく、ゆめもふくらに
頸うなじ巻く毛のぬくみ、真白ましろなるほだしの環たまき
そがうへに我ぞ聴きく、沈丁花ぢんてうげたぎる畑はたけを、
堪たへがたき夏の日を、狂くるはしき甘あまきひびきを。
しかはあれ、またも聴く、そが畑はたに隣となる河岸かし側きは、
色ざめし浅葱幕あさぎまくしどけなく張りもつらねて、
調しらぶるは下司げすのうた、はしやげる曲馬チヤリネの囃子はやし。
その幕の羅馬字らうまじよ、くるしげに馬は嘶いななき、
大喇叭おほらつぱ鄙ひなびたる笑わらひしてまたも挑いどめば
生なまあつき色と香かとひとさやぎ歎なげきもつるる。
E 不調子
われは見る汝なが不調ふてう、――萎しなびたる瞳の光沢つやに、
衰おとろへの頬ほににほふおしろひの厚き化粧けはひに、
あはれまた褪あせはてし髪の髷まげ強つよきくゆりに、
肉ししむらの戦慄わななきを、いや甘き欲よくの疲労つかれを。
はた思ふ、晩夏おそなつの生なまあつきにほひのなかに、
倦うみしごと縺もつれ入るいと冷ひやき風の吐息といきを。
新開しんかいの街まちは鏽さびて、色赤く猥みだるる屋根を、
濁りたる看板かんばんを、入り残る窓の落日いりひを。
なべてみな整ととのはぬ色の曲ふし……ただに鋭するどき
最高音ソプラノの入り雑まじり、埃ほこりたつ家やなみのうへに、
色にぶき土蔵家どざうやの江戸芝居えどしばゐひとり古りたる。
露あらはなる日の光、そがもとに三味しやみはなまめき、
拍子木へうしぎの歎なげきまたいと痛いたし古き痍いたでに、
かくてあな衰おとろへのもののいろ空そらは暮れ初む。
F 赤き恐怖
わかうどよ、汝なはくるし、尋とめあぐむ苦悶くもんの瞳ひとみ、
秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き唇くちびる
みな恋の響なり、熟視みつむれば――調しらべかなでて
火のごとき馬ぐるま燃もえ過ぐる窓のかなたを。
はた、辻の真昼まひるどき、白楊はこやなぎにほひわななき、
雲浮かぶ空そらの色生なまあつく蒸しも汗あせばむ
街まちよ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、
炎上えんじやうの光また眼めにうつり、壁ぞ狂くるへる。
人もなき路のべよ、しとしとと血を滴したたらし
胆きも抜ぬきて走る鬼、そがあとにただに餞うゑつつ
色赤き郵便函ポストのみくるしげにひとり立ちたる。
かくてなほ窓の内うちすずしげに室むろは濡ぬるれど、
戸外とのもにぞ火は熾さかる、………哀あはれ、哀あはれ、棚たなの上へに見よ、
水もなき消火器せうくわきのうつろなる赤き戦慄をののき。
盲ひし沼
午後六時ごごろくじ、血紅色けつこうしよくの日の光
盲めしひし沼にふりそそぎ、濁にごりの水の
声もなく傷きずつき眩くらむ生なまおびえ。
鉄てつの匂にほひのひと冷ひやみ沁しみは入れども、
影うつす煙草たばこ工場こうばの煉瓦壁れんぐわかべ。
眼めも痛いたましき香かのけぶり、機械きかいとどろく。
鳴ききたる鵝島がてうのうから
しらしらと水に飛び入る。
午後六時、また噴ふきなやむ管くだの湯気ゆげ、
壁に凭よりたる素裸すはだかの若者わかものひとり
腕かいな拭ふき鉄てつの匂にうち噎むせぶ。
はた、あかあかと蒸気鑵じようきがま音おとなく叫び、
そこここに咲きこぼれたる芹せりの花、
あなや、しとどにおしなべて日ぞ照りそそぐ。
声もなき鵞鳥がてうのうから
色みだし水に消え入る
午後六時、鵞鳥がてうの見たる水底みなぞこは
血潮したたる沼ぬまの面もの負傷てきずの光
かき濁る泥どろの臭くさみに疲つかれつつ、
水死すゐしの人の骨のごとちらぼふなかに
もの鈍にぶき鉛の魚のめくるめき、
はた浮うかびくる妄念まうねんの赤きわななき。
逃にげいづる鵞鳥がてうのうから
鳴きさやぎ汀みぎはを走はしる。
午後六時、あな水底みそこより浮びくる
赤きわななき――妄念の猛たけると見れば、
強き煙草に、鉄てつの香かに、わかき男に、
顔いだす硝子がらすの窓の少女をとめらに血潮したたり、
歓楽くわんらくの極はての恐怖おそれの日のおびえ、
顫ふるひ高まる苦痛くるしみぞ朱あけにくづるる。
刹那、ふと太ふとく湯気ゆげ吐き
吼ほえいづる休息やすらひの笛。
青き光
哀あはれ、みな悩なやみ入る、夏の夜よのいと青き光のなかに、
ほの白き鉄てつの橋、洞ほら円まろき穹窿ああちの煉瓦れんぐわ、
かげに来て米炊かしぐ泥舟どろぶねの鉢はちの撫子なでしこ、
そを見ると見下みおろせる人々ひとびとが倦うみし面おもても。
はた絶えず、悩なやましの角つの光り電車すぎゆく
河岸かしなみの白き壁あはあはと瓦斯も点ともれど、
うち向ふ暗き葉柳はやなぎ震慄わななきつ、さは震慄わななきつ、
後うしろよりはた泣くは青白き屋いへの幽霊いうれい。
いと青きソプラノの沈みゆく光のなかに、
饐すえて病むわかき日の薄暮くれがたのゆめ。――
幽霊の屋いへよりか洩れきたる呪のろはしの音ねの
交響体ジムフオニのくるしみのややありて交まじりおびゆる。
いづこにかうち囃はやす幻燈げんとうの伴奏あはせの進行曲マアチ、
かげのごと往来ゆききする白しろの衣きぬうかびつれつつ、
映うつりゆく絵ゑのなかのいそがしさ、さは繰りかへす。――
そのかげに苦痛くるしみの暗くらきこゑまじりもだゆる。
なべてみな悩なやみ入る、夏の夜よのいと青き光のなかに。――
蒸し暑あつき軟なよら風かぜもの甘あまき汗あせに揺ゆれつつ、
ほつほつと点ともれゆく水みづの面ものなやみの燈ともし、
鹹しほからき執しふの譜ふよ………み空には星ぞうまるる。
かくてなほ悩み顫ふるふわかき日の薄暮くれがたのゆめ。――
見よ、苦にがき闇やみの滓をり街衢ちまたには淀よどみとろげど、
新あらたにもしぶきいづる星の華はな――泡あわのなげきに
色青き酒のごと空そらは、はた、なべて澄みゆく。
樅のふたもと
うちけぶる樅もみのふたもと。
薄暮くれがたの山の半腹なからのすすき原はら、
若草色わかくさいろの夕ゆふあかり濡れにぞ濡るる
雨の日のもののしらべの微妙いみじさに、
なやみ幽かすけき Chopinシオパン の楽がくのしたたり
やはらかに絶えず霧するにほやかさ。
ああ、さはあかれ、嗟嘆なげかひの樅もみのふたもと。
はやにほふ樅もみのふたもと。
いつしかに色にほひゆく靄のすそ、
しみらに燃もゆる日の薄黄うすぎ、映うつらふみどり、
ひそやかに暗くらき夢弾ひく列並つらなみの
遠とほの山々やまやまおしなべてものやはらかに、
近ちかほとりほのめきそむる歌うたの曲ふし。
ああ、はやにほへ、嗟嘆なげかひの樅もみのふたもと。
燃えいづる樅もみのふたもと。
濡れ滴したる柑子かうじの色のひとつらね、
深き青みの重かさなりにまじらひけぶる
山の端はの縺もつれのなやみ、あるはまた
かすかに覗のぞく空のゆめ、雲のあからみ、
晩夏おそなつの入日いりひに噎むせぶ夕ゆふながめ。
ああ、また燃もゆれ、嗟嘆なげかひの樅もみのふたもと。
色うつる樅もみのふたもと。
しめやげる葬はふりの曲ふしのかなしみの
幽かすかにもののなまめきに揺曳ゆらひくなべに、
沈しづみゆく雲の青みの階調シムフオニヤ、
はた、さまざまのあこがれの吐息といきの薫くゆり、
薄れつつうつらふきはの日のおびえ。
ああ、はた、響け、嵯嘆なげかひの樅もみのふたもと。
饐すえ暗くらむ樅のふたもと。
燃えのこる想おもひのうるみひえびえと、
はや夜よの沈黙しじましのびねに弾きも絶え入る
列並つらなみの山のくるしみ、ひと叢むらの
柑子かうじの靄のおぼめきも音ねにこそ呻うめけ、
おしなべて御龕みづしの空そらぞ饐すえよどむ。
ああ、見よ、悩なやむ、嗟嘆なげかひの樅もみのふたもと。
暮れて立つ樅もみのふたもと。
声もなき悲願ひぐわんの通夜つやのすすりなき
薄らの闇に深みゆく、あはれ、法悦ほふえつ、
いつしかに篳篥ひちりきあかる谷のそら、
ほのめき顫ふるふ月魄つきしろのうれひ沁みつつ
夢青む忘我われかの原の靄の色。
ああ、さは顫ふるへ嗟嘆なげかひの樅もみのふたもと。
夕日のにほひ
晩春おそはるの夕日ゆふひの中なかに、
順礼じゆんれいの子はひとり頬ほをふくらませ、
濁にごりたる眼めをあげて管くだうち吹ける。
腐くされゆく襤褸つづれのにほひ、
酢すと石油せきゆ……にじむ素足すあしに
落ちちれる果実くだものの皮、赤くうすく、あるは汚きたなく……
片手かたてには噛かぢりのこせし
林檎りんごをばかたく握にぎりぬ。
かくてなほ頬ほをふくらませ
怖おづおづと吹きいづる………珠たまの石鹸しやぼんよ。
さはあれど、珠たまのいくつは
なやましき夕暮ゆふぐれのにほひのなかに
ゆらゆらと円まろみつつ、ほつと消きえたる。
ゆめ、にほひ、その吐息といき……
彼かれはまた、
怖々おづおづと、怖々おづおづと、……眩まぶしげに頬ほをふくらませ
蒸むし淀よどむ空気くうきにぞ吹きもいでたる。
あはれ、見よ、
いろいろのかがやきに濡ぬれもしめりて
円まろらにものぼりゆく大おほきなるひとつの珠たまよ。
そをいまし見あげたる無心むしんの瞳ひとみ。
背後そびらには、血しほしたたる
拳こぶしあげ、
霞かすめる街まちの大時計おほどけい睨にらみつめたる
山門さんもんの仁王にわうの赤あかき幻想イリユウジヨン……
その裏うらを
ちやるめらのゆく……
浴室
水落つ、たたと………浴室よくしつの真白き湯壺ゆつぼ
大理石なめいしの苦悩なやみに湯気ゆげぞたちのぼる。
硝子がらすの外そとの濁川にごりがは、日にあかあかと
小蒸汽こじようきの船腹ふなばら光るひとみぎり、太鼓ぞ鳴れる。
水落つ、たたと………‥灰色はひいろの亜鉛とたんの屋根の
繋留所けいりうじよ、わが窓近き陰鬱いんうつに
行徳ぎやうとくゆきの人はいま見つつ声なし、
川むかひ、黄褐色わうかつしよくの雲のもと、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………両国りやうごくの大吊橋おほつりばしは
うち煤すすけ、上手かみて斜ななめに日を浴あびて、
色薄黄きばみ、はた重く、ちやるめらまじり
忙せはしげに夜よに入る子らが身の運はこび、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………もの甘く、あるひは赤く、
うらわかきわれの素肌すはだに沁しみきたる
鉄てつのにほひと、腐くされゆく石鹸しやぼんのしぶき。
水面みのもには荷足にたりの暮れて呼ぶ声す、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………たたとあな音色ねいろ柔やはらに、
大理石なめいしの苦悩なやみに湯気ゆげは濃こく、温ぬるく、
鈍にぶきどよみと外光ぐわいくわうのなまめく靄に
疲つかれゆく赤き都会とくわいのらうたげさ、太皷ぞ鳴れる。
入日の壁
黄きに潤しめる港の入日いりひ、
切支丹きりしたん邪宗じやしゆうの寺の入口いりぐちの
暗くらめるほとり、色古りし煉瓦れんぐわの壁に射かへせば、
静かに起る日の祈祷いのり、
『ハレルヤ』と、奥にはにほふ讃頌さんしようの幽かすけき夢路ゆめぢ。
あかあかと精舎しやうじやの入日。――
ややあれば大風琴おほオルガンの音ねの吐息といき
たゆらに嘆なげき、白蝋はくらふの盲しひゆく涙。――
壁のなかには埋うづもれて
眩暈めくるめき、素肌すはだに立てるわかうどが赤き幻まぼろし。
ただ赤き精舎しやうじやの壁に、
妄念まうねんは熔とろくるばかりおびえつつ
全身ぜんしん落つる日を浴あびて真夏まなつの海をうち睨にらむ。
『聖サンタマリヤ、イエスの御母みはは。』
一斉いつせいに礼拝をろがみ終をはる老若らうにやくの消え入るさけび。
はた、白しらむ入日の色に
しづしづと白衣はくえの人らうちつれて
湿潤しめりも暗き戸口とぐちより浮びいでつつ、
眩まぶしげに数珠じゆずふりかざし急いそげども、
など知らむ、素肌すはだに汗あせし熔とろけゆく苦悩くなうの思おもひ。
暮れのこる邪宗じやしゆうの御寺みてら
いつしかに薄うすらに青くひらめけば
ほのかに薫くゆる沈ぢんの香かう、波羅葦増ハライソのゆめ。
さしもまた埋うもれて顫ふるふ妄念まうねんの
血に染みし踵かがとのあたり、蟋蟀きりぎりす啼きもすずろぐ。
狂へる椿
ああ、暮春ぼしゆん。
なべて悩なやまし。
溶とろけゆく雲のまろがり、
大おほぞらのにほひも、ゆめも。
ああ、暮春。
大理石なめいしのまぶしきにほひ――
幾基いくもとの墓の日向ひなたに
照りかへし、
くわと入る光。
ものやはき眩暈くるめきの甘き恐怖おそれよ。
あかあかと狂ひいでぬる薮椿やぶつばき、
自棄やけに熱ねつ病やむ霊たまか、見よ、枝もたわわに
狂ひ咲き、
狂ひいでぬる赤き花、
赤き譃言うはごと。
そがかたへなる崖がけの上うへ、
うち湿しめり、熱ほてり、まぶしく、また、ねぶく
大路おほぢに淀よどむもののおと。
人力車夫じんりきしやふは
ひとつらね青白あをじろの幌ほろをならべぬ。
客を待つこころごころに。
ああ、暮春。
さあれ、また、うちも向へる
いと高く暗き崖がけには、
窓まどもなき牢獄ひとやの壁の
長き列つら、はては閉とざせる
灰黒はひぐろの重き裏門うらもん。
はたやいま落つる日ひびき、
照りあかる窪地くぼちのそらの
いづこにか、
さはひとり、
湿しめり吹きゆく
幼をさなごころの日のうれひ、
そのちやるめらの
笛の曲ふし。
笛の曲ふし…………
かくて、はた、病やみぬる椿つばき、
赤く、赤く、狂くるへる椿つばき。
吊橋のにほひ
夏の日の激はげしき光
噴ふきいづる銀ぎんの濃雲こぐもに照りうかび、
雲は熔とろけてひたおもて大河筋おほかはすぢに射かへせば、
見よ、眩暈めくるめく水の面おも、波も真白に
声もなき潮のさしひき。
そがうへに懸かかる吊橋。
煤すすけたる黝ねずみの鉄てつの桁構けたがまへ、
半月形はんげつけいの幾円いくまろみ絶えつつ続くかげに、見よ、
薄うすらに青む水の色、あるは煉瓦れんぐわの
円柱まろはしら映うつろひ、あかみ、たゆたひぬ。
銀色ぎんいろの光のなかに、
そろひゆく櫂オオルのなげきしらしらと、
或あるひは仄ほのの水鳥みづとりのそことしもなき音ねのうれひ、
河岸かしの氷室ひむろの壁も、はた、ただに真昼の
白蝋はくらふの冷ひやみの沈黙しじま。
かくてただ悩なやむ吊橋つりはし、
なべてみな真白き水みの面も、はた、光、
ただにたゆたふ眩暈くるめきの、恐怖おそれの、仄ほのの哀愁かなしみの
銀ぎんの真昼まひるに、色重き鉄てつのにほひぞ
鬱憂うついうに吊られ圧おさるる。
鋼鉄かうてつのにほひに噎むせび、
絶えずまた直裸ひたはだかなる男の子
真白ましろに光り、ひとならび、力ちからあふるる面おもてして
柵さくの上より躍をどり入る、水の飛沫しぶきや、
白金はつきんに濡ぬれてかがやく。
真白ましろなる真夏まなつの真昼まひる。
汗あせ滴したるしとどの熱ねつに薄曇うすくもり、
暈くらみて歎なげく吊橋のにほひ目当めあてにたぎち来る
小蒸汽船こじようきせんの灰はひばめる鈍にぶき唸うなりや、
日は光り、煙うづまく。
硝子切るひと
君は切る、
色あかき硝子がらすの板いたを。
落日いりひさす暮春ぼしゆんの窓に、
いそがしく撰えらびいでつつ。
君は切る、
金剛こんがうの石のわかさに。
茴香酒アブサンのごときひとすぢ
つと引きつ、切りつ、忘れつ。
君は切る、
色あかき硝子がらすの板を。
君は切る、君は切る。
悪の窓 断篇七種
一 狂念
あはれ、あはれ、
青白あをじろき日の光西よりのぼり、
薄暮くれがたの灯のにほひ昼もまた点ともりかなしむ。
わが街まちよ、わが窓よ、なにしかも焼酎せうちう叫さけび、
鶴嘴つるはしのひとつらね日に光り悶もだえひらめく。
汽車きしやぞ来くる、汽車きしやぞ来くる、真黒まくろげに夢とどろかし、
窓もなき灰色はひいろの貨物輌くわもつばこ豹へうぞ積みたる。
あはれ、はや、焼酎せうちうは醋すとかはり、人は轢しかれて、
盲めしひつつ血に叫ぶ豹へうの声遠とほに泡あわ立つ。
二 疲れ
あはれ、いま暴あらびゆく接吻くちつけよ、肉ししむらの曲きよく。……
かくてはや青白く疲つかれたる獣けものの面おもて
今日けふもまた我われ見据みすゑ、果敢はかなげに、いと果敢はかなげに、
色濁にごる窓まど硝子がらす外面とのもより呪のろひためらふ。
いづこにかうち狂くるふヸオロンよ、わが唇くちびるよ、
身をも燬やくべき砒素ひその壁かべ夕日さしそふ。
三 薄暮の負傷
血潮したたる。
薄暮くれがたの負傷てきずなやまし、かげ暗くらき溝みぞのにほひに、
はた、胸に、床ゆかの鉛なまりに……
さあれ、夢には列つらなめて駱駝らくだぞ過すぐる。
埃及えじぷとのカイロの街まちの古煉瓦ふるれんが
壁のひまには砂漠さばくなるオアシスうかぶ。
その空にしたたる紅あかきわが星よ。……
血潮したたる。
四 象のにほひ
日をひと日。
日をひと日。
日をひと日、光なし、色も盲めしひて
ふくだめる、はた、病やめるなやましきもの
窻ふたぎ窻ふたぎ気倦けだるげに唸うなりもぞする。
あはれ、わが幽鬱いううつの象ざう
亜弗利加あふりかの鈍にぶきにほひに。
日をひと日。
日をひと日。
五 悪のそびら
おどろなす髪の亜麻色あさいろ
背そびら向け、今日けふもうごかず、
さあれ、また、絶えずほつほつ
息しぼり『死』にぞ吹くめる、
血のごとき石鹸しやぼんの珠たまを。
六 薄暮の印象
うまし接吻くちつけ……歓語さざめごと……
さあれ、空には眼めに見えぬ血潮ちしほしたたり、
なにものか負傷ておひくるしむ叫さけびごゑ、
など痛いたむ、あな薄暮くれがたの曲きよくの色、――光の沈黙しじま。
うまし接吻くちつけ……歓語さざめごと……
七 うめき
暮くれゆく日、血に濁る床ゆかの上にひとりやすらふ。
街まちしづみ、窻しづみ、わが心もの音おともなし。
載のせきたる板硝子いたがらす過すぐるとき車燬やきつつ
落つる日の照りかへし、そが面おもて噎びあかれば
室内むろぬちの汚穢けがれ、はた、古壁に朽ちし鉞まさかり
一斉ひとときに屠はふらるる牛の夢くわとばかり呻うめき悶もだゆる。
街まちの子は戯たはむれに空虚うつろなる乳ちの鑵くわんたたき、
よぼよぼの飴売あめうりは、あなしばし、ちやるめらを吹く。
くわとばかり、くわとばかり、
黄きに光る向むかひの煉瓦れんぐわ
くわとばかり、あなしばし。――
蟻
おほらかに、
いとおほらかに、
大おほきなる鬱金うこんの色の花の面おも。
日は真昼まひる、
時は極熱ごくねつ、
ひたおもて日射ひざしにくわつと照りかへる。
時に、われ
世よの蜜みつもとめ
雄蕋ゆうずゐの林の底をさまよひぬ。
光の斑ふ
燬やけつ、断ちぎれつ、
豹へうのごと燃もえつつ湿しめる径みちの隈くま。
風吹かず。
仰ふげば空そらは
烈々れつれつと鬱金うこんを篩ふるふ蕋ずゐの花。
さらに、聞く、
爛ただれ、饐すえばみ、
ふつふつと苦痛くつうをかもす蜜の息。
楽欲げうよくの
極みか、甘き
寂寞じやくまくの大光明だいくわうみやう、に喘あへぐ時。
人界にんがいの
七谷ななたに隔へだて、
丁々とうとうと白檀びやくだんを伐うつ斧をのの音おと。
華のかげ
時ときは夏、血のごと濁にごる毒水どくすゐの
鰐わに住む沼ぬまの真昼時まひるどき、夢ともわかず、
日に嘆なげく無量むりやうの広葉ひろはかきわけて
ほのかに青き青蓮せいれんの白華しらはな咲けり。
ここ過よぎり街まちにゆく者、――
婆羅門ばらもんの苦行くぎやうの沙門しやもん、あるはまた
生皮なまかわ漁あさる旃陀羅せんだらが鈍にぶき刃はの色、
たまたまに火の布きれ巻ける奴隷しもべども
石油せきゆの鑵くわんを地に投なげて鋭するどに泣けど、
この旱ひでり何時いつかは止やまむ。これやこれ、
饑うゑに堕おちたる天竺てんぢくの末期まつごの苦患くげん。
見るからに気候風きこうふう吹く空そらの果はて
銅色あかがねいろのうろこ雲湿潤しめりに燃りもえて
恒河ガンヂスの鰐わにの脊せのごとはらばへど、
日は爛ただれ、大地たいちはあはれ柚色ゆずいろの
熱黄疸ねつわうだんの苦痛くるしみに吐息といきも得せず。
この恐怖おそれ何に類たぐへむ。ひとみぎり
地平ちへいのはてを大象たいざうの群むれ御ぎよしながら
槍やり揮ふるふ土人どじんが昼の水かひも
終をへしか、消ゆる後姿うしろでに代かはれる列れつは
こは如何いかに殖民兵しよくみんへいの黒奴ニグロらが
喘あへぎ曳き来る真黒まくろなる火薬くわやくの車輌くるま
掲かかぐるは危嶮きけんの旗の朱しゆの光
絶えず饑うゑたる心臓しんざうの呻うめくに似たり。
さはあれど、ここなる華はなと、円まろき葉の
あはひにうつる色、匂にほひ、青みの光、
ほのほのと沼ぬまの水面みのもの毒の香も
薄うすらに交まじり、昼はなほかすかに顫ふるふ。
幽閉
色濁にごるぐらすの戸ともて
封ふうじたる、白日まひるびの日のさすひと間ま、
そのなかに蝋らふのあかりのすすりなき。
いましがた、蓋ふた閉とざしたる風琴オルガンの忍しのびのうめき。
そがうへに瞳ひとみ盲しひたる嬰児みどりごぞ戯れあそぶ。
あはれ、さは赤裸あかはだかなる、盲めしひなる、ひとり笑ゑみつつ、
声たてて小さく愛めぐしき生うまれの臍ほぞをまさぐりぬ。
物病やましさのかぎりなる室むろのといきに、
をりをりは忍び入るらむ戯おどけたる街衢ちまたの囃子はやし、
あはれ、また、嬰児みどりご笑ふ。
ことことと、ひそかなる母のおとなひ
幾度いくたびとなく戸を押せど、はては敲たたけど、
色濁る扉とびらはあかず。
室むろの内うち暑く悒鬱いぶせく、またさらに嬰児みどりご笑ふ。
かくて、はた、硝子がらすのなかのすすりなき
蝋らふのあかりの夜よを待たず尽きなむ時よ。
あはれ、また母の愁うれひの恐怖おそれとならむそのみぎり。
あはれ、子はひたに聴き入る、
珍めづらなるいとも可笑をかしきちやるめらの外そとの一節ひとふし。
鉛の室
いんきは赤し。――さいへ、見よ、室むろの腐蝕ふしよくに
うちにじみ倦うんじつつゆくわがおもひ、
暮春ぼしゆんの午後ごごをそこはかと朱しゆをば引ひけども。
油じむ末黒すぐろの文字もじのいくつらね
悲しともなく誦ずしゆけど、響ひびらぐ声こゑは
鏽さびてゆく鉛なまりの悔くやみ、しかすがに、
強つよき薫くゆりのなやましさ、鉛なまりの室むろは
くわとばかり火酒ウオツカのごとき噎むせびして
壁の湿潤しめりを玻璃はりに蒸す光の痛いたさ。
力ちからなき活字くわつじひろひの淫たはれ歌うた、
病やめる機械きかいの羽はたたきにあるは沁み来こし
新あたらしき紙の刷すられの香かも消きゆる。
いんきや尽きむ。――はやもわがこころのそこに
聴くはただ饐すえに饐すえゆく匂にほひのみ、――
はた、滓をりよどむ壺つぼを見よ。つとこそ一人ひとり、
手を棚たなへ延のすより早く、とくとくと、
赤き硝子がらすのいんき罎びん傾かたむけそそぐ
一刹那いつせつな、壺つぼにあふるる火のゆらぎ。
さと燃もえあがる間まこそあれ、飜かへると見れば
手に平ひらむ吸取紙すひとりがみの骸色かばねいろ
爛ただれぬ――あなや、血はしと、と卓しよくに滴したたる。
真昼
日は真昼まひる――野づかさの、寂寥せきれうの心しんの臓ざうにか、
ただひとつ声もなく照りかへす硝子がらすの破片くだけ。
そのほとり WHISKYウヰスキイ の匂にほひ蒸むす銀色ぎんいろの内うち、
声するは、密ひそかにも露吸ひあぐる、
色赤き、色赤き花の吐息といき……
天草雅歌
四十年八月、新詩社の諸友とともに遠く天草島に遊ぶ。
こはその紀念作なり。
天艸雅歌
角を吹け
わが佳耦ともよ、いざともに野にいでて
歌はまし、水牛すゐぎうの角つのを吹け。
視よ、すでに美果実みくだものあからみて
田にはまた足穂たりほ垂れ、風のまに
山鳩のこゑきこゆ、角つのを吹け。
いざさらば馬鈴薯ばれいしよの畑はたを越え
瓜哇ジヤワびとが園に入り、かの岡に
鐘やみて蝋らふの火の消ゆるまで
無花果いちじゆくの乳ちをすすり、ほのぼのと
歌はまし、汝なが頸くびの角つのを吹け。
わが佳耦ともよ、鐘きこゆ、野に下りて
葡萄樹じゆの汁つゆ滴したる邑むらを過ぎ、
いざさらば、パアテルの黒き袈裟けさ
はや朝の看経つとめはて、しづしづと
見えがくれ棕櫚しゆろの葉に消ゆるまで、
無花果いちじゆくの乳ちをすすり、ほのぼのと
歌はまし、いざともに角つのを吹け、
わが佳耦ともよ、起き来れ、野にいでて
歌はまし、水牛すゐぎうの角つのを吹け。
ほのかなる蝋の火に
いでや子ら、日は高し、風たちて
棕櫚しゆろの葉のうち戦そよぎ冷ひゆるまで、
ほのかなる蝋らふの火に羽はをそろへ
鴿はとのごと歌はまし、汝なが母も。
好よき日なり、媼おうなたち、さらばまづ
祷いのらまし賛美歌さんびかの十五番じふごばん、
いざさらば風琴オルガンを子らは弾け、
あはれ、またわが爺おぢよ、なにすとか、
老眼鏡おいめがねここにこそ、座ざはあきぬ、
いざともに祷いのらまし、ひとびとよ、
さんた・まりや。さんた・まりや。さんた・まりや。
拝をろがめば香炉かうろの火身に燃えて
百合のごとわが霊たまのうちふるふ。
あなかしこ、鴿はとの子ら羽はをあげて
御龕みづしなる蝋らふの火をあらためよ。
黒船くろふねの笛きこゆいざさらば
ほどもなくパアテルは見えまさむ、
さらにまた他たの燭そくをたてまつれ。
あなゆかし、ロレンゾか、鐘鳴らし、
まめやかに安息あんそくの日を祝ほぐは、
あな楽し、真白ましろなる羽をそろへ
鴿はとのごと歌はまし、わが子らよ。
あはれなほ日は高し、風たちて
棕櫚しゆろの葉のうち戦そよぎ冷ひゆるまで、
ほのかなる蝋らふの火に羽をそろへ
鴿はとのごと歌はまし、はらからよ。
艣を抜けよ
はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御堂みだうにははや夕よべの歌きこえ、
蝋らふの火もともるらし、艣ろを抜ぬけよ。
もろもろの美果実みくだもの籠こに盛りて、
汝なが鴿はとら畑はたに下り、しらしらと
帰るらし夕ゆふづつのかげを見よ。
われらいま、空色そらいろの帆ほのやみに
新あらたなる大海おほうみの香炉かうろ採とり
籠こに炷たきぬ、ひるがへる魚を見よ。
さるほどに、跪き、ひとびとは
目ま見み青き上人しやうにんと夜に祷いのり、
捧げます御みくるすの香かにや酔ふ、
うらうらと咽ぶらし、歌をきけ。
われらまた祖先みおやらが血によりて
洗礼そそがれし仮名文かなぶみの御経みきやうにぞ
主しゆうよ永久とはに恵みあれ、われらも、と
鴿はと率ゐつつ祷らまし、帆をしぼれ。
はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御堂みだうにははや夕よべの歌きこえ、
蝋らふの火もくゆるらし、艣ろを抜けよ、
汝にささぐ
女子をみなごよ、
汝なに捧ささぐ、
ただひとつ。
然しかはあれ、汝なも知らむ。
このさんた・くるすは、かなた
檳榔樹びろうじゆの実みの落つる国、
夕日ゆふひさす白琺瑯はくはふらうの石の階はし
そのそこの心の心、――
えめらるど、あるは紅玉こうぎよく、
褐くりの埴はに八千層やちさか敷ける真底まそこより、
汝なが愛を讃たたへむがため、
また、清き接吻くちつけのため、
水晶の柄えをすげし白銀しろかねの鍬をもて、
七つほど先さきの世よゆ世を継つぎて
ひたぶるに、われとわが
採とりいでし型かた、
その型かたを
汝なに捧ささぐ、
女子をみなごよ。
ただ秘めよ
曰いひけるは、
あな、わが少女をとめ、
天艸あまくさの蜜みつの少女をとめよ。
汝なが髪は烏からすのごとく、
汝なが唇くちは木この実みの紅あけに没薬もつやくの汁しゆ滴したたらす。
わが鴿はとよ、わが友よ、いざともに擁いだかまし。
薫くゆり濃こき葡萄の酒は
玻璃ぎやまんの壺つぼに盛もるべく、
もたらしし麝香じやかうの臍ほぞは
汝なが肌の百合に染めてむ。
よし、さあれ、汝なが父に、
よし、さあれ、汝なが母に、
ただ秘ひめよ、ただ守れ、斎いつき死ぬまで、
虐しひたげの罪の鞭しもとはさもあらばあれ、
ああただ秘ひめよ、御みくるすの愛あいの徴しるしを。
さならずば
わが家いへの
わが家いへの可愛かあゆき鴿はとを
その雛ひなを
汝なれせちに恋ふとしならば、
いでや子よ、
逃のがれよ、早も邪宗門じやしゆうもん外道げだうの教をしへ
かくてまた遠き祖おやより伝つたヘこし秘密ひみつの聖磔くるす
とく柱より取りいでよ。もし、さならずば
もろもろの麝香じやかうのふくろ、
桂枝けいし、はた、没薬もつやく、蘆薈ろくわい
および乳ちち、島の無花果いちじゆく、
如何に世のにほひを積むも、――
さならずば、
もしさならずば――
汝なれいかに陳ちんじ泣くとも、あるは、また
護摩ごま炷たき修し、伴天連ばてれんの救すくひよぶとも、
ああ遂に詮せん業すべなけむ。いざさらば
接吻くちつけの妙たへなる蜜みつに、
女子をみなごの葡萄の息いきに、
いで『ころべ』いざ歌へ、わかうどよ。
嗅煙艸
『あはれ、あはれ、深江ふかえの媼おばよ。
髪も頬ほも煙艸色たばこいろなる、
棕櫚しゆろの根に蹲うづくむ媼おばよ。
汝なが持てる象牙ざうげの壺つぼは
また薫くゆる褐くりなる粉こなは
何ぞ。また、せちに鼻つけ
涙垂れ、あかき眼め擦するは。』
このときに渡わたりの媼おうな
呻によぶらく。『わが葡萄牙ほるとがる、
こを嗅かぎてわかきは思ふ。』
『さらば、汝なは。』『責せめそ、さな、さな、
養生やしなひを骸からはただ欲ほれ。
さればこそ、この嗅煙艸かぎたばこ。』
鵠
わかうどなゆめ近よりそ、
かのゆくは邪宗じやしゆうの鵠くぐひ、
日のうちに七度ななたび八度やたび
潮うしほあび化粧けはひすといふ
伴天連ばてれんの秘ひその少女をとめぞ。
地になびく髪には蘆薈ろくわい、
嘴はしにまたあかき実みを塗ぬる
淫みだらなる鳥にしあれば、
絶えず、その真白羽ましろはひろげ
乳香にふかうの水したたらす。
されば、子なゆめ近よりそ。
視よ、持つは炎ほのほか、華はなか、
さならずば実みの無花果いちじゆくか、
兎とにもあれ、かれこそ邪法じやはふ。
わかうどなゆめ近よりそ。
日ごとに
日ごとにわかき姿すがたして
日ごとに歌ふわが族ぞうよ、
日ごとに紅あかき実みの乳房ちぶさ
日ごとにすてて漁あさりゆく。
黄金向日葵
あはれ、あはれ、黄金こがね向日葵ひぐるま
汝みましまた太陽ひにも倦あきしか、
南国なんごくの空の真昼まひるを
かなしげに疲つかれて見ゆる。
一炷
香炉かうろいま
一炷いつすのかをり。
あはれ、火はこころのそこに。
さあれ、その
一炷いつすのけむり、
かの空そらの青き龕みづしに。
青き花
南紀旅行の紀念として且はわが羅曼底時代のあえかなる思出のために、この幼き一章を過ぎし日の友にささぐ。
青き花
そは暗くらきみどりの空に
むかし見し幻まぼろしなりき。
青き花
かくてたづねて、
日も知らず、また、夜よも知らず、
国あまた巡めぐりありきし
そのかみの
われや、わかうど。
そののちも人とうまれて、
微妙いみじくも奇くしき幻まぼろし
ゆめ、うつつ、
香かこそ忘れね、
かの青き花をたづねて、
ああ、またもわれはあえかに
人ひとの世よの
旅路たびぢに迷ふ。
君
かかる野に
何時いつかありけむ。
仏手柑ぶしゆかんの青む南国なんごく
薫かをる日の光なよらに
身をめぐりほめく物の香か、
鳥うたひ、
天そらもゆめみぬ。
何時いつの世か
君と識しりけむ。
黄金こがねなす髪もたわたわ、
みかへるか、あはれ、つかのま
ちらと見ぬ、わかき瞳ひとみに
にほひぬる
かの青き花。
桑名
夜よとなりぬ、神世かみよに通ふやすらひに
早や門かど鎖とざす古伊勢ふるいせの桑名くわなの街まちは
路みちも狭せに高き屋やづくり音おともなく、
陰森いんしんとして物の隈くまひろごるにほひ。
おほらかに零落れいらくの戸を瞰下みおろして
愁ふるがごと月光げつくわうは青に照せり。
参宮さんぐうの衆しゆうにかあらむ、旅たびびとの
二人ふたり三人みたりはさきのほどひそかに過すぎぬ。
貸かし旅籠はたご札ふだのみ白き壁つづき
ほとほと遠く、物ごゑの夜風よかぜに消えて、
今ははた数かず添そはりゆく星くづの
天そらなる調しらべやはらかに、地は闌ふけまさる。
時になほ街まちはづれなる老舗しにせの戸
少し明あかりて火は路みちへひとすぢ射さしぬ。
行燈あんどうのかげには清き女めの童わらは物縫ものぬふけはひ、
そがなかにたわやの一人ひとり髪あげて
戸外とのもすかしぬ。――事もなき夜よのしづけさに。
朝
――汽車のなかにて――
わが友よ、はや眼めをさませ。
玻璃はりの戸にのこる灯ひゆらぎ、
夜よはわかきうれひに明けぬ。
順礼はつとにめざめて
あえかなる友をかおもふ。
清すずしげの髪のそよぎに
笈おひづるのいろもほのぼの。
わが友よ、はや眼めをさませ。
かなた、いま白しらむ野のそら、
薔薇さうびにはほのかに薄うすく
菫よりやや濃こきあはひ、
かのわかき瞳ひとみさながら
あけぼのの夢より醒さめて
わだつみはかすかに顫ふるふ。
紅玉
かかるとき、
海ゆく船に
まどはしの人魚にんぎよか蹤つける。
美くしき術じゆつの夕ゆふべに、
まどろみの香油かうゆしたたり、
こころまた
けぶるともなく、
幻まぼろしの黒髪きたり、
夜よのごとも
わが眼め蔽おほへり。
そことなく
おほくのひとの
あえかなるかたらひおぼえ、
われはただひしと凝視みつめぬ。
夢ふかき黒髪の奥おく
朱しゆに喘ぐ
紅玉こうぎよくひとつ、
これや、わが胸より落つる
わかき血の
燃もゆる滴したたり。
海辺の墓
われは見き、
いつとは知らね、
薄うすあかるにほひのなかに
夢ならずわかれし一人ひとり、
ものみなは涙のいろに
消えぬとも。
ああ、えや忘る。
かのわかき黒髪のなか、
星のごと濡れてにほひし
天色そらいろの勾玉まがたま七つ。
われは見ぬ、
漂浪さすらひながら、
見もなれぬ海辺の墓に
うつつにも眠れる一人ひとり
そことなき髪のにほひの
ほのめきも、
ああ、えや忘る。
いま寒き夕闇ゆふやみのそこ、
星のごと濡れてにほへる
天色そらいろの露草つゆくさ七つ。
渚の薔薇
紀きの南みなみ、白良しららの渚なぎさ、
荒き灘なだ高く砕くだけて
天そら暗くらう轟とどろくほとり、
ひとならび夕陽ゆふひをうけて
面おもほてり、むらがり咲ける
色紅あかき薔薇さうびの族ぞうよ。
瞬またたく間ま、間近まぢかに寄せて
崩なだれうつ浪の穂を見よ。
今しさと滴したたるばかり
激瀾おほなみの飛沫しぶきに濡れて、
弥いやさらに匂ひ閃ひらめく
火のごとき少女をとめのむれよ。
寄せ返し、遠く消えゆく
塩漚しほなわ暗き音ねを聴け。
ああ薔薇さうび、汝なれにむかへば
わかき日のほこりぞ躍る。
薔薇さうび、薔微さうび、あてなる薔薇さうび。
紐
海の霧にほやかなるに
灯ひも見ゆる夕暮のほど、
ほのかなる旅籠はたごの窓に
在あるとなく暮くれもなやめば、
やはらかき私語ささやきまじり
咽むせびきぬ、そこはかとなく、
火に焼くる薔薇さうびのにほひ。
ああ、薔薇さうび、暮れゆく今日けふを
そぞろなり、わかき喘あへぎに
図はからずも思ひぞいづる。
そは熱あつき夏の渚辺なぎさべ、
濡髪ぬれがみのなまめかしさに、
女をみなつと寝ねがへりながら、
みだらなる手して結びし
色紅あかき韈くつしたの紐ひも。
昼
蜜柑船みかんぶね凪なぎにうかびて
壁白き浜のかなたは
あたたかに物売る声す。
波もなき港の真昼まひる、
白銀しろがねの挿櫛さしぐし撓たはみ
いま遠く二つら三つら
水の上へをすべると見つれ。
波もなき港の真昼、
また近く、二つら三つら
飛とびの魚すべりて安やすし。
夕
あたたかに海は笑わらひぬ。
花あかき夕日の窓に、
手をのべて聴くとしもなく
薔薇さうび摘つみ、ほのかに愁うれふ。
いま聴くは市いちの遠音とほねか、
波の音ねか、過ぎし昨日きのふか、
はた、淡あはき今日けふのうれひか。
あたたかに海は笑ひぬ。
ふと思ふ、かかる夕日ゆふひに
白銀しろがねの絹衣すずしゆるがせ、
いまあてに花摘つみながら
かく愁うれひ、かくや聴きくらむ、
紅くれなゐの南極星下なんきよくせいか
われを思ふ人のひとりも。
羅曼底の瞳
この少女はわが稚きロマンチツクの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。
美うつくしきソフィヤの君きみ。
悲かなしくも恋こひしくも見え給ふわがわかきソフィヤの君きみ。
なになれば日もすがら今日けふはかく瞑目めつぶり給ふ。
美うつくしきソフィヤの君きみ、
われ泣けば、朝な夕ゆふなに、
悲かなしくも静しづかにも見ひらき給ふ青き華はな――少女をとめの瞳ひとみ。
ソフィヤの君きみ。
古酒
こは邪宗門の古酒なり。近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神経には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウヰスキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂強き味覚の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子の窻より洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の珍酡の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる様々の夢と匂とに執するのみ。
恋慕ながし
春ゆく市いちのゆふぐれ、
角かくなる地下室セラの玻璃はり透き
うつらふ色とにほひと
見惚みほれぬ。――潤うるむ笛の音ね。
しばしは雲の縹はなだと、
灯ひうつる路みちの濡色ぬれいろ、
また行く素足すあししらしら、――
あかりぬ、笛の音色ねいろも。
古き醋甕すがめと街衢ちまたの
物焼く薫くゆりいつしか
薄らひ饐すゆれ。――澄みゆく
紅あかき音色ねいろの揺曳ゆらびき
このとき、玻璃はりも真黒まくろに
四輪車しりんしや軋きしるはためき、
獣けものの温ぬるき肌はだの香か
過よぎりぬ。――濁にごる夜よの色。
ああ眼めにまどふ音色ねいろの
はやも見わかぬかなしさ。
れんほ、れれつれ、消えぬる
恋慕れんぼながしの一曲ひとふし。
煙草
黄きのほてり、夢のすががき、
さはあまきうれひの華はなよ。
ほのに汝なを嗅かぎゆくここち、
QURACIOキユラソオ の酒もおよばじ。
いつはあれ、ものうき胸に
痛いたみ知るささやきながら、
わかき火のにほひにむせて
はばたきぬ、快楽けらくのうたは。
そのうたを誰かは解とかむ。
あえかなる罪のまぼろし、――
濃こき華の褐くりに沁みゆく
愛欲あいよくの千々ちぢのうれひを。
向日葵ひぐるまの日に蒸すにほひ、
かはたれのかなしき怨言かごと
ゆるやかにくゆりぬ、いまも
絶間たえまなき火のささやきに。
かくてわがこころひねもす
傷いたむともなくてくゆりぬ、
あな、あはれ、汝なが香かの小鳥
そらいろのもやのつばさに。
舗石
夏の夜よあけのすずしさ、
氷載せゆく車の
いづちともなき軋きしりに、
潤うるみて消ゆる瓦斯がすの火。
海へか、路次ろじゆみだれて
大族おほうからなす鵞がの鳥
鳴きつれ、霧のまがひに
わたりぬ――しらむ舗石しきいし。
人みえそめぬ。煙草たばこの
ただよひ湿しめるたまゆら、
辻なる窻の絵硝子ゑがらす
あがりぬ――ひびく舗石しきいし。
見よ、女めが髪のたわめき
濡れこそかかれ、このとき
つと寄より、男、みだらの
接吻くちつけ――にほふ舗石しきいし。
ほど経て窻を閑さす音おと。
枝垂柳しだれやなぎのしげみを、
赤き港の自働車じどうしや
けたたましくも過すぎぬる。
ややあり、ほのに緋ひの帯、
水色うつり過すぐれば、
縺もつれぬ、はやも、からころ、
かろき木履きぐつのすががき。
驟雨前
長月ながつきの鎮守ちんじゆの祭まつり
からうじてどよもしながら、
雨あめもよひ、夜よもふけゆけば、
蒸しなやむ濃こき雲のあし
をりをりに赤あかくただれて、
月あかり、稲妻いなづますなる。
このあたり、だらだらの坂さか、
赤楊はん高き小学校の
柵さく尽きて、下したは黍畑きびばた
こほろぎぞ闇に鳴くなる。
いづこぞや女声をみなごゑして
重たげに雨戸あまど繰くる音おと。
わかれ路みち、辻つじの濃霧こぎりは
馬やどののこるあかりに
幻燈げんとうのぼかしのごとも
蒸し青あをみ、破やれし土馬車つちばしや
ふたつみつ泥どろにまみれて
ひそやかに影を落おとしぬ。
泥濘ぬかるみの物の汗あせばみ
生なまぬるく、重き空気くうきに
新しき木犀もくせいまじり、
馬槽うまぶねの臭気くさみふけつつ、
懶ものうげのさやぎはたはた
暑あつき夜よのなやみを刻きざむ。
足音あしおとす、生血なまちの滴したり
しとしととまへを人かげ、
おちうどか、ほたや、六部ろくぶか、
背せに高き龕みづしをになひ、
青き火の消えゆくごとく
呻うめきつつ闇にまぎれぬ。
生騒なまさやぎ野をひとわたり。
とある枝えに蝉は寝ねおびれ、
ぢと嘆なげき、鳴きも落つれば
洞ほら円まろき橋台はしだいのをち、
はつかにも断きれし雲間くもまに
月黄きばみ、病める笑わらひす。
夜よの汽車の重きとどろき。
凄まじき驟雨しゆううのまへを、
黒烟くろけぶり深ふかき峡はざまは
一面いちめんに血潮ながれて、
いま赤く人轢しくけしき。
稲妻す。――嗚呼夜よは一時いちじ。
解纜
解纜かいらんす、大船たいせんあまた。――
ここ肥前ひぜん長崎港ながさきかうのただなかは
長雨ながあめぞらの幽闇いうあんに海うなづら鈍にぶみ、
悶々もんもんと檣ほばしらけぶるたたずまひ、
鎖くさりのむせび、帆のうなり、伝馬てんまのさけび、
あるはまた阿蘭船おらんせんなる黒奴くろんぼが
気きも狂くるほしき諸ごゑに、硝子がらす切る音おと、
うち湿しめり――嗚呼ああ午後ごご七時――ひとしきり、落居おちゐぬ騒擾さやぎ。
解纜かいらんす、大船あまた。
あかあかと日暮にちぼの街まちに吐血とけつして
落日らくじつ喘あへぐ寂寥せきれうに鐘鳴りわたり、
陰々いんいんと、灰色はいいろ重き曇日くもりびを
死を告つげ知らすせはしさに、響は絶たえず
天主てんしゆより。――闇澹あんたんとして二列ふたならび、
海波かいはの鳴咽おえつ、赤あかの浮標うき、なかに黄きばめる
帆は瘧ぎやくに――嗚呼ああ午後七時――わなわなとはためく恐怖おそれ。
解纜かいらんす、大船たいせんあまた。――
黄髪わうはつの伴天連ばてれん信徒しんと蹌踉さうらうと
闇穴道あんけつだうを磔はりき負ひ駆かられゆくごと
生なまぬるき悔くやみの唸うなり順々つぎつぎに、
流るる血しほ黒煙くろけぶり動揺どうえうしつつ、
印度、はた、南蛮なんばん、羅馬、目的めどはあれ、
ただ生涯しやうがいの船がかり、いづれは黄泉よみへ
消えゆくや、――嗚呼ああ午後七時――鬱憂うついうの心の海に。
日ざかり
嗚呼ああ、今いまし午砲ごはうのひびき
おほどかにとどろきわたり、
遠近をちこちの汽笛きてきしばらく
饑ううるごと呻うめきをはれば、
柳原やなぎはら熱あつき街衢ちまたは
また、もとの沈黙しじまにかへる。
河岸かしなみは赤き煉瓦家れんぐわや。
牢獄ひとやめく工場こうばの奥ゆ
印刷いんさつの響ひびきたまたま
薄鉄葉ブリキ切る鋏はさみの音おとと、
柩ひつぎうつ槌と、鑢やすりと、
懶ものうげにまじりきこえぬ。
片側かたかはの古衣屋ふるぎやつづき、
衣紋掛えもんかけ重き恐怖おそれに
肺はひやみの咳しはぶき洩もれて、
饐すえてゆく物のいきれに、
陰湿いんしつのにほひつめたく
照り白しらみ、人は黙坐もくざす。
ゆきかへり、やをら、電気車でんきしや
鉛なまりだつ体たいをとどめて
ぐどぐどとかたみに語り、
鬱憂うついうの唸うなり重げに
また軋きしる、熱あつく垂れたる
ひた赤あかき満員まんゐんの札ふだ。
恐ろしき沈黙しじまふたたび
酷熱こくねつの日ざしにただれ、
ぺんき塗ぬり褪さめし看板かんばん
毒どく滴たらし、河岸かしのあちこち
ちぢれ毛げの痩犬やせいぬ見えて
苦くるしげに肉にくを求食あさりぬ。
油あぶらうく線路レエルの正面まとも、
鉄てつ重おもき橋の構かまへに
雲ひとつまろがりいでて
くらくらとかがやく真昼まひる、
汗あせながし、車曳ひきつつ
匍匐はふがごと撒水夫みづまききたる。
軟風
ゆるびぬ、潤うるむ罌粟けしの火は
わかき瞳の濡色ぬれいろに。
熟視みつめよ、ゆるる麦の穂の
たゆらの色のつぶやきを。
たわやになびく黒髪の
君の水脈みをこそ身に翻あふれ。――
うかびぬ、消えぬ、火の雫しづく
匂の海のたゆたひに。
ふとしも歎なげく蝶のむれ
ころりんころと……頬ほのほめき、
触ふるる吐息といきに縺もつるれば、
色も、にほひも、つぶやきも、
同じ音色ねいろの揺曳ゆらびきに
倦うんじぬ、かくて君が目も。――
あはれ、皐月さつきの軟風なよかぜに
ゆられてゆめむわがおもひ。
大寺
大寺おほてらの庫裏くりのうしろは、
枇杷あまた黄金こがねたわわに、
六月の天そらいろ洩るる
路次ろじの隅、竿さをかけわたし
皮交り、襁褓むつきを乾ほせり。
そのかげに穢むさき姿なりして
面子めんこうち、子らはたはぶれ、
裏店うらだなの洗流ながしの日かげ、
顔青き野師やしの女房ら
首いだし、煙草吸ひつつ、
鈍にぶき目に甍いらかあふぎて、
はてもなう罵りかはす。
凋しをれたるもののにほひは
溝板どぶいたの臭気くさみまじりに
蒸し暑あつく、いづこともなく。
赤黒き肉屋の旗は
屋根越に垂れて動かず。
はや十時、街まちの沈黙しじまを
しめやかに沈ぢんの香しづみ、
しらじらと日は高まりぬ。
ひらめき
十月じふぐわつのとある夜よの空。
北国ほつこくの郊野かうやの林檎
実みは赤く梢こずゑにのこれ、
はや、里の果物採くだものとりは
影絶えぬ、遠く灯ひつけて
ただ軋きしる耕作かうさくぐるま。
鬱憂うついうに海は鈍にばみて
闇澹あんたんと氷雨ひさめやすらし。
灰はひ濁だめる暮雲ぼうんのかなた
血紅けつこうの火花ひばなひらめき
燦さんとして音おとなく消えぬ。
沈痛ちんつうの呻吟うめきこの時、
闇重き夜色やしよくのなかに
蓬髪ほうはつの男蹌踉よろめき
落涙らくるゐす、蒼白あをじろき頬ほに。
立秋
憂愁いうしうのこれや野の国、
柑子かうじだつ灰色のすゑ
夕汽車ゆふぎしやの遠音とほねもしづみ、
信号柱シグナルのちさき燈ともしび
淡々あはあはとみどりにうるむ。
ひとしきり、小野をのに細雲ほそぐも。
南瓜畑かぼちやばた北へ練ねりゆく
旗赤き異形ゐぎやうの列れつは
戯おどけたる広告ひろめの囃子はやし
賑にぎやかに遠くまぎれぬ。
うらがなし、落日いりひの黄金こがね
片岡かたおかの槐ゑんじゆにあかり、
鳴きしきる蜩かなかな、あはれ
誰たれ葬はふるゆふべなるらむ。
玻璃罎
うすぐらき窖あなぐらのなか、
瓢状ひさごなり、なにか湛たたへて、
十とをあまり円まろうならべる
夢ゆめいろの薄うすら玻璃罎はりびん。
静しづけさや、靄もやの古ふるびを
黄蝋わうらふは燻くゆりまどかに
照りあかる。吐息といきそこ、ここ、
哀楽あいらくのつめたきにほひ。
今いましこそ、ゆめの歓楽くわんらく
降ふりそそげ。生命いのちの脈なみは
ゆらぎ、かつ、壁にちらほら
玻璃はり透すきぬ、赤き火の色。
微笑
朧月ろうげつか、眩まばゆきばかり
髪むすび紅あかき帯して
あらはれぬ、春夜しゆんやの納屋なやに
いそいそと、あはれ、女子をみなご。
あかあかと据すゑし蝋燭らふそく
薔薇さうび潮さす片頬かたほにほてり、
すずろけば夜霧よぎり火のごと、
いづこにか林檎りんごのあへぎ。
嗚呼ああ愉楽ゆらく、朱塗しゆぬりの樽たるの
差口だぶす抜き、酒つぐわかさ、
玻璃器ぎやまんに古酒こしゆの薫香かをりか
なみなみと……遠く人ごゑ。
やや暫時しばし、瞳かがやき、
髪かしげ、微笑ほほゑみながら
なに紅あかむ、わかき女子をみなご。
母屋もやにまた、おこる歓語さざめき……
砂道
日の真昼まひる、ひとり、懶ものうく
真白なる砂道さだうを歩む。
市いち遠く赤き旗見ゆ、
風もなし。荒蕪地かうぶちつづき、
廃すたれ立つ礎いしずゑ燃もえて
烈々れつれつと煉瓦れんぐわの火気くわきに
爛ただれたる果実くわじつのにほひ
そことなく漂ただよ湿しめる。
数百歩、娑婆しやばに音なし。
ふと、空に苦熱くねつのうなり、
見あぐれば、名しらぬ大樹たいじゆ
千万ちよろづの羽音はおとに糜しらけ、
鈴状すずなりに熟うるる火の粒
潤しめやかに甘き乳ちしぶく。
楽欲げうよくの渇かわきたちまち
かのわかき接吻くちつけ思ひ、
目ぞ暈くらむ。
真夏の原に
真白ましろなる砂道さだうとぎれて
また続く恐怖おそれの日なか、
寂せきとして過よぎる人なし。
凋落
寂光土じやくくわうど、はたや、墳塋おくつき、
夕暮ゆふぐれの古き牧場まきばは
なごやかに光黄ばみて
うつらちる楡にれの落葉らくえふ、
そこ、かしこ。――暮秋ぼしうの大日おほひ
あかあかと海に沈めば、
凋落てうらくの市いちに鐘鳴り、
絡繹らくえきと寺門じもんをいづる
老若らうにやくの力ちからなき顔、
あるはみな青き旗垂れ
灰はひ濁だめる水路すゐろの靄に
寂寞じやくまくと繋かかる猪木舟ちよきぶね、
店々の装飾かざりまばらに、
甃石いしだたみちらほら軋る
空からぐるま、寒き石橋。――
鈍にぶき眼めに頭かしらもたげて
黄牛あめうしよ、汝なはなにおもふ。
晩秋
神無月、下浣すゑの七日しちにち、
病やましげに落日いりひ黄ばみて
晩秋ばんしうの乾風からかぜ光り、
百舌もず啼かず、木の葉沈まず、
空高き柿の上枝ほづえを
実はひとつ赤く落ちたり。
刹那せつな、野を北へ人霊ひとだま、
鉦かねうちぬ、遠く死の歌。
君死にき、かかる夕ゆふべに。
あかき木の実
暗くらきこころのあさあけに、
あかき木この実みぞほの見ゆる。
しかはあれども、昼はまた
君といふ日にわすれしか。
暗くらきこころのゆふぐれに、
あかき木この実みぞほの見ゆる。
かへりみ
みかへりぬ、ふたたび、みたび、
暮れてゆく幼をさなの歩あゆみ
なに惜をしみさしもたゆたふ。
あはれ、また、野辺のべの番紅花さふらん
はやあかきにほひに満つを。
なわすれぐさ
面帕ぎぬのにほひに洩もれて、
その眸ひとみすすり泣くとも、――
空そらいろに透すきて、葉かげに
今日けふも咲く、なわすれの花。
わかき日の夢
水みづ透すける玻璃はりのうつはに、
果みのひとつみづけるごとく、
わが夢は燃もえてひそみぬ。
ひややかに、きよく、かなしく。
よひやみ
うらわかきうたびとのきみ、
よひやみのうれひきみにも
ほの沁むや、青みやつれて
木のもとに、みればをみなも。
な怨みそ。われはもくせい、
ほのかなる花のさだめに、
目見まみしらみ、うすらなやめば
あまき香かもつゆにしめりぬ。
さあれ、きみ、こひのうれひは
よひのくち、それもひととき、
かなしみてあらばありなむ、
われもまた。――月はのぼれり。
一瞥
大月たいげつは赤くのぼれり。
あら、青む最愛さいあいびとよ。
へだてなき恋の怨言かごとは
見るが間まに朽ちてくだけぬ。
こは人か、
何らの色いろぞ、
凋落てうらくの鵠くぐひか、鷭ばんか。
後しりへより、
冷笑れいせうす、あはれ、一瞥いちべつ。
我われ、こころ君を殺ころしき。
旅情
――さすらへるミラノひとのうた。
零落れいらくの宿泊やどりはやすし。
海ちかき下層したの小部屋こべやは、
ものとなき鹹しほの汚よごれに、
煤すすけつつ匂にほふ壁紙かべがみ。
広重ひろしげの名をも思おもひ出づ。
ほどちかき庖厨くリやのほてり、
絵草子ゑざうしの匂にほひにまじり
物ものあぶる騒さやぎこもごも、
焼酎せうちうのするどき吐息といき
針はりのごと肌はだ刺さす夕ゆふべ。
ながむれば葉柳はやなぎつづき、
色硝子いろがらす濡ぬるる巷こうぢを、
横浜はまの子が智慧ちゑのはやさよ、
支那料理しなれうり、よひの灯影ほかげに
みだらうたあはれに歌うたふ。
ややありて月はのぼりぬ。
清らなる出窓でまどのしたを
からころと軋きしむ櫓ろの音おと。
鉄格子てつかうしひしとすがりて
黄金髪こがねがみわかきをおもふ。
数かずおほき罪に古ふりぬる
初恋はつこひのうらはかなさは
かかる夜よの黒くろき波間なみまを
舟ふなかせぎ、わたりさすらふ
わかうどが歌うたにこそきけ。
色いろふかき、ミラノのそらは
日本ひのもとのそれと似にたれど、
ここにして摘つむによしなき
素馨ジエルソミノ、海のあなたに
接吻くちつけのかなしきもあり。
国を去り、昨きそにわかれて
逃のがれ来し身にはあれども、
なほ遠く君をしぬべば、
ほうほう……と笛はうるみて、
いづらへか、黒船くろふねきゆる。
廊下らうかゆく重き足音あしおと。
みかへれば暗くらきひと間まに
残のこる火は血のごと赤く、
腐くされたる林檎りんごのにほひ、
そことなく涙をさそふ。
柑子
蕭しめやかにこの日も暮くれぬ、北国きたぐにの古き旅籠屋はたごや。
物もの焙あぶる炉ゐろりのほとり頸うなじ垂れ愁うれひしづめば
漂浪さすらひの暗くらき山川やまかはそこはかと。――さあれ、密ひそかに
物ゆかし、わかき匂にほひのいづこにか濡れてすずろぐ。
女めあるじは柴しば折り燻くすべ、自在鍵じざいかぎ低ひくくすべらし、
鍋かけぬ。赤ら顔して旅たび語る商人あきうどふたり。
傍かたへより、笑ゑみて静かに籠かたみなる木の実撰えりつつ、
家いへの子は卓しよくにならべぬ。そのなかに柑子かうじの匂にほひ。
ああ、柑子かうじ、黄金こがねの熱味ほてり嗅かぎつつも思ひぞいづる。
晩秋おそあきの空ゆく黄雲きぐも、畑はたのいろ、見る眼めのどかに
夕凪ゆふなぎの沖に帆あぐる蜜柑みかんぶね、暮れて入る汽笛ふえ。
温かき南の島の幼子をさなごが夢のかずかず。
また思ふ、柑子かうじの店たなの愛想あいそよき肥満こえたる主婦あるじ、
あるはまた顔もかなしき亭主つれあひの流ながす新内しんない、
暮くれゆけば紅あかき夜よの灯ひに蒸むし薫くゆる物の香かのなか、
夕餉時ゆふげどき、街まちに入り来くる旅人がわかき歩みを。
さては、われ、岡の木こかげに夢心地ゆめここち、在ありし静けさ
忍ばれぬ。目籠めがたみ擁かかへ、黄金こがね摘つみ、袖もちらほら
鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――
ああ、耳に鈴すずの清すずしき、鳴りひびく沈黙しじまの声音いろね。
柴しばはまた音おとして爆はぜぬ、燃もえあがる炎ほのほのわかさ。
ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薫かをりのなかに、
箸とりて笑ゑらぐ赤ら頬ほ、夕餉ゆふげ盛もる主婦あるじ、家の子、
皆、古き喜劇きげきのなかの姿すがたなり。涙ながるる。
内陣
ほのかなる香炉かうろのくゆり、
日のにほひ、燈明みあかしのかげ、――
文月ふづきのゆふべ、蒸し薫くゆる三十三間堂さんじふさんげんだうの奥おく
空色そらいろしづむ内陣ないぢんの闇ほのぐらき静寂せいじやくに、
千一体せんいつたいの観世音くわんぜおんかさなり立たす香かの古ふるび
いと蕭しめやかに後背こうはいのにぶき列つらねぞ白しらみたる。
いづちとも、いつとも知らに、
かすかなる素足すあしのしめり。
そと軋きしむゆめのゆかいた
なよらかに、はた、うすらかに。
ほのめくは髪のなよびか、
衣きぬの香かか、えこそわかたね。
女子をみなごの片頬かたほのしらみ
忍びかの息いきの香かぞする。
舞ごろも近づくなべに、
うつらかにあかる薄闇うすやみ。
初恋の燃もゆるためいき、
帯の色、身内みうちのほてり。
だらりの姿すがたおぼろかになまめき薫くゆる舞姫まひひめの
ほのかに今いましたたずめば、本尊仏ほんぞんぶつのうすあかり
静しづかなること水のごと沈しづみて匂ふ香かのそらに、
仰あふぐともなき目見まみのゆめ、やはらに涙さそふ時とき。
甍いらかより鴿はとか立ちけむ、
はたはたとゆくりなき音ねに。
ふとゆれぬ、長たけの振袖ふりそで
かろき緋ひのひるがへりにぞ、
ほのかなる香炉かうろのくゆり、
日のにほひ、燈明みあかしのかげ、――
もろもろの光はもつれ、
あな、しばし、闇にちらぼふ。
懶き島
明けぬれどものうし。温ぬるき土つちの香を
軟風なよかぜゆたにただ懈たゆく揺ゆり吹くなべに、
あかがねの淫たはれの夢ゆのろのろと
寝恍ねほれて醒さむるさざめ言ごと、起たつもものうし。
眺むれどものうし、のぼる日のかげも、
大海原おおうなばらの空燃もえて、今日けふも緩ゆるゆる
縦たてにのみ湧わくなる雲の火のはしら
重おもげに色もかはらねば見るもものうし。
行きぬれどものうし、波ののたくりも、
懈たゆたき砂もわが悩なやみものうければぞ、
信天翁あはうどりもそろもそろの吐息といきして
終日ひねもすうたふ挽歌もがりうたきくもものうし。
寝ねそべれどものうし、円まろに屯たむろして
正覚坊しやうがくばうの痴しれごこち、日を嗅かぎながら
女らとなすこともなきたはれごと、
かくて抱けど、飽あきぬれば吸ふもものうし。
貪むさぼれどものうし、椰子やしの実みの酒も、
あか裸はだかなる身の倦たるさ、酌くめども、あほれ、
懶怠をこたりの心の欲よくのものうげさ。
遠雷とほいかづちのとどろきも昼はものうし。
暮れぬれどものうし、甘き髪の香も、
益えうなし、あるは木を擦すりて火ともすわざも。
空腹ひだるげの心は暗くらきあなぐらに
蝮はみのうねりのにほひなし、入れどものうし。
ああ、なべてものうし、夜よるはくらやみの
濁れる空に、熟うみつはり落つる実のごと
流星すばるぼし血を引き消ゆるなやましさ。
一人ひとりならねど、とろにとろ、寝ねれどものうし。
灰色の壁
灰色はいいろの暗くらき壁、見るはただ
恐ろしき一面いちめんの壁の色いろ。
臘月らふげつの十九日じふくにち、
丑満うしみつの夜よの館やかた。
龕みづしめく唐銅からかねの櫃ひつの上うへ、
燭しよく青うまじろがずひとつ照てる。
時にわれ、朦朧もうろうと黒衣こくえして
天鵝絨びろうどのもの鈍にぶき床ゆかに立ち、
ひたと身は鉄てつの屑くず
磁石じしやくにか吸はれよる。
足はいま釘くぎつけに痺しびれ、かの
黄泉よみの扉とはまのあたり額ぬかを圧おす。
灰色はひいろの暗くらき壁、見るはただ
恐ろしき一面いちめんの壁の色いろ。
暗澹あんたんと燐りんの火し
奈落ならくへか虚うつろする。
表面うはべただ古地図ふるちづに似て煤すすけ、
縦横たてよこにかず知れず走る罅ひび
青やかに火光あかり吸ひ、じめじめと
陰湿いんしつの汗あせうるみ冷ひゆる時、
鉄てつの気きはうしろより
さかしまに髪を梳すく。
はと竦すくむ節々ふしふしの凍こほる音おと。
生きたるは黒漆こくしつの瞳のみ。
灰色はひいろの暗くらき壁、見るはただ
恐ろしき一面いちめんの壁の色いろ。
熟視みつむ、いま、あるかなき
一点いつてんの血の雫しづく。
朱しゆの鈍にばみ星のごと潤味うるみ帯おび
光る。聞く、この暗き壁ぶかに
くれなゐの皷つづみうつ心しんの臓ざう
刻々こくこくにあきらかに熱ほてり来くれ。
血けぶり。刹那せつなほと
かすかなる人の息いき。
みるがまに罅ひびはみなつやつやと
金髪きんぱつの千筋ちすぢなし、さと乱みだる。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面いちめんの壁の色。
なほ熟視みつむ。……髣髴はうふつと
浮びいづ、女の頬ほ
大理石なめいしのごと腐くされ、仰向あふのくや
鼻はな冷ひえてほの笑わらふちひさき歯
しらしらと薄玻璃うすはりの音ねを立つる。
眼めをひらく。絶望ぜつまうのくるしみに
手はかたく十字じふじ拱くみ、
みだらなる媚こびの色
きとばかり。燭しよくの火の青み射さし、
銀色ぎんいろの夜よの絹衣すずしひるがへる。
灰色はひいろの暗くらき壁、見るはただ
恐おそろしき一面いちめんの壁かべの色いろ。
『彼。』とわが憎悪心ぞうをしん
むらむらとうちふるふ。
一斉いつせいに冷血れいけつのわななきは
釘くぎつけの身を逆さかにゑぐり刺さす。
ぎくと手は音おと刻きざみ、節ふしごとに
機械からくりのごと動うごく。いま怪あやし、
おぼえあるくらがりに
落ちちれる埴はにと鏝こて。
つと取るや、ひとつ当あて、左ひだりより
額ぬかをまづひしひしと塗ぬりつぶす。
灰色はひいろの暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面いちめんの壁の色。
朱しゆのごとき怨念をんねんは
燃もえ、われを凍こほらしむ。
刹那せつな、かの驕おごりたる眼鼻めはなども
胸かけて、生なまぬるき埴はにの色
ひと息に鏝こての手に葬はうむられ
生いきながら苦くるしむか、ひくひくと
うち皺む壁の罅ひび、
今、暗き他界たかいより
凄きまで面おも変かはり、人と世を
呪のろふにか、すすりなき、うめきごゑ。
灰色はひいろの暗くらき壁、見るはただ
恐ろしき一面いちめんの壁の色。
悪業あくごふの終をはりたる
時に、ふとわれの手は
物握にぎるかたちして見出みいださる。
ながむれば埴はにあらず、鏝こてもなし。
ただ暗き壁の面おも冷々ひえびえと、
うは湿しめり、一点いつてんの血ぞ光る。
前さきの世の恋か、なほ
骨髄こつずゐに沁みわたる
この怨恨うらみ、この呪咀のろひ、まざまざと
人ひとり幻影まぼろしに殺したる。
灰色はひいろの暗くらき壁、見るはただ
恐ろしき一面いちめんの壁の色いろ。
臘月らふげつの十九日じふくにち、
丑満うしみつの夜よの館やかた。
龕みづしめく唐銅からかねの櫃ひつの上うへ
燭しよく青あをうまじろがずひとつ照る。
時になほ、朦朧もうろうと黒衣こくえして
天鵝絨びろうどのものにぶき床ゆかに立ち、
わなわなと壁熟視みつめ、
ひとり、また戦慄せんりつす。
掌てひらけば汗あせはあな生なまなまと
さながらに人間にんげんの血のにほひ。
失くしつる
失なくしつる。
さはあるべくもおもはれね。
またある日には、
探さがしなば、なほあるごともおもはるる。
色青き真珠しんじゆのたまよ。
了
父上に献ぐ
父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂にその生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし。
邪宗門扉銘
ここ過ぎて曲節メロデアの悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシユの音楽と幼児磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、ヸオロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵞絨の手触の棄て難さよ。
昔むかしよりいまに渡わたり来くる黒船くろふね縁えんがつくれば鱶ふかの餌ゑとなる。サンタマリヤ。
余は内部の世界を熟視めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。すすりなく黒き薔薇、歌うたふ硝子のインキ壺、誘惑の色あざやかな猫眼石の腕環、笑ひつづける空眼の老女等はこまかくしなやかな舞踏をいつまでもつづける。余は一心に熟視めて居る……いつか余は朱の房のついた長い剣となつて渠等の内に舞踏つてゐる………