明治・大正
 落葉松  北原白秋 「水墨集」(大正一二)

   一

 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。
 
   二
 
 からまつの林を出でて、
 からまつの林に入りぬ。
 からまつの林に入りて、
 また細く道はつづけり。
 
   三
 
 からまつの林の奥も
 わが通る道はありけり。
 霧雨きりさめのかかる道なり。
 山風のかよふ道なり。
 
   四
 
 からまつの林の道は
 われのみか、ひともかよひぬ。
 ほそぼそと通ふ道なり。
 さびさびといそぐ道なり。
 
   五
 
 からまつの林を過ぎて、
 ゆゑ知らず歩みひそめつ。
 からまつはさびしかりけり、
 からまつとささやきにけり。

   六
 
 からまつの林を出でて、
 浅間嶺あさまねにけぶり立つ見つ。
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 からまつのまたそのうへに。
 
   七
 
 からまつの林の雨は
 さびしけどいよよしづけし。
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 からまつのぬるるのみなる。
 
   八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 常なけどうれしかりけり。
 山川に山がはの音、
 からまつにからまつのかぜ。

 
  糸車
   北原白秋「思ひ出」(明治四四)

 糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ
 その糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。
 金きんと赤との南瓜たうなすのふたつ転ころがる板の間に、
 「共同医館」の板の間に、
 ひとり坐りし留守番るすばんのその媼おうなこそさみしけれ。
 
 耳もきこえず、目も見えず、かくて五月となりぬれば、
 微ほのかに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。
 硝子戸棚に白骨はつこつのひとり立てるも珍めづらかに、
 水路すゐろのほとり月光の斜ななめに射すもしをらしや。
 糸車、糸車、しづかに默もだす手の紡つむぎ、
 その物思ものおもひやはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。

 
  思ひ出 序詩 「思ひ出」(明治四四)

 思ひ出は首すぢの赤い螢の
 午後ひるすぎのおぼつかない触覚てざはりのやうに、
 ふうわりと青みを帯びた
 光るとも見えぬ光?
 
 あるひはほのかな穀物こくもつの花か、
 落穗おちぼひろひの小唄か、
 暖かい酒倉の南で
 ひき揉しる鳩の毛の白いほめき?
 
 音色ねいろならば笛の類るゐ
 蟾蜍ひきがへるの啼く
 医師の薬のなつかしい晩、
 薄らあかりに吹いてるハーモニカ。
 
 匂ならば天鵞絨びらうど
 骨牌かるたの女王クインの眼
 道化たピエローの面の
 なにかしらさみしい感じ。
 
 放埓ほうらつの日のやうにつらからず、
 熱病のあかるい痛いたみもないやうで、
 それでゐて暮春のやうにやはらかい
 思ひ出か、たゞし、わが秋の中古伝説レヂエンド

 
  人形つくり 「思ひ出」(明治四四)

 長崎の、長崎の
 人形つくりはおもしろや、
 色硝子………青い光線ひすぢの射すなかで
 白い埴ねばつちこねまはし、糊のりで溶かして、砥の粉を交ぜて、
 
 ついととろりと轆轤ろくろにかけて、
 伏せてかへせば頭あたまが出来る。
 
 その頭あたまは空虚うつろの頭、
 白いお面めんがころころと、ころころと…………
 
 ころころと転ころぶお面めん
 わかい男が待ち受けて、
 青髯の、銀のナイフが待ち受けて、
 眶まぶた、眶、薄う瞑つぶつた眶を突いて、きゆつと抉ぐつて両眼りやうがんあける。
 昼の日なかにいそがしく、
 いそがしく。
 
 長崎の、長崎の
 人形つくりはおそろしや。
 色硝子…………黄色い光線ひすぢの射すなかで
 肥満女ふとつちよの回々フイフイ教徒きようとの紅頭巾あかづきん、唖か、聾つんぼか、にべもなく
 そこらここらと撰んで分けて撮つまむ眼玉は何々ぞ。
 青と黒、金と鳶色、魚眼うをめの硝子が百ばかり。

 その眼玉も空虚うつろの眼玉、
 ちよいとつまんで眶へ当てて
 面おもてよく見て、後うしろをつけて、合はぬ眼玉はちよと弾はぢき、
 ちよと弾はぢ
 箝めた、箝めたよ、両眼りやうがんめた…………
 露西亜ロシヤの女郎衆が、女郎が義眼いれめをはめるよに、
 凄すごや、をかしや、白粉刷毛おしろひはけでさつと洗つてにたにたと。
 外そとぢや五月の燕つばくらめついついひらりと飛び翔る。
 
 長崎の、長崎の
 人形つくりはおもしろや。
 色硝子…………紅あかい血のよな日のかげで
 白髪あたまの魔法爺まはふおやぢが真面目顔まじめがほ、じつと睨んで、手足を寄せて、
 胴に針金はりがね、お面めんに鬘かつら、寄せて集めて児が出来る。
 児が出来る。
 
 酷むごや、可哀かはいや、二百の人形、
 泣くにや泣かれず、裸の人形、
 赤う膨ふくれた小股こまたを出して、頭みだして、踵を見せて、
 鮭の卵か、児豚の腹か、水子、蛭子ひるこを見るがよに、見るがよに、
 床ゆかに積れて、瞳をあけて、赤い夕日にくわと噎ぶ。
 くわと噎むせぶ。

 人形、人形、口なし人形、
 みんな寒かろ、母御も無けりや、賭博ばくちうつよな父者ててじやもないか、
 白痴ばかか、狂気か、不具かたはか、唖か、堕胎薬おろしぐすりを喫まされた
 女郎の児どもか、胎毒か………
 しんと黙だまつてしんと黙つて顫えてゐやる。
 傍そばぢや、ちんから目さまし時計、
 ほんに、ちんから、目さまし時計、
 春の小歌をうたひ出す、
 仏蘭西の銀のマーチを歌ひ出す。
 
 長崎の、長崎の
 人形つくりはいぢらしや、
 いぢらしや。

 
  時は逝く 「思ひ出」(明治四四)

 時は逝く。赤き蒸汽の船腹ふなばらの過ぎゆくごとく、
 穀倉こくぐらの夕日のほめき、
 黒猫の美くしき耳鳴みみなりのごと、
 時は逝く。何時しらず、柔やはらかかに陰影かげしてぞゆく。
 時は逝く。赤き蒸汽の船腹ふなばらの過ぎゆくごとく。

 
  水路 「思ひ出」(明治四四)

 ほうつほうつと螢が飛ぶ…………
 しとやかな柳河の水路を、
 定紋つけた古い提灯が、ぼんやりと、
 その舟の芝居もどりの家族を眠らす。
 
 ほうつほうつと螢が飛ぶ…………
 あるかない月の夜に鳴く虫のこゑ、
 向ひあつた白壁の薄あかりに、
 何かしら燐のやうなおそれがむせぶ。
 
 ほうつほうつと螢が飛ぶ…………
 草のにほひする低い土橋を、
 いくつか棹をかがめて通りすぎ、
 ひそひそと話してる町の方へ。
 
 ほうつほうつと螢が飛ぶ…………
 とある家のひたひたと光る汲水場クミヅ
 ほんのり立つた女の素肌
 何を見てゐるのか、ふけた夜のこころに。

 
  野晒 「白金之独楽」(大正三)

 死ナムトスレバイヨイヨニ
 命恋シクナリニケリ、
 身ヲ野晒ニナシハテテ、
 マコトノ涙イマゾ知ル。
 
 人妻ユヱニヒトノミチ
 汚シハテタルワレナレバ、
 トメテトマラヌ煩悩ノ
 罪ノヤミヂニフミマヨフ。

 
  野茨に鳩 「水墨集」(大正一二)

 おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
 おお、ほろほろ。
 春はふけ、春はほうけて、
 古ぼけた草家くさやの屋根で、よ。
 日がな啼く、白い野鳩が、
 啼いても、けふ日は逝つて了ふ。
 
 おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
 おお、ほろほろ。
 庭も荒れ、荒るるばかしか、
 人も来ぬ葎むぐらが蔭かげに、よ。
 茨ばらが咲く、白い野茨のばらが、
 咲いても、知られず、散つて了ふ。
 
 おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
 おお、ほろほろ。
 何を見ても、何を為てもよ、
 ああいやだ、寂しいばかり、よ。
 椅子が揺れる、白い寝椅子が、
 寝椅子もゆさぶりや折れて了ふ。
 
 おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
 おお、ほろほろ。
 日は永い、真昼は深い、
 そよ風は吹いても尽きず、よ、
 ただだるい、だるい、ばかり、よ。
 どうにもかうにも倦んで了ふ。

 おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
 おお、ほろほろ。
 空は、空は、いつも蒼い、が、
 わしや元の嬰児ねんねぢやなし、よ。
 世は夢だ、野茨の夢だ、
 夢なら、醒めたら消えて了ふ。
 
 おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
 おお、ほろほろ。
 気はふさぐ、身体からだは重い、
 おおままよ、ねんねが小椅子、よ。
 子供げて、揺れば揺れよが、
 溜息ばかりが揺れて了ふ。
 
 おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
 おお、ほろほろ。
 昨日きのふまで、堪へても来たが、
 明日あすゆゑに、今日は暗し、よ。
 人もいや、聞くもいやなり、
 それでも独ひとりぢや泣けて了ふ。
 
 おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
 おお、ほろほろ。
 心から、ようも笑へず、
 さればとて、泣くに泣けず、よ。
 煙草でも、それぢや、ふかそか、
 煙草も煙になつて了ふ。

 おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
 おお、ほろほろ。
 春だ、春だ、それでも春だ。
 白い鳩が啼いてほけて、よ、
 白い茨が咲いて散つて、よ、
 かうしてけふ日も暮れて了ふ。
 
 おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
 おお、ほろほろ。
 日は暮れた、昔は遠い、
 世も末だ、傾ぶきかけた、よ。
 わしや寂びる、いのちは腐る、
 腐れていつかと死んで了ふ。
 
 おお、ほろろん、ほろろん、ほろほろ、
 おお、ほろほろ。
 ほろほろ、ほろろん、
 おお、ほろほろ。……

 
  窓の女 「食後の唄」(大正八)

 新開、新開地の
 酒屋の隣の
 乳屋の二階の
 窓の女。
 夜になるのに化粧する。
 ……別に不思議もないんだが。(だがね。)

 
  金粉酒
   木下杢太郎「食後の唄」(大正八)

 Eauオオ-de- vieヰイdeDantzickダンチツク.
 黄金こがね浮く酒、
 おお五月、五月、小酒盞リケエルグラス
 わが酒舗バアの彩色玻璃ステエンドグラス
 街にふる雨の紫。
 
 をんなよ、酒舗バアの女、
 そなたはもうセルを着たのか、
 その薄い藍の縞を?
 まつ白な牡丹の花、
 触るな、粉が散る、匂ひが散るぞ。
 
 おお五月、五月、そなたの声は
 あまい桐の花の下の竪笛フリウトの音色、
 わかい黒猫の毛のやはらかさ、
 おれの心を熔とろかす、日本につぽんの三味線。
 Eauオオ-de- vieヰイdeDantzickダンチツク.
 
 五月だもの、五月だもの――

 
  築地の渡し 「食後の唄」(大正八)

 房州通ひか、伊豆ゆきか、
 笛が聞える、あの笛が。
 渡しわたれば佃島。
 メトロポオルの燈が見える。

 
  両国
   木下杢太郎「食後の唄」(大正八)

 両国の橋の下へかかりや
 大船は檣はしらを倒すよ、
 やあれそれ船頭が懸声かけごゑをするよ。
 五月五日のしつとりと
 肌に冷たき河の風、
 四ツ目から来る早船はやふねの緩かな艪拍子や、
 牡丹を染めた袢纏の蝶々が波にもまるる。
 
 灘の美酒、菊正宗、
 薄うす玻璃はりの杯さかづきへなつかしい香を盛つて
 旗亭レストウラントの二階から
 ぼんやりとした、入日空、
 
 夢の国技館の円まる屋根やねこえて
 遠く飛ぶ鳥の、夕鳥の影を見れば
 なぜか心のこがるる。

 
  朝の新茶
   木下杢太郎「食後の唄」(大正八)

 桜実さくらんぼが熟し、草のかげが
 重くざわざわして、間間露冷たく!
 樫の花のしつこいかをり、
 煉瓦の壁に差す日の華やかさ、うひうひしさ。
 
 かかる朝、庭を歩み
 草上に坐して新茶を啜れば、
 五月の朝のはれやかな心の底に、
 世界のいづく、草の葉の一つにだに欠けざる
 かの一味の悲哀の湧くをこそ覚ゆれ。

 
  該里酒(「鴻の巣」の主人に)
   木下杢太郎「食後の唄」(大正八)

 冬の夜の暖爐ストオヴ
 湯のたぎる静けさ。
 ぽつと、やや顔に出たるほてりの
 幻覚か、空耳かしら
 該里セリイ玻璃杯グラスのまだ残る酒を見いれば
 
 ほのかにも人の声する。
 ほのかにも人すすり泣く。
 
 「え、え、ま、あ、な、に、ご、と、ぞ、い、な……あ……」と
 さう云ふは呂昇ろしようの声か、
 この春聴いた――京都の寄席の、
 それをきいて人の泣いたる――。
 乃至その酒のしわざか。
 
 冬の夜の静けさに
 褐あかく澄む、該里セリイの酒。
 さう云ふは呂昇の声か、
 乃至その酒のしわざか。
 幕あけて窓から見れば
 星の夜の小網町河岸
 舟一つ……かろき水音。


  曇り日の魯西亜更紗 「食後の唄」(大正八)

 銀いろがかつた灰色の
 街の柳よ。午後二時ごろの
 濁つた雲の水底にほんのり青ばむ日輪さま。
 なぜかあの眼がちらつきます。
 昨夜見た眼が。襟もとが。
 
 曇り日の
 魯西亜ざらさの絹更紗の手触は
 暗い緑の中にほんのり青ばむ薄紫のあらせいとう、
 さらさらと冷い音のその中に
 なぜかやさしい口許が。
 
 初秋の曇り日の悲しきこころを何にたとへむ。
 子持になつた三毛猫のやつれ様とはいかがです。
 左様さ、それも可けれども、
 河の向うの白壁にぽつとさす燈の、にはか雨、
 月は大空、雨は軒、
 梧桐の葉に露が光つて、河ゆく船が苫あげる。
 遠い三味で身がほそる。静かな夜に
 鎗さびを歌ひ終つた歌沢小登良、
 あれやこれやの花模様の魯西亜更紗のさらさらと、
 風が出てきて葉をならす。
 
 銀いろがかつた緑色、
 いつしかに夜もふけそろ、河岸みちを
 鍋焼饂飩がとほります。
 曇り日の魯西亜更紗は
 何にせうぞの。裁つもをし、袋戸棚に入れておこ。
 
 ままになるならこの薄玻璃の
 マデルラの酒よ、夢になれ。

 
  玻璃問屋 「食後の唄」(大正八)

 空気銀緑にしていと冷ひや
 五月の薄暮、ぎやまんの
 数々ならぶ横町の玻璃はり問屋どんやの店先に
 
 盲目めくらが来りて笛を吹く。
 その笛のとろり、ひやらと鳴りゆけば、
 青き玉、水色の玉、珊瑚さんごだま
 管の先より吹き出づる水のいろいろ――
 (一瞬の胸より胸の情緒さんちまん
 
 流れ流れてうち淀む
 流れを引いてびいどろの細き口より飛ぶ泡の
 車輪まはせば風鈴もりんりんりんとなりさわぐ。
 われは君ゆゑ胸さわぐ。
 
 おどけたる旋律めろぢあきけど、さはあれど、
 雨後の空気のしつとりと、
 うちしめりたる五月の暮れしがた、
 びいどろ簾すだれ懸けわたす玻璃問屋の店先に
 
 雲を漏れたる落日の
 その一閃いつせんの長笛おおぼえの銀の一矢が、
 ぎやまんの群より目ざめ
 ゆらゆらとあえかに立てる玻璃の少女をとめ
 (ああ人間のわかき日の
 唯一瞬のさんちまん)
 それを照してまた消ゆる影を見るゆゑ。

われはそれ故ゆゑ涙する。
 君もそれゆゑ涙する。
 
 落ちし涙が水盤に小波を立て、
 くるくると赤き車ぞうちめぐる。
 車は廻れ、波おこれ、
 波起すべう風来きたれ、
 風は来りてりんりんと風鈴鳴らし、
 細君は酸漿ほほづき鳴らす玻璃問屋の店先に
 
 盲目めくらが来りて笛を吹く。

 
  街頭初夏 「食後の唄」(大正八)

 紺の背広の初はつ
 地をするやうに飛びゆけり。
 
 まづはいよいよ夏の曲、
 西ざい――東西とうざいの簾みす巻けば
 濃いお納戸の肩衣かたぎぬ
 花の「昇菊しようぎく昇之助しようのすけ」*
 義太夫節のびら札の
 藍の匹田しつたもすずしげに
 街は五月に入りにけり。
 
 赤い襟巾ねくたい初燕
 心も軽く舞ひ行けり。

 *珈琲の中にヰスキイの酒入るるを好み給ふほどの人は、
  この行の次に「いよ御両人待てました」の一行を入れ試み給へ。

 
  ふるさとの
   三木露風「廃園」(明治四二)

 ふるさとの
 小野の木立に
 笛の音の
 うるむ月夜や。
 
 少女子をとめご
 熱きこゝろに
 そをば聞き
 涙ながしき。
 
 十年ととせ経ぬ
 おなじ心に
 君泣くや
 母となりても。

 
  沼のほとり
   三木露風「寂しき曙」(明治四三)

 蒼ざめたる光、音なく
 あけぼのは雪の上にきたる。
 風は幽かすかに枝をふるはし
 木は屍の如く、空しき腕かひなを交す。
 
 そのとき君は沼のほとりにあり。
 沼の水凍りて、
 煙のごとく「夜」は靡けり。
 いかなれば君のこゝにありしか、
 あゝ。いかなればわが眼に、君の視ゆる。
 
 その面おもては憂愁のスフインクス、
 「過去」よりきたる悲しみの烙印あり。
 霊たましひは、雪に埋れて燃え、
 荒きすゝり泣きの声、そこよりきこゆ。
 
 木は屍の如くに充つ。
 蒼白きあけぼのは今、来らんとす。
 語れよ。無言の君、寂び果てし沼のほとりに。

 
  雪の上の鐘
   三木露風「白き手の猟人」(大正二)

 心の上に暮れ方の
 追憶おもひでの雪は静にふりつもる。
 単調にしてあぢきなく
 柔らかに顫ふるへつゝ。
 
 埋うづもるる愁は下に眠りたり。
 わが声は閉ぢ、覆はれて、
 燃ゆる墓標に胸をおく。
 
 されども響く鐘の音の美しさ、
 晴れし涙の涼やかさ、
 静に。静に。うち揺らぐ。
 
 わが心はうち夢む、
 はてなくあゆみ行かんとぞ。
 あゝ彼方なる谷間の風
 ゆるく幽かすかに我が胸をよびさます……
 
 愁うれひの銀の日没は、
 わが身に深くほゝゑめり。
 かよわき雪の青草よ、
 あゝ青草よ。汝なれのごと慕ひいでん……
 彼方に。彼方に。手も繊弱かよわく。

 
  現身
   三木露風「白き手の猟人」(大正二)

 春はいま空のながめにあらはるる
 ありともしれぬうすぐもに
 なやみて死ぬる蛾のけはひ。
 
 ねがひはありや日は遠し、
 花は幽かすかにうち薫くんず。
 ゆるき光に霊たましひ
 煙のごとく泣くごとく。
 
 わが身のうつゝながむれば
 紅玉の靄たなびけり。
 隠かぐろひわたり、染みわたり
 入日の中にしづく声。
 
 心もかすむ日ぐれどき、
 鳥は嫋びつゝ花は黄に、
 恍惚の中吹き過ぎて
 色と色とは弾きあそぶ。
 
 慕はしや、春うつす
 永遠のゆめ、影のこゑ。
 身には揺れどもいそがしく
 入日の花のとゞまらず。
 
 春はわが身にとゞまらず。
 ありともしれぬうすぐもに
 なやみこがるる蛾のけはひ。


  道程
   高村光太郎「道程」(大正三)
 
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 ああ、自然よ
 父よ
 僕は一人立ちにさせた広大な父よ
 僕から眼を離さないで守る事をせよ
 常に父の気魄を僕に充たせよ
 この遠い道程のため
 この遠い道程のため

 
  ぼろぼろな駝鳥
   高村光太郎「銅鑼」(昭和三)

 何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
 動物園の四坪半よつぼはんのぬかるみの中では、
 脚が大股おおまた過ぎるぢやないか。
 頸くびがあんまり長過ぎるぢやないか。
 雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
 腹がへるから堅かたパンも食ふだらうが、
 駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
 身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
 瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
 あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆さかまいてゐるぢやないか。
 これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
 人間よ、
 もう止せ、こんな事は。

 
  秋の祈
   高村光太郎「道程」(大正三)

 秋は喨喨りやうりやうと空に鳴り
 空は水色、鳥が飛び
 魂いななき
 清浄の水こころに流れ
 こころ眼をあけ
 童子となる
 
 多端紛雑の過去は眼の前に横はり
 血脈をわれに送る
 秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
 地中の営みをみづから祝福し
 わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
 奮然としていのる
 いのる言葉を知らず
 涙いでて
 光にうたれ
 木の葉を散りしくを見
 獣けだものの嘻嘻として奔はしるを見
 飛ぶ雲と風に吹かれる庭前の草とを見
 かくの如き因果歴歴の律を見て
 こころは強い恩愛を感じ
 又止みがたい責せめを思ひ
 堪へがたく
 よろこびとさびしさとおそろしさとに跪ひざまづ
 いのる言葉を知らず
 ただわれは空を仰いでいのる
 空は水色
 秋は喨喨と空に鳴る

 
  根付の国 「道程」(大正三)

 頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、
 名人三五郎の彫つた根付の様な顔をして
 魂をぬかれた様にぽかんとして
 自分を知らない、こせこせした
 命のやすい
 見栄坊な
 小さく固まつて、納まり返つた
 猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、
 だぼはぜの様な、麦魚めだかの様な、
 鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

 
  冬が来た 「道程」(大正三)

 きつぱりと冬が来た
 八つ手の白い花も消え
 公孫樹いてふの木も箒はうきになつた
 
 きりきりともみ込むやうな冬が来た
 人にいやがられる冬
 草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
 冬よ
 僕に来い、僕に来い
 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
 しみ透れ、つきぬけ
 火事を出せ、雪で埋めろ
 刃物のやうな冬が来た

 
  寂寥 「道程」(大正三)

 赤き辞典に
 葬列の歩調あり
 火の気なき暖炉ストオブ
 鉱山かなやまにひびく杜鵑とけんの声に耳かたむけ
 力士小野川の嗟嘆は
 よごれたる絨毯の花模様にひそめり
 
 何者か来り
 窓のすり硝子に、ひたひたと
 燐をそそぐ、ひたひたと――
 黄昏はこの時赤きインキを過ち流せり
 
 何処いづこにか走らざるべからず
 走るべき処なし
 何事か為さぜるべからず
 為すべき事なし
 坐するに堪へず
 脅迫は大地に満てり
 
 いつしか我は白のフランネルに身を捲き
 蒸風呂より出でたる困憊こんぱいを心にいだいて
 しきりに電磁学の原理を夢む
 
 朱肉は塵埃に白けて
 今日の仏滅の黒星を嗤ひ
 晴雨計は今大擾乱を起しつつ
 月は重量を失ひて海に浮べり
 
 鶴香水は封筒に黙し
 何処よりともなく、折檻に泣く
 お酌の悲鳴きこゆ
 
 ああ、走る可き道を教へよ
 為す可き事を知らしめよ
 氷河の底は火の如くに痛し
 痛し、痛し

 
  父の顔 「道程」(大正三)

 父の顔を粘土どろにてつくれば
 かはたれ時の窓の下に
 父の顔の悲しくさびしや
 
 どこか似てゐるわが顔のおもかげは
 うす気味わろきまでに理法のおそろしく
 わが魂の老いさき、まざまざと
 姿に出でし思ひもかけぬおどろき
 わがこころは怖こはいもの見たさに
 その眼を見、その額の皺を見る
 つくられし父の顔は
 魚類のごとくふかく黙すれど
 あはれ痛ましき過ぎし日を語る
 
 そは鋼鉄の暗き叫びにして
 又西の国にて見たる「ハムレツト」の亡霊の声か
 怨嗟なけれど身をきるひびきは
 爪にしみ入りて瘭疽へうそうの如くうづく
 
 父の顔を粘土どろにて作れば
 かはたれ時の窓の下に
 あやしき血すぢのささやく声……

 
  雨にうたるるカテドラル 「明星」(大正一〇)

 おう又吹きつのるあめかぜ。
 外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、
 あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
 毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。
 あの日本人です。
 けさ、
 夜明方から急にあれ出した恐ろしい嵐が、
 今巴里パリの果から果を吹きまくつてゐます。
 わたくしにはまだこの土地の方角が分かりません。
 イイル ド フランスに荒れ狂つてゐるこの嵐の顔が
 どちらを向いてゐるかさへ知りません。
 ただわたくしは今日も此処に立つて、
 ノオトルダム ド パリのカテドラル、
 あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、
 あなたにさはりたいばかりに、
 あなたの石のはだに人しれず接吻したいばかりに。
 
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 もう朝のカフエの時刻だのに
 さつきポン ヌウフから見れば、
 セエヌ河の船は皆小狗こいぬのやうに河べりに繋がれたままです。
 秋の色にかがやく河岸かしの並木のやさしいプラタンの葉は、
 鷹に追はれた頬白の群のやう、
 きらきらぱらぱら飛びまよつてゐます。
 あなたのうしろのマロニエは、
 ひろげた枝のあたまをもまれるたびに
 むく鳥いろの葉を空に舞ひ上げます。
 逆に吹きおろす雨のしぶきでそれがまた
 矢のやうに広場の敷石につきあたつて砕けます。
 広場はいちめん、模様のやうに
 流れる銀の水と金茶焦茶の木の葉の小島とで一ぱいです。

 そして毛あなにひびく土砂降の音です。
 何かの吼える音きしむ音です。
 人間が声をひそめると
 巴里中の人間以外のものが一斉に声を合せて叫び出しました。
 外套に金いろのプラタンの葉を浴びながら
 わたくしはその中に立つてゐます。
 嵐はわたくしの国日本でもこのやうです。
 ただ聳え立つあなたの姿を見ないだけです。
 
 おうノオトルダム、ノオトルダム、
 岩のやうな山のやうな鷲のやうなうづくまる獅子のやうなカテドラル、
 灝気かうきの中の暗礁、
 巴里の角柱かくちゆう
 目つぶしの雨のつぶてに密封され、
 平手打の風の息吹をまともにうけて、
 おう眼の前に聳え立つノオトルダム ド パリ、
 あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
 あの日本人です。
 わたくしの心は今あなたを見て身ぶるひします。
 あなたのこの悲壮劇に似た姿を目にして、
 はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです。
 何の故かまるで知らず心の高鳴りは
 空中の叫喚に声を合せてただをののくばかりに響きます。
 
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 出来ることならあなたの存在を吹き消して
 もとの虚空に返さうとするかのやうなこの天然四元のたけりやう。
 けぶつて燐光を発する雨の乱立らんたつ
 あなたのいただきを斑まだらにかすめて飛ぶ雲の鱗。
 鐘楼の柱一本でもへし折らうと執念しふねくからみつく旋風のあふり。

 薔薇窓のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ、羽ばたく
 無数の小さな光つたエルフ。
 しぶきの間に見えかくれるあの高い建築べりのガルグイユのばけものだけが、
 飛びかはすエルフの群を引きうけて、
 前足を上げ首をのばし、
 歯をむき出して燃える噴水の息をふきかけてゐます。
 不思議な石の聖徒の幾列は異様な手つきをして互にうなづき、
 横手の巨大な支壁アルブウタンはいつもながらの二の腕を見せてゐます。
 その斜めに弧線こせんをゑがく幾本かの腕に
 おう何といふあめかぜの集中。
 ミサの日のオルグのとどろきを其処そこに聞きます。
 あのほそく高い尖塔のさきの鶏はどうしてゐるでせう。
 はためく水の幔まんまくが今は四方を張りつめました。
 その中にあなたは立つ。
 
 おう又吹きつのるあめかぜ。
 その中で
 八世紀間の重みにがつしりと立つカテドラル、
 昔の信ある人人の手で一つづつ積まれ刻まれた幾億の石のかたまり。
 真理と誠実との永遠への大足場。
 あなたはただ黙つて立つ、
 吹きあてる嵐の力のぢつと受けて立つ。
 あなたは天然の力の強さを知つてゐる、
 しかも大地のゆるがぬ限りあめかぜの跳梁に身をまかせる心の落着を
 持つてゐる。
 おう錆びた、雨にかがやく灰いろと鉄いろの石のはだ、
 それにさはるわたくしの手は
 まるでエスメラルダの白い手の甲にふれたかのやう。
 そのエスメラルダにつながる怪物
 嵐をよろこぶせむしのクワジモトがそこらのくりかたの蔭にに潜んでゐます。

 あの醜いむくろに盛られた正義の魂、
 堅靭な力、
 傷くる者、打つ者、非を行はうとする者、蔑視する者
 ましてけちな人の口の端を黙つて背にうけ
 おのれを微塵にして神につかへる、
 おうあの怪物をあなたこそ生んだのです。
 せむしでない、奇怪でない、もつと明るいもつと日常のクワジモトが、
 あなたの荘厳なしかも掩ひかばふ母の愛に満ちたやさしい胸に育まれて、
 あれからどのくらゐ生れた事でせう。
 
 おう雨にうたるるカテドラル。
 息をついて吹きつのるあめかぜの急調に
 俄然とおろした一瞬の指揮棒、
 天空のすべての楽器は混乱して
 今そのまはりに旋回する乱舞曲。
 おうかかる時黙り返つて聳え立つカテドラル、
 嵐になやむ巴里の家家をぢつと見守るカテドラル、
 今此処で、
 あなたの角石かどいしに両手をあてて熱い頬
 あなたのはだにぴつたり寄せかけてゐる者をぶしつけとお思ひ下さいますな、
 酔へる者なるわたくしです。
 あの日本人です。

 
  典型 「典型」(昭和二五)

 今日も愚直な雪がふり
 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
 小屋にゐるのは一つの典型、
 一つの愚劣の典型だ。
 三代を貫く特殊国の
 特殊の倫理に鍛へられて、
 内に反逆の鷲の翼を抱きながら
 いたましい強引の爪をといで
 みづから風切の自力をへし折り、
 六十年の鉄の網に蓋はれて、
 端坐粛服、
 まことをつくして唯一つの倫理に生きた
 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
 今放たれて翼を伸ばし、
 かなしいおのれの真実を見て、
 三列の羽さへ失ひ、
 眼に暗緑の盲点をちらつかせ、
 四方の壁の崩れた廃墟に
 それでも静かに息をして
 ただ前方の広漠に向ふといふ
 さういふ一つの愚劣の典型。
 典型を容れる山の小屋、
 小屋を埋める愚直な雪、
 雪は降らねばならぬやうに降り、
 一切をかぶせて降りにふる。

 
  村の郵便配達
   千家元麿「虹」(大正八)

 村の郵便配達は深夜の雨の中を遣つて来る
 角燈かくとうを片手にさげて
 全身鱗うろこのやうに雨と光りにたらたら濡れて
 鎧を着て遣つて来る。
 後ろには銀の征矢を一杯背負つてゐる様に
 篠しのく雨が入り乱れ
 寝静まつた家の前に息をはずませて立ち止る。
 眠つたところを起されて、怖々こはごは戸を明けた人は
 闇の中に飛沫に打たれて明るく立つて居る彼を見る。
 人気無い山道や森や畠の中を暗い夜雨にたゞ一人
 永い間黙つていそいで来た彼は
 淋しさや恐ろしさや村に辿り着いた嬉しさに
 心気亢進して輝くやうだ。
 黒い頭巾づきんの蔭のその顔は
 燃え上つて透き通つた瑙驟めなうの様に赤るみ
 異様な大きな清すずしい眼を光らして
 鱗の様に光りの流れるカツパの蔭から
 貴さうに手紙や葉書をとり出す。
 
 雨はざんざん降りしきり
 郵便配達は熱い息をはずませ、受取る人も沈黙し
 闇と光りの中で眼を集めて選り分ける
 濡れない葉書や手紙の美しさ
 光りの中に浮かんで闇に消え入る人の宛名の美しさ
 人はその中から自分に宛てられた手紙を受取つて感謝する。
 
 村の郵便配達は暗い雨夜を唯一人
 カツパの蔭に角燈をひそませて
 寝静まつた村を一人で輝き横切つて行く。

 
  象
   千家元麿「虹」(大正八)

 動物園で象の吼えるのを聞いた
 象は鼻を牙に巻きつけて巨おほきな頭をのし上げて
 薄赤いゴムで造つたやうな口を開いて長く吼えた。
 全身の力が高く擡もたげた頭にばかり集つてしまつたやうに
 異様な巨きな頭が真黒になり隠れてゐた口が赤い焔ほのほを吐いた。
 その声は深く、寂しく、恐ろしかつた。
 象は一息吼え終ると鼻を垂れてもとの姿勢に戻りぢつとしてゐた。
 実に凝つとしてゐた。二本の巨きな前足が直立して動かなかつた。
 細い眼を真正面に据ゑて動かなかつた。
 その眼の静かさは人を慄ふるへ上らせた。
 二分三分、四分位たつと再び象は鼻を口の中へ巻き込んでくはへた。
 さうして異常な丈たけとなり、不思議な痛ましい曲譜を吹き鳴らした。
 ブル/\と震へて何処までも登つてゆくやうなリズムがあつた。
 荒々しい、然し無限な悲哀を含んだ此世の声とは思へなかつた。
 遠い原野をさまよふものゝ声であつた。
 争ふやうな祈るやうな、何者か慕ふやうな幼ない声であつた。
 象は長く吼えて力が尽きると
  又もとの姿勢にかへつて凝つと静まり返つて前を見つめてゐた。
 その古びた灰色の背骨の露あらはれた姿は静かさに満ちてゐた
 限りなく寂しいものに見えた。
 自分は黙つて彼の姿を見てゐた。自分の眼には涙が浮んだ。
 彼は何か待ちのぞんでゐるやうであつた。
 此世の寂寞に耳を澄ましてゐるやうであつた。
 何か催すのを待つてゐるやうであつた
 やがて彼はまた何ものにか促されて凄すさまじい姿となり、
 巨頭を天の一方に捧げて三ベン目を吼えた。

 四ヘン目を吼え終つた時、彼はその鼻で
  巨きな禿げた頭の頂きをピシャリと音の発するほど嬉しさうに叩いた。

 何か吉兆に触れたやうに。
 五ヘン目に彼は又空に向つて何ものか吸ひ上げるやうに吼えた。
 轟とどろく雷か波のやうに音は捲きかへして消え去つた。
 それからもとの姿勢に戻つて習慣的に体を前後にゆさぶり初めた。
 足も鼻も尻尾も動き出した。
 彼はもう吼えなかつた。

 
  若き囚人
   千家元麿「虹」(大正八)

 S監獄の煉瓦れんぐわ壁の上から
 二十二三の若い囚人が
 世間を覗いてゐる
 その桃色の半面は美しく燃えてゐる。
 彼の心は遠くへ飛んでゐる。

 
  蛇
   千家元麿「野天の光り」(大正一〇)

 蛇が死んでゐる
 むごたらしく殺されて
 道端に捨てられてゐる
 死体の傍には
 石ころや棒切れなぞの兇器がちらかつてゐる
 王冠を戴いた神秘的な顔は砕かれ
 華奢で高貴な青白い首には縄が結ゆはへてある
 美しく生々した蛇は今はもう灰色に変つてゐる
 さながら呪はれた悲劇の人物のやうに
 地上に葬られもしないで棄てられてゐる
 哀れないたづらだ

 
  小景異情 その二
   室生犀星「抒情小曲集」(大正七)

 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの
 よしや
 うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても
 帰るところにあるまじや
 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや

 
  寂しき春
   室生犀星「抒情小曲集」(大正七)

 したたり止まぬ日のひかり
 うつうつまはる水ぐるま
 あをぞらに
 越後の山も見ゆるぞ
 さびしいぞ
 
 一日もの言はず
 野にいでてあゆめば
 菜種のはなは
 遠きかなたに波をつくりて
 いまははや
 しんにさびしいぞ

 
  靴下 室生犀星「忘春詩集」(大正一一)

 毛糸にて編める靴下をもはかせ
 好めるおもちやをも入れ
 あみがさ、わらじのたぐひをもをさめ
 石をもてひつぎを打ち
 かくて野に出でゆかしめぬ
 
 おのれ父たるゆゑに
 野辺の送りをすべきものにあらずと
 われひとり留まり
 庭などをながめあるほどに
 耐へがたくなり
 煙草を噛みしめて泣きけり

 
  切なき思ひぞ知る
   室生犀星「鶴」(昭和三)

 我は張り詰めたる氷を愛す
 斯る切なき思ひを愛す
 我はその虹のごとく輝けるを見たり
 斯る花にあらざる花を愛す
 我は氷の奥にあるものに同感す
 その剣のごときものの中にある熱情を感ず
 我はつねに狭小なる人生に住めり
 その人生の荒涼の中に呻吟せり
 さればこそ張り詰めたる氷を愛す
 斯る切なき思ひを愛す

 
  かかるとき我生く
   日夏耿之介「転身の頌」(大正六)

大気 澄み 蒼穹そら晴れ 野禽とりは来啼けり
 青き馬 流れに憩いこひ彳
 繊弱かぼそき草くさのひと葉ひと葉 日光ひざしに喘あへ
 『今』の時晷とけいはあらく吐息といき
 かかるとき我われ 生
 
 
  快活な VILLA
   日夏耿之介「転身の頌」(大正六)

 快活なわが VILLA の四檐めぐりに雨が降る
 新緑の初春しよしゆんの朝あした
 おもたき草木そうもくの睡眠ねむりも新鮮にめざめ
 大地は 橙黄色とうこうしよくに小唄さうたへり
 力ある律動の快感よ
 かかるとき
 都市みやこよりの少人しようじんらが
 赤き BALCON にゐならび歌うたうたへるをきけ
 
 野の鳥は口噤つぐ
 性急の筧かけいも呼吸いきを呑みぬ
 少人らよ
 爾なんじら 無念ぶねん 銀声ぎんせいするとき
 柔やわらかきその小胸こむねふかく
 滴したたり落つる透明の泪なんだの奥ふかく
 かの所有者を幻まぼろしに見む

 
  道士月夜の旅
   日夏耿之介「黒衣聖母」(大正一〇)

    Ⅰ
 
 小慧こざかしい黒猫の柔媚じうびの声音こわね
 青ざめた燐火りんかをとぼすあたたかなその毛なみ
 琥珀こはくにひかる双瞳さうどうを努つとめて遁のがれたいゆゑに
 還また 儂われは漂泊さまよひいづる門出かどでである
 月光つきかげ 大地に降り布
 水銀の液汁を鎔解とかしこんだ天地万物の裡あはひ
 ああ 儂が旅く路は
 坦坦たんたんとただ黝くろ
 
    Ⅱ
 
 わが魂は 今宵こよひ 梟ふくろふの夜の睛のやうに健すこやかだ
 あまつさへ
 わが肉身は なかば 壊滅こぼたれて
 己おのが自由の思索だにも礙さまたげえぬ
 
 瞳ひとみを瞰れば
 爛爛らんらんと光りかがやき火え昌さか
 花いろの火焔ほのほを散乱ちら
 双さうの手は枯木こぼくのごとく
 透明の爪つめ 氷柱つららのやうに垂れ下り
 黒い髪毛かみのみ蓬蓬ぼうぼうと天をゆびさす
 儂わしは わが他人らとまたわが在国くにより旅立かしまだ
 いまぞ寔まことにわが故国に復帰かへ

    Ⅲ
 
 わが家郷くにの指す方かた
 黔くろき寒林をかいくぐり 性急の小渓をがはを徒渉かちわた
 灰白くわいはくの雲垂るる峻山しゆんざんの奥秘おくがに在る
 
 稚いはけなきころ わが身はいつも沈黙と
 寂寞じやくばくの水銀液ふかく潜ひそみ入り
 たまたま燃え出る格天井がうてんじやう
 銀の燈影ほかげをなつかしみ
 ――わが書斎はまたわが浴室であつたゆゑ――
 頑かたくなな浴船の黟かぐろい縁へりに躯を靠もたれて
 その数かず 量り知れぬ古冊こさつを誦んだ
 
    Ⅳ
 
 飢渇うゑと騒擾どよもしと物欲とからえ免まぬかれし身は
 ただ満天の色嶮けはしい莫雲ばくうんの固定表情をうち眺め
 皺しわだむ丘の寒巌かんがん
 破隙われめに花もつ一本いつぽんの艸木くさだち
 山野さんやを美飾かざる無数の雲雀ひばりらの
 姿態を窮理きはめた
 
 儂が心性こころは 嬰児みどりごのやうに弾力化ひずみあり
 多く困苦に克
 朝風に孕はらむ白い帆布ほぬののごとく
 耐えしのんだ

    Ⅴ
 
 嗚呼ああ 高大な寂黙じやくもくの世界の黎明方よあけがた
 遐とほく己おのが心の一隅にふりさけ見て
 いまも身は十七歳の心臓のごとくに躍をど
 儂わしはわが在国ざいごくとわが他人らとより出離しゆつりして
 今宵こよひ 色青い月光のながれ簇る大街道を
 落葉踏みわけ
 身を疼いた
 こころを暢々のびのびと瞳ひとみをすゑて
 儂が赴く故園ふるさとの指す方かたを辿たどる 辿る


  黒衣聖母
   日夏耿之介「黒衣聖母」(大正一〇)

 真理は黫くろし焉
 ひかりは白熱びやくねつして
 昏黯くらき万物ものよりただ細細ほそぼそとたち騰のぼ
 ひかりは
 それゆゑに 恒つねに聰叡さと
 
 わが胸の深淵ふかみ
 黒衣聖母のあり
 心して赴け 道ゆく旅人ひと
 
 風ある日
 渚なぎさを旅けば
 顔しかめる水面みなもにも
 爾きみが小胸の秘奥おくがなる
 かの黒衣の善き母を視
 
 もし 照る日のもとをあゆみなば
 湿気しつけある処女林しよぢよりんの扉とびらぢか
 一位の樹の繁しげみぶかくに
 爾きみが輝やける御母おんはは
 垣間かいまることもあるべし

  頭かしらをあげよ 嬢子公子わかきものたち
 己が心の繁みぶかくに
 崇美けだかき黒衣聖母の御像みかたちをば
 夙く 和南をろがみ 跪ひざまづけ
 
 真理は恒に黸かぐろし 常住不断いつまでも
 
 

 落葉松 糸車 思ひ出 人形つくり 時は逝く 水路 野晒 野茨に鳩 窓の女 金粉酒 築地の渡し 両国 朝の新茶 該里酒 
曇り日の魯西亜更紗 玻璃問屋 街頭初夏 ふるさとの 沼のほとり 雪の上の鐘 現身 道程 ぼろぼろな駝鳥 秋の祈 根付の国 冬が来た 寂寥 
父の顔 雨にうたるるカテドラル 典型 村の郵便配達  若き囚人  小景異情 寂しき春 靴下 切なき思ひぞ知る かかるとき我生く 
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