会津八一の歌

  東大寺にて
 あまたたびこの広前にめぐり来て 立ちたる我ぞ知るやみ仏

 おほらかに両手の指を開かせて 大き仏はあまたらしたり

  春日野にて
 うち伏してもの思ふ草の枕べを 朝の鹿の群れ渡りつつ

 恨み侘び立ちあかしたる牡鹿の もゆる眼に秋の風吹

 春日野に降れる白雪あすのごと 消ぬべく我はいにしえ思ほゆ

 森かげの藤の古根による鹿の ねむり静けき春の雪かな

  猿沢池にて
 吾妹子が衣掛け柳みまくほり 池をめぐりぬ傘さしながら

  帝国博物館にて
 観音の白き額に瓔珞の 影動かして風わたる見ゆ

 観音の背に副ふ葦のひともとの 浅き緑に春立つらしも

 ほほゑみてうつつ心にあり立たす 百済仏にしくものぞなき

 初夏の風となりぬとみ仏は を指のうれにほの知らすらし

  奈良博物館にて
 壁にゐて床ゆく人にたかぶれる 伎楽の面の鼻古りにけり

  新薬師寺の金堂にて
 旅人に開く御堂のしとみより 迷企羅が太刀に朝日さしたり

  戒壇院をいでて
 毘楼博叉(びるばくしゃ)まゆね寄せたるまなざしを 眼に見つつ秋の野を行く

  高畑にて
 香薬師わが拝むと軒低き 昼の巷をなづさひ行くも

 旅人の目に痛きまで緑なる 築地の隙の菜畑のいろ

  香薬師を拝して
 近づきて仰ぎ見れどもみ仏の みそなわすともあらぬ淋しさ

 み仏のうつら眼にいにしへの 大和国原かすみてあるらし

  法華寺本尊十一面観音
 藤原の大き后をうつしみに 相見るごとく赤き唇

  海竜王寺にて
 時雨の雨いたくな降りそ金堂の 柱のま赭壁に流れむ

  秋篠寺にて
 竹群にさし入る光もうら淋し 仏いまさぬ秋篠の里

  平城京址の大極芝にて
 畑中の枯れたる芝に立つ人の 動くともなしもの思ふらしも

 畑中にま日照り足らす一群の 枯れたる草に立ちなげくかな

  唐招提寺にて
 大寺のまろき柱の月影を 土に踏みつつものをこそ思へ

  大安寺をいでて薬師寺をのぞむ
 時雨降る野末の村の木の間より 見出でてうれし薬師寺の塔

  薬師寺東塔
 嵐吹く古き都のなかぞらの 入日の雲にもゆる塔かな

 草に寝て仰げば軒の青空に 雀かつ飛ぶ薬師寺の塔

 水煙の天つ乙女が衣出の ひまにも澄める秋の空かな

  法隆寺村にやどりて
 いかるがの里の乙女は夜もすがら 衣機織れり秋近みかも

  滝坂にて
 柿の実を担いて下る村人に 幾たび会いし滝坂の道

 欠け落ちて岩の下なる草むらの 土となりけむ仏かなしも

 滝坂の岸の梢に衣かけて 清き川瀬に遊びて行かな

 豆柿をあまた求めて一つづつ 食ひもて行きし滝坂の道

 夕されば岸の埴生による蟹の 赤き鋏に秋の風吹く

  山田寺の址にて
 草ふめば草に隠るる礎の 靴の拍車にひびく悲しさ

 山寺の寒き厨の灯火に 湯気たち白む芋の粥かな

  弘福寺の僧と談りて
 世をそしる貧しき僧の守り来し この草むらの白き礎

  聖林寺にて
 雨そそぐ山のみ寺にゆくりなく 会ひたてまつる山階の皇子

  十九日室生にいたらむとて先づ桜井の聖林寺に
  十一面観音の端厳を拝す 旧知の老僧老いてなほ在り
 咲く花の永遠ににほへるみ仏を 守りて人の老いにけらしも

  村荘雑事
 雨霽れし桐の下端に濡れそぼつ 明日の門の月見草かな

  軽井沢にて
 落葉松の原のそきへの遠山の 青きを見れば故郷おもほゆ

  山中高歌
 みすずかる信濃のはての群山の 嶺吹き渡るみなつきの風

  後数月にして熱海の双柿舎を訪はむとするに
  汽車なほ通ぜず 舟中より伊豆山を望みて
 すべもなく崩えし切り岸いたづらに 霞たなびく波の秀のへに


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