西大寺の四王堂にて
まがつみ は いま の うつつ に あり こせど
(まがつみは今のうつつにありこせど踏みし仏の行方知らずも )
西大寺四王堂
「七六五年、称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のため七尺の金銅四天王の造立を発願されたのが、この寺のはじまり。東大寺に対して西に位置する故に西大寺。当初は、一一〇もの堂宇があったが、平安時代や戦国時代に焼失、現在の堂宇は江戸時代に再建されたもの。四王堂は四天王をまつる堂」
まがつみ
「四天王が足で踏みつけている邪鬼。八一の造語。
まがつびのびの音の硬さを避けてみとしたと渾齋隨筆で述べている。
まがつひ‐の‐かみ【禍日神】災害・凶事を起すという神」
いまのうつつ「今現在 うつつ=現」
ありこせど「あり越す、現在まで存在し続けている。」
ふみしほとけ「邪鬼を踏みつけていた四天王」
ゆくへしらずも「(焼失)してなくなってしまったことよ」
歌意
(四天王)に踏みつけられていた邪鬼たちは今も変らずこのように残っているが、仏たちは焼失して行方知れずになっている。(なんと皮肉なことだろう!)
八一自身が言うように用語が非常に難しい歌だ。
千年余存在し続ける邪鬼達、それに対し当時の(人を救う)仏たちが焼失して今は無いことの皮肉に心を動かしているのだ。
後年、再鋳された貧弱な仏たちとの対比を指摘し、作者は歌の理解のために四王堂の中に入ることを薦めている。
注 ありこす(自註で万葉集の「ありこす」とは意味が違うことを述べ、以下のように展開する)
造語は・・・許さるべきことにもあれば、ひたすら幽遠なる上古の用例にのみ拘泥し、死語廃格を墨守すべきにあらず。
新語、新語法のうちに古味を失わず、古語、古法のうちにも新意を出し来るにあらずんば、言語として生命なく、従って文字として価値無きに至るべし。
奈良の町をあるきてまち ゆけば しな の りはつ の ともしび は
(町行けば支那の理髪の灯火は古き都の土に流るる)
しな
「中国または中国人。語源は秦王朝の
りはつ「理髪、床屋」
歌意
奈良の町を夜行くと中国人の床屋の灯火がこの古都の土を流れるように照らしていることよ。
千年の歴史を持つ奈良の土とひっそりとした中国人の床屋の灯火、夜の町の一風景だが心に深くしみ込んでくる情感があり、好きな歌である。
この南京余唱(大正一四年)では平淡な歌が多くなるが、そのことにより「上手い」と思える歌より奥深いところでの味わいが出ていると言える。
東伏見宮大妃殿下も来り観たまふ(第二首)
まつ たかき みくら の には に おり たたす
(松高きみ倉の庭に下りたたす東伏見宮の毛衣)
東伏見宮
「旧宮家。明治三年(一八七〇)伏見宮邦家親王の第八王子彰仁親王が創立。小松宮と改称後、同三六年その弟依仁親王が復興。大正一一年(一九二二)親王が死去し、後に廃絶」
大妃殿下
「依仁親王妃
みくら「正倉院の倉、ここでは正倉院そのもの」
けごろも
「毛皮のコート、当時としては珍しいもので八一に深い印象を与えた」
歌意
松が高くそびえる正倉院の庭に車から降りてお立ちになられた東伏見宮の毛皮のコートのお姿よ。
第一首では迎える側の人々を詠み、この第二首では迎える宮の姿を詠った。 皇室への深い尊敬と珍しい毛皮のコートの表現から、遠い大正一四年の雰囲気を味わうことができる。
秋篠寺にてまばら なる たけ の かなた の しろかべ に
(まばらなる竹の彼方の白壁にしだれて赤き柿の実の数)
秋篠寺 「秋篠寺にて第一首 参照」 たけ「竹林」
しだれて「(枝垂れて)細い枝が長くたれ下がって」
かきのみのかず「沢山枝になっている柿の実」
歌意
まばらな竹林のむこうにある白壁のところに枝をたわませて沢山の柿の実がなっていることよ。
ひなびた秋篠の里の青い竹林、白い壁、赤いたわわな柿。か行音を有効に使って、リズミカルに表現した美しい歌だ。秋篠寺の白壁と秋篠町に広がる田園に実っている柿の木。
滝坂にて
まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
(豆柿をあまた求めて一つづつ食ひもて行きし滝坂の道)
まめがき「小粒の柿」 もとめて「買って」 くひもて「食べながら」
歌意
豆柿を沢山買って、食べながら登っていった滝坂の道よ!
仏を繊細に詠う八一の日常における野性的な一面を垣間見ることが出来る。
しかし、その時の深い感動を詩歌として表出する力は深い感受性無しにはありえない。
秋の滝坂を豆柿をかじりながら登っていく作者の姿が詩情豊かに浮かび上がってくる。
「滝坂の道としてではなく柳生街道として親しんだ」と地元の友人は言う。「やぎゅう」ではなく「たきさか」この語感を楽しみたい。
注 滝坂(第一首の自註でこう表現している)
『大和名所図会』には滝坂を紅葉の名所とし、里人数輩が、渓流の岸なる樹下に
文字の誇張はさることながら、この辺に野猿の多きは、これにても見るべし。
春日神社にてみかぐら の まひ の いとま を たち いでて
(み神楽の舞ひの暇に立ち出でて紅葉に遊ぶ若宮の娘ら)
春日神社
「奈良市春日野町にある神社。祭神は
みかぐら「御神楽、神をまつるために奏する舞楽」
わかみや
「若宮神社。春日大社の摂社(本社に付属し、その祭神と縁故の深い神を祭った神社)で祭神は、大宮の天児屋命と比売神の御子神・
こら「若い巫女たち」
歌意
神楽を舞う合間に外に出て、紅葉のもとで遊ぶ若宮神社の若い巫女たちよ。
昔、奈良の友人に案内されて若宮の巫女の舞いを見た時のことが鮮明に浮かんでくる。
その時は若葉が美しい春だったが、この南京余唱の歌を読むたびにイメージが重なる。
紅葉のもとで遊ぶ白い着物と赤い袴の若い娘たちの情景を八一は美しいと自註で語っている。
山中高歌みすずかる しなの の はて の むらやま の
(みすずかる信濃のはての群山の嶺吹き渡るみなつきの風)
みすずかる「信濃の枕詞、
みなつき「陰暦六月」
歌意
信濃の国の果てに連なる山々、その高い峰を吹き渡っていく六月の風はなんとさわやかなことだろう。
早稲田中学教頭時代、学校運営をめぐる内紛で疲れた心身を癒すため山田温泉へ。
その時の山中高歌一〇首の第一首。(大正一〇年)
この歌の調べの良さも味わいたい。
第一、四、五句が「み」で始まる。「みすずかる」
「みねふき」「みなつき」の音韻の重なりからくる調べ。
山中高歌・序
「山田温泉は長野県豊科駅の東四里の谿間にあり
山色浄潔にして嶺上の白雲も以て餐ふべきをおもはしむかって憂患を懐きて此処に来り遊ぶこと五六日にして帰れり 爾来潭声のなほ耳にあるを覚ゆ」
山田温泉「この歌の歌碑がある」 谿間「けいかん、谷間」
懐きて「いだきて、心に抱えて」
なほ耳にあるを覚ゆ
「今でもその水音が聞こえてくるように思える」
御遠忌近き頃法隆寺村にて(第四首)みとらし の あづさ の まゆみ つる はけて
(みとらしの梓の真弓弦はけて引きて帰らぬいにしへあはれ)
「仏教諸宗派で、宗祖や中興の祖などの五十年忌ののち、五〇年ごとに遺徳を追慕して行う法会。ここでは、聖徳太子千三百年忌(大正一〇年・一九二一年四月一一日)のこと」
みとらし「手におとりになった。みは尊敬を表す接頭語」
あづさのまゆみ「梓の木で作った梓弓。まは接頭語」
つるはけて「弓に
歌意
聖徳太子がお使いになった梓弓に
この句は初句から三句までが「ひきてかへらぬ」の序句になっているので、言葉の難しさの割には歌意は単純である。(敬愛する太子の)引き返すことがない昔が偲ばれるという意味。ただ、単なる序句ではなく、実際に二十八歳の青年八一が、法隆寺のみとらしの梓の真弓を眼前にして感動を持って歌ったものなので、厚みのある充実した作品になっている。
注 みとらしの梓の真弓(自註鹿鳴集より)
作者は、当時は年二十八の青年として、この薄暗き綱封蔵の中にて、初めてこの古風なる弓矢を見、この優雅なる名称を聞きて、
法輪寺にてみとらし の はちす に のこる あせいろ の
(みとらしの蓮に残る褪せ色の緑な吹きそ木枯らしの風)
「奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳太子ゆかりの寺。法隆寺東院の北二㌖にある」
みとらし「手におとりになった。みは尊敬を表す接頭語」
はちす「蓮華、ハスの花」
なふきそ「吹いてくれるな。な~そは強い否定」
こがらしのかぜ
「落葉の季節を象徴する秋から冬に吹く風。下記自註参照」
歌意
手にお持ちになった蓮華に残っている色褪せた緑に木枯しの風よ吹いてくれるな、消えてしまうといけないので。
八一は古代への憧憬と滅びゆくものへの愛惜を沢山詠っている。この歌は下記の寂れた海竜王寺を詠った歌と同じ手法で詠まれている。
しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の
また、風や色彩を巧みに詠む。
以下の秀歌とともに味わっていただきたい。
はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
くわんのん の せ に そふ あし の ひともと の
くわんのん の しろき ひたひ に やうらく の
この観音(瓔珞)の歌も法輪寺の十一面観音を詠んだものと言われている。
注 こがらしのかぜ(自註鹿鳴集より)
秋の末より冬へかけて吹く風を「
中宮寺にてみほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の
(み仏の顎と肘とに尼寺の朝の光のともしきろかも )
中宮寺
「奈良・法隆寺に隣接する聖徳太子ゆかりの尼寺。飛鳥仏・木造菩薩半跏像と
みほとけ
「新本堂(一九六八年建立)の本尊・木造菩薩半跏像(注二)、その形から弥勒菩薩と言われるが、寺伝では如意輪観音。八一は“太子思惟像”と呼ぶことが正しいという」
あまでら
「中宮寺は門跡尼寺、法華寺、円照寺と並ぶ大和三門跡」
ともしきろかも
「“ともし”は乏しで光が弱いという意味だが、心惹かれると言う意味の“ともし”も含んでいる。“ろ”は意味のない接尾の助詞。八一は“かそけくなつかしきかな、といふほどの意”と自註に書いている」
歌意
み仏の顎と肘のあたりにこの尼寺のかすかな朝の光が射し、なつかしく心ひかれることだ。
近代的な今の本堂では味わうことができないが、当時の尼寺で、尼僧が厨子の扉を開けた瞬間の朝の光のあたる仏の姿を見事にとらえている。
尼僧たちが布等で拭いたために黒光りする仏、光による顎と肘の陰影を想像してみるといい。
注一 中宮寺
六二一年、聖徳太子が母・
創建当初は五百㍍ほど東にあり、現在地に移転したのは一六世紀末頃と推定される。現本堂は高松宮妃の発願で一九六八年に建立された。
天寿国繍帳は聖徳太子が亡くなられ(六二二)、妃の
注二 半跏像(半跏思惟像)
半跏思惟像は右足を曲げて左膝を上に置き、頬に右手を当ててうつむくような姿、いかに人々を救うかという思索にふける。
また東大寺の海雲師はあさなあさなわがために二月堂の千手観音に祈誓をささげらるるといふに(第二首)「山光集・病閒」みほとけ の あまねき みて の ひとつ さへ
(み仏のあまねきみ手の一つさへわが枕辺にたれさせ給へ )
みほとけ「ここでは千手観音(東大寺二月堂)を言う」
あまねきみて「千手観音の沢山ある全ての手」
歌意
み仏の沢山あるその手の一つだけでも病に伏す私の枕辺に垂れて病を治してください。
昭和一九年一一月、八一は奈良修学旅行引率中に病に倒れた。風邪から扁桃腺炎、中耳炎を併発し回復まで数カ月かかる。そのため、奈良の寺々は病気の快癒を願ってさまざまな形で祈った。
上司海雲の二月堂・千手観音への祈りから、
「あまねき みて の ひとつ さへ」とした表現が素晴らしい。新薬師寺が焚いた護摩に対してはこう詠んでいる。
「さち あれ と はるかに なら の ふるてら に
注 千手観音
八一と親交の深かった東大寺観音院住職・上司海雲は、朝夕二月堂の千手観音に八一のために祈った。ちなみに上司海雲は奈良の文化のために尽力し、観音院には杉本健吉、会津八一、入江泰吉、須田剋太などが出入りした。
香薬師を拝してみほとけ の うつらまなこ に いにしへ の
(み仏のうつら眼にいにしへの大和国原かすみてあるらし)
みほとけ
「香薬師・新薬師寺の本尊薬師如来の胎内仏、三回の盗難にあい、今はない」
うつらまなこ
「うっとりとした眼。意味において作者の造語に近い。作者は自註でこう言う。{何所を見るともなく、何を思ふこともなく、うつら、うつらとしたる目つき、これこの像の著しい特色なり}作者が百済観音で詠んだ{うつつごころ=現実の心だが夢見心に近い}と同じ意味合いを持つ」
歌意
香薬師のうっとりとした眼には古代の大和の国が春の霞にかすんでみえているらしい。
八一は最初の歌集「南京新唱」で香薬師を三首詠んでいる。昭和一八年の三回目の盗難で今では八一の歌や先人の描写や写真から想いうかべるしかない。
亀井勝一郎は「大和古寺風物詩」で以下のように表現する。
「香薬師如来の
高さわずかに二尺四寸金銅立像の胎内仏である。
ゆったりと弧をひいた
両肩から足もとまでゆるやかに垂れた衣の
室生寺にて(第二首)みほとけ の ひぢ まろら なる やははだ の
(み仏の肘まろらなる柔肌の汗むすまでにしげる山かな)
室生寺
「奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派の大本山(室生寺にて第一首参照)」
ひじ「肘」 まろらなる「まるくふっくらとした」
やははだ「柔らかな感触の肌、女性の肌」 あせむす「汗ばむ」
歌意
み仏の肘の丸くふっくらとした柔肌が汗ばむかとおもわれるほど、この山の茂りは濃い。
室生寺をめぐる夏の山を詠ってはいるが、平安初期の密教の官能的な仏たちを表現したと言える。
“肉感的な仏の柔肌、それが汗ばむ”と八一はなまめかしく捉える。その「あせむす」と「しげる やま」を結びつけるのは八一独特の感覚である。
「ひじ まろら なる」仏とは、吉野秀雄(鹿鳴集歌解)が言うとおり、灌頂堂の丸い肘の如意輪観音と考えられる。
観心寺の歌からも想像されることだ。
ただ、観心寺の豊麗でなまめかしい観音に比べると室生寺の仏は、端正な顔をしている。
原田清(鹿鳴集評釈)は、この仏を室生寺を代表する金堂の十一面観音と言う。ふっくらとして美しい十一面観音の肘を想像することも楽しい。
三月二十八日報あり・・・(第二首)みほとけ は いかなる しこ の をのこら が
「山光集・香薬師」
(三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに香薬師像のたちまち何者にか盗み去られて今はすでにおはしまさずといふを聞きて詠める)
(み仏はいかなる醜の男らが宿にか立たす夢のごとくに)
みほとけ「香薬師(新薬師寺)」
しこの
「(多く接頭語的に、また“しこの”の形で用いて)醜悪なもの、憎みののしるべきものなどにいう」
ゆめのごとく「(香薬師の)あの夢のようなお姿」
歌意
み仏は一体どんな醜悪でくだらない男たちの家に立っておいでなのだろう。
あの夢のような美しいお姿で!
み仏を盗み去った盗人を「醜の男ら」と憎みののしる言葉を使い、八一は香薬師への強い思慕を表す。さらに醜悪でくだらない男たちとの対比で、南京新唱で詠いあげた香薬師の美しい姿を際立たせている。
(みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の
三月二十八日報あり・・・(第三首)みほとけ は いまさず なりて ふる あめ に
「山光集・香薬師」
(三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに香薬師像のたちまち何者にか盗み去られて今はすでにおはしまさずといふを聞きて詠める)
(み仏は居まさずなりて降る雨に我が碑の濡れつつかあらむ)
みほとけ「香薬師(新薬師寺)」
いまさず「香薬師は三度の盗難にあい、今はいらっしゃらない」
いしぶみ
「
歌意
み仏がいらっしゃらなくなった新薬師寺では、降る雨に私の歌を刻んだ歌碑が濡れていることであろう。寂しことだ。
奈良の新薬師寺を思ひいでて(第二首)みほとけ は いまも いまさば わがため に
「山光集・溷濁」
(み仏は今も居まさば我が為に眼すがしく守らせたまへ)
いまもいまさば「今もいらっしゃるなら」
まなこすがしく「濁りの無い清らかな眼」
歌意
み仏は今もいらっしゃるなら、どうか私の為に濁りの無い清らかな眼であるようにお守りください。
この歌を詠んだ昭和一七年三月頃、八一の初めての歌碑が新薬師寺に建立されている。
そのゆかりの香薬師像と新薬師寺はともに眼病治癒に効力があると言われており、八一の眼病治癒への願いが、あのみ仏のうっとりとした眼のすがすがしさへの賛美と重なって迫ってくる。
この歌は東京で奈良を想って詠まれ、この時には香薬師像はまだ寺に存在していた。
盗難にあうのは一年後である。
三輪の金屋にて路傍の石仏を
(耳しふとぬかづく人も三輪山のこの秋風を聞かざらめやも)
三輪の金屋
「奈良・桜井市金屋、三輪山の南麓。下記参照」
石仏
「八一は“薬師の一面が移されて二面になりしものか。”と書いている。現在では右が釈迦如来、左が弥勒菩薩と言われている」
みみしふ
「耳の聞こえない。しふとは感覚器官が働きを失うこと」
ぬかづく「額突く、ひたいを地に着けて拝むこと」
みわやま
「奈良県桜井市の南東部にそびえる、なだらかな
きかざらめやも
「聞かないことなどない。やもは反語の意を表す」
歌意
耳を病んで苦しんでいる里の老女が、頭を地につけてこのみ仏に祈っている。
三輪山から吹き降ろす秋風の音をこの老女は聞かないのだろうか、いやきっと聞いているに違いない。
八一が訪れた時、石仏は路傍の木立にただ立てかけられていただけ、吹き降ろす秋風のもと、耳を病む老女の祈る姿という素朴で寂しい情景だけがあった。だが、「聞かざらめやも」に込められた反語の中に、強い希望と「三輪山=神の力」を感じ取ることが出来るような気がする。
注 三輪の金屋(自註鹿鳴集より)
三輪山の南なる
吉野北六田の茶店にてみよしの の むだ の かはべ の あゆすし の
(み吉野の六田の川辺の鮎鮨の塩口ひびく春の寒きに)
みよしの「みは美称を表す接頭語」
あゆすし「前年夏に塩加減をきつくした鮎鮨」
しほ「塩。塩漬けの鮎」
くちひびく
「鹿鳴集自註によると“くちにひりつく。この語は『古事記』(七一二)中巻なる神武天皇の歌の中にあり。
「みづみづし、久米の子等が、垣もとに、植ゑしはじかみ、口ひびく、吾は忘れじ、打ちてし止まん」。「はじかみ」は「生薑」”」
歌意
吉野の六田の茶店で食べた鮎鮨が塩辛く、口がひりひりする。まだ春は浅く寒い(こともあって)。
詠まれたのは大正一四年三月、春寒を読み込むことによって口にひりひりする鮎鮨の塩辛さを見事に表現する。
辛かったのだろうなと思わず思ってしまう。古語「くちひびく」まで一気に詠み込み、「はる の さむき に」と受け止める八一の作詠はさすがである。
吉野の山中にやどる(第二首)みよしの の やままつがえ の ひとは おちず
(み吉野の山松が枝の一葉落ちずま玉に貫くと雨は降るらし)
やままつがえ「山の松の枝」
ひとはおちず「一葉落ちず。一葉残らず、全て」
またま
「“ま”は接頭語、“たま”は玉、珠。雨が作る美しい露の玉(珠)」
ぬく
「貫く。“たまにぬく”は万葉集の時代によく使われた。花、実、露などを玉のように
歌意
吉野の山の松の枝を一葉も残さずに露の玉が貫こうとしてしきりに雨が降っている。
宿の春雨を松葉を貫く玉と詠んだ。
八一は「またまにぬく」を子規の歌の用法に似ると以下のように自註で注釈している。
「正岡子規子(一八六七-一九〇二)に、松葉に貫ける無数の雨滴の珠玉を詠める、有名なる一聯の歌ありて、用語にも相似たるところあれど、その模倣にあらず。また情景の規模を異にするが故に、敢て自ら棄てず。」
子規の歌
「松の葉の葉毎に結ぶ白露の
(原田清著 会津八一 鹿鳴集評釈 より)
木津川の岸に立ちてみ わたせば きづ の かはら の しろたへ に
(見渡せば木津の川原の白妙に輝くまでに春たけにけり)
木津川
「三重県伊賀を源流とし、京都府、奈良県にまたがる川。京都で宇治川、桂川と合流し最後は淀川となって大阪湾に入る」
しろたへ
「白妙。白い布、あるいは白いこと。ここではもちろん“白いこと”をさす」
たけにけり
「たけは闌け(る)、長け(る)。たけなわになった。長くなった。けりは詠嘆の助動詞」
歌意
見渡すと木津川の川原が春の光で白く輝いている。春もたけなわになったのだなあ。
春日を浴びて川原が輝いて見える春ののどかな景色を詠んだ。目に入る光景をおおらかに表現するが、豪雪で有名な故郷・新潟の全てが重苦しい冬景色と対比させていたかもしれない。
早稲田にてむかしびと こゑ も ほがら に たく うち て
(四月二十七日ふたたび早稲田の校庭に立ちて)
(昔人声もほがらに卓打ちて説かしし面輪見えきたるかも)
むかしびと
「恩師・坪内逍遥を畏敬する古人・先人として表現する」
たく「教壇の卓」
とかしし「説かしし、最初のしは尊敬、最後のしは過去」
おもわ「面輪、わは輪郭の意味で顔面のこと」
歌意
恩師坪内先生が、声も朗々と教卓をたたきながら講義されたそのお顔が今もありありと浮かんでくる。
この歌は早稲田大学坪内博士記念演劇博物館前の逍遥の胸像の下に彫られている。
ただ、早稲田には若山牧水、北原白秋、窪田空穂など有名な歌人・文人がいるのでと言う理由やその他で随分反対があったようだ。そのため、この胸像・歌碑の存在に逍遥と八一の強い師弟関係及び八一と作った弟子達との深い絆をうかがう事が出来る。
石碑を作る弟子達の計画に「・・・私自身が大いに感動して、これは是非完成して貰ひたいと、特に強く望をかけてゐる」(私の歌碑)と七〇歳の八一は書き残している。
村荘雑事むさしの の くさ に とばしる むらさめ の
(武蔵野の草にとばしる村雨のいやしくしくに暮るる秋かな)
武蔵野
「東京都と埼玉県の南は多摩川から、北は川越市あたりまで。雑木林のある独特の風景で知られた。武蔵野台地」
とばしる「ほとばしる。飛び散ること」
むらさめ
「ひとしきり激しく降り、やんではまた降る雨。にわか雨。
いや「いよいよ。ますます」
しくしく「(頻く頻く)絶え間なく。しきりに」
くるる「暮れる」
歌意
武蔵野に村雨がしきりに降って、我が庭の草に飛び散っている。
そうして武蔵野の秋はますます深まっていく。
八一は大正一三年に移り住んだ下落合の「落合秋艸堂」(市島春城別邸)で村荘雑事一七首を詠む。
三千坪に及ぶ春城別邸(宅地は五百坪)は、武蔵野そのものと言っていいほどの風情があった。
秋雨が激しくなっていく様子を急速に深まっていく秋に重ねながら、武蔵野の晩秋を詠う。
選ばれた言葉のリズムが流れるような調べをつくり、暮れゆく秋へと誘う。先月、この歌の碑と墓碑がある東京練馬の法融寺を訪れた。
歌碑は珍しい絵入りである。
生前、自ら揮毫して全ての歌碑を彫らせた八一だが、この碑は幾分見難くなっている。
東京近郊の住宅街と化したこのあたりに、もう武蔵野の風景はなさそうだが、静かな寺内には八一ゆかりの人たちの墓碑もあり、今では本でしか触れることのできない一時代前を偲んできた。
注 落合秋艸堂
大正一三年から一四年間住んだ市島春城別邸(八一の遠縁)を八一は落合秋艸堂と名づけ、ここを拠点にいろいろの学術活動を展開する。
友人、学生等が出入りし、ここで薫陶を受けた門下生から傑出した人物が出る。
学者、歌人、画家、映画監督と多岐にわたる。
春日野にてもりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の
(森かげの藤の古根による鹿のねむり静けき春の雪かな)
もりかげ「森蔭」 よる「寄り掛かる」
歌意
春日野の森蔭の古木の藤のむき出た根の上に身を寄せるようにして、静かに眼を閉じている鹿。
その静かな眠りを妨げないように音もなく春の雪が降りそそいでいる。