さいちょう の たちたる そま よ まさかど の
(最澄の立ちたる杣よ将門の踏みたる岩よ心どよめく)
さいちょう「天台宗の祖師、最澄。“
そま
「杣は一般に木材を切り出す山のこと。最澄の歌“わが立つ杣”が有名で、杣そのものが比叡山を指す。」
まさかど「平安時代の武将・平将門、比叡山での伝説がある。注参照」
ふみたるいは「比叡山・四明獄頂上にある将門が踏んだと言われる将門岩」
どよめく「鳴り響く、さわぐ」
歌意
最澄が立った杣よ、平将門の踏んだ岩よ、それらを思うととても心がさわぐことだ。
注 将門の伝説
将門、藤原純友と相携えて比叡山に登り、王城を俯瞰して、壮んなるかな、大丈夫此に
(吉野秀雄・鹿鳴集歌解より)
また、八一も自注で同様のことを「頼山陽・日本外史(一八二九)」によると述べている。
観心寺の本尊如意輪観音を拝して一さきだちて そう が ささぐる ともしび に
(さきだちて僧が捧ぐる灯火に奇しき仏の眉あらはなり)
観心寺
「大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院である。西暦七〇一年に役行者の創建と伝えられるが、空海の弟子・
本尊は如意輪観音(国宝)」
如意輪観音
「平安初期に作られた像高三尺六寸(一〇八糎)、六
さきだちて
「先導して “住職は
くしき「神秘的な “
まゆあらはなり「眉がはっきり見える」
歌意
先に立った僧が捧げ持つ灯りに、この妖しいまでの秘仏の太い眉がはっきりと眼前に迫ってくる。
注 観心寺如意輪観音(鹿鳴集歌解より 吉野秀雄著)
弘仁期密教美術の特色とする雄勁な手法と豊麗な様式を遺憾なく発揮したもの。
奈良時代のからッとした理想美の世界を出でてここに至ると、何よりも森厳・霊活な、妖しき生きものといふ感に打たれる。
十九日室生にいたらむとて先づ桜井の聖林寺に十一面観音の端厳を拝す旧知の老僧老いてなほ在りさく はな の とわ に にほへる みほとけ を
(咲く花の永遠ににほへるみ仏を守りて人の老いにけらしも)
の「・・の如く」
にほへる
「いい匂いという意味ではなく、美しくつややかなという意」
ひと「住職、三好
歌意
咲く花のように美しく艶やかさを永遠にお持ちになっているみ仏をお守りになって、人であるこの寺のご住職もお年をめされたものだ。
年齢からか穏やかな静かな歌である。
室生寺にて(第一首)ささやかに にぬり の たふ の たち すます
(ささやかに丹塗りの塔の立ちすます木の間に遊ぶ山里の子ら)
室生寺
「室生寺は、奈良県宇陀市にある真言宗寺院。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。山深くにある堂と優れた仏像は有名で、シャクナゲの名所でもある。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから“女人高野”の別名がある」
ささやかに「小ぢんまりと」 にぬり「丹塗り、朱色に塗った」
たふ
「平安初期の作といわれる小ぢんまりした朱色の美しい五重の塔。一九九八年の台風で大被害を受けが、二〇〇〇年には復旧した」
たちすます「立ち澄ます。清らかに澄んで立っている」
歌意
小ぢんまりと清らかに赤く塗られた塔がすっきりと立っている。
そのあたりの木の間に遊ぶ山里の子供達よ。
一六㍍余の塔が巨木に囲まれている様はいかにも小ぢんまりしていて、静かで可愛らしいとも言える。 新緑の中にある朱塗りの塔はいつ見ても素晴らしい。木々の間で無心に遊ぶ子供たちの姿が、静寂の中に大きく包まれていくようである。
鹿の鳴くをききて(第一首)しか なきて かかる さびしき ゆふべ とも
(鹿鳴きてかかる寂しき夕べとも知らで灯ともす奈良の街角)
かかる
「このような。八一にとっての“かかる さびしき”は余人には計り知れないほどの奈良への思いからくる哀傷、寂しさである」
しらで「知らないで」 ひともす「灯点す」
鹿が鳴いてこんなに寂しい夕方なのに、そのことを感じないで奈良の人達は街角に灯をともすことよ。
八一の古都奈良への情熱、とりわけ古代への憧憬は誰にも負けないほど強い。
明治以降の古寺、仏像の荒廃は激しい。
そうしたことへの寂寥感を、市井の日常に生きる奈良の町の人達を「知らで」と詠むことによって浮き上がらせている。
第二首
“しか なきて なら は さびし と しる ひと も
と併せ読むと八一の哀傷、寂寥感が良くわかる。
万葉集以来、鹿の鳴き声はもの悲しいとして歌われている。しかも和歌での鹿の扱いは全て鳴き声であって、鹿そのものを詠んだ名歌(南京新唱冒頭の“春日野にて”参照)は八一が初めてであり、鹿への思い入れも大きい。
鹿の鳴くをききて(第二首)しか なきて なら は さびし と しる ひと も
(鹿鳴きて奈良は寂しと知る人も我が思ふごとく知ると言はめやも)
わがもふ「私が思う。鹿の鳴くをききて(第一首)参照」
いはめやも「言うだろうか、いや言えないだろう。“も”は感嘆」
歌意
晩秋に鹿の鳴き声が聞こえる奈良は寂しいと知っている人でも、私が思っているほどに寂しさを感じていると言うことができるだろうか。
それほど私の思いは深い。
鹿の鳴く奈良の寂しさを反語を使ってまで強く表現した八一の心情に打たれる。
抒情豊かな第一首と合わせて読む時に、初めて深く八一の心情が理解できる。
海竜王寺にてしぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の
(時雨の雨いたくな降りそ金堂の柱のま赭壁に流れむ)
海竜王寺
「光明皇后の立願により奈良市法華寺町に建立、明治の頃は無住寺で荒廃はなはだしかった」
しぐれのあめ「晩秋初冬の降ったり止んだりする雨」
いたく「はなはだしく、たいそう」
まそほ「真赭。ま、は接頭語。赤色の土、またその色」
歌意
時雨の雨よそんなに激しく降ってくれるな。
この古寺の柱に塗ってある赤の顔料が壁に流れて染みてしまうでしょうから。
大安寺をいでて薬師寺をのぞむしぐれ ふる のずゑ の むら の このま より
(時雨降る野末の村の木の間より見出でてうれし薬師寺の塔)
大安寺
「東大寺、興福寺などがある南都七大寺の一つ。創立者は聖徳太子と伝えられる。奈良市大安寺町、近鉄奈良駅から南に位置し、その先に薬師寺を望む。明治の頃は無住寺で荒廃はなはだしかった」
薬師寺
「同じく南都七大寺の一つ。天武天皇の発願を起源にする。天災と戦乱でほとんど消失したが、唯一この有名な東塔が創建当時のもの。近年ほとんど再建された」
しぐれ
「時雨、秋の末から冬の初めにかけて、ぱらぱらと通り雨のように降る雨」
のずゑのむら「野のはての村」
歌意
時雨の降りしきる野のはての村の木立の間から(荒れ果てた原野・平城の都址を隔てて)薬師寺の塔が見えるではないか。心から嬉しさがわいてきた。
八一の作品の中で最も有名でかつ美しいと言われる「すいえん・・」の歌(三首目)への序章ともいえる。
自註で作者はこう書いている。
「今はあさましき原野となりはてたる平城の都址を隔てて、
法華寺温室懐古ししむら は ほね も あらはに とろろぎて
(ししむらは骨もあらはにとろろぎて流るる膿を吸ひにけらしも)
法華寺温室
「
光明皇后伝説
「
ししむら
『肉体。「しし」といへば、本来獣肉の意味なりしを、古き頃より「ししづき」など人体のことにも用ゐらる。・・・自註より』
ほねもあらはに「骨が見えるほどに」 とろろぎて「とろけて」
けらしも
「けらし=確実な根拠に基づいて、過去の動作・状態を推量する意、も=感動・詠嘆のの意。(膿をお吸いに)なられたことよ」
歌意
骨も見えるほどの癩病(ハンセン病)患者のとろけて流れ出る膿をお口でお吸いになられたのだ。
浄瑠璃寺にてじやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる
(浄瑠璃の名を懐かしみみ雪降る春の山辺を一人行くなり)
浄瑠璃寺
「奈良市から柳生への途中の岩船寺から山道を下ると浄瑠璃寺に出る。奈良との県境、京都府木津川市加茂町にある。開基(九八二年)は多田満仲、再興(一〇四七年)は僧義明と伝えられる。浄瑠璃寺の名は、東方浄瑠璃世界の主、薬師(瑠璃光)如来に因んだものだが、本堂は阿弥陀堂(九体寺)なので、浄瑠璃の名と一致しない。八一もその辺りを寺史の変遷を暗示すると言っている」
じやうるり
「浄瑠璃(浄土)。東方薬師(瑠璃光)如来の浄土を言う。これに対し、西方を阿弥陀入来の極楽浄土と言うのは周知のことである」
なをなつかしみ「浄瑠璃と言う名のゆかしさにひかれて」
歌意
浄瑠璃と言う名のゆかしさに心引かれて春の雪が降る奈良からの山辺の道を一人浄瑠璃寺に向かって歩いている。
随分昔に何も知らずにこの寺を訪れた。
再訪したときは九体仏(阿弥陀如来)に圧倒され、美しい吉祥天に見入っていた。
なお、文楽の浄瑠璃の名の由来は御伽草子(室町時代)の一つ「浄瑠璃十二段草子」から。
薬師(瑠璃光)如来を背景にしたこの語り物は浄瑠璃の初めだったと言われている。
薬師寺東塔すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の
(水煙の天つ乙女が衣出のひまにも澄める秋の空かな)
水煙
「五重塔など仏塔の最上部にある相輪と呼ばれるものの一部で、その上部に ある火炎状の銅版。火の字を嫌って水煙とよぶ。東塔の水煙は透かし彫りの火炎の中に飛翔する天女が彫りこまれている。薬師寺には原寸大のレプリカが飾ってある」
あまつをとめ
「楽をかなで、空中を飛行する天女。作者はこう解説している。”飛天”とは飛行する天人といふこと。或は天華、或は天香、或は天楽を以て空中より諸仏を供養す。一般には女性の如く考えらるるも、その中に両性あり。さればこの場合には、作者は特に”をとめ”と呼べるのみ」
ひま「暇。すきま。ここでは天女の衣の袖の間ということ」
東塔の水煙に彫られた天女たち、音楽を奏でて飛翔する彼女たちの衣の袖の間にさえ、美しく澄んだ青い秋の空が見えるではないか。 薬師寺の歌(四首)の第三首。
八一の作品の中で最も有名でかつ美しいと言われるこの歌は、快い調べで水煙のわずかな透かし彫りのすきまに見える秋空を歌い上げる。
美しい水煙の天女と古都奈良の秋空の美を自らの美意識のなかで一体として表現する。調べを大事にしながら、声を出して読み込むといい。
絶妙な美の境地が感じ取れるはずだ。実際は塔は高く水煙の暇などは見えないのだから、これは作者の美的想像力で創り出したものなのだ。佐々木信綱の左記の東塔の歌とは全く趣が違うのである。
行く秋の 大和の国の 薬師寺の
後数月にして熱海の双柿舎を訪はむとするに汽車なほ通ぜず舟中より伊豆山を望みてすべ も なく くえし きりぎし いたづらに
(すべもなく崩えし切り岸いたづらに霞たなびく波の秀のへに)
すべもなく「方法がなく」 くえし「崩れた」
きりぎし「切り立った崖」 いたづらに「無駄に、むなしく」
なみのほ「波の秀、波の穂、
歌意
(震災で)手の施しようもなく崩れている(熱海伊豆山の)断崖にいたずらに春霞がたなびいている。ちょうど打ち寄せる波頭のあたりに!
その時に詠んだ歌。
今では想像できないほど荒れ果てた熱海に、いたずらにたなびく春霞ののどかさを対置した秀歌。
八一は望んで双柿舎の扁額のために書を書いた。
何枚も何枚も書いた中から師に提示したという。
奈良の新薬師寺を思ひいでて (第一首) 「山光集・溷濁」すめろぎ の おほき めやみ を かしこみ と
(すめろぎの大き眼やみをかしこみと遠き后の建てましし寺)
おほき めやみ
「めやみとは目の病気、天皇の眼病なので接頭語の大きをつけた」
かしこみ「恐れ慎み」
とほき きさき「遠い昔の時代の后、ここでは光明皇后」
たてましし「お建てになった」
歌意
聖武天皇の御眼病平癒のために大昔の光明皇后がお建てになった寺なのだ、この新薬師寺は。
昭和一七年、六一歳の八一の眼は濁り(溷濁・混濁)を生じる。その年の三月、溷濁で八首を読む。
この歌はその中の「奈良の新薬師寺を思ひいでて」二首の内の第一首。
眼病治癒目的で新薬師寺は建立されており、また本尊は眼病に良く効くと言われている。寺とみ仏への思いが自らの病気を通して伝わってくる。
ただ、本尊・香薬師は一年後に盗難にあって行方不明になる。
吉野塔尾御陵にてすめろぎ の こころ かなし も ここ にして
(すめろぎの心かなしもここにして見晴るかすべき野辺もあらなくに)
塔尾御陵「吉野にある後醍醐天皇の御陵墓」
すめろぎ「天皇、ここでは吉野で崩御した後醍醐天皇のこと」
こころかなしも
「なんとお心の痛ましいことよ。後醍醐天皇の活躍と悲哀を背景に。注参照」
みはるかす「見晴らす、はるかに見渡す」
あらなくに「ないことよ」
歌意
天皇のみ心はなんと痛ましいことよ。
この吉野の御陵からは、天皇として威厳を持ってはるかに見渡す野辺もないのだ。
戦後生まれの筆者も子供の頃は、南北朝時代の南朝寄りのいろいろの逸話に心をときめかしたものだ。
注 後醍醐天皇
第九六代天皇(一二八八-一三三九)。
後宇多天皇の皇子。天皇親政を企てて正中の変・元弘の変に敗れ、隠岐に流された。
一三三三年脱出し、新田義貞・足利尊氏らの支援で鎌倉幕府を滅ぼして建武新政権を樹立。のち公武の不和から親政は失敗し、尊氏らも離反、三六年吉野に移り南朝を立てたが、ここで崩御する。
太平洋戦争終戦前は、南朝を正当の系譜とする皇国史観により、後醍醐天皇の活躍と悲哀は大きなウエートを占めた。
唐招提寺にてせんだん の ほとけ ほの てる ともしび の
(栴檀の仏ほのてる灯火のゆららゆららに松の風吹く)
せんだんのほとけ
「高価な香木・栴檀で作られた仏像、ここでは清涼寺式の釈迦立像のこと。この仏像は
ほのてる「かすかに照らす」 ゆららゆららに「ゆらゆらと」
歌意
栴檀で作られた仏像をかすかに照らす蝋燭の炎をゆらゆらと動かして、唐招提寺の松に吹きつける風が堂内を通っていく。
風の流れを目と耳で的確に表現する秀歌。
静かな古寺のたたずまいが浮かび上がってくる。
この仏像は嵯峨清涼寺と同式の釈迦立像と八一は書いている。清涼寺式とは、十世紀末、宋から持ち帰った仏像をまねたものと言われており、平安時代末期から鎌倉時代にかけて流行したもので、全国で 百体ぐらいある。また、栴檀には
注
落語「百年目」で旦那が番頭に「旦那」の意味を話して諭す。
昔、天竺に赤栴檀という樹があり、大層立派に茂っており、樹の下に
お互いに助け合って、所謂、施し合って樹と草が永く繁茂しているのだと説明する。
この赤栴檀の檀と難莚草のなんをとり、「檀那」と言ったのだが、後「旦那」の字に改められた。
もちろん、難莚草は番頭を指している。
法隆寺福生院に雨やどりして大川逞一にあふそうばう の くらき に のみ を うちならし
(僧坊の暗きに鑿をうち鳴らし慈恩大師を刻む人かな)
福生院
「法隆寺東院(夢殿等)の四脚門近くにある一院、“その頃は無住の如くに見えたり”と八一は鹿鳴集自註で書いている」
大川逞一
「仏像彫刻家、昭和九年、母校東京美術学校(現東京芸大)の嘱託として法隆寺に住み込み、国宝仏像を模刻、復元に取り組む」
そうばう「僧坊、福生院のこと」
じおんだいし
「中国、唐代の僧・
歌意
僧坊の暗い所で鑿を打ち鳴らして慈恩大師の像を彫る人よ。
無住の法隆寺・福生院で黙々と彫刻に励む彫刻家・大川逞一の姿に感じて詠んだ。
一心に仕事に打ち込む芸術家達の姿に誰もが素晴らしさを感じる。