会津八一 は行の歌
    平城京址の大極芝にて
 はたなか の かれたる しば に たつ ひと の
うごく とも なし もの もふ らし も

(畑中の枯れたる芝に立つ人の動くともなしもの思ふらしも)

平城京址
「藤原京から遷都した都(七一〇年~七八七年)その跡をいう。
 昭和三四年以降発掘、再建が進められている」
大極芝
大黒芝(だいこくのしば)。もとの大極殿の址。
 『大極』といふことばは里人に耳遠くなりて、いつしか『大黒』となれるなり。
 一面に芝草を植ゑたり。(自註より)」 かれたるしば「冬枯れの芝」
ものもふ「物思ふの略。(自註より)」 らし「推量」


歌意
 畑の中の枯れた大黒芝に立っている人は動こうともしない。
 古を思いながら深く物思いに耽っているのだろう。

 荒れ果てた平城京址、当時はわずかに芝が残っているだけだった。八一は何度も訪れて、古い都への強い思いを持って、時の流れを感じながら立ち尽くしたであろう。
 平城京址を南京新唱で二首、山光集で一三首詠んでいる。
 立ち尽くす人は他者ではあるが、とりもなおさず八一そのものの姿なのだ。

平城京址の大極芝にて
 はたなか に まひ てり たらす ひとむら の
かれたる くさ に たち なげく かな

(畑中にま日照り足らす一群の枯れたる草に立ちなげくかな)

まひてりたらす
『「ま」は接頭語。「たらす」とは「充足」「充実」の意。
 充分に日光が照り渡っていること』
くさ「大極殿址に植えられた芝」


歌意
 畑の中の大極殿址に日の光があまねく照り渡っている。その枯れた芝に立って、深い物思いに沈み、嘆いていることよ。

 平城京址に立ち、古を思う作者の歌を斉藤茂吉はこう評する。原田清著「會津八一 鹿鳴集評釈」から転載する。
「これは『大極芝』を詠じたものであるが、極めて自然に流露してゐて、しかも無量の哀韻をこもらせてゐるあたりは、詞をやるに達者でなければ(あた)わぬわざである。ことばが順直に行ってゐるから、一見無造作のやうにおもふが、これまでに達するには、並大抵の修練では出来まい」(痴人の痴話)

奈良博物館にて
 はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
をゆび の うれ に ほの しらす らし

(初夏の風となりぬとみ仏はを指のうれにほの知らすらし)

をゆび「をは接頭語、小指」
うれ
「末、指先の意」(小指の先端は全く敏感なるものなれば、かく詠めるなり 八一)
ほの「ほのかに」 しらす「知るに尊敬の助動詞すを付加」


歌意
 天も地もすべて初夏の季節の風になったのだなあと、み仏は指先でほのかにお感じになっておられるようだ。

 移りゆく季節をみ仏の繊細で美しい小指の先に凝縮し、新緑の天地と流れる大気を捉え、仏像のイメージと融合し、限りなく微妙な季節感あふれる世界詠った。こころと言葉と対象を見事なまでに一体化したと言える。

香具山にのぼりて(第一首)
 はにやま と ひと は なげく を ふみ さくむ
わが うげぐつ に かみ は さやらず

(はにやまと人は嘆くを踏みさくむ我がうげぐつに神はさやらず)

香具山
天香久山(あめのかぐやま)、畝傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる奈良県橿原市にある山。“天”という尊称が付くほど、最も神聖視された。三山の恋を扱った“香具山は畝傍ををしと耳成と争ひき”は有名。」
はにやま「埴山、粘土質の山」
ふみ さくむ「岩や木の間を押し分け、踏み分けて行く」
うげぐつ
穿靴(うげぐつ)穿(うが)ちたる靴。“穿つ”は穴をあけるだから、穴をあけた靴と言うことのようだ。八一の自註では、万葉集の山上憶良が使った“うげぐつ=破れたる靴”ではないと書いている」
さやらず
「障らず、妨げが無い。(神のさわりもなく)無事に登った」


歌意
 粘土質の登りにくい香具山と人々は嘆くけれど、強く踏みつけ登る私の靴には神の障りも無く無事に登頂できた。

 わずか一五二.四㍍の山だが、神話で扱われたり、万葉集で詠まれたりして神格化されている。
 大正一四年、八一は登る人もほとんどいない香具山に登って五首詠んだ。古代への憧憬と研究に突き動かされる彼の心情が五首を通じて表されている。

興福寺をおもふ
 はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり
ほとけ の には に はな さく らし も

(春来ぬと今かもろ人行き帰り仏の庭に花咲くらしも)

興福寺
「藤原不比等が建立した奈良時代初期の寺で南都七大寺の一つ。抗争その他でたびたび火災にあう。宝物殿は阿修羅像に代表される仏像、その他の美術品の宝庫」
もろびと「多くの人々」 ゆきかへり「行ってはまた引き返す」
ほとけのには「ここでは興福寺の庭をさす」 はな「さくらの花」
らし「きっと・・・だろう。推量の助動詞」

歌意
 春がやって来たと今や多くの人が興福寺の庭を行き来して、そこには桜の花が咲き乱れているだろう。

 遠く古都を想いながら、桜の花が咲き乱れ、多くの人が行きかう大寺の春をおおらかにゆったりと歌い上げている。豊かな調べの向こうに絵画的な情景を浮かび上がらせている。

吉野の山中にやどる(第一首)
 はる さむき やま の はしゐ の さむしろ に
むかひ の みね の かげ のより くる

(春寒き山の端居のさ莚に向かひの峰の影のよりくる)

はしゐ「端居、家の端近くに居る。ここでは宿の縁側である」
さむしろ
「“さ”は狭をあてる接頭語だがほとんど意味なし。大小を表す接頭語と言っても良い。むしろは莚、縁側などに敷いた薄べり」
むかひのみね「谷の向こうの山の峰」
かげのよりくる
「八一自註より“夕陽の傾くにつれて、彼方の山の影が、谷を隔てたるこなたに迫り来るなり”」


歌意
 春寒い吉野の山中の宿の縁側の莚に、陽が傾くにつれて向かいの山の影が寄ってくる。

 春まだ浅い吉野山中で夕陽と共に動く山影が粗末な敷物に寄ってくる光景は侘びしく寂しいものである。吉野を象徴する南朝・後醍醐天皇の悲史を詠った前作を踏まえるとその思いが強くなる。

香具山にのぼりて(第四首)
 はる の の の こと しげみ か も やまかげ の
くは の もとどり とかず へ に つつ

(春の野のこと繁みかも山影の桑のもとどり解かず経につつ)

香具山
天香久山(あめのかぐやま)、畝傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる奈良県橿原市にある山。“天”という尊称が付くほど、最も神聖視された。三山の恋を扱った“香具山は畝傍ををしと耳成と争ひき”は有名」
こと しげみ
「仕事が繁きため。農事が多くて(忙しいためだろうか?)
くは の もとどり
「桑の髻。髻は髪を頭の上に集めて束ねた所のことだが、冬に縄でくくった桑の枝がそのまま置かれている様子を比喩して使った。鹿鳴集自註ではこう書かれている。“桑の枝を束ねたるを、人の頭髪の(もとどり)に比して戯にかく詠みたるなり”」
へにつつ「経につつ。時間が経ってしまっている」


歌意
 春の野良仕事は多くて忙しいのだろうか、冬に縛った桑の束が山影の桑畑に解かずに置かれたままになっている。

 「くは の もとどり とかず へ に つつ」はもとどりが古語に近くなった今では解説なしには理解しがたい。しかし、束ねて置かれたままになっている桑の様子をとらえて巧みな表現で、八一の時代だからこそ出来た表現だろう。第三首に続き、香具山と農事の姿をそのままに詠っている。

浄瑠璃寺にて
びしやもん の ふりし ころも の すその うらに
くれなゐ もゆる はうそうげ かな

(毘沙門の古りし衣の裾の裏に紅燃ゆる宝相華かな)

びしゃもん
「毘沙門天 四天王の一つで別名、多聞天。須弥山の北方を守護し、戦勝の神と言われる。日本の民間信仰においては室町時代後期に出来た七福神の一つに数えられている」
ふりしころも「古くなった衣」
はうそうげ
「宝相華。図案化したる一種の華麗なる植物文様(もんよう) 自註より」

歌意
 毘沙門天の古くなった衣の裾の裏に燃えるような真っ赤な宝相華の模様を未だに見ることが出来るのだな~。

 浄瑠璃寺阿弥陀堂(本堂)の四隅にある四天王、その最も強い毘沙門天の裾の裏に残った赤い模様をとらえて「くれなゐもゆる」と印象的に歌い上げる。
 作者は自註で、後日宝相華を確かめたが歌のような鮮やかな赤い色は無かったと書いている。

観音堂(第九首)
 ひそみ きて た が うつ かね ぞ さよ ふけて
ほとけ も ゆめ に いり たまふ ころ

(ひそみきて誰が打つ鐘ぞさ夜更けて仏も夢に入り給ふころ)

観音堂
「新潟県北蒲原郡中条町西条、素封家・丹後康平邸近く。丹後家の祖先が入道して隠居した」
ひそみきて「ひとにしられないようにひっそりと来て」
さよふけて「“さ”は接頭語、夜が更けて」

歌意
 ひっそりとやって来て、誰が鐘を打っているのだろう。もう仏様も夢にお入りになる夜更けなのに。

 空襲で焼け出され、無一物で東京から疎開した故郷新潟の観音堂で、昭和二〇年八月一〇日、長年ともに暮らした養女(義姪)きい子を結核で亡くす。この時詠んだ挽歌「山鳩」(二一首)は心を打たずに置かないが、その後、一人観音堂で暮らし、詠んだ観音堂一〇首も素晴らしい。

菅原の喜光寺にて
 ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に
きしや の ひびき の ゆき かへり つつ

(一人来て悲しむ寺の白壁に汽車の響きのゆきかへりつつ)

菅原「奈良市菅原町」
喜光寺
「七二一(養老五)年、行基が創建、古くは菅原寺と言った」
かなしむ「悲しいほどに荒れ果てた」
(・・・この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ、柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。八一)


歌意
 一人やってきて、この寺の荒れ果てた様を悲しんでいる私に汽車の響きが、寺の白壁にゆきかえりする。

 八一が訪れた頃は荒廃はなはだしく、海竜王寺にての歌を詠んだ時と同じ心境だったであろう。
 荒れ果てる寺の現状を憂う心を素直に表現し、悲しみを増幅させる汽車の響きを白壁と対置させて読者の感慨をさそう。平易に詠いながら、色彩、音を調和させた調べの良さは八一ならではである。
 訪れた四月二〇日、簡素だが寺内はよく手入れされていた。本堂は消失後室町時代に再建されたもの、近年修復があったらしく、この歌の詠まれた当時の面影は無かった。
 堂内には観音と勢至(せいし)菩薩を両脇侍にした丈六の穏やかな阿弥陀如来座像が安置されていた。

追記 歌碑建立
 喜光寺に、會津八一の奈良一六基目の歌碑が平成二二年一〇月三一日に建立された。
 八一の南京新唱は奈良導きの歌集と言われるが、廃仏毀釈以降の荒廃した奈良に対峙しながら、古代への憧憬を詠ったものが多い。
 さらにその背景には失恋による感傷もある。
 寺が修理され、春に南大門が再建された現在ではとても当時を想像できないが、一二月に友人たちと訪ねる時には大正時代に戻ってみたい。
 八一は自註鹿鳴集でこう言う。
『作者が、この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ、柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。
 住僧はありとも見えず。境内には所狹きまでに刈稻の束を掛け連ねて、その間に、昼も野鼠のすだくを聞けり。すなはち修繕後の現状とは全くその趣を異にしたりき。』
 吉野秀雄は鹿鳴集歌解にこう書いている。
『かすかな「きしやのひびき」にもほろほろと土をこぼしそうな、古びた崩れかけた白壁の白さの哀愁である。汽車を点出して、少しも不調和でなく、よく渾熟した詩美を醸している。』

病中法隆寺をよぎりて(第四首)
 ひとり きて めぐる みだう の かべ の ゑ の
ほとけ の くに も あれ に ける かも

(一人来て巡る御堂の壁の絵の仏の国も荒れにけるかも)

みだう「御堂、法隆寺金堂のこと」
かべのゑ「法隆寺金堂の壁画」
ほとけのくに「金堂の壁画に書かれた仏の国 注参照」


歌意
 ひとり法隆寺にきて、巡り見る金堂の壁画の、その仏の国も荒れてしまったことだなあ。

 金堂の壁画の荒廃は激しく、八一は耐え難い気持ちを深い悲しみを持って一気に詠った。
 「全滅とも云うべき」壁画はもう見ることができないが、のちに現代の画家たちによって綿密に再現され、金堂の「ほとけのくに」を作っている。現在、奈良博物館で展示され、適切な照明のもとで見ることができる。再現壁画はせめてもの幸せである。なお、壁画関連は東京大学総合研究博物館を参照。


 仏土。仏国。壁画は金堂の内壁大小十二面に四方四仏の浄土、ならびに、その脇侍に擬すべき諸菩薩の像を描けり。この歌は壁画の剝落(はくらく)甚しきに、仏国荒廃の意を託して詠めるなり。
 先年さる方面より、これ等の壁画の保存方法につきて意見を求められしに対して、作者は、これら十二枚を、いとも周到なる用意のもとに切り取りて、別の安全な処に保管し、その跡には現代作家をして(あらた)揮毫(きごう)せしむるに()かずとの意見を送りたるに、(たちま)ち法隆寺の内外より猛烈なる反感を招き、不謹慎、不敬虔の(そしり)をさえ受けしが、その後、その寺にて不注意より起こりし火災のために、壁画は殆ど全滅とも云ふべき大破を(きた)したり。当時作者の意見の用ゐられたりしならばと、遺憾(いかん)最も深し。
 (鹿鳴集自註より)

戒壇院をいでて
 びるばくしや まゆね よせたる まなざし を
まなこ に み つつ あき の の を ゆく

(毘楼博叉まゆね寄せたるまなざしを眼に見つつ秋の野を行く)

びるばくしや
「毘楼博叉、広目天=西方世界を守護サンスクリットの漢字音写」
まゆねよせたる
「両の眉を寄せて遥かなる彼方を見入るが如き目つきなり・自註」 まなこにみつつ「目に見るごとく、思い浮かべながら」


歌意
 広目天が両方の眉を寄せてはるか彼方をみている、その目の表情が素晴らしいので眼前に思い浮べながら、私は秋の野を歩いていく。

 「びるばくしや」という語が、短歌と調べという文芸の最大の魅力を引き立たせている。
 この音調ゆえに古今の名作になった。当初、毘楼博叉という語が人々に理解されなかったので、八一は随筆・渾齋隨筆のなかで辞書ぐらい引けばと苦情を言い、毘楼博叉と広目天の音調の違いを力説した。
 マ行の効果的な使い方。
 八一は何度も何度も音読して作っている。その上、八一は広目天に自分に相通ずるものを感じている。
 (広目天は筆と書を持つ)

「この廣目天は、何事か眉をひそめて、細目に見つめた(まな)ざしの深さに、不思議な力があって、私はいつもうす暗いあの戒壇の上に立って、此の目と睨み合ひながら、ひとりつくづくと身に沁み渡るものを覺える。
 まことに忘れられぬ目である。やがて此の堂を出て、春日野の方へ足を向けても、やはり私の目の前には此の目がある。何處までもついて離れぬ目である。
 私はこれを歌にした。」渾齋隨筆 毘楼博叉より

当麻寺にて
 ふたがみ の すそ の たかむら ひるがへし
かぜ ふき いでぬ たふ の ひさし に

(二上の裾の竹群ひるがえし風吹きいでぬ塔の廂に)

ふたがみ
「二上山、大和と河内の間にある山、雄嶽(おだけ)雌嶽(めだけ)からなる」
すそ「二上山の麓」 たかむら「竹群、竹林」


歌意
 二上山の麓の竹林を大きく動かせて吹きだした風が、当麻寺(たいまでら)の三重の塔の廂に吹きつけている。

 八一は自註で言う。
「歌の心は塔の(ひさし)に迫れる叢竹(むらたけ)が、山颪(ヤマオロシ)のために吹き(あお)らるるさまを遠望していへるなり」
 天候が変わりやすい二上山の麓の当麻寺、寺内を吹き抜ける風を塔の廂と竹の動きの中で捉えながら、風景を平易な表現で見事にとらえる。この歌は秋に作られたが、春の季節でも味わい深い。
 筍が顔を出す春に訪れたが、今は刈り取られて少なくなった竹林からこの歌を追体験してきた。

当麻寺にて
 ふたがみ の てら の きざはし あき たけて
やま の しづく に ぬれぬ ひ ぞ なき

(二上の寺のきざはし秋たけて山のしづくに濡れぬ日ぞなき)

当麻寺(たいまでら)
「奈良県葛城市にある奈良時代創建の寺院。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。役の行者の故地であることから、これを開山第一世に擬す。東塔・西塔の三重塔が創建後あまり時を距てない時期のまま残り、他の伽藍は後世に再建あるいは建立されたもの。西方極楽浄土の様子を表わした当麻曼荼羅の信仰と、蓮糸を使って一晩で織ったと言われる曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。ここでの“ふたがみのてら”は当麻寺をさす」
ふたがみ
「二上山、大和と河内の間にある山、雄嶽(おだけ)雌嶽(めだけ)からなる」
あきたけて「秋が深まって」 きざはし「階段」
やまのしづく
「山気の(こご)りて成りたる露滴をいふ。この語、現代人に(やや)耳遠きが如くなれども、『万葉集』巻二なる大津皇子(おおつのみこ)石川郎女(いしかわのいらつめ)との唱和に見えたる後、歴代の歌集にしばしば用例あり 八一自註より」


歌意
 秋が深まって当麻寺の石段は、山のしづくに濡れない日などない。

 季節の変化が激しい二上山の山腹に立てられた当麻寺の深まる秋、寺の石段には「山気の凝りて成りたる露滴」が木々の梢から落ちる。
 「やまのしづく」と言う言葉を使って山寺の秋の風情を見事に表している。「きざはし」について八一は自註で「本来の正門の石段」とわざわざ書いている。
 時代とともに伽藍の配置が変わったので、現在では「本来の正門の石段」は無くなっている。
 美しい東塔・西塔の三重塔を正面に見るところが正門(南)のはずだが、現在は東になっている。
根本中堂の前に二株の叢竹あり
開山大師が唐の台岳より移し植うるところといふ(第二首)
 ふたむら の この たかむら を みる なべに
たう の みてら を おぼし いで けむ

(二むらのこの竹群を見るなべに唐の御寺をおぼしいでけむ)

ふたむら「二(むら)、二つの群れ」
たかむら「竹群、群がって生えている竹」
なべに「それと共に。それにつれて」
たうのみてら「最澄が学んだ唐の天台山にある国清寺」
おぼしいでけむ「おぼすは思う。思い出しになったであろう」

歌意
 この二つの竹群を見るにつけて、留学した唐の天台山国清寺を思い出しになったことであろう。

 早稲田の学生達を連れて度々美術研修旅行を行った学究一筋の八一にとって、唐に留学して勉学した最澄の心境に共鳴すること多大であっただろう。

法華寺本尊十一面観音
 ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に
あひ みる ごとく あかき くちびる

(藤原の大き后をうつしみに相見るごとく赤き唇)

法華寺
「藤原不比等の娘・光明皇后(聖武天皇皇后)が父の没後旧宅を喜捨して奈良に建立した総国分尼寺」
十一面観音
「皇后を象って作ったと言い伝えられる。豊麗な女性を思わせる榧の木の一本彫刻。平安時代作の国宝。通常は本物と違わぬ模造仏が公開されている」
おほき きさき
「光明皇后、この寺の温室(蒸し風呂)で千人の人に施した伝説がある」
うつしみ「現実に。皇后を目のあたりに見る思いで」

歌意
 藤原時代のあの立派な皇后を実際に目のあたりに相見ますような生き生きとした美しい赤い唇の色であることよ。

 美しい観音に惹かれて友人を誘い再訪した。
 観音像は人間の姿を模しながら、その豊麗・豊満な姿の中に微妙なバランスで仏を具象している。
 エロチシズム的表現とも取られるような言葉
 「赤き唇」で八一は仏の美しさを余すところなく歌い上げた。おおらかでリズミカルな調べのこの歌を作者も愛誦した。
海龍王寺にて
 ふるてら の はしら に のこる たびびと の
な を よみ ゆけど しる ひと も なし

(古寺の柱に残る旅人の名を読み行けど知る人もなし)

ふるてらのはしら
「もちろん海龍王寺のことだが、当時は荒れ果てた無住寺だった。その寺の創建当時(奈良時代)の建物である西金堂の柱をさす」
はしらにのこる「柱に残された落書きされた人の名前」


歌意
 古寺の柱に残る人の名前を読んでいくが、知っている人の名前は一人も無い。

 旅の途中での落書き、それは訪れの記念としてかかれたものだろうが、とりわけ明治の荒廃した寺々では多かったのではなかろうか?
 海龍王寺にて第一首とあわせ読む時、時の流れと寂寥感が迫ってくる。

 八一は「はしらにのこる」を自註で以下のように解説している。
『作者往年微酔を帯びて東大寺の(かたわら)を過ぎ、その廻廊の白壁に鉛筆を持って文字一行を題して去りしが如し。(かえ)って自ら之を記憶せざりしに、数十年して人ありて之を見たりと称す。信ぜずしてその文を(ただ)せば、(すなわ)ち曰く、「秋艸道人(しゅうそうどうじん)酔ひてこの下を過ぐ」と。これを聞きて苦笑これを久しくしたるも、今は洗ひ去られてまたその痕跡なし』

吉野の山中にやどる(第四首)
 ふるみや の まだしき はな の したくさ の
をばな が うれ に あめ ふり やまず

(古宮のまだしき花の下草の尾花がうれに雨降りやまず)

ふるみや
「後醍醐天皇が吉野に置いた南朝の行宮(あんぐう)、北朝の来襲で焼かれた。ここではその址」
まだしきはな「まだ咲くには遠い桜の木」
をばな「尾花、すすき」 うれ「末端、先端」


歌意
 吉野のかっての宮跡のまだ咲くまでには早い桜の木の下のすすきの穂先に止む間もなく冷たい雨が降り注いでいる。

 南朝の悲哀を象徴する今は無き宮殿の跡地の桜はまだ咲かず、頭を垂れるすすきの上に早春の冷たい雨が降り続く。南朝を正史とする当時の考えでは、だれもが心うたれる作品である。「まだしきはな」「あめふりやまず」が言外にそれを語っている。
 建武の新政が失敗し、一三三六年後醍醐天皇は幽閉から脱出し吉野に逃れる。まず吉水院に滞在し行在所としたが、後に金峯山寺蔵王堂の西にあった実城寺を改造して行宮とした。
 (吉野行宮、現在の吉野朝宮址)
 一三三九年後醍醐天皇崩御の後、後村上天皇の南朝・吉野行宮は一三四八年に北朝・足利方の高師直に焼き払われる。

奈良博物館にて
 ほほゑみて うつつごころ に あり たたす
くだらぼとけ に しく ものぞ なき

(ほほゑみてうつつ心にあり立たす百済仏にしくものぞなき)

ほほゑみて「微笑んで」
うつつごころ
「うつつとも夢ともなき心地、有無の間に縹渺(ひょうびょう)(広々として果てしないさま)たる心地と作者は自註で書く。うつつごころ=現実の心だが夢見心に近い」
ありたたす「お立ちになっている」
しく「(如く、若く、及く)肩を並べる、匹敵する」

歌意
 かすかなほほ笑みを浮かべ、うつつとも夢ともいえない、かすかで、はるかな心でお立ちになっておられる百済観音の美しさに匹敵するものは無い。

「縹渺たる雰囲気を漂わしてたたずむ。・・あの・・深淵のように凝止している生の美しさ・・」と和辻哲郎が書いた「古寺巡礼」を八一は熱心に読み込んでいる。また堀辰雄は「鹿鳴集」をたずさえて奈良を巡り、この歌に触発されて「大和路・信濃路」の次の一文を書いている。
「そのうっとりと下脹(しもぶく)れした頬のあたりや、胸のまへで何をそうして持ってゐたのだかも忘れてしまってゐるような手つきの神々しいほどのうつつなさ。
 もう一方の手の先きで、ちょいと軽くつまんでゐるきりの水瓶(みずがめ)などはいまにも取り落としはすまいかとおもはれる」

病中法隆寺をよぎりて(第七首)
 ほろび ゆく ちとせ の のち の この てら に
いづれ の ほとけ あり たたす らむ

(滅びゆく千年の後のこの寺にいづれの仏ありたたすらむ)

ほろびゆく「なくなってゆく 注参照(鹿鳴集自註)
ちとせ「千年」 いづれのほとけ「どの仏」
ありたたす「ありは接頭語、お立ちになる」
らむ「推量(助動詞)


歌意
 滅びゆく先年の後のこの法隆寺で、どの御仏がお残りになっておられるのだろう。

 かってはとても美しかったであろう壁画の落剝・衰退ぶりを目の当たりにして、千年後の法隆寺の全ての仏たちに思いをはせる。
 壁画への憂いから、仏たちの未来を悲しむが、そこには強い存続への願いが込められている。
 「病中法隆寺をよぎりて」七首をなかなか読み込むことができなかったが、八一の壁画(価値ある美術品)に対する真摯な態度と復元壁画を鑑賞することによって、今いくばくかの理解ができたと思う。
 壁画炎上後、八一は言う
「あれほど好きで好きでたまらなかったものが急になくなって、ほんとに泣くに泣かれないほどにくやしい」
 (随筆・渾齋隨筆以降 壁畫問題の責任)


注 ほろびゆく
 万物は推移し、何事も遂には滅亡を免かれず。
 法隆寺はすでに千余年を経たるも、さらに千年を経なば果たして如何。(鹿鳴集自註)

 あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 わ行 南京新唱 同抄 南京余唱 比叡山 短歌案内から 2 書架