なまめきて ひざ に たてたる しろたへ の
(なまめきて膝に立てたる白妙の仏の肘はうつつともなし)
観心寺
「大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院、本尊は如意輪観音(国宝)」
なまめきて「新鮮でみずみずしく艶っぽい。」
ひざにたてたる
「六臂の如意輪観音の右の第一手は、膝の上に肘を置き、その手は頬を支えている。下記注参照」
しろたへ「白妙=白い布だが、ここでは白い色」
ほとけのひじ
「右の第一手=肘だが、肘に象徴される第一手そのものと考えて良い」
うつつともなし「
歌意
なまめかしく膝の上に立てられている白い肘はとても美しく、まるで現実を越えた夢のようである。
開かれた厨子の中の仏は、ほどよい灯りの中に座している。
豊満で官能的な顔と調和するように右肘は白く浮かび上がり、頬を受けているその手の小指は微妙な曲線を描いている。
八一は「白い肘」と表現したが、思惟するこの右手全体を詠っているようだ。開帳に参集していた人々の中に出現した仏は、まさしく夢のような姿であった。
注 観心寺如意輪観音(鹿鳴集歌解より 吉野秀雄著)
像高三尺六寸、木造五彩の設色、思惟の相を呈す。
広額豊頬、眼に叡智を秘め、唇辺に慈悲を宿し、右膝を立てて半跏を組み、左右に三臂づつを生じ、右の第一手は屈して頬を受け、第二手は宝珠を持ち、第三手は垂れて数珠を下ぐ。
左の第一手は地に安んじ、第二手は蓮華を捧げ、第三手は指頭に金輪を支ふ。
宝髻の外に宝珠と霊形の透彫金箔置の宝冠を、臂と腕には金属製の
奈良坂にてならざか の いし の ほとけ の おとがひ に
(奈良坂の石の仏の頤に小雨流るる春は来にけり)
ならざか
「奈良市の北から京都府木津川市に出る坂道を言う。古くは、平城京大内裏の北の歌姫から山城へ越える歌姫越えをならざかと称したが、今では、東大寺の北、般若寺を経て木津へ出る般若寺坂をならざかと言う」
いしのほとけ
『奈良坂の上り口の右側の路傍に俗に「夕日地蔵」と名づけて七八尺の石像あり。永正六年(一五〇九)四月の銘あり。その表情笑うが如く、また泣くが如し。また、この像を「夕日地蔵」といふは、東南に当れる滝坂に「朝日観音」といふものあるに遥かに相対するが如し(自註鹿鳴集)』
おとがひ「
歌意
奈良坂の道のほとりにある石の仏さんのあごから、小雨が流れている。ああ、春になったのだな〜。
読むと同時に素直に心の中に入り込んでくる歌である。
平易な言葉で簡潔に歌い上げているからだろう。
八一が春に奈良を訪れたという記録は無い。
奈良坂、石の仏、春を並べるだけで、遠くより奈良の風情を見事に表出したと想像したい。
奈良坂の奈良の言葉を配しながら、一首で奈良への憧憬と小雨降る情景を歌うこの歌は古都奈良を歌う代表作と言っても良い。
滝坂の道を八一の歌を導きに歩いた時、やがてはこの歌の石仏に会いたいと思っていた。その思いが実り、友人達と奈良坂を五月末に訪れた。
ただ、八一の時代や会津八一の名歌(和光慧著)に書かれた古き良き奈良坂と石仏の情景は今では失われているようだ。
和光慧が言うように「豊かな美的想像力が加わって、見たままの事実を超えた高次の美的形象をとって生まれた」歌であるなら、夕日地蔵の前で目を閉じて、奈良の小雨降る春を想うといいだろう。
奈良を去る時大泉生へ二ならさか を じやうるりでら に こえむ ひ は
(奈良坂を浄瑠璃寺に越えむ日は道のまはにに足あやまちそ)
ならさか
「奈良市の北から京都府木津川市に出る坂道を言う。古くは、平城京大内裏の北の歌姫から山城へ越える歌姫越えをならざかと称したが、今では、東大寺の北、般若寺を経て木津へ出る般若寺坂をならざかと言う」
じやうるりでら
「奈良との県境、京都府木津川市加茂町にある。浄瑠璃寺の名は、東方浄瑠璃世界の主、薬師(瑠璃光)如来に因んだものだが、本堂は阿弥陀堂(九体寺)なので、浄瑠璃の名と一致しない。八一もその辺りを寺史の変遷を暗示すると言っている」
まはに
「[ま]は接頭語。「はに」は粘土。この辺は粘土がちにて山路の滑り易きを警めたるなり。『万葉集』には「やまとの宇陀のまはにのさにつかば」などあり。(自註より)」
あしあやまちそ「足を滑らせて転ばないように」
歌意
奈良坂を越えて浄瑠璃寺に行くときは路の滑りやすい赤土に足を取られて転ばないように気をつけたまえ。
第一首に続いて、教え子に赤土の粘土質の道に足を取られないようにとやさしい心を詠う。
先年、浄瑠璃寺から奈良坂の般若寺と夕日地蔵へと移動したが、今は車を使うので「まはに」の中を歩くことは少なくなった。
奈良の宿にてならやま の したは の くぬぎ いろ に いでて
(奈良山の下端の櫟いろに出でてふるへの里を思ひぞ我する)
奈良の宿「
ならやま
「奈良山・平城山は奈良盆地の北の丘陵だが、ここでは宿に近い奈良の山(若草山周辺)と解した方が歌になる」
したは「下端、(山の)下の方」
くぬぎ
「ブナ科の落葉高木。樹皮は暗灰色で裂け目が多い。葉は長楕円形で縁にぎざぎざがある。どんぐりがなる」
いろにいでて「色づいて」
ふるへ「古家(ふるいへの略)、故郷の昔住んでいた家」
歌意
奈良の山のふもとの
それを見ていると古家のある故郷が思われる。
第一首「をじか なく ふるき みやこ の さむき よ を いへ は おもはず いにしへ おもふ に(牡鹿鳴く古き都の寒き夜を家は思わず古思ふに)」に続く歌であることから「ならやま の したは」は日吉館の近くの奈良公園あたりと解した方がわかりやすい。
「したは」は下葉とも解釈できるが、「ならやまの下端=麓」とした方が情景が広がり、浮かんでくる故郷新潟への思いが深い。
八一の言葉は難しいものが沢山ある。
言葉(大和言葉)を吟味し、そのためには一首に何年もの歳月をかけている。それゆえ、古希を超えた最晩年、難解な自らの歌の解説を「自註鹿鳴集」として著し、その三年後に七六歳で世を去った。
しかし「註をつけると歌が面白くなくなる」とか「解説は簡潔をよしとする」などと言うようなことを書いているように、自註はそれほど詳しくはない。
解説は難しい。
東京にかへりて後にならやま を さかりし ひ より あさ に け に
(平城山を離りし日より朝に日にみ寺み仏面影に立つ)
ならやま
「(平城山)平城京の北側に連なる佐紀・佐保一帯のなだらかな山並みの総称で、東は奈良坂から、西は秋篠川のあたりまで続く低い丘陵である。歌枕」
さかりし「(離りし)離れた」
あさにけに「(朝に日に)朝に昼に。いつも」
おもかげにたつ「ありありと目の前に浮かんでくる」
歌意
平城山を越えて奈良を離れた日から、東京にいても、朝に昼に寺々や仏たちの姿が、ありありと目の前に浮かんでくる。
第一首「春日野にて」に始まる南京新唱はこの歌で完結する。全九九首、奈良を寺や仏を中心にして詠った八一の処女歌集であり、また代表作である南京新唱の最後を飾るにふさわしい歌である。
奈良を去る時大泉生へのこり なく てら ゆき めぐれ かぜ ふきて
(残りなく寺ゆき巡れ風吹きて古き都は寒くありとも)
大泉生「八一の教え子。舞台美術家」
のこりなく「数多き奈良の寺々をことごとく。(自註より)」
ゆきめぐれ「めぐり行きなさい」
歌意
私が奈良を去った後も全ての寺々をめぐり訪ねなさい。
たとえ古都に木枯らしが吹いて寒くなろうとも。
八一は早大文学部の学生のみならず、多くの学生や教え子を連れて学習、研究のため何度も古都奈良を訪ねた。その教え子の一人に残した歌である。
第二首とともに八一の奈良に対する思い入れが強く詠われる。私の思いとともに寺々を廻りなさいと言う中に、学問への真摯な姿勢と教え子たちへの深い愛情を感じることができる。
奈良博物館即興(第四首)のち の よ の ひと の そへたる ころもで を
(後の世の人の添へたる衣手をかかげて立たす持国天王)
奈良博物館
「“この地方に旅行する人々は、たとへ美術の専攻者にあらずとも、毎日必ずこの博物館にて、少なくとも一時間を送らるることを望む。上代に於ける祖国美術の理想を、かばかり鮮明に、また豊富に、我らのために提示する所は、再び他に見出しがたかるべければなり”鹿鳴集自註 南京新唱“くわんおん”の歌、解説より」
のちのよのひと
「後世の修理した仏師、八一は“工人の技術精妙ならざりしために”と解説する」
ころもで「衣手、袖のこと」 かかげて「身にまとい」
ぢこくてんわう
「仏教の守護神・四天王の一つ、東方世界を守り、特に仏法を守る。西大寺出陳」
歌意
後の世の人の補修で添えられた袖を身にまとって立っておられる持国大王であることよ。
作者は後世の拙い修理のため「
現代のような科学技術が発達していない時代では、修理・補修に不備が多い。
学者(東洋美術史)としての観点がうかがえる。
笠置山にのぼりてのびやかに みち に より ふす この いは の
(のびやかに道に寄り伏すこの岩の人ならましを我をろがまむ)
笠置山
「京都府相楽郡笠置町にある標高二八八mの山。笠置山は後醍醐天皇が討幕のため挙兵したことでよく知られる」
ひとならまし
「“まし”は事実に反する状態を仮定し、それに基づく想像を表すがその仮定を願望する意味もある。(この岩が)人であったならば」
をろがまん「
歌意
のびのびと道に横たわっているこの岩が、もし人であったなら私は拝もうと思う。
八一が一人で笠置山に登った時に、道にのんびりと横たわっている岩を見て詠んだ歌である。
笠置山は、古くからの修験道場、信仰の山とされており、花崗岩から成る山中には奇岩や怪石が数多く神秘的なムードが漂う。そんな雰囲気が「をろがまん」を呼びだしたのであろう。
十八日延暦寺の大講堂にてのぼり きて しづかに むかふ たびびと に
(登り来て静かに向かふ旅人に眼開かぬ天台の祖師)
延暦寺
「比叡山にある天台宗総本山、延暦四年(七八五)に最澄“
大講堂
「根本中堂を中心にした延暦寺の東塔にある。本尊は大日如来、その左右に比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祭られている」
たびびと「ここでは作者八一のこと」
まなこひらかぬ「瞑目している姿をこう表現した」
てんだいのそし「天台宗の祖師、伝教大師・最澄の像」
歌意
比叡山に登ってきて、静かに御像に対面する旅人の私に、瞑目された御眼をお開きにならない天台宗の祖師、伝教大師・最澄さまであることよ。
この歌から伝教大師の穏やかで奥深い姿が伝わってくる。縁あって、関東を行脚する伝教大師の若い頃の像を彫った。布教の意思の強さがにじみ出るものだが、創作することにより伝教大師への思い、そしてこの八一の歌への理解が深くなる。