会津八一 わ行の歌

    猿沢池にて

 わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり
いけ を めぐり ぬ かさ さし ながら

(吾妹子が衣掛け柳みまくほり池をめぐりぬ傘さしながら)

猿沢池「興福寺境内の南にある奈良八景の一つ、池畔に衣掛柳がある」
わぎもこ「吾が(いも)のつまった語で、妻や恋人をさす」
きぬかけやなぎ「天皇の寵を失い池に身を投げた采女が上衣を掛けた柳」


歌意
 采女が愛を失って入水する前に掛けたと伝えられている衣掛柳を見たいと思って猿沢の池をめぐり歩いた。
 折からの雨に傘をさしながら。

歌碑 裏
 二八才の「若き八一の憂い」と古代に対する憧憬が甘味に詠われている。大和物語、枕草子などに記載される采女の悲話伝説から生まれた八一の名歌だ。

汽車中(第二首)
 わさだ かる をとめ が とも の かかふり の
しろき を み つつ みち なら に いる

(早稲田刈る乙女がとものかかふりの白きを見つつ道奈良に入る)

わさだ「早稲田、早稲を作る田」
をとめがとも「乙女たち、ともは複数を表わす接尾語」
かかふり「冠、手拭いなどで頬かぶりする」


歌意
 早稲を刈る乙女たちのかぶる手ぬぐいの白い色を見ながら、道は奈良に入った。

 白い手ぬぐいをかぶった乙女たちの刈り入れの姿は、昔はどこででも見ることができた風景だが、汽車に乗って大和路に入る秋の光景は、何度も訪れた八一にとっては特別のものだったろう。
 奈良の古寺、古仏への思いが平易な表現の裏側に垣間見ることができる。ときめきを秘めて奈良を訪れる。いつもそうありたい。

春日野にて
 をぐさ はむ しか の あぎと の をやみ なく
ながるる つきひ とどめ かねつ も

(を草食む鹿のあぎとのを止みなく流るる月日とどめかねつも)

をぐさ
『「を」は接頭語。ただ「草」といふの同じ。(自註鹿鳴集より)
あぎと「(あご)」 をやみなく「をは接頭語。止むことが無く」
かねつも「かねつはできないこと、もは詠嘆を表す」


歌意
 草を食べる鹿の(あご)が少しも止まらないのと同じように、月日の流れはとどめることができないのだなあ。

 鹿鳴集冒頭、春日野にて九首の最後の歌である。
 九首の中、七首まで鹿の歌を詠み込んだ。
 鹿を中心に春日野を詠み込み、奈良へ誘いながら、歌集は奈良の仏を詠んだ名歌に繋がっていく。誰もが、鹿鳴集(三三〇首)冒頭の南京新唱(九九首)を読む中で、八一の奈良と仏像の歌の虜になってしまう。
 万葉集の鹿はほとんどその鳴き声で詠まれていたが、「あぎと」と言う具体的な姿を歌材にしたことを八一は後の解説で強調している。

奈良の宿にて
 をじか なく ふるき みやこ の さむき よ を
いへ は おもはず いにしへ おもふ に

(牡鹿鳴く古き都の寒き夜を家は思わず古思ふに)

奈良の宿「登大路(のぼりおおじ)にあった日吉館」
いへは「我が家は。(自註より)


歌意
 牡鹿が牝鹿を求めて鳴く、寒さが厳しい古都奈良の夜更け、(奈良の宿で)遠く離れた我が家のことは思わず、古代のことに思いをはせている。

 豪放磊落に見える八一は淋しがり屋だったという。荒廃した古都奈良、質素な定宿に一人投宿して深夜牡鹿の声を聞いて自然に詠み出された歌であろう。そこで思うのは我がことではなく、自らが求める古代への思いであった。八一は、随筆・渾齋隨筆の「鹿の歌二首」で、鹿の声について以下のように言う。
「鹿の聲はもとより淋しい。それに私の定宿のある登大路(のぼりおおじ)あたりの夜はことに淋しい。
 しかし、それよりも、私の気持ちの方に、もっと淋しいものがあったのだろう。
 ・・・・とりわけ、あの鳴き聲は、大ッぴらで、高ッ調子で、そのくせ、そのまゝ人の心に強く染み入る」

三月二十八日報あり・・・(第一首)
「山光集・香薬師」
(三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに香薬師像のたちまち何者にか盗み去られて今はすでにおはしまさずといふを聞きて詠める)
 をろがみて きのふ の ごとく かへり こし
みほとけ すで に なしと いはず やも

(をろがみて昨日のごとく帰りこしみ仏すでに無しと言はずやも )

歌意
 香薬師を拝観して帰ってきたのは昨日のように思われる。それなのに御仏はもういらっしゃらないと言うのだろうか。

 昭和一八年三月、三度目の盗難にあった香薬師はついに戻ることは無かった。
 盗難を嘆き、御仏が戻ることを願って八一は上記の詞書で五首の歌を詠んだ。今、新薬師寺に安置されているのは香薬師のレプリカである。

 あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 わ行 南京新唱 同抄 南京余唱 比叡山 短歌案内から 2 書架