会津八一 や行の歌

    山田寺の址にて

 やまでら の さむき くりや の ともしび に
ゆげたち しらむ いも の かゆ かな

(山寺の寒き厨の灯火に湯気たち白む芋の粥かな)

山田寺
「舒明天皇の時代に蘇我倉山田石川麻呂が建立。
 遺跡は奈良県桜井市山田にある」
山寺「山寺(山田寺址にある小さな寺)
さむきくりや
「ここにさむきといふは、気温の低しといふほかに乏しきという意も籠めたり。
 あたかも漢語にて寒厨(かんちゅう)などといふに近し。 自註鹿鳴集より」


歌意
 小さな山寺の寒さの厳しい貧しい台所の灯火のなかに湯気が立ち上がって芋粥が炊きあがろうとしているのだな〜。

 山田寺跡には見逃してしまいそうな小さな寺がある。
 壮大な山田寺は平安時代になくなった。
 細々と続いていた寺も明治の廃仏毀釈で荒廃疲弊した。
 そうした中で仏法を守ってきた僧侶達の姿があった。八一は貧しい芋粥の中に彼らの強い意志を感じていたのかも知れない。

十八日延暦寺の大講堂にて(第二首)
 やまでら の よ を さむみ か も しろたへ の
わたかづき せる そし の おんざう

(山寺の夜を寒みかも白妙の綿かづきせる祖師の御像)

やまでら「もちろん比叡山延暦寺のこと」
さむみかも「寒さの故であろうか?」 しろたへ「白色」
わたかづきせる「わた=綿、かづく=(かぶ)る。綿の帽子をおかぶりになっている」
そし「天台宗の祖師、最澄。“諡号(しごう)は伝教大師”」

歌意
 比叡山の夜は寒いせいであろうか、真白な綿の帽子をおかぶりになっている祖師の御像であることよ。

 八一が自註で「徳川初期の尋常一様の作と見ゆれども、登り来りて山気の中に之に対すれば、感興おのづから生ず」と述べている大講堂の像は確認できなかったが、比叡山で三体の最澄・伝教大師像を確認した。像は全て帽子(頭巾)をかぶっている。

汽車中(第一首)
 やまとぢ の るり の みそら に たつ くも は
いづれ の てら の うへ に か も あらむ

(大和路の瑠璃のみ空に立つ雲はいづれの寺の上にかもあらむ)

汽車中
「八一自筆の豆本(大正一〇年)の詞書きでは奈良よりの帰路の歌とある」
るり「瑠璃、青色の美しい宝石から濃い青色(紺碧)
かも「かという疑問詞と感嘆詞のも」
あらむ「あるらん、あるのであろう(推量)

歌意
 大和路の青く深く澄んだ空の上にある雲は、どこのお寺の上にあるのだろうか。

 豆本の詞書きに
「奈良より宇治にいで京都より東にかへる途中奈良のかたをかへりみれば諸仏の寂寞たる御すがたたちまち眼前にありまた思慕にたへがたしすなはちよめるうた」とあり、車窓から見る大和の青空と雲から古寺や諸仏への想いを詠った。新潟生まれの八一は
「幼児より一年の大半を、常に灰色の曇天をのみ眺めつつ育ちたればにや、畿内、関西の天空の晴朗なるに感嘆する傾向があり。」と自註で言う。
 「瑠璃のみ空」に込められた意味の深さを味わいたい。晩年、気候や地理的条件に影響された新潟の文化の改革と発展に尽力した八一、その気持ちがここに表れている。

十五日二三子を伴ひて観仏の旅に東京を出づ
 やまと には かの いかるが の おほてら に
みほとけ たち の まちて いまさむ

(大和にはかの斑鳩の大寺にみ仏たちの待ちていまさむ)

二三子「二、三人の門下生」 いかるがのおほてら「法隆寺」
観仏三昧「仏像の研究と鑑賞に専念すといふこと(鹿鳴集自註)

歌意
 大和の地ではあの斑鳩の法隆寺のみ仏たちが私の来るのを待っておられることだろう。

 仏が待ってると詠んだ言葉の裏にあるのは、如何に自らが奈良の仏たちに恋焦がれていると言うことである。生涯に三五回奈良を訪れた八一こそ表出できる自然な歌である。
 「仏が待っている」と思える時が来てほしいものだ。

河内国磯長の御陵にて太子をおもふ
 やまと より ふき くる かぜ を よもすがら
やま の こぬれ に きき あかし つつ

(大和より吹きくる風をよもすがら山の木末に聞きあかしつつ)

河内国「旧国名の一つ。五畿に属し、現在の大阪府南東部にあたる」
磯長御陵(しながごりょう)
「大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺内にある。直径五〇bほどの円墳で、東に聖徳太子、中央に母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、西に妃・膳部大郎女(かしはでのおおいらつめ)が葬られている」
よもすがら「夜通し」
やまのこぬれ
「山の樹木のこずえ。こぬれは、“こ(木)のうれ(末)”の音変化」
ききあかしつつ「聞きながら夜を明かし続ける」


歌意
 なつかしい大和からやってきて山のこずえを吹き鳴らす風の音を、太子は夜通しお聞きになっておられるだろう。

 磯長御陵は二上山(金剛山地の北部)の西、反対の東には大和の當麻寺などがある。
 太子、母、妃がここに同時に葬られていることは、法隆寺金堂釈迦像の銘文に書かれている。
 八一はこの銘文をしっかりした価値あるものとして、授業や学術論文で多く解説している。
 学問を愛し、極めて論理的に古代史などを解明した八一だが、聖徳太子崇拝、あるいは太子好きは際立っていた。

三笠山にて
 やま ゆけば もず なき さわぎ むさしの の
にはべ の あした おもひ いでつ も

(山ゆけば百舌鳴き騒ぎ武蔵野の庭辺の朝思ひ出でつも)

三笠山
「ここでは若草山のこと(高さ三四二b)。注一参照 その形から三笠山と呼ぶが、本当は三笠山・御蓋山は若草山の南、春日大社の後方にある春日山の西峰(二八二b)を言う」
むさしの
「武蔵野、東京都と埼玉県にまたがる武蔵野台地で、奈良の武蔵野(春日野)ではない。注二参照」
にはべ「八一の自宅は(武蔵野の)下落合にあった。その庭」
あした「朝」


歌意
 三笠山の山中を行くと百舌が鳴き騒いでいる。
 その声を聞くにつけても武蔵野にある自宅の朝の庭が思い出される。

 三笠山で聞く百舌の鳴き声は旅先で聞く鳥の声である。その旅情が素直な気持で武蔵野にある自宅・秋艸堂の朝の情景を思い起こさせた。秋艸堂の庭は広く、草木が鬱蒼としていたと言う。
 鳥たちには絶好の場所であった。

注一 若草山
 山全体が芝生でおおわれており、三つの笠を重ねたようなので三笠山ともいいます。
 高さ三四二b、広さが三三fあり、山内のあちらこちらで鹿を見ることができます。
 春には桜、秋の紅葉、ススキと四季折々の自然を楽しむことができます。
 山麓、一重目、二重目、山頂(三重目)、鶯塚古墳周辺道などで違った景観をお楽しみ頂けます。(鶯塚古墳周辺道は二重目料金所を北(山頂へ向かって左折)へ進む)
 約四〇分前後で山頂へ到着しますので心地よい汗をどうぞ。
注二 奈良の武蔵野・春日野について
 若草山西麓の一帯(春日野)は相当に古い時代から
「武蔵野」とも「武蔵ヶ原」とも呼ばれた土地で、武蔵守であった良峯安世(よしみねやすよ)の墓と伝えられる「武蔵塚」が付近の手向山八幡のあたりにあったことから、そのように呼ばれるようになったのだという。(『大和名所記』一六八一)
 現在ではこの「武蔵塚」のあった場所はわからない。
 また、『大和名所図会』(一七九一)で、伊勢物語一二段の「武蔵野はけふはな焼きそ若草の つまもこもれり我もこもれり」の歌を引用して武蔵野(春日野)と言う地名が紹介されている。このあたりに谷崎潤一郎など文士が良く滞在した和風旅館「むさし野」があるが、その地名からきているのかもしれない。

これよりさき奈良の諸刹をめぐる
 ゆく として けごん さんろん ほつそう の
あめ の いとま を せうだい に いる

(行くとして華厳三論法相の雨のいとまを招提に入る)

これよりさき「比叡山に登る前に」
諸刹「
(さつ)は寺、寺院。(奈良の)あちこちの寺」
ゆくとして「行くところとして」
けごん「華厳宗の寺、東大寺や新薬師寺」
さんろん
「三論宗の寺、現在では該当寺院は無いと言われるが、大安寺は三論の祖師・道慈律師の開山忌を行っている」
ほつそう「法相宗の寺、興福寺や法隆寺、薬師寺」
いとま「間、ここでは雨が止んだ合間」
せうだい「奈良の唐招提寺」

歌意
 (比叡山を訪れる前に)奈良の華厳宗や三論宗、法相宗の寺々を廻り、雨の止んでいる合間に唐招提寺に入った。

 八一は早稲田の学生を連れて奈良研究旅行を度々行った。この昭和十三年は奈良から京都まで足を伸ばした。学生を連れた奈良旅行は昭和一八年一一月、学徒出陣の生徒たちの送別の意味を込めた旅行で幕を閉じた。学問を通じて強く結ばれた師弟の逸話がいろいろと伝えられている。

滝坂にて
 ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の
あかき はさみ に あき の かぜ ふく
(夕されば岸の埴生による蟹の赤き鋏に秋の風吹く)

ゆうされば
「夕方になると。さるは近づくという意味で昔は使われていた」
はにふ「埴生、はには赤黄色の粘土、はにふはそのはにのあるところ」
あかきはさみ
「胴体小さく、鋏のみ赤き沢蟹は、川岸を駈けめぐること神速にして飛ぶが如し」(鹿鳴集自註)


歌意
 夕方になると、滝坂の川の岸辺の埴生に寄ってくる沢蟹の赤い鋏に、秋の風が吹きわたっていく。

 滝坂にての第五首、真っ赤な蟹の鋏の一点に集中することによって、夕暮れに吹きわたる渓流の秋風を際立たせる。 四、五句のア音の頭韻がリズムを作る。
「うらみ わび たち あかし たる さをしか の
もゆる まなこ に あき の かぜ ふく」
法隆寺東院にて 第一首
 ゆめどの は しづか なる かな ものもひ に
こもりて いま も まします が ごと

(夢殿は静かなるかなもの思ひに籠りて今もましますがごと)

法隆寺東院
「聖徳太子の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿がある」
ゆめどの
「本尊は救世観音。夢殿の呼称は、聖徳太子が三経義疏(さんぎょうぎしょ)執筆中に疑問を生じて持仏堂に籠ると、夢に金人(きんじん)が現れて疑義を解いたのによるという。国宝」
ものもひ「(上記三経義疏執筆中の)物思い。第二首と関連」
まします「(聖徳太子が)おられる」

歌意
 夢殿はなんと静かなことであろう。今も聖徳太子が籠って物思いに耽っていらっしゃるかのように。

 この歌は静かなたたずまいの夢殿を聖徳太子への思慕と共に詠う。八一は鹿鳴集自註で、太子の瞑想を「上宮聖徳法王帝説」(一二世紀以前)や「聖徳太子伝暦」(平安中期)を引用して述べ、太子への敬慕を表している。その上で
“・・・今のいはゆる夢殿が天平十一年頃の造立にして、太子(五七四−六二二)在世のものにあらざるは、今にして学者の常識なるも、この歌を作るに当たりては、その区別を問わざることとなせり・・・”と書く。

注 三経義疏(さんぎょうぎしょ)
 聖徳太子の著したと言われる経典注釈書。
 法華義疏、維摩(ゆいま)経義疏、勝鬘(しょうまん)経義疏。
 日本人の手になる最初の本格的な注釈書だが、作者は確定しない。

弘福寺の僧と談りて
 よ を そしる まづしき そう の まもり こし
この くさむら の しろき いしずゑ

(世をそしる貧しき僧の守り来しこの草むらの白き礎)

弘福寺(ぐふくじ)
「奈良明日香村にある真言宗のお寺。奈良時代に朝廷の庇護を受け栄えた川原寺(かわはらでら)跡にある。寺前にはかっての広大な川原寺跡を偲ばせる大理石の礎石がある」
よをそしる「世を誹る。世の中の有様を批判する」
まもりこし「(盗難や破壊から)寺と寺跡を守ってきた」
いしずゑ「(白い)礎石」


歌意
 世の中の有様を批判しながら、貧しい暮らしのなかで住職がずっと守ってきたこの草むらにある(川原寺)の大伽藍の白い礎石であることよ。

 川原寺跡の一角にこじんまりと建っている。八一は
「今は衰え果てて、寺院とは見えぬばかりの小屋なり」と書いている。明治の廃仏毀釈でさらに寺院をめぐる環境は悪化した。
 盗難にあうこともあるし、本尊を売ったり、建物の一部を薪代わりにした僧もいた。
 そんな背景のなかで頑なに寺を守った老僧を捉え、また古代への想いを歌い上げている秀歌だ。

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