会津八一の歌

 会津八一(あいづ・やいち) 1881~1956。新潟生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)
 早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。
 その後文学部教授に就任、美術史を講じた。
 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。
 奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。
 歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。書にも秀でる。
 生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。

あ行の歌 目次表示

奈良より東京なる某生に

 あかき ひ の かたむく のら の いやはて に
      なら の みてら の かべ の ゑ を おもへ

(赤き日の傾く野らのいや果てに 奈良のみ寺の壁の絵を思へ)

のら 「関東平野、武蔵野」 いやはて 「果ての果て、一番の果て」 
かべのゑ 「法隆寺金堂の壁画」

歌意
 真っ赤な夕日が落ちていく武蔵野、その果ての果てにある奈良の法隆寺の壁画を君がいる遠くの地・武蔵野から思ってほしい。

 奈良から東京に送った便りに書かれていた歌。
 八一は旅先からの絵葉書など膨大な私信を残していて、書簡集だけでも読みがいがある。一時期住んだ落合秋艸堂はまさしく武蔵野そのものであった。
 関東平野から遠く奈良を思うように、奈良から離れた地より法隆寺の焼ける前の金堂の壁画を想像してみると歌の実感が迫ってくる。

秋篠寺にて
 あきしの の みてら を いでて かへりみる
いこま が たけ に ひ は おちむ と す

(秋篠のみ寺を出でてかえり見る 生駒ヶ岳に日は落ちんとす)

秋篠寺 「秋篠寺にて第一首 参照」 
かへりみる「振り返ってみると」
いこまがたけ
「生駒山、大阪府と奈良県の境に南北に連なる標高六四二mの山。八一は自註で以下のように説明する。
“生駒山。大和と摂津との境にあり。
 高き山にはあらねど、姿よろし。
 『新古今集』に載せたる西行(一一一八―一一九〇)の歌に
「秋篠や外山(トヤマ)の里やしぐるらん 生駒の岳に雲のかかれる」といふは、よく実際の景致を(とら)えたり。”」

歌意
 秋篠寺を出て振り返ると、生駒山に今まさに日が落ちようとしている。

 雄大な情景を簡潔に歌っている。
 なるほどと思いたくなる表現である。
 静かな秋の夕暮れ、秋篠寺を出て、山の端をゆったりと眺めていたい。 訪れた九月、時間の都合で見ることが出来なかったが、境内にはこの歌の歌碑がある。

根本中堂の前に二株の叢竹あり 開山大師が唐の台岳より移し植うるところといふ
 あき の ひ は みだう の には に さし たらし
せきらんかん の たけ みどり なり

(秋の日は御堂の庭にさしたらし 石欄杆の竹緑なり)

根本中堂
「比叡山東塔にある延暦寺の中心。もとは最澄が創建した一乗止観院で、後に円珍が中堂と称したのが現在の原型である」
叢竹「そうちく、むらたけ。群がって生えている竹」 
開山大師「開祖、伝教大師最澄」
台岳
「唐の天台山、天台宗の名の起こるところ。ここにある国清寺で最澄は学んだ」
さしたらし「豊かに日差しが降り注いでいる」
せきらんかん
「石欄杆、石で造られた柵、てすり。ここには一対の石の欄干があり、その中に竹が植えられている」

歌意
 秋の陽射しが根本中堂の庭に降り注いで、
 石欄杆に囲まれた竹の緑が鮮やかで美しい。

 時は秋、昭和一三年一〇月の比叡山である。
 先に早稲田の学生達を指導しつつ美術研修旅行で奈良を廻った八一は、京都比叡山の秋の日差しが注ぐ堂内で、最澄が唐から移し植えたとされる叢竹を詠い出す。遠い昔の学究・最澄に同じ学を目指すものとして深い思いを寄せているのであろう。

高円山をのぞみて
 あきはぎ は そで には すらじ ふるさと に
ゆきて しめさむ いも も あら なく に

(秋萩は袖には摺らじ故郷に 行きて示さむ妹もあらなくに)

高円山
「たかまどやま。奈良、新薬師寺、白毫寺の東、主峰は標高四三二メートル。白毫寺山の別称がある。聖武天皇の離宮があったところで萩の名所」
そでにはすらじ
「奈良時代に衣服(袖)に花や葉を、直接摺り付けて模様にすることが行われた」
いも
「妹。男が女を親しんでいう語。主として妻・恋人をさす。⇔()
あらなくに「いるわけもないのだから」

歌意
 (昔、奈良時代は)高円山のこの萩を袖に摺り付けて模様としたが、私はしないでおこう。
 故郷に帰って見せる恋人もいないのだから。

 八一二八歳の恋の歌と言ってよい。八一の従妹周子の友人である女子美術学校生・渡辺文子への恋が成就しなかった八一は、そうした思いを古代への憧憬とともに歌った。
 晩年の養女・高橋キイ子への家族的、人間的な愛の歌(歌集・山鳩)を除けば、貴重な愛の歌である。
 同じ「若き八一の憂い」から歌われた「わぎもこが・・」の歌よりもっと直接的な表現になっている。
 南から奈良市街に入る手前で高円山は右手に現れ、やがて秋萩の美しい白毫寺への道とさしかかる。

下山の途中に(第二首)
 あきやま の みち に すがりて しのだけ の
うぐひすぶゑ を しふる こら かも

(秋山の道にすがりて篠竹の 鶯笛を強ふる子らかも)

下山「比叡山を下る」 すがりて「とりついて」
しのだけ「根笹の仲間の総称。細くて、群がって生える竹」
うぐひすぶゑ「鶯の鳴き声に似た音を出す玩具の笛」
しふる「強ふる、強制する」

歌意
 秋山の下山の道でとりついて、篠竹で作った鶯笛を買え買えと強いる子供たちよ。

 昭和一三年頃はまだ日本が貧しい時代、いろいろな物を売る子供たちが沢山いた。物を売る子供たちへの思いは、今の豊かな時代では理解しがたいかもしれない。

東伏見宮大妃殿下も来り観たまふ
 (第一首)
 あさ さむき みくら の には の しば に ゐて
みや を むかふる よきひと の とも

(秋寒きみ倉の庭の芝にゐて 宮を迎ふるよき人のとも)

東伏見宮
「旧宮家。明治三年(一八七〇)伏見宮邦家親王の第八王子彰仁親王が創立。小松宮と改称後、同三六年その弟依仁親王が復興。大正一一年(一九二二)親王が死去し、後に廃絶」
大妃殿下
「依仁親王妃周子(かねこ)。“大”は皇族の先代の妻、現皇族の母」
みくら「正倉院の倉、ここでは正倉院そのもの」
よきひと
「官吏。上品な人を言い、当時の宮を迎える官吏の雰囲気を表現しているようだ」
とも「ともがら、人々」

歌意
 朝の寒い時に正倉院の庭の芝生の所で宮をお迎えする官吏の人々よ。

 前作(正倉院の曝涼に参じて)の夕暮れの情景から一転して、緊張する正倉院の朝を表現する。大正時代の皇室関係者を迎えるその雰囲気、緊張感が伝わってくる。
 宮を迎える官吏たちを「よきひと」と表現した所に皇室崇拝の念が強かった八一の心情が表れている。余談だが、この依仁親王妃は美しい人で加山雄三の大伯母にあたる。

奈良に向かふ汽車の中にて (第二首)
 あさひ さす いなだ の はて の しろかべ に
ひとむら もみぢ もえ まさる みゆ

(朝日さす稲田のはての白壁に ひとむら紅葉燃えまさる見ゆ)

いなだ
「稲田、稲の植えてある(黄色い)田。(この歌は大正一四年一一月に読まれている)
ひとむら「一叢・一群、一か所に集まりまとまっているもの」
もえまさる「一段と目立って燃え盛っている」

歌意
 朝日の差している稲田の果てにある家の白壁に紅葉が一叢赤く燃え盛っているのが見える。

 奈良の仏たちを夢見た夜汽車の眠り(第一首)から覚めると、外から待ち望んだ奈良の風景が飛び込んできた。
 明るい朝日のもとで黄色に色づく稲田、白い壁そして赤く燃え上がる紅葉を絵画的に詠っている。

太秦の広隆寺の宝庫にて
 あさひ さす しろき みかげ の きだはし を
さきて うづむる けいとう の はな

(朝日さす白き御影のきだはしを 咲きて埋むる鶏頭の花)

太秦「京都市右京区太秦」
広隆寺
「国宝の弥勒菩薩半跏像で有名、平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院で聖徳太子信仰の真言宗御室派の寺院」
みかげ「御影石」
きだはし「きざはし、階段のこと」 うづむる「埋める」

歌意
 朝日がさして白く輝いている御影石を埋めるようにして咲いている(赤い)鶏頭の花よ。

 この歌は一九二五年(大正一四年)四一歳の時に詠まれている。広隆寺の宝庫(旧霊宝殿)は建設されて三年目だった。
 その新しく美しい宝庫の階段の白と鶏頭の赤が印象的で、色彩豊かな歌である。
 私が初めて訪れた時は新しい霊宝殿(一九八二年建設)だったが、階段の脇に美しく花が咲いていたのを覚えている。
 まだ、この歌を知らなかった頃だ。會津八一はこの頃、東京の高田豊川町の自宅や次に移り住んだ目白下落合の市島春城の別荘を秋艸堂と名付け、秋の草花を好んだ。
 特に葉鶏頭を愛し、「雁来紅の作り方」という文章まで作った。
 葉鶏頭は雁来紅がんらいこう、かまつかと言う別名がある。
 八一はかまづかと呼び、五九歳の時に一六首の歌を作っている。
 以下に二首を紹介する。

 あきくさ の な に おふ やど と つくり こし
ももくさ は あれど かまづか われ は
 (秋草の名に負ふ宿と作り来し 百草あれどかまづかわれは)
 つくり こし この はたとせ を かまづか の
もえ の すさみ に われ おい に けむ
(作り来しこの二十年を葉鶏頭の 燃えのすさみに我老いにけむ)

  当麻寺に役小角の木像をみて

 あしびき の やま の はざま の いはかど の
つらら に にたる きみ が あごひげ

 (あしびきの山の狭間の岩角の 氷柱に似たる君があごひげ)

当麻寺「たいまでら、参照」  役小角「えんのおづの、参照」
あしびきの「山の枕詞」  はざま「谷間、山間」
つららににたる「(あごひげ)氷柱(つらら)に似ている」
きみ「役の行者」

歌意
 山間の岩角に垂れ下がっている氷柱に似ているあなたのあごひげですね。

 第一首に続く、遊び心豊かでウイットに富んだ歌である。
 自註で『そもそも山腹の寺にて見たる像にてあり、像そのものは、岩に踞きょしたるさまに彫まれたれば、おのづから「岩」といふ語の点出されたるならむ』と言う。
 山の寺、葛城山麓で生まれて修行活躍した修験者、岩に踞うずくまる姿、などから連想によって生まれた歌と言える。

奈良博物館即興(第二首)
 あせたる を ひと は よし とふ びんばくわ の
ほとけ の くち は もゆ べき ものを

 (褪せたるを人は良しとふ頻婆果の 仏の口は燃ゆべきものを)
 奈良博物館
「“この地方に旅行する人々は、たとへ美術の専攻者にあらずとも、毎日必ずこの博物館にて、少なくとも一時間を送らるることを望む。上代に於ける祖国美術の理想を、かばかり鮮明に、また豊富に、我らのために提示する所は、再び他に見出しがたかるべければなり”
 鹿鳴集自註 南京新唱“くわんおん”の歌、解説より」
あせたるを
「時を経て色褪せたものを。作りたての鮮やかな彩色のものより、古色蒼然としたものを喜び、“わび”とか“さび”とか言って評価する傾向がある」
よしとふ「(人々は)良いと言う(が)
びんばくわ
「頻婆果。頻婆という蔓草の果実。鮮やかな紅色なので、仏典で仏や女性の唇など紅色のものの形容に用いられる。注参照」
もゆべきものを
「真っ赤に燃えているべきなのに、実際は燃えていない」


歌意
 時を経て色褪せたものが良いと人々は言うが、仏像の唇はもともと頻婆果のように真っ赤に燃えているべきものなのだ。

 色褪せた唇の向こうに仏の真っ赤な本来の唇の姿を浮かび上がらせる。
 確たる鑑賞眼から、古色蒼然としたものを喜ぶ古美術観を批判するが、それ以上に「びんばくわ」の赤と「もゆべきものを」の結句が肉薄してくる素晴らしい歌だ。

注 びんばくわ(鹿鳴集自註より転載)
 BIMBA。頻婆果。
 印度の果実の一種にして、その色赤しといふ。
 経典には、仏陀の肉体的特色として三十二相、八十種好を挙ぐる中に「脣色(しんしよく)ハ赤紅ニシテ頻婆果ノ如シ」「丹潔ナルコト頻婆果ノ如シ」「光潤ニシテ丹暉たんきナルコト頻婆果ノ如ク上下相称フ」「赭菓しやか脣ヲ涵うるフス」などいひ、略して「果脣かしん」などいふ語も生じたり。
注二 さてこの歌の心は(鹿鳴集自註より転載)
 さてこの歌の心は、世上の人の古美術に対する態度を見るに、とかく骨董趣味に陥りやすく、色褪せて古色蒼然たるもののみを好めども、本来仏陀の唇は、赤くして輝きのあるがその特色の一つなるものを、といふなり。仏陀の形像を見るに、枯木寒厳を以てよしとせざる作者の態度を示したるものなり。
 この歌を発表したる時、特に強く推賞の辞を公にしたるは、当時いまだ一面識もなかりし斉藤茂吉君なりしなり。

山中にて
 あのくたら みほとけ たち の まもらせる
そま の みてら は あれ に ける かも

 (阿耨多羅御仏たちの守らせる 杣の御寺は荒れにけるかも)

あのくたら
「阿耨多羅。阿耨多羅三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)という梵語を八一が略して使った。意味は“仏の無上の正しい悟り”、ここでは“全知の
(御仏)”と言う意味(下記 注 参照)
そまのみてら
「杣そまは一般に木材を切り出す山のことだが、下記注にある最澄の歌の“わが立つ杣”が有名で、杣そのものが比叡山を指すようになった」


歌意
 無上の悟りをお持ちになる全知の仏様たちに守られているこの比叡山も、年月を経て荒れ果ててしまったことよ。

 織田信長による比叡山焼き討ち後、豊臣秀吉らによって復興されたが、明治初年の神仏分離や廃仏毀釈の苦難にあった比叡山は荒廃していた。その現実を眼前して深く思いにふける八一である。

 しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の
はしら の まそほ かべ に ながれむ (海竜王寺にて)

 上句にある荒廃した古都(奈良・京都)へのため息が、この比叡山の歌にも脈々と流れている。

注 阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせ給へ
 (最澄・新古今集)
に基づいてこの歌は詠われている。八一は自註で
 “・・・最澄の歌あり。作者はこの意を受けて、その無上正等覚の諸仏の加護したまへる杣木にて造れる伽藍も、いたく荒廃したるものよと歎きたるなり”と書いている。
 また、自注でこう書く。
(阿耨多羅三藐三菩提は)『慧苑えおん恩義』ニ、『「阿」ハ「無」トイフナリ。「耨多羅」ハ「上」ナリ。「三藐」ハ「正」ナリ。「三」は「遍」ナリ「等」ナリ。「菩提」ハ「覚」ナリ。総ジテ「無上正等正覚」とイフベキナリ』とあり、訳して・・・「無上正等覚」などいふ”

またある日(第一首)
 あまごもる なら の やどり に おそひ きて
さけ くみ かはす ふるき とも かな

 (雨ごもる奈良の宿りに襲ひ来て 酒酌み交はす古き友かな)

あまごもる「雨に降り籠められる」
ならのやどり「奈良の宿、具体的には日吉館」
おそひきて「押しかけて来て」
ふるきとも「昔の友、旧友。ここでは無二の親友・伊達俊光」

歌意
 雨に降られて籠っている奈良の宿に押しかけて来た古い友達と酒を酌み交わすことよ。

 大正一四年春、四五歳の八一は奈良を訪ねて、南京余唱(四二首)の二七首を一挙に詠みあげる。とりわけ大学同期で互いに「心友」と呼び合った大阪の伊達俊光との酒席は何物にも代え難かっただろう。
 嬉々とした八一の顔が浮かんでくる。伊達は、若き日の八一が自らの恋の悩みなどを手紙で送っている終生の友である。
 伊達俊光は紀州生まれ。早大卒業後、大阪毎日新聞社に入り、後にNHK大阪放送局の文化部長になって関西文化事業に貢献する。
 ヨーロッパの絵画の解説書やトルストイの「戦争と平和」の翻案本などがある。会津八一の伊達に宛てた書簡類は六〇〇通にのぼる。

吉野の山中にやどる(第三首)
 あまごもる やど の ひさし に ひとり きて
てまり つく こ の こゑ の さやけさ

(雨ごもる宿の廂に一人来て 手毬つく子の声のさやけさ)

あまごもる「雨に降り籠められている」
さやけさ「清く澄んでいること。すがすがしい」


歌意
 雨に降り籠められている宿の廂の下に一人やってきて手毬をつく子の声のすがすがしいことよ。

 軒下で毬をつきながら歌う子供の手毬歌のすがすがしさに、山中で雨に閉じ込められた気持が和らいだであろう。また、尊敬する新潟の良寛の歌を想起していたかもしれない。
 つきて見よ ひふみよいむな やここのとを
とをとおさめて またはじまるを     良寛
 「つきて見よ 一二三四五六七八九十を
十とおさめて また始まるを」
東大寺にて
 あまたたび この ひろまへ に めぐり きて
たちたる われ ぞ しる や みほとけ

 (あまたたびこの広前にめぐり来て 立ちたる我ぞ知るやみ仏)

あまたたび「たびたび」 ひろまえ「(大仏殿)の前庭」
めぐりきて「一度ならずめぐって来て」
しるや「お気づきになっていますか」


歌意
 いくたびもこの大仏殿の前庭にめぐって来て立った私ですが、み仏はこの私をお気づきになられているでしょうか。

 何度も何度も訪れた仏の前で
「お気づきになっていますか!」と叫ぶ。
 仏への深い賛美と一体化を願いながらも、そこには
「ちかづきて・・・みそなはす とも あらぬ さびしさ」に通じる寂寥感を秘めているようだ。

 豆本では詞書が以下のようになっている。
「われ奈良にきたりて東大寺の毘慮遮那仏のひろまえにぬかづくこといくばくぞ」
(注 びるしゃなぶつ=大仏)

  病中法隆寺をよぎりて(第一首)

 あまた みし てら には あれど あき の ひ に
もゆる いらか は けふ みつる かも

 (あまた見し寺にはあれど秋の日に燃ゆる甍は今日見つるかも)

よぎりて「通りかかりに立ち寄って」
あまたみし「数多見し。いくたびも訪れ、見慣れた」
もゆるいらか「秋の日を浴びて燃えるような甍(瓦葺きの屋根)」

歌意
 いくたびも訪れ見慣れた寺ではあるが、秋の日を浴びて燃えるような甍は今日はじめて見た。

 「病中法隆寺をよぎりて」七首の第一首。
 病身を押して訪れた法隆寺のはじめて見る燃えるばかりの甍を素直な感動として詠む。
 病身の目から見たこの寺への詠嘆が、次に続く金堂壁画の荒廃への嘆きとして続く。八一自身がこの七首の中で詠んだ壁画は戦後火災にあう。火災に会う前に何度も八一が保全を主張したが、実行されず、火事で大破したのは昭和二四年のことである。

 八一自註や随筆で聖徳太子が身後の罹災を予知した歌
「斑鳩の宮の甍に燃ゆる火のほむらの中に心は入りぬ」を引用し、この歌の影響を示唆すると共に「燃ゆる」の意味の違いを説明している。

二上山をのぞみて
 あま つ かぜ ふき の すさみ に ふたがみ の
を さへ みね さへ かつらぎ の くも

(天つ風吹きのすさみに二上の 峰さへ嶺さへ葛城の雲)
あまつかぜ「天つ風、空を吹く風」
ふきのすさみ「吹きの荒み、激しい風」 
ふたがみ「二上山(参照)」
をさへみねさへ
「を=峰、みね=嶺、同義語を重ねて強調するが、雄嶽(おだけ)(右)雌嶽(めだけ)指す」
かつらぎのくも「二上山に向かって左方向にある」

歌意
 空を吹く激しい風のために、葛城山に湧き出た雲に二上山が覆われてしまった。

 二上山の麓にある当麻寺を訪れ、二上山から連なる葛城山脈を遠望すると山の天気の急激な変化を体感できる。当麻寺にいる間に刻々と山上の天気は変化していく。八一は自註でこう書いている。
「葛城山は二上山の西に連る。この山は上代に雄略天皇(?―四七九)が、一言主神ヒトコトヌシノカミに遇ひ、・・・後には役行者エンノギヤウジヤが岩窟に籠もりて・・・常に一種怪異の聯想あり。この山を出でたる白雲が、山腹を()ひ来りて、やがて二上の全山を埋むるを見て、作者は異様に心を動かして、この一首を成したるなり」
 山々を眺め、八一の自註を読むことによって、この難解な歌の歌意が分かる。大和を訪れた作者が伝承を背景に、荒々しい山の変化を歌い上げたこの歌の良さが、静かにゆったりと迫ってくる。

聖林寺にて
 あめ そそぐ やま の みてら に ゆくりなく
あひ たてまつる やましな の みこ

(雨そそぐ山のみ寺にゆくりなく 会ひたてまつる山階の皇子)

聖林寺
「聖林寺は藤原家の氏寺、妙楽寺(現、談山神社)の別院として創建された奈良県桜井市にある浄土宗の古刹」
ゆくりなく「思いがけず、偶然に」
やましなのみこ
「旧皇族・山階宮家、昭和二二年宮号廃止なった筑波藤麿氏のこと」


歌意
 雨のふりそそぐ山寺の聖林寺で、思いがけなく山階宮の皇子にお会い申したことだ。

 まだ身分制度が大きなウエートを占めていた戦前、高貴な身分の方に偶然あった感動を詠んでいる。
 この寺の十一面観音は素晴らしく、和辻哲郎はその美を絶賛している。均整の取れた豊潤な美しさは見る者を圧倒する。間近に拝観できるのもいい。

夢殿の救世観音に
 あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
この さびしさ を きみ は ほほゑむ

(天地にわれ一人ゐて立つごとき この寂しさを君はほほゑむ)

夢殿
「聖徳太子が住まわれた斑鳩宮跡に、太子の遺徳を偲んで天平一一年(七三九)に建てられる。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置する」
救世観音
「この秘仏(国宝)は、明治時代になりフェノロサにより封印をとかれた。ふくよかで 笑みをたたえた姿は有名である」


歌意
 この壮大な天地の中にたった一人立っているような想いで見上げる私の寂しさに、みほとけは(慈くしみ深く)ほほえんでおられる。

 平易に歌われた一首だが人の心をとらえ揺さぶる。
 一歩踏み込んで、作者と仏像との間の「さびしさ」と「ほほえみ」を理解する必要がある。天地の中でたった一人立つ寂しさは、同時に救世観音の寂しさであり、作者と観音そのものと渾然一体になっている。
 観音の持つ寂しさが八一の「さびしさ」を呼び起こしたと言える。さびしさの「ほほゑみ」について、作者は随筆・渾齋隨筆でこう言う。
「目の前に立ち現れた、あの幽玄な美術的表現、観音の慈悲心、聖徳太子の御一生、上宮王家のかなしい運命、或はこの像の秘仏としての久しい伝来などが、錯綜して、この一首の成立を手伝った・・・」
 また植田重雄先生は「秋艸道人会津八一の學藝」で歌成立までの推敲と変化を述べ、作者と仏との間の、崇高、寂寥、慈悲一体の境を示す歌と絶賛する。
  (大正一〇年一〇月)
うつしよ に われ ひとり ゐて たつ ごとき
この さびしさ を きみ は ほほえむ
  (大正一二年六月)
あめ地に我ひとり居て立つ如き
此の寂しさをほゝゑみてあり
  (大正一二年九月)
あめつちに唯ひとりゐて立つ如き
此寂しさをほゝゑみてあり
  (大正一三年一二月 南京新唱 春陽堂より出版)
あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
この さびしさ を きみ は ほほゑむ
 そしてこう展開する。
「この歌はいつでもどこでも仏像を仰ぐとき、荘厳と寂寥、慈悲心、人間的関係を喚び醒す力を持っているのではないだろうか。」「会津八一の生涯」では
「道人(八一)にとって伝説の救世観音が聖徳太子と等身であり、太子は観音の化身だった。小主観、小自在を拒絶して、完璧な澄みきった一首が生まれるためには、絶対者としてのみほとけと人間との出会いにすべてが賭けられているのであろう」と述べている。

追記
 喜多上(文芸評論家)の歌の解説
 彼は秋艸会報三一号(一一・三・一)
『「われ」の寂しさは作者・観音の双方とする解釈が一般化していますが、観音に絞ってもよいでしょう』と述べ、歌意を以下のように語っている。
「天地の間で、自分ひとりで立っているようなこのさびしさを、きみは微笑んでおられる。
 果てのない世界で、自分ひとりが与えて報われずに立っているような衆生済度の寂寥感を、救世観音のきみは微笑んでおられる」

追記二
 救世観音について
 法隆寺夢殿の秘仏救世観音像(飛鳥時代)は聖徳太子等身と伝えられている。明治一七年、この絶対秘仏を開扉させたのがアメリカ人・フェノロサである。
「もしこれを見なば仏罰たちどころに至り地震たちまち全寺を毀こぼつであろうと抗あらがう寺僧を説き伏せて開扉せしめた話は有名である」(吉野秀雄)
 巻かれていた白布を取り除いた東洋美術史家のフェノロサは言う。
「飛散する塵埃じんあいに窒息する危険を冒しつつ、凡そ五百ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき世界無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現れたり」(有賀長雄訳)
 この秘仏は春秋に開帳される。
 また、救世観音を詠んだ会津八一の歌碑は法隆寺近くの個人の家(原家)に建っている。

追記三
 救世観音二
 救世観音は聖観音と同じ意味だが、日本にだけある名前だ。「くぜくわんおん」と会津八一は書いているが、「くせ」「ぐせ」「ぐぜ」どの呼び名でも良いようだ。
 喜多 上は開帳されている法隆寺夢殿の秘仏救世観音について、フェノロサや八一の言葉を引用して語っている。秋艸会報三一号から以下に転載。
“この像は正面から見ると気高くはないが、側面ではギリシャ初期(アルカイック)の美術の高みに達していよう。(中略)しかし、最高に美しい形は横顔の見えにある。鼻は漢人のように高く、額は真直ぐで聡明である。唇は黒人に似てやや分厚く、静かで神秘的な微笑みが漂う(フェノロサ)
 動の正面より静の側面を評価し、横顔の神秘の微笑みを絶賛しています。
 ・・・この側面への着目が以後の仏像の見方を変えたといっても過言ではありません。・・・八一もフェノロサの先駆的な仕事を評価し、こう続けています。
“昔の日本人は仏教に対する信仰から、真正面より仏像を礼拝して其有難さも美しさも同時に感じたらしい。然し吾々としてはそれ程の信仰は無いから、側面から見て此像が何程美しくあり得るかを、今一度見なほす余地があるかも知れぬ”

村荘雑事
 あめ はれし きり の したは に ぬれ そぼつ
あした の かど の つきみさう かな

(雨霽れし桐の下端に濡れそぼつ明日の門の月見草かな)

きりのしたは
「桐の下端、桐の木の下。あるいは下葉とも解しえる。同時にきりは霧とも読める」
あした「朝」 かど「門」 ぬれそぼつ「ぬれてびしょびしょになる」


歌意
 夜来の雨が上がった桐の木の下の辺りに、びっしょり濡れている朝の門辺の月見草の花よ。

 雨上がりの夏の朝、色鮮やかな黄色の月見草に新鮮な驚きを感じた作者の感動が素直に伝わってくる。
 心地よい調べの中で、朝のすがすがしさと庭の緑、月見草の黄色が印象的だ。
 「富士には月見草がよく似合ふ」と言った太宰とは違う景色だ。

薬師寺東塔

 あらし ふく ふるき みやこ の なかぞら の
いりひ の くも に もゆる たふ かな

(嵐吹く古き都のなかぞらの入日の雲にもゆる塔かな)

あらしふく「あらしの吹き荒れる」 なかぞら「天のなかほど」
いりひのくも「沈む太陽の明かりが赤く雲を染めた」

歌意
 嵐の吹き荒れる古都の中空に、沈む夕日に赤く染まる雲の中で東塔も燃えているようだ。

 薬師寺の歌(四首)の第四首。前作(第三首)「すいえん・・」の青空を背景にした静かな調べに対して、嵐の中に赤く染まる雲を置いて重厚な声調で塔を歌う。
 力溢れる作品である。奈良在住ではないのでこんな風景にはなかなか出会えない。
 写真家・入江泰吉は二上山の荒れる風景を撮る為に何日も何日も通ったという。
 優れた作品に感謝したい。

たはむれに東京の友に送る
 あをによし なら の かしうま たかければ
まだ のらず けり うま は よけれど

(あをによし奈良の貸馬高ければまだ乗らずけり馬はよけれど)

あをによし「奈良の枕詞」
かしうま
「貸馬。八一は中国大陸の旅行を考え、同級だった新潟出身の軍人に乗馬を習っていた。同じ南京余唱の歌“くさふめば”でわかるようにこの時の奈良訪問は乗馬服を携帯し、奈良を馬で回るつもりだった」

歌意
 奈良を馬で回ろうと思うが貸馬は高価なのでまだ乗っていない。馬は良いのだけれど。

 「たはむれに・・・」に表れているように軽くユーモアのある歌である。当時、中国大陸の交通は馬無しには考えられなかった。
 そのことを想定して、乗馬の練習をしていたが、結局その希望を果たすことはできなかった。初期に望んだ西洋への留学も諸般の事情で断念しているので、八一にとって海外は縁が無かったと言える。

東京にかへるとてかしうま
 あをによし ならやま こえて さかる とも
ゆめ に し みえ こ わかくさ の やま

(あをによし平城山越えて離るとも夢にし見えこ若草の山)

あをによし「奈良の枕詞」
ならやま
「平城山、平城京の北側に連なる佐紀・佐保一帯のなだらかな山並みの総称で、東は奈良坂から、西は秋篠川のあたりまで続く低い丘陵である。歌枕」
こえてさかるとも「平城山を越えて京都の方へ遠ざかっても」
ゆめにしみえこ
「夢に見えて来て欲しい。しは希望・禁止・詠嘆・感動・強意などの意を添える助詞でここでは強意、こは来るの命令形」


歌意
 平城山(ならやま)を越えて奈良から離れて東京に帰った後も、夢に見えて来て欲しい、若草山よ。

 万葉調の調べのよい歌である。初めて奈良を訪れた時(明治四一年)に詠んだ作だが、何度も訪れた奈良を心から愛した八一の心情がよく表れている。

これよりさき奈良の諸刹をめぐる(第二首)
 いかで かく ふり つぐ あめ ぞ わが ともがら
わせだ の こら の もの いはぬ まで

(いかでかく降り継ぐ雨ぞわがともがら早稲田の子らのもの言わぬまで)

これよりさき「比叡山に登る前に」
諸刹「(さつ)は寺、寺院。(奈良の)あちこちの寺」
いかでかく「どうしてこのように」
わがともがら 「私の仲間、ここでは志(学問)を同じくする仲間」
わせだのこら「早稲田大学文学部学生たち」

歌意
 どうしてこのように雨が降り続くのか、私の仲間・早稲田の学生たちがものを言わなくなるほどに。

 元気な若者たちが雨にびしょ濡れになり、ものも言わなくなった。
 八一の愛弟子たちへの思いやりが伝わってくる。

法隆寺村にやどりて
 いかるが の さと の をとめ は よもすがら
きぬはた おれり あき ちかみ かも

(いかるがの里の乙女は夜もすがら衣機織れり秋近みかも)

きぬはたおれり いかるがのさと
「法隆寺村、聖徳太子の斑鳩の宮に由来する」
よもすがら「一晩中」
「きぬは衣、絹ではない。はたは手織機。明治時代、農村ではどこでもはた織をしており、それは秋祭りや新年に備える為の女性たちの仕事だった」


歌意
 斑鳩の里の娘たちは夜が更けるまで機を織っている。秋が近づいたからであろうか。

 明治四一年二八歳の田舎の中学の英語教師八一は初めて奈良を訪れる。法隆寺は修学旅行生の砂ぼこりが舞うような世俗化したのもではなかった。
 廃仏毀釈の影響で訪れる人も少ない閑散とした村の中にあった。夢殿に近い宿屋に泊まった夜、境内を散策する八一は機織の音に心を打たれる。
 甘酸っぱい青春の思いと古代への憧憬が若い乙女を通して歌い上げられている。

御遠忌近き頃法隆寺村にいたりて(第二首)
 いかるが の さとびと こぞり いにしへ に
よみがえる べき はる は き むかふ

(斑鳩の里人こぞり古によみがへるべき春は来向ふ)

御遠忌(ごおんき)
「仏教諸宗派で、宗祖や中興の祖などの五十年忌ののち、五十年ごとに遺徳を追慕して行う法会。ここでは、聖徳太子千三百年忌(大正十年・一九二一年四月一一日)のこと」
いかるがのさと「法隆寺村、聖徳太子の斑鳩の宮に由来する」
さとびと こぞり「里の人々ことごとく(全員)」
いにしへによみがえる
「聖徳太子のいた古代に心がかえること。自註ではこう言う
“上代の気分に立ち(かえ)ること。聖徳太子がしきりに大陸文化を輸入されし頃、その新しき刺激に目醒めたるこの里の人々が当時の心境に復帰すること”」 き むかふ「近づいてくる」


歌意
 斑鳩の里の人々みんなが、遠い昔(太子の時代)の気持になる春が祭とともにやってきた。

 聖徳太子千三百年忌を前に読んだ四首の第二首、五十年に一度のお祭の準備がすすむ里の様子を季節感と共にとらえる。里人全員の心が「上代の気分に立ち(かえ)」と、太子への思いを詠む。

大和安堵村なる富本憲吉の工房に立ちよりて
 いかるが の わさだ の くろ に かりほ して
はに ねらす らむ ながき ながよ を

(斑鳩の早稲田の畦に仮庵して埴ねらすらむ長き夜を)

安堵村
「奈良県生駒郡安堵(あんど)町 法隆寺から東へ、富本憲吉記念館は車で五分」
富本憲吉
「近代陶芸の巨匠と言われる。大正から昭和にかけて活躍、人間国宝。 注参照」
くろ「田んぼの畦、ここでは“ほとり”という意味」
かりほ
「仮庵、仮の住まい。富本はこの歌が詠まれたと思われる大正十年代に故郷・安堵村の家の裏庭に簡単な窯を作り陶芸を始める」
はに ねらす「はには粘土・陶土、ねらすは練るの敬語」


歌意
 斑鳩の早稲の田んぼのほとりに仮の庵をつくり、陶土を()ねているのだろう、秋の夜長に。

 鹿鳴集・旅愁は一九首、その一七首目にこの歌があり、作者は明治四〇年から大正一五年(一九二六年)までの作と書いている。
 おそらく大正一〇年代の作と思われる。(下記注参照)
 まだ世に知られる存在ではなかった奈良時代の富本憲吉へのほのぼのとした親しみが詠われている。
 ただ、後の昭和四年(一九三〇年)、秋艸堂諸事雑用引受け執事と自称していた料治熊太(りょうじ・くまた)宛の文章で八一は富本の芸術観を批判している。(富本憲吉の芸術観・八一全集一一巻参照)
 五月、富本憲吉記念館を訪れた時の素晴らしい作品と館関係者の親切な解説はとても良かった。

注 富本憲吉(一八八六―一九六三)
 陶芸家。奈良県生駒郡安堵町生まれる。
 大学卒業後ロンドン留学。
 一九一三年、東京から帰り、故郷の裏庭に簡単な窯を作り楽焼作りを始める。陶芸の時代を区分して、一九二六年までを大和時代、一九四五年までを東京時代、その後を京都時代と言う。
 白磁、染付、色絵などの意匠・造形に意を注ぎ、とくに色絵磁器に新境地を切り開く。一九五五年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
 代表作に『色絵金彩羊歯文飾壺(しだもんかざりつぼ)』がある。

病中法隆寺をよぎりて(第三首)
 いたづき の まくら に さめし ゆめ の ごと
かべゑ の ほとけ うすれ ゆく はや

(いたづきの枕に覚めし夢のごと壁絵の仏うすれゆくはや)

いたづき「病気」 かべゑのほとけ「法隆寺金堂の壁画 注参照」
はや「はもやも強い感動を表す。早いという意味ではない」


歌意
 病床の枕で目覚めた時のおぼろげになってゆく夢のように、金堂の壁画の仏たちは色あせ、落剝し、薄れてゆくことであるよ。

 持病の腎臓炎で療養していた八一は完治を待たずに法隆寺を訪れる。
 壁画への異常なまでの執念が、薄れゆく夢との比喩で荒廃する壁画への哀惜をいやが上にも際立たせる。
 奈良博物館で開催されている法隆寺金堂展で再現壁画を見ることができる。また、ネット上の東京大学総合研究博物館で壁画を参照できる。

注 この集中には、壁絵を「かべゑ」「かべのゑ」また「かべのふるゑ」など詠めり。
 されど直ちに「へきぐわ」と読むを厭ふにあらず。
 その場合としての音調のためなり。(鹿鳴集自註より)

三月二十八日報あり…(第四首)
「山光集・香薬師」
(三月二八日報あり近頃その寺に詣でて拝観するに香薬師像のたちまち何者にか盗み去られて今はすでにおはしまさずといふを聞きて詠める)
 いでまして ふたたび かへり いませり し
みてら の かど に われ たちまたむ

 (出でまして再び帰りいませりしみ寺の門にわれ立ち待たむ)

いでまして「(盗難にあい)み仏が寺から出て」
ふたたびかへり
「香薬師は二度の盗難にあったが、二度とも無事に帰った」
みてらのかど 「新薬師寺の門」


歌意
 二度の盗難にあわれ、寺から離れられたみ仏ですが、二度とも無事にお帰りになりました。
 (今回の)三度目の盗難から無事にお戻りになられることを寺の門に立ってお待ちしています。

 八一は自註に
「この像はさきに盗難にかかること二回なれども、多少の損傷はともかくも、二回ともにめでたく寺中に戻りたまえり」と書いている。盗んだ犯人はこの銅造の香薬師仏を金で作られていると勘違いしたらしく、確認のため両手首を切り落としたと言う。
 その時は数日して畑の中から出てきている。
 八一は亀井勝一郎の対談でこんな話をしている。
『・・・何時も私の行った後で盗まれた。それが三度もあった。私も連累ではないかと怪しまれやしないか。』 会津
『あの仏像を見ていると盗みたくなりますね。』 亀井
『そうなんです。盗難にあった後、・・・吉井勇が「香薬師もとの御堂に還れよと秋艸道人歌よみたまえ」などと書いている。私は失くなられる度に因縁が深い。』 会津
またある日(第二首)
 いにしへ に わが こふ らく を かうべ に こ
おほさか に こ と しづこころ なき

(古に我が恋ふらくを神戸に来大阪に来としづこころなき)

こふらくを「恋うるのを。“らく”は“の”のこと」
こうべにこ「神戸に来、“こ”は“来たれ”」
しづこころ「落ち着いて静かなる心」


歌意
 強い思いで遠い昔のことに取り組んでいるのに、神戸に来い、大阪に来いと友人たちが言うので心が落ち着かない。

 古代憧憬の念が強い八一はそのために奈良を訪れている。旧知の友人たちの誘いを煩わしいと詠っているが、その誘いが嬉しいのである。
 第一首で触れたように大阪の友人は、大学以来の無二の親友・伊達俊光であり、神戸の人は若き日の恋人・亀高文子(旧姓渡辺)である。画家・渡辺文子との恋は成就しなかったが、この頃、再婚して神戸に住む文子の家庭にたびたび出入りしている。
 八一の生涯独身の理由の一つは文子とのことにあったと推測できるのではなかろうか。

奈良にて
 いにしへ の なら の みやびと いま あらば
こし の えみし と あ を ことなさむ

(古の奈良の宮人今あらば越の蝦夷と吾をことなさむ)

みやびと「宮人、宮廷に仕える人」
いまあらば「今の世にいるならば」
こしのえみし
「越後の蝦夷(えみし) 古代、北陸・関東北部から北海道にかけて居住した人々。大和政権から異民族視された」
あをことなさむ
「あは自分のこと、自分のことを“越後の蝦夷”と騒ぎ立てるだろう」


歌意
 昔の奈良朝廷に仕えた宮人がもし今いるならば、私のことを(こし)(えみし)がやってきたと言って大騒ぎするだろう。

 明治二四年、初めて奈良を訪れた時に、「法華寺途上旧都のあとを望みて」の題で詠まれた歌である。
 後にこの「奈良にて」の題で、鹿鳴集刊行時その中の南京新唱に加えられた。平城宮址を眼前にして在りし日を想像しながら、新潟出身の大柄な我が身のことを滑稽味を加えて詠った。
 「吾を(こと)なさん」(評判にする、言い騒ぐ)は万葉集に数例あると八一自身が自註で書いている。

香具山にのぼりて(第五首)
 いにしへ を ともらひ かねて いき の を に
わが もふ こころ そら に ただよふ

(古をともらひかねて息の緒に我が思ふ心空に漂ふ)

香具山
天香久山(あまのかぐやま)あめの…、畝傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる奈良県橿原市にある山。“天”という尊称が付くほど、最も神聖視された。三山の恋を扱った“香具山は畝傍ををしと耳成と争ひき”は有名」
いにしへ
「古代、とりわけ記紀(古事記と日本書紀)にあらわされた日本の神話や時代」
ともらひかねて
『“「ともらひ」は「とむらひ」に同じ。(とむら)はんと心は(はや)れども、これといふ方法も案出しかねて。”鹿鳴集自註より』
いきのを
「息の緒、“緒”は息をつなぐ(ひも)のことで、長く続くの意。ここでは命がけでと言うこと」
そらにただよふ
『“「そら」は虚空、天空。わが思ひは天外に馳すといふこと。”鹿鳴集自註より』


歌意
 遠い古代を追懐し、弔おうと思っても弔いきれないで、命にかけて思う私の心が天空に漂っている。

 香具山に登って辺りを眺めた時、湧き上がってきた八一の古代への憧憬がほとばしり出る。
 それを抑えきれずに心が空に漂うと言う。
 前四首で淡々と香具山の情景を詠んだ後に、絶唱と言えるこの第五首で締めくくった八一の表現力は素晴らしい。

地獄谷にて
 いはむろ の いし の ほとけ に いりひ さし
まつ の はやし に めじろ なく なり

(岩室の石の仏に入日さし松の林に目白なくなり)

地獄谷
「奈良・高円山の東にある。旧柳生街道・滝坂の道を登り、柳生へ向かう石切峠の手前(南)の山中に線刻の石窟仏がある」
いはむろ「岩室、岩を削って仏を安置してある場所」
いしのほとけ「ここでは岩室に刻まれている仏を言う」
めじろ「目白、小鳥。俳句の季語は秋」


歌意
 石窟の壁に彫られた仏に夕日がさし、辺りの静かな松林ではしきりに目白がないている。

 地獄谷石窟を見るために旧柳生街道からそれて、山中に五百㍍ほど獣道のようなところを歩く。
 ほとんど訪れる人もなさそうな静かな場所で鶯が鳴き、目白がさえずっていた。鳥達の鳴き声がはっきりと聞こえるほどあたりは全くの静寂である。
 この歌は、石窟仏と辺りを囲む情景を目白の鳴き声で見事に浮き立たせている。「いわむろの」「いしの」「いりひさし」と「い(母音)」でたたみ掛ける調べは快い。
 高円山麓(白毫寺付近)から、旧柳生街道・滝坂の道を石仏を鑑賞しながら登り、約一時間半で地獄谷に着く。さらに石切峠を越えて柳生へと道は続く。
 一度は全て歩いてみたいと思っている。

病中法隆寺をよぎりて(第六首)
 うすれ ゆく かべゑ の ほろけ もろとも に
わが たま の を の たえぬ とも よし

(薄れゆく壁絵の仏もろともにわが魂の緒の絶えぬともよし)

かべゑ「法隆寺金堂の壁画」 もろともに「一緒に」
たまのを「(たま)の緒の意から、命のこと」
たえぬともよし「死んでしまってもかまわない」


歌意
 落剝して、薄れゆくこの壁画の仏たちとともに、私の命も絶えてしまってもかまわない。

 「病中法隆寺をよぎりて」対面した薄れゆく壁画の仏たちへの愛惜の念を八一は高めていった。
 消えうせるかもしれない仏たちと一緒に死んでしまってもいいと言い切る。仏たちへの感情移入と「病中」ゆえの気持の高ぶりとが相まって、この歌が詠われる。
 第七首の「仏の未来を憂う」を終わりとする全七首の中で、この歌をとらえることによって「たえぬともよし」の純粋な表出が、少女趣味的ではない自然なものとして伝わってくる。

春日野にて
 うち ふして もの もふ くさ の まくらべ を
あした の しか の むれ わたり つつ

(うち伏してもの思ふ草の枕べを朝の鹿の群れ渡りつつ)

うちふして「うちは接頭語、伏して、寝そべって」
ものもふ「物を思う」
注 会津八一の世界(植田重雄著)では以下のように解説する。
「もの もふ」は多くの意味に用いられるが、ここでは初案に「ほとけづかれのみをふせて」とあるので、観仏のことをいっているが、もっと広い意味にとって古い奈良への思慕でもかまわない。
くさのまくらべを「草を枕として寝ている傍らを」


歌意
 春日野の草を枕に寝そべって(古都の寺々やみほとけ、あるいは古代のことなど)いろいろと思っている私の傍らを朝の鹿たちの群れが通っていく。

 歌集「南京新唱(なんきょうしんしょう)」巻頭第三首。
『道人は書に「懶眞」(懶キコトハ眞ナリ)と書いているように(ものう)く寝そべることが多かった。
 怠惰ではないが、時の流れから超然として何もせず茫然としていることに安らぎを感ずることが多い』と植田教授は書いている。恩師坪内逍遥の前でも「寝そべって」対話していたことでも有名な八一である。
 奈良の地を訪れた若き八一は歌集冒頭で鹿を読むことによって、古都奈良を浮き立たせ、古代憧憬へと読むものを導いていく。静かな春日野の原に腰を下ろして、ゆっくりと時間を過ごしてみたいものだ。

病中法隆寺をよぎりて(第二首)
 うつしよ の かたみ に せむ と いたづき の
み を うながして み に こし われ は

(うつし世の形見にせむといたづきの身をうながして見にこしわれは)

うつしよ「現実の世間、現世、この世」
かたみ「形見、この世を思い出すよりどころとなるもの」
いたづき「病気」 うながして「せきたてて」


歌意
 この世の形見にしようと病気の身をせきたてて私はこの法隆寺を見に来たのだ。

 「病中法隆寺をよぎりて」七首の第二首。
 病身を押しての訪問、八一の強烈な法隆寺への思い入れが手に取るようにわかる。
 病気ゆえ、二度とこの地を訪れることが無いかもしれないという切実感が「みをうながして」(我が身をせきたてて)と詠むことよって重く迫ってくる。
 一九二一年(大正一〇年)一〇月、持病の腎臓炎の再発で千葉勝浦で療養していた八一は、同一〇月二三日法隆寺を訪れ、この七首を作った。

御遠忌近き頃法隆寺村にいたりて(第一首)
 うまやど の みこ の まつり も ちかづきぬ
まつ みどり なる いかるが の さと

(厩戸の皇子の祭も近づきぬ松みどりなる斑鳩の里)

御遠忌(ごおんき)
「仏教諸宗派で、宗祖や中興の祖などの五十年忌ののち、五〇年ごとに遺徳を追慕して行う法会。ここでは、聖徳太子千三百年忌(大正一〇年・一九二一年四月一一日)のこと」
うまやどのみこ
「厩戸の皇子は聖徳太子のこと。但し聖徳太子は後世につけられた尊称」


いかるがのさと歌意
 厩戸の皇子のお祭も近づいた。
 松の緑が美しいこの斑鳩の里に。

 聖徳太子千三百年忌を前に読んだ四首の第一首、法隆寺の内外に美しく広がる松の緑を取り上げて、斑鳩の里を簡潔にさわやかに歌う。
 数々の偉業を成し遂げた聖徳太子への懐古の情を感動を持って展開している。

御遠忌近き頃法隆寺村にいたりて(第三首)
 うまやど の みこ の みこと は いつ の よ の
いかなる ひと か あふが ざらめ や

(厩戸の皇子の尊はいつの世の如何なる人か仰がざらめや)

御遠忌(ごおんき)
「仏教諸宗派で、宗祖や中興の祖などの五十年忌ののち、五十年ごとに遺徳を追慕して行う法会。ここでは、聖徳太子千三百年忌(大正一〇年・一九二一年四月一一日)のこと」
うまやどのみこ「厩戸の皇子は聖徳太子のこと。聖徳太子は後世につけられた尊称」
いかるがのさと「法隆寺村、聖徳太子の斑鳩の宮に由来する」
みこと「尊または命と書き、上代の神や高貴な人に付けられた」
あふがざらめや「あふぐ=仰ぐは尊敬する。ざらは否定、めやは反語。尊敬しないであろうかいや必ず尊敬する」


歌意
 厩戸の皇子はいつの世のどんな人でも尊敬せずにはいられようか。

 十七条憲法を制定して国家の礎を築き、また仏教の普及に尽力した聖徳太子への思慕の情が直線的に歌われる。
 その直情と声調の良さが読むものの心に迫る。
 八一が唯一、歌の門下と認めた吉野秀雄は鹿鳴集歌解で以下のように言う。
「この歌、一本調子にひたぶる太子をあがめ奉らうとしたもので、溢れいづる感懐、よく声調化されて些かの弛緩もない。もしもこの種の歌想の単純を以てとやかく歌を論じようとする者ありとすれば、遂に歌とは無縁の徒輩とせねばならぬのである」

注一 聖徳太子について
 前記「うまやどのみこ」の解説にも書いたが、太子の正式名は厩戸の皇子、聖徳太子は後に世につけられた尊称である。また、前記の聖徳太子像も後世に描かれたものである。前記に酷似した肖像画は厩戸の皇子より前の時代の中国にある。高貴な人を描くパターンとして、太子像に使われたようだ。
 もちろん、八一自身そのことは熟知の上で、太子を深く思慕している。

注二 歌の三つの解釈
 秋艸会報第三十三号(平成二四年三月一日発行)で和光慧さんが以下のようにこの歌の三つの解釈を書いている。(和光さんは 「会津八一とゆかりの地―歌と書の世界」の 著者である)
一 厩戸の皇子さまはどんな世のどんな人でも崇拝し奉らずにゐられようか。(吉野秀雄)
二 聖徳太子(厩戸皇子命)はいつの時代のどのような徳を持っておられた方であろうか。
   讃仰せずにはいられない。(植田重雄)
三 聖徳太子が遺された深いお言葉は、いつの時代のどんな人も尊敬せずにはいられない。(和光慧)

春日野にて
 うらみ わび たち あかし たる さをしか の
もゆる まなこ に あき の かぜ ふく

(恨み侘び立ちあかしたる牡鹿のもゆる眼に秋の風吹く)

うらみわび「思いをとげられなかった悔しさと悲しさ」
あかしたる「一夜を眠らずに」 もゆるまなこ「血走った眼」

歌意
 (角を激しく打ちあった)恋の争いに負け、悔しさと悲しみの中で一夜を眠ることなく過ごした鹿の血走った眼に容赦なく秋の冷たい風が吹き抜けていく。

 大正十三年、初めて歌集「南京新唱(なんきょうしんしょう)」を発表、その巻頭六首目の歌である。早稲田中学職員間の軋轢から逃れるようにして奈良の地を訪れた若き八一の憂いが対象化されているようだ。
 一説には失恋の痛手を投影していると言われる。

法隆寺の金堂にて(第一首)
 おし ひらく おもき とびら の あひだ より
はや みえ たまふ みほとけ の かほ

(おし開く重き扉の間よりはや見え給ふみ仏のかほ)

法隆寺
「奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にあり、推古天皇一五年(六〇七)に聖徳太子が斑鳩宮のそばに建立したと伝えられる。
おしひらく
「おしを接尾語とする説もあるが、重き扉を考えれば押し開くがいい」
おもきとびら
「金堂の扉は甚だ高く、甚だ広く、甚だ厚し(自註)」

歌意
 (寺の案内人が)押し開く重い扉がまだ開いていないのに、み仏のお顔がもう私の目の前にお現れになった。

 大正九年、四〇歳の八一は訪れる人が少ない金堂の前に期待を持って立っただろう。
 前夜、受付に新潟よりと伝えている。開かれていく扉から差し込むわずかの光の中に現れる仏たちへの賛美は、刹那の感動として見事に表現されている。
 残念ながら、現在、正面の扉は閉じられていて東の入口が開け放たれている。
 しかも、大勢の観光客に囲まれている。
 八一のこの美しい歌に導かれながら、金堂の仏や壁画に対面する喜びを大事にしたい。

注一 法隆寺
 六〇七年、聖徳太子が斑鳩宮のそばに建立したと伝えられ、六七〇年に焼失したが再建された。
 現存する世界最古の木造建築で、金堂・五重の塔・講堂・南大門・中門・夢殿・回廊などがある。また、釈迦三尊像他多数の国宝を含む膨大な寺宝を持つ。

注二 重き扉(随筆・渾齋隨筆 自作小註より)
 私がこの寺に最初御参りをした頃には、一度ごとに案内人が、鍵を持って行って、扉をあけて入れてくれ、出る時には一々閉めたものであった。
 ・・・・・・実際、あの頃、静かな伽藍に響きわたるその軋みや轟きは、まことに餘韻の深いものであった。
 私はこの二首の歌で、折々その頃を思い出している。

東大寺の某院を訪ねて
 おとなへば そう たち いでて おぼろげに
われ を むかふる いしだたみ かな

(おとなへば僧立ち出でておぼろげに我を迎ふる石畳かな)

某院「作者によると東大寺の観音院」
おとなへば「訪へば。訪問すると」
そう「観音院の稲垣晋清師だと作者が自註で書いている」
おぼろげ「はっきりしないさま、不確かなさま」


歌意
 訪問すると一人の僧が誰なんだろうと言うおぼろげな顔をしながら、私を迎えてくれた。
 この寺の石畳の上で。

 八一を知らない僧に出迎えられて、戸惑っている彼の顔が浮かんでくる。この頃(大正一四年)奈良に移住した志賀直哉を中心にしたサロンがあった。後に志賀が奈良を去るとその流れをくんで観音堂の上司海雲住職によって観音堂サロンが開かれ、八一や入江泰吉、杉本健吉など多くの文化人が出入りした。

当麻寺に役小角の木像をみて
 おに ひとつ ぎやうじや の ひざ を ぬけ いでて
あられ うつ らむ ふたがみ の さと

(鬼ひとつ行者の膝を抜けいでて霰うつらむ二上の里)

当麻寺「たいまでら」
役小角(えんのおづの)
役の行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる。奈良時代に山岳で修行して、空を自由に飛ぶなど超能力を使って行った数々の伝説がある。
 葛城山の麓で生まれた役の行者が練行の地として開いた土地が当麻の里、そこに河内の万法蔵院(まんぽうぞういん)が移転して当麻寺になったと言われる」
おにひとつ
「役の行者が退治し改心させて家来とした二匹の鬼(前鬼・後鬼)の一匹。当麻寺講堂の木像の行者像の左右にある」
ぎやうじや「(役の)行者」 あられうつ「霰を降らす」


歌意
 役の行者の膝を抜け出した一匹の鬼が、二上の里の空に上って戯れに霰を降らしているのだろう。

 自註で「(かの鬼が)・・・この(たわむれ)を為すかと空想を()せて詠みたるなり」と言う。
 寺を出た時に急に降ってきた霰、まだ晩秋なのに不思議なことだと思った八一が数々の役の行者の伝説を思い浮かべ、背景にして詠む。山の麓なので二上の里(当麻の里)の天候は刻々と変わるようだ。
 訪れた今春、遊び心豊かなこの歌を味わいながら、瞬く間に変わり行く空と雲を見上げていた。

病中法隆寺をよぎりて(第五首)
 おほてら の かべ の ふるゑ に うすれたる
ほとけ の まなこ われ を み まもる

(大寺の壁の古絵に薄れたる仏の眼われを見守る)

おほてら「大寺、ここでは法隆寺(金堂)」
かべのふるゑ「金堂の古い壁絵」

歌意
 法隆寺金堂の古い壁画、その落剝し消えてしまいそうな仏の眼が私をじっと見守っている。

 落剝、荒廃を嘆く八一の心(眼)は壁画の仏を凝視する。そこでは生きた仏が静かに、しかし確実に作者を見守っている。
 主客の一体化がこの歌を作ったといえる。
 歌人吉野秀雄が鹿鳴集歌解でこう書いている。
『「ほとけのまなこ」はいづれの仏眼でもよく、壁画全部のそれでも差支えない。しかし、「みまもる」感じから言えば、西大壁阿弥陀浄土の左右の脇侍が眼前に浮かんでくる。』クリックしてほしい。
 壁画中もっとも有名な六号画・阿弥陀浄土であり、右脇侍は観音菩薩、左脇侍は勢至菩薩である。
 なお、仏の眼を詠んだものに新薬師寺・香薬師の歌(一、二)がある。しかし、意味合いは違う。


 吉野秀雄 歌人。一九〇二年高崎生まれ。
 慶應義塾大学を胸を病んで中退し、闘病中、正岡子規、伊藤左千夫をはじめ「アララギ」派の短歌に親しみ、作歌を始める。 この頃から会津八一の「南京新唱」にひかれ、のちに師事し、唯一の門弟となる。
 また、万葉集と良寛に傾倒し、「苔径集」「早梅集」「寒蝉集」「良寛和尚の人と歌」などを発表する。
 一九六七年、鎌倉で病没。六五歳。

東大寺懐古
 おほてら の には の はたほこ さよ ふけて
ぬひ の ほとけ に つゆ ぞ おき に ける

(大寺の庭の幡鉾さ夜ふけて縫ひの仏に露ぞ置きにける)

東大寺懐古
「天平時代の東大寺を懐古して。天平一八年(七四六年)一〇月六日、聖武天皇、光明皇后が東大寺に行幸(ぎょうこう)、盧舎那仏を供養した。その夜の灯明は万余あったと伝えられる」
はたほこ
「幡鉾または幡幢、鉾の形をした竿に幡(旗)を付けたもので、法会の時などに立てられる」
ぬひのほとけ「縫の仏、幡鉾に刺繍されている仏」
つゆぞおきにける「夜露が置いた=夜露が下りた」


歌意
 大仏殿の前庭には、仏たちを刺繍した幡鉾が並び、夜が更けていく。
 その仏たちに夜露が降り、しっとりと濡れている。

 東大寺懐古第一首(次欄)で歌われる天皇皇后の夜の行幸の高まりの中で、刺繍された仏たちに秋の夜露が降りたと詠む。
 仏を刺繍した幡鉾と夜露を詠み込む事によって、大仏殿前の状況がありありと浮かんでくる。
 「はたほこ」「ぬひのほとけ」の意味がわかれば、歌意とこの歌の壮大さと繊細さが自然にわかってくる。
 幸いにも奈良の友人・鹿鳴人から彼の懇意にしている井上博道氏の写真が届いた。
 幡鉾や東大寺前の法要の参考になる。

 八一は鹿鳴集自註で「はたほこ」ついて以下のように解説する。
 『万葉集』には「幡幢(はんとう)」、『和名類聚鈔(わみようるいじゆしよう)』には「宝幢」の漢字を宛てたるも、作者はむしろ『東大寺要録』の如く「幡鉾」の二字を宛てんとす。即ち鉾の形をなせる竿に(ハタ)を取りつけたるものなればなり。
 ・・・・晩年、門下で有名な歌人・吉野秀雄とも書簡でこの「はたほこ」について意見を交わしている。
 吉野秀雄はこの歌を高く評価する。

東大寺懐古
 おほてら の ほとけ の かぎり ひともして
よる の みゆき を まつ ぞ ゆゆしき

(大寺の仏の限り灯ともして夜の行幸を待つぞゆゆしき)

東大寺懐古
「天平時代の東大寺を懐古して。天平一八年(七四六年)一〇月六日、聖武天皇、光明皇后が東大寺に行幸(ぎょうこう)、盧舎那仏を供養した。その夜の灯明は万余あったと伝えられる」
ほとけのかぎり「寺中の全ての仏」 ひともして「献灯して」
みゆき「行幸、天皇が外出すること」
まつぞゆゆしき「由由しい。神聖で恐れ多い」


歌意
 東大寺の大仏、そして全ての仏に灯明を上げ、天皇皇后の夜の行幸をお迎えするために待っている様は、特別でとても恐れ多いことだ。

 東大寺を建立した聖武天皇の時代を懐古する。
 あの広大な東大寺の夜を万余の灯明が照らし出す華やかでかつ厳かな様子を見事に歌い上げている。
 華やかで美しい灯りと天皇を迎える数千人の僧侶達に埋め尽くされた東大寺を目を閉じて想像してみるといい。

唐招提寺にて
 おほてら の まろき はしら の つきかげ を
つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ

(大寺のまろき柱の月影を土に踏みつつものをこそ思へ)

唐招提寺「七五九年鑑真によって建立された律宗の総本山」
おほてら「大寺、唐招提寺をさす」
まろきはしら
「丸い柱、エンタシスの列柱が軒を支え吹き放しに立つ」
つきかげ「月光によってできた柱の影、月の光ではない」
ものをこそおもへ「深くもの思いに耽る、思ふの強調表現」


歌意
 唐招提寺の丸いエンタシスの柱が月の光で大地にくっきりと影を落としている。
 その影を踏みながら私は深いもの思いに耽っている。

 早稲田大学文学部の講師として東洋美術史を教えた八一にはギリシャ美術史等の素地があった。遠くギリシャ文化まで思いを寄せながら、深い思いに耽る。
 随筆・渾齋隨筆によるとこの歌を読んだ日は夕方、法隆寺の回廊の丸い柱の影で上の句を口ずさみ、夜、唐招提寺で下の句を読み据えたとある。
 故植田重雄早大教授はこの歌を激賞する。
 歌碑は金堂左にある。また寺には有名な鑑真和上像や多くの優れた仏像がある。

東大寺にて
 おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて
おほき ほとけ は あまたらしたり

(おほらかに両手の指を開かせて大き仏はあまたらしたり)

東大寺
「聖武天皇により作られた大仏=廬舎那仏を本尊とする華厳宗総本山」
おほらかに「ゆったりとして」 もろてのゆび「両手の指」
ひらかせて「お開きになって」 おほきほとけ「大仏」
あまたらしたり「天地の空間に広く満ち広がっておられる」
 注 自註鹿鳴集で八一は以下のように解説する。
『大仏は、宇宙に遍満(へんまん)すとも、或いは宇宙と大さを同うすともいふべし。これを「あまたらす」といへり。「たらす」とは「充足す」「充実す」の意なり』


歌意
 大きくゆったりと両手の指をお開きになって、大仏様はこの宇宙に広く満ち広がっておられる。
 まるで宇宙そのもののように。

 明治四一年八一が訪れた時は大修理中で、正面の高い足場から参拝したと言う。そうした視点が「あまたらしたり」に関連したのかもしれない。
 南京新唱最初に出てくる東大寺の歌は、大仏を簡潔にとらえ、かつ仏教の宇宙観も詠みこんでいる。
 歌碑が南大門と大仏殿の間にある。

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