かうやくし わが をろがむ と のき ひくき
(香薬師わが拝むと軒低き昼の巷をなづさひ行くも
かうやくし
「香薬師・新薬師寺の本尊薬師如来の胎内仏、三回の盗難にあい、今はない」
をろがむ「拝む(おがむ)」
ちまた「巷、街なかの道、道の分かれている所」
なづさひ
「水につかるから人に慣れる、親しむ、なつく等の意味になった。懐かしむの意」
歌意
香薬師を拝もうと真昼の(高畑の)軒の低い家が並ぶ道をなつかしさを感じながら(新薬師寺)へと歩んでいるよ。
「旅人の目に痛きまで緑なる築地の隙の菜畑のいろ」と詠んだ高畑のひなびた道を美しい香薬師に会うために心躍らせながら歩む作者、思いが溢れるようである。
香薬師について作者は自註でこう説明している。
『おもふに、わが「香薬師」は、本来この堂(香山堂)に祀られるを、何故かこの堂は早く荒廃して、この像は「新薬師寺」に移され、その後はその記念のために「香」の一時を仏名の上に留めたるなるべく、寺そのものも、この像あるがために、・・・・「香薬寺」といふ別名を得るに至りしなるべし』
盗難にあった香薬師は寺内の薬師堂に安置されていた。
滝坂にてかき の み を になひて くだる むらびと に
(柿の実を担いて下る村人に幾たび会いし滝坂の道)
滝坂
「紅葉の名所として知られている。高畑町から春日山を石切峠に至る。能登川沿いを登る石畳の道」
になひて「かついで」 くだる「石切峠より下ってくる」
歌意
赤く熟れた沢山の柿の実をかついで下りてくる村人達に、何度も何度も出会った滝坂の道であることよ。
八一は、紅葉の名所と知られる秋の滝坂を南京新唱「滝坂にて」で五首、「地獄谷にて」で一首詠んでいる。さらに放浪唫草で「石切峠にて」を一首あげている。この歌はその第一首、収穫した柿の実を担う村人達を詠みこんで、季節感ある大和の風物を印象的に表現した。七月、緑美しい滝坂で元気に下りてくる年配のご夫婦にお会いした。八一は「むらびと」を「たびびと」とも詠み替えている。
香具山にのぼりて(第二首)かぐやま の かみ の ひもろぎ いつしかに
(香具山の神の神籬いつしかに松の林と荒れにけむかも)
香具山
「
ひもろぎ
「(神籬)大昔に神事で、神霊を招き降ろすために、清浄な場所に
いつしか「いつの間にか」
けむ かも「(荒れて)しまったらしい。“けむ”は過去推量」
歌意
香具山の神の神籬もいつの間にか松林になって荒れ果ててしまったらしい。
大正一四年の頃、香具山が松の林ばかりになって、神の神籬も無いに等しかった様子を歎きと共に詠っている。古代への憧憬が強くその研究に励む八一にとって香具山の現状はとても悲しいものだった。
ひしひしとその心情が伝わってくる。
「春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山」(持統天皇)で有名なこの神山も当時は訪れる人も少なかったが、近年は旅行ブームなどで沢山の人の登頂があるようだ。
香具山にのぼりて(第三首)かぐやま の こまつ かり ふせ むぎ まく と
(香具山の小松刈り伏せ麦蒔くと斧打つ人の汗の輝き)
香具山
「
をの うつ「斧を振るって(松を切る)」
歌意
香具山の小松を切り倒し、その後に麦を撒こうと斧をふるう人の汗の輝いていることよ。
香具山の神性も歴史にも関係なく、ただただ農作のために斧をふるう人の労働と流れる汗に触発されて詠む。己の求める歴史性を秘める香具山とのギャップを感じながらも「あせのかがやき」と目の前の労働を直感的に評価したと言えるだろう。
滝坂にてかけ おちて いは の した なる くさむら の
(欠け落ちて岩の下なる草むらの土となりけむ仏かなしも)
滝坂
「新薬師寺から東へ入る。高畑町から春日山を石切峠に至る。能登川沿いを登る石畳の道」
かけおちて
「岩に刻まれた仏像が、長い年月によって欠け落ちたこと」
かなし「いとおしい」
歌意
岩に刻まれてみ仏が長い年月の間に欠け落ちて、草むらの土になったのもあるだろう。
哀しく、いとおしいことだ。
七月、滝坂を登った。少し行くと東海自然歩道の標識の上に「寝仏」の表示がある。八一は自註で「俗に『寝仏』と名付けて、路傍に顚落して、そのまま横たわり居るものあるなり」と書いている。原型を止めず、土になってしまった仏達は沢山あるだろう。
それを八一は「かなしも」と抒情的に詠んだ。
南京新唱「滝坂にて」五首の三首目。
春日野にてかすがの に おしてる つき の ほがらかに
(春日野におし照る月のほがらかに秋の夕べとなりにけるかも
春日野
「若草山の麓より西の方一帯の平地をいふ。古来国文学の上にて思い出深き名にて、今も風趣豊かなる実景なり。(会津八一鹿鳴集自註より) 現在の奈良公園を言う」
おしてる「おしは接頭語、くまなく照っている」
ほがらか「あかるく澄んだ月」
歌意
春日野にくまなく照っている月の光はあかるく澄み渡っている。まさに秋の夜になったのだ。
南京新唱の巻頭歌である。
古都の秋の月夜を平易に調べ豊かに歌いあげる。
奈良への第一歩を古調で歌うこの一首は、巻頭歌としてとてもふさわしい。
おおらかにゆったりとした調べに誘われて、心静かに奈良の風物と八一の歌の世界に入っていくことが出来る。
春日野にてかすがの に ふれる しらゆき あす の ごと
(春日野に降れる白雪あすのごと消ぬべく我はいにしえ思ほゆ)
あすのごと
「ごとは如く。明日になったならば(雪が消えてしまう)上三句は四句の序」
けぬべく
「消えてしまうであろうばかりに。(それと同じようにわが身わが心が消えてしまいそうなほど想いを込めて)」
おもほゆ「自然と想われることだ」
歌意
春日野に降り積もっている白雪は明日にも解けてしまうだろう。その雪が消えてゆくように、わが身わが心も消え入らんばかりなほどにいにしえを想っている。
南京新唱の冒頭「春日野にて」の第七首。
八一は明治の末、春日野の淡い春の雪を序に使いながら、「けぬべく」と言う言葉で古代への情熱を詠んだ。
仏教美術に傾倒した熱い思いが伝わってくる。
「けぬべく」とは全身全霊をかけるため、わが身が無く消えてしまうほどだということ。
新春の歌としてもふさわしい。
春日野にてかすがの の しか ふす くさ の かたより に
(春日野の鹿伏す草のかたよりに我が恋ふらくは遠つ世の人)
春日野
「若草山の麓より西の方一帯の平地をいふ。古来国文学の上にて思い出深き名にて、今も風趣豊かなる実景なり。(鹿鳴集自註より) 現在の奈良公園を言う」
かたよりに
「片方に寄る。“鹿の伏したる跡は、草は一方に
こふらく「恋うのは。“らく”は“の”の意味」
とほつよのひと「遠い世の人、ここでは古代の人を指す」
歌意
春日野の鹿が伏した後の草が一方に靡き傾いているのと同じように、私の心がひたすら傾いて恋焦がれるのは遠き世の人々だ。
上二句までを序にして「かたよりに」を引き出し、古代へ傾倒する己の心を表現する。
「かたよりに」を八一は万葉集から「秋の田の穂向きのよれる片よりに吾は物思ふ」を引用して説明しているが、この語が見事に前後を繋いでいる。
春日野にてかすがの の みくさ をり しき ふす しか の
(春日野のみ草折り敷き伏す鹿の角さえさやに照る月夜かも)
春日野「現在の奈良公園」 みくさ「みは接頭語、草のこと」
さやに「はっきりと」 つくよ「月夜」
歌意
春日野の草を折り敷いて寝ている鹿の角がはっきりと見えるほどに、冴え渡った秋の夜の月であることよ。
南京新唱の巻頭第二首。鹿の角に焦点を当てて、古都の秋の冴え渡った月夜を読み込む。
サ行音七個を使った調べが、秋の澄み渡った清らかな情景を浮かび上がらせている。
今年の中秋の名月は九月一八日、古都奈良では猿沢池のそばの采女神社での神事のあと、二艘の観月船で采女を乗せて月夜の猿沢池を回るお祭が行われる。
春日野のやどりにてかすがの の よ を さむみ かも さをしか の
(春日野の夜を寒みかもさ牡鹿の街の巷を鳴き渡りゆく)
さむみかも「寒いからであろうか」 さをしか「牡鹿、さは接頭語」
ちまた
「分かれ道、分かれ目、賑やかな街中、世間、騒がしい場所。ここでは街中という意味で使われる」
歌意
春日野の夜が寒いからであろうか、牡鹿が街中を鳴きながら渡っていくようだ。
奈良の常宿・日吉館で、早春の夜の寒い街中を鳴き渡る鹿の声を八一は聞いていた。
「奈良の鹿には、特定の寝所あれど、其処には赴かずして、ひとり群を離れて、夜半に市街をさまよふものあるなり。」と自註にある。
ひとりさまよう鹿の声を歌う事によって、奈良の夜の静寂と旅先での寂寥感を見事に表現している。
一九二五年(大正一四年)三月の作である。
注 日吉館
奈良公園の国立博物館に面した東大寺近くの登大路町にある。会津八一、亀井勝一郎、和辻哲郎、広津和郎などが常宿とした。
上記の歌は日吉館の庭に歌碑として立っていた。宿の看板も会津八一の揮毫によるが、今は廃業している。名物女将・田村きよのさんは一九九八年に亡くなった。
奈良に向かふ汽車の中にて (第一首)かたむきて うちねむり ゆく あき の よ の
(かたむきてうち眠りゆく秋の夜の夢にも立たすわが仏たち)
うちねむり「“うち”は接頭語、眠る」 たたす「立つの尊敬語」
わがほとけたち
「八一が長年親しんできたみ仏。“年ごろわが親しみ、なつかしみ来たれる諸仏、諸菩薩の姿態” 自註鹿鳴集より」
歌意
奈良に行く汽車の中で傾いて眠ってしまう秋の夜の私の夢の中にもお立ちになるみ仏たちよ。
車中の仮眠の夢の中にもみ仏たちが現れる。
八一の深い思いがすんなりと読む者に伝わってくる。
長年かかわってきた奈良の仏たちと八一は一体化していると言える。吉野秀雄はこう解説する。
『「わがほとけたち」は楽にいひ出されてゐるが、また作者にしてはじめてなし得る句で、即ち「ほとけたち」はすでに物としての仏像ではなく、生きの緒に摂取されたいのちある仏躯と化してゐるのだ』
三月二十八日報あり・・・(第五首)かどのへ の たかまどやま を かれやま と
「山光集・香薬師」
(三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに香薬師像のたちまち何者にか盗み去られて今はすでにおはしまさずといふを聞きて詠める)
(門の辺の高円山を枯れ山と僧は嘆かむ声の限りを)
かどのへ「門の辺、新薬師寺の門のあたり」
たかまどやま「高円山、新薬師寺の東にある山。参照」
かれやま
「(自註より)『古事記』二十二段に、速須佐之男命が号泣せらるる状を形容して『青山を枯れ山と
歌意
新薬師寺の門に近い高円山を枯れ山にしてしまうほどに僧は嘆き悲しむだろう。声の限りに泣きて。
須佐之男命の故事の解説が無いと難しい歌である。号泣が山を枯らすほどの悲嘆が故事を知ると迫力をもって迫ってくる。
山中にて(第三首)かの みね の いはほ を ふみて をのこ やも
(かの峰の巌を踏みて男やもかくこそあれと雄叫びにけむ)
かのみね「比叡山・
いはほ「巌、四明獄頂上にある将門が踏んだと言われる将門岩」
をのこ「男、りっぱな男子、ますらお、大丈夫」
かくこそあれ「このようにあるべきだ」
おたけび「雄叫び、勇ましく叫ぶこと」
歌意
あの峰の巌を踏んで男たるものこうでなければならぬ(天下を取る)と叫んだのであろう、将門は!
山中にて第二首・注に記載した将門の雄叫び
「壮んなるかな、大丈夫此に
奈良博物館にてかべ に ゐて ゆか ゆく ひと に たかぶれる
(壁にゐて床ゆく人にたかぶれる伎楽の面の鼻古りにけり)
かべにゐて「博物館の壁に展示されて」
たかぶれる「高ぶった、高慢になった」
ぎがくのめん
「正倉院、東大寺などに二百数十面保存。伎楽は呉の仮面劇、聖徳太子が奨励したという。面は怪異なもの、鼻が高く長いものなど大きくて滑稽な表情を持っている」
ふりにけり「古びてしまった」
歌意
壁にかけられて、床を歩く拝観者を見下ろして、高ぶっているように見える伎楽の面の高い鼻も古びてしまったなあ。
東大寺展で伎楽の面を見た。昔、会津八一が対峙した同じ場に立って感慨深いものがあった。この歌に続いて
「いかでわれ これらのめんに たぐひゐて ちとせののちの よをあざけらむ」と詠い、自分もこの面の仲間に入って千年の後に人を見下ろしてみたいという。
どう感じるかはいろいろだが、「怪異な面、高ぶる」のなかに自己の気持ちに忠実に孤高を保つ自負心がにじみ出ていると思う。
奈良博物館即興(第三首)ガラスど に ならぶ 四はう の みほとけ の
(ガラス戸に並ぶ四方のみ仏の膝にたぐひて我が影はゆく)
奈良博物館
「“この地方に旅行する人々は、たとへ美術の専攻者にあらずとも、毎日必ずこの博物館にて、少なくとも一時間を送らるることを望む。上代に於ける祖国美術の理想を、かばかり鮮明に、また豊富に、我らのために提示する所は、再び他に見出しがたかるべければなり”鹿鳴集自註
南京新唱“くわんおん”の歌、解説より」
ガラスど「ガラスケース」
四はうのみほとけ
「四方四仏。浄土の東西南北を如来が治めるが、ここでは当時西大寺仏像がガラスケースに一列に安置してあった。東・阿閦、西・阿弥陀、北・釈迦、南・宝生だったと八一が書いている」
たぐひて
「沿って、ここでは八一の影が仏像の膝のあたりを沿うように動いたことを言う」
歌意
ガラスケースの中に並ぶ四方四仏の膝のあたりを私の影が沿うように動いていく。
大正一四年、訪れる人も少ない博物館内はひっそりと静かだったに違いない。静かな館内で自らの影が動くことに着目し歌に詠んだところが非凡である。八一は奈良の仏像を風の動きやさしこむ光などと共に詠んできた。
ここでは「ひざにたぐひてわがかげ」と自らの影を詠んで、仏像を浮き上がらせて見事だ。
法華寺温室懐古からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の うへ に
(から風呂の湯気たちまよふ床の上に膿に飽きたる赤き唇)
からふろ
「空風呂、本堂東にある蒸風呂のこと。悲田院、施薬院などの福祉施設を作った光明皇后が、千人の施浴の誓願を立て建設したもの」
ゆげたちまよふ「湯気がもつれ絡まって、漂っている」
うみにあきたる「飽きる。膿を吸うことに疲れてしまった」
あかきくちびる「(光明皇后の)赤い唇」
歌意
蒸風呂の湯気が漂い充満する床の上に、沢山の癩病患者の膿を吸ってお疲れになった皇后の美しい赤き唇がある。
第一首で千人の施浴を実行する皇后の行為を詠んだ八一は、この歌(第二首)で本堂・十一面観音の唇を皇后の赤き唇に重ねる。
「うみにあきたる」赤き唇の皇后の一瞬の光景を想像し、怪奇的とも言える妖艶さを再現する。
遠き昔を想像力と言葉の力で眼前に生々しく表出する八一に圧倒される。すざましいとも言えるこの歌は、伝説(仏の出現)を詠った第三首をもって「温室懐古」として穏やかに完成される。
法華寺温室懐古からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を
(から風呂の湯気のおぼろにししむらを人に吸わせし仏あやしも)
からふろ「上記第二首参照」
ゆげのおぼろ「立ち込める湯気でぼんやりしている」
ししむら
「(肉叢)肉のかたまり。肉体を言い、ここでは癩病(ハンセン病)患者のとろけて流れ出る膿をさす」 ひと「光明皇后」
ほとけ「皇后に膿を吸わせた
あやしも
「霊異なり、怪奇なり、不可思議なりというふこと・・・自註より」
歌意
蒸風呂の湯気が立ち込めぼんやりした中で、癩病患者になって皇后に膿を吸わせた仏の行いは人知でははかりしれないとても不思議なことであるよ。
本尊十一面観音の歌を背景に法華寺温室懐古三首はこの歌で統一性を持って完成する。
第一首の皇后の千人の施浴の紹介から第二首の赤き唇に象徴される怪奇的とも言える情景が、この第三首で仏の行為(教え)として詠われることによって、穏やかな世界として統一・完成する。
「赤き唇」の鮮烈なイメージを中心にした一連の作は、あやしく美しいものとして当時の法華寺の世界を浮かび上がらせる。「赤き唇」が会津のエロだという批判に答え、官能的とも言える仏の表現について八一が言ったことを要約する。
仏にすがって詠むのではなく、その時代を背景に美術的な観点からも考えて仏を詠えば、この十一面観音そのものに官能的な持ち味があるから自然にそうなり、新薬師寺の香薬師如来にはその仏の醸し出す「さびしさ=寂寥」があるから、あのように詠いだされる。
軽井沢にてからまつ の はら の そきへ の とおやま の
(落葉松の原のそきへの遠山の青きを見れば故郷おもほゆ)
そきへ「退き方、遠く離れた方」
歌意
(軽井沢の)落葉松林の遠く隔たった彼方の空に遠山のくっきりと青く聳えているのを見ると故郷(新潟)が偲ばれることだ。
明治の末、夏の軽井沢で故郷を詠んだ。
「の」の連続による流れるような調べが素晴らしい。
澄み渡った自然と故郷への思いが溢れるこの歌は、盛夏(お盆)にふさわしい。
三月十五日大鹿卓とともに平城の宮址に遊び大極の芝にて(第四首)かれくさ に わかくさ まじり みだれ ふす
(枯草に若草混じり乱れ伏す大宮処踏めば苦しも)
「八一門下。小説家、詩人金子光晴の実弟(一八九八~一九五九)」
かれくさに わかくさまじり
「山光集自註で“『万葉集』巻十四の雑歌に「ふるくさににひくさまじり」の句あり。”と書いている。万葉集巻十四雑歌三四五二
「おもしろき野をばな焼きそ古草に新草交り生ひは生ふるがに」
おほみやどころ
「大宮処。皇居のあったところで、ここでは平城宮址の大極殿」
歌意
枯草に若草が混じって乱れ伏している荒れ果てた大極殿の址を踏むのは心が痛む
戦争中の一九四三年(昭和一八年)三月、八一は平城京跡を訪れ平城宮址一三首を詠む。国中で民族意識が高揚するなか、古代への想いを吐露する。
また、天智天皇が都とした大津の宮の荒れた様子を見て詠んだ万葉集の長歌(作者: 柿本人麻呂)
「・・・大宮は ここと聞けども
浄瑠璃寺にてかれわたる いけ の おもて の あし の ま に
(枯れわたる池の面の葦の間に影うち浸し暮るる塔かな)
かれわたる「すっかり枯れてしまっている」
いけのおもて「池の面、塔の前に池がひろがる」
あしのま「葦が生えている間に」
うちひたし「うちは接頭語、塔の影が水面に浸されて」
歌意
冬枯れの葦の間の池の水面に、塔の影を浸しながら暮れていく三重の塔よ。
第一首で
「じやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる はる の やまべ を ひとり ゆく なり」と詠んで、期待して訪れた浄瑠璃寺は冬枯の風景に中で暮れていこうとしていた。まだ寒い初春の静かな寺内に八一は一人ゆったりと浸っていたのである。
歌人・原田清は解説でこう書いている。
「かげうちひたしくるるたふかな」が春の到来を告げているような響きを持つ。作品の調べによる。
堀辰雄の「大和路・信濃路」(浄瑠璃寺の春)を以下に引用する。
この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた
法隆寺東院にて 第二首ぎそ の ふで たまたま おきて ゆふかげ に
(義疏の筆たまたま置きて夕光に下り立たしけむこれの古庭)
ぎそ
「
たまたま「時おり、たまに」 ゆうかげ「夕方の光」
おりたたし「下りてお立ちになった」 これ「夢殿」
ふるには「古びた庭」
歌意
義疏をお書きになる筆を時おり置かれて、この夕方の光がさしこむ古庭に下りてお立ちになられたのだろう。
八一の聖徳太子への思慕の念が、庭にたたずむ太子を浮かびあがらせた。大正末期の訪れる人がほとんどない夢殿と当時の圧倒的な太子崇拝を思うと静かな夢殿の庭の情景が良く理解できる。
八一は鹿鳴集自註で義疏を「ぎそ」と表現した理由を書いている。
『・・・仏家にては「疏」に字を「シヨ」と読む習はしなるも、作者は「シヨ」の音調のやや硬きを避けて、特に「ソ」と読めり。恰もこの集中にて「釈迦」を、ことさらに「サカ」と読めるところあると同じなり。
特にこれを註す』八一は音調を大事にした。そのために作歌の途中で何度も何度も音読している。
薬師寺東塔くさ に ねて あふげば のき の あをぞら に
薬師寺東塔
「天平二年・七三〇年建立の裳階つき六層の三重塔」
くさにねて「草の上にねころんで」
かつ
「そのそばからすぐに。自註で作者は次のように解説している。その場の実感より偶然かく詠み出でたるものにて、他の日本語にては説明しがたし。依りて思ふに{そばより}{かたはしより}など辞書に説けるが、作者の意に最も近きが如く思はる」
歌意
草に寝転んで美しい塔を仰ぎ見ていると軒に迫る秋空を雀が飛びまわっている。
大空にそびえる東塔の美しさを、飛び交う雀の動きで際立たせている。
「くさにねて」作者はどっしりとした視点からゆったりとした時の流れに漂うているようだ。
境内には「すいえんの・・」(八一)の石碑とともに佐佐木信綱の有名な石碑がある。
行く秋の 大和の国の 薬師寺の
山田寺の址にてくさ ふめば くさ に かくるる いしずゑ の
(草ふめば草に隠るる礎の靴の拍車にひびく悲しさ)
山田寺
「舒明天皇の時代に蘇我倉山田石川麻呂が建立。遺跡は奈良県桜井市山田にある」 いしずゑ「山田寺の礎石」
はくしや
「馬具で、靴のかかとに付けるもの。拍車で馬の腹を刺激する」
歌意
何も残っていない山田寺の草原を踏み分けていくと草に隠れた礎石に乗馬靴の拍車があたって鋭い響きが出る。嗚呼!なんと淋しい響きだろう。
蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏一族であったが、入鹿とは敵対し大化改新では娘婿の中大兄皇子に加担した。その石川麻呂が造営を始めたのが山田寺。
だが六四九年謀反の疑いをかけられた無実の石川麻呂はこの寺で自害した。
この悲劇的な山田寺跡を会津八一が詠んだ。
声を出して読み込んでいくと、か行音の繰り返しで音が響いてくるようだ。
(くさ くさ かく くつ はく ひびく)
下山の途中にくだり ゆく たに の さぎり と まがふ まで
(下りゆく谷のさ霧とまがふまで松の梢に白き湖)
さぎり「霧のこと。“さ”は接頭語」 まがふ「間違える」
しろき「下山の途中に見えた湖の水の色 注参照」
みづうみ「琵琶湖」
歌意
下山してゆくと谷の霧と見間違えるばかりに、松の梢に琵琶湖の水が白い。
比叡山から坂本に下る途中で詠んだ歌。車で下山すると所々で琵琶湖を景観できる場所に出る。
山道に現れ消える琵琶湖の景色は誰もが感嘆の声をあげる。八一は美しい湖を霧の白さと対比させて表出した。
注 鹿鳴集自註より引用
しろき 下山の途すがら、樹梢の間に琵琶湖の水を望むなり。
最澄の作れりといふ『
「叡岳ハ
前に掲げたる即非の詩には、
「殿ハ山影ヲ低ウシテ合シ、門ハ湖光ニ対シテ開ク」の句あり。地勢まさにかくに如きなり。
橘寺にてくろごま の あさ の あがき に ふませたる
(黒駒の朝の足掻きに踏ませたる岡の草根となづさひぞ来し)
橘寺
「奈良県高市郡明日香村にある聖徳太子生誕の地と伝えられる天台宗の寺。開創は六〇六年、太子建立の七ヶ寺の一つともいう。太子が
くろごま「毛色の黒い馬」
あがき「あがきは足掻き、馬が地面を蹴って進むこと」
くさね「単に草、ねは接尾語」
なづさいぞこし「懐かしく思い、心を込めてやって来た」
歌意
聖徳太子が朝、黒い馬に乗って走り、その馬に踏ませたのがこの岡の草だと懐かしく思いながら、心を込めて橘寺のあるこの辺りにやって来た。
黒駒に乗って疾駆する聖徳太子という伝説上の風景を太子への思慕を込めて、歌の上に創出した。
初句からの力強い響きと熱い思いを読み取ることができる。法隆寺の玉虫の厨子などはこの寺にあったという言い伝えがある。太子に対する思慕の念が強かったのは一連の法隆寺を読んだ歌でよく分かる。
奈良博物館にてくわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
(観音の白き額に瓔珞の影動かして風わたる見ゆ)
くわんおん 「十一面観音」
やうらく
「瓔珞。本来は仏像の
歌意
仏の白い額に宝冠より垂れ下がっている瓔珞の影がかすかに動いている。
ああ、早春の吹き抜ける風が目に見えるようだ。
観音が安置される法輪寺講堂を訪れた。
小さな寺で訪れる人も少なくのんびりとしている。
喧騒の法隆寺より北二㌔にあるとは思えない。
四㍍弱の巨大な観音は迫力がある。
この歌の素晴らしさは、本来動くはずの無い固定された瓔珞(金属)が動いたとしてそこに微風を見たと歌い上げたところだ。
八一の心象が投影された見事な観音の歌である。
大正一三年に出版された「南京新唱」では詞書が「法輪寺にて」となっており、十一面観音を読んだか、帝国博物館に法輪寺が出展していた虚空蔵菩薩を読んだのかあいまいなところがある。
奈良博物館にてくわんおん の せ に そふ あし の ひともと の
(観音の背に副ふ葦のひともとの浅き緑に春立つらしも)
くわんおん「百済観音」
せにそふあし
「観音の光背を添え木として支えている木、その木が葦の茎の形をしている」
あさきみどり
「緑青の彩色の落剥が激しいが、なお緑色がかすかに見える」
歌意
百済観音の背に添えられている一本の葦の茎のささえにわずかに浅く薄い緑が見える。
春が来ているのだなあ。
法隆寺を訪れて、「せにそふあし」を凝視しても色合いが簡単にわかるものではない。
八一はそのわずかな薄緑を感受し、春を感じさらに明るい春の到来を読み上げた。非凡だ。
八一自身、自著でこう書いている。
「その支柱に微かに残れる白緑の彩色をよすがとして、そぞろに春色の蘇り出て来たらんことを、希望を込めて詠めるなり」
春日野にてこがくれて あらそふ らしき さをしか の
(木隠れて争ふらしき牡鹿の角のひびきに夜はくだちつつ)
こがくれて「木隠る 木の陰に隠れること」
あらそふ
「牝を争ひて相闘ふなり。時としては、一頭
くだちつつ「よのくだつ 夜のふけること」
歌意
木立に隠れて牝鹿を牡鹿たちが争っているようだ。静かな春日野に激しく打ち合う角の音が響きわたり、秋の夜は更けていく。
明治末期荒廃した古都奈良の夜は静かに更けていく。八一は「私の定宿がある
恋する牡鹿たちの争いの音だけが暗闇の中から響いてくる。角の響きを読むことによって、古都の静寂を見事に浮き彫りにしている。
また、万葉集で詠まれる鹿の歌はほとんどその鳴き声であったことを述べて「つののひびき」などは近世の新しい詩材とも書いている。
そう言えば、万葉集ではないが百人一首の
「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」も鳴き声から秋を詠んでいる。
奈良博物館にてこんでい の ほとけ うすれし こんりよう の
(金泥の仏うすれし紺綾の大曼荼羅に虻の羽根打つ)
こんでい「金泥。金粉をにかわで溶いた顔料」
うすれし「(月日が経って)色あせた」
こんりよう
「紺綾。いろいろな模様(綾)を織り出した紺色の絹織物」
だいまんだら
「曼荼羅とは、仏(大日如来)の悟りの境地である宇宙の真理を表すもの、仏・菩薩などを体系的に配列して図示してある。
胎蔵界曼荼羅・金剛界曼荼羅などがある。ここでは奈良・子嶋寺伝来の縦三五〇糎ほどの大きな曼荼羅をさす」
あぶ「虻。ハエより大形で、体は黄褐色で複眼が大きい」
歌意
金泥で描かれた仏たちが歳月によって薄れてしまっている紺色の綾織の大曼荼羅、その曼荼羅の前で一匹の虻が羽根を鳴らして飛んでいる。
なんとも想像しにくい歌である。
八一はこう書いている。
「この歌が解らないといふ人が多い。けれども實際あの博物館に行って、物を見た人は、苦もなく解る筈である。・・・博物館の最大のケイスでも懸けきらぬほどに大きく長い兩界曼荼羅の畫面に、羽根を鳴らして一つ飛ぶ虻を想像してもらひたい」
(渾齋隨筆・自作小註)
八月、模写複製したものと実物が奈良博物館に展示されたので、三五〇糎の大きな曼荼羅の前に立つ事ができた。複製の美しさに助けられながら、この歌を口ずさむ。量感あふれる美しい曼荼羅に見入り没入する八一が、飛び込んできた虻の羽音にはっとする様を思い浮かべてみる。
壮大な曼荼羅の美、うすれた仏に感じられる悠久の時の流れ、静的な曼荼羅を一層鮮明に浮かび上がらせる動的な虻の対置。その上、声調の重厚さが迫力を持って心に響いてくる。
声調の良さから、自然に口ずさむことになるこの歌が、徐々に我が物になってくる。不思議だ。