前の中書王(中務卿兼明親王)も九条の太政大臣(藤原信長)も花園の左大臣(源有仁)も、どなたも自分の血筋が絶えることを願っておられた。
『大鏡』によれば、染殿の大臣(藤原良房)も「子孫などない方がいいのですよ。逆にぐうたら息子ができたら大変です」とおっしゃったそうだ。
聖徳太子も自分の墓を作らせるときに「あれもいらない。これもいらない。わたしは子孫を残すつもりはないのだから」とおっしゃったという。
(第七段)
人間の露のような命がもし永遠に続くとしたら、人間の煙のような命がもし消え去ることなくこの世に留まるとしたら、この世の面白みもきっと無くなってしまうだろう。
人生は限りがあるからいいのである。
命あるものの中で、人間ほど長生きするものはない。
蜻蛉(かげろう)のように一日で死ぬものもあれば、蝉のように春も秋も知らずに一生を終えるものもある。
それと比べたら、人生はその内のたった一年でも、ゆったりと暮らすなら、実に長く感じるものである。
それを不足に思って、いつまでも生きていたいと思うなら、たとえ千年生きても一夜の夢のように短いと感じることだろう。
どうせ永久には生きられないのに、どうして長生きして醜い老人になろうとするのか。
「命長ければ辱多し」と言うではないか。
長くてもせいぜい四十前に死ぬのが見苦しくなくていいのである。
もしそれ以上生きるようなことがあれば、人は外見を恥じる気持ちを忘れて人前に姿をさらすようになるだろう。
また、死が近づくと子孫が大切になって、孫子の栄える将来まで長生きしたくもなるだろう。
さらには、この世に対する執着心ばかりが強くなって、風流も分からなくなってしまうだろう。
まったく嘆かわしいことである。
(第八段)
人の心を迷わすものでは、色欲に勝るものはない。
人の心とはたわいないものなのである。
女の匂いにしても、それは本人の匂いではなく、服に付けた一時的なものだと分かっていても、いい匂いのする女に出会うと、男は必ず胸がときめくものだ。
久米の仙人が洗濯女の白いふくらはぎを見て神通力を失ったという話があるが、実際そういうこともあるかもしれない。
なぜなら、女の素肌のつやつやとふっくらとした美しさこそは、まさにこの色欲を掻き立てるものだからである。
(第九段)
髪の美しい女こそ男の目を引きつけると思われているようだが、風情のある女の魅力は話をする様子で障子越しにも伝わってくるものである。
いや、女というものはただそこにいるだけで何かにつけて男の心を惑わすものだ。
そもそも、女がくつろいで寝ることなく、我が身をかえりみず、耐え難いことにも耐えるのは、ひとえに愛欲の心があるからである。
実際、愛欲の道はかくも根が深くその源は極めがたい。
確かに、五官と思考力がもたらす数多い欲望はどれも修行によって捨て去ることが出来る。
しかし、その中で愛欲の迷いを捨てることがもっとも難しい。
これは老いも若きも愚者も賢者も同じことである。
そもそも、巨大な象も女の髪で編んだ綱につながれると大人しくなるといい、秋には女の履いた下駄の木で作った笛の音に必ず鹿が集まってくるというではないか。
男が自ら忌み恐れ遠ざけるべきものは、まさに女がもたらすこの迷いである。
(第一二段)
「気心の合う人とじっくり話し合いたい。風流なことについても世の中のはかなさについても、心おきなく話をしたい。そうすれば、楽しいだろうし満ち足りた気持ちになるだろう」と、いつもそう思う。
だが、実際にはそんな相手に巡り会うことはまずない。
それどころか、相手と話を合わせるのに忙しくて、よけいに孤独感におそわれることの方が多い。
確かに、人が口に出して言う程のことなら互いに受け入れる価値はあるかもしれない。
しかし、多少意見の違う人間同士なら、相手の意見を否定して言い争ったり、理詰めで議論をすすめたりしてこそ、無聊ぶりょうも慰むものだと思う。
ところが、実際には、通り一遍のたわいないことを話す分にはよくても、ちょっとした愚痴を言うにつけても、残念ながら、相手は自分とは別の人間である以上、とても心の友とは呼べないところがあるのは仕方のないことである。
(第一三段)
一人で明かりの下に本を広げて、見知らぬ世界の住人を友とすることほど、心なごむことはない。
わたしの好きな本は『文選』の感動的な巻、『白氏文集』『老子』『荘子』である。
わが国の学者が書いたものでも、昔のものには感動させられることが多い。
(第一九段)
季節の変化ほど面白いものはない。
「秋ほど素敵な季節はない」という人は多い。
確かにそうかもしれないが、春の景色を見るときの感動はそれ以上だとわたしは思う。
春の鳥がさえずり始め、おだやかな光が差し込み、垣根の下に雑草が生えだす。
それから、あたりに霞がたなびくようになると桜が咲き始めるのだ。
ところが、ちょうどその頃に雨が降りつづいて、桜は気ぜわしく散ってしまう。
そして、新緑の季節の到来。
どれも心浮き立つことばかりである。
花は橘というが、昔のことを偲ばせるのは香り高い梅の花だ。
それに清楚な山吹の花、しなやかな藤の花、どれも捨てがたい。
「木々の枝葉が青々と茂る灌仏会かんぶつえや葵祭りのころこそ、逆にこの世の悲しさ切なさを痛感する」という人がいるが、わたしもその一人だ。
菖蒲を軒にさす端午の節句や、田植えが始まるころに、水鶏くいなの鳴く声を聞くと切なさが募ってくる。
真夏の日の夕方、貧しい家に夕顔が白く咲いて、蚊取り線香が煙っている景色もまた一興だ。
神社で行われる夏越しの祓はらいも面白い。
秋の七夕祭りは清楚な魅力がある。
夜は日毎に肌寒さがまし、雁が鳴きながら空を渡ってくる。
萩の下葉が色づき、稲を刈って干す光景も見られる。
秋は素敵なものを数えればきりがない。
台風の翌朝あさの空もまたいい。
こんなふうに数え上げるのは、まったく源氏物語や枕草子の二番煎じだが、同じ事をしていけないという法はない。
それに言いたいことを言わないでいると腹に悪いと言うから、筆にまかせて書いているのである。
どうせすぐに破り捨てる気晴らしの産物だから、人に読んでもらうつもりはない。
冬の景色も決して秋に負けてはいない。
水辺の緑の上に紅葉が散り残っている光景、霜が降りて真っ白になった朝の景色、庭の小川から蒸気が立ち上っているところなどは、なかなかのものだ。
師走に人がせかせかしているのを見るのは、最高に愉快だ。
二十日すぎの寒々として澄み切った空に誰も振り向かないような荒涼とした月が出ているのを眺めるときの切なさといったらない。
宮廷で仏名会ぶつみょうえが行われたり、荷前のさきの勅使が出るのは、また格別な見物みものである。
そのような儀式が正月の準備の間に立て続けに行われるのが面白いのである。
大晦日の夜に追儺ついなの儀式があると思うと元日の朝にはもう四方拝しほうはいの儀式が行われる、このあわただしさがいいのだ。
町では、大晦日の夜の暗闇の中を、誰かが松明を持って夜中過ぎまで忙しそうに走り回って、門をたたいては何か大声で言っている。
しかし、そんな音も夜明けとともに無くなって静けさがあたりを覆う。
年越しの切なさを痛感する瞬間である。
祖先の霊を迎える魂祭たままつりを大晦日にする習慣は都ではすたれたが、それが東国に残っているの見たときには感動したものである。
こうして夜が明けていく元旦の空の景色は、昨日とたいして変わらないのに何かすっかり新しくなったような気がするのも面白い。
大通りは軒ごとに立てられた門松でにぎわい、新年を祝っている様子もまたいいものである。
(第二〇段)
誰だったかある世捨て人が「わたしはもうこの世には何も思い残すことはないが、ただ、この空に別れを告げるのだけはさびしい」と言ったが、まったくわたしも同感である。
(第二六段)
風も吹かないのに花が散るように、人の気持ちは移り変わっていく。
親しかった頃にいとしいと思って聞いた言葉はどれもみな覚えているのに、親しかった人は自分の手の届かないところに行ってしまう。
これが世の習いとはいっても、別離は人の死よりもはるかに悲しいものだ。
だからこそ、白い糸が色に染まることを悲しみ、道が二つに分かれていくことを嘆く人もいたのである。
堀河天皇の時代の歌に、
昔見し妹いもが墻根かきねは荒れにけり、つばな混じりの菫のみして
(むかし親しかった人の垣根も今は荒れ果て、雑草の中のスミレだけが昔をしのぶよすがである)
という歌がある。
このさびしい景色も、そんな思いを歌ったものだろう。
(第三一段)
雪がきれいに降り積もったある朝、わたしは用事があってある人のところに手紙を送った。
ところが、雪のことを何も書かずに送ったところ、こんな返事が送られてきた。
「あなたは今朝の雪についてわたしがどう思うかお尋ねになりませんのね。
そんなひねくれた心根の人のおっしゃることに、わたしはとても耳を貸す気にはなりませんわ。
あなたの性格には、わたしくし、つくづく嫌になりました」
これを見てわたしは思わず笑ってしまった。
この人が故人となった今となっては、こんなことも忘れがたい思い出である。
(第三五段)
字が多少下手でも遠慮せずどんどん手紙を書いたほうがいい。
むしろ、自分の悪筆をみっともながって人に書いてもらったりする方が嫌みである。
(第三八段)
富と名声の追求に心を奪われて、休むことなく苦労を重ねて一生を過ごすのは馬鹿げたことである。
富が多いということは、災いも多いということである。
富はさまざまな災難や面倒を引寄せる。
たとえ空に届くほどの富を築いても、死後にはそれが人々の災いとなる。
愚か者が見て喜ぶような贅沢品もまた無益なものである。
大きな牛車、よく肥えた馬、宝飾品なども、心ある人が見たら馬鹿げたものに見えるだろう。
金は山に捨て、宝石は川底に投げ込むべきだ。
富に目がくらむのは、愚かな人間のすることである。
不朽の名声を長く後の世にとどめることが理想のように言われている。
しかし、例えば、出世した人や高貴な人は必ずしも優秀な人間とは限らないのだ。
頭が悪くて駄目な人間でも、良い家に生まれて良い人に見出されたら、出世して高給取りになることもある。
一方、ずばぬけて優秀な賢人や聖人でも、自分から進んで低い地位にとどまっていたり、不遇のままで一生を終えたりする人はたくさんいる。
ひたすら出世を願ってやまないのも、また愚かな人のすることである。
すぐれた知性と教養で名声を残すことなら望ましいように思えるが、よく考えてみると、名声にこだわることは、人の評価にこだわることである。
しかし、誉める人もけなす人もどちらもいずれは死んでしまう。
彼らの話を伝え聞いた人もまたじきに死んでしまうのである。
だから、誰に気兼ねすることもないし、誰に知られたいと思う必要もないのである。
なまじ名声など手に入れると、かえってそれがもとで人に批判されることにもなる。
まして、自分が死んだ後に名前が残っても何も得なことはないのだ。
名声を願う人も、また愚かな人というべきだろう。
ただ、あくまで知性と教養を磨きたいという人のために、「知恵が生まれると嘘も生まれる」ということを言っておこう。
教養を身につけることも、結局は人間の欲望の積み重ねでしかないのである。
人から聞いて知ったことや、勉強して学んだことは、本当の教養ではない。
では、何を本当の教養と言うべきだろうか。
それは、善とか悪とか言っても、根本は同じであって、本当の善などどこにもないことを知ることである。
真の人間にとっては、知性も教養も功績も名声もどうでもいいことである。
そんな人の存在を誰が知り、誰が人に伝えるだろうか。
これはなにも教養を隠して愚か者のふりをすることではない。
こういう人ははじめから教養のあるなしとか損得勘定には無縁の暮らしをしているのである。
迷妄にとらわれて富と名声を追い求めることは、以上のように、そのどれをとっても無意味なことであって、論ずるに値しないし、望むに足らぬことなのである。
(第三九段)
ある人が法然上人に「念仏の行をしているときに眠くなって続けられなくなることがあります。
この障害はどうすれば克服できるでしょうか」とお尋ねしたところ、「目が覚めてからまた念仏してください」と答えられたそうである。
じつに尊いことであった。
また、「往生は、一定いちじょうと思へば一定、不定ふじょうと思へば不定なものです」とおっしゃったという。
これも尊い。
また、「疑いながらも念仏すれば往生します」ともおっしゃった。
これもまた尊い。
(第四一段)
五月五日に上賀茂の競馬を見物したときのことである。
わたしの乗った牛車の前に一般の人たちが大勢立って全く競馬が見えなかった。
そこで、わたしたちは全員車から降りて馬場の柵に近づこうとした。
しかし、あたりはたくさんの人でごった返していたので、誰もかき分けて入っていけそうになかった。
このとき、馬場の向こう側で栴檀せんだんの木に登って木の股に腰をかけて見物している一人の法師がいた。
ところが、その法師は木につかまってはいるものの、こっくりこっくりと居眠りをしていて、木から落ちそうになると目を覚ますということを繰り返していた。
この有り様を見たある人がこの法師を馬鹿にして「なんて愚かなやつだろう。あんな危ない木の上にいながら、のんきに居眠りをしているよ」と言った。
それに対してわたしは思いつくままに「わたしたちの命の終わる時は今この瞬間に来るかも知れないのに、それを忘れて物見遊山をして一日を過ごしているわたしたちの方が、愚かな点では遥かにまさっているのに」と言った。
するとわたしの前にいた人たちが「まことにそのとおりでございますね。本当に愚かなのはわたしたちでございます」と言いながら、みんなで後ろを振りむいて「ここにお入りなさいませ」と場所を空けてわたしを呼び入れてくれた。
この程度の理屈なら誰でも思いつくものだが、場合が場合だけに、思いがけない気がして胸を打つところがあったのかもしれない。
人間は情で生きているから、何かの折に感動するのは珍しいことではないのである。
(第四九段)
仏教の修行は老後になってからと呑気に構えていてはいけない。
古い墓もその多くは若い人の墓である。
人は予期せぬ病に冒されて、突然この世を去るのである。
そして、その時初めて過去の過ちを知る。
過ちとは他でもない、後でやればいいことを先にやり、急いでやるべきことを後回しにしたことだ。
そうやって過ぎてしまった過去のことを悔やむのである。
まさに後悔先に立たずだ。
我々は死が刻々と自分の身に迫っていることを常に心に懸けて、そのことを片時も忘れてはいけない。
そうしてはじめて、世俗の汚れから遠ざかることもできるし、仏教の修行に真剣に取り組むこともできるのである。
昔、ある高僧は人が訪ねてきてあれこれ要件を伝えようとしたのに対して、「今は火急の事態が迫っている。それがもう今日明日のことなのだ」と言って、耳をふさいで念仏を唱えて、とうとう往生を遂げたという。
これは『往生十因』という書物にある話である。
一方、心戒という高僧は、この世の無常を思うあまりに、じっと座っていることが出来ずいつも蹲踞の姿勢をとっていたという。
(第五二段)
仁和寺のある僧侶は年を取るまで一度も石清水八幡宮に参詣したことがなかった。
このことを情けないと思ったので、ある日思い立って、たった一人で歩いてお参りに行った。
ところが、この僧は極楽寺と高良神社などに参拝しただけで満足して帰ってきてしまった。
そして、仲間の僧侶に向かってこう言ったという。
「年来の思いをとうとう果たしました。聞きしにまさる尊いお社でした。
それにしても、お参りに行った人が誰も彼も山へ登っていったのはどうしてでしょう。
わたしも気にはなりましたが、自分は神社にお参りするために来たのだと思って、山には行きませんでした」
ちょっとしたことでも指導者のいるのが望ましいということである。
(第五五段)
家屋を設計するときは、夏の住みやすさを基本にしなければならない。
冬の間はどんな家でも住むことが出来るが、設計のまずい家は夏の暑い頃には住みづらいものである。
庭の水は深いと涼しさが感じられない。
水は浅くて流れているのが、遥かに涼しげである。
細かい文字を読んだりするには、引き戸の部屋の方が釣り上げ式の蔀戸(しとみど)の部屋より明るくてよい。
天井の高い部屋は冬が寒く灯りをつけても暗い。
また、家を建てるときには、用途を特定しない部屋を作るのが、見た目も面白みがあるし、いろんな役に立ってよい。
以上は、ある話し合いの席で言われていたことである。
(第五六段)
久しぶりに会った人から、相手の身の上話ばかりを延々と聞かされるほど、白けることはない。
どんなにうち解けた間柄の人でも、しばらくぶりの再会なら、少しは遠慮というのものがあっていい。
ところが、二流どころの人間と来たら、ちょっと外出しただけでも、その日の出来事を、息付く暇もなくしゃべっては一人でおもしろがっているものだ。
一流の人なら、大勢の人に話をしても、一人の人に話すような話し方をするので、自然と他の人も耳を傾けるものだが、そうでない人の話し方となると、誰にともなく大勢にむかって話しかけて、しかも見てきたような作り話をして、一同を大笑いさせるなど、実に不作法なものである。
話をするときに、面白いことを言っても自分ではそれほど興に入らずにいるか、それとも、面白くもないことを言って自分で大笑いするかで、だいたいその人の素性が知れるものである。
人の外見の善し悪しや、人の学問のあるなしを論じ合う場合も、自分のことを引き合いに出す人がいるが、まったく困ったものである。
(第五八段)
「修行をしようという気持ちがあるなら、どこで暮らしていても同じだ。自宅にいて人付き合いを続けていても、来世を願うのは難しいことではない」という人がいる。
この人は来世を願うことがどんなことか知らない人である。
そもそも世をはかなんで生き死にの世界を超越する決心をした者が、何が面白くて一日中人にこき使われたり家のやりくりに専念したりできるだろうか。
心は周囲の環境に影響されやすいから、静かな環境の中にいないと仏の道の修行は難しいのである。
とはいっても、今の人は昔の人ほど辛抱強くないから、山の中に入っても飢えをしのいだり雨風をふせいだりする手だてがなくては長続きしない。
だから、場合によってはどうしてもこの世に執着しているように見えることが生じてくる。
それに対して、「それでは世を背いた意味がない。
そんなことならどうして世捨て人になったのか」などと言うのは言い過ぎである。
一度世を捨てて修行の世界に入った者の欲望は、世渡り上手の人間のどん欲さと比べたら微々たるものである。
紙の布団と麻の着物と一膳の飯と粗末なおかずを買うのにどれだけのお金がいるだろう。
その程度のものならすぐに手に入るから、満足するのも早いものである。
その上に世捨て人であることを恥じる気持ちがあれば、たとえこの世に執着しているように見えても、世俗から遠ざかって仏の道に近づくのは容易なことである。
人間としてこの世に生まれた以上は、何としても世を捨てるのが望ましい。
悟りの境地を目指すこともなく、ひたすらこの世に執着しているような人は、どこにもいる動物と少しも違わないと言えるのではないだろうか。
(第五九段)
大事を決行しようと思う人は、緊急な用事も気になることもすべてほっぽりだして、すぐに決行すべきである。
「もうすこし後で。これをやってしまってから」とか「どうせなら、あのことだけは片づけてしまってから」とか「あれがあのままでは人に笑われる。後で人に非難されないように始末をつけてから」とか「何年もかかることではないので、あのことが終わるのを待とう。すぐに済むことだ。何もあわてることはない」などと考えていると、避けられない用事が次から次へと際限もなく出てきて、いつまでたっても決行に踏み切れないものだ。
だいたい、人のすることを見ていると、多少志のある人は、みんなこういう風に計画倒れで一生を終えてしまっているようだ。
しかし、近所に火事が迫ってきて逃げようというのに、「もう少ししてから」などとと言う人がいるだろうか。
命を失いたくなければ、格好などかまわず、財産もほっぽりだして逃げることだ。
命は人の都合を待ってはくれない。
死の訪れの素早いこと避け難いことは、水火の難の比ではない。
死が迫っているというときに、年老いた親や、幼い子供、主人から受けた恩、他人の情けなどを、捨てられないと言って、捨てないでいてよいのだろうか。
(第六二段)
今の延政門院さまが幼かったとき、父親の上皇さまのお屋敷に行く人に歌をことづけた。
それは、
ふたつ文字(こ)牛の角文字(い)直ぐな文字(し)ゆがみ文字(く) とぞ君はおぼゆる
という歌だった。
父親を深く慕っておられたのである。
(第六八段)
九州地方の治安を担当していたある役人の話である。
この男は大根を万病の妙薬と信じて毎朝二本ずつ焼いて食べるのを長年の習慣にしていた。
ある時、男の屋敷から人が出払っている隙すきをついて、敵が来襲して屋敷を取り囲んでしまった。
すると屋敷の中に二人の武士が現われて、命を惜しまず奮戦して、敵を全部撃退してしまった。
男は不思議に思ってこの二人に「ふだんこの辺りではお見かけしないお二人が、わたしのためにこれほど熱心に戦って下さるとは、あなたたちは一体どなたですか」と尋ねると、「わたしたちは、あなたが薬効を信じて長年の間毎朝食べてくださっている大根でございます」と言って姿を消してしまったという。
何事も深く信じていればこのような御利益ごりやくがあるということだろう。
(第六九段)
書写山の開祖性空上人しょうくうしょうにん(一〇〇七年没)は法華経を読経するという功徳を積み重ねて六根清浄ろっこんしょうじょうを達成した人だと言われている。
この上人が旅の宿りの仮小屋に入ったとき、豆殻を燃料にして豆がぐつぐつと煮える音が聞こえてきた。
その音は上人の耳には次のように聞こえた。
「赤の他人でもないあなたたちが、わたしたちを何というひどい目に会わせるのです。おうらみします」
それに対して燃料となった豆殻がぱちぱちと燃える音は上人の耳には次のように聞こえたという。
「すき好んでやっているのではありません。わが身を焼かれることがどれほど耐え難くても、どうしようもないのです。そんなにおうらみ下さるな」(魏曹植 七歩詩 『世説新語』(五世紀)より)
(第七一段)
わたしは、人の名前を聞くと名前からその人の顔をついつい勝手に想像してしまう。
ところが、実際に会ってみると、思ったとおりの顔をしている人はいない。
また、わたしは、昔の物語を聞くと、その話が近所の人の家の出来事のように思えてしまうし、登場人物も自分の知りあいの誰かのことのように思ってしまうが、これは誰でもそうなのだろうか。
また、わたしは今初めて自分が見たことや人から聞いたこと、心の中で思ったことを、「これは以前にもあったことだ、いつのことか思い出せないが、確かにこんなことがあった」と、何かの折りにふと思うことがあるが、これもわたしだけのことだろうか。
(第七三段)
事実は面白くないからか、世間の言い伝えの多くは皆嘘である。
もともと人は事実を誇張して話す傾向があるが、それが昔のことや遠方のことだと勝手に話を作ってしまう。
そして、それが何かの文章になったりすると、もうそれがそのまま定説となってしまうのだ。
様々な分野の名人たちの腕前なども、教養のない人やその道に詳しくない人はやたらと神業のように言いたてるものだが、専門家はそんな話は相手にしない。
何についてもうわさ話と実際に見るのとは大違いだからである。
ところで、言ったそばから嘘だと分かるのに、お構いなしに口から出任せに作り話をするのは、すぐにでたらめと分かるからまだいい。
また、人から聞いたことを自分ではあやしいと思いながらも鼻をぴくつかせながら話すのは、嘘つきというほどのことでもない。
それに対して、いかにももっともらしく所々話をぼかして、よく知らないという振りをしながら、しかも辻褄を合わせてつく嘘は罪深い嘘である。
また、自分の評判を上げてくれるような嘘は、誰も強く否定できないものだ。
さらに、誰もが面白がるような嘘の場合には、一人で否定しても仕方がないと黙って聞いている人さえも証人にして、いよいよ本当の話になってしまう。
いずれにしてもこの世は嘘だらけだから、ただ珍しくもなくありふれたことだけをそのまま受け入れておけば万事間違いがない。
下賤の者の話は、聞けば驚くようなことばかりだが、立派な人の話にはあまり珍しいことはないのである。
もっとも、神仏の奇跡の話や、聖人の伝記までを一概に信じるなと言っているのではない。
この場合は、世間にある嘘を本気で信じるのは馬鹿げているが、「それは事実ではない」などと言うのも無益である。
だから、たいていの場合は、本当の事のように人と調子を合わせておけばよい。
つまり、ひたすら信じるべきでもないが、疑いをかけて馬鹿にすべきでもないということだ。
(第七四段)
人々がアリのごとく寄り集まって、町中を東へ西へ、南へ北へとせわしなく走り回っている。
その中には、貴族もいれば平民もいる。
老人もいれば若者もいる。
彼らはみなどこかへ出かけていき、また家に帰っていく。
そして、夜になると寝床に入り、朝になるとまた起き出してくる。
それからまた何をするのか。
この世に執着し、利益を求めて休むことがない。
健康第一と体を大切にして一体何を待つというのか。
行き着くところは、老いと死だけではないか。
しかも、その老いと死は一瞬も歩みを止めることなく、すぐにやってくるのだ。
そんなものを待つ間にどんな楽しいことがあるだろう。
ところが、迷いにとらわれた者には、この恐ろしさが分からない。
富と名声の追求に夢中になって、終わりの近いことが見えなくなっているからである。
一方、愚かな人は老いと死の到来を悲しがる。
彼らは変化の理法が分からずに、永久不変の生を願うからである。
(第七五段)
暇ですることがないといって嘆く人がいるが、どうしてそんなことを言うのか不思議だ。
何事にも煩(わずら)わされずにたった一人でいるのが最善なのである。
世の中に出ると外界の誘惑にさらされて心が乱れやすく、人とつきあっても相手に合わせるために思いどおりの事がしゃべれない。
人とじゃれあったり喧嘩をしたり、嘆いたり喜んだりで、心は休むときがない。
次々と考えがわき上がり損得勘定に忙しい。
思い乱れ酔いしれて、酔いのうちに幻を見る。
胸はときめき落ち着きを失い、ものにとらわれて自分自身を見失う。
世の中の人間はみんなこんなふうだ。
仏の道を知らない人でも、都会の喧噪を離れて静かな場所で何事にも煩わされずに心の平静を保つなら、誰でもしばしの安楽が得られると言っていいのではないか。
「生活、交際、芸能、学問など世間とのつながりを断て」とは『摩訶止観』という仏典にも書かれていることである。
(第七七段)
世間の人々の間でしきりに噂になっていることを、何の関係もないはずの人間が事情をよく知っていて、それを人に話して聞かせたり、人に尋ねてさらに聞き出そうとしているのを最近よく見かけるが、感心できないことである。
特に田舎に住んでいる坊さんなどが、他人の身の上のことをまるで自分のことのように聞いてまわって、どうしてそこまで知っているのかと思えるほどの情報を集めては言い触らしているようである。
(第七八段)
最近流行り始めたばかりの珍しいことを有り難がって吹聴してまわる人がいるが、これもわたしは感心しない。
そういうことは流行遅れになってしまうまで全然知らないでいるのが格好いいのだ。
仲間内だけで話しつけている話題や物の通称などを、新たな参加者がいるのに、仲間同士だけで符丁を使って言い合って、にやにやしたり目配せしたりして、分からない人をつんぼさじきに置くのは、無教養な田舎者が必ずすることである。
(第七九段)
どんな場合でも知ったかぶりはしない方がよい。
ちゃんとした人なら、たとえよく知っていることでも、そんなに知ったようなしゃべり方はしないものだ。
ところが、田舎者は何を聞かれても知っているような受け答えをする。
もちろん、彼らもこちらが顔負けするほどよく知っていることはあるが、自分で自分のことをすごいと思っているその態度が見苦しいのだ。
自分の得意な方面のことでも、けっして軽々しく口出しすることなく、人から聞かれて初めて話しをするような人こそ、立派な人なのである。
(第八〇段)
どういう訳か、人はみな自分の専門外のことばかりに熱心である。
武芸にばかり打ち込んでいる僧侶がいるかと思うと、弓の使い方は知らないが仏教には通じているという顔をした武士たちが、集まって連歌をしたり音楽を楽しんだりしている。
しかし、専門家のすることでも下手だと馬鹿にされるのに、専門外の人間のすることに誰が見向きもするだろうか。
ところが、僧侶ばかりか、総じて公卿や殿上人のような上流の貴族たちの中にも武芸に熱心な人は多い。
しかし、百回戦って百回勝ったとしても、それで武芸の名声が決まるわけではない。
というのは、確かに、運良く敵をやっつけることが出来れば、誰でも勇者として讃えられることはあるだろう。
しかしそれはあくまで一時的なことである。
武士の名声とは、たとえ矢尽き刀折れることがあっても、死ぬまで負けるということを知らずに天寿を全うした者だけに与えられるのである。
したがって、生きている間は武芸を自慢することはできない。
だから、武士の家に生まれてこなかったような者が、人間よりもむしろ畜生の道に近いこんな振舞いに打ち込んでも何の得にもならないのである。
(第八二段)
ある人が「薄絹で装丁した本は表紙が壊れやすいのが難点だ」と言ったのに対して、頓阿とんあが「薄絹の本は表紙が上も下も外れたあとがいいのです。巻物も螺鈿らでん飾りの軸から貝がとれたあとがいいのですよ」と応じたが、これには感心させられた。
数冊で一部となる本が不揃いなのは見苦しいことであると一般には言われている。
それに対して、弘融僧都が「何でも必ず完璧に全部を揃えようとするのは愚かな人のすることだ。不揃いなのがいいのです」と言ったが、これも流石さすがである。
総じて、何でも全部が完全に整っているのはよくないことだ。
やり残したことをそのままにしておくのが面白く、先に楽しみを残すことにもなる。
「皇居を作るときは、必ず未完成の部分を残さなければいけない」とある人も言っている。
先人の書き残した仏教や儒教の本も、必ずと言っていいほど章や段が欠けているものである。
(第八五段)
人は誰でも多少ひねくれたところがあるから、たまには嘘をつくこともある。
しかし、なかには真っ正直な人間もいる。
そして、たとえ自分はひねくれていても、そういう人徳のある人を見れば、見習いたいと思うのが普通だ。
ところが、このめったにない人徳者を見て憎しみを抱く人がいる。
そして「大利を得ようとして小利を捨て、本心を偽り上辺うわべを飾って名声を得ようとしている」などと悪口を言う。
まったく愚かさも極まれりと言うべきである。
わたしに言わせれば、自分とは考え方の違う人間を誰でも悪く言うこういう人間は、進歩や改善ということのない人である。
わずかな利益を得るために嘘をつくことを止められないこういう人間は、他人の徳を学ぶことが不可能な人である。
狂人の真似をして大通りを走れば、すなわち狂人である。
悪人の真似をして人を殺せば、すなわち悪人である。
逆に、駿馬しゅんめを真似る馬は駿馬の一員となり、中国の聖王舜しゅんを真似る人は舜の仲間となる。
上辺を偽っても人の徳を真似る人は、人徳者というべきなのである。
(第八九段)
山奥に猫またというものがいて人間を食い殺すという噂がたっていたころ、誰かが「山だけじゃない。この辺りでは年寄り猫が猫またに化けて、人に襲いかかるという話だぞ」と言いだした。
行願寺付近に住む某阿弥陀仏とかいう連歌師の僧侶は、これを耳にして「一人歩きの多い自分などは特に気を付けねば」と思っていた。
ところが、そんな折りも折り、ある所で連歌の会が終わると深夜になってしまった。
帰り道をたった一人で小川こかわという川近くまで来たときだった。
噂に聞く猫またがすうっと自分の足元まで近づいたと思う間もなく、ぱっと飛びあがって首の辺りに食らいついてきたのだ。
肝をつぶした僧はそれを払いのける力もなく、腰を抜かして川の中に転がり込んだ。
そして「助けてくれ。猫またが出た、猫またが出た」と叫んだ。
すると、近所の家々から灯りを持った人が走り出てきた。
見るとこの辺りでは顔馴染みの僧侶である。
「どうしたんですか」と言いながら、川の中から助け起こしたが、連歌で獲得した賞品の扇も小箱も懐にあったものはみんな水浸しになってしまっていた。
九死に一生を得た思いの僧は、這うようにして自分の家の中に入ったという。
飼い犬が暗闇の中の主人を見つけて飛び付いたのを勘違いした大騒ぎだったのである。
(第九一段)
赤舌日しやくぜつにちが凶日とされているが、このことは陰陽道とは関係がない。
昔はこんな忌み日はなかった。
最近になって誰かが言い出して嫌うようになったのである。
「この日起こったことは全うせず」といって、赤舌日に言ったことやしたことは叶わないし、手に入れた物は無くなるし、企てたことは成就しないと言われている。
しかし、こんなことはでたらめである。
吉日を選んでやって全うしなかったことを数えても、同じ結果になるはずだ。
なぜなら、この世は常に変化して留まることがないからである。
あると思ったものは無くなるし、始めたことは終わりまで続かない。
志が成就することはないし、願い事は叶わない。
人の心は移ろいやすい。
いや、全ての物事は仮初めなのだ。
いかなるものも一瞬として同じ所に留まってはいない。
赤舌日などといって騒ぐのは、この道理を知らないからである。
「吉日に悪事を犯せば必ず凶となるし、凶日に善をなせば必ず吉となる」という言葉がある。
吉凶は日によるのではなく、人によるのである。
(第九三段)
「ある牛を買おうとした人が、売り手に対して明くる日に金を払って牛を引き取ると言った。ところが、その牛が夜の間に死んでしまった。これによって売り手は損をしたが、買い手は得をしたことになる」とある人が言った。
それを横で聞いていた人がこう言った。
「牛の持ち主は確かに損はしたが、一方で大きな得をしている。
なぜなら、生ある者が自分の死の近いことを知らないという点では、牛も人間も同じだ。
ところが、どういう訳か牛は死んだのに持ち主は生きている。
人が一日生き延びたことは千金の重みがあるが、それに比べたら牛の代金などガチョウの羽よりも軽い。
この人はわずかの金を失いはしたが千金の命を得たのだから、決して損をしたとは言えない」と。
するとまわりの人は全員これを馬鹿にして「その道理があてはまるのは、牛の持ち主だけに限らない」と言った。
するとこの人は次のように言った。
「そうだ。だから、死を嫌うなら生を大切にすべきである。日々生を喜び楽しむべきである。
ところが、愚かな人はこの楽しみを忘れて、苦労してほかの楽しみを捜し求める。
この宝を忘れて、危険を冒してほかの宝をむさぼり求めるのだ。しかも、けっして満足することがない。
「そもそも、生きている間に生を楽しまずに、死に際になって死を恐れるなどという、そんな道理があるはずがない。
なぜなら、生を楽しまないのは、死を恐れないからでなければならない。
ところが、人が死を恐れないと言う場合、それはただ死が近づくことを忘れているだけなのである。
しかし、もしこれが外面的な生死に拘泥(こうでい)しないという意味なら、その人は真の道理を身につけた人だということになる」
こう言うと、他の人たちはますます馬鹿にして笑った。
(第九七段)
ものに取り付いて消耗させ最後にはそのものを滅ぼしてしまう、そのようなものは数知れない。
例えば、体に取り付くシラミ、家に巣食うネズミ、国にひそむ謀反むほん人。
それは一般人にとってはお金であり、聖人君子にとっては道徳であり、僧侶にとっては仏の教えである。
(第九八段)
偉い坊さんたちが言ったことをまとめて『一言芳談』という名前の本にしたものを読んだことがある。
そのうちでわたしが気に入って覚えているものは以下のとおり。
一、したほうがいいか、やめておいたほうがいいかと迷っているうちは何もしない方がよいことが多い。
二、来世を願うなら、財産はぬかみそ漬けの壺一つ持ってはならない。お経の本や仏像も高価なものを持つのはよくないことだ。
三、世捨て人は、何も無くても困らないような暮らし方をするのが最もよい。
四、高位の僧侶は位を捨て、知恵者は知恵を捨て、金持ちは金を捨て、一芸に秀でた人はその芸を捨てるべきである。
五、悟りを求めるとは簡単なことである。つまり、何よりも、暇な人間になって、世の中の出来事に煩わされないようにすることである。
そのほかにもあったが忘れた。
(第一〇六段)
高野山の証空上人が京へのぼったときのこと。
途中の狭い道で上人の乗った馬が女を乗せた馬と鉢合わせになった。
その時、相手の馬方が手綱を無理に引いて、上人の馬を堀に蹴落としてしまった。
かんかんに怒った上人は相手をなじってこう言った。
「この、世にも希な狼藉者め。そもそも仏の弟子には四つあってな、比丘びくが一番上に来るのじゃ。その下が比丘尼びくにで、その下が優婆塞うばそくで、その下が優婆夷うばいなのじゃ。その優婆夷などという身分のものが比丘を堀へ蹴落とすとは、前代未聞の悪行じゃ」。
ところが、相手の馬方は「何をおっしゃっているのかさっぱりわかりませんな」と言ったので、上人はさらに怒って「何を言うか。この無知無学の下郎めが」と言い放った。
しかし、その時上人は自分のあまりの言い過ぎに気づいた様子で、馬を引き上げて急いでその場から立ち去ったという。
さぞ立派な喧嘩ぶりであったにちがいない。
(第一〇七段)
亀山天皇の時代に物好きな女官たちが「女から話しかけられて、とっさにうまい返事ができる男はなかなかいないものよ」と言いあって、若い男性が出勤してくるたびに「ホトトギスの声はお聞きになりましたか」と話しかけて試してみたことがあった。
すると、後に大納言になった何とかいう人は「わたくしは未熟者でして、聞けませんでした」と答え、後の堀川の内大臣殿は「岩倉あたりで聞いたように思います」と答えたという。
それに対して「こちらは満点ね。でも、あちらは未熟者云々がよけいだったわ」などと批評しあったそうだ。
だいたい男は女に笑われないように育てるべきだといわれている。
だから「浄土寺の前の関白(九条師教)殿は幼いころ安喜門院さまに上手に育てられたのでお言葉使いが立派でいらっしゃる」と言われたりするするし、山階の左大臣(西園寺実緒)殿が「身分の卑しい女に見られただけでも、恥ずかしくて緊張してしまう」などとおっしゃったりもする。
もし世の中に女がいなくなれば、冠や着物の乱れを直す男はいなくなるということだろうか。
しかし、これほど男を緊張させる女というものが、いったいどれほど素晴らしいものかと言えば、これがどれもこれもろくでもない者ばかりだ。
女というものは自分勝手で欲深で物の道理が皆目分からない生き物である。
口先は達者なくせに人の口車には乗りやすく、どうでもいいことでもこちらから尋ねるとなかなか言わない。
それで用心深いのかと思うと、とんでもないことを、聞かれもしないのに自分からぺらぺらとしゃべり出すのだ。
はかりごとを巡らして表面をつくろうことにかけては男の悪知恵もかなわないが、化けの皮が後ではがれることが分からない。
愚かでひねくれものなのが女というものだ。
そんな女の言うままになってよく思われようとすることが、どれだけくだらないことか分かるはずだ。
どうして女の前で緊張する必要などあろうか。
いっぽう、頭のいい女というのもまた困りもので、気味が悪いと敬遠するしかないだろう。
女を上品だとか素敵だとか思うようになったら、それはまさに女に迷って自分を見失っているということなのである。
(第一〇八段)
この世は一瞬を無駄に過ごす人ばかりである。
これは一瞬の貴重さを知っていながら無駄に過ごすのだろうか、それとも知らずにそうするのだろうか。
一瞬の貴重さを知らない人のために言うなら、わずか一銭のお金でも、これを貯めることによって、貧乏人が金持ちになることを思えばよい。
だからこそ、商人はけっして一銭を無駄にしないのである。
逆に、一瞬一瞬は目に見えないけれども、それを無駄に過ごし続けていると、命の終わるときは瞬く間にやってくるのだ。
したがって、世を捨てた人は、一日や一月といった長い時間を惜しむのではなく、現在の一瞬が無駄に過ぎるのを惜しむべきである。
もし誰かがやって来て「おまえの命は明日には必ず盡きる」と告げたとしたら、今日一日が終わるまでの間、自分はいったい何を目的にして、何をするか考えてみればよい。
我々が生きている今日という日が、この最後の日でないとどうして言えよう。
ところが、その一日の多くは、食事をしたり、トイレに行ったり、眠ったり、しゃべったり、歩いたりという、やむを得ないことで使われてしまうのである。
もしその残りのわずかな時間を、無駄なことを言い、無駄なことを考え、無駄なことをして過ごすとしたら、さらには、そんな風に月日を過ごし、そんな風に一生を送るとしたら、まったく愚かなことではないか。
中国の高僧恵遠えおんは、法華経の翻訳の書記だった謝霊運が、いつも心を自然に向けて詩ばかり書いていたので、白蓮社には入れなかったという。
一瞬でも時間を無駄に過ごすなら、そのとき人は死人と同じになるのである。
では、何のために一瞬を惜しむのかと言えば、それは心の中の迷いを捨てて、世間の俗事から縁を絶って、仏の道の修行をするか、それとも何もしないでいるためである。
(第一〇九段)
木登りが上手いことで有名になった男が、高い木に弟子を登らせて剪定作業をさせていた。
この男は弟子が非常に危険なところにいる間は、何も注意しなかったのに、弟子が木から降りてくるとき、しかも、軒先の高さまで来たときになってやっと「気をつけて降りろ。怪我をするなよ」と声をかけたのである。
わたしは「どうしてそんなことを言うのか。こんなに低いところなら、飛び降りても大丈夫だろうに」と尋ねた。
すると、「よく聞いてくれました。弟子も目がまわるほど高いところや、枝が危険なところでは、自分で自分のことを心配しますから、わたしは何も言いません。怪我をよくするのは、簡単なところに来たときなのです」と答えた。
この男は卑賤な身分の男だが、言うことは聖人の教えと何ら変わらない。
蹴鞠(けまり)も、難しい球をうまく蹴り上げたあとで、簡単だと思うような球をよく蹴り損なうと言われているようだ。
(第一一二段)
たとえば明日あした遠い所へ旅立つという人がいるとして、そんな人に心が穏やかなときにすべき用件を持ち掛けたりする人がいるだろうか。
また逆に、急用で忙しい人や嘆き悲しむ事のある人は、ほかのことに注意が向かないし、人の不幸や喜びを知っても駆けつけたりしないだろう。
また、だからといってそれを礼儀知らずと非難する人もいないだろう。
概して、老境に入った人や病気がちな人、さらには世捨て人についても、これと同じことが言えるはづだ。
確かに、人間の礼節はどれを省略していいというものはない。
しかし、世間の義理は欠くべきでないと、必ずこれを果たそうとしたら、やりたいことが山ほど出てきて、体は疲れ、心は安まるときがなく、一生を些細な雑務に忙殺されて、人生は空しく終わってしまうだろう。
しかし、「日は暮れたが前途は遠い。しかも自分の人生はもう先が見えている」と思ったら、その時こそ世俗との縁を絶つ時である。
そうなればもう約束を守ることも、礼儀を気にすることもなくなるのだ。
無理解な人に馬鹿にされようと、気狂い扱いされようと、情けないと思われようと、構うことはない。
人にそしられても、もう苦にはならないし、仮に誉めれたとしても、そんなものを聞く耳さえないのである。
(第一二一段)
家で飼う動物に馬と牛がある。
自由を束縛するのはかわいそうだが、馬と牛は無くてはならない動物だから仕方がない。
また、犬は家の守りとしては人よりすぐれているので必ず飼うべき動物である。
とはいえ、どこの家にもいるのでわざわざ買ってきて飼うことはない。
これ以外の動物は家で飼う必要はない。
檻にこめられ鎖につながれた動物が野山を思う悲しみも、翼を切られ籠に入れられた鳥が雲を恋しがる嘆きも止むときがない。
自由を奪われた悲しみが耐え難いことは、動物の身になって考えれば分かることである。
心ある人がそんなものを見て楽しいはずがない。
生き物が苦しむのを見て喜ぶのは、中国の桀けつや紂ちゅうのような残酷な人間のする事である。
鳥を愛したと言われる王子猷おうしゆうは、林の中で遊ぶ鳥を眺めて散歩の友としたのであって、けっして捕まえて苦しめたりはしなかった。
そもそも「珍しい鳥や動物は国で飼ってはならない」と中国の書物にも書いてある。
(第一二六段)
勝負事で負けが込んだ相手が有り金を全部賭けてきた場合には勝負をしてはいけない。
そういう場合は、ツキが変わって相手が連勝するときが来たと思うべきである。
この時が分かる者をすぐれた博打打ちと言うのだ。
これは、ある人から聞いたことである。
(第一二九段)
顔回がんかいの志は人に労を施さないことだったという。
それは要するに、人を苛めたり困らせたりしないということであり、貧しい民衆の思いを踏みにじるべきではないということである。
それなのに、幼い子供を騙し、脅し、からかって面白がる人がいる。
しかし、冗談だと分かる大人には何でもないことが、子供心には大きなショックとなるため、子供は本気で恐れ驚き恥づかしがる。
そんな子供を困らせて面白がるのは情けのある人間のすることではない。
喜び怒り悲しみ楽しみといった感情は実体のないものだが、大人でもそれを現実のものと思って執着しないではいられない。
だから、肉体を傷つるより心を傷つける方が、人がこうむる被害は大きいのだ。
体が病気になるのも、その原因の多くは心の中にある。
外から来る病気は少ないものだ。
薬を飲んで汗を出そうとしてもなかなか出ないのに、恥や恐怖を感じただけで汗をかくのも、汗の原因が心にあるからに違いない。
凌雲という楼閣にある額に字を書いて下りてきたら白髪になっていたという書家の例もあるではないか。
(第一三〇段)
何事も人と競うことなく、己をまげてでも人に従い、相手を優先して自分を後回しにするのが一番である。
どんな遊び事にも勝ちたがる人はいるものだ。
勝って愉快な気分を味わいたいからである。
相手より能力が優れていることを楽しみたいのである。
ということは、負けたら面白くないと言うことでもある。
わたしが言うように、わざと負けて相手を喜ばせようとするのは、もっと面白くないことだろう。
しかし、そもそも人をがっかりさせて喜ぶのは徳にもとる行為である。
親しい人間の間で行われるゲームなども、実は、相手を騙したり裏切ったりして自分の知能が優っていることを楽しむことである。
しかし、これは礼儀作法に反することだ。
だから、たわいない遊び事に端を発したことが、長く恨みの種として残る例は多い。
これらはみな人と競いたがることからくる弊害である。
人に勝ちたければ、ひたすら儒教や仏教を学んで、その知識で人に優ろうとすることだ。
そうすれば人の道を学んで、能力をひけらかしたり人と競ったりすべきでないことを思い知るだろう。
高い地位を辞退したり、大きな利得を捨てる人がいるのも、ひとえに学問のなさしむるところである。
(第一三一段)
貧乏人は金をやるのが礼儀だと思い、年寄りは体力を使うのが礼儀だと思いがちだ。
しかし、身の程をわきまえて、できないものはできないと手を引くのが賢明なやり方である。
それを認めようとしないのも、身の程知らずに無理にがんばるのも、いずれも間違いである。
貧乏人が分を忘れると盗みを働くようになり、体力のない老人が分を忘れると病気になるのが落ちである。
(第一三四段)
高倉院の法華堂の三昧僧で何とかいう名の律師が、ある時鏡を手にして自分の顔をよく見ると、それがあきれるほど醜いことに気がついた。
それで自分の顔がつくづく嫌になり、鏡さえも嫌になって、それからはずっと鏡を遠ざけて手に取ることもなくなった。
そして、この僧は人付合いを一切やめてしまい、お寺のお勤めのとき以外は自分の家にこもっていたという。
この話をわたしは感心しながら聞いたものである。
たとえ賢そうな人でも、他人の身の上をあれこれ言うばかりで、自分のことは知らないものである。
しかし、自分のことさえ知らない者が他人のことが分かる道理のあるはずがない。
だから、自分を知る者を物知りというべきなのである。
ところが、人はみな顔が醜くてもそれを知らず、頭が悪くてもそれを知らず、芸が拙くてもそれを知らず、情けない境遇にいてもそれを知らず、年老いてもそれを知らず、病気になっていてもそれを知らず、死が近づいていてもそれを知らない。
その上、仏道の修行が足りないことも知らないのだ。
こうして、人はみな自分で自分の欠点を知らないのだから、他人がそれについてどう言っているかなど知るよしもない。
もっとも、顔は鏡を見れば分かるし、年は数えれば分かるから、誰でも自分のことを全然知らないわけではない。
しかし、知っていながら何もしないのは知らないのと同じだと言っていい。
とはいっても、わたしは顔を変えろとか年を減らせとか言っているのではない。
自分が見苦しいと知ったら、すぐに身を引くべきであり、年老いたと知ったら引退してのんびり暮らすべきであり、修行が足りないと知ったら、徹底して修行に励むべきなのである。
そもそも、自分を歓迎しない人たちと交わるのは恥づかしいことだ。
顔が醜くて頭が悪いのに勤めに出たり、何も知らないのに学者とつきあったり、芸が未熟なのに名人と同席したり、白髪頭のくせに若者の席に連なったりすることは恥である。
しかしながら、それ以上の恥は、手の届かないものを欲しがり、叶わないことを訴え、来るはずのないことを待ち、人に遠慮し、へつらうことだ。
これらは人がもたらす恥ではない。
この世に執着することで自分が自分にもたらす恥である。
そして、この執着心がいつまでも無くならないのは、人生を終えるという重大事が目前に迫っているということの自覚がないためにほかならない。
(第一三七段)
風流とは、満開のさくらを見たり、曇りのない満月を眺めたりすることだと思ってはいけない。
雨を見ながら月にあこがれたり、家にこもって過ぎた春を思ったりするのも、また趣おもむきがあって風流なことである。
さらに言えば、開きかけた花のつぼみや、庭に散りしおれた花びらこそが鑑賞に値する。
和歌の詞書ことばがきを見ても、「花見に行ったが、もう散ってしまっていたので」とか「用があって花見に行けずに」とか書いてあるものは、「花を見て」と書いてあるものより少ないわけではない。
むしろ、散った花や隠れた月に思いを寄せるのは自然なことであって、「どの枝の花も散ってしまって、もう見るものがない」などと言うのは無粋な人間のすることである。
どんなものでもその始まりと終わりが面白い。
たとえば、男女の恋愛について言うなら、結ばれることだけが恋ではない。
結ばれずに終わった悲しみを振り返ったり、約束が反古にされたことを恨んだり、女を待ちながら眠れぬ夜を明かしたり、好きな女のいる方向の空を眺めたり、雑草の生えたあばらやで昔の女を思ったりすることこそ、恋と呼ぶべきである。
また、くっきりとした満月が遙かかなたの上空に輝いているのを眺めるよりも、明け方近くにやっと出る青みがかった月の方が趣がある。
それが奥深い山の杉の梢に掛かっているところや、木々の間からほの見えるところ、一陣の雨を降らした雲のうしろに隠れるところなどが、この上もなく素敵なのだ。
わたしは、月の光が椎や樫の葉の上で濡れたようにきらめいているのを見ると感動する。
そして、この良さの分かる友人に見せてやりたいと、都のことが恋しくなる。
そもそも、桜や月を鑑賞するのに目を使う必要があるだろうか。
むしろ、春でも家から外に出ず、満月の夜も寝室にこもったままで想像する方が、たっぷり楽しめるというものだ。
だから、情趣の分かる人間とは、あまり風流を好むようには見えず、楽しみ方も控えめな人のことである。
その反対に、田舎者ほど何でもおおげさに面白がるものだ。
彼らは桜が咲くと木の下まで行って、わき目もふらずに桜の花をじっと眺めて鑑賞する。
そして、飲めや歌えの大騒ぎをして、あげくに桜の花を無情にも枝ごと折って持って帰るのだ。
また、野に泉いずみがあれば手や足を浸さずにはいないし、雪が降り積もると出ていって足跡を付けずにはいられない。
彼らは何でも直接体験しないと気が済まないのである。
そういう人たちが葵祭りを見物するやり方は、非常に変わっている。
彼らは、行列が来るまでは桟敷にいても仕方がないと、後ろの家に入って酒を飲んだり食事をしたりするか、囲碁や双六に興じている。
そして、桟敷に残っている人が「来ました」というと、大慌てで競うように走って戻ってくる。
そして、押し合いへし合い、桟敷から乗り出して落ちそうになりながら、一つも見逃すまいと一つ一つじっと見つめては、あれこれ論評する。
それから行列が通り過ぎると、次が来るまでまた後ろの家に戻る。
彼らはただ行列だけを見に来ているのだ。
一方、都に住む高貴な人たちは、眠りこけて行列などろくに見てもいない。
若くて位も下の者たちは、主人に仕えるのに忙しいし、人の後ろに控えている者たちも、見苦しく身を乗り出して無理に見ようとはしない。
わたしが好きなのは、どこもかも一面に葵が上品に掛け渡してあるなかを、夜明け早々誰のとも知れない牛車(ぎっしゃ)が集まってくるところである。
それを見ながら、あの人の車かこの人の車かと想像していると、見たことのある牛飼いや下男を見つけたりする。
趣を凝らした車や、きらきらと輝く車など、様々に飾り付けをした車が行き交う光景は、見ていて飽きないものだ。
それから、日暮れ方になって、ずらりと並んでいた牛車も、すき間なく列をつくっていた人たちも、いったいどこへ行くのか、あっという間にいなくなってしまう、その様子を見ているのも面白い。
牛車の走る騒音がなくなり、桟敷のすだれも畳も片づけられて、都大路が見る間に閑散としていくのを見ていると、わたしは人の世のはかなさを思わずにはいられない。
このように都大路を見てこそ葵祭りを見たと言えるのである。
わたしは、この桟敷の前を行き交う多くの人たちをこうして眺めていると、見覚えのある人がいかに多いかに気づく。
そしてわたしは知ったのである。
この世にはそれほど多くの人がいるわけではなく、わたしの死ぬ順番がこの人たちがみんな死んだ後だとしても、死を待つ時間はわずかだということを。
水を入れた大きな器に小さな穴があいても、少し水が滴したたるだけだ。
しかし、絶え間なく漏れ続けると水はあっという間になくなってしまう。
人の寿命はこれに似ている。
都に暮らす人は多いが、人が死なない日はないのである。
それも一日に一人や二人ではない。
鳥部野や舟岡などの墓地に送られる人の数は、多い日はあっても、誰も送らぬ日はないのである。
だから、棺桶屋の棺桶は作るそばから売れていく。
死は、若い人にも健康な人にも思いがけずやってくる。
今日まで死なずにいたこと自体、不思議なことだと感謝すべきことなのである。
人生は長いなどと悠長に構えていてはいけないのだ。
人が死んでいくのは、碁石を円く並べて一定の順番に石を次々と除いていく継子立てという遊びに似ている。
最初はどの石が除かれるか分からないし、数を数えて一つの石を取り除いても、ほかの石は逃れたように見える。
しかし、次々に数えて順番に取り除いていくと、結局はどの石も逃れることは出来ない。
戦いに向かう兵士は、目前に死が迫っていることを知って、わが身も家族も捨てる。
あばら屋に住む世捨て人はのんきに庭石などをいじりながらこの戦いを他人事に聞いていると思うなら、それは浅はかな誤りである。
静かな山のなかにも死という敵は押し寄せている。
世捨て人もまた死に立ち向かっているのである。
それは戦場に向かう兵士と何ら変わる所がない。
(第一四〇段)
賢い人は自分が死んだあとに何も遺のこさないようにするものだ。
何か遺して、それがくだらないものなら格好悪いし、高価なものだったら心残りに思われて情けない。
また、やたらとたくさん遺すのは人迷惑である。
そもそも、自分の死後に相続をめぐって争いが起こるのは醜いことだ。
だから、死んだら誰かにやろうと思うものがあるなら、生きているうちにやっておくべきである。
日常の持ち物としては、朝夕の生活に必要なものだけにして、それ以外のものは何もないのが望ましい。
(第一四二段)
考えのなさそうな人間でも立派なことを言うことはあるものである。
たとえば、恐ろしげな風体の田舎者が傍らにいる人に「子供はいますか」と尋ねて「一人もいません」と答えたところ、その男は「それでは人情の機微は分かりますまい。定めし薄情な人だろうと思うとぞっとします。子供をもってはじめて人の情の細やかさが分かるものです」と言ったという。
確かにそうかもしれない。
孝行を知らぬ者も、子を持てば親の心が分かると言うように、こんな男の心に情愛の念が芽生えたのも、親子関係があってのことだろう。
したがって、一人暮らしの世捨て人の分際で、家族をたくさん抱えた人が他人にへつらったり物欲しそうにしているといって無下に非難するのは間違いである。
その人の立場に立ってみれば、いとおしい親のため妻のため子のために、恥を捨てて盗みもしかねない気持ちになるのも分かるはずである。
だから、政治家は、盗人を捕まえてその罪を罰することより、世の中の人間が飢えたり凍えたりしないようにすることのほうが大切なのである。
人は恒産なくして恒心なしという。
人はせっぱつまって盗みを働くのだ。
政治が乱れて人々が飢えと寒さに苦しんでいるときには、罪人の尽きることはない。
人を苦しめて法を犯させて、それを罪だと言って罰するのでは、あまりに民が不憫である。
では、どのようにして民を富ませたらよいか。
それは、お上が贅沢をやめて節約につとめ、民衆をいつくしみ、農業を奨励することである。
そうすれば、下々のふところが豊かになることは疑いがない。
衣食が足りてしかも悪事を働く者こそ真の盗人と言うべきなのである。
(第一四六段)
延暦寺の明雲座主が人相見に向かって「もしかしてわたしの顔には兵火の難に遭うと出ておらぬか」と尋ねたところ、相手は「おっしゃるとおり、出ております」と言った。
「どのような相が出ている」と聞くと、「その身に危難の及ぶはずのないお立場のあなたが、仮にもこのようなご心配をなさって質問されること自体、既にその危険がある兆しでございます」と言ったという。
実際に、明雲座主は戦争で矢に当たって命を落とされたということである。
[明雲が武力で座主の位を争ったことは『愚管抄』中央公論社刊『日本の名著』P二五一]
(第一五〇段)
芸事や稽古事を始めようとする人で「下手なうちは人に隠しておこう。こっそりと稽古をして、うまくなってから人前に出て披露するのが恥をかかなくていい」などと言う人がよくいるが、こんなことを言う人はけっしてどんな芸も身につけることは出来ないものだ。
むしろ、まだ下手なうちからうまい人の中に混じって、まわりからけなされたり笑われたりしても、それを恥とはせずに、平気で受け流すようにしないといけない。
そうして、怠けず自己流にならずに、長年の間稽古に励んでいるなら、たとえ生まれつきの才能がなくても、才能があるのに怠けている人よりも早く上達できるものだ。
そして、そういう人が最後には能力を飛躍的に伸ばして、誰もが認める第一人者となるのである。
今でこそ天下の名人と言われているような人も、最初は下手だと言われて、ひどい恥をかいたこともあったのである。
しかし、そんな人が、その道の決まり事を厳密に守り、しきたりを重視して我流に流れないことによって、世に名の知られた名人となって、多くの人たちを教え導く立場についているのである。
このことは、どの芸事でも同じことである。
(第一五一段)
五十になっても上達しないような芸事はやめた方がいいと、ある人が言っている。
稽古をしても上達するだけの時間が老人にはないし、大勢の人に混じって稽古にはげむ姿には可愛げがない。
下手な老人を笑うこともできず、むしろ見るに忍びないからである。
五十にもなれば世間の雑事からすべて引退してのんびりしているのが見苦しくなくていい。
逆に、死ぬまで俗事にまぎれて人生を送るのは、愚かな人のすることである。
仮にどうしてもやってみたいと思うようなことがあっても、人から教えてもらって一通りのことを学んで得心したらその段階でやめるのがよい。
もちろん、はじめから欲を起こさないですめば、それが一番いい。
(第一五二段)
西大寺の静然じょうねん上人は腰が曲がり眉毛も白いが、それがいかにも功徳を積んだ人のように見えた。
ある日その上人が御所に来るところを見た内大臣の西園寺実衡さねひら殿は、「何という尊いお姿だろう」と信心深そうに言った。
すると、それを見た日野資朝は「あの方はお年をめされているのでございます」と言ったという。
後日資朝は、毛が抜けて醜く老衰したむく犬を連れて内大臣のもとに参上して、「この犬も尊く見えてございます」と言ったという。
(第一五三段)
京極為兼入道が鎌倉幕府に捕えられたときのこと、入道が武士たちに回りを取り囲まれて六波羅探題に連れて行かれるのを一条の辺りで見ていた日野資朝は、「なんとおうらやましいことだ。この世に生まれてきた思い出には、あれくらいのことはあっていい」と言ったという。
(第一五四段)
日野資朝が東寺の門で雨宿りをしたときのこと、そこには浮浪者が寄り集まっていたが、彼らはみな不具者で、手や足がねじ曲がったり反り返ったりして、異様な姿をしていた。
資朝はその者たちを見ると、「それぞれに変わった形をしていて個性がある。まことに愛すべき者たちだ」と思ってじっと眺めていたが、すぐに見飽きてしまった。
それどころか資朝の目には、彼らが実に見苦しくて不愉快なものに思えてきて、やはりまっすぐで普通なのがいいと思いながら家へ帰った。
資朝は以前から植木が好きで、くねくねと曲がって異様な姿をしているものを捜してきては、見て楽しんでいた。
しかしそれがあの不具者どもをありがたがるのと同じだと覚った資朝は、植木にまったく興味を失ってしまって、鉢から植木を全部引き抜いて捨ててしまったという。
そういうこともあるかも知れない。
(第一五五段)
世の中で生きていこうとすれば、何といってもきっかけを大切にしなければならない。
きっかけを失うと、何を言っても聞いてもらえないし、悪くすると相手を怒らせてしまい、何の結果も得られないものである。
だから、世間に出たら時というものをよく考えて行動する必要がある。
しかし、病気になったり、子供を産んだり、死んだりすることだけは、きっかけをはかることが出来ないし、時宜に合わないといってやめることもできない。
このような人生の真の重大事、仏教でいう生住異滅の移り変わりは、満々と水をたたえた大河の流れに似ている。
それらは一瞬もとどまることなく、直ちに実行に移されるからである。
したがって、僧侶であろうと俗人であろうと、人生の中で絶対に成し遂げたいと思うことには、けっしてきっかけを求めるべきではない。
一瞬も躊躇することなく、足を前へ進めるべきである。
例えば、春が終わってから夏になり、夏が終わってから秋が来るというのではない。
春のうちに夏が、夏のうちの秋が、既に少しずつ始まっているのである。
秋に既に冬の寒さが始まり、冬に小春日和があり、草が芽生え、梅がつぼみを付けているのだ。
枝の木の葉が落ちるのも、葉が落ちてから次の芽生えが起こるのではない。
木の葉は、根元で次の芽がふくらんでくることに耐えられずに落ちるのである。
命がすでにその下で息づいていて、葉が落ちるのを待っているるからこそ、葉は一瞬にして落ちるのである。
人間の生老病死の移り変わりは、これよりもさらに素早い。
なぜなら、四季の移り変わりにはまだ順序がある。
ところが、死は何の順序にも従わずにやってくる。
死は前から来るとさえも決まっていない。
死は同時に後ろからも近づいているからである。
人は自分がいつか死ぬことは知っているが、それほど急に死ぬとは思っていない。
ところが、死は突然やってくる。
これは、遙か沖まで広がっている干潟が満ち潮になると突然磯まで満ちてくるのと似ている。
(第一五七段)
筆をとると何かものを書きたくなり、楽器を手に取ると何か音を立てたくなる。
盃を手に取れば酒が飲みたくなり、サイコロを手に取れば一勝負したくなる。
人の気持ちはいつも物に触れることによって動く。
したがって、かりそめにも冗談で不正に手を出してはいけない。
しかし、気まぐれにお経の頁をのぞいてみるのはいいことだ。
すると、何となくそのあたりの文章を読んでしまうだろう。
そうして、思いがけず長年の間違いを正せたりもする。
もし、いまこの頁をひろげなかったなら、この間違いに気づいたろうか。
これこそ、物に触れることによって得られる利益であろう。
まったく気乗りがしなくても、仏壇の前に座って数珠を握ってお経の本を手に取るなら、怠けながらも自然に善根を積むことになるのである。
心が乱れていても席に着いて座禅を組めば、自然に瞑想に入ることが出来るのである。
外面的な出来事と内面の悟りは本来別々のものではないのだ。
だから、たとえ外面的であっても道を外れずにいるかぎり、内面の悟りは必然的に育っていくのである。
敢えて不信心を口にしてはいけない。
この原則を忘れず大切に守ることである。
(第一六六段)
わたしの見るところでは、人間の日々の営みとは、春の日なたに雪で仏像を作って、その仏像のために金銀、真珠で飾りをつくり、さらにその仏像を入れるお堂を建てるようなものである。
そのお堂が完成したときに、はたして仏像を据えてお祭りができるだろうか。
命があると思っている間も、命は雪のように足元から徐々に消えて行くのである。
ところが、その間も多くの人は何かを期待しながらせっせと働いているのだ。
(第一六七段)
ある分野で自信のある人が、畑違いの人たちの集まりに出ると「ああ、これが自分の得意分野だったら、自分も才能のあるところを見せられたのに」とついつい言ったり思ったりしがちである。
しかし、こういう態度はあまり褒められたものではないと思う。
自分とは畑違いの人が上手なのを見てうらやましく思ったら「ああうらやましい。自分も習っておくのだった」と素直に言えばいいのである。
それなのに、自分の能力を殊更にひけらかして張り合うのは、角つのある動物が角を突き出し、牙ある動物が牙をむき出すのと何ら変わるところがない。
畜生ならぬ人間の場合には、自分の才能をひけらかしたり人と張り合ったりしないのが立派なのである。
むしろ、人よりすぐれたところがあるのは大いなる災いのもとである。
もし家柄がいいとか頭がいいとか先祖が立派だとかで、自分は人よりもすぐれていると思っているとしたら、たとえそれを口に出して言わなくても、その心構えは大いに間違っている。
そんな考えは用心深く捨て去るべきである。
さもなければ、この慢心のせいで人に馬鹿にされたり揚げ足を取られたりして、思わぬ災いに遭うのは必定である。
一つの分野で真に大成した人は自分の欠点も良く知っているので、決して自分自身に満足することがない。
だから、終生自分の能力をひけらかすことはないのである。
(第一六八段)
何かの分野で秀でた人が年寄りになったときに「この人が死んだら、このことは誰に聞けばよいのか」などと言われるとしたら、それはその老人にとって名誉なことであるし、長生きした甲斐があるというものだ。
しかしながら、年寄りがいつまでもばりばりの現役でいるのは、それだけで一生を終えてしまったようで、あまり格好のいいものではない。
年が寄ったら「それはもう忘れた」などとと言っているのがいいのである。
概して、何かに詳しい人でも、自分の知識を無闇にひけらかすような人は、そんなに知らないのではと見られるし、そのうち揚げ足を取られるようなことにもなる。
むしろ「どうもよく分からないところがあるのですが」ぐらいのことを言う人が、その道の真の大家として尊重されるのである。
ところが、自分がよく知りもしないことを得々と話す人さえいるのだ。
これが年寄りの場合は反論しにくいだけに、「それはちがう」と思いながら聞かされ続けることになって全く最悪である。
(第一八四段)
執権北条時頼の母親は松下禅尼という人だった。
息子が母親の家を訪れるというので、すすけた障子の破れた升目ますめを禅尼みずから小刀で切り取って張り替えてまわっていた。
その日のお迎えの準備を担当していた禅尼の兄安達義景が「それはわたしにお任せ下さい。誰それという男に張らせましょう。そういうことが得意な男でございますので」と言っても、「その男は私より上手なわけではないでしょう」と言いながら、一小間一小間張り続けた。
それに対して義景は「全部張り替えた方がはるかに簡単です。そんなに飛び飛びでは見苦しくありませんか」と再度申し込んだが、禅尼は「わたしもあとではそうするつもりでいます。でも、今日だけはわざとこうしておくのです。物は壊れた部分だけを修理して使うものだということを、若い人に見せて、教訓にして欲しいのです」と言ったという。
実に立派な言葉である。
政治の道の根本は倹約である。
この禅尼は女の身ではあるが、聖人に匹敵する心の持ち主だった。
天下を治めるほどの人を息子にもつだけあって、決して並みの人間ではなかったということである。
(第一八五段)
安達泰盛は並びなき乗馬の名手だった。
馬が引き出されるとき前足をそろえて敷居を飛び越えるのを見ると、彼は「これは気の荒い馬だ」といって別の馬に鞍を置かせた。
また、馬が敷居にけつまずくのを見ると「この馬は鈍感であぶない」といってその馬には乗らなかったそうである。
道を究めた人はこれほど用心するものである。
(第一八六段)
吉田という乗馬の名手がわたしに次のように言ったことがある。
馬はどれもみなすごい力をしていて、人間の力ではとても対抗できないことを忘れてはいけない。
だから、自分が乗る馬はよく見て、その長所短所を知っておく必要がある。
それから、馬に付いている轡くつわや鞍などに不備がないかよく見て、気になることがあったらその馬に乗ってはいけない。
以上の心配りを忘れない人を馬の名手というのである。
これは非常に大切なことである。
(第一八八段)
ある人が自分の息子を法師にして、「仏教を学んで因果の道理などをよく勉強して、説教師として身を立てなさい」と言った。
この法師は親の言ったとおりに説教師になろうとして、まず馬の乗り方を学んだ。
自分には牛車も輿こしもないので、導師として迎えの馬を寄越されたときに、乗馬が下手で落馬してはまずいと思ったからである。
その次にこの法師は早歌そうかというものを学んだ。
法事の後で酒を勧められたときに、歌の一つも歌えないようでは、檀家に失礼だと思ったからである。
法師はこの二つの技に上達してくると、さらに技に磨きをかけようと稽古を重ねたが、その間に年をとって老人になってしまい、とうとう説教を学ぶことなく終わってしまったという。
この法師だけでなく世の中の人はたいていこんなものである。
若いうちはどんな分野でも早く一人前になって大きな仕事を成し遂げたいと思うし、よく勉強もしよう稽古事にも取り組もうと、将来の計画をいろいろ立てるものだ。
ところが、たいていの人は、人生をのんびり構えてうかうかしている間に、目前に差し迫ったことにかまけて年月を送ってしまい、何一つ成し遂げないうちに老年を迎える。
結局は、専門家として大成することもなく、思ったほどの出世も出来ずに終わるのだ。
今更後悔しても取り返しのきく年でもなく、あとは坂道を転げ落ちるように老衰していくだけである。
だから、一生の内に是非ともやってみたいと思うようなことをよく比較検討して、自分が一番やりたいことは何かをはっきりと決めなければいけない。
そして、他のことは諦めて、そのことだけに専念するようにしなければいけない。
一日の間でも、一時いっときの間でも、肝心なことは急いですべきなのである。
多くのやりたいことの中から少しでも利益がまさることを選んだら、それ以外のことは捨てなければいけない。
あれもこれもと欲張っていては、結局一つもうまくいかないものだ。
それは例えば、碁打ちが一手も無駄にしないで、相手に先んじて小を捨てて大に就こうとするのと似ていると言えよう。
この場合でも、十個の石をとるために三つの石を捨てることはやさしいが、十一個の石をとるために十個の石を捨てることは難しい。
碁では一つでも多くの石をとりにいくべきなのだが、十個もとれると分かっていれば、それが惜しくなって、別の大きな石に乗り換えるのは難しいものである。
しかし、こっちの石は捨てたくないが、あっちの石もとりたいと思っていると、あっちの石はとれずに、こっちの石はとられてしまうのが落ちである。
例えば、京都に住んでいる人なら、もし東山に急用ができて到着したとしても、西山に行く方が得になると分かったなら、家の門前からでも引き返して西山に行くべきなのである。
「ここまで来たのだから、こっちの話を先に済ましてしまおう。西山のことは別の日でも構わないから、今日はいったん帰って日を改めよう」と思うのは油断なのである。
そして、この一時の油断が一生の油断となるのだ。
これこそ恐るべきである。
一つのことを確実に成し遂げようと思うなら、その他のことがうまくいかなくても気にしてはいけないし、人のあざけりを恥じてもいけない。
全てを引き替えにしてこそ、一つの大事は達成することが出来るのである。
登蓮法師は大勢の人の集まりの中にいたとき「『ますほのススキ』とか『まそほのススキ』とか言ったりするが、この事は渡辺の聖が伝授を受けて知っておられる」と誰かが言うのを聞きつけて、雨が降っていたにもかかわらず「そのススキのことを学びに渡辺の聖のところへ今から出かけようと思いますが、蓑か笠をお貸し下さいませんか」と言ったという。
それに対して「なんとせっかちな人だ。雨がやんでからになさい」という人がいたが、法師は「とんでもないことをおっしゃる人だ。人の命は雨があがるまで待ってくれますか。その間にもしわたしが死に、その聖も死んでしまったら、二度と聞けなくなってしまうのですよ」といって、走りづめに走って聖の家に行って教えを受けたということである。
これなどは実にすばらしい話だと思う。
論語という本にも「敏なれば則ち功あり」という言葉がある。
この法師なら、仏の道の因縁の教えに対しても、このススキのことを学びたいと思ったのと同じ姿勢で臨んだにちがいない。
(第一八九段)
今日こそあの事をしようと思っていると、急に思いがけない用が出来て、それに心を奪われて一日が過ぎてしまう。
待っていた人は用があって来られずに、予期しない人が来たりする。
あてにしていたことはうまくい行かず、思いがけないことばかりが実現してしまう。
面倒なことが簡単に行くかと思うと、簡単に行くはずだったことに苦労する。
一日の出来事を後から振り返ってみると、はじめに思っていたのとは似ても似つかないものだ。
一年についても同様であり、一生についてもそうである。
では、何もかも予想通りに行かないかというと、まれに予想通りに行くこともあるので、ますます物事は決めてかかることができない。
結局、この世の出来事は何一つあてにできないと思うのが正解であって、間違いがないのである。
(第一九〇段)
男は家に妻を持つべきではない。
「わたしはいつも一人住いで」などと聞くと本当にかっこいいと思うが、、反対に「だれそれの婿になった」とか「どういう女をつれ込んで一緒に住んでいる」などと聞くと、そういう人には幻滅させられる。
というのは、大したことのない女を自分ではいいと思って一緒にいるのだろうと、少なくともそう推測せずにはいられないし、反対に、いい女なら、さぞかわいがって宝物のように大事にしているのだろうと、そんなふうに思わずにはいられないからだ。
その上、家の中を女があれこれ切り盛りして取りしきっているのは、なんとも情けないことだし、子どもが生まれて、宝物のように大切に育てて可愛がっているのもみっともないことだ。
また、男が死んでから年老いた女が尼になるのは、死んだ後まで格好の悪いことである。
どんな女でも毎日毎日見ていると、可愛くなくなって、憎たらしくなってくるものだ。
それは女にとっても不幸なことだろう。
だから、別の場所から時々女のもとに通うのが、長い年月がたっても別れない秘訣である。
女のもとにちょっと立ち寄って泊って行くようにしてこそ、新鮮さが保てるのである。
(第一九一段)
「夜になると何を着ても見栄えがしない」という人がいるが、なんとも情けないこと言うものだ。
何を着るにしてもその華やかさや、装飾と色彩の美しさが目立つのは夜なのである。
昼は大人しくて質素な服でもきれいに見えるが、夜こそきらびやかで派手な服装が美しいのである。
人の容姿の美しさも、夜の明かりによってさらに引き立つものだ。
人の話しも、暗いところで声だけ聞いた方が、相手の心遣いが感じられていいものだ。
お香の匂いや楽器の音も、夜の方が際だって魅力的に感じられる。
特に祭りがないときでも夜遅く出かける人がきれいな服装をしているのは感じがいい。
服装に注目する人は時を選ばずよく見ているものだから、若い人たちは、特に夜のくつろいだ時こそ、普段着であっても晴れ着であっても、きちんとしているのが望ましい。
ちゃんとした男が夜中に髪を梳すき直したり、夜遅く女がそっと席を外して鏡を見ならが化粧を直して出てくるのは、とてもいいことである。
(第一九二段)
祭りのない時などに神社やお寺にお参りするのも、夜が美しい。
(第一九四段)
達人が人を見る目は少しの狂いもない。
例えば、誰かが世間をあざむこうとして出鱈目を考え出したとしよう。
そんな場合、言われたままを素直に信じて騙される人がいる。
また、あまりに深く信じたあげく尾鰭を付けて話をややこしくする人がいる。
また、話を聞いても何とも思わず、気にもかけない人がいる。
また、少し不安を感じて、信じるでもなく信じないでもなくどうしようかと迷う人もいる。
また、ありそうもない話だとは思うが、相手が口に出して言う以上はそんなこともあるかもしれないと、疑うのを止めてしまう人もいる。
また、相手の本心をいろいろ推測して、ニコニコとさも心得顔で賢そうにうなずいてはいるが、嘘を少しも見抜けない人もいる。
また、嘘を見抜いて「ああ、そういうことか」と内心では思っていても、自信がなく思い違いかもしれないと思っている人もいる。
また、「よくある作り話だ」と手をたたいて笑う人もいる。
また、分かり切ったことをとやかく言っても始まらないと、嘘を見抜いても口に出しては言わず、そのまま騙された振りをしている人もいる。
また、嘘をはじめから見抜きながらも相手を軽蔑することなく、嘘を思いついた人と同じ気持ちになって協力する人がいる。
凡人の戯れ事でも、嘘だと知っている者が見れば、このようにさまざまな受け取り方をする様子が、言葉や顔つきからはっきりと分かってしまう。
まして、道理を極めた人が迷える我らを見るのは、掌(たなごころ)の上のものを見るようなものだ。
ただし、このような当て推量は仏の信心のありようについては適用すべきでない。
(第一九五段)
ある人が久我こがという所の田んぼのあぜ道を歩いていると、下着姿の人が、木像の地蔵を田んぼの水につけて丁寧に洗っているのを見かけた。
不思議なことをするものだと思って見ていると、狩衣姿の男が二三人やってきて「こんなところにいらした」と言って、この人を連れていって行ってしまった。
この方は久我の内大臣(源通基)殿であると言うことである。
この方も正気でおられる間は、非常にすぐれた人で、人々の尊敬を集めたものである。
(第二〇六段)
徳大寺公孝きんたか殿が検非違使の長官だったときのこと、役所の置かれた徳大寺家の中門で評定をしているうちに、下級官吏中原章兼の車から牛が逃げ出して、庁舎に入り込んで、長官が座る台の畳の上に登ってきて、腹這いになって反芻するという事件があった。
これを見た人たちは、非常に怪奇なことだからこの牛を陰陽師の所へやって見てもらえと口々に言った。
ところが、事件を耳にした父の太政大臣実基殿は「牛は何も考えていない。足があればどこへでも登るだろう。こんなことで貧しい下級役人から通勤用の牛を取り上げる必要はない」とおっしゃたという。
それで、牛を持ち主に返して、牛がいた畳を取り替えただけで済ましたが、何も変なことは起きなかったそうである。
「怪奇も怪奇と思わなければ怪奇でなくなる」ということだ。
(第二一〇段)
「呼子鳥よぶこどりは春の鳥である」と書いた本はあるが、どんな鳥かはっきり書いた本はない。
ある真言宗の本には、呼子鳥が鳴くときに招魂の秘法を行うと書いてある。
この呼子鳥は鵺ぬえのことである。
また、万葉集の長歌には「霞立つ、長き春日の・・・鵺子鳥、うらなけ居れば」と続けて、鵺のことが歌われている。
とすると、呼子鳥は鵺と外見がよく似た鳥ではないかと思われる。
(第二一一段)
世の中には何一つとしてあてにできるようなものはない。
愚かな人は、何かをやたらとあてにするから、腹を立てたり恨んだりするのである。
例えば、権力者もあてにはできない。
強い者から先に倒れるからである。
金持ちもあてにはできない。
金はあっという間に無くなるからである。
頭のいい人もあてにはできない。
孔子でさえも不遇だったからである。
立派な人もあてにはできない。
顔回がんかいでさえも不幸だったからである。
主君のひいきもあてにはできない。
一瞬にして罪を被こうむり殺されるからである。
家来もあてにはできない。
裏切って逃げることがあるからである。
人の好意もあてにはできない。
人の気持ちは変わるものだからである。
約束もあてにはできない。
約束が守られることは少ないからである。
自分であろうと他人であろうと一切をあてにしないことだ。
そうすれば、うまくいったときに喜ぶことはあっても、うまくいかないときに腹の立つことはなくなる。
心の幅を広く持てば何も邪魔には感じないし、心の奥行きを深く持てばすぐに行き詰まることもない。
逆に、心が狭いとすぐに他人と衝突して傷ついてしまう。
だから、心の働きが足りず余裕のない人は、何もかも気にくわず、争い事を起こしては傷つくことになるが、逆に、心が寛大で柔軟な人は、決して傷つくことがないのである。
人間は天地が生み出した神秘的な存在である。
その天地に際限がないのだから、人間の心に際限が無くて何の不思議があろう。
そして、心が広大で際限がないなら、喜怒哀楽の情にわずらわされることもなく、他人のために苦しみ悩むこともなくなるのである。
(第二一二段)
秋の月が最高なのである。
これだけ美しい月はいつでも見られるわけではない。
これが見分けられないような人は、まったく情けない人である。
(第二一五段)
平宣時朝臣が晩年の昔語りにわたしに次のような話をしたことがある。
ある夜、最明寺の入道(北条時頼)からお呼びがかかったことがあった。
『すぐ参ります』と言ったが、直垂ひたたれがなくてばたばたしているとまた使いが来て、『直垂でもお探しか。夜だから、ちょっとぐらい変なものでも構わない。早く来なさい』と言われたので、よれよれの直垂の普段着で参上した。
すると、入道は銚子と杯を持ってきて、『こうして一人で酒を飲んでいてもつまらないので呼んだのです。実は肴さかながなくてね。もう屋敷の人は寝てしまっているようです。適当なものがないか捜してきてくれませんか』とおっしゃたので、あかりを持ってあちこち捜したところ、台所の棚の上の小皿に味噌が少し付いているのを見つけた。
『こんなものがありました』といって戻ると、『それで結構』とおしゃって、それを肴に気持よさそうに何杯も飲まれてしごくご機嫌になられた。
その時代はこんな調子だったのである。
(第二一六段)
最明寺の入道(北条時頼)が鶴岡八幡宮を参詣したおり、足利の左馬の入道(足利義氏)のところへ、前もって使いの者をやってから、立寄ったことがあった。
そのときのもてなしぶりは、最初に干し鮑あはびが出て、次に海老が出て、最後におはぎが出てやっと終るというものだった。
この宴の席には、もてなす側の人間として、主人夫婦のほかに隆弁僧正も加わっておられた。
そのうち最明寺入道が「毎年いただく足利の染物はどうなっていますか。待遠しく思っています」とおっしゃると、「用意しております」といって、主人は様々に染めた織物六十反を、目の前で女官たちに小袖に仕立させて、後から送届けたということである。
これはその時のようすを見ていた人が最近まで生きていて、わたしに話してくれたことである。
(第二一七段)
ある大金持ちが次のように言っている。
「人間は全てを後回しにして、ひたすら富を築くべきである。貧しくては生きているとは言えない。裕福であってこそ人と言えるのである。
「富を築くにはまず心構えの修養から始めなければいけない。
心構えというのは、他でもない、人生が永遠に続くことを忘れないようにすることだ。
仮にも無常のことなど深く考えてはいけない。これがまず第一の注意点だ。
「次に注意すべきことは、全ての必要を満たしてはいけないということだ。
世の中に生きていると、人に対してもまた自分に対してもやりたいことは無限にある。
そのやりたいことをみんな順番にやっていたら、いくら金があってもすぐになくなってしまう。
やりたいことは次々と出てきて止むことがないのに、富には限界がある。
限界のある富で、限度のない願いを叶えることは出来ないのだ。
だから、心の中に何か願い事が生じたら、それは自分を破滅に導く悪念が現われたのだと思って、くれぐれも警戒しなければいけない。
そして、どんな小さな欲望も満たしてはいけないのである。
「その次に注意すべきことは、お金は召使いのように使うものだと思わないことだ。
そんなことをしていると、貧乏の苦しみから永久に逃れることはできない。
お金は君主や神様のように崇あがめ奉たてまつるべき対象であって、決して軽々しく扱ってはならないのである。
「その上に、金で恥をかいても痛くもかゆくなく、しかも、正直で約束を守る人になることだ。
以上の教えを守りながら金儲けにいそしむなら、低い方へ水が流れ、乾いたものに火が燃え移るようにして、富は自然と懐の中に転がり込んでくるだろう。
「そうやって金が数え切れないほどに貯まってくると、もう酒も飲まず女遊びもせず、奇麗な所にも住まず、欲望は何一つ満たさなくても、いつもゆったりと楽しい気分でいられるのである」と。
しかし、もともと人間は欲望を満たすために金儲けをするのである。
金を大切に思うのは、それで願いを叶えることが出来るからだ。
願い事があっても叶えることもなく、金があっても使わないのなら、単なる貧乏人と同じである。
それで何が楽しいのか。
結局この教えは、単に欲望を捨てて貧乏を嘆くなという教えと同じ事を言っていることになる。
つまり、財産を作って楽しむよりも、はじめから財産などない方がいいのである。
それは、体にできた腫物(はれもの)を水で洗って楽しむよりも、はじめから腫物などない方がよいのと同じである。
そして、ここまでくれば、貧乏人と金持ちの違いはなくなり、悟りも迷いと同じになり、どん欲も無欲と似てくるのである。
(第二一八段)
キツネは人にかみつくものである。
久我こが様のお屋敷の使用人が寝ているときに足をかまれたそうだ。
夜中に仁和寺の本堂の前を歩いていた僧侶は三匹のキツネに襲われた。
飛びかかってかみつくのを刀を抜いて払いのけるうちに、二匹を突き刺してそのうち一匹を刺し殺したが、結局二匹はとり逃がした。
僧侶はあちこちかまれたが、大事にはいたらなかったという。
(第二一九段)
四条の黄門さま(藤原隆資)はわたしに次のようにおっしゃった。
「豊原竜秋(笙の名手)はこの道ではなかなか隅に置けない男だ。先日もわたしのところに来てこんなことを言った。
『実に浅はかな思いつきで口にするのもはばかられますが、わたしは横笛の三番目の穴には妙な点があると秘かに思っています。
と申しますのは、二番目の穴はホの音、三番目の穴は嬰ヘの音で、その間にはヘの音があります。
四番目の穴はトの音、次に嬰トの音をはさんで、次にイの音のある五番目の穴が来ます。
その次に嬰イの音をはさんで、ロの音のある六番目の穴があり、その六番目と七番目の間にハの音があります。
『このように穴と穴との間にはみな半音があるのに、三番目の穴と四番目の穴の間だけは半音がありません。
しかも、穴の間隔は等しいので、その穴の音はきれいに出ないのです。
ですから、この穴の音を出すときには、必ず口を少し離す必要があります。
これがうまくできないと音程が合いません。ですから横笛をうまく吹ける人は少ないのです』と。
「この男はよく考えている。実におもしろい話だ。先達、後生おそるべしとはこのことである」
それに対して後日、大神景茂おおみわのかげもちがわたしに言った。
「笙しょうという楽器は調律を済ませたものを演奏するので、演奏者はただ吹くだけでよい。
ところが笛は、演奏しながら同時に息の出し方で調子を合わせていくものである。
だから、どの穴の音を出すにも、人に教えられたことを守るだけでなく、各人がそれぞれ工夫して吹かねばならない。
それは三番目の穴の音に限ったことではない。
「この穴についても一概に口を離すとは決まっていない。
元々、下手に吹けばどの穴もいい音は出ないし、上手な人にかかればどの穴もいい音を出す。
楽器の調子が外れるのは、演奏者の責任であって楽器が悪いのではない」
(第二二五段)
多久資おおのひさすけの話では、信西入道(藤原通憲)が自分の気に入った舞を選んで磯の禅師という女に教えて舞わせたのが白拍子の始まりだということである。
白い水干という装束を着て短刀を腰に差して黒い烏帽子えぼしをかぶって舞ったので、男舞といわれた。
この磯の禅師の娘が静御前で、母の芸を継いだ。
歌の内容は神や仏の縁起で、後に源光行が多く作った。
後鳥羽院の作ったものもあって、亀菊という女に教えたそうである。
(第二二六段)
後鳥羽院の時代(一一八三年〜一二二一年)のこと、信濃の前司ぜんじ行長(中山行長)は学問についての誉れが高かったが、帝の前で漢詩を論じる当番になったとき「七徳の舞」のうちの二つをど忘れして五徳の冠者とあだ名をつけられてしまった。
それが情けなくて、とうとう学問をやめて出家してしまったという。
しかし、どんな卑しい者でも一芸に秀でた者は側に置いてかわいがった慈円僧正が、出家した後の行長の生活の面倒を見た。
この行長こそは平家物語を作って、生仏しょうぶつという名の盲目の法師を訓練して物語を語らせた人である。
行長は平家物語のなかで延暦寺のことを特別に丁寧に書いている。
源義経のことはよく知っていて詳しく書いているが、源範頼のことはあまり知らなかったのか、書漏らしていることが多いようだ。
また、武家についてや武芸に関することは、東国生れの生仏が武士たちに取材して行長に教えたらしい。
今の琵琶法師はこの生仏が生れつき持っていた声を真似ているのである。
(第二二七段)
六時礼賛という勤行は法然上人の弟子で安楽という僧が経文を集めて作ったものを唱えたのが始まりである。
その後、太秦の善観房という僧が、その節回しを記号で表して楽譜にした。
ここから「一念の念仏」というものが始まった。
これは後嵯峨院の時代(一二四二年〜一二七二年)のことである。
「法事賛」の楽譜を作ったのも、同じく善観房が最初である。
[六時礼賛と、法然が流され安楽が斬首になったことは『愚管抄』同上二七九頁]
(第二二八段)
千本釈迦堂の釈迦念仏は文永年間(一二六四年〜一二七五年)に、如輪にょりん上人が始められたことである。
(第二二九段)
一流の職人は切れ味が少し鈍い道具を使うという。
だから、仏師妙観の使う刀はあまりよく切れないのである。
(第二三〇段)
京の五条にある皇居には妖怪が出たという。
二条為世ためよ殿の話によると、殿上人たちが黒戸の間で碁を打っていると、簾を上げて見ているものがいたので、「誰だ」といってふり向くと、キツネがまるで人間のように跪いて覗きこんでいたそうである。
「あそこにキツネが」と大声を出すと、あわてて逃げていったということだ。
未熟なキツネのばけ損ないであろうか。
(第二三一段)
園の別当入道(藤原基氏)は包丁使いの名人である。
ある人の家で立派な鯉が人々の前に披露されたことがあった。
その場には別当入道もいたので、みんなは彼の包丁さばきを是非見たいと思ったが、軽々しく頼むのも失礼かと思ったので言い出せずにいた。
すると、別当入道も心得たもので「わたしは最近願かけをして百日間鯉をさばいています。今日だけしないわけには行きませんので、是非わたしにやらせて下さい」と言って鯉をさばいて見せた。
みんなはこの機転のよさに感激したという。
ところが、ある人が西園寺実兼さねかね殿にこの話をしたところ「そういうのはわざとらしいと思う。その鯉をさばく人がいないのならわたしにやらせて下さいとでも言えばよかったのである。どうして、願かけなどと言う必要があったろうか」とおっしゃったので実に感心したということである。
なかなか面白い話だ。
一般的に何かをするときには、感激させるような振舞いをせずあっさりとやってみせる方がいい。
客にご馳走するときも、おもしろい口実をつくるのもよいが、何のきっかけも作らずにただご馳走するほうがずっといいのだ。
人に贈り物をするときも、あっさりと「これをあげます」というのが本当の誠意というものだ。
いかにも惜しそうにして相手に欲しがらせようとしたり、賭事の材料にしたりするのは感じが悪い。
(第二三二段)
総じて人は無学、無芸であるほうがよい。
ある人の息子が自分の父親のいるところで何かの話のついでに中国の歴史書から引用して見せたことがあった。
確かに、それでかれが頭のいい子供であることはよく分かった。
しかし、その子は見た目も感じのいい子供だったただけに、目上の人の前でそこまでしなくてもいいのにと思ったことであった。
また、ある貴人の家で琵琶法師を招いて話を聞く会があった。
ところがそこに出された琵琶には柱じゅうがひとつ欠けていたので、作って取り付けることになった。
するとその場にいた一人の見栄えのいい男が故実を踏まえて「古い柄杓ひしゃくの柄はありますか」と言いだした。
見るとその男も琵琶が弾けるのだろう、爪を長く伸ばしている。
しかし、盲目の僧が弾く琵琶にそこまで凝ったことをする必要はなかった。
なまじその道に詳しいがためにと、見ていて気の毒になった。
ある方などは「柄杓の柄はヒノキだから、琵琶の柱には向いておりません」とおっしゃったのである。
若い人は少しのことでよく見えたり悪く見えたりするものである。
(第二三三段)
どんな場合でも人によく思われたかったら、いつも誠実に事に当たり、人を差別せず、誰にも礼儀正しく、口数を少な目にしているのが一番である。
これは老若男女を問わず誰にも言えることである。
しかし、とくに若くて姿かたちが整っていてしかも言葉遣いがきちんとしているなら、好感を持たれてよい印象を残すことは確実である。
総じて人に嫌われるのは、人を人とも思わなず、初心を忘れて慢心して我が物顔に振る舞う人である。
(第二三四段)
人にものを聞かれたときに相手をはぐらかすような答え方をする人がいるが、それはよくないことだ。
「知らないで聞いているのではあるまい。知っていることをそのまま言うのは馬鹿みたいだ」と思ってそんなことをするのかもしれないが、相手は知っていることを確認したくて聞いているかもしれないのである。
また、本当に知らないで質問している場合もあるはずだ。
はっきり教えてやるのが親切というものだろう。
一方、誰も知らないことを聞きつけたときに「まったくあの人にはおどろきましたね」とだけ言ってよこす人がいるが、これも困ったことだ。
「何があったのですか」とこちらは折り返し返事を出すことになる。
たとえ誰でも知っているようなことでも、知らない人はいるものだ。
相手がもどかしい思いをしなくて済むように言ってやるのが、どうしていけないことだろう。
ところが、教養のない人は往々にしてこんな事をするのである。
(第二三五段)
持ち主のある家に関係のない人間が勝手に入ってくることはない。
逆に、空き家には通りすがりの人間が遠慮なく入ってくるし、人気がないからキツネやフクロウなども我が物顔に入り込んで棲みついてしまう。
そんな家には木の精霊などの物の怪のたぐいが出るようにもなるだろう。
例えば鏡は色も形もないからどんな姿も映すことが出来る。
もし鏡に色や形があれば何も映らないだろう。
また、うつろな空間はどんなものも入れることが出来る。
もし我々の胸の中に様々な想念が勝手に浮かんでくるとしたら、それは我々の胸に心というものが欠けているからではないだろうか。
我々の胸に心という主人がいるなら、胸の中に雑多なものが入り込む余地はないはずである。
(第二三六段)
京都の丹波地方にも出雲というところがある。
しだ某という者の領地で、島根の出雲大社の流れをひく立派な社が造営されている。
ある年の秋、そのしだ某が「是非当地の出雲神社にお参り下さい。名物のおはぎでもご馳走いたしましょう」と聖海上人など大勢の人を招待して、連れだって出かけた。
そして、おのおの拝殿でお祈りをして、大いに信仰心を深めた。
と、そのうち聖海上人が、本殿の前の獅子と狛犬が反対に向いて背中合わせになっているのを見てしきりに感心しはじめた。
「おお、これは見事なものだ。この獅子の立ち方はとてもすばらしい。きっと深い意味がこめられているのにちがいない」といい、終いには涙ぐみながら「みなさん方にはこのすばらしさがお分りにならんのですか。ああ情けない」と言いだした。
すると他の者たちもみな不思議がって「そう言えば本当に変っていますな」とか、「これは都に帰ったら、いい土産話になりますな」とか言いだした。
しかし、それでも物足りない上人は、いかにもこの神社のことに詳しそうな高位の神官を呼びだして、「ちょっとお伺いいしたいのですが。このお社のお獅子の立ち方にはきっと何か謂われがあるのでございましょうな」と言うと、「それなんですよ。あれはいたずら坊主の仕業でして、まったくけしからん子供たちです」と言いながら駆け寄って元の向きに戻して、そのまま行ってしまった。
こうして上人の感動の涙は無駄になったしまったということである。
(第二三七段)
柳筥やないばこに物を入れるとき、横向きにするか縦にするかは入れる物によるのであろうか。
三条の右大臣殿がおっしゃるには「巻物などは縦にして、木と木の間から紙縒こよりを通して結びつけておく。硯も縦に置くと筆が転ばなくてよい」ということである。
しかし、勘解由小路かでのこうじ家の世尊寺流の能書家たちは、けっして硯を縦に置かず、いつも横向きに置いておられた。
(第二三八段)
近衛府の随身ずいじんだった近友という者が自慢話を七つ書き残している。
どれも馬術に関することで、たわいないことばかりだ。
わたしも真似をして自慢話を七つここに書いておきたい。
一、おおぜいの人とお花見に行ったときのこと、最勝光院というお寺の近くで、ある男が馬に乗っていた。
わたしはそれを見て「あの馬をもう一度走らせると倒れて男を振り落としますよ。見ていてご覧なさい」と言って立ち止まった。
するとまた馬は走り出したが、止めようとした時、馬が倒れて、乗っていた男はぬかるみの中にもんどり打って倒れ込んだ。
わたしの言ったとおりになったので、みんな大喜びしたことだった。
二、今上天皇(後醍醐天皇)がまだ皇太子で、万里小路までのこうじの東宮御所におられた頃、そこに堀川の大納言(源具親)殿が勤めておられた。
わたしはたまたまそこに用があって大納言殿の部屋に入ったところ、大納言殿は論語の四と五と六の巻を広げておられた。
そして「いま皇太子さまが『紫の朱あけ奪ふことを悪にくむ』という一節を見たいとおっしゃって論語の本の頁を探されたが見つからなかった。
そして『おまえ、ちょっと調べてきてくれ』とおっしゃったので、調べているのだ」と言われた。
そこでわたしは「その一節なら第九巻のどこそこにあります」と申し上げると、「やあ、助かった」とおっしゃって第九巻をもって参上された。
こんなことは子供でも知っていることだが、昔の人はこの程度のことを大げさに自慢したものだ。
後鳥羽院が自分の歌の中に袖と袂たもとを一緒に入れたらまずいだろうかと藤原定家卿にお尋ねになったとき、卿は「『秋の野の草の袂か花薄すすき穂に出でて招く袖と見ゆらん』という歌もございますから、問題はございません」と答えたという。
そのことを卿は「ちょうどいいときにいい歌を思い出すことが出来た。これは神様のご加護である。わたしは本当に幸せ者だ」と仰々しく書いている。
九条太政大臣伊通これみち公も自分の履歴を書いたものの中に月並みなことを並べて功績にしておられたものだ。
三、常在光院という寺の鐘に刻まれている文章は菅原在兼卿が草案を作って藤原行房朝臣が清書したものだ。
その文章を鐘の鋳型に取ろうというときになって、担当の僧侶が草案をもってきてわたしに見せた。
その中に「花の外ほかに夕ゆうべを送れば、声百里はくりに聞ゆ」という句があったので、わたしは「百里のところだけ韻が異なります。何かのお間違いでしょう」と言った。
するとこの僧は「お見せしてよかった。これはわたしの手柄になります」と言って、そのことを作者の在兼卿に伝えた。
在兼卿は「わたしの間違いでした。数行すこうに変えてください」と言ってきたそうである。
四、大勢の人と一緒に比叡山の三塔を巡拝したことがあった。
横川よかわの常行堂の中に「竜華院」と書いた古い額があるが、そこの僧侶が「これは佐理が書いたものか行成が書いたものか昔から不明で、今も分からないということでございます」と大げさに言ったので、わたしは「行成なら裏書きがあるはずです。佐理ならないはずです」と言った。
そこで裏を見るとほこりと蜘蛛の巣だらけで見るからにぞっとするような状態だった。
それを掃除させてきれいに拭かせてから、みんなで順番に手にとって見ると、行成の官位と名前と年号がはっきり見えたので、全員感心することしきりだった。
五、那蘭陀寺で道眼どうげん上人が教典の講義をしていたときに、八災はっさいが何と何であったかど忘れされて、弟子たちに「覚えている人はいますか」と聞かれたが、誰も答えられなかった。
そこでわたしが別室から「これこれでしょうか」と言ったところ、非常にほめて下さった。
六、賢助僧正のお供をして加持香水という儀式を見に行ったことがあったが、その時、僧正は終わりまで見ずに早めに出てこられた。
ところが、僧正が外に出ても一緒に来た僧都が見あたらないので、弟子の僧たちを中に戻して探させた。
しかし、弟子たちはやっと出てきたと思ったら「同じ格好をした僧侶がたくさんいて、見分けがつきませんでした」と言う始末だ。
そこで「困りましたね。あなたが行って探してきて下さい」と言われたので、わたしが中に入ってすぐに連れ出してきた次第である。
七、二月十五日の満月の夜遅く、わたしは千本釈迦堂に行って、うしろから本堂に入って、顔を隠して一人で法話を聞いていたことがあった。
すると、容姿も香りもとびきりの美人が人をかき分けて入って来て、わたしのすぐとなりに寄りかかるようにして座った。
それが匂いも移るほどの近さなので、わたしは居心地が悪くなって膝をずらした。
しかし、女はさらに近づいて同じように座ろうとするので、仕方なくわたしは席を立った。
その後、ある御殿で古参の女官と雑談していたところ、「あなたのことを本当に無粋で見下げた人だと思ったことがございます。ある女性があなたのことをつれない方とお恨みしておりますわ」とおっしゃったが、わたしは「何のことかさっぱり分かりません」と言うしかなかった。
後で聞いたところによると、あの法話の夜、わたしの姿を別室からご覧になったある方が、お付きの女官に化粧をさせて「かならず機会をとらえて言葉をかけるのよ。あとでその時の様子を報告しに来なさい。きっと面白いことになるわ」と言って本堂に送り込んだのだった。
わたしに一杯食わせる積もりだったのである。
(第二三九段)
旧暦の八月一五日と九月一三日は、中国式の星占いにいう婁宿ろうしゅくである。
その日は空気が澄んでいるので、夜は月を鑑賞するのに適していると言われる。
(第二四〇段)
人目を忍ぶために不自由な思いをしながら女のもとに通ったり、多くの見張りがいるのに暗闇の中を無理をして通ってこそ、男の恋心は深まるものであり、忘れがたい思い出もたくさんできるだろう。
それに対して、もし女の親兄弟に交際を許可されて相手の家にすんなり迎え入れられたりしたら、男はきっとばつのわるい思いをするにちがいない。
また、男が裕福なら不釣り合いな老法師だろうと卑しい東国人だろうと「望まれるなら」と言うほど生活に困った女に、まったく初対面なのに仲人に適当に言いくるめられて引き合わされたりするのも、まったく興ざめなことである。
一体そんな女と何を話すことがあるだろうか。
長年の恋の苦労を分かち合い、困難を乗り越えた思い出を語り合ってこそ、男女は尽きない話があろうというものである。
総じて、人のお膳立てで女と会っても興ざめで鬱陶しいことが多いにちがいない。
そんな場合、たとえ相手がいい女でも、男が卑しく醜く年老いていたりすると、この女はどうして自分みたいな駄目男のために大切な体を粗末にするのかと相手が信用できなくなるし、相手と一緒にいると自分がいかにも見劣りするのでますます自信を失うしで、きっと面白くないだろう。
物語の主人公が梅の香りの漂うおぼろ月夜にたたずんでいたり、夜明けの月のもと夜露の降りた野原をかき分けて御所から出てくるのを、自分のことのように思うことがないような人は、恋愛などしない方がいいのである。
(第二四一段)
十五夜の月の丸さは一瞬のことですぐに欠けていく。
ところが、一晩のうちに月の姿がこれほど変化することも、よく見ていないと分からないものだ。
病気についても同じである。
病状は一瞬のうちに急変して突然死が訪れる。
ところが、元気でとても死にそうもない間は、このまま永遠に生きられるような考え方が染みついてしまって、生きているうちに様々なことを成し終えてから、そのあとで落ち着いて仏の道を修めようと思ってしまう。
ところが、やりたいことが何一つできていないのに、そのうち人は病気になって死を迎えるのである。
それでもまだ、人は年来の怠け癖をむなしく後悔して、「この病気が治ってもし人生を全うできるなら、こんどこそ夜も昼も休まずに、あれもしたいこれもしたい」と欲を出す。
しかし、そのまま重体になってしまい、自分を見失ってだらしなく事切れてしまう。
誰もがこんな風に死んでいくのではないだろうか。
我々は何をおいてもこの事を肝に銘じておく必要がある。
やりたいことをやり終えて余裕が出来てから仏の道を修めようとしたら、やりたいことがいくらでも出てきて、いつまでたっても仏の道に向かうことはできないものだ。
幻のようにはかないこの人生で一体何をしようというのか。
あらゆる欲望は単なる妄想に過ぎないのである。
だから、胸の中に欲望が生まれたら心に迷いが生じたのだと思って、何も実行してはならない。
人は一切のことを直ちに捨て去って仏の道に専念すべきである。
その時、もはや自からあくせくすることも他人に邪魔されることもなくなって、心身ともに変わりない平安を手に入れることができるのである。
(第二四二段)
人間が永遠に運命の奴隷であるのは、ひとえに好き嫌いの感情があるからである。
好きという感情は欲望の現われである。
人間の欲望は止むところがない。
人間の欲望のうちで一番目に来るのは名誉欲である。
名誉欲には二つあって、人に勝つことと人に認められることである。
二番目に来るのが性欲で、三番目が食欲だ。
この三つの欲望より強いものはない。
しかし、欲望を満たしても人間は幸福にはなれない。
それはまったくの勘違いなのだ。
だから、人間はさんざんに悩むのである。
幸福になる唯一の方法は、欲望を捨てること、これである。
(第二四三段)
八才の時にわたしは父に「仏とはどんなものでございますか」と尋ねた。
すると父は「仏は人が悟りを開いてなるものだ」と答えた。
するとわたしは「人はどのようにして悟りを開いて仏になるのでございますか」ときいた。
すると父は「仏に教えを受けて仏になるのだ」と答えた。
するとわたしは「それを教えた仏はだれが教えたのでございますか」と尋ねた。
すると父は「それもまた、その先輩の仏の教えを受けて仏になったのさ」と答えた。
するとわたしは「ではそもそも最初に教えた第一番目の仏はどんな仏でございますか」と尋ねた。
すると父は「それは空から降ってきたか、地面からわいてきたのだろうな」といって笑った。
そして「息子に質問責めにあって困りました」と人に楽しそうに話していたということである。