方丈記 鴨長明

 行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。
 世の中にある人と住家すみかと、またかくの如し。

 玉敷の都の中に、棟を竝べ甍を爭へる、尊たかき卑しき人の住居すまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
 或は去年破れて今年は造り、あるは大家たいか滅びて小家せうかとなる。
 住む人もこれにおなじ。
 處もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人二人なり。
 朝に死し、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。
 知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。
 また知らず、假の宿り、誰がために心をなやまし、何によりてか目を悦ばしむる。
 その主人あるじと住家すみかと、無常を爭ひ去るさま、いはば朝顔の露に異ならず。
 或は露落ちて花殘れり。
 殘るといへども朝日に枯れぬ。
 或は花は萎みて露なほ消えず。
 消えずといへどもゆふべを待つことなし。

安元の大火

 およそ物の心を知りしより以來このかた、四十よそぢあまりの春秋はるあきを送れる間に、世の不思議を見ること、やゝ度々になりぬ。

 いにし安元三年(一一七七年)四月うづき二十八日かとよ、風烈しく吹きて靜かならざりし夜、戌の時ばかり、都の巽より火出で來りて、乾に至る。
 はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部省まで移りて、一夜ひとよが程に、塵灰ぢんくゎいとなりにき。

 火元は樋口富小路とかや。
 病人やまうどを宿せる假屋より出で來けるとなむ。
 吹き迷ふ風に、とかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如く、末廣になりぬ。
 遠き家は煙にむせび、近き邊あたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。
 空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なるなかに、風に堪へず吹き切られたる焔、飛ぶが如くにして、一二町を越えつゝ移り行く。
 その中の人現心うつゝごゝろあらむや。
 或は煙にむせびてたふれ伏し、或は焔にまぐれて忽ちに死にぬ。
 あるは又、僅に身一つ辛くして遁れたれども、資材を取り出づるに及ばず、七珍萬寶ばんぱう、さながら灰燼となりにき。
 その費いくそばくぞ。
 このたび公卿の家十六燒けたり。
 ましてその外は數を知らず。
 すべて都のうち三分が一に及べりとぞ。
 男女なんにょ死ぬる者數千人、馬牛の類邊際を知らず。

 人の營みみな愚かなるなかに、さしも危き京中の家をつくるとて、寶を費し心をなやますことは、勝れてあぢきなくぞ侍るべき。

治承の辻風

 また治承四年(一一八〇年)卯月二十九日の頃、中御門なかのみかど京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六條わたりまで、いかめしく吹きける事侍りき。

 三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大きなるも、小さきも、一つとして破れざるはなし。
 さながら平ひらに倒れたるもあり、桁柱ばかり殘れるもあり。
 又門の上を吹き放ちて、四五町がほどに置き、又垣を吹き拂ひて、鄰と一つになせり。
 いはんや家の内の寶、數を盡して空にあがり、檜皮葺、板の類、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。
 塵を煙けぶりのごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。
 おびたゞしくなり動どよむ音に、物いふ聲も聞えず。
 かの地獄の業風ごふふうなりとも、かくこそはとぞ覺えける。
 家の損亡そんまうせるのみならず、これを取り繕ふ間に、身を害そこなひて、かたはづけるもの、數を知らず。
 この風坤の方に移り行きて、多くの人の歎きをなせり。

 「辻風は常に吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず、さるべき物のさとしか。」などぞ、疑ひ侍りし。

福原遷都

 又おなじ年の六月みなづきの頃、俄に都遷り侍りき。
 いと思ひの外なりし事なり。
 大方この京のはじめを聞けば、嵯峨天皇さがのみかどの御時、都と定まりにけるより(薬子の変以後を指すか)後、既に數百歳を經たり。
 ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人たやすからず愁へあへるさま、ことわりにも過ぎたり。
 されどとかくいふかひなくて、御門より始め奉りて、大臣、公卿、ことごとく移りたまひぬ。
 世に仕ふるほどの人、誰かひとり故郷に殘り居らむ。
 官位つかさくらゐに思ひをかけ、主君の蔭をたのむ程の人は、「一日ひとひなりとも疾く移らむ。」とはげみあへり。
 時を失ひ世にあまされて、期する所なき者は、愁へながらとまり居たり。
 軒を爭ひし人の住居、日を經つゝ荒れ行く。
 家は毀たれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。
 人の心皆あらたまりて、唯馬むま鞍をのみ重くす。
 牛車を用とする人なし。
 西南海の所領をのみ願ひ、東北國の莊園をば好まず。

 その時、おのづから事の便りありて、津の國今の京に到れり。
 所の有樣を見るに、その地ほどせばくて、條里を割るに足らず。
 北は山にそひて高く、南は海に近くて下れり。
 波の音常にかまびすしくて、鹽風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木丸殿きのまるどのもかくやと、なかなか樣かはりて、優なるかたも侍りき。
 日々にこぼちて、川もせきあへず運びくだす家は、いづくに作れるにかあらむ。
 なほ空しき地は多く、作れる家は少なし。
 故郷は既に荒れて、新都はいまだ成らず。
 ありとしある人、みな浮雲うきくものおもひをなせり。
 もとよりこの處に居たるものは、地を失ひて愁へ、今うつり住む人は、土木どもくの煩ひあることを嘆く。
 道の邊ほとりを見れば、車に乘るべきは馬に乘り、衣冠布衣なるべきは直垂を著たり。
 都のてぶり忽ちに改りて、唯鄙びたる武士ものゝふに異ならず。
 これは世の亂るゝ瑞相(前兆)とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民の愁へ遂に空しからざりければ、同じ年の冬、なほこの京に歸り給ひにき。
 されど毀ちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、悉くもとのやうにも作らず。

 ほのかに傳へ聞くに、いにしへの賢き御代には憐みをもて國を治め給ふ。
 すなはち御殿みとのに茅を葺きて、軒をだに整へず、煙の乏ともしきを見給ふ時は、かぎりある貢物みつぎものをさへゆるされき。
 これ民を惠み、世をたすけ給ふによりてなり。
 今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

養和の飢饉

 又養和の頃かとよ、久しくなりてたしかにも覺えず。
 二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。
 あるは春夏日でり、あるは秋冬大風大水など、よからぬ事どもうち續きて、五穀悉く實らず。
 空しく春耕し、夏植うる營みのみありて、秋刈り冬收むるぞめきはなし。

 これによりて國々の民、あるは地を捨てて境を出で、あるは家をわすれて山に住む。
 さまざまの御祈り初まりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらに其のしるしなし。
 京の習ひ、何わざにつけても、みなもとは田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操も作りあへむ。
 念じわびつゝ、樣々の寶物たからものかたはしより捨つるが如くすれども、更に目みたつる人もなし。
 たまたま易ふる者は、金を輕くし、粟を重くす。
 乞食こつじき、道の邊に多く、愁へ悲しぶ聲耳に滿てり。

 さきの年(治承五年=養和元年〈一一八一〉)かくの如く、辛くして暮れぬ。
 明くる年は、立ちなほるべきかと思ふに、あまさへ疫病えやみうちそひて、まさるやうに跡方なし。

 世の人皆飢ゑ死にければ、日を經つゝきまはり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。
 はてには笠うち著、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。
 かくわびしれたるものども、歩ありくかと見れば、即ち倒れ死ぬ。
 築地のつら、路のほとりに飢ゑ死ぬる類は數も知らず。
 取り捨つるわざもなければ、臭き香、世界にみちみちて、變り行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。
 況んや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。

 あやしき賤・山がつも、力盡きて、薪にさへ乏しくなりゆけば、頼む方なき人は、自ら家を毀ちて、市に出でて之を賣るに、一人が持ち出でたる價、なほ一日が命を支ふるにだに及ばずとぞ。
 怪しき事は、かゝる薪の中に、丹つき、白銀しろがね黄金の箔など、所々につきて見ゆる木のわれ相交れり。
 これを尋ぬれば、すべき方なき者の、古寺ふるでらにいたりて、佛を盜み、堂の物の具を破り取りて、わりくだけるなりけり。
 濁惡ぢょくあくの世にしも生れ逢ひて、かゝる心憂きわざをなむ見侍りし。

 又、あはれなること侍りき。
 さり難き女男をんなをとこなど持ちたるものは、その思ひまさりて志深きは必ず先だちて死しぬ。
 その故は、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふ方に、たまたま乞ひ得たる物を、まづ讓るによりてなり。
 されば親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先だちて死にける。
 また母が命つきて臥せるをも知らずして、いとけなき子の、その乳房に吸ひつきつゝ、臥せるなどもありけり。

 仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ數知らず死ぬることを悲しみて、聖を數多語らひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなむせられける。
 その人數ひとかずを知らむとて、四五兩月が程數へたりければ、京の中うち、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭かうべ、すべて四萬二千三百餘りなむありける。
 況んやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、西の京、もろもろの邊地などを加へていはば、際限もあるべからず。
 いかにいはんや諸國七道をや。
 近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝる例はありけると聞けど、その世のありさまは知らず。
 まのあたりいとめづらかに、悲しかりしことなり。

元暦の大地震

 また元暦二年のころ、大地震ふること侍りき。
 そのさま世の常ならず。
 山崩れて川を埋み、海かたぶきて陸くがをひたせり。
 土さけて水湧きあがり、巖いはほ割れて谷にまろび入り、渚こぐ船は浪にたゞよひ、道行く駒は足の立處たちどをまどはせり。
 況んや都の邊ほとりには、在々所々堂舍塔廟、一つとして全からず。
 或は崩れ、或は倒れぬる間、塵灰立ち上りて、盛んなる煙の如し。
 地の震ひ、家の破るゝ音、雷いかづちに異ならず。
 家の中に居れば、忽ちにうち挫ひしげなむとす。
 走り出づれば、また地割れ裂く。
 羽なければ空へもあがるべからず、龍ならねば雲にのぼらむ事難し。
 おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけりとぞ覺え侍りし。
 その中にある武士ものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地のおほひの下に小家こやを作り、はかなげなる跡なしごとをして遊び侍りしが、俄に崩れ埋められて、あとかたなく平ひらにうちひさがれて(押し潰されて)、二つの目など、一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲も惜しまず悲しみ合ひて侍りしこそ、あはれにかなしく見はべりしか。
 子のかなしみには、猛き武士も恥を忘れけりと覺えて、「いとほしく。理かな。」とぞ見侍りし。
 かくおびただしくふる事は、暫しにて止みにしかども、その餘波なごり屡絶えず。
 世の常に驚くほどの地震、ニ三十度ふらぬ日はなし。
 十日二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、ニ三度、もしは一日ひとひまぜ(一日おき)、ニ三日に一度など、大方その餘波なごり三月許りや侍りけむ。
 四大種(四大)の中に、水火風は常に害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。
「昔、齊衡せいかうの頃かとよ。大地震ふりて、東大寺の佛の御頭みぐし落ちなどして、いみじき事ども侍りけれど、猶この度には如かず。」とぞ。
 すなはち人皆あぢきなき事を述べて、聊か心の濁りも薄らぐかと見し程に、月日重なり、年越えしかば、後は、言の葉にかけていひ出づる人だになし。

大原野の住家

 すべて世のありにくきこと、わが身とすみかとの、はかなくあだなる樣かくのごとし。
 いはんや處により、身のほどに隨ひて、心をなやますこと、あげて數ふべからず。
 もしおのづから身かなはずして、權門のかたはらに居る者は、深く悦ぶことはあれども、大いにたのしぶにあたはず。
 歎きある時も、聲をあげて泣くことなし。
 進退やすからず、立ち居につけて恐れをのゝく。
 たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。
 もし貧しくして、富める家の鄰に居るものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、諂ひつゝ出で入る妻子童僕の羨めるさまを見るにも、富める家のないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて、時としてやすからず。
 若し狹せばき地に居れば、近く炎上する時、その害を遁るゝことなし。
 もし邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなれがたし。
 いきほひある者は貪慾深く、ひとり身なる者は人に輕しめらる。
 寶あればおそれ多く、貧しければ歎き切なり。
 人を頼めば身他の奴となり、人をはごくめば心恩愛につかはる。
 世にしたがへば身くるし、またしたがはねば狂へるに似たり。
 いづれの處をしめ、いかなるわざをしてか、暫しもこの身をやどし、玉ゆらも心をなぐさむべき。

 我が身、父方の祖母の家を傳へて、久しく彼の處に住む。
 その後、縁かけ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、遂に跡とむることを得ずして、三十餘にして、更に我が心と一つの庵を結ぶ。
 これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。
 たゞ居屋ゐやばかりをかまへて、はかばかしくは屋をつくるに及ばず。
 わづかに築地をつけりといへども、門たつるにたづきなし。
 竹を柱として、車やどりとせり。
 雪ふり風吹くごとに、危からずしもあらず。
 處は河原近ければ、水の難も深く、白波の恐れもさわがし。
 すべてあらぬ世を念じ過しつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。
 その間をりをりのたがひめに、おのづから短き運を悟りぬ。
 すなはち五十の春をむかへて、家を出で世をそむけり。
 もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。
 身に官祿あらず。
 何につけてか執しふをとどめむ。
 空しく大原山の雲に、いくそばくの春秋をか經ぬる。

方丈の宿り

 こゝに六十の露消えがたに及びて、更に末葉のやどりを結べる事あり。
 いはば狩人かりうどの一夜の宿りをつくり、老いたる蠶のまゆを營むがごとし。
 これを中ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだも及ばず。
 とかくいふほどに、齡は年々としどしにかたぶき、住家はをりをりにせばし。
 その家のありさま世の常ならず。
 廣さは僅に方丈、高さは七尺が内なり。
 處をおもひ定めざるが故に、地をしめて造らず。
 土居を組み、うちおほひを葺きて、つぎめごとにかけがねをかけたり。
 もし心にかなはぬことあらば、やすく外に移さむがためなり。
 その改め造る時、いくばくのわづらひかある。
 積むところわづかに二兩なり。
 車の力をむくゆる外は、更に他の用途いらず。

 いま日野山の奧に跡をかくして後、南に假の日がくしをさし出して、竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を作り、中うちには西の垣に添へて阿彌陀の畫像を安置し奉り、落日を受けて眉間のひかりとす。
 かの帳ちゃうのとびらに、普賢ならびに不動の像をかけたり。
 北の障子の上に、ちひさき棚をかまへて、Kき皮籠三四合を置く。
 すなはち和歌、管絃、往生要集ごときの抄物せうもつを入れたり。
 傍に箏こと、琵琶、おのおの一張を立つ。
 いはゆるをり箏、つぎ琵琶これなり。
 東にそへて、わらびのほどろを敷き、つかなみ(束並=藁の敷物)を敷きて夜の床とす。
 東の垣に窗をあけて、こゝに文机を出せり。
 枕の方にすびつあり。
 これを柴折りくぶる便よすがとす。
 庵の北に少地せうちを占め、あばらなる姫垣を圍ひて園とす。
 すなはちもろもろの藥草を植ゑたり。
 假の庵のありさまかくのごとし。

日野山の生活

 その處のさまをいはば、南に筧あり。
 岩を疊みて水をためたり。
 林軒近ければ、爪木つまぎを拾ふに乏ともしからず。
 名を外山といふ。
 正木のかづら跡をうづめり。
 谷しげけれど、西は晴れたり。
 觀念のたよりなきにしもあらず。
 春は藤波を見る。
 紫雲の如くにして西のかたに匂ふ。
 夏は時鳥を聞く。
 かたらふ(啼く)ごとに死出の山路をちぎる(「死出の田長」の異名あり)
 秋はひぐらしの聲耳に滿てり。
 うつせみの世を悲しむかと聞ゆ。
 冬は雪をあはれむ。
 つもり消ゆるさま、罪障に譬へつべし。
 もし念佛ものうく、讀經まめならざる時は、みづから休み、みづから怠るに、妨ぐる人もなく、また恥づべき友もなし。
 ことさらに無言をせざれども、ひとり居れば口業くごふををさめつべし。
 かならず禁戒をまもるとしもなけれども、境界なければ、何につけてか破らむ。
 もし跡の白波に身をよする朝には、岡の屋に行きかふ船をながめて、滿沙彌が風情(沙弥満誓「世の中を 何にたとへむ 朝ぼらけ 漕ぎ行く船の 跡の白波」)をぬすみ、もし桂の風葉をならす夕には、潯陽の江(白居易「琵琶行」)をおもひやりて、源都督(源経信)のながれ(琵琶)をならふ。
 もしあまりの興あれば、しばしば松のひゞきに秋風の樂をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。
 藝はこれ拙けれども、人の耳を悦ばしめむとにもあらず、ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。

 また麓に一つの柴の庵あり。
 すなはちこの山守が居る所なり。
 彼處に小童あり。
 時々來りてあひ訪ふ。
 もしつれづれなる時は、これを友として遊びありく。
 かれは十六歳、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むることはこれ同じ。
 或あるはつばなを拔き、いはなし(岩梨)を採る。
 またぬかごをもり、芹を摘む。
 あるはすそわ(山裾)の田井にいたりて、落穗を拾ひてほぐみ(原本頭注「穗を組んで門などにかけ神へ奉る飾物」)をつくる。

 もし日うらゝかなれば、嶺に攀ぢ上りて、遙かに故郷の空を望み、木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師はつかしを見る。
 勝地は主なければ、心を慰むるにさはりなし。
 あゆみ煩ひなく、こゝろざし遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで、あるは石山を拜む。
 もしはまた粟津の原を分けて、蝉丸の翁が跡を弔ひ、田上川たなかみがはをわたりて、猿丸太夫が墓をたづぬ。
 歸るさには、をりにつけつゝ、櫻を狩り、紅葉をもとめ、蕨を折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉り、かつは家づとにす。

 もし夜靜かなれば、窗の月に古人を忍び、猿ましらの聲に袖をうるほす。
 叢の螢は遠く眞木の島の篝火にまがひ、曉の雨は自ら木の葉吹く嵐に似たり。
 山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ(行基の和歌を踏まえる)、峯のかせぎ(鹿)の近く馴れたるにつけても、世にとほざかる程を知る。
 あるは埋火をかきおこして、老の寢覺の友とす。
 おそろしき山ならねど、梟の聲をあはれむにつけても、山中の景色、折につけて盡くることなし。
 いはんや深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしも限るべからず。

閑居の思い

 おほかた此の所に住みそめし時は、白地あからさまとおもひしかど、今までに五年を經たり。
 假の庵もやゝふる屋となりて、軒には朽葉ふかく、土居に苔むせり。
 おのづから事の便りに都を聞けば、この山にこもり居て後、やんごとなき人のかくれ給へるもあまた聞ゆ。
 ましてその數ならぬたぐひ、盡してこれを知るべからず。
 たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。
 たゞ假の庵のみ、のどけくしておそれなし。
 ほど狹しといへども、夜臥す床あり、晝居る座あり、一身をやどすに不足なし。
 がうな(寄居虫=ヤドカリ)は小さき貝をこのむ。
 これよく身を知るによりてなり。
 みさごは荒磯に居る。
 すなはち人を恐るゝが故なり。
 我またかくの如し。
 身を知り世を知れれば、願はず、まじらはず、たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを樂しみとす。

 すべて世の人の住家をつくるならひ、必ずしも身の爲にはせず。
 或は妻子眷屬のためにつくり、或は親昵朋友のためにつくる。
 あるは主君師匠、および財寶馬牛のためにさへ是をつくる。
 われ今身のためにむすべり。
 人のためにつくらず。
 ゆゑ如何となれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべき奴もなし。
 たとひ廣くつくれりとも、誰をかやどし、誰をかすゑむ。

 それ人の友たるものは、富めるを貴たふとみ、ねんごろなるを先とす。
 かならずしも情あると、すぐなるとをば愛せず。
 ただ絲竹花月を友とせむには如かじ。
 人の奴たるものは、賞罰の甚しきを顧み、恩の厚きを重くす。
 更にはごくみあはれぶといへども、やすく閑しづかなるをば願はず。
 たゞわが身を奴とするには如かず。
 もしなすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。
 たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。
 もし歩ありくべきことあれば、自ら歩む。
 苦しといへども、馬鞍牛車むまくらうしくるまと心を惱ますには似ず。
 今一身を分ちて、二ふたつの用をなす。
 手のやつこ、足の乘物、よくわが心にかなへり。
 心また身のくるしみを知れれば、苦しむ時は休めつ、まめなる時はつかふ。
 つかふとてもたびたび過すぐさず、ものうしとても心を動かす事なし。
 いかに況んや、常に歩き、常に働くは、これ養生なるべし。
 何ぞ徒らにやすみ居らむ。
 人を苦しめ人を惱ますは、また罪業なり。
 いかゞ他の力をかるべき。

 衣食のたぐひまた同じ。
 藤の衣・麻のふすま、得るに隨ひて肌はだへをかくし、野邊の茅花、峯の木の實、わづかに命をつなぐばかりなり。
 人に交はらざれば、姿を恥づる悔もなし。
 糧乏しければ、おろそかなれども、なほ味をあまくす。

 すべてかやうの事、樂しく富める人に對していふにあらず、たゞわが身一つにとりて、昔と今とをたくらぶるばかりなり。

 おほかた世を遁れ、身を捨てしより、恨みもなく恐れもなし。
 命は天運にまかせて、惜しまず、いとはず。
 身をば浮雲になずらへて、頼まず、まだし(不十分だ)とせず。
 一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯の望みはをりをりの美景にのこれり。

 それ三界はたゞ心一つなり。
 心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望みなし。
 今さびしきすまひ、一間の庵いほり、みづからこれを愛す。
 おのづから都に出でては、乞食こつじきとなれることをはづといへども、かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に著ぢゃくすることをあはれぶ。
 もし人、このいへることを疑はば、魚鳥の分野ありさまを見よ。
 魚は水にあかず。
 魚にあらざればその心を知らず。
 鳥は林を願ふ。
 鳥にあらざればその心を知らず。
 閑居の氣味もまたかくの如し。
 住まずして誰かさとらむ。

 そもそも一期の月影傾きて、餘算よさん山の端に近し。
 忽ちに三途の闇に向はむ時、何のわざをかかこたむとする。
 佛の人を教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。
 いま草の庵を愛するも科とす。
 閑寂に著するも障りなるべし。
 いかゞ用なき樂しみを述べて、空しくあたら時を過さむ。
 しづかなる曉、この理を思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、
「世を遁れて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はんがためなり。然るを汝の姿は聖に似て、心は濁りにしめり。
 住家はすなはち淨名居士(維摩詰)の跡をけがせりといへども、たもつところはわづかに周梨槃特しゅりはんどくが行ひにだも(「だにも」の縮約形)及ばず。もしこれ貧賤の報いのみづからなやますか、はた又妄心の至りて狂はせるか。」(と)その時、心さらに答ふることなし。
 たゞ傍に舌根をやとひて、不請の念佛(他力本願の念仏か)兩三遍を申して止みぬ。

 時に建暦の二年とせ(一二一二年)、三月やよひの晦日つごもりごろ、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。

 月影は 入る山の端も つらかりき たえぬ光を 見るよしもがな
  (『新勅撰集』源季広)

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