武田信玄 幸田露伴

 古の事でも今の事でも虚談には面白いのが多くて、おもしろいのには虚談が多い。
 真実の事は虚妄の談よりおもしろかるべきであるが、少くとも虚談の製造者に瞞着され了りて、そしてそれを面白いと思ふやうな人に取つては、虚談ほど興味があつて、精彩があつて、気韻生動権威故意を排し我を立てんとするよりの計謀的宣伝もあり、其他種々の原因よりして生ずるので有るが、虚談でも何でも構はないから、自分に面白いと思はるゝものを面白いとして嬉しがつて信受する人が世間には甚だ多いからして、虚談は何時の世にも幅を利かして、終には実際の方が卻つて虚談に圧せらるゝやうになるのである。
 へリオトロープの宝石、隠簑、隠笠などの実存を信ずるのは、多くの人に取つては面白いのである。
 有ることの有るといふ直接証拠は容易に提出し得るが、無いことの無いといふ直接証拠は無い。
 無いことを無いと証拠立てようとすれば、有るといふ証拠を一々粉砕し尽して否定しきるよりほかはない。
 そんな事が出来る訳のものではないから、一度虚談が何人かによつて成形されると、それを無いものにすることは中々容易でない。
 そこへもつて来て、世人の多くは虚談でも面白ければ面白いものに執着を持つから、ヘリオトロープの宝石や隠簑や隠笠の神力を肯定する為には、自分が背中に物を抛着されたり、頭顱を撲たれたりしても、それでも忍耐してゐるものである。
 をかしいにも何にも、斯程をかしいことはないが、それでお互に噴飯もせずに居るところは、おもしろいと云へば、これもおもしろいには相違ない。

 釈迦でも老子でも、基督でも、蓋し今の人々が釈迦であり老子であり基督であると思つてゐるものは、恐らくは虚談の集塊岩であつて、ほんとの釈迦や老子や基督は今の人々が想つてゐるやうなものではないかも知れぬ。
 文献上に精確に証拠立てられるところでは、老子の如きは、後世になるだけ種々の虚談が塗附けられたり、鍍金されたり、彫刻されたりして、そして立派な太上老君となり、道教の祖師となり、仙人の親分となり、終には其の使つてゐた小童や牛までが大魔力を有するものとなつて、下界で勝手な事をするやうに捏上げられるに致つたのである。
 武田信玄、上杉謙信、何といふ立派な面白い取組だらう。
 川中島の大戦、長光の陣太刀、鉄団扇、謙信公は、「せがれめ、せがれめ」と云つて信玄を小忰扱ひにして斬つてかゝる。
 信玄公は天下を心に掛ける程の者が自ら佩刀を揮ふやうなことではならぬと、危急の場合にも刀を抜かずに、牀几に腰を据ゑたまゝ軍配団扇で謙信をあしらつた。
 イヤ実におもしろい。
 すばらしい。
 素敵だ。
 どつちが勝つたのだ、謙信が勝つた、信玄が勝つた。
 どつちが偉いのだ、信玄が偉い、謙信が偉い。
 コイツ甲州猿め、降参しろ、と一方が言へば、何だ越後の角兵衛獅子め、其のでんぐり返るのが車懸りの陣法か、と一方が冷笑ふ。
 講釈師のたゝき立てた扇の響きが勇ましく今に伝はつて、四百年近くも過ぎて終つた龍闘虎争の余焔が今でもイキリ立たうといふのだから信玄贔屓も謙信好きも、互に其の誰からともなく聞いて覚えてゐる面白い談を大切に信受し愛惜して捨てないで、啀み合ふものさへある位である。
 最初が何年も勝負つかずで相争つたのだから、末に至つても勝負の決まらうやうはない。
 が、若しも真の事実だけだつたら、これほどにもなるまいが、信玄謙信の両雄が孰れも世を逝つてから、徳川氏の太平の無事の代になつた時、信玄方の将士の末孫、謙信方の将士の末孫等が、互に自分等の祖先等、ひいては祖先等が仕へた英主に愛着を有つて、互に負けず劣らずに、父祖代々語り伝へ聞き伝へた事蹟を、訛誤も誇張も修飾も捏造も演繹も論説も宣伝も其他の種々のものをも含有させ傍題にして、云ひ張つたが為に、それからそれへと伝へ拡めて、終に天文弘治永禄のほんとの戦と、徳川期の其の実際の影法師の戦と二度の長い戦とが重なつて、いよ/\両雄は偉いものになり、川中島は凄まじい戦になつたのでもあらう。
 影法師の戦の方は、兵粮も要らぬし、天候時候の束縛も被らないから、随分勝手次第に戦はれたことと想像され、うその鼬ごつこ鼠ごつこも勝手次第に増長しあつたことと想像される。

 といふものは、甲州武士は武田氏滅亡後に徳川氏に属したものが少くなかつた。
 これは何も家康公が勝頼の首級に対して礼を以て待つたから、それで甲州武士の心を得たなどといふ伝説に本づくまでもなく、家康公が拠つた地方の関係上、自然と徳川氏に招致されて徳川氏に属したのである。
 北条氏が亡びて、北条氏麾下の士が多く徳川氏に属したのも同じ事情である。
 徳川氏麾下の働き手は、三遠駿の士が一分、甲州の士が一分、小田原の士が一分といふ訳で、これは皆自然の地理上の関係から出たことであり、家柄力量功績等、近処ならば自然と知られ、遠方ならば知られない訳だから、上方大名や中国西国の大名へは、たとへそれが英主であつても態々これに属しに行くものはない道理で、召抱へる方でも素性も心術も知れたものなら喜んでも召抱へるべき訳であるのに、まして家康公は早くから海道の名将と謡はれた方であるから、甲州武士が主家没落の後、自然に心を帰し身を寄せた訳である。
 それで此等の士を用ゐ、武田家で教育された其の好果を利して、家康公は愈々其の英雄的本領を発揮されたのである。
 三河武士と甲州武士とは互に励み合ひ競ひ合つて、徳川氏の為に勲功を立てたのである。
 明治の前でも徳川氏の旗下と称したものの中には、甲州武士の系は甚だ少くないのであつて、それは著明の事実である。
 武田信玄はもとより天稟の武将の才で、信玄が出てから武田氏の弓矢は甚だ強くなり、其の訓練や節制や精神教育は殆んど完全に近いものになつた。
 で、これと争つた徳川氏でも、北条氏でも、味方が原、三まぜ峠等、いづれも散々に塩を附けられてゐるのであるし、上杉氏のほかには当時に於て甲州勢を正面の敵とするのを憚らないものは無かつたのである。
 此の甲州武士を家康公が招致したのは至当の事であつて、此等の者が武辺沙汰に後れを取るまいの意気から徳川氏の為に材を伸べ勇を奮つて力を致したのは決して少くない。
 剛強誠実の三河武士と練達勇猛の甲州武士があつたればこそ、後年家康公が天下を掌中にするに至つたのである。
 徳川氏の軍法にも、随つて甲州流の節度の幾分採用されたらうことは、如何に謙虚に観察しても、必ず存すべきことである。
 いや然様で無くとも、鄰家に碁の強い者があつてこれと戦ふと、度々敗績しながらも、何時となく其の手口を覚えて、敗績を我が師として自然に強くなる。
 家康公の信玄に於ける場合も丁度(ちやうど)それと同(おな)じである。
 で家康公の大功成つて、天下太平となつた後、其前から存した兵法沙汰軍学沙汰、城取縄張、斥候陣押、進退駈引、そんな種々の事柄が論議され、実験の所有者たる古老が凋落するに附けて、所謂軍学なるものが卻つて尊ばるゝやうになつてくる折柄、信玄公を担ぐ甲州風の軍陣の談が世間に取交されたらうことは明らかなことである。
 又他の一方には歴史の囘顧が起つて来て、色々の談が取交される。
 又有力な一因には、往事の記録が整理され出す、即ち修史の事がはじまる。
 そこで徳川氏の敵ではあつたが、師でもあつたやうな信玄が、徳川氏の敵の手足ではあつたが、後には股肱にもなつた甲州武士等によつて様々に語られ、それから又徳川氏には屈せられたが、徳川氏をも敵とするを敢てして、謙信以来の威武に誇つてゐる上杉家の者等の信玄に対する反抗的余焔も燃えたことであらう。
 それこれで永坂釣閑斎跡部大炊介さへ居なければ武田家は鉄の如く強かるべきやうに書かれた甲陽軍鑑も出れば、信玄の頭の鉢を伏鉦でも敲くやうに謙信が敲いたよしを記した輝虎注進状のやうなものも出るに至つたのであらう。
 又、甲州流軍学も出来上れば、謙信流軍学も出来上つたのであらう。

 ことに軍学沙汰は信玄の旗下五人衆の一人に山本勘助入道鬼斎といふ逸物があつて、これが左のめつかち右びつこ、身の丈矮く色黒く、容貌醜陋にして、信玄でさへ其の男振の余りなのに呆れたが、これほどの見苦しい男で而も名を得たるは器量想ひはかるべしと感心し、且は又信玄が頼み切つたる老臣板垣駿河守信方をして推挙せしめた男であつた。
 此の勘助は十二の時、三州牛窪の牧野新三郎成定の被官の大林勘左衛門といふものの養子となつたが、父は駿州富士郡の山本村の八幡宮の神主吉野浄雲入道貞倫の子で、今川家に仕へて士となり山本氏を称した弾正貞久といふものであつたといふ。
 勘助は貞久の四男だつたので、源助貞幸と云つた時分養子にやられて、勘左衛門の養子だから勘助となつたのだが、年二十の頃に故有つて養家を辞して、諸国遍歴に出かけたといふが、失敬ではあるが察するところ上杉謙信に斬込まれても驚かぬ信玄でさへ驚いた男振だつたから、勘左衛門に娘があつたとすれば、恐れ入つて引退つたからの事でもあらう。
 併し勘助は幸に失恋して神経衰弱になるやうな男ではなく、心掛のたしかなものであつたから、伯父山本帯刀左衛門成氏に兵法を学び、又同国寺部の鈴木日向守重辰にも従ひ学び、其上諸国遍歴三十余年といふから、随分長い間の放浪生活をしたもので、放浪生活も此位続ければ寂びが付いておもしろからう。
 五体不具になつたのも、此の放浪中に兵法の仕合から得た不幸だつたともいふ。
 母は今川家の臣の庵原安房守忠胤の妹であつたから、其縁によつて庵原に食客となつてゐる中、信玄に仕へたのだが、其時に天文十二年、年五十二だとある。
 軍鑑には手も不自由な人とあるが、それでも信玄の謀将として、所謂甲州流の軍学には勘助が必ず引合に出されるほどで、永禄四年九月十日、川中島の大戦に、其の不自由な身の六十九歳の老体を馳駆奔突させた挙句、大小八十六ケ処の創を負うて、悪戦苦闘し、川中島八幡原の草の中に魂魄をたゝきつけて戦死したところは、実に痛快壮快の好男子である。
 勘助は蓋し初から兵法軍学を以て自ら立つたのであらう。
 勘助の弟山本帯刀成行といふものも兵学を得て居たのであらう、永禄十一年三月遠州浜松の城を徳川家康の為に修築したと云はれてゐる。
 駿州久能山に恐ろしい深い井があるが、俗伝に勘助が鑿つたのだと云つてゐる。
 兎に角此の勘助が甲州の兵事に何程の貢献をしたかは不明だが、かゝる男の信玄麾下に居たことは、後の甲州流軍学と言ふものに所以無きを思はしめぬ一楔子になつてゐる。
 勘肋が放浪中に諸国諸家の軍事政事の得失を研究して居つたので、用ゐらるゝに及んで其の善しとするところを信玄に献策して用ゐしめたことは、蓋し有るべき事柄である。

 世の甲州流軍学と言ふものは、小幡勘兵衛景憲を祖とする。
 景憲は山本勘助を宗とする。
 併し景憲は勘助に直接師事したのでも何でもない。
 勘兵衛景憲は甲州の宿将小幡虎盛の後で、昌盛の二男だが、其の生れたのは元亀三年だから、僅に十一歳の時に武田勝頼は亡びたのである。
 で、幼時から徳川氏に仕へて、関ケ原、大坂の前役にも出陣したが、大坂との和談が一旦成就した時に、大野治房の招に応じて、大坂方へ入り、板倉伊賀守勝重や松平隠岐守定行と諜し合せて、関東方の為にスパイとなつたのである。
 かゝる男が大坂に居たのであるから、大坂の様子は手に取る如く関東に知れ、随つて容易に亡ぼされたわけで、大坂亡びて後は御使番となつたのである。
 此の勘兵衛も一通りの者ではない、自分の所領の三分の一を村上荘次郎といふ者、他の三分の一を杉山八蔵といふ者に与へて、自己は残れる三分の一を得るに甘んじたといふ。
 斯様いふ男で、そして甲州の士早川三左衛門、広瀬景房、辻弥兵衛、小宮山八右衛門、仁科肥前守、辻甚内等に就いて武田家の軍法を問ひ、又、岡本半助、赤沢太郎右衛門、益田民部等にも学び、又甲州北郡に隠居してゐた岡本実貞入道をも招いて益を請うたりして、終に甲州流軍学を以て世に鳴り、列侯諸士の其門に入るもの二千余人に及んだといふことである。
 勘兵衛の弟子北条安房守氏長は北条流の祖となり、氏長の弟子山鹿甚五左衛門義矩は山鹿流を編立てたのだから、名高い山鹿素行も景憲の孫弟子の訳である。
 信玄及び武田家の事を記したものの中で古いものは甲陽軍鑑である。
 軍鑑は虚実混淆して確実の史料として取ることは難いものであり、且また高坂弾正の撰にかゝるといふことは断じて信ぜられぬものであるが、決して生新しい偽書ではない。
 古いことは古いものである、武田氏滅亡を距ること遠からぬ世に出来たものである。
 勘兵衛は甲陽軍鑑の闕を補ひ誤を正さんとしたやうに云はれてゐる。
 併し夏目繁高は、勘兵衛が甲陽軍鑑の闕文を補ひ、大に甲州武田の兵法を興起す、と記してゐる。
 勘兵衛は非常に長命で、寛文三年九月九十二歳で死んでゐるが、勘兵衛存命中、蓋し勘兵街の七十七の賀の頃門人等が打寄つて記したと見ゆる正保四年の誌文は、文章も朴拙で古さの思はるゝもので、其中に、景憲天性人の宇下に立つを欲せず、燕雀を睥睨するの知、鴻鵠を慕ふの志有り、唯願ふところは先君信玄公創業垂統の規矩、殊に軍旅の制法は之を詳かにせんと、故に甲信両国の士、普く其門に入り、故実を尋探し、委曲に之を記録し、悉く其語を綴集し、編して五十帖と為し、名づけて甲陽軍鑑と号す、而も景憲心未だ満たずとして、又益々天下に遍歴し、其志を立てんことを願ふ、とあつて、其の下には景憲が致仕して諸国修行を試み、兵法軍学禅宗に苦心した事を記してあり、其後関ケ原大坂等の役に参じたことを記てある。
 して見れば甲陽軍鑑は勘兵衛が若い時、関が原役の前ヶ原役の時は勘兵衛年二十九)即ち青年時代に、自分と同じく徳川氏に属した甲州諸士等に信玄盛時の事を聞きて、追慕憧憬の念、慷慨悲愴の情、研究心、批評心、何や彼やを取交ぜ、且又今は徳川氏に属してゐる諸将士の感情や智識や意見をも取交ぜて記したるものと想はれる。
 史実の誤訛や不足やは、もとより史家でも記録でもない諸将士の記憶談を其侭伝へたのであるから、自然生じ勝の事で、しかも勘兵衛に語つた諸人も亦一々いち実際に遭遇又目撃した人のみではなく、伝聞に之を得たことを語つたらうから、後世の考証家に其失を攻撃されるやうな誤謬を含んだとて、それは無理も無いことであらう。
 で、事実文編の巻十四に採録されて居る逸名氏の景憲門弟子の正保丁亥の記文を信ずれば、甲陽軍鑑は勘兵衛の手から出たもので、其の成立の事情も大概は分明する。

 此の勘兵衛が無論甲州方に左袒して軍鑑を編み、しかも二千余人も門人を有する兵学家として後に至つて世に威張つて立つたことは、信玄と対抗した家で、しかも関ケ原以後は押へ付けられた上杉家及び其将士等に取つて不快の事でないわけはない。
 輝虎注進状は事実其時のものとは受取り難いし、又何人が作つたかも知らぬが、併し上杉方から出たものであらうことは疑無い。
 林家修史の時に際して出て来たものであらうと想像されるし、川中島五度合戦次第は寛文年間に林春斎が本朝通鑑を編する時に史料に供へんため上杉氏より当時の閣老酒井雅楽頭に呈されたものと奥書にあるが、およそ同じ頃に出されたものででもあらう。
 イヤ然様いふ史料の方面でなく、軍学の方面を一寸考へて見ると、越後流即ち謙信流の軍学といふものがある。
 何人が編み出したもので、何時頃から出来たものか知らぬが、これも其の軍学の系伝が後まで存して、三徳流などといふ支派まであるところを見ると、いづれは越後武士の建立であらう。
 甲州流で山本勘助を宗とするが如く、越後流では謙信の謀将であつた宇佐美駿河守定行を宗とする。
 いづれ宇佐美氏の後か、然らずも越後武士が上杉家の制度事蹟等を聴集めて編立てたものと考へられる。
 そして丁度武田家に於ける甲陽軍鑑と同じやうに、上杉家に於ける春日山日記三十巻が出来てゐる。
 これは半分史伝様のもので、半分軍学様のものであること、猶ほ甲陽軍鑑が史伝軍学雑糅混淆して居るが如くである。
 名は堂々としてゐるが、文章識見に古風の味が少くて多分は軍鑑の後に出来たものであらうと思はれる。
 恐らく越後軍学者の手に成つたものと鑑定して大差はあるまいし、且又軍鑑を向ふ側に取つて編成されたものと猜しても、余り邪猜でもあるまい。

 甲越川中島の長い烈しい闘争の後に、太平になつてからも影法師の戦争が復繰返されたと自分が言つたのは斯様いふ意味である。
 併し双方の言分を割引無しに買取つて、そし両方を取組合せて、信玄謙信を相争はしめると、それは甚だ面白い華々しいものが眼前に展開して来る。
 虚談でも面白いものは人が好くから、面白くしようと思へば虚談を取入れるに限る。
 虚談は多くの人には多分面白いものであるのだから。
 但し然様いふやうにして出来たものには、既に甲越軍談のやうなものもあれば、講談師等が読み拡げて来た俗説も沢山ある。
 山陽も澹泊も皆流布の説を其侭取つて、火の如く花の如き文を為したり、霜の如く日の如き論を下したりしてゐる。
 今更前人の後塵を拝して其の余威を籍ることも要るまい。

 信玄は新羅三郎義光以来の名家たる武田の家に、大永元年に生れたといふのが通説である。
 父は左京大夫信虎、母は武田氏同族大井上野介信達の女で、生れた歳に遠州の福島兵庫といふものと信虎と飯田河原で戦つて、信虎が大勝を得、兵庫を誅したので、因つて勝千代といふ幼名を賦へられたといふ。
 併し福島の戦死は大永元年の前年で、永正十七年十一月二十三日であるから、大永ではなからう、且又父信虎は寅歳生れ故に虎の印を用ゐてゐるが、信玄は龍の印を用ひてゐる、蓋し辰年生れであらう、といふ推断から、永正十七年辰歳の誕生とする説もある。
 人の誕生没年などといふものは、種々の都合づくから、辰年生れでも巳年生れのことに粧ふたり、子年に死んでも丑年に喪を発したりするもので、すでに信玄の死んだ時も当時表向には長い間死なぬことにしてゐたといふ説さへある位であるから、ぜられぬが)両説のいづれが真実か知れぬ。
 併し兎に角表面に大永元年に生れたことになつて居たのだらう、それは天文五年に信玄十六歳で元服し、勅使下向あつて、従五位に叙し、大膳太夫兼信濃守に任じ、将軍足利義晴より晴の字を賜はつて、晴信と名づけられたことには諸説異論の無いところを見れば、逆算して大永元年生れとなる。
 或は永正十七年辰歳生れで、戦後ではあり、年末に際したので、翌年の春三月、芽出度祝はれたのかも知れない。
 どちらにしても日は二十三日となつてゐるのが考へどころである。
 併し叙任の事さへも、家督の後であつたらうと思はれるので、強ひて確説することなどは出来ないし、確説する必要も無いことである。
 信玄大永元年巳年生れの説の有力の証は、江州多賀明神に天文十四年に於て信玄が奉つた願文に、晴信誕生辛巳歳也とあるのが考証家的には動かぬ証拠だ。

 信玄幼時の事は別に伝ふることもない。
 勝千代でゐた後に、大炊頭と云つてゐた時があつた位の事しか知れぬ。
 確実の談か何様かは知らぬが、十三歳の時の事として伝へられた蛤の話がある。
 若しそれが事実ならば年齢には相違があるらしいが、事実は一寸面白い。
 それは斯様いふ談である。
 駿河の今川義元の妻は信玄の姉である。
 其の姉の方から甲州なる信玄の母のところへ貝おほひの遊びの為に沢山の蛤貝を贈り越した。
 そこで母君から勝千代に此の蛤貝の大小を扈従共に吩付けて撰り分けさせよとの事であつた。
 勝子代即ち後に信玄は母の命によりて、大なる好き貝を撰んで奥へまゐらせた。
 其の余りの貝が、畳二畳敷ばかりに大方充ち填まりて、高さも高いところは一尺ほどにも山積した。
 貝おほひの用の貝は余り小さいものではないから、余つた貝も相応の貝であらうが、勝千代は扈従に算へさせたら三千七百余あつた。
 其時諸士の参候する者があつた。
 勝千代は諸士に、こゝなる蛤は凡そ何程あるだらうか、推量して見よ、と云つた。
 諸士は心々に推量して、或は一万五千、或は二万などと答へた。
 その時勝千代が、人の数も実は是の如く多くはあらぬものであらう。
 五千の人数を持つたらば何をするにも心のまゝである。
 と云つたといふ事である。
 如何にも面白い談で、成程五千となると一寸見積れぬ数である。
 勝千代の言は勿論軍旅戦陣の事に就きてであるが、当時能く五千の兵を用ゐたならば他を圧し我を立つるに足りるでもあつたらう。
 勝千代の此言を聞いたもの、軍陣の経験ある者等、舌をふるつて驚いたといふ事である。
 雄将勇士の幼立には、兎角此類の逸話があるもので、徳川家康公が幼時菖蒲切りの争の見物に、小勢の方が勝つと云はれたことや、毛利元就が幼時厳島社参に際して、家人が中国一国を此君に取らせたまへと祈つたといふのを、何故日本全国を取るやうにとは祈らぬぞと罵つた談や、北条氏康が十二の時に鉄砲の音を初めて聞いて吃驚したのを自ら慚ぢて腹を切らうとした事や、士分でも里見の正木大膳が十二三で馬を乗り習ふ最初から片手綱で乗らうとして、師が之を制したのに対して、侍の将たらんものが徒歩にて鎗を合すべきや、馬上に働かんならば、片手綱を達者に習ひ覚えてこそと云つたことなど、皆其の或は英明、或は雄偉、或は俊邁、或は豪爽の性質を語るもので、まことに面白い。
 が、逸話の類は割引して聞かぬと、虚談に乗せられる。
 面白い談には虚談が多いからである。
 信玄幼時の蛤の談も十三の時の事でないだらうことは確実である。
 何故といへば信玄十三の時は天文二年に当り、天文二年には今川義元はまだ義元にならずに、善徳寺の喝食で承芳と称して居たのであり、信玄が十五の年、天文四年の四月、兄の今川氏輝が死んでから其の遺言で寺を出て俗に還り、次兄の良真と争つて克つて後に、天文五年に今川家を継いで、辛くも従四位下治部太夫駿河守となつたのであるし、信玄の姉を娶つたのは信玄十七の年、天文六年の二月であるから、信玄十三歳頃に今川から蛤貝など来さうな訳はないのである。
 で、此の話は仮令真実でも、信玄十七八歳位の時の事でなければならぬ。
 人数積りの事などは、如何に信玄でも十三位では余りマセ過ぎてゐる。
 併し蛤の談が真実ならば、十八九歳にしても実に偉い、悟りどころに甚だ味のある談で、流石は信玄だと云ひたいことである。

 前に言つた天文五年に勝千代十六歳元服の事は軍鑑の載するところで、且つ又今川義元の取持を以て是の如くと記してあるが、これは何様もをかしい。
 今更甲陽軍鑑の記事を駁したとて興もないことだが、松平予州が、信玄の叙任並に嫁娶の事、何の歳にか有りけむ、其実は詳ならず、と云つてゐる方を信じたが可である。
 元服は勿論年齢さへ適当なら其儀があるべきだが、叙位任官は大抵家督に立つてからあるのが常で、父信虎が甲州に居しかつてゐる中に、廃嫡しようと思つてゐたといふ勝千代に叙任を求めてさせよう理も薄いから、旧伝の通説もよい程に聞流すべきである。
 又すべて理窟を云はずに旧説を信ずるにしても、今川義元の取做しといふ箇条だけは取去らねばならぬ、義元が武田家の縁者となつたのは天文六年で、其前は武田家と今川家と別に交情が好かつたのでも何でもなく、むしろ互に敵であつたからである。

 扨信玄が父の信虎を逐出したといふことは通説になつてゐる。
 そして信玄の雄材大略を称する者までが、信玄は偉いことは偉いが、ひどい人だと云ふことを敢てしてゐる。
 安積覚などになると、信玄父を逐ひて自ら立ち、天倫を毀滅す、大本既に虧く、威は鄰境に振ひ、名は百世に垂るといへども、観るに足らざる也、と云つてゐる。
 又、信玄が父を逐うた故をもつて、終身論語を読まなかつたといふ俗伝を其侭受入れて、終身敢て論語を読まずと雖も果して何の益あらんやと云つてゐる。
 又、信玄廃退せられ、群臣の列に就き、僅に一隊の長となり、材略展ぶるところなくして、而して牖下に老死し、後世復信玄といふ者を知らざるも、それで可いではないか、と極論してゐる。
 もとより倫常を扶植し、道義を標榜するをもつて念としてゐる儒教の言としては、然様いふやうな厳正に論ずるのが過つては居ないけれども、しかも事情の考覈に疎にして、論議の苛酷に勇なるの失有るを免かれない。
 信玄が父信虎を逐うたといふのは、大分俗伝とは距離のある事情があつたに疑無い。
 一概に俗伝を其侭受入れて、信玄を梟獍の雄とのみ看做すのは、何様も正当ではないらしい。
 戦乱の世の事は、太平の世に机辺に坐して聖経賢伝を引張り出して論ずるやうにはならぬ。
 又戦乱の世の人は、太平の世の人のやうに、義理押し道理押しばかりで、形式辞令の通りに何事をも処して行くものとも思へない。
 外に現はれたところは、信虎国外に去り、信玄国内に拠つたことではあるが、父子の間に何様いふ黙契秘旨があつたかも知れない。
 表面ばかりで判断するのは、無事の世に於てさへ正鵠を得ぬ勝である。
 まして戦乱の世の事は、内に於ても外に於ても、ひた押しの論議では悉せぬところの委曲があるものと思はねばならぬし、それから又内部の云伝へも外間の云囃しも、一々言葉通りには信ぜられぬものである。
 例へば信玄が小田原へ攻入つた時に、鎌倉八幡へ参詣しようとすると云つたから、小田原方では信玄鎌倉へ行つたなら引包んで撃たうと思つたから鳴りを鎮めて信玄の思ふまゝに行動するのを待つてゐたのである。
 ところがそれは計略の云触らしで、信玄は三増峠へかゝつて引取つたのである。
 これは内部からの言触らしが虚であつたのである。
 又信玄が永禄十二年六月十七日に駿州三島に働いて陣した時、津浪にあつて八幡大菩薩の小旗を失つて退いた節は、北条家では信玄敗軍して旗を捨てて退いたと云つたのである。
 これは外部からの虚であつたのである。
 戦乱の世の際には、計策の秘を含んだ虚もあれば、勢威を張るための意を含んだ虚もある。
 若夫計謀深遠にして、敵の計に就いて我が計を成し、其計謀が永く外間の浅人の窺ひ知るところとならずして終るやうなことであつたら、後のものはたゞ群盲摸象の言を為すに止まるであらう。
 此点は考へなくてはならないことである。

 俗伝に従へば、信玄が論語を手にしなかつたといふのは、如何にも信玄心中の秘を語るやうなことで、然も/\父を逐つて自ら立つた事実があつた様に思はるゝ事であるが、これも軍鑑から出た事で、是は、逐出の事)信玄公御道理千万なれどもそれさへ信玄公恥敷思召し、論語を終に手に取り玉はず、論語には一入親孝行の事多し、とあるのから出た談である。
 論語よりも孝経の方が似合はしいところであり、孟子の方が猶ほピタリと逐父自立の人には痛いところがある訳ではないか。
 孝経孟子は手にしたのだつたか何様だか問ひたい。
 しかも軍鑑第二品には、目録に、信玄公舎弟典厩子息へ異見九十九ケ条の事といふ文が載せてある。
 それは元禄元年の日附で、前には龍山子謹誌とあるが、後には信繁在判とあり、信玄が書いたのか、信繁が書いたのか、実は坊主などが書いたのか、小幡勘兵衛が書いたのか、甚だ不分明であるが、其中には幾ケ処も論語を引いてあるのがおもしろい。
 そんなことは兎に角、信玄論語を手にせずといふが如き瑣談は、人々の頭に一寸響くところのある談ではあるが、余り価値のあることでもなく、証拠にもならぬことである。

 俗伝では信玄父を逐ふの始末は斯様である。
 信玄まだ晴信にもならぬ勝千代の、十三歳の時であるが、父信虎に秘蔵の名馬の鹿毛の癇強なのがあつて、鬼鹿毛と名づけて、甚だ愛して居た。
 それを勝千代が頂戴いたしたいと需めた。
 信虎は我意強く、荒気の人であつたから、我が秘蔵の馬を吾が児になりとて素直に与へるやうな人ではなかつた。
 併し惣領の所望ゆゑ無下に与へないとも云へぬので、まだ勝千代で彼の馬に似合はしくもない、来年十四になつて元服したら、武田家重代の郷の義弘の太刀、左文字の脇指、新羅三郎公以来の楯無の鎧、八幡太郎公の御旗も共に与へよう、とのことであつた。
 そこで勝千代が復言ふには、家の御旗、楯無の鎧、太刀、脇指は御重代のものなれば、それは御家督下さるゝ時にこそ頂戴いたし申しませう、来年元服間げんぷく)いたせばとて、部屋住の体では頂戴も勿体無い事でござりまする、馬は軍用大切のものでござりますれば、今より心がけ乗習ひて、一両年の間に何方へなり御出陣の場合には、御後備をも勤め申すべき覚悟で所望申上げたのでござりまするから、何卒御許容を、とのことであつた。
 すると信虎は狂暴の人なので、黙つて勝千代が引込まなかつたのが大に癇にさはつて、家督を譲る譲らぬは乃公の料簡で、誰が知つた事だ、家重代の物を譲つて呉れようといふのに、いやならばいやでよい、次郎に典厩信繁)を総領にして、父の下知につかぬ者は逐出して終ふまでだ、其時になつて諸国を流浪し、手をさげて物を云ふとも承知はすまいぞ、と罵つて、備前兼光の三尺三寸の太刀を引抜きて、勝千代の使を逐ひ走らせた。
 使は頭をかゝへて逃げ帰つて終つた。
 それでは済まぬから、曹洞宗の僧の春巴和尚といふのが仲直りを取計らつたので、何事も無くて済んだが、此事あつてより父子の間が心解けぬやうになつたとある。
 斯様な事もあつたかは知らぬ。

 勝千代が父の愛馬を所望したのは、無遠慮といへば無遠慮だが、悪いといふほどの事でもないし、信虎のこれを与へなかつたのも、与へたく思はなかつたのなら致方もないことだ。
 それに対して勝千代の申分は些小間しやくれて小憎らしい云分だつたから、信虎の不快に思つたも無理は無いが、それに対しての信虎の暴怒は、性質とは云へ年甲斐もないことであつた。
 曹洞の智識春巴和尚といふのは、誰の事か一寸不明である。
 古府中の万年山大泉寺は曹洞の寺であつて、大永中に信虎が天桂禅師を招いて開山とし、分国中の僧録所とした大寺である。
 此寺の二世の吸江英心は、信虎には弟、勝千代には叔父である。
 春巴和尚とは吸江英心の事でゞもあらうか。
 英心ならば丁度斯様いふ場合に出て然るべき俗縁もあり、勧解の地に立つべき身分でもある。
 いづれにせよ、斯様な事もあつたかも知れぬ、まんざら一切が作り事とも思へず、有りさうにも思はれることである。

 人間界の事といふものは、前世因縁といふものか何様か知らぬが、一寸した事が核子になると、それに夤縁して、善いのも悪いのも漸々に附加増長するものである。
 丁度雪丸を地上に転ずると雪は雪に貼いて終に大雪円になるやうなものである。
 又、金米糖といふものを製してゐるのを見ると、芥子粒に溶けた砂糖を熔皿上で澆いで、ミゴ帚のやうなもので滾転させてゐると、段々に砂糖が着いて、終には面白く奇妙な角が生えたやうな毬子状を成すものである。
 人間界の事もこれと同じやうに、一寸した事が核子になると、段々と好いものが附着し重畳したり、又其の反対の場合には段々と悪いものが附着重畳して、大層好くなつたり、大層悪くなつたりするものである。
 男女の間の事でも、事業の上の事でも、又深仇となるも善友となるも、多くは些細の事が核子になつて、時の拍子で、それに種々の事が附着重畳するから起るものである。
 識海の一波、千波万波これより生ずる、といふのは何様も嘘でない場合があるものである。
 併し大体に於ては人と/\との間は双方の性質の親和分子と反撥分子との存在の割合に本づいて、和合を保つたり背反を致したりすることも、争ひ難き事実である。
 信虎といふ人は、大泉寺の画像に拠れば、がりゝとしたやうな人で、眉宇の間に鷙悍の気の溢れ見ゆるといふ位であり、隔世遺伝で信玄の子の勝頼も剛勇に過ぎて、上野のぜんの城を素肌で一時攻めに攻めたり、参州長篠で柵を三重に結つて鉄砲を有つて籠つて居る敵へ取りかゝつたり、すべて荒気過ぎてゐるし、又信玄の子の太郎義信も永禄四年の川中島の戦の時、勝軍の後に甘粕近江守の小勢を見て信玄が筑摩川を越して三町程引込んで旗本を備へ立したのを、退くまじきところを退いたとて、信玄ほどの者、而も父であるものを誹謗したり、父子不和になつて後も仲直しに尽カした両僧を斥けたり、すべて荒気過ぎてゐるところを考へると、信虎は余程に我の強い荒い人で、晴信は母の気を受けて、強いばかりでは無く、中和性も備へてゐ、弟の信繁信廉は母の方に多く似て、和らかなる人であつたが、信虎は随分偏倚した気質であり、信玄筋の孫には又其の気質が隔世遺伝で現はれたものと見える。
 然様いふ人であつたから、信虎が甲州を出て駿河へ行つた時には、天文十年とすれば、年僅に四十八で、男盛りであるのに、信玄の母大井氏は、女の事であるから、信虎を尋ねて駿河へ行くのも自由であるに関らず、甲州に留まつて終つたところを見ると、大井氏は思慮が探く、物に堪へることが出来る人で、麁暴な夫の信虎より沈毅の子の晴信の方に身を託して居たものと考へられる。
 信虎は駿河へ行つてから持つた女より、左衛門佐は上野介に作る)お菊の二人を得て居り、お菊は菊亭大納言晴季卿の簾中になつたと伝へられてゐる、死んだのは天正二年三月五日で八十一歳であるから、随分精力厚盛の人で、信玄が死んでも生きてゐたのであるし、且又其の長い漂浪生活の間、別に困苦した様子もない。
 夫人は天文二十二年五月七日逝去まで、十二年といふもの、多分甲府の躑躅が崎の北の方にあつた出丸、御隠居曲輪といふのに安居してゐたのだらうと想はれる。
 して見ると信虎の荒気は信玄信繁信廉等の気質と吸引親和の傾がなかつたのみならず、夫人とも余り相牽くやうな処はなかつたものであらう。
 信虎の気質は余程荒くて、そして剛情で、孤独的になつても平気で居り、孤独的にされても平気で居たし、妻子眷属から疎速にされるべきやうな点を元来所有してゐたものと思はれる。
 信虎駿河行きの事の生ずるに至つた原因は幾ケ条もあらうが、大体は信虎の気質の偏から生じたことで、それに鬼鹿毛の事ではないまでも、何かの事が最初の一核子となつて、段々に種々の事情が附着重畳して、其上に今川家其他との外的因縁が逼つて、終に父子夫妻相睽くやうになつたのであらう。

 俗伝では勝千代が信虎の歓を失つてからは、勝千代みづから作り阿房になつて韜晦し、馬に騎つては落ちて背に土を着け汚れたまゝ父の前に出たり、字を書いても見苦しく書いたり、游泳をして深いところへ入つてあぶ/\して人に助け救はれたり、大石大材等を挽く差図をしても手緩くて弟の次郎信繁に劣つたりした。
 で、信虎は何ぞにつけて勝千代を貶し屈するので、家臣等まで勝千代を侮つたとある。
 自ら韜晦するといふのは危を避くるには必要の事であるが、俗伝の通りでは、真に勝千代が次郎に家督を譲る意があるならば宜しいけれども、然様でなければ父信虎を欺くわけに当つて甚だけしからぬことになる。
 其の危懼の地に在りて、順従謙黙する者は皆偽なり、凶悍信虎の如き者、誠を以て之に事ふるも、猶ほ未だ感動し易からず、況んや偽を以てするをや、と澹泊が論じたのは実に至当の議である。
 併しこれも作り阿房の事が事実でなければ、論も糸瓜もないことになる。
 俗伝では、天文五年の十一月に信虎が兵を率ゐて海野口の城を攻めた。
 海野口は甲州に近接してゐる信濃の地である。
 扨此の城は城中に人数も多くて善く防ぎ戦つた上に、平賀入道源心と云つて聞えた勇士が加勢に来て籠つてゐたので、中々味方の思ふやうにもならない。
 それに海野口は高地ではあり、時は十一月から十二月へかゝつて、大雪が来たから、見込の少い城攻になつた。
 甲州の将士は相談した。
 城内に三千ばかりの人数はあり、味方は七八千である、もはや今は年の暮ゆゑ一先づ帰陣し、来年の事に此戦を延ばしたが宜からう、敵も大雪なり年末なり、後を慕つて城から追撃するといふことも万々なからうといふので、衆議一決して信虎へ此旨を云立てた。
 信虎も仕方がないので合点し、それなら明日早々引取らう、といふことになつた。
 すると従軍してゐた晴信が、それならば殿をわたくしへ仰付けられたうござる、と所望した。
 信虎はこれを聞いて大笑ひに笑つて、汝は武田の家の名折を申すものであるよな、敵が後をつけまじと、軍陣鍛錬の者共が申したところであるから、しんがりを致せと我が申付けたにせよ、此のしんがりは次郎に仰付け下されと申してこそ惣領の器量ともいふべきである、次郎ならば斯様な所望はすまい、と遣込めた。
 遣込められても晴信は羞らひもせずして請求を引込めなかつたので、それならば望に任す、といふ事になつた。
 それは十二月二十六日の事で、明くれば二十七日の暁天に、信虎は馬頭を甲州へ向けて立つた。
 晴信は東道三十里といふは当時の語で、上道といふのに対す。
 上道は三十六町一里、東道は六町一里である)ほど後に残り、いかにも用心した体で、僅々三百ばかりの人数を下知し、其夜は食を一人に三人前ばかりこしらへ、今にも打立つやうな仕度をし、足袋、脛巾、物具をも着けた其儘にし、馬に秣を善く飼つて、鞍をも置きづめにし、夜の七ツ時分になつたら打立つ覚悟にせよ、と自身で命令を伝へた。

 七ツといへば日出前二時間余位である。
 晴信の手に属した者どもは之を聞いて、成程信虎公の笑はれたのも道理である、何で此の寒天に敵が出て来るものであらう、と内々つぶやいたが、扨七ツ頃に打立つ段になると、甲州の方へは行かないで、後へ戻るのであつた。
 主命ゆゑ是非はない、前の敵城へ二十八日の暁に朝蒐に攻立てた。
 攻めるのは前日に引替へて、三百人計りであつたが、城中が狼狽して、はか/゛\しく防戦もせぬので、勢を出して攻入ると、易々と攻落し得た。
 これは二十七日に敵が皆引揚げたから、人の心は皆同じもので、城中の者もやれ/\今年は先づ戦も無くて年を越すことになつたと喜び、平賀入道も手のものを其日に大部分返し、自分も二十八日の昼立に帰るつもりでゆる/\と休息して居たのである。
 城の武士達も年を迎へる用意に喜んで各々里へ下つたのであつた。
 そこで城には幾干も居なかつたから、甲州勢は番の者共を討殺し、根小屋を焼払ひ、油断しきつた敵を二十三十づゝ討つて棄て、剛勇をもつて鳴つた源心入道をも討取つて終つた。
 他所よりの加勢の者は、それなりに帰つて終ふよりほかはなく、城を取られて終つたから、相応の勇士でも張合が抜けてしまつた上に、まさか晴信一手の三百人やそこらの勢が城へ入替りになつたとは思はず、信虎の惣軍に巧く油断を謀られたと思つたから、取返しにかゝつて来なかつた。
 晴信は城を落して主意を遂げ、源心を殺したのを手柄にして、凱旋した。
 晴信の機を看るの敏は言ふまでもないことであつたが、それでも信虎は、それなら城を守つて其儘に居て使者をよこせば好いものを、然様もしないで城を捨てて帰つたのは臆病だと貶した。
 これは信虎の無理で、一旦は城を奪つたものゝ、内懐中を見すかされた日には、三百やそこらの人数で、城を守つて居られるものではない、主意を立て武威を示した上に手際よく引揚げたのは晴信の将才の愈々凡ならぬところを示したものである。
 併し晴信を褒めて信虎の気に触れては益も無いことだらう、心中に晴信をたゞ者でないと思つても褒めぬ者もあり、中には信虎の意を迎へる為に、空城を落したのである、と云ふものもあつた。
 で、晴信は此事あつて後も、猶ほ以て少し足らぬところのある人のやうに身持をして、時々駿河の今川義元の方へ頼み入る由を申遣つて居た。
 これが晴信十六歳の初陣であるが、平賀源心は力も七十人力と云ひならはした者で、多分十人力もあつたであらう、四尺三寸の大太刀を常に用ゐて、勇名を馳せて居た者だつたから、後々源心を石地蔵に祝つて大門峠に立置き、源心が大太刀といふのを弓の番所に飾つたといふことである。
 これが信玄初陣の手柄談で、野史などもそつくり俗伝通りに載せてゐるのである。
 併し此談を俗伝通りに受取ると、如何に信虎が剛情の人でも、晴信の器量に心づいて、内心には此奴猿利口なところのある奴だ位には思ひさうなことであり、如何に晴信が父に忌まれぬ為に、うつけた風を粧うたところが、信虎をして、ハテナと位は省み思はしむる理である。
 も一つ言を進めて云へば、晴信が作り阿房をするならば何も斯様な事は為さぬ方が可い訳だし、斯様な事をする位ならば、うつけになつて居るなどは無益な芝居である訳である。
 源心を打取つた事は虚談ではなささうであるから、然様いふ事もあつたのであらうが、蓋し時が違ふので、晴信十六歳の時の事ではなからう。
 又作り阿房も、大げさな談で、実はただおとなしくして、父に逆らひ立をせずに居た位の事であつたのであらう。
 されば順従謙黙する者は皆偽なり、などと手厳しく偽の字を振りかざして、晴信の心術甚だ不良のやうに怒喝するは、むしろ酷議である。
 然様いふ場合に、辛棒して不平を堪へ忍び、賢顔して逆らひ立をせぬ、それが悪い訳は少しもないことである。

 扨愈々信玄父信虎を逐ふことを語るべき段取となつたが、世間に伝ふるところでは、其事を信虎四十五歳、晴信十八歳、天文七年の三月十七日に晴信逆心といふことにして居るが、それが第一に間違つてゐる。
 松平定能の甲斐国志巻の九十四に、勝山記、飯田系図、壬代記、神山旧記等に拠つて、信虎四十八歳、天文十年の六月の事として居るのは奪ふことが出来ない事実である。
 且又甲州の中の所々に蔵する信虎の印書の、天文十年附のものが数通あることは、信虎が十年に於て猶ほ甲州の主であつたことを証拠立て、又天文十一年からは晴信の印書もあるが、其前には曾つてないところを以て、十年以前に晴信が甲州に主とならなかつたことを証拠立てて居る。
 野史などは軍鑑に材を取つて七年の事としたのであるが、何としても甲斐国志の論断を覆し得るほどの根拠をば見出すことは出来ないから、断じて軍鑑作者の伝聞の誤であるとせねばならぬ。

 軍鑑の記するところでは、天文七年戊戌正月元日の式に、信虎は嫡子晴信へ盃を与ふべきを与へないで、次郎へ盃を与へた。
 そして正月二十日に板垣信形をもつて信虎から晴信へ云ひつかはした其旨は、太郎は駿河今川義元の肝入をもつて大膳太夫兼信濃守晴信と名乗るに至つたから、此上ながら義元に付きて万事異見を受け、心の至る者の機、作法をも知るやうに、との事であつた。
 晴信返事には、兎も角も父上御差図次第、といふ事であつた。
 それから重ねて、板垣信形、飯富むので、イヒトミと読むのはよろしくない)兵部両人使者で、当年三月より駿河へ晴信は行きて、一両年も駿府に於てよろづ学問せよ、とのことであつた。
 これはゆく/\次郎を惣領にして、晴信を甲府へ帰らすまいとの模様である。
 斯様いふのが普通の説になつてゐる。
 これは堪らない談で、正月元日に嫡子が嫡子扱ひもされず、しかも次男が嫡子扱ひされて、それから今川家へ行けと云はれ、猶又両使をもつて愈々三月から駿河へ参れとの事だ。
 両使といふのは厳確徹底を期する時の使者で、一人の使者では、後日になつて、一方では斯く/\申述べたと云つても、一方で然様いふことは聴かなかつたと云へば水掛論になる、そこで両使を遣はせば、一人が云ふ時は一人が其座で聴いて居り、又其返辞挨拶も聴いて居り、云はぬ、聴かぬとは決してぬけさせぬのである。
 で、手詰の談の時は両使である。
 しかも三月といふ期まで明らかになつたのである。
 晴信の身になつて見れば、愈々堪らぬことである。
 成程これでは晴信に於ては立つ瀬が無いから、逆心もしかねない訳であるが、一寸待つた、いくらも此処に疑を容れる地がある。
 けれどもそれは後に言ふことにして、俗伝をも少し辛抱して聴かう。
 扨三月の九日になつた。
 信虎は駿河へ行つた。
 晴信を甘利備前守虎泰に預けて、次郎を留守にした上、駿河より通知次第に来いとの事である。
 甘利に預けるといふ。
 此の預けるといふ言葉は、換言すれば其人の自由を奪つて、預かり人をして責任を以て保管せしむるのである。
 一層甚しく言へば抑留押収されてゐるのも同じことである。
 晴信嫡子を以て然せる落度もないのに、臣下に預けられて、やがて国外に遣られるに決したとは何といふ情無いことだ。
 成程逆心も起しさうなことである。
 板垣駿河、飯富兵部は、甲府諸将の中でも家柄でもあり、人物でもあつて、板垣は後に信玄の詩作に耽つたのを強諫したので名高く、上田原で村上勢の為に戦死したが、甘利と共に武田家の重臣であつた。
 飯富兵部は後に信玄の子の太郎義信の事に関して悲しい死をしてゐるが、勇猛であり、思慮もあつて、徳川家の井伊直政の赤備は、直政が甲州浪人を多く得て飯富の軍容を学んだので、赤備の本家であり、慓悍な山県三郎兵衛の兄である。
 甘利備前守も猛将で、板垣甘利は武田家の大臣格の家であり、後に備前守虎泰も戦死したが、将死して而も軍乱れざりしといふので美談を残してゐる。
 手強い此等三人の間に居て、晴信に三人の同情がなかつたならば、晴信は抑々何と出来ようや。
 信虎の思ひ通りになるほかはなかつたのである。

 ところが信虎の狂暴には人々も心を離してゐた。
 晴信が板垣飯富を頼むと、二人は晴信を主として信虎に代へた方が武田家の利であると考へた。
 預かり人の甘利備前も、晴信を拘束する筈だが晴信方になつて終つた。
 晴信は又予てより姉婿今川義元を深く頼んで居た。
 そこで信虎が駿河へ立つた後、晴信は内々支度して、信虎の思つたとは反対に、反つて今川家をして信虎を抑留せしめた。
 そして信虎に随つて駿河へ行つた将士の家族共を人質にしたから、それ等の将士も信虎を棄てゝ甲州へ帰つた。
 晴信は遂に自立して、甲州に主となつた。
 義元は手強い信虎を甲州に虎踞せしむるよりも、恩を晴信に売つて、そして年若い晴信を北方の藩屏たらしめた方が利と考へて、晴信を助けたから、万事はすら/\と運んだ。
 国中は晴信を主と仰ぐことを悦んだ。
 と云ふのが普通に伝へられてゐる談の一切である。
 年月の相違は先づ暫く措いて、前叙の通りがおよそ真の事実であるならば、晴信は父の逐ふところとならんとして、謀つて父を逐うた、といふことになる。
 併し果して此様の事があり得ようか。
 先づ俗伝では信虎が駿河へ行つたのは義元の許へ嫁した女を視るのを表にして、義元に相談して晴信を駿河へ置かう為だつたといふのであるが、これが第一に信ぜられぬ。
 廃嫡したくば其様な細工をせずとも、戦乱の世の事であるから、親の目がねにかなはぬといふので、僧にしようとも詰腹を切らせようとも浪人させようとも、造作はないことである。
 わざ/\婿に相談して其手を仮りる必要が何処にあらう。
 若し又婿の義元が晴信へ同情して廃嫡に故障を云出しさうな虞が有るので予め義元の諒解を得て置く必要があるといふのならば、猶更義元のところへ其の嫌ひさうなことを頼みに行く訳はないことである。
 義元の室、即ち晴信の姉なども何も必ずしも自分の意見に同じるか何様か知れたものではない。
 仮りに自分の意の通りに晴信を駿河に置くことに出来たところで、義元が何ぞの時に晴信を故国に納れようとすること、普の文公が子蘭を鄭に納れんとした如くにしたならば、非常な面倒が起るのは知れた事で、五十に近い信虎自身の寿命の末を想像したならば、如何な信虎でも其位の事には気が附くべきである。
 又そんな事にも関心せぬほど、信虎が果して恐ろしい狂暴一点張りの人で、何でも関はず晴信を逐ひたいとでもあるならば、其人の性質からして、そんな曲線的の細工を為しさうにも思はれない事で、甚だ怪しむべきである。
 で、狂肆の人だとならば、あゝいふ細工をしようとしたといふのが信ぜられず、あゝいふ細工を為ようとしたならば、然様いふ細工をしさうな人が彼様な無思慮の事をしたといふのが信ぜられない。

 子をみること父に如かずといふ語がある。
 まして戦乱の世に当つて、国持城持が吾が児の善悪を考へずに居よう訳はない。
 如何に子が作り阿房をしたとて、猫をかぶつたとて、幼時から観てゐるものを、馬鹿か利口か、気のある者か腑ぬけか位の事が看破出来ぬわけはない。
 大泉寺伝説は作り事でもあらうけれども、信虎と天桂和尚とが相談して勝千代誕生に霊異を飾つたのかも知れぬし、密宗であつたものを禅宗にしたのも、たゞでない訳があつたかも知れず、二世が信虎の弟であるところから考へても、勝千代が生れた時握つた掌を開かなかつたなどといふ勝千代を神奇にする談は何処からか出たらしい。
 よし其様な事は後人の作為としても、信虎が勝千代を愛して、家を起し名を揚ぐる者となつて貰ひたいと思つたらうことは、万人が万人の人情で、間違無い希望であつたらう。
 その勝千代が生長する間、馬鹿か利口か観察しなかつたらうとは思へぬ。
 勝千代が鬼鹿毛を欲しがつたといふ談が虚談でなければ、武将としては嬉しい気象だと嬉しがるべきで、美しい侍女を貰ひたいと云つたのとは違ふ訳ではないか、又信虎が駿河へ行つてから設けた子の上野介の子、即ち孫の幼名を勝子代と名づけたといふ事が、信玄父子背反の俗伝の祖たる軍鑑に見えてゐるが、勝千代即ち晴信が気に入らぬ子であつたなら老後に設けた孫に何で其の同じ名を付けよう、むしろそれは勝千代を愛してゐたからの事でなくてはなるまいではないか。

 軍鑑は信玄父を逐つたといふことを首唱したものであるに関らず、鬼鹿毛の談でも、蛤の談でも、海野口の談でも、皆晴信の幼時から頼もしげであつて、信虎が晴信を愛しさうなことを記してゐるのが奇異である。
 武事ばかりではない、晴信が若い時詩作に耽つたことを伝へ、現に信玄の作つたところの詩は十七首ばかり伝はつてゐて、禅僧達が加朱したか何様か知らないが、中々刀槍三昧のみの人の詩ではない。
 北条早雲は三略の講義を聴いたが、信玄は其疾如風、其静如林等の語を記した旗を用ゐてゐた。
 和歌も百首から伝へられて居り、賤の女が塩笥の古歌を引いて公事訴訟を扱ふ士に示した談も伝へられて居る。
 すべて皆是れ公事から心を文事にも寄せたのでなけれぼ、然様はゆかぬものであることを示してゐる。
 其時代の教育を受くるに堪へ、又或は自ら修め自ら養つた好青年であつたことを想はせる。
 然様いふ青年を信虎が愛重せなかつたらうとは思へぬことである。
 よしや何事かの因縁から憎嫉の念が段々と募つて、二男信繁を愛するやうになつたのかも知れぬが、信繁の性質は何様も卻つて信虎には気に染みさうには思はれぬのである。
 信玄が天台や禅を学んだのは後の事であらうが、文武両道、何やら彼やらに達した人は、幼時青年時に於ても、定めし好童子好青年であつたらうに、人物を重んじて知行をも惜まず与へ、人物の鑑識を大事として将たる者の必要条件としてゐた彼のやうな戦乱の世に、まして吾児の事であるもの、何で観察せずに居らう。
 しかし馬が毛ぎらひするやうに、人は人と相善しとせぬこともあるもので、所謂前世の罨敵のやうな虫の好かぬといふこともあるものであるから、或は親が良い子を嫌ふこともある。
 けれどもそれならば勝千代がまだ生長せぬ間に、嫌ひなら嫌ひであるべきである。
 叙任もするほどの年、将軍義晴より晴の字を貰つて晴信となるほどの年、三条左大臣公頼の女を娶つて女房にするほどの年になつてから、別段の所以も無く廃嫡したがるほどに嫌ひさうな訳は考へられぬ。
 何事か特別の事があつて怒り憎むといふのでなければ、一族のおもはく、臣下民百姓のおもはく、他国のおもはく、世間の評判もあつて、親だからとて然様勝手は振舞へぬものである。
 暗愚であるとか、妖姫などに迷溺してであるとかならば、然様いふ事もあるもので、世に多い御家騒動の種子にもなるものであるが、信虎は特別に暗愚でもなく、女色に溺れたといふこともなく、家中騒動してごた/\したといふこともなくて済んでゐるのが不思議である。
 次郎を愛したため、家中も晴信を誹謗したなどといふが、然様でなくても家督争ひは起りたがるものであり、擁立の功を立てゝ威を振ひたがるものも出るものであるから、真に晴信を信虎が悪み、晴信廃せられ、次郎立てられんとするの形勢が見えたものならば、謙信死して景勝景虎の戦つたやうな理屈で、信虎去つて晴信自立に際して次郎殿を担ぐものも出て来さうな処であるが、更に其様子がなかつたのも不思議である。
 で、信虎の国を出たのは、父子相容れずして、梟子自立するに至つたとは思はれない。
 何か他に事情のあつたものと想はれる。
 そして其の事情は、表面に出てゐる父子仲悪しき結果といふ談をもつて掩ひ匿されてゐるものであると想つても宜からうと考へられる。

 松平定能は文化の頃甲府城勤番支配に任ぜられた士で、在勤中幕府の内命を受けて甲州の事を調べたものであるが、豆州田方郡畑毛村西原善右衛門といふ者の許に伝はつてゐる今川義元から甲府へ宛てた書状によつて、信虎は晴信に逐出されたり、あげつばを食はせられて駿州へ遷つたのではなく、合点づくで駿州へ遷つたのであると断じてゐる。
 但し駿州へ遷つた所以の委細は解釈して居ない。
 たゞ諸録の記する所晴信を誹謗する者とは大に異なり、と云つてゐるだけの事である。
 其の義元の書は

 内々以使者可令申候之処、総印軒可参候由承り候条令啓候。
 信虎女中衆之事、入十月之節、被勘易筮可有御越候由尤候。
 於此方も可申付候。
 旁々以天道之相定可御本望候。
 就中信虎御隠居之事者、六月雪斎並岡部美濃守進候刻御合点之儀候。
 漸向寒気候毎事御不弁心痛候。
 一日も早被仰付員数等具承候者御方へ可被有心得候旨申可届候。
 猶総印軒口上申述候。
 恐々謹言。

  九月二十三日        義元 花押

  甲府え参

といふのである。
 句読反点は読者の便宜に今施したので、元来は勿論無い。

 義元の此書は下村三四吉といふ人も引用して、即ち信虎は納得の上駿河に退隠せしにて決して従来伝ふるが如く信玄が苛酷に逐ひ出せしにはあらざる也と云つてゐる。
 且又、而して信虎を説得して退隠せしめたる所以に就きては、妙法寺記)に記する所其の消息を知るべきものあり、と云ひて、此年十年六月十四日に武田太夫殿、親の信虎を駿河へ押越し御申候。
 余に悪行を被成候故、かやうにめされ候、地家出家衆男女共に喜び満足致候事無限、とあるを引き、蓋し信虎性峻厳剛愎にして人の言を容れず、平素の所行亦暴虐の事多かりしかば、士民心を離し、之を怨望する者あるに至り、若し其儘になし置かば遂に如何なる禍乱の起らんも測る可からざるものあり、是に於て臣下の重立ちたるもの信虎を隠居せしめ、信玄を立てん事を図れり、と云ひ、又、且信玄が信虎を退隠せしむるにつき之に勧説して納得の上駿河に赴かしめ、敢て非常手段を取らざりし証憑明かなる上は、一も二もなく信玄を非難して大逆無道の老賊なりとは評すべからず、と論じてゐる。
 それで同氏は、余は更めて再言す、天文十年六月信玄今川義元と謀り、父信虎を説きて駿河に退隠せしめ、自ら家督を継ぎ甲斐の主となると、と論結してゐる。

 大体に於て下村氏の説いた様な事情でもあつたらうと想はれる。
 軍鑑の記する所を一概に信じて信玄を苛議するのは担板漢の論である。
 併し義元の書中に、信虎御隠居之事者六月雪斎並ニ岡部美濃守進候刻ミ御合点之儀ニ候、とあるのは、解釈が二様に出来る。
 雪斎と岡部美濃守とが駿州で信虎に対面した際に信虎が駿州に押越されて隠居することを合点したとも見える。
 然様に解すると、松平豫州が国志に、信虎合点の上退隠して駿州へ遷りし趣明白なりとばかりは云へなくなつて、信虎が駿河へ押入れられてから、雪斎、岡部美濃守の二人と会話を交換して、そして隠居することを合点したとも取れる。
 合点の上で隠退動座したのと、遷つてから隠居即ち家主権放棄を合点したのとは、大分に差がある。
 松平氏や下村氏の説のやうに解さうとすれば、雪斎や岡部美濃守が甲州へでも行つて信虎に隠居を合点させた様に読み取らなければならぬ。
 文気を以て言ふと、信虎が遷つてから其節雪斎等に会つて隠居を合点したやうである。
 さもなければ御合点之儀ニ候と、わざ/\書状に記したのは異なことになる。
 で、若し然様いふ風に読み取ると、隠居合点の上で駿州へ遷つたのではなくなる。
 折角松平下村二氏が引いた義元書状も、信虎の身のまはりの世話をする女供を提供するといふ待遇上の事に於て冷酷でないといふ証になるのみで、何等かの様式或は便宜で先づ甲州から信虎を駿州に遷してから隠居を合点させたやうになる。
 信虎逐出しの在来の談とは、たゞ信虎が晴信を甲州から逐はうとしたといふことだけがなくなつたのみで、矢張り信玄逐父の旧談通りになる。
 そして此の義元状によつて、六月に駿州へ遷つた信虎に九月末はまだ女供も提供せず、十月になつてから婢妾を送らうとしてゐるといふ事が窺知られ、義元は贅沢花奢の今川家育ち故、漸く寒気に向ひ候、毎事御不弁心痛候、と信虎の朝夕不自由なのに同情して心配して遣つてゐるやうに聞え、何だか信虎の身辺には頑固侍ばかりが監視の格でしかつめらしく控へて居るやうに想はれる。
 下村氏は、旁々以天道之相定可御本望候とあるのを中略にして除いてあるが、御本望の三字が何となく人眼を射る。
 無論晴信へ与へた手紙だが、旁々以て天道の相定は、信虎が暴であつたから是の如くなつたといふ事歟。
 可御本望候は、御本望たる可く候と読ませるつもりか。
 旁々以より候までの十二字には誤脱があるか。
 御の字の傍に、イ遣とあつたりなどするから、原書で読んで見たいものである。
 何にせよ此の義元書状は読み様次第で、余り晴信弁護の役には立兼ねるものである。

 書中に出て来る雪斎は臨済宗の僧大原で、これは今川義元の謀主である。
 岡部美濃守は其名を知らぬが、岡部正綱の父である。
 蓋し今川の宿将であつて、子の正綱は後に義元の子氏真の為に節を守つて甲州勢と戦つたが、信玄これを招き納れて、三千貫の地と騎士五十人を附し、駿州清水の城を守らせた。
 山本勘助でも初は二百貫だつた。
 思へば雪斎も美濃守も今川家では大したものである。
 此の二人が信虎の事には関与してゐるのであつて、今川家の方、及び軍鑑其他にも二人が信虎一件には何様いふ風に与つてゐるのか少しも記してないが、主人の奥方の父と弟とに関する大事であるから、軍師と家老とが揃つて顔を出してゐるのも当然である。
 美濃守は後に義元の不興を蒙つて一時浪人したとあるが、それは何に困(ママ)つてだか知れてゐない、信玄が其子正綱に突として高禄を与へてゐるのも、其の忠勇を賞してのみの事だか、何だか考へ得て見たい。
 が、自分の知る限りでは、今川家の方から信虎一件に付いては何も知るべき材を得てゐない。

 扨こゝで一寸自分の頭の中に閃くものがある。
 それは今川と武田との関係である。
 今川は一時副将軍とまで云はれた家で、内訌で一時衰へたが、それでも海道での大大名である。
 武田家とは義元以前は敵同士で、武田の方が小さくもあれば受太刀側でもあつたのである。
 信玄の生れた頃甲州へ攻込んで来た福島兵庫も遠州の者であるなら、蓋し今川の気息のかゝつてゐたものであらう。
 其翌々年大永二年遠州の久島といふ者が駿河遠江の兵一万五千を率ゐて甲府まで乱入したことがある。
 駿遠の兵を率ゐて来たのであるから、是も今川家の気息のかゝつたものである。
 当時信虎は非常に窮して、武田の者ども、自分々々の身の上のみを思ふやうになつた。
 幸にして信虎の家老萩原常陸といふ者が計略を以て久島を討取つたから事無きを得たが、此時信虎はつくづく一身のほかに味方は無い、敵が強い時は頼みに思うた者も我を助くるものではない、と悟つて、それから心も苛酷になつたといふことである。
 是の如く今川と相敵し合つて、武田の方が苦んでゐるのである。
 義元を婿に取るに附けても、信虎は北条氏網から奪ひ取つた富士川北の地をも娘の化粧田として今川家へ渡したのである。
 義元に至つて復今川は振つて、海道では覇を称したものであり、北条家は元来が今川をたよつて来て伊豆に落着いたものであり、徳川家なども既に家康公さへ最初は義元の元の字を受けて元康と云つて居られ、今川の旗の下のやうな形になつて幾年を鬱屈して居られたのである。
 信玄に至つてこそ武田は雄を称したが、それでも信玄が代になつての最初は、甲州の韮崎だの、若神子だのまで他国ものに押込まれて、韮崎合戦の如きは大分に苦しかつたのである。
 是の如き勢であつたから、今川と武田とは武田の方が何様しても下に附く訳で、叙位にしたところで、義元は従四位下、晴信は従五位下、実際の力も世間の用ゐも、少し差があり、特に今川家は海道繁富の地に拠り、文明の度は自然甲州より高かつたのである。
 で、義元は桶峡間の一戦で首を織田氏に授けて終つたから詰らぬ者のやうに見えるが、決して凡常の人でもなく、早くも上洛して旗を天下に立てようといふ雄志を有つて居たのである。
 武田氏と今川氏と縁家になつたのは、何の家から求めたことか知れぬが、当時今川家には雪斎美濃守のやうな謀臣もあり、朝比奈、庵原、岡部、由比、三浦等、聞えた勇士もあつて、堂々たるものであつたから、武田が今川家内訌のあつた時分のやうに今川氏に対した日には、寧ろ武田は併呑されぬまでも蚕食されるおそれが無いといふ訳には行かなかつたのであるし、小笠原、諏訪、村上、信州の諸大名も、中々弱敵ではないし、随分危険の多い勢に在つたから、後から云へば今川は氏真に至つて衰へ、武田は信玄に至つて振つたものゝ、当時に於ては、鋒刃を用ゐないで威を張る策からして、今川家より婚を求めらるれば、武田はいやでも之に応じなければならず、今川家から同盟を強ひらるれば厭でも攻守を共にする約を結んだ方が利益であつたらうし、南は今川に結んで置いて、北の方は信濃大名に当つて地を妬いた方が、甲州を安全にして、自家を発展させる所以であつたらうから、今川家の謀士から求めたにせよ、武田方の策士から考へ出したにせよ、どちらから云出しても、姻縁を結ぶことは害を薄くし利を生ずる所以であつたから成立つたのであらう。
 して両家が結ばり付けば、大きな露の球は小さな球を引寄せる道理で、それは何様しても武田方が致される訳になる。
 言はず語らず武田家から人質と云つては縁つゞきの中で角立つが、晴信か、晴信の代がはりで家督になるなら他の誰かを、客あしらひして駿河へ引寄せて置くこと、其昔頼朝が義仲の子息の清水冠者を幕府に留めたやうにしやうとしたのではあるまいか。
 今川武田が一度も喧嘩したことがない家ならばいざ知らず、相争つたことのある以上は、双方を結びつけるに引力の大きい者の方から其要求を出したとて不思議はない。
 誰が雪斎であり美濃守であつても、縁組しただけではまだ不足に思つて、人質とは云はずに客遊させて、といふ名で、其実は質を取りたくはなかつたらうか。
 晴信に駿河へ行くやうにと信虎の言つたのもまんざら形のないことではなくて、信虎の腹で惣領をやりたい事はないから、惣領は惜くも可愛くもない甚六抜作のやうに扱つたり罵つたりしたのも其為であつて、先方さへ承知なら次男を代りに遣らうの思案であつたが、駿州にも目の鞘ののはづれた者はあるから、それでは満足しないので、愈々惣領でなければ満足しないとならば晴信を一二年遣る分だ、何時でも呼寄せられるやうにして置いて、と甘利備前へ預けて置いて、そして自身駿府へ行つて、もう一度突張つて見て、出来るならば愛子を粧ふてある次郎を遣らうと、いくら麁剛の人でも五十に近い戦国の老猾だ、自身出向いた。
 ところが晴信は今川へ行つて清水冠者になるのはもとより厭だし、内々は自分の代になつたらといふ功名心は燃やしぬいてゐる。
 老臣宿将達は、久島以来、信虎が愈々剛愎自ら用ゐて、剛の者七十五人を旗本にして我存一ぱいに振舞ふのに心を離してゐるし、国人も亦御屋形様に畏れては居るが懐いては居ないのを見て取り、主人と一緒になつて晴信を腑ぬけのやうに云囃してもそれは虚言なのが駿河にも知れてゐるのを悟つて見ると、これは寧ろ若殿を今川に渡すよりも殿を隠居にして終つて彼方へ置いた方が、此方には大吉利市で、彼方にも十二分であらう、隠居とは云へまさかに親を見棄てて異心を立てはすまいと彼方でも思ふだらうと考へ、信虎に随つて行つた臣下の中の誰かから今川方の所存を探らせると、小の虫を獲るより大の虫を獲れば今川でも十二分であり、晴信を立てゝやれば甲州は自然駿河の藩屏となる道理と、雪斎にせよ美濃守にせよ物分りは早い人達で、そこで信虎が何を云つても関はず、押へたバッタにして終つて、馬鹿を見たのは信虎ばかり、他は皆三方四方不足の無い外交成功になつて終つたのである。
 ト斯様に裏面解釈をすると、ハヽヽ、当つたか当らぬかは別として、一寸面白い。
 たゞ其跡を論ずれば、矢張り信玄父を押越した事になる。
 飯富兵部と板垣駿河、雪斎和尚と岡部美濃、いづれも佳い魚を手際よく料理するに手なれの者等で、何処かに無理があつても人に旨く食はせて終へば身の業は立つのである。
 貧乏籤を魚に背負はせるのに遠慮は無いのである。
 信虎が「だしぬけ」を食つた、だしぬかれた、とつぶやいたは真に其通りである。
 晴信はまだ若い、如何に偉い奴でも酷い人でも、自分が魚箸を使つたのではあるまい、親父を勘当する芸当をしたのではあるまい。
 北では板垣飯富で、南では雪斎岡部であらう。
 後になつて見ると、成程晴信は義元存生中は義元の為になつて居り、今川北条取合の時は兵を出して今川の為にもなつてゐるが、これが思ひのほかに容易ならぬ者であつたから、義元が岡部に対して、それほどの者に蟄居させたのも腹の底は見透せる。
 信玄も功を積んで来ると世の中が分つて来る。
 板垣が戦に負けた時、負けた板垣を弁護して褒めた事さへあるが、其後碓氷峠の大戦で板垣一手で上杉勢を破つて大功を立てた後には、信方の忰の弥次郎の扇子に、満つればやがて欠くる月の古歌を書いて与へた。
 それを見てから板垣も心に虚が生じて、変になり、流石の弓矢功者も耄けて戦死して終ふ。
 飯富兵部も信玄の子太郎義信逆心に坐して剣を賜はり自殺、家断絶である。
 恐ろしいことである。

 義元存生中は舅殿とて信虎は大切にされた。
 自ら我卜斎と号したといふが、我卜とは異な斎号である。
 我と自ら然様いふ身になつたといふので、我卜斎である故、信虎より後の人で、ヒョット斎の号も思出されてをかしい。
 義元は信虎を敬して而して留めて去らしめなかつた。
 信虎は信玄の軛であるから、何で義元が放たう。
 併し義元が死んで後に氏真の世になつた。
 氏真は凡人の代表である、決して愚人では無い、何も彼も大概は出来た人だらうが、大名としては仕方の無い人で、自分の父を殺した信長のために鞠を蹴たと云はれてゐる。
 晩年に及んで家康公は今川家と幼時の関係があつたので、氏真を憫んで御懇になされたが、其後氏真は公に謁するごとにべん/\だらだらと下らない長談をするので、根気の強い家康公もげんなりなされて、段々疎んぜらるゝに及んだといふ。
 斯様いふ人と信虎とであるから、双方定めし嫌な奴だと思つたことだらう。
 それでも氏真の方は信虎を大切にして家に留めて置けば、信玄が今川家に不利なことをすることは出来ない。
 義元は実に立派な保険を附けて置いて呉れたのである。
 それだのに氏真のやうな人に会つては、何も彼もあつたものではない。
 信虎を邪魔者余計者のやうに扱つた。
 永禄三年に義元が死んで、永禄六年の正月には既に信虎は遠州掛川円福寺に移つてゐて、誰か我が方へ人を遣せといふ使僧を甲州へ遣つた。
 信玄は日向源藤斎といふ者を出発させた。
 正月十七日に源藤斎は円福寺へ着いて我卜斎の信虎に謁した。
 信虎ははや七十になつてゐた。
 そして義元戦死の後、我を祖父として扱はぬから此円福寺に移つた、国を出た翌年駿府で男子一人を挙げた。
 義元はこれを小舅会釈にして、騎二十を預けた。
 上野守と名乗つて、当年二十五歳になる。
 上野守が十六歳の時に挙げた子を勝千代と名づけた。
 これが今年十歳になる。
 上野父子に遇されて、此寺に去年より居るが、氏真が今は上野父子にさへ冷淡千万である。
 自分はこれより三日の中に上洛して京に住む。
 公卿の菊亭殿に、上野の妹の菊を義元存生の時祝言させて呉れたから、婿の菊亭をたよりて京へ上る。
 上野父子を信玄に頼むと云へ、と云つたといふ。
 それから又其夜更けて源藤斎を招んで、信玄に恨はあるが過ぎて久しいことだ、信玄にも道理はある。
 今信玄の名の盛んなるを耳にして祝着に思ふと信玄に云へ、と云ふことであつた。

 それから又信虎は、今川家は大抵十年内外に滅びるであらう、氏真は遊興を好み、政道武辺の心掛も無く、三州岡崎の家康は義元によつて岡崎へ直つたが、今は氏真を見限り、信長に親んでゐる。
 駿遠三は家康信長に取られよう、とて織田徳川今川北条等に対する批判を聴かせて、信玄に云へ、といふので、源藤斎は信虎直判を受けて証として、帰つて信玄に逐一を語つた。
 信虎は其の十九日に立つて上洛した。
 信玄は信虎の言には余り注意を払はぬやうに見えた。

 信虎がまだ駿河に居た間に、竊に人を京都に遣り、大将軍義輝に歎訴して国へ帰ることを請うたこと再三に及んだ。
 そこで義輝は上野秀政を使として晴信を諭した。
 信玄は体よく之を断つたことがある。
 室町殿日記の記するところである。
 信虎は氏真の自分に注意せぬのを幸として、終に京都へ奔つた。
 義輝は信虎を相伴衆とした。
 そして将軍家の桐の紋章を信虎に許したといふ。
 桐の紋など貰つても致方も無いが、義輝も当時実権が無かつたので、遣れるものは紋位であつたらう、情無い談だ。
 やがて其の将軍も八年の五月、眉尖刀を揮つて自ら戦つたのも甲斐無く、松永弾正に殺されて終つた。
 十一年には晴信が氏真を逐出して終つた。
 信虎は漂浪して後、甲州へは帰れず、伊奈に寘かれて、そこで終つたと云はれてゐる。
 軍鑑には勝頼と信虎対面のところが描いてあつて、桂薑の性、老いて愈々辣く、信虎が刀を揮つたので、小笠原慶庵が刀を奪つた一幕がある。
 まるで狂人の沙汰であるが、それは天正二年九月の事である。
 天正二年の三月五日に死し、五月五日には春国和尚が、逍遙軒手写の信虎像に題した讚さへ出来てゐる。
 軍鑑は何を書いてゐるのだらう。
 春国の文中、菴主を指す)之寿考不惑の頃、一朝袂を分つて胡と成り越と成り、終に麟鴻を通ぜず、徒らに像を想ふ者は何ぞ、河陽満県之桃花、衣に襯する者片々たり、河陽左街之梅花、襟を襲ふ者芬々たり、□□□三十有余年の後、意はざりき還郷の一曲を聴かんとは、是れ烏鉢の華か、合浦の珠か、鬼神も測る無し、三家村裏の黔首、万歳を唱へ、太平を賀するに至つて、嗚呼命なり、斯の人にして斯の疾有るや、今茲春の末、訃音忽ち至る、感慨の余韻、鴬も亦叫び、鵑も亦啼き、人も亦慟きて而て涙雨晴れざる者連日也、況んや孝子の哀慕するをや、云々とある。
 烏鉢の華、合浦の珠、と云つてあるところを見ると、故郷近く還つて忽ちに死んだやうである。
 信虎三十余年の放浪、信虎も亦業縁消尽したであらう。
 そして信玄も亦其前年死んでゐる。
 信玄死して、遮るもの無く、甲府へ帰つて死んだのか、文が妙に修飾してあるから不明であるが、不竟聴還郷一曲とあるから、多分然様であらう。

 信虎が今川家に在つた間は随分短くなかつた。
 其間は今川家武田家相争ふことがなかつた。
 信虎が氏真時分に、武田膏薬入道などと嘲けらるゝに及んで、又其の監視が緩んだのを幸ひ、駿州を出ようとしたが、氏真も一度は抑留して、引間)の玄黙寺に置いたとあるが、遂に京に奔るに至つて、信玄は忽ち今川家と弓矢の沙汰に及んだ。
 信虎信玄の間の事は、何様もたゞ武田一家の間のみの事ではなく、武田今川両家の間の事のやうである。
 そして当時の人も書も、之を記するを諱んだ為に、妙に不可解の事になつてゐるのではあるまいか。

(昭和二年、十月作)

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