川中島合戦秘話 武井 清

一 出陣

 信濃北国街道に面した須坂の宿で、蹄の音に眼を覚ました日向玄東斎は、格子戸越しに街道を見下ろして驚いた。
 闇の中を長い軍列が、松明を頼りに音も無く粛然と松代方面に動いている。
 玄東斎は一瞬、夢を見ているのではないかと思ったが、軍列は確かに動いている。馬が鼻を鳴らすのも聞こえる。
 慌てて下に降りて宿主を起こした。
「つり銭はいらぬ、馬の支度を頼む」
「お客様、これは金で・・・」
「大きな声を出すな。碁石金だ。二日分の宿代だ。釣りはいらぬ。
 早く頼む」玄東斎は急いで上がると身仕度を整え裏に出た。
 宿主は馬に鞍をつけて待っていた。
「この裏道は表の街道に出られるな」
「はい二丁程行くと」
「世話になった」玄東斎は素早く馬に乗ると薄明るくなってきた夜明け前の裏道を駆け出して街道に出た。
 明るくならぬうちに軍列を追い抜かないと、此の身形では怪しまれると思った。軍列に追い付くと、越後勢を装って
「はい!はい!」と声を上げて走り抜けて行った。
 黒い軍列は味方の伝令だと思って、誰一人怪しむ者もなく道を開けた。玄東斎は騎馬や徒かちの長い列を何組も抜いて走った。
 軍団の先頭は善光寺平(川中島)に入る岡崎の渡しと思っていたが、その先の大室に来ていた。
 夜が白々と明けかけてきた。
 玄東斎は大室のはずれの道を右に曲がった。
 千曲川に沿った海津城への近道を、真走りに馬を走らせた。
 海津城まであと一里半、途中で後を振り返った。
 発生した霧に遮られ越後軍の姿は見えなかった。
 焦りながらも抜いてきた軍列の数は、おおよそ七千位と読んだ。
 越後勢は夜が明けぬうちに海津城の東を通過するか、それとも近くに陣をとり、甲斐から御屋形様の軍が来ぬうちに海津城を攻め落とすか、いずれかであろうと思った。
 玄東斎は越後勢の動きを監視するのが今度の任務であったのに油断して寝酒したことを後悔した。
 まだ海津城の高坂様は何も知らないであろう。
 玄東斎は馬に何度も鞭を当てたが霧に遮られ思うように走れない。
「諸国使番、日向玄東斎、火急の知らせで参った。開門。開門願います」
 海津城の大手門前で馬から飛び下りた玄東斎は大声で叫んだ。
 喉の渇きで声が擦れてしまった。
 門が開いて門番が出てきた。
「日向玄東斎、火急の知らせで参った。高坂弾正様に、案内を御願い致す」
「承知」番兵が奥に走っていった。
「越後軍がくる。門を閉じなされ」門番に促した。
 取次の番兵が奥から走り戻ってきて、「付いて参れ」と玄東斎に声を掛けた。
 玄東斎は兵に付いて奥へ入って行った。
 城内は静かで当番以外の兵達はまだ寝ているようであった。
「ここにて待たれよ」玄東斎を促して取次の兵は奥に急いだ。
 玄東斎が案内された大広間で休息していると、
「玄東斎殿か、高坂だ」見ると、高坂弾正が着物の帯を結びながら入って来た。
 玄東斎は姿勢を正して頭を下げた。
「弾正様、越後勢約七千こちらに向かっております。今頃は可候峠あたりかと思います」
「上杉政虎の軍ですな」
「暗かったのではっきり分かりませんが、越後勢には間違いありません」
「よし、非常の太鼓を」弾正が取り次の兵に大声で命令した。
 取次が走って行った。
 若い城兵が二人、城主高坂弾正の具足を持って入って来て着甲するのを手伝った。
「玄東斎殿、失礼致す」弾正は褌ふんどしを新しいのと付けかえた。
 小姓であろう若い城兵はてきぱきと襯衣したぎ、小袴こばかまの順に手際よく着けていった。
 城内には太鼓が鳴り響きだした。
 武具に身を固めた城兵がそれぞれの持場に急いで行くのが見えた。
 玄東斎は春の時と違って、城兵のきびきびした動きを見て、さすが前線の城だけの事は有ると感心した。
「玄東斎殿、一の櫓やぐらに案内致す、こられよ」高坂弾正は落ち着いた柔らかい言葉づかいで言った。
 玄東斎は弾正に付いて、一の櫓に上った。
 もうあたりは明るくなって、川霧が立ちこめる城外に三騎が走り出て消えた。
 物見の者であろうと玄東斎は思った。
「越後勢はこの川霧を勘定に入れて、行動を起こしているに違いない。いづれどこかに集結する。小半時もすれば霧も上り分かるで有ろう」弾正は東南の方向をじっと見つめながら言った。
「高坂様、七千という数はどうも腑に落ちません。あと半分は犀川を渡河し、千曲川の西側を南下しているのでは有りませぬか」
「儂も今、それを思っていた処だ。一回目も二回目も、三回の時も敵は一方三千は居た」
「霧が晴れぬうちに川西を見て来ます」
「行かれるか。広瀬の渡しがよかろう、気を付けて行かれよ」
 玄東斎は霧が晴れるのを待っているのが辛かった。
 弾正はそれを理解して、あえて止めなかった様である。
「玄東斎殿、無理はしなさるな」弾正の声を後に聞きながら、玄東斎は一の櫓を下りていった。
 霧が晴れてきて、物見の一騎が戻って来た。
 櫓下から櫓上の弾正に大声で報せた。
「殿、申し上げます。越後勢と思われる軍勢が、可侯峠を下り、尼厳山から皆神山の麓を通り、清野は、妻女山の方角に進んでおります」物見の報告が聞こえた。
「旗印は」
「旗印らしき物、何も見えません」
「よし、狼煙番のろしばんに伝えろ。狼煙山が見え次第上げろとな」
「はい。心得ました」
 東の空が明るくなった。
 薄霧が次第に晴れていく。
 その下を越後勢が南西に動いて行くのが見えて来た。
 物見の者が言った通り旗は見当たらなかった。
 敵は二手に別れて行動していると弾正は直感した。
 後ろ千曲川の方角を見ると、川霧は依然として幕を張った様で先を見通す事が出来なかった。
「西に行った物見はまだか」弾正は下に向かって叫んだ。
「まだ戻っておりません」
「狼煙山から狼煙が上りました」
 弾正は狼煙山の方を見た。
 明るくなった空に狼煙が一筋真っすぐ登っていった。
 玄東斎は犀川の岸辺近くの草叢に身を潜めて、小市の渡しを南下する大軍団をじっと見つめていた。
 先頭の軍団は甘糟近江らしかった。
 その後に毘の旗をなびかせた大軍団が続いていた。
 その中央に紺糸緘こんいとおどしの鎧に陣羽織を着て、白布の頭巾武者が三騎、同じ様な月毛の馬に乗り、その前後左右を旗本達に守られて南下していった。
 その後に柿崎を初め上杉軍の諸将が続いた。
 玄東斎は、頭巾の三騎の中の一人が上杉政虎(謙信)で後の二騎は影武者で有ろうと思った。
 此の軍団が七千、上杉勢総数一万四千、玄東斎は見届けて海津城に引き上げようと身を起こそうとした時だった。
「武田の物見だな、忍びの者か」鋭い声がすぐ後ろでした。
 玄東斎は瞬間、敵に見つかったと思った。
 やらなければやられる。
 そう思って腰刀に手をかけ鯉口を切り、振り向きざまに一突した。
 刀は空を突いた。
 相手は二人だった。
 玄東斎は踏み出した右の太股に痛みのような感じを受け、右脚の力が抜けて前につんのめるように膝を着いた。
「殺すな義胤!」止めたのは上泉伊勢守信綱だった。
 弟の上泉義胤はその瞬間刀を鞘に納めて、自分の小袴を見た。
 突き切られた部分が口を開けていた。
「義胤不覚であったな」
「もう少しで足を突かれるところであった。初めから切る心算はなかったが、かかって来たので突いた迄の事」
「武田の者か」上泉信綱が聞いた。
 玄東斎は黙ったまま上泉信綱を睨んだ。
 太股から血が流れて見る見るうちに小袴が赤く染まった。
「これで血を止めるがよかろう」上泉信綱は手拭を玄東斎に投げた。
 玄東斎は腰刀を投げ出すと、手拭を拾って素早く太股の付け根を結わえると、力いっぱい締めた。
 立ち去っていく二人がぼやけて見えた。
 遠くなりそうな気を堪えて夢中で立ち上り、ふらつきながら歩いた。
 二人が敵であれ味方であれ、もうどうでも良かった。
 林の奥に繋いである馬がぼやけて見えた。
 それから先は一瞬何も分からなくなった。
 何かいい気分だった。
 眼の前が明るい薄緑色一色になった。
 頬に暖かさと、耳元に犬の啼き声を聞いて倒れている自分に気付いた。
 起き上がろうとしたが脚に痛みを感じて、動かなかった。
 その場に痛い脚を投げ出して座った。
 良く見ると、見たような犬が自分を見詰めて悲しそうに啼いている。
「お前虎、虎ではないか」
 犬は吠えながら林の奥に走って行ったと思うと、又引き返して来た。
 犬に付いて見知らぬ雲水が林の奥から出てきた。
 自分に尾を振っている犬を見て雲水が声を掛けた。
「日向玄東斎殿か」
 自分の名を言われて玄東斎は驚き、声の主をしげしげと見た。
「儂を知っている者か」玄東斎は雲水に尋ねた。
「甲斐国、恵林寺の僧、宗智と申す者、玄東斎殿ですね」
「いかにも日向玄東斎、御味方と見て頼みがある」
「傷を負っているようですね」
「火急の頼みだ。聞いてくれ。海津城の高坂弾正をご存じか」
「知っています」
「上杉政虎、七千を率い小市渡しを南下中と伝えて欲しい。頼む。この奥に馬がある」
「心配無用、海津城ではそのことを、すでに知っています」
「そうか、よかった」玄東斎は急に力が抜けて、気が遠くなりそうになった。
「しっかりなされい」
 玄東斎は頬を宗智に叩かれ、馬に乗せられるまでは覚えていた。

 其処は宙の上であった。
 雲海とも氷河ともつかぬ中を彷徨っていた。
 父の新津左京が、覗き込んだ。
 父の顔がいつの間にか信玄の顔になり、額に触る御屋形様の手は冷たくて気持ち良かった。
 涙が出るほど嬉しかった。
「御屋形様」と叫んで眼が覚めた。
 煤けた天井が目に入った。
 玄東斎は夢に気付いた。
「気が付きましたか」
 若い女が自分を覗き込みながら額の手拭を取りかえていた。
「此処は何処だ」
「小松原村の百姓、喜助の家です。私は娘の綾と言います」
「雲水が連れて来たのか」
「はい。お坊様は戦から百姓を守る為に、あなた様を私に預けて出て行きました。夜には戻ると申していました。ああ動いてはいけません。動くと傷口が開いて血が止まらないからと言われました。眼が覚めたら、この血止めの煎じ薬を飲ませなさいと、坊様が作っていかれました」
「今日は何日だ」
「十六日です」
「そうか一日経ったのか。合戦はまだか」
「上杉方は妻女山に陣取ったまま動かぬと、村の者が言っていました」
「そうか、武田軍は来たようか」
「未だのようです。・・・起きられますか。手伝いますから、起きて薬を飲みましょう」
 綾は玄東斎をそっと起こすと、用意してあった煎汁薬を玄東斉の口に運んだ。
「すまん、手は使えるから自分で飲む」
 綾が差し出した茶碗の煎じ薬を一口飲むと顔を顰めた。
「これは何を煎じたのだ」
「槐えんじゅの木の実だそうです。血止めには良いと聞きました」
 玄東斎は残りを全部飲んだ。
 綾はそれを確かめて安堵した様であった。
「お坊さんとは、親しいのかね」
「去年の暮れ、和田峠で難儀した時、助けてもらいました。その縁であなた様をお預かりしたのです」
「お坊さんは、何時頃から村に居るのだね」
「一月前から村に来て、戦が始まった時、百姓達を守る為の支度をしているのです。戦が始まると必ず盗賊が出て、村人の何人かは切られたり、攫れたりしました。どうして善光寺平ばかりで戦をするのですか」
「善光寺平は馬草場だからな」
「馬草場とは何の事ですか」
「誰が刈っても良いの例えだ。どっちつかずの事だ」
「お坊様もそう申して居りました。領主様が領民にするのではなく、領民が領主様を選べば良いとか、難しい事を申して居りました」
「そうか、それは良い考えだ」
「それで村では、近くに海津城も有ることだし、武田方に付くことになりそうです」
「そうか、そうか、武田の御屋形様は領民思いのお方だ。よかったな」
 玄東斎は綾の顔を見て初めて頬笑んだ。
 綾も笑った。
 その笑い顔が何ともいえない好い顔であった。
 恵林寺の宗智と言う僧は、儂の犬をどうして連れているのか知りたかった。
 其の事を考えると無性に宗智の帰りが待ちどうしかった。
 自分を斬った相手は何者であろう。
 どうして殺さなかったのか、腕には自信があったが、相手はそれ以上だった。
「さあ、もう少し寝た方がよいですよ」綾に優しく言われて、玄東斎は又横になった。

「出陣!、出陣だぞ!」街道から大きな叫び声がして蹄の音が遠ざかっていった。
 恵林寺の境内で遊んでいた江介と絹は、街道が見える西側の土塁に走り声のする方角を見た。
 のどかな笛吹筋の街道を、早馬が数騎、川上に向かって走って行くのが見えた。
「出陣だぞ!」又、新たな伝令が中門を横に走り抜け、街道に出ると江介達の目の前を、やはり川上に向かって駆け抜けて行った。
 伝令は家々や田畑で働いている者達に知らせながら笛吹川と鼓川が合流する鍛治屋の橋を渡り、更に鼓川に架かる諏訪橋を渡って、向い山の裾を駆け下って行った。
 川下から時ならぬ寺々で打つ早鐘が鳴り出した。
 何時もの触れとは違い、かなり大規模の触れであった。
 突然真後ろで寺の鐘が鳴り出した。
 鐘楼下の日陰で昼寝をしていた犬のクリが、急に吠だして庵に走り込んで行くのが見えた。
 絹がおびえて江介にしがみ付いて泣きだした。
「こわいよう、こわい」
「泣くな、出陣だ」
 紅介は泣いておびえる絹の手を引っ張って庵に走った。
 庵では美祢が二人の帰りを待っていた。
「絹さん、父上が戦にお出掛けになります。すぐ家に帰りなさい。江介、家まで送って行きなさい。婆は村外れの橋まで政介達の出陣を確かめに行きます。馬が来たら路の端に避けるのですよ」美祢は二人を促して棚から守り袋を取り懐中に入れた。
「絹ちゃん、行こう」
 紅介は絹の手を引っ張って鐘楼を東に駆け出していった。
 クリが江介の後を追った。
 美祢は村外れに急ぐ途中、路端の家で妻子と別れをしている男に声を掛けた。
「室伏の衆はどの路を行くでしょう」
「諏訪橋を隼村に行く方が近いから、向こうを行くづら」男はぶっきらぼうに言った。
「ありがとう、武運を祈っています」
 美祢が鍛治屋橋まで来た時、坂上を諏訪橋の方に曲がって駆けて行った三騎を見た。
 もしやと思い急坂を小走りに急いだ。
 諏訪橋の袂には身内を見送りに来ていたのであろう、子供連れの女房が帰りかけていた。
 美祢は女房の後ろ姿に声をかけた。
「お尋ねします、さっき出陣して行ったのは身寄りの方ですか」
 泣いている子供の手を引いていた女房が振り返った。
 女房も眼を赤く腫らしていた。
「はい夫です」
「家は街道ですか」
「はい。この上の替地です」
「室伏の衆は行きませんでしたか」
「まだ、どこの衆も通っておりません。」
 小さな集団が何組も駆けて行った。
 その度に美祢は目を見開いて少年達を捜したが、皆な知らない者ばかりで、室伏の衆はまだ誰も来なかった。
 もう行ってしまったのではないかと思っていた時だった。
「お師匠様」声の主は政長だった、三郎も政介も、政長の父の政吉もいた。
 三人の少年は襯着に小袴をつけ足袋に草鞋をはき、はち巻を締めただけで、具足は付けていなかった。
 美祢は三人の身形を見て呆れた。
「その身形で戦に行くのですか」
「三人共、具足を持つ余裕がないので、お貸し具足で間に合わせます。肩身が無くて」政吉は酒落まじりで言い訳をした。
 美祢は期待がはずれて、淋しい気持ちになった。
 御屋形様、直々の又被官またひかんだから、自前の桶側胴おけがわどうくらい身につけていると期待していた。
 少年達の晴姿を一目見て、励ましの言葉の一つもと思っていたのに。
「お師匠様、具足はお貸しでも、馬と刀は自前です。馬術では誰にも負けません」政長が馬術の師である美祢の顔色を察して言った。
「おお、そうとも、それでこそ御屋形様直々の又被官ぞ、政長、よく言った」
 美祢は周りの見送り衆に聞こえる様に言った。
 政介の家の小者源蔵が背負子に食糧や草鞋を沢山結わえ付けて走って来た。
「親屋の奥様でしたか、お見送りご苦労様で御座います」
「源蔵も徒では大変ですね」
「なあに、慣れっこですから」源蔵は腰の手拭で顔の汗を拭った。
「お父、源蔵さんと先に行っておくれ、俺れ達はお師匠様と少し話してから、後を追うから」
「そうか、それではそこの御諏訪さんで祈願しているから、源さん行くよ。お婆様それでは行って来ます。室伏にも行ってやって下さい。女房が喜びますから」
「解った。ご武運を祈っています」
 政吉と源蔵は諏訪橋を渡って行った。
 美祢は二人が渡り切るまで見送った。
 政長達三騎は、通行の邪魔にならぬよう鍛治屋橋寄りに入って、馬から下りて美祢を待っていた。
「三人共、行く先は分かっているね。政長も政介も旗本本陣だから、お館前ですよ。三郎は岩窪の飯富様お屋敷前。広瀬様からけして離れてはなりません。分かっていますね。ときどき母をたずねましょう、安心するが良い。政長も守友様のお側に居なさい。政介、そなたは弥右衛門の言う事を良く聞き、一門の恥にならぬ様に心がけ、御屋形様が危ないときは、身を呈してお守りするのですよ。分かりましたね」
「はい」
「お前達の今日の為にお守りを作りました。この守袋は軍旗の余り切れで作り、大嶽山のお守りが入っています。必ず身に付けているのですよ。大嶽山が守ってくれましょう」
 美祢は一人一人の首にお守り袋をかけた。
「お師匠様、有難う御座います。では行って来ます」
「おおもう行くか、父達が待っていよう、遅れるな」
「お師匠様、おさらば」
 三人は馬と一緒に橋を走り出した。
 途中橋の中央で地を一蹴りしたかと見るや、馬に飛び乗った。
 その見事さに、見送りの衆が驚きの歓声を上げた。
 美祢は心の中で見事と言った。
 少年達か見えなくなると、張り詰めていた気持ちが抜けた。
 戻りの鍛治屋の橋を渡り終えて、路傍の石仏の前で合掌した。
「どうか三人をお守りください」

 その夜、甲府の躑躅ケ崎つつじがさきは、広場や道路などに篝火がたかれ、軍馬や将兵で埋めつくされていた。
 篝の火が弾ける中を軍役衆達は、小荷駄隊の支度や、食糧を配るのに大忙しであった。
 其の慌ただしい中を、時折馬飛脚が館の外にある馬出しに走り込んで行った。
 馬出しには篝火が焚かれ、諸将の旗印が篝の火に煽られて揺れ動き、正面の床几に黒糸縅の鎧の上に緋の法衣をまとった信玄が腰掛け、右に奥近習の三枝守友が諏訪法性の兜をささげ持ち、左に同じく奥近習で初陣の金丸昌次が槍を持って控え、右に一門の諸将が控えていた。
 左には馬場、飯富、内藤、小山田等の諸将が控え、其の後方に御旗と信玄を囲むようにして、山本勘介、原隼人佑をはじめ旗本衆が控えていた。
 諸将の顔は篝の火に照らされ赤く、特に信玄の緋の法衣が人目を引いた。
 左右に並んだ諸将の旗印の中を飛脚が走り込んで来て、信玄の前に控えた。
「御屋形様に申し上げます。甘利昌忠様指揮する先立隊五千、無事腰越に到着、御本隊到着をお待ち致しおります」
「大儀であった。」
「出陣は寅の刻ぞ。民部、出陣の儀式を」
「は、かしこまって候」馬場信春が床几から立上がった。
 馬場信春は、日の丸の御旗と楯無鎧にお神酒を捧げた。
 此の鎧は武田家の祖、源義光以来、御旗と共に家宝として武田の総領が相続した。
「是れより御屋形様に合唱して御旗、楯無に必勝を誓う」
 信玄はじめ座っていた者が一斉に立ち上がった。
 信玄が御旗、楯無に一礼すると、「御旗楯無もご照覧あれ」合唱が夜空に響き渡った。
 続いて鬨の声があがった。
 松明を持った伝令が馬出しから何組も走り出て行った。
 軍旗が篝の炎に煽られ風林火山の金文字が生き物のように異様に光った。
「出陣は寅の刻、各隊は決められた通りに行動せよ」松明の伝令が叫びながら走った。
 草叢の中で馬番をしていた二人の影が立ち上がった。
「政長、いよいよだな」
「うん、まだ少し間がある。政長、今の中に小便でもしておくか」
 二人は持場から少し離れてた処の草叢に放尿した。
「政介、源さんの姿が見えないがどうしたのだ」
「お前の親父さんと小荷駄隊で行ったよ。政一やんも加わった」
「すると村から六人か」
「そうだ。少し淋しいな」
 東の空が明けて来た。
 武家屋敷の方からも勇ましい閧の声が上がって、法螺貝の音にまじって太鼓の音が夜明けの街に響き渡った。

 永禄四年八月十八日暁、甲府を出発した甲斐主力軍団七千は信玄に率いられて北信濃に向かった。
 午の刻(正午)には兵站基地若神子砦に到着した。
 此の基地の周辺には棒道の拠点が集中し、信州方面の交通の要地で、木戸内には信玄の陣所や諸将の陣などがあり、軍団の武器、軍装整備が整い、信玄より諸役免除を受けた鍛冶屋敷や、物資を集積した市が立っていた。
 此処で小荷駄隊が編成され、何の具足も着けていない初陣の少年たちが、借り物の具足を受け取るのに並んでいた。
 政長、三郎、政介の三人の姿も見えた。
 信玄が三枝守友を連れて本陣に行く途中、三人を見て立ち止まった。
「お前達は初陣であったか。馬で来たのであろうな」
「はい。」政長が大きな声で答えた。
「楽しみにしておるぞ」信玄は歩きだした。
 三人は、深々とお辞儀をして見送った。
「守友、三人は借り具足か」信玄が後の守友に声を掛けた。
「はい。急な出陣でしたので」
「作る余裕がないのか」
「お貸し具足は動きやすいように軽く出来ております。戦場に馴れない者は、其の方が良いかと思いまして、守友がそうさせましたので御座います」
「まだ延び盛りだからな。今作っても無駄になるか。まあ良いわ」信玄は本陣に急いだ。
 三人は何時までも信玄を見送っていた。
「今の方は何方か」
「さあ、俺は知らぬ」
 初陣の者達の囁きが聞こえた。
「御屋形信玄様じゃ」政長が後を振返って言った。
 三人は鼻高々であった。
 後続隊が続々と基地に入ってくるのが見えた。
 北の山間から狼煙が上がるのが見えた。
「中尾城だ。獅子吼城からも上がりだした」誰かが言うのが聞こえた。
 初陣の少年たちは一斉に北の空を仰いだ。

 其の夜、本陣に諸将を集めた信玄は、明日の行軍について、諏訪から和田峠を行くか、八ケ岳山麓の大門峠を行くか、将達に意見を聞いた。
 全員一致で大門街道と決めたが、信玄の嫡男義信は何か不満顔であった。
「義信、何か意見があるなら申してみよ」信玄は義信の不満そうな顔を見て言った。
「今日急げば茅野まで行けたのに、父上らしくもありません。この様に悠長にしていて、海津城は持ちこたえましょうか」
「義信、そう急ぐな。手は打ってある。上杉勢は今日か明日中に儂が来ると思っている。儂は其の裏をかいて、この度は小荷駄隊や徒の者に歩調を合わせる心算だ」
「上杉勢一万四千に攻められれば、二千足らずの海津城は、二日も持ちません。父上は二千の将兵を見殺しにしても良いと申されのですか」
「見殺しにするとは言って居らぬ」信玄は強い調子で言った。
「先立ちの五千も腰越で本隊をまっていると聞きました。それ故棒道を行くと決めたでは有りませんか」
「手を打って有ると申したではないか。皆もよく聞け、急ぐばかりが戦ではない。戦術だけでは、勝ても実にならぬ事もある。戦略といって後先のことを考えて合戦はするもの。儂は過ぎし三度の川中島合戦でそのことを学んだ。其の戦いは甲斐にとっても信濃にとっても、何の得にもならなかった。善光寺平の百姓衆に迷惑を掛け、かけがえのない将兵を死なせただけだ。何でそう成ったのか分かるか。儂も敵の上杉も、善光寺平という土地柄と、そこに住む人々の心を知らなかったからだ。力ずくで自分の領民にしようとしたからだ。あの地は善光寺の力がおよんで、其の勢力の強い地だ。善光寺を兵火から守るために本尊を甲府に移したが、民百姓の心まで移すことは出来なかった。今度は百姓と力を合わせ戦うことが儂の願いだ」信玄は力説した。
 其の夜、信玄は義信のことを考えて寝付かれなかった。
 近頃妻に似てか、一言二言多くなった。
 京育ちの妻は以前から里の三条家をかさに着て、義信に三条家の血筋を盛んに吹き込んだ。
 虚栄心の固まりの様な妻は、総領の義信だけには優しかった。
 妻が義信を甘やかしているのが、気懸かりである。
 せめて義信には古武士のような風格が備わればと思った。
 手は打ってあると言ってあの場は治めたが、宗智の方はうまく進んでいるのであろうか。
 まだ宗智からの報せは何もない。
 高坂弾正との連絡はどうなっているのであろう。
 腰越に着く頃は何らかの報せが入るであろうと思っている。
 今度こそ上杉と決着を付けなければならぬ。
 おそらく上杉もその心算で出てきたのであろう。

 翌日、武田軍団は八ケ岳山麓の棒道(武田専用の軍用道路)を川中島に向かった。
 其の夜、茅野に一泊。
 翌二十日大門峠を越え、腰越に到着した。
 腰越には先立ちの五千、東信濃から三千、西信濃から三千、総勢一万一千が本隊の到着を待っていた。
 その日の腰越は一万八千の武田軍団で埋め尽くされた。
 二十一日、信玄は海津城からの報らせを受けた。
 上杉軍は十六日以来、妻女山に本陣を置き周辺に陣地をめぐらし、千曲川の東岸は物見櫓を組み、夜は篝火を燃やし警戒が厳しく動く気配がない。との報告であった。
 宗智からの報せはまだ無かった。
 信玄は旗本側近だけを連れ、二里先の上田原に出掛けた。
 産川の河原に馬を止めた信玄は、何時までも立ち尽くしていた。
 天文十七年村上義清と戦った河原を目の前にして、あの日の事を昨日の事のように思い出した。
 雪を血で染めて死んでいった板垣信方、甘利虎泰、初鹿野伝右衛門、自分を庇って死んでいった武井紅右衛門の顔が脳裏に蘇ってきた。
「守友、そなたこの先の寺に行って、此処で戦死した将兵の供養をしたいからと住職に伝えてくれ、儂は後から行く」
「はい。心得ました」
 守友は隊列から離れて寺の方に駈けていった。
「弥右衛門、近くに」信玄に呼ばれて弥右衛門が近付いてきた。
 信玄は声を潜めて、
「騎馬の手の者を連れ、善光寺平の小松原村に行け。宗智が居る。何か気懸かりで成らぬのだ。明日上山田の陣で合おう。千曲川の東には上杉軍が居るから気を付けて行け」
「はい。では直ちに参ります」
 弥右衛門は五騎を従えて街道に出ると、上山田の方角に向かって駈けていった。
 側近達は、用件も聞かずに行ってしまった弥右衛門は慌て者だと思った。
「荻原殿は途中で気付いて戻ってくる」
「荻原殿らしくもない」旗本たちがひそひそと囁いた。
 信玄は其の後ろ姿を見送りながら宗智の無事を祈った。
 法要を済ませた信玄は、日没前に本陣に戻り全将兵に酒を支給した。
 信玄は初陣の者ばかりを一同に集め山本勘介に、戦場での心得や合戦の仕方など教えさせた。
 何度か戦場を体験した同心達は直接刀や槍を持って指導に当たった。
 一通り終わると初陣同志が屯して、聞いた話を語り合った。
 政長も三郎もその中に居た。
「三郎、俺小便に行く、お前も行くか」
「おお、行く」
 二人は陣屋から離れてた田圃道に出ると、半月を眺めながら放尿した。
 尿は草の中で小気味よい音をたてた。
「俺、出陣の朝、御屋形様に呼ばれたよ」
「本当か。御屋形様は何を言われた」
「政長、三度目だなと申されてな、お師匠様と紅介君の事を聞かれた」
「そうか、それはよかったな」
「後のことは何を聞かれたのか、何を答えたのか、上がってしまって覚えていない。ただ小便を堪えるのが精一杯だった。俺は緊張するとすぐ出たくなるのだ。そうだ思い出したぞ。お守りのことだ。儂も欲しいと、美祢に言えと申された。このことを忘れるとお師匠様に叱られる」
「お前、お守りを御屋形様に見せたのか」
「うん。お師匠様の事を聞かれたのでな」
「江介君は御屋形様のお子なんだろう」
「そうだと政介が言っていた」
「何故館に住まぬのだ」
「隠し子だからさ。何れ世に出る事になる。御屋形様はおれ達三人を江介君の直臣にする様に考えているのだ。それ故おれ達に目を掛けてくださるのだ」
「解ったぞ。それ故御屋形様が伯父達に預け置くといったのだ」
「お師匠様も其の事を知っているのだ」
「御屋形様も子供の時、お師匠に馬術を習ったそうだ。剣は紅右衛門様だ」
「武井の本家は代々剣の家柄だからな」
「弥右衛門様も宗智様も紅右衛門様の弟子たったのだ」
「それは知っている。合戦になっても、おれ達は馬で戦えるのかな」
「そうさ、御屋形様のお許しどおりさ」
「おれ達から馬をとったら、岡に上がった河童だからな」
「馬なら思い切り暴れてやるぞ。村上義清を討ち取って、お父の恨みを晴らしてやる」
「三郎のお父は戸石の戦で死んだのだっな」
「武井式部丞様と一緒だったのだ」
「そうか、お父は式部様の家来だったのか」
「元はお師匠様の旦那様の家来だったが、紅右衛門様が上田原で戦死したので、父上様の式部様に預けられたのだ」
「三郎、敵は上杉だぞ」
「村上義清も上杉の中に居るさ。政長、後を見ろ、あの灯りはなんだ」
「あれは越後軍の篝火ではないか」
「やっぱりな」
「三郎、陣屋に戻るぞ。合戦は明日かな、明後日かな」
 三郎も同じ事を言おうとした。
 二人は自分の影を踏みながら陣屋に急いだ。

二 戦場荒らし

 赤松の巨木が切り倒されると、陣営の前を遮るものはなくなった。
 眼下に善光寺平の全景が手に取る様に見えた。
 楯を二枚合わせた上に張り付けた図と全景を見比べながら、頭巾の謙信は鞭で諸将に説明した。
 柿崎を始め本庄、柴田、直江、村上義清等の眼が鞭先に集まった。
 甘粕近江と宇佐美駿河の姿が見えないのは、急変に備えて千曲川寄りの陣で指揮に当たっているのであろう。
「御注進!御注進!」早馬の声が指揮所に緊張を与えた。
 騎馬伝令が登って来て、馬から下りると諸将達の前に走って来て控えた。
 諸将が左右に開くと謙信が床几から立ち上がった。
「何事か」頭巾の奥で目が光る。
「申し上げます、武田軍約一万八千、千曲川左岸を上山田に向かい前進中、室賀峠に風林火山の旗を認めました」
「大儀、少しの動きでも良い。見張りを怠るな」謙信が伝令申し付けた。
「はあ、失礼仕ります」伝令は、まだ息づかいの荒い馬に乗って妻女山を下りて行った。
「信玄、今宵は上山田に本陣を張るか」
「殿、今宵の中に上山田を上下から囲めば、武田軍は袋のねずみです」一門の長尾越前が口切りをした。
「それは良い策です。軍を二手に分け、今日の中に葛尾城を落とし、坂城の渡しを一手が攻め、本陣は、雨の宮の渡しを塩崎、稲荷山と攻めれば、上山田の一万八千の武田軍は逃げ場を失って、八頭山、冠着山に引くのは必定。山に慣れたる山岳衆を前以て四十八曲がり峠に忍ばせておき、引いてくる敵を襲わせたならば如何なるもので御座いましょう。葛尾城方面の先手を、この村上義清に申し付け下さい」
 天文十七年上田原の戦いと、天文十九年戸石城攻防で、二度武田軍を崩した事の有る村上義清は自信有り気に言った。
「村上殿、葛尾城は貴殿の城であったな、その城を捨てて越後に救援を求めた事、よもやお忘れではあるまい。その事が火種となって予と信玄の対決が始まったのですぞ。甲斐の信玄とは初めから戦いたくなかった。戦乱の今、信玄の右に出る者は、まずおるまい。信玄を破った者が天下を制すだろう。本来なら甲斐軍は上山田まで三日で来るはず。それが五日もかかっている。何か策が有ると見た。信玄の動きを見極めてから行動すべきだ。予は上洛前に、この度の戦にかける決心ぞ」
 将達は押し黙って何も言わなかった。
 重い沈黙が続いた。
 その時宇佐美駿河守が登って来た。
 謙信は宇佐美を見ると座をはずして宇佐美と帷幕に入って人払いをした。
「駿河、うまくいったか」
「それが、百姓達はどこの村にも姿が見当たりません。念のため他も探っておりますれば今しばらくお待ちの程を」
「なに、いない?・・・牛馬は」
「牛馬も居ません」
「どうなっておるのだ」謙信は強い衝撃を受けた。
「今一度行って来ます」
「そうしてくれ、集合している処が分かれば金を払って使役を募るのだ。武田軍は今宵上山田に入る。明朝か、あるいは今宵の中に善光寺平に入るかも知れん。何んとしても二千の使役を集めるのだ。女子供でもよい。予の旗本より気のきいたる者付けても良いぞ」
「それにはおよびません、忍びの者もおりますれば」
「急がねばならん、使役が無くば策をねり直さねばなるまい。すぐ行け」
「はい。では今一度」宇佐美駿河は帷幕を出て、馬で妻女山を下った。
 謙信は一人になると思案に暮れた。
 百姓達がおらないとなると、いやそのような事はない。
 度重なる合戦に懲りて何処かの山にでも逃げ込んでいるのか、それとも武田の手が廻って、武田方に付いてしまったのではあるまいか。
 謙信は急に孤独感におそわれた。
 傍らの琵琶を取り上げて爪弾いたが空しかった。
 指揮所に取り残された諸将達は、帷幕の中から聞こえて来る琵琶の音に、緊張がほぐれてか、席を立つ者、足をのばす者、誰一人として帷幕の中に入って行く者はなかった。
 琵琶の音は低く、高く、ある時ははげしく、松風に乗って陣屋の将兵達の心をゆさぶった。
 妻女山から見える善光寺平の眺めは、これから始まる戦など、よそ事のように穏やかそのものだった。

 その夜上山田の本陣で信玄は、荻原弥右衛門の報告を聞いていた。
「宗智様のお働きは功を奏しまして御座居ます。あの御様子では御自身が出掛けて来るわけには行きません」
「百姓衆は、この信玄に力を貸すと申しているのだな」
「はい。丹波島を始め、八幡、水沢、中沢、東福寺、小森、布施、横田、石川、塩崎、稲荷山にいたる村々はことごとく、御屋形様のお味方で御座居ます。村の者は茶臼山付近の寺や、山に身を隠し自警衆をつくり、盗賊や上杉の忍びの者から女子供を守っており、出来れば甲斐の御屋形様のお力により、戦にならぬようお祈りしていると、名主等が申しているとの事に御座居ます。その名主等を束ねているのが宗智様です」
「さすが宗智、よくぞここまで」
「この弥右衛門の一存にて、政介を何かの時の使いに置いてまいりました」
「今度の宗智の任務に付いては、勘介とそなただけしか知らぬのだ。海津城の弾正にも言っておらぬ」
「はい。政介には良く言い聞かせておきました故、宗智様の素性は安全で御座います。上杉の忍びの者から狙われる様な事はないと思います」
「そなた、明朝早く、もう一度一党を連れ、宗智の処に行け。明二十三日宵、下弦の月が登るを合図に全軍が善光寺平に向かって行動する。茶臼山に旗本を置き、全軍を十ケ処に分ける。布陣の場所はこの紙片にしたためて有るから、これを宗智に渡せ。味方の将兵は目印として、肩に白布を付けさせる。百姓衆には武田方の布陣を確かめてから、村に帰り助勢するよう伝えろ。そちはその足で海津城の弾正にも伝えてくれ」
「はい。心得ました」
「一党の者、今夜は早く休ませろ。大義であった」
「はい。ではこれにて失礼仕ります」
「茶臼山で会う」
 信玄は宗智の任務が、短い間にこれ程うまく行くとは思っていなかった。
 やはりあの地に海津城を築いた事が良かったと思った。
 いや、海津城主が百姓出の高坂弾正だから良かったのだと思い直した。

 その頃茶臼山麓の夜道を政介は馬を走らせていた。
 振動で頭がうずき痛かった。
 寺の前で馬を下り、竹槍で作った馬防柵に馬をつなぐと門内に向かって叫んだ。
「村の衆、開けてくれ。綾さんが夜盗に攫われた」
 境内の仮小屋から百姓達が走り出て来て馬防柵を開けた。
「誰か松明をもってこい」
 松明を持った者が走って来て政介の顔を照らした。
 政介の顔は血で真っ赤だった。
「どうしたのだその傷は」
「夜盗にやられた」
「早く中に連れていけ」
 宗智が仕込杖を持って走り出て来た。
「宗智様、大変です、綾さんが夜盗に攫われました」
「夜盗はどこだ、何人だ」
「小市渡しの方に行きました四人組です」
「病人は」
「大丈夫だと思います」
「分かった。政介、馬を借りるぞ。誰かこの者の手当を頼みます」
「犬が夜盗の後を追いかけて行きました」
 政介は走り出した宗智の後姿に向かって叫んだ。
 綾の父親喜助と、七、八人の若い者が竹槍を持って宗智の後を走って行った。
 さらに四、五人の若者が棒切れや鎌や縄などを持って出て行くと柵が閉められた。
 河原に出た宗智は用心深く、わずかな月明かりを頼りに、あたりを見回した。
 何も見えなかったが、上流の方角で犬の吠る声を聞いた。
 宗智は犬の声を頼りに上流に急いだ。
 犬の声は川向こうから聞こえていた。
「しまった、来すぎた」呟きながら引き返して小市の渡しに入っていった。
 渡りながら宗智は、竜はよくこんな流れを渡って行ったものだと思った。
 あれは一度、川で懲りている筈なのに、それとも吠ているのは別の犬、いやあの声は確か竜だ。
 渡り切って少し西に行った処に馬を繋ぐと、川上に向かって河原を歩いた。
 河原で焚火を囲んでいる人影が見えた。
 その向こうに荷物らしき物を積んだ馬の影が四頭見える。
 宗智は茂みから茂みに走り焚火に近付いて行った。
 人影は四人で、濡れた小袴を乾かしながら話しこんでいる。
 犬がしきりに吠える。
「うるさい犬だ。たたき切ってやる」一人が喚きながら刀を抜いて、犬の声がする方に向かって威嚇した。
 犬は益々力強く吠えた。
 男はあきらめて刀を鞘に納めると、小石を拾って投げた。
 吠え声は一瞬止まったが又吠え出した。
「お頭等は遅いな」
「お宝が見つからぬからではないか」
「この辺の女は男の身形をしているから、暗がりだと触わってみねえと分からん」
「おれ達のお宝が静かになったぞ。生きているか見てこい」一人が馬の方が気になると見えて言った。
「よしきた」二人が馬の方に歩いて行った。
 草叢に身を潜めて機を伺っていた宗智は、今だと思った。
 飛び出して行って仕込杖で二人の胸ぐらを力いっぱい突き上げた。
 同時といってよい程の早業であった。
 二人は。
 苦しそうな詰まった声を出して前にかがむように崩れた。
 宗智はすばやく男達の腰から刀を鞘ごと抜き取ると後ろに放り投げた。
 刀が石に当たり鈍い音がした。
 馬の方に行きかけた二人のうちの一人が止まって振り返った。
「今の音は何だ」振返った男が言った。
「お宝は大丈夫か」宗智は倒れている男を抱き起こし、その後に隠れて男の口真似で言った。
 二人は仲間の二人が倒されたとも知らず馬の処に行き、馬荷の筵の中に手を突っ込んだ。
 言葉ににならぬ女のうめき声がした。
「生きてるな、後で可愛がってやるから、温和しくしていろ」
 二人は攫ってきた女を確かめると、焚火の方に戻って来た。
「生きてる生きてる、ぴんぴんしていらぁ」一人が言いながら戻って、宗智に気付た。
「さの字、さの字、・・・其処にいるのは、誰だ。おい、誰かいるぞ」二人は立止まって刀を抜いた。
「お、おお、お前は誰だ」男は吃りながら宗智の方に寄って来て、いきなり刀を振りかぶった。
 宗智の杖の業が冴えていたので男は胸を突かれて、前につんのめって倒れた。
 それを見た残りの一人は逃げ出したが、少し走った処で悲鳴を上げてころげまわった。
 犬のうなり声して、黒いかたまりが二ツ河原をころがった。
 宗智が走って行って男を捕り押さえた。
 犬は男の脚に噛み付いたまま離そうとしなかった。
 犬は竜であった。
「竜、よくやった、もう良い離せ」竜の牙が弦月で白く光って見えた。
「よし、よし、よくやった。離せ」
 竜はやっと男から離れて、勝ちほこったように月に向かって遠吠えした。
 其の姿は狼の様であった。
 百姓達が走って来た。
「盗賊は気を失っている。殺すでないぞ。縛り上げろ」
 宗智が百姓達に指示した。
 百姓達は、寄ってたかって盗賊を縛り上げた。
 喜助が馬の方に走り寄って綾達を救出した。
 女達は、手足を縛られて、さるぐつわをかまされていた。
 綾は喜助にしがみつくと「お父う」と大声を上げて泣いた。
 気遣って後から走って来た百姓達も、一同の無事を見て喜んだ。
 宗智は倒れている盗賊の一人を抱き起こし背中に活を入れると、男は息を吹きかえした。
 残りの三人は縛られたまま息を吹き返し、脅えている様であった。
「仲間がいるであろう、仲間と此処で落ち合うのだな」宗智が男の胸ぐらを掴んだ。
 男は黙ったまま首を横に向けた。
 宗智は仕込杖を抜いて、その剣先を男の胸に当てて強い調子で言った。
「言わねば一突にする」
 百姓達の方が激怒した宗智に吃驚した。
「言うから殺さないでくれ。まもなく此処に来る」
「仲間は処に行っている。何人だ」
「丹波島に行っている三人だ」
「皆の衆、この者達を連れて先に寺に帰ってもらいたい。ここに居ると危ない」
「和尚様一人で大丈夫ですか」
「一人で大丈夫。逃がさぬよう寺の蔵に入れておいてくれ。馬も引いていくがいい、残りの縄を置いて行ってくれ」
 宗智は活をいれた盗賊に更に聞いた。
「お前達、この娘の家の病人をどうした」
「殺してはいん、けっとばしただけだ。若ぞうが邪魔したので、そのままにしてある」
「神妙にしておれば命だけは助けてやる。行け。皆の衆、急がれよ」
 百姓達は、盗賊と馬を引いて川を渡って行った。
 宗智は付近から薪を集めて、焚火の中に投げ入れた。
「竜、座れ。よくやった。よしよし」
 宗智は竜を抱き胸を擦ってやった。
 竜は甘え声を出して尾を振った。
 宗智は丹波島の方を向いて腰をおろすと、此処にやって来る三人の夜盗をどうして生け捕りするか考えた。
 盗賊は何処の者か、妻子もいるのであろう。
 以前、綾の姉を攫った者達かも知れない。
 戸隠村か鬼無里村の奥山に住む野武士の一党かも知れん。
 眠気ざましに薪を集めながら考えた。
 東の空が明るくなってきた。
 最後の川木を焚火の中に投げ入れた時だった。
 対岸で馬の嘶きがした。
 宗智は草叢に身を隠して向こう岸をうかがった。
 五人の者が切り争いをしているのが見えた。
 まもなく三人の姿が倒れたように見えた。
 二人の者が三頭の馬を引いて丹波島の方に行った。
 宗智はしばらく見ていたが、三人の姿はそれきり立ち上がらなかった。
 三人共斬られたのだと思い、竜を抱えて浅瀬を渡ると、五人が斬り合っていた場所に行ってみた。
 盗賊らしい二人の男が倒れていた。
 一人は腕を肩先から切り落とされ、刀を握ったままの腕が傍にころがっていた。
 桶側胴の上に熊の毛皮で造った羽織を着ている方の死体には首が付いていなかった。
 少し離れた処で胸を一突され死んでいる者がいた。
 あたり一面に血が飛び散り無残な有り様だった。
 竜が死体の傍に落ちている血の付いた手拭に寄っていった。
 血糊を拭ったのであろう、上泉の字が見えた。
 宗智は上泉伊勢守を思い出した。
「竜、こい」宗智は竜を呼び、小脇に抱えると片手で死体に向かって拝んだ。
 見事な切り口を見て、すぐ上泉信綱だと確信を掴んだ。
 首や腕を斬り落とす程の使い手はそうざらに居るわけがない。
 もし上泉信綱だとすると、何故善光寺平に来ているのだろう。
 信玄や上杉謙信がどのような兵法を用いるか、密に見に来ているのではなかろうか。
 上泉が仕える箕輪城の長野業政は上杉の傘下にある。
 気を付けねばと宗智思った。
 同時に玄東斎の事が気掛かりで馬を走らせた。
 玄東斎はあれ以来、脚の傷が膿んで、熱が続き起き上がる事が困難だった。
 宗智を見ると起き直って、
「宗智様申し訳ない。儂がいながら」
「無事で良かった」
「宗智様、お手柄でしたね、賊を捕らえたそうで」
「一味の中の三人は上泉信綱が斬った」
「見たのですか」
「遠かったのではっきり分からぬが、二人連れだった。盗賊の頭らしい男は一刀で首を落とされていた。玄東斎殿を切った者は連れの者かもしれない」
「そうだ、あの時たしか、義胤殺すな。と相手が言っていたのを思い出した」
「義胤とは伊勢守の弟です。やはりあの者達は上泉兄弟に間違いない。三人の中の一人はその者が突いて倒したと思われます。以後出会っても近付かない方が良いですよ」
「道理で儂が適う相手ではなかった。初陣の若者には悪いことをした。儂を庇って頭に傷を受けたようだが、大丈夫ですか」
「気はしっかりしているので、たいした事はないと思う。政介に薬を持たせますから寝ていて下さい」
 宗智は何事も無かったように出て行ったが又引き返して来て、
「玄東斎殿、盗賊の一人は犬が捕らえたのです。置いていきますから急の時は犬の首輪に手紙を結わえて離して下さい。犬は必ず寺に来ます」
「そうしましょう」
「竜、此処に居て玄東斎殿を守のだ」竜を繋いで宗智は家を後にした。
 宗智を追おうとする竜の態度をみて、置き去りにした自分の行為に呵責を感じた。
 思いやりの有る主人に巡り合えた犬は、これで良かったのだと思い直した。
 それに引き換え、宗智様は人を引き付ける不思議な力をそなえた僧だ。
 師の快川和尚とはどの様なお方であろう。
 一度お会いしたいと思った。

 宗智は寺の奥間で仮眠していた。
 住職が弥右衛門を案内して入って来た。
「宗智様、急ぎの客を案内致しました」
「ああよく眠った。今何時ですか」
「巳の刻を過ぎました宗智様」弥右衛門が答えた。
「おお、弥右衛門殿、政介に怪我をさせて申訳ない」
「先程、全部聞きました。政介も、お役にたてて・・・」
「弥右衛門殿、ちょっとお待ちを、先に厠に行かせて下さい」宗智は厠に立って行った。
「お客様、御用の節はお呼び下さい。拙僧はこれにて」住職が出ていった。
 弥右衛門は近くに人の気配の有無を確かめた。
 宗智が戻って来て弥右衛門と近くに向かい合った。
 弥右衛門は声を落として、
「御屋形様は宗智様を案じておられました。これより、御屋形様のお指図をお伝え致します。本日夜、下弦の月が坂城の山を昇り始めるを合図に、御屋形様は全軍を率いて、上山田を立ち、善光寺平に向かいます。お旗本は茶臼山に、各将は、この紙片に書かれている村々に布陣します。お味方将兵の目印は肩に白布を付けております故、目印の事、百姓衆にもその旨をお伝えする様にとの仰せに御座います」
「分かり申した。村人には明日、全軍の布陣が終わるのを確かめてから話しましょう」
「弥右衛門、これより海津城の高坂様にこの事を伝えに参ります」
「気を付けて行かれよ。上泉信綱が善光寺平に来ていますので気を付けて、上杉の忍びの者も居ると聞いています。道案内を付けましょうか」
「いやそれには及びません。善光寺平は慣れております。今宵ここに帰って来ます。では行って来ます」
 宗智は、弥右衛門を送ると、境内裏手の土蔵に行った。
 昨夜の盗賊四人が縛られたまま入れられていた。
 盗賊達は入ってきた宗智を一斉に見た。
「見れば四人共、悪人のような顔はしていないな。国はどこだ」
 四人は黙っていた。
「仲間の三人は斬られて死んだ」
「うそだ」年上が言った。
「嘘ではない。儂はこの目で見た」
「お頭は斬られん」
「死ねば仏だ、村の者が河原に葬った。遺品の熊羽織と武具は寺で預かって有る」
 四人は不安そうに顔を見合わせ、不審顔で宗智を見た。
「さもあろう。お前達のお頭の首は一刀のもとに胴から離れた。相手はおそろしく使える兵法者だ」
「うそだぁ。お頭はたやすく斬られる様な男ではない」
「嘘だと思うならそれで良い。ゆっくり頭を冷やせ。合戦が始まっても逃げられぬぞ」
 盗賊たちが口を割らぬと見た宗智はさっさと蔵から出て行った。
 今日中にやらなければならぬ任務の事を思うと、盗賊たちには構っていられなかった。
 百姓衆達が集結している寺や山へ馬を走らせて、裏切り者が出ないよう、村名主達と連絡を密にしなければ、敵の忍びの者に切り崩される怖れもあった。
 秋の陽が茶臼山の方にかたむき、紅葉し始めた妻女山には、上杉軍の幟旗が夕映えて見えた。
 千曲川の手前の村々は煙り一つなく不気味なほど静かであった。

 上山田の武田陣屋では、西の山に陽が落るのを合図のように炊煙が立ち昇り出した。
 政長と三郎が小荷駄衆のいる政吉の処にやって来た。
「お父う、小麦粉をおくれ」
「政長、三郎も、元気らしいな、こんな処に来てよいのか」
「守友兄様に言い付かって来た。御屋形様がほうとうを食べたいと申されたそうで、お父うの処に行って粉と味噌を貰って来いと言いつかって来た」
「そうか、守友殿は元気か」
「うん、お父う俺はな、出陣の日に御屋形様と直に話をしたよ」
「親をからかうな」
「からかってなんかいないよ、本当の事だ」
「母が聞いたら、さぞ喜ぶだろう。三郎、広瀬様はどうしておられる」
「叔父上は元気です」
「そうかそうか、良かったな。こんな処で何時までも油をうっていると、叱られるぞ。さあ、これを持って行け。味噌はこの先の源さんの処でもらって行け。二人共元気でな」
「お父うもな」
 二人は小麦粉を入れた袋を持って先の方に小走りで行った。
 政吉は、甥の三枝守友が気を利かせて、政長を寄越したのだと思った。
 政吉は合戦が近付いた事を感知した。
 初陣とはいえ、あんな子供が戦えるのか、囲炉裏端の手柄話が役立ってくれるだろうか。
 二人共死ぬなよ。
 政吉は心の中で祈らずにはいられなかった。

 本陣では軍議が終わり、山本勘介か各衆の布陣地を知らせていた。
「内藤衆は塩崎、篠ノ井の間、矢代の渡しを中心に、飯富衆は横田雨宮の渡しを中心に、小山田衆は、小森赤坂の渡しを中心に、甘利衆は東福寺、滑火の渡しを中心に、飯富三郎衆は八幡原、水沢広瀬の渡しを中心に、諸角衆は青木島、市村の渡しを中心に、馬場衆は小松原の東、小市の渡しを中心に、真田衆は布施、本陣茶臼山の右前に、相木、芦田、小幡の三衆は岡田、茶臼山の左前に、この三衆の指揮は小幡尾張殿、他の各衆は御旗本茶臼山に、以上が軍議で決まり申した通りです。目印の肩の白布はもれなく付けるように以上申し述べた通りです」勘介は知らせ終わると信玄に一礼して後ろに控えた。
「布陣に当たり一言申す。布陣整い次第、伝令をもって本陣に知らせよ。木竹を切るのは村人の許しをえて、無断で切ってならぬ。村の女に乱暴、盗みにおよんだる者は吟味の上成敗致す。出立つは下弦の月の出を合図に、よいな。一同陣に戻って伝えよ」信玄の通達は何時もより厳しい口調であった。
 八月二十日未明、信玄は全軍一万八千を十隊に分け、茶臼山に本陣をしき、千曲川の西岸に、又旭日山の越後遊軍に対して犀川の南に布陣し上杉軍に対陣した。
 妻女山の上杉軍は遊軍がいる善光寺旭日山の連絡路を完全に遮断された形となった。

 千曲川西岸に武田軍布陣の報が、妻女山の謙信の元に届いたのは翌朝辰の刻(午前八時)であった。
 旗本、緒将達はあわてたが、謙信は落ち着きはらって次の報を待った。
 午の刻(正午)頃、最後と思われる報が入ると、謙信は宇佐美駿河守を呼んで、善光寺平の図面に武田軍の布陣場所を付けさせた。
 そして何処に誰が布陣したか、人数などを調べさせる様に下知した。
 夕刻、宇佐美駿河が再び妻女山に登って来て、武田軍の布陣に付き、事こまやかに報告した。
「なに、兵の数が増えていると申すのか」謙信は宇佐美の顔をくい入る様に見つめた。
「はい、室賀、上山田あたりで二千名位が加わったかと思われます」
「布陣の数を二十位に分けると思ったが、その半分とは、さすが信玄。予の腹を読みおった。こうなると、武田の旗本を突くことは危険だな。駿河、そちならどうする」
「敵を分散させるには、犀川の北に増援軍を布陣させるのが良策かと思います」
「旭山城の守備の者ではたりぬか」
「はい。見せかけ軍の使役が集まらなくなった上は、越中の押さえに残して来た政景様配下の二万のうち、五千を早々に犀川の北に布陣させれば、敵は必ず分散致しましょう」
「今からでも間にあうか、それまで兵糧が持ちこたえられるか」
「はい。兵糧の方は調達いたします」
「その間に信玄が打って出たら何とする」
「信玄は善光寺平の百姓達を味方に引き入れた様子、そうなれば向うから攻めることはないと思います」
「何日かかる」
「忍びの者を走らせて、七日あれば犀川の向岸に越後軍の旗がなびきましょう」
「よし、兄政景に当て書状を書く」
 謙信は宇佐美駿河の策を取る事に決めた。
 宇佐美駿河は陣屋に帰ると、忍びの者、源五郎を呼び、謙信の書状を渡し、配下の者三名に、戸隠村より白馬村を通り越中新川郡に入り、長尾政景(謙信の姉の夫)に書状を渡すよう命じた。

 宗智は土蔵の中をのぞき込んだ。
 夜盗達は縛られたまま座っていた。
「お前達が白状におよばずとも、大方のことは分かった。お前達七人は、鬼無里の野武士で、数年前もこの善光寺平で夜盗を働いた。そうだな。今度も止めようとした戸隠の村長を斬って、夜盗におよんだのだな。今、戸隠の者がお前達を引き渡してほしいと言って来ている。どうする、お前達を引き渡そうか」
「ややや、めてくれ、ななな、んでもする」吃りの男がおびえるように言った。
「なんでもするか、それなら数年前のことも聞きたいな」
 盗賊達は又黙ってしまった。
 盗賊達は白状すれば殺されると思い込んでいるようであった。
 宗智は聞いても無駄であると思った。

 寺の奥間で山本勘介が五人の者と向かい合っていた。
 その前に熊毛の羽織と武具が置いてあった。
「我等一党に代わり、一味を成敗して下さって礼を申し上げます。有難う御座います。此の品は証として村に持ち帰り、父の墓前に供えます」
 腰刀を差した若者が勘介の前に両手をついて礼を言った。
 そこへ宗智が入って来た。
「四人共、脅えて出たくないと申していた」宗智が言った。
「戸隠にはきびしい掟があります。四人共それを知っているので御座います。頭の鬼無十蔵さえ討ち取れば、連れ帰り掟にかけられるのを見るに偲びません」若者がはっきり言った。
「そうか、それでは四人の身柄、この儂が預かる。帰りに三人を埋めたあたりを見て行かれるが良い。小市の渡しの草叢だ」宗智が若者に言った。
「はい、では我等はこれにて帰ります。武田軍の武運を祈ります。約束の事、必ず実行致します」
「戦が終わったなら必ず真田殿を尋ねよ。真田殿なら村の事も親身になって考えてくれよう。同じ信膿だからな」山本勘介は送り出しながら若者に言った。
 五人の者は盗賊の遺品を持って帰って行った。
「宗智様、この度のお働き、御屋形様大変の喜び様です。尚、戸隠の者を味方に引き入れるとは、容易く出来る事では有りません」
「今の若者は夜盗に斬られた村長、戸隠半兵衛の倅、孫助です。今後あの若者が村を束ねて行くでしょう」
「戸隠村には、昔から伝わる忍びの術を使う者が多いと聞いております。蔵の四人も口がかたいとこを見ると、忍びの術を心得ているやも知れません。用心なさった方が良いと思います」
「頭目の十蔵はよほどの使手らしかったようですね。蔵の四人も今だに斬られてないと信じています。戸隠村でも手を焼いていたらしい、上泉もよい折りに来たものだ」
「宗智様、あまり無理をなさいません様に、では行きます」
「名主達も全員そろっています。兄上に目通りの事、よしなにお願いします」
「宗智様、では」
「勘介殿もお元気で」
 これが山本勘介との最後に成ろうとは、今の宗智は思ってもみなかった。
 勘介は善光寺平の名主達を伴って茶臼山に戻って行った。
 戸隠村から白馬村に抜ける山道を、わずかな月明かりを頼りに四人の人影景が急いで登って行った。
 四人は陣場平山の地蔵峠まで来ると一休みした。
「源五郎様・・・」
「名前を出すなと申したのに、気を付けろ。狸尾あたりから、我等は付けられている」
「武田の忍びかも知れません」
「しっ、誰かいる。伏せろ」四人は地に這いつくばって息をころした。
 源五郎はそのままの姿勢で首を上げて空を見上げた。
 小さな黒雲が東に流れている。
 源五郎は声を潜めて、
「よいか、今の中に峠の下り道に見当を付けておけ。まもなく月が雲に入る。暗くなったら、それが合図だ。見当を付けた方角へ走るのだ。遅いと狙われるぞ」
 四人は走る姿勢をとった。
 その時頭上を不気味な音をあげながら火矢が放たれ、地蔵峠の道しるべに刺さって燃えた。
 それを合図に暗がりから一斉に矢が射かけられた。
 四人は射られた体で起き上がると刀を抜いて矢を払い落とした。
 一人が倒れた。
 月が雲に入って暗くなった。
 源五郎は火矢を抜くと、懐の書状を出して燃やした。
 書状が燃え尽きると辺りが真っ暗になった。
 其の闇の中から「無念だ」と叫ぶ声が聞こえた。
 それきり静かになった。
 雲が流れて又月が峠を照らした。
 四人の影は峠から消えていた。
 木影から二十人程の者が走り出て来て、峠を下りかけた。
「まて、追うな」覆面の男が止めた。
 半引を持った者達が、覆面の男の囲りに集まった。
「見事だ。さすが忍びの者」
「長、見逃しても良いので」
「書状を燃やしたのは生きられぬと覚悟したからだ。手傷者は追わないのが我等の掟。試練に耐えた者は生きるに値する者、そっとしておけ。我等の先祖もそうして戸隠に生き延びたのだ」男は覆面を取ると峠の下に向かって合掌した。
 戸隠の孫助であった。

 両軍が千曲川を挟んで対陣してより六日たった。
 妻女山の謙信は、朝から北に面した犀川の方角ばかり見ていた。
 忍びの者は首尾良く新川の政景の元に行ったであろうか。
 無事に着けば遅くとも今日あたり、増援軍が川向こうに旗を立てるはず。
 今だに来ぬとは、越中、越前の一向一揆が新川を脅かしているのか、それとも政景は、この謙信に代わって越後を我がものにしょうと企てているのか。
「宇佐美駿河の使いの者はまだか」謙信は、たまりかねて言った。
「は、見て参ります」奥近習の者が走っていった。
「荷駄奉行を呼べ」
 近習が続いて走って行った。
 荷駄奉行、直江大和守が走って来て控えた。
「大和、食糧はあと何日有る」
「はい十日分程御座います」
「この地で集める事は出来ぬか」
「はい、百姓共はどうしたわけか稲こきをしておりません。まだ乾いていないの一点張りで」
「やもうえまい。予は少し休む。駿河が来たらら帷幕に来るように伝えい」謙信は帷幕の中に入って行った。
 直江大和は、付いて来た配下の者を手招きした。
「聞いたか、この分だとまだ長続きするぞ。雨宮の百姓を口説き落とせ。百姓が一番望んでいる物はなんだ。金か、馬か」
「戦の無い世の中で御座います。百姓上がりの手前には良く分かります」
「金ではないのか」
「はい、このあたりでは米さえあれば何でも手に入ります。金など持ち付けないので使い方を知らぬので」
「それでは口説きようがないな、女ならどうだ」
「女など処にもおりません。国を出てよりはや二十日、我等とて女が恋しく思います」
「これ、大きな声でぬけぬけと申すな、殿の近くぞ」
 帷幕の中から琵琶が聞こえて来た。
 直江主従は帷幕に向かって平伏した。
「お許しを、以後慎みます」
 謙信は毘沙門天を深く信仰し、修験道に徹するあまり、女性も身辺に近付けなかった。
 家臣たちもそのことを知っていて、謙信の前では女性の話は禁忌であった。

 茶臼山の本陣で信玄は側近の者も下げて、宗智と二人だけで向かい合っていた。
「玄東斎の傷は良い方に向かっているのか」
「熱の為に動かなかったので、脚が弱っていますが、十日もすれば歩ける様になります」
「そうか、歩ける様になったら、上山田の湯へでも行って静養するよう言っておけ。玄東斎やお前の働きで、越前越中の一向一揆も勢力を増したと見える。押さえの長尾政景も上杉に援軍を送るわけにもいかんだろう。儂は戦わずしてこの地の衆を味方にする事が出来た。皆んなお前のおかげだ。有難うよ」信玄は宗智の手を取った。
「兄上が領民を大事にしている事が、此処の者達に分かったからです」
「これ以上無益な血を流したくない。上杉も兵糧が無くなる頃だ。儂は今宵、上杉に逃げ道をあけてやるつもりだ」
「講和の使者なら、今からでも宗智が参ります。陣払いはそれからでも」
「いや、それにはおよばん。明日中に上杉が引き上げなければ、決戦すると見て良い。その時は受けて立つ。お前はすぐ各名主達の元に戻っておれ。何事が起こっても動揺しないよう、よく言いふくめるのだ」
「はい、では寺に戻ります」
「気を付けて行け」
 宗智は、玄東斎の事を信玄に話して、少し肩の荷を下ろしたような気持ちで、本陣を下っていった。
 途中で荻原弥右衛門に会った。
「弥右衛門殿、政介はよく働いてくれましたよ。日没までには帰陣させます」
「お役にたったでしょうか」
「おかげで助かりました。急いでおりますので、これで」
 宗智は弥右衛門に向かって合掌した。
 弥右衛門は、宗智からその様な礼を受けたのは初めてであった。
 慌てて自分もお辞儀をした。
 宗智の後姿を見送りながら、宗智様は御屋形様と何の話をなされたのだろう。
 政介を帰すと言われたが、もしかしすると、御屋形様は今夜あたり、妻女山に攻撃を仕掛けるのではあるまいか。
 それ故、宗智様は自分の武運と無事を祈って下さったに違いないと思った。
 もったいない事だ。
 弥右衛門は遠ざかっていく宗智に、もう一度お辞儀をした。
 百足衆(使者)十騎が、弥右衛門の脇を善光寺平に向かって疾走して行った。
 百足の旗印は途中からばらばらの方角に分かれて小さくなって行くのを、何時までも弥右衛門は見ていた。
「静かな天気だ。今晩あたり霧が出るぞ」
 使役に来ていた百姓達が話しながら下の道を歩いて行った。
 その夜、善光寺平全域に霧が発生した。
 妻女山の篝火は霧で見えなかった。
 夜半武田の全軍が善光寺平を音もなく横切って千曲川を渡って行った。

 朝霧が上がった。
 善光寺平には武田の将兵の姿は一兵も見えなかった。
「御注進!」の声に、謙信は帷幕の中で眼を覚ました。
「申し上げます、善光寺平から武田軍が消えました」
「なに?、武田軍が見えぬと申すのか」
「はい、一兵も」
「御注進!。武田軍は昨夜の中に布陣をとき海津城に入った模様です」
 早馬が矢継ぎ早に登ってきた。
 謙信は帷幕を出て指揮所に行った。
 旗本諸将達はすでに指揮所に来て控えていた。
「武田軍が海津城に入ったと申すか」
「霧を利用して昨夜の中に海津城に入った模様です」
「指揮所を北の方角に変えろ」謙信が指示した。
 旗本達の手によって、海津城がよく見える方角に指揮所が移動された。
 東の尼厳山から日が出る頃には、霧も消えて、海津城が手に取るように見えた。
 城の周辺は武田の軍勢でひしめいているのが見え、今まで千曲川を隔てていた対陣が、近くの陸続きとなったため、上杉軍の将兵の顔から、緊張の色が伺える。
 上杉軍は陣替えを余儀なくされた。
 騎馬伝令が忙しく山道を駆け下って行くのが見えた。
「越前、そなた甘粕の後方の岩野を固めよ」
「は、畏まりました」長尾越前は指揮所を飛び出していった。
 上杉軍にとって、あわただしい一日であった。
 金井山の中腹から見ると、両軍の陣営は、さながら祭の夜の様に篝火がゆれて見えた。
 中腹の窪地で焚火にあたっていた上泉信綱は上に向かって声をかけた。
「義胤、篝火に変わった処はないか」
「篝の火は変わりありません」岩の上から返事がかえって来た。
「今夜は何も起こらないであろうよ。下りて来て焚火に当たれ、雑炊がほど良く煮えているぞ」
上泉義胤が、岩の上から窪地に下りて来て、焚火に手をかざした。
「戦いは、見る者にとったら、はがゆいものですね」
「戦いを見るのも兵法の道、いづれ我等とて武田と戦わなければなるまい。この折りを見逃せば二度と武田を知る事も出来ぬかも知れぬ。今度は大戦になるぞ」
「どちらが勝つと思いますか」
「昨日までの陣形では、上杉の不利、今日の陣形は互角となった」
「昨日までの陣形が続くと、どうなったでしょう」
「北との連絡を塞がれて、百姓衆からも孤立した上杉軍は、兵糧が続かず戦意を無くして、犀川を渡って北に引く、武田は其の機会を作ってやった。ところが上杉は引かない。謙信公はやる気だ」
 海津城に入った武田が、果たしてどのような動きに出るか、信綱は闇の中に小さく見える篝の火にじっと眼をそそいだ。
 近くの木で梟ふくろうが鳴いた。

 昼間になると、海津城の近くの武田軍の陣地のすぐ近くまで、上杉軍の物見の姿が見えるようになった。
 それに対して武田の陣地から罵倒する声が聞こえた。
「どうした。鉄砲玉がおっかなくて、そこまでしかこれんのか」
 上杉の物見は早々引き上げて行った。
「おっかなくて、逃げちゃったよ。あっははは」櫓番達が一斉に笑った。
「こら!敵に向かって口をきくな。今のは物見だ。お前達の一挙一動、口のききかたで、こちらの様子が敵に知られることを知らんのか、馬鹿めが」同心らしい武士が若者達を叱り飛ばした。

 上杉軍の最前戦、清野の柿崎和泉守の陣屋に物見の者が帰って来た。
「申し上げます、武田の最前戦は鉄砲衆により固められているかと思われます」
「ご苦労である。何でも良い見てまいれ、次の物見、出発せい」
 上杉軍の物見は昼の内は、入れ替わり立ち替わり出掛けて行った。
 両軍は夜になると相変わらず篝をたき、きびしい警戒は八夜も続いた。
 九日目の朝、海津城の広間に全諸将が集められ軍議が開かれた。
 信玄は諸将の意見をじっと聞いていた。
 諸将のほとんどが決戦に賛成だった。
「よし、皆の心が決戦ときまれば、儂も心を決めよう。先刻決めた手筈通り決行する。守友、戦勝を祈って酒の用意じゃ」信玄は三枝守友に命じた。
 守友が広間を立っていった。
 用意されていた酒肴が運ばれ、将達は祝宴を開きながら打ち合せをした。
 信玄はは奥の間に荻原弥右衛門を呼んだ。
「弥右衛門、宗智の処に使いじゃ、明朝、上杉勢が善光寺平の西を北上と見たら、村人を茶臼山に逃がせ。東を北に市村の渡しに行くと見たら八幡原で合戦じゃとな、これよりすぐ立て」
「承知仕りました」荻原弥右衛門は奥の間を下っていった。
「昌次、参れ」
「はい」と返事が聞こえて、奥近習の金丸昌次が入って来て控えた。
「軍配を持って参れ」
「どちらの軍配に致しましょうか」
「梵字の軍配じゃ」
 昌次が梵字の鉄軍配を持って来た。
 信玄はその軍配を取ると星を配した面を上にして、
「昌次、明日は合戦じゃ、恐ろしいか」
「はい」
「正直でよろしい。初陣の時は皆そうじゃ、勝負に勝つ方法を教えてやろう、もっと寄れ。よいか、この星の中から破軍星を求め、破軍星を常に後盾にして掛け合いをすれば必ず勝てるという方法じゃ。破軍星の求め方はな、自分が勝負をしようとする時刻、明日は辰の下刻(午前八時頃)だから、この十と書いてある星に、今は九月だから、一つ上がったこの星の方位、巳の方位とすると、八幡原から巳の方位は、昌次、どちらじゃ」
「金井山の方角です」
「そうだ、金井山を後にして陣形を備えるのだ。勘介を呼べ」
「はい」昌次が勘介を呼びに立っていった。
 信玄は星を指で数えながら、
「卯の刻(午前五時半)に仕掛けると、上杉が引いて八幡原に来るのは早くて一刻か(二時間)やはり辰の下刻だ」一人呟いている信玄の元に勘介が入って来て控えた。
「勘介参りました」
「八幡原の陣備えの事だが、金井山を後ろに陣備えをするのだ。よいか金井山を常に後にして戦う。妻女山を攻める時刻は卯の中刻にせよ。この事を高坂に伝えておけ。それから今の中に休んでおくように、それとなく全軍に伝えよ。敵の物見や忍びの者には気付かれぬ様致せ。そちも少し休め。儂も少し休むが、用が有る時は遠慮せず起こせ」
「はい、そう致しまする」
 勘介が下がって行くと、信玄は横になって寛いだ。
 まだ昼前なのに眠くなった。
 昌次が枕を持って入って来て、信玄の頭にあてがった。
「昌次か、少し腰を揉んでくれ」
「はい」昌次は後に廻って信玄の腰を揉みはじめた。
 信玄は黙って眼を閉じた。

 日向玄東斎は、喜助の家の土間を棒につかまりながら、先程から何辺も歩いていた。
 竜の興奮した吠声が聞こえた。
 玄東斎が表に出て見ると、宗智が馬から下りて母屋の方にやって来るところだった。
「もう歩けるのですか」
「これは宗智様。久し振りに土の上を歩いてみた。この分だと大丈夫です」
 二人は縁側に腰を下ろした。
 宗智はあたりを見回して、
「誰もおりませんね」
「儂一人です」
「先程海津城から使いの者が来て、合戦は明朝です」
「いよいよやりますか。御旗本は」
「八幡原。宗智様、お願いがござる。儂を今日中に八幡原にお連れ下さらんか」
「何故ですか、此処に居ると危ないので玄東斎殿を連れに来たのですよ」
「儂は今度しくじりをしました。腹を切って御屋形様にお詫びしなければならなぬ身、私は御屋形様の楯になるつもりです。けして足手まといにはなり申さん。宗智様お願いだ」
「そのような事をすれば、拙僧が御屋形様からお叱りをうけます」
「歩けなくとも戦える。頼む、それ奥を見て下され」
 玄東斎が障子を開けて奥を指さした。
 胴と槍がそこにあった。
「あれはどうしたのですか」
「喜助さんから貰った。綾さんも伜の嫁にもらい受ける事に決まった。もう何も思い残す事はない。御屋形様の為に思う存分戦える。だから頼む」
 玄東斎は死ぬつもりだと宗智は思った。
「それなら良い事が有ります。八幡原に行きましょう。すぐ支度をして下さい。話しは行く道でします」
「本当ですね、それは有りがたい」
 玄東斎は痛む脚も忘れたように家の中に走り込んでいった。
「竜、いよいよお前の働く時が来たぞ」
 宗智は、竜に遣縄をつけた。
 犬は興奮して前脚に力を入れ土を掻いた。
 それから半時のち玄東斎を馬に乗せた宗智が、八幡原に向かって善光寺平を横切って行った。
「八幡原の飯富衆が布陣した処に、人一人座って入れる位の小さな祠ほこらが有ります。玄東斎殿は、其処にて夜を明かすと良いと思う。夕飯と朝飯はに握り飯にして竜に運ばせます。それを食べて下さい」
「竜が運びますか」
「習らしてあります。私は今宵東福寺におります。東福寺と八幡原は半里の道のり。犬が走ればすぐです。大事な事は、上杉軍の動きを犬に運ばせます。玄東斎殿は、それを手に入れ、御屋形様にお知らせする。どうです。それなら御屋形様もお許しになるでしょう」
「それは良い案だ。だがその様にうまくいきますか」
「手初めに握りめしを運ばせます。犬が着いたら、誉めてやって下さい。それから、行けと東福寺の方角を指差せば、犬は走って戻って来ます。上杉の動きを知らせる方法は、犬の首輪に小さな袋を付け、袋の中に書き付け代わりに槐の木の実を入れましょう」
「槐の実はどの様なものですか」
 宗智は腰袋から一つ出して玄東斎に手渡した。
「これが槐の実です。私は血止薬に何時も持ち歩いています」
「儂が飲んだのもこれで」
「そうです。玄東斎殿は妻女山をよく知っておられますか」
「残念ながら知りません」
「上杉軍の旗本がいる処は、千人位しか布陣することが出来ない小さな山です。大部分の兵は山下に布陣しています。明日お味方の一手が妻女山を攻めます。騎馬戦法を得意とする上杉軍は千曲川を渡って善光寺平に必ず出て来るでしょう。あの付近の渡しと言えば、滑火の渡し、赤坂、雨宮の渡しの三ケ処しか有りません。いづれを渡っても東福寺あたりで上杉軍は陣を立て直すでしょう。その後どう出るかがお味方の旗本は知りたい処です。東福寺の拙僧なら、とがめられずに情報を手に入れる事も出来ます。上杉軍が北東、即ち八幡原方面に向かうと見たら槐の実を一つ、北西に向かうと見たら二つ入れます。槐の実は真ん中にくびれがあるから間違いのないようにして下さい」
「分かりました」
「もう八幡原に来ましたよ。この土塁は飯富衆が築いたものです。祠はあれです。お味方のお旗本は此処に陣を構えるでしょう。さあ下りて下さい手を貸しましょう」
「宗智様、申しわけ無い、無理を申して」
「祠まで行って見ましょう」
 二人と一匹は祠の処まで歩いて行った。
「神様、この私に一夜の宿をおかし下さい」玄東斎は祈ってから、祠の戸を開けて見た。
 奥に男根の形をした小さな石が一つ置いてあった。
「玄東斎殿、今の中に休んでおきなさい。竜よ、行くぞ」
「宗智様、犬の知らせを待っています。気を付けて行かれよ、竜、必ず来るのだぞ」
 玄東斎は馬をつなぐと槍を杖に、宗智と犬が見えなくなるまで、いつまでも立ちつくしていた。
 犬が道に迷わず来るであろうか、途中で敵に殺されないだろうか、そして、喜助の留守に書き置きもせずに出て来た事を後悔した。
 もうこれ切り喜助にも綾にも会えないような気がした。
 もし生きて帰る事が出来たら、伜伝次郎と綾との祝言の事を、御屋形様にお許しを戴かねばなるまい。
 御屋形様はお許し下さるだろうか、玄東斎は一抹の不安を感じた。
 新津から甲斐に来て何年になるであろう。
 今川軍一万五千が甲斐に攻め込んだ時の事を思い出した。
 あの時武井紅右衛門様に色々面倒を見てもらった事、今もはっきり覚えている。
 紅右衛門様が生きて居られたならば、此の戦の軍師として活躍なさるであろうと思った。
 静かな八幡原に秋風が吹き抜けていった。

三 川中島決戦

 九月九日、奥信濃の山々は色付き始め、妻女山に布陣した上杉勢の士気も衰え始めていた。
 八月十六日妻女山を占領してすでに二十四日の布陣である。
 兵糧は残り少なく、信濃の冬が刻々と近付きつつあった。
 謙信は琵琶を傍わらに置くと、集まった諸将の方に向き直った。
「皆が集まった処で、今から最後の談議をする。今日一日武田の動きを合わせ見ると、どうやら明日朝、この妻女山を攻めると見た。敵は軍勢を二分して、一手を妻女山に、信玄の旗本は善光寺平に陣を取り、啄木鳥戦法で我らを待ち受け、両方より挟み撃つ所存と見た。武田は二分する。この機を逃せば、信玄の旗本と合戦することは二度と出来ない。予は信玄と数年前から度々の合戦において、何時も遅れをとった。明日の合戦こそ、我らが先んじて信玄と組み合って差し違えるか、無事にするか、二つに一つの合戦だ。食糧も残り明日迄だ。死ぬつもりで戦ってもらう。さて、策だが、今宵我が軍がこの妻女山にいるかの如く見せかけ、百の兵を残し、全軍亥の刻(午後十時)妻女山を引き払う。敵の旗本はおそらく八幡原に布陣するであろう。敵が陣形を備える前に我らの方から攻める。直江大和は小荷駄衆を連れ、合戦が始まる前に犀川を渡れ。我が旗本と見せかける為、旗差指物を諸将より預かって行け。敵の旗本はさらに二分して、我が小荷駄衆に襲いかかる。其の折りを見逃さず我が主力が敵の旗本を突く。甘粕近江の千は後備え、妻女山より追討して来る武田軍を滑火の渡にて阻止せよ。我が旗本の先手は柿崎和泉、異存ある者は申してみよ」
 誰も異義を申す者はいなかった。
「異存なくば直ちに支度に、その前に戦勝を祈って祝いの酒をくみかわそう」
 諸将一同は用意の酒を柿崎和泉の音頭で上げた。
 たなびいていた薄い雲が晴れ、九月九日の半月が松枝の間から差し込んで、妻女山はいつになく冷えて来た。
 謙信は、一人帷幕から出て指揮所に立って海津城を見下ろした。
 昨夜と同じ篝火が見えた。
 遠く越後の空に星が流れて消えた。

 宗智は犬の吠声を聞いて眼を覚まし、寺の表廊下に出て妻女山の方を見た。
 篝火は宵の口と変わりなかった。
 竜が門の外に向かってしきりに吠え続けている。
 宗智は支度をし、犬に遣縄を付け門の外に出て見た。
 竜は西の方に宗智を引っ張って行った。
 八町程行った時だった。
 少し先の道を長い軍団が音もなく半月の明かりの中を動いている。
 宗智は竜の口に口輪をはめると草叢の中に身を隠した。
 長い軍列は八幡原の方角に動いているのが、はっきり分かった。
 宗智は変だと思った。
 使いの弥右衛門は、攻めるのは卯の刻(午前六時)だと言ったが、もしや、謙信はそれを察知して、その裏をかいたのだ。
 此の事態を一時も早く海津城に知らせねば。
 宗智は竜を引っ張るようにして寺に走り、紙片に一筆書くと、それに槐の実を一つ包み、用意してあった小さな袋に入れ竜の首輪に結わえ付けた。
「竜、玄東斎だ。行け、行け」と門の方を指差した。
 竜は一声残して寺から走り出ていった。
 宗智が確かめに門前まで行くと、
「止まれ!来過ぎた。滑火の渡に入るには四町程上がった処だ」門前で騎馬武者が後ろの者達を指揮していた。
 宗智は驚いて、そっと門蔭に身を隠して様子を伺った。
 騎馬武者が引き返して行くと、その後に長い軍列が付いて行った。
 七、八百人位の一隊で一番最後の百人位は鉄砲をかついでいた。
 滑火の渡しに陣取って、妻女山より追討のお味方衆を阻止するのだな。
 宗智は咄嗟にそう思った。
 知らずに川を渡って来るお味方は狙い撃ちされる。
 これは大変だ。
 早く手を打たねば、妻女山を襲ったお味方は卯の下刻(午前七時)頃には川を渡るであろう。
 それまでに何とか、宗智は一隊をやり過ごすと、寺にかけ込んで行った。

 上杉軍本隊は、八幡原の西、戸部の原に陣取って、夜が明けるまでの三刻(六時間)兵を休ませていた。
 謙信は急こしらえの帷幕の中で楯に体を横たえて仮眠した。
 其処は見たこともない場所であった。
 丸い大きな雲のようなものが見え、その中に自分は立っていた。
 遠くに毘沙門天が黙って立っていた。
 自分は毘沙門天の傍に行こうと雲の中を泳いだ。
 毘沙門天は自分に気付かず黒犬の頭をなぜていた。
「犬だ、犬が帷幕の中に入っていくぞ!」
 叫び声に謙信は仮眠から覚めた。
 夢の中で見た犬と同じ黒犬が、謙信が起上がったので驚いて帷幕から走り出て行った。
 謙信はまだ夢を見ているのではないかと思った。
「ほら、又こっちに来た、しぃ!」
「捕まえろ」近習等が騒いでいた。
 謙信は素早く立ち上がると帷幕の外に出て見た。
 近習達が黒犬を捕らえようと追いかけ廻していた。
 竜であった。
「犬を捕らえるな、犬は毘沙門天の使いぞ」謙信が叫んだ。
 近習達は一斉に謙信の方を見た。
 竜は帷幕の隙間を見付けてそこから逃げていった。
「犬は毘沙門天が遣わした道案内じゃ、今、余は夢を見ていた。夢の中に毘沙門天が現れて、あの犬と同じ犬だった。犬はいずこに行った」
「は、味方の中をうろ付いておりましたが、八幡原の方角に走って行き、見えなくなりました」近習の一人が帷幕の外から入って来て告げた。
「我らの後ろには毘沙門天がいる。今の犬は八幡原に信玄が居ることを教えに来たのだ。明日の合戦は勝ったも同然。御旗を立てろ」
 旗奉行が毘の旗をかかげた。
 霧が帷幕の中に迄流れてきた。

 玄東斎は寒さで脚がうずいて痛く眠れなかった。
 祠から出て夜空を見上げた。
 霧の中でも月の位置がかすかに読み取れた。
 丑の刻(午前二時)頃だと思った。
 寒いので体を動かした。
 一生懸命動かすと脚の痛みが少しずつ消えていった。
 動きながら犬の啼く声を聞いたような気がして動きを止め、声の方に気を集めた。
「竜、竜」と二度呼んでみた。
 茂みの中で竜の吠る声がして、玄東斎の方に黒いかたまりが突っ走って来た。
 竜であった。
 玄東斎はその場にしゃがんだ。
 竜はその胸にとび込んで来た。
「よしよし、やはりお前だったか、よく来たな」玄東斎は竜を抱いた。
 そして首輪の袋を握って見た。
 紙片の音がして、槐特有のくびれた実が一つ入っていた。
 玄東斎は瞬間緊張した。
 急いで袋の中から紙片と槐の実を取り出すと確認した。
 受け取った証しの小石を一つ入れて、「よし、行け!」東福寺の方角を指差して言った。
 竜は一声吠え、薄暗い霧のなかに見えなくなった。
 玄東斎は紙片を開けて見たが、何が書いてあるのか見えなかった。
 槐の実はたしかに一つであった。
 朝やってくる筈の上杉勢が此方に向かっている。
 どうした事だ。
 謙信はお味方の動きを察して裏をかいたのだ。
 瞬間そのことが閃いた。
 お味方が攻撃しても妻女山はもぬけの空だ。
 海津城の御屋形様にこの事を早く知らせねば。
 玄東斎はあせった。
 お旗本が来る迄まだ二刻(四時間)ある。
 今からでも遅くないと思った。
 玄東斎は祠まで行き槍を持つと、馬の繋ぎ場まで行き、槍を杖にして馬に乗ると広瀬の渡しの方角に走った。
 広瀬の渡しに入ろうとした時だった。
「待て!」と呼び止められた。
 玄東斎は止まって後を振返った。
 霧の中から二騎が出て来た。
 瞬間上泉兄弟が閃いて戦慄が走った。
「何処の者だ」後ろの一騎が言った。
 玄東斎は瞬間迷ったが、「土地の百姓だ」と答えた。
「武田の物見だ、斬れ!」
 玄東斎はその声をはっきり聞くと馬を川の中に乗り入れて、向きを変えると敵と向かい合って槍をかまえた。
 追ってきた二騎の水音が近付いて、刀をふりかぶった黒い影が現われた。
 玄東斎はすかさず槍を突き出した。
 手ごたえがあった。
 力一杯い槍を引き抜くと、落馬した敵が鈍い水音を発てた。
 弾みを食った玄東斎は足に力が入らず落馬仕掛けたが、槍の石突を川底に立て、辛うじて体位をたて直した。
 二騎目の黒い影も刀をふりかぶり、馬から身を乗り出して玄東斎めがけて斬り下ろした。
 瞬間、その武者が悲鳴を上げて槍もろとも水中に落ちた。
 上にはね上がった槍の石突を素早く掴んだ玄東斎は何が何だか分からぬまま槍を引き抜いた。
 浮かんできた二騎目の敵は顔を押さえながら流れの中に消えて見えなくなった。
 自分から玄東斎の杖がわりの槍に顔を刺して落ったのだ。
 危機を脱出した玄東斎は運がいいと思った。
 主を無くした二頭が元来た岸の方に上がって行く水音がした。
 玄東斎は急いで浅瀬を渡って行った。
 行く先が橙色にうすぼんやり明るかった。
 海津城の篝火だと玄東斎はすぐ分かった。

 玄東斎の知らせを聞いた信玄は、妻女山の裏山と表口に使番を走らせると、海津城を出て広瀬の渡しに向かった。
 すぐ後ろに付いて来た玄東斎に気付くと、
「玄東斎、その足では無理だ。城に戻り小荷駄の手伝いをせい」
「はい」玄東斉は無念であったが、一兵でも欲しい決戦を前にして、自分を気遣ってくれる信玄の気持ちが嬉しかった。
 玄東斎は川岸で馬を止めて、お旗本をいつまでも見送っていた。
 風林火山の旗も、御屋形様の姿も川霧の中に消えて見えなくなった。
 御屋形様、お無事で、南無観世音菩薩、甲斐軍の勝利と、御屋形様をお守り下さい。
 玄東斎は武運を祈りながら何時までも立ち続けていた。

 赤坂の浅瀬を向こう岸に渡った宗智は、妻女山口に一番近い滑下の渡し迄河原を下り野良道に出ると、田圃の稲架けの中に乗り馬を隠し、辺りに気を配りながら妻女山の入口まで忍んで行った。
 まだ辺り一面篝火が燃え、上杉の全軍が居るように見せかけてあった。
 二人の兵が篝から篝に薪を入れ歩いていた。
 他に人馬の姿は見えなかった。
 百人位は囮の兵が残っていると宗智は思った。
 妻女山に登るのは危ないと思った宗智は稲架の処に引き返そうとした時、馬の鼻息を聞いてその方を見た。
 百足の旗指物を背にした一騎が妻女山の入口に入ろうとした。
 宗智は走り出て行って馬の前に両手を広げて阻止した。
「何者」百足の武者が咎めた。
「お味方です。妻女山には囮の兵がいます。今登れば見つかる。付いてこられよ」
 宗智は先に立って稲掛けの方に行った。
 使番は黙って宗智の後ろに付いて来た。
 稲架けの陰に来ると、
「ここなら敵に見付かる事もない。急ぎ知らせる事がある。その前に姓名をうかがおう」
「真田一徳斉の二男、真田昌輝、急ぎの知らせとは」
「真田殿の一党か、よかった。お味方に火急に知らせなければならぬ事故、聞きもらすなよ。この先の滑火の渡しの向こうには七、八百の上杉勢が、鉄砲を構えて隠れている。妻女山から追撃のお味方を阻止する策だ。滑火の渡しは渡らぬよう。その上の赤坂の渡しを迂回が良い。赤坂の渡しは拙僧が見張っていよう。真田殿も高坂殿も道は知っているはず」
「かたじけない、貴僧のお名前は」昌輝は若いに似合わず落ちついていた。
「武田宗智、またの名を犬連れ和尚、裏山のお味方は、上杉勢が妻女山にいない事をまだ知っていない。知らせる策はおありか」
「裏山にも使い番が行きました」
「それなら此処にて待っが良い。霧が上がればお味方は此処に必ず出てくると思われる。それより川向かいの阻止勢を、あの場に釘づけにするには、こちらも囮を使って、お味方を一時も早く迂回させなければ、八幡原の旗本が危険だ。では赤坂の渡しで又お目にかかろう。気を付けられよ」宗智は稲架けの中から馬を引き出すと、赤坂の渡しの方に走っていった。
「御坊も気をつけられよ」昌輝の声が聞こえた。

 一方、八幡原に着いた信玄は、馬から下りると三枝守友の案内で二重にめぐらされた楯の間を通り、金井山の方角に背を向けて立った。
 近習が床几をそこに置いた。
 信玄は腰かける前に、辺りを見回した。
「御屋形様、慌てたので帷幕を忘れました。申し訳有りません」
「勘介、気にするな。霧の幕があるではないか。滞陣の時は帷幕も必要だが、合戦の時は幕が無い方が良い。これからもそう致せ、各衆の備えは」
「昨日決められた通り、各衆は備えについております」
「霧で何も見えぬな。昌次、守友、どこにおる」
「はい。三枝守友ここに控えて居ます」
「金丸昌次もここに居ます」
 霧の中から二人の声がした。
「そこでは見えぬ、もっと近くに居れ」
 二人は信玄の手の届く処まで寄って控えた。
 信玄が床几に腰かけると、守友が水晶をはめ込んだ軍配を差し出した。
 信玄は受け取りながら、昌次を見た。
 昌次は信玄の槍を持って、口を一文字にむすんで控えていた。
「昌次、肩の力を抜き、楽にしておれ、戦は明るくなって霧が晴れた時だ」
「御屋形様、お味方に手抜かりが有ったと思われます。それ故敵に裏をかかれました。申し訳有りません」
「悔やむな勘介。そちのせいではない。景虎(謙信)は並の武将ではない。あの若さでたいした者よ。霧が晴れれば、敵の後に味方がいるかも知れぬ。囮兵にやられぬ様、真田の倅を使いに出したのだ」
「はい。お味方が千曲川の渡しで阻止された時は如何に致しましょうか」
「こちらより仕掛けず、時を稼ぐしか有るまい。物見を出せ」
「はい」三枝守友が腰を上げた。
「待て、守友、その方の、いや室伏の若者を呼べ」
「はい」守友は両手を口に当て後ろの霧の中に向かって叫んだ。
「三枝政長、武井政介、御大将の御前に」
 霧の中から「はい」と少年のような大声がして政長と政介の二人が走って来て信玄の前に畏まった。
「物見を命ずる、お前達二人して、千曲川の川沿いに滑火の渡しまで行き、お味方が無事に渡るか見てまいれ、河原を走るのは得意であろう」
「御大将、そのお役目、荻原弥右衛門仕ります」
「おお弥右衛門、そちはここに居れ、大丈夫じゃ、言い度い事があればこの場で言い聞かせおけ」
「はい。それでは御前にて失礼仕ります。政長、政介、よく聞け。物見を仰せつかる者は同心以上の者。初陣にて仰せつかりし者は今だかって無い。この上もない名誉ぞ。敵と出会った時は身を隠せ。初陣の手柄になどと思うな。物見だけに心を集めよ。場合によっては逃げても恥にならぬ。心して行け」
「はい」二人は一礼して霧の中に走って行った。
「まだ物見などの心得、教えておりません。失礼仕りました」弥右衛門は信玄に深々と頭を下げた。
 一門の名誉、感無量であった。
「勘介、味方が来ぬ中に上杉は仕掛けて来るぞ。その事も考えておけ」
「はい。鉄砲と弓で敵の出鼻を押さえます。近付く敵には槍ぶすまで時をかせぎ、お味方が見えた時、銅鑼と法螺貝を合図に、一斉に出て敵の旗本を突き崩します」
「各衆に今一度念を押しておけ。特に義信には功を急がず、じっと耐えろと申しておけ」
「はい。仰せの通り、これよりただちに」勘介は霧の中に消えていった。
 九月十日の朝が白々と明けて来た。
 武田軍の陣地は嵐の前のように静かであった。
 信玄は、此の様な時、紅右衛門が居ってくれたらと思いながら辺りを見回した。
 幕を張ったような霧は重く垂れ込め側近だけしか見えなかった。
「浦野幸次をこれに」信玄が言った。
「はい」使番が走って行った。
 入違いに山本勘介が帰って来た。
「勘介戻りました。霧が晴れぬ中に前方を見て参ります」
「そう致せ。犀川の方には浦野幸次をやる」
「浦野民部お召しにより参りました」浦野幸次は半弓をたずさえていた。
「浦野の半弓大弓より強い、その弓か幸次、物見じゃ。勘介が前方を見に行く。その方、この右の方角に行け。霧が晴れぬうちに見てまいれ」
「はい。物見仕ります」幸次は楯の間を、馬置場の方に走って行った。
 馬のいななく声が聞こえて来た。
「馬係りは馬から離れるでない。敵の忍びが居るかもしれんぞ。馬の耳に砂でも入れられてみろ、一騒動だ」後方からから大きな怒鳴り声が聞こえた。
「あれは初鹿野源五郎の声だな」信玄が守友の顔を見た。
「はい、初鹿野殿です」
「守友、源五郎を近くに呼んでおけ」
「昌次、呼びに行って参ります」昌次は槍を守友に預けて、後ろの方に走っていった。
「昌次め、小便したくなったのだ。守友、今の中だぞ、そちもしてこい」
「御大将は」
「儂は此処でやる。霧で迷うといけんから」信玄は方便で答えた。

 霧の中を河原に出た政長と政介は、用心深く、川上に向かって小駈けで行った。
 川が大きく曲がった処に来た時、岸の草むらの中で何かが動く気配がした。
 先頭の政長が、素早く反対側に横乗りで身を隠した。
 政介もそれに習った。
 政介は馬の腹ごしに草むらの方を見た。
 武者らしい影が見えた。
「くろ、くろずみ、わしだ。眼が見えぬ、くろ此処まで来い。わしだ」
 武者が一人眼を押さえ、片手で霧の中をまさぐって立っていた。
 政長が止まらないので政介も走り抜けた。
 しばらく行った処で政長が馬を止め用心深く正乗した。
 政介が追い付いて、
「今のは敵の物見かな」政長に聞いた。
「お前も見たか。盲の武者が馬を探しているようだった」
「うん、眼をやられて迷っているのだ」
「おれ達に気付いたかな」
「蹄の音を聞いて自分の馬だと思ったのだ。目が見えなければおれ達が見える筈がない」
「それもそうだな。いそげ霧が晴れたら合戦が始まるぞ」
 二人は渡しの方角に急いだ。
 霧が薄くなり明るくなってきた。

 一方浦野幸次は林の窪地に身を低くして、息をころしていた。
 半町程前を犀川に向かって長い軍列がゆっくり通過して行く。
 人と人の間隔が開いて、多数の騎馬が続き、馬上の武者はどれもこれも派手な具足を着て、旗指物や、幟が数え切れない程、薄ぼんやり見える。
 上杉の旗本だ。
 早く知らせねば、幸次は窪地を這出ると、馬を繋いである処まで一気に走り、八幡原に向かって疾走した。
「止まれ!犀川は目の前だ。此処にて武田軍を引き付けるのだ」上杉軍の小荷駄隊を指揮する直江大和守であった。
 直江大和は軍列の先頭に向かって馬を走らせた。
 軍列は動きを止めた。
 先頭まで行った直江大和が叫びながら又引き返して来た。
「武田の追手が見えるまで此処に止まり時を稼ぐ。敵が見えてから犀川を渡る。列をみだすな」直江大和は、同じ事を叫びながら列の後方に走った。
 その小荷駄隊から少し離れた処に、忍びの者らしい一隊が慌ただしく動いているのが対照的であった。

 物見から戻った幸次は、信玄の前に畏まって報告した。
「申し上げます、上杉軍は犀川に向かって引いております。騎馬の数、旗、幟りの数から見れば上杉の旗本に違いないと見ました」
「何、景虎が引いている?、何かの見間違えであろう。景虎ほどの者が武田を前にして、おとなしく引き揚げる筈がない」信玄は不審に思った。
 其処に山本菅助が走って来た。
「申し上げます。これより西、約半里の処に上杉の主力約一万、各隊を縦長に配置しております。お味方の姿迄は霧にて見通し出来ません」
「幸次は上杉の旗本は犀川に引いていると言ったぞ」
「それは直江大和が率いる、軍役衆の小荷駄隊で、見せかけの軍です」
「そうであろう。敵は得意の車がかりだ。勘介、直ちに鶴翼の構えに変える。霧が晴れぬ内に急ぐのだ」
「百足衆は御大将御前に」勘介が叫んだ。
 十二人の使番が、後ろから走り出て信玄の前に控えた。
「これより鶴翼の構えに変更する。打ち合せの通り直ちに掛かれ」勘介が大音声で叫ぶ。
 それを聞いた十二人の伝令が散っていった。
 妻女山を攻めた味方がまだ来て居らぬと察した信玄は、攻めの魚鱗の構えから、守りの鶴翼の構えに変えたのである。
 信玄は右翼を見た。
 先端の諸角衆は配置に付いていたが、中間の義信と望月、浅利の各衆は移動の途中で接触して時間がかかった。
 信玄は焦る気持ちを押さえて左翼を見た。
 原衆は騎馬だけが配置に付いていたが、徒の者は走っている途中で、信繁の衆はまだ騎馬衆も予定の処に見えてなかった。
 霧が晴れてきた。
 龍の旗を先頭に押し立て、柿崎和泉を先鋒隊とする上杉軍の一陣が眼前に迫って来るのが見えた。
 上杉軍後方の陣から合図の法螺貝が鳴った。
 約四十騎の長い騎馬縦隊が武田軍の中央に向かって攻撃して来た。
「槍ぶすまをつくれ。鉄砲と弓用意。合図するまで撃つな」飯富三郎兵衛が叫んだ。
 その時、内藤衆の左側の鉄砲隊が一斉に砲火をあびせた。
 左翼の信繁の鉄砲隊がそれに合わせて一斉に撃った。
 射程距離外だったので鉄砲は空しく空を撃っただけであった。
 先頭の柿崎和泉は、目標である信玄の旗本の前に備える飯富の鉄砲が火をふかないのを見ると、近寄ると危ないと見て、硝煙が消え残る信繁衆八百に向かって槍先を向けた。
「引くな。弓は前に」信繁が叫んだ。
 しかし、その声は柿崎隊の喊声と馬蹄の音に掻き消され、弾こめの為に後方に引こうとした鉄砲隊と弓衆が接触し、右往左往している最中突っ込んできた敵に蹴散らされ、突かれて崩されていった。
 上杉軍の騎馬隊は馬を止めることなく、突いては右に引き、新手が又突いて来て車の車輪が回る如く攻撃の手をゆるめなかった。
 飯富と穴山衆の鉄砲の届かない処で敵の攻撃が続いた。
「畜生!忌々しい」勘介は地団太を踏んで悔しがり、前方の敵を睨んだ。
 信玄は床几に掛け、全戦場の動きを見守っていた。
 信繁の鉄砲隊と弓衆の後にいた長槍衆がやっと槍ふすまをつくり、守りの体勢が整った時には、多数の死傷者が出ていた。
 飯富衆の左陣から鉄砲衆が駆け付けて、向かって来る新たな敵に一斉射撃をした。
 硝煙の透き間から上杉軍の騎馬武者八、九人が落馬したのが見えた。
 穴山衆右陣の鉄砲衆も駈けてきて、飯富の鉄砲衆と入れ変わり、狙いを定めた。
 勘介は左右先端翼の構えが整ったのを見届けると旗本に走った。
「御屋形様、鉄砲が届かぬので残念です。見兼ねた飯富、穴山の鉄砲衆に助けられて、信繁様なんとか持堪えております。鉄砲のとどく処まで両翼をせばめては」
「勘介、右手奥を見ろ。上杉の二陣が機をうかがっている。味方が動くのを待っているのだ。今動いてみろ、上杉のえじきだ。これ以上攻めれば、あの二陣は味方右翼の、後へ回わるぞ。高坂が見えるまで、今のまで持ち堪えるのだ」信玄は落ち着いて言った。
 その時、東福寺の方角で、大きな砲声が轟いた。
 信玄と勘介は同時に東福寺の方角を見た。
 妻女山を下って来る味方の旗が小さく見えて来た。

 政長と政介は、滑火の渡しが見える草叢に身を潜めて渡しの方を伺っていた。
 川向こうに六紋銭の旗を中心に真田衆八百が出たり引いたりしているのが見える。
 川岸まで出張って来ると、こちらの岸から甘粕の鉄砲隊が一斉に撃ちだす。
 その様な事を先程から繰り返していた。
「政介、上流を見ろ、くちばの四方の旗が渡っていくぞ」
「あれは赤坂の渡しだ。お味方だ。あれは高坂衆だ」
「白地に黒山道の旗は」
「馬場衆だ。見ろ、赤備が見え出した。飯富衆だ」
「政介、妻女山の方を見ろ、お味方がぞくぞく下りて来る。この前の真田衆は味方を迂回させる為の囮だ」
 八幡原の方角から政め太鼓と法螺貝が一段と激しく鳴り、鬨の声が聞こえて来た。
「政長、行くぞ。お味方が来たことを御屋形様に知らせねば」
 二人は馬を隠してある草叢に走り馬に飛び乗るや、八幡原に向かって疾走した。

 上杉軍第一陣の攻撃が終わり、後方にいた第二陣の縦隊が内藤衆千人に向かって突撃して来た。
 白地に胴赤の旗下にいる内藤昌豊が采配を腰に差し込むと徒卒からの長槍を受け取った。
「鉄砲用意。弓衆は矢を番へ。長槍隊は鉄砲隊が引いたら槍ぶすまをつくれ。まだ撃つなよ。・・・よし今だ撃て!」
 銅鑼を合図に内藤衆右陣の鉄砲が一斉に火を吹いた。
 上杉軍先頭の五、六騎がつんのめる様に落馬した。
 硝煙の中に向かって矢が放たれた。
 一瞬敵は怯んだが、倒れた兵馬を乗り越えた三十騎位が、一度に内藤の槍ぶすまを突き崩に掛かって、崩せず右に回わって引いた。
 次の新手が又突き崩しにかかった。
 その時、見兼ねた右翼の義信衆四百が、鉄砲衆を先頭に上杉の騎馬縦隊の中央に突撃していって、三間位の近い処で一斉射撃した。
 上杉の五、六頭の馬が打たれて倒れた。
 それを見て鉄砲衆は弾こめの為、元の陣に一目散に駈け戻った。
 上杉勢の後ろから来た騎馬が、倒れた馬に追突して崩れた。
 それを見た義信が槍をかまえて突っ込んで行った。
 後に続く五十騎がおくれまいと喚声を上げて突っ込んだ。
 上杉勢第二陣縦隊中央で激烈な戦が展開された。
 孤立した最右翼の諸角衆三百に、上杉勢最後部の一隊が突撃して行った。
 義信主従五十騎が新手の上杉勢に包囲され苦戦を強いられた。
「若君があぶない」浅利信種が叫びながら、義信の加勢に馬を飛ばした。
 浅利衆騎馬百二十騎、徒三百六十人が浅利信種を囲むようにして上杉勢の中に突撃していった。
 浅利衆が離れたため武田の右翼は体形が崩れた。
「義信様あぶない」勘介が叫んだ。
 信玄が床几から立ち上がった。
「馬鹿めが、あれ程出るなと申したのに、勘介、第一陣が体勢を整えて攻めて来るぞ」
「攻めの体勢に変えましょうか」
「敵は旗本をめざして突いて来る。先頭が三郎兵衛の前に来たら左翼が一斉に攻め込む。よいな」
「ほら貝鳴らせ」勘介が大声で叫んだ。
 風林火山の旗が立てられ、法螺貝が攻撃準備を知らせると、武田の左翼は騎馬衆と徒が素早く入れ替わって、攻撃の合図を待った。
 柿崎和泉隊が先頭に、三郎兵衛衆がいる中央に向かって再度攻めて来た。
 三郎兵衛の鉄砲衆が一斉に射撃して引いた。
 上杉勢先頭の三十騎が崩れた。
 信玄の頭上に上げていた軍配が振り下ろされると、武田の攻め太鼓と法螺貝が攻撃を告げた。
 三郎兵衛衆前列の百五十騎が、柿崎隊に向かって突撃して行った。
 信繁の無傷の百五十騎、穴山衆前列百騎、原衆前列六十騎が上杉勢騎馬縦隊の側面に突撃を敢行した。
「三郎、離れるな!」後列の広瀬郷左衛門が横に付いている三郎を見た。
「はい」三郎の顔は引きつっていた。
「よいか三郎、敵の前に回るな。後ろから馬の脚をぶん殴れ。馬が暴れ乗手を落とす。お前はそれを専門にやれ。後は徒の者がやる」
「槍が折れたら」
「刀で馬の尻をたたっ斬れ。刀の時は敵の槍に向かうな」
 攻め太鼓と法螺貝が又鳴った。
 三郎兵衛衆の後列百五十騎、穴山後列百騎、原後列六十騎が攻撃して行った。
 その後から徒の三郎兵衛衆九百、左翼千四百人が鬨の声を上げながら上杉勢の徒の中に突撃して行った。
 敵味方は乱戦で、一万対八千の合戦は次第に個人戦に変わっていった。
 上杉勢第一陣と二陣の中央で指揮していた謙信は、自から旗本八百の先頭に立って、信玄の本陣めがけて突撃して来た。
「鉄砲一の組構え」大兵の初鹿野源五郎が叫んだ。
 信玄は床几に掛けたまま不動の姿勢を崩さず、戦闘の流れを見守っていた。
 廿人衆や、御近習衆達は、信玄を囲んで守りの態勢をとった。
「目標先頭の騎馬武者、撃てい」源五郎が叫んだ。
 二十丁が一斉に火を吹いた。
 耳をつんざくばかりの轟音と、哨煙の前方で上杉軍の旗本と思われる先頭の十騎が、馬諸共崩れた。
 主のいない馬が狂ったように突っ走って行った。
 鉄砲隊一の組が二の組と入れ替わった。
「鉄砲二の組構え。撃てい!」
 続いて二十丁が火を吹くと、何人かの騎馬武者が落馬した。
 上杉旗本勢は倒れた味方を乗り越えて硝煙の中に突っ込んで来る。
「鉄砲弾込め」源五郎が叫ぶ。
「槍前に!」山本勘介が、源五郎と指揮を変わる。
 勘介の指揮する槍衆は敵の騎馬と徒とに対して上下に構え、互いに肩と肩を付け合って人間柵のように一歩も尻ぞかない。
 突っ込んで来た騎馬は前脚を上げて棒立になり、乗り手を落とす。
 上杉の突撃隊も攻めはぐんで、楯の中には一人も入れなかった。
 楯の後方で弾こめをする旗本鉄砲衆は興奮と慌てのあまり、手がふるえて火薬がうまく入らなかった。
 初鹿野源五郎が、その前にあぐらをかいて言った。
「落着いて入れろ、敵は引いて行くぞ」
「これが落着かずにいられようか」誰かが言った。
「おかっさん(女房)に入れる様に落ち付いてやれ」源五郎が余裕を持たせようと言う。
 普段なら此の様な冗談に、どっと笑いが出るのに、それも通じなかった。
 上杉勢の攻めに切れが生じた。
 陣を立て直す為のわずかな空間であった。
 上杉勢が三度目の攻撃をしてくる事は明らかであった。
 武田軍もそれに備えてめまぐるしく動いた。
 上杉の陣から攻め太鼓と法螺貝が鬨の声とまじり合って、八幡原をゆるがしていった。

 上泉信綱と義胤は、金井山の岩の上から眼下千曲川の向こうに、くり広げられている悲惨な激戦を、固唾を呑んで見ていた。
「景虎公もさるもの、三度目の攻めだ。さすが武田、よく持ちこたえている」
「黒地に赤菱が崩されながら引いて来ます」
「武田義信だ。諸角豊後衆も崩された。よく見ておけ、崩されて引けば負けだ」
「黒地に白桔梗、柿崎隊を追い崩していきます」
「白桔梗は武田の飯富三郎兵衛衆だ。まとまって行動している。さすが三郎兵衛」
「柴田尾張守の隊が追われています。追っているのは白地に丸二つ」
「武田の婿、穴山だ」
「上杉の旗本が武田の旗本本陣に突っ込みました。楯の中まで斬り込んで行くのが見えます。あれは景虎(謙信)公では」
「白頭巾の武者か」
「はい。おお、赤い衣に斬りかかっている」
「景虎公がそのような事をするはずが無い。あれは影武者であろう。総大将があのような軽はずみの事をすると思うか。それみろ、逃げ出したではないか。さすが信玄、床几から腰一つ上げない」
「乗手のいない馬二頭、信玄の旗本に向かって走って行きます。それとも忍びの者が乗っているのでは」
「主を無くして暴走しているのだ」
「いや違います。馬からなにやらころげ落ちて、赤衣の前にころがって行きます」
「おお人だ。それも二人、物見の者だ。見事な馬術」
「黒地に白丸の旗は誰ですか」
「黒地に白丸がどうしたのか」
「孤立して囲まれ、苦戦しています」
「武田典厩信繁、信玄の弟だ。大乱戦だ。一対一の個人戦になる。首取りが始まるぞ」
「武田の負けですね」
「まだ分からん、みろ東福寺の方を。武田の新手だ。ものすごい数だ。一万は下るまい」
 くちば四方の旗は高坂衆、白地黒山道の旗は馬場衆、赤旗飯富赤備、白赤段々の旗甘利衆等が先を競うように八幡原に向かって駆けて来るのが見える。
 後続の衆にまじって徒の大集団がその後に続いた。

 政長と政介は、馬からころげ落ちるようにして、信玄の前まで這って行くと膝まずいただけで声が出なかった。
 返り血をあびて真赤の萩原弥右衛門が、
「落ち着いて政長から申し上げるのだ。たりない処を政介が申し上げろ」
「はい。申し上げます。お味方赤坂の渡しを渡り八幡原に向かっております。先頭は高坂衆と馬場衆、赤備衆まで見届けました」
 政長に代わって政介が補足した。
「申し上げます。真田衆は滑火の渡しで敵の甘粕隊の鉄砲に阻止され、お味を迂回させる囮りになっていました」
「聞いたか皆の者、今しばらくの辛抱じゃ。二人共、大儀であった。ここにて負傷者の手当の手伝いを致せ」
「はい」二人は馬の方に走って行った。
「典厩様があぶのう御座います。勘介ご加勢に行きます」
「勘介、死ぬなよ。源五郎、そちも行け!」
「は!」山本勘介と初鹿野源五郎は無傷の手勢を連れ、信繁衆を囲んでいる上杉勢の中に斬り込んで行った。
「守友、三枝新十郎を連れ、川に追い込まれている味方の加勢に走れ。原隼人佐があぶない」
「は!昌次、御屋形様をたのむぞ」三枝守友と新十郎が手勢二十騎、徒五十人を連れ、千曲川に向かって敵を蹴散らして行った。
 信玄は後ろの昌次の方を見た。
 初陣の金丸昌次は信玄の槍を持ったまま落ち着き払っていた。
「弥右衛門、二人を今一度呼べ」
「はい」弥右衛門が後ろに走って二人を連れて来た。
「二人して味方が来たと言いふれて廻れ。やり合ってはならぬ」
「はい。」二人は馬に乗ると乱戦のただ中に走って行った。
「武田の味方が来たぞ!、武田の味方が来たぞ!」
 二人は乱戦の最中を叫びながら馬を並べて走り廻った。
 首の無い武者が散乱して、あたり一面血の海だ。
 手傷を負って逃げる者、それを追う者、首を切っている最中後ろから突かれる者、主を無くした馬が狂ったように、あてもなく暴走し、まるで地獄絵さながらの光景だと政介は思った。
「武田の味方が来たぞ!、頑張れ!」
 二人は、血塗られた人馬の屍が折り重なっている処を飛び越えて、集団と集団が戦っている処を選び、叫びながら走り抜けた。
 千曲川に追い込まれていた味方の一団が勇気付けられて馬首を返し、追ってきた敵に向かって行った。
 立場が逆になった。
 それを見た二人は更に大声で、
「武田の味方がそこまで来たぞ!」と繰り返し叫んだ。
 上杉の騎馬武者が一騎、槍をかざして政介めがけて突いて来た。
「政介あぶない」政長がで叫んだ。
 政介は反対側に素早く身を隠すと横乗りのまま馬を走らせた。
 主の無い馬が政介の馬に一頭付き、二頭付きして後を走って来た。
 政介は走りながら後ろを見た。
 騎馬武者は付き馬に邪魔されて、諦めたのか犀川の方角に走っていった。
「ざまあ見やがれ」政介は余裕が出できた。
「危なかったな政介」追い付いた政長が言った。
 二人はいつの間にか犀川の近くまで来ていた。
「政介、お旗本の方を見ろ、援軍が来ているぞ。向こうを見ろ上杉の奴ら逃げて来る」
「政長、此処にいると危ないぞ」
 二人は林のある方に引き返した。
 二人の前を頭巾の武者が二騎に守られるようにして川を渡って行った。
 川向こうから二十騎位が走って来て、頭巾の武者を包み込むようにして向こう岸に消えていった。
 朝からの激戦で疲れている上杉軍は、新手の武田軍に追い崩されて、次々と討ち果たされて犀川に引いた。
 深みにはまった上杉の武者の中には取った首が重くて、そのまま沈んで流されていった者もいた。
 集団から離脱する者はことごとく武田の新手に倒されて、集団だけかろうじて川を渡って行った。
「追討ち止め。追討ち止め」百足指物衆が叫びながら犀川の川岸を走って行った。
 二人は本陣に戻ろうと八幡原の方角に馬首を返えした。
 右手前方に七、八百位の軍勢が歩調を整えて犀川の方角に来るのが見えた。
 政介はその旗印は見覚えがあった。
「政長、あれは滑火の渡しで、味方を阻止していた上杉の甘粕隊ではないか」
「そうだ。あの旗印は甘粕隊だ。上杉が崩れて引いているのに、何故のろのろしている」二人は不思議に思った。
 よく見ると、隊の後ろの方から六文銭の旗を先頭に真田衆が追撃して来るのが見える。
 真田衆が近付くと、五六丁の鉄砲が轟音を響かせる。
 甘粕の鉄砲隊は歩きながら射撃しているのだ。
 隊は乱れることなく整然と引いて来る。
 今度は高坂衆が鬨の声を上げながら甘粕隊の中央に突撃して行った。
 隊の中央から瞬間砲火と砲声が轟き白煙の幕が出来た。
 やがて白煙は黒煙に変わって流れていく。
 高坂隊は三頭の馬が倒れただけで、黒煙の中に突撃して行った。
 甘粕隊は斬り崩されながらも倒れた者以外は、隊から離脱することなく犀川に向かって行進するのみで、仕掛けて来るのは鉄砲隊だけであった。
 二人は馬を止めて茫然と見ていた。
「一体どうなっているのだ。甘粕隊は降参しているのか」
「政長、左を見ろ。まだ引いている上杉がいるぞ。大勢手傷を負っている」
「そうか分かったぞ政介、あれが殿だ」
「しんがりとは、退却のとき一番後ろで、追って来る敵を防ぐ隊だと聞いたぞ」
「その通り、あれは味方を無事逃がす為のおとりだ」
 二人のすぐ前を高坂の別動衆が突撃していった。
 今度は先頭に近い隊列の中から、先程より激しい砲火と砲声と白煙が同時に起こった。
 味方の三頭が前につんのめり、乗手の武者が空にほうり出されて頭から落ちた。
 味方はそれを乗り越えて黒煙の中に斬り込んで、激しい激戦が続いた。
 味方の徒の者達が走って行き、落ちた武者をかかえ起こして後方へ引いて来る。
 二人は又犀川の方に引き返して行った。
 甘粕隊は、高坂衆に斬り崩され、真田衆に突き崩され、残り少なくなったが、甘粕近江を中心に、ひとかたまりになって乱れず川を渡って行った。
「追討ち止め。追討ち止め」百足衆が叫びながら又走って来た。
 もう犀川を渡って行く上杉の兵は一人もいなかった。
 二人は甘粕が川向こうに見えなくなるまで見ていた。
「政介見たか」
「見た。殿はみじめだな」
「政介、行くぞ」二人は八幡原に向かって走りながら、敵、味方の戦死者が累々と倒れているのを見て行った。
 鎧武者は首が無く、徒の兵達の中にも首が付いていない者も居た。
 負傷した者に肩をかして引き上げて行く味方を何組か追い越して行った。
 肩に白い布を付けた味方の戦死者の数が、八幡原が近くなるにつれて多くなった。
 味方は兵に至るまで首が付いていなかった。
 政介が馬から下りて、うつむきに倒れている兵を上向きにした。
 首の無い若い兵であった。
「三郎でなくて良かった」政介は政長の方を見て首肯いた。
 二人共同じ事を考えていたのだ。
 血生臭い匂いが鼻をついた。
 戦の惨めさを十分味わった二人の感情は麻痺したように、悲しくとも惨めとも、何の感情もわいてこなかった。
 八幡原の陣には、引き上げて来た味方が本陣の周りに集まって休んでいた。
 傷の手当てを受ける者、疲れてぐったりしている者、旗本組でも手傷を負ってない者はいない位で、二人は片身の狭いような思いで本陣の後ろの方に馬を引いて行った。
 信玄が義信を前にして激怒していた。
「あれ程出るなと申しておいたのに、何故儂の言う事を守らなかった。見ろ。旗本は総崩れだ。自分のやった事が分かっているのか。味方を危機に落とし入れた責任は腹を切った位ではすまされぬ。義信、そこに直れ。この儂が成敗してくれる」信玄が刀の柄に手をかけた。
 飯富兵部虎昌が義信を背に信玄の前に両手をついて、
「お待ち下さい。御屋形様。若君をお切りになる前に、この虎昌をお斬り下さい」
 信玄は思いとどまった。
 義信は、この様に怒った父を見るのは初めてであった。
「父上、申し訳有りません、この義信、致りませんでした。爺、済まなかった」
 義信は虎昌にも頭を下げた。
 虎昌は、傍らの三郎兵衛に、
「三郎、お前なぜ若君をお止めしなかった」
「兄上、私とてあの場合そうしたでしょう」
 其処に高坂弾正が戻って来て、信玄の前に片膝を突き、
「申し上げます。上杉の殿、甘粕隊、大部打ち取りましたが、甘粕近江守は打ちもらしました。上杉景虎(謙信)はあの中にはおりませんでした。打ち取った中に景虎の影武者一名おりました。景虎と見せかけ味方を引き付けたが、その隙に景虎は犀川を渡って行ったらしいです。甘粕近江は六騎と、雑兵四、五十に守られ最後まで崩れず犀川を渡って行きました」
「甘粕近江と申す者、敵ながら天晴れよな、義信、見習うがよい」
「はい 申し訳有りません」
「もう良い。下がって傷の手当を致せ、首帳の用意を」信玄は係に命じ、高坂弾正に、
「弾正、儂は状況を見届けてまいる。代わって首帳致せ」
 信玄は残った旗本側近を従えて本陣を出て行った。
 行きしなに政長と政介を見て、「無事であったか、付いてこい」と促した。
「はい」二人は擦れ声で返事をすると弥右衛門の後について行った。

「義胤、見ろ。武田信玄が来るぞ。赤い法衣を着ているのがそうだ」
 金井山の岩の上で戦況を見ていた上泉信綱が指差した。
 八幡原一帯を信玄がわずかな側近を従えて見回って行くのが見えた。
「状況を見届けているようですね」
「そうだ。普の武将ならば、勝鬨を上げて、引き揚げて行く処だが、さすが信玄、戦死者に礼をつくしているのであろう」
「この様な合戦、初めて見ました。死傷者も大分出ましたね」
「死んだ者、両軍合わせれば七千の上、重い傷を負った者も同数はいるだろう。残りは皆手傷を負っている。戦とはむごたらしいな義胤、儂とて主人持ち、何時戦場で果てるか、明日のことも分からぬ。そなたは主人持ちにならぬ方が良いぞ。浪人の侭、道場でも持ったほうが良いぞ。人殺しの兵法はしたくないな。此の戦で多くの兵を失った信玄は、二、三年は上野進出はしないと思うが、信玄との戦いは避けられないな」信綱は、両軍の戦を見てこい。と命じた主君長野業政を思った。
 血なまぐさい風が千曲川を渡り吹き上げてきた。

 血で染まった荒涼の中で信玄は馬を止め、弥右衛門を振り返った。
「弥右衛門、彼処に居るのは宗智では」信玄が前方を指差した。
「はい。正しく宗智様」
 信玄は、死者の前で合掌している宗智を発見して、弥右衛門を従えて近寄っていった。
「宗智ではないか」信玄は馬から下りて宗智の方にゆっくり歩いて行った。
「兄上ご無事で・・・」宗智は信玄を見て立ち上がった。
 信玄は宗智の手を握って、
「そなたも無事でよかった。今度の働きうれしく思うぞ」
「兄上、勝戦おめでとう御座います」宗智は泣いていた。
「宗智、これは、もしや勘介では」
「はい、山本道鬼勘介殿です。繁信兄上も戦死なされたそうですね」
「無念であった。初鹿野源五も死なせてしまったわ。まだ若かったのに、上田原で戦死した紅右衛門を思い出した。対照的であったが二人とも儂より先に逝くとは・・・」後は声にならず信玄の目が潤んできた。
「兄上、上杉は又出てきましょうか」
「村上義清を討ちもらしたからな。北信濃豪族の領土を保障してやるというのが、景虎の考えのようだ。最後の決を付けるためには更に戦わなければなるまい」
「諸角豊後様も戦死しました」弥右衛門が宗智に教えた。
 信玄は首のない勘介の死体の前に膝まづき合掌した。
「勘介、許せ、辛かったのは儂とて同じだ」呟く信玄の声には悲壮が秘められているようであった。
「宗智、儂は明日帰る。高坂と計って後始末を頼むぞ。犬の事は玄東斎より聞いたぞ、お手柄であったな」
「玄東斎殿は」
「城に残して来た。陽のある中に回らねば、お前も一緒に来い」
 弥右衛門が走って行って、政長、政介に勘介の死体の処置を下知した。

 上泉信綱は八幡原に向かって、何時までも合掌していた。
 武田軍の勝鬨の声が金井山にこだまして、空しく聞こえた。
 其日の夕焼け雲は八幡原に流した血が反映したように真赤であった。
 からすの群が何処からともなく集まって森の上を旋回していた。

 陽が落ちると海津城の守りについていた軍役衆や、小荷駄衆が、小幡弥左衛門に率いられて八幡原にやって来た。
 海津城に引き上げてきた信玄は、小幡弥左衛門に、味方戦死者の甲胃武具を家族に届ける遺品として、敵のは戦利品として、生きている馬は傷の手当をして八幡原に集め置き、朝まで戦場管理を下知したのである。
 月が上がって戦場跡を照らした。
 川から吹いて来る風が血腥い臭気をぬぐい去っていった。
 一騎に徒の小荷駄衆五、六人が一組になり、死体から甲胃武具を外してる光景があちらこちらに見られた。
 松明をかざして死体を一つ一つ調べていく者もいる。
 一党一族の亡骸を捜しているのであろう。
「あの、典厩信繁様が戦っていた処を御存じ方はおりませんか」
 三枝政吉が馬上から振り返ると、松明を持った軍役衆らしい身なりの武士が自分の方を向いて立っていた。
 武士は自分と同じ位の年格好であった。
「身内の方でも捜しているので」
「はい、伜を」
「それはお困りで、息子さんは典厩様の衆ですか」
「はい、春日源之丞の家来で市川賀助といいます。心当たりの方は居りませんか」
「典厩様の衆には聞かなかったのですか」
「典厩様も春日様も戦死なされて、それに伜は初陣ですから、顔見知りも居らなかった様で」
「実は、わしも軍役の者で城に居りましたので、伜共に聞いてみましょう、おい政長、三人共、ちょっと来い」
 死体から具足を外し掛けていた政長が、政介と三郎を促して政吉の前にやって来た。
「この者は御旗本に居た伜とその仲間です。なあ政長、典厩信繁様はどの辺りで戦って居られたか知っているか」
「俺は、政介と物見に出ていたので、確かな事は分からぬが、三郎、お前知っているか」
「典厩様の衆は、俺達飯富三郎兵衛衆の左にいた。一番先に敵の攻撃に合い、お味方が崩れ出した時は、確か広瀬の渡しの方角に黒地に白丸の旗が見えたが、俺も夢中で良くは覚えてません」
「お聞きの通りです。御本陣から城の方角を捜しましたか」
「いいえまだです」
「三郎、こっちの方は良いから、その辺りまで案内してあげろ。息子さんの目印になるものは有りませんか」
「この三人と同じお貸具足で、刀は自前で市川賀助と朱色で名前を書いてあります。顔は丸く童顔です」
「私は室伏村の三枝政吉と申します。息子さんらしい人が見付かれば知らせます」
「有りがとう御座います。申し遅れましたが春井村の市川賀一郎と申します。よろしく御願い致します」
「お連れは居ないのですか」
「一人居りますが、外を探せています。倅も生きていればよいが」
「きっと生きていますよ、力を落とさず捜してごらんなって」
「はい、有りがとうご座います」
 市川賀一郎は三郎の後に付いて行った。
 小者の源蔵と政市が具足を両手にかかえてやって来た。
「典厩様の衆は戦死者が一番出たと噂を聞きました」源蔵が言った。
 政吉は市川賀一郎と名乗った武士の後姿を見送っていた。
 政長が戦死したなら、自分もあのように戦場を捜して、彷徨い歩くに違いないと思った。
 生きていれば良いが、死体となって見付かった時は、どんな思いがするだろう。
 自分と同じ位の賀一郎の後姿が可哀相に思えてならなかった。
「政長、お前も行け」政吉が、三郎の方に指差した。
 政長は二人の後を追って走っていった。
 風が血腥い臭気を又運んで、どこからともなく苦しそうに唸る馬の声が聞こえてきた。
「手が血糊でぬらぬらして気持ち悪くてしょうがねえ」政市が甲胃を足元にほうり出して言った。
「仏の着物で拭けばいい、もんく言わずにやれ」源蔵が言った。
「一晩中掛っても、これじゃあ終わらねえ」
「政やん、戦う身になってみろ、この位のことで泣き事を言うな。みろ、政介を、黙ってやっているではないか」政吉が窘めた。
「政介坊様、これを見なせい、この首無し武者を」
「味方か」
「白布が無いから敵ですね、この野郎、味方の首を三ツも腰に下げている」
 政介がのぞき込んだ。
 首無し武者は、白くなった首を三つ腰回りに付けたまま俯きに倒れていた。
「若者の首か確かめてみろ」政吉が近付いてきた。
 政介が首を腰からはずして三つ並べた。
 政吉が松明をかざして見た。
 歯をむきだして目を開けた若い首は丸顔ではなかった。
 誰も見覚えのない首であった。
「人の首を取って、おのれが取られたか」政吉が呟きながら、首に向かって合掌した。
 目を見開いたままの若者の首を、政吉が抱えて目を閉じてやったが、首は又元のように目を開いた。
「この者は仏になってもまだ戦っている。可哀相に、味方は勝った。安心して成仏しろ」
 政吉は何度も目蓋をさすり下ろした。
 首は眼を閉ざした。
 四人は再び合掌した。
 月光の中に人声が聞こえ、足音が入り乱れた。
 異様な気配の中を時折騎馬武者が駈けていった。
 夜盗から死体の武具を持ち去られないように見回りの騎馬であった。

 半日の合戦で四千六百人の戦死者、負傷者七千を出し、弟信繁や山本勘介等を失った信玄は、海津城に引き上げて来ても、具足も解かず、奥の間に篭もったままであった。
 金丸昌次が手桶に湯を入れて持って来た。
「御屋形様、具足をお取り致します」
「昌次、まだ戦は終わっておらぬ、具足はこのままでよい。せっかくだから顔だけ拭く」信玄はもの静かに言った。
「はい」昌次は手拭を湯につけ、しぼって差し出した。
 信玄は黙って顔を拭き終わると、
「大広間に諸将が全部集まったら声をかけるがいい、それまでそちも下がって休め」
「はい」昌次はそれ以上何も言わずに下がっていった。
 信玄は昌次が下がって行った方をふり向いて、勘介、と言いそうになって、「そうか、もうおらんか」と呟いた。
 諸将等の中には恩賞や感状の沙汰を待っている者もいるであろう。
 今度は後にしょう。
 それより戦後の処理が先だと信玄は思った。
 両軍八千からの死体の事、農作物の被害の事や味方遺品や戦利品の事、奥信膿の豪族の今後の事、善光寺の今後の事、こんな事なら宗智を呼んでおけば良かったと思った。
 以前快川和尚の言われた事が思いだされた。
「御屋形様、この乱世は覇道の争いですが、父君をお退けになった日から、御屋形様は王道と覇道を行く宿命にあるのです。その事を肝に命じて、領民が納得できる政治を行いませ」その快川も今は美濃に戻っている。
 領民が納得できる政治をな。
 甲斐と信膿では領民の気持も風習も違う、千曲川と犀川が合流して出来た三角州の民は、長い間、武田と上杉の間にあって不安な日々を送ってきたが、今度は民の方から儂を選んだ。
 この民が納得できる政治を行わなければならぬ。
 その手初めに何から初めようか。
 相談相手の快川和尚を何れ呼び戻さねば成らぬ。
 一番頼りにていた紅右衛門もいない。
 この度は勘介まで失ってしまった。
 かけがえのない家臣の死を思うと信玄は精神的な打撃を受けた。
 
 大広間では諸将が武功の調審書を用意して集まり初めていた。
 昌次が手桶を持って通りかかると、
「昌次、御屋形様のご様子はどうである」三郎兵衛が心配そうに聞いた。
「はい、まだ戦は終わっておらぬと申されまして具足は付けたままで御座います」
「なに、戦は終わっておらぬと申されたか」
「はい」
 諸諸将達は、それぞれ顔を見合わせ、一度はずした具足を慌てて付ける者もいた。
「皆の衆、あわてめさるな、御屋形様が戦は終わっておらぬと申したのは、戦後の処理の事を申しておられるのだ。三郎、御屋形様のお心が分からぬか。典厩様、諸角殿、勘介殿と、かけがえのない武将を失った御屋形様のお気持ちになってみろ。恩賞だの論功だのと言って、手ばなしで喜べぬぞ」飯富兵部が言った。
「兄者、そうであった。兄者の申す通りだ」三郎兵衛がすなお反省した。
 その時信玄が大広間に入って来た。
「主だった者、全部揃いまして御座います」高坂弾正が一礼した。
「待たせたな、その前に戦死者の冥福を祈ろう」信玄は合掌して頭を下げた。
 一同それに倣った。
 長い祈りが続き、大広間の外から負傷者のうめき声が聞こえてきた。
「皆の者、今度はご苦労であった。楽にして聞いてくれ。今度の合戦はお陰で勝利を上げる事が出来たが、その陰には善光寺平の百姓衆の協力が有ればこそだ。その事を忘れぬよう、肝に止め於いてもらいたい。今度は戦死者と負傷者の数はことのほか多く、負傷者の中には重傷もかなりだ。その者の為に明日早々帰ることにする。途中の温泉地で治療させねばならぬ。支度の為に使番をすでに走らせた。その様なわけで恩賞は甲府に帰ってからにする。各将は武功の調べを公正に、慎重に行ってもらいたい。今日はもう休むがよい。それから信洲先方衆の主だった者と高坂は戦後の処理のことで相談がある。この場に残ってくれ」
 飯富兵部に言われていたので、諸将達は一人一人信玄に挨拶して下がっていった。
 信玄は手を握り、ねぎらいの言葉をかけた。
 戦後処理の事を思案していた信玄の元に、その後の上杉軍の行動を報告に来た物見の者が下がって行った時は、もう夜明け近くであった。
 信玄は一人、北の櫓に上り、千曲川と八幡原を見渡した。
 昨日と同じ朝霧がたちこめ、八幡原は見えなかった。
 信玄は霧に向かって合掌すると頭を下げ、何時までも立ちつくしていた。
 霧が少しずつ晴れ、切れ間に小さく動いている軍役衆達の姿が見えた。

 悪夢のような一夜が明けた。
 政吉は、政長や政介、三郎、源蔵、政市を連れ、八幡原の本陣に再び集合している武田軍に合流する為に、戦利品の武具を運んで急いだ。
「お父う、あの人は昨夜の市川と言う人じゃねえけ」
 皆足を止めて政長の指差す方を見た。
 昨夜伜を捜し歩いていた市川賀一郎であった。
 賀一郎は、膝に首のない死体を大事そうに抱いたまま座り込んでうつ向いていた。
「市川殿か」政吉が声をかけた。
 賀一郎は放心したように顔を上げ、こっちを見た。
 虚脱したような賀一郎を見た政吉は何も言えなかった。
「お父う、この馬を置いていくか」
「それがいい」政吉にはそれだけしか言えなかった。
 政長が戦利品の馬を賀一郎の近くの草叢に繋ぐと、
「市川さん、この馬を使って下さい」と賀一郎に声をかけた。
 賀一郎は泣き腫らした顔を再び上げて首肯いた。
 政吉は、賀一郎が一晩中息子の亡きがらを抱いていたのだと思うと、とたんに涙がこみ上げて止まらなかった。
 八幡原の方に、お味方が整然と隊を組み、帰国の途に動きはじめるのが見えた。
「市川殿、お急ぎなされ」
 政吉は涙にぬれた顔を上げて馬に鞭を当てた。
 遠く鐘の音が余韻を残して八幡原を渡っていった。
 時、永禄四年九月十一日。

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