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 筆のすさび (略) 安政丙辰重陽雨窓 後進
後藤 機

 茶山翁の随筆の筆のすさびといへるか、四巻はかりありけるを、まつ一巻をやつがれに校しうつさしめ給ひて、
  かきよせしかひこそなけれやまかはに
             おふる藻くさはたまもまじらず
 とよみてなほもうつしてんやとありけれは、
  やまかはのやまずやなほもかきよせん
              藻くさにまじるたまはつきせず
 とよみてまゐらせけるに、其年の夏の頃より翁病ひにわづらひ給けるをとひまゐらせけれは、余の三の巻をやつがれにたまひて、わかなくなりての後にいかにもなしてよとのたまはせけるに、つひに其秋身まかり給ひける。
 かくては翁の記念かたみなりとおもひてかしこくひめおきたるを、いまの世の人翁の出給へるものとだにいへば、たふとかりて見まくほりするによて、浪速の書肆なにがしが桜木に鐫て世に伝へまくせちにこふまゝに、またつぎつぎの巻を校して其故よしを、巻の端にかきつけてさつけぬる、時に天保七といふ年の丙申の春のはじめなりし。
  木邨雅寿

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茶山翁筆のすさび
   巻之一 備後 菅晋帥礼卿著  木村雅寿考安

月蝕
 文化丙申七月既望きぼうの月蝕は、鏡に匣はこの蓋ふたを覆おおふごとく、東よりかゝり、皆既におよびて紫色、に見えたり。
 余姪(わがおい)万年、〔割註 名は公寿、字は万年、俗称は長作〕こゝろをつけて見しに、月中に一帯の黒気起りてまた暗くなり、復する時又黒気見えしが、これはそのまゝ剥おちたり。
 其黒気は月中のみにて外にはを見えずといふ。
 乙亥十一月の月蝕皆既の時は、西南よりかゝりてはじめは盤の中に墨汁をこばし入れたるごとく、ただ黒くしてそことも見えわかず、傍かたわらなる星は爛々たり。
 丙午元日の日蝕皆既は、日色ひのいろ茶色に見えて薄暮のごとく、雀など棲宿せり。
 寛保二年壬戌五月日蝕は、白昼烏黒くらやみにして星宿爛々たり、さながら夜のごとくなりしと云ひ伝ふ。
 天学家も、日行至て高く月行至て低き時は、暗きこと甚だしかるべし、されど星の見えしはいかゞありしにやといひし。
 
雷臍を取るといふ事
 雷の臍へそを取るといひて小児などを警いましむるは、雷震のときは俯伏うつぶしするものは死せず、仰仆あおむけする者はかならず死するによつてなり。
 失火の烟けぶりたちこめて息をつぎがたき時は、土を舐ねぶれといふも同じをしへなり。
 
豆小豆の降たる事
 文化乙亥の夏、長崎筑の前後の辺に豆をふらせしよし、丹波には竹に実のること多かりしとぞ。
 備後にもこれありし。
 思ふに寛政の前二年、備後深津郡に麦菽まめ蕎麦などふりしことあり、夫それを拾ひたる人余に見せしに、真のものによく似たりしが、其翌年は大に餓うえしなり。
 日本書紀等にも此事あり。
 其後かなちず凶年なり。
 唐土(もろこし)の史類にも記するもの多し。
 天地の気常に変りて異気異物を胎孕たいようするならん。
 丁亥の今年は豊なるが明年はいかゞあるべきや。
 丙子四月十五日豊前中津に大小豆ふりて、城下にて夜行の傘にはらはらと音するほどなりしとなり、其二豆を伝へ来りて見しに、前年備後に降りしよりは実して見えし、小豆は色赤からざりし。
 
黒気
 文化丙子正月廿七日夜、讃州金毘羅山の末に大麻おおあさといふ処より、黒気こくき一帯ひとすじ幅一間あまり長さ一里余りなる東西へ靡なびき、久しくして漸々ようように薄くなり西方へさらさらとなだれ行、其疾はやきこと風のごとくにして見えずなりたり。
 はじめは紫に見え、漸く黒くなりて後は濃こと墨のごとく、途中にて見たる人は身のけたちしとかや。
 小児は怖れて家にはしり入たり。
 其さま雲とも烟とも見えざりしと、其地の人牧周蔵〔割註〕「名は昌、字は百穀。」より書簡にていひ来りぬ。
 
バタバタ
 芸州広島の辺にバタバタといふ異物あり。
 夜中屋上或は庭際に声ありてばたばたと聞ゆる故に名とす。
 たとへば畳を杖にて打音に似たり。
 好事こうずの人々是を見あらはさんとてそこに行きて見れば、好事の人々是を見あらはさんとてそこに行きて見れば、七八間も彼方にきこえて見窮むることあたはず。
 川下に六町目といふ町ありて、其辺最多く他の町々城内にもあり、狐狸こりの所為かといへどもそれにもあらずといふ。
 
肥前国に火の降る事
 肥前に火の降ることあり。
 夫それを防ぐには革のつきたる雪踏せったにを以て扇あおぎ逐へば、火外の家にうつるとなり。
 故に或は官おおやけに訟へて今度の火災は何某なにがしが屋上にふりかかりしを、雪踏にて追ひし故に吾屋わがいえに火つきたれば、新家を造作の費ついえは何某より弁ぜしめたまへと願ふの類ありとぞ。
 
中秋の月
 中秋の月は、四海陰晴を同じくすといふは東坡の説なりとて、五山の僧の対州に在番せしが、いづれの年か京と陰晴殊ことなりしを見ていぶかしく云ひたり。
 今年文化丙子中秋、予が郷の神辺は快晴たりしに、讃州は陰くらかりたりとて友人の僧義立歌をよみ示せしに、
  はるるやと雲にむかひてこふ月の丑みついまはたのまれぬかな
 同夜播州もくもれりとて、友人菅岱立が書中に詩を見せけるに、
  方開焦土起家楼 工役紛囂属仲秋 頼有佳期存閏月
  従他此夕少清遊
 同夜備前武元立平は、尻海といふところに舟を泛うかべしに天気不快、尚閏月は如何と刮目すると書中に云ひ来り、且其詩に、西嶺夕霞魚尾赤、東洋雲気□頭黒といふ句あり。
 北条霞亭此夜須磨の月を質する歌に
  こよひしもいつくはあれど須磨明石淡路島山かゝる月影
  つひの身のおもひ出ならん須磨の浦秋のもなかの有明の月
 かくよみて書中にいひ来りしに見れば、須磨は清光なりしとおもはる。
 参州岡崎昌光寺の万空上人の書中に無月のよしにて詩に、
  水霧山雲晩未収 風吹過雨入林頭 嫦娥今夜難堪冷
  付与陰虫訴暗愁
 ときこえければ雨ふりしなるべし。
 後に備前北方の友人より来書に、中秋初更まで陰り二更より暁まで快晴なりしに、岡山はこれに反すといふ。
 参州は百里、須磨は四十里、播州三十里にたらず、尻海はニ十里、讃州は僅に十里許、岡山は十三里、岡山と北方の間九里なるにかゝる陰晴のたがひあり、常年もかゝるべけれども今年はじめて心つきてしるすなり。
 其九月中旬霞亭伊勢より帰りて話しけるは、中秋京は陰翳ふかく須磨の清光をかたりても人信ぜぬばかりなりし、伊勢は風雨にて戸をひらき窓をあくる人もなく、大和にて芳野は殊に大風なりしと聞きしよし。
 其後筑前の月形七介来り話せしは、其地は近年稀なる大清光なりしとなり。
 
列宿
 觜宿ししゅくは参宿しんしゅくのうちにありて畢参觜ひっしんしとかぞふべきに、参の第二星を首しゅとし数れば畢觜参となると、乾隆けんりゅう二十年の頃の人の説あり。
 しかるを安井算哲が貞享暦議に既に道破せり、貞享は康煕二十三年にあたると備中大江の人谷東平が話せし。
 
渾天之説
 文化辛未八月彗星北斗の下にあり、初昏西北に見え暁東北にあらはる、漸々ようように天旋におくれて十月十九日の夜は、牽牛けんぎゅうの中星と一つになりて空ばかり見えたり、渾天こんてんの説を常人は疑ふもありしに此星にて皆信ぜり。
 
地震せざる家
 備後の山南村某が家地震に動かず、其家の下一面岩なり。
 徂徠が峡中紀行に石室の僧に地震の事を問けるに、近年の大地震にも動かざりしと答し事あり。
 されば火脈の力も大石を動かすことあたはざるか。
 また石も無尽底より根ざせしものありや、備後深津村の王子山も地震なしといふは信にや。
 
普賢獄焼出
 寛政四年亥歳肥前雲仙岳の傍かたわら普賢嶽、火もえて太谷みたには僅わずかのうちに山となる、終に城に及んことをおそれ、人民其難をさけむとするうち、四月一日泥水湧出て過半漂没す。
 三郷はあともなくなり、其外小山いくつも出来たり。
 たまたま逃れ出たる人も其ときのことをおぼえず、あるひは湯の中をはしり遁のがれたるやうに覚えたるもあり、また水中泥中また火中を遁れたるやうに覚えたるもありとなり、其禍わざわい浅間に十倍す。
 地の没したるは肥後の方かへりて多かりしといふ。
 又寛政の初、長崎の南の海中に一里許のうち、潮うしお一方へながれて瀬をなせし処あり。
 彼方へ通ふ船人数年あやしみ語りしが、後に雲泉嶽の変あり。
 山裂け崩れ潮出て邑里ゆうりあまた蕩壊とうえして、隔岸かくがんの肥後海浜まで漂尽ひょうじんす、此夜逃れ走りて死をまぬかれし人、熱湯の中を走るごとくなりしといひし。
 崩壊せしは前山とて雲泉の前なる山なり。
 はじめ火の燃出でし時は、近傍の人ここかしこに逃避しが、数月なにごともなき故漸々立帰り、後は酒肴などもてのぼりて遊覧せし人もありしとなり。
 
新島
 桜島の中に出来し新島、いまは松杉も生じ水も湧出するとて、島原の前にも新島出来たり。
 日本書紀にも伊豆の神島といへるも、おなじく地中の火脈の発怒せしと見えたり。
 
蝦夷
 蝦夷は大抵てい三角なる地にて東西二百七十里、シレトコ崎といふ処に大なる石あり、是北端なり。
 北面百里許ばかりあり、西北角にソウヤと云ふ処あり。
 それより松前まで二百里にたらず。
 地多くは山にて大河も潮もあり、東面ヱリモといふところまでは粟稗をつくり食す、其人させる異なることなし。
 それより奥は魚鳥のみをくらふ、眉一文字につゞきて鬚長く多し。
 東北にクナジリといふ一島あり、またヱドラフといふあり。
 其地の山六月に扇の柄にて掘れば砂底皆氷なりといふ。
 会津樋口平蔵其辺まで行し記あり、頗ぶる詳つまびらかなり。
 カラフトはソウヤの西北二十里許はなれて北へながく、はては海なり。
 西は山旦さんたんといふ、夷えびすにちかく海をへだつ。
 西へゆきて満洲より役人の出張る処あり。
 常陸の人間宮林蔵其地まで行て、清の役人に逢て帰りし記あり。
 
旱米穀を不傷事やぶらず
 明和庚寅の大旱ひでりに、宇治川を小児かちわたりするほどに水涸しに、平等院の上より鹿飛び迄両岸皆石にて種々の形をなし、魚虫鳥獣の形皆そなはると、那波魯堂先生の記にあり。
 京より遊観するもの多く、川中に処々茶酒の店など出してにぎはひしとぞ。
 前年七月頃彗星を見る。
 占者は洪水の兆しるしなりといひしが、かへつて大旱にて、五月廿七八日雨ふり、六月閏六月七八月雨なく、天気は日々陰り、夜は晴朗にて涼しく、六月のはじめに白く丸き笠のごとくなる者、初昏中天に見え、五六日の間漸々に北へゆきて消す。
 六月三日の夜一星月中に入る、木星なりしや火星なりしや、今よく記せず。
 七月に一夜赤気北方に見え、暫時のうちにひろごりて天に弥わたる。
 明年辛卯も又大旱なれども、早は米に宜しとて米価さまで高くもならざりし。
 余十五六歳のころ、前後豊年打ちつゞきいづくまでもゆたかなりし。
 寅年大旱の後なが雨しきりなりしより、世態せたい人情も一変しぬと見ゆ。
 前年丑七月彗星西方に見ゆ、一頃は伏してまた初更に見ゆ、十月頃より西海南海大水を主つかさどるなどと人いひあへりし。
 其翌年寅五月廿八日の後、閏六月七月八月までも雨ふらず。
 此年水すくなき土地は、稲の穂出ざるも多かりしが、ならして豊年にて山陽の新鮮五十日に過ぎず。
 其翌年もまた旱損なれども、米価はおなじく賎いやし。
 それよりなが雨つゞきていやし。
 同月浅間嶽やけぬけて、隣郷に火石灰など降、昼夜を弁ぜざること五六日、刀根川へ泥水押出して人畜多く死す。
 此前年薩摩の桜島焼ぬけて、是も死亡多かりし。
 
鳥柱
 伊豆の海中に鳥柱とりばしらといふものあり。
 晴天に白き鳥数千羽盤舞ばんぶして高くあがる、空は眼力の及ばざるに到る、大なる白き柱を海中に立てたるがごとし、八丈島より南にありとぞ。
 
ごう山ごうの字は虫偏に豪
 松前の海中に、牡蠣かさなりて小き島をなしたるがありとぞ。
 唐土の書に所謂ごう山も是なるべし。
 
毒井
 備中に新兵衛新開といふ処あり。
 七夕に井を渫さらへて四人井中に死す、天明年中の事なり。
 其時笠岡御代官竹島左膳といふ人の支配所なるゆゑ訴へ出しかば、夫は多くある事にて検視するにもおよばず、此薬を飲ましめ試よ、程遠ければ甦生すること有まじけれどとて、散薬を与へられしよし。
 其後また笠岡にて七夕に二人死す。
 予其井を見しに、海に至て近く浅き井なりし。
 文化八年辛未備後浦上村に井を掘りて水出ざれば、火を焼たきて是をよぶとて、其灰燼をとりに入りしが立所に死せり。
 翌年壬申八月同国千田村に、失火して家の焼たる其灰燼井中に入りしを、渫へるとて一人井中にて死せしかば、夫を救んとて二人また死せり。
 其時井に臨のそみたる人悪臭衝あしきかつき来りて少時も向ひ難く、顔をそむけて死骸を引揚たりとぞ。
 凡夏秋の間井中に毒あり、井中に鳥羽を投ずるに舞ふて下らざれば、かならず毒ありと聴紀談に見ゆ。
 或人のいへるは、挑燈ちょうちんに火をつけて井中へ下し、毒あれば火必きゆるといふ。
 笠岡にて死せしのち、新開地は井不宜よろしからずとて、其辺の井を皆填うずみたるよし。
 
蛇昇天之事
 文化二年丁丑三月廿一日京都雷電して雹あられをふらす、大きさ桃梅の実のごとく六寸許ばかりもつもりけると、芸州友子映雪二尼東寺へ参る途中にて、これにあひてある人家に逃れ避さけしとぞ、廿三日に京を出て帰るに、途中足の冷なることいふべからずと、帰路予を訪ひて語る。
 筑前侯此日伏見を発して大坂に下り給ふに、枚方こて遥に雷声を聞たりしが、雨もふらざりしとこ従せし月形梶原などの士予に語る。
 後にきけば東六条善久寺といへる一向宗の寺の妻女、此日頭痛すること甚だしく、髪際より小虫はひ出て、見るがうちに小蛇となりしゆゑ、怖れて戸外へ掃出すに、忽ち黒雲下りて其蛇を乗せて昇りしかば、頭痛はわするるごとくに癒えしと、京都の人越後屋多兵衛が許なり。
 同日備中松山にも、雹ふりて一二村は麦油菜みななくなりしよし、京と同時なりしと云。
 京の雹も山科十村ほどは、田畑のものなにもなくなりしよしなり。
 
衝風人に傷くる事
 文化丙子七月十日清水の滝の近所にて、一陣の衝風しょうふう人を吹き倒し、大宮通四条下る処の手伝ひ清兵衛といふものの妻、そこにて倒れ、背に二箇処股に二箇処、刀にて切りたるごとき創きずありしに、衣類はきれず筋骨にも痛なく、療治して程なく癒いえしが、其処此処に此事ありて、京中に十二三人も此患うれいにかゝりし者ありしと、是も越後屋多兵衛が語りき。
 
潮州
 韓文公かんぶんこうの左遷ありし潮州ちょうしゅうといふ処は、極南の辺鄙へんぴにて人も住かぬる所ならんと思はるれど、近頃潮州の人の漂流して奥州につき語りしに、祠廟しびょうは文公の廟、寺は大顛の菴など頗すこぶる壮麗なりとぞ。
 是を聞きてもさせることゝは思はざりしに、広東名勝志に、黄景祥こうけいしょうといふ人の記を抄するをみれば、城西に湖山といふ山あり、そこに浮瀾亭あり、其上より見れば鰐渚がくしょ其前を繞めぐり、浮図ふと其上にいよやかに、環顧すれば平林畳けん紛然として状かたちを献じ、俯瞰すれば万家鱗次一めんにあつまるといふ。
 されば人居も稠密なるべし。
 又韓木かんぼくといふものあり、文公の手植にて名しれざればかくいふとぞ。
 其花の繁稀はんきをもて其土人の科第の盛衰を卜ぼくすとなり。
 人物の盛なるも亦おもふべし。
 
雲南省
 雲南省は唐土十五省にて最辺僻なれば、諸葛武侯も七きん七縦にて打おき、宋芸祖も吾土地にあらずとてすてられたり。
 其地鳥には孔雀鸚鵡秦吉了、獣には象も生ずる所にて、辺僻といへどもまた事かはりたる事おもひやるべし。
 然るに其臨安府は、雲南省よりまた四有余里の辺鄙なれば、其臨安に隷する通海県といふは、又辺都小邑なることしるべし。
 其県令の廨舎より南六十里に秀山といふ山あり、頂に湧金章といふ寺あり、其記に浮図三ツあり、湧金を勝とす、仰で天光を射、俯して巨浸に臨む、城廓居室の壮盛なる、山林島嶼とうよのばんきゅうせる、晨鐘暮鼓隠々として天上に在るかと疑ふ也と、雲南名勝志に見ゆ。
 巨浸は海をも江をも湖をもいふなり。
 此は湖なり、周囲八十里にて一名長河とも海子ともいふとぞ。
 凡雲南かゝるところすくなからず、永昌などは、又西千余里にありて人物も多し、其外処々繁華の地あり、雲南省は大都会なり、楊升庵も永昌に流され、終に七十余にして其地に没せらる。
 其書を乞ふ人、娼婦歌妓などにたのみ酔たる時を候うかがひてかゝせたりといふ。
 雲南は辺僻にて、娼妓はいづれにかあるべきなど思はるれど、此方の山陽南海なぞに比すれば、人才もさらにひらけたりと見ゆ。
 道路のうちにも名ある橋多し、其橋の幅のひろさを見ても、往来の隙なきをおもふべし、されば何処の果までも、年を逐ふて人も多くなり、文物もひらくることしるべし。
 
薩州甑島
 薩州の甑こしき島といふは、其国を距ること西へ二十里許の海中にあり。
 其辺僻いはんかたなくおもはるれど、文化中ある人かしこに行たるに問て聞に、上甑島は村数六ツありて戸数千二百余、其内郷士三百ばかりありて、島の広さ東西二里許南北二里半もあり、近辺に野島二子島弁慶島などいふ島四ツあり。
 西南二里程に下甑島あり、村数八ツ戸数二千余、其内郷士二百十人許ありて、島のひろさ東西二里許、南北五里余ありて、又唐島由良島などいふ小島あり。
 上下甑島にて貢入ねんぐの歳額たか三千石許もあり、山も高きこと二町にすぎず、海の探さ二十尋以下なり。
 唐に対する方の山は石多く樹木生ぜず、鳥獣草木もみなかはることなく稲麦を作る、綿は見えず。
 上甑島に里村、下甑島に浜市といふて町家もあり、神祠仏寺もあり、女子は三絃を弾く者ありとぞ。
 昇平の化かかる荒陬こうすうまでにおよぶこと如此なるは忝なき世の中なり。
 また近江の僧海量、薩の鹿児島にありし時、鬼界島より来りて仕ふる人の、老病にて帰郷し医薬保養したきよしを乞ふを見て、かの島にも医人ありや老病を養ふべき閑雅のこともありやと尋しに、今は昔にかはりて呉服屋などの商あきびとも、かしこに行かよふよし聞えしとなり。
 俊寛僧都の流されしより六百年許にて、いまかくなりたれば、蝦夷の「アツケシ」「ソウヤ」「ヱトロフ」「クナシリ」などいふ処も、ゆくゆくはかくなるべきにこそ。
 
里程
 我邦の一里は、西土からの十里にあたること、彼方かなたの書にてもしばしば見ゆれば、記事の文或は詩にても、吾土わがくにの一里は十里といひても通ずべきこと論なし。
 然れども誦じゅして響のよろしからぬ事もあるやうにおもはるれば、是を竹山先生に問ひしに、竹山の云るは、周時の書になほ夏正かしょうを用ゆるもの多し、吾邦の里程今の法に改りしは、何時の事か明ならざれども、奥羽の地は猶昔の里程みちのりにて計るとぞ。
 されば、官府え奉る文書にもあらず、私に記するにはいづれにても然るべきならんと。
 これに依て余が詩にも百里を千里と用ひしなり。
 
山陽の海を江と称する説
 山陽の海は所謂海技なり、島ここは山へんに固とりかこみて湖ぼうに似たればとて、朝鮮人の詩に湖と称す、余は多く江と称す。
 或人是を規ただして、江は岷山より出て其源そのなかみに濫觴らんしょうの目もくもあり、川の大なる者にて其一流の名なり。
 これを冒おかして此処の名とすべからずといふ、是は正理なり。
 然ども江南は水を皆江と称す、既に淅江三江なども岷江みんこうにはあらず、それを単に江と称せしも見ゆ。
 近頃査慎行が詩にも小水も亦江と称するの句あり。
 されば山陽の海も、一帯千余里にして形よく似たれば江と云とも可なるべし。
 水しおはゆければ必海といはゞ、岷江も潯陽以東は淡水にあらず江といひがたし。
 銭塘江せんとうこうも亦しかり。
 吾友広瀬台八〔割註〕名は典、字以寧、奥白川侯儒官。」此頃余が説を憶おもひて記せしとて随筆一則を寄示す。
 左に録す。
 〔割註〕此文もと漢文なるを、今幼稚の見易からんためにこゝに和解す。」余二十年前の夜船に乗じて竹原を発し菅茶山かんさざんに投ず。
 月明蒼々に遠近山色隠映、波穏にして席の如く、其水深積といへども亦空濶にして涯際なきに至らず。
 余以其観る所をもて茶山に語る。
 茶山曰中国之海恐らくは海にあらず江湖耳のみ、我此説を持して以西山拙斉中井竹山と論ず。
 二子皆可とせず、今子独り我に左袒する者に似たり、因掌たなごころを搏うって大笑す。
 余が拙斉に寓するに当てまた書に寄て曰、江海之論勝敗竟ついに如何、拙斎竹山極て大敵と為す、苟いやしくも舟を焚罌を破るに非ずんば則これと周旋すべからず。
 是皆一時の戯話といへども、亦復以て其豈弟切磋之楽を見るに足る。
 文化七年春我公海防の命を奉ずるを以て、余相房の間に到り其形勢かたちを観るに、二州綰束して山岸に薄せまり、水面曲折狭して而且かつ長し、復江戸品川の望む所のごとくならず。
 因て憶昔年茶山中国江海の語を出す。
 自語て曰、是又墨水の末流稍やや大なる而已のみ、相房二州の港口に出るに非あらずんば、則何ぞ復また海を以て之を称するを得んや。
 乃すなわち前論を補葦ほいして以諸これを先達に質たださんと欲す。
 拙斎竹山已に木に就ついて茶山の説独伸を得たり、人事の変遷是に於ても亦感ずるものあらん。
 
唐山漂流紀文
 御医福井近江介薩摩の人より得しとて写し示さる、左に録す。
 唐山に漂流するもの多けれども、かかる事に心をとむる人少し。
 此外にも尚おもしろき事多かるべし。
 〔割註〕此文本漢字、いま和解して是を録す、閲者よろしく拙きを笑ふことなかれ。」本藩の士税所子長、古後士節、染川伊甫、祇役きやくを小琉球に抵いたす。
 乙亥の秋八月将に帰らんとす。
 洋中颶うみかぜに遇ふ。
 漂流する事数十日、冬十月始て唐山広東省の碣石鎮に抵いたり、広東より江南を経て、凡六月にして浙江省の乍浦港に抵り、留滞五月にして遂に日本に還るを得たり。
 其南雄州より南安府に赴く也、大ゆ嶺を経たり。
 時に孟春に属し梅花盛に開く。
 道の左りに唐の賢相張九齢の墓あり、芳流千古の四字を碑表に題す。
 又数歩にして張公の祠堂あり遺像儼然、左の巌窟中に六祖大師の坐像を安す、神霊如存、側に泉あり六祖清泉といふ。
 磴道里余にして山頂に至る関を得、門に扁するに嶺南第一の四字を以てす。
 関を度て下る左壁に梅嶺の二字を勒す、陟降竟日限之触るゝ所悉く奇観ならざるはなし。
 時に清国嘉慶ニ十一年正月十一日也。
 実に本朝文化十三年丙子正月十一日たり。
 子長往々これを図す、もたらし帰り以て示さる、士節伊南又曲つぶさにこれを言ふ。
 余乃其図を写し其言を記し以峩山の月江師の清翫に贈る、爾しかり己卯八月薩摩梅隠有川貞熊。
 
六惑星の説
 ちか頃六惑星の説あり、この世界さへ渺々びょうびょうとしてかぎりなく、またあらたにいかなる国を見出さんもはかりがたきに、空中世界もまた奇見なり。
 天文は授時の外は何事に用あらん、無用の弁不急の察いづれかこれにしかんや。
 聖人も死をしらずかとのたまへば、又それより遠きは論じ給はず。
 隠かくれたるを索もとむとのたまへるは、北溟ほくめいの大鵬たいほう十万億土の仏の類、みな惑星の説などなるべし。
 余常陸に遊びし時、青塚といふ所より東洋の浜を過るに、はてなき海を望みて河伯亡羊かはくぼうようの嘆のみならず一詩を賦す。
 空中世界惑星光 自古談天総渺茫 此去同倫知幾国
 滄波万里大東洋

盗を逐ふに心得べき事
 備中吹屋村大塚理右衛門名は宗俊は、銅山の事に達せし人なり、或夜ぬす人入て物ぬすみ出んとするを、やよぬす人よと大音上げて追かけしかば、盗人あはてゝ盗みし物もおとし置て逃さりぬ。
 其声におどろき家内のもの皆々馳はせ集りしとき、宗俊云、はじめ盗人入りて我鼻息を伺ふこと再度にして、爰ここかしこを捜し出し静に荷物をととのへて出んとす、其時われ枕刀をぬきて進み出たるなり、始めは盗人の心専もっぱらにして勢もさかんなり、其時に向へば或は怪我あらんもはかりがたし、彼心のままに仕課せて今は気勢もゆるみたるときに、進みかけしによりてぬすみし物もおとし置しなりと語りければ、みな感服せしとなり。
  同じ国何某村に、昼盗の入りしを主人あるじはをるかに見て、棒を提げ其跡を追ゆき、今市といふ町を過るにも声をかけず、町を一町ばかりもすぎて待よ盗人、町を過る時声をかけなば、わかきものどもの棒ちぎり木にて馳集り汝を害せんも計がたし、こゝにて呼かけしは汝をたすくる一計なり、盗みし物をことごと返さば外に望みはなし、いかにいかにと近寄よりしに、盗人土に手をつき詫言わびごとして取しものはことごとく返して去りけるが、其後一年ばかりすぎて、この盗人筑紫のかたより帰りぬとて、よき脇指一腰をもて来りて、過し昼盗してゆるされし命の恩をむくいんといひしかば、主人汝が物をとらんとならば、其時其儘にてかへさんやと叱りたれば、盗人涙をおとして辞し去りぬとぞ。
 今かゝる御治世に生れて水と火と盗との外はおそるべきものなし。
 水は其きたること漸ぜんあれば預あらかじめ用心もなるべけれど、火と盗は不意にいづれば人皆心得べきことなり。
 
火災の時心得べき事
 備後福山、安永の失火に何某といへる者客と双六うちて居たりしが、すは近火よと呼はるをききて戸外に出れば、火燼既に面前かおのまえに飛来る、某内なにがしに馳入て先双六盤を引かゝへて土蔵の口に行、さて思ひ見れば、帳面銭箱など、これより大切なるものいくつもあり、双六盤は焼ともまゝよとて又持かへりてもとの処におきたりと。
 火後に此事を予に語りて一笑しつ。
 かゝる時には先第一に其家にて大切の物何々、是は第一是は第二と分別を定むべき事なりといひにき。
 江戸寛政の失火に、麻布の光明寺の後の岡にて死せし者十余人、其内一人土中に顔をいれて息絶居たりしを、引出して見れば胸腹猶あたゝかなる故に、とかくものしたれば蘇生せしとぞ。
 すべて火煙に取まかれたる時は、土に顔をあてゝをるべきよし平井直蔵が話なり。
 土蔵はひきゝをよしとす。
 予が郷文化の失火は大風にて何も残らず、唯雪隠湯殿のみ大屋の下風に残りたる多し。
 伴蒿蹊が続畸人伝に、失火のときの心得べき事をあぐ。
 皆肝要かんようの事にて中にも土蔵なきものは、急火にて財器を遠く出す間なき時は、塀をくづして打おほひ置て逃去るべし、車長持といふもの用にたゝぬよし。
 考安がいふ近所皆焼たる時、はや土蔵の戸を開きて内を見るべし、かならず大根を口にくはへてそれをかみながら内に入るべし、また煙にまかれて卒絶したるに大根の自然しぼり汁をロに灌そそぐべし。
 
小督局
 小督こごうの局は、天子の寵姫ちょうきにて逃れかくれ給ふに、今のはたはりにてはしれがたき事あるべからず、まして月夜に箏ひき給ふをや。
 されば其頃は嵯峨山まで家たちかさなりて紛雑たづねがたきならん。
 木曾が狼藉ろうぜきのとき、御舟神泉苑をわたり給ふなどを見るに、これより西いかばかりか邸第市てんならん略ほぼおもひ見るべし。
 然るに南郭が詩に、東村西落秋寂々、唯聞喞々草虫鳴と作りしは、今のさまにしてもなほ荒凉にすぎたり。
 当時も負郭窮巷にてはあるべけれども、王公の別荘など多かりつらん。
 されば二句は詩地不肖ともいふべし。
 孔雀楼主人は御史中丞を弾正少弼にしたしといへりしも、詩佳なればなほ佳にせんとおもへるならん。
 
五岳
 登岱とうたい五十韻は銭謙益せんけんえきが詩なり。
 清晨上泰山下山未昏黒といふことを見れば、さばかりたかき山とは見えず、韻流の遊山見物もあり遊憇ゆうけいもありて、所謂折かへしにはあらざるべし。
 又五岳遊草諸記述などに暑中の雪をいふものなし、されば其高さ想ふべし。
 娥眉点蒼がびてんそうなども五岳よりは高かるべし、されどさせる事はなしとなり。
 
異木
 讃州金毘羅より二十町の処某村に異樹あり、幹枝は桃にて葉は桜なり、花は梅なり実もまた桃なりといふ。
 
石分娩
 予州三津浜某が家に盆石あり、それを裏座敷の違棚の上に置しに、文政庚辰の大三十日に一小石を産む。
 翌日見るに傍かたわらにありて其形母石に少しもかはらず、白き筋などもありありと見えて小なるのみ。
 正月中見る人市をなせしと、同国松山人岸恵造が辛巳二月廿五日に話る。
 
カツテの字
 近体の詩にカツテといふは曾を用ひ、このといふは此を用ひて、甞かつて斯二字は全まったく唐詩に見えずといふ人あり。
 夫を聞きて心をつくるに甞も斯もあり。
 只曾此より少きと見ゆ。
 

 赤石退蔵来り話す、備前尺所村こう神祠の榎半朽て蜂を生ず、其蜂の尾樹を離れずして多く死す、未死を剪刀かみそりにてきりたればよろこび顔に飛去る。
 常の蜂は尾すなはち剣別に腹にあり、形かくのごとし奇といふべし。
 文化の末に二年ばかりかくの如くにして其後生ぜず。
 又考安が話に、其ころの事なりし備後田房に考安が外家あり、其家に冬薪を多く買て積たりしが、其中にかしわの半朽たるに多く蜂あり、前の形のごとくして数個珠数のごとく、一条の馬尾に蜂を貫くきてあり。
 かくのごときもの数十条なりし。
 考安も一条に三四箇もつらぬきてありしを、とりて帰り紙につつみおきしが、後にほ尾おのれときれはなれ、其つゝみたる紙を食たり。
 朽木に馬尾のかゝりたるが化生したるにやといひし。
 
地中声を発す
 文政二年春三月、備後深津郡引野村百姓仲介が宅の榎の根の地中に声あり、人のしば吟のごとし。
 其家にては常の人の息のごとくきこえ、三四町よそにては余程大きにきこゆ。
 よもすがら鳴りしは三五日の間前後二十日ばかりにて昼は声なし、夜もまた聞えぬ夜もあり、次第次第に諒かつになりて終にやみぬ。
 今に至りて凡二年になれどもかはりたる事もなしと、松岡清記来り話す。
 
地名
 武陵桃源ぶりょうとうげんの事を用ゆ、其地に小桃源といふ処あるによるか。
 近日の人あまりにわけもなき地名を用ゆるに懲りて、かりそめにも地名の文字によりて其故事など引用ゆるを咲わらふ。
 然ども唐人かくのごとくなれば中条といふ処ありて中条の事を用ひ、牛首ぎゅうしゅといふ処ありて牛首の事を用ふるは、くるしき事にもあらざるべし。
 
曾我物語義経記
 小野本太郎説に、曾我物語義経記は、むかし物語の一変せしにて、其事によりいろいろの事を演説したること、二三介その実事にて七八分は虚飾なり、殊更ことさら児女を悦しむるを宗として、桑間牒上そうかんちょうじょうのあらぬことをとりそへて作り、和歌などをもつくりて其問にはさみ入たる事多しといふ。
 かゝること人物多き処にては、勿論看出す人もあり、またかたりつたへて人も皆しるべし、草野孤居の人にはめづらしき見也。
 凡此頼をしるせしによく人のしりたる事も多からん、我も同じく草野孤居の人なれば、めづらしとおもふてしるすのみ。
 今按ずるに、実録と見ゆる書にもをりをり奇話を挿入たるあり、続太平記にある堂上を海に沈め、其妻をとり、その妻尼になりて後に夫に逢しこと、重編応仁記の雪たゝきのことの類諸書に少からず、其内に実事もあるべけれど拠よりどころとしがたし。
 
詩句
 丹波人植木簡脩かんしゅ〔割註〕名は文剛。」がいふ、人と会して詩を作るに、其坐の事か其人の事かより趣向をたてざれば、数月前につくりてもよし、会集など某月某日と戒ありてより、先つくりおき持出てもよし。
 李于鱗りうりんが秋前一日諸子と会せし詩など、城頭客酔蘆山月と云ふ句会飲の語と見ゆれども、客の飲ぬ席もなく月のなき夜飲もすくなければ、是も何れの筵むしろにても用ゆべし。
 されば三日五日前につくりたるも同じことなり云々、其言議ありといふべし。
 明にて名作といふ高啓が首年父老見衣冠、また如今江左是長安など、謝榛が黄金先賜霍嫖姚、また脊令原上草簫々など浮泛ならぬ処あり。
 これらにても佳なるを見るべし、さりとて其座のこと一々つくり出さば、また混雑して観るにたらざる詩となるべし。
 劉禹錫が金陵懐古の事隋園詩話にくはし、ここに(ぜい)せず。
 又ある詩話に詩佳なれば春遊に秋の詩をつくり、道観にて仏寺の詩をなしても苦しからじなどいふたるは(きょう)のさめたることなり。
 
熊茄子をいむ事
 熊茄子なすびをいむ、深山の人薪たきぎをこりにゆくに、かならず茄子を帯ぶことを見れば熊かならずはしりさる。
 茄子野にあるときは熊胆ゆうたん小なり、茄子なき時は大なり、茄子を見せてとりたる熊は胆きもかならず小なりとぞ。
 又馬に恐る狼は馬をころし、其狼は熊に制せらる。
 物性いかなればかくあるにや。
 〔割註〕高橋文亮話。」

   巻之二

道は一なり行ふにも亦二なしの条
 魯堂先生の話のいまに耳にとゞまりたる中にも、道の事を語られしに道は一なり行ふにも亦二なし、仁義礼智至善中庸克己慎独等、人にはやく知しめんため、とく入しめん為に教たる名なり、人心は一なり豈あに数多あまたの岐径こみちあらんや。
 其名に本より工夫の着手する処より成功をいふあれども、皆一に仁をするの術なり。
 其名の異なるところを知れば、同じきところ自明なれども、今時の人同じき所に意を著る人少し。
 人一事を行ふに是より外によきしかたのなきを至善しぜんといふ。
 行ひの過る事も及ざる事もなく、心の中に一己の私なきを中といふ。
 仁は人なり、天は能く生じ人は能く愛す其理おなじ、愛は仁の見れたるなり。
 されど人は形気の私によりて其愛の理にあたらぬあり、譬たとへば父母よりも妻子を愛し、兄弟よりも朋友を愛し、人よりも馬を愛するの類、また其父母を愛する中にも、父母の心に順したがふを孝とすれども、父母過ちあるを諫を奉らずして其意に順ふも、亦愛の理にあたらぬがごとし。
 義は其愛の理にあたらぬを制して、理にあたるやうにするをいふ。
 されば仁を成さんとするの具なり、礼は愛を身に行ふに其行ひを文にするなり、是も亦仁をするの具なり。
 智は愛の理にあたるをも、行ひの文になるをも、其是非を分別するなり、是も亦仁を成んとするの具なり。
 この三具を以て愛する心も行ひも、皆一様に理にあたらしむれば仁なり、一人を成就するなり。
 三具は仁より出て仁を成就して一となるなれば、仁義礼智合して全仁なり、克己慎独は仁を養ふの術なり、中庸は仁の成功なり、至善は仁をするの標的なり、と此言浅易に説きしやうに聞ゆれ共、いろいろと深くいへば却かえって惑ふ者ある故にかくは云るなり。
 すべて魯堂の道を語らるゝは、かくのごとく穿鑿(せんさく)に過て岐径に迷ふを恐れしなり。
 
変化気質
 目は視耳みみは聴口は味を知る、天下の人皆同じ、目は横に鼻は直頭は円まろく、是もまた人にはかはる事なし。
 人の性も然り。
 視るに明あり昏あり、聞くに聡さときあり聾つんぼあり、味をしるにも嗜好異なるあり、目に大小鼻に高低、頭に長短あり、これ気質なり。
 かゝる事を争ふ人多きはあやしむべしと。
 此話を考安にせしかば、かれも又云るは薬の温凉が性なり、形色気味は気質なり、譬たとへば桂枝の性なり。
 是を粉にすれば形も変じ、炒るときは色も変じ気も薄くなれども、これを嘗なめて辛温なるところは変ぜざるなり。
 然るを薬の性を云ふを非とする医人のあるも、気質の変化と天理の本然を疑ふの余弊よへいなるべし。
 
性悪之説
 或人の云、性悪といひ三品ありといふ者、人と争はんとて仮にいふにあらず、深く考え潜ひそかに思ひ定たるなり。
 気稟ひんの甚濁りたる人はいかほど深く考へても、善なる所は見出すことあたはざる故 に天下の人皆如此かくのごとくならんとて一に悪あしきとは断ぜしなり。
 三品も又是に同じと。
 此は深く識得せる人の説なるべし。
 
罪我者其惟春秋乎之語
 聖人せいじんの言のたふとき事いまさらいふもおろかなり。
 さるを学者はよく知れども童子どうじの輩はこゝに心つかざるべし。
 一日孟子を講じて、罪我者其惟春秋乎といふ処に至りておぼえず感涙を落せし事あり。
 此に人あらん其家僕けらい三人あるを、一人はあしく一人はよし、一人はよき事もあり、またあしき事もあらんに、あしゝと知たるは出ししりぞけ、よきと知たるはとゞめ、よきもあしきも交れるは、悪は禁じ善は勧むべし。
 是は何の法によりてか施すべき、己が心のまゝにものしなば、此の非は彼の是となるべし、此に一定の権衡けんこうなければ、所謂毫り千里にて人間世界あやしき世界となるべし。
 幸に聖人の規矩準縄あればこそ、其裁断も多くはたがはざらめ。
 縦ちたとひ私に物するも右を顧かえりみ左を慮おもんばかりて、大なる違もなきは聖人の恩沢おんたくならずや。
 
欲無言ことなからんとほっすの語
 孔子の欲無言とのたまへるは、空言の人にいへる事、浅きをおぼしたまへるにや、易の爻こうにて人事をさとし、春秋の事実にて邪正をあかし給ふは、神とも妙ともいはんかたなし、われ人おろそかに看過すまじきは論なし。
 は物を生ずるを職とし、地は物を育するを職とし、聖人は物を成すを職とす。
 聖人は天地の生育のとゞかぬ所を輔相する者なれば、其恩の広大なるは言語の及ぶ処にあらず。
 此心を以て聖人の教を視れば、其深遠不測の所を窺ふべし。
 
老子
 老も釈も聖人の為る所をするに心あれど、別に一道を開しは私意ある事をまぬかれず、末流に至りて世の人の害をなす事極りなし。
 釈の害は世の人皆知る所なればいはず。
 老の礼楽を捨て一道を開しも一理あり、三代の礼楽も年久しくなりて末弊出きて、礼は皆虚文となり、人はますます狡猾になり下るによつて、かの無為といふ事をいひ出して、世を太古の淳朴にかへさんとせしにて、あしき心にもあらざれども、これより聖教をも薄んずる人の出きて、人の心かへつてむかしにあらず、其言政まつりごとに施して行れず、遂に刑殺を用ひて、商鞅獄を聴て千里に血を流すに至る、其血万世の下万里の外まで今猶をさまらず。
 されば其これを始て開し人は、千古の大罪人ともいふべけれど、かくなりゆかんとはおもひしにあらざるべし

孟子
 孟子を時勢をしらぬ人なりとて誹議する者あり、 若其誹議者の言のごとく、其時の人情に合はするやうに種々の権謀を用ひなば、孟子も亦蘇張の徒ならん。
 孟子当一策をも出さず、正理をのみ斉梁の君に対こたへ給ひしは、天理人義の極致にて、堯舜其時に生ずるもこれに過ぎたる事なし。
 彼の誹議する人を其時出さば、如何なる事を為さんや、必商鞅のごとくなるべし。
 明の王元美は宋儒を悪みし人なれども、其言に我中庸を読て孟子は子思の弟子なる事を知り、戦国策を読て独り孟子の賢者なる事を知るとあり。
 古人の論は悪んでも其中に取ることありて公論にちかき処も見ゆ。
 今の世の子弟の己がこゝろのごとくに人を見て、古人を是非して道に正すにもあらず、ロにまかせていひ出すはかなしぶべきにあらずや。
 
石材
 白川藩士田井柳蔵の書中に、但馬木の崎の温泉に岩窟のあり、栗林翁これに名づけて玄武洞といふよし。
 其地に黒崎玄冲といふ老医あり、此巌窟へ題名せんとて、先年寡君之書を小生迄乞来し問、さらば何方へ題し如何程にて宜歟尋遣候処、此図を指候、如此候間、題すべき処無之供、此洞前の傍に立石有之、此石にも鐫べき歟と申来り候。
 如此之絶壁ゆゑ洞中壁上猶可題処も可有之と申遣候へども、決断して未来申候、備後よりは数十里隔り候へ共、嘸其地この窟を見たる人も可有歟先生へ御相談申上候、奥州南部蝦夷を望候地に材木村といふあり、其村辺山野海島に至る迄皆材木のごとし、方四五寸ばかり村民これを取て屋下の床に用ゆ、或は橋に架し候、石質堅く鉄に類し、又奥州出羽の界に小坂峠といふ所有之候、此山中材木石あり、山岨崩がけくずれ落かゝるを見れば、半倒れ掛りて扇の骨を立るごとし長数丈なり、亦四五寸角なり、同州会津辺にも材木石あり、土人橋に作り欄干に作り皆此石を用ゆ、対馬にも木板石あり、長四尺許広四尺厚三四寸土人橋となし畳になす、天然の板石なり、此石重畳して対馬一島をなすと申事に候、木の崎の石窟もまた此等の預か、件の右辺竹の節のごとき者見え申候、図を以て考ふるに此節間の処より欠落候者歟と被存候云々。
 此書によりておもふに、筑前にも一島皆石にて束ねたる薪を積たるがごときあり、内は洞穴にして船出入す、福岡より西にて遠からず、備後の山野村といふに面背平かにて厚二寸余にしてかんなにて削れるが如くなる石あり、庭の飛石などに宜けれど取り用ゆる人少し。
 
徂徠学
 堤兵蔵〔割註〕京の人、号は一雲。」の話に、朱子の学は老人の子弟に教るに、謹慎なる事のみをいひて不善なる事は必ずしてはならぬ、よからぬ人とは狎交まじわるな、酒ものまぬがよし大食もすなと、 日夜にくりかへしていふがごとし。
 徂徠の教は老人の偏屈な事をいふごとくにもならぬ、年少き時は酒も少しは飲てもよし、娼妓の席にも時々は遊んで見ねば人情にも通ぜず、智もひらけぬといふが如し。
 それを当時はおもしろき事におもひて、我も我もと其説を演述したけれども、近頃ははそれ程に勧めずとも、わかき時は放蕩にはなり易き者なれば、老人の深切にいはれし言はすてられぬといふ処に、心のつきし人あれども、一度ゆるせし放蕩は容易にひきかへし難し。
 畢竟ひっきょうするによからぬ処へはゆかぬがよきと云人多しと。
 また或人の云、悪事を為せば地獄に堕ちると云によりて畏れし者を、悪事は為しても極楽に生るるとの云の教あるも、彼少わかき時は放蕩も少しはくるしからぬといふに同じ心にやと。
 或人の言に、徂徠の教にては子弟放蕩になりやすくて、其親兄弟も学問をする事を制するやうになり、今また朱子学を為にも珍しからぬによつて、少しはかはりし事をいはねばおもしろくなきと思ひて、陸王の学を唱へる人も出来しなり。
 皆時好に趨はしるにて己が為にするの学にはあらず、其心は放蕩をゆるすも格別の違ひはなしと、考安が来りて話せし。
 
学問行実
 凡大なる者を立れば小なる者は夫に従ふ、学問の第一は行実なり。
 其行ひを先として聖経の帰趣を求め、時論に応じて道を(まも)り異なるを開くを勤るは学問の大処なり、宋賢の業是なり。
 今時の人訓詁文字の異同を正すを事とするは小なる者従ふなり。
 前に諸君子なくんば、老仏の盛さかんにして後の学者これをひらくに暇いとまあらざるべし、大処既に明らかなれば今時小処を捜索するも可なり。
 されど其行実を心とせざるは今の人の目の着ざるか、抑そもそも自棄して小成に安んずる疑ふべきなり。
 
不弟を誡めし事
 一弟ありて其兄と同じく学問をなして、名望の兄にしかざるを恥て、やゝもすれば人に対して兄の短を云ふ。
 或人これを教ていふ、足下そくかと令兄れいけいと博学ひとしく詩文ひとしく、手かきすることまで、何一つも令兄に劣たる事なくて、名望令兄にしかざるは徳行のおよばざる故なり、若もし足下そくか令兄にかたんとおぼさば、今より心を改めて徳行を脩めなば、やがて令兄よりも上に立なんこと必せりといひて。
 弟大に悦び日夜言行を慎み、二年許も経て二難の誉あるに至りしかば、弟の驕慢きょうまんいつのまにかやみて兄をそしる事なきのみならず、兄を敬ひつかへて人の耳目を驚せし事あり。
 孟子斉梁の君に王道を勧められしも、斉梁の君若よく孟子の言に従ひ王者の徳に同じくなりなば、周室をいかがせられんや、周王もまた二国の君をいかゞなし給はんや、孟子を読もの此等の事をおもふべし。
 
肝積かんしゃくもちの事
 今の世に肝積もちといふ者幼少より親の愛を恃みて驕奢放肆きょうしゃほうしにそだち、富るとて人にかしづかれ、位ありとて入に諛へつらわれて何事も吾意のごとくなるより、一度意に忤さからふ事あれば、俄にわかにはらたち顔色四体に見あらわれ、或は物へゆかんとおもひしに、さはりありてゆく事を得ざれば、庭の内をあるきまはりて坐し得ざるあり、或はありあふ器物を庭に投げ、柾に打つけて砕くもあり、或は妄りに人を罵りまた妻子婢僕を打擲するもあり、甚しきは刀をぬき鎗をひらめかすもあり、或は一日に幾度となく手をあらひて人の物をば皆けがらはしくおもふもありて、大抵他人よりは、かほどの事は堪忍もなるべきにと思はるゝ事を、己が気より心をおしたてて、自やめとゞまる事のならぬは、皆幼少よりの驕奢放肆にて、一種の気質をやしなひたてて、所謂肝積もちとはなりたるなり。
 予浩然章を講ずるに、此説をいふて直を以て養の反対とす。
 
過ちを餝かざる説
 凡吾なしてよからぬと思ふ事も、不得已やむことをえざるにせまられては是をなし、またなすべき事と思ふ事も、已む事を得ず迫られて是をなさゞれば、人の笑ひ謗そしらんもはづかしく、また吾心にも慊あきたらずしてかの気餒うゆる事多かるを、告子が心にならへるか、亦小人の過ちを文かざる類にて、人めをまぎらして吾が羞愧しゅうきをゆるめんとする歟。
 古人にもこれあるに似たり、司馬炎が君を弑しいしても何とやらん安からぬ処ありて、阮籍けい康等を至孝至慎などいひて人の視聴をまぎらし、阮籍けい康等も亦佯いつわり狂して荘老の道はかくあるべし、必しも名教に拘はからずと人にも思はせんとするの類、王安石張商英が類、仏に佞ねいして聖人の教を必とせざる意を示す。
 近時に阮亭けい庵など号せる人あるも、弁髪こん頭を愧はじる心やるかたなく、是に托して意気を作すべし。
 三代以来人物多し、徳行事業に論なし、酒を嗜む人詩文に長ぜし人、遊衍ゆうえんを好む人其人亦少からず、それをすてゝけい阮をしたふ心、さてもゆしがたきに似たり。
 
荘子
 荘子は身を危ふくする事を第一の恐れとす、故に危難の地に臨ぬ事を主とせり。
 長沮桀溺荷き丈人ちょうそけつできかきじょうじん、接輿せつよの類の既に聖人に取られざるを見て、必しも名教を信ぜざる旨を説出し、四人の者の如きの嘲あざけりを解き、己が礼法を廃棄するのいひわけを上手にせしなるべし。
 其心は阮亭けい庵にいくばくも異なる事なし。
 
道のうへに異説をなす事
 或人の宋以後は、明清亦吾土にも洛みんのか学を用ひらるるはあやしき事なりといへり、今細論にはおよばず。
 聖人の道を行ふに我身を脩るを始として実用をむねとし、異端をひらきて疑しき事なくせられし故なるべし。
 後世宋学を詆ねぶる人、前に洛みんの諸君子なくんば、己れかの諸君子に及ばすとも、宋賢の如き学はいふべし、大事を窮きわめずして訓こ文字の小事にてはやむべからず。
 思ふに宋以後の学者達は、洛みんの諸君子既に道を明かにせられたれば、洛みんの諸君子にまかせて置くこゝろなるべし、たまたま道を論ずれば道は本なき者なるを、聖人の造作し出せるなりといふに至る、あまりに異を立るにあらずや。
 
偽書
 賓興ひんこうの英俊えいしゅんの士、進取の道に遊説の外せんすべなく、聴用せられんことを求むるに急なるより種々の虚説をなす。
 周公の吐握、伊尹寺いいんじ人瘠環百里奚の事のごとき、孟子これを弁ぜられずば後世誰か其非を覚さとさん、みな己おのが出進の道に恥る事多き故に、人の謗そしりを防ぐ為にこしらへたるなるベし、当時の勢と人心ども思うべし。
 漢興おこりて挾書の律を廃し献書の道開れしより、一書を出す人は名も利もそれに従ひしと見えて、さまざまの偽書を作り著あらわせしなり。
 大抵孟荀老荘韓非呂覧等の外は真物はまれなり。
 今の書を読もの此二事をしらざれば、無用にカを費し心を惑す事多からん。
 
卜筮ぼくぜい
 卜筮の験しるしあるは、何を以てしれる事にやと問う人ありしに、或人のこたへに、嫌疑猶予を決するに寄か偶かと物をなげうちて占ふが如し、其応否おうひは問ふに及ばぬ事なりと云。
 余はしからずとて中庸先知の事を援ひきていひし事ありしが、今おもふに遠く書を引きて云をまたず、凡天地人は一気にて此に呼べば彼に応へ、感ずれば通ずるの類にて一つも験なきはあらず、肉眼ことごとく見る事を得ざる故なるべし、或はきざして変じ、きざさずして忽然と出来るもあるべし、故に人ことごとく是を見ず見ても信ぜず意とせざるにや、俗諺ぞくげんに人をそしらばめしろをおけ、呼よびにやるよりそしるがはやきのごとき、其人来らんとする機既に此に応へて、おぼえず知らず其人を思ひ出るに因りて誹謗の言も出すなり、此等の事にても思ひ半に過んか。
 
史類を読に可心得事
 白石の説に、史類を読には勝方負方かちかたまけかたといふ事を看破せざれば、実事を思ひ取りがたしといへり。
 陸秀夫の舟中にて大学を講ぜし、平家の舟中にて除目を行はれし事など、後の世のわらひぐさなれど、衆心の動かざる為にせし一策なるべし。
 さなきとて舟中にて軍の手配の外に、何のなすこともなければ、将は降くだらんとし士卒は逃れんとするの謀はかりごとをなさんもはかるべからざればなり。
 玄旨公の嬰城の中にて和歌を講じ給ひしも別意にあらざるべし、されど是をそしる人なきは勝方なればなり。
 
楠公
 楠公なんこう父子は南朝の忠臣にあらず吾国の皇統の忠臣なり。
 尊氏謀反むほんして先大塔宮をしいし奉りしより以後のしわざ、八幡太郎義家の子孫天下を取しめんといはれしなどいふ言をこしらへし事を思ひ合するに、数箇度の敗衂はいじくなくば、論旨を申下す意こころを生ずることはなかるべし。
 尊氏初意のごとくならば今日いかなる天下になりなんもはかるべからず、されば北朝のたち給ひしは、楠公諸将のカによる事あきらけし。
 
小早川黄門
 小早川中納言殿三原の館におはしける時、京の人来りて此頃京わらんベの謡うたいに、おもしろの春雨や花のちらぬほどふれかしとうたふよし語りければ、中納言殿感じ給ひて、夫はすべて物事に渉りてことわりある謡うたいなり、いかばかりおもしろき物も能程といふ事ありて、茶や香やおもしろくても、猿楽のうがくがおもしろくても、学問がおもしろくても本業を喪うしなはぬほどになすべき事なりと仰られしょし。
 いかにも茶香猿楽の類たぐいはさる事なれども、学問して本業を喪ふとおほせしは本意違たがへり。
 学問は身を修め家を斉ととのへ国天下を平治するの道なれば其本業を失ふは学問にはあらず、身修り家斉ひてはいかで本業を失ふべきや、此人は当時学校を建給ひし事もあるに、其時真儒に遇給はぬは千歳の遺恨ならずや。
 詩文博識にふけりて身をも家をも忘れて、乱世には国を喪ひ治世には父母妻子を饑寒に至らしむるの輩ともがらすくなからず、此等をのみ見給ひて真の儒学は当時なかりし故にかくはのたまひしなるべし。
 今時また己が身をも反視ず聖言をも畏れずして、妄りに論孟の註を著あらわし古賢の伝註を毀そしる者あり。
 聖賢の語と己が身の行ひとをくらべ見ばいかゞあらんや。
 
大石良雄
 大石内蔵介細川侯の邸やしきに在し時、茶坊主二人を附て其便用べんように供せらる。
 其明日は切腹ときはまりし前夜に、内蔵介後架にゆかれしに、彼茶坊主一人はは手燭を持ち一人は湯をとりて従ひしが、たがひに涙を流し声を呑てかなしびければ、内蔵介これを見て何故にさは泣るるにやと尋られしかば、二人答へて吾等此ほど御傍にありて御懇意をうけ申せしに、明日は御別れ申になり候ひぬ、御名残惜く候て覚えずかくはなげき候といひつつ、又むせかへりて泣ければ、内蔵介は顔色もかはらず、こは吾覚悟にもなるべき事をよくこそしらせたまひつれ、扨久しき間御苦労にあづかりし事一方ならず、吾もなごりをしく候、何ぞかたみに参らせたく候へども持来たりし物も候はねば、是は持ふるしたるものなれどゝて、一人には紙いれの嚢ふくろ、一人には腰さげの巾着を与へられけるを、その二人の家今に宝とし伝へたり。
 大石はかりそめにも人のなつきしたしむ人なりしと、西依先生の話なり。
 
軍中艱難
 軍中の艱難危殆かんなんぎたいはいふことをまたず。
 水野侯〔割註〕日向守勝成。」西国におはせし時、宇土の城攻に従ひて寄手よせて既にちょう下に逼せまりしに、後より呼はりてそれなるは六左衝門様〔割註〕日向守はじめは六左衛門と称す。」にておはさずや、私は主人を見失ひ候へば御供に召連くだされよといふ、侯其声はやくも聞しりて、清吉なるかはやく来れと仰らる、清吉び侯に近附時忽ち銃丸てっぽうに中あたりて仆たおる、銃てっぽうは矢挾間やさまよりさし出して打を見て、侯とびかゝりてもぎ取給ひし事あり。
 かゝる事は聞もおそろし、清吉が主人は手負いて半途より帰りしなりとぞ。
 又備後神辺に軍いくさありける時、一女ささげ豆を採て帰るを見て、軍兵ども声々に、其ささげ豆を沢山に採てひたしものにしておけよ、やがて立よらんといふ、女はおそろしながら其言のごとくにせしに、程なく多勢入り来りて手ごとに取くらひ、銭をあまた投出して帰りける。
 其家には余程徳つきたるよし、今七日市といふ巷まちの中程の南側の家なりしといふ。
 杉原の時の事なるべし。
 又同じ所に尾道屋といへる酒造家あり、其頃軍ある処を聞て遠方までも酒を舟にて運送しうりあるきけるが、いづれの酒造屋も皆かくのごとくなりしが。
 尾道屋一とせ九州の軍に酒あまた売て利を得しかば、又の軍にも行んとせし、隣村に中条といへる処の寛水寺寒水寺の住僧、占ひをよくして此度の軍には、利なくして怪我あるべしといひし故、ゆかざりしに、外の行しものは皆損亡して返りしとぞ。
 又同国の尾道に住屋といふ酒造家あり、大坂陣の時酒をつみのぼりしに、とある道にて塙ばんの団右衛門に行逢ひしに、団右衛門初め浪人にして尾道にありし故に、住屋も時々出会せし事ありて相識るによつて馬上より声をかけて尾道に在しときは大に御世話に成たり、無事にて目出たく候へといひ捨て鞭むちを揚て行しとなり。
 されば戦なき時は又ゆるやかなる事もあるにや。
 
伊達政宗
 伊達中納言殿は、耶蘇やその本国阿媽港呂宋などの国を征伐せんの志のおはして、酔余口号すいよくごうの作に、
  邪法迷邦唱不終 欲征蛮国未成功 図南鵬翼何時奮
  久待扶揺万里風
 かくはおほせしかど、事故しげくして終に及ざりしとぞ。
 又此人の詩に、
  四十年前少壮時 功名聊復有私期 老来不識干戈事
  只把春風桃李巵 馬上青年過 還家白髪多 残く天所縦
  不楽其如何
 一には三句を昇平今若此かくのごとしに作る、伊達譜に見ゆ。
 
曹源院画賛
 備前の曹源院殿といふは芳烈公の令嗣れいしなり、ある時許由きょゆうの画をもて芳烈公に賛を乞給ひければ、
  耳をあらふ心の水はきよけれど流はくまじ世をめぐむ身は
 とかゝせ給ひしとぞ。
 此公の心うたにもしられたり。
 
後藤基次
 後藤又兵衛戦死すといふ偽にて、潜に落失て豊後日田の近側かたはら山中村に住す。
 筑前の野村新右衛門といふは又兵衛が聟むこなり、これにかたみに遺せし鎗などありとなり。
 又兵衛こゝに住てひまをうかゞひしと見え年を経しが、一日遠方に行暇乞いとまごいなりとて、村中の人を招て酒など飲せて人去て後に腹切りて死せしとぞ。
 大なる墓今尚その村の山中にあるよし平岡玲蔵の話なり。
 
源実朝大船を造りし説
 鎌倉の右大臣もろこし何某の後身なりとて、大なる舟を造らせて渡唐せんとせられしに、其船あまりに大なるによりて海浜にうかばず、其事終にやみにけり。
 当時鎌倉も穏ならず、いかで此狂謀をばなし出し給ふべき。
 今思ふ其身権臣に制せられて、やがて害せられん勢の朝夕に見みはられし故に、いかにもして北条を謀はからんとせられしなるべし。
 果たして其謀のごとく多勢を引具して、船にうかびて畿内中国にもあれ筑紫にもあれ旗挙はたあげし給んに味方せざる人あらんや、たとひ運つたなくして討死し給ふとも、銀杏樹下の惨しんにはまさりなん、右大臣殿心なきたしもあらざるべし。
 周宣帝の宇文護うぶんごを手匁しゅじんせしは格別の手段なり。
 和漢前後希有けうの事なり。
 
韓廏かんきゅう
 備後三原の城中に韓廏といふものあり、小早川中納言殿の建られしなり。
 是は大将の居間ちかく馬をつなぎて、大将つねに束帯或は甲冑かっちゅうにて騎り試み、或は手づから草かひなどする為なり。
 さなければ大将を見知らず馴ず、またよそほひのかはやたるを見て驚きなどして、事に臨みて意のごとくならざる事ある故に、常にかく習はしむるなりとぞ。
 桑名少将公集古十種編輯し給はんとて、古書画古器の類を捜し求め給ふ時に、此図を見給ひて小早川殿の故実に達し給ひし事を歎賞たんしょうしたまひしよし。
 
堀田筑州金言
 麾下きかの何某の町奉行になられし時、堀田筑前守殿の必らず相手にならぬやうにあれかしと申されしに、何某其時は合点ゆかざりしが、訟うったえを聴にいたりて始めて心付しといはれしとぞ。
 訟を聞は公の事ながら、悪にくしとおもひむつかしとおもへば、必其人を我が相手と思ふやうになる者なり、我詞わがことばするどくなれば其人言を尽すことあたほず、必かたきゝになりて取さばき平かならず、相手になるなと言れしは金言なりと、子孫にもいひ置れしとなり。
 
物は漫みだりに棄べからざる説
 魚の骨はすてて猫犬も喰はず、長門の人何某が家に滝川あり、そこにてさらすこと数月の後に、粉にして味噌にまじへくらふに其味甚だ美なりと、円識上人のかたられし。
 余が家には滝川なし、是を聞て後に一大壷を地に堀入れて、すべて捨べき魚骨を其内に入れて水をたたへおき、時を以て樹木の根にうづむに、樹木の蕃茂はんもする事常ならず。
 物はみだりに捨ることあるべからず、敗物とて用をなさゞるものなし。
 
家語の註
 岡白駒が孔子家語けごの註をつくりしは、太宰だざいが同じ註をつくるよしをきゝて、其日より筆を起してやがて彫刻す、其時太宰が註はいまだならざりしと。
 魯堂先生まのあたり見しままをわれにかたられし、四十年前の事なり、叢談そうだんにかきしは其実にあらず。
 
奇病
 此頃友人小寺清光がかける記事を見るに、其事奇なるに依と左に記す。
 文政五年夏本邑篁後巷文助者ようを患わずらふ、六月二十四日よう潰てニふたつのいしもちあり、膿血うみに随て出づ、よう亦稍ようやく愈ゆ、其子茂平異あやしみてこれを語る。
 以て文助に問ふに、曰信なり、其長さ寸余尾ありて首かしらなし、鱗鰭うろこひれ■に全し、蓋是嘗て此魚を好む、其沙礫されき多きを以て皆其頭を去る、然しかれどもすでに食せざること数月、今出て鮮あたらしく且全かつまたきは何ぞや。
 予文介の言を聞益ますますあやしを嘆たんず、夫それ熟して後食之、糜してこれを咽のむ、安いずくんぞ鮮あたらしく且全を得んや、人の腹中食を受る処あり、また何ぞ背よりして出るを得るや、稗官小説或は恠疾かいしつを載て未だ斯類の事あるを開かず。
 是によつてこれを観れば、世の奇恠きかい非常を伝ふるもの概して妄誕とすることを得ず。
 文助少わこうして我に傭ようす、故に其事を詳つまびらかにすることを得たりといふ。
 備中笠岡小寺清光記。
 
珍書考
 此頃珍書考ちんしょこうという書をよむ。
 彼書はやごとなき家の著述にて、珍書といへば奇妙なることゝ思ひしが、さはなくて俗説弁の類なるものにて、世俗のあやまれることをえらび出すれども、さして学者の用をなさず、日本と諸越しょえつと同じこ、とも多かるべき、皆諸越もろこしの事より誤り伝へしなどいふ事を決せし書なり。
 然ども予が輩ともがらの書をよむこと少き人には大益あり、みな人よむべき書なり。
 蝉丸の事を証せしなど、かの延喜の朝にかゝることあるべしとも見えず、ことごと敷弁ずるにも及ばぬ事なれど、其引証は一つの異聞なり、書よまぬわれらがごときはよみてたすけを得る事多かるべし。
 
菅谷何某
 河相周二が話に、赤穂義人の菅谷何某国除かいえきの後備後三次にありしが、足跛耳聾ちんばつんぼにて毎日いでゝ魚を釣り遊ぶを、市童あつまり嘲笑す。
 かくて半年ばかりにして近隣に暇乞して出しが、其後三次の郊外まちはずれニ里ばかりにて、三次の人他処より帰るに行逢ひければ、聊の用によりて故郷へ帰るとていとま乞して過し、其顔色常よりもゆゆしく、足も跛ちんばならず耳もよくきこゆと見ゆ、其人あやしみて人に語りしが、後におもひあはすれば、復讐の前さらぬ体にもてなし居たるなるべし。
 考安云かの菅谷三次に伯母のありて其家に寓居せしが、毎日沈酔して酒債もおほかりしが、つねにつぐなひがたくてこまりたるを、伯母のともかうもしてつぐなひつかはしけるが、其三次を去りし後に見れば一々債家の名を録しるし銭を残しおきたるとなり。
 考安外家に一老母あり、其父はよくその事を見聞けんもんせしよし。
 
亡国弊政
 赤穂国除かいえきの前つかた、大野某政まつりごとを執り蠧弊とへいはなはだ多く、大石よりより諌いさめをいるれども用ひられず、閉門逼塞へいもんひっそくなど年に両三度にくだらざりしに、国除だんぜつせられけるを国人は、かへりて其弊政へいせいのやまんことぞとおもひて悦びしとなり。
 小人しょうじん用ひらるれば君子退き下の人其憂ひをうく、其鑑かがみあきらかならずやと大川良平の話なり。
 良平は赤穂の人、其ニ三十歳の頃は元禄の変の頃の人、幾年も存生して其事を歴々といひしとぞ、〔割註〕西山翁話。」

熊谷直実遁世
 熊谷直実出家して敦盛の菩提を吊とぶらふといふこと、太宰徳夫さへ事実と思い文にもかけり。
 僧円識は長門の人なり。
 其話に大江広元袖日記といふもの長門にあり、直実一族と田地の堺を争ひ訟に及びしに、直実吃して対決に負て其憤いきどおりにたへず出家すと見ゆと。
 又考安云、法然上人伝記に法然上人月輪殿にて経を講ぜしとき、供に候こうせし僧次の間にて欠伸あくびす、月輪殿いまのあくびは坂東声なりいかなる人ぞと問給ふ、上人こたへてこれは開し召も及ばれ候はん熊谷二郎直実と申て弓取の剛の者に候ひしが、鎌倉殿に恨みありて、遁世いたし申たるにて候と申さることあるよし、其後東鑑を見しにかの事詳に載たり。
 直実はきはめてはらあしき人と見えて、おばむこの直光といふ者と訟におよび、梶原平三が直光に党するを憤りて訴の庭より逐電ちくでんせしとなり。
 
児教
 詩の工拙こうせつにかゝはらず、悦ぶべくかなしむべき事にあたりて作れるもの、杜子美諸将としみしょしょう等の作、韓吏部かんりほうの藍関らんかん、東披の獄中、陸放翁の臨終、文天祥方孝儒等の忠憤ちゅぅふんの作などをあつめ、小伝をへて集となし、今の子弟の三体詩唐詩選等にかへて読しめば、人を導く便たよりとなるべしと人にかたれども人是をせず、ひとり西山翁のみ是がために岳武穆がくぶぼくを吊する詩、たれかれがつくれるを数首抄出しておくらる。
 余病懶びょうらんいまだなすことあたはず、考安も吾邦の正史野史の中より、聖主賢臣烈士貞女の詔勅文章詩歌を集めて、其時の事実を小序にかきて、一書となさまくおもふよし語りしがいまにならざるや。
 
楢崎景忠
 楢崎十兵衛尉景忠といふ人備後の府中に住す。
 水野侯入国の時に景忠がことをたづねられしに、此もの大坂籠城の士なれば咎とがめあるべしとおもひけるにや、処の里正しょうやより既に死せしよしを偽り申ければ。
 勝成公歎息して、大坂城中にて二十四反の母衣ほろをかけ、貫木を飛越したるをまのあたり見うけぬ、大力の精兵当時名誉かぐはしかりしもの、あはれ世にあらば禄千石はをしからずとのたまひける。
 里正これを聞て悔れども詮かたなかりし。
 楢崎は同国久佐村二子城にありし楢崎加賀守豊氏といふ人の後なり、豊氏正慶二年足利より蘆田郡の地頭に補せらる。
 
大和小学
 大和小学は闇斎先生の著なり、其中に礼は朱子の儀礼ぎらい、経伝通解けいでんつうかいに黄勉斎こうべんさいの続ぞくをくはへ其上に三礼を見るべし。
 春秋は四伝、扨さて通鑑綱目つうがんこうもくを見て筆法をかたり、 易は啓蒙本義を本とし程易は別に見よ、楽は蔡季通さいきつうの律呂新書りつりょしんしょなどゝあり。
 然るに今の闇斎学をいふ人、一口に四書小学にて何事もすむといひて、他書を読ざるはいかなる故ぞや、読に前後緩急はあるべけれど、人のよむをもこのませぬやうに見ゆるはあやしむべし。
 ここにはさとらざれどもかしこにて知り、東にて通ぜざるも西にはとゞこほらざることあり、人の性質いろいろあるゆゑに、聖賢もさまぐに教喩したまへり、これを大事と見定めて其余をすぶるは、浮屠ふとの一宗を立るに似たり。
 ひとつにてすむといはゞ孝教にてもあまりあり、小学にても足らざることなし。
 
三国人傑
 三国の人才諸葛公第一は論なし、余其亜つぎを魯粛ろしゅくと断ず。
 魏の強大と呉主の才能とをはかり、二国力をあはせざれば必かならず魏のために亡ほろぼされんを知り、荊州けいしゅうをばとらぬ、心と見ゆ、其智公瑾子明きんしめいが上に出たり、仲謀これを呂子明りょしめいにおよばずみだりに大言たいげんせる人なりといふは非なり。
 
   巻之三

知行貫ツモリの事
 天正以前の知行ちぎょう千貫といふは今の二千五百石に当ると、土佐の戸部助五郎良煕よしひろの説のよし。
 もと聞きし説には、永楽銭壱貰文銀六拾匁にあたりて、米一石の直あたひ六拾目と定めて一貫は即一石なりと、いづれか是なるや。
 備後の杉原盛重は知行七千五官貫といひ伝ふるに、乱世に城五ケ所もちて、それぞれに軍兵を篭こめ置きて軍しても強かりしかば、一貫といふもの右の二説より多かりしにや。
 
烏有先生
 垂水たるひ広信は烏有うゆう先生なり、垂氷たるひといふ姓は昔より聞ずといふ人あり。
 然ども姓氏録に、垂見史たるみのふひとは彦狭島命ひこさしまのみこと之後、又垂水公きみは賀表真雅命之後と見ゆ。
 北条士譲は志摩人なり、伊勢には今なほ広信の裔孫えいそんありといふ。
 近頃南方紀伝を見るに、京より伊勢を攻し時、国司より垂氷鳥屋尾方等を岩田川雲津川に遣してこれを防ぎ、垂水藤方に何其々々等の城を守らしむる事あり。
 
勇将文学の事
 出羽米沢の人神保甲作が話に、かの藩中に直江山城の訓点くんてんしたる唐本の両漢書、前田慶二郎が自輯あつめたる円機活法えんきかっほうの如き書あり、大巻一本にて軍中常に首にかけて往来せしものと見え、末巻には自作の詩歌を録せりとぞ。
 慶二郎が勇猛なる事は野史にても多く見えたれど、かかる事は聞きも伝へず。
 すべて野史の類其勇猛をのみ伝へて、風流文字の事はもらすもの多し。
 謙信の詩に、露下軍営夜気数声過雁月三更といへるもあり。
 
大西南畝
 いつのことにや大西南畝といへる医人ありて、讃岐の高松侯に召出され十五口俸にんふちを賜ひけるに、藩例にて礼廻りとて老臣の家に歴拝する事あり。
 かれはそれをせず、
  千里ゆく末たのみある荒駒のはむにはたらぬ露の下草
 といふ歌をかき出せしよし。
 不敬といへどもまた異人なり。
 
加藤清正相法を学びし事
 宗朝の美なければ免る事難かたしとのたまへるを、男色といふ説あれども、色には盛衰ありて久しきを保ち難し、凡およそ人にやさしくて愛すべき顔色あり、其人の物をそしりなどするはさばかり人意に忤もとらざる者なり、又にくさげなる顔色の人は、物を誉ほむる話をしても人信ぜぬあり、是等より推して思ふべし。
 或法吏よりきの話に、訴を聴に其人の顔を見ず、美なるをのこは必其言やさしく聞え、醜みにくげなるは其言もまたにくさげに聞え、臆病なるは眼リがんせい定まらず人を惑す事多しと云ひしよし。
 加藤清正も人の視がたきを苦み相術を学れしとぞ、其心崇たっとぶべく亦あはれむべし。
 
朝鮮人の説
 四方の国北狄ほくてきより強はなく、琉球より貧弱なるはなく、朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なき事甚し。
 膳案をさゝげゆくに半途にて其中の嘉味かみをとり食ひ、又燭台に立てたる蝋燭をぬすみ食ひ、或は席上に尿ゆばりし坐側に唾す、僕従など庁前に鼾睡いびきするもあり、物しれる輩ともがらも詩を人に送るに号を書するの類あげて数へがたし。
 箕子の化も年久しくてかくなり下くだりしか、唐山の人これを礼儀なりといふもいぶかし。
 
備後三郎姓氏
 備後三郎高徳は児島三郎とも云、児島は在名にて姓は三宅なり、父備後守なりし故備後三郎と称す。
 佐々木盛網に児島を賜はりし事ある故、其子孫ならんと推量して系図などあつめし書に、近江源氏なりといふは謬説びょうせつなり。
 
忠僕伊平左平の事
 伊平左平が忠義といふこと曲本きょくほんに見え、いづれも烏有うゆう先生なりとおもひしに、備後の府志を修おさむる時六郡志といふ書に、本州安那郡湯野村の人とある故、ここかしこの古墓を捜ぐり尋たれどもしれず。
 此頃聞きしに、其西隣道上村に伊平左平が墓ありて除地二十歩あり、今は伊平が子孫のみありて、左平が田宅も伊平が子孫に併せたもつとぞ、其墓古塚にて二三百年の後のものとは見えず。
 伊平左平は入江といふ家の家僕にて、入江は杉原の家族薮路村の塢主なりとぞ。
 
高山彦九郎の伝
 彦九郎は上野新田の人なり、余はたち許の時来りて一宿。
 其話中古より、王道の衰へし事を嘆きて甚しき時は涕流ていりゅうをなす、歴代天子の御諱いみな山陵まで暗記して一つも誤らず、乱世には武者修行と云て天下を周遊する者あり、今治世なれば徳義学業の人を尋ねありくも、少年の稽古なりとおもひて六十余国を遊観せんと志し、一冬袷衣一ツを着て露宿のじゅくして試みしに風をもひかざりしによつて出遊をはじめしなりといふ。
 其人鼻高く目深くロひろくたけたかし総髪なり。
 此人備前の閑谷の学校に宿して其学制規約などを尋しかば、教授の人本一冊を出して示し、其翌あくるひ早くかの寝たる所にゆきて見れば、彦九郎はなほ燈に対して其本を写し、既に半頁ばかり残りたるをやがて写し終りぬ、凡五十葉許の写本なりしよし。
 それより播磨に赴き姫路の北郊に相識の人ありて一宿す。
 翌日晩際にいとまを乞て出んとするを、主人とゞめて時は節季なり、日はくれかかれば明朝たたれといへども、但馬にゆきて年内に京へ出で、内侍所の御神楽を聞に日数限りあればとて強て出しが。
 扨其翌春かの姫路北郊の百姓小罪ありて獄款入り、其赦ゆるされ帰りて獄中の事どもかたる中に、山賊と同じ獄に在ていろいろの話に、そこら多年山賊をなして深山に夜を明しておそろしき獣などにあひしや、又天狗などいふ者を見しやと問しに、賊のいへるは十余年山に棲て一度もおそろしき者を見ず、唯一度有之、去年何某月何某夜、何某の山中にたたずみ人を待しに、大なる男一人出来るを見て、吾等四人立ふさがりて酒銭さかてを乞しに、其人大音にて慮外者めと叱りて、傍に人なきがごとくのかのかとして過行きしかば、四人はおのおの尻もちつきて暫く物もいはざりし、其声の大きさ山に響てすさまじく、ややありて其人を見れば半町許も行過て、跡を見かへりし眼光りておそろしき事限りなかりし、是こそ天狗などいふものにてもありつらめといひし、其賊の顔もおそろしげなりしと。
 此事を彼主人聞て月日を数へ、其時刻と其地とを考ふるに其人は必らず彦九郎ならん、かの山中を節季の夜半に一人すぐる人外にはよもあらじと、割を巻しよし。
 彦九郎江戸に在し時、新田のあたりに首姓一揆起りしと聞て、取るものも取あへず急ぎ帰る、頃は未すぎ申の時許なりしが相識人のもとに立よりて、其人の妾てかけにしかじかと語りて出づ。
 其の夫の帰るを待かねて其よしをいふに、其夫驚きて夫は聞捨にならず、彦九郎は正直にて気はやきをのこなれば、事によりては命を捨んも計りがたし、吾は是より追付て事をはからん、汝はたれかれにも告しらせよと云つゝ出ゆけり。
 夫より人々にいひつぎて追々にしたひゆくほどに、凡同志の輩三十人許夜道をいとはず路程二十里余り、彦九郎は翌早く馳つき外も追々午時ばかりに追付集りしが、一揆は既にをさまりしかば晩に打連て江戸へかへりし由。
 頼万四郎其ころ江戸に在てくはしく其事を知りて、此輩乱世にあらば一方をふりむけて大功を立べしと、時々かたりて嘆称す。
 扨其地に偉人あるは村吏などの悪むこといづかたも同じ事なるや、彦九郎が郷里はある御旗本の領地なり。
 其名主年寄などいふ者いかに云いれしや、ある時領主の邸へ呼寄て、彦九郎は百姓にて平生長き大小を横たへ、家業を勤めず書物のみ読は不審の者とて、門側ながやの一室におしこめて数月の間置るゝに、懇意の朋友酒肴を携へ問来るもの虚日なし。
 ある日大府の一有司の耶が邸に召れて、其方何故に諸国を遊業し名ある人を尋ゆくか子細あるべし、一々申上よと命ぜられければ、彦九郎乱世には武者修行といふ事の候由承候、今太平の御代に候へば諸国に名ある人を捜し求めて、よき事を聞んずるにて候、其よき事と申も忠孝の事より外にても候はずと申ければ、さらば此書を講釈せよと論語を一巻出されけるに、彦九郎ちつとも臆せず弁説あざやかに講説し終りけるによりて、またもとの領主の邸にぞ下されける。
 かくて数日ありて又かの有司の邸に召れて講釈させられて、次の間に人ありて其説を書とめらる、其後また数日ありて召出れて命ぜられけるは、其方事苗字を名のり大小を帯し、諸国遊歴する事くるしからざる旨むね命ぜられける。
 また年を経て薩摩に遊びてかへるさ、久留米の何某が家に宿りて腹切て死てけり、其故をしらず。
 或人の話に村吏の誣しひし事を何の尤とがめもなく免されしは、何某侯の当途とうどの時なり、其後かの侯職を辞したまひければ、其身も便なき事におもひて失うせにけるにやと、されど命を捨る程の事にもあらざるべきに。
 猶此人の奇事偉行聞及びし事もあれども、よくも覚えざれば録せず。
 
鳥群とりのむれ
 寛政八九年の頃なりしか、嵯峨野に蝋觜ろうし鳥多く集り、木毎きごとにむれゐること一樹百二百羽にくだらず。
 山多く樹茂りたる処なれば、いづくを見ても此鳥ならぬ所もなかりしかば、京より見に行く人多くて茶酒の店なども、ここかしこに設るほどの事なりしよし、六如上人より告げ知せらる。
 其より四五年も後なりしか、吾郷備後神辺にうそ鳥多く来り、予が庭の樹竹軒ちかき枝まで、この鳥ならぬ処もなかりし。
 かの蝋觜とりもその年の前後に、常より多かりし事もなかりしとなり、予が郷里のうそ鳥もしかり、山中雪ふりければ鳥多く里に出るといへども、其歳わきて雪多くもあらざりし、さらば此鳥のみ多くもあらぎるべきに。
 
武内宿禰小野小町之説
 武内宿禰一人なれば三百余歳、遍鵲へんじゃくも一人なれば二百余年、小野小町も一人とは見えず、これらのこと古書茫々として論定すべからず、撰書の人疑を伝へ聞ままに記したかなるべし。
 今其人の踈漏といふにも誣しひるにちかし、ただ聞のまゝに記しおかば、後の考もあるべしと思ひつつ居る中に、蜉蝣かげろうの年もたもちがたく、任を後人に残すこと多かるべし。
 前不見古人。
 後不見来者といふ詩感ずるにあまりあり。
 かくいはゞ古書は用にたゝぬものとやいはん、されど其中に人の行のためにし、天下の治の為にして余りあることは巻軸にみてり。
 しかるを是をすてていたづらに字句の異同をのみ論ずるは末なり、至竟書籍は学者談話の資たすけとのみなるは、かなしき事ならずや。
 
不撤薑はじかみをすてずの語
 不撤薑而食は、聖人のこのみ給へるものによるか、味の和にもよるか又能毒にもよるか、其故はしらざれども論語には、聖人の行事を記して其旨をいはざるは不敏を避る也。
 朱註の能毒を書れたるは、只たしみ給へるのみにてもなきやといふ意こころをおもはせがほに、本草の文を其まゝに引れたるなるべし。
 夫を朱子の聖人も、通神明の功能をからんとて、心をこめて食給ふとおもへるよしにとりなしてそしる著あり。
 此説はいつの頃にいひ出せしを、近頃又読かたしらずと失笑せる説もありて、そしる人の非は世間皆しりたるならんと思ひしに、此頃見たる書に猶其説あれば、ちなみにこゝにしるす。
 神は詩に神を傷いたましむといふときも、日本の大明神八幡宮などいへるごとき神とおもへるなり、書をよみてかく解しなば解せざる書多かるべし、あまりなる事なればくはしくはいふべくもあらず。
 本草などに久服軽身きゅうふくけいしんすなどいへるは、必鶴にのりて飛行する類とおもふべからず、服食家の言混じてさおもはるゝこともあれど、本草は本草にてよみかたあるべし、これらは一々弁駁べんぱくするもをさなきことなめり。
 
盗人縊死くびくくりをとゞめし事
 或家に盗人宵より忍び入りてうかゞひ居けるに、夜ふけて家内の人みな寝て後、一女子ひとりおきゐて髪ゆひけはひなどするあり、丑みついまはたのまれずと待わぶる老もあらんと思ふうち、さはなくて硯を出してこまごまと一通の書をしたゝめ、さて梁うつばりに縄をかけて自ら縊くびくくりて、前に飛ばんとするに臨みて、盗おぼえず声をあげて、やよ人々おき給へといひつゝ抱きとゞめたり。
 家内の人其声に驚きて、其ゆゑよしをとひければ、えさらぬことありてかくは物せしなりとて、只なきに啼ぬるを、さまざまとときなだめ、二人の人に守らせ、さて其とゞめたるは如何なる人ぞと問へば盗なり、これもあからさまに其よしを述ければ、銭そこばくとらせてかへしたりとなり。
 又人の妻をぬすみかよひし人あり、ある時其妻の許もとに忍び居たるに其妻青赤竜子あおとかげを膾なますに調しで酒をあたゝめて本夫にすゝむ、本夫は夢にも知らで、頓やがて喰んとせしを、密夫覚えずはしり出て、其膾には毒あり、かまへてな食ひ給ひそとおしとゞめければ、其夫はおどろきて、其人の忍び居たる事など問ひけるに、是もあからさまにしかじかのよしを答へしかば、其妻を追出し、密夫まおとこは命の親なりと悦びて兄弟の約をなして睦むつびしとかや。
 此二事一は西山拙斎、一は中山子幹二子の話なり。
 人の本性ものにふれて覚えず発見すること、かかる事世に多かるべし。
 
病源薬性の説
 近日医師に、病は一気留滞りゅうたいより生ずといふは、さもあらん。
 魚は水に生じて水に養れ、人は気に生じて気にやしなはるればなり。
 此説につゞいて、万病一毒といふ者あり。
 これは通じがたきにや。
 たとへば胎毒結毒は人にあり、魚毒菌くさびら毒は物にあり、風毒陰陽毒は気にかかる、これ皆轟毒とも云べし。
 打撲うちみてん躓にてわづらひ、火傷水溺にて死に至り、刀剣の傷やぶれよりして命を殞おとし、過食にていたむは抑何の毒なるや、米麦もと毒なけれども、多食より病をひき、挺刄もと毒なけれども、傷より患ふるなれば毒といはんか、さらば河豚ふぐ烏喙の類、其ものにたくはへし毒とは一にあらず、病を生ずるものをさして皆毒といはゞ、万病一病といひても可なり。
 また薬に寒温なしといふ説ありて、試に水をあげて汝が性いかにととはゞ、水こたへて冷ひややかといはん、沸湯ふっとうにしてとはゞ熱といはんなどゝいへり。
 今試みに酒を挙てとはゞ温といはんや冷といはんや。
 大抵はやく人を驚し、門戸をたてんとおもふ人は、必かゝることある者なり、独儒者のみにあらず、さりとて其人愚昧ぐまいなるにもあらず、亦信ずべきこともままあるべし、かかる不稽の説ありとて悉ことごとくもすつべからず。
 予香川氏の行余医言薬選などを読みて、その卓識に服せしことも多けれども、また疎漏そろうの説もあり、後藤吉益等の書はいまだ読ざれども佳説かせつもあるべし。
 〔割註〕大抵近時の人の書は、是非相半するものなれば、一概転に信じがたし。」.病は丙の字なりといりといふ説輟耕録てっこうろくに見えて妙なり、今ことごとく記せず。
 人は一気の陽もて生存す、この陽常ならざれば病なり、強人さむくして振ふも、弱人の寒になやむも、皆陽気の変にて証に寒熱といふは枝葉の論なり、療治にいたりて或は温或は凉或は発散し、或は収しょくするは療治の手段にてこゝにいふをまたず。
 
節分に菓木このみをうつ事
 五島の俗、郎c童子きそひて菓木をうちたゝき、来年は枝のたわむまでなれなれといふ。
 さくさくは虫へんに昔後草木をむちうち萌動ほうどうせしむといふこと、おもひあはせておもしろし。
 
張良隠遁
 唐土もろこしの三代以後は、有力の人天子となる故に、大臣疑はるゝ者多し、張良が赤松子に従ふを始て堂々たる李ぎょう侯陶隠居なども其類なり。
 其言痴人と見ゆる計なること多けれども、其愚不可及の類なるべし。
 
諱字の説
 諱いみなに木火土金水を次第しだいしてつくること、いつの頃に始りしか宋人ことに多し。
 張浚の子名はショク木へんに式、朱子の父は松、子は塾、在後に俊あり、その子余多ありけれども記せず、明の天子或は朱子の遠孫なりとて、代々の諱これに従がはれしといふ、これ王相の説にとるにはあらざることしるし。
 世遠くなり扁傍によりて、誰はたれの兄弟何某は何某の手孫などいふをしるに便りあり、排行の称呼すたれし後はこれ亦益ありや吾邦近世は、俗薄くして兄弟といへども、貧なれば歯よわいせられざる者あるにいたる、五行を必とせず、一門はよくそれとしれる称を用ひて、やゝ流弊りゅうへいをたむるにたよりすべきにこそ。
 
通称の説
 記事の文に近代の人諱いみなしれざるは、何某石衛門、何某兵衛とかくべきは論なし、しかるを文字俚なりとて、弥三郎を単ひとえに弥と称し、又太郎を又、平右衛門を平とかきしあり。
 学びがてらに一話を記するごときはいふにたらず、記録史志の類ならば心あるべし。
 太郎次郎は通用にそへて称するなれば、はぶきてもよしとせば、弥又は親も三郎、子も三郎なれば、其子を弥三郎又三郎などゝいふにて、弥も又も同じく通用の称なり、其人の名にはあらず、平右衛門源兵衛は、もと平氏の右衛門源氏の兵衛なり、さればこれも名とはいひがたし。
 今時称謂となえみだれてかかるけぢめもなければ、せんかたなく何某右衛門何某兵衛とかくの外なし。
 
在名
 庶人は在名を名乗ることをゆるされず、然るを姓を禁ずといふはしからず、源太郎平二郎皆姓なり、誰も咎とがめられし人なし。
 秩父熊谷などは在名なり、これには禁あり。
 今座頭盲目の在名といふ格あるにてもしるべし。
 
韓公排仏
 退之たいし仏を排するに、遊手ゆうしゅ多くなりて世わたりのかたくなるをいふ、後世其説浅易なるを満足せざる人多し。
 されども推究して論ずればこゝにとゞまるなり。
 
仏法八宗
 近世仏家に、八宗をわかち各々其主領をたてられしは良策なり、邦俗ほうぞくものにまよひやすき故に、此法なければ末々天下一宗となりて、国家の変をなさんことはかられず。
 元亀天正の事にてもしるし。
 
諸侯室家しっか
 諸侯妻子を具して都下に住すること、古今になき良図りょうとなり。
 創業の人功臣をうたがふこと昔より多し、大国に封ほうぜられ遠方にはなれ居るもの、万夫の雄韓信がごとき、もとより高祖のおそるゝ処なり、一旦の讒口かりにも叛逆むほんのことをとかば、危ぶまざる人はあらじ、是を都下に置て常々に相見るならば、讒もいりがたく疑ひも生じやすからず、されば妻子とともに都下におくに、国家の備そなえのみにあらず、諸侯をたもちやすんずる良策なり。
 但豊臣家の時は、都下の住居にものなれずして用度多く、領地疲弊し人心もあやぶみたりしかど、今の世はさもあらず。
  唐土は、幅員広ければ此法はとても行れがたかるべし。
 殊に今の都燕なれば、雲南省よりは万里にすぎ、往来1年も経べし。
 然ども成都せいとあたりにて任子を成長させ、そこにて妻子をもたくはへ子をそだてさせ、数年滞とどこおるうち、北京へもゆきなどすることやすかるべし、広東西は杭州、秦隴は洛陽などゝさだめ、遠近によりて其法をたてなば、さばかりかたかるまじきにや。
 其国主死して任子じんし必らず跡をつぎ、其子また其地にのこりて任子とならば、のちにはそこを家とする心にもなりて、さのみはうれへざるべし。
 其本国にもまた他国に儲もうけの主人ありとしらば、乱を防ぐの道もまた其中にあるべきにや。
 
国家良図りょうと
 今時の制もとよりありける、大国の緒侯をもとのごとく立おき給ひ、譜第ふだいの家をば大国にも封ぜられず、爵位もさばかりあがめたまはざるは、国家謙譲の美事にしていふをまたず、譜第の諸侯も、我より国大に位の高き人多きゆゑ、心ゆるぶ事なく国家をいたゞく念ふかし、此制も又いにしへなき所の良図なるべし。
 晋に呉を亡さんとする時、張華山涛など敵国外患なき時はあやふきよしをいひ、呉をたておくを良策といさめしかども、用ひられずして具につゞきて晋も滅たり。
 是は利害を見ていひしなれば、遠慮ふかしといふべし。
 国家は仁義もて物したまへるなれば、雲泥の異はあれども暗合せる処もあらん。
 予この説を持して久しくいひ出でざりしを、十余年前頼千秋父子と竹原に会せし時、歴史を論ずるによりていひ及ぼしゝに、座上にてはいらへもせざりしが、数月の後かれより書中に卓見たくけんなりとゆるし来れり。
 
大食会
 いつのころか備後福山に、大食会といふことをはじめしものあり、其社の人皆夭折わかじにせり、ひとり陶三秀といふ医者ありしが、これははやくさとりて其社を辞して六十余までいきたり。
 予が若き頃、三秀が甚だ小食なるを見て其よしを問ひしに、其社中皆異病にて死し、おのれ減食してまぬかれしといふ。
 其後近村平野村にまたこの事はやりて、人多く異病をやみぬ。
 其社中に清右衛門といふ若者あり、膂力ちからも人にすぐれ無病なりしがふと遺溺いにょうす、それよりしげくなりてつひに坐上に溺ゆばりするを覚えず、発狂して死したり。
 食ふてすぐに食傷はせざれども、つもりつもりて不治の病となるなり、一日に五合の食は吾邦の通制なり、是にて飛脚をもつとめ軍にもいづるなり、されば人々心得べき事にこそ、軍行には一升戦の日は二升のかては、其時々の事にて常にあらず。
 
大酒
 備後中条村に三蔵といふ人あり、其家僕に酒を好むものあり、或日三蔵其ものを見て、汝酒いかほど飲なば飽くべきやと問ひしに、其もの生来貧しければ、心のまゝにたふべしことなし、大抵一升にてはたりなんといふ、さらばとて一升飲ましめければ忽たちまちにのみつくしぬ、こはめづらしき上戸なりなほも飲やととへば、いよいよ悦ぶを見て又一升をあたへける、これも苦もなく飲みてやがて臥たりけるが、其夜半に死てけるとかや。
 外にもかゝる事三四度も聞きたり、是は三蔵にききしまゝなり。
 すべて酒は小杯にて一日半日ものむは、覚えず量をすごしつもりては病をなす、大杯にておのれが量だけ一度に飲むものは、酒のカ一時に出つくす故に害なし、是は予が数十年見およびし人皆然り。
 されども量を過せば、大杯にて一度にのむの害は、小杯にてながくのみしにまさると見えたり。
 
詩歌語勢強弱
 あら海や佐渡に横たふ天の川などいふ発句、興象きょうしょうは論なし、語つよくおもみありてたけたかく、今の人の句語弱くかろく格ひきく、僅わずか十七字にてもその体のわかるゝこと、語勢自妙の妙処みょうしょなり。
 詩歌はさらに心つくべきにや、歌に、
   まつ人の麓の路やたえぬらん軒端の杉に雪おもるなり
 これらの意こころは尋常なれども、語はおもくしてつよし撰出ば多かるべし。
 老杜が詩をよみて後に後人の詩を見れば、いづれも弱く軽くおもはるるうち、明の李空同のみ杜が遺響ありといふ。
 
古文辞
 揚誠斎詩話、如山谷狸々毛筆、平生幾両屐。
 身後五車書、平生の二字論語に出づ、身後の二字張翰云我をして身後の名あらしめん、幾両屐は阮孚が語、五車書は荘子の言、恵施此両句の四処合し来るといひ、これらの句を妙なりとす。
 妙ならざるにあらざれども詩は歌謡なり、必しも心を用ふべからず。
 同頁に四六に古語を丸にて出し、一二字かへて取用たるを妙とす。
 明の于鱗が古文辞といふもの、古語と古語とを続けあはすることこれらより出るなるべし、当時の元美が輩ともがら宋人の才なきをそしる、その肯緊をしらざるに似たり。
 北斗欄干南斗低などいふ句陸放翁にあり、于鱗うりんにも此類多かるベし、是ぬすみたるにあらざれども、其意念遠からざるを見るべし。
 今の人々宋と明とは、事ごとに雲泥のたがひあるやうに思ふはいかにぞや。
 
扇を笏しゃくのごとくもつ説
 今の人神を拝するに、扇を笏のごとくもつことあり、曾我物語にあらためて礼をするとき、 扇を笏にとりなほしてといふ詞あり。
 又考安いふ、驚きときはたたふ紙を用ゆること故実のよし、御厨子所預高橋若狭守が禁庭にて鶴の庖丁ほうちょうせし時に、上より物賜はりければ、笏のかはりに懐中のたたふ紙をもて拝せしかば、一時の公卿其故実に達したるを誉ほめ給ひしとなり。
 
ナゲシ敷居
 上はなげし下はしきゐといふ、そは近世のことなり、一間ごとに其問にたかきしきゐありしを、なげしといふこと源氏にも見え、また義経記にも見ゆといふ。
 荒木為五郎話。
 
裸形の国
 数年前芸州の人漂流して一国にいたる、其国みな裸体にて褌ふんどしのみをまとふ。
 国の酋おさときどき巡視みまわりするにあふに、王も后もみな裸体なり、芋多く生じて土中に入れておきしくらふ、其葉を植ゑおけば又芋をなす、外に穀食することなし。
 この裸国へ芸人大海中に難船せしを、蘭船きたりたすけてこの裸国へあづけおきて、翌年日本につれ来れるなり。
 かやうに漂流人を達来れば、日本人に限らずしらぬ国人にても、褒美金を賜る故なりといふ。
 武元景文其人に逢て其話をきき詩に作れり、今はわすれたり。
 
怪異
 世に不思議なる事は種々これあるものを、仏者は怪異は吾家の家業のごとく、儒者はつとめてこれを排するを、これも亦家業のごとくおもふこと常となりたり。
 伏羲いまだ出ざる前に、釈迦未生の前も天地はおなじことなるべし、いかでかくはわかれ異なる事になり来りしや、こゝを覚悟せる人世にいくばくぞや。
 大徳知識と指さゝれ、吾身も大悟徹底とおもへる人も、何某寺にもと水なかりしを、住吉年明神その開山とやらんを、帰依して水を献じたまひしより、湧泉ありといふやうなることをもて、儒生にむかひても誇る者あり。
 またある儒生、周易のしるしあることを奇か偶かといふ、辻占におなじといふもあり、皆一笑の資たすけといふべし。
 
讃州金毘羅の町
 文化丙子蝋月に十三四家焼失す、其前数日の間所々に豆腐菎蒻こんにゃく等すてゝあり、天狗か狸のせしにやとあやしみ居たりしが、のちにきけば祈祷をする僧の、いづくともなく来りて近きあひだに火災あらん、是を遁れんには金いくばくを捨よ、豆腐こんにやくいくばくを捨よなどゝいふによりたる事なりしと云。
 世にかゝるふしぎ多かるべし。
 
柳に数種ある事
 予が塾に柳三種あり、一は京の下河原に摘星楼とて、六如上人の房の庭にありし柳の枝をさせるなり。
 もと絮綿多かりしが、水土によればにや今はすくなし。
 一は蘇州府の種とて長崎の徳見茂四郎より送り来る、一は蜀柳にて荒木為五郎より得たり、此柳は西洞院風月入道殿主上より賜りしを、わかちて平松宗致むねとしに給ふ、宗致備中松山人ゆゑ、故郷へもわかち植たるなりといふ。
 荒木は松山人なり予と善し。
 蜀柳は近頃枯たり。
 
雅事之説
 凡用事と雅事とかねざるは真の雅事にあらず。
 障子の腰に絵をかきたるは、はめかふるとき右よ左よとまよはず、又趣もありてよしといふ、この事万事にわたるべし。
 何某公の領内の沮洳そじょの地を、堤つつみして湖となし給ふ、形勝もまさり又灌漑をたすく。
 この類世間に多かるべけれど、吾便宜に志す人は人の不便をもはからず、雅事に志す人は吾家の不利をも省ざる者多し。
 但雅事のみにしてよきは、家を子弟に譲りて隠居せし人と僧とのみなり、膏腴の地をすてて柳桜を植たるのみはいかがあらん。
 隠者といふものも、世わたりの業はなくてはかなはず、長沮桀溺も、ぐう耕するは世わたりなり、陶朱公があきなひも同じ、隠者といへば風月のみにて家のいとなみもなさゞる者とおもふは、世界もしらぬなるべし。
 孟子のいへる抱関撃柝も隠者なり、膠鬲が魚塩も隠者なり、僧の托鉢乞食して世をわたるよりして、みづからなす者をそしるは誣るなり。
 
盗入たる時可心得事
 いつの頃にか備中さいちこといふ所に、細見勘介といふものありける、ある夜盗の入らんとするを知りて、其腕をとらへて格子へ引こみ、其うちにて物を縛りつけて扨刀をとり出す、盗たまりえず自身其かいなを斬て逃ぬ。
 〔割註〕或は同類の盗きりたりといふ。」其のち数月にして盗また来り、勘介が寐入たるを刺殺して去る。
 又甚五郎といふ者、〔割註〕其所は忘れたり。」
 盗を追懸おいかけいであやまちてつまづき倒れしかば、盗たち帰り一刀刺して去る、是も死したり。
 其後大坂などの町中にて、巾着きりの盗の、人の懐中をさがすを傍より見たる人、其人に知らせなどすれば、後に盗必らず其知らせし人に害をなす、或は人多き処にて密ひそかに小刀にて股脇腹などを刺れて死ぬる人もあり。
 また人家に盗いりたるを、隣家より助けなどすれば、これも後日に其家へ仇をなすとなり。
 されば夫それと知りてもしらぬ顔にたすけ救ふことなし、よりて盗は公然として横行す。
 其地の人はかかることをしれども、田舎よりたまさかに行し人は其心得あるべきにこそ。
 
盗を防ぐべき説
 備後の鞆の祇園会に某屋といふ小間物毘の前街に、人の群聚する中にて盗の物をとらんとせしを、人に見付られて海浜へ引出して海へ投ぜんとするを見て、店主人走り出て其罪を詫てすくひければ、会終りて後一人つと入来り、私は先日御たすけにあづかりし盗にて候、一命の御恩を謝し申さんとて参り候といひしかば、主人も其本心のいまだ亡はざるを憐みて、酒のませて物がたりし、其意届て盗人を止させんとなり。
 盗も感泣かんきゅうして別れける。
 其ものがたりのうちに、凡ぬす人のいるは、表の戸裡うら門のあきたるを見て心を生ずる事多し、人みな寝んとするとき、必らず門戸はとざせども、或はわかき男女のあそびありきなどに出、頓やがて帰るべしとおもへどとくにも帰らず、或は戸ざしすれども。
 眠ながらにしてかたくさしえずなどする事あり、戸ざしはかならず主人おのれ自身すべきこと肝要なり、壁をうがちているぬす人、をどりこみなどは此例にあらず、此用心はまた格別なりといひて返りしとなり。
 
僧大典
 大典は僧伽の文章家なりし、柴博士と同じく洛にありて一面もせられざりしが、或とき権門の席にてはからず出あひて、大典声をかけてそなたは柴先生ならずや、始めて御目にかゝり候は大幸に候へとて、近寄られければ、柴博士われ京に在りしこと二十年計に候ひしに、上人とは嵯峨の花の下、広沢の月の前にも見参可申に、今日は不思議の処にて接見いたし候と申されしかば、同座の人々一時目を属せしに、大典すこし赤面せられしよし。
 其座にありし人大典はさる人にはあらず、そこにて赤面せしはさすがに学者なりしといひけると也。
 
川之説
 備後横尾の鶴が橋は、もと鶴が渡とて舟わたしなり、其時の舟の櫓棹など、今の橋守の宅に残れり、いつの頃の失火にか焼失せりとなり。
 今は川水至りてあさくやゝもすれば乾涸す。
 同じ川上国分寺の西に、烏岩とて高さ三間あまり柱のごとき立石ありて、烏年毎に其うへに巣くふ。
 三十年前の川浚のとき、里の老人昔の烏岩は此あたりにありしとて、長き竹もて沙中にさしもとむるに、竹にさはるものなかりしとぞ、川の埋れたること思ふべし。
 すべて此川のみにあらず、山木つきて川高くなり、左右の良田汗邪をやになる事いひ伝ふることなり、近頃は田地の湿淫洪水の憂ひのみならず、井泉わくことたかく水あしくなり、黄胖等の病わづらふ人多くなりしやうに覚えらる、眼前の損益見えざれば上たる人も打ちすて給へるにや。
 
亀卜きぼく
 亀卜は対州にのこりてあり、其法亀甲べっこうをうらより小刀にて穿ち、一寸程を薄くするを鑽亀といふ、彼地にてタフといふ木は刺はりある木なり、それを箸のやうにして其先に火をつけ、彼薄らげし処を裏より灼き、表にひらき入たる紋出来たるが灼亀といふ、其紋のさけやうを見て吉凶を卜す。
 其法は或時吉田家より望まれしかども伝へず、甲は乾きたるを用ふ、生亀にあらず。
 
   巻之四

水野義風雨乞和歌
 備前士人水野三良兵衛名は義風よしかぜ、食禄千石舟大将なり、和歌を好む。
 一年大旱の時義風がちぎょうしょの百姓ねがひ出けるに、主人和歌に堪能にましませば、昔の小町が例に雨乞の歌よみて給ひ候へと申しかば、義風さまざま辞すれどもきかず、つひに一首をよみて与へければ、百姓よろこび帰りこれを産神うぶすなにそなへて、祈りてぞしるしを得たりける。
 夫より今に至り六七十年、旱すれば必ず其歌を出して祈るに、しるしなきことなしとかや。
 其歌
   世をめぐむ道し絶ずば民草の田ごとにくだせ天の川水

烏の巣より火出る事
 烏の巣より火出ることあり、或は野にある焼土などのたきさしの竹木を、くはへ来りて屋上におとすことあり、筑前には村落の近きあたりに巣をつくらんとするをば、必らず追ちらせよと胥吏しょりより触知らすることありと。
 竹田器甫が話なり。
 
野寺の歌
 備後宝泉寺は野中にあり、或ときそれに会して保之が、
  松幾木山と見るまで生そひて野中の寺ぞふりまさりける
 とよみしを、歌よむ人見て野寺はよみがたきものなり、かはりにはたれたれもよみ得ざらんといひける、末の句年ふりにけるにてありしやよくも覚えず。
 
旧習改めがたき事
 予江戸に在し時、柴野先生に食卓と小榻四つをおくる人あり、八月十四日、その具にて七宝羮を饗せんとて数人を招る、其夜雨降て遠人は来らず、予と尾藤博士と主人と、その榻に踞して対酌す、久くして主人勝手に入られしあとにて、尾藤予をかへりみ、主人の居ぬうちは暫く下りて休息せばいかん、といひて打ちわらはれしに、予もまた絶倒す。
 やがて主人いで来り其よしをきき、実も久しく馴たることは改がたく堪がたき事あり、聖堂の釈菜に一事を勤めてんと願ふ人あり、其人老たれば事少なき役をなさしめしに、一器を持て久しく立てあるうち、目眩たちくらみして倒れし事あり、吾国の人は坐にならふて立にならはず、今夜の下りて休息も宜なりとて、又互ひに笑ひてわかる。
 文化元年の事にて今より十四年前なり。
 某先生久しく瘧を患ひて、いえし後に疲労をやしなふこと数日、其間にはやく髪そり鬚ひげきらんとのみおもひし、かくては清人の弁髪も昔にかへらんこと難かるべしとかたらる。
 凡生来ならひしこと遽にわかに改んこと皆此類なるべし。
 
変革
 筑前の川には、蜆貝しじみかい次第に川上にのぼりて山川の石川清流にも生ず、宝満山は五十町斗も上る山なれど、そこまでも多し、川と海とのさかひは今もあれども、海を遠くしてあり来し処は、年々少くなりて今なき処多し、文化のはじめ頃よりのことなり。
 玲蔵すめる木屋瀬村こやのせむらもとは蜆多かりしが、今は少しも生せず、十里斗も上流へのぼるといふ。
 瀬田の螢いまは大日山といふ処にうつりて多く、瀬田は尋常なり、この類の事余所にも多からん。
 又筑前古川村の近き岡に、昔より貝多く日々石灰を焼出す、いく千駄といふことをしらず、海より五六里を隔たる所なり。
 備中大島のみだけといふ山の峯にけやきの大木あり、樹身一間斗上に大穴ありて貝を生ず、人とり尽しても又生ず、貝は海にあるあらんたひしやくと名づくる貝なりといふ。
 
奇樹
 寛政の中頃予京に有りしに、美濃よりからたち花〔割註〕平地木地金牛の類。」十盆を駄し来りひさぐ。
 数日の中かひて来り集りて、ひさぐ人百余金を得て帰る、其頃此ものはやりて甚しきは三百金余にあたる、数寸の盆栽なり。
 其後紀州に蘭をううることはやり、是も大金を費す故、官より禁ぜられても其禁をきかず、はては官吏家々にふみこみ其根株を断じたり。
 其後石菖蒲いわあやめはやりて、京の一医一盆を十六金にて買ふを見る。
 近頃文化亥子丑の頃、牽牛花奇を争ひ佳種百品七十金にあたる、備中の人一方金いちぶにて一種を求めしに、名種はこればかりにて買ふべきはなしとて、こぼれ種といふ名もなき数種を得てかへる、其後江戸にも此事はやりて、岡花亭その記をつくりて余に示す、文政のはじめなり。
 享和のころ備中備前に文鳥を畜ふことはやり、これも一羽数十金にあたる、岡山藩よりいたく禁じられてつひにやみぬ。
 芥川といふ書に其時の事を記せし中に、芸州広島の上流にて、一僧仏具を川岸にあらひしが、一花の流れ来るを見れば椿の奇種也、其まゝとりて挿さしはさみ、三四年に奇花をひらく、城下の入日々に見に来り、川上に其種ありやと尋るに蹤迹なし、さて奇異の花なりといひ伝へて、いよく来客多くなりぬ。
 ある人たはぶれに、貴僧の椿名花なりとて、国主より所望あるよしをかたりければ、其日其花を鉢植にして、其夜亡命かけおちせしよしを載す、毛利家広島におはせし時なり。
 かゝる事をりをりにあることにや。
 
血気之説
 人の血気母に受ること多きにや、容貌賢愚も母に肖たる人多し、周勃文帝を立る、母の賢なるをえらびしは妙なり。
 
四声
 むかしの人は四声をわかちて誦読じゅどくす、善道直貞博学にて、大学助陰陽頭などをつとむ、三伝三礼にくはしかりしが、此人四声を弁せず、教授みな世俗蹐訛せきかの音おんを用ゆるよし、日本後紀等に見ゆ。
 考安云、今高野の学寮に、しやうよみとて四声をわかちて誦読することあり、又其秘教の中にオコトの点を用ゆる者ありとぞ、彼処かしこには古代の遺風存せるにや。
 
渡瀬気候
 奥州渡瀬といふは梁川より西北にあり、白石へいづる川の川上にて、出羽往来の地なり。
 渡瀬の半道ばかり南に、六月に寒く氷あり、石などの下は皆氷にて、樹は紅葉するものあり、冬はかへりて暖にて雪なし、仙台領なり。
 
蜂馬螫したる事
 文政元年九月讃州高松の東三里、石塚といふ処の百姓嗣右衛門といふ者の馬を、馬士まご近所の岡に牧し、馬を叢祠の側の古墓につなぎて、おのれは草をからんとせし時、蜂多く出て馬を螫す、馬士見てはしり行て打払へば、馬士にも数しらずあつまり螫す故、たへかねて馬をひきて帰りしに、馬人ともに大に腫れて馬は二日を経て死す、馬を屠りて見るに、毛の間に蜂十四五くひつきて居たりしと、近所の人池戸村周蔵といふもの、九月六日に吾塾へ来り、其家をいづるまで馬士は死せざりしが、とても治すまじきよしをかたる。
 予若き時備後府中の僧大酔して山中に臥たるを、大蜂あつまり螫て死せしよし、画史墨随が語りし、其後はじめて此異をきゝぬ。
 
和習
 大日本史に、朝廷の公事或人の称号地名等の類、みな用ひ来れる字にてかゝれたり、たとへば歌あはせを歌合とかくの類、此方の一故事になること故、其称にしたがひたるなり、兵糧ひょうろう入れの詞も其類なり。
 世の文人といふ者和習といふことをいやしき事におもひ、しひて雅にせんとおもふより、却かえって和習になること多し。
 御馬屋かしを白馬津といひ、目黒を驪山りさんといふ類みな和習なり。
 これらの吟味は水府にはもとより精くわし。
 
田道公碑
 田道公の碑いしぶみといふもの贋作なりといふに、蛇の字をへび虫へんに也に作るは古体にあらずと。
 予曰碑は贋作にてもあらん、へび虫へんに也はいにしへになきとてこれを以て決するはいかゞあらんか。
 惰竇じょうとうといふ字出処なしとて、近頃の蹴都たち捜索して閑情偶寄かんじょうぐうきより看出みいだせし事あり、これはちかく都氏文集にも見えたり。
 都民は延喜已前の人なれば、ふるき文字にもなるべけれど、今時ありふれたる書に見えじ。
 凡昔には多けれども書中に残ることの稀なるもあるべし、仁義礼智信とつゞきたる語むかしになし、漢儒陰陽災異などより信をそへしなどいふ説あり、これもむかしの書多く存せざれば、ありても伝らざるもしるべからず。
 
雖字
 五山僧徒詩会に、一人雖いえどもの字を得て一句に、薄命小僧雖はくめいこぞういんをうるといえどもとつくりし事あり。
 魯堂先生これを朝鮮の南秋月にかたられしに、秋月朝鮮にも同じ事あり、詩人自古韻無雖いにしえよりいんなしといえどもとつくりし、枕の一名を吟雖ぎんすいといふ外に、雖に熟字なしといひしよし。
 後に長慶集に四雖吟しすいぎんあるを見たり。
 余この事を大坂にて子琴にかたりしが、其ののち子琴二律をよせて吟雖を押したり、余それを和して四雄を用ひし事ありまた其後に宋人既に四雖を押せし事を佩文韻はいぶんいん府にて見たり。
 
豊後山国川
 豊後の日田より豊前の中津へ十里ばかりみな峡中なり川を山国川といふ、左右の峯巒樹石、奇姿妙態をきはめて道も平らかなり、千里を遠とせずして往遊するも、所謂一来を抂げざるなりといふ。
 〔割註〕以下久太良話。」

薩州風土
 薩摩の山は、多くは肥後の山の流尾りゅうびにて高山なし、海門桜島霧島のみ崛起して壮観なりといふ。
 城下は富庶にして金銀多きよしに見ゆ、琉人多く入りこみ、人家往来すること土人のごとし、人少き家にては琉人に子を抱かせ、其の間に水を汲みなどするをも見しといふ、琉僧は薩にて学問せざれば、国例寺を持つことならずといふ。
 近頃は芝居も常にあり、上方問屋といふ家五六あり、上方の歌妓うたひめ百人斗もわかれ宿して、日夜出て技を売り土人の家にも往来す。
 他処にておもひやりしに異なり、土人に容貌言語仕付方などいふ職ありて、風俗をたゞすことこれも近頃始りしよし也。
 地は暖多く、秋ふけて樹上に蝉なき樹木に蛬きりぎりすなく、蟾蜍ひきがえるは十月までもいで蛙もなくたぐひ、他国に見なれぬ事多しとぞ。
 九州に蟾蜍をワクトウといふ、久留米の樺島勇七毎日酒をのむに、蟾蜍のいで来るときを期とす、故に人皆樺島がワクドウ酒といふと云。
 又肥後より豊後の竹田にゆくに九重山をこゆ、至高の所を上下すれども、路ひろくして険阻なしといふ。
 筑後肥後の平地四五十里寸歩の上下なし、たゝみの上をゆくごとし、秋後鶴の多きこと他国の烏の如しといふ。
 
柳絮海腸
 柳花りゅうか柳絮りゅうじょと異なること同所に見ゆ、然れども花の後に絮なるなれば、絮まゆを花といふも詩などには妨さまたげなきにや、吉貝きつばいの花を布となすといふも、絮まゆを花といふなり。
 今俗に云このわたは子にて腸わたにはあらず、然れども古人の詩に腸わたとなしたれば、余また腸として作りたることあり、よく見れば異なり。
 
和漢合意
 大阪なる人妓を納いれんとせし時、其の友〔割註〕播磨の瓢水とやらんいふ。」の俳句欝に、うちへいれなやはり野で見よげんげ花、といふを贈りし。
 清人もまたおなじことに、間花只合間中看かんかただかんちゅうにみるべし、一折帰来便不鮮いっせつかえりきたりすなわちせんならずといふ句あり、絶域ぜついき同情を見るべし。
 
中山貞蔵伝
 佐渡人中山貞蔵名は惟骼嘯ヘ子幹、瓦田といふ処の豪農也。
 問花只合二間中宕一一田といふ処の豪農なり。
 はじめ郷師に従ひて徠学をなし、論語集覧などを悦びしが、後に覚ることありて朱子を信じて行事に心を用ひ、子幹が父は養子にて、其家の血脉けつみゃくにあらざる故、血伝の人をいれて其家を嗣しめ、おのれは雁坂といふ処に隠居し、数年の後京に来り往して教授す。
 貞蔵もと五兵衛といふ、其名は嗣ぐ人に譲りて後の名にあらたむ、其雁坂といふ処に有しは、嗣人の行事を試たるなり、其の国にて一二と数へられし富をすてたるにて、其後の行ひも知るべし。
 佐渡の家一室妖怪ありとて人のゆかぬ処あり、貞蔵試みに二三夜寝しかども何事もなき故、其後は人もおそれずなりしよし、余が貞蔵の遺像の賛に、曾吹叔夜燭といひしはその事なり。
 凡その詩につくりたること一々その事実なり、今時めづらしき人なり。
 方面にて色すこし黒く、肥こえしゝにて温籍なる人がらなり、一儒生の不義なる行ありしを見て絶交せしなど、威厳ありて全徳の人なり。
 
池沼
 文衡山が濯足剣池詩に、都将双足塵濯向千年沼といふ句あり、池沼わかつことなきにや此類多し。
 
歌道評論
 江戸の友人、長流契沖以下の古体をよむ人の歌をあつめて一書をなす。
 或人見て、真淵已後の人中古の歌をそしる者多し、内々は何某公の歌の中にても、きこえぬありなどどいひてそしるもあり、今其そしられし人々の歌をかくあつめ見ば、此集と執いす゜れかまさらん、もし今の集まさらずば、そしりし人々心に慚ざらめやといひし。
 此言はわれ人きゝて自警みずからいましむべき事なり。
 近頃の歌といふものは、拘かかわること多くしておもふ事もいひたかりしを、長流已下の人々打やぶりしは、言葉の道の大功なり、これより女文字の文もよくする人出づ、京に蒿蹊江戸に春海など其選と見えたり、蒿蹊春海みな男文字をもよくよむ人なり。
 春海予に逢しとき、昔の歌よみ人は多半儒生なり、古今集の撰者の官職にても見るべしなどかたりし、春海名山の詩をこひあつむとて、予に浅間岳の詩をつくらしむ、其後程なく身まかりしときゝぬ、其詩いくばくかあつまりけん。
 じ時千蔭にもあひし、みな木村定良さだしげを介なかだちとす、定良俗称俊蔵といふ与力衆なり。
 千蔭は隠居して総髪なり、顔色容貌さしも歌人と見えたり、耳しひて息女を傍におきて彼此の言を通ず。
 春海は半びんにて頭大に下ほそりたる顔なり、一面旧知のごとく磊落らいらくの人なりし。
 蒿蹊は近江八幡の人京に住す、小男にて剃髪ていはつす、音吐大とつだいによく談ず。
 
徂徠先生
 或云、徂徠先生一生楷字をかゝず、安澹泊に答る書に、楷書は得かゝず、性則すなわちしかりなどゝ見ゆ、此の人唐すきにて和習といふこともて、人を誹そしられしこと多けれども、是も和習の一なり、唐山に生れたらば及第もなりがたく、学者の林にも入られざるべしと。
 余おもふに、此人唐に生れたらば、文は一時む選なるべけれども、儒学の見は異なるべし、たとひ奇説多くとも今見るごとくにはあらざるべし。
 幸に日本に生れて文字の竅あなをひらきたること多し、小疵しょしょうしを求めてそしるべからず。
  又徂徠先生の書に、如濮議宋儒聚訟、雖程朱二公無有弁、今考之儀礼不須多言、本自了々たりとあるよし。
 〔割註〕文字人にきゝたる故たがひあらん。」然るに欧陽公の議を見れば、第一に儀礼をひき詳細に弁ぜられたり、又清詩別裁に、楊升庵が竄せられしを程朱の正論をいう。
 これは嘉靖の事をいへども、なほ同事なれば清朝にても正論といふを見るべし、先生たまたまわすれしにや。
 
唐土四百州
 東坡上書に、毎州催欠の吏卒五百人に下らず、天下を以て是をいへば、これ常に二十余万の虎狼散して民間に在るあり云々。
 宋の天下北に遼あり、西に夏あり、雲南はもとよりすてたれば、幅員漢唐のごとくひろからず、このつもりにて二十万は四百州にあたる、されば四百余州といふは宋の時のつもりにや、しかし一州に催欠五百人といへる一州は、なにほどの戸数なるや、さも仰山ぎょうさんなることなり、王安石虐政のあとゝいへども、胥吏も戸数も格別の減少はなかるべし、されば唐山土地のつもりも思ひしられる、〔割註〕此邦三十万石の邦、民数大抵三十二万人、これに五百人の胥吏を設けて、其年中のつとむべきこと、催促すべきことをつもりて見ば、大抵にしらるべし、其内里正里甲もとよりあるべき役人は、此冗官のうちにはかぞへぬなるべし。」
 国々もとより大小あれども、大抵一村に一人ありて、五百村に五百人なれば、一州五百人のつもりなり、勿論現今の一村千石の村に丈にてあるべし、或は二三首石の村あり、又三四千石の村もあり、大抵にいふべし。
 
詩の一二字に同母字を用ゆ
 詩の第一第ニの句、同母の字を用ゆるをいむ、それ故起句に通韻傍韻を用ひたる多しといふ、然ども去年此日泊は州、衰柳蕭々客繋舟、白髪天涯嘆流落、今宵聴雨古宜州といふあり。
 
知己
 知己をおのれを知るといふは、不已知より出るなるべし。
 
韓氏の文
 孤山の智円法師の閑居編に、徒弟多く韓文を信仰のあまりに、韓氏の文字に仏をそしるあり、文は学ぶべし、僧として仏をそしるべからずと戒めし文あり。
 〔割註〕予いまだ其集を見ず、西山翁の話なり。」余此頃おもふに、欧陽公はじめて韓文をとなへ、やうやうふるき本をさがし出せしよし見ゆ。
 智円は公よりやや先輩なり、其時僧徒まで称せし韓文の、欧陽公の時稀なりしもいぶかし。
 
白楽天劉禹錫唱和の事
 白楽天は劉禹錫とも韓公ともよし、柳子厚とも韓とも柳ともよし、然るに柳と白との集にそのうはさ少しもなし、唱和は勿論なり、劉は別して柳とほ同党の人にて、劉自唱和集にもあれば、白ともしたしき友なり、されどそのさたなきことはなかるべきに、いぶかしき事なり。
 〔割註〕西山翁話。」

人面瘡の話
 仙台の人、怪病の図並に記事左に載す。
 〔割註〕本文漢語を以てすといへども、今児童の見やすからんために和解す、覧者これを察せよ。」王父月池先生嘗て余に語て曰く、祖考華君の曰、城東材木町に一商あり、年二十五六、膝下に一腫しゅを生ず、逐漸ひおおうてようやくにして大に瘡口かさくちひろく開き、膿口両三処其位置略ほぼ人面に像かたどる、瘡口きずぐち時ありて渋痛いたみし、満みつるに紫糖しとうを以てすれば其痛み暫く退く、少選しばらくあつて再び痛むこと初のごとし。
 夫人面の瘡は固もとより妄誕もうたんに渉る、然るにかくのごときの症人面瘡と倣すも亦可ならん乎。
 盖けだし瘍科諸編を歴稽れきけいするに、瘡名極めて繁しげし、究竟くっきょうするに其症一因に係て而発する所の部分、及び瘡の形状を以て其名を別わかつに過ざるのみ、人面瘡のごときも亦是なり。
 今ここに己卯中元仙台の一商客、門人に介なかだちして曰く、或人遠くより来て治を請く、年三十五を加ふ、始十四歳のときにありて左の脛はぎ上に腫はれを生ず、潰つぶれて後膿をながして不竭つきず、終に朽骨きゅうこつ二三枚を出す、四年を経て瘡口漸ようやく収る、只全腫不消歩頗る難し、故に温泉に浴し或は委中いちゅうの絡らくを刺、血を瀉ながす咸みな応ぜず、医者を転換するも亦数人、荏苒じんぜんとして幾歳月、其腫はれかえって自ら増し、膝を囲み腿を■せ、然再び膿管数処を生じ、彼収まれば此に発、前に比するに甚はなはだ同じからず、只絶たえて疼苦いたみなく今年に至て瘡口一処に止る、即先に骨を出すの孔旁こうぼう也、瘡口脹起たた、は口へんに多開し、あたかも口を開くの状のごとし、周囲淡紅うすあかく唇のごとく、微すこしく其ロに触れば則血を噴ほとばしる、亦疹痛なし、口上に二凹あり、瘡痕相対し凹内に各しゅん紋あり、あたかも目を閉笑ひを含むの状かたちのごとし、眼の下に二の小孔あり、鼻の孔の下に向ふがごとし、両旁に又各痕あり、痕の辺に各堆起し耳朶のごとく、其面楕円、根膝蓋に基もといして頭顱ずろの状をなす、且患ふる処惻々そくそくとして動うごきあり、呼吸のごとし、衣を掲て一たび見れば、則言を欲する者似たり、復約略人面を具するにあらず、強しいて人面をもつてこれを名づくるの類なり、而脛の内廉腿股に連り、腫大にして斗のごとく、青筋縦横遮絡さらく、これを接ずるに緊きんならず寛かんならず、其脈数にしてカあり、飲食減せず、二便自可、斯症固もとよりこれを多骨疽たこっそに得たり、多骨疽の症多くは遺毒に出づる、而其瘡勢斯のごとくに至るものあり、只口内汚腐充填おふじゅうてん縁なく、餌糖じとうすなわち貝母ばいもも、眉をあつめロをひらく功こうを奏そうすることあたはず、文政己卯中元桂川甫賢国寧記。
 
赤壁賦韓文公廟碑説
 徠翁らいおうの説に、文は体を識しらんことを要す、東披が赤壁は賦にあらず、韓文公の廟碑は碑にあらず、皆論なりといへり。
 予おもふに赤壁は遊記を韻語にして、賦と名づけたるにて論にはあらず、文中に論もあれども夫は客のことばと、自身の語にて一座の興なり。
 其事を論ぜんとてこゝに遊びたをにもあらざるべし。
 韓廟碑は賢人君子の事跡、天下後世の耳目にみちみちたることなればさらにいふに及ばず、夫ゆゑ自家の感慨をもこめてかきたるなり。
 其の文の体裁は東坡もよく知たれども、千篇一律になりては見る人も厭いとひ、自身もおもしろからぬゆゑ、かくは物せしなり。
 徠翁も其意はよく知りたれども、吾邦に文をよくする人もすくなく、かゝることはいかやうにいふても、人のうけると思ひて云ひ出せるなるべし。
 或人傍にありて予が語を聞て、もし此人の文集をたづねば、記に論あるも檄に論あるもあるべしといひしいかゞあらんや。
 王安石よくかかる説を出して、酔白堂は韓白優劣論なりなどいひし事あり。
 
書礼文字死活
 書札の文字にも死活あり。
 たとへば一筆啓上仕候より御無事御堅固云々、私宅無恙時候御自愛、猶期後音云々は何事もなきにも書しもかゝざるもしれぬ程の事なり。
 其間に此間の寒気は弊郷は海浜に氷を見、或は半月一月の旱なるに、よそには夕立すれどもここにはふらずなどいふは、おなじ寒喧こうじょうを叙のべるにも、其地の気色もおもひやられて、書状の文字も活するなり。
 月日の末に此書認たる時は、雨しきりにふり時鳥ほととぎす二声三声おとづれぬなどかきたるは、いよいよ其時其人のすがたもおもはるゝ様にておもしろし。
 長さ三尋あまりある書札にても死ししたるあり、三行四行の書にても活たるあり、これらは書札にかぎらず、詩歌連俳にては心づくべきことなるべし。
 
平家物語盛衰記
 備中長尾村小野直吉よく書を読む、其の子本太郎もまた其意を継ぐ。
 其説に平家物語は盛衰記より前に出し者なり。
 羅山先生の説に、葉室時長が作れる平家は、今の四十八巻の盛衰記なり信濃前司行長が平家は、今の十二巻にて、それは盛衰記中より択えらびぬきたるなりとあれども、二書ともに作者はさだかならず」時代は鎌倉将軍藤氏二代の中に作れるなるべし。
 源中納言の青侍せいしの夢に、平家の方人し給へる厳島明神を追たてて、八幡大菩薩の日ごろ平家へあづけおき賜へる節刀を、頼朝に賜たまわらんと仰おうせければ、其後は吾孫にたび候へと、春日明神の仰せられしなどにても知るべし。
 藤原頼経関東下向なきさきに、いかでかゝやうの事書きも思ひもせん、盛衰記には入道将軍頼経の子にあたれりと さへあり。
 もし親王将軍の時ならば、天照大神又とりかへし賜ふなどあるべし。
 さて盛衰記は其後に平家物語と東鑑とをあはせ作りたるものと見ゆ。
 既に源平と名づけたれば、源氏の事をもくはしくせんとて、大庭が早打の一段に、東鑑をとり入て東国の軍を詳にせしなり。
 然ども本の早打の処をも其まゝにおきたれば、、二重になりしなどにても、源平盛衰記の後出なることあきらけし云々。
 
月を見る説
 友人橋本吉兵衛名は祥来り語る。
 人の月見るに人によりて大小あり、おのれは径わたり三寸のまろき物と見しが、人によりて径六七尺にも見ゆるあり、六寸許に見ゆるは尋常の人の目なり、されば所謂ぬか星などは、おのれが目には見えざるべしといふ。
 人々皆試みし事にや予ははじめてきゝぬ。
 
詩文名題
 詩体明弁に云。
 楽府題を命ずる名称一ならず、蓋自琴曲之外其放情長言雑にして方なきを歌といふ、歩驟弛聘そにして不滞行といふ、これを兼るを歌といふ、行と述事本末後序あり、以て其意を抽ぬけるものを引いんといふ、高下長短委曲情を尽して以て、其微を道ふ者を曲といふ、吁嗟慨嘆悲憂深思以其欝を伸るものを吟といふ、其辞ことばを措おくの意に因よるしるしといふ、其篇命めいずるの意に本き篇といふ、発に発し唱といふ、条理あるを調といふ、憤にして不恕を怨といふ、感じて言に発るを歎といふ。
 皆詩の変体にして総てこれを楽府と云、歌行声あり詞ある者、楽府に載る所諸歌是なり。
 詞あり声なき者あり、後人作る所の詩歌是なり、其名多く楽と府と同して咏といふ。
 謡といひ、哀といひ、別といふ。
 則楽府の未だあらざる所なり。
 蓋事につきて篇に命ず、既に治あらためざる古題を襲つがせ而、声調亦相遠し乃すなわち詩の三変也。
 〔割註〕以上漢語なりしを、今是を和解す。」かくの如くありといへども、後世になりては搆思の時必しも何某らをわかたず、詩成て後に題を命ずるのみ、撃壌集は古詩ことに吟と命ず。
 
詩文長短
 饑蛟渇虎きこうかっこをとる、五字にて其の事の了然たるを賞す。
 然れども夜如何其夜未央よいかんよいまだなかばならず、二十五声愁点長、仙人掌上玉芙蓉、の如きみじかきことを長くいひて味多し。
 是等は其詩の体裁其語の勢にもよりて、みじかきを必とせざるなるべし。
 
塩河侯
 塩河侯は、水と魚とのたとへをいはん為に、ふとおもひ付たる名なるべし。
 魏文侯ならんといひ、塩河の官に侯と称せらるる人あらんなどいふは笑ふべし。
 此の書の名字みな此類なるに、これに人を当んとするは別に意ありや。
 
詩人の説
 ある人もと七才子の詩を悦びしが、此頃ばん然として体を変じ調を学んといふ。
 余云詩の妙処は宋を必とせず明を必とせず、好処は明にも宋にもあり、魔処も亦然り、高青邱李何李千鱗がごときは、東坡放翁に見せても拙とはいはざるべし。
 明人一時宋をそしる、流俗にも宋人才なしなどいふこと常言なれども、英雄人を欺く意こころ多し。
 清の王漁洋、古来七言律の上手をかぞへて宋に陸放翁、明にクウトウクウは山へんに空トウは山へんに同滄溟二李などいふこそ、平心の詞なるべけれ。
 今平心にて見れば宋にも明詩あり、明にも宋詩あり、これは自ら見てみづからしるべきにや。
 
栗の大樹
 備後の安田といふ所に栗の垂しだれたるあり、遠く見れば垂糸桜しだれざくらのごとし。
 高さは一丈許にてはたはり二畝許もあり、栗毯多つきて見事なりしとて、外姪浅右衛門此頃図して帰り示す。
 
詩語に白字を交ふる説
 詩語限りあれば間に字を挿入れてよく通ずるあり、孔子の有物必有則ものあればかならずそくありよりはじまり、程明道の詩を説くに、点てつして人を省悟せしむといふも其法也。
 徠翁又これにしたがふて詩をときて、語句の間に白字をまじゆ。
 近頃の僧大典、むかし僧何某が創法とて、ことごとIくかきたるもおさなきや。
 
唐商遺物
 京富小路竹尾町のあたりやらんに、机硯はこやうのもの数品もたる家あり。
 是はむかし唐山もろこしの人年々に来り、店をひらき物を売り、帰る時は売残しゝ貨物を、其町内に預け置くを例とす。
 一年かけて又来らず、十年を経し故有司へ伺ひければ、其貨は一町として預りおくべきよし命ぜられ、巡検使のたびごとに点検せられしこと、四十年前まではしかありしよし、今はいかゞなりしや。
 其頃は京南都へ来り店出せし唐人はいくたりもありきとなり。
 
天竺徳兵衛
 徳兵衛といふは高砂の商にて、外国を廻り天竺もゆきし故綽号あだなとす。
 天竺にて釈迦の居ませし寺に遊び、礎いしずえのみ残りたるを見しこと長崎夜話に見ゆ。
 近頃大坂にてカメリカ国の亀甲を見る。
 其亀文ここの物と大同小異なり、凹くぼき所は金色にて、全体ここの亀より丸くして遍ならず。
 これも徳兵衛婀媽港よりとり帰りしものなりといふ。
 
産医可慎事さんいつつしむべきこと 一老医の話次に、鞆の浦の某難産にて諸医隠婆とりあげばば等みな死胎なりといふ。
 産婦も亦しかいふによつて、せめて母をたすけんとて鍛工かじに命じて引出す具を造らしむ、具すでになりて引出さんとする時に、俄に分娩あんざんして健すこやかなる男子なりし、今尚存在せり。
 又何某邑の何某の家に難産あり。
 是も諸老医多くあつまり、死胎なりとて鉤かぎをもて引出せしに、産声たかくくるしげに聞えて死胎にはあらずして、鉤の創痕きずあとより血したたりてやまず、二日を経て死したり。
 鞆の産はわれも与謀して引出んとおもひ たりしと語りぬ。
 かかれば今の産医妙術多しといへども亦慎むべき所あるにや。
 
羞悪
 文化三年三月妹なりけるたねが京に行しに、一日因幡薬師の戯場を見るに一悪人出て人を害するさま、あまりにゝくゝ見えければ、桟敷にをりたる一老人舞台へ飛上り、其役者を打たゝきしかば、頓やがて人々取押へて老人をつれ帰けるを見たりといふ。
 おもへば虞初新志に其事のごとき事あり。
 取おさへたる人あれば戯なりといひければ、其人若もし真ならば我刀に膏あぶらせんにといひし。
 何地もおなじく善を好み悪をにくむの懿徳の、おもはぬ処に発見することつねにあることなり。
 
詩歌の語
 此頃雨ふりつゞきて晴る期も見えず。
 よりてふるき歌に、
  住吉の松の千歳もふるはかり久しくはれぬ五月雨の空
 俳諧の発句に、
  さみだれやある夜ひそかに松の月
 などいふを思ひ出て、かくあまりにふりすぎ久しすぎたるも興さめて見ゆるものなり。
 おもふついでにまた歌に、
  ながめしと思ひすててもとにかくに涙せきあへぬ秋夕暮
 これらも悲しすぎたり、春の曙に命をのばへ、郭公ほとときすを待て幾夜もいねざりしなども其類にて、古人の上手にも此類たぐい多けれども余はこのまず。
  有明のつれなく見えし別わかれより暁はかり憂うきものはなし
 といふを古今第一とし、秦時明月漢時関万里長征人未還といふを唐絶の圧巻などいふは眼まなこたかし。
 近頃小沢蘆庵のみ此意こころを知れりと見ゆること多かりし。
 諸九といへる尼夷講にて酒もりする処にて、
  客をつるいとは三筋やえびす講
 といふほくしたりければ、一座興ありつれども其さま賎しければ、後悔したりとみづから語りし。
 かゝる体は俳譜の俗談、平話といへるにさへいやしむを、近頃詩歌の人好みてこゝをせにして物するはいかにぞや。
 
機巧
 備前岡山表具師幸吉といふもの、一鳩をとらへて其身の軽重羽翼の長短を計り、我身のおもさをかけくらべて自羽翼つばさを製し、機からくりを設けて胸前にて繰り搏て飛行す。
 地より直にあがることあたはず、屋上よりはうちていづ。
 ある夜郊外まちはずれをかけり廻りて、一所野宴するを視て、もししれる人にやと近寄よりて見んとするに、地に近づけば風力よわくなりて思はず落たりければ、その男女おどろきさけびて遁のがれはしりける。
 あとには酒肴さはに残りたるを、幸吉あくまで飲くひしてまた飛さらんとするに、地よりはたちあがりがたきゆゑ羽翼つばさををさめて歩かちして帰りける。
 後に此事あらはれ町奉行の庁によび出され、人のせぬ事をするはなぐさみといへども一罪なりとて、両翼とりあげその住める巷まちを追放せられて、他の巷にうつしかへられける。
 一時の笑柄わらいぐさのみなりしかど、珍らしき事なればしるす。
 寛政の前のことなり。
 
子反酒疾
 左伝の子反が酒をのむこと、かゝることは人間にあるまじき事なるべし。
 予も酒の疾ありていろいろの変態をしれども、凡世に心のなき人はあらじ。
 子反酔ざればよき将にて、酔ふ時事を敗やぶるは平生の事なるべし、陣に臨み敵に対してはかゝることはあるべからず。
 かゝることある人ならば、酔ざる時もよき将にてはあらざるべし。
 凡酒の疾酔て前後をわすれ、身をわするゝは多けれど、大酔の上の事にて尋常よのつねにてあらじ。
 疲労してしばらくこれをもて気を引たてんとするは、大酔して前後をわするゝにも至らず。
 子反も中軍の大鼓と心づかひの多きとに、しばらく労つかれをたすくる心なるを、敗軍になりし故人も奇に云つたへ、書にも寄に書しなるべし。
 
夜半鐘
 夜半鐘のこと、呉中のみにありと云説もあり。
 又夜あけの鐘を、夜半と認めしなどいふもあり、あけて後に寺を見て、さては夜前聞しはあの寒山寺の鐘なりしといふ説もあり。
 李洞が月落長安半夜鐘つきおちちょうあんやはんのかねといふを見れば、呉申のみにあらず。
 丘仲孚書をよむに、中宵の鐘を限とすといふも半夜なるべし。
 張継が重泊楓橋詩にも、烏啼月落寒山寺支枕猶聞夜半鐘といふもありてさだかなるに、月落烏啼を夜あけのけしきを見るゆゑに、色々の謬解もいでくるなるべし。
 
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索引 リンク文字をクリック 目次に戻るときは題名をクリック
巻之一 月蝕 雷臍(らいへそ)をとるといふ事 豆小豆の降たる事 黒気 
バタバタ 肥前国に火の降る事 中秋の月 列宿 渾天(こんてん)之説 
地震せざる家 普賢嶽焼出 新島 蝦夷 (ひでり)米穀を不傷(やぶらず) 鳥柱 
ごう山 毒井 蛇昇天 衝風人に(きづつ)くる事 潮州 雲南省 
薩州甑島 里程 山陽の海を江と称する説 唐山漂流紀文 
六惑星の説
 盗を逐ふに可心得事 火災の時可心得事 
小督局 五岳 異木 石分娩 カツテの字  地中声を発す 
地名 曾我物語 義経記 詩句 熊茄子をいむ
巻之ニ 道は一なりの条くだり 変化気質 性悪の説 
罪我者其惟春秋乎(われつみするものはそれこれしゅんじゅうか) 欲無言(ことなからんとほっす)の条 老子 孟子 石材 徂徠学 
学問行実 不弟を誡いましめし事 肝積もちの事 過ちをかざる説 
荘子 道のうへに異説をなす 偽書 卜筮ぼくぜい 
史類を読に可心得事(こころうべきこと) 楠公 小早川黄門 大石良雄 軍中艱難 
伊達政宗 曹源院画賛 後藤基次 源実朝大船を造りし説 
韓廏かんきゅう 掘田筑州金言 物は漫みだりに棄可らざる説 家語の註 
奇病 珍書考 菅谷某 亡国弊政 熊谷直実遁世 児教 楢崎景忠 
大和小学 三国人傑
巻之三 知行貫ツモリの事 烏有先生 勇将文学の事 大西南畝 
加藤清正相法を学ぶ 朝鮮人の説 備後三郎姓氏 忠僕伊平左平伝 
高山彦九郎の伝 鳥群 武内宿禰 小野小町 不撒薑はじかみをすてずの語 
盗人縊死くびくくりをとゞめし事 病源薬性の説 
節分に菓木このみをうつ事 張良隠遁 諱字いみなじの説 通称之説 
在名 韓公排仏 仏法八宗 諸侯室家 国家良図 大食会 大酒 
詩歌語勢強弱 古文辞 扇を笏しゃくにもつ説 ナゲシ敷居 
裸形の国
 怪異 讃州金毘羅の町 柳に数種ある 雅事之説 
盗人入りたる時心得 盗を防ぐべき説 僧大典 川之説 亀ト
巻之四 水野義風雨乞和歌 烏の巣より火出る 野寺の歌 
旧習改めがたき事 変革 奇樹 血気之説 四声 渡瀬気候 
蜂馬を螫したる事 和習 田道公碑 雖字いえどものじ 豊後山国川 
薩州風土 柳絮海腸りょうじょかいちょう 和漢合意 中山貞蔵伝 池沼 
歌道評論 徂徠先生 唐土四首州 詩の一二字に同母字を用ゆ 
知己 韓氏の文 白楽天劉禹錫唱和 人面瘡 赤壁賦文公廟碑説 
事札文字死活 平家物語盛衰記 月を見る説 詩文名題 詩文長短 
塩河侯えんかこう 詩人の説 栗の大樹 詩語の白字を交ふる説 
唐商遺物 天竺徳兵衛 産医可慎事さんいつつしむべきこと 羞悪 詩歌の語 
機巧 子反酒疾 夜半鐘
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