夏を愛する言葉  若山牧水

夏深しいよいよ痩せてわが好む
面にしわれの近づけよかし

北南あけはなたれしわが離室に
ひとり籠れば木草見ゆなり

青みゆく庭の木草にまなこ置きて
ひたに靜かにこもれよと思ふ

めぐらせる大生垣の槇の葉の
伸び清らけし籠りゐて見れば

こもりゐの家の庭べに咲く花は
おほかた紅し梅雨あがるころを

怠けゐてくるしき時は門に立ち
あふぎわびしむ富士の高嶺を

なまけつつこころ苦しきわが肌の
汗吹きからす夏の日の風

門口を出で入る人の足音に
こころ冷えつつなまけこもれり

心憂く部屋にこもれば夏の日の
ひかりわびしく軒にかぎろふ

なまけをるわが耳底にしみとほり
鳴く蝉は見ゆ軒ちかき松に

無理強ひに仕事いそげば門さきの
田に鳴く蛙みだれたるかも

蚤のゐて脛をさしさす居ぐるしさ
日の暮れぬまともの書きをれば

眼に見えて肥料ききゆく夏の日の
園の草花咲きそめにけり

あさゆふに咲きつぐ園の草花を
朝見ゆふべ見こころ飽かなく

いま咲くは色香深かる草花の
いのちみじかきなつぐさの花

泡雪の眞白く咲きて莖につく
鳳仙花の花の葉ごもりぞよき

朝夕につちかふ土の黒み來て
鳳仙花のはな散りそめにけり

しこ草のしげりがちなる庭さきの
野菜ばたけに夏蟲の鳴く

葱苗のいまだかぼそくうすあをき
庭のはたけは書齋より見ゆ

いちはやく秋風の音をやどすぞと
長き葉めでて蜀黍は植う

その廣葉夏の朝明によきものと
三畝がほどは芋も植ゑたり

もろこしの長き垂葉にいづくより
來しとしもなき蛙宿れり

紫蘇蓼のたぐひは黒き猫の子の
ひたひがほどの地に植ゑたり

青紫蘇のいまださかりをいつしかに
冷やし豆腐に わが飽きにけり

夜ふかくもの書き居れば庭さきに
鳴く夏蟲の聲のしたしさ

みじか夜のいつしか更けて此處ひとつ
あけたる窓に風の寄るなり

夜爲事のあとの机に置きて酌ぐ
ウヰスキイのコプに蚊を入るなかれ

このペンをはや置きぬべし蜩の
鳴き出でていま曉といふに

降りたてば庭の小草のつゆけきに
かへる子のとぶ夏のしののめ

みじか夜の明けやらぬ闇にかがまりて
ものの苗植うる人の影見ゆ

あかつきをいまだ點れる電燈の
灯影はうつる庭のダリヤに

朝靜のつゆけき道に蟇出でて
あそびてぞをる日の出でぬとに

旗雲のながれたなびきあさぞらの
藍のふかきに燕啼くなり

まひおりて雀あめゆる朝じめり
道のかたへのつゆ草のはな

秋づきしもののけはひにひとのいふ
土用なかばの風は吹くなり

うす青みさしわたりたる土用明けの
日ざしは深し窓下の草に

園の花つぎつぎに秋に咲き移る
このごろの日の靜けかりけり

畑なかの小路を行くとゆくりなく
見つつかなしき天の河かも

うるほふとおもへる衣の裾かけて
ほこりはあがる月夜の路に

野末なる三島の町のあげ花火
月夜のそらに散りて消ゆなり

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