渓をおもふ  若山牧水
疲れはてし こころのそこに 時ありて さやかにうかぶ 渓のおもかげ

いづくとは さやかにわかね わがこころ さびしきときし 渓川の見ゆ

独りゐて みまほしきものは 山かげの 巌が根ゆける 細渓の水

巌が根に つくばひをりて 聴かまほし おのづからなる その渓の音

おしなべて 汽車のうちさへ しめやかに なりゆくものか 渓見えそめぬ

たけながく 引きて しらじら 降る雨の 峡の片山に 汽車はかかれり

いづかたへ 流るる瀬々か しらじらと 見えゐてとほき 峡の細渓

朝山の 日を負ひたれば 渓の音 冴えこもりつつ 霧たちわたる

石越ゆる 水のまろみを ながめつつ こころかなしも 秋の渓間に

うらら日の ひなたの岩に かたよりて 流るる淵に 魚あそぶみゆ

早渓の 出水のあとの 瀬のそこの 岩あをじろみ 秋晴れにけり

鶺鴒(いしたたき) 来てもこそをれ 秋の日の 木洩日うつる 岩かげの淵に

おどろおどろ とどろく音の なかにゐて 真むかひにみる 岩かげの滝

雪解水 岸にあふれて すゑ霞む 浅瀬石川の 鱒とりの群

むら山の 峡より見ゆる しらゆきの 岩木が峰に 霞たなびく

わがこころ 寂しき時し いつはなく 出でて見に来る うづみ葉の渓

わが行けば 落葉鳴り立ち 細渓を 見むといそげる こころ騒ぐも

渓ぞひに 独り歩きて 黄葉見つ うす暗き家に またも帰るか

冬晴の 芝山を越え そのかげに 魚釣ると来れば 落葉散り堰けり

芝山の あひのほそ渓 ほそほそと おち葉つもりて 釣るよしもなき

こころ斯く 静まりかねつ なにしかも 冬渓の魚を よう釣るものぞ

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