酒の讃と苦笑  若山牧水
それほどに うまきかとひとの 問ひたらば 何と答へむ この酒の味

白玉の 齒にしみとほる 秋の夜の 酒は靜かに 飮むべかりけり

酒飮めば 心なごみて なみだのみ かなしく頬を 流るるは何ぞ

かんがへて 飮みはじめたる 一合の 二合の酒の 夏のゆふぐれ

われとわが 惱める魂の 黒髮を 撫づるとごとく 酒は飮むなり

酒飮めば 涙ながるる ならはしの それも獨りの 時にかぎれり

いざいざと 友に盃 すすめつつ 泣かまほしかり 醉はむぞ今夜

語らむに あまり久しく 別れゐし 我等なりけり いざ酒酌まむ

汝が顏の 醉ひしよろしみ 飮め飮めと 強ふるこの酒 などかは飮まぬ

時をおき 老樹のしづく 落つるごと 靜けき酒は 朝にこそあれ

ひしと戸を さし固むべき 時の來て 夜半を樂しく とりいだす酒

夜爲事の 後の机に 置きて酌ぐ ウヰスキーのコプに 蚊を入るるなかれ

疲れ果て 眠りかねつつ 夜半に酌ぐ このウヰスキーは 鼻を燒くなり

鐵瓶の ふちに枕し ねむたげに 徳利かたむく いざわれも寢む

醉ひ果てては 世に憎きもの 一もなし ほとほと我も またありやなし

一杯を 思ひきりかねし 酒ゆゑに けふも朝より 醉ひ暮したり

なにものにか 媚びてをらねば ならぬ如き 寂しさ故に 飮めるならじか

醉ひぬれば さめゆく時の 寂しさに 追はれ追はれて 飮めるならじか

酒やめて かはりに何か 樂しめといふ 醫者が面に 鼻あぐらかけり

彼しかも いのち惜しきか かしこみて 酒をやめむと 下思ふらしき

癖にこそ 酒は飮むなれ この癖と やめむ易しと 妻宣らすなり

宣りたまふ 御言かしこし さもあれと やめむとは思へ 酒やめがたし

酒やめむ それはともあれ 永き日の ゆふぐれごろにならば 何とせむ

朝酒は やめむ晝酒 せんもなし ゆふがたばかり 少し飮ましめ

酒無しに 喰ふべくもあらぬ ものとのみ 思へりし鯛を 飯のさいに喰ふ

おろか者に たのしみ乏し とぼしかる それの一つを 取り落したれ

うまきもの 心に並べ それこれと くらべ囘せど 酒に如かめや

人の世に たのしみ多し 然れども 酒なしにして なにのたのしみ

われにもし この酒断たば 身はただに 生けるむくろと なりて生くらむ

数知れぬ 女とちぎり 色白の この若き友は 酒を好まず

たぽたぽと 樽に満ちたる 酒は鳴る さびしきここち うちつれて鳴る

樽酒を かかへて耳の ほとりにて 音をさせつつ をどるあはれさ

徳利とり 振ればかすかに 酒が鳴る わが酔いざめの つらのみにくさ

ああ君は 健やかなりし 死にたまひしは 悪夢なりしかの 夢を良く見る
若山喜志子

とくとくと たりくる酒の なりひさご 嬉しき音を さするものかな
橘 曙覧

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