駿河灣一帶の風光  若山牧水
富士が嶺や 麓に來り あふぐ時 いよよ親しき 山にぞありける

富士が嶺の 裾野の原のまひろきは 言に出しかねつ ただに行き行く

富士が嶺に 雲は寄れどもあなかしこ 見てあるほどに 薄らぎてゆく

日をひと日 富士をまともに 仰ぎ來て こよひを泊る 野のなかの村

草の穗に とまりて啼くよ 富士が嶺の 裾野の原の 夏の雲雀は

雲雀なく 聲空に滿ちて 富士が嶺に 消殘る雪の あはれなるかな

張りわたす 富士のなだれの なだらなる 野原に散れる 夏雲の影

夏雲は まろき環をなし 富士が嶺を ゆたかに卷き 眞白なるかも

たか山に 登り仰ぎ見 高山の 高き知るとふ 言のよろしさ

わが登る 天城の山の うしろなる 富士の高きは あふぎ見飽かぬ

山川に 湧ける霞の 昇りなづみ 敷きたなびけば 富士は晴れたり

まがなしき 春のかすみに 富士が嶺の 峯なる雪は いよよ輝く

富士が嶺の 裾野に立てる 低山の 愛鷹山は かすみこもらふ

愛鷹の 裾曲の濱の はるけきに 寄る浪白し 天城嶺ゆ見れば

伊豆の國と 駿河の國の あひにある 入江の眞なか 漕げる舟見ゆ

冬田中 あらはに白き 道ゆけば ゆくての濱に あがる浪見ゆ

田につづく 濱松原の まばらなる 松のならびは 冬さびて見ゆ

桃畑を 庭としつづく 海人が村 冬枯れはてて 浪ただきこゆ

門ごとに だいだい熟れし 海人が家の 背戸にましろき 冬の浪かな

冬さびし 靜浦の濱に うち出でて 仰げる富士は 眞白妙なり

うねり合ふ 浪相打てる 冬の日の 入江のうへの 富士の高山

浪の穗や 音に出でつつ 冬の海の うねりに乘りて 散りて眞白き

舟ひとつ ありて漕ぐ見ゆ 松山の こなたの入江 藍の深きに

奥ひろき 入江に寄する 夕潮は ながれさびしき 瀬をなせるなり

大船の 蔭にならびて とまりせる 小舟小舟に 夕げむり立つ

砂の上に ならび靜けき 冬の濱の 釣舟どちは 寂びて眞白き

むきむきに 枝の伸びつつ 先垂りて ならびそびゆる 老松が群

風の音 こもりてふかき 松原の 老木の松は 此處に群れ生ふ

横さまに ならびそびゆる 直幹の 老松が枝は 片なびきせり

張り渡す 根あがり松の 大きなる 老いぬる松は 低く茂れり

松原の 茂みゆ見れば 松が枝に 木がくり見えて 高き富士が嶺

末とほく けぶりわたれる 長濱を 漕ぎ出づる舟の ひとつありけり

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