江戸川柳で読む日本裏外史 高野 冬彦

 第七部 天下泰平の裏側(後書)

 さて、いよいよ織田信長や、豊臣秀吉による海内の統一から、江戸幕府の成立による天下泰平の実現、さらには文化爛熟の黄金時代の開幕という輝かしい時代を迎える訳だが、此処に至って、筆者の筆はピタリと停まって動こうとしないのである。
 一つには、江戸時代の庶民にとって、歴史とはどの程度の過去を指して言っていたのか、言い換えれば「歴史川柳」という概念の限界がはっきりしないためである。

 勿論やかましいことを言う気は、毛頭無いのであるが、たとえば一例として、徳川家康を取り上げて見よう。
 家康が天下分け目の関ケ原の合戦に勝利を収めたのは、慶長五年(一六〇〇)、川柳の成立した、明和から寛政にかけての時代から見れば、かれこれ百六〜七十年も昔の話である。
 現代人の感覚からすれば、当然歴史的年代の中に組み込まれて、榑物館的視野から検討されて然るべき事件だと思うのだが、江戸時代の入々にとっては、それは全く次元の違う間題だったのである。
 「東照大権現」の名で呼ばれる家康公の権威は、その死後といえども、益々厳然たる支配者として、現実に庶民の上に君臨していた訳で、白由な批判や分析はおろか、ちょっと口にするさえ、周囲に気を配らなければならい存在だったのである。

 家康についての川柳もないことはない。
 但し読んで見ると、あの独特な風刺とか、批判性とかは、薬にしたくも無いのである。

 例の松尾芭蕉にしてからが、
  -あらたうと青葉若葉の日の光り
 と、本心かどうかは知らないが、お世辞たらたらでなければ、東照宮のことを詠めなかった時代である。
 表現の自由などと言うたわ言は、当然問題にもされなかったのだ。試みに今二・三の例句をあげてみよう。

  御勝利はあしの枯葉を刈る如し

  御扇子は御運を開く御ン印

  御利運は関八州に八をかけ

  天然自然武の蔵に武を蔵おさ

 第二句は、例の扇の旗指し物を言ったものだし、第三句は、八x八で六四州を意味するらしいが、どれをとっても見え透いた阿諛追従で、江戸っ子の向こう意気はどうしたのだと言いたくなる、不甲斐なさである。
「家康さんは、特別だ――」と言われれば、そうには違いない。

 しかし演劇の方では、この家康を悪玉にして、大阪落城の悲劇を発表した、勇敢な男が居たことは居たのである。
 現在、浄瑠璃種の丸本歌舞伎として残っている「鎌倉三代記」や、「近江源氏先陣館」などがそれで、浄瑠璃作者・近松半二が、三好松落その他との合作で、完成させたものである。
 但し現代の観客の目から見ると、徳川家康は北条時政、豊臣秀頼は源頼家と名前が替えられて居り、また時姫とは千姫のこと、三浦之助は木村長門守、佐々木高綱は真田幸村のつもりで見なさいとか、解説書の注意書きを丁寧に読まなければ、中々察しのつかないもので、何も気が附かずに終ってしまう見物客も多いのではないかと思う。

 ただし、これにはやはり事情があって、本来は明和七年、別の外題で上演されたのだが、忽ちその筋からの圧力で、興業差し止めの処分を受け、慌てて大改訂をしたものの、暫らくは日の目を見ることが出来なかつたという経緯があり、「摂陽綺観」などにも、「正本出来ず。
 後年「鎌倉三代記」という古浄瑠璃の外題を用い、今に玩ぶのみ。
 全てこの世界は、差し構えこれ有り。
 「南蛮鉄後藤目抜」を「義経腰越状」とする類ひ多し」と、当局による干渉は当然予測されたのに、敢えて挑戦した作者の無鉄砲さに呆れている感じもあるのである。

 つまり文学や演劇の世界では、歴史に関して大きく「時代もの」と「世話もの」の二つの分野に分けられて居り、遠く離れた「時代もの」の世界では、どんな奇抜な構想を構えることも勝手だが、現実生活につながる「世話もの」の世界では、人情風俗を描くことは許されるものの、政治・経済等社会の根底に触れるような問題を取り扱ってはならぬとされ、その限界は大体「室町時代」を限度とするものとされていたのである。

 間題は、そんなことを何時、誰が決めたかということになるのだが、実はそんな規定は何処にもないという事の方が、もっと重要な事なのかも知れない。
 江戸時代の法令の特徴として、表面的には実に曖昧な表現しかしていない癖に、取り扱う役人の考え次第で、どうにでも拡大、または縮小して解釈、且つ適用されてしまう所に、間題はあるのである。

 例えば、出版・印刷に関する規定としては、元禄十六年の禁令集の中に、
「前々も令せられし如く、当世異変ある時、小唄・謡曲につくり、はた梓にのぼせ、売りひさぐことを愈々停止すべし。
 堺町・木挽町等の戯場にても、近き異変を擬すること、なすべからず、云々」とあり、又享保二十年の御触れ書にも、
「世上の異説、当時の噂ごと流布いたし候儀は停止にて、殊に公儀御吟味筋の儀は、甚だ重きことに之有り、云々」とあるのがそれであるが、ここで当世異変とか、世上の異説とか言っているのが、一体何を指しているのか、はっきり解らない所が曲者なのである。
 ただ前者は元禄十六年という年度から、これは明らかに赤穂浪士の一件だと見当がつき、同じ年の四月に起った、お初・徳兵衛の「曽根崎心中」については、何の咎めも無いのだから、当局の意向がどの辺にあるか、大体見当がつくと言うものである。
 と言って、「心中もの」は何時も安全かというと、そうとは限らない。
 また違反とされた時、どういう罰則が適用されるのか、それが解らない。
 その辺がこの時代の怖いところである。

 馬場文耕という講釈師が居た。
 武家の出らしく、中々気骨のある人物で、「大日本治乱記」などという時事講談で人気を得て、采女ヶ原その他、各町々で口演していたのだが、偶々美濃の郡上八幡・金森藩の百姓一揆を扱った「珍説・森の雫」を発表したのが官憲の忌憚に触れて逮捕され、公儀の吟味中の事件を批判したとして、遂に斬首獄門の刑に処せられたのだから悲劇である。
 文耕という人はプライドが高く、取り調べの役人に対しても少しも屈することなく、堂々と反論したらしく、そのために余計憎まれるということもあったらしいが、それにしても、たかが一片の社会時評を試みただけで首を斬られたのでは、たまったものではないのである。

 ところで、この事件の起った宝暦八年という年は、たまたま
川柳の生みの親、柄井八右衛門が、前句附けの点者として独立した年に当り、その点では文耕事件は、川柳の性格に大きな影響を与えたのではないかと思われる。
 柄井川柳は町人ながら、浅草竜宝寺前町の町名主を勤める身である。
 同じ江戸で起こったこの事件を知らぬ筈はなく、それどころか、場合によっては町奉行所に呼び出しを受け、今後くれぐれも違反の無いようになどのお達しを聞かされたことも、当然想像される所である。
 それがその後の選句の傾向に、影響して行ったことも十分考えられるのだ。

 川柳がそのため、一流の文学の水準に達しなくなったなどと言う積もりはない。
 社会的な矛盾と正面から対決しなかつたからと言って、芸術的な価値がどうこうと言う間題とも違うようである。
 そうした青臭い論議の向こう側に、柄井川柳によって一応代表される江戸町人、一見単純そうにみえながら、社会的政治的には極めて慎重な、すれっからしの大人達の苦い微笑が見えてくる気がするのである。
 江戸っ子というのは、とにも角にも参百年の平和を体験し、実践しできた人々である。

 戦後僅か五十余年で、早くも平和というお荷物を持て余しかけている現代人とは、修業の程度が違うのである。
 平和というものが、社会にとってやはり貴重な、何時までも護り通して行くべき理念だとしたら、人間はそのために、どれほどの辛抱・忍耐が必要であるか、身をもって知っている人たちである。
 こういう人々の素顔に接するだけでも、江戸文学に触れる値打ちは十分あるはずである。

 ただ今回に限つては、こういう江戸の蔭の部分については、余り触れたくないのである。
 暗い現実に閉じ篭められながら、なお必死に明るく呑気に振る舞って見せている、可憐な江戸っ子達の、夢と幻想が生み出した歴史というものを紹介するという本書の目的にてらして、敢えて此れ以後の部分は切り捨てにさせて頂こうと思うのである。
 御了承願えれば幸いである。

(江戸川柳で読む日本裏外史「完」)


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