江戸川柳で読む日本裏外史 高野 冬彦 目録

   第五部 源平の争乱

 [目次]
 第一 平清盛―一代の驕児の栄光と没落
 第二 祇王と祇女―権力者の陰に咲き散る女達
 第三 源義朝と常盤御前―敗北の哀歌にもある男女の差
 第四 小督ノ局―琴の音を嵯蛾野に求める恋の使
 第五 源三位頼政―鵺を退治した英雄の末踏
 第六 木曽義仲と巴御前―戦さと恋に生きた旭将軍
 第七 平ノ宗盛と熊野御前―英雄に二代なしの好見本
 第八 薩摩ノ守忠度―武人におけるものの哀れ
 第九 源義経―英雄の典型が辿るスピード人生
 第十 静御前―悲劇の申でこそ女性は美し

第一 平清盛―一代の驕児の栄光と没落

  三年忌きりで清盛無縁なり

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を現す」

 格調の高い和漢混淆文の名調子に加えて、巨大な歴史の転換点に踊り狂う、人間の様々な情念を、見事に描き尽くしたこの名作は、日本の古典の中でも、最も広く愛読された物の一つであり、又琵琶法師の手で、語り物としても普及していたから、文字の有無に関らず、江戸ツ子達にとっても馴染みの深い世界であったようである。
 歌舞伎や浄瑠璃にしても、時代物と言えば、その半分以上は源平争乱の世界を扱ったもののようで、有名な事件や、人物の性格などについても、多くの人が、現代から見ても驚くほどに、深く豊かなイメージを持っていたらしいのである。
 川柳にしても、他のどの時代に較べても、質・量ともに格段の豊かさを示していると言ってよい。
 それだけに取り上げるべき人物も多いし、事件も多種多様で、章節のふりわけ方にも苦労するわけで、結局は歴史の大波の、それぞれの頂点に立つ人物を中心に、それに関連する人物や事件を、一つの世界にまとめる形で進める他はないのであるが、さて、その思惑通りに行くかどうか、取りあえずは平家の大黒柱、清盛から始めることにする。
 前章でも少し触れた通り、清盛は表向き平忠盛の嫡男となっているが、実は白河上皇の御落胤であると言う。
 こうした出生にからまる秘密を孕みながら、保元・平治の二つの動乱に勝ち抜いて、遂には武士の身で、従一位太政大臣の極官に昇り、天下の政治を掌中に収めて、二十年に渉る六波羅政権を実現した一代の英雄である。
 勿論現代の歴史家の眼からみれば、貴種の出であるという意識が反って災いして、今一歩の決断が足らず、遂に貴族政治の枠を打ち破れなかつたという批判はあるようである。
 しかし、院政に集約されたような、古代政治の弊害を打ち破り、何らかの新しい政治の必要を人々に自覚させ、次の時代への転換の端緒を開いたというだけでも、わが国の歴史上、見逃すべからざる一偉人であることは、間違いないのである。
 ただ彼の場合、最初から政治的変革を意図した訳ではなく、度々の事件に際し、常に強運に助けられて、次第にその力を伸ばして行った点で、いささか他力本願の気味がないことはない。
 そのために、厳島神社の御加護だとか、舟に飛び込んだ(すずき)を食べた果報だとか、陰口もきかれたらしいが、この時代としては、そうした考え方の方が社会の風当たりも少なく、人々にも受け入れ易かったのかも知れない。

   安芸ノ守時代は至極信者なり

   変わってもないと御乳母は鱸食ひ

 しかし、出る杭は打たれる。
 官位が進み、政治的権力が強まるにつれて、今度はやっかみ半分、多くの中傷が飛びかい、業績への批判、抵抗は当然激しくなる。
 何時に変わらぬ世間の成り行きである。
「一門の公卿十六人、殿上人三十余人、知行國三十ケ國、荘園五百余ケ所」という発展ぶりで、
「平氏にあらずんば、人にあらず。」と噂される情況下では、必然的に敵はふえ、少しの油断も命取りになる、危険な情況が進行する。
 そこで生まれるのが、スパイ政策である。
 ただそのスパイに、年十四・五の少年ばかり五百人、髪を禿型に切り、赤の直垂を着せて、京の町々に放ち、人々の噂、世間話などに聞耳を立てさせたという辺りは、ちょっと独創的で面白い。
 陰湿さが無く、明るく爽やかでさえある。
 蕪村の俳句にも、

  花盛り六波羅禿見ぬ日なき

 とあるが、やはり陽春のイメージである。
 だだ川柳の方は、もう少し現実的で、

  梅を持つ禿洛中かぎ廻り

  禿が来ては入道耳こすり

 なんてのがある。
 そして、そのスパイ網に引っ掛かったのが鹿ヶ谷の会議である。

  鹿ヶ谷通ひを禿言い付ける

  鹿ヶ谷大一座だとかぶろ告げ

 この場合の禿には、大分吉原の匂いがするが、それはともかく、鹿ヶ谷と言えば東山の麓、法勝寺の執行、俊寛僧都の山荘のあった所、そこに集まったのが、新大納言成親、丹波少将成経等。
 この連中が後白河法皇の内意を受け、平家追討の密議をこらしたと言うのである。
 この事が暴露するや、怒り狂った清盛入道、西光法師を斬り、俊寛、成親、成経の三人は鬼界ケ島に流罪に処する。
 その結果が有名な俊寛の「足摺り」となる訳だが、話が少々悲惨過ぎるのか、川柳ではこれといった作品は見当らないようである。

  駄々ッ子のように俊寛愚痴を言い

  俊寛をもぎもぎ二人舟に乗せ

 しかし、何と云つてもこの時代は平家の全盛期である。
 清盛の娘、建礼門院が皇子を御出産なされると、襁褓もとれない内に早速春宮とうぐうの宣下がなされる。
 これが後の安徳天皇であるが、その外戚として、政権を一手に掌握、何かと反平氏の策謀を繰り返す後白河法皇を遂には鳥羽殿に幽閉して、完全な独裁権力を確立するに至るのである。

  座敷牢鳥羽の離宮がはじめ也

 かくて思うこと叶わざるなき、栄華の絶頂を極めた清盛を象徴するのが、例の沈むタ日を扇で招き返したという伝説である。
 これは、彼が畢生の事業とした日宋貿易の拠点、兵庫の港の改修に際し、大和田の泊りの築堤が、今しも完成しようとする時点で、
「今一刻、日の沈むのが遅ければ、今目の内にも、堤は完成するものを…」と、工人達が嘆くのを聞いて、
「ならば、余が威光によって…」とばかり、扇を開いて太陽を呼び戻し、工事を完成させたというのである。

  日輸にまでつっかかる無法者

  清盛もその日は夜食二度くらい

 請負工事の現場監督ではあるまいし、太政大臣ともあろう人が、工事の完成に責任を負うこともなかつたであろうに、ちょっとした気紛れから、自然の秩序を乱した増上慢の行為に対しては、当然の結果として日の神の罰が下される。
 頼朝・義仲等、源氏の残党どもが挙兵をして、平家の運命が漸く危胎に瀕するという大事な時期に、清盛入道は突如高熱を発し、焦熱地獄の苦しみの中で、悲惨な最後を遂げるに至るのである。

  清盛の医者は裸で脈をとり

  湯に入る時入道はじゅうと言い

 現代で言えば、肺炎とかマラリヤのような病気だつたのであろうが、「平家物語」もその辺は大分非科学的で、病人に四・五間の距離に近付くと、暑くて耐えられなかったとか、水槽に患者を浸すと、水が湯になって沸きあがつたとか、いかに舞文曲筆の余とは言え、随分いい加減な事を書き飛ばしている。

  清盛も初手はおこりだなどと言い

  ゆで蛸のように清盛苦しがり

  汲みたてがいいと宗盛下知をなし

  清盛の幽霊不動かと思い

 生前わがまま勝手をした分だけ、死後の悪口が増えるのも、或いは仕方の無いことかも知れないが、それに対応するように、長男の小松ノ内府重盛の評判はすごく良いのだ。

  はき溜めに鶴の下りたは小松殿

  餅の皮むかぬは小松殿ばかり

 何かにつけて父清盛の専横を批判し、説得し、社会的な摩擦を避けようとした訳だが、それだけに精神的ストレスも大きかったようである。
 生来の病弱で、自分の命も長くはないことを悟ると共に、一門の末路についても何かの予感があったのであろう、遥かに中国の育王山に、三千両の黄金を寄進し、一門の菩提を末長く弔ってもらうように手配をしたというのである。

  小松殿一人後悔先に立ち

  若死にをしあてた人は小松殿

  一もんを惜しみ唐土へ三箱やり

 しかし、こういう利口さと言うものは、一面どこか興ざめのする所があって、

  異国から納豆もらう小松殿

  平家をば三千両で売り渡し

 戦さをしない前から、負ける気でいたとすれば、平家滅亡の原因は、実は重盛にあったのではないか、そんな批判もどこかに感じられる句である。
 其処へ行くと清盛はやはりやることが豪快で、男らしい。

  ゆっくりと寝る気で都うつし也

  新都では海ばっかりを諸卿賞め

 例の福原遷都にしても、堂上貴族の意見など、最初から無視している。

  清盛は意見言はれる年でなし

「やりたいだけやつたら良い。」
 江戸町人の享楽主義は、後世も菩提も信じない。
 現在の一瞬に命を燃やし尽くす清盛型の生き方に、同調するのが多いらしい。
「本当は、もっとやってほしかつたよ。」そんな声さえ聞こえるようである。

  始皇から見れば清盛小僧なり

   第二 祇王と祇女―権力者の陰に咲き散る女達

  六波羅へ番狂わせな仏が来

 重盛が川柳子の間で評判の悪いのは、何と言っても周囲に女ッ気のないことである。
 それに較べると、清盛はさすがに百花繚乱、とは言っても正確なことはとても解らないが、中でも有名なのが、「平家物語」の始めに出てくる、この祇王と祇女の話である。
 二人は姉妹、そして共に白拍子であつた。
 "白拍子とは何か?”と言われると、又々面倒になるが、簡単に言えば現代の芸者のようなものだったらしい。
 勿論芸者と言っても、相手にする人々には堂上の貴紳が多かったようだし、社会的地位もまんざら低いものではなかつたようだ。
 特にこの二人は、今を時めく浄海入道の想い者、毎年百貫百石の禄を与えられて、何一つ不足のない境遇だつたのである。
 所が、その華やかな六波羅の邸に、加賀の生まれで「仏御前」と名乗る白拍子が、ひょっこりと現われたのだ。
「白拍子として世に立つ上は、入道相國ほどの人に認められ、賞玩される身になりたいと言うのがかねての希み、何とぞ一度、お目通りを…」と申し入れた。
 入道は怒って、
「たかが遊び女の、さし出がましい。」と早速追い返そうとするのを、心優しい祇王御前が、
「若い女子のけなげな申し状、一度だけでも見ておやりになられては…」と取り成して、晴れの宴席で、その技芸の程を披露させた。
 所が、懸けた情けが反って仇、一目見た清盛は忽ち彼女の虜になり、それからは“仏、仏”の一辺倒、終には祇王等二人を召し離して、邸から追い出したばかりか、時には仏御前の機嫌をとるために、前とは反対に二人を呼び出して、仏の前で舞を舞えと強制する始末である。
「余りと言えば、余りななされ方…」と、打ちひしがれた姉妹は、やがて嵯蛾野の奥にかくれ、髪をおろして尼になったと言う。
 こうした男女関係のいざこざともなれば、これぞ川柳の独壇場という訳で、これに関する作品は、実に沢山ある。

  琴箱を先によこして祇王・祇女

  月は祇女花は祇王と一さかり

  祇王・祇女田舎むすめにおっぺされ

  清盛は仏のために迷はされ

  祇王・祇女廂の下に突き出され

 正に廂を貸して母屋を取られたわけだが、これも又前世の定めと、屋形をたち出る時、障子にすらすらと書き残したのが、

  萌出るも 枯るるも同じ 野辺の花
いづれか秋に あはで果つべき

 こういう解りやすい歌だと川柳子も大歓迎で、わかるわかると同情して、

  萌え出るとは品をよく嫉いた歌

  嵯峨ようでいづれか秋と一首書き

  入道の前に障子を持って出る

  祇王が出た後で障子を貼り替える

 引っ越しのすんだ後のことまで心配するのが、川柳というものであろう。
 一方、祇王達は、今は浮世に未練もないと、泣く泣く嵯峨野に身を隠すのだが、

  その足で祇王は数珠屋町へ寄り

  おぬしもしたれはせぬかと祇女が母

 何せ理由の無いままに、お払い箱になつたのだから、母親も心配したに違いない。

  煩悩を仏に譲る嵯峨の奥

  仏より先に悟った祇王・祇女

 とは言うもの、女の身で、果たして何処まで悟れたものか、時には、

  うつり気な坊主と嵯峨で悪く言い

  名もあろうのに罰当り奴と祇王

 怨んだり、泣いたりしたこともあったであろう、或る日、突然仏御前が、この庵を尋ねて来る。
「貴女の書き残された御歌を見るにつけても、無常の思いが胸を貫き、かつは後世の報いのほども恐ろしく、今漸く菩提の心を発して、かくの通り…」と、涙と共に罪を詫び、今は諸共に念仏して世を終りたいとの願いに、祇王も感動して旧怨を忘れ、共に仏の道にいそしむことを誓ったと言う。
 歴史の蔭に咲いた、弱い女達の悲しみが、案外素直に伝わってきて、この無情感は割によく納得される。
 川柳の方でも割合暖かい目で見ているらしく、

  追い追いに嵯峨に舞いこむ白拍子

  舞扇三本嵯峨で毛受けにし

  嵯峨の奥色と栄華の夢が醒め

  美しい尼二三人釈迦参り

 しかし一方では、そうした綺麗ごとは表むきで、実は常盤御前の出現によって、仏御前もお払い箱になったのが真相だという解釈もあって、

  後家が来て踊り子みんな嵯峨へ行き

  この頃は後家狂いだと嵯峨で言い

 さて、どちらが真相であるかは、読者の想像に任せるより仕方がないようである。
 

  第三 源義朝と常盤御前―敗北の哀歌にもある男女の差

  源平に咲いて貞女の名を残し

 平家の繁栄は源氏の悲惨の上に成立した。
 そしてその悲劇の象徴が源ノ義朝である。
 保元の乱(一一五六)に、戦功第一と言われながら、清盛と藤原信西の提携による政治的諜略に操られて、父・為義の首を斬り、弟・為朝を伊豆に流すなど、我と我が手足を斬り落とした形の義朝が、積もりに積もった欝憤を一挙に吐き出したのが平治の乱(一一五九)であった。
 しかし結果としては無残な敗北、源氏一門は二度と立ち上がれない程の壊滅状態に陥ったのである。
 一族は散り散りとなり、頼みの綱の長男・悪源太義平は、信州で再起を計ろうとして失敗、独り清盛への復讐を企てるが、遂に捕えられて六条川原で斬られたし、次男・朝長は、落ちる途中を叡山の僧兵に襲われ、遂に青墓の宿で自害して果てたのである。
 義平の怨念は、死後もなお雷神と化し、自分の首を斬った難波三郎経房を、摂津の布引の滝で襲い、木っ端微塵に打ち砕いたと言う。

  清和源氏のごろつきは悪源太

  悪源太蚊帳のつられぬ所で鳴り

  悪源太幽霊などは手ぬるがり

 などの句は、皆そのことを詠んだものだが、この他朝長のことを詠んだものでも、敗亡の源氏に対する同情の目立つ作品が多いようである。
 しかし、中でも悲惨を極めたのは、御大将・義朝である。
 失意敗残の身を以て、やっとのことで死地を逃れ、尾張國に入って、ヤレ安心と一息ついた所を、味方の裏切りによつて殺されたのだから悲劇である。
 裏切ったのは、股肱の臣と頼んだ鎌田兵衛正清の舅に当たる長田ノ荘司忠致、しかも正月早々、油断して風呂に入った所を狙われて、裸のまま討ち死にしたというのは、余りにも痛ましい。
 かかる非業な最後を遂げたのも、因はと言えば実の父親を、我が手で処刑した報いであろうというのが、昔の人たちの考え方のようで、

  親の罰湯殿で当たる松の内

  義朝は湯潅を先にしてしまい

  義朝は雑煮の箸がポキリ折れ

 多少は虫のしらせがあつたかも知れないが、何しろ正清は忠義一徹の譜代の郎党、その舅まで疑うことは出来なかったのであろう。

  屠蘇酒をまいれと長田婿に強ひ

  酔うまいことか三州を長田出し

  しびれ薬を入れたよう鎌田酔ひ

 何しろ長田は、この婿まで殺す積もりだったらしく、強い酒を飲ませて一旦は遠ざけておいて、義朝一人を風呂に招じた。

  垢すりの糠のと長田世話をやき

  お背中を流しませうと長田言い

  板の間と長田異名をつけられる

 こうしておいて、屈強の刺客を湯殿に送リこんだのだから堪らない。

  義朝も初手は握ってはたらかれ

  軽石で長田三つ四つくらはされ

  きん玉をつかめつかめと長田下知

 いかに剛勇無双の大将でも、素手で裸では如何ともなしがたい。
 哀れ三十八才の若い生涯を終えたのである。
 この最後の折、彼が、
「もし我に、木刀一本ありさえすれば…」と叫んだとかで、彼の供養の為に建てられた野間の大坊では、今も墓前に、木刀が山のように供えられているのも哀れである。
 それにしても、こうした長田のやり口は、いかに計略とは言え、武士にあるまじき卑怯な振る舞いとして、この当時、平家方にさえ非難が多く、恩賞どころか処罰に値するとの意見もあった位で、現に鎌田兵衛の妻は、長田の娘でありながら、親を恨んで、遂に自殺してしまった程である。
 ただ当の本人は自分のしたことの意味が、中々解らないのが人間の悲しさと言うのであろう。

  長田の郎党白旗をつまみ出し

  常盤めをこれでと長田握って見

 誠に滑稽と残酷とは、紙一重表裏の関係にあることがよく解るが、これは常盤御前の場合にも同じであつた。
 常盤御前。
 義朝の側妾となる以前は、九条院の雑仕と言うから、身分の高い女宮、所謂「女房」ではない、やや下級の女性であった。
 とは言っても、単なる端下女ではないどころか、「義経記」によれば、
「日本一の美人なり。九条院はことを好ませ給ひければ、洛中より容顔美麗なる女を千人召されて、その中より百人、又百人の中より十人、十人の中より一人選び出されたる美女なり。」とある。
 何のことはない、「ミス京都」というより、当時のレベルで言えば、正真正銘の「ミス日本」の当選者だつた訳で、当然宮中でも、引く手あまたと言うか、引つ張りだこのスターだったのである。
 早くから義朝に愛され、今若・乙若・牛若の三人の男子を生んだが、平治の乱の敗北で、当然身に危難の降りかかるのを察し、急ぎ都を脱出した。
 よく昔の絵にあった雪中の逃避行である。
 大和國宇陀郡竜門という所に潜んでいたが、平家方の探索が厳しく、母の関屋が捕えられ、様々に訊間されているとの噂を聞き、
「親の命には換えられませぬ。」と、三人の子供を連れて出頭した。
 この段階では、子供を犠牲にしてもとの覚悟だつたらしいのだが、何にしても絶世の美人、一目見た清盛は、忽ちフラフラになつた…と川柳子は言うのである。

  子故の闇にあかるみへ常盤出る

  小松より親が常盤の色に染み

 小松ノ内府重盛が何と言ったか知らないが、一旦目尻を下げてしまえば、こちらは捨身の構えだから、僅かな隙につけこんで、
「子供達の命が助かるものならば、私の命は、どうなりましても…」としなだれかかって、見事成功という次第。

  ぎりぎりの所で常盤色を変え

  義朝と俺とはどうだなどと濡れ

  牛若が目がさめますと常盤言い

 子供の命を助けるという大義名分があるだけに、常盤のこの行動については、昔から同情の声が強く、中にはむしろ、「よくやった。」といった調子の作品も多いようだ。

  子のために常盤小便組となり

  みどり児のために常盤は色を変え

  仇かたきにも帯を常盤の夜の鶴

  貞女両夫にまみえたで子を助け

  白に緋を重ね貞女の小夜衣

 それに引き替え、鼻の下を伸ばした清盛はさんざんである。

  入道はよだれを流し流し助け

  清盛の鼻毛を所帯くずし読み

 此処で色香に迷つたばっかりに、やがて生長した牛若丸によって、壇ノ浦の水屑と消える一門の破滅の原因を作ったのだと、清盛弾劾の風は激しいのである。

  ふところに抱いていたのに減ぼされ

  入道のよだれ源氏のこやし也

  九族をみな海ばたで迷はせる

 しかし、常盤は本当に子供のためだけに、清盛の意にしたがつたのか?小説家の空想の中では、例えば吉川英治の「新平家物語」などでも、その辺は微妙であり、更に深く女女性心理の深奥に追ろうとする作品が、増えているようである。
 川柳の方でも、

  じょうかいは常盤の方につけたい名

 ちょっと難解な句だが、清盛の法名、浄海を常盤の方につけるとしたら、どんな漢字をあてる積もりか、興味がある。

  残念かいいか常盤は泣いている

 この句に至っては、北原白秋の「勘平さん」の詩を想い出させる切れ味の鋭さで、川柳というものは、此処まで突っ込んだ言い方をしない方が、太平の民らしくおっとりした味が残って、良いような気がしないでもない。
 

   第四 小督ノ局―琴の音を嵯蛾野に求める恋の使

  爪音に勅使は嵯峨で駒をとめ

 清盛に関連して想い出される女性に、今一人「小督ノ局」、がある。
 桜町中納言の女で、宮中第一の美人と聞こえ、且つは琴の名手であった。
 高倉天皇の中宮、建礼門院に仕えていたが、やがて天皇の御目にとまって、お側近く仕えることとなった。
 一方清盛の娘婿、冷泉大納言隆房卿も又、彼女を一目垣間見て以来、すっかりのぼせ上がって、思いのたけを打ち明けようと、彼女を追い回し、宮廷の人々の失笑を買う有様、これを聞いた清盛は、すっかり腹を立て、
「中宮は、我が娘。大納言は娘婿。
 一人の女に、二人の婿を取られるなど、一門の面目にもかかわる。
 小督という女、そのままにはしておかれぬわい。」と、危うく命まで失いかねない様子に、
「我が身はともあれ、主上に御迷惑がかかってはならぬ。」と、密かに宮中を脱出、嵯峨野の奥に隠れてしまったのである。
 天皇のお嘆きは一方ならず、「平家物語」によれば、
「昼は夜のおとどに入らせ給ひて、御涙にのみ咽び、夜は南殿に出御成って、月の光を見て慰まれるばかり…」という有様。
 こうした消極的抵抗に対して、清盛は益々居丈高になって、圧力を掛けたから、全く天皇は有つて無きがごとき状況になってしまつた。
 折しも八月も十日過ぎ。
 月もようやく澄み渡る中で、天皇は側近の弾正少弼、源ノ仲國を召し寄せられて、
「其方一小督の行方について何か知らぬか」とのお訊ね、
「嵯峨野の奥とは聞いておりますが、詳しいことば、一向に…」とお答えしたものの、しばし考えて、
「小督どのは、音に聞く琴の名手、この名月を前にして、一手の調べを試みないはずはございません。
 私も先年、あの方の琴に笛を合わせたことがございます。
 ちょっと聞けば、音色を聞きわけるのは容易なこと、きっと探し当て、ご覧にいれましょう。」と、馬寮から駿馬一頭を借り出すと、あてもなく夜の嵯峨野にさまよい出た。
 尋ね尋ね行くほどに、亀山のあたりで片折戸を洩れてくる琴の音を聞きつけた。
「それも、名曲「想夫恋」…」と聞き定めてから、こちらも腰から笛を抜き出し、心をこめて合奏した後、おもむろに案内を申し入れると、相手も懐かしく招じ入れて、後は涙の対面となった。
 時は中秋の名月の宵、所は男鹿鳴く嵯峨野の奥、景情見事に合致して、注文通りと言いたいが、それに輸を掛けておつりの来そうな場面だから、詩によし歌によしで、当然川柳の方でも沢山の作品が作られている。

  絲竹の調べに冴える嵯峨の月

  コロはてなリンはシァシャン此処だわえ

 琴の音を三ツに区切った技巧など、中々心憎いものがあると言えるであろう。

  明月のお尋ね者はうつくしい

  提灯におよばずと仲國は出る

  耳を皿のようにして仲國は探し

  ドウドウと言って仲國笛を出し

  ひづめの音を聞きつけて琴をやめ

  誰そやこの夜中と小督琴をやめ

  さがしましたと仲國は馬を下り

 誠に美しい王朝絵巻の風情である。
 仲國が重々しく、携えた主上の御文を手渡しすれば、小督も涙ながらに御返事を書き、美しい夜は更けて行った。

  想夫恋うつくしづくの御うらみ

  嵯峨ようの返事仲國持っている

 しかし、美しいだけでは川柳らしくない。
 敢えて少々ひねった作品を探すと、

  仲國は祇王の庵も覗いて見

  仲國は笛で迷子をたずね出し

  仲國の馬は枝豆ふるまはれ

 面白いが枝豆の出る豆名月は九月十三日、ちょっと思い違いをしているようである。
 いずれにしても、仲國の機転で、美しい恋の文使いは見事成功、その後も彼の努力で、小督は密かに宮廷に復帰するのだが、喜んだのも束の間、痛ましい恋の末路は、忽ちにしてやつて来た。
  真相を知った清盛入道、怒り心頭に発して即座に小督を逮捕、無理矢理に尼にして、放逐してしまったから、高倉帝はその憤りと悲しみに耐えられず、その後間もなく崩御されてしまわれるのである。
 その折り、仲國が何をしていたか、又その後どうなったか、歴史はそれについては、何も教えてくれないようである。

  仲國は西八条に不首尾なり

   第五 源三位頼政―鵺を退治した英雄の末踏

  手のこんだ化物の出る紫宸殿

 源三位頼政。
 実際の歴史ではほんの端役かも知れないが、川柳の方では大物である。
 何といっても「鵺退治」という大変な見せ場があるからである。
 清和源氏の流れを汲む、例の頼光の末裔で、三河の國に土着をした頼網の孫…などと書いても我々には中々ピンとこないが、ただ平治の乱に際して、一門でありながら、義朝軍の敗北をいち早く予見し、素早く平家方に味方して事無きを得たあたり、目先がきくと言うのか、情勢判断に機敏な、利口な人物だったことは間違いないようである。
 かくて世は平家全盛の時代、宮廷の警護など、つまらぬ役をあてがわれ、昇殿も許されず、鬱々として過ごしていたが、そこは根が器用な人物、やりきれぬ心境を和歌に託して、

  人知れぬ 大内山の 山守りは
木がくれてのみ 月を見るかな

と詠んだのが堂上方の心に適ったらしく、特に昇殿を許されたと言うから、決して単なる武勇の士ではなかったようである。
 彼の文学的教養に関しては、なお暫らく後のことだが、その身分について、永年四位の地位に停まったまま、一向に昇殿できない嘆きの心を、例によって和歌にして、

  上るべき 頼り無ければ 木の下に
しいを拾ひて 世を渡るかな

 と詠んで、これが又主上の御感に入り、遂に源氏では珍しい三位の位を手に入れたと言うのである。
 それ故、源三位という呼び方には、確かに賞賛の意味はあるものの、同時にその抜け目の無い、世渡り上手な生き方を皮肉った感じがこめられているようで、どうも居心地が悪い気がするのである。
 そう言えば歌の方も、何処となくもの欲し気で、いじましい感じがしないでもない。
 川柳でも、

  詠むたびに頼政とかく徳をつけ

などとからかっている。
 しかしその彼が、一世一代、天晴武勇の名を揚げたのが「鵺退治」であった。
 近衡天皇の仁平年間、帝が夜な夜な物の怪に襲われて心身悩乱、御命のほども疑あしいと言う怪事件が発生した。
 その原因を調べてみると、毎夜東三条の方角から一団の黒雲が現れ、紫宸殿の屋根を覆うと見るや、主上の御悩が始まるということが判明した。
「これぞ正しく妖怪変化の仕業、誰かあれを射とめる者はないか。」など公卿達の評定があって、結果選び出されたのが頼政であった。
「朝敵との合戦とあれば、当然のことながら、妖怪退治などという仕事は・・・」と、しきりに辞退したのだが、勅諚とあっては是非に及ばず、腹心の猪ノ早太という郎等を供にして、夜の御殿に伺候した。
「源平盛衰記」を見ると、この妖怪退治、頼光以来の源氏の重宝、雷上動の弓と、水破・兵破という矢についての効能ばかり並べてあり、肝腎の頼政については、一向勇ましい書き方をしていない。
 推薦をしてくれた藤原雅頼卿のことを、しきりに恨んで、
「もしも一の矢で、妖怪を射とめられなかった時には、次の二の矢では、雅頼卿の細首、見事射抜いてくれようぞ。」などと、しきりにボヤいて居たと言うことである。
 余程自信がなかつたのであろう。
 所がいざやって見ると、これが空前の大殊勲、日本妖怪史上、最高の傑作を射て落とすことになったから大変である

 川柳の方でも、この貴重な瞬間を伝えるために、写真週間誌の記者そこのけで、連続シャッターのコマ取り写真のように、刻々の変化を刻明に描いているのである。
 以下余計な解説は一切抜きにして、作品を列挙して検証して見たい。

  源三位夜食を食って支度する

  弓矢たずさえ猪武者を連れ

  しんの闇早太いるかと物凄し

  その暗さ早太桜につっかかり

  橘の蔭に主従息をつめ

  あの雲がさん候と早太言い

  紫宸殿南無八幡と引きしぼり

  思う矢壷へ射こんだは源三位

  あやまたず檜はだをころりころり落ち

 してやったりと猪ノ早太、ころがり落ちた怪物に跳りかかると、素早く抜いた鎧通し、続け様に“九刀(ここのがたな)ぞ刺したりける”と言うのが、怪物の最後であった。
 さてそこで、灯を取りよせて、調べてみて鷲いた。
 書物によって多少の違いがあり、詮索すればするほど怪しくなるのだが、一応「平家物語」を信用して、その記述に従えば、
「頭は猿、躯は狸、尻尾は蛇、手足は虎の姿なり。
 鳴く声、鵺にぞ似たりける。」と言うのだが、およそ誤解を招き易い文章で、川柳子も大いにとまどったらしい。

  似たりと言うは鵺ではないと見え

  鳴く声は鵺本名はむじ知れず

  夜は聞こえたが鳥には縁がなし

 名前の文字にまで文句を付けて、疑いの眼を向けているが、結局この「鵺」という呼び名に決定してしまったのである。

  妖怪の中でも鵺は細工過ぎ

 川柳子も少々呆れ顔だが、その反面、もしも実際にそんな化物が居たらという好奇心も刺激されざるを得ず、様々の場面が空想の中に現われてくるらしい。

  猪ノ早太歯をむき出しておどされる

  キャッキャッと鳴いたが鵺は本のこと

  猪ノ早太尻っぽで肩を食いつかれ

  射落とすと十二支四匹いがみ合い

 猿と虎と蛇で出来ている所へ、飛び掛かかったのが猪というのだから、確かに十二支の中の四つがこんぐらがった訳である。

  鵺の屁に蛇くちなわ毎度当惑し

 なんて句もあるが、これだけ手のこんだ怪物の屍を、そのまま清水の裏山に葬ってしまったというのは、どうにも理解に苦しむ話で、とてもうなずけない。

  猪ノ早太さまのお長屋山師来る

 早耳の見せ物師が早速駆けつけたろうし、

  鵺の絵図売りに来たのは角をつけ

 次の日には読売りの瓦版が、街中に出廻ったはずだと江戸ッ子は考えるのである。
 一方頼政等の活躍を、遠く物陰に隠れて覗いていた貴族たちはどうだったろう。
「怪物、遂に仕留められたり。」と伝えられると、これまで息をひそめていた公卿や官女がゾロゾロ現われて、

  鵺を見に百人一首ほどたかり

  及び腰ぬえの尻べた笏で打ち

  逃げ足で鵺を見に出る美しさ

 大変な騒ぎだったと思うが、中には、

  夜という偏に鳥だと笏で書き

 とんだ物知り博士も居たことであろう。
 しかし、誰よりも一番喜ばれたのは、毎夜うなされていた天皇だつた筈で、叡感浅からず、早速獅子王丸と言う御剣を頼政に賜ったと言う。
 その御内意を承った右大臣公能卿、階を下る途中で思わず立ち止まり、

  時鳥 名をも雲居に あぐるかな

 と口ずさむと、頼政は、こういうことには武芸よりも遥かに慣れているから、咄嵯の即吟で、

  弓はり月の いるにまかせて

 と、つけたから、これ又称賛の的となる。

  射手の名も雲居に揚がる時鳥

  射るにまかせてとは歌も矢つぎ早

  夜の鳥時の鳥とで名を揚げる

 すっかり男を挙げた訳だが、この話には更におまけが付く。
 この時の功名で頼政は、美しい恋女房、菖蒲の前を手に入れることが出来たというのである。
 実はこの話、「源平盛衰記」によると内容は大分違っている。
 頼政がこの美人妻を手に入れたのは、彼が未だ若かった鳥羽院の治世で、院の御所に仕える菖蒲の前にすっかり魂を奪われて通いつめたらしい。
 悪戯好きの上皇はこれを知ると、忽ち奇抜な計画を思い付いたのである。
 一日頼政が、お召しによって参内すると、上皇は菖蒲の前の他に、よく似た少女二人を並べ、同じ衣装で同じポーズを取らせた上で、
「頼政、一人の女にそれ程心を奪われたと言うのなら、よも見間違いは致すまい。
 この三人の中から、見事菖蒲の前を選び当てる事が出来たなら、そのまま其方に遣わすがどうじゃ。」と、余り趣味の良くない懸賞間題を提出した。
 頼政、必死になつて目をこらしたが、距離は遠いし、位置も悪い。
 もし間違えたら、嘲笑の種にされることは必至だから、苦しまぎれの逃げ口上で、

  五月雨に 沼の石垣 水越えて
いづれあやめと 引きぞわずわふ

とやらかすと、又々院の御感に入って、「よくぞ、いたしたり。」と、其の場で美女を賜ったという次第だったと言うが、川柳子は、これを鵺退治の後に持って来て、鵺に代わる御褒美ということで、とんだ所で「美女と野獣」を対比させる演出に変えてしまったのである。
 話を面白くする為なら、何でも使えというのであろう。

  御褒美になま物の出る紫宸殿

  頼政に並べておいてわずらはせ

  きざはしの下で見立てる源三位

  即吟で思う矢壷へまた当てる

  鵺のあと美人天上より落ちる

 こんな状態で結ばれた菖蒲の前だが、その後嫡男の仲綱を生んで、正妻として琴琵相和したらしいから、彼女の方でも、内々は頼政に気があつたに違いない。

  顔を赤めてきざはしを菖蒲下り

  あの時は気がもめたよと菖蒲言い

  いずれとは少し菖蒲の不足なり

  白歯の殿御さとあやめうらやまれ

 お歯黒に染めた、にやけた公卿達に較べれば、確かに男らしかったであろうし、頼政からすれば、年来の憧れの君、こういう二人が結ばれた結果は、言わずとも知れている。

  殿様は鵺から以後の御朝寝

  鵺を射た疲れにかずけ宵から寝

  お目覚めはまだかと早太苦笑ひ

  その当座鵺を射たよりがっかりし

 誠に羨ましい限りだが、此処に哀れをとどめたのは猪ノ早太である。

  早太には菖蒲刀も下されず

  真菰でもいいとすねてる猪ノ早太

  婚礼に仏頂面の猪ノ早太

 頼政にはなお後日講がある。
 平氏追討の魁としての挙兵、宇治川の合戦である。
 平家はこの時期、愈々政治的孤立を深め、それに比例するように政権への執着を露骨にして、狂暴な独裁者への道を突き進んでいた。
 即ち、高倉天皇の退位を強制し、清盛の娘・徳子の生んだ、僅か二歳の安徳天皇を擁立、目の上の瘤とも言える後白河上皇を、遂に鳥羽殿に幽閉して、全ての反対勢力を力で押えこもうとする姿勢を、次第に明らかにし姶めていたのである。
 こうした情勢を見て、義憤にかられる…というタイプでは、頼政はなかつたように思う。
 しかも、この時彼は、齢既に七十歳、所謂古希に達して居り、念願の三位に昇り、漸くゆとりのある生活に落ち着き始めた頃ではないかと思われる。
 それなのに、何故?これは偸安の民である江戸ツ子には、どうにも理解し難い行動だったらしい。

  古来稀なる頼政が謀反なり

  竿先になってと菖蒲たって止め

 しかし、これには矢張りそれなりの事情があったのである。
「平家物語」によれば、次のような事件が原因だったと言う。
 実はこの年、頼政の長男、伊豆守仲綱が、稀代の名馬を手に入れたのである。
 名を「木ノ下」とつけて、秘蔵していたのだが、それを一目見て、是が非でも欲しいと横車を押したのが、清盛の次男、宗盛であった。
 平家の御曹子という権勢を笠に着て、何がなんでも譲ってほしいとの強談判である。
 仲綱が様々な言い訳を構えて、断れば断るほど、益々執劫に迫ってくる要請に、見かねた頼政が中に入り、ようやく仲綱を説得して、事無きを得たのである。
 所が、傲慢無礼な宗盛、
「同じ譲るにしても、譲り方が気にくあぬ」、と柄の無い所に柄をすげて、この馬に、「仲綱」と名をつけ、その尻に「仲綱」の焼印を捺して、折りある毎に引き出しては、
「それ、仲綱に乗れ。」
「仲綱に鞭をくれい…」などと、人々の目の前で嘲弄の種にしたから、誇り高き源家の嫡流としては、堪忍袋の緒が切れたと一言う所であろう。

  ていの良い馬泥棒と源三位

  仲綱は傘屋の餓鬼に馬鹿にされ

 事此処に至っては、“平家の専横、無視すべからず”と思ったかも知れぬが、そうした一時の激情よりも、次第に高まる平氏への反抗の声が、何時しか源氏唯一の生き残りである頼政に、期待の眼を集めることになり、たとえ決起をしなくとも、やがては平家の圧力によって押し潰される、絶体絶命の立場に追い込まれていたと見るのが正しいであろう。
 しかし、決起をするためには、それだけの旗じるしが要る。
 そこで担ぎ出されたのが、後白河法王の第二皇子・高倉宮以仁(もちひと)王である。
 頼政はしばしばこの宮を訪ねて、平家討伐の運動闘始の必要を説き、熱弁をふるったと言う。

  高倉を夜更けて通る源三位

  夕涼になると頼政すすめに来

  蚊を追っておすすめ申す源三位

  助言して頼政王を動かせる

 かくして治承四年(一一八〇)四月、以仁王の令旨が発せられ、新宮十郎行家が各地に散在する源氏の残党に檄を飛ばすべく、東國に奔ったのである。
 しかし平家方とて油断は無い。
 忽ち謀者の通報があり、頼政誅罰の命令が下る事となった。

  高倉へ隠居が来ると禿告げ

  たたき集めて源三位三百なり

 頼政は、かねて覚悟の上とは言いながら、未だ東国の情勢もはっきりしない内に、先手を取られての戦だけに状況は不利であった。
 叡山の協力は得られたが、南都の僧兵は到着せず、それと合体しようとして、宇治の平等院辺りで平家軍と衝突してしまった。
 一部の僧兵の勇戦はあったものの、結局は多勢に無勢、総崩れとなって、「今は、これまで…」。
 と、平等院の扇状芝をしとねとして、見事切腹して果てたのである。
 辞世として、

 埋れ木の 花咲くことも なかりしに
みのなる果ぞ かなしかりける

と、遺した文字も哀れを誘う。

  平等院毛受けのような古跡なり

  鵺だけでおけばよいのに哀れなり

 しかし頼政以上に気の毒だつたのは高倉ノ宮で、思いもかけぬ合戦にまき込まれ、勇ましく鎧など着て見たものの、慣れぬこと故、三井寺から宇治までの、僅かな間に六度まで落馬されたと言う。
 秘蔵の名笛、「蝉折」に「小枝」の二管も、この折り携えて居たと言うし、よく折れなかったものである。
 しかも、奈良へ落ちる途中で、流れ失に脇腹を射通され、遂にはかない御最後を遂げられたというのは、よくよく御運の悪い方だったと言うほかは無い。
 川柳子は、
「どうも、お名前が悪かったのでは…」などと、ふざけた事を言っているものの、密かに同情はしているらしく、

  高くらは落馬しそうな御名なり

  六度目は茶の木の上へおっこちる

  蝉折を宮六度まであけて見る

 勝敗は兵家の常、当人達にとっては、やむを得ぬ運命だったかも知れないが、遺された者の心はどうであろう。
 あの美しい菖蒲の前は、その後一体どうしたろうと、川柳子もしおらしい思いやりを見せて、

  頼政の後家が通ると茶摘み言い

  品の良い婆ァ扇子の芝で泣き

 頼政の墓は、今でも平等院の一隅に、沈鬱な様子で建って居り、人々に懐古の情を起こさせているが、一方では、戦争はいかなる時代でも、一般庶民にとっては迷惑な話であるとの批判の声もあって、

  頼政の謀反茶の木をらりにされ

  頼政が死んだ翌年茶の高さ

  頼政が死ぬと仮り橋願うなり

 宇治橋の橋板を引きはがしての合戦では、その後対岸との交通には、どれだけ苦労したろうと、両国橋や永代橋のつもりになって、心配しているのも、江戸ツ子らしくて面白い。
 なお最後に蛇足ながら、この頼政に娘があったという話である。
 二条院に仕えて、讃岐と呼ばれ、歌人としても名高く、百人一首に、

  わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
人こそ知らね かはく間もなし

が選ばれているのである。
 父親の文学的才能が、こんな所に伝えられたのだなと、心温まる思いがするのは、僕一人ではないであろう。

  人こそ知らね頼政が娘なり

   第六 木曽義仲と巴御前―戦さと恋に生きた旭将軍

  大食らいなりと木曽をば讒をする

 源三位頼政の反乱に対しては、
「たかが蚊に食われたようなもの…」と、大束をきめこんでいた平氏だが、実はこれが、やがて一門一族を土台から押し流す山津波のような大変動の端緒であったとは、中々気が付かなかったようである。
 以仁王による平家追討の令旨は、本人の生死とは凡そ無関係に、全国各地を駆けめぐり、諸国に潜在する源氏の残党、並びに反平氏勢力の不平不満を噴出させる起爆剤の役割を果たしたのである。
 伊豆では源頼朝が、甲州では甲斐源氏の武田氏が兵を挙げたが、中で最も迅速果敢、一挙に敵の中核を突破し、危急存亡の瀬戸際まで追い込んだのは、木曽義仲である。
 義仲は、六条判官為義の次男、帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)の子である。
 父の義賢が、一族の内部抗争の結果、悪源太義平に殺された為、母と共に信濃に逃れ、木曽ノ中三兼遠に養われて成人した。
 不遇の中に育っただけに、功名心は人一倍強かったらしい。
 伊豆の頼朝が挙兵と聞くや、自ら決意して養い親の兼遠を説得、平家討伐の兵を挙げた。
 しかも兵を用いるや、疾風迅雷、平家軍十万を倶利迦羅谷の難所に誘いこみ、火牛の計を以て一挙に粉砕、顔色なからしめた豪快な勝ちっぷりは、正に旭将軍と呼ばれるにふさわしい耀かしさであつた。

  朝日出て二十余年の夢はさめ

  朝日にしぼむ倶利迦羅の木ノ葉武者

 これに対して平家方は、大黒柱の清盛が倒れて周章狼狽、貴族達からも見離されて、遂に幼い安徳天皇を奉じて都落ち、天下の情勢は此処に一変したのである。
 しかし、義仲の快調な勝利も此処までであった。
 都に入った後は、左馬ノ頭に任ぜられ、旭将軍の称号を賜ったものの、田舎武士の不作法さは、都ぶりをひけらかす殿上人の気に入るはずもなく、更には老獪な後白河法皇の権謀術数に操られて、次第に弧立を深めつつ、没落への道を急いだのである。
 義仲の野人ぶりを嘲笑した話としては、乗り慣れぬ牛車の中で、引っ繰り返った話とか、来訪した猫間中納言という公卿に対して、「猫殿、猫殿…」と呼び、大盛りの飯をしきりに強制した話などが有名である。

  馬の気で車に乗って叱られる

  車に酔って大内の笑いもの

  猫どのと言われて公卿は鼠舞ひ

  木曽殿は猫をじゃらして飯を食い

  そばがきを猫間の供にやたら強ひ

  そろそろと御所が木曽殿ぶまになり

 果然、木曽を見限った法皇は、鎌倉の頼朝と提携、義仲追討の院宣を発せられる。
 範頼・義経を総大将とする鎌倉の大軍が、怒溝のごとく攻め上るのに対して、不意を衝かれた木曽方は、統制を失って四分五裂。
 僅かの手兵を集めて、字治・瀬多の橋を落とし防戦に努めたが、忽ち打ち破られて全軍総崩れとなってしまった。
 この悲惨な木曽殿の最後の場面で、僅かに我々をホッとさせてくれるのは、巴御前と言う美しい彩りが介在してくれる事である。
 巴御前は、義仲の養い親である中原兼遠の娘で、義仲四天王の一人今井兼平の妹に当たる女性である。
 やはり豪傑の血を承け継いで、女ながらも無双の勇者、「平家物語」の描写を借りれば、
「色白く、髪長く、容顔誠に勝れたり。あり難き強弓、精兵。
 かちだち、打ち物取っては、鬼にも神にも逢はうと言う、一騎当千のつわもの也。」とある。
 それだけに義仲の寵愛一方ならず、いずれの戦場にも側を離れず、この敗亡の土壇場でも、最後の六騎となるまで戦い抜いて来たのである。
 しかも、"今はこれまで"と覚悟を定めた義仲から、
「木曽は、死にぎわまで、女を供としたと言われては、末代までの名折れ。そなたとの縁も、これまでじゃ。」と因果をふくめられると、
「さらば、最後の餞けのしるしに…」と、忽ち敵陣に駆け込み、武蔵ノ國で強力と聞こえ御田ノ八郎を、馬上ながらに取って押え、その首をねじ切って見せたと言うから凄いものである。

 江戸ッ子の女性渇仰癖は、今に始まることではないが、歌麿調の嫋々たる女ばかりを好んだ訳ではない。
 谷崎潤一郎の「刺青」ではないが、「美しいことは、強いこと。」という美学も十分心得ていたのである。
 美しい上に、強くて情の深い、巴のような女性に人気の出ない筈がない。
 彼女に関する川柳は、正に"挙げて数うべからず"と言った感じである。

  木曽殿の妾ついえなものでなし

  木曽を抱き締めて緋おどしねだる也

  朝日にはとける巴の雪の肌

 見ているだけなら優しい美人なのだが、困ったことには、力が強すぎる。

  あれいっそもうに義仲動かれず

  抱き締められて義仲は度々気絶

  死にますと言うと義仲許せ死ぬ

 だから陣中で、鎧を着ているのが一番似合うのだが、女には女の弱点があって、木曽の陣中鏡台に糠袋

  出陣に巴はちょっと鏡立て

  月ごとに巴はかげの馬に乗り

  草摺りにかからぬように巴たれ

  小便の時には巴陣を引き

 尤も、その弱点を下手につくと大変で、

  抱きつくと見えしが首を引ン抜かれ

  悪いことよしなと巴首を抜き

  茶臼かと思えば巴首をかき

 しかも、木曽の最後の折りには、巴は既に胎内に、彼の子供をみごもっていたと言う。

  神功と巴、鎧に割りを入れ

  生つばを吐き吐き巴切って出る

  腹帯をしっかと締めて首を抜き

 動物でも、孕みの虎は兇暴だと言う。
 手のつけられない巴の奮戦ぶりを見て、
「ああいう女こそ、俺の女房にしたい。」と、変な欲望を持ったのが、鎌倉方の勇将で侍所の別当、和田義盛である。
「殺すな。傷つけるな。そっと捕えよ。」と、無理な注文を連発しながら、じわじわと取り囲み、疲れるのを待って、到々生け捕りにして、鎌倉に連れて来た。
 頼朝の裁可を得て無事に我が家の妻として迎えいれ、そこで生まれたのが、有名な朝日奈三郎義秀だと言う。
 一説には、巴はそのまま生国に帰り、尼になって余生を送ったとも言うが、そこは矢張り英雄は英雄を知り、又更に英雄を産んで行く、人間関係の面白さにおいて、「源平盛衰記」の記述は心惹かれるものがある。川柳子も調子にのって、

  義盛は所帯くずしを申し受け

  厄介のあるは義盛合点なり

  とぼしかけでもよし盛と申し受け

  義盛はおみやげらしい子を育て

 義仲に対する貞操は?…などという野暮なことは、江戸ッ子は言わないのである。

  大味は承知で和田は拝領し

  具足櫃一つで和田へ縁につき

  九十三騎へ甲冑の嫁披露

 和田一門は有名な大家族、披露宴などさぞ賑やかだったろうが、巴は元来信濃の女、飯を食うことにかけては、人一倍の健康優良児だったろうと思われるが、それが今度は、あの方面で名高い相模女になったのである。結果は推して知るべきであろう。

  義盛も飯を食うには呆れはて

  その後は巴毎晩組み敷かれ

  義盛は抱き締められてホッと息

  義盛はしめ殺すなとそっと言い

 ともかくも…ではあるが、巴はそれなりに、幸せだったのに較べて、義仲の最後は悲惨であった。
 粟津の松原で、巴と別れて後は、今井兼平と主従二騎、死に場所を求めて行くうちに敵と遭遇、不覚にも深田に馬を乗り入れて、進退の自由を失った所を一斉に射かけられ、遂に頸筋を射通されて、あえなく討ち死にしたのである。

  信濃では朝日近江で夕日なり

  やみやみと朝日は泥の中で消え

  田の中で巴、巴と三声する

  木曽殿の跡を指さす田螺取り

 この不運な将軍の遺蹟に立てば、芭蕉でなくても、そぞろ人生の淋しさについて、詠嘆の情を禁じ得ないであろう。
 まして、生死一如の忠臣、今井兼平である。
 この体を見ては、今はこれまでと覚悟を定めると、
「日本一の豪の者の死にざまを見よや。」と叫ぶと、太刀の先を口に含んだまま、馬から逆さまさまに飛び下りて、"貫かれてぞ、失せにける"という凄まじい自殺をやってのけたのである。
 後の戦国時代でも、余り例の無い死に方だから、川柳子も呆れ顔で、

  兼平は立派に自殺した男

  兼平の手本は滅多習はれず

  兼平をくわえ煙草の手本にし

 最後にもう一つ。
 義仲には、もう一人妾が居たらしい。
 "山吹"と呼ばれていたが、最後の出陣の析りには、いたわりがあって都に留まったと言われる。
 この"いたわり"と言うのが、やはり妊娠であったという説と、
「名前が山吹だもの、実のなる筈がない」とする説とがあって、川柳子の間で、もめているようなのである。
 どっちに決まろうが、別に天下の大勢には関わりの無い閑人の話には違いはないのだが…

  山吹を大ひきずりと巴言い

 巴御前から見れば、普通の女は皆ひきずりに違いないだろうから、これはまあ仕方がないかも知れない。

  木曽殿の妾一人は産まぬはず

  木曽殿ばかり山吹に実をならせ

 もし後の句が本当だとすれば、義仲の落とし種がもう一人残された訳で、これで第二の朝日奈三郎のような豪傑が、日本のどこかに出現していたかも知れない、そんな空想をはせるだけでも、心楽しくなると恩うのだが、皆さんはどうであろうか?

   第七 平ノ宗盛と熊野御前―英雄に二代なしの好見本

  清盛の相談相手次男なり

 清盛は長男の重盛とは、とかく馬が合わず、その聖人ぶりにも辞易していたから、何かにつけて次男の宗盛を可愛がったらしいが、この次男坊、世間一般には至極評判が悪いのである。
 源三位頼政の息子、仲網との間で馬の取り合いをした話は前にも書いたが、その他することなすこと、英雄清盛の息子にしては、出来が悪すぎるというので、あれは実は余所の子供と取り替えたからであると言う噂が騒かれるに至った。
 それに依ると、正妻の時子が重盛の次に産んだ子供が女だとわかると、急に不機嫌になった清盛が、
「この次は、必ず男子を産め。」と、厳命したのだと言う。
 いかに大政大臣の権威を以てしても、こればかりは自由になる筈もないのだが、とにかく夕日の沈むのきえ、招き返したという我儘な独裁者である。
 もし又、御意に背いたら、どんなことになるか、戦々競々としていた所、次に生まれたのが、又しても女である。
 思いあぐねた時子が、丁度、同じ頃に生まれた五条坂の傘屋の息子と、取り替えて育てたのが、この宗盛だと言うのである。
 場末の産院ではあるまいし、そう簡単に取り替えられる赤ん坊が、居たとも恩えないが、「源平盛衰記」を読む限り、壇ノ浦の敗戦で、愈々最後という場面での、時子の告白は、どうも嘘とばかりとは思えない節があるのである。
 勿論、これほど面白いネタを、川柳子が見逃すはずがない。

  からかさ屋取り上げ婆の口を留め

  張り替えの傘六波羅で破れ出し

  二十年たつて張り替えたのが知れ

 種も畑も悪かつた上に、つけた名前もよくなかった。

  むねもりとつけてお里が知れる也

  傘屋としても下手らしいむね盛

  傘貼りの子に持ち切れぬあめが下

 とは言え、名もない傘屋の息子が、大納言の高位に昇り、平家政権の頂点に立ったのである。
 これを幸せと呼ぶべきか、その為にやがて、壇ノ浦の敗戦となり、むざむざ捕えられて、末代まで恥をさらしたを不幸と言うべきか、それぞれ議論のある所であろう。

  五条坂合羽屋の子は運がなし

  仕合せは宗盛おろく不仕合せ

 と言うのは前者であろうし、後者には、

  入水するよリ傘を貼る方がまし

 なんてのがある。
 宗盛自身も最後には、こんな気持ちだったかも知れない。
 とにかくこの人が采配を振ってからは、平家のやることはヘマばかり、頼朝の挙兵に際しても、自ら総大将として討伐に向かうと言いながら、清盛の病気を理由に、愚図愚図していたばっかりに、すっかり関八州の制圧を許してしまい、やっと軍隊を富士川の辺りまで進めた時には、彼我の勢力は既に逆転していたのである。
 ただでさえ平和に慣れて、柔弱に流れすぎた平家の一門、関東武士の剛勇ぶりを噂に聞き、怯えきっていた所に、水鳥の一斉に翔つ羽音を聞いて、そのまま算を乱して逃れ去ったと言う。
 こういうだらしのなさは、全て宗盛の責任のように、思われてくる所が奇妙である。

  立つ鳥のあとを濁して平家逃げ

  富士川で三味線を折る白拍子

  腹をかかえて富士川を源氏越え

 こんな宗盛にもロマンスがあつた。
 とは言っても、彼の方で一方的に熱を上げただけで、相手の方は、今一つはっきりしない感じなのだが、遠州は池田の長者の娘で、熊野御前(ゆやごぜん)、謡曲「熊野(ゆや)」として伝えられる女性である。
 当時、熊野権現に対する信仰の厚かった時代、それを名前にする女性が居ても、決しておかしくはないと思うが、そのまま音読で、"ゆうや“と読んだ例は、寡聞にして余り無いように思う。
 川柳子など早合点して湯屋の娘と勘違いしたのもいたらしい。

  月に七日は休日のユヤ御前

  召したユヤ宗盛よほど熱くなり

 などと詠んでいるが、とにかく評判の美人、宗盛はすっかりのぼせて、片時も側から離さない寵愛ぶりだったが、女の方は醒めたもので、

  ちとお足りなされぬ方と熊野は言い

  宗盛の伸びた鼻毛を熊野が抜き

 折から故郷の母が病気、看病のためにお暇を頂きたいと、女の方から申し入れた。
 今を時めく平家の御曹子に、何の不足があるのかと、不思議がる人も多かつたが、

  から傘のこと池田でもいつか知り

 例の出生にまつわる秘密が、女の実家の方にも、バレていたのではと言う心配もないではなかったかも知れない。

  看病の願いは熊野がはじめなり

 お妾が旦那と切れる時の口実は、大抵こんなものだから、宗盛はむきになって承知しない。
 とんだ愁嘆場が出来上がった。

  暇を願って熱くするユヤ御前

  人参を食べますそうと熊野嘆き

 所がある日、宗盛が彼女のご機嫌とりの為に、清水に花見に行こうと騒いでいる所へ、池田から母の便りを持って、朝顔という侍女が上京して来た。

  朝顔はしをれて熊野へ文を出し

  じれったい文が花見の先へ来る

 母の病いが重いのだと嘆く熊野を、なをも連れ出そうとする宗盛に対し、万策尽きた彼女が、涙と共に詠んだのが、

  いかにせむ 都の花も 惜しけれど なれし東の 花や散るらむ

 これを見て宗盛、さすがに熊野の真情に打たれ、そのまま帰國を許すに至ったと言う。

  熊野が歌感心したはからかさ屋

  下の句で宗盛判を抜いてやり

  毛氈の上から熊野は旅に立ち

 色々忙しかった事とはおもうが、先ずは目出たし目出たしで終つた訳だが、もし宗盛が未練たらしく引き止めていたら、果たしてどうなつたか?さぞかし、とんだ修羅場が出現したろうと想像される。

  だまかしで行けぬと熊野も垂れる所

  小便と言う場で熊野は歌を詠み

 小便組については、これまでも何回か出て来たが、敢えて説明はしなかったが、江戸時代、何とか旦那と別れたいお妾が、手を切るための最後の手段と考えて頂ければ結構である。
 現代では田中絹代嬢などが有名であるが、熊野はそこまで行かずに、暇を貰えた訳である。
 お陰で平家の都落ちにも同行せず、穏やかな後半生を送ったのは誠に好運であった。
 誰にしても美人の土左衛門など、見たい訳がないからである。

  よい時分ひっぱずしたは熊野御前

  運のよさ熊野六波羅を早仕舞

  熊野御前長居をすると水を呑み

 よかったよかったと、さぞ喜んだことだろうが、それに反して、宗盛の方はおよそだらしがない。
 壇ノ浦の合戦に敗れ、今はこれまでと、海に飛び込んだまではよかったのだが、どういう訳か泳ぎの心得があり、嫡子の右衛門ノ督清宗もろ共、おめおめと生け捕りにされて、永く汚名を残すことになってしまった。

  壇ノ浦親子は水が達者にて

  から傘の波に漂う気の毒さ

 傘屋の子は、やはりそれだけの器量しか無かたのであろうか?ドジな男は、最後までドジだったという話なのである。
 

   第八 薩摩ノ守忠度―武人におけるものの哀れ

  山ざくら読み人知らぬものはなし

 高山樗牛の真似をする訳ではないが、「平家物語」における美の本質と言うのは、亡び行くもの、哀しさ、美しさであることは、万人の認める所であろう。
 そしてその代表に挙げられるのが、きまつて敦盛と忠度である。
 平ノ忠度は、忠盛の子で、清盛には弟に当たる。
 故あって紀州の熊野で人となったが、武芸に長じた上に生来の大力、一門屈指の勇将として、早くから俊秀の誉れが高かったと言う。
 正に花も実もある名将だが、こういう人物でも、時の勢いには抗し切れない。
 寿永二年七月、平家一門の都落ちの最中、一旦は京を離れた忠度が、途中狐川から僅かな供廻りと共に引き返し、夜陰に乗じて五条辺りにあった俊成卿の邸を訪れたという。
「なにことぞ?」と、驚く俊成に対して、
「一門の命運はともあれ、聞けば近く、新しい勅選集の編纂が始まるとのこと、せめて一期の思い出に、一首なりとも選ばれたく、それが黄泉路の障りとなりまして…」と、優にやさしい言葉と共に、秀歌百余首を認めた家の集一巻を、形見として差し出したのである。
 涙と共に見送る俊成に対して、悠然と駒を歩ませな.がら、
「前途程遠し、思いを雁山の夕雲に馳す」と、「倭漢朗詠集」の一句を口ずさみつつ、西海の旅に発って行った忠度の武者ぶりは、正に一幅の名画のように人々の心に残つたらしい。
 感激した俊成は、遺された作晶の中から、特に優れたものとして、
  さざ波や 志賀の都は 荒れにしを
昔ながらの 山ざくらかな
の一首を、「千載和歌集」に選び入れたのである。
 但し、平家一門は悉く勅勘の身、本名を記すは畏れ多いというので、
「読み人知らず」として処理されたのであるが、こういうことになると、江戸ツ子は訳もなく感動してしまうらしい。

  読み人は散りても残る山ざくら

  千載に日陰の桜散り残し

  旧都の名歌、八重桜、山ざくら

 到々伊勢大輔と共に、名歌の双壁に祭り上げられてしまった。
 忠度の念願は、かくて達せられた訳だが、彼自身の最後は、やはり無残だつたようだ。
 鵯越えの奇襲に、総崩れになつた平家方にあって、なお頑張っていた大将軍忠度、残兵をまとめて船に引き返そうとしている所へ、襲い掛かっだのが猪俣党の岡部六弥太である。
「よき敵、ござんなれ!」と、威勢よく組付いたが、忠度は名にし負う大力の早業、忽ち組み敷かれて、三刀まで刺されたが好運にも薄手、それでもさすがに、もういかんと諦めかけた所へ、郎等の一人が後から駆けよつて、拝み打ちに忠度の左腕を切り落としたのである。
 今は…と覚悟の忠度は、
「しばし退け。
 十念せむ。」と言うと、残った片手で六弥太を、弓の高さ程も後に投げ捨て、西に向かって念仏する所を、飛び付いて首を打ったと言う。
 川柳子も何だか変な形だと思うらしく、

  忠度は勝手を悪くとって投げ

  亀の子のように六弥太起き上がり

などとからかっているが、岡部にしてみれば、首は取つたものの、相手の名前が解らない、いろいろ調べて見ると、(えびら)の一部に紙が結びつけてあり、開いて見ると、「旅宿の梅」と題して、

  行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば
花や今宵の あるじならまし

という歌があり、その下に「ただのり」と書かれていたので、ようやく薩摩ノ守と判明したのである。
 いずれにせよ、文武の両道に優れ、強さと共に情も深い、忠度の人気は抜群で、この辞世の歌にある桜の樹までが、彼に一夜の宿を貸したというだけで、何かわけありの色模様を実現したように言われるのも、やはり同情を含めた好意の現われなのであろう。

  行き暮れて一首を残す置土産

  忙しい戦さ半ばに行き暮れて

  桜木を旅篭屋にして名歌なり

 この辺はまあ、無事なのだが、

  名将を花や今宵の客に取り

  独り寝をとめて桜の名が高し

  忠度の夜具は桜の総模様

  忠度はその夜小桜おどしなり

とくると、一体何を想像しているのかと妙な気がしてくる。
 それに反して、岡部六弥太の方は、

  六弥太は符丁のついた首を取り

  片腕になる郎等を岡部持ち

  六弥太と猪俣酒をねだられる

 自分の働きでもないのに、立派な兜首を手に入れて、後では家来からゆすられたのではないかと疑われている訳である。
 同じ武士と言っても、品格には随分差があるものだと言いたいのであろう。
 

   第九 源義経―英雄の典型が辿るスピード人生

  ふところに抱いていたのに亡ぼされ

「平家物語」は平氏の没落を悼むレクイエムには違いは無いが、見方を換えてみれば、源氏方の復讐譚でもある。
 そしてその場合の主人公として登場するのは、やはり義経と言う事になるのではなかろうか。
 幼少の頃から、数々の苦難を乗り越え、一朝時を得るや、昇竜の如く一気に天上に駆け上がるかと見れば、忽ち悲運の嵐に巻き込まれて、枯葉の如く転落の道を急いでしまう。
 所謂「英雄型人生」を、考えられる限りの完璧さで歩き通した奇跡的な人物の一人である。
 さればこそ、この悲劇的な青年に対する民衆の同情は、澎湃として時代を越え、世に言う
「判官びいき」の風潮を、全国民的汎さにおいて定着せしめたのであって、我が国の民衆の思考様式を理解するための、重要なポイントの一つと言ってよいようである。
 当然のことながら、義経を巡る伝承説話は、汗牛充棟もただならず、これだけで相当な書物になるであろうが、此処ではその要点を辿りながら、源氏の側から見た、争乱の種々相を見て行くことにしたい。

  逆おとしまでは判官ぬけ目なし

なんて句があるが、義経の前半生については、実は殆ど解っていないと言った方が良い位のものである。
 源義朝を父として、常盤御前の腹に出来た三人目の男の子。
 これだけは確かであるが、それ以外には、正式の史料としては何一つ残されていない。
 そしてその代わりとして、不明であることを利用して、無数の伝説が形成され、それがぼんやりした薄明の空間を埋め尽くしていると言うのが実状である。
 七歳にして鞍馬の東光坊に預けられたが、僧侶になるのを嫌って、僧正ケ谷で天狗に兵法を教えられたとか、鬼一法眼の秘蔵する、六韜三略(りくとうさんりゃく)の虎の巻を、娘の手引きで手に入れたとか、謡曲や歌舞伎でもてはやされる、興味深い伝説は数々あるが、川柳ではどうした訳か、この辺りのことを扱った作品は、余り沢山は見えないようだ。

  太刀風に木の葉を散らす御曹子

  面白く牛を引き出す虎の巻

 所がこれが、五条橋における弁慶との勝負となると、これはさすがに有名で、名刀集めのための弁慶の辻切りから、牛若と主従の契りを結ぶまで、一通りの作品が揃っている。

  平家から検死の飽きる五条橋

  鞍馬から夜な夜な通う五条橋

  牛若はどこへ行くにも足駄がけ

  五条橋足駄を草履もてあまし

  弁慶はとんだ小姓と降参し

  そのあした橋の欄干疵だらけ

 その割に面白くないのは、目本舞踊の「橋弁慶」ではないが、余りに形が出来すぎていて、言葉が追い付かない為かも知れない。
 しかしやがて、時代の風雲は、しだいに激しくこの山にも吹き付けてくる。
 金売り吉次の誘いのままに、奥州の藤原秀衡許に身を寄せるべく、鞍馬を出たのは遮那王(しゃなおう)十六歳の事であった。

  鞍馬をばかけ落ちごろが声がわり

 人目をしのぶ旅だつたのに、近江の鏡の宿で、とんだハプニングにぶつかってしまった。
 強盗、熊坂長範の襲撃である。
 但し、「義経記」では、由利太郎と藤沢入道という二人組だつたと書いてあり、正確なことは解らないが、謡曲「熊坂」や、「烏帽子折(えぼしおり)」の普及の結果、パテントは長範氏に独占的に帰属するに至つたらしい。
 この辺りは派手な立ち回りなどもあって、結構面白い作品も多いのだが、中で良いものを挙げれば、

  吉次の荷おろせば馬が嗅いでみる

  牛若を千両箱の重しにし

  牛若が居ぬと熊坂大仕事

  牛の刀で熊坂は料られる

  熊坂は名前が今に法度なり

 かくて向う所敵無しの強さを持ち、その志の壮なるを見て、援助の手を差し伸べる味方が常に存在する、そうした明るさに満ちた前半生が描き出されてゆく訳なのだが、これも後半の悲劇のための伏線なのであろうか。
 とにかく、この強盗退治の後、ただ一人で元服の式を挙げ、源九郎義経を名乗ることになるわけである。
「義経記」に依れば、彼は義朝の八男で、普通なら当然八郎と名乗るべきところなのだが、叔父に当たる鎮西八郎為朝の驍勇を想えば、
「その名を冒すことは、源家代々の尊霊に対しても、はばかり有り…」として、敢えて九郎を称したと言う。
 僅か十六才の少年が、別に後見人も居ない孤独な境涯で、これだけの心配りが出来るというのは、やはり大したもので、抜け目が無いと言えば、確かに抜け目の無い人物だったかも知れないと言う気がする。
 やがて、臥薪嘗胆の時代は終り、疾風怒濤の日が始まる。
 黄瀬川(きぜがわ)の対面で、兄・頼朝の麾下に参じた義経は、その後旭将軍義仲を撃破した余勢をかって、一気に平家討滅の軍を進める。
 天性の武人としての資質は、愈々光芒を発して、例の一ノ谷の合戦では、鵯越えの峻険を一気に駆け下りる奇襲戦法で、折角戦局の換回を夢見ていた平家方の希望を、一度に壊滅させた見事な武者ぶりは、余りにも有名である。

  一ノ谷六の方から逆落とし

  飛車角のみんな成りこむ一ノ谷

  馬の屍もさかさに響く一ノ谷

 川柳も調子に乗って詠みとばしているが、これは確かに、彼の栄光のクライマックスだつたかも知れない。
 思いも掛けぬ奇襲攻撃に、平家方は慌てふためいた。
 中でも、越前ノ三位通盛などは、最愛の妻、小宰相の局を、片時も側から離さない溺愛ぶりだつたから、

  通盛は寝間着の上に鎧を着

 これでは戦さの出来る筈もなく、忽ち惣崩れになってしまつた。

  平家方小便もせず船に乗り

  後から王手王手と一ノ谷

 かくて、薩摩ノ守忠度をはじめとして名だたる平家の公達(きんだち)が、次々に源氏の荒らくれ武者の手で打ち取られて行ったのだが、中にも哀れをとどめたのが、無官太夫敦盛(あつもり)である。
 当年とって十七歳、花も蕾の若者が、熊谷次郎直実に扇をもって呼び返されると、男らしく引き返し、敢えなく首を打たれてしまったのである。
 腰に帝びた錦の袋には、一管の名笛が残され、その心根の哀れさに、世の無常を感じた熊谷が、後に発心して法然上人の弟子となる端緒は、此処にあったと伝えられる。

  態谷はまだ実のいらぬ首を取り

  花は散り青葉は笛に名を残し

  熊谷は不承ぶしょうの手柄なり

 かくて、ほうほうの体で四国へ落ちのびた平家方、今度は屋島を中心に、陣容を立て直そうとするのだが、そうはさせじと義経は、これに対しても容赦の無い猛攻を加える。
 彼の戦法は常に、押して押して押しまくる錐もみ作戦、或る意味では近代的なスピード戦術であったが、その癖単に科学的で感情の無い、能率的な人殺し作戦に終らなかった所は、当時の戦争の良い所であろう。
 屋島の合戦で一番有名なのが、那須ノ与一の扇の的と、(しころ)引きである。
 与一については、今更解説するのも気が引けるが、合戦のあい間の一種のエキジビジョンと言った感じの所が面白い。
 激しい合戦も一息ついた夕まぐれ、一艘の小舟が平家方から漕ぎ出された。
 舳先にたてた隼の先に、日の丸の扇を取り付け、宮中で一番の美女と言われた「玉虫」という女官が立って、源氏の方に手招ぎをした。
 関東武士の武芸自慢が真実なら、見事この扇を、射落としてみるが良い、という挑戦である。
 こんな挑発を受けて、源氏としても黙っては居られない。
「誰か、あれを射落とす者はないか?」
 全軍の中から、弓のチャンピオンを選び出すことになり、指名されたのが与一宗高である。

  平家ではポチャポチャらしい船を出し

  美しい虫舟べりへ出て招き

  与一が矢それると虫に当たるとこ

  顔を見い見いよっぴいてヒョウと射る

 川柳子はふざけて、舟饅頭か何かに見立てているが、与一にとっては、失敗したら腹を切って謝罪をしても追い付かない、生命がけの大勝負である。
 その心情の悲壮さは、「平家物語」の本文にある通り、敵も味方も息を呑んで見守る中で、見事扇の要を射抜いて、ヤンヤの喝采を浴びたのは、目出度い限りであった。
 そしてこれをメィン・ステージとすれば、錣引きはこれに続くアトラクションのような形で行なわれたのである。
 与一の妙技に感動したのであろう、この時一人の平家の待が、自分達の船の胴の間に現われ、長刀を振り回しながら、陽気に踊り出したと言う。
 何か微笑ましい事のように思うのだが、これを見た源氏の武士達、関東の荒えびすの性を丸出しに、無残にも一本の遠失にかけて射殺してしまったのである。
 これがきっかけで源平両軍、渚をはさんで、入り乱れての乱闘となったのだが、中でも一際目立ったのが、平家方の猛将・悪七兵衛の剛勇ぶりであつた。
 一時は、“我こそは…”と名乗りを揚げ、太刀を合わせた源氏のつわもの、三穂ノ谷四郎も、忽ち切り立てられ、
「これは、かなわぬ…」と、逃げだそうとするのを、
「卑怯なり。
 やらじ…」とばかり後から、兜の綴をぐいと掴んだ景清、互いにえいや、えいやと引き合う内に、この錣が、鉢付けの板からフッと引き切れてしまつたと言うのである。
 三穂ノ谷は、慌てて味方の陣営に転がりこんで、事なきを得たが、景清の方は、手に残った綴を長刀の先に引っ掛けて、意気揚々と船に退いたと言う。
 いずれ劣らぬ二人の怪力に、敵も味方も舌を巻き、到底人間業に非ずと、感嘆の声を場げたと言う。

  景清は尻餅四郎つんのめり

  三穂ノ谷が帰りは襟に日が当り

  おはぐろにしろと景清船へ投げ

 おはぐろは鉄気(かねけ)のものを入れると、色が良くなると言われているが、兜の錣が役に立つかどうかは、保証の限りでない。
 所でこの戦闘、両軍の意地の張り合いから、次第にその輪を拡げ、遂には御大将・義経までも巻き込んで、大乱闘になってしまったらしい。
 義経は何と言ってもまだ若い。
 味方の先頭に立って戦う内、何時しか馬を海中に乗り入れ、しかもどうしたことか、持った弓を波に流してしまったのだ。
 慌てて拾い上げようとしたが、あいにくの引き潮で、弓は沖の方に漂い、それにつれて義経も、われ知らず深みに入りこんでしまったのである。
 平家方から見れば、正に千載一遇の好機、
「それ、総犬将を生け捕りにしろ。」と、幾艘もの船から熊手を振るって、義経の鎧や兜に引っ掛けて、引き寄せようとする。
 源氏方は、
「危うし、御大将を守れ!」と騒ぎだて、
「そのような弓、早くお見捨て下され…」と、声を絞って呼び返そうとするのだが、義経は耳をかさばこそ、呆れるほどの強情さで、危険をくぐりつつ、遂に弓を取り戻して帰ってきた。
 これが有名な" 弓流し"である。

  義経の弓はあらめに引つ掛かり

  義経はにべのはなれた弓を持ち

  弁慶に一本借りて弓を取り

 にべと言うのは膠にかわのことだそうで、それがはげるまで、海から拾い上げた弓を持っていたと言うのであろう。
 如何に子供の頃貧乏だったとは言え、義経がそれ程けちだっだとは思えないが、部下の将兵も、この時ばかりは誤解をして、いかに何でも物借しみが過ぎると思ったのであろう、
「たとえ千金万金を費やした重宝なりとも、御生命には換えられませぬ。
 くれぐれも御自重の程、お願い申し上げます。」と、強硬に苦言を呈した所、
「弓が惜しくてしたことではない。
 これが叔父為朝の持ったような強弓なら、わざと落として拾わせるのも面白いが、この弱い弓が、源九郎の愛用のものだなどと笑われては、それこそ源氏一統の名折れ、生命よりも名が惜しく、それ故敢えて取り戻したのだ。」との返事に、一同今更ながら感服して、その後益々大将としての信頼を深めたと言う。
 話としてはよく出来ているが、少々わざとらしい所があって頂けない。
 反って素直に生来ケチだったと言う方が、人間的で面白いという感じがしないでもない。

 頼朝のように貴族としてのプライドや、気取りがなく、生まれたままの直情径行、大将の癖に、いつでも最前線に飛び出してしまうから、部下の者は気が気ではない。
 この屋島の攻撃に際しても、折からの暴風雨、専門の船頭達が怯えて尻込みするのを、無理におどしての強硬渡海だったから、無事に上陸出来たのは僅かに百騎足らず、その小部隊で、そのまま敵の本陣へ奇襲をかけたのだから無茶である。
 影に怯える臆病者なら知らず、平家方にも勇者は居る。
 中にも日質から“義経抹殺”を念願としている能登ノ守教経
「時こそ、きたれ!」と迎え討ち、義経の姿を指呼の間に把えると、自慢の強弓、満月の如くに引きしぼり、ねらいすまして切って放つ。
 正に危機一髪のピンチだったが、義経を囲む家臣団は、常に一心同体の深い絆で結ばれている。
「御曹子、あやふし!」と見た佐藤三郎兵衛嗣信、身を提して矢面に立ちふさがったから、左手の肩から、右手の脇腹まで、一気に射抜かれて無残な即死、文字通り主君の楯となっての殉死であった。

  胸板をすえて忠義の的に立ち

 こういう話になると、江戸ツ子は弱い。
 感激して、今にも涙をこぼしそうな状態なのに、その癖どこか突っ張って、わざと冷たい顔をして見せたような句も無いではない。
 やはり都会人らしいテレなのであろうか?

  嗣信も十に九つ当たらぬ気

  嗣信を損にしておく勝ちいくさ

 しかし、戦争の犠牲と言う面から言えば、平家方でも同じである、僅か八才の幼帝の他に、母后・建礼門院や、二位の尼などを擁しての戦いである。
 当然相当数の女官達も、つき従っていた訳である。
 そうした大集団が、屋島を追はれた後は、あてどもない、漂泊の旅だったのである。
 これまで優雅な宮廷の生活以外したことの無い人々である。
 慣れない船の暮らしがどれほど大変なものだったか、想像しただけでも、胸が痛くなる。

  門院を船に乗せるで手間がとれ

  平家方みな舟べりで癩を押し

  舟虫に門院はじめ総に立ち

  平家では焙烙のいる舟を出し

 焙烙(ほうろく)は女性の船上での生理的要求に応ずるための道具である。
 こういう物まで用意しなければならなかった平家方の、士気の上がらなかつたのも当然であろう。
 その上に平家方には、公表をはばかる更に大きな秘密があったのだと言う。
 彼等を支えている、最大にして最後の切り札というのは、幼少ながら安徳天皇という現在の帝を擁しているという事実であつた。
 所がこの天皇が、実は女ではなかったかという疑惑である。
 勿論女帝というものも、制度的には認められない訳ではないが、清盛がその権勢に任せて、僅か二才の幼な子を、強引に皇位に即け得たのは、当然男子だったればこその話、若しこれが女子だったとすれば、皇権詐取という犯罪行為を犯したものとして、社会の糾弾を受けざるを得なくなるに違いない。
 いくら清盛が、横紙破りのワンマンとは言え、そこまで無謀なことをする筈がないと、歴史学者からは一顧もされない説だが、川柳の方では、面白ければ何だって構わない了見だから、しきりに空想を働かせて、

  人の見ぬ方へ二位殿ししをやり

  めめっこが出ると二位殿おっかくし

など、まるで見てきたように書いている。
 落日の平家に対して、源氏の方は益々快調巾、熊野別当・湛増の率いる熊野水軍を味方に引き入れ、一挙に敵の息の根を止めるべく、長門の壇ノ浦に集結した。
 用意した兵船は、実に三千艘を数えたという。
 これを迎え討つ平家方は、唐船を混えて、一千余艘、陸上の騎馬の戦さと違って、水軍となれば味方に一日の長がある。
 奇計を用いて頽勢を一挙に挽回しようとの作戦である。
 最初の内は、潮の流れを利用した平家方に有利と見えたが、時間の経つ内に、潮流の方向が逆転、一部に裏切り者が出たりして、平家方は遂に惨敗、万斛の怨みを呑んだという次第である。
 かつてあれ程までの栄華を誇った一門も、次から次へと討ち死にする中で、能登ノ守教経はただ一人、
「憎き義経を、我が手で倒すまでは…」と、阿修羅の如き奮戦で、遂に義経の乗る軍船に、白分の船を乗りかけ、
「いでや、組まん!」と飛び掛かった。
 その時の様子を「平家物語」の本文で見ると、
「判官、敵はじとや思はれけむ、長刀脇にかい挟み、味方の船の二丈ばかり退いたりけるに、ゆらりと飛び移り給ひぬ。」
 これが巻間伝える"八艘飛び"だが、あの重い鎧のまま、しかも長刀を抱えての六メートル近い跳躍は、とても人間業とば思われない。
 やはり天狗の申し子だったのかも知れない。

  義経は八艘飛んでべかこをし

  能登殿は蚤を逃がした面っつき

 今はこれまでと能登ノ守、
「我と思はん者は、組んで生け捕りにせよ」と大手を拡げたから、大力と謳われた安芸ノ太郎、同じく弟の次郎の二人、左右からむんずと組み付いたが、その首を両腕でグイと締め付けると、
「おのれ等、死での山路の供をせい。」と、そのまま海に飛び込んで、壮烈な最後を遂げたと言う。

  能登殿は二人禿で入水をし

  教経の入水あぶくが三つたち

 哀れと言えば、安徳天皇の御最後こそ痛ましい限りであつた。
 御齢僅かに八才、容顔うるはし<、輝くばかりと伝えられる御顔を傾けられて、
「尼ぜ、我をばいづちに具して、行かんとするぞ?」と仰せになるを、二位ノ尼涙をこらえて、
「波の下にも、都のさぶろふぞ。」と、自ら抱き奉り、神璽を脇に、神剣を腰に帯した姿で、千尋の海に入り給うたと言う。
 時に寿永四年(一一八五)三月二十四日のことであった。

  寿は永からざりし帝位なり

  二位殿はいやな都に連れ申し

  竜宮騒動、安徳常行幸

  二位殿は小意地を悪くさして行き

 さてそうなれば、後は一面の地獄図絵である。
 一門の公卿、武士達は言うにおよばず、官女、雑仕女に至るまで、我れもわれもと入水する。

  一門はどぶりどぶりと奏聞し

  平家方末期の水のしおからさ

 見事死に切れた者は良いが、死にきれずに波に漂ううちに、源氏方の手で引き上げられた者は、更に悲惨である。
 戦争に悲惨はつきものであるが、中でもこの合戦ほど、華麗さと残酷さが、一枚の布の表裏のようにからみあっている例は、やはり珍しいようである。
 こうした実態を川柳子が、見事に把えて、

  三月と五月のような壇ノ浦

と言い切っているのは流石である。
 この戦いで海に沈んだ平家の武者達の亡魂は、死して蟹に化したと言われる。

  平家の軍勢十万余騎横に這ひ

  幽霊のみな横に行く平家がた

  平家方死んで奢らぬ穴を掘り

 成程、平家蟹の甲羅を見ていると、その怨みの深さもわかる気がするが、同時に何かユーモラスで、微笑を誘われる感じもないことはない。
 しかし、これが女性ということになると、話はまた別で、悲劇は更に深刻である。
 日頃は手も触れられない、高嶺の花の官女達を、波の間から熊手を使って引き上げた坂東武者、そこで当然予想される「美女と野獣」の地獄絵巻の後、彼女達にどんな生き方、が残されていたか?
 心中の生き残りは、晒しの上非人に落とされ、岡場所で検挙された女達は、吉原に渡されて強制的に女郎にさせられるのを、見ている江戸ツ子である。
 考える事は決っている。

  熊手に掛けて助けては見世へ出し

  一門のなる果て蟹と女郎なり

  長州で内裏くずれをあきなはせ

 誠に残酪を極めた話で、本当にそんな事があつたとは信じたくないが、最近まで赤間神社の"先帝祭"には、下関の遊女達が、神事を勤めたなどと言う慣習もあったそうで、まんざら根の無いことでもないかも知れない。
 ただ、江戸ッ子の遊里に対する考え方は、現在とは大分違っていて、余り陰惨な蔭を持たなかった点で、多少は救われていると言えるかも知れない。

  下ノ関けだしに直す緋の袴

  下ノ関大和言葉で口説なり

  こよなう侘しく侍りと下ノ関

  あかねさすまで帰さぬと下ノ関

  下ノ関玉虫いっち流行るなり

 しかしこうした女性達の悲劇の頂点に立つのは、やはり建礼門院徳子であろう。
 清盛の娘に生まれ、安徳天皇の母后として、一旦は女性として最高の位置にまで登ったのに、運命の糸に操られ、目のあたりに一門の滅亡を見るに及び、生きながら六道をさまよう想いをしたと言う。
 帝の入水の後は、当然のことながら、
「生き永らえて、なにかはせむ。」と、海中に飛び込んだものの、長い黒髪が波にただよう所を、荒けなく引き寄せられて、思いの外の生の道を歩まねばならなくなつたのである。
 しかしこの女院は、周知の通り絶世の美女、その生命を救けたのが希代の二枚目、九郎判官と言うことになれば、其処に何らかの色模様を想像したくなるのは、読者としては無理のない所であろう。

  意趣晴らし良い気味をした源九郎

  義経は母をされたで娘をし

 始めは、少しは親の敵討ちの積もりもあったかも知れないが、“見れば見るほど良い女”という訳である。

  義経は船の中にてびろびろし

 だんだんだらしがなくなったという訳なのだが、その点は女院の方も同様で、

  門院は入水のほかに濡れ給ひ

  門院は赤貝にでもなる所

  御座船のまわり海月と紙だらけ

 どうも発想からして品が無いようだ。
 これが昂じて、例の頼山陽作と喧伝される漢文体の艶本、「壇ノ浦夜合戦記」などに発展したのかも知れないが、こうした生臭い作品でも、源平争乱などという巨大な歴史的転換点の只中に置いて見ると、何のことばない、奔騰する赤間ケ関の潮流に押し流される小舟のように、ただその小ささや、果なさだけが目について、一種清潔な爽やかさをすら感じてしまうのは、僕だけではないと思う。
 やがてこの義経も没落してしまい、門院は落飾して、洛北大原の寂光院に隠棲される。
 そこへ動乱の全ての根源とも言うべき、後白河法皇が、親しくお訪ねになられて、哀しい人間の業を嘆きつつ、なおその底を流れる、より大きなもの、摂理について語り合う、「大原御幸」の一章は、誠に名作「平家物語」の最後を飾るにふさわしい名場面で、何か壮大なシンフォニイの終章を聴く思いがする。
 見事なフィナーレである。

  保元から寿永の間を琵琶の音

   第一〇 静御前―悲劇の申でこそ女性は美し

  お妾は花の名所に捨てられる

「平家物語」を交響曲とすると、「義経記」は、単一の主題で貫かれた、清潔なレクイェムと言った感じがする。
 英雄の末路は大抵悲劇的なものだが、義経の場合には、特別それが著しいからであろう。
 壇ノ浦の合戦で、見事最終的な勝利を納め、威風堂々京都に凱旋して来た義経であったが、彼の運命はこれを境にして、急坂を転がる小石のように、転落の一途を辿って行く。
 数々の戦功を()みせられた後白河法皇は、早速義経を検非違使ノ判官に任じ、左衛門ノ尉の位を授けられた。
 誰から見ても当然の恩賞であつたが、その際鎌倉の承認を得ずに任官したことが、頼朝との不和の始まりだつたと言う。
 但し、たとえこれがなかったとしても、遅かれ早かれ彼は、同じ運命を辿ったに違いないというのが、歴史家の定説である。
 勿論多くの讒言や中傷があったことは確かであるが、何よりも京都朝廷の権威に代わり、将軍としての自已の権威を武家社会に打ち建てようとる頼朝にとって、それ以上に武士層に人気のある義経の存在は、百害有って一利なき邪魔者だったに違いないからである。
 頼朝の怒りが激しいと知った義経は、生け捕りにした平ノ宗盛父子を護送しながら、自ら鎌倉に下って弁明しようとしたのだが、捕虜だけは受け取つたものの、義経の鎌倉入りは許されず、僅かに書面によって身の潔白を証明しようとしたのが、有名な「腰越状」である。
 内容は正に哀切悲痛、言々血を吐く思いに満ちた文章は、「出帥ノ表」ではないが
"これを読んで泣かざるものは、人に非ず”の感がある。

  腰越でものを食うのは馬ばかリ

  義経は江ノ島を見る気色なし

 傷心のまま京に帰った義経に対し、鎌倉は、追い打ちをかけるように刺客を派遣する。
 選ばれたのは、土佐坊昌俊(しょうしゅん)いう悪僧。
 但しこの討手、少々だらしが無くて、上洛早々義経に出鼻を挫かれ“絶対に害意の無い”旨、熊野権現にかけて、七枚もの起講文を書いて、やっと許されたのに、尚も隙を窺って夜討ちを仕掛け、しかも散々に討ち敗られて、首を取られるというお粗末さであった。

  伝授ごとになる嘘を土佐坊はつき

  土佐坊は月でもたのむほどに書き

 もん()を頼む女郎の文でも、こうまで嘘はつかなかつたろうという訳だが、この土佐坊を斬ったことで、鎌倉に対してはっきりと反逆の旗を掲げてしまった義経は、今度は九州に渡り、今も自分を支持してく机る勢力を糾合しようとして、遂に大物浦(だいもつうら)から船を乗り出したのである。
 所が、一旦つきに見離されるとロクなことはない。
 突然海は大荒れになり、義経主従はすんでの事で海の藻層となる所であった。
 これを単なる自然現象としてすましておける時代ではない。
 これぞ怨みを呑んで西海に沈んだ、平家の怨霊のなせる業と考えるのが普通の傾向で、かくて生まれたのが、謡曲や歌舞伎で名高い、「船弁慶」の世界である。
 現われ出でたる平ノ知盛(とももり)の亡霊が、長刀を振り回しながら、
「抑々これは、桓武天皇九代の後胤…」と名乗りを上げると、武蔵坊弁慶はこれに対し、山伏の法力を以て折り伏せようと、精神と精神の壮絶な鍔ぜりあいが展関する訳である。
 こういう場面は川柳子も大好きだから、

  ああら珍しやはこわい土左衛門

  知盛は喧嘩すぎての棒を振り

  ことわらずともいいのに幽霊なァり

  幽霊はやはり平家も白で出る

 少々からかい半分の所もあるが、それでも此処では、幽霊に味方したい気分の方が強いようである。
 青くなったのは源氏方。
 義経だけは慌てなかったとも言うが、武力が通じる相手ではなし、頼むは弁慶ただ一人である。

  へどを踏み踏み弁慶は祈るなり

  弁慶のほかはかかってあかを汲み

 それでも主君を思う忠義の真心が天に通じたのか、何とか難破を免れて、ほうほうの態で大物浦に引っ返すことが出来たという。

  白波になって弁慶汗を拭き

 この幽霊、実は壇ノ浦を落ちのびた知盛の一党が、義経謀殺のために仕掛けた罠だつたが、見事に失敗し、手傷を負った知盛が、今はこれまでとばかり、大きな碇を我が身に縛りつけて、そのまま海に飛び込んで、壮烈な死を遂げるというのが、浄瑠璃「義経千本桜」における華やかな趣向である。

  しんちゅうと碇と海に沈むなり

  碇の曲持ちだと思ううちにドブリ

 しんちゅうと言うのは、知盛が新中納言と呼ばれていたからの酒落で、いずれもその舞台面からの作品である。
 かくて、西国での勢力の緒集に失敗した義経は、次第に厳しくなる鎌倉の追求を遁れて、吉野山に潜入するが、頼みとする吉野山伏にも裏切られ、遂に進退ともに極まってしまったと言う。
 この時彼を救ったのが、中臣佐藤忠信である。
 自ら義経と名乗って、群がる敵を一身に引き受け、激闘の末に自刃して果てる間に、義経主従はやっとのことで、虎口を脱することが出来たのである。
 しかし悲しみはまだ続く。
 折角これまでついてきてくれた、最愛の女性・静御前とも、遂にこの地で別れなければならなくなったからである。
 足弱な女を連れて行けるような生やさしい逃避行でないことは、よく解っているものの、それにしても雪深い吉野の山里に、ただ一人取り残された静にとっては、余りにも残酷な己れの運命に、泣くよりほかはなかつたに違いない。

  美しい捨て物がある吉野山

  吉野山静かに行けと御別れ

  捨てられてこれはこれはと静泣き

  陀羅助を飲んで静は癩を下げ

 いかに吉野の妙薬とは言え、それ位のことで静の癪が治まったとも思えないが、とに免生命からがら京に辿りついて、母の磯ノ禅尼の許にかくまわれたが、やがて其処にも鎌倉の手がまわり、捕えられて鎌倉に護送されることになった。
 一種の予防拘禁だが、義経の子供を身篭もっていることが判明した以上、止むを得ない処置だったようである。
 そしてその為に彼女は、生涯最高のクライマックスを迎えることになるのである。
 日本随一の舞の名手との評判を聞いた頼朝の懇望により、彼女は心ならずも鶴ケ岡八幡宮の社頭で、白拍子としての技芸を披露しなければならなくなったのだ。

  一世一代鎌倉で舞うつらさ

  主馬(しゅめ)でさへ舞うたと静、勧められ

 主馬判官盛久は、舞いのお陰で斬られるべき生命を長らえ、清水の観世音の御利生と歓喜したと言うが、静はもうこの時、生命を借しむ気持ちは、全くなくなっていたらしい。
 下座の音楽を受け持ったのは、梶原景時、畠山重忠、工藤祐経だったと言われ、その他にも、全国から集まった名だたる御家人が、綺羅星の如く居並ぶ中を、水干に立烏帽子、白鞘巻きの飾り太刀、男姿も凛々しい静が、恐れる色もなく、涼しい声を張って、
  しずやしず しずの小田巻 繰り返し
昔を今に なすよしもがな

  吉野山 峰の白雪 踏みしめて
入りにし人の 跡ぞ恋しき

 反逆者、義経に対する恋心と、帰らぬ音を懐かしむ思いのたけを、誰揮らず堂々と歌い上げだ勇気は、正に当代の圧巻であったと言われている。
 激怒した頼朝は、其の場で手討にしようとしたらしいが、それを言葉を尽くして諌め、助命に持ち込んだのは、北の方の政子であったと言う。
 やはり女として、静の心情に同感したからに他ならない。

  大名を下方にして静舞ひ

  お妾は故事を言ひ言ひ浜で舞ひ

  舞いを見る時は諸侯も静かなり

 将軍と言う圧倒的な権力に屈することなく、一条の虹の如くに吐き出された、恋する女の心意気は、時代を越えて我々の胸を打つが、静のその後の運命はやはり苛酷であった。
 折角出産した赤子は、祈願の甲斐もなく男子だったから、生まれると同時に、由比ケ浜で処分され、悲しみに打ちびしがれた静は、母と共に京に帰ると、間もなく剃髪し、尼となって余生を送ったと言う。
 義経一門に、春は到頭巡っては来なかったのである。

第一一 武蔵坊弁慶―英雄と豪傑の見事な名コンビ

  武蔵坊とかく支度に手間がとれ

「義経記」は、実は半分は弁慶の物語だと言ってよい。
 大力無双、人を人と思わぬ乱暴者でありながら、主君の為には忠義一徹、犬馬の労を厭わない、この愛すべき大坊主は、その楽天的明るさもあって、若き英雄・義経の悲劇を、更に一層人間的なものにしてくれる大事な副主人公として、今や国民的アイドルの一人となっているのである。
 弁慶の実像については、「平家物語」は殆ど何も語ってはくれない。
「義経記」の方はと言うと、これが又かなりに荒唐無稽なのであるが、一応それによって書いてみると、弁慶は元来、熊野の別当・弁証の子で、母は二位大納言の姫君だったと言う。
 この姫が、何やら祈願の筋があって、熊野詣でをした折り、それを見そめた弁証が、強引に奪いとって、妻にしたと言うのである。
 さて、その子供の弁慶であるが、母の胎内にあること十八ヶ月、生まれ落ちた時は、既に二三歳の子供の大きさで、髪は肩まで垂れ、歯も全部生え揃っていたと言う。
 何やら大分化物じみた話だが、これが所謂“贔屓の引き倒し”で、逆に言えば、それだけ大衆的な人気の有る証拠なのであろう。
 幼名を鬼若と言ったが、余リの異形、異相の故に、一族の災いとなることを心配した父母の願いにより、仏門に入ることとなり、比叡山の西塔・桜本の僧正に預けられた。
 所が周知の通りの大力・粗暴、忽ち叡山随一の悪僧として勇名をはせ、三井寺との喧曄の際、かの藤原秀郷の寄進と伝える園城寺の大釣鐘を、叡山まで引きずり上げた話は、余りにも有名である。
 しかしそうした外見とは裏腹に、その性格は純情可燐、例の「橋弁慶」の一幕の後、義経と主従の契約を結んだ後は、影の形に添う如く、義経側近の第一として、生涯変わらず献身的な誠意を貫き通した生きざまは、確かに日本人好みの豪傑の典型と言つてよいであろう。
 第一、その服装からして面白い。
 いざ、合戦となると、法師頭巾に大長刀は特別珍しいとも言えないが、それ以外に所謂“七つ道具”大きな掛失だとか、熊手に鋸、更にはまさかり等々、何に使うとも知机ない異様な道具を、背中にいっぱい背負って現れたと言うから、これは人目を引いたに違いない。

  武蔵坊水車ほど背負って出る

  源氏から大工が出たとなぐさまれ

 しかし、服装以上に変わっていたのは、彼の女性関係で、その方の経験は、生涯に只一回あったのみで、以後はふっつり縁を切ったと言うから不思議である。
 一体誰が、又どうしてそんなことを調べ上げたのかと、目くじらを立てるのも大人気がないのだが、それにしてもこの伝承、どうも出所がはっきりしないのである。
 思い出すのは、歌舞伎の「御所桜堀川夜討」の三段目、例の「弁慶上使の段」である。
 義経の正妻、郷ノ君の御身代わりとして、侍女の“信夫”に白羽の矢が立ち、一命を望ま机るが、母のおさわは猛反対、
「この娘は、私の生涯一度の恋人の落としだね、その父に逢はせるまでは、死なされませぬわいなァ…」と訴えるのを、蔭で聞いていた弁慶が、ぬっと現あれ、忽ち信夫を刺し殺すと、
「その男とはわしのこと、我が娘とあればこの場合、主君のために死んで欲しい。」と言い出す訳だが、その愁嘆場における、科白の中に、
「生まれしよりこの年まで、後にも先にもたった一度、ほててんごうな事をして、生まれし我が子と聞くよりも…」などと言うくだりのあるのが、唯一の例のような気がする。
 この原本は浄瑠璃で、元文二年(一七三七)正月、大阪・竹本座のために、文耕堂と三好松洛が合作で書きおろしたものだが、安永二年(一七七三)江戸の市村座で上演され、大当たりをとったと言うから、川柳子たちも大方は知っていたのではなかろうか?
 勿論、文耕堂や松洛がこれを書くには、それに先立つ何らかの史料があったとは思うが、とに免角豪傑の弁慶が、あの顔、あの身体で、生涯一人の女、それも一回限りの経験しかなかったという告白は、申々にショッキングで、一度聞いたらそれこそ生涯忘れられない印象を受けたに違いない。
 川柳子も已れに引き較べて、呆れるやら感心するやら、賛否両論かまびすしい限りだが、それだけに作品の数も多いようである。

  義経はお好き弁慶きらい也

  かのとこはむさしむさしと一つぎり

 余程ひどい女に引っ掛かったのではないかと同情する奴も居て、

  二度目のが蛸だと弁慶やめぬ也

 なんてのもあるが、全体としては、その清潔さに賛同する向きが多いようである。

  じャによって弁慶至極無病なり

  弁慶は力の強いわけがあり

  かの本は入れぬ武蔵の鎧櫃

 鎧櫃に笑い本を入れる習あしがいつ頃から始まつたか、よくは知らないが、
「大体、侍という奴は助平すぎる。」という認識は江戸の町人全体に共通していたらしい。
「少しは弁慶を見習うといいのさ。」という訳であろう。

  何故だえと武蔵静になぶられる

とは言え、静でなくとも疑間は尽きない。

  徒然を見ては弁慶玉に疵

  前と背に不要な道具武蔵坊

  弁慶と小町は馬鹿だなぁかかぁ

 結局は自分が一番好きだった、という事になるのであろうか?さて、弁慶と言えば、どうしても書き洩らろすことの出来ないのが、例の「安宅の関」、歌舞伎で言えば、「勧進帳」の話である。
 今更解説の必要も無いとは患うのだが、奥州平泉への逃避行の途中、山伏に身をやつした義経主従は、安宅の新関(現在の石川県小松市郊外)で、検問に引っ掛かる。
 所の守護・富樫左衛門の厳しい取り調べに、危うく正体暴露という危機を、弁慶の機略で漸く脱出する訳だが、そのためには有りもしない勧進帳を読み上げたり、強力に化けた義経を、金剛杖でさんざんに打打擲したり、スペンスあり、涙ありで、現代人にも一番素直に理解出来る、歌舞伎劇屈指の名作である。
 勿論、現在の形にまで洗練・完成されたのは、つい近年のことらしいが、弁慶が単なる暴れ者でなく、知勇兼備の頼もしい偉丈夫であるとの印象を、国民的に定着させたのは、確かにこの芝居の力であろう。
「義経記」を読むと、富樫ノ介と言うのは、弁慶に手もなくだまされてしまううつけ者だし、義経を打ちのめすのは、既に越中國に入った小矢部川添いの「如意の渡し」ということになっていて、大分調子が違って、拍子抜けの感じがしないでもないが、川柳子達は委細構わず、舞台通りに物語を進めている。

  山伏にたびたび化ける源氏方

  入れぬもの安宅で探す笠の内

  五条ではぶたれ安宅で打ちのめし

  武蔵坊安宅を越すと舌を出し

  君五両臣八百で関を越し

 五両と言うのは堪忍五両で、八百は嘘の数だろう。
 ただ此処で、純粋に歴史小説的な空想を働かせるとすれば、頼朝の計算によれば、義経は平泉の藤原氏を頼るしかないし、彼をかくまった証拠が有りさえすれば、一挙に奥州一円を攻略し、全国平定を実現するのが最終の目的だとすれば、義経が途中で捕らえられては何にもならないのである。
 表面上は厳しい探索を命じているものの、内実は、富樫でなくとも、義経一行を見逃すように指示していたのではないかと思うのだが、どうだろうか?
 それかあらぬか、千辛万苦の末にやっと辿り着いた平泉も、義経主従にとっては、安住の地となる所か、更に苛酷な運命に落ち込む蟻地獄の穴だったのである。
 最大の庇護者であった、藤原秀街が倒れると、息子の泰衡は忽ち鎌倉の諜略に乗せられ、義経を討ち取って頼朝と和睦の手がかりにしようと、大軍を発して義経の隠棲地である高館を包囲させたのだ。
 今はこれまでと覚悟を定めた義経主従、せめて最後の思い出に、華々しい一戦ををと、小勢ながらも一騎当千、面もふらずに切って出る。
 亀井・片岡・伊勢・駿河、永年苦楽を共にしてきた同志達が、一人一人討ち死にして行<様は、「義経記」の素朴な文章を通しても、惻々肺腑をえぐるものがあるが、その悲劇の頂点となるのが、弁慶の立往生である。
 「義経記」の文章を借りれば、
「鎧に矢の立つこと、数を知らず、蓑を逆さまに着たる様にぞありける。
 黒羽・白羽・染羽、色々の失ども、風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の、秋風に吹きなびかるるに異ならず。」という有様で、
「長刀を逆様に、杖に突立て、仁王立ちに」、立ったまま死んでいたと言うのである。
 しかもその顔には、「一口笑ひ」と言うから、僅かながら微笑を浮かべていたと言う。
 その凄まじさに毒気を抜かれたのは、泰衡の家来達ばかりではなかったようで、川柳子も、日頃の毒舌を忘れて、何かひどく真剣に作品に敢り組んでいる感じである。

  衣川さいづちばかり流れけり

  遠くから突っついて見る衣川

  土砂のいる往生をする衣川

 土砂をかけるのは、死体の死後硬直をゆるめる為の真言の秘法だそうだが、いづれにしても手の掛かる死に方をしたものだが、弁慶のこうした奮戦は、実は義経とその家族が、心安らかに自決をする為の時間を稼ぐのが目的だったのである。
 どんな場合でも、死は残酷であり、哀しいものであるが、殊に義経の切腹となると、満腔の欝憤をぶちまけるように、腸を全部引き出しての無残極まるものだつたらしい。
 また、その眼前で、北の方を始め、五歳と当歳の二人の子供が、権ノ守兼房の手で、次々刺し殺されて行く惨状を、「義経記」は、目をそむけることなく、リアルに描写している。
 やはり涙無くしては読めない、強烈な印象である。
 この余りにも凄惨な彼等の最後を、まともに正視しかねた人々は、遂には空想の中で、彼等を生かし続けることを考えるに至った。
 義経は見事にこの危機を脱出したと言うのである。
 かくて津軽から蝦夷地に至る、逃走の経路が次々に考えられ、遂には満州から蒙古へ潜入して、英雄・成吉斯汗に変身をする、壮大な伝説が形づくられ、何百年後の今日まで綿々と生き続けているのである。
 但し、こうした伝説を生み出し得た英雄は、義経を以て最後とするかも知れない。
 高館を焼いた劫火は、取りも直さず目本の英雄時代の終焉を告げる、葬りの火だったのではなかろうか?
 そんな気がして仕方がないのである。

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