江戸川柳で読む日本裏外史 高野 冬彦

  第六部 武家政治の盛衰

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目次]
 第一 源頼朝―頭で勝ち抜いた武門の棟梁
 第二 梶原景時その他の鎌倉武士―功名を争う新時代の騎士たち
 第三 曽我兄弟―運命的アウトロウの悲劇(前編)(後編)
 第四 藤原定家と百人一首
 第五 最明寺入道時頼―名君変身、諸国漫遊の元祖
 第六 元弘の乱と楠木正成―不可能を可能にした智謀と奇計
 第七 新田義貞―勝ったが因果なメイ将軍
 第八 太田道潅―武将にも自己研修の時代
 第九 吉田兼好―徒然なるままに生き抜いた自由人

第一 源頼朝―頭で勝ち抜いた武門の棟梁

  大頭これぞ武将のはじめ也

 いよいよ鎌倉時代に入って、先ず源頼朝から始める事とする。
 至極当たり前の話だと思うのだが、何故か変に気が進まない。
 川柳の方では、余り人気の無い人物だからとも思うが、どうもそればかりではないらしい。
 この時代に入ると、史料か急に増えてきて、勝手な空想の入る余地が、次第に少なくなって来たことは確かで、そうした場合、歴史と川柳の関係がどうなるか、考えて見るには良い機会かも知れない。そんな積もりで、頼朝を取り上げてみたい。
 とにかく一介の流人から身を起こして、仇の平家一門を西海の波に沈めたばかりか、腐敗堕落した京都政権に対して、鎌倉を中心とする、新しい武家政治を築き上げた男である。
 日本の歴史が生んだ、稀に見る政治的天才であることは間違いない。川柳子もその辺は解っているらしく、

  朝日夕日も入りはてて星月夜

  鶴の舞うころは鎌倉日の出なり

 その政治的手腕には、一応の敬意を表してはいるのだが、さて其処からが川柳の臍の曲がつた世界になるらしい。
 元来、頼朝は左馬ノ頭義朝の三男だが、母の家柄が良いことから、行く行くは源氏の棟梁とも目されていた、いわば恵まれたお坊っちゃんだったのである。
 ところが、「平治の乱」が起こるや、十三才で初陣したもの、無残な敗北、父と共に関東へ落ちる途中、道に踏み迷って平家方の捕虜になってしまつた。
 当然生命は無いものと、覚悟はしたのだが、その姿の殊勝さが、清盛の母・池ノ禅尼の目にとまつた。
「早死にした吾子の面影に似て、不欄…」とあって、無理失理清盛を動かして、危うい生命を助けられ、伊豆に流されることに決まったと言うから、結果的には運が良かつたということになるのであろう。

  一門の仇は禅尼の慈悲から出

  頼朝は海の恩より池の恩

 伊豆の蛭ケ小島に流されて二十年、頼朝がどんな気持ちで生きて来たか、勿論本人でなければ解ることではないが、外面的には、所謂“臥薪嘗胆”とか、“一日千秋、復讐の時を待つ”とか言うような深刻なものではなかったようである。
 比企一族からの仕送りが有り、生活には困らなかつたようだし、何よりも女にもてた点では流人ばなれしている。
 有名な高尾・神護寺の国宝「頼朝画像」を見ても、仲々の男前だつたことは確かなようで、この女性関係の巧みさが、その後の彼の人生開運の鍵となったと言えないこともないようである。
 そうした女性の一人に、伊東入道祐親の娘がある。
 表向きは許されぬ仲ながら、相思相愛、かわいい子までなしたのに、一旦頑固親父に発見されるや、子供は殺され、自分の生命も危なくなって、慌てて逃げだすという不様なこともあつたようだ。

  びり事で伊東の館をおしくじり

  よい婿を伊東入道取りはぐり

 所がもう一人の恋人、北条政子は、彼にとっては正に幸運の女神であった。
 元来彼女は、その妹が大変縁起の良い夢を見たと聞くと、早速それを買い取って、自分のものにしてしまった程、ちやっかりした所のある性格だつたから、頼朝を見る眼も、単に都ぶりの二枚目などと言うものでなく、将来必ず大事を成し遂げる、頼もしい人物として、厳しく評価していたのかも知れない。

  いい夢を政子御前は買ひあてる

 しかし不思議な事は、この娘の先物買いを父親の北条時政が支持賛成し、全面的にバックアップしてくれたと言うことである。

  思う旨あって時政ちちくらせ

「一体何を考えていたのか?」
 小説的空想力を、しきりに刺激する面白い人物である。
 表向きには平家に対する遠慮・気兼ねがあり、一旦は政子と山木判官代との縁談を強引に進めたりした癖に、婚礼の当日、政子が俄かに逃亡、身一つで頼朝の許に走ったと聞くや、逆上して力ずくでも取り返すかと思ったたら、涼しい顔で見逃した上に、この厄介な婿どのが、夢のような平家討伐の計画を持ち出すと、一族の存亡を賭けてこの危険な運動に加担をすることにしたあたり、この親父ただ者でなかつたことは確かである。
 それにしても頼朝のこの野望、この時点でどれ位の現実性があったのであろうか?
 山木判官代の館を急襲して、血祭りに挙げたのはよかったものの、続く石橋山の戦いでは、散々の敗北で、主従僅か七騎になって、かろうじて大きな枯れ杉の根元にある空洞へ逃げ込んだ時には、さすがの時政も、後悔の臍を噛んだのではないかと思う。

  石橋を踏みそこなって七騎落ち

 しかも周囲には、敵将・大庭景親による山狩りの捜索の手が次第に迫って居り、正に絶体絶命のピンチだったが、生来の強運は此処でも彼を見捨てなかった。
 捜索隊の隊長・梶原平三景時は、洞の中を覗き込み、頼朝と眼を合あせながらも、
「此処には誰も居らぬ。この通り、入り口に蜘蛛の巣が張って居るわ…」と嘘をつき、それでも疑い深い大庭景親が、自ら検分しようと立ち寄った途端、二羽の山鳩がバタバタと飛びたって、遂に危うきを脱したと「源平盛衰記」には記されている。

  目前の不思議石橋山の鳩

  おつむりをやっと入れると鳩が飛び

  鳩の祭りは石橋で出た地口

  朽ち木から出るとしこたま小便し

 助かってからは、地口も飛び出したろうし、ゆっくり小便もしたかも知れないが、それにしても、此れ程までに人々の好意や、奉仕を引き出すことの出来た頼朝の魅力とは、果たして何だったのかと、つい考えてしまう。
 まず、第一に眼に付くことは、その頭の良さであろう。
 京都朝廷、平家、木曽と、様々な勢力が入り乱れて、紛糾する動乱の世の中で、常に冷静で緻密な計算を忘れず、一度も情勢判断を誤らなかつた賢明さは、正に驚くべきもので、現代に生まれたとしても、保守政党の派閥争いを巧みに操って、総裁・総理にのし上がる位のことは、なんなくやってのけるだろうと思われる。
 その証拠には、大変頭が大きかったと伝えられている。
 前後でっぱりの才槌あたまは、犯罪者の相とも言われるが、大抵の場合は、頭の大きいのは、それだけ脳味噌も多いということになるらしい。
 夏目激石とか桂太郎、外国ではビスマルクとかツルゲーネフなどの偉人・天才は、死後の解剖の結果を見ると、通常の人間に較べ、二乃至三割がた重い脳髄を持っていたと言われている。
 頼朝の場合は、どの位の重さの脳味噌だったのか、今更科学的な測定は出来ないが、川柳では、まるで見てきたように、その大きさを強調している。

  頼朝の兜拝領して困り

  拝領の頭巾梶原縫いちぢめ

  頼朝の寝返り枕おっつぶし

  佐どのがすればしびれる膝枕

 こうなると大分近所迷惑な大きさということになるが、こういう頭脳明晰な人間というのは、往々にして人間的な暖かみに欠ける憾みがあり、川柳子もその辺が気に入らないらしいのである。
 武将というものは、義経のように、味方の先頭に立つて、危地に飛び込んで行くばかりが偉いのではないと解っているのだが、頼朝の場合は極端で、これ程戦場に出た事の無い武将も珍しいという気がする。
 僅か百騎に足らぬ小勢で、山木判官代の館に夜討ちをしかけた、あの旗挙げの一戦でも、彼白身はただ一人北条の邸に残って、現場には出ていないのである。
 その後も合戦と言えば、義経・範頼などを自分の代官として働かせ、自分は鎌倉を動かずに、しかも戦勝の成果は悉く自分の懐ろに納めてしまうのだから、それは少し虫が良すぎるのではないかと、反感を持たれるのも当然であつた。

  よきにはからえで頼朝役がすみ

  弓流す日も頼朝はふところ手

 しかも、こうしてこき使った肉親や部下の将兵を、一旦利用価値がなくなると、さっさと切り捨て、顧みない非情さは、とてもついて行けない感じで、
「だから、頭の良い奴は嫌えさ!」と舌打ちをする江戸っ子の声が、聞こえて来るような気がする。

  厄払い頼朝治世のせりふ也

 ただこれは、頼朝一人の性格思想によるものではなく、時代そのもの、性格だつたとも言えるのではなかろうか?
 武家政治ということは、一握りの特権貴族の手から、政治と言うものを、より広汎な武士階級の手に据え直した、その限りでは社会の合理化であり、明らかに大きな進歩であった筈である。
 ただその中で生きる為には、個人的な才能よりも、組織としての行動を重視する。
 そういう考え方が必要とされる時代になっていたのである。
 鎌倉時代以後の歴史川柳が、何やら急に面白くなくなる…と言つたら語弊があるが、どこか急に色合いが変わって見えるのは、恐らくそのためであろう。
 単に合理的であるだけのものからは、ユーモアは生まれない。
 飽く迄も理性的な頼朝からは、面白い川柳は生まれ難いと言うことであろう。
 勿論、頼朝自身としては、精一杯その歴史的使命に忠実に生きたのであろうが、その結果としては、娘の大姫に見るように、その家族関係は、水のように冷え切ったもので、息子の頼家や、実朝とも協調出来ぬまま、孤独で冷たい生涯を送ったように見えるのである。
 「吾妻鏡」に依れば、頼朝の死んだのは、相模川の橋供義に行った帰路、落馬したのが原因だったと言う。
 仮にも征夷大将軍という肩書きの有る身で、落馬による事故死というのは、不名誉この上ない話だし、真山青果の戯曲「頼朝の死」などを見ると、真相は更にスキャンダラスなもののようだつたとも伝えられ、一代の英雄の末路としては、誠に悲惨なものだったことは確かなようである。

  飛ぶ鳥も落ち馬からも落ちるなり

 この傾向は、二代・頼家、三代・実朝の場合も同様であった。
 彼等の非業な最後を巡る陰謀や暗闘の深刻さは、人間の邪悪の深淵をまざまざと見せ付けられる感じで、川柳子達も怖じ気をふるい、作品など一つも残していないようである。
 ただ北の政所の政子については、静御前に対する暖かな扱いなどが原因と思うが、頼朝に較べたら格段に好意的で、それなりの句も作られている。

  細い手で尼将軍は世を握り

 但し、彼女も又、余りにしっかりし過ぎている為か、その背後に北条時政と言う、煮ても焼いても食えない、狸親父の影が重なってくる感じがあり、何処か油断出来ない雰囲気を指摘する声もあるようである。

  里ごころ始終あつたは政子なり

 やはり、成功者とか、立身出世する人間は、川柳の方では、どうも厚遇されないらしいのである。
 

   第二 梶原景時その他の鎌倉武士
        -功名を争う新時代の騎士たち

  梶原が塀には毒を書き散らし

 梶原景時。
 鎌倉時代きっての敵役である。
 義経主従の悲惨な末路は、ひとえにこの男の讒言に依ると信じられているからである。
 

  豆を煮る殼を梶原焚きつける

「豆ヲ煮ルニ、豆殻ヲ燃ヤス。」「三國志」に出てくる言葉だそうであるが、複雑な人間関係を表現するのに、中国人は時々ギクリとするような辛辣な名言を吐く。
 曹操の子の曹丕が、弟の曹植と争った時の言葉だそうが、同じ血をわけた肉親が憎み合い、傷つけ合うのは確かに悲惨である。
 ましてそれを側からそそのかす人間が居るとしたら、許し難い悪人と言ってよい。
 しかもその原因と言うのが
「逆櫓の争い」、つまり船の進退を自由にするために、
「船の前方、舳先の方にも櫓をつけたい」
「いや、その必要は無い。」という、至極単純な戦術論から出たものなのに、それを何時までも根にもって、執念深く讒言に及ぶとなると、いよいよ以て許し難い悪党と言うことになる。

  逆櫓の遺恨で濡れ衣を着せ申し

  逆櫓よりでごとをおもに讒をする

 でごとは色ごとの意味で、相手は敵方の建礼門院とくれば、大方察しはつこうと言うものである。
 こうした事を、一々頼朝の耳に吹き込まれたのでは義経もたまらない。
 いや、単に義経だけでなく、梶原の讒言でひどい目にあった武将は、多勢あると言う。
 頼朝の関東制覇のために、最大の功労者であった上総介広常などは、頼朝へ不敬の行ないがあつたとの理由で、梶原のだまし打ちに遭い、囲碁の席上で一刀の下に切り殺されたと言う。
 

  梶原は二言目には穴を言ひ

  梶原は耳を出しなの元祖なり

 こういう男が、着々とその勢力を拡げ、和田義盛に代わって侍所の別当となり、鎌倉御家人の監督・続制に当たつたのだから、人々が疫病神のように怖れたのも当然であつた。

  げじげじが二つ並んだような紋

  矢筈にうつるげじげじの影法師

 これは梶原家の紋所が、"並び矢"というものだつたのだが、それが"げじげじ"が二匹並んだように見えたと言うのだから、相当な嫌われ方だったに違いない。

  お夜詰に梶原が出て大さわぎ

 どんな告げ口をされるかわからないという訳だ。
 彼が、生中々の教義人で、和歌の素養もあり、頼朝の連歌の相手などもしていたことでさえ、反対派の手にかかると、

  梶原が歌を詠むのは疵に玉

と、却って悪口の種にされている。
 その梶原も、一旦頼朝が急死し、頼家の代になると、御家人六十六名の連名による弾劾状が提出され、あっと言う間に幕閣を追われ、一族を挙げての逃亡の末、駿河の狐ケ崎で、悉く討死するに至ったのである。
 積年の悪業の報いと評する人も多かったようだが、実は彼こそ幕府政治確立の最大の功労者であったとする批評家も多いのである。
 つまり平家滅亡後、放っておけばそれぞれの所領確保に満足し、再び草深い田舎の生活に戻って、安穏自足の境涯に眠り込んでしまおうとした武士達を、絶えず新しい刺激の中に巻き込み、頼朝政権を支える有機的な組織として活性化して行ったのが、この梶原だったという訳である。
 当時としては珍しく、知的な官僚としての資質に恵まれていたのであろう。
 京都の公卿達からは、
「頼朝の一の郎等。」と呼ばれ、無二の忠臣と目されていたらしいが、やはり頭の良すぎる男の哀しさで、川柳の方では、無残な取り扱いをされる羽目にたち至ったのは、誠に止むを得ない結果であった。

 頭が良いと言えば、佐々木盛綱・高綱の兄弟なども忘れてはならないであろう。
 一般には、宇治川の先陣争いで勇名を馳せた、高綱だけが知れているが、佐々木一族と言えば、頼朝が伊豆で旗揚げをした時以来の股肱の臣である。
 いよいよ旭将軍義仲と対決の晴舞台、頼朝の愛顧に甘えるように、名馬"生月"を拝領して出陣した高綱、何としても人の驚く功名手柄をたてなければならない立場に置かれた訳で、さてこそ"先頭第一の先陣を"と、名だたる宇治の急流にザンブと馬を乗り入れたのだが、ふと前を見ると、同僚の梶原源太景季が、一足お先に川を渡りかけている。
 しかも乗った馬は、同じく頼朝から拝領の名馬"磨墨"である。
 馬の力の相違で、一気に抜き去ることは無理と見た高綱、咄嗟の思い付きで、
「梶原どの。馬の腹帯が緩んで見え申す。早々に締め直し侯へ…」と叫んだから、驚いた景季、馬を停めて腹帯の調節にかかった所を、見すました高網が、スイスイと前に出て、見事一番乗りの名のりを挙げたのである。

  白黒の馬で宇治川先手後手

  怪我あるななどと高綱ちゃらを言い

  人を茶にしたと景季くやしがり

 互いに功名を争う合戦の場である。
 多少の策を弄したとは言え、一番乗りは誰に取っても、命懸けの難事である。
 余り非難される事はないようにも思えるのだが、川柳の作品の中には、

  いかさまにかけては佐々木名が高し

  先陣は兄弟ながら手が悪し

なんて句が残されているのは、実は彼の兄、三郎盛綱のせいなのである。
 「平家物語」によれば、一ノ谷の合戦の後、四国の屋島に退いた平家だが、何とか勢力の回復をと願って、備前の小島に軍事的進出を企てたことがあった。
 これを知った源氏も早速反撃、遂にこれを追い払うのだが、これが所謂「藤戸の戦い」である。
 この時、"何とか先陣を"、"一番乗りの功名を挙げたい"と思いつめたのが、佐々木盛綱であった。
 敵味方を隔てる海峡の幅は、五町ばかり。
 何とか騎馬のまま越えられる水路があれば、功名疑い無しと考えて、付近の漁師に当って見ると、果たして人の知らぬ浅瀬があると言う。
 沢山の賞金を約束して、実地検分も済ました所で盛綱くん、ハタと腕を組んで考えこんだ。
「下郎は口のさがなきもの。折角の秘密も、このままでは、いずれ誰かに漏れてしまうに違いない…」自分の手柄を確実なものにする為には、不憫ながらも止むをえないと、隙を見て一刀の下に刺し殺してしまったのである。

  百やろうわさと盛綱だます也

  深い知恵あって浅瀬を聞いておき

  大人に教わり渡ったは盛網

  あらかじめ聞くと盛綱ひっこ抜き

 全く以て許し難い話で、謡曲「藤戸」では、漁師の母親の他に、漁師自身の幽霊まで現われて、替わる替わる怨みを述べ、戦争の非情を訴える構成を取っているのも、よく解る気がする。
 しかしその反面、当時の武士達の功名手柄に対する欲求が、いかになりふり構わない強烈なものであつたかを、思い知らされる感じで、その旺盛な出世欲には、何か圧倒される思いがする。
 「一所懸命」と言う言葉が、本来の意味で生きていた時代で、このがむしゃらなバイタリティーが、古い貴族王朝の社会をグイグイと押しまくった様を想像すると、善悪の批判を越えて一種の爽快さを感じない訳には行かないのである。
 但し、こうした野性味は、江戸ツ子の都会趣味には合わなかつたらしく、これに同調する作品は少なく、この辺に川柳という文芸の限界があったという感じがしないこともないのである。

  ずぶ濡れになって兄弟渡り合い

   第三 曽我兄弟-運命的アウトロウの悲劇(後編)

 建久四年(一一九三年)五月、頼朝の発意により、富士の裾野一帯に渉って、大規模な巻き狩りが実施されることになった。
 従う大小名は数を知らず、東は足柄から、西は富士川にかけて、総勢三万人を越える一大ペイジェントが展開されたのである。
 時は良し。舞台は整った。
 この晴れの場所で、特に頼朝の面前で、年来の宿敵を討ち果たすことこそ、
「我等が、生涯の目的である!」と、考えたかどうかは知らないが、とにかく絶好のチャンスと見て、喜び勇んで兄弟は裾野へ出発した。
 しかもこの時、久しぶりに曽我を訪れた兄弟は、兄十郎の熱心なとりなしもあり、漸く母の心も解けて、長かった五郎の勘当が解かれ、今は心に懸かる雲も無く、爽やかな首途となったことは、彼等にとって二重の喜びだったに違いない。
 かくて愈々五月二十八目、数々の危険や妨害を突破して、遂に工藤の仮屋を捜し当てた兄弟が、夜陰に乗じて忍び込み、"十八年の天ツ風"今こそ晴れて本懐を遂げるに至る経過は、さすがに全編のクライマックスとして、川柳の方でも張り切って、沢山の作品を並べているようである。
 尚、この時兄弟が着ていた直垂の模様が、兄は千鳥、弟は蝶を散らしたものだったそうで、その後も永く舞台の衣装などに伝えられ、蝶千鳥と言えば、それだけで曽我を意味することになったようである。

  二十七日友切丸を請け出し

  時鳥聞き聞き二人討ちに行き

  なけなしの銭で松明二本買い

  猪や猿またいで二人忍びこみ

 これに対して敵の祐経はと言えば、この夜は、備前の吉備津から所領安堵の御礼にやって来た王藤内という武士と、たらふく酒を飲んだ上に、手越の少将、黄瀬川の亀鶴という遊女を呼んで同衾中だったと言うから、油断も油断、切れ者にはあるまじき大失態であったと言ってよい。
 

  亀鶴を抱いて寝たのが名残なり

  しつぽりと降るとは工藤油断なり

  本望は松明で見る寝顔なり

 眠ったまま、殺したのでは敵討ちにならない。
「起きよ。左衛門!」と、枕を蹴返し、慌てて起きんとする所を、--肩より、右手の脇下、板敷までも通れとこそは切ったりける--というのが、本懐達成の瞬間の状況だったらしい。

  泥足で工藤の夜具をはねのける

  友切は根太の釘にて刃がこぼれ

  祐経は虫の息にて五寸抜き

  祐経は二度目の疵が深手なり

 初太刀の十郎はやさ男だが、弟の五郎は名うての怪力、祐経にはこれがこたえたという訳だが、それにも増して哀れを留めたのが、客人の王藤内である。
 初めは、「祐経以外は、目を掛けるな。」と言っていた十郎だったが、物陰で立ち聞きをしている間に、聞き捨てならぬ無礼な言辞があつたというので、逃げだす所を後から斬り附けられ、敢えなく最後を遂げたと言う。
 しかも寝所の状況が状況だけに、その死にざまは余りみっとも良いものではなかった事は確かであろう。

  備前もの下げて王藤内は逃げ

  重なっているで検死のにが笑い

 しかし「曽我物語」が本当に面白くなるのは、実はこれからなのである。
 祐経にとどめを刺した兄弟は、それで引き上げる所か、大音声に名乗りを挙げると、頼朝幕下の全将卒に向かって宣戦を布告したのである。
 しかもその武者振りの凄まじいこと。
 旗本の精鋭が、次々に切りたてられ、一時は御座所近くまで追る勢いだったから、頼朝も万一に備えて、鎧を着用するに至つたが、近臣に諌められて、陣所を移すことだけは、思い留まったと言う。
 これに対して、こうした晴れの場所で功名をたて、将軍の御感に入ろうとする坂東武著、代わる代わるに名乗りを挙げ、たち向かつて来るのを、兄弟が次々に斬り払う、所謂「曽我の十番斬り」が行なわれたのである。
 中でも顰蹙を買ったのが、武蔵ノ国の住人で新開荒四郎という男、広言を吐いて飛び出したものの、十郎に斬りたてられると、庭の小柴垣の際間から四ツ這いになって逃げだし、世の人の物笑いの種になったと言う。

  むしつたを検死の笑う小柴垣

  うしろ傷受けしんがいの荒四郎

 こうして暴れ廻った兄弟だが、所詮味方は二人きり、疲労が重なり刃も鈍る所へ、猪退治で有名な仁田ノ四郎忠網が登場、十郎は激闘の末に討ち死にする。
 今やたった独りになった五郎時致、目指すは頼朝ただ一人と、いよいよ御座所に踏み入ろうと突進するのを、見事押し留めたのが御所ノ五郎丸である。
 頭から被衣をかぶり、女のふりをして相手をやり過ごしておいて、不意を襲って背後から、むんずとばかり組み付いた。
 武芸の程は不明ながら名うての剛力、「えいや、えいや…」と揉み合う所を、多勢で寄ってたかって、到頭生け捕りにしてしまった。

  見知りよい頭は御所の五郎丸

  五郎丸ふありと脱いでしがみつき

  抱きついて皆こいやいと五郎丸

  功名をして憎まれる五郎丸

 かくて乱闘は終ったが、物語の真のクライマックスはこの後に来る。
 捕えられ、高手小手に縛られた時致と、それを訊間する将軍・頼朝とが、一対一で向かい合った時、どのような人間的真実が明らかにされるか、その点に作者の最大の力点が置かれていたようなのである。
 事実頼朝は、旧怨に触れること無く、しきりに兄弟の武勇を称揚して、
「出来ることならば死罪を許し、側近として召し使いたいものじゃ。」などと世辞を並べ、何処か白已反省の気配が濃厚なのに対して、五郎の方は昂然として眉をあげる感じで、
「伊東入道のことを思えば、将軍は祖父の仇、一言怨みを申し述べたく、又もし地獄に参った折り、鎌倉将軍を我が手に掛けたとあらば、身の罪一等を減ぜらる事もあらむかと思い、御首をうかがいたるまでにて侯」と言い放って揮らなかったのである。

 一夜明けて将軍の仮屋は、見るも無残な狼藉ぶりである。
 将軍の権威が、此れ程地に墜ちたことは嘗てなかった訳だし、威勢を物ともせぬ五郎の態度を見るにつけても、何か大きなものが、音を立て、壊れて行く実感を、多くの人が肌に感じた事は確かであろう。

  夜が明けて狩場狩場に外科を呼び

  御感状外科の出て行く後に来る

  五郎丸二十九日は気くたびれ

 五郎の身柄は、工藤祐経の遺児・犬坊丸に引き渡された。
 この時、幼い犬坊が杖を振るって叩くのを、捕われた五郎が笑って許したとか、処刑される時、斬り手がわざと鈍刀を用い、苦しめながら殺したとか、説話は様々に発展するが、その度に権力者側の醜さ、汚さが浮き彫りにされ、反対に兄弟の純粋さ、潔よさが益々強調されるのを防ぐことは出来なかつたようだ。

  鼻にしわよせて犬坊口借しがり

  犬坊へへしに梶原けしかける

  不二祭り犬坊丸は忌中なり

 最近の研究では、兄弟の事績は、時宗の僧尼の唱導文学の中で発展したものだと言う。
 また五郎の名は、御霊信仰と結びついて大きくなったとも言われ、更に五月二十八日は、農民に取っては「田の神」の祭り、或いは「虫送り」の行事のある日で、兄弟の仇討ちが、本当にこの日に行なわれたか確証は無いとされ、中には仇討ちの事実そのものまで疑問視する向きもあるらしいのである。
 しかしこの事件は、この時代の根本史料、「吾妻鏡」にも、ちゃんと記載されていると言う事実は重要である。
 周無の如く「吾妻鏡」は、北条執権政治の正当性を主張するために書かれた史書だったと言われている。
 とすれば、兄弟の壮挙は、何らかの意味で、頼朝の施政に対する批判の意味を籠めて挿入されたと考えて良いようである。
 「曽我物語」で、北条時政は五郎の鳥帽子親として登場しているのだが、その後は、和田とか畠山などの豪族が、しきりに兄弟の援助の手を伸ばしているのに較べ、一家一門の誰一人として、そうした立場に姿を見せていないのである。
 その徹底した韜晦ぶりは、却って奥の奥に隠れた、真の黒幕をつい考えずにはいられない不気味さを感じさせる。
 そうした中で、次のような川柳にぶつかると、所謂庶民の政治感覚の鋭さに、今更ながら驚かされる。
 大衆と言うものは、結局は最後までは騙されるものではないようである。

  北条の彼屋ばかりは静かなり

  狸寝入りは北条の仮屋なり

   第四 藤原定家と百人一首-王朝文化への憧憬と無知

  九十九は選び一首は考える

 江戸の町人の思考方式の中で、どうにも理解しにくい事の一つに、王朝文化に対する奇妙な憧憬がある。

  歌一首あるで話にけつまづき

 なんて句もあるが、三十一文字などと言うものは、凡そ自分達の生活には縁の無いものであるにも関わらず、妙にこれにこだわる所があるのである。
 その代表的なものとして、百人一首と雛祭りが挙げられるかと思う。

 江戸時代でも、子供の遊びは数が多く、様々の変化や流行もあったと思うのだが、そうした中で、三月三日が女の節句として定着し、雛壇を飾る様式など決まったのはこの時代であり、また正月の遊びとして、百人一首の歌留多取りが、飽きることなく続けられたのである。
 勿論こうした風習は、最初は武家の奥向きから始まったらしいが、それが何時か町方に普及して行く。
 そうした社会心理学的構造は、中々説明に困難な部分が多いようである。

 圧倒的な実力で、安定政権を樹立した江戸幕府は、京都朝廷に対しても、何ら憚ることなく、実質的な政治権力は完全に剥奪してしまったにも関わらず、その後も将軍の正室には、多く京都の堂上方の姫君を迎え、一貫して王朝文化尊重の態度を崩さなかったのは、勝者の余裕なのか、朱子学的な偽善なのか、よくは解らないものの、その底には、もの事を最後まで割り切らず、多少の曖昧さを残すことを良しとする、日本的文化の伝統がしからしめたのではなかろうか?

 そしてこうした考え方は、やがて一般庶民の間にも浸透して、単に実用的な価値のあるものだけを尊重するのでなく、無用なままで、どこか理解し難い側面を持つものを、奥ゆかしいとして、無条件で尊敬しようとする、そんな傾向を生み出したのであろう。
 こうした江戸ツ子にとっては、藤原定家がどういう価値基準によって、この百首を選んだかなどということは、別にどうでも良いことなのである。
 落語の「千早振る」ではないが、歌の意味などは何一つ理解出来なくとも、なおこの流麗なリズムの奥に、現実を遥かに越えた神秘な別世界の存在を感じ取れれば、それで満足していたのであろう。
 但し、こうした古典世界への憧憬は、現実の生活を左右するような具体的な要求にまでは、決して発展はしなかったようで、その証拠には、定家という歌人の実体とか、当時における最大の事件である「承久の変」や、その主人公である「悲劇の帝王」後鳥羽上皇の運命などについては、驚く程無関心で、川柳などでも殆ど敢り上げていないのである。

 鎌倉幕府の成立以来、厳しさを増していた公武両政権の対立は、将軍実朝の暗殺によって源氏の直系が断絶するという事態を迎えると、当然の結果として緊張の激化をもたらした。
 一度は失った政権の回復を焦った朝廷は、それを妨げる北条執権勢力に対し、実力を以てしてもこれを排除すべく、北条義時追討の院宣が発せられたのが、承久三年(一二二一)の五月のことであった。
 結果的には雲上人の事態認識の甘さは、武家方の冷徹なリアリズムの前に敵すべくもなく、忽ちの内に全面的な敗北を喫して、北条執権政治の確立のお手伝いをする形となってしまつた訳だが、こうした敗北の中にこそ、常に非現実の中にしか成立しない、屡気楼のような王朝の美学を感ずるのは、決して僕一人ではないと思うのだ。

 殊にその中心に立つ後鳥羽上皇の不世出の英気、多芸多能で、あらゆる方面で自已の力を試して見様とする生命力、そしてそれを包む香り高い詩心。
 古くは日本浪漫派の保田与重郎から、最近の丸谷才一氏に至る、多くの作家文人を魅了して止まないこの不思議な人物について、江戸ツ子が、何故此れ程まで無関心なのか、どうにも理解に苦しむのである。

 川柳も有ることは有るのである。
 ただ彼等にかかると、深刻な「承久の変」も、芸者をめぐる旦那と置屋の喧嘩のようになってしまうのである。
 芸者と言うのは、言うまでもなく白拍子・亀菊のことで、上皇の寵愛を得て「伊賀ノ局」などと呼ばれるに至ったのだが、彼女が旦那から頂戴した、摂津の長江、倉橋の荘園の監理を巡って、"従来の地頭をやめさせろ"、"いや、やめさせない"という争いが騒動の因となったのである。

  承久の乱は転びの出入りなり

  亀菊振り付け承久の乱拍子

 勿論亀菊のわがままから出たことだが、その言いなりになっている旦那も少しだらしが無いと言いたいらしく、

  綸言はみな亀菊の口うつし

  亀菊の家に宸筆あまたあり

 ところがこれに対して、置屋の享主・義時はひどく頑固で、何としても芸者の身勝手を許そうとしないのである。

  菊一文字と反り合はぬ相模もの

  玉藻より凄い奴だと江間は言い

 旦那は亭主を呼び付けて、叱ったりもしたのだが、ガンとして首を縦に振らない。
「あんな奴、放っておいたら、旦那の御威光にも関わりますわよ。」と言っだかどうかは知らないが、災いは常に女の口から出るものである。

  義時勅答二分づつ使はされ

  義時は違勅の罪でござりやす

 どうも、こうまで安直に解釈されていたのでは、悲劇などと言うものは生まれようがないのであって、百人一首にある後鳥羽上皇の御歌にしても、
  人も惜し 人もうらめし あじきなく
世を思ふゆえに もの思ふ身は
 この悲痛な御嘆きできえ、彼等にかかっては、やはり旦那と置屋の延長なのである。

  人も惜しとは亀菊のことと見え

  上の句は亀菊と義時のこと

 これに対し、定家自身については、どのような受け取り方をされていたのであろうか?「明月記」の中の有名な一節に、
「紅旗西戎は、吾がことに非ず。」という言葉があるように、彼は現実の政治的変動には一切関わらず、意識的に無視するという生き方を自ら求めていたようである。

 中流貴族のひねくれた処世観とも言えるが、それによって彼自身は、終始苛酷な現実に、直面することなく、平坦な保身の道を辿ることが出来たことは確かである。

 あれ程恩顧を受けた後鳥羽上皇に対しても、「承久の変」で没落された後は、掌を返したように疎遠になり、白分の選んだ「新勅撰和歌集」から、上皇並びにその御子・順徳院の御歌を削り取るという苛酷なことも、幕府の命令とあらば、平然とやってのける冷たさを十分持っていたのである。
「自分の仕事は、和歌という貴族文芸の世界を、美しいままに後世に伝える事だ。」定家は、そう覚悟していたに違いない。
 父祖代々和歌の家に生まれ、生涯を通じてその本質を追求してきた彼としては、有史以来の京都朝廷没落の危機に際して、この王朝の権威と栄光を未来に遺すためには、却って和歌という、このかすかな文芸の伝承に託す他はないと決心した男の一刻さが、此処には見られるような気がするのである。

 後鳥羽院が、西行の歌を高く評価し、
「歌は結局の所、人間の心、生き方の反映でなければならない。」とする近代的な文学観に近い考え方を示したのに対して、定家の歌論は、より抽象的な美の追求を目指し、その実現の為には、言葉を厳選し、リズムを整え、枕言葉は勿論、縁語・懸言葉・本歌取りと、言語技術の粋を尽くして、完璧に構成されるべきだとする、或る意味では無機的なまでに技術本位のものだったのである。
 彼にとっては、人間感情の生のままの表出など、歌とは言えないものだったに違いない。
 全ては精製され、濾過され、厳密な科学的操作を通して、完全な結晶体にまで誘導される。
 芸術とは、そうした厳しい過程をこそ言うのであって、百人一首もまた、そうした彼の芸術観に基づいて制作された作品の一つだったのである。

 定家が、「百人一首」という、この特殊な詞華集を、どんな積もりで編纂したかについては、織田正吉氏の「絢爛たる暗号」が導火線となって、最近頓に世間の関心を集めているようである。
 元来は彼の義父に当たる宇都宮頼綱の小倉山山荘の、障子に貼った色紙型だと言うのだが、その順序や配列の中に、一種の暗号めいた意図があり、定家はその中で、遥かに隠岐の離島で鬱屈の余生を送る後鳥羽上皇に、秘かなラヴコールを送っていたのだとか、実は縁語・懸言葉を糸にして、縦横十枚づつ繋ぎ合わせると、後鳥羽院のお気に入りの水無瀬の離富を彷彿させる、一つの絵模様が浮かび上がってくるばかりか、上皇や愛する式子内親王の御歌なども、互いに呼応する形で配置された、一種の絵物語が出現するようになっていたのだとか
(林道直氏の説)、色々面白い学説が飛び出しているのも、やはり百人一首に対する、民衆の根強い人気によるものに他なら在いであろう。

 大体歌歌留多が、遊戯として定着したのは江戸の初期、「人倫訓蒙図彙」などに見えるのが始めらしい。
 勿論それ以前にも、連歌師の宗舐などが、二条派の歌道宣揚の教材として、各地で普及させた事もあり、特に女子の手習いのお手本として広く利用されたらしい。
 遊戯としては、「貝おほひ」から変化した「歌貝」があつたのだが、当時南蛮渡来のウンスンかるたや天正かるたが、一斉に禁止となり、それに替わる遊びとして、花札の前身である「花かるた」が発明された副産物として、この「歌かるた」も工夫されたのだと言われている。

 しかしこうした歴史を、いかに調べて見たところで、その底には定家という、類い稀な言葉の魔術師が居り、その底知れない知誠と批評眼によって選び抜かれた古典文芸の完成された美しさが、否応無しに人々の心を捕えていたからだという事実を否定することは出来ないであろう。
 川柳子も定家には、一目も二目も置いていたらしく、

  御硯へ時雨の通ふ小倉山

  御父子して千と百とをおん選び

 千というのは、父親の俊成卿が選んだ「千載和歌集」を指す訳だが、要は定家の百人一首に対する感謝の気持ちであろう。

  歌かるた好いた男を入れたがり

なんて句がある。
 男女の交際の難しかった江戸時代、この時ばかりは、"お手つき"でもなんでも、万事黙認の無礼講で、
「あい見ての後の心にくらぶれば…」てな際どい恋の歌を取り合えたのだから、若い者にとっては、こたえられない気晴らしだつた訳である。
 だから百人一首関係の川柳には、内容についての批判など一つもない。
 たまには、

  絵がないと男女の知れぬ百人一首

なんてのもあるが、これはまあ無理もない次第で、赤染衛門とか、伊勢大輔なんてのが女の名前だとは、常識では考えられないからである。
 後は歌の題材だとか、並べ方の順序などについて、やれ梅の花を詠んだ歌がないの、鶯が鳴かない、蛙が出てこないなどと下らないことを取り上げて、

  百人が言葉もかけぬ花の兄

  定家の門に鶯泣いている

  鶯も蛙も鳴かぬ小倉山

 だとか、紫式部と赤染衛門を対比させて、

  江戸染も京染も入る百人一首

 或いは、関東の代表としては、鎌倉の源実朝が一人しか選ばれていないのを見て、

  百人のうち一人食ふ初鰹

 何のことはない、小さな子供が気に入った玩具を何度でも分解して遊んでいるように、他愛の無い発見に夢中になっている感じなのである。
 また別に、

  しのぶれど色に出にけり盗み酒

  もてぬ夜はなほうらめしき朝ぼらけ

 なんて句もあって、流麗で耳ざわりの良い言葉のリズムが、いかに人々に愛されていたか、百人一首というものが、いかに庶民の生活に深くしみ込んでいたかを、今更ながら考えさせられる材料となっている。

 千年近くも昔の詩人達の作品が、此れ程一般人の日常生活に入りこんでいるという事は、外国にもその例は少ない筈で、定家の功績は大変なものだと思うのだが、それがそのまま詩人としての偉大さを示すものかどうかは、又別の間題のようである。

 歌留多競技は現代でも益々盛んで、上の句、下の句、見事に整理されて全て頭の中に入っている人も少なくないと思われるが、同時に此等の人々が、その歌の内容をどこまで詩として理解しているかどうかは、また別の間題である。

 誰にも意昧がわからないままに愛誦されている詩-そんなものが外国にあるかどうかは知らないが、百人一首には確かにそんな一面があるようで、それが定家の才能の豊かさによるものか、或いは詩人としての不幸を招いているのか、その辺はなお議論の余地のあるものの、とにかく日本の文化、特に江戸文化の一つの特異な側面を示すものであることは間違いないようである。

   第五 最明寺入道時頼-名君変身、諸国漫遊の元祖

  最明寺なんのかのとてにじり込み

 鎌倉の執権・北条氏は、何代にも亘って頭脳明噺な後継者を生み続けた珍しく優秀な家系だつたことで有名である。

  伊豆ぶしも八代まではだしが利き

 なんて句もあるように、初代時政から八代時宗までは、いずれも賢明であった。
 中でも有名なのが泰時と時頼で、前者は「貞永式目」の制定を通して武家政治の理念を確立し、後者は執権政治の最終的完成によって、所謂「得宗体制」の樹立を達成した功労者とされている。
 伊豆の辺境にあって、先祖の名さえはっきりしない小豪族が、鎌倉幕府という組織を通じて次第に頭角を現し、遂には独裁的な政治権力を掌握するまで、代々の当主がそれぞれの段階で、立派に責任を果たしたという訳だが、特に時頼はその最終段階で、見事目的を達成した人物として評価が高いのであろう。
 彼は名君泰時の孫に当り、父の時氏が短命だつたこともあって、親しく祖父の教導を受けたようだ。
 又彼の母は、出家して松下禅尼と呼ばれたが、賢夫人として有名で、我が家の障子は自ら切り張りをして修理し、子供達に倹約の心を教えたと言う話は、「徒然草」にも取り上げられている程である。

  切り張りに禅尼天下ののりをとき

  切り張りは大事をしょうじより教え

  風よりもしみる障子の御教訓

 血筋はよし、教育は行き届いて、これで名君の生まれない訳はない。
 果たせる哉、成人の後は綱紀の粛正、過差(贅沢)の禁止に努め、引付衆を新設して裁判の迅速、公正化を計るなどの善政を施す一方、「宮騒動」では、名越光時を討って、摂家将軍から親王将軍への転換を実現し、「宝治合戦」では、宿敵・三浦一族を打倒し、北条氏に対抗する旧勢力の一掃に成功するなど、武断的側面でも見事な手腕を発揮して、北条執権政治の最盛期を実現させたのである。

 この時頼が、流行病に罹つたのが原因とは言え、優か三十歳で出家、鎌倉の最明寺に籠ってしまったから大変である。
 実際には嫡子・時宗がまだ幼少であり、政治の実権はやはり時頼が握って居たらしいが、下々の眼からすれば、この名宰相を惜しむ声は大きくなるばかりであつた。
 遂には、入道した時頼は、みすぼらしい雲水に身をやつして、全国を巡錫し、その土地々で不正に苦しみ、悪政に泣いている人々があれば、それを救けて非道を矯す穏密旅行を続けているのだと言う、いかにも庶民的な説話を生み出すに至ったのだと言う。

 歴史学者は、こうした伝説については常に懐疑的で、大抵は否定的であるが、この話は「増鏡」「北条九代記」「太平記」など、かなり信頼出来る書物にはっきりと書かれて居り、或る程度信用しても良いのではないかという気もするのだ。
 特に「増鏡」の記述は簡素で気持ちが良い。
 修業僧に変装した時頼は、虐げられた不幸な人々を見ると、其の場で手紙を書き、
「私など何の力もありませんが、昔お仕えしたご主人が立派な方なので、これを持って一度お尋ねになって見るといいですよ。」などと言いながら渡したらしい。
 相手の方では、
「あんな乞食坊主の言うことなど…」と半分疑いながらも鎌倉に出て、然るべき筋に提出すると、思いがけなく、問題は忽ち解決、
「あれは神仏の化身だったのでは?」と驚き呆れながら、歓喜したと言う。
 誰が仕掛け人かなど一切知らせぬままに、穏やかに正義を実現させて行く手口は、中々心憎い鮮やかさで、どこかの御隠居のように、
「この印籠を、何と見る…」などと急に威だけだかになって、副将軍の権威を振り回すのとは、大分お人柄が違うようである。

 こうした時頼の廻国物語としては、「太平記」にある、難波の老尼の話に基づく、謡曲「藤永」などもあるが、何と言っても有名なのが、謡曲「鉢の木」として伝えられる謡である。
 作者は観阿弥とも、世阿弥とも言われるが、演劇的骨格のしっかりした四番目物の名作である。
 今更解説する必要も無いかも知れないが、若い人々のために一応書いておく。

 寒い冬の夕暮、上州佐野の山里で、折からの大雪に難渋した旅の僧が、一軒の家を見付けて、一夜の宿を借りたいと懇願した。
 主人は留守で、返事をためらう妻に何とか頼みこんで休息をしていると、其処へ帰宅した主人は、以ての他の気色で、
「自分達だけでさえ、暮らしかねているものを、旅僧を泊めることなど…」と、一旦は追い出すのだが、妻のたっての説得に漸く思いなおして後を追い掛け、結局は運命的な出会いとなるのである。

  源左衛門虫が知ったか呼び戻し

  最明寺因果なとこへ宿を借り

  源左衛門先ず花ござを借りに行き

  最明寺むずかゆいのを被って寝

 この主人が本名佐野源左衛門常世、かってはこの辺一帯の領主だったが、親族の者に所領をだまし取られて、今は見る影もなく落ちぶれて、その日の糧にも事欠く有様、最明寺もとんだ所に宿を借りた訳である。

  雨ならば常世なかなか泊められず

  旅僧へ濡れ手で粟の飯を強い

  最明寺まだ有るのかとかえて食ひ

  源左衛門明日の朝のをしてやられ

 食事は菜飯を何とかしたが、こたえられないのが夜の寒さである。
 せめては焚き物の馳走をと考えて、思いついたのがかって世にありし時秘蔵した鉢植えの木、梅・松・桜と三つの鉢があったのを、惜し気もなくたち割って炉にくべたと言うのである。

  最明寺梅はよしゃれと世話をやき

  破れ根太はよしゃれよしゃれと最明寺

  源左衛門さぼてんなどはとうに売り

 これぞ正に貧者の一灯、感激した時頼が詳しく事情を聞いて、主人の人柄なども確かめた所が、
「貧乏はしていても常世は武士、錆びたりとは言へども鎧・長刀、痩せたりとは言え馬一匹は残して侯。
 いざ鎌倉と言う折りには、一番に駆けつけて、馬前の御用に立つ覚悟にて候。」
と潔い言葉である。
 おおいに吾が意を得て、膝など叩いたのではないかと思われる。

  源左衛門よくは鎧を食ひ残し

  あごで蝿追うような馬常世持ち

  さて今朝は何を食おうと源左衛門

  最明寺もっと泊まるときらず飯

 下手に居続けなどされたら大変だつたが、そこは旅慣れた最明寺、漂然として佐野を去った。
 そしてその後間もなく、関東一円の御家人に対して、武者揃えの命令が発せられ、幾千の軍勢が鎌倉を指して動き出したのだが、その中には無論佐野常世の姿もあったのである。
 彼の信念からすれば、それは当然誰よりも早く、第一番の到着でなければならなかつた訳だが、現実は中々そううまくは行かない。
 謡曲「鉢の木」の文章を借りれば、
「心ばかりは勇めども、勇みかねたる痩せ馬の、あら道遅や。
 急げども急げども弱きに弱き柳の絲の、よれによれたる痩せ馬なれば、打てども煽れども、先には進まぬ足弱車…」
 謡曲の地の文などと言うものは、大抵上品過ぎてリアリテイの無いものだが、それがこれ程書くのだから、その草臥れ方は相当なものだつたに違いない。
 こんな事を川柳が放っておく筈がない。
 忽ち無数の作品が作り出され、ディズニー漫画の主人公ではないが、一種の人気キャラクターにのし上がってしまったのである。

  佐野の馬さて首をたれ屁をすかし

  人ならばとうに出て行く佐野の馬

  源左衛門ひんぷくりんの鞍を置き

  源左衛門鎧を着ると犬が吠え

  佐野の馬戸塚の坂で二度転び

  かの馬に乗ってきたかと最明寺

  佐野の馬下馬に置くうち人だかり

  佐野の馬甘露のような豆を食ひ

 馬も幸せだつたかも知れないが、常世の方はもっと幸せであった。
 到着と共に親しく執権・時頼に目通りを許され、かの雪の夜のもてなしに対して感謝の言葉を賜り、旧領は全て回復、その上に炉に焚いた鉢の木に因んで、加賀の梅田、上野の松井田、越中の桜井の三つの荘を与えられるに至ったのである。

  最明寺大きな木賃泊りする

  鉢ともに一分そこらに三ヶ国

  鉢の木を大木にして御返済

 こういう事になるのだったら、あの時もう少しサービスしておくのだったと考えるのが、いかにも江戸ツ子らしい所で、

  手打だと常世信濃がものはあり

  源左衛門酒だと銚子もらうとこ

  惜しいこと常世万両焚き残し

 最後の句はいくら何でも欲張りすぎだが、僅かな好意が大きく報いられ、正しい者が幸せになるという、こういう健康な物語は、何時聞いても気持ちが良い。

  源左衛門雪の中から掘りだされ

  時を得て切りくべた木に花が咲き

  豊年の雪とは常世言い始め

「もしもこういう為政者が居てくれたら」切なる民衆の願いが、後世「水戸黄門漫遊記」などの形で、多くの夢物語を生んだ訳だが、当の北条時頼は、その善政にも関わらず、天運彼に味方せず、僅か三十七才の若さで波乱の多い生涯を閉じた。
 時に弘長三年(一二六三)十一月であった。
 彼の死を悼んで出家をした御家人・友人の数は、前例の無いほど夥しいものだったと、「吾妻鏡」は伝えている。

   第六 元弘の乱と楠木正成
        -不可能を可能にした智謀と奇計

  樟脳になっても楠は内裏守護

 十四世紀に入ると、歴史の潮流は急に激しさを増し始める。
 一二八一年の「弘安の役」、所謂「元寇」以後の社会的矛盾の激化は、やがて「元弘の乱」による鎌倉幕府の滅亡から、「建武の中興」を経て「南北朝の対立」へと、歴史は大きな転換点にさしかかるのである。
 此処では当然章を新たにして書き殆めるのが常識だとは思うのだが、川柳の方では、どうもそれが出来難い。
 作品の質と言い、量と言い、どうもまとまりが悪いのである。

 思うにこの時代以後ともなると、史料は沢山あるし、人間関係における利害は複雑になってくる上に、対立抗争は深刻となるばかり、ウイットやユーモアの介入する余地が次第になくなって来たのであろう。
 まして室町以後の戦国時代ともなれば、否応なしの弱肉強食、一瞬の油断も許されない修羅の巷で、泰平の民である江戸っ子から見れば、
「おっかなくって、酒落にもなりやせん」といつた感じなのかも知れない。

 ただその中で、この「元弘の乱」などは、作品の数も多く、中々名作も見える方だが、それはひとえに名作「太平記」のおかげだと言つてよい。
 それによって、複雑な歴史を理解する視点が与えられ、或る意味では善玉と悪玉の対立といった、江戸っ子好みの明快な舞台が設定されたからでもあろう。

 ところでこの事件における悪玉と言えば、何といっても鎌倉の執権・北条高時であるが、彼についての悪評としては、代々賢明だった先祖に較べて、生来少々暗愚だったこと、田楽や闘犬を好んで、そのためには千金を借しまず、時折世間の指弾を受けるような奇行のあったこと位で、若し平穏無事の時代だつたら、子供っぽいが愛すべき人柄としてすごされたに違いないのである。

  九代目は田楽好きで味増をつけ

  初鰹高時犬にくらわせる

  高時の夜回りやたら踏みつける

  やすい時儲けて高い時つぶれ

 これに対し、反対する善玉の親分と言えば、普通なら後醍醐天皇を挙げたい所だが、この方中々一筋縄では行かない御人柄だし、殊に天皇陛下ともなると、さすがに批判がましいことも言い難く、替わって登場するのが、楠木正成ということになるのである。
 楠木正成については、歴史学者の間でさえ、完全には正体のわからない謎の人物とされているらしく、第一その出現の仕方にしてからが、奇跡を起こす人物にふさわしく、大変劇的である。

 時に元弘元年(一三三一)後醍醐天皇が、無謀とも言うべき挙兵を実行し、笠置山の天険に拠って、反鎌倉勢力の蜂起を待っていた時である。
 或る夜の御夢に、紫震殿の前庭に大きな樹があり、その樹の南側に玉座が設けられていると見えたが、其処に二人の童子が現われ、潸然と涙を流して、
「玉体のつつがなくおはします所は、天が下、此処より他にはございませぬ。」と言つたかと見る間に、忽然と消え失せたと言う。
 天皇は覚めて後、御自ら夢判断をなされ、木の南ということに縁のある人物を求められ、遂に楠木を発見、召し出されたのである。

  正夢を後醍醐帝は御覧じる

  楠はつくりの方に御味方

 こういう話は、後になっていくら科学的な分析をした所で、最初に伝説を生み出した人々の情熱には及びもつかない訳で、黙って信ずるのが一番良いようである。
 なお、この時正成が言った言葉として、
「一度や二度の勝敗はわかりませんが、正成一人なを生きてありと聞かれましたなら、最後には御運の開かせ給うものと思召し下されますように。」と「太平記」は伝えているが、誠に百年に一度聞かれるかどうかの名科白で、「太平記」最初の十巻は、正にこの言葉を中心に書かれたと言って過言ではないであろう。
 この後正成は、一旦河内に帰り、挙兵の準備にかかるのだが、その折り四天王寺に参詣し、武運を祈つた時、一老僧から聖徳太子直筆の「天王寺未来記」なる秘書を閲覧させて貰ったと言う。
 その書に曰く、
「人皇九十五代に当たって、天下一たび乱れて主安からず。
 この時東魚来って四海を呑む。日西天に没すること二百七十余日、西鳥来って東魚を食ふ…云々」
 実に驚くべき予言書なのである。
 この西鳥と言うのが、楠木正成なのかどうか、それはよく解らないが、東魚言うのは、高時に間違いないというので、

  未来記で見れば高時さかな也

  相模入道俳名は東魚なり

  入道を東魚はたこの見立てなり

 たこなら東魚でなく章魚と書く所だろうが、こうした文書まで持ち出す程に、正成の出現は、神秘的な奇跡として当時の人々から受け取られていたのである。
 とにかく正成が金剛山千早城にたて籠もった時、味方の数は千数百名。
 僅かこれだけの人数で、誇張があるとは言え、百万と号した鎌倉方の寄せ手を相手に、智謀の限りを尽くして奮闘、敵にキリキリ舞をさせたのだから、「三国志」の藷葛孔明の再来として、賞讃の的となつたのも当然であった。

  神代にも聞かぬ千早のはかりごと

  古狸めがと千早の寄手言ひ

  楠木に歩三兵にてなぶられる

 戦前の小学校の国語読本には、「千早城」の一節があり、先生方も熱弁を振るって、正成の忠と智と勇とを兼ね備えた武者ぶりの素晴らしさを、大いに喧伝してくれたものだが、その点、現代の子供達は、何もかも自分で読むしかないだけ不幸かもしれない。
 但し誰が読んでも面白いものだけに、是非一読はお薦めしたい。
 それはともかく、寄手の大軍が城の壁に熊手をかけて引き倒そうとすると、壁が二重になっていて、上の板が崩れると、内に仕込んであった岩や樹木が頭の上に降ってくるとか、次の戦いでは頭上に楯をかざして攻め上がろうとすると、柄杓で熱湯をかけるとか、これまでの武士の常識では想像も出来ない新手の戦術が、次々に登場するのである。

 これを「悪党の戦い」と称し、歴史学者は楠木方に加わった軍隊の階級的な基盤を解明する手がかりとしているらしいが、体裁も外聞も一切かなぐり捨てて、必要ならどんな汚ない手を使っても戦い抜く、その底知れぬバイタリティーは、正に瞠目に値するものがあつたようだ。
 現にこの時、敵の頭にぶちかけたのは、ただの湯ではなく、城兵の排泄物をグラグラ熱した代物だったという説もあって、川柳子も面白がって、そちらの説を採用しているようである。
 水の乏しい山城のこと、考えて見れば其の方が余程合理的である。

  楠木は鼻をつまんで下知をなし

  千早の寄手黄おどしになって逃げ

  汚なしかえせと千早の寄手言ひ

 これは確かに汚かったに違いない。
 この他にも、敵の水攻めの裏をかいたり、藁人形に鎧を着せて、敵をおびき出して殲滅したり、次から次へと神算鬼謀、意表をついだ戦術で、鎌倉勢にキリキリ舞をさせたのである。
 中でも川柳が特に面白がって取り上げているのが、「泣き男」の話である。
 これは既に「建武の新政」が失敗し、足利尊氏による内乱が決定的となった段階での話だが、正成が近隣諸国から、一芸一能に秀でた者は身分の高下に関わらず召し抱えようと、触れを廻したことがあつた。
 その時応募して来た者の中に、杉本佐兵衛という嘘泣きの名人が居たのである。
 正成は、
「これも確かに、一芸には違いない。」と周囲の反対を押し切って、自分の幕下に加えたのである。

  杉本は他家で扶持せぬ男なり

  もう良いもう良いと楠木召し抱え

  目を拭いて杉本佐兵衛飯につき

 所が建武二年(一三三五)鎌倉から攻め上った足利勢との決戦で、この男が果然大手柄をたてるのである。
 比叡坂本の戦いで雌雄を決しかね、京に引き上げた足利勢の斥候が、戦場で妙な男をつかまえた。
 戦さ場に残る屍の顔を一人一人確かめ、何やら遺物など拾い集めているので訊問した所、
「楠木判官殿、北畠顕家卿、共に討ち死にを遂げられたらしく、ただ今その捜索の最中でございまして…」とのこと。
 涙潸然と下る様子は、到底嘘とは思われない。
 喜んだ斥侯が、早速本陣に報告したから尊氏も大満足。
 すっかり警戒を解いて、ぐっすり寝込んでしまった。
 それを見すました楠木方、夜陰に乗じて奇襲を掛けたから、足利方は敗走また敗走、遂に九州まで落ちのびなければならなかったと言う。
 杉本の嘘泣きが、いかに天才的なものであったかを物語る証拠であろう。

  今から弔いが出るように佐兵衛泣き

  もういいと言うに杉本しゃくり上げ

  子の死んだように佐兵衛は泣いている

 こうした正成の、人智を尽くしての奮闘も、時の勢いには抗し難く、九州で勢力を回復した尊氏は、再び怒涛の如く上洛する。
 これを迎える天皇方は、正成の提言する柔軟な戦術を否決、無謀な全面的対決のため、湊川への出陣に命令する。
 今はこれまでと覚悟をした正成は、一子・正行に後のことをくれぐれも言い遺して決別する。
 これが「桜井の駅の別れ」と言う場面で、昔の小学生は「大楠公」などと言う唱歌で、子供の頃から親しんだものだが、こんな事を言い出すのも、老人の感傷と言うものであろう。

  旗持ちも貰い泣きする湊川

  湊川ほんに泣いたと佐兵衛言ひ

  奥方に遺言はなし湊川

 奥方に遺言の無いのが立派かどうか、議論の余地はあるだろうが、正成には何時も私利私欲を離れた、より高い所を見つめている爽かさがある。
 常に自己の能力の極限を生きて来た男の、後悔の無い透明感である。
 彼が湊川に出陣する直前、私淑する禅僧に示したと言う次の一偈は、見事にそれを示しているように思われるのだが、どうであろうか?
 生死の両頭を裁断して、一剣、天に懸って高し
 行年、四十三歳だったと言う。

  うしろ厄などと楠木借しがられ

   第七 新田義貞-勝ったが因果なメイ将軍

  鍋ぶたと釜のふたとでいじり合い

 正成に較べると、新田義貞の生涯は、何処となく哀れっぽいという気がする。
 あたり前過ぎる人間が、苛酷な運命にもてあそばれた悲劇である。
 これは対立する足利尊氏にもあてはまるかも知れない。
 何時でも自分の意志以外の力で動かされていたからである。
 そこへ行くと、後醍醐天皇はちょっと違う。
 戦局日に日に非なる、吉野の行宮にあって遂に死病を得た時にも、
「供養のためには、尊氏の首を供える他には、何も要らぬ。」と言い、
「玉骨はたとえ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望む。」として、慣例に反して陵墓を北向きに造らせた執念の深さは、確かに常人にあらずとと言った感じがする。

 大体この「建武の中興」と言う事件そのものが、天皇のいささか現実を無観した、一方的な権力意志から始まった訳で、自ら延喜・天暦の治を再現したいと夢見て、生前から後醍醐という諡号を自ら撰んで居たと言う。
 一種目茶苦茶な思い込みの激しさが、思いがけなく、「瓢箪から駒」で、次々に奇跡を生み出して行った訳である。
 それに対して、義貞や尊氏が時代の風雲に身を投じたのは、既に楠木正成などの活躍によって、鎌倉幕府の軍事力の底が見えたと計算が出来始めた後のことである。
 本音を言えば、源義家を祖とする名家に生まれながら、出自の卑しい北条氏の下風に立たされた屈辱の歴史から生まれた復讐心によるものだと言うのでは、人間的かも知れないが、少々けち臭い感じは免れないようだ。
 とは言え、当人にとっては一世一代、命懸けの大冒険だつたことは確かで、千早城攻撃中の新田義貞が、俄に病気と称して故郷の上野に帰還、秘かに手に入れた後醍醐天皇の綸旨を掲げ、数少ない一族と共に、生品明神の境内で幕府打倒の第一声を挙げた時には、彼等自身でも成功の可能性は殆ど信じていなかつたのではなかろうか。
 ただ、時の勢いと言うものは恐ろしい。
 これより先、足利尊氏による六波羅攻略成功の情報も、いち早く各地に流れたらしく、新田に味方する武士の数は、日を追うて増加し、小手指河原の一戦に勝ってからは、勢いに乗じて一挙に南下、鎌倉を包囲する態勢を固めるに至った。
 しかし周知の如く、鎌倉は屈指の要害、七つの切り通しの口を塞いでしまえば、容易なことでは攻略は不可能である。
 義貞は自ら二万の精兵を率いて、極楽寺口に廻ったが、切り通しの突破は勿論無理、稲村ケ崎の海岸を通ろうとすれば、断崖海に迫って道が細い上に、海上に待ち構えた敵の兵船の横からの攻撃にさらされる。
 味方は数が多いと言っても、寄せ集めの烏合の衆、大将が倒れれば、情勢はどう変化するか予想もつかない。
 思案に余った義貞は、岬の突端に立つと、遥かに海の竜神を拝し、「朝家のために、この義挙何卒、成就せしめ給え…」と念じつつ、佩いていた黄金造りの太刀をはずすと、恭しく目八分に捧げ、ザンブと海に投げ込んだのである。
 必死の祈念空しからず、海は時ならぬ干潮となって、二十余町に渉り渺茫たる砂洲が出現したと言う。
 喜び勇んだ新田勢、この砂洲を突破して、鎌倉に乱入したから、高時以下の北条方は、今は最後と観念したのであろう、一族八百七十余人、枕を並べて自害を遂げたと言う。
 誠に思いもかけぬ結末であった。

  義貞の勢は浅利を踏みつぶし

  潮時を一時は太刀で狂わせる

  潮が千て東魚おさえる鍋のふた

  焼き飯を三つ義貞踏みつぶし

 鍋の蓋というのは、新田の紋所が、丸に両引き、二本線を引いた形であるのに対して、北条氏の紋は三ツ鱗で、これが握り飯に見えた訳である。

  太刀の魚新田この方出来るなり

 義貞の投げ込んだ太刀が、そのまま魚になったという想像はロマンチックで面白い。

 足利尊氏の六波羅攻撃が五月六日、鎌倉の陥落が五月二十二日であったが、その他にも九州の鎮西探題の北条英時が討ち死、長門探題・金沢時直が降参して、全国に渉った戦乱も、僅か一ケ月余りの間に、それも予想もしなかった天皇方の勝利となつて終決したのである。
 当時の人の目からすれば、正に奇跡につぐ奇跡の連続で、如何なる天意の現れかと、恐怖に近い感情で、激動する世相を見守つたに違いないのである。
 しかしこの天意は、その後も益々人間には計り知れない社会的変動を繰り返し、時局の混迷を深めて行ったのだ。
 御自身の歴史的使命について、愈々自信を深めた後醍醐天皇は、自らの理想実現のために、益々神がかり的情熱で遵進しようとする。
 それは強烈な復古主義の形を取り、これまでの変革を全て否定して、古代的秩序を再建しようとする反動の嵐を巻き起こし、武士層のみならず、一般民衆の生活までも不安に陥れる様相を呈して来たのである。
 これに反発する武土達が、足利尊氏を中心に、新しい武家政治の確立を望んで、何時しか天皇政権に対立するに至ったのは、蓋し歴史の必然だったと言って良い。
 こうした中にあって、我が義貞君などは次第に難しい立場に追い詰められて行ったようだ。
 元来正直で、生一本な性格だったのかも知れないが、一世一代の賭けが見事成功して、鎌倉攻略の功績に対し、上野・播磨の二ケ国を与えられ、武者所の筆頭に挙げられたことで、すっかり感激している所へ、更に宮中一の美女と謡われた
匂当(こうとう)の内侍」を、妻として賜ったのだから、正に欣喜雀躍、天皇に対する忠節に凝り固まったのも当然であった。
 但し、余りに満足し切った武将というものは、甘さばかりが目立って、肝心な所では役に立たなかったのではないかと言うのが、川柳子の解釈のようである。

  匂当の内侍因果と美しい

  官軍の総大将は朝寝なり

  なからはんじやくに義貞ずるけ出し

 仲の好いのは結構だが、度が過ぎると大切な仕事の方がお留守になって、大事な時に役に立たないのは、義貞でも勘平さんでも同じである。

  楠木が来ると箒を内侍たて

  こびりついてて楠木に留守と言へ

  匂当の内侍鎧をひつかくし

 関東から攻め上って来た尊氏を、楠木・北畠の諸将が、苦心の末に打ち破り、九州まで敗走させたという大事な時期に、義貞は京都の事ばかりが気掛かりで、追撃もいい加減にして引き上げてしまったのが、尊氏に勢力を挽回させた一番の原因だったと、川柳は批判するのである。

  長追いをせぬが義貞落ち度なり

  筑紫までどう行かりょうと内侍とめ

  ひとりでに滅びやしょうと内侍言い

  筑紫へは旗でもおやりなんしなり

 まさか廓言葉を使うはずもないが、この甘ったれぶりが仇となって、遂に孤立無援、非業な最後を遂げる原因となつたという訳である。
 義貞は元来、政治家としての狡さに欠けていたようだし、武将としても凡庸の域を出なかったのかも知れない。
 官軍の再起を賭けて北陸道に転戦したものの、木ノ芽峠では雪に泣き、金ケ崎城では飢えに苦しみ、遂に藤島の戦いで無残な最後を遂げる迄、気の毒だとは思うものの、少々気のきかないドジな戦さばかりをしている感じなのである。
 実はそのドジな所が、親しみ易い人間味となって、川柳子の同情を引く原因となってはいるのだが…それに対して、常に時代の先を読み、社会の動向を察知して、何時も勝者の立場を守り抜いた足利尊氏については、殆ど見るべき川柳が無いと言うのも、この文学の特色を考える上で、大事なポイントと言ってよいと思うのだが、どうであろうか?

   第八 太田道潅-武将にも自己研修の時代

  雨やどりまでは武骨な男なり

 室町時代の武将で、川柳子のお気に入リの人物と言ったら、この人を措いては無いと言って良い。
 何しろ江戸城の創設者である。
 まだ草深い海辺の寒村に過ぎなかった土地を、
「これぞ将来、関八州の要となる地なり。」と見抜いた眼力は大したものだし、何と言っても、江戸っ子の生みの親なんだから、頭が上らない。
 道潅、太田持資。
 鎌倉の関東管領、扇谷上杉家の老臣である。
 幼名を鶴千代と呼ばれた時代から、才気煥発、その英明ぶりは近隣に響いていたらしい。

  江戸紫の下染めは桔梗なり

 太田家は遠く源三位頼政から出たと言われ、家紋には桔梗を用いていた。
 何やら明智光秀に似ているが、人間のタイプとしては何処か共通したものがあったかも知れない。
 子供の頃から、一筋縄では行かないすれっからしで、父親の資清が、
「人間なんでも真っすぐでなくてはいかん。
 この障子でも真っすぐだから立って居る」と説教をすると、咄蹉に、
「こちらの扉風は、曲がっているからこそ、立っているのだと思われますが…」とやりこめたと言うし、「平家物語」にことよせて、
「奢れる者は、久しからずと知れ。」と諭すと、
「奢らざるも又、久しからずでして…」と、切り返して、父親を嘆かせたと言う。
 時あたかも、下剋上の風潮の最盛期、こうした反骨の硬さが、一旦風雲を得て時流に乗れば、何処まで突っ走るか予測の出来ない危なさと面白さを内に秘めていたのである。
 当時の関東では、鎌倉公方の権威が衰え、足利成氏は下総に走って「古河公方」と呼ばれ、鎌倉には執権・山ノ内上杉の顕定が頑張っていたが、それも家臣の長尾景信に叛かれ、四分五裂の状態が続いていたのである。
 その間にあって道潅は、身は扇谷上杉の家宰ながら、白ら進んで「古河公方」を制圧するための咽喉部に当たる江戸を押さえ、北は遠く上州の長尾氏を睨みつつ、関東の中央部に巨大な勢力を築き上げようとしていたのである。
 彼は築城の技術に優れていたばかりでなく、野戦では足軽を中心とした新戦術を編み出し、有名な江古田・沼袋の戦いや、小机・鉢形城の攻略などで、見事に武将としての力倆を発揮したから、その威勢は何時しか主君・扇ヶ谷定正を凌ぐ有様であった。
 しかし道潅を有名にしたのは、こうした武勇談ではなく、何と言っても「山吹の里」の一件である。
 彼が未だ若かりし頃の話である。
 戸塚の金川辺に鷹狩りに出掛けた所、俄かの村雨、何はともあれ近くの民家に立ち寄って、雨具の所望をした所が、鄙には稀な美しい少女が現われ、無言のまま、一枝の山吹の花を差し出したと言う。

  山吹の花だが何故と太田言ひ

  賎こころ有って山吹出して見せ

  お返事に出す山吹は無言なり

 この話、「和漢三才図絵」などにあるのが最も古いらしいが、その後、「常山紀談」「広益俗説弁」その他の著書にも伝えられて、すっかり有名になると共に、内容も少しずつ変わって来たらしい。
 最初は品の良い婆さんが現われたとなっていたようで、そうなれば古歌の素養が深いのも十分納得が出来、ぐんとリアリテイーも増す訳だが、話の面白さとしては、やはり若い美人でないと納まりがつかないのであろう。
 ―少女ハ言ハズ、花語ラズ 英雄ノ心緒、乱レテ糸ノ如シ―
 お堅いはずの漢詩の方でさえ、こんな事を言っている位で、道潅たるもの、乱れない訳にはいかないのだが、実はその乱れ方が問題なのである。

  どうかんがえても山吹初手解せず

  道潅も金を貸せかと初手思ひ

「山吹色の、お茶一服…」と来れば、何のことはない河内山宗俊だが、どうもそれとも様子が違う。
 若い女にからかわれた感じの仲ッ腹で、そのまま帰館したのだが、他日これを人に話すと、
「それは、「後拾遺集」にある、兼明親王の御歌のこころでこざろう。
  七重八重 花は咲けども 山吹の
実のひとつだに なきぞかなしき
 実と蓑とをかけての、お断りだったと思われます。」と解説してくれた。
 現代人なら、
「無いなら無いと、一言言えば良いものを… 全く気障な女だぜ。」などと、ぶんむくれる所だが、昔の入にとっては、こうしたやり方こそ奥床しいと映る。
「あの女性の、心の程も恥ずかしい。」と、それから発憤して、歌道に心をひそめ、遂に当代屈指の文化人になったと言う次第である。

  実のならぬ花から歌の種が出来

  ずぶ濡れになって帰ると歌書を買ひ

  骨っきり濡れて歌道が身にしみる

 戦争を知らない江戸人にとっては、武士は弓馬の道の他、こうした学間・教養を身につけてこそ、山吹とは違う「花も実もある」一級品であると考えたようで、道潅は正にその典型だったのである。
 作家の木村毅氏が、文化都市・東京の宣伝のためには、これ以上の話は無いとして、
「外国人向けに、大いに遵潅のPRをすると良い。」と書いていたことを思い出す。
 但しこの酒落が、どこまで巧く翻訳きれ、外人に理解させられるかの条件附きの話である。

  気のきかぬ人と山吹置いて逃げ

 所で、この山吹の女性、実は京下りの浪人の娘で、名前は紅皿、後に道潅に引き取られて、幸せに暮らしたと言うが、彼の死後は、尼となって余生を送ったらしい。
 現にその墓が、新宿区東大久保の大聖院の一隅に残って居り、僕も一見したことがあるのだが、そこまで証拠を揃えた話と言うのは、大抵眉毛に唾を附けないといけないもののようである。
 第一、「山吹の里」と言うのが、新宿区の戸塚、面影橋の近辺だという事からして、凡そ確証の無い話で、これはどう見ても、神奈川県の戸塚と考えた方が理屈にかなっている。
 要するに、同じ四谷左ェ門町にある、「お岩さまの産湯の井戸」に毛の生えたようなものだと考えれば良いのかも知れない。
 道潅の教養の高さについては、江戸城内の居宅を静勝軒と号し、東の部分を泊船亭、西側、富士を望む部分については含雪亭と名付けて、勝景を楽しんだとか言われる、風流心の深さからも察せられるし、上洛して帝に拝謁の折り、彼の詠草の中から、
  露おかぬ 方もありけり 夕立の
空よりひろき 武蔵野の原
の一首について、特に御賞美あり、
「吾妻のかたの、景色はいかに…」とお尋ねがあった時、即座に、
  わが庵は 松原つづき 海近く
富士の高嶺を 軒端にぞ見る
と、お答えしたので、叡感浅からず、
  武蔵野は 高萱のみと 思ひしに
かかる言葉の 花や咲くらむ
との御製を賜ったと伝えられる程、本格的なものだったのである。
 女の子に教えられなくても、兼明親王の御歌くらい、十分そらんじていた筈だと、贔屓の余り、伝説を否定してかかる御人も居る位なのである。
 なお、彼の歌の中でも、江戸っ子にとって特別わすれられないのが、
  急がずば 濡れざらましを 旅人の
後より晴る 野路の村雨
の一首であるらしい。
 これは彼等にしても、大低一度位は経験したことのある情景らしく、理屈抜きで同感したのであろう。
 川柳の方でも、

  山吹にこりて濡れまじものと詠み

  野路の村雨山吹のあとに晴れ

 などと、好意的にからかっている。
 道潅はその後、俊敏すぎる性格が災いして、主君扇ヶ谷定正から、あらぬ疑いを掛けられたらしい。
 相模国糟谷の城に呼びつけられ、不意をつかれて斬殺されてしまったのである。
 その時、道潅は思わず、
「当家滅亡!」と絶叫したと言うが、自分で自分の牙を抜いてしまうような暗君が、そのまま無事で居られる筈もなく、やがて新興の小田原北条氏の圧力に押されて、関東から追い出されてしまうのである。
 それに反して道潅の方は、その優雅な逸話・伝説と共に、長く人々の語り草として伝えられているのは、これも又名歌の徳と言うものであろうか。

  蓑ひとつあると優しい名は立たず

  夕立に濡れぬは古歌を知った奴

  山吹は貸さず蔵宿傘を貸し

   第九 吉田兼好-徒然なるままに生き抜いた自由人

  二つとは雙びが岡にない草紙

 最後に室町時代を代表する文化人を一人取り上げてみたい。
 兼好法師、俗名は占部兼好。
 占部兼顕の第二子と言う。
 姓が示す通り、代々宮中に仕えて、祭祀・卜筮を業として来た家柄で、それなりに伝統や禁忌、有職故実にも詳しく、身分は低いもの、昇殿も許された、一応は名家の生まれだったようだ。
 彼自身も僅か十九歳で、六位の蔵人になり、後二条天皇の御愛顧を受けたと言うから、一族のなかでも出世の早い方だったと思あれる。

 ただ当時の皇室は、例の後嵯峨天皇の気まぐれから、後深草・亀山の両皇子が、それぞれ持明院・大覚寺と統を立てて対立し、それに伴って堂上貴族も各々党派を作り、権謀術数に明け暮れていたから、宮廷生活と言っても、決して表面に見える程優雅でも安穏でもなかったのである。
 特に文保の和談以後、両統迭立の慣行が確立されてからは、天皇の代替り毎に、宮中でも大幅な人事異動が行なわれ、その度に悲喜交々の深刻なドラマが展関されたらしい。
 後二条天皇は、後宇多天皇の第一皇子で、後伏見天皇に替わって大覚寺統の熱い与望を担って即位されたのだが、生来蒲柳の性だったらしく、僅か十七歳の若さで崩御されたのである。

 持明院統はしてやったりと花園天皇を立て、我が代の春を謳歌する一方、大覚寺統は後二条天皇の皇弟、尊治親王を皇太子として、虎視眈眈と次のチャンスを狙う気配、この皇太子こそ、後の後醍醐天皇であるとわかってみれば、それだけで当時の宮廷の人間関係の複雑さ、それ以上にまがまがしい不気味さまで思いやられて些か慄然とする。

 兼好が出家遁世を思いたった原因と言うのは、確かにこうしたとげとげしい人間の愛憎、煩悩の根深さに対する嫌悪、或いは絶望によることは確かであろう。
 ただそれが、何時、どうした機縁によってと指摘出来るような事件は、どうも見当らないのである。

「不幸に愁い沈める人の、かしらおろしなど、ふつつかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに門さしこめて、待つかたもなく明かし暮らしたる、さるかたにあらまほし」
 (徒然草第五段)

 病気とか、誰かの死とか、思いがけない人生の挫折とか、そうした外的条件の変化により、出家を思い立ったりするのは、未だ絶望の程度が浅いと言うのであろうか。

 戦乱・暴動・政治的諜略と抗争。
 こうした事件の打ち続いた時代である。
 ニヒルな風潮は一般庶民の間にも拡がっていたに違いない。
 鴨ノ長明が、「方丈記」の中で、人間の生涯を、流れに浮かぶうたかたになぞらえて居た時代なのである。

 兼好自身にしても、出籬の思いの激しさは相当なものだったらしく、徒然草の五十九段などでは、
〔大事を思い立つ以上は、あらゆる行きがかりを強引に断ち切って、只今の一念に生きる覚悟でなければならない。〕などと書いているのだが、ただ坊主になりさえすれば、全ての問題が解決するなどとは思っていなかったようである。

 彼は長明と違って、天災・人災の恐ろしさを強調し、人を脅かすようにして無常感を押しつけるような事は一度もしていない。
 むしろ彼の思想は、この絶望的な状況下で、我々はいかにして人間及び人生を全面的に肯定出来るかに関わっていたようである。

 人間の愚かしさや見苦しさが、実はその本質から来るものなら、それを否定するのも、其処から逃避するのも無益な業である。
 我々は敢えてそれに直面し、絶望しながらもそれを受け入れ、かつ愛して行く他はないのである。
「世は定めなきこそ、いみじけれ。」これが彼の到達した、究極の自由の境地だったのである。

 兼好をさして、わが国最初の弁証法的思考の実践者だとする説もあるようだが、要は余りにも激しい社会的混乱の中で、絶対的価値の体系が崩壊し、しかも尚生き続けなければならなかった人間にとって、流動する相対こそが、事物の真相、存在の本質であることを否応無しに、思い知らされたということであろう。

 こんな時、白分一人だけが救われようとすることこそ迷いだと、兼好は言うのである。

「しいて智を求め、賢を願う人の為に言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。(中略)可不可は一条なり。」
 (徒然草第三八段)

 自分に絶望し、人生に絶望した心の痛みの中から、却ってその愚昧と混乱とを、全体として肯定し、且ついつくしむ不思議な境地を、彼は自ら発見し、実証して行ったのである。
 それだけに彼には、道学者風の戒律思想が殆ど見られない。
 自然に発生する欲望ならば、全て肯定してしまうおおらかさがある。
 酒を愛し、女を愛し、坊主のくせに、
「色好まざらむをのこは、いとさうざうしく、玉のさかずき底なき心地ぞすべき…」などと、ぬけぬけと書いている。

 老醜を嫌い、
「長くとも、四十に足らぬ程にて死なむこそ、目やすかるべけれ。」(第七段)

などと言っておきながら、当人はのうのうと生き延びて、観応元年(一三五〇)六十八歳で遷化しだとされるが、これにも疑問があって、実は八十余歳まで生きていたとの説もあるのだから、呆れた話である。
 しかしこれも、彼の自由な精神の表れと見れば、案外ほほえましい感じで、許せる気になるから不思議である。

  こうした兼好的思考法は、江戸っ子には実によく解ったらしいのである。
 室町・戦国の世とは違い、天下太平の恵まれた御時世とは言え、厳重な身分制度の枠の中で、自分たちの明るい未来など、到底持ち得なかつた江戸の庶民達が、どん底に生きる者の強さで、憂き世を、浮き世と読み替えて、刹那の享楽に生命を賭ける居直り方をした時に、兼好の、この明るいニヒリズムは、何かしら遠来の友と言った親近感を与えたに違いないのである。

 川柳の方でも、放っておく訳がない。

  兼好は世に無い草の根を残し

「徒然草」の各段の内容については、色々批判はしているものの、余り反対はなく、面白味の無い作品の多い中で、

  木のはしのようで血気の僧困り

 坊主のくせに、坊主臭いのを嫌った兼好へのパロディーとしては中々鋭いし、

  徒然に鰹は食うな鯉は食へ

 生臭さものの講釈など、坊主のくせに、よく言うよと言った所であろうか。
 しかし、兼好に対する川柳で一番多いのは、「太平記」二十一巻に出てく、高ノ師直の艶書代筆事件である。

  この話は、原作は知らなくても、歌舞伎の「忠臣蔵」でお馴染みだから、今更解説も不要かも知れないが、こういう所に名前の出て来るあたりが、兼好の兼好たる所以かも知れない。

 高ノ師直と言えば、足利氏の執事の出ながら、南北朝の抗争を通じて戦功第一、幕府設立の為には、最も強力な支柱となった実力者であるが、同時に出世欲・権勢欲の権化のような性格で、力以外には何物も信じず、伝統的権威を次々に破壊して、屈伏させることを無上の楽しみとしていた、当代切っての憎まれ役だったのである、

 そういう男の許で、浮き世の絆は断ったとは言え、大覚寺統に所縁のある兼好が、幇間めいたサービスに励んでいたとしたら、あたら文人としての名声に疵がつくと言うものだが、川柳子はあまりその辺のことは拘ってはいないらしい。

 艶書の相手は出雲の守護・塩治判宮高定の北の方、「忠臣蔵」では、顔世御前と名付けられた絶世の美人。
 師直は何とかそのハートを一発で射抜くような、希代の名文を期待したのであろうが、人が熱くなればなる程、超然として涼しい顔をして見せるのが兼好である。

  兼好はあの面でかとなぐり書き

  そう旨く行けば良いがと兼好書き

  ただも居られず師直は墨を磨り

  兼好はあつかましいと後で言ひ

 その気になって書いたのではない証拠には相手の北の方、手に取り上げることもせず、そのまま立って、行ってしまったから、使いの者は止むを得ず、手紙を拾って帰って来たのだが、聞いた師直の怒るまいことか、
「イヤイヤ、物ノ用ニタタヌモノハ、手書キナリケリ。
 今日ヨリハソノ法師、コレニ寄スベカラズ。」と言ったと書いてある。
 大いに面目を失った訳だが、その蔭で兼好のニヤニヤ笑う顔が、目先にちらついて来るような話である。
 江戸っ子は勿論、兼好びいきで固まっているから、
「ナーニ、あの大通和尚がその気になれば、どんな女だって一ころなんだがね。」と信じて疑わなかつた気配がある。

  つれづれの他にまいらせ候も書き

  いでやこの世に生まれては文も書き

  兼好は中宿などもする気なり

 いっそ商売にしたら、さぞかし繁盛したであろうと言うわけである。
 それだけ、兼好と艶書という組合せには、何かぴったりした感じがあるのであろう。

 一方、附け文に失敗した師直、今度は侍従という女の手引きで、北の方が入浴なさる所を、隙見させて貰うことになった。

  はし近い湯殿塩治が落ち度なり

  からくりのように師直のぞくなり

 所が、噂には聞いていたものの、それに数倍する天来の美形、しかも完全ヌードの初公開とあって、師直そのまま床に這いつくばい、立ち上がれなくなっしまったと、「太平記」には珍しい舞文曲筆で、些か品の無いバレ話を書いている。

  およだれをお拭きなさいと侍従言ひ

  浴衣にて拭くを師直よっく見る

  据え風呂の絵は師直が描き始め

 煩悩に眼のくらんだ師直、今度は薬師寺某なる部下の援けを借りて、猛烈なアタックを敢行する。
 その折りに贈った「相聞の歌」というのが、

  返すさへ 手や触れけむと 思ふにぞ
我が文ながら 打ちもおかれず

 我々が、今読んでさえ未練たらしく、品の無い迷歌だから、それを見た北の方は、一言、
「重きが上の、小夜衣…」と言い捨てると、サッと座を立ってしまった。
 訳のわからない師直は、帰宅後、歌人の頓阿に絵解きを頼むと、
「これは新古今集巻の二十、雑の部にある十戒の歌の一つでして、
  さなきだに 重きが上の 小夜衣
わがつまならぬ つまな重ねそ
 夫の有る身に不倫の恋など、耳にするさえけがらわしい。
 真っ平御免という痛烈な肘鉄砲、到底脈は御座いませんな。」という次第。
 怒り狂った師直が、これから塩治一族を目の敵にして、遂に滅亡に追いこんで行く心理過程は、「忠臣蔵」の三段目・松の廊下の刃傷でも見て、推察して貰うよりほか仕方がない。

  小夜衣やっと判じて腹を立て

 勿論こうしだ後段のゴタゴタについては、兼好には何の責任も無い。
 それ所か、こうした細部へのこだわり、執着の深さこそ、人間の基本的な愚かさの原因であり、多くの社会的害悪の淵源だと考えていたようである。

 徒然草の第四十五段に、良覚僧正という人の話が出ている。
 気難しい頑固な人で、坊の傍らに大きな榎のあった所から、人が「榎の僧正」と呼ぶのが気にくわず、杣人を呼んで根元から伐り倒してしまった。
 
 所が世間の人は、それを面白がり、大きな切り株が残った所から、「切りくひの僧正」と言ひはやしたから、いよいよ腹を立て、今度は多くの人足を雇い、切り株を根から堀り起こして捨ててしまったのだが、堀った跡が大きな池となり、世の人は「堀池の僧正」と言ひはやしたと言うのである。

  あだ名に困った僧正一人あり

  えの木一本に三度まで腹を立て

  僧正のかんしゃく杣を呼びにやり

  切り株も堀れと僧正下知をなし

 物事に執着すれば、それだけ心は自由を失う。
 我欲・我慢の醜さ、見苦しさを、さり気ない世間話の中に、見事に描き出した、兼好の筆の冴えはさすがである。
 今一つ、徒然草の中で人気のある話は、第五十三段、仁和寺の法師が酒宴の余興に、手近にあつた「あし鼎」を取って頭に被り、即興の舞を舞って、一座の喝果を博したまでは良かったのだが、さて抜こうとするとどうにも脱げず、医者の手にも負えず、大騒ぎになると言う話である。

 馬鹿々々しいと言えばそれまでだが、その無意味さの中に、いかにも哀れで滑稽な、人間そのものの姿が見えてくる所が面白い。

  鼎舞ひ見さいなと初手は言ひ

  いよッ鼎ぶっさらいだと初手は誉め

 遊びのためなら、身代を賭けた江戸っ子である。
 こういう気持ちの解らぬ筈はないが、さてその結果となると、笑いも出来ないが、さりとて手のほどこしようもない。

  仁和寺へ鋳物師も来る外科も来る

  真言秘密でも鼎抜けばこそ

 そうこうしているうちには、頭に血が上って、顔はふくらむ、息は苦しくなる。
 遂にはものも言えなくなってしまった。

  医者へ行く鼎に犬がやたら吠え

  下疳ではないと鼎のわけ話し

  脈見れば鼎何とか言ひは言ひ

 結局は、
「生命さえ、助かるならば…」と、諸人力を合わせて無理無体に引き抜いた訳だが、
「からき命まうけて、久しく痛みいたりけり。」と、兼好の筆は最後まで冷静である。

 誠に馬鹿らしい話だが、この僧の馬鹿さ加減を、兼好は認めても居ないが、特にさげすんで居るわけでもない。

「これが人間だ。」と静かに見つめる彼の目には、既に中世的な宗教思想から解放された、ルネッサンス風な「人間発見」の情熱が感じられる。
 それは遥かに時代を隔てながら、元禄の西鶴によって受け継がれ、又一面では、芭蕉の俳諧精神の源流ともなるものであった。

 この、「ずぶとい人間肯定の精神」を、最も色濃く体現した文芸が川柳だったとすれば、彼等が兼好に対して、不思議な親近感を抱いたのは、蓋し当然だったのである。
 神代古代 飛鳥奈良 平安時代1 2 3 武士台頭 源平争乱 武家盛衰 江戸時代 戻る