江戸川柳で読む日本裏外史 高野 冬彦

  第四部 武士の勃興

第一 平 将門--敢えて逆賊となった正義漢
第二 藤原秀郷--英雄の功績と褒美との関係?
第三 源 頼光--貴族のボデイガードとしての栄光
第四 渡辺ノ綱--日本的豪傑像の原型
第五 坂田金時--経歴不明の怪童丸
第六 源 義家--新しい武門の理想像
第七 平 忠盛--辛抱が実を結ぶ律儀者
第八 西行法師--戦乱の世を一筋貫いた詩心
第九 文覚上人--恋人の死が人生を変えた荒法師

 さて、いよいよ第四部である。
 これまで随分勝手気ままに書き飛ぱして来たが、時代は未だ平安朝の半ば、通常の歴史書だったら、こんな奇妙な章の分け方をしたら、専門の先生方から、さぞかしお目玉が飛び出すだろうと想像されるが、川柳の方から言えば、いよいよこれからは、武士が主人公になる時代として、案外うまくまとまるのではないかと、勝手に納得しているのである。

 大体、江戸の町人達にとって、十二単衣という、直衣、狩衣姿の公卿貴族などと言うものは、実際に目にしたことなど殆ど無い雲の上人で、全くロマンチックな空想の世界の住人だつたはずである。
 しかし武士は違う。
 大名諸侯と直接口をきくことは無いにせよ、登下城の行列は、江戸の名物に数えられる日常的経験であり、生活面でも何らかの接触はせざるを得ない、具体的、現実的存在である。
 その風俗・習慣は勿論、ものの考え方や、倫理観なども、大体自分達と共通と言うか表面的には一応お手本となっているから、当然理解も行き届き、批判もそれだけ幸辣になる、そういつた関係が生まれていた筈である。

 川柳の作品の方でも、それだけ対象の実態に肉薄した、鋭い作品が生まれてくる筈だと思うのだが、ただ、同じ武家政治といっても、鎌倉以来既に五百年、鎧・兜のいくさ武者など見たこともない江戸ツ子達である。
 武士を見る目も、幾重にも屈折して中々本音は吐かない所もあるようだが、概して言えば、古い時代に遡るほど、本物の武士が多かったと言っているようで、それだけ同時代の侍には絶望している証拠とも見えるのである。
 ただし、慌てる乞食は貰いが少ない。
 一つ一つの実例について、これからゆっくリと鑑賞して行くことにしよう。

   第一 平将門--敢えて逆賊となった正義漢

  将門は朕の不徳とへらず口

 将門と言えば、坂東武者に生まれながら、京都の天皇政権に反抗し、自ら新しい政府を樹立して、東国の独立を計った天下の逆賊、謀反人ということになっている。
 しかし、だからと言って、許すべからざる悪人かと言うと、そう簡単には決められないようである。
 関東に新しい政府を創ったことが悪いとすると、鎌倉幕府も、徳川氏も、同様の謀反人と呼ばなければならない訳で、その関係からか、幕府はしきりに将門の弁護に努めている。
 殊に三代将軍・家光は、わざわざ将門のために、京都に勅免を申請し、その名誉の回復を計ると共に、江戸の大社、神田明神の祭神として尊崇し、その祭礼は毎年上覧に供されるとの特典を与え、赤坂の山王社と共に、天下祭りとして公認するという所まで優遇してくれたから、江戸ツ子にしてみれば、逆賊どころか、
「将門ってなァ、俺たちの親分みてえなものよ。」てな気分で見ていたような所がある。

 一体将門のどこが悪かったのかと、その気になって調べてみると、歴史的にもいろいろわからない所が出てきて、現代では、海音寺潮五郎とか、真山青果とか、将門ぴいきの作家も沢山居て、将門逆賊説は次第に影を消しそうな傾向にあるようだが、さて真相はどうだつたのか、暫らく考えてみたい。

 相馬小次郎、平ノ将門。
 家系を辿れば、桓武天皇の曽孫・高望王から出た下野権ノ守、平ノ良将の次男である。
 通説によれば、若くして京に上り、貞信公・藤原忠平に仕えていたが、当時伊予ノ橡をしていた藤原純友と相識り、共に比叡山に登って京の街を俯瞰しながら、天下討滅の大陰謀を思いたつたという事になっている。

  将門の友は遠方より来たる

 純友というのは、瀬戸内海の海賊の首領、一時は朝廷に運ばれる貢ぎ物を積んだ船は、こごとく抑留、劫略して、京都政府を震撼一せしめた梟雄である。
 将門の「天慶の乱」に対して、これを「承平の乱」と並び称しているが、両者の間に何らかの合意・連携があったという証拠は、どこにも無いようである。
 ただ伝説としては、二人を繋ぎ合わせないとどうも話が面白くならないのだ。

  じゃじゃ馬に友が出来たで事になり

  叡山で見下ろす時分塚が鳴り

 この塚というのは、坂上田村麻呂の将軍塚、天下危急の際には、自然と鳴動すると言われるものだけに、地元の比叡山での陰謀ともなれば、さぞかし喧しかったに違いない。

  下を見ておごりの出たは比叡山

  あの屋根が紫震殿だと伊予ノ橡

「俺は伊予の日振島で事をおこすから、お前は関東で、思い切リ暴れて見ろ。」などと言つたかどうかは知らないが、日本を二つに分けて、東西で謀反を起こそうなんて話は、たとえ夢物語でもちょつと壮快だから、江戸ツ子は自分たちの溜欽を下げるためにも、何となく応援をしたがっている感じがしないでもない。

  土手から星を見下ろして謀反なり

「その気持ち、わかるなァ。」と言った所であろうか。

 将門の反逆と呼ばれるものは、実際は一門の所領争いに端を発した地域的紛争に過ぎなかつたものが、地方官の無能と、中央の無策によって、大きく拡がってしまったものであることは、今日ではほぼ定説である。

 摂関政治の確立による中央の腐敗と、それを利用して、地方からの収奪に専念する国司の暴政に愛想をつかした地方豪族の一部が、
「京都なんか糞くらえだ。反逆児・将門こそ、我等の新しい主君たるべきだ。」などとおだて上げ、人の良い将門が、ついその気になったのが、この「天慶の乱」である。

 「将門記」によれば、天慶三年(九三九)一二月、将門が上野の國府を攻め落とし、味方の土豪達と祝宴を張っている所へ、一人の倡妓(遊女)が現われ、八幡大菩薩の使いと称し、
「朕の位を、蔭子平ノ将門に授け奉る。」と叫び、将門か礼拝してこれを受けた。
 その瞬間に将門政権は誕生したのだと言う。
 実は将門はこれより先、伯父の平ノ国香を始めとする一族との所領争いを通じて、その抜群の勇猛さと、淡泊で男らしい度量の広さから、次第に近隣の土豪達の信頼を集めていたのだ。
 それはやがて必然的に、中央から派遣され、貧欲な収奪を事とする國司との対立を深めて行ったのである。
 武蔵の豪族・竹芝を援けて、國守・六孫王経基と衝突し、遂にこれを追放したのを手始めに、その後は、関東一円の土豪層の先頭に立って、各地の國司との対立抗争を繰リ返し、要求実現のためには、武力の行使も敢えて辞さなかつたのだから、これは明らかに政治的反逆であリ、新しい政権樹立の野望がなかつたとは言い難いであろう。
 ただこの段階で、形骸化した京都の貴族政治をそのまま関東に移し替えると言うのでは、少々お手軽過ぎて、みっともないのではないかと、川柳子も心配したのであろう。

  住めぱ都とは将門が言い始め

  相馬公卿おっこちそうな雲の上

 詳細は不明ながら、将門はその後、新しい王城を石井に定め、各地の地方官なども任命して、政府としての体裁を整えたと言うのだが、いずれを見ても山家育ちの田舎者が、慣れぬ形の衣冠束帯で、威儀を正したりするのを見れば、これはやはり茶番以外の何者でもなかったであろう。

  参内をしろと國香を責めるなり

  何が勅使だと國香腹をたて

 勿講國香は、これより大部前に討ち死にしているのだが、心ある者の目から見れば、とんだ恥さらしと映ったことは確かである。

  相馬公卿小松菜なども引きに出る

  からたちと桃で相馬の紫虚殿

 将門の本拠地が、常陸の猿島などと言う地にあつたことも不運だつたかも知れないし、家の紋所が"繋ぎ馬"という変ったものだったことも、からかわれる原因になっているようである。

  人の真似する猿島のえせ公卿

  敷島を真似て猿島ごほりなリ

  下聡の内裏紋からしてが下卑

 さんざんであるが、この新政権、成立後僅かニケ月で、平ノ貞盛と藤原秀郷の連合軍によって焼き討ちされ、将門はあえなく戦死したと言うのだから、現実はもっと残酷だったと言うべきであろう。

  親王面でもあるめェと藤太言ひ

 ただし江戸っ子は、決して将門を見捨てたりはしなかったようである。
 大手町に残る首塚でも、また神田明神、築土八幡とか、北新宿の鎧神社等、将門由縁の神社・史蹟の多くを見るにつけ、彼等が将門を「我等の祖先」と考え、その武勇と侠気を讃える気風は、色濃く残っているように思われるのだ。
 将門の怨みを引き継いで行く娘、滝夜叉姫の伝説などにしても、その現れの一つかとも思うが、今は少しく視点を換えて、将門を倒した相手方の、藤原秀郷について考えてみることにしたい。

   第二 藤原秀郷--英雄の功績と褒美との関係?

  七巻きと七変化とを藤太射る

 陸奥の鎮守府将軍にして東北の覇者。
 平泉の中尊寺や光堂の建立で名高い、奥州藤原氏の始祖…などとくだくだ言っているよりも、お伽草紙の「俵藤太物語」の主人公と言った方が早い。
 伝説的英雄を倒すには、倒す側も又、伝説的な勇者でなければならないとする好例の一つである。
 秀郷の家系を尋ねると、藤原北家の中でも、左大臣魚名の末商で、下野の國司に任命されたのが、そのまま土着した裔である。
 本人も下野の橡から、押領使に任じられているが、若い頃には上官に反抗して、罪せられたこともあり、中々一筋縄では行かない人物だつたことは確かである。
 そんな秀郷が例の任官運動のため、京の堂上方の邸に勤仕して、久方ぶりに故郷に還えろうとした下向道、近江の琵琶潮、瀬田の長橋にさしかかると、橋の真ん中に巨大な蛇がドデンと横たわっていたと言うのである。
 諸人怖じけをふるって、誰一人近付く者もなく、遠巻きにして騒いでいるのを見ると、そこは当代無双の勇士、ちっともためらわず進み出て、ノッシノッシと大蛇の背中を踏みつけて、橋を渡ってしまった。
 所がその途端に、大蛇の姿ぱ忽然と消え失せ、今度は美しい姫君となって、
「貴方のようなお方をお待ちして居りました。勇士と見込んで、是非ともお願いが…」ということになるのである。

  長いものに巻かれぬは藤太なり

  弓取りに乙姫たのむ瀬田の橋

 この女性、実は竹生島の水底に棲む竜神の娘で、その語る所によれば、近ごろ三上山に巨大な百足(むかで)の化物が出現、竜宮は今や危急存亡の瀬戸際、誰か勇者の助力を得て、この敵を倒したいと、思い付いたのが肝試しの大蛇の趣向、幸い貴方のような豪傑に巡り会えたからは、是非にも私どものために、一臂のお力添えを…と頼まれては、英雄・豪傑と言われるような人種は、とても断ったり出来るものではない。
「いでや、身どもの弓勢の程を御覧ぜよ」と無闇にはりきって乗り出した。
 所が相手の百足というのが、何しろ三上山を七巻き半するという大変な代物、表面の皮が鉄の板ほども固くなっていて、いくら失を打ちこんでも、カーンと弾き返してしまう。
「南無三、こは一大事・・・」と思つたが、そこは豪傑、咄嵯の間に頭を働かせると、次の矢の鏃に、口中の唾液をたっぷりと塗り付けて、
「これなら、どうじや。」と打ち込むと、案の定、目と目の真ん中に深々とつきさって、こっれが教命傷となったと言う。
 つばきにそんな科学的効能があろうとは、ファーブルも知らなかった世紀の発見であった。

  三上山まではその日に死にきれず

  秀郷に帯を解かれし三上山

 秀郷の武勇に感動した竜宮では、早速最初の姫君をお礼の使者として、三つの宝物を彼の許に送って来た。
 一、いくら裁っても、尽きることのない巻絹 二巻
 一、いくら出しても、尽きることなく米の出てくる俵 一俵
 一、いくら食べても、後から後から料理の出てくる赤銅の鍋 一個
 何となくグリム童話を思わせる内容である。
 この不思議な俵のおかげで、俵藤太と呼ぶに至つたと言うのだが、これは間違い。
 本当は、彼の一族の根拠地が、近江國、栗太郡田原の荘にあったためで、逆にこの名前から、俵の伝説が生まれたらしい。
 真相というものは、何時でもつまらないものである。

 所で、話にはまだ続きがある。
 竜宮の姫君は、此等の贈り物をした上で、
「永年の宿敵を倒して頂き、一門眷属の喜び、これに過ぎるものなく、是非一度竜宮にお招き申したく、何率お闘き入れを…」という次第で、美女の案内に従って竜宮への探訪旅行が行なわれる。
 但しお伽草紙による竜宮の描写は至極平凡でつまらない。

  藤太様御入りと海月門を開け

  珍しさ竜宮米を藤太食い

  浦島は無事かと藤太たずねられ

 さんざん御馳走になった上に、今回も又新しい贈り物として、黄金の札をおどした鎧、黄金作りの太刀のほかに、むかし舐園精舎の霊域で鳴らされた鐘を、そのまま写した釣鐘を土産にくれたと言うから丁寧である。

  竜宮は何ぞか土産くれる所

  これは種々御丁寧なと俵藤太

 お伽草紙では、藤太もさすがにもて余し、
「此れ程の重き品々、いかに運ぶべき?」と文句を言っているが、竜王は、
「左様なことは、全て当方の手で、」とか何とか、適当に誤魔化している。

  海坊主持ちにしやれと藤太言い

  水際で藤太土産に大こまり

 竜宮の使いの者たちが帰ってしまった後、さてどうやつて引っ張り上げたか知らないが、この吊り鐘、結局は三井の園城寺に奉納され、一撞き毎に諸行無常の理を、人々の心に響かせていると、お伽草紙は説いている。

  一景は竜宮にまで響いてる

  越後屋の寺へ秀郷鐘をあげ

 三井寺と聞くと、直ぐに越後屋の寺と考えるのは、江戸ツ子の酒落か、それとも無知か、はっきりとはしないが、とにかく越後屋を上回るほどの金があり、武器があり、その上に力もあるとすれば、天下に名を上げる為にぱ、あとはチャンスだけだつた訳で、それが「天慶の乱」であり、犠牲になった将門には、大変気の毒な次第だったという訳なのである。
 「俵藤太物語」によれば、秀郷も一時は将門に加担して、関東独立の夢を描いたこともあつたらしい。
 下野の押領使として、関東の情勢をつぶさに観望していた駅だから、その位のことはあっても当然であろう。
 しかし、一度相馬に将門を訪ねてみて、ガッカリしたのだという。
 彼が将門の邸に案内を申し入れた時、将門は大喜びをしたらしい。
 かねてから、武勇の誉れ高い秀郷との協カを切望していたからである。
 折から風昌上ガりか何かで、髪を梳っていたのに、それを結びもあえず、片手に握つたまま、しかも白い下着のままで、中門まで駆け出して迎え入れたと言う。
 我々現代人の目から見れば、誠に気取りの無い爽やかな態度で、男同志胸襟を開いて語るにふさわしい性格と見えるのだが、秀郷には、どうにも軽々しいと映ったらしい。
 更に、一緒に食事をすることになつた時、将門はしきりに飯粒をこぼし、しかもそれを、自分で拾って口に入れたというのである。
 秀郷は、"その粗野にして、品のないことは、到底天下を取る器にあらず、又共に語るに足る人物ではない。"と見抜いて、協力を断念したと言う。

  将門は愛想すぎて見限られ

  めし時や髪を結う時藤太来る

  秀郷は頭見い見いあいさつし

 こうした話を読んでいると、どうも秀郷の貴族趣味が鼻につく感じだが、その秀郷、さて将門を見限ったものの、今度はどうしたら将門が倒せるかと調べてみると、これが又、実に大変な仕事だという事が解つて来た。
 何しろ将門という男、戦場では常に六人の影武者と言うか、影そのもののような存在に囲まれ、しかも全身これ鉄で覆われ、何処にも矢の立つ所の無い、不死身の怪物だと言うのである。
 どうしたらよいか迷つた末に、将門の屋形に住む小宰相の局という女に言い寄り、彼女の口から将門の秘密を聞き出すことに成功する。
 即ち六人の影と言っても、自分から動くのは将門自身しかないこと、全身鉄で出来ているようでも、こめかみだけは唯一の弱点として残されていると言うのである。
 日本でもアキレスの腱はあったのである。

  運の尽き俵に米を見つけられ

  ぐるをやめにしてこめかみをねらう也

  生き馬の目を秀郷は抜いた人

 かくして天慶三年(九四〇)二月一四日、秀郷と平ノ貞盛の違合軍に急襲された将門は、奮戦の末、三八歳を一期に討ち死にをする。
 これに組した一味徒党も、それぞれに悲惨な末路を辿る中に、秀郷は一人、かねての望み通り鎮守府将軍に任ぜられ、平泉の繁栄に向かって、栄光の礎を築いていった訳だが、かくて万事めでたしめでたしとばかりは行かなかったようである。

 将門の首は、その後京に送られ、刑場に晒されたのだが、一月を経ても色を変えず、時々歯を噛み鳴らして怒りの形相を示し、人々を震え上がらせたとか、藤六という男が、

  将門は こめかみよりぞ 射られけり
俵藤太が はかりごとして

と狂歌を詠むと、ニヤリと笑って、それからは死人の色に変わったという話が、古く「平治物語」に出ている。
 これは、俵藤太伝説の成立の古さを示すも一のではあるが、同時に将門の怨霊説話の普及の広さをも語るものと言えるであろう。

 江戸ツ子の"将門びいき"は前にも書いたことだが、関東一円の民衆による"将門崇拝"は、更に広く、且つ根深いものがあるらしく、茨城県岩井市の「国王神社」をはじめ、沢山の将門遺蹟、また岩井市の延命院その他に見られる、密かに将門に模した石像などを祀る「隠れ将門」の伝承など、調べてみれば数え切れない程あると言われているのに対して、俵藤太については、そうした現象は殆ど見ら九ないのは、如何にも残念である。
 歴史に対する民衆の眼の奥深さと言うものを、今更のように感じさせる好例と言えるかも知れない。

   第三 源 頼光--貴族のボディガードとしての栄光

  下戸の子に上戸つぶれた大江山

 武士も、その社会的地位の向上につれて、どうしても家系とか、家柄とかの問題が起こってくる。
 その初期の段階におけるエリートが、この人だつたと言って良い。
 清和天皇に始まる源氏の嫡流。
 例の将門にひどい目にあわされた、六孫王経基の子で、摂津の多田源氏の始祖・源満仲の長男である。
 満仲と言う以上、大方下戸だつたろうというのは、川柳子の駄酒落趣味によるもので、実際は煮ても焼いても食えない、狡猾なリアリスト.だつたらしい。
 有名な「安和の変」で光源氏のモデルか?とも言われる源高明を失脚させ、藤原氏の摂関政治完成のきつかけを作ったのは、もとはこの男の密告に始まったと言われているのである。
 頼光自身も、正史の上でば藤原道長の腹心として、しきりに賄賂を使って諸国の受領を歴任しながら、金と武力を蓄えつつ、勢力を伸ばして行った出世主義者という印象が強いのであるが、こうしだ努力がなければ、武士の社会的進出もなかった訳で、武士の立場からすれぱ、間違いなく新しい時代の指導者だったのである。
 さればこそ、彼の周辺には"武門の棟梁"としての名声や、伝説的な功業の数々が、星のように飾られて、何時しか理想の武士というイメージにまで発展して行ったのであろう。
 此処ではその幾つかを緒介して置く。

 第一には、彼は生来の武人であって、特に弓にかけてはその技、神に入る名人だったという伝承である。
 その証拠としては、次のような話が伝えられている。
 一夜、彼の夢枕に一人の美女が現われたと言う。
 しかもその言に曰く、
「妾は元来、中国の者で、かの春秋時代、楚の國で弓聖と謳われた養由基(ようゆうき)の娘、舛花女(しょうかじょ)という者である。
 父は自ら弓術の奥義を極めながら、それを伝えるべき弟子に恵まれず、その無念さが、死後もよみ路の障りとなつていたのだが、今遠い日本に生まれたあなたを見て、自分の後継者はこの人を措いては無いと考え、妾を使者として遣わしたのです。
 .師弟の契りを結ぶ証しとして、父の使っていた弓と矢を、あなたに贈ります。夢々疑うことなかれ。」てなことを言って立ち去ったと言う。
 ハッとして目覚めてみると、言葉に違わず枕許に、一張の弓と二本の矢があり、弓には「雷上動」、失には「水破・兵破」の銘が彫られてあつた。
 勿論この弓矢はその後、源氏累代の重宝として伝えられたのである。

  養由の一番弟子は日本人

  日本へ唐の娘が矢の使い

 とにかく規模の大きい話である。
 楚の養由と言えぱ、百歩を隔てて柳の葉を射通し、弓の調子を整えただけで、樹上の猿が悲鳴をあげたという大名人である。
 その唯一の弟子に、日本人が選ばれたというのは悪い気はしないが、ただ使者の舛花女が、通訳も無しに、よく日本語が話せたなと、それだけが気掛かりである。

  弓杖でこれ頼光よ頼光よ

  頼光は起きると弓を引いてみる

  頼光の武具はあらましもらい物

 しかし、頼光の武名を確固不動のものにしたのは、何と云っても大江山の鬼退治、有名な「酒顛童子」の伝説として、お伽草子に出てくる話しである。

 僕の子供時代、小学唱歌に「大江山」というのがあつた。

  「昔 丹波の 大江山 鬼ども 多く こもり居て
  都に 出ては 入を喰い 金や 宝を 盗みゆく」

 まだあの頃は、鬼とか、人さらいとか言うものが、多少は現実性をもって、子供の世界に影を落としていたのだと、懐かしい気がするが、現代の子供たちには、鬼という言葉からして、解説を要するに違いない。
 そこで此処では、敢えて原型に戻って、鬼の語を丁寧に進めることにしたい。

 京都で名高い、池田中納言國隆卿の一人娘が、突然何者かに誘拐されて行方不明になる。
 そんな所からこの話しは始まるのである。
 現代なら、営利誘拐の線で捜索が始まる所だが、当時ば勿論そんなことは考えない。
 陰陽師の占いによって解ったことは、丹波の國、大江山に棲む「酒顛童子」という鬼の仕業で、犠牲者はこの他にも、貴族の娘だけで十数人、人々は恐怖におののきながら、どうすることも出来ずに、嘆き悲しんでいるぱかりだと言う話しなのである。
 捨ててはおけぬと、帝の勅諚が下って、源氏の棟梁、頼光に鬼退治の重任が課せられることになった。
 しかしながら、いかに武芸に長じた頼光といえども、相手は飛行自在の神通力を備えた怪物である。
 簡単に討ち取ることが出来るとも思えないが、勅命は抗し難く、有名な四天王に平井保昌を加えて主従六人、山伏の姿に身をやつして出発した。

  頼光は煎り豆などを用意させ

 節分の鬼やらいではあるまいし、まさかとはおもうが、用意万端整えて、一同が目指した大江山と言うのは、一体何処にあったかと言うと、実はこれに二つの説があって、山城と丹波の国境をなす老の坂一帯を言うとするものと、丹波と丹後の境にある、千丈ヶ岳一帯を指すとするものとあつて、中々確定しないらしい。
 但し近年は後者の方が有カらしく、宮津から福知山行きのバスの路線には、記念碑が建ち、付近を歩けば、鬼の茶屋、童子屋敷、鬼の岩屋など、伝説に基づく遺蹟が一面に散在している。

  四天王金剛杖でいがを剥き

 この地方は、水上勉の小説にもある通り、現在でも鄙びた所だが、まして千年以上も昔のことである。
 正しく人跡未踏の地に踏み込んだ訳だ,か、その深山で、怪しげな庵に棲む三人の老人にぶつかったのである。
「さては、変化・魔性のものか?」と警戒したのだが、老人たちは一行に酒食を供し、一夜の宿を許してくれた上に、
「鬼,どもば生来の酒好きで、そのため名も酒顛童子などと称しているくらい。
 それにつけ入り、かの岩屋に入ったら、何とかこの酒を彼等に呑ませなさい。
 忽ち手足の自由を失い、必ず退治出来るはずじゃ。」と、神変鬼毒酒なるものを授けてくれたのである。
「これは、かたじけなし。」と勇み立ったのだが、実はこの翁たち、住吉・八帽・熊野の三神の化身だつだと言うのだから、頼光たちも運が良い。
 なおも険路を上って行くと、音に名高い千丈の滝。
 そこで品の良い娘が、血に染まった帷子を洗っているのにぶつかる。
 立ち寄って素性を訊ねると、これが花園中納言の姫君で、涙ながらに物語る所によれぱ、
「鬼たちは、都から顔よき娘をさらって来ると、暫らく籠愛した後に、血は絞って酒となし、肉は裂いて肴として、結局は殺してしまう。
 今朝も堀河の姫君が血を絞られて、その衣を今こうして洗っているのです。」
 今時の子供向けの書物では、こんな残酷な場面は全部カットらしいが、そのために子供の残酷さが少しでも減った様子も見えないようだし、今回は原作通リに書いておく。

  鬼は留守かと洗濯に網は聞き

  大江山美しいのを食い残し

 誠に沙汰の限りと、慣り心頭に発した一同、女の案内で、遂に鬼の岩屋に入り込む。

  祭文を語らっしゃいと童子言い

  茨木も見たようだとは思えども

  陀羅助をねだられている四天王

 陀羅助(だらすけ)と言うのは、和州大峯山で出す薬だ.から、修験者なら必ず持っているはずだし、祭文語りなら、それでもいいと、さすがに鬼たちも一応は疑っていたらしいが、その後は易々と内へ招じ入れて、宴会の仲聞入りをさせてくれたのだから、だまし討ちをする頼光に較べたら、余程人が好かったと言えるかも知れない。
 ただしこの宴会、肴に人間の刺身が出たりして、これには四天王も閉口したらしい、

  頼光は一切れやっとうのみにし

 頃合いを見計らって、例の鬼毒酒を笈の中から取り出して、鬼たちにすすめると、効果は覿面、鬼どもは忽ち酔い倒れて正体なし。

  二三杯欲むと茨木頭痛がし

  四天王隣へさして舌を出し

  頼光も鬼,が下戸ならどうだろう

 "時こそ来たれ!"と鎧・兜に身を固め、鬼どもを切って廻るのだが、しびれ薬がきいていて、手足が動かないと言うのだから楽なものである。
 まして親分の「酒顛童子」に対しては、先程の三神がまたしても姿を現し、手足に鎖をからませ、身動き出来ないようにしてくれたと言うのだから、これでは折角の頼光の武勇も、全く見せ場が無かったわけである。
 ただ、酒顛童子はさすがに鬼の首領、手足を縛られながらも、怒りの形相物凄く、遂に首を切られると、その途端、首はそのまま飛び上がり、頼光の頭にかぶりつこうとしたが、兜の鍬形が邪魔をして漸くこと無きを得たと言う。

  上あごへ鬼鍬形のとげを立て

 武勇譚にしては、見せ場の少なかっだ頼光だが、我士が単なる貴族の番犬でなく、勅命を奉じて異形の夷賊を掃討するという、社会的任務を自覚し、実践し始めた事件としては、案外重要なものだったかも知れない。
 特に数百、数千の軍隊を指揮しての戦争でなく、桃太郎式の小規模な冒険物謡であつた点でも、なんとなく愛敬があって、川柳子も、美しい姫君を伴っての凱旋を、明るい空想の中に描いているようである。

  退治してから足弱の連れが出来

  頼光は肝入りほどに連れ帰り

  酒くさい首を都へ土産にし

  四天王首実検に角を持ち

 頼光にはこの他にも、蜘蛛の精に苦しめられる話しがある。
 謡曲「土蜘」から、歌舞伎にも写されて、蜘蛛が糸を投げ掛ける踊りの振りで、記憶には残るが、内容から言うと、余り面白いものではない。
 葛城山に年を経た「土蜘蛛」の精が、
「君が代に障りをなさんとするに当り、先ず頼光をとり殺さんとした。」というだけの話しで、つまり頼光は、その武勇によって、社会の安寧を保証する柱石の役割を果たしていた訳である。
 勿論こうしだ武士のあり方についての思索が、或る程度まとまって来るのは、大分後のことだが、その最初の理想像として頼光が選ぱれ、次第に大きく祭り上げられて行く様子がうかがわれて、それなりに面白い。
 但し話の方は、それ以外何の曲折もなく、結局の所つまらないものである。

  頼光へ出たはささがにどこでなし

  四天王寄って闇くも押えつけ

   第四 渡辺ノ綱--日本的豪傑像の原型

  四天王腕を返して首を取り

 頼光の人気の過半ば、実はその家臣団、所謂「四天王」の人気に負う所が多いと思われる。
 少なくとも後世、四人が一組になって活躍する集団があれば、すぐに「○○の四天王」と呼びたがる傾向を生んだのは、この頼光の四天王以来のことである。
 その名を挙げれば、渡辺ノ綱、坂田金時、碓水貞光、占部季武の四人であるが、始めの二人に較べると、後の二人はどうも影が薄い。
 此処では特に渡辺ノ綱を中心に取り上げて見ることにする。
 渡辺源次網、源ノ(あてる)の次男である。
 ちょっと変わった名前のようだが、嵯蛾源氏では、伝統として一字名を用いることになっていたからで、それが解れば、家系の方も大体見当がつく。
 摂津の渡辺に住んだので、所の名を取って姓としたが、決して上方贅六ではない。
 父の宛は武蔵守をつとめ、箕田ノ源太と呼ばれていたが、その箕田というのは、現在の東京、港区の三田と考えられ、付近には今も"網坂"などの地名が残っている。
「なんだ、それじゃ江戸ッ子じゃねえか」と川柳子には人気があったようである。

  魚籃近くかと頼光は問ひ給ひ

  氏神は八幡と網申し上げ

 さて、この網が一躍有名になったのは、何と言っても羅生門における鬼の腕切り事件。
 謡曲「羅生門」や、「太平記」の剣の巻に詳しいが、春雨の一夜、頼光の御前での酒宴の最中、平井保昌の噂話に、都の正門、羅生門に鬼が棲んで、人々は怖れて近寄らぬと言うのを耳にするや、
「王城の地に許し難き怪事、聞き捨てにすべからず」とばかり、単身実否の検証に飛び出して行つたのである。
 こういう所が江戸ッ子らしいと言うことになりそうだが、やってきた九条の辺は、都と言っても荒れ放題、しかも春とは言え雨の夜更け、頼光から預かつたっしるしの金札を建てようとすると、後から太い腕が兜の綴を掴んで、グイと引つ張ったと言う。
「すばや、鬼神!」と太刀を抜き、壇から飛ぴ下り身構えれば、鬼は鉄杖を以て打って掛かるのを、飛び違いざまにその片腕を切り落としたので、以後この刀を「鬼切丸」と呼び、その後源家の家宝になったと言う。
 以上は謡曲「羅生門」からの受け売りだが、太平記の方では、場所が一条戻り橋となっているだけでなく、鬼は馬に乗った綱の襟首を捉えて、黒雲の中に引き上げようとするのを、抜く手も見せず切り落としたことになっている。
 怪異譚の形としては、後者の方がスリルがあって面白いらしく、後世の説話では、大抵こちらを採用しているようだが、いずれにしても大手柄だった訳である。

  ただ今帰りましたと腕持参

  これでこう掴みましたと綱話し

  渡邉は手持ち無沙汰でなく帰り

 頼光を始め、一同感嘆の声を上げたのは言うまでもないが、こういう話しは拡がるのも速い。
 忽ち京の町だけでなく、近隣諸国の大評判になってしまった。

  江戸者が九条通りの道をあけ

  江戸ッ子にしてはと綱は賞められる

  札を見に九条通りをぞうろぞろ

 口先だけではない江戸ッ子豪傑の評判は、一躍天下に鳴り響いたのである。
 一方、腕を切り落とされた鬼神は、愛宕山に棲む茨木童子という鬼であっだ。
 そして、後に頼光に退治さ机る「酒顛童子」の子分の中でも、有数な副将格の大物であったと言うから、鬼の戸籍調べも、知らぬ間に随分進んでいたようである。

  大江山出見世の享主不慮の怪我

  弓手には外科をさらって大江山

 どういう治療をしたかは知らないが、霍乱どころか、前例の無い重傷で、すっかり沽券を下げてしまった。
 疵は癒えても、片腕の鬼なんてものは、どうにも様にならない。

  手ばなをば茨木童子かみ始め

  茨木はのびを一本半分し

 「おのれ渡辺…、今に見よ。」と、牙を噛んで口惜しがつた。
 さて一方、渡辺の方は、安倍清明の忠告もあって精進潔斎、行いを謹んで謹慎していると、摂津の所領に住んでいた綱の伯母が、都の評判を伝え聞いて、見舞いかたがた訪ねて来た。
 物忌み中ではあったが、無下に追い返す訳にもゆかず、内へ招じいれて物語などするうちに、かの鬼の腕を見たいとたっての願い。
 止むを得ず、深く秘匿していた一物を取り出し、一覧に供すると、穏やかな伯母の相貌たちまちに変じて悪鬼の正体を現し、腕を掴んで、飛び上がつだ。
 「曲者、やらじ!」と追い掛けたが、鬼は軒の破風を突き破って、虚空はるかに消え失せたと言う。
 歌舞伎などでもお馴染みの名場面で、誰でも一度や二度は見たことのある所だから、川柳でも当然、多くの作品が作られている。

  懐手したのに綱は気が付かず

  わしはもう案じてのやと綱が伯母

  網の伯母見しゃれ見しゃれと角めだち

  ああも似るものかと網は口惜しがり

 なお、追いつめたと思つたのに、破風を破って逃げられたことについては、

  まず菰でふさいでおけと綱ば言い

  三人へ面目ないと破風をやめ

 ということで、その後波辺党では、代々家の軒に破風を付けないことにしたと伝えられている。
 取り戻した腕がもと通りついたかどうか、それも不明だし、何か大変勇ましいようで、どこかとぼけて間の抜けている感じは、これこそ日本的豪傑談の原型という気がするのだが、どうだろうか?又、鬼が女に化けてくるというスタイルは、その後も、「大森彦七」とか、「紅葉狩」、その他、幾多の変化を重ねつつ、発展したようで、最後には華の歓楽街・吉原で、羅生門河岸などと言う地域を生み出すに至るのである。
 恐るべき鬼女達が、むんずと襟首を掴まえて、いや応無しに切り見世に引きずり込むという恐怖の世界というのだろうが、やはり江戸ツ子ならではの酒落である。
 綱もとんだ有名税を払わされたものである。

  羅生門腕を抜かれるかと恩い

  母の片腕羅生門つとめてる

   第五 坂田金時--経歴不明の怪童丸

  金時は親類書きに困るなり

 事のついでに金太郎君に触れてみたいと思うのだが、これ程有名な癖に、これ程正体不明な人物も少ないようだ。
 童謡にもある通り、"熊にまたがり、お馬の稽古。
 "とか、熊とお相撲を取った期間だけが、あざやかに伝えられている癖に、その前もその後も混沌として歴吏の闇に沈んでいる。
 珍らしいと言えば、言えるかも知れない。

  強いのもむべ山姥の子じゃものを

 頼光の四天王の一人、坂田金時の名は、既に「今昔物語」にも出ていて、実在の人物だったことは確かであるが、その剛勇ぶりが多くの伝説を生み、反って真偽不明となる例も少なくはない。
 彼の場合もそれに近く、比較的詳しい井沢長秀の「広益俗説弁」によれば、次のようになっている。
 天延四年(九七六)、頼光が上総からの帰洛の途中、相模の足柄山にかかると、向かいの尾根に赤い雲気の上るのが見えたと言う。
「かかる霊気の生ずるは、人傑のその地に在る徴しに相違ない。」と考え、渡辺綱に命じて探索させると、あやしの茅屋に六十余りの老婆と、二十ばかりの童形の若者が住んでいるのを発見した。
 その素性を訊ねると、
「名もない山がつながら、実はある日、この山の頂きで休息の折から、一匹の赤い竜が降りてきて、胎内に入ったと夢に見て、間もなく懐妊、生まれたのがこの子で、今年二十一歳でございます。」との話。
 頼光が見ると、全身朱を塗ったように赤く、眼光射るが如く、確かに凡人にあらざる面だましいと見えたから、
「この者を、予に預けるがよい。
 必ず海内無双の武士に育ててとらそう。」と約束して、家臣にしたというのである。
 ただ、これを読んで困るのは、たとえ童形とは言え、二十一才というのは、少々イメージダウンで、ここはやはり十才前後の子供にしてくれないと様にならない。
 同時に母親も、三十才前後の美女に変わり、通力によって、山から山をめぐり歩く山姥の伝説と結びついて行ったらしい。
 但しこれが、元気な怪童丸を伴った、濃艶な山姫の姿にまで発展するのは、近松門左衛門の「(こもち)山姥」その他の、浄瑠璃、歌舞伎の名作による、多くの脚色が加えられた後のことである。

  熊こいこいと山姥はしいをやり

  金坊はどうしましたと狩人聞き

 所で、山姥と言うのは、山神に仕える女性で、民話の中では、人間を食べる恐ろしい鬼女として扱われることが多いが、時には人なつかしい、優しい側面を見せることもあって、中々一定しないのである。
 おおよその観念しては、背の高い、色じろの女で、怒ると口が耳まで裂ける恐ろしい顔になるが、時には人を恋しがり、山小屋に入りこんだり、炉の火にあたらせてほしいと言って来たり、愛すべき性格も持っているのである。
 女である以上、子供も生むし、それを愛することも人間以上で、山姥の子育て岩とか、子守の樹とかいう伝説は、全国に散在しているようである。
 この野性のままの逞しい美女と、丸々ふとった子供との組合せというのは、一種独特のエロチシズムを感じさせるようで、喜多川歌麿を始めとして、多くの浮世絵の題材になっているのは、女性の美しさというのば、元来原始的母性から発しているからだとする学説を、そのまま裏書きしているようにも思えるのだが、果たして読者はどう思われるであろか?

  足柄で頼光無宿召し抱え

  まさかりとどてら一つで抱えられ

 かくて、頼光の家臣団、しかも四天王の一人として取り立てられるのだが、金太郎の特色としては、色の赤いことで、これは雷神の子供だという証拠なのだそうである。
 中国では雷神は、赤色の少童の形で現れるそうで、その時武器として、(まさかり)を持っていると言う。
 そう言えば、金太郎に鉞はつきものである。

  灸点のとび色になる金太郎

 赤竜の申し子で、その上雷神の生まれ変わりとあれば、強いという点では、正真の折り紙つき、さぞかし大活躍をするであろうと思うのだが、その割には目立った働きをしていないのである。

  金時が行きそうな所羅生門

 何しろ肝腎の所へ、どうも出てこないのである。
 大江山にも、当然出掛けているのだが、これと言つた功名は揚げていないから、川柳子もいらいらして、

  金時は鬼が出ないと寝かしもの

 などと贔屓の引き倒しをやらかしている。
 しかし考えて見れば、どてらに鉞で、あれ程可愛しかった金太郎が、烏帽子、直垂で、髭を食いそらし、弓や大太刀を振り回してみても、何か人生の無常を感じさせるようで、
 「金太郎はやはり子供のままで置きたかったよ。」などと贅沢を言うのが、人間というものなのであろう。
 そのせいか、多くの小説家、脚本作家たちも、成人した金太郎を、効果的に活躍させる舞台を遂に創造し得ないままに、坂田金時は、歴史の闇の中に消えてしまった訳で、伝説的人物にも、いろんな幸・.不幸がある訳である。
 そう言えば江戸時代の始め、庶民にもてはやされた、きんぴら本とか、きんぴら浄瑠璃などと呼ばれた、一連の物語がある。
 その主人公・坂田ノ金平なる人物は、設定では金時の子供ということになっているが、実はあれこそ、成人した坂田ノ金時にかけた、人々の夢だつたに違いないのである。
 伝説の運命と言うものが、見えてくる感じがしないでもない。

   第六 源 義家--新しい武門の理想像

  文と武を兼ねた勿来なこその山桜

 いよいよ八幡太郎の登場である。
 武士の勃興と題したこの章に、この人の名を逸する訳にはいかないのだが、残された逸話・伝承などを見ると、少々立派過ぎて困ってしまう。
 結局川柳にならないのである。
 仕方がないから、この人を中心として、当時の事件・周辺の人物などを拾いながら書いてみることにする。
 義家は先に書いた源ノ頼光の弟、頼信に始まる河内源氏の系統で、陸奥守頼義の長男である。
 七才の時、石清水八幡宮の神前で元服、以後八幡太郎と称されたと言う。
 次男、義綱は加茂神社で元服して、加茂次郎、三男の義光は新羅明神の神前を借りて、新羅三郎と呼ばれたと言う。
 この三社と源氏との関係は何だつたのか?
 そこを研究すると、源氏の秘密に追ることガ出来ると主張する学者もあり、大いに興味をそそられることも確かだが、今回は全て後回しということにしたい。
 頼信・頼義も優れ武将であったが、義家も根っからの武人で、特に騎射の技は入神の誉れが高く、「古今著聞集」によれば、雁股の矢で狐を射た際、両耳の間をすれすれに射抜き、傷つけることなく、狐を気絶させたと伝えられている程である。
 また、武芸の他にも学問にも心を傾け、大江匡房に師事するかと思えば、和歌についても造詣が深く、奥州討伐の折り、勿来の関で、

  吹く風を 勿来の関と思えども
道も()に散る 山さくらかな

の一首は、当代屈指の名歌として、もてはやされたものである。

  名将の名こそ世に散る関の花

 こうした教養の高さが、武士にも望まれるということは、それだけ武士の社会的地位の高まった証拠で、単に鬼だの、盗賊だのを捕えて喜んでいるのでなく、真に国家の安危に係わる大事件を、その責任において解決する能力が求められて来たからであろう。
 永承六年(一〇五一)に始まる奥州の動乱は、俘囚の長と言われた安倍一族が、陸奥六郡の分離独立を計った運動で、京都の朝廷としては、絶対に容認出来ないものであつた。
 さればこそ、平ノ忠常の乱を平定して、武勇の誉れ高い源頼義を起用、鎮圧の任に当たらせたわけだが、安倍氏の側でも、頼時を中心に、その子貞任・宗任等一族の結束は固く、部下の勇猛さもあって、戦は容易に決着を見なかつたのである。
 歴史上一般には「前九年の役」と呼ばれているが、実際には更に長く、前後十二年を要したのである。
 その上に、安倍氏が滅亡して一息いれたかと思うと、今度は鎮守府将軍、清原家の内訌が昂じて、「後三年の役」となる訳だが、乎和になれた江戸町民の目から見れば、
「よくもまァ飽きもしねえで、何時までも戦さがやれたもんだ…」と、まずその長さに呆れるらしい。
 その点は、戦争を知らない現代の若者と、共通する一面があるかも知れない。
 一度調査してみるのも面白い。

  排おどしも柿色になる前九年

  具足のつくろひと歩く前九年

  これでもう二領着切ると前九年

 武具の消耗も激しかったろうと言う訳だが、それ以上に、家を離れての長年の滞陣が、人間の心をどう変えるか、その辺にも興味を示しているようで、

  前九年年賦のように首をとり

  枕絵の裏打ちをする前九年

  前九年後家にせぬのが土産なり

 まあ、命あっての物種という所であろう。

  凱陣の時は奥州言葉なり

  さァ上るべいと頼義御凱陣

 従軍が余りに長過ぎて、言葉までズーズー弁になってしまったと言うのに、又しても後三年の役である。

  雑兵はまた来ましたと後三年

  諸事前の通りと触れる後三年

  案内が知れて六年早く勝ち

  十二支が出切り奥州御凱陣

 合計十二年も戦塵にまみれて暮らしたら、確かに厭戦思想も生まれるかもしれないが、反面生死を共にした人間同志の友情、結びつきと言うものは、独特の美しさを生むことも事実である。
 この時、源氏に味方した関東武士団の間には、後に武士道にまで発展する武人の倫理、「つわものの道」と呼ばれる道徳原理が形成されて行ったというのも、よく解る話である。
 武勇、信義、廉恥、度量、言葉では色々に別れるが、それらを一つにした、いかにも男性的で清潔な人間像が、自然に形成されて行つたのだが、その代表と言って良い人物に、鎌倉権五郎景正が居た。
 彼は相模の出身で、この戦の始まった頃は、僅か十六才で参陣したのだが、その剛勇ぶりを伝えるものとして、次のような話が残っている。
 ある日乱戦の中で、敵の失が彼の右の目に突きささった。
 それにも屈せず彼は、その敵を追い詰め、首を取って帰陣すると、草の上にドウと引っ繰り返った。
 同郷の三浦為次が見兼ねて、その失を引き抜こうと、顔に足をかけた所、景正は跳ね起きて、
「弓失で死ぬのは武士の習いだが、顔を土足で踏まれるのは、男の恥辱だ。
 敢えてやるなら命を貰う。
 その覚悟でやるがいい。」と刀を構えたから、三浦は驚いて謝罪の上、両膝で顔を挟んで、抜かせて貰つたと言う。
 こういう、無茶苦茶な向こう気の強さだけが、武士の美徳とも思われないが、江戸ッ子は、こうした喧嘩早いのが大好きだから、忽ち拍手喝果、後々まで歌舞伎十八番の「暫」の主人公として、登場を願ったりしている。

  目に立った働きをする権五郎

  血まなこになって景正追い掛ける

  一目の負け取り返す権五郎

 勿論、強かつたのぱ関東武士だけではない。
 敵方にも実に多くの勇者がいたのである。
 中でも大将、安倍貞任は、「陸奥話記」によ机ぱ、
「その丈、六尺有余。腰周り七尺四寸。容貌魁偉、皮膚肥白なり。」とある。
 腰周り七尺四寸というのは、小錦の向こうを張る感じで、ちょっと驚かされるが、その巨体にも係わらず、騎射に長じ、更に戦術も巧みで、頼義・義家の親子も、幾度となく苦杯をなめさせられているのである。
 しかもこの一族は、後の藤原氏の平泉文化の礎となった「みちのく文化」の育成に努め、自らも高い教養を持っていたらしく、康平五年(一〇六二)、最後の拠点、衣川の柵が破れて、敗走する貞任に対し、追い打ちを掛けた義家が、弓に失をつがえながら、

  衣のたては ほころびにけり

 と詠みかけると、振り返つた貞任が即座に、

  年を経し 糸の乱れのくるしさに

 と返したので、義家も感嘆して、射かけるのを止め、逃げるにまかせだと言う。
 有名な場面だけに、川柳も当然放ってはおかない。

  衣川敵と味方で一首出来

  下の句は京談上はどさァなり

 京都弁とズーズー弁の合作という訳だ。

  ほころびる命を歌で縫い直し

  いたちなら最後ッ屈の場で年を経し

 だんだん柄、か悪くなるようで、

  貞任は質屋で貸さぬ歌を詠み

  年を経し糸の乱れで貸さぬなり

 こうして武のほかに、文の素養を深めることが、武士のあるべき姿とする考え方が、次第に拡がって行ったことは確かなようで、貞任の弟、宗任が捕虜となって都に引かれた時、みちのくの夷と侮った公卿達が、梅の花を突き出して、
「この花は何という花じゃ。
 言うてみよ」と、からかつた所、

  わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人は 何と言うらむ

と、歌の形でやりこめられ、却って赤恥をかいたという話も、その現れの一つであろう。

  梅の花公卿衆が持って出てなァに

  やつぱり梅と言うそうで公卿てれる

  あべこべさ公卿衆を歌でやりこめる

  梅の花大宮人は紅葉なり

 例によって江戸ッ子の負け犬びいきと言えないこともないが、当時の記録である「陸奥話記」などを見ても、安倍氏に対する同情の色が濃く、この乱に対する庶民の見方が、どのようなものであったか、容易に推察出来る気がかするのである。
 なお、後三年の役については、政治的利害が錯綜して判断が難しいのか、例の義家が、雁の乱れるのを見て、敵の伏兵のあるのを知ったという功名談もあるのに、川柳の方では殆ど作品化したものが見当らないのは、誠に残念である。

   第七 平 忠盛--辛抱が実を結ぶ律儀者

  忠盛はおみやを添えて拝領し

 摂関家の爪牙となって発屋したのが源氏だとすれぱ、院政の番犬として大きくなったのが、平家だと言われる。
 いずれにしても、世の中が乱れてくるほど、武カを持つ者の存在が大きくなって行くものである。
 ただ、一つの勢力が余りに大きくなっては使う方は使いにくい。
 適当な所で、出る杭の頭を叩いておくのが為政者のやり方である事は、今も昔も変わりがないようである。
 後三年の役の後、朝廷がしぶった論功行賞を、自分一人の財力でやってのけた源義家は、その富強さに驚いた朝廷から、急に敵視されることになる。
 その子、義親は各種の迫害の末、遂にば謀反人として追討されることになるの.だが、その追捕の役を果たしたのが、平正盛であり、忠盛はその長男である。
 忠盛は、片方の眼が悪く、体躯も余り大きくはない、見かけはパッとしない男だつたが、頭脳は明晰、機を見るに敏で、時の権力者白河上皇の手足となって、瀬戸内海の海賊を従えて次第に富を蓄え、それを足場に、それまで無名の伊勢平氏を、清和源氏と対等の社会的勢力にまで押し上げた、平氏にとっては中興の祖なのである。
 「金葉和歌集」には忠盛の歌が載っている。
  思ひきや 雲居の月を よそに見て
心の闇に まどふべしとや
 恋の悩みととるのが普通だろうが、同時に永い間、殿上人の数にも入れられず、鬱々と苦しんできた焦燥の念の表白とも、見えないことはない。
 それだけに、得長寿院建立の功によって、内の昇殿を許された時には、天にも昇る心地がしたと言う。
 しかし、どんな社会でも、やっかみやいじめはあるもので、成り上がり者の"伊勢のすが目"を、この際一つひどい目に会わせてやろうと言う意地悪公卿たち、
「殿上では、武器は禁制。多勢で掛かれば、いかに名誉の武将でも、やれぬ筈はない。」と、柄にもない闇討ちの相談がまとまった。
 所が相手は用意周到な忠盛、どういうルートでか、事前に情報をキャッチすると
「よし、それならば・…」と、何やら郎等に申しふくめた。
 愈々昇殿の当夜となると、厳重に武装した随兵を従えた忠盛、束帯の上から、いかめしいこしらえの太刀を佩き、人々の呆れる中を、そのまま悠々と昇殿してしまった。
 しかも回廊の灯りの下に来ると、ギラリと太刀を抜き、切れ味を確かめるようにしている姿を見て、待ち構えていた公卿達、怖気をふるって忽ち計画はオジャンになつてしまった。
 しかし、こうなれば新手の作戦、得意の密告戦術で、"忠盛は禁令を破ってかくかくの狼藷"と、上皇に御注進に及んだ。
「上を怖れぬ振舞。早速巌罰の程を…」
 上皇も驚かれて、実否の程をただされると、忠盛は悠然として、
「その太刀はこれでござる。宜しく御検分の程を…」と、差し出したのを見ると、中身は木刀に銀箔を捺した模造品。
 上皇もお笑ひになって、
「当座の恥辱を避けんがための用意、武人の心得はかくありたきものじゃ。」と、却ってお賞めの言葉を賜ったと言う。

  忠盛は竹光をさす元祖なり

  殿上の闇に明るい太刀を抜き

 これだけ頭の働く男だったから、案外女にも持てたらしく、次ぎのような話もある。
 ある時、忠盛が心に懸けて通っていた女の許に、月の絵を描いた男物の扇を忘れて来てしまった。
 女は宮仕えの身であり、それを又、朋輩に見付けられて、
「これは一体、伺処から洩れてきた月影でしようかしら。怪しいあやしい。」と、からかわれると、即座に一首、

  雲居より ただもりきたる 月なれば
おぼろげにては 言はじとぞ思ふ

と、詠んで、のろけ半分、堂々と恋人宣言をしてのけたから、早速大評判になったと言う。
 これが後に、薩摩守忠度の母になつた人だと、「平家物語」は伝えている。

  宮中に忠盛月を捨てて行き

 しかし、忠盛について最も有名な逸話は、祇園女御に関するものである。
 白河上皇の想ひ人で、祇園社の辺りに住んだので、この名がある訳,だが、話というのは次の通りである。
 ある時、例によってお忍びで、忠盛以下僅かな供を従えて、彼女の許に通われた。
 折りからの五月雨、たださえ暗い夜の道を、怪しい光に包まれ、銀色の棘を逆立てた怪物が、一行の前を横切ったのである。
「すは、射とめよ。切り倒せ!」と、人々の立ち騒ぐ中で、忠盛一人は沈着に、そっと近寄って見ると何のことはない、六十に近い法師が、近くの御堂に灯をともすため、土器に油を灯して、頭から蓑を被って歩いていたのである。
「あのまま射殺しでもしていたら、さぞ後味が悪かったであろうに、さすが忠盛、よくぞ致した。」と、これも御感にあずかったと言うのである。

  化物を捉えて赤れば油つぎ

  忠盛が功名の場を犬がなめ

  縛りあげ忠盛糠で手を洗い

  忠盛も師走はひどい水を浴び

 師走に油をこぼすと、火伏せのまじないとして、その男に水を浴びせる習慣があったと言うのが、最後の句を理解する鍵なのだが、この大して面白くもない話が、何故有名になったかと言えば、この事があって間もなく、上皇は祇園女御を、忠盛の妻としてそのまま賜ったという事件が続いたためで、しかもその時、女御の胎内にいた子供が、実は後の平ノ清盛だというのだから穏やかでない。
 そこである小説家は、例の法師の齢を今すこし若くして、女御の閨に忍んで行く途中を捕まったものとし、それが原因でお妾を首にされたのだと解駅しているのだが、いずれとしても忠盛が、とんだ役回りをさせられたことは確かである。
 この女性が、祇園女御その人であるか、その妹という人であるか、学者達の論争は例によって細かいが、このお土産については、上皇もはっきり認めていたと、「平家物語」は断言している。
 即ち、上皇御自身の方から、
「生まれたのが女子ならぱ、朕の子としようが、男子ならば、そちの子として育てよ」とのお言葉があり、結局男だったので、そのままになったと明記しているのである。
 忠盛は、早速上皇に御報告をと思うのだが、やはり軽々しく人の耳に入れてはならぬ秘事である。
 思案の結果、折り好く熊野への御幸に随従、道中御休息の間、周囲に人無きをうかがい、付近の藪にあった零余子(むかご)を幾つか籠に盛り、お慰みに御覧にいれる体にもてなして、そっと一言、

  いもの子は 這う程にこそ なりにけり

と、申し上げると、すぐに悟られて、

  ただもりとりて やしなひにせよ

と、即座にお返があったと言うのである。
 ただ、歌としては少々むきだしで、品が無い。
 高貴なお方が、こんな言い方をするものかどうか、ちょつと心許ないが、川柳の方からすれば、うってつけの材料で、

  食いかけの芋を忠盛くだされる

  忠盛はてっこにおへぬ子を貰い

 いずれにしても、この貰い子が、後に従一位太政大臣として、天下を思いのままに支配する独裁者、清盛入道になるのだから、世の中はわからない。
 彼については、当然この後でも触れるはずであるが、

  忠盛は里子が余程ためになり

  芋の子も頭かしらだっては二十年

   第八 西行法師--戦乱の世を一筋貫いた詩心

  折りふしは佐藤兵衛の時の夢

 少々固くなったついでに、今一人固い人物を取上げる。
 歌僧・西行。
 俗名を佐藤兵衛ノ尉(ひょうえのじょう)義清という北面の武士であった。
 先祖は俵藤太秀郷から出たというから、家柄から言っても武門の正統である。
 その癖反面では、生来の歌人で、自然に涌き出る詩情の純粋さは、かの後鳥羽院が、常に賞賛して止まなかった程で、それだけに彼には、早くから社会的制約を離れて、自然の本質、造化の不思議さの中に、身を委ねたいという強い情熱があり、当時の言い方をすれば、出家遁世の念止みがたく、僅か二十三歳の若さで、仏門に入ってしまったのである。
 原因としては、一族の左衛門ノ尉憲康という若者が、一夜にして頓死したのを見て、人生の無常を感じたとか、染殿の后に対するかなわぬ恋の苦しみが原因だとか言われるが、主として仕えていた崇徳上皇と、その父君・鳥羽上皇との間の、壮絶な人間の愛憎の地獄絵を見てしまったのが、現世への絶望の始まりだったと君う方が、真相に近いかも知れない。
 ただ、その出籬の衝動の激しさは、取り縋る幼い娘君を、蹴倒して門外に走り去ったといわれる程で、まつわりつく人生のしがらみから、どうしても自分を開放しなければと願った、その激情の本質が何であったかは、依然として不明である。

  北向きの武土(もののふ)やめて西へ行き

 実際の所、出家とはどういうものなのか、疑問に思うことがある。
 一つの社会を無責任に逃げ出しても、又別の社会のしがらみに捕えられるに過ぎないという感じがするのだ。
 普通の坊主なら、そうかも知れない。
 ただ西行の揚合いには、全く新しい生の基準を求めようとする意志の純粋さにおいて、かのゴーギャンの画家への転身を思い出させる、不思議な脱得力があって、つい同意させられてしまう所があるようである。
 西行における旅とは何か?
 それがわかれば、問題は解決すると思うのだが、今それを論じているゆとりは無い。
 ただ、彼の純粋さにおいては、宗祇・芭蕉をはじめとして、常に真剣な心酔者が居り、それが日本における詩の本道を形づくって来たことは、忘れてはならないと思うのだ。
 川柳子も、モれに気が付いてかどうか知らないが、西行の句については、殆ど変なくすぐりや、ひやかしの態度が見られないことは確かである。

  鴫はたち烏はとまる秋の暮

  清水かげうつる柳とと檜笠

  とっぷりと暮れて西行沢をたち

 ただ、彼の二度目の奥州行脚の道すがら、幕府の街、鎌倉に立ち寄った所、思いもいかけぬ将軍頼朝の招きを受け、歓談したことがある。
 一夜明けて、さて出立という折、頼朝が銀で出来た猫の彫り物を、記念にくれたと言うのである。
 有り難く拝領した西行は、外に出てしばらくすると、近くに遊んでいた村の子供達に、その猫をぽいとくれてやったと言う。
 一説によれば、この時西行は、東大寺の大仏殿建立のために、勧進旅行の最中だったそうで、それだったら折角の寄進を無駄にするはずもなく、大分疑わしいい所のある話しなのだが、銀の猫という所が面白いらしく、川柳では専らこの場面が題材にされている。

  西行も初手は鼻づらこすって居

  その猫をくれさっせいと村子供

  世を捨てるほかに猫をも捨て給ひ

 なおこの他西行には、女の出てくる話が一つだけある。
 やはり旅の途中、江口の里のあたりで、折悪しく急な村雨に遭い、一軒の家にしばしの休息を求めようとすると、家の主は遊女で、中々うんと言ってくれない。
 そこでつい、

  世の中を 厭うまでこそ 難からめ
仮りの宿りを 惜しむ君かな

と、口ずさむと、主の遊女も笑いながら、

  世を厭う 人とし聞けば 仮の宿に
心とむなと 思うばかりぞ

と、返しをした上で、今度は急いで中に招じいれてくれたという。
 「選集抄」にある話で、場所も江口の里となると、前に書いた普賢菩薩の化身だったという、遊女「長者」のことも、思いそえられて、この辺で一つひねったら、面白い川柳が出来るはずだと思うのだが、作品としては次の一句があるばかり、不思議な遠慮ぶりである。

  西行も女郎に一度手を合わせ

 かくて治承から寿永へ、源平争乱の真っ只中を、かつて文覚をさえたじたじとさせた、勇猛な武人的資質をもちながら、西行は遂に歌一筋の流浪の生涯を送ったのである。
 あくまでも自然の優しさの中に身を浸し、そこに生ずる本源的な感動を素直に謳いあげることだけを、変わらぬ仕事とした歌人は、自分の命についても、

  願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ

と、詠んだ歌の通りに、建久元年二月十六目、河内の弘川寺で静かに入寂したと言う。
 時に七十三歳であった。
 終始一貫、自己の個性に忠実に生き通した人生は、完成された自由人の美しさに溢れて居り、日本人としては希有な実例と言ってよい。
 川柳子の歯の立つ相手ではなかったのかも知れない。

  如月のその望月に西へ行き

   第九 文覚上人--恋人の死が人生を変えた荒法師

  手にかけた袈裟を涙で首にかけ

 続けざまに、坊主をもう一人。
 但し、こちらは西行に較べると大分なま臭い。
 長谷川一夫主演、衣笠貞之助演出の映画、「地獄門」で、一躍有名になった「袈裟と盛遠」の物語、とは言っても、今ではこの映画そのものが、歴史の闇に消えてしまっているようである。
 「平家物語」によれば、院の武者所に仕えていた遠藤武者盛遠は、直情径行と言うよりは、猪突猛進型のあらくれ武士だが、伯母の娘というから従姉妹にあたる袈裟御前を、一目見るなり、激しい恋に落ちてしまった。
 所が彼女には、既に渡辺ノ渡という定った夫のある身である。
 いかに言い寄られても、その意に添える訳がない。
 普通なら大抵ここの所で諦める所だが、そこがいのしし武者、何が何でも我が意に従えとの強談判である。

  母が聞いているのに遠藤させろなり

 これがもう少し古い、妻問い婚の時代なら、夫婦と言っても起居を共にする訳ではなし、何かと解決の方法がなかった訳ではないだろうが、漸く嫁入り型の結婚の増えて来た時代である。
 袈裟御前は、妻の貞操という問題について、日本で最も早く悩んだ女性ということになるのかも知れない。
 しかし相手は言葉で言って解る男ではない。
「我等が恋を妨げるものは、たとえ何人であろうと、容赦はしない。私は必ず切って捨てる。それが貴女の夫でもだ。
 貴女もその覚悟だけはしておいてほしい。」盛遠の激しい求愛に追い詰められた袈裟御前は、遂に悲しい決心をする。
「わかりました。彼を殺して下さい。私がその手引きをします。」
 こうして事態は、痛ましい身代わり殺人事件、と言うよりは身代わり自殺事件に発展する。
 つまり、夫・渡の寝所に、袈裟白身が身を横たえて、忍び込んだ盛遠の刃で、われと我が首を打たせたのである。

  袈裟御前野郎あたまになって死に

 袈裟が男装していたか、特に髪型まで男のように変えていたか、その辺はどうも判然としないが、やがて事件の真相が明らかになるにつれて、恋人を自ら殺した盛遠は勿論の事、夫の渡の方も、率然として人生の無常に目覚め、其に出家して彼女の菩提を弔うに至る。煩悩即菩提の典型である。

  女にはえんどう武者と諦める

  美しい袈裟で墨染め二人出来

 渡辺渡はその後、平凡な坊主としての生涯を送ったようであるが、盛遠の方は、それからが又大変である。
 例によって横紙破り、名も文覚と改めて、熊野の那智権現に籠もると、肉体の限界を試す、あらゆる難行・苦行に挑戦して行ったのだ。
 「平家物語」によれば、六月の炎熱の中、藪の中に横たわって、身体中虫に刺されてもビクともしないとか、師走の極寒に、那智の滝に打たれて、意識を失うまで頑張ってみたり、言わば自殺的な荒行を繰り返すのだが、そこにどのような贖罪とか、自己浄化の意識があつたのか、そうした間題には一切触れようともしないのが、却って面白い。

  濡れごとの二度めは那智の滝で受け

  袈裟を打ち我が身を打つは那智の滝

  金伽羅が出ぬと文覚土左街門

 最後の句は、凍死しかけた文覚を救けたのが不動明王の眷属、金伽羅、勢多伽の二童子だつたという話から来ているのだが、この旺勢な精神力は、神仏をも動かさずにはおかなかったと言うことであろう。
 やがて高尾の神護寺に入るや、荒廃した堂塔伽藍の修復再建を思い立ち、例の行動力を発揮して、権門貴族の間に一大勧進運動を開始する。
 特に朝廷に対して、後白河法皇の御所に押し掛け、面会を強要して、警護の武士達と衝突、大乱闘になった事件は、都の人々の耳目を驚かしたものである。

  滝壼を出て大内へどなりこみ

  五位六位などは文覚ふみ倒し

  さて強いはっち坊主と御所騒ぎ

 この罪で搦め捕られた文覚は、平清盛の命令で伊豆に流されるのだが、これが、「かかる世の中は、変革を必要とする。」という自覚を彼に起こさせ、やがて蛭ケ小島に隠棲していだ源頼朝に接近し、平家追討の院宣を仲介斡旋する所まで、話が進んで行くのだから面白い。
 頼朝は、この段階ではまだ、源氏再興の挙兵について、迷い悩んでいる最中であつたが、文覚はその奮起を促すために、非業に死んだ父・義朝の髑髏を持参して、
「この怨みをはらす者は、貴方しか居ないではないか!」と、アジったと言うから、やり方はいささかあざとかったようである。

  源氏の再興文覚が大願主

  文覚は一生人の尻を持ち

  義朝の(こうべ)もしゃくる道具なり

 いずれにせよ、坊主にしてこの気迫、この反骨、高級な思想や教養よリも、即物的な行動力、実行力の方が大切にされる時代が来ていたわけで、もののあはれを中心とする貴族の時代は、終りに近付いていたのである。

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