江戸川柳で読む日本裏外史 高野冬彦

 第三部平安時代

在原業平--本朝随一のプレイボーイの生涯

  千早振る神代にもない好い男

  見たこともなく業平のようと誉め

 いよいよ業平の登場である。
 大体、好い男とはどんな男を言うのか。
 それぞれ時と所によって違うのだろうが、要点は、多勢の女性によってチヤホヤともてはやされる羨むべき人種だということである。近頃、映画俳優の長谷川一男が生涯二枚目の華やかな人生の幕を閉じたが、あれが美男の典型とも思えないものの遺した財産が一五億と聞けば人間やっぱり美男に生まれなければいけないと今更ながら悔やんだりしている。
 ところで江戸っ子にとって業平とは何だったのか。

  性悪は阿保親玉の五男なり

 父親は畏れ多くも平城天皇の皇子、貴族の中でも最高級の名門である。

  業平は高位高官下女小あま

 その身分を利用して言う訳ではないが高雅な雰囲気と生来の美貌によって群がる女性群を手当たり次第にバッタバッタその上に、

  色事の寸暇があると歌を詠み

 ほんの暇つぶしに詠んだ歌が、またまた女達を驚喜させて

  業平の道楽ばなし本に出来

 いつの間にか【伊勢物語】などという書物になったかと思うとこれが本朝有数のロングセラーになってしまうという誠になんともはや、羨ましい一生を送った男と言う次第。
 勿論なかには羨望からやきもちに転じて

  業平の癒しを書かぬも不思議なり

  業平の惜しい事には地色なり

  業平は店屋の味を知らぬ人

 変な所にけちをつけて
「とに角、素人を相手では色事の本当の味はわかりゃせん。
 矢張、洗練されたプロを相手にしないとねえ」などと気取っては見るものの所詮はごまめの歯ぎしりである。
 業平が障害に関係した女の数は誰が勘定したものか三,7三三人と記したものがある。
 西鶴の「好色一代男」の世之介が筆のすさびとは言いながら生涯の女の数を三、七四二人と書いているので残念ながら日本記録とはならないがやはり西のドン・ファン、カサノヴァに対抗する色界の巨人であることは確かである。
 しからば業平がもてた原因は何か、川柳子も本当はわからないと首をひねっている。

  業平は金を使ったどらでなし

  まめ男衣冠正しく不埒をし

  業平にさせぬは昔恥のよう

 業平自身は何もせずじっとしていても女のほうで集まってきたことであろう。
 不思議な魅力を持った人物であったに違いないがさてその実像はどんなだったか。
 史書の中から拾ってみたい。
 前述に通り父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の娘で伊登内親王と言うから普通ならどこから見ても皇位継承者たるべき身分だった。
 それが弘仁元年(八一〇年)薬子の乱によって平城上皇は完敗、皇統は嵯峨天皇に完全に移って再び栄光は望めないと悟った為か天長四年(八二七年)自ら乞うて臣籍に降り在原氏を称したという。
 勿論胸中には鬱勃たる不平を滾らせていたかも知れないが当時の政局を支配していた藤原良房の底知れない権謀の前ではこのくらいの譲歩はやむをえなかったのであろう。
 事実この後、阿保親王は良房に対立する伴健岑(とものこはみね)橘逸勢(たちばなのはやなり)の陰謀計画をいち速く良房に報告して所謂【承和の変】の発端を作ったとされている。
 この事件は後から考えてみると嵯峨天皇没後の皇位を巡って皇太子恒貞親王を廃し、良房の女順子の生んだ道康親王を立てるためのデッチ上げの臭いが強く、そうなると親王の立場は益々惨めなスパイ、密告者ということにならざるをえない。
 事実阿保親王はこの事件が全て良房の望んだ通りの形で決着すると門を閉じて蟄居し僅か三ヶ月後に急死している。
 われらが主人公業平はこのとき将に十八才。
 人生に於けるもっとも多情多感な年代であったからこうした家庭または家族の環境が後の性格や人生にある種の暗い影を落としたとしても当然であろう。
 「三代実録」における菅原道真の評語によれば業平は
【体貌閑麗、放縦不拘、略々 才学無キモ善ク歌ヲ作ル】とある。
 生来美男だったことは間違いないがやることはデタラメで手に負えない感じ、現代のツッパリ少年と大差なかったのかも知れない。
 「才学ナシ」というのは宮廷官僚として必要な漢学的教養には関心がなかったというのであろうがその中で唯一の才能として"歌ヲ作ル"つまり詩人としての天分だけが目立っていたのである。
 業平の歌については例の古今の序で、
【その心あまりて、ことば足らず、しぼめる花の、いろなくて、匂ひ残れるごとし】と貫之の評があるが、ことばに盛り切れない豊な情感を独特の屈折したリズムで謳い上げた作品はやはり余人にはまねできない見事なもので貫之自身古今集に三〇首の多くを選び入れているほどである。
 そうして彼の魅力に取りつかれたように業平の歌を中心にその前後の物語を添えた【伊勢物語】は誰の著作とも知れぬながらこの時代の古典としては最も広く普及した作品となった。
 源氏物語を読み通すことを思えば伊勢は短いし文章も簡素で江戸時代の庶民にとっても決して手の届かぬ高根の花ではなかったから少し文字を解する者なら一応は目を通すことが出来たらしい。
 そしてそこからどんな業平像を生み出して行ったか、今、物語の発展に沿って眺めてみたい。 

   在原業平--本朝随一のプレイボーイの生涯(その二)

 まず第二二段、筒井筒の章である。
 業平の少年時代の恋である。
 少年と言っても幾つぐらいなのか、文章のおもてでははっきりしないがとに角、井戸側にはめた井筒の高さにも背の及ばない幼い頃から愛し愛されてついに結婚した話で、通説によればそれは紀有常の女で業平の正妻に当たる女性らしい。
 世之介が六歳にして腰元の袖を引いたのに較べればまだしもおとなしいが天才は生まれつきどこか違うものだと考えさせる話である。
 そして有名な歌、

  筒井筒 井筒にかけし まろがたけ
生ひにけらしな あい見ざる間に

  くらべこし 振り分け髪も 肩すぎぬ
君ならずして 誰かあぐべき

 どちらも素直で美しい。
 一葉の「たけくらべ」のイメージと重なってくるようで一度読んだら忘れがたい。
 業平の女性開眼の章と言ってよい。
 川柳子も負けてはいられない。

  井戸端の 子は寸にして その気あり

  井戸端の 茶碗有常 油断なり

  有常も 危なく思ふ 遊び所

 しかし"まだ子供だから"と言う科白は天才には通じない。

  業平に きの有常じゃ 出来るはず

  井戸端で 小癪な子供 口説き初め

  井筒の きわで縫い上げを めくり合い

 とんだお医者さんごっこに発展していったことにしてしまった。

  つぼみ朝顔を おっつける 筒井筒

 露骨と言えば露骨だが井戸端の朝顔、小意気な言葉の取り合わせでほほえましい感じに仕上がっているともいえる。
 この話にはさらに後段がある。
 愛し愛されて夫婦になった二人だがそのうちに女の親が死に生活のためには他にたよりを求めるしかないと、男は河内の高安に住む別の女の許に通うようになった。
 この辺の解説を始めると長くなるが、当時の妻訪ひ婚では通い聟に対して女の親は必ず生活の面倒を見てくれたものだと言う。
 ところがこうして出かける夫に対して正妻である女が何一つ文句も言わず気持ちよく出してくれるのである。
「ハテ、これは怪しい、若しかしたら、俺の留守中に女房の奴――?」そう言う点では男のほうがいやらしい。
 理由にならぬ嫉妬をして、一旦は外出したふりをして密かに女房の行動を見張っていると、女は美しく化粧をしてそれからおもむろに空を眺め一首の歌を口ずさんだと言う。

  風吹けば 沖つ白波 立田山 夜半には君が ひとり越ゆらむ

「おきゃあがれ。
 そんな気のいい女房なんて世の中にいる訳がねえや」と息巻く奴もある中で、そこまで女に惚れさせた業平はやはり偉人だったと感じ入ったりして、

  機嫌よく 河内通ひの 頭巾縫い

  有常が 娘きれいな 悋気なり

  名の高い 夜ばい立田の 山を越え

 又、しきりに眉に唾をつける奴もあり、

  うすうすは 知って女房 風吹けば

  とは詠んで 侍れど腹は 立田山

  夜半にや 女房独り寝て 腹を立て

 江戸の庶民感情からすればこれが当たり前なんだがそれでも矢張り"悋気は女の慎む所"我慢したおかげで、浮気の虫が見事落ちて男は河内通いをやめたと言う。

  蚊に食われ 沖つ白波の 畜生め

  立ち聞きを せぬと一首は すたるとこ

  名歌をば 知らず河内で 待ち呆け

「いい話だね。
 そこへ行くとうちの山の神ときたら、こういう女の爪の垢でも煎じて飲ませてえね。」
 そう言う連中の嘆きの声を句にしたのが

  風吹けば 女房一向 油断せず

  土手を行くらん とは女房 歌人なり

  風吹けば 所か女房 あらしなり

 これがまあ普通の人間の姿だろうと思うのだが業平と言う男はどう言う星の下に生まれたのか正妻は寛容、このとき捨てた河内の女までが訪れのなくなった男を慕って

  君来むと いひし夜毎に 過ぎぬれば
頼まぬものぞ 恋つゝぞふる

と詠って忘れることがなかったと言うのだから一般の男達は
"勝手にしやがれ"とでも言う他はなさそうである。

  在原業平--本朝随一のプレイボーイの生涯(後半部の二)

 さて次に、川柳の方で問題となるのは第五、六段における"二条の后"との恋愛である。
 藤原基経の妹で後に清和天皇の皇后となって陽成天皇を生む藤原氏にとっては正に掌中の玉とかしづいて来た高子姫に言い寄り遂には駆け落ちまでやらかしてしまう業平生涯の大冒険であった。
 この場合、業平側に摂関政治への反発とか父阿保親王の死に対する復讐とか、そうした政治的意図があったかどうか一切不明であるが とに角、時の最高権力者基経に一時は顔色をなからしめる程のショックを与えた行動力は彼が決して一介のプレイボーイではなかった証拠として、彼の人間的魅力を更に一層奥深いものにしていることは事実である。
 史実によれば高子は従姉妹で文徳天皇の女御に上がっていた明子の許で宮仕えの見習い中だったらしいが当然次の清和天皇の后として予定されていた訳でそれを今更没落貴族の若造に"鳶に油揚げ"式にさらわれたのでは、正に藤原一門の面目は地に堕ちたも同然と一族上げて色めき立ったのも無理からぬことだったのである。
 しかし本当に悪いのは誰だったか?
 男女の関係にこれ以上愚劣な質問もないようなものだが、川柳子はどうした訳か専ら高子の責任を強調する。

  かし元の ずるい后は 二条なり

  見かけより 二条の后の 気が太い

 貸元のずるいとは耳慣れない言葉だが大体あの方面でだらしがないと言うか、どうせほめた言葉ではない。
 彼女についてはその後もとかく噂があり、特に彼女の産んだ陽成天皇がかなり激しい御性格で奇矯な行動も多かったことなどから母親の遺伝云々の取り沙汰も出て来たのであろう。
 しかし美人であったことは確かなようでそれが業平程のプレイボーイの目に付かぬはずもなく、周囲の反対が大きければ大きい程、第五段にある通り築地の崩れなどからせっせと通ったのであろう。

  烏帽子着て 築地の穴を 四つん這い

  狩衣を こまいの折れで 度々破り

 しかし相手は天皇家専用の箱入り娘、警戒は厳しくなるばかり、思い余って二人は駆け落ちを決行する。
 長い歴史を振り返ってもこれほど身分の高い人の恋の暴走と言うのは空前絶後、後代の庶民から見れば理由のいかんに関わらず「やったぁ―」とつい声援の一つもしたくなる所、川柳子も筆を揃えてまるで見ていたように書いている。

  連れて逃げなよと 二条の 后言ひ

  足弱を まめな男が つれて逃げ

  芥川 どっちも逃げる なりでなし

  行き当たり ばったりと出る 芥川

  歩いては いやと二条の 后言ひ

  まず笏は おぶり邪魔だと 腰へさし

  恋の重荷を 背負ったは 芥川

  やはやはと 重みのかかる 芥川

 最後の一句など歴史川柳中屈指の名作と呼ばれているものだがいかにも江戸町人の平安貴族に対する夢があって面白い。
 本文ではこの後女をあばら家に休ませていると突如鬼が現れて一口に食ってしまったと書いた後で、これは実は后の兄弟が追いついて取り返したのだなどとくだらない蛇足をつけている。
 研究者によるとこれは後世の加筆で、藤原氏に対する反感がつい内情暴露の筆を走らせたものらしいとのこと。
 そうするとこのアバンチュールを反権力の立場から喝采する声はその当時からあったのだと今更ながら頼もしい気がする。
 まして江戸の享楽主義者達は口に税金のかからないのを幸い勝手に想像の翼を拡げて、

  あてもなく 二条通りを おぶい出し

  どこへ行く 気だか二条を 逃げは逃げ

  またしても 二条の后 ずり下がり

  時折は 笏でいきしを ちょいと突き

  あれさ抓 らせ給ひそと 芥川

  抉るたび 背中でもがく 芥川

 段々下がかって来るのはやむを得ない。
 一方追っ手の方も真剣である。

  二条殿 御用と追手 下るなり

  まめ男めが とやたらに 追っかける

  芥川 草をわけての 詮議もの

  頭ばかり 見える追手が 在五ヤーイ

 草の中を隠れ隠れて逃げる途中葉末に光る露の玉を見て「かれは何ぞ」と問うた女の可憐さ、そして今はその面影を唯一の思い出に男の詠んだ歌

  白玉か なにぞと人の 問ひし時 露と答へて 消なましものを

 平安期の全文学を通してもあまり例のない新鮮な美しさでこの一段だけでも伊勢物語は永久に残るのではないかと言う気がする。

  下げ髪に すすきのからむ 芥川

  細腰を 尾花のたたく 芥川

 川柳子にも同じ思いの人はいたとうれしくなるような作品である。

   在原業平--本朝随一のプレイボーイの生涯(後半部の三)

 続いてはいよいよ東下りである。
 関東から一部東北に及ぶ業平の流浪漂泊の旅を当時の身分ある貴族の行動としては考えられないと言う学者もあるようだが文学的にはどうしてもこうならなければいけない所である。
 芥川事件で藤原一門に決定的に睨まれた業平が
「身を益なきものに思ひなして…東の方に住むべきところを求めむとして…惑ひ行きけり」と言うのは当然の帰着でありそれでこそ我々のロマンを満足させてくれるのである。
 事実彼の経歴を見ると二五才で従五位下の位についたはずなのに従五位上に進んだのは三八才のことで実に一三年もの間冷飯を食わされていたのである。
 勿論官職もあてがわれず無視され続けたとすればその間一切を擲って諸国放浪の時代があったとしても当然すぎる話だと思う。

  五畿内を しつくして東 下りなり

  あまりうるささに 業平旅立ち

 世間の目をはばかっての都落ちか新しい冒険を求めての武者修行か、その辺の事情は誰にもわからぬながらどこに行こうと業平に恋の種はついて廻る。
 まずは三河の八ッ橋である。
 折りよく咲いたかきつばた、その五文字を句の頭にすえて旅の心をよめと言われて

  唐衣 着つつなれにし 妻しあれば
はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ

 こういうよみ方を「折り句」と言う。
 所定の文字を折りこむ訳だがこの折るという言葉だけで川柳子もう一種の色模様を想像してしまうのだ。

  中将の 道草に折る かきつばた

  かきつばた 痛めぬように 公卿は折り

  素人が 折るとふくれる かきつばた

 花までが"業平さまに追って頂けたら"と身をもんでいる風情である。
 駿河に入って富士を見れば、

  業平に 二十ばかりと 姫見られ

 富士の年齢を二十と決めた理由は前に書いたがこの時の歌、

  時知らぬ 山はふじの嶺 いつとてか
鹿の子まだらに 雪の降るらむ

というのを見るとたちまち、

  雪の肌 鹿の子まだらに 寝つかれず

  雪の肌 鹿の子まだらに 蚤が喰い

 富士山を裸にしたり蚤に食わせたり何となく色っぽい幻想につながって行くのも業平なればこそであろうか。
 その業平がこれまた色好みの女で有名な相模の国をどうした加減か無事通り抜けて武蔵の国へ、所もよし隅田川の岸辺で有名な都鳥の章、

  名にし負はば いざこと問はむ
都鳥 わが思ふ人は 有りや無しやと

 はるかなる望郷の思いも川柳子には通じない。
 ここまでくれば行く先は決まっている。
 何を愚図愚図しているんだという顔付きで、

  隅田川 ところの人は かもめなり

  都鳥 どらの伝授を 受けるとこ

  鳥の名も 変わり息子の 気も変わり

  気はありや なしやとすびく 隅田川

 いささか贔屓の引き倒しの感はあるが江戸っ子にとって、業平は常に一種の英雄だったことは確かである。

  うるささに 吾妻に来れば また惚れる

 果てしない恋の遍歴はその足跡の広いさと共に相手の女性の千差万別ぶりにも驚かされる。
 神に仕えて男子禁制のはずの伊瀬の斉宮がよろめいたかと思えば、老い衰えてつくも髪の姿となってもなお男がほしいと願う老婆がいると聞けばわざわざ出かけて相手になってやったとか、時には残酷なまでに厳しく、時には限りない優しさで女に接する態度には単なる好きを越えた求道者の面影があるのである。

  おくら子までも 許さぬは 在五なり

  両の手に 振り分け髪と 乱れ髪

  さすが業平 ばばあをも 立ててやり

 平安時代も江戸時代もそしてある意味では現代も又平和ではあるがそれ故に人間的には未来閉塞の時代であったと言えると思う。
 その中で限りない人間の可能性を発見し自由と解放を見出す一つの道として、性の探求が試みられる事情は余り学のない江戸っ子達にも案外素直に理解されたらしい。
 彼等の業平礼讃の句の中には時代や身分を越えた人間的親しみがあるようである。

  業平は ついに口説いた ことはなし

  業平は 天の与ふる ものを取り

 業平の道は一種の天命だったと言うのであろうか

  業平の 時分金には 惚れ手なし

  業平に されたは恥に ならぬなり

 彼の純粋さは人々の全部が認める所だったと言いたいのであろう。
 しかし、しかし、それにも関らず純粋さに於いては決して劣るとも思えないのに"彼奴ばかりが何故もてる?"

  歌とするとに 追はれると 在五言ひ

  業平は どうでもしなと 度々言はれ

  業平に 恋催促が 五六人

  羅切でも しようと業平 せつながり

 現実の業平は晩年京都にもどり、案外堅実な官人として、五五年の人生を全うしたらしいが江戸っ子の夢と羨望の中ではどこまでもそのイメージをふくらませ、古今無双の女殺しの地位を確立したのである。
 普通なら当然"業平大通神"かなにかの神格を与えられて蕩児達の信仰を一身に集め"もてもての御守り"か何か発行して荒稼ぎしていてもおかしくはないと思われるのだがどうした訳か言問い団子と業平橋下の蜆にその名を残すばかり。
 不思議な話だと江戸っ子自身が驚いているようである。

  色男 東に貝の 名を残し

  蛤が 好きで 蜆に名を残し

  行平で 業平を煮る 庵の主

   在原行平--プレイボーイ在原業平の兄

 ついでに、業平の兄、行平を取り上げることにする。

  どらな子を阿保親王は二人持ち

 という句があるが子供は二人だけではなく男だけあげても 仲平、音人、行平、守平と来て、業平は五番目である。
 それで在五中将などと呼ばれるのであるが、行平以外の兄達については別に逸話もないようである。
 ところで行平の中納言であるが、彼が有名になったのも実は歌のおかげである。
 古今集巻十八雑歌の下に
「田村(文徳天皇)の御時に、事に当たりて津の国の須磨と言う所にこもり侍りけるに、宮のうちに侍らいける人に、つかわしける」と前書きして

  わくらはに とふ人あらば 須磨の浦に
もしほ垂れつつ わぶと答へよ

の歌が載っており、これを基にして、謡曲「松風」が作られ、行平がこの地に三年間隠棲した間に、汐汲みの娘、松風、村雨の二人を寵愛し、その愛情が煩悩となって、二人の女の幽霊が現れる趣向になっている。
 それともう一つ、同じ古今集 巻八 離別歌に、百人一首にも採られた名作

  立ちわかれ いなばの山の 峯に生わる
まつとし聞かば 今帰りこむ

があって、この哀切な別離の情をここに加え見ると、忽ち一篇のロマンスが出来上がると言う次第らしい。
 ところが、この行平の実情と言うものは、なかなか、そんなにやけたものではないらしい。
 父親の阿保親王が承和の変で密告者の役割をふられ、それを苦にして急死した時分、一時的には幽愁の境涯に沈んだこともあったらしいが、若い業平が、それに反発して無軌道な人生に飛び出していったのと違い彼は、父の失敗を貴重な反省材料として、慎重で堅実な宮廷貴族としての人生を、しっかり踏みしめて行ったようである。
 承和の変に続く、良房政権の確立期、彼は兵部大輔、中部大輔、佐馬主として武官系の官職を順調に歴任し、一時、因幡守となって都を離れ、前掲の「立ちわかれ…」などの歌を詠んだこともあったものの、僅か半年余りで帰京、「まつとし聞かば…」どころか、別離の涙も乾かない内に帰還して、家族を驚かせたものである。
 それでは、どうして須磨の浦に三年間も籠居したとされるのかと言うと、歴史の上では少しも根拠のないことだけに考えられることは「源氏物語」の須磨の巻との重なりである。
 光源氏が朧月夜の君との一件で、帝の逆鱗に触れ、須磨の浦に配所の月を見た期間が丁度三年だったと判れば謎は解ける。
 つまり行平は源氏のモデルであり、またいつの間にか入れ替わったのである。
 とすれば、謫居(たっきょ)の原因となった事件も何かあったはずであり、明石の上に当たる女性も、誰かいなければならない。
 後世の好事家達の空想力が、こうして次々に新しい伝説を作って行くのだ。
 行平も地下で、さぞかし苦笑しているとは思うものも、歴史上の実情のように、清和天皇の後宮に娘を入れて外戚たらんと試みたり、奨学館という学校を作っていちもんの若者の尻を叩いたりした出世主義者よりも、虚像のほうが遥かに親しみが持てることは確かである。

  腰蓑の 上からつねる 中納言

  流されて いても色事 おこたらず

  関守りに 見知られている 中納言

 通う千鳥の足音に、関守もさぞ寝つかれなかったろうとの洒落だが、こういう場合、やはり業平の兄だということが、イメージを歪めていると思われる。
 それにしても汐汲み女に手を出すとは、大分下世話に通じたお公卿さんではある。

  面白く 雨風に逢ふ 中納言

  行平の 一人で濡れる 雨と風

 海女の名前が、松風と村雨だなどと余りに謡曲好みで、真実味がないが、江戸っ子にはちよいとか割った源氏名という感じで、「変わっているから覚えやすくていいや」と面白がって作品にしている。

  五日目と 十日目須磨で 御寵愛

  村雨と 寝た翌日あす松に つっつかれ

  村雨が 夜中に降れば 暁あけは風

  村雨の 方がどうでも 濡れ勝手

 とにかく二人とも濱育ちの健康な女性だから都の女にはない暖かみがあったろうが、同時に直情径行、手に余ることもあったかも知れない。

  行平は 汐汲み桶を 借り枕

  指貫さしぬきを 脱げば腰蓑 ひっぽどき

  両方へ 尻目を使ふ 中納言

  行平は うしを仕立ての 口も吸い

 三島由紀夫の「潮騒」ではないが、これこそ大自然の中での率直な人間の姿、都での身分も教養も忘れて、神の与えてくれたエデンの園の豊饒さに行平も我を忘れて没入しただろうと、江戸のロマンチストたちは考えたらしい。

  五風十雨で 豊年な 中納言

  行平も よっぽど色が 黒くなり

  降る振らぬ くらいは当てる 中納言

  赤穂じゃの 行徳じゃのと 中納言

 塩の出来、不出来がわかるようになる頃には、すでに数年の歳月が流れている。

  行平も 松が岡ほど 居て帰り

 幸福は決して永くは続かないのである。
 帝の御勘気が解けて、勅免の使者がやってくる。
 男のとっては再び都に戻り、栄達への道に進む歓喜の刻だが、女達には、それゆえにこそ身を引いて、別れねばならぬあきらめの刻である。
 何か都はるみの演歌を地で行くような、こうした情景は、これこそ日本的な愛の形であって、松風、村雨はその第一号だったかも知れない。

  須磨の浦 めでたいことに 二人泣き

  また流されて おいでよと 二人泣き

 小野小町--美人は薄命であることによってのみ永遠である
 (その一)

  古今の序小町ばかりは穴がなし

 美男の代表が業平なら、美女の代表は断然この人、川柳の世界でも、業平以上の大立者なのである。
 川柳の世界で有名になるためには、歴史的事実の外に、その人を巡る逸話や伝説の数の多いこと、それに独特の個性が伴うことが大切なのだが、業平の場合はあくまでも陽性で、常に外に向かって、次々と女性遍歴の旅を拡げて行く形だったのに対して、小町の場合は、いつも陰性で、社会的連帯から次々に切り離され、厳しい孤独地獄の中で、さらに深い人間悲劇の階段を一段づつ降りて行くといった形を取っていた点でも、正に対照的であったと思う。
 小町の経歴としては、生没の年月は不詳ながら、衣通り姫の末裔で、参議小野ノ(たかひら)の孫、出雲の郡司、小野良実の娘などと伝えるが、確証はない。
 確実なことといったら古今集の序に取り上げられた六人の歌人、所謂六歌仙の一人に選ばれたこと、古今集に一八首の歌を残したこと、これだけと言ってよい。
 所が伝説の方はと言えば、これは又実に沢山の説話、伝承に飾られ、それがまた一々謡曲その他の文芸作品に取上げられて、所謂「七小町」と呼ばれる一連の文学的人間像を形作っているのである。
 試みに今、その題名を挙げて見れば、「通い小町」「雨乞い小町」「草紙洗い小町」「鸚鵡小町」「関寺小町」「卒塔婆小町」「玉造小町」の七種で、これを連続させれば、悲運に泣いた一人の女性の生涯が見事に浮き上がって来ると言うわけである。
 ところで、個々の説話に入る前に、今一つ大事な話に触れておかないといけない。

  惜しいこと良実外科にかける所

  目に立たぬ片輪は小野の小町なり

 こうした句でもわかるように、彼女には女性として致命的な生理上の欠陥があったと言うのである。
 この話の普及度は随分広いもので、裁縫に使う針のうち、糸を通す穴のないものを「小町針」などと呼んで、何となく承認されている位のものだが、ただ何時から始まったかと言われると、それ程古いことではないらしい。
 川柳研究者の説など総合すると、文献的には元禄の頃まで遡れるし、説話自体はもう少し古く、江戸の初期には存在していたらしい。
 勿論余り品のいい話ではなし、上流の人士が筆にのせることもなかったらしいが、一旦言い出されると妙に説得力のある、忘れられない話というものはあるもので、そうしたものの代表的一例と言ってもよいかも知れない。
 元来「小町伝説」というのは、女性の悲劇の集大成といった感じの物語である。
 生まれつき超一級の美人で、歌を読ませれば当代きっての名手、家柄が良くて、財産があり、女としてこれ以上望むもののない条件に恵まれながら、一旦人生の霜に遭うと、定まる人もないままに容色衰え、係累には死に別れ、轗軻孤独の身を託すべき家もなく、諸国を漂泊して、終に野末に骸を晒す、そんな悲惨な運命を何故小町が背負わなければならなかったのか?
 仏教で説く因果論くらいでは仲々納得できなかった俗人達が、「なるほど、そうだったんですか…」と、横手を打って諒解したのが、この仮説だったのである。
 その証拠には、小町のこの欠陥を扱った作品は大変な数に昇っており、川柳のお陰で一つの定説として固まったような気がしないでもない。

  三十一相そろったのは小町

  父ッさまはよしざねなのに惜しいこと

  あな痛はしと良実夫婦言ひ

  小町のはあったら玉にはないが疵

 実を言えば、この小町という名は、宮中に仕える更衣達の居場所を「后町(きさいまち)」と呼んだ所から起こったらしく、他にも
「三国の町」「三条の町」などと呼ばれる歌人もあり、小町もこうした更衣達の一人だったのではないかと言われている。
 時としては天皇の御相手を努めたかも知れない女性達に片輪者がまぎれこむはずもなく、事実彼女の歌というのも残された作品は殆ど恋歌なのである。
 しかし、こうした反論も、一旦思いこんだ川柳子にかかっては、一顧もされずに無視されてしまうのだ。

  歌ばかりよくてさっぱり始まらず

  歌も器量も優れたが惜しいこと

  穴もないくせに小町は恋歌なり

  梨壷の君と小町は仇名され

  いくのの道を知らぬのは小野なり

 小式部内侍が僅か一四才で知っていたのに、それに較べて小町の悲しみはどれほどかと心からの同情を寄せるむきも無いことはなかったろうが、大体は、美し過ぎる女性に対しては、どこかに欠点はないかと鵜の目鷹の目を光らせるのが世間というもの、小町の不幸を大きくしていったのは、こうした人間の冷たさであったと言ってもよいか知れない。

  ほれ帳を九十九夜目に消して置き

 小町は確かに美しい。
 しかし同時に冷たく、情のない女だ。
 そういう悪評もこれまたかなり広く普及している。
 その最大の原因が深草ノ少将という犠牲者の存在である。
 謡曲「通い小町」によれば、小町に懸想して分別を失った深草少将に対し若しその愛が本当ならば百日の間通いつめて男の誠を見せて欲しいと難題を持ちかけ、それが原因で九十九夜目に少将は命を失うに至る。
 その怨念の故に浮かばれず、幽霊となってさ迷う少将に対し、小町も又重なる罪業の故に中有(ちゅうう)に迷って対面する。
 勿論謡曲作家の創作で尊卑分脈その他の史料を調べても、深草少将などという公卿は実存しない。
 ただこの話の根拠としては、古今集巻十五、読み人知らずの歌、

  暁の 鴨の羽掻き 百羽掻き 君が来ぬ夜は われぞかずかく

などが挙げられているが、そこからどうしても小町とつながって行くのか。
 むしろ紀貫之の歌の評など読めば、なよなよと優しい女らしい女が想像されるのだが、川柳子の偏見は意外に固く、同情を集めるのは一方的に少将ばかり、

  少将は少し風邪でも押して行き

  深草を踏みわけて行く物思い

  九十九夜うつらうつらと昼寝をし

 誠に純情な男らしいが、純愛も相手によりけりである。

  とは知らず開かずの門へ九十九夜

  閉め切りの門だに九十九夜通ひ

 そして遂に後一日という日になって倒れてしまう訳だが、無事に百日通ったらさてどうなったであろう。

  もう一夜来ると無いのを明かす所

  百日目何をかくそう穴がなし

  穴なしに通ったがきつい深草

 下らない駄洒落などでは済まない事態が発生したに違いないが、それにつけても、平安時代の公卿なんてのもはよくよく暇だったに違いない。

  気強いと気の長いのが九十九夜

  浮草へ無駄に深草通いつめ

  鶉取り少将さまは見知りごし

 ここは鶉取りなどではなく、吉原の辻占売りでも置いて見て、幾夜通っても一向に持てない我が身を顧た連中も多かったかも知れない。
 次ぎの一句など、そういう男への愛憐の情がこもっている。

  深草で裾の切れたる形見わけ

   第六 僧正遍照--色即是空は歌の世界で

  御打身はいかがさてさて良い御歌

 ご承知の通り、平安朝は女房文学の世界、紫清の両巨峯は言うまでもなく、和泉式部、赤染衛門、道綱の母など挙げ出したらきりがないが、川柳の方では不思議といい作品がないので、全て割愛して、歌人としては六歌仙の中からもう一人、僧正遍照を取上げることにしたい。

  天ッ風 雲の通ひ路 吹きとじよ 乙女の姿 しばし止めむ

 百人一首の中でも、特に愛誦される名歌だが、これを詠んだのが坊主だと気がつくと一寸変な気がする歌。
 ましてや、

  名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花
われ落ちにきと 人に語るな

 なんて歌を見ると、よくもまあぬけぬけと…と考えるのが当然と言うことになる。
 遍照の歌には、どうも人に誤解をさせて面白がっているような面が確かにある。
 後撰集によれば、小野小町が石山寺に詣で参篭して一夜を明かすことになり、折りよく遍照も泊り合わせていると聞いて、次ぎの様に言い送った。

  岩の上に 旅寝をすれば いと寒し
苔の衣を われに貸さなむ

 所がこれに対する遍照の返しというのが、

  世を背く苔の衣は ただ一重
かさねばうとし いざ二人寝む

と言うのだから、ふざけた坊主である。
 この人、俗名は良峯宗貞、仁明天皇に仕えて蔵人頭に任ぜられ、ときめいたこともあったが、帝の崩御と共に出家、一時は全く浮世を捨てたと見えた。
 しかしその後、叡山で修行を積み、験者として著名となり、陽成天皇の護持僧に選ばれてからは貴族社会との交際も復活し、押しも押されもしない社会的地位を確立してしまったから、こうした大胆な歌を詠んでも案外平気で、笑ってすまされたのであろう。
 貫之が古今の序で、
「歌のさまは得たれども、誠すくなし」と言い、
「たとえば、絵に描ける女を見て、いたずらに心を動かすが如し」と、余り上品とも言えない評価を下しているのも、案外的を射ているかも知れない。
 川柳子もその辺りは同感らしく、

  仙人ははぎ僧正は女郎花

と久米仙人と同列の扱いで、

  とどめたは乙女落ちたは女郎花

とに角女好きな坊主だと断定している。
 ところで、ここで落ちるとは何から落ちたかと疑問を持つ奴がいて、どうせこちとらは一知半解の徒、まあ馬からでも落ちたとしておけと決めてしまったのが、頭書の句であるが、他にも、

  花よりはほかに知る人もなし落馬

  落馬にもこりず乙女をとめたがり

  その後は僧正他行は駕ときめ

なんて句もある。
 勿論、坊主が落ちれば女も落ちる。
 
 落ちれば同じ谷川の水と悟ったかどうかは知らないが、言葉の綾の面白さで、今様の風俗をうたった句が幾つかあるので、挙げておく。

  親のためわれ落ちたきと女郎花

  われ落ちにきと語るなと後家は落ち

  偽医者と人に語るな女郎花

 医者に化けるのは、女郎買いをする坊主の常套手段、遍照をもし江戸に在らしめば正にかくの如くであったろうという空想が、こうした句を生み出したに違いない。
目次 栞 神代古代 飛鳥奈良 平安時代1 2 3 武士台頭 源平争乱 武家盛衰 江戸時代 目録