江戸川柳で読む日本裏外史 高野冬彦

 第二部 飛鳥奈良時代

第一 聖徳太子--仏法伝来とその周辺
  厩戸の壁に芽を吹く仏の座

 歴史と言うものは、こういう変則的な書物では、どんな時代区分をしたらよいのか、その辺の判断が大変難しい。
 区分などする必要はないと言われれば、それまでだが、矢張り本としての体裁の上からも、ある程度の変化と進展を示す段階的区分は、あったほうがいい。
 
 第二部からは、前のような神話・伝説の世界ではなく、一応歴史的に実在した人物を中心として、話しを進めて行く積りだが、とは言っても、川柳はあくまでも川柳である。
 歴史に載らない逸話や伝説、ひそひそと人の口から口へと伝えられた道聴途説の類、裏面史、裏話など、何でも好き勝手に取り上げて、歴史的常識をからかったり、引っくり返したり、勝手気侭なデフォルメを行うことが仕事なので、本質的には大して変わり映えはしないかも知れない。その辺はあらかじめお断りしておく。
 所で、この聖徳太子である。少々えら過ぎて、マジメ過ぎて、くすぐりも利かなければ、お色気も添えられない。
 川柳的には始末におえない人物だが、何と言っても我が国の仏教の育ての親、この人なかりせば、仏教の隆盛到底今日の如きは見られなかった筈だから、各宗の坊主が競ってほめることほめること。
 
  御厩へ取上げ婆ァ駆けつける

  厩から末世つながる法の道

 御誕生以来、数々の奇跡に飾られて、その生涯は光明赫燿、さすがの川柳子も指をくわえて感嘆する他はない有様だが、その生涯の難関というのが、例の物部一族を相手とする仏教是非論争である。
 抑々仏教の伝来は、欽明天皇十三年、百済の聖明王が、仏像と幡蓋、経典若干を添えて献上、
「この法は、諸々もろもろの法の中に於いて、最も殊勝れて居り、量はかり無く、辺かぎり無き福得・果報を生ず」として、その信仰を勧めて来たのがはじまりで、天皇は群臣を集めて、その採用の可否を諮った所、賛成派の中心になったのが、聖徳太子と曽我稲目。
 反対派の先頭に立ったのが物部尾輿とその子の守屋だったのである。
 
  まづ耳の早いが守屋気にくわず

 対立は、単なる論争から次第に拡大し、終には個人的憎悪にも変わって行く。
 一時に七人の人の訴えを聞いて、全て聞き分けたという聖徳太子の英明ぶりは、敵の側から見れば、最も憎らしい相手。
 口先で争っても敵わないから、何かよい折はないかと待ち構えている所へ、外国から入った疫病の流行、

「これと言うのも、異国の神を導入したことの対する神々の怒り。
 神罰じゃ、タタリじゃー」と言う事になって、排仏派の全面勝利、曽我氏の建てた小墾田(おはりだ)の寺は焼かれ、招来の仏像は難波の堀江に投げ込まれたと言う。
 この事件以来、物部守屋は仏法の敵として、永遠の敵役となる訳だが、宗教戦争というのは、どちらの側にもそれ相応の理屈はあるもので、

  神道家守屋十分理だと言い

 熱烈な支持者もない訳ではなかったのだが、

  今ならばおのれ守屋と諸職人

 寺大工などの職人にあっては型なしである。
 何しろ、聖徳太子という人は、

  御生得ふしんの好きな太子なり

 例の法隆寺をはじめとして、四天王寺、法興寺、飛鳥の橘寺その他、沢山のお寺を建て、諸職人の仕事の機会を与えてくれた人、結局は仏教支持派の曽我氏と手を組んで物部一族を討伐、滅亡させてしまうのである。
 
 かくして仏法栄えて、悪は滅び、目出度しめでたしとなる所だが、敗れたりとは言え、頑固一徹、己の信念に忠実だった守屋の強情ぶりに、反って一掬の涙と共に同情の思いを寄せる者もない訳ではなかったようだ。
 
  仏の座よけて守屋は六種粥むぐさがゆ

 正月の七草粥の中身にまで文句をつける守屋の一本気を、何か暖かく肯定しているような句だ。
 そしてこの話には、まだまだ続編が続くのである。
 

   第二 本田善光--善光寺御本尊光臨の由来

  善光は掘り出しものの元祖なり

 本田善光は信州諏訪の人。
 所の長者とされているが、身分とか家柄とか、具体的なことは一切わからない。
 調の税物を都に運ぶ任務を終えての帰り路、難波の浦辺を通ると自分の名をしきりに呼ぶ者がある。
 見ると五色の光りに彩られた閻浮壇金(えんぶだごん)の仏様で、由来を聞けば、これぞ物部守屋によって難波の堀江に投ぜられた百済伝来の一光三尊仏であったというのである。
 
  善光と呼ぶは仏の土左衛門

  善光も初手は河童と思って居

 落語の「お血脈」によると、仏の大きさは一寸八分、余り小さいので善光よしみつと言えず、「ヨチミチュ」と呼んだとか、材質は閻浮壇金、今のプラチナだとか、勝手な与太をとばしているが、何しろ浅草の観音様と一緒で、全くの秘仏だから、本当の所は一切わからない。
 
 とに角、仏様に声を掛けられた善光、かしこまって御思召の程を伺うと、「われを、そなたの国へ伴ひ行け。
 」との御言葉のままに、自分の背に負い奉って、旅をすることに相成った。
 
  難波から閻浮壇金の連れになり

  善光も木仏ならばうっちゃる気

 閻浮壇金というのは、閻浮堤(えんぶだい)という浄土を流れる川から取れる良質の金だそうで、それで作られた仏様は、さぞかし金色燦然と輝いていたろうと川柳子は想像したらしい。
 
  振り返る時善光はまぼしがり

 しかし実際には、戦火の後に海中に投げ込まれ、永い間泥中に埋もれて過ごされた苦難の仏様である。
 泥と汚れで見る影もなかったとする方が自然であろう。
 その上この仏様、どういう事情か、余程難波に居にくいことがあったらしい。
 しきりに先を急がれる。
 一日歩いて、やれ草臥れたと休息しようとすると、夜も旅を続けろと仰せられる。
 
「そなたは疲れたであろうから、夜はわれに任せよ。
 」と言われて、忽ち一丈余りの大きさに変身、今度は善光を背負って歩かれたと言う。
 そんな器用なことが出来るなら、最初から一人で歩いて行けばよいのに、仏様の気持ちはわからない。
 落語の方は大抵ここで、
「昼は小さくなっている癖に、夜になるとむくむく大きくなるなんて、どうも、何かみてえで、洒落た仏様もあるもんで。
 」などとオチを取る所だが、とに角、そういた旅を続けて信州に入ると、「この地こそ、わが意にかなった。
 早速寺を作るべし。
 」
 これまた大した理由もなく、仰せのままに造られたのが、定額山善光寺だと言うのである。
 
  重いかえなどと善光おぶっさり

  信濃まで代わりごっこにおぶっさり

 人間と仏様の美しい相互援助の姿であるが、ただ一寸引っかかるのは、この仏様、一光三尊仏とされているから、一つの光背に三尊まとめて鋳出されていたのではないかと思われるのだが、そうすると、負ぶったり負ぶさったりの時、両脇侍はどうしたのか、

  二菩薩は歩かっしゃいと本田言い

なんて句もあるが、川柳の方では、光背を離れて別行動を取ったという解釈らしい。
 それにしても従者、下人が居なかった訳でもなさそうなのに、善光さん余程ケチだったのであろうか。
 何はともあれ、彼の功績を認めて、寺の名前を善光寺としたと言う、名刹縁起鐔のお粗末である。
 
  負ぶさった礼はそのまま寺号也

   第三 久米の仙人--堕ちても仙人は仙人の物語

  その昔洗濯の場へ人が降り

 久米の仙人と言えば、仙術によって天空かを飛行中、洗濯をしている女の白い(はぎ)を見て、忽ち通力を失って落下気絶をしたと言う。
 我国の航空災害、第一号の記録保持者である。
 仙人と言えば、大概霞を喰って、浮世離れをした爺様かと思っていたら、中にはこういう人間味溢れる人物もあったかと、何か親近の情を寄せていたのだが、それが一説によれば、聖徳太子の弟に当たると言うから驚いた。
 
 「日本書紀」をひもとくと、用明天皇の皇子として、皇后炊屋(かしぎやひめ)姫・後の推古女帝の御腹に、聖徳太子、来目(くめの)皇子、殖栗(えぐりの)皇子、茨田皇子の四人の御名が見え、中で来目皇子は、生来両眼ともに見えなかったのを、仏の加護を願って丈六仏一体、脇侍日光・月光の両菩薩を添えて奉献した所、仏縁浅からず、見事両眼共に見えるに至ったので、この仏を安置するために建立したのが来目寺、今の久米寺だと寺の縁起に載っているのである。
 
 一方久米仙人については、「今昔物語」その他に散見する記録をまとめて見ると、次の通りである。
 昔、大和国の竜門寺に、久米とあつみという二人の選任が住みついて、仙術の修行をしていた。
 あつみは早く修行を終え、天界に昇ったが、久米は修得が遅く、それでも漸く空中を飛行することが出来るようになり、付近の空をとび廻っているいち、吉野川の川岸で、若い女が洗濯しているのに出会い、歴史的な大失策をやらかしたというのである。
 誠に見っともない話だが、どことなく愛敬があって憎めない。
 いかにも川柳にピッタリの材料だけに、作品の数も多いし、名作が揃っている。
 
  仙人さまーッと濡手で抱き起こし

  仙人の顔へたらいの水を吹き

  たな引く雲の絶間より久米どさり

  雲間見をしたが久米仙落度なり

 垣間見ではなく、雲間見と言ったのが新しいが、中には、もう少しふみこんで

  毛が少し見えたで雲を踏みはずし

  洗濯のそばへ太竿さげて落ち

 こうなるともう、完全なバレ句である。
 勿論世間の評判はさんざんで

  久米のスコタン聞いたかと仙仲間

  女湯を見たらとそしる仙仲間

  もみ医者に見せやれなどゝ仙仲間

 仙人の資格も無論剥奪されたと思うが、その割には全体として穏やかで、心なしか同情的な感じがする。
 
 ところで、この事件以後の久米仙の生き方はどうであったか?その辺、余り知られていないので補足をすると、彼は潔く仙人失格を自認すると、この洗濯女と結婚、ごく当たり前の人間として生活を始めたのである。
 当然そしる者、嘲笑する者もあったかも知れないが、一面何かしら一服の清涼剤を飲む感じもあって、川柳子もこんな作品を残している。
 
  仙人も還俗げんぞくをして糊を売り

  仙人も素人にする美しさ

 洗剤の糊を売ったかどうかは知らないが、仙人稼業はやめて、つつましく正直に暮らそうとしているのに、世間の方は放っておかない。
  新たにこの地方に遷都の議が起こり、高市郡一帯は騒然たる空気に包まれたのである。
 
 たくさんの資材の徴発と共に、仕丁と呼ばれる人夫が徴集される。
 久米も、今では一介の土民だから、人夫の一人として召集され、おとなしく働いていると、一人の現場監督と言うか、工事の管理の役人が、彼の前歴を知っていて、しきりにからかったらしい。
 「どうだ。お前も仙人ではないか。
 つまらぬ力仕事であくせくしていないで、これ位の資材など、仙術を使って一度に都に運んではもらえんかのう。」
 久米仙は暫らく黙っていたが、
「よろしい。やって見ましょう。」と言ったのである。
 そしてそれから七日七夜一室に籠って、何やら呪文などとなえていたが、八日目の夜、折から暴風の中を、夥しい資材は一夜の内に、誰の手を借りずに遠い都に運ばれていたと言う。

 この奇蹟はたちまちに喧伝され、時の帝の上聞に達し、久米仙には免田三十町が与えられたが、彼はこれを基にして一寺を建立、それが久米寺となったと言うのである。
 物語としては仲々面白く出来ているが、それと、さきの来目皇子とどう繋がるのか?皇子の方は確かに実在の人物で、聖徳太子の要請で、新羅討伐の責任者として九州に派遣されたが、病を得て筑紫で薨ぜられた。
 推古天皇の十一年二月の事である。

 これに対して久米仙の方は、大がかりな新都造営と言えば、持統天皇の藤原京建設のことかななどと想像され、全く年代的にもかみ合わないのであるが、肝心の久米寺の縁起を記した「和州久米寺流記」には久米仙人の事跡を詳しく伝えて居り、仙人は十一面観音の化身で、最後には、例の洗濯女を伴って、西方の空にと翔び去ったなどとしているあたり、久米仙尊崇の跡も見えて興味深い。

 そもそも仙人などと言う存在が、日本にも本当に居たのかどうか、それだけでも興味ある研究テーマだが、とに角、久米寺の本堂には、久米仙人の木像と称するものが、厳然と鎮座していることは事実である。

   第四 藤原不比等--愛に殉じた女性ダイバ--

  大職冠ずるりずるりとだまをやり

 我国の古代史で、藤原氏一族がどれ程大きな比重を占めていたか、今更言うまでもない。
 それだけに、一門興隆の原動力となった鎌足の偉大さが注目されるのは当然で、川柳でも、大化の改新などに関連して

  年号のはじめ鎌にて鹿を切り

  内裏で困りいる鹿を鎌で切り

  神代から小屋根につたふ藤かずら

 などの作品があるが、どう見ても面白い句ではない。
 まして二代目の不比等となると、根っからの官僚で、太宝律令の完成などと言っても、川柳子から見れば全く無味乾燥、ネタになりそうな所は、何一つない人物と思っていた。 

 所が、思いもかけぬ所で素晴らしい説話が作られていた。
 それが讃岐・志度寺の縁起であり、謡曲「海女」としてまとめられた伝説である。
 いさゝか荒唐無稽な所もあるが、その概要は次の通りである。
 淡海公藤原不比等に妹があった。
 これが、どういう理由でかは不明だが、大唐国の皇帝・高宋の后となった所から話は始まる。
 彼女は懐かしい故国、それも崇敬する氏寺・興福寺のために、三つの宝玉を中国から贈ろうと決心をする。
 所が、この宝玉を積んだ船が、我国の讃岐・志度ノ浜まで来ると、かねたからこの宝玉をねらっていた竜神の計略にかかり、最も大切な「面向不背の玉」を、だまし取られてしまったのである。 

 このまゝでは、帝に対しても、又々唐の皇帝に対しても、面目のたたなくなった藤原不比等、最後の方策として、よく潜る漁人海女を求めて、志度の浦辺にやって来た。

  大職冠よくむぐるのへ文をつけ

  志度の海女好きな道からつけこまれ

 ことは国家の体面に関わる重大秘密、なまじなことで外に洩れては大変と、そこは稀代の策謀家である。
 祥しい事情は一切明かさず、女性の一番弱い部分から攻撃を始めて行った。
 いかにも不比等らしいが、川柳子はそれを親父の鎌足と混同して、しきりと大職冠と呼んでいる。
 まあ、その位の誤りで、一々目くじらを立てゝ居ては、とても川柳の世界につき合ってはいられないとお覚悟いただいて、以後大職冠というのは、全て不比等のこととご承知頂きたい。

  鮫肌になったをしめる大職冠

  塩出しをして鎌足は召上がり

 潮くさいのを我慢して抱いた訳だが、
「これもみな大義のためじゃ。
 」てなことを言いそうな所が特権官僚の嫌な所、ずるりずるりという形容詞が効いている。
 さて海女の方はと言えば、憧れの都びとそれも思いもかけぬ高貴の方の情を受けて、身も世もあらぬ大感激、情熱の限りを尽くしたから、日ならずして愛の結晶を宿す。
 この時生まれたのが不比等の四人の子供の中の第ニ子、名を房前(ふささき)といゝ、後に空前の栄華を極める北家の創立者となった男だと言う。 

  腹帯をさせて鎌足わけを言ひ

  肥立ったを見て大職冠サテと言ひ

 妊娠とわかった時に言ったか、無事出産の後に打ち明けたか、その辺はわからないが、もう大丈夫、こちらの言いなりになる筈だと見極めた所で、サテと切り出した男の冷たさ残酷さを、この句はかなり言い当てゝいる感じがする。
 勿論、命がいくつあっても足りない程、危険極まる仕事である。 

  大職冠伽羅の油を買ってやり

  大職冠はれじゃといもじ買ってやり

 色々御機嫌も取ったと思うが、やはり最大の問題は子供のこと、謡曲によれば、

  ♫その時 海人(あまびと)申すよう、もしこの玉を取り得たば この御子を世継の御位になし給へと申ししかば…

 淡海公もその心に打たれて

  鎌足へ百も二百も遺言し

  玉を取りや内侍にすると鎌をかけ

 とも角も後顧の憂いなからしめようと、男の方も真剣そのものだったに違いない。 

  鎌足へ真ッ裸での暇乞ひ

  腰縄で行く盗人は玉を取り

 成程、腰縄つきの盗人というのは珍しいかも知れないが、此処で川柳子はハット気がついて考えて見たらしい。
 
  竜宮へよくはつもって縄を下げ

 命綱をつけるのは当然として、竜神の宮殿まで、どの位距離があるとして計算したのだろうか?これは我々としても、是非供知りたい所だが、勇敢な海人は先のことなど考えない。 

  ♫一ツの利剣を抜き持って…ザンブとばかり海に入る。

 大体志度浦というのは、香川県屋島の東側の海域を指すらしいが、この辺の漁人の中には随分深く潜れる者もいたらしい。
 古くは天皇の御代に、男狭磯(おさし)という漁人が、六十尋の海底から大きな鮑を引き上げて、巨大な真珠を献上した記録が、日本書紀に残っている位だから、この海人も、腕というか呼吸(いき)についてはかなりの自信があったのかも知れない。 

  竜神は鮑あわび取りだと油断する

  竜宮の家尻を切って義理を立て

 竜神が如何に油断したとは言え、家尻を切るというのは、壁だの羽目など穴をあける仕事だから、アクアラングでも無い限り、到底人間業で出来ることゝも思えないが、愛は全てを可能にする。
 彼女は全ゆる世界記録を簡単に更新しながら、宝玉の奪還に成功する。
 やれ嬉やと思う間もなく、竜宮城の警報装置が作動して、けたゝましい非常ベルの音。

  玉取りを追いかけて出る太刀の魚

  鉄砲やり烏賊太刀の魚海女を追い

 鉄砲というのは河豚のことだから、毒性の程は恐ろしいが、その姿を想像するとノンビリと間が抜けていて、この手の追手なら大したことはないという気がするが、

  泥棒と難陀阿那婆多なんだあなばた追いかける

 この読みにくい名前の持主は、竜宮を守護する八大悪竜の眷属だそうで、この連中が相手となると話が違って来る。

  玉取りは水を霞と逃げるなり

 黒髪をなびかせての必死の逃亡も、悪竜との競争ではとても敵わない。
 忽ち周囲を取り囲まれて、

  悪竜の中に裸の立ち姿

 今はこれまでと覚悟を極めると、

  ♫かねて企みしことなれば、乳の下を掻っ切って、玉を押しこめ、剣を捨てゝぞ伏したりける…

 そのけなげさ、美しさ。
 景情相応じて、現代的海洋映画に使っても、仲々の見せ場になる所だから、江戸ッ子も黙ってはいない。
 「何とか助ける()はねえのかい。
 」としきりに気をもんで、

  よいかくし処に海女は気がつかず

  入れ所を持っていながら乳の下

「とに角、現物はかくして、シラを切り通せばいゝんだよ。」などと、万引きの現行犯みたいに考えている奴もいるかと思えば、

  またぐらへあてがって見る志度の海女

「わかっちゃいるけど、大きさの問題で」などと見て来たような解説をつけているのもいて大騒ぎ。
 いずれにしても、これ程の苦労がいかに海女とは言え、みすみす水の泡となるのではと心配しての話だが、謡曲では、

  ♫竜宮の習いに死人を忌めば、あたりに近づく悪竜なし…

 と説明があって、彼女は見事、宝玉を護り通したのである。
 一方。
 安否を気遣っていた舟の上では、

  鎌をふりたてヤレたぐれたぐれ

 相変わらず鎌足と間違ってはいるが、人間ならば誰の心も同じこと、

  引上げてミルメもあはれ志度の浦

  届かぬまでも外科を呼ぶ志度の浦

 冷い策士の不比等でも、この時ばかりは本当の涙を流したであろう。
 彼女の菩提を弔ふために志度寺を建て、遺児・房前も約束通り後嗣に据え、後の繁栄の基礎を築いたのだから、彼女も以って瞑すべきであろう。

 僕はこの話を読む度に、明治の作家、泉鏡花の「歌行灯(うたあんどん)」と言う作品を想い出す。
 女が命をかけて思いこんだ時の一途な美しさを、日ごろのはかなさ、弱々しさの向う側に見つめようとした彼のロマンチシズムが、この志度の海女の中に、一つの理想像を見出したに違いないと思うからである。

  第五 阿倍仲麻呂--吉備真備

  三笠山唐まで月の冴えた所

 二人に共通した点と言ったら、共に遣唐使として唐に留学したこと。
 その点について、江戸っ子はどんな考えを持ったかと興味を抱いたのだが、とんと反応なし。
 何しろ寛永以来の鎖国政策で、この狭い島国を唯一の世界として生きて来た連中である。

 まあ中国位はおぼろ気に聞いてはいたろうが、唐も韓も共にカラと読んで、実質的差異は感じていなかったと思われる状況では、外国への関心など、持てという方が無理なのであろう。
 しかし中には、そういう状態だからこそ、嘗って学問修行のために、外国に渡った人が居たという事実に、鋭い好奇心を湧かす人間もありそうなものだがと思ったのだが、期待はずれ。

  遣唐使吹き出しそうな勅を受け

  遣唐使匙でへには困るなり

  遣唐使あとは茶漬を食いたがり

 とに角、とんだお役目を引受けて、お気の毒にという句ばかり、そんな苦労をしてまで、外国に行ってみたかったという彼等の気持ちには思いも及ばないらしい。

  他人の中を見て来たには遣唐使

 この句など、僅かにその匂いがないでもないが、人間と言うものは放っておけば、自分の身のまわりの世界だけで、平気で自足してしまうものらしい。
 平和のためには、こういう政策も必要なのだと、徳川幕府だけでなく、現代でもどこかの国に政治家は言うかも知れないが、考えて見るとやはり恐ろしい気がする。
 だから阿部仲麻呂が、唐に渡ったまゝ帰れなくなったと聞けば、お可哀そうと同情するばかり。

  百人の中で唐紙へ一首書き

  三笠山四角な国で丸く読み

 さぞかし日本へ帰りたかったろうと、思いやる気持は嘘がなく、素直である。

  仲麻呂はもろこし団子にて月見

  仲麻呂が相談相手月ばかり

  仲麻呂は頭を垂れて山の月

 李白の「静夜思」

  挙ゲテ頭ヲ望ミ山月ヲ 低レテ頭ヲ思フ故郷ヲ

 の文句取りだが、川柳にしては出色の格調の高さである。
 但しこの同情心も、仲麻呂の積極的意志の面、この目もくむばかりの大唐文化の輝きのためにならば、たとえ異郷に骨を埋めても悔いはないと考えたかも知れない。
 天平人の向上心にちては、何一つ触れようとしないのは、誠に残念である。

  仲麻呂の歌をチンプン感じ入り

  その山に豚もいるかと阿部にきき

 蟹は甲羅に似せて穴を掘る。
 外国文化を馬鹿にしたつもりが、自分の浅薄さの表明にしかならないことは、我々としても心しておくべきかもしれない。
 仲麻呂に比べ、吉備真備の方は仲々戦闘的である。
 弘法大師が平仮名の発明者であるに対して、片仮名発明の名誉を与えられたり、とに角尋常ならざる才能の持主と考えられていたことは確かであるが、大江匡房の「江談抄」や、
「吉備大臣入唐絵巻」などの伝える所を総合すると、彼の入唐というのは、日本人ん才智を代表して、唐文化との全面的対決、そして最終的勝利を実現するためのものだったように見えて来るのだ。
 勿論しれだけに話としては面白い。
 真備は入唐早々、日本人の能力を試すという名目で、鬼の棲む高い楼閣に閉じこめられる。
 所がこの鬼は、吉備の才能に驚いて、反って味方となり、第二のテストとしての文選の試読を援けてくれる。
 第三段には碁の勝負を挑まれるが、これにも勝ち、最後には、どこから始まって、どこへつながるか順序不明の「野馬台」の誌を読まされるが、吉備が日ごろ信仰する長谷の観世音を心に念ずると、一匹の蜘蛛が天井から降りて来て、読む順番を教えてくれ、見事難関を突破して、日本と日本人の威信を高からしめたというのである。
 こうした民族主義的な敵愾心は、閉鎖的社会ほど激しいと言う。
 江戸ッ子は正にその典型である。
 外国人など見たこともないから、無闇やたらに恐がって、それだけ虚勢を張って対抗意識を燃やす。
 万一外人に勝ったりすれば、忽ち国民的英雄である。
 勝つための手段は問わないのである。

  とんだ詩を出して読めとは唐カラむたい

  唐人の目にはくもなく読むと見え

 もともと相手の出方が悪いのである。
 それを打ち破るためなら、蜘蛛のカンニングも何の恥ずる所があろう。

  長谷点で読んだと他人知らぬなり

  野馬台の上へ字突きがぶら下り

 字突きと言うのは、寺子屋の師匠などが、弟子に読む場所を指し示す道具だが、こうまでして、日本人に勝たせたがった長谷の観音様も、案外偏狭な国家主義者だったようだ。
 もっとも、こうした抵抗心が全く無くなった世代というものを想像すると、これも又しらじらと冷え切った、救いのない世界だろうとは思うのだがー

  詩の碁のと言って日本の智恵に負け

   第六 光明皇后--千人の垢を流した慈悲の女神

  よい垢を落として光る后なり

 聖武天皇と光明皇后、奈良文化というものは、全てこのお二人を廻って形成されたと言っても過言ではない重要人物、だからそれが川柳の対象になる…という訳には行かないことは、今更言うまでもないが、ここでは、次の章との関係もあって、天平時代の歴史にちょっと触れて置きたい。
 光明皇后は藤原不比等の第三女。
 (実は此処にも問題はあって、やかましい議論が交わされる所だが、一応彼女自身の藤三娘の署名のある点から三女としておく)
 長女の宮子は、後の文武天皇の妃となって、皇太子・首皇子、後の聖武天皇を産んでいる。
 文武天皇は若くしてこの世を去り、他に皇子はない。
 これぞ千載一遇のチャンスと奮い立った不比等は後宮の実力者・橘三千代に近づいて、これと結婚。
 天皇の周辺を全て自己の勢力で覆い尽くすようにして、天皇権力との一体化を策して行ったのだが、その最大の焦点が、三千代の娘、光明子と首皇子との結婚だったのである。
 光明子という名前も珍しい。
 生れた時は安宿媛(あすかべひめ)と呼ばれていた筈だが、聖武天皇との婚約の整う時分から変わったようである。
 現代人の考え方とは違うとは承知しているものゝ、やはり藤原氏一門の繁栄を約束する希望の星と言ったニュアンスがあったことは事実であろう。
 そう言えば東大寺の大仏。
 毘廬遮那(びるしゃな)仏のビルシャナというのも、元来"光明"の意味だそうで、これと光明皇后の名を同じ水平線上に置いて見る時、大仏建立の裏面にある。
 人間関係の複雑微妙なからみ合いが、おぼろ気ながら見えて来る感じがする。
 勿論僕は、こんな所で天平政治の裏面史を語ろうとしている訳ではない。
 藤原一門の異常なまでの権勢欲のためもあって、表面の華やかさにも関わらず、どこを取っても妙なうさん臭さを感じさせることを言って置きたいのである。
 光明皇后と言えば、俳句の方でも

  秋立つや素湯芳しき施薬院

 などの名作のある通り、仏教的な慈悲忍辱の化身として、貧しい病人・孤児達のために悲田院・施薬院を創設して、数多くの善根を施した女性として有名である。
 中でも、現在なお法華寺に遺構の残る大浴場を建設し、自ら先頭に立って千人の病者の垢を流したと言う。
 そしてその千人目に現れた病人というのが、くされたゞれた癩病者で、人々の恐れうろたえる中で、皇后が自ら湯を浴せ、血膿を吸ってやった所、忽ち光明を現じて、本体の阿?(あしゅく)如来の姿となって、虚空はるかに飛び去ったと言う伝統は、広く喧伝された所である。

  かったいの尻こぶたまで后吸い

 川柳はこういう御利生譚には、普通はひどく弱い。
 たゞ、この光明皇后に関する作品は、その点ちょっとつっかゝる。

 御承知かと思うが、施薬院・悲田院の設置されたのは、天平元年(七ニ九)八月、光明子が正式に聖武天皇の皇后として、人臣から初めて擁立された慶事を記念して行われたもので、この為には、父・不比等に賜わった功田二千町歩を惜し気もなく施入した程の力の入れようであったが、実は立后の僅か半年前、それに反対していた左大臣・長屋王が、幼少の皇太子を呪殺したという、当時としてもかなりいかがわしい罪名で、強引に自殺に追いこまれた事件があり、そのあまりに見え透いたデッチ上げによる、皇后並びに藤原一門に対する不評を、何とかして挽回しようとする社会的PRの匂いの強い政策だったのである。
 川柳子に、こうした政治の裏面史に切りこんで行くに足る資料や、歴史的教養がどこまであったか、それを断言する勇気はないが、作品を見て行くと

  千人目鼻をつまんで湯を浴びせ

 こゝでは皇后は、決して好きこのんで病人の看護に励んだようではないし

  手拭屋薪屋光明さま御用

 光明さま御名前入りの手拭が、一斉に無料で配られたり、施薬院浴場用と高札を掲げた薪が、景気良く街中を走り廻ったりする様を想像した彼等の嗅覚というものは、仲々どうして大したもので、僕が歴史川柳というものに、何かひかれるのは、こういう本能的、或いは直感的人間把握の確かさ、見事さを感ずるからであろう。
 次の一句など、この折の藤原一門の宣伝のねらいを、見事に喝破して余す所なしという気がするのだが、どうだろう。

  九百九十九人は垢あかの他人なり

   第七 弓削道鏡--男の夢・巨根出世物語(一・四)

  道鏡が母馬を夢みて孕む

[その一 処女皇帝の誕生]
 奈良時代も後半に入って、聖武朝から孝謙女帝へ、歴史の歯車はまわって行く。
 
  青丹よし奈良の都は咲く花の匂うが如く今盛りなり

  東大寺の大仏が完成し、絢爛たる天平文化もいつか絶頂期を越え、いい知れぬ疲労と頽廃の影を帯びはじめるこの時代、この意外史も空前のスーパースターの登場を迎えることになる。
 弓削道鏡である。
 しかし道鏡を語るためには、それに先立って孝謙女帝の解説から始めることが、どうしても必要だ。
 暫くお耳を拝借である。
 前章で述べた通り、藤原氏による政権独占の野望は、聖武天皇の後継者として、光明皇后の冊立と、その子、(もとい)皇子の皇太子化とを最大の目標としていた。
 ところが、その肝腎の皇子が僅か一才で夭折してしまったから、今度は、同じ光明子腹の皇女・阿部内親王を、外腹の男子・安積親王があるにも関らず、無理矢理皇太子として擁立してしまったのである。
 こうしたやり方が、いかに強引・無謀なものであるか、藤原一門として知らない訳ではなかったが、強大な天皇権力を、いかにしても自分達の支配圏内に閉じこめて置くためには、外聞も体裁も構ってはいられなかったのであろう。
 しかも彼女の場合、結婚による権力の分散・縮小などの起こらぬよう、生涯処女皇帝として、一門の希望する通りの道を歩み続けるよう強制されていたのである。
 このような残酷な人生航路を、自分の意志に関係なく背負わされた女性が、やがて性格の面で、どのような歪みや陰影を持つに至るか想像に難くない。
 これに類する実例としては、ずっと後世になるが大阪夏の陣の千姫などが考えられる。
 十重二十重に絡み合った策謀の中で、若い生命をカサカサになるまで絞り取られた鬱憤を、戦後吉田御殿で一気に噴出させたというのだが、この方は確たる証拠もなく、多くは単なる憶測とされてしまうようだが、孝謙女帝の方はそうは行かない。
 百万塔陀羅尼などに見られる途方もない気まぐれとわがまま、人を困らせるためだけの強情やひねくれ、女性特有の残酷さや虚言癖、数々の悪評・誹謗が彼女を巡って渦巻いているのである。
 そして、その中でも最大の悪評が、男女間の混乱・葛藤にあったことは、当然ながら彼女の不幸だったように思われる。
 既に正史である「続日本紀」に道鏡の異常な官位の昇進に関して、
「時ニ道鏡 常ニ禁椨ニ侍シテ甚ダ寵愛セラレ…(巻二十五)」とか
「法王・道鏡 西宮ノ前殿ニ居ス…(巻二十九)」とか、処女皇帝たる女帝と女性禁断の僧侶とが、起居を共にして殆ど夫婦関係にあったことを推測せしめる如き記述があるばかりでなく、女帝の没後わずか五十年にして書かれた薬師寺の僧・景戒の著書「日本霊異記」には、
「天平神護元年 始メテ弓削氏ノ僧道鏡法師 皇帝ト枕ヲ同ジクシテ交リ通ジ 天ノ下ノ政ヲ相摂シ 天下ヲ治ス」と何の修飾もない筆致で、女帝の乱行による政治の紊乱ぶりを記しているのである。
 但し、この荒淫と乱行が、実は女帝の生理的構造に由来するものだという伝承に発展するのは大分後のことである。
 鎌倉時代末期の「あい嚢抄」という書物に、孝謙女帝が涅槃経の経文に対して冒涜の行為があり、その結果、
「忽チニ淫欲熾盛ニ成リマスノミナラズ 女根広博ニシテ 敢テ其ノ欲ヲ停ムル者ナシ」という説を載せているらしいが、鏡ものの一つ「水鏡」などでも、
「此ノ時分マデハ 孝謙女帝モ未ダ涅槃経ノ御罰モ無リシ御事ニテ…」とか、
「天平宝字二年ノ春に比 涅槃経文ノ御罰ヲ蒙リ給ヒテ…」などの文章が見られる所を見ると、恐らく鎌倉時代の初期までには経文冒涜の行為によって、肉体構造の一部に変化を生じたという奇妙な伝説が出来あがっていたと見なければいけないようである。
 こと此に至れば、川柳子が欣喜雀躍して飛びつかないはずがない。

  道鏡は据風呂桶の御字に出る

  お香箱時分女帝は御重箱

 お香箱というのは香を入れる小箱のことで、同時に女性の持物の隠語にもなっている訳だが、それが一人だけお重箱級の特製サイズに生まれついたとしたら、これは悲劇である。
 
  道鏡が出るまで牛蒡洗うよう

  みな細い細いと女帝きのこ狩り

 生涯結婚しないと決めたのも、実はその為だったかも知れぬが、それはそれなりに内心の悩みは深刻だったに違いない。

  稲荷山女帝は度々の御幸なり
  女帝さま御留場肥後の芋畑

 稲荷山は松茸の名所、また肥後の名産ずいきの方も、度々御指定御献上のお声が掛かったかも知れぬが、結局の所、こうした模造品では最終的満足は得られない。
 全国に檄が飛ばされ、特大、超特作の持主はいないかと虱潰しの調査が行われる。

  関所へも女帝度々御ン頼み

  大物の浦もさがせと御勅令

 正に国家的要請の嵐の中、忽然と姿を現すのが道鏡坊主と言う訳である。

   第七 弓削道鏡--男の夢・巨根出世物語(二-四)

[その二 道鏡の登場]
 道鏡巨根説というのは、いつ頃、誰が言い出したものか今となっては知る由もないが、最も詳細かつ具体的に記録したものとしては、前にも出た和文系史書「水鏡」がある。
 その下巻、淳仁天皇の条に、
「天平宝字四年ノ秋ノ比ヨリ、コノ道鏡ハ大誓願ノ心ヲ発シテ思フ様、此ノ如意輪経ノ説相ハ、信心ヲ致シテ行セバ(中略)現身ニ国王ノ位モ、ナドカ至ラザルベキモノト思ヒテ、大和国平群郡梟ノ岩屋ト云フ処に三ヵ年ノ間篭リ居テ、一心ニ此ノ経ヲ行ヒケルニ、三ヵ年満チケレ共、国王の宣旨ヲモ蒙ラザレバ、道鏡、経法ニ於テ謗法ノ悪見発シテ、此ノ経文サテハ虚妄ナリケレト思ヒ入リケレバ、年来ノ尊像、絵像ノ六臂ノ如意輪ヲ親ラ彼ノ岩屋ノ雨落ニ捨テ、アマツサエ本尊ノ上ニ我ガ尿ヲ仕懸ケ奉リヌ。
 此ノ時思ヒノ外ナルニ、カハチ一ツ飛ビ来ッテ道鏡ガ開ノ先ヲ刺シヌ。
 其ノ疵ヨリ大物ニナル事言フ計リナクナリニケル・・・云々。
 」
 このカハチについて、蛙だという説もあるが、蛙が刺したと言うのも肯けない話で、(アブ)だと言う説の方が分かり易い。
 とに角、こうして成人後の突然変異によって生じた現象という説だが、果たしてそうだろうか?中には医学的見地から、摂護腺肥大という病気をするとこの物が大きくなるなどと、科学的説明を試みる者もあるが、この病気は日本人には大変少ないそうで、この面からの穿鑿も余り期待出来ないらしい。
 川柳子は元来頭は単純の方だから、
「何も愚図愚図言うこたあねえさ。
 生まれつき大きかったから大きいんだ。
 それでいいじゃねえか」と言う考え方で、

  弓削村へ日本一のきのこ生え

  弓削村で面じゅう鼻の子が生れ

 鼻の大きい奴はあれも大きいとの俗説に従へば、さぞかし大きい鼻だったろうという訳だが、こういう子供を持った母親は当然心配をする。

  数千本みみずを洗う弓削の母

  虫のせいかと道鏡の母案じ

 まじないだ、薬だと苦労の甲斐もなく、この傾向は年と共に顕著になって行く。

  道鏡が幼名たしか馬之助

  出来合いのシビン道鏡間に合わず

  道鏡はフンドシまでも尺をのべ

 規格はずれなのは何時の時代でも余計な物入りだから、家族にしてもこいつはとんだ背負いこみだと首をひねったかも知れない。

  小さいと道鏡ハッチ坊主なり

  道鏡もあはで此の世をすごすごと

 世が世ならば、乞食坊主にしかなれなかったかも知れぬ一青年に何の意志かは知らず、巨大な運命の歯車は次第に近づいて来る。

  民間にへのこの雲気太く起ち

  聖代は麒麟、女帝に大へのこ

 “白虹日を貫く”は兵乱の兆しと言うが、これ程の運命的出会いである。
 巨大なきのこ雲の出現くらいの奇瑞はあったかも知れない。

  天皇馬を呑むと見て僧を得る

 川柳子も面白がって勝手なことを云っているが、かくして天地陰陽の壮大な合一を象徴する両雄の対面は、天平宝字七年(七六三)八月、女帝の看病禅師として西宮の持仏堂に召されたに始まると歴史は伝えるが、川柳の方ではそんな形式にはこだわらない。
 ぐっと即物的な事態の進展を考えている。
 “超人的スリーLサイズの若者発見”の情報に色めき立った朝廷は、早速に実地検分の勅使を派遣する。

  舌を出し舌を出し弓削村へ勅使行き

  道鏡へ乗りかけ馬の勅使立ち

 この時の勅使の名が左小弁広橋卿だなどと下らない洒落を言っている句もあるが、

  弓削村へ勅使の前に山師来る

 なんて句もあるから下手をすれば道鏡、見世物に売られていたかも知れない危ない所、早速村役人を呼び出して立会いの上で実物の計測が始まる。

  勅名だへのこを出せと勅使言い

 「今は何をかつつむべき。
 」と言ったかどうかは知らないが、恐る恐る開陳の逸物を見て勅使達仰天した。

  天が下二本はないと勅使ほめ

  これより大なるはなし勅使たち

  その時勅使寸法を笏で取り

  大仏の鼻ほどあると奏聞し

 これは少し大袈裟だが、稀代の掘り出し物であることは間違いなしと折り紙が付いたから大変である。
 蛟竜正に雲を得て天空高く飛翔せんとする有様。

  弓削村の勅使帰りに雨にあい

 と川柳子は早くも来るべき風雲の予感をもらしている。
 考えてみれば、道鏡も不思議な星の下に生まれたものである。

  道鏡にさて困ったと大社

 余りに巨大な道具ゆえに出雲の神様にしても、結びつけようがないと嘆いて、その為に僧になるほかはなかった片輪物が、今や一躍時代の寵児である。

  時を得て道鏡ねかしものを出し

  うわばみが弓削の村から天上し

 装いも美々しい迎えの輿に乗り、股で風を切っての上京である。

  一本の道具押し立て参内し

  万婦不当の道具にて参内し

 情勢が変わって見れば、正に好機
「嗚呼 天このために我を在らしめたるか」の感慨胸に迫り、
「如意輪経の功徳は、今こそ現前せり、この果報を取らざる時は、何のカンバセあって故郷の人々と相まみえようぞ。
 」と道鏡が奮い立ったのも当然である。
 
  唯我独尊とは弓削のへのこなり

  燕雀いずくんぞ大鵬と弓削まくり

 気持ちとしては大砲と書きたい所だが、何にしてもその心意気には女帝とて感動しない筈がない。
 
  あればあるものだと女帝御満悦

  馬はものかはと叡感浅からず

  両の手で孝謙帝は御ンにぎり

 忽ち無二の者として座右を離さず召し使うことになる。
 官位の昇進も目覚しく、最初のうちは女帝の欲求不満の解消のためには、多少の経費の増加も止むを得ないと気楽に考えていた官僚達も、次第に不安に陥るようになる。
 以下その辺の機微を穿った句を並べれば、

  せがれ故思いもよらぬ公卿になり

  権ノ右馬ノ頭に道鏡任ぜられ

  弓削の母馬の内侍とおくり号

  従一位に昇進したる道具なり

 いくら羨しがった所で、道具の違いは如何とも致し方ない。
 何しろ道鏡の物と言ったらギネスブックにも乗りかねまじき超巨大作なのである。

  道鏡が座ると膝が三つ出来

  棒立ちになると道鏡木の字なり

 なんてのは少々誇張に過ぎる気もするが、これだけ大きいと他に転用がきかない。

  道鏡は御悋気などの世話はなし

  道鏡は一戒保つばかりなり

 五戒を保つ気はないが、女については一戒と言うより一開を保つよりなかったのである。
 当然、愛情は君臣の枠を越えて蜜よりも甘く、感能的悦楽の深さは一切の世俗的常識の介入を許さない。

  道鏡に崩御崩御と御大悦

  綸言の度に道鏡汗を拭き

  道鏡に根まで入れろとみことのり

  女帝の鼻息雨戸まで吹きとばし

 いささかバレ句を並べ過ぎた気もするが、とに角、天下に二人とない相性の持主である。
 愛憐恋慕の情の深さは想像を超えるものがあったと思われる。

  公卿めらがやきおりますと道鏡言い

  めめっちょう奴等と女官を嘲笑す

 他人の非難も反感も眼中にない熱中振りだが、そうなればなるだけこのまま放置してはならぬと、二人の周囲に険悪な策謀をめぐらす敵も現れてくる。
 藤原仲麻呂である。

   第八 弓削道鏡--男の夢・巨根出世物語(三・四)

[その三 藤原仲麻呂の反乱]
 仲麻呂は南家・武智麻呂の第二子、叔母の光明皇后と手を組んで一時橘ノ諸兄に移りかけた政治の実権を見事奪い返した功労者である。
 と言う事は阿部内親王から処女皇帝・孝謙天皇に生まれ変わる筋書きを、殆ど自分の手で書き上げた男と言う事になる。
 しかし、こうした政策を強引に遂行するためには、単に大臣・宰相の地位に居たという程度の人間関係では到底うまく行くものではないと言う。
 特に一方のパートナーが女性である場合には、時には有無を言わさず相手を引っ張って行ける力関係が出来あがっていないと、永続的な協力体制は成功しないらしい。
 仲麻呂がこうした面で何をしたか、勿論歴史の上では何の記録もない。
 しかし孝明皇后を通じて藤原氏の政権を回復するためには、皇后専属の役所・紫徴中台を設けて、その内相に任じあくまでも内側から皇后を操縦して行った男である。
 驕慢で気まぐれな孝謙女帝を動かすのに、同じような内面からの操縦法を考えない訳がない。
 とか何とか書いてはいるが、決してこれが著者の史観だと言う訳ではない。
 ただ川柳子がそう感じていたらしいというだけの話である。
 実を言うと、仲麻呂と孝謙女帝との関係と言うのは、小説的空想を以ってしても、余り可能性はないのではないかと思う。
 第一には年代が大部離れている。
 その上、光明皇后との間にキナ臭い噂が絶えないのに、今度は親子ドンブリで…というのは、いかに性関係のルーズは時代と言え、少々虫が良すぎるようだ。
 そのため仲麻呂は早くから傀儡皇帝として淳仁天皇を用意して,ついに女帝の退位に成功、新体制の下での完全なる仲麻呂政権の樹立を策したのである。
 しかしそれ位のことで温和しくなるようなジャジャ馬ではない。
 聖武天皇の血の尊厳を看板として義務からは開放されたが、権利の方は従来通りと反ってわがままの言い放題、道鏡との愛欲生活も一向に改まる気色もない。
 所が仲麻呂の方にも弱みがある。
 橘ノ奈良麻呂の乱を鎮圧して、恵美押勝の名前を賜った頃は飛ぶ鳥も落とす全盛だったが、調子に乗って権力を振り廻し過ぎたのが祟って、他氏族からは勿論、同族の藤原一門からも浮き上がって孤独が目立って来た。
 そこへもって来て頼みの綱の光明皇后の崩御である。
 頭の抑え手のない女帝の乱行にどう対処するのかという焦りと道鏡一派への憎しみから、柄にもない武装蜂起を計画して見事失敗、一代の嬌児・恵美押勝も敗軍の身を如何とも出来ず、遂に琵琶湖の水底に沈む悲惨な末路を辿るのであるが、一方女帝は勝ちに乗じて淳仁帝を淡路に流し、称徳天皇として践そ、再び独裁権を手中にしたのである。
 しかしこうした歴史の流れも、川柳子の眼には単純な三角関係の争いとしか映らないようで、それはそれで面白い。
 勿論、有名な歴史書の中でも、特に例の「水鏡」などは、
「ソノ淫欲強盛ニ御時分ニハ、様々ノ不思議ナル御振舞アリシ中ニ、諸卿大臣ノ中ニハ、コノ仲麻呂一人、タグヒナキ大物ノ大臣ニテ、大上天皇ノ御覚エヒマナカリシ也」と川柳子と余り変わらない立場に立っているらしい。
 特に「タグヒナキ大物ノ大臣」とはどういう意味なのか、これに刺激されて、

  弓削と恵美古今無双のまら戦さ

 なんて句も出てくるのである。
 但しこの戦さの結果は始める前からわかっていて、

  押しで勝つ気でも大きさに小ぶりなり

  押勝がへのこ叡慮にそむいたり

  道鏡はいたし押勝ではかゆし

 戦後、誰に遠慮もなくなった女帝の道鏡に対する偏愛の程はすさまじく、重祚の翌月には太政大臣禅師に任ずるとあり、更に翌年十月には法王に任ずるという従来見た事もない官職を勝手に授けて、殆ど天皇と同格の権勢を振るわせて憚らなかったと言。

  道鏡はほんに男の玉の輿
  洛中を下に下にと大へのこ
  女帝の御代は立役が馬の役

 正に時代の大立物、千両役者になった訳だ。
 こうなると道鏡の方も欲が出る。
 かの経文の示現もある通り、
「現身ニ国王ノ位モナドカ至ラザルベキ」と言うのもまんざら夢ではない。
 
  もちっとで内裏に湯気のたつ所

  これはえんぎの御世らしい道鏡

 実際に延喜天皇もいられるので、一寸分かりにくいが、この場合は金精さまと称する陽物を祭る所を、えんぎ棚と言う所から来たもの。
 えんぎ帝実現のために今一息頑張れの声は次第に高まって行ったのである。

 五式の雲が伊勢神宮を取巻いたので、年号を神護景雲と変えるとか、白い雉、不思議な亀が出たと瑞相が喧伝され、やがて宇佐八幡宮に神託が降り
「道鏡を天皇にすれば百年の太平を見るであろう」と見え透いた流言が意図的に流されるに至っては事は既に時間の問題、万世一系の皇統はここに中断して、へのこ王朝の実現を見るかも知れぬ、正に有史以来最大の国体の危機だったのである。
 念のために書いておくと、江戸っ子というのは、天子さまについては余り気にしたことのない人種、道鏡王朝の成立についても
「一度位そういうことがあっても面白いじゃない」てなことを言いそうな面は確かにあったのである。
 
  かの道の鏡となるも天下一

  大開とすでに年号なる所

 しかしこの時、決然起って民族の良心のあるべき姿を示し、道鏡の野望を打ち砕いた人物がいた。
 それが和気ノ清麻呂である。

   第八 弓削道鏡--男の夢・巨根出世物語(四/四)

[その4 和気ノ清麻呂の反乱]
 清麻呂については、余り詳しいことは省略するが、ただ彼が前述の宇佐八幡宮の神託の真偽を確かめる使者に選ばれた時、道鏡側の手を尽くしての誘惑にも関らず天皇の御前で、其の神託は
「天ツ日嗣には必ず皇緒を立てよ。
 無道の人は早く除くべし」とあったと述べ、道鏡の野望にぴしゃりと止めをさしたことは、確かに国民的快挙であった。
 こうした生命を捨ててかかる勇敢さに対しては、江戸っ子は無条件で応援する。

  うわばみを清麻呂竜にする所

  へのこ奴に即位どこかと御神託

 殊にその後怒り狂った道鏡が、清麻呂の名を(けがれ)麻呂と改め九州の果ての大隈に流したばかりか、両足の筋うを切断して片輪者にしたと聞けば、その同情は益々拍車がかかるらしい。

  ことごとくわけを奏して不首尾なり

  清麻呂はきのこの毒に当てられる

  けがれ麻呂めがと道鏡筋を抜き

 但し作品として眺めれば一向に面白くないのは、真面目過ぎて遊びのない、つまり川柳向きの題材ではないのであろう。
 いずれにしても凶暴になった権力者というのは、それだけ焦っている証拠であって、道鏡の官位が高まるにつれて名門貴族の反感は強まるばかり、その抵抗力は女帝の権力をさえ制限して行く。
 そして唯一の後援者たる女帝が死の床に倒れた時、孤立無援の道鏡はあっさりと法王の座を追われ、流罪同様に下野の薬師寺に左遷されたのである。

  し殺したも知らず下野へ流罪

 し殺したかどうかは無論はっきりしまいが、そうした悪意に満ちた中傷は既にこの時代から流布していたらしい。
 策謀にかけては二枚も三枚も上手の藤原氏、それも式家の百川(ももかわ)がこの追放劇の中心だったと推定されている。
 なを、称徳女帝の最後については鎌倉時代に成立した源顕兼の著と伝える「古事談」に、奇怪な話が載っている。
 書き下し文に直すと、
「称徳女帝、道鏡の陰なを不足に思召めされ、薯蕷やまのいもを以って陰形を作り、これを用いしめ給ふ間、折れ籠ると云々。
 よりて腫れ塞がり大事に及ぶ時、小手ノ尼(百済国の医師、その手嬰子の如し)見奉りて曰く『帝の病、癒ゆべし。
 』と、手に油を塗り、これを取らむと欲す。
 ここに右中弁、藤原百川『霊狐なり。
 』と言いて剣を抜き、尼の肩を切ると云々。
 よって癒ゆることなく帝崩ず。
 」
 これが真実としたら百川は天皇殺害の大逆臣である。
 勿論「続日本紀」その他の正史は全くこれに触れていないが、前出の「水鏡」には
「此ノ時 御門アサマシキ御病悩ニ煩ヒ給テ…」などの文字があり、小手ノ尼の話も一寸出てくるので、まんざら根拠のない話ではないような気もする。
 百川という人物が後に光仁天皇の擁立から、桓武天皇担ぎ出しに至る一連の事件の中で、天皇の権威などおよそ顧慮することなく自分の政策を強行して行った態度を見るにつけ、決して有り得ないことではないと思えるのである。
 しかも注意すべきことは、百川のこの行為に関して「水鏡」は決して非難・糾弾の声を挙げているのではなく、反って賞賛する口調で彼の功績をたたえ、賢臣ぶりを伝えていることである。
 その理由としては、女帝の狂気のような愛情がそのまま進行した場合には、恐らく国家の基礎を危うくするかも知れぬと考えた百川が、咄嗟に下した英断であったということであろう。
 天平の当時としても貴族層の一部にはそうした考え方があったことは事実であろう。
 誠にこの道鏡物語は、天皇絶対の専制政治の悪弊が最も愚劣・猥褻な形で表れたものと言えるが、同時に一寸視点を変えて純粋に人間ドラマとして見た場合には、女帝は恋のためには自分の持つ最高・最大のものを喜んで犠牲にしようとする純情一途な女に見えてくるし、道鏡の方は裸一貫男子生来の一剣を唯一の武器に、人生街道を遮二無二駆け抜けた、一風変わったドンキホーテに見えてくるのである。
 川柳子も彼等を見る眼は以外に温かく、からかいながら一面では羨望を含めた親近感を示しているような気がする。
 
  広大に女帝と弓削は名を残し

  道鏡と帝 よい時生まれ合い

 などの句には親身のやさしさがあり、

  道鏡院馬勝大士と水向け

 など戒名まで世話をやき、しかも信士とか居士とかせずに、大士とつけたあたり何か親愛の情がこめられている気がする。
 なお、蛇足の蛇足ながら伝説では百人一首に中で、

  奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき

 と詠んだ猿丸大夫が道鏡の後身だという説があり、案外沢山の句が出来ている。
 
  女帝腎虚で奥山の猿になり

  百のう小町猿丸名代もの

  とんだ片輪は奥山と花の色

 小町については後にまた取上げるが、道鏡については下野・薬師寺に流されてから僅か二年程で死んだことがはっきり記録に残されているのに、それでもなを何とか生き長らえさせたいと思う人々の心が、こうした伝説を生み出したのであろうか?なお、猿丸大夫については、梅原猛氏の「猿丸大夫=柿本人麻呂」論などもあり、掘り起こせばいくらでも謎が生まれ、新しい発見の生ずるのが歴史の面白さであろう。

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