江戸川柳で読む日本裏外史 高野 冬彦
第三部平安時代
菅原道真-死んでから急に強くなった大学者(その二)−
菅公の官位を復し、北野に天神の社を建立して一〇年程後、天慶四年(九四一)道賢という僧が吉野の金峯山で修行の最中、突如仮死状態に陥り十三日目に蘇生したという事件があった。
彼はその仮死の間に不思議な経験をしたというのである。
彼は一旦死んで、蔵王権現の蔵王浄土に生まれ替わったらしい。そこに大政威徳天という神が居り、それがかっての菅原道真であると名乗ったというのである。
「自分は生前の怨みを今以て忘れていない。現在では全ゆる災難、病気を司る立場にあるので、多くの眷属、悪神を使って日本全土を苦しめることも出来るのだが、諸菩薩の忠告でやっと我慢しているのだ」と語ったという。
しかも道賢は、その後、地獄道を見学した折、醍醐天皇が道真左遷の罪のために日毎責め苛まれている姿をも実見したと言うのである。こうした怪異譚は、その後もいくつとなく現れ、その度に菅公に対する待遇が向上し、遂に現在のように社格の高い天神社が、北野の外にも大宰府、大阪天満等各地に発生して行ったのである。
大体天神社とは、天にあって目に見え耳に聞こえる一番はっきりした神・雷神を指す言葉だが、菅公は単なる雷神ではなく、それを駆使する大威徳神ということで、尊号を大自在天満天神と称え、官位も正一位太政大臣を遺贈されるに至ったのである。
勿論こうなってから後は次第に神格も収まり、国家鎮護、学芸暢達の守護神として崇敬されるに至った訳だが、こうした御霊神としての沿革を、子供の入学試験に目の色を変えて天神様のお札や絵馬に先を争う母親達が果たしてどれだけ知っているか、一度聞いて見たい気がする。
ところで川柳の方では、話はもう少し簡単に復讐譚に脚色されてしまったらしい。
道真の怨霊が雷神となって敵をとり殺すという噂が、何時どこから流れたものか知らないが、いつか帝の上聞にも達し御憂慮の余り、叡山に篭って修行中の道真の法の師・法性坊に勅旨を以って怨霊済度の祈祷のため早く参内あるべし、と勅使が立ったというのである。
ところが菅公の怨霊は早くもそれを予見したか、勅使に先立って師の前に姿を現し、
「たとえ勅諚を蒙るとも参内は必ず御無用たるべし」と申し入れ、
「これ程申上げてもなを参内される時は…」と、傍らにあった柘榴の実を取って一口含んでフッと吹き出すと、実の一粒一粒が火炎を生じ、庵の妻戸が腰板の辺から燃え始めたという。
どこか辻褄の合わないところのある話だが、そういう伝説を知らないと以下の川柳は理解出来ないのである。
叡山の当てで前日一つ鳴り
どうれいと開けて僧正ぎょとする
御いでは平に御無用と柘榴喰い
師の坊はぎしゃばって妻戸こがされる
こんな状態では、いかに勅令とは言えおいそれと応ずる訳がない。
二度までは僧正なんのかのと言ひ
何をかくそうと勅使に妻戸見せ
焦げた戸の側に柘榴がこげており
三度目は泣き出しそうな勅使来る
たってのお召しとあって法性坊も致し方なく上洛するが、時既に遅し、菅公の憤りは都を震へ上がらせていたのである。
洛中に蚊帳を吊るせる御欝憤
よいしめりなどと時平も初手は言い
強がりを言っていたのも束の間、忽ちに閃く稲妻、雷鳴は、車軸を流す豪雨と共に御ところをめがけて荒れ狂った。
その時の雷へそに目をかけず
ぴっかりと言うと僧正はり上げる
僧正の七尺あとへおっこちる
さすが道真、師弟の礼儀は忘れなかったと見える。
僧正は女官をまたぎまたぎ読み
僧正について廻るが確かなり
頭のいい奴はそれ位のことはしたかも知れないが、哀れをとどめたのは時平である。
どの蚊帳へ行っても時平突き出され
貴様故にこの迷惑だと、総スカンを食って立ち往生しているところへドカーン。
怨み重なる時平のバラバラ殺人事件がここに完成したと川柳は思いこんでいるらしい。
からりと晴れて時平を取り集め
晴天になりそこに時そこに平
菅公雷神化の伝説については、時平の弟・忠平の陰謀とする説もあって、なお曇りの晴れない部分もあるが、勧善懲悪は庶民の正義感、江戸っ子は五月の鯉の吹流しで、カラリと晴れたところで筆を止めておくのが、やはりふさわしいかも知れない。
安珍・清姫-いい女でも深情けは矢張り怖い−
兜巾など撫でなで娘口説いて居
歌舞伎で有名な道成寺である。
道成寺と言えば南紀の観光名ところの一つでもあり、今更多言は憚られるが、開基は太宝元年(七〇一)という大変な古刹である。
宗派は天台宗だが、それよりも、そのところ在地を書くと、和歌山県日高郡川辺町大字鐘巻、読んでいるだけで何か神秘的なイメージに圧倒されそうな、正に伝説の寺である。
寺の宝物「縁起絵巻」によれば、男は鞍馬寺の僧、蛇になる女はむ
小説として見れば、当然この方が現実性が濃いと思うが、何にしても色気が不足だから、謡曲・歌舞伎と発展する間に、次のように変容してしまった。
男は奥州白河の山伏で、名は安珍。
毎年紀州の熊野に修業のため参詣の途次、牟婁郡
その家に清姫という娘が居り、子供ながらもその美しさに、たわむれの積りで、”拙僧の妻にして、奥州に連れて帰ろう”などと口走ったのが、因果の始まりである。
或る年、いつもの通り厄介になるつもりで一泊すると、年ごろらしく、急に娘らしくなった清姫が、大胆にも寝ところに忍んで来て、
「約束の通り、白河へ連れて行ってたもれ、」と安珍に迫ったというのが頭書の一句である。
安珍が、どれ程の美男子だったかは知らないが、何の身分も家柄もない、旅の修験者のどこがよくってと不思議な気がするが、そこは例によって「恋は思案の外」わからないこともないが、これ程身分のある女性に言いよられて、折角の据え膳を蹴とばすようにして逃げ出した安珍の気持ちは、これこそどう考えてもわからない。
清姫も初手はドサアを聞き取らず
白河の産なら、さぞかしズーズー弁もひどかったろうと思うのだが、そのカッペ坊主が意外にも道心堅固で
「とに角熊野権現の参詣を済ませまして帰り道には必ず―。」とか何とか、適当にごまかして逃げ出したのである。
わる堅い山伏めだと庄司言い
さめ肌がきざで安珍すっこ抜け
清姫にそうした肉体的欠陥があったかどうか、それは不明だが、それっきり姿を見せぬ安珍に、心を痛めた清姫が、人をやって探らせると、既に別の途を通って逃げ出したらしいとの報せ。
それを聞くや彼女は、娘ごころの一筋に、サアッと頭に血がのぼってしまったらしい。
「おのれ安珍。
恐ろしいものは女の追手なり
蛤が追っかけて行く法螺の貝
幸か不幸か、私など女の子に追いかけられた経験がないので、よくはわからないが、
清姫はゲジゲジを見ておゝこわァ
などという句がある通り、純真で、一途な娘ほど、こんな時には恐ろしいものらしい。
安珍は蜜柑をくゝみくゝみ逃げ
安珍ははした銭だのおっことし
最初はたかをくゝっていても、逃げているうちに次第に恐ろしくなるのが人間の心理、必死になった安珍は、日高川にさしかかると、船頭に頼みこんで、自分の渡った後は、舟を岸に引き上げ、誰一人川は越させぬ細工をして、やれ安心と一息ついたのだげ、恐るべきは女の執念、川にかゝった清姫は、それが渡れぬと見るや否や、形想たちまち一変して、そのまゝ一匹の大蛇と変じ、身を跳らせて水に入ると見る間に、一気に日高川を泳ぎ渡ったというのである。
清姫は尻ッポのように帯が解け
川端へ来た時髪はもろほどけ
渡し守髪のとけるを見て逃げる
地方の人形芝居で、美しい清姫の顔が、一瞬のうちに口が裂け、牙をむいた恐ろしい怪物に変わるのを見たことがあるが、どこか少し滑稽な癖に、それだけに哀れで、人間の悲しさが案外リアルに出ていると思った。
下着をば鱗と知らぬ美しさ
この句ちょっと難解とも見えたが、不思議に心に残った。
普段の心の下の下に、どんな模様が秘められているか、知らないからこそ、女は美しい。
そんな風に読みかえて見ると、なかなか近代的な心理学的風景も見えて来て、道成寺ものゝ人気の衰えない理由も、何だかわかるような気のする作品である。
日高川越すころ角がニ三寸
首だけはとっくに越した日高川
女のこのすさまじい執念、炎のような情念の奔流に対して、常識人・安珍の狼狽ぶりは少々情けない。
安珍は手前で祈る気がつかず
坊主としても、人間としても、何一つ主体的な対応の出来ぬまゝに、命からがら道成寺へ駆けこんで、助けてくれ、かくまってくれと大騒ぎ。
そこで寺の人々は、咄嗟の機転と言うべきかどうか、おろしてあった釣鐘の中へひそませたと言う。
それそこへ来たと釣鐘おっかぶせ
日高川途方にくれて鐘の中
泥足で安珍鐘にうずくまり
しかし時は既に遅し。
清姫の大蛇はすぐ後に迫って来る。
けたゝし二度門あける道成寺
じき覚さとるはず釣鐘が下りている
あの鐘にかくしたろうとジャ推なり
名案と思ったのが、結果的には大失敗だったのである。
鐘を見こんだ大蛇は、竜頭をくわえ、尻尾で七巻き鐘を巻き、口中から火焔を吹きかけたから、鐘はたちまち湯となって、安珍は骨も残らず、灰となってしまったのである。
安珍は因果なところへかくされる
安珍は死ぬまでとんと隠れた気
いずれにしても気の毒な男だった訳だが、寺の方でも大変な迷惑であった。
山伏に釣鐘一つ寺の損
道成寺和尚四五日手がふるえ
「ハテ恐ろしきは妄念じゃなあ。」と頭を振りながらも、もし安珍がさばけた男で、黙って清姫の恋を受け入れていたら果たしてどうだったのかと考えて見るのだが、川柳子の反応は意外に冷たいようだ。
清姫は添いおほせると釜ばらい
釜ばらいと言うのは、台所の
彼女の方は、恋しい人のためなら
”手鍋下げても”本望だったかも知れぬが、男の方から見たら、こういう女は”たまらないね”というのが結論のようである。
安珍はとても添っても腎虚なり
勝手なことをと言われながら、しかも何時も評判の悪い不運な男、安珍の塚は、今も道成寺の境内の蛇塚の傍に、小さくうずくまっている。
江口の遊女-仏が遊女になったのか、遊女が仏になったのか-
遊女とはあんまり派手な化身なり
十訓抄に載っている話である。
おおよそ一〇世紀の中ごろ、播磨の書写山に性空上人という聖がいた。
日頃から、生身の普賢菩薩を拝したいと、日夜祈願の甲斐あって、一夜お告げを受けた。
それによると、
「生身の普賢菩薩を見奉らむと思はば、神崎の遊女、長者をみるべし。」との御宣託。
不思議に思いながら、江口の里、現在で言うと大阪府東淀川区、神崎川の河口にあった色町を訪ねると、長者という遊女は今しも今日下りの客を相手に、宴の最中、自ら鼓を打ち、乱拍子の先頭に立って、
"周防むろずみの の中なる御手洗に
風は吹かねど、ささら波立つ"
と歌っているのを、上人遥かに、合掌礼拝して、静かに眼を閉じると、遊女の姿はたちまち変じて、眉間より白光を放ち、金色の普賢菩薩の姿となり、微妙の音声を以って
"実相は無漏の 大海に 五塵、六欲の
風は吹かねど 真如の波 たたぬ時なし"
と、大乗の真髄を顕わして、摂取不捨の誓いを示されたから、上人落涙歓喜して、叩頭数度、目を開ければ依然としてもとの遊女である。
さりながら、年来の本願漸くに果し得たと、喜び勇んでその場を去ろうとすると、かの遊女が静に近寄って、「このこと、口外すべからず」とささやいたと思うと、その場にはたと倒れて空しくなったと言う。
この話は、このほかにも西行法師とか、一休禅師とかを主人公にして、類型化したいくつかの伝承を生んでいるには、やはりどこかで、人の心に訴える、何等かの真実を含んでいるからだろう。
まして江戸っ子という奴は、吉原を単なる売春の巷とは考えず、社会的情操教育に必要な機関と見做し、遊女を以って、女性の理想像の一つと考える連中である。
こういう話に感激しないはずはない。
江口の 太夫内心も 菩薩なり
内には菩薩 外面は遊女なり、と手放しで喜んでいる。
「形をわかちて、生を利する。これ仏の化導なり。」
十訓抄も、衆生済度の方法には 無限の変化があってよいのだと見とめている訳だが、お女郎様に済度されたら、これ以上の本望はないはずだと、にやつく人間も多いらしく、
凡人へ 普賢の済度 持って来い
江口の遊女 有難い 手管なり
江口の太夫 方便を いっそつき
「俺も一度は、その方便に乗せられて見たかった。」という似非信者も続出したらしいが
うらに来て 聞けば一昨日おととい 象に乗り
初会では、盃のやり取りが精一杯、ろくに口をきいて貰えないのが普通だから、これは口惜しかったわけだ。
おいらんは 象に乗ってと 禿言い
天を仰いで 江口の禿泣き
一同の嘆きを尻目に、悠々と金色の雲に乗り、虚空遥かに飛び去ったのであろうが、中にはとんだ果報者もいて、
普賢とも なろう四五日 前に買い
「とに角、ただ者じゃなかったよ。
あそこまで優しくて、しんから情が深くって、そのまま極楽を見せてくれたんだ。」
何のことはない、手放しでのろけている訳だが、こうして単純に成仏できる衆生に較べ、現実の菩薩様の方は、目に見えぬ借金の鎖につながれ、無間地獄の苦しみをなめていたかもしれないと、通人たちはとうに見抜いていたようである。
今時の 傾城
能因法師-詩歌の道は嘘を真実にするところにあり-
白川の 名歌能因 黒くなり
平安朝は国風文化の最盛期、和歌の興隆、物語の盛行、特に女房文学と呼ばれ、女性作家の輩出した点では、文学史上でも他に類例のない時代だったから、紫式部、清少納言を初めとして、和泉式部、少弐部内侍など、誰か一人くらいは取り上げてみたかったのであるが、作品の多い割には名作に乏しく、どうにも一人に絞りきれないので、此処では趣向を変えて、一風変わった歌人を取り上げてみる。
百人一首の中で
嵐吹く 三室の山の、もみじ葉は 立田の川の 錦なりけり
と詠んでいる能因法師は、俗名 橘
剃髪して摂津の国、古曽部に住んだので、古曽部の入道と呼ばれた。
仏道修行については、これという話もないが、こと和歌については異常なまでの熱心さで時に常軌を逸する振る舞いもあったらしく、《古今著聞集》その他の書物で話を取りまとめると次のごとくである。
ある時、彼は藤原兼房の車に同乗して二条東洞院にさしかかると、「あ」と声を上げて、急いで車を下り、路を歩き始めたので、兼房が理由を聞くと
「ここは、かって歌人・伊勢の住居のあったところ、車の乗り打ちは失礼にあたります。」そういって、なお数町歩いて、影のみえぬ場ところに来てから、また車に乗ったという。
これなどはまあ、感心されてもよい話かもしれないが、少々きざだといえば、きざなところもあるようだ。
また別な時、同じ好き者の藤原節信に会った折り、
「初対面の引き出物に、よいものをお見せしましょう。」といいながら、錦の小袋から一筋のかんな屑を取り出し、
「これこそ、かの有名な歌枕、長柄の橋改修の折りのかんな屑でござる。」と自慢すると、相手の節信も名代の歌気違いで、懐中から蛙の干物を取り出して、
「これぞ古今の春の部に名高き名歌、かわず鳴く井出の山吹…と詠まれた、井出の蛙の本物で。」てなことを言って、互いに喜びあったというから、こうなると完全に異常である。
かんな屑 蛙と同気 相求め
かんな屑 何になさると 橋大工
食われない 干物を歌人 持っている
川柳でも、早速取り上げてからかっているが、かの太田蜀山人の一派が、寺社の出開帳などをからかって、ふざけた霊宝をこしらえて展示をした"宝合わせ" の会なども、実はこの話などがヒントになっているらしいから、影響は案外大きかたのかも知れない。
しかし能因の逸話の申で、最も面白いのは、何と言っても白河の名歌事件である。
有名すぎる話だから解説するのも気が引けるが、一応書いておくと、ある時彼が例によって歌の制作に苦心しているうちに、
都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関
なる名歌を得た。
何回読み直してみても、飽きることなき名作である。
ただしこれを、都に居ながらにして作ったと言うのでは、値打ちがなくなってしまう。
何としても奥州白河の現地で作ったことにしなけれぱ、意味はない。
しかし、実際に旅をすることは、生命の危険を伴うと考えられた当時のこと、思案の末に、人に知られぬよう家に籠もり、しかも長旅をして来たらしい顔色にしなければと、毎日顔を日に晒し、真っ黒になったところで、この歌を世間に発表したのである。
「古今著聞集」では「能因は至れる好き者なりけり。」と、半分は賞めた調子で書いているが、川柳子の世俗的な眼から見れば、こんなとぼけた話はなく、徹底的にからかわれている。
妄語戒 破り能因 一つ詠み
能因は 川どめなどと 嘘をつき
わらじ食い までは能因 気がつかず
底まめの かわりに能因 すわりだこ
嘘をつくということも、これで中々大変なものだが、こうした場合の嘘は、罪が無いだけに、本人が真面目になればなる程おかしさが増してくる。
能因が 顔をとりこむ 俄雨
能因は いけまじまじと 草鞋で来
こうなると、つい声を出して笑ってしまう。
山東京伝の「
中々得難い人材だつたと言えるであろう。
玉藻の前-国際的スーパー化物・九尾の狐−
三国一の化物ば緋の袴
最後に大物を一つ紹介して、平安朝をしめくくりたい。
とは言うものの、この玉藻の前伝説は、その規模の大きさ、趣向の華やかさ、いずれも申し分ないと思うのに、案外に普及度が低く、読者の中にも、耳新しい人が多いのではないかと残念である。
その原因としては、伝説の発生が、比較的新しいこと、名作としてもてはやされた文学作品が少なかったことが挙げられると思う。
量初の出典は、謡曲「殺生石」であろうが'、その又資料となったのは、相州・鎌倉の名刹、「海蔵寺開山伝」だったとのこと。
そして、それらを基にして、物語として完成したのは、浪岡橘平、浅田一馬の合作による豊竹座の入形浄瑠璃、
「
どうも余り著名な作家は出て来ないようで、もし大近松や、大南北のような天才の手で、名作が書かれていたら、今日でも、もう少し人々の記憶に残され、伝説としての重要さも加わっていたであろうと残念である。
さて玉藻ノ前であるが、時代は平安末期、鳥羽上皇の御宇である。
当時上皇の寵愛を一身に集めた美女が居り、その身体からは怪しい光がチラチラ発するようで、そのため玉藻ノ前と名付けられたと言うのである。
当時上皇は、時折り原因不明の病魔に悩まされることがあり、それに乗じて、玉藻ノ前中心に、皇位をねらう薄雲皇子等の策謀が次第に表面化し、ついには皇室の安否も気遣われる情況にたち至っていたのである。
事態の深刻さを憂えた陰陽師・安倍泰成等が、秘術を尽くして事の真相を究明しようと努力したところ、実に大変な事実が判明した。
玉藻ノ前の正体と言うのは、実は白面金毛九尾の狐と言い、凡そ九百年の甲羅を経た怪物で、かつて天竺にあっては、華陽夫人として班足王をたたぶらかし、ついで中国に渡っては、殷の中紂王の后、妲妃と化して悪業の限りを尽くした後に、三韓を通って日本に渡来したと言う。
正に国際的スーパーお化けなのである。
川柳子も、これだけの大物を迎えてぱ、勢いはりきらざるを得ない。
三國をまわしに取った畜生め
おはききの官女天竺生まれなり
天竺の唐のと玉藻すれたもの
こういうスーパー化物だけに、たかが粟散辺土の日本ごとき…と呑んでかかったらしいが、その油断が身の破滅に繋がったと言う。
ひそひそと玉藻の前を不審がり
詮議してみれば玉藻は無宿なり
さっさっと玉藻唐本読んでいる
かえって下々の方が、事態を正しく把えていた訳だが、肝腎の帝の方は、迷妄いよいよ深く、化物への寵愛も深まるばかり、危機は益々深刻になるばかりであつた。
つま立って歩く官女を御寵愛
惜しいものだが毛深いが玉に疵
狐火で清涼殿をかがやかせ
もちっとで狐王子をはらむとこ
この民族的な危機を、いち早く察知し、怪物の魔力を打ち砕くために、精魂を傾けた人物がいた。
その名を安倍泰成と言い清明の血筋を引く、有名な陰陽師である。
お后の悪尻を言う陰陽師
コンの卦が出たで泰成腕を組み
たがならぬ毛切れと博士奏聞し
「主上の御悩み、ただ事とは思えませぬ。
取リ急ぎ御祈祷のほどを…」と言葉巧みに欺いて、玉藻ノ前をも護摩壇の上に押し上げた上で、わが法力の程を見よとばかり、秘術を尽くして祈り上げた。
御幣をば迷惑そうに官女持ち
玉の汗かいて御幣を持っている
祈られて玉藻ノ餉はおならをし
泰成の気追は、遂に狐の妖術を打ち破り、玉藻ノ前は恐るべき正体を現し、人々の鷲き騒ぐ中を、天空高く飛び上がると、東の方、下野の那須野をさして逃げ去ったと言う。
那須野まで十二単衣のままで飛び
三国一の量後ッ屁は那須野なり
皇室はかくて、危ないところで量悪の危機をまぬがれたのである。
最後っ屁ひると泰成祈りやめ
恐ろしさ御ところ毛だらけにして逃げる
日本くはもうこんこんと御ところを逃げ
九尾の狐が、ところもあろうに、何で荒れ果てた那須野ヶ原を、逃げ場ところに選んだのか、その理由は判然としないが、朝廷では、早速討手として、三浦ノ介義明、上総ノ介常広の二人を選んで、妖狐の誅伐を申し付ける。
勅諚に両介眉に唾をつけ
御詫かしこまってお受けはしたものの、失敗すれば武門の名折れ、百日の御猶予を頂いて、両名真剣になって、狐退治の練習をした。
これが犬追う物のはじめだと言うが、これこそ眉唾かも知れない。
百日の稽古無益な殺生し
両介は第一飯がうまく食え
健康にもよかつたかも知れないが、準備万端整えて、那須野に乗り込んだ両人、暴れ廻.る狐を追いつめ追いつめ、遂にとどめの一失というところへきて、狐は最後の変身で、大きな石になってしまった。
これが「殺生石」である。
両介は屁にむせながら引きしぼり
美しい玉もとうとう石になり
ところがこの石、しきりに毒気を吐き散らし、空を行く鳥、野を走る獣、これに当りて死するもの数を知らず、死してなお衰えぬ、妖狐の魔力に、人々は震えおののいたと言う。
現在、那須の湯本に遊ぶ人は、
「ああ、あれは温泉に伴う亜硫酸ガスの噴出によるものでね。」などと科学的説明とやらにすっかり安心して、気楽な顔をしているが、当時の人々に取っては大問題である。
石になっても飛ぶ鳥を落とすなり
「諸人の嘆き、見るに忍びず」とまかり出たのが、鎌倉・扇ヶ谷にある海蔵寺の開山、源翁和尚である。
石工などが使う鉄の大槌を、「玄能」と呼ぶが、それはこの人の名を取ったものだと言うから、この時も、勇ましく大槌を振りかぶって、「殺生右」を打ち砕いた姿が、目に浮かぶような気がするが、謡曲「殺生石」などでは、何のことはない、筒単にお経を読んだだけで、石の精である狐は、さっさと成仏して、自分から石を割ってしまうように書いてある。
ただ川柳子の方では、どう解釈しているかと言うに、それがどうもはっきりしないのである。
大喝一声毒石を粉にくだき
玄能で和尚野干をぶつぴしぎ
これが大槌派であることは明らかだが、
石になっても女だと和尚割り
御寵愛石になっても又割られ
なんて句は、何をどう割ったのか、段々わからなくなって来る。
それにしても、此処に至ってはさすがの妖狐も、悪念を断って、現世に崇りをしなくなつたと言うから、目出度し目出度しである。
もう仇はなさぬの原と和尚言い
万事解決と言うわけだが、何といっても白面金毛九尾の狐、そのデザインから言っても絢爛豪華で、このまま終らせるのは、どうにも借しい気がするのである。
近ごろ流行のホラー映画のスターとして、何とか復活させてやりたいと思うのは、僕だけのことであろうか?